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2022年4月30日 土曜日
2022年4月30日 適切な睡眠時間で心房細動を予防
心房細動というのは年齢と共に発症率が上昇する不整脈のひとつで、頻度は比較的高いものです。全年齢では日本人の1~2%ですが、年齢と共に増加し、70代で3%を超え、80代になると1割以上になると言われています。よく、「昔に比べて増えている」と言われるのは、時代と共に何か特別な出来事があったわけではなく、単に平均寿命が延びていることが最大の要因でしょう。
心臓の病気の代表と呼べる虚血性心疾患(狭心症や心筋梗塞など)は、生活習慣病の1種と考えられています。ですから、肥満、喫煙、高血圧、糖尿病などがあればリスクは急上昇します。心房細動も、こういったものがリスクになるのですが、何の基礎疾患もない(年齢以外にリスクのない)人でも起こります。長嶋茂雄さんもその一人だと思います。
心房細動になって最も困ること。それは、心臓の中で血の塊(血栓)ができて、それが脳の血管まで飛んでいき、脳の血管を詰まらせて脳梗塞を起こすことです。こうなると、よほど治療が迅速かつ的確におこなわれない限りは、多少なりとも後遺症を残します。私を含めて多くの医師は、この説明をする際に長嶋茂雄さんの話をさせてもらっています。
よって、心房細動が見つかったならまったく何の症状もなかったとしても、脳梗塞を予防するために血栓溶解薬(血をサラサラにする薬)を飲みましょう、となるわけですが、この「決断」は簡単ではありません。なにしろ、そのような薬を飲むということは、今度は血が固まりにくくなるリスクが上昇するわけです。たいていのスポーツは慎まねばなりません。転倒して頭をうてば、それが重篤な脳出血を招くおそれがあります。
これまで私が診てきた患者さんのなかにも、「現時点では血栓溶解薬は飲まない」という決断をしている人もいます。たしかに、心房細動があれば全員が脳梗塞を発症するわけではなく、そのリスクは年間5%程度と言われています。興味深いのは、「5%もあるのならすぐに(血栓溶解薬を)飲みます」と言う人もいれば、その逆に「その程度ならもう少し様子をみます」と答える人もいることです。
さて、前置きが長くなりましたが、今回お伝えしたいのは「長すぎても短すぎてもダメで、適切な睡眠時間(6~8時間)が最も心房細動のリスクが低い」という研究です。この研究は「吹田研究」と呼ばれる、国立循環器病研究センターが実施した大阪府吹田市民を対象とした、主に循環器疾患に関する調査を解析したものです。医学誌「EPMA Journal」2022年2月26日に「予測医療、予防医療、個別化医療の文脈における睡眠時間と心房細動のリスク:吹田研究と前向きコホート研究のメタアナリシス(Sleep duration and atrial fibrillation risk in the context of predictive, preventive, and personalized medicine: the Suita Study and meta-analysis of prospective cohort studies)」というタイトルで掲載されています。
対象とされたのは吹田研究に参加した30~84歳の、それまでに心房細動を発症したことのない6,898人(男性3,244人、女性3,653人)で、追跡期間中(中央値14.5年)にどれだけの人が心房細動を発症するかが調べられ、さらに、睡眠時間との相関関係が検討されました。対象者は睡眠時間で次のように分類されました。
#1 6時間以下(短時間群)
#2 6~8時間未満(標準群)
#3 8時間以上(長時間群)
#4 不規則(不規則群)
追跡期間中に合計313人(対象者の4.5%)が新たに心房細動を発症しました。#2標準群の6~8時間を基準とすると、#1の短時間群で発症リスクが1.36倍上昇、#4の不規則群では1.62倍上昇していました。#3の長時間群も数字の上ではリスクが上昇していたのですが、有意差は認められていません。
しかし、年間人口千人あたり何人が心房細動を発症するかを解析すると、#2の標準群では2.53人なのに対し、#1は3.11人、#4は6.70人、#3も3.97人と高くなっています。
************
過去にも述べたように、私自身が睡眠に関してはかなりの期間無関心で(というよりも、むしろショートスリーパーであることを誇りに思っていたほどで)、40歳を超えるまではまともな睡眠をとっておらず、今では後悔しています。
この社会で生きていく以上、ある程度は睡眠は不規則になりますが、それでも規則的な生活、適度な睡眠時間(6~8時間)が大切であることは忘れてはいけないと自分自身をも戒めています。
医療ニュース
2017年8月31日 長時間労働で心房細動発症のリスクが大幅上昇
2021年11月25日 ω3系脂肪酸は心房細動のリスク
2015年7月31日 運動は心房細動のリスクを上げる?下げる?
