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2019年6月30日 日曜日
2019年6月30日 乳幼児期に犬と過ごせば食物アレルギーを予防できる?
「猫好き女子は肺がんで死にやすい」「単身者が犬を飼えば長生きできる」「乳児期に犬や猫に接するとアレルギーになりにくい」(いずれも下記「医療ニュース」参照)など、ここ1~2年で犬・猫が健康に与える研究がよく発表されるようになってきました。それだけ世間の関心が高いということでしょう。
今回紹介するのは「乳幼児期に犬と過ごせば食物アレルギー発症率が90%低下する」という俄かには信じがたい研究で、医学誌『Allergy』2019年5月11日号(オンライン版)に掲載されています。タイトルは「Dog ownership at three months of age is associated with protection against food allergy」(生後3か月で犬を飼っていれば食物アレルギーが予防できる)です。
英国の研究者が対象としたのは、「Enquiring About Tolerance(EAT)」と呼ばれる食物アレルギーの無作為化試験(聞き取り調査のようなもの)に登録された生後3ヵ月の乳児1,303人です。犬飼育の有無とアレルギー発症との関連が検討されています。生後36ヶ月時に食物アレルギーが発症したかどうかが調べられています。
その結果、「食物アレルギー」の診断がついたのは全体の6.1%。犬猫の飼育と食物アレルギーの関連を調査したところ、犬と一緒に過ごしていれば食物アレルギーの発症率がなんと90%も低下していたのです! さらに、2匹以上の犬を飼育していた家庭の乳児49人では発症者がゼロであり、犬の数が多いほど食物アレルギーを防ぐ可能性が高いことをほのめかしています。
ただ、残念なことに犬を飼っていてもアトピー性皮膚炎発症の予防にはならなかったようです。
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アトピー性皮膚炎、喘息、アレルギー性鼻炎など他のアレルギー疾患と比較すると、食物アレルギーは過去10~20年間で、世界中で急増しています。そして、他のアレルギー疾患に比べると重症化、あるいは死に至る確率も高いと言えます。いったん発症すると、治癒しないことも多く、また完全な食物除去は思いのほか大変ですから、予防できる方法があるならありがたい話です。
この研究ひとつだけで「将来の食物アレルギー予防のために犬を飼いましょう」とまでは言えないでしょうが、犬を飼うことには他にもいくつもの利点がありますから、今後は(猫よりも)犬がペットとして注目されることになるかもしれません。
参考:医療ニュース
2019年2月23日「乳児期に動物に接するとアレルギーを起こしにくい?!」
2019年4月25日「ネコ好き女子は肺がんで死にやすい?!」
2018年1月26日「単身者は犬を飼えば長生き 雑種より猟犬が良い?」
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|2019年6月30日 日曜日
2019年6月30日 イチゴアレルギーで搭乗拒否
少し古い話ですが、世界中で話題になっている事件なので報告しておきます。
2018年9月、英国のLCC「トーマス・クック」が19歳の英国人女性を「イチゴアレルギーがあるから」という理由で搭乗拒否しようとしました。英国の3つのタブロイド紙による報道から概要をまとめてみます(注)。
19歳の英国人女性とその恋人の21歳の男性が休暇を利用してギリシャのザンテ島(Zante)にバカンスに出かけました。往路は問題なく搭乗できたものの、帰りの便の搭乗間際に「問題」が起こりました。女性は二人の客室乗務員にイチゴアレルギーの話をし、客室乗務員は「イチゴの成分が含まれるマグナーズ(アイルランド製のイチゴ入りビール)やロゼ・ワインを機内サービスで他の乗客に提供しない」と約束しました。
ところが、上司の女性客室乗務員がこれに納得しませんでした。報道によればこの客室乗務員は「あなたのせいで200人以上の乗客に機内サービスができないのは不快だわ。あなたはどういうつもりなの?(I’m not happy not serving these products because we’ve got more than 200 guests and what do you expect them to do?)」と言い、女性の搭乗を拒否しようとしたのです。
