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2025年9月9日 火曜日

2025年9月 人間に「自殺する自由」はあるか

 本サイトで初めて「自殺」を取り上げたのは、まだ谷口医院を開院する前の2005年でした。「メディカルエッセイ」に3回連続で「自殺」をテーマとしたコラム(「なぜ日本人の自殺率は高いのか①」、「なぜ日本人の自殺率は高いのか②」「なぜ日本人の自殺率は高いのか③(最終回)」)を公開しました。社会学者デュルケームの『自殺論』を引き合いに出し、日本で自殺者が多い理由を自殺が少ないタイと比較し、「階級社会」、「死体のタブー視」、「輪廻転生」などをキーワードにして、日本人の死生観や人生観についての私見を述べました。

 20年前のこれらコラムでははっきりと言及していませんが、私は「日本人の自殺者は多すぎる。社会全体で減らしていくべきだ」という見解を述べてはいるものの、自殺を「否定」はしていません。つまり、私自身は「自殺否定者」ではないということです。

 「自殺が罪」という視点は私にはなく、もちろん推奨したことはありませんが、「死者を悪く言ってはいけない」という価値観以上のもの、言葉にするなら「自殺はひとつの選択肢であり、自殺の自由は認められねばならない」という考えを持っていました。その根底にあるのが「他者に迷惑をかけるのでなければ個の自由は尊重されなければならない」という、いわばジョン・ロックにも通ずる自由論なようなものです。そして、この考えは私特有のものではなく、社会全体にこのようなコンセンサスがあったように感じていました。

 実際、私が若き日々を過ごした80年代、90年代には自殺した人たちを悪く言うような意見はほとんど聞かれず(これは今でも同じではないでしょうか)、むしろ”英雄視”する声さえありました。もっとも、自殺した有名人の話で盛り上がるなどという悪趣味を有している人はそうおらず、自殺について積極的に話題にする人はあまりいないわけですが。

 ただ、どういうわけか、私は「自殺」という現象に非常に興味があり、また「仲間を殺す」という事件にも強く惹きつけられました。「仲間を殺す」事件として、昔から私が最も関心を持っているのが1972年の「あさま山荘事件」です。連合赤軍の内部で「総括」と呼ばれる自己批判の名のもとに合計12人もの仲間が殺害されたこの事件について、私が概要をきちんと知ったのは1つ目の大学に入学した直後、1987年でした。わずか15年前に、社会をよくしようと立ち上がった若者らが、やがて憎しみ合うようになり「内ゲバ」の末、殺し合ったという現実。これ、かなり衝撃的な事件だと思うのですが、この事件をきちんと”総括”して教えてくれた大人たちは私が大学に入学するまでいませんでした。

 入学して少したったときに、大学の先輩からあさま山荘事件という恐ろしい事件があったという話を聞いたのですが、その先輩もさほど詳しいわけではなく、当時はインターネットも登場しておらず、例えば大学の先生に聞けばよかったのかもしれませんが、80年後半のあの当時は日本全体が浮かれていた時代で、そういう話を口にすることが野暮ったいというか、おかしな奴だと思われますから、結局、私も興味を封印することにしました(尚、その後も興味がなくならなかった私はこの事件を調べ続けています。2022年のマンスリーレポート「『社会のため』なんてほとんどが偽善では?」でも一部述べています)。

 しかし、そうはいっても、仲間が仲間を殺し合う、社会に絶望して自らの命を絶つ、といった現象への興味は捨てられません。情報収集に苦労しつつも(といってもインターネットの登場など夢にも思わず、当時は情報収集が骨の折れる作業が当然であり「苦労」とは感じていなかったのですが)、少しずつ、60年代から70年代にかけての学生運動や欧米での反戦運動などに関する知識が増えていきました。