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|2022年4月21日 木曜日
第224回(2022年4月) 酒さの治療が変わります!
比較的よくある(皮膚の)病気なのに、その名前があまり知られておらず、患者さんのいくらかは行き場をなくしているのが「酒さ(しゅさ)」です。
太融寺町谷口医院(以下、谷口医院)にも、コロナ禍以降はやや減少していますが、それでも「酒さを治してください」と言ってやって来られる初診の患者さんが月に何人かはいます。しかも、かなりの遠方から来られる人もいます。
また、これまで「誤診」されていたケースも目立ちます。皮膚科専門医や(私のように)皮膚科でトレーニングを受けている医師にとっては、一目で診断がつく、よくある病気(common disease)のひとつなのに、「顔が赤くなって、いろいろと受診したけれど全然治らずに、これまで酒さと言われたことは一度もない」と言う人もいます。
医師は「前医を悪く言ってはいけない」というルールが我々の世界にはあるのですが、前医では漠然とステロイドを長期間処方されていたというケースもあって、対応に困ることもしばしばあります。そのステロイドのせいで余計に悪くなっていることもよくあります。ちなみに、誤診されている疾患の第1位は脂漏性皮膚炎(酒さが正しいのに脂漏性皮膚炎と言われていた)、第2位はアトピー性皮膚炎です。
その酒さの治療が変わります(治療の幅が広がります)、ということを今回は述べたいのですが、先に酒さの基本的な事項をまとめておきましょう。尚、文脈によっては「酒さ」と「酒さ様皮膚炎」を区別しますが、ここでは双方を「酒さ」と呼ぶこととします。
酒さの定義は「顔面に生じる原因不明の慢性炎症性疾患」です。通常、痛みや痒みは伴いません。顔以外に広がることもありません。では、何が問題なのか。「見た目」です。しかも、「ある日突然」とまで言うと言い過ぎかもしれませんが、それまで何の問題もなかった自慢の白く透き通るような肌が見ている間に真っ赤に腫れていく、ということもあります。そうなると、外出さえ憚られ、精神的に落ちていく人も少なくありません。
人は見た目じゃない、という言葉がありますが、そんなことはありません。人間「見た目」はとても重要です。顔が赤くなることを気にするのは女性だけでは?という人がいますが、谷口医院の患者さんで言えば性別の区別はありません。男性も「見た目」を女性と同様、あるいは女性以上に気にします。というより、このような問題に性差はありません。
話を進めましょう。なぜ酒さが起こるのか。谷口医院の患者さんで言えば、最も多いのが「ステロイドの不適切使用」です。ステロイドを顔に塗らなければならないことはもちろんあるのですが、外用してもいいのは(程度にもよりますが)せいぜい数日以内です。原則として1週間以上塗り続けることはありません。というより、そのようなことをしてはいけません。
にもかかわらず、このような”タブー”を侵犯している人が少なくないのです。ステロイドはいろんなものがありますが、私の経験で最も多いのが「ロコイド」というステロイドで、患者さんのなかには「前の病院で、『これは顔用のステロイドだからいくら塗ってもいい』と言われた」と言う人がいて驚かされます。実際には医師はそんなことを言っていないとは思うのですが、患者さんがそう解釈しているのは事実です。
このコラムで、特定の商品名を取り上げて悪口を書くのは問題かもしれません。ですが、あまりにも「ロコイドのせいで……」と言う人が多いのです。一度、ロコイドを発売している製薬会社のMR(営業担当者)にも聞いてみたことがあります。「当社では長期間の使用を控えるように案内しています。先生(私のこと)の言うように数日以内の使用にしなければならないと考えています」と言われました。ただし、念のために付記しておくと、私は「ロコイドが悪い」と言っているわけではなく、たしかに2-3日間、(もちろん酒さでない患者さんに対し)顔面に塗ってもらうこともあります。とてもいい薬剤であることを再度強調しておきます。
