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2022年12月30日 金曜日

2022年12月30日 運動で認知症を予防できる?できない?

 認知症の予防を確実にできる方法はありません。一方、認知症のリスクとなるものは多数あります。飲酒、喫煙、片頭痛、睡眠不足、ベンゾジアゼピンの使用、などが挙げられますが、最たるものはやはり「遺伝子」です。過去にも何度か紹介したように(例えば「はやりの病気第179回(2018年7月)認知症について最近わかってきたこと(2018年版)」)、ApoE遺伝子をε4・ε4で持っていれば、ε3・ε3の人に比べてアルツハイマーになるリスクが11.6倍にもなります。

 確実にリスクとなる因子がいくつもあり、リスクを低減させる方法がはっきりしないというのは何とも心許ないものです。「そんなはずはない、従来健康的とされている方法を続ければきっとリスクは下がるはずだ」、と考えるのは人間にとってごく自然なことでしょう。

 いつの時代も健康向上に不可欠とされている「運動」はどうでしょうか。最近、「運動が認知症の予防になるかもしれない」という研究が発表されました。

 医学誌「Journal of Applied Physiology」2022年10月4日号に掲載された論文「有酸素運動は高齢者の脳の血管の抵抗を低下させる:1年間の無作為対照試験(Aerobic exercise training reduces cerebrovascular impedance in older adults: a 1-year randomized controlled trial)」です。

 研究では73人の高齢者を有酸素運動(aerobic exercise training )のグループ36人とストレッチ+トーニング(stretching and toning)と呼ばれるワークアウト(筋トレ)(後述します)に分け、脳内の血管の抵抗が比較されています。脳血管の抵抗(インピーダンス)が低ければ血流が良いことを示します。調査は1年間続けられ、41人の血管の抵抗が調べられました。

 結果、有酸素運動のグループは血管抵抗が有意に低下していた(つまり血流が良くなった)のに対し、ストレッチ+トーニングのグループでは変化がありませんでした。このことから著者らは「高齢者の有酸素運動は脳の循環を良くする」と結論づけています。

 脳の血流がよくなれば脳が若さを保つことができて、その結果認知症のリスク低減が期待できるかもしれません。

 尚、トーニング(toningまたはtoning up)とは、体脂肪を落とし筋肉をしっかりさせるワークアウト(筋トレ)のことで、筋肉量を増やすことを目的としたワークアウトはバルキング(bulkingまたはbulking up)と呼ばれます。この研究では、バルキングについては検討されていません。

 次に紹介するのは、「運動、マインドフルネス、及び両者の併用は認知機能を改善させなかった」という研究です。

 医学誌「Journal of American Medical Association」2022年12月13日号に掲載された論文「高齢者の認知機能に対するマインドフルネスと運動療法の効果:無作為臨床試験(Effects of Mindfulness Training and Exercise on Cognitive Function in Older Adults: A Randomized Clinical Trial)」を紹介します。

 研究の対象は、「認知症ではないが主観的な認知機能低下を自覚する(with subjective cognitive concerns, but not dementia)」65~84歳の高齢者585例で、運動グループ138人、マインドフルネスのグループ150人、両者併用グループ144人、対照グループ153人です。

 18カ月間追跡し、追跡できた475例の認知機能を解析したところ、運動もマインドフルネスも認知機能の改善にまったく寄与しないことが判りました。尚、認知機能の評価にはエピソード記憶(episodic memory)及び遂行機能(executive function)が調べられています。

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 「運動が認知症やアルツハイマー病のリスクを下げる可能性がある」とする研究は多数あるのですが、決定的なものはありません。一方、上に示したように「運動は認知機能を改善させなかった」とするものも多数あります。

 よって、運動をしたからといって認知機能改善はさほど期待できないと考えた方がいいでしょう。ですが、これは運動をしなくていいという意味ではありません。

 今さら言うまでもなく、運動には心身面で驚くほどの効果があります。運動なしで健康な心身状態は得られない、と考えるべきです。

参考:
医療ニュース
2022年3月27日「片頭痛はやはり認知症のリスク」
2022年1月4日「円形脱毛症は認知症と網膜疾患のリスク」
2021年12月27日「安静時の心拍数上昇が認知症のリスク」
2021年6月17日「中年期の孤独と睡眠不足が認知症のリスク」
2019年12月28日「やはり胃薬PPIは認知症のリスクを増やすのか」

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2022年12月18日 日曜日

第232回(2022年12月) まもなく登場する市販のダイエット薬は効くのか

 2022年11月28日、たまたまネットニュースに目が留まり、その内容に驚きました。日本では未承認の肥満薬「オリルスタット」が処方薬でなく、市販薬として認可されたというのです。オルリスタットは、膵臓や消化管から分泌されるリパーゼを阻害して脂質の吸収を抑制し、体重を減少させる薬です。

 報道によると、販売を手掛けるのは大正製薬で、商品名は「アライ」。添付文書上の「効能・効果等」は「腹部が太めな方の内臓脂肪および腹囲の減少(生活習慣改善の取り組みを行っている場合に限る)」。「腹部が太めな方」の基準は、腹囲が男性85cm以上、女性90cm以上、とのことです。

 さて、このニュースを見て大勢の医療者が驚いたはずです。なぜならこのオリルスタットという抗肥満薬は、”歴史”のあるいわくつきの薬剤だからです。

 オリルスタットは大正製薬が開発した薬ではありません。開発を手掛けたのはスイスの製薬会社ロシュです。1990年代には少なくとも米国FDAからは承認を得て、医薬品(処方箋の必要な薬)として「ゼニカル(Xenical)」という名前で米国の医師により処方されていました。

