マンスリーレポート

2026年5月 退職が老化を促進する

 谷口医院は開院してもうすぐ20年になります。2007年のオープンした頃から通い続けている患者さんはもう20年も年を重ねたことになり、2000年代に40代後半だった患者さんはすでに引退に差し掛かっています。すでに退職した人も大勢います。勤務先が近いからという理由で通っていた人のいくらかはそのまま通院を続けられるのですが、なかには受診できなくなる人もいます。それも望ましくない理由で。

 例えば認知症。例えばうつ病。あるいは骨折して動けなくなったという人もいれば、歩行や階段の上り下りがしんどくなった、という人もいます。退職後に自宅近くの診療所に通院しだすことに問題はないのですが、その理由が「認知症やうつ病で……」というのは寂しい気がします。

 一方、70代どころか80代になってもそれまでと変わらぬ元気さを維持している人もいます。その違いはどこから来ているのか。20年間総合診療を続けてきた私の視点からみて最大の理由は「退職」です。

 退職すれば健康を害するのは「全体でいえば」ほとんど間違いありません。「自分は大丈夫」と考えている人や、あるいは「退職してからの方が好きなことができて元気になった」という人もそれなりにいます。ですが、退職後1年から1年半たった時点で同じことが言えるかどうかについては慎重に判断すべきです。医師が患者さんの人生プランにまで口出しするのは大きなお世話ですが、過去20年の経験に鑑みると「引退していいのですか?」と言いたくなるのです。

 開院した当初からこのようなことに気付いていたわけではありません。私自身も60歳くらいになれば引退を考えてボランティアに生きようか、などと以前は考えていました。しかし、引退して急激に元気をなくしていく患者さんらを診ているうちに、「退職は老化を促進する」ことを確信するようになったのです。

 実際、それを示した研究もあります。医学誌「Journal of Epidemiology and Community Health」に2016年に掲載された論文「退職年齢と死亡率の関連性:米国高齢者を対象とした人口ベースの縦断研究(Association of retirement age with mortality: a population-based longitudinal study among older adults in the USA )」を紹介しましょう。この研究の対象者は1992年から2010年の追跡期間中に退職した2,956人で、興味深いことに対象者は1,934人の「健康な退職者」と、1,022人の「健康状態の悪い退職者」に分けて分析されています。

 結果、「健康な退職者」では、退職年齢が1歳高いほど、全死因死亡リスクが11%低下していました。もちろん、健康に関連する生活習慣などの因子は考慮して分析されています。他方、「健康状態の悪い退職者」では、退職年齢が遅いほど全死因死亡リスクが低値を示していました。

 他国の研究もみてみましょう。医学誌「Journal of Public Economics」に2020年に報告された論文「命を失う誘惑? 長期の失業給付金、労働市場からの離脱、そして死亡率(Fatal attraction? Extended unemployment benefits, labor force exits, and mortality)」では、オーストリアの死亡率と退職に関する行政データが解析されています。結果、男性の場合、1年早く退職すると、早死のリスクが5.5%増加、死亡時の年齢が2.2ヶ月低下していたこが分かりました。他方、女性については有意な影響は確認できませんでした。

 しかし、このような研究を引き合いに出され「退職すれば早死にするぞ!」と脅されたとしても、「仕事を続けたいのはやまやまだけど、会社の規定では65歳の定年で追い出されてしまう」という人は少なくありません。再雇用制度を採用する企業は年々増えていますが、再雇用されたとしても給料はこれまでの半分から3分の1、仕事内容もこれまでの実績と経験を考えるととても受け入れられるものではない、との声も少なくありません。

 他方、企業側からみれば、「高齢により高度な仕事をする能力が低下しているのだから、勤務条件が悪くなるのは当然」という考えになるかもしれません。

 では、定年とされている年齢を過ぎると仕事のパフォーマンスは本当に低下するのでしょうか。ホワイトカラーのほとんどの職種なら、過酷な残業や休日出勤を強いられない限り、身体能力の低下のせいで生産性が低下するとは考えにくいでしょう。