ステロイドの話はまだ続きます。顔面に塗ったステロイドで酒さが誘発、という以外にステロイドの内服や注射が原因になっている(と思われる)ことがあります。これは、たいていの場合、証明することまではできないのですが、谷口医院の患者さんで言えば、数年前にステロイドを飲んでいた、あるいは注射をしていた、という人がけっこう多いのです。もちろん、一律にステロイド内服・注射が悪いといっているわけではありません。それらは必要だったから使われたのでしょう。ですが、個人輸入で入手して自分の判断で内服したり、やってはいけないとされている花粉症へのステロイド注射を受けたりして、酒さを起こした人をみると、「先に相談してくれればよかったのに……」と思わずにはいられません。
ステロイド以外で明らかな酒さの原因は「紫外線」です。中学・高校と紫外線に当たる環境にいて、30歳を過ぎてから酒さを発症というケースがよくあります。「10年以上前の紫外線曝露が原因となぜ断定できるのか」と問われれば、たしかに証拠は示せないのですが、こういうケースがあまりにも多いのです。
その他の要因としては「ピロリ菌の感染」があり、たしかにピロリ菌の除菌をおこなうと劇的に改善する人もいます。ですが、一方でまったく変わらない人もいるために、酒さの治療目的のみで除菌をすべきかどうかはよく検討してからになります(ちなみに、谷口医院ではピロリ菌陽性でも無症状であれば除菌を選択しない患者さんも少なくありません)。
考えられる原因は他にもありますが、話を「治療」に進めましょう。現在、世界的に最も使用されている薬はメトロニダゾールという外用薬で、商品名を「ロゼックス」と言います。酒さは英語でrosacea(無理やりカタカナにすると「ロゼイシア」が近いと思います)と言います。名前が似ていることからも分かるように、この薬は様々な用途で用いるのですが酒さをメインのターゲットにした薬です。
しかし、このロゼックス、日本ではこれまで褥瘡(とこずれ)に対してはできたものの、酒さに対しては保険適用がなく処方できませんでした。「ロゼックスだけ自費でください」と言われることもあるのですが、診察代を保険にすると混合診療となってしまいます。すべてを自費とするとかなりの高額になってしまうため、自費での処方も(酒さだけで受診している人にとっては)現実的ではなかったのです。
そして最近になって、ようやくこのロゼックスが酒さに対して保険で処方できることが決まりました。谷口医院ではすぐにでも処方できる準備が整っているのですが、現時点(2022年4月20日時点)ではまだ保険処方のゴーサインが厚労省から出ていません。ただ、近日中には出されるはずですので、そこからは全国的に「酒さの治療はまずロゼックス」となることは間違いありません。
これまで「どこでも診てもらえなかった」という患者さんは激減、というより皆無になるでしょう。酒さがよくある病気(common disease)のひとつとして認識され、またロゼックスはそれなりによく効きますから「見た目」で苦しむ人が減少するでしょう。
とはいえ、ロゼックスだけでは完全に治らない(ロゼックスが効く場合も、中止するとたいていは悪化します)人もいますから、「ロゼックスさえあれば何も怖くない」という単純な話ではありません。
やはり慢性疾患の酒さには長期的な対策が必要です。かかりつけ医(または皮膚科専門医)に相談するようにしましょう。
参考:
医療プレミア2017年7月9日「酒さもじんましんもピロリ菌除菌で改善?」
(無料で読めます)
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|2022年4月10日 日曜日
2022年4月10日 日本人の薬物乱用頭痛の実態
「あなたは薬物乱用頭痛です」などと言うと、たいていの患者さんは驚くか、ムッとするために私自身はあまりこの言葉を使わないのですが、「薬物乱用頭痛」はかなり多い頭痛です。
この病気に誤解が多いのは「薬物乱用」という表現が入っているからで、あたかも「違法薬物のユーザー」と言われたような印象を持ってしまうからでしょう。薬物乱用頭痛の「薬物」とは違法薬物ではなく、処方された鎮痛薬や市販の鎮痛薬を飲み過ぎたことによって生じる頭痛のことです。
ただし、麻薬(オピオイド)の摂取のし過ぎでも起こり得るので、その場合はたしかに「違法薬物による薬物乱用頭痛」ということになります。とはいえ、日本では大麻や覚醒剤に比べると麻薬はほとんど出回っていませんから、日本人では麻薬という違法薬物による薬物乱用頭痛は極めて稀だと思います。