 『フランシーヌの場合』という歌を知っている人はどれだけいるでしょう。発売は1969年で歌い手は新谷のり子。当時は80万枚を売り上げ、学生運動に熱を入れる若者たちの間で相当盛り上がっていたそうです。フランシーヌのフルネームはフランシーヌ・ルコント、30歳のフランス人女性です。1969年3月30日、パリで焼身自殺を遂げました。ベトナム戦争などの世界の悲劇に対する抗議からの行動だったのです。私はこの話を過去にいろんな世代に人にふってみたことがあるのですが、興味を示した人はほとんどいません。当時、学生運動のど真ん中にいたはずの世代の人も「その話は、あまりしたくない……」という態度になります。たいていはその場の”空気”を読んで話をやめることになります。

 「高野悦子」という名前に聞き覚えのある人はどれだけいるでしょうか。パリでフランシーヌが焼身自殺を遂げた約3ヶ月後、高野悦子は京都の山陰本線の二条駅から花園駅の間の貨物列車が走る線路に身を投げ自殺を遂げました。1949年に栃木県で生まれた彼女は立命館大学文学部に在学中でした。彼女が亡くなる直前まで綴っていた日記は、死後『二十歳の原点』として出版され、さらに映画化までされました。加えて、過去の日記が『二十歳の原点ノート』、『二十歳の原点序章』として出版されました。

 私が高野悦子の存在を知ったのは、たしか1つ目の大学の4回生の頃でした。就職活動をしているときに、いろんな企業の人に会いに行き、もうそれはどの会社の誰だったかの記憶も曖昧なのですが、学生運動のなかで生じた葛藤や疑問から自殺した立命館の女子大生(当時は女子大学生/女性大学生がそう呼ばれていました)がいたという話を聞いたのです。その話だけでも当時のバブル経済真っただ中の平和な時代を過ごしていた私には衝撃的でしたが、その女子大生の日記がベストセラーとなり映画化までされたという事実に驚きました。

 しかし、それ以来、私は様々な世代の人に「高野悦子って知ってる?」と尋ねてきましたが、「知っている」と答えた人はほとんどいません。さすがに立命館大学出身者なら知っているだろうと思って同大学の卒業生数人にも聞いてみましたが、誰も「知らない」と言います。もしかすると、知っていても「ただでさえ学生運動の暗いイメージがつきまとう立命館の印象を損ないたくない」と考えて嘘をついたのかもしれませんが……。尚、これは余談ですが、当時学生運動のメッカだった立命館大学の現在の姿には、もやはその面影は微塵もなく、関西でもっともファッショナブル、そして高偏差値大学へと変貌しました(対照的なのが私の出身の関西学院大学です……)。

 フランシーヌも高野悦子も、英雄視しているわけではありませんが、彼女らの意思を毀損する気持ちは私には毛頭ありません。そして、社会に強い印象を残して命を絶ったのは彼女たちだけではありません。

 「みんなちがって、みんないい」のフレーズが有名な詩人の金子みすゞは市販の鎮痛剤で死を遂げました。文字通り「みんなちがって、みんないい」を実践したと言えば不謹慎でしょうか。三島由紀夫、太宰治、川端康成、芥川龍之介など、自殺で人生を終えた文学者は少なくありません。「自殺の自由」という言葉を使うとき、私の脳裏にはまずフランシーヌと高野悦子の姿が浮かび、次いで数々の文学者の残像が脳内を駆け巡ります。彼(女)らを誹謗することなどできるはずがなく、その逆にどこか厳かな感情が芽生えるような気すらします。だから、自殺に賛成することはないにせよ、人間には最終的には「自殺する自由」はあって然るべきだ、と考えていたのです。

 そして2007年、私は大阪市北区に谷口医院をオープンさせました。総合診療の谷口医院には心の悩みをもった若い男女も大勢訪れます。なかには死をほのめかしたり、自殺未遂の体験を話したりする人もいます。もちろん、「人間には自殺の自由がありますから、どうぞあなたの意思を尊重してください」などとは言いませんが、「この社会から消えてしまいたくなるのですね……」と共感することはあります。自殺企図(自殺願望)がある場合は精神科受診を促すこともあります。ただし、精神科を受診して解決するわけではなく、結局また戻ってくることが多いのですが。

 そのうち、死の相談をする患者さんの年齢が次第に高くなってきました。2年前に新しい場所に移転してからはその勢いが加速しています。

 そして「安楽死」という問題が浮上してきました。

 次回に続きます。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

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