すると、女性の恋人がこの客室乗務員に「乗客の安全を重視しないのか」と詰め寄り、また他の客室乗務員もこの女性の味方となり、最終的には搭乗拒否しようとした客室乗務員も渋々女性の搭乗を認めました。そして、「重度のアレルギー患者が同乗しているため、イチゴの含まれたものは供給できません。また、フライト中はイチゴの飲食を控えてください」と機内アナウンスしたそうです。
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帰国後、この女性は今回の事件をSNSなどで公表し世界中で話題になりました。さて、このケース、航空会社が他の乗客へのイチゴを含む飲料の供給を中止したのは正しかったのでしょうか。
たしかに空気中に浮遊するアレルゲンを吸い込むことによって生じるアレルギーはあり得ます。Mayo Clinicのウェブサイトによれば、例えばピーナッツオイルのクッキングスプレー(私はそのようなものを見たことがありませんが)を吸い込んでアレルギー反応が起こることがあるそうです。
ですが、イチゴ入りのアルコールを飲んだ他の乗客の呼気でアレルギー反応が起こるとは到底考えにくいのです。ただし、万が一にでも発症すれば命に関わる可能性がありますから、これは今後科学的に検証していくべきでしょう。
ところで、太融寺町谷口医院の12年半の歴史を振り返ると、イチゴアレルギーはどんどん増えているような印象があります。オープンした2007年の時点では「フルーツのアレルギーは次第に種類が増えていき、そのうちに食べられるものが減っていくかもしれません」という説明をするときに、「イチゴアレルギーは稀です」と話していました。
それが、年を追うごとにイチゴアレルギーの患者さんが増えています。もっとも、イチゴだけでなく、他のバラ科のフルーツのリンゴ、モモ、ナシ、ビワ、サクランボなども増えているのも事実です。ただ、昔からリンゴやモモ、ビワなどのアレルギーは珍しくありませんでしたが、以前は「イチゴだけはOK」という人も少なくなかったのです。
ちなみに、イチゴアレルギーを含むバラ科のフルーツにアレルギーがある人はハンノキやシラカンバなどの樹木の花粉症も併発していることが多いと言えます。これをPFAS(花粉食物アレルギー症候群)と呼び、最近増加しています。
いずれにしても食物アレルギーがある人が搭乗するときは、早い段階で航空会社に相談しておくべきでしょう。アレルギーが理由で断られることはないと信じたいのですが、トーマス・クックのことを考えると「LCCは避けた方が……」という声が出てくるかもしれません。
注:英国のタブロイド紙である『Express』、『The Sun』、『Mirror』の記事です。
参考:はやりの病気
第173回(2018年1月)「急増するPFAS(花粉食物アレルギー症候群)」
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|2019年6月13日 木曜日
第190回(2019年6月) 誤解だらけの膀胱炎の治療
太融寺町谷口医院はオープンした2007年から「どのような症状やどのような悩みでもお話ください」と言い続けています。もちろんどんな治療でもできるわけではなく、診断がつかなかったケースや入院や手術などが必要な症例は病院や専門クリニックに紹介しています。どれくらいの患者さんを紹介しているかというと、2018年を例にとると、1年間での総受診者数が15,080人、入院・手術・専門医の診察が必要で紹介したのがそのうち137人、「紹介率」は0.9%となります。
では99.1%の患者さんにどのような治療をしているのかというと、原則として、どの疾患もガイドラインに従った治療をおこなっています。ガイドラインが存在しない疾患も多々ありますが、その場合も「エビデンスのある標準的な治療」を基本としています。つまり「独自の検査・治療」は原則としておこなっていません。
ただし「膀胱炎」は例外になると言えるかもしれません。といっても、私は膀胱炎に対して奇をてらった治療をおこなっているわけではなく、私の診断法及び治療法を感染症科の専門医、もしくは感染症に詳しい医師に話すと、ほぼ全員が同意してくれます。あえて喧嘩をふっかけるようなことはしたくありませんが、膀胱炎の治療についてはガイドラインの方が”過剰”なのです。
実は、このことは毎日新聞の「医療プレミア」で指摘したこと(注1)があり、読者の方からの反響もそれなりにありました。その頃はまだ「医療プレミア」はまだ月に5本までは無料で読めていたのですが、現在は1本読むのも有料化されてしまっています。そこで、今回はそのときに述べたことを簡単にまとめてみたいと思います。
まず、膀胱炎の前提として、原因のほとんどは細菌感染です。そして、次の2つが細菌感染の治療の原則です。
#1 細菌の種類を特定(または推定)し、重症度を判定する