このように誤解が多いために、私は以前から薬物乱用頭痛でなく「鎮痛薬乱用頭痛」と呼ぶことを(勝手に)提唱しているのですが、誰も話を聞いてくれないので、診察室では「痛み止めを飲み過ぎて起こる頭痛」と、そのままの病名を告知しています。最近は英語のMedication Overuse Headacheの頭文字をとった「MOH」が使われることもありますが、まだまだ人口に膾炙しているとはいえません。とはいえ、病名を決めないと話が前に進まないので、ここからはMOHとします。
太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)の患者さんで言えば、最も多い頭痛は「初診時の訴えが頭痛の人」のランキングで言えば片頭痛が第1位です。一方、患者さん全体でいえば筋緊張性頭痛が第1位となります。これは、筋緊張性頭痛は軽症であることから、わざわざこの目的で受診する人が少ないからで、何度か(別のことで)受診している間に頭痛の相談もされるようになります。
さて、MOH(ここからは薬物乱用頭痛とは呼びません)について。谷口医院の患者さん全体では1位の筋緊張性頭痛、2位の片頭痛に次いで第3位です。けっこう多いのです。男女比は2:8くらいで圧倒的に女性が多いのが特徴、年齢は10代から80代まで様々です。
医学誌「Neurological Sciences」2022年1月19日号に「糸魚川市における薬物乱用頭痛の有病率に関するアンケート調査(Questionnaire-based survey on the prevalence of medication-overuse headache in Japanese one city – Itoigawa study)」という論文が掲載されました。新潟県糸魚川市でMOHに関するアンケート調査が実施されたのです。
対象者は糸魚川市の15~64歳の住民5,865人。MOHの定義としては、「1ヵ月当たり15回以上の頭痛及び過去3ヵ月間で1ヵ月当たり10日または15日以上の鎮痛薬の使用」とされました。
結果は次の通りです。
・MOHの有病率は2.32%(136人/5,865人)
・女性が80.8%
・年齢層で最多が40~44歳で5.28%
・乱用されていたのは市販(OTC)の鎮痛薬及び処方薬で、処方薬はロキソプロフェンとアセトアミノフェンが多かった。
・頭痛の予防薬を使用していたのは7.35%のみだった。
************
8割が女性というのは、谷口医院での実態とピッタリ一致します。論文からは市販の鎮痛薬の名称が分からないのですが、谷口医院の患者さんで言えば圧倒的に多いのが「イブ」「リングルアイビー」「バファリンルナ」、そして、悪名高き「ナロンエース」など、イブプロフェンを主成分とする鎮痛薬です。
MOHでよくある誤解を2つ紹介しておきます。1つは「アセトアミノフェンは副作用が少ない」という誤解です。たしかに、カロナールを代表とするアセトアミノフェンは妊娠中の女性にも、新生児にも使うことがあり、さらに胃腸や腎臓への副作用が少ないことからイブプロフェンやロキソプロフェンに比べると安全な鎮痛薬といえます。ですが、MOHは比較的簡単に起こりえます。
もう1つは「トリプタン製剤ならMOHが起こらない」という誤解です。ときどき「MOHが怖いからトリプタン製剤を使いたい」と言う人がいますが、トリプタン製剤でもMOHは起こります。ただ、トリプタン製剤は月あたりの処方量が保険診療のルール上制限されているために、入手しようと思っても(ドクターショッピングをしない限りは)困難で、実際にはあまり多くありません。
MOHを疑ったときは、というより鎮痛薬の使用が増えてきているのなら早めにかかりつけ医に相談しましょう。場合によっては予防薬の検討が必要かもしれません。
最後に、日本人の頭痛に関する最も重要な問題を改めて強調しておきます。それは「ブロモバレリル尿素には絶対に手を出してはいけない」ということです。(麻薬を除けば)すべての鎮痛薬で最も依存しやすいのがこの劇薬です。処方薬でこんな危険な薬剤は存在しませんが、薬局では簡単に手に入ります。その代表が「ナロンエース」なのです。
参考:
日経メディカル:谷口恭の「梅田のGPがどうしても伝えたいこと」2020年6月30日
「悪名高いOTC鎮痛薬、販売継続の謎」
メディカルエッセイ第97回(2011年2月)「鎮痛剤を上手に使う方法」
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|2022年4月10日 日曜日
2022年4月 「社会のため」なんてほとんどが偽善では?