 では認知機能はどうでしょうか。高度な業務においては認知機能の低下があればパフォーマンスの低下は避けられません。企業としてはそんな高齢社員に重要なミッションをまかせるわけにはいきません。もしもあなたが2000年前後に40代だったとして、その当時、25歳先輩の、つまり定年間際の先輩たちのパフォーマンスがどの程度だったか思い出してみてください。例えば「人間的には依然魅力のある人だったけれど、定年間際には重要な任務はお願いできなかった」という記憶が蘇るかもしれません。そこから「ならば自分も65歳でそれまでと同じようなパフォーマンスは発揮できない」という発想になるかもしれません。

 しかし、その考えは捨てるべきです。IMF(International Monetary Fund=国際通貨基金)が2025年4月に発行した「THE RISE OF THE SILVER ECONOMY: GLOBAL IMPLICATIONS OF POPULATION AGING」を是非読んでみてください。第2章に、現在の高齢者は過去の高齢者とはまったく異なることが言及されています。具体的な内容を紹介しましょう。

・近年の高齢者は同年齢の以前の高齢者と比べて、身体能力も認知能力も向上している

・認知能力に注目すると「70代は新たな50代」といえる

・先進国および新興市場国41カ国を対象としたデータによると、2022年に70歳の人は、平均して2000年に53歳だった人と同等の認知能力を持っていた。

・過去10年間で、高齢者は認知能力の向上により、勤務を継続する可能性が20%上がり、平均週労働時間は約6時間増加し、労働所得は30%増加した

 もちろん「70代は新たな50代」がすべての人にあてはまるわけではなく個人差はあるでしょう。しかしながら、これまでの常識に縛られた考えに捉われているとチャンスを逃してしまうことになりかねません。また、「70代は新たな50代なのに、わたしの会社では高齢者をないがしろにしている」と感じている人もいるでしょう。

 そういう人は起業を考えればどうでしょう。無責任な意見に聞こえるかもしれませんが、世界に目を向ければ50代以降の起業はまったく珍しくありません。2026年2月22日の日経新聞によると、韓国では専門知識を生かして1人で事業を起こす人が増えていて、直近の統計では100万人を超え(正確には起業数は22年時点で100万7769社)、5年前の2.5倍に相当します。なかでも最多層は50代で35%にもなるそうです。

 この日経の記事からは男女比が分からないのですが、韓国の歴史や文化を考えると起業した人の大半が男性かもしれません。また、上述のオーストリアの研究では、女性は男性と異なり退職後の死亡率が上がらないとされていますし、谷口医院の患者さんでも、退職後の女性は男性に比べて元気に過ごしているような印象があります。しかし、働き続けている女性、あるいは起業している女性たちはもっと元気です。実は世界規模でみれば、すでに起業は女性の得意分野になっています。

 50代以降の女性を主な対象とした米国のデジタル雑誌「PROVOKED」に「50代以上の女性たちが静かに起業革命を牽引し成功の定義を塗り替えている(Women over 50 are leading a quiet entrepreneurial revolution and redefining what success looks like)」という記事が2026年3月に掲載されました。記事によると、50代以上の女性が世界で最も急速に成長している起業家のグループであり、最もダイナミックな分野で企業を立ち上げ、若い世代の起業家たちを凌駕する成果を上げています。実際、現在の新規起業家の約26%を50代以上の女性が占めているそうです。

 英紙The Telegraphは最近「引退は人生で犯しうる最大の過ちだ(Retiring is the biggest mistake you can ever make)」というタイトルの記事を掲載し、70代の今も、宇宙、クルーズ、ホテル、環境など複数の新規ビジネスに挑戦し続けているリチャード・ブランソンを取り上げています。

 退職後に予定していることを患者さんに尋ねると、世界一周、クルーズ船、ゴルフ三昧、楽器、登山などと実にいろんな答えが返ってきます。それを否定して「働きましょうよ」などというつもりはありませんが、当院の経験でいえば、そういった趣味や旅行などは1年から1年半で飽きてしまう人が少なくありません。ならば退職後は「1年から1年半のサバティカル休暇を取ってその後仕事を楽しむ」というアイデアはどうでしょうか。まだ50代の人は男女とも起業を考えてみればどうでしょう。

 

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