#2 細菌の種類と重症度から抗菌薬の種類と投与量を決める
ときどき「膀胱炎になったから抗生剤をください」とか、もっとひどい場合は「膀胱炎です。クラビットを5日分ください」という患者さんがいますが、そもそも膀胱炎かどうかは少なくとも尿を調べないと分かりませんし、細菌性膀胱炎が確定した場合も、上記の原則に従って抗菌薬を検討しなければなりません。
今私は、「もっとひどい場合」とあえて失礼な言葉を使いましたが、このようなことを言い出す患者さんだけがおかしいのかといえば実はそうではありません。この患者さんの要望は、感染症の原理原則から完全に逸脱していますが、実はガイドラインに似たようなことが書いてあるのです。
膀胱炎について書かれた日本のガイドラインとしてはいくつかあり、ここでは「医療プレミア」でも引き合いに出した日本化学療法学会のガイドラインと標準医療情報センターのガイドライン、さらに日本産科婦人科学会のガイドラインを見てみたいと思います。
どのガイドラインにも共通しているのは、抗菌薬にニューキノロン系と第3世代セフェム系(注2)が推奨されていることです。これらの2つには共に小さくない問題があります。ここではニューキノロンの問題をみていきます。
まず、ニューキノロンというのは極めて強力な抗菌薬で安易に使ってはいけないものです。海外では、これらを使い過ぎた結果、薬剤耐性菌が多量に出現したことを反省し、現在はニューキノロンの使用は最重症例に限る方向にあります。英国ではニューキノロンの使用を控えることで耐性菌が減少したという報告もあります。
米国泌尿器学会の提言では「合併症のない女性の膀胱炎に、安易にニューキノロンを使ってはいけない」とされています。「合併症」というのは、悪性腫瘍や未治療のHIV、重症の糖尿病といった「重症の病気」です。つまり、そういった重症の病気がない日ごろは健康な女性にニューキノロンは簡単に使ってはいけません、と警告しているわけです。
これを受けて(かどうかは分かりませんが)日本化学療法学会のガイドラインにも「ニューキノロンは安易に使わない」と確かに書かれています。ですが、推奨する具体的な抗菌薬としてニューキノロンが書かれているのです! 問題はまだあります。ニューキノロンはそれだけ”強力な”抗菌薬(注3)ですから費用も高いのです。なかには1日あたり400円以上するものもあります。
太融寺町谷口医院の診断と治療の話をしましょう。治療の話で言えば1日あたり数十円ですみます。これはペニシリン系、もしくは第一世代セフェム系を中心としているからです。もちろん安いという理由だけでこれらを処方しているわけではありません。先述した#1のように正確に診断することが不可欠です。
そして、正確に診断するにはグラム染色をおこなえばいいのです。これにより細菌が大腸菌を代表とするグラム陰性桿菌なのか、ブドウ球菌などのグラム陽性球菌かが分かります。グラム染色の費用は3割負担で660円ほどです。しかも10分程度で結果が出ますし(当院を受診されたことのある方はお分かりだと思いますが)細菌と炎症細胞の様子をモニタで見てもらうことができます。
つまり、単純な膀胱炎なら、グラム染色で原因の細菌と炎症の程度が簡単に分かり、そこから適切な抗菌薬の種類と量が簡単に推測できるわけです。これでほぼ100%治ります。発熱や背部痛などがあり重症化している場合はニューキノロンや点滴の抗菌薬を用いることもありますが、基本的には下腹部痛や残尿感だけならニューキノロンは不要です。要するに、日本のガイドラインが”過剰”なのです。私が考える膀胱炎の治療の1つめの「誤解」が「日本のガイドラインに従わねばならない」です。
ちなみに、このグラム染色という方法は風邪(急性上気道炎)のときの抗菌薬の必要性を検討するときにも極めて有用ですし、怪我で皮膚に傷ができたときにもどのような細菌が感染したかを知る上で極めて便利です。私は医師になってから、このグラム染色の有用性を主張し続けています。ほとんどすべての医師が「それは有用だ」と同意はしてくれますが、残念ながらどこの医療機関でも実施しているわけではありません。その最大の理由はちょっと手間がかかる(といっても10分程度ですが)割に、保険点数が少ない(だから安い)からではないかと疑いたくなってきます。
2つめの膀胱炎の治療に対する「誤解」は「薬局に相談する」です。私は常々、困ったことがあればいつでも相談してくださいと言っていますが、それと同時に、セルフメディケーションも勧めています。つまり、病院でなく薬局で相談するということも推奨しているのです。しかし、こと膀胱炎に関してはそのせいで重症化してしまうことがよくあります。巷には「ボーコ・・・」といったいかにも膀胱炎に効きそうな市販薬がありますが、これらは抗菌薬ではありません。こういった薬を飲んで医療機関受診が遅れて膀胱炎が重症化してしまうケースは決して少なくありません。この点は薬剤師に対し文句を言いたいところです。