1995年、オウム真理教が一連のおぞましい事件を起こしたとき、メディアのプレゼンテーターや知識人たちは「最初は世の中をよくしようと考えていた真面目な若者が……」という論調で語っていました。私には、その言葉に何かひっかかるものがあり、それは今も続いています。
オウム真理教の話題でよく引き合いに出されるのが60年代から70年代にかけての左翼活動、なかでも「よど号ハイジャック事件」と共に頻繁に取り上げられるのが「あさま山荘事件」です。
1972年2月、軽井沢にて日本の歴史に残るその凄惨たる事件が起こりました。今年の2月で事件発生から50年が経過したこともあり、この事件を振り返った記事を掲載したメディアがいくつかありました。今回のマンスリーレポートはそのあさま山荘事件を取り上げ、私見をふんだんに取り入れながら人間の心理を紐解くことに挑戦してみたいと思います。
あさま山荘事件がどのようなものなのか、私がはっきりと把握したのは18歳、大学に入学した直後です。事件が起こったのは1972年ですから68年生まれの私にとってはまだ4歳になっていない頃で、リアルタイムでの記憶はありません。ですが、若者が仲間を殺し合うという凄まじい事件であり、機動隊が現場に踏み込むときの視聴率は90%もあったのですから、その後、繰り返し取り上げられ大勢の人が話題にしていてもおかしくありません。
にもかかわらず、ぼんやりとしか私が理解していなかったのは、おそらく学校の先生も含めて周囲の大人たちが口を閉ざしていたからではないかと思います。単に、子供に殺人の話をするべきでないという道徳的な配慮というよりも、触れてはいけないタブーのような雰囲気があったのではないでしょうか。
社会をよくしたいという思想を持った若者が徒党を組み、やがて集団リンチで仲間を次々と殺した、というこの事件に対し、当時18歳で大学生になったばかりの私はとても惹き付けられました。2ヶ月の間で12人もが殺されたのです。しかし、一連の学生運動についてうまくまとめられた書籍は見つからず、断片的な知識は得られるものの、結局よく理解できないまま月日が過ぎていきました。
それから15年後の2002年、『突入せよ! あさま山荘事件』という映画が公開されました。研修医になったばかりだった私は日曜日のある日、病棟業務を終わらせてから大学病院のすぐ横にある映画館に公開されて間もないこの映画を見に行きました。映画でなら当時の時代背景も含めて全貌が理解できると考えたのです。
結論から言えばこの映画は期待外れでした。なにしろ、主人公が警察の人間ですから、なぜ理想を抱いた若者たちが仲間殺しに向かったのかがまるで理解できないのです。事件を起こした若者たちはたしかに罪人ですが、この事件で(私にとって)大切なのは、人質を盾に籠城した犯人を追い詰める警察の奮闘ではなく、理想に燃えた若者がなぜ仲間を次々に殺していったのかを解明することです。
そして、その6年後の2008年、ついに私が待ち望んでいたこの事件の全貌を解明した映画が公開されました。若松孝二監督の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』です。これほど衝撃を受けた映画は私は他にはありません。ならば、生涯に観た映画トップテンに入るか、と問われればそれは答えにくく、もう一度この映画を観るには相応の勇気が必要です。
この映画を観てからしばらくは「総括」とか「自己批判」といった言葉をたまたま見聞きすると、それだけで「思い出したくないシーン」が頭のなかに蘇り、吐き気と動悸がしたほどです。ともあれ、あさま山荘事件について何の知識もない人がいたとしても、私はこの映画を一度は観ることを強く勧めたいと思っています。
この映画の主役、そしてこの事件そのものの最重要人物が誰になるのかは見方によって変わるでしょうが、永田洋子は外せないでしょう。「革命左派」のリーダーだった永田については過去に複数の書籍が発行されていて、私は何冊か手に取ったことがあります。永田自身が書いた書籍もあったと記憶しています。