では今回のまとめです。
・膀胱炎のほとんどは細菌感染であり抗菌薬で治療する。したがって、薬局でなくかかりつけ医に相談する。(これを読んでいるあなたが薬局勤務の薬剤師なら、よほどの自信をもって細菌性が否定できなければ直ちに医療機関受診を勧めてください)
・膀胱炎が疑われれば、まずは細菌の種類と量を調べなければならない。
・細菌の種類と量を調べるには尿のグラム染色が最も有用。すぐに分かり、費用も安い。
・細菌の種類と量が分かれば適切な抗菌薬の種類と量が決められる。発熱や背部痛がなければほぼ100%安い抗菌薬で治療することができる。
・単純な膀胱炎で、日本のガイドラインで推奨されているニューキノロン(及び第3世代セフェム)が必要になることはほとんどない。
************
注1:3週連続で下記のコラムを書いています。
2017年9月10日「日米でこんなに違う 膀胱炎の治療方針」
2017年9月17日「膀胱炎は”研修医レベル”の治療でOK?!」
2017年9月24日「膀胱炎治療にサプリや漢方がNGの理由」
注2:以前から「なぜ海外ではほとんど用いられない第3世代セフェムの内服抗菌薬が日本では多用されるのか」は多くの識者が指摘しています。私は「医療プレミア」(「第3世代セフェムはなぜ「乱発」されるのか」)で書いたことがあります。はっきり言うと、第3世代セフェムの内服抗菌薬はほとんど用がなくて、最近では一切の処方をやめる医療機関が増えてきています。
注3:ニューキノロン系の抗菌薬の代表が、クラビット、タリビット、シプロキサン、オゼックス、グレースビット、スオード、アベロックス、ジェニナックなど(すべて先発の商品名)です。
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|2019年6月9日 日曜日
2019年6月 競争しない、という生き方~その2~
このことは生涯誰にも話さず棺桶まで持っていこう……。そう思ったのは1991年3月、翌月に就職する会社のオリエンテーションのときです。そのときの情景が私にはとてもショッキングであり、「これは誰にも言ってはいけない」と言い聞かせてきました。それから30年近くたちますが、今もときどきそのシーンが蘇ります。その時は(その人の名誉のために)「棺桶まで持っていく」と誓ったのですが、これだけ時間が経てば個人を特定できないでしょうからそろそろ他言してもいいのではないか、と最近になって考えるようになりました。今回はその話をします。
そのオリエンテーションは一泊二日で会社の保養所でおこなわれました。同期の者どうし酒を飲み議論を交わし深夜まで楽しく過ごしたことを覚えています。ようやくみんなが就寝する頃、私は眠れずにその保養所のキッチンにひとりでタバコを吸いにいくことにしました(当時の私は喫煙者でした)。
ポケットにタバコがあることを確認しながら廊下を歩いていると、ある部屋からシクシクと泣き声が聞こえてきます。「なにやら聞いてはいけないものを聞いてしまったようだ。そうっと引き返そう……」、と今なら思うかもしれませんが、当時22歳のバカな私は「これは面白い!」と不謹慎なことを考え、ドアの隙間から部屋の中の様子を伺うことにしました。
泣き声の主は同期の者ではなくその会社の男性社員でした。しかも30代半ばの中堅社員で、このような場で涙を見せるような人ではありません。もうひとりその部屋にいたのがその上司で、どうやら中堅社員が上司に泣きながら何かを訴えているようなのです。そして、その社員が次の言葉を放ったとき、私の身体は凍り付きました。その言葉とは、「なんで僕は出世できないんですか」というものだったのです……。
過去のコラム「競争しない、という生き方」で、私の初任給が他の同期の者より2千円少なかったことで、私の上司が怒り出したことを紹介しました。実はこのコラムを書いたときも、この中堅社員が泣き出した話も書くことを考えたのですが、そのときは”封印”しておくべきだという結論になりました。しかし、「競争しないこと」をいろんな人に勧めている立場の私としては、この「競争をしらけさせるエピソード」をやはり伝えておくべきだ(もう個人の特定はされないだろう)、と考えるようになりました。
過去のコラム「己の身体で勝負するということ」で述べたように、私は大学名や家柄といった「肩書」には何の意味もないことを大学生時代に当時の先輩たちから学びました。この頃は「出世」というものを深く考えていませんでしたが、出世とは昇進して課長とか部長といった肩書がつくことですから、先輩たちから真実を学んでいた私からすれば、この中堅社員が涙を流して訴えるシーンがただただ馬鹿馬鹿しく、とても愚かなものに見えたのです。