私がこの映画を観る前に抱いていた永田のイメージと映画の永田はほとんど一致していました。美しさからはほど遠く(実際、「美しくない」という理由で好意を持っていた左翼の男性に交際を拒絶されます)、実力者には盲目的に従う一面があり、革命左派の当時の実力者からレイプされています。
永田は少なくとも大学生の頃には理想の社会を求め、それを追求していました。だからこそ、「自己批判」を繰り返し、さらに「相互批判」を重ねたわけです。理想を求めるが故に、美しく男性からちやほやされていた仲間の遠山美枝子に対し「革命に化粧も長い髪も必要ない」と忠告し、自分で自分の顔面を殴らせ、丸刈りにし、そして他の仲間に死ぬまで暴行を加えさせたのです。
逮捕から10年後の1982年、永田には死刑が宣告されました。「自己顕示欲が旺盛で、感情的、攻撃的な性格とともに強い猜疑心、嫉妬心を有し、女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味が加わり、その資質に幾多の問題を有していた」というのが裁判官の読み上げた言葉です。「女性特有の…」という表現は今なら大きな問題になるでしょうが、82年当時は許されていたのでしょう。
この言葉だけを取り出すと、大柄で冷酷な犯罪者のイメージが浮かび上がるかもしれませんが、実際に永田に面会に行った人の話では(随分前に、女性のジャーナリストだったか作家だったかが、面会に行った様子をどこかに書いていたのを読んだのですが詳しいことは忘れてしまいました)、小柄で声も小さく大人しい印象しかなく、このか弱き女性があのような事件の主犯格だとは到底思えなかったそうです。
では、最初は理想の社会をつくることに情熱をもっていた永田を変えたのは何なのか。私はこのことについて18歳の頃からもう35年も考え続けています。オウム真理教の事件が起こったときにも考えました。オウムの幹部たちは優秀な大学に入学し、社会を理想に近づけることを目指したのになぜ道を踏み外したのか。
当時のメディアは「麻原彰晃という悪魔に洗脳されたのだ」というようなことを言っていましたが、私はそうは感じませんでした。テレビによく登場していた一部のオウム幹部は視聴者から人気がありましたが、私は上から目線のその話し方に不快なものを感じていました。
その後私はいろんな経験をしました。医師になってからも「社会のため」「正義のため」に活動しているという人の話も聞きました。コロナ禍となり「社会のために……」などと宣う人たちもいます。
永田洋子を初めとする革命左派や連合赤軍の”戦士”たち、地下鉄サリン事件など一連のオウム事件の犯人たち、さらには現在「社会のために」という言葉を口にしている人たちのいくらかが共通して持っているもの、それは「自分が正しいということを他人に認めさせたいという欲求」、一言で言えば「強すぎる承認欲求」ではないでしょうか。
「社会のために」「社会を良くしたい」といった言葉は、一見すると正しくてきれいに聞こえます。しかし本当は、自分を認めさせたいという身勝手な欲望をこういったきれいな言葉でカモフラージュしているだけではないでしょうか。と、いつの頃からか思うようになりました。
しかし、私のこの仮説が正しいとすると、多くの政治家は承認欲求の強い偽善者ということになってしまいますし、きれいごとを言うのが好きな経営者、さらには「患者さんのために」などと大衆の前で宣っている医師も同じ穴のムジナとなるでしょう。
おそらく真相はもっと複雑であり、別の視点からも考えていかなくてはなりません。ですが、私がこの仮説を考えるようになってから「社会のため」という言葉を聞くと、うさん臭さを拭えなくなったというのが正直な気持ちです。スポーツ選手や何らかの努力をしているタレントがよく言う「みなさんのために頑張ります」という言葉にも嫌悪感を抱くようになりました。「社会のため、みなさんのためではなく、あんたが目立ちたいから、あるいはええかっこがしたいからそんなきれいごとを言ってるだけやろ」と思ってしまうのです。
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