果たして人は、上司に涙を流しながら訴えるようなことまでして出世しなければならないのでしょうか。出世すれば給料が上がるのでしょうが、出世しなかったときと比べてそんなに大きな差がつくのでしょうか。むしろ出世して管理職になって残業代がつかずに給与が下がった、という話もよく効きます。出世すれば尊敬されるのでしょうか。そうかもしれませんが、出世に価値を見出さない者は私だけではないでしょうし、私も出世を蔑むようなことまではしませんが、いい歳をした大人が涙を流して訴えるシーンを見てしまうと、私のような性格の者は「そんな出世ならいらない」と考えてしまいます。
そもそも出世というのは、その会社のなかだけのものであり、取引先の人からはそれなりに評価されることもあるかもしれませんが、その会社に縁もゆかりもない人からは何の興味ももたれません。私が就職したような小さな会社ではなく、大企業の課長さんなどであれば「すごいですね~」と言われるのかもしれませんが、私のように大企業がすごいと思わない者も一定数はいるはずです。
出世する人は人間的に魅力のある人なのでしょうか。これは私の「課題」として長い間考えてきましたが、今年51歳になる現在の私がたどり着いた結論は「そんなものは関係がない」です。
学歴や職歴を”無視”して「己の身体で勝負する」を金科玉条としている私は、あえて「出世」や「肩書」を拒否してきました。それでこれまで困ったことは一度もありませんし、冒頭で述べた中堅社員のエピソードを思い出すと、出世を目指すことがつまらないことにしか思えません。
そして、私のこの考えにさらに拍車がかかったのが、NPO法人GINAの関連で、タイでいろんな人にインタビューをしていたときの経験です。2004~2006年頃、繰り返しタイに渡航していた私は、現地で長期間滞在(多くはいわゆる”沈没組”)している日本人の声を集めていました。買春や違法薬物に手を染めている人たちにインタビューすることが主目的でしたが、結果として”健全な”日本人とも知り合いました。
興味深いことに、そのような人たちのいくらかは高学歴で大企業勤務の経験があります。なかには官公庁に務めていた人や、進学校の元教師という人もいました。そして、こういった人たちにもいろんなタイプがいて、「ああ、この人のコミュニケーションの取り方は誤解を招くだろうな…」と感じる人もいれば、「この人は話もおもしろくて器が大きい生徒会長タイプなのにどうして…」と思う人もいました。
何人かにインタビューをして私が感じたことは、(買春や違法薬物はNGですが)一年に一度日本に帰国してアルバイトでそれなりのお金を稼ぎ、タイにやってきてのんびりと過ごしたり、難解な書物を読み解くことに一日を費やしたりしている人は少なくとも”不幸せ”には見えない、ということです。
タイに滞在しているときは、出世など初めから求めず楽しそうにしているタイ人が気になります。過去のコラム「なぜ「幸せ」はこんなにも分かりにくいのか」で紹介した「タイの農民と日本のビジネスマン」の逸話からもわかるように、彼らの多くはあまり働きません。
私自身の場合も、出世を求めたことは一度もなく、医師になり研修医を終えてから、しばらく日本でHIVについて学び、その後タイに渡航しエイズ施設でボランティアをおこないました。そこで知り合った欧米の総合診療医達に感化された私は帰国後、母校の大阪市立大学総合診療部の門を叩きました。しかし常勤ではなく他の医療機関にも学びに行くことを選択しました。つまり好きなことをさせてもらっていたのです。出世など頭の片隅にさえない私は周りからみれば気楽な人生を送っているように見えるでしょうが、これはその通りで、「出生しない」「他人と競争しない」と割り切ってライバルをつくらなければ不要なストレスを避けることができ、嫉妬心に悩まされることもありません。
私自身の人生が他人から羨ましがられることはないでしょうが、出世や肩書を捨ててタイで楽しく過ごしている日本人や、あまり働かないタイ人と比べ、「出世」に躍起している人たちは幸せなのでしょうか。そこに幸せがあると考えるから涙を見せてまで上司に訴えるのでしょうか。
ちなみに、若い頃の私に「己の身体で勝負せよ」と教えてくれた魅力的な先輩たちも、大企業で役職をもつような「出世」はされずに(一部大企業の幹部になっている人もいますが)、魅力的な仕事を持ち幸せな生活をされています。冒頭で紹介した涙で出世を訴えていた中堅社員の行方は知りません。
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