 日本で導入の動きがあったのは2000年代前半で、製薬会社は中外製薬です。ロシュと協力関係にあった同社が日本での発売を目指して治験に取り組んだのです。ところが、2005年4月、中外製薬は開発のハードルの高さなどを理由に開発を中止することを発表しました。

 ところでオリルスタットを語るときにはもうひとつの薬の話もせねばなりません。その薬とは「セチリスタット」。名前が似ていることからも分かるようにオリルスタットと似たような薬です。リパーゼを阻害して脂質の吸収を抑制し、体重を減少させるメカニズムです。

 セチリスタットの開発を手掛けたのは英国のAlizyme Therapeutics社。2003年、武田薬品が日本における開発・販売の権利を取得しました。その後、2009年にオランダのノルジーン社がAlizyme Therapeutics社から製造・販売などすべての権利を獲得しました。

 つまり、2003年の時点では中外製薬と武田薬品が類似した抗肥満薬の国内導入にしのぎを削っていたわけです。そして、2005年に中外製薬は撤退することを決定し、武田薬品だけが国内販売を目指して動いていたのです。

 武田薬品の”努力”が実りました。2013年9月、厚生労働省の薬事・食品衛生審議会医薬品第一部会により、武田薬品のセチリスタットは「オブリーン錠120mg」という名称でついに承認されたのです。

 あとは「薬価収載」だけです。処方薬が実際に処方されるには、承認後の「薬価収載」を待たねばなりません。通常、承認から薬価収載までは「原則として60日以内、遅くとも90日以内」というルールがあります。よって、遅くとも2013年の年末には医療機関での処方が開始される予定でした。

 ところが、セチリスタットはなかなか薬価収載されません。実は食品衛生審議会で承認された後、薬価収載について協議する中央社会保険医療協議会(通称「中医協」)からセチリスタットの販売を疑問視する声が上がったのです。

 そして2018年7月13日、武田薬品はセチリスタットの販売を断念し、日本での開発・製造・販売権を導入元企業のノルジーン社に返却することを発表しました。武田薬品はそれまでにかなりの大金を費やしていたはずですが、薬価収載の見込みが立たないのならそれ以上引っ張ればさらにムダ金を使うことになります。また、興味深いことに、オリルスタットが世界の多くの国で処方・販売されているのに対し、セチリスタットに関してはそのような話をほとんど聞きません。もしかすると、現在もどこの国でも処方・販売されていないのかもしれません。

 ここで時計の針を2000年代前半に戻します。中外製薬がオリルスタット120mgの国内導入を断念する前年の2004年、国外では新たな動きがありました。英国の製薬会社グラクソスミスクライン(の子会社)が、ロシュからオリルスタット120mgを半分の60mgとした製品の販売権を取得しました。そして、2007年、米国FDAは「ゼニカル(Xenical)」の半量のオリルスタット60mgを薬局で販売することを認可したのです。その商品名が「アライ(Alli)」です。

 オリルスタットが再び日本で話題となりました。2009年1月、今度は(中外製薬ではなく)大正製薬が、グラクソスミスクライン(の子会社のグラクソグループリミテッド)と日本での開発・販売の契約を交わしたことを発表したのです。

 随分ややこしくなってきましたので、ここでこれまでの流れをまとめておきましょう。

〇オリルスタット120mg: ロシュが開発。米国では「ゼニカル(Xenical)」という名前ですでに90年代から処方されていた。日本では中外製薬が販売を試みたが、ハードルの高さから2005年に断念した。

〇セチリスタット: 英国の製薬会社が開発し、その後オランダのノルジーン社が製造・販売権を獲得したが、海外での処方・販売実績はほとんどない(と思われる)。日本では武田薬品が治験をおこない厚労省からは承認されたものの、最終段階の「薬価収載」がおこなわれず、結局、販売権をノルジーン社に返却した。

〇オリルスタット60mg: グラクソスミスクライン(の子会社)が、ロシュから半量の60mgの製品の販売権を取得。2007年より米国で「アライ(Alli)」の名前で、薬局で販売され始めた。日本では大正製薬が2009年1月にグラクソスミスクライン(の子会社)と日本での開発・販売の契約を交わした。そして、市販薬として日本の薬局に近日登場予定。

 このような複雑な”歴史”があり、大正製薬はグラクソ(の子会社)との契約から14年近く経過した2022年12月、ついにオリルスタット60mg(=「アライ」)の厚労省からの認可を得たのです。

 さて、今後アライはどの程度普及するでしょうか。報道によれば、薬局での購入までの道のりが少々険しそうです。まず、ネット上で購入することはできず、必ず薬剤師との対面が必要となります。さらに、服薬開始の1か月前から腹囲と体重を記録する必要があるそうです。

 これを面倒くさいと考える人はきっと少なくないでしょう。まあ、実際には適当に数字を書く人も大勢いるでしょうし、薬剤師もいちいちひとつひとつの数字をチェックしないでしょう。個人輸入や美容外科クリニックでやせ薬を買うことを考えればはるかに簡単に購入できます。

 文献上の報告や、個人輸入で入手したことがあるという患者さんからの情報によれば、それなりの頻度で下痢をするそうです。それは脂肪の吸収が妨げられることを意味しますから、人によっては体重減少が期待できるかもしれません。

 ですが、ダイエットの話で私が必ず言うように「その薬を一生続けるのですか」という問題が残ります。ダイエット薬は効果があったとしても、中止すればほとんどの人がリバウンドを起こします。また、極端な糖質制限や短期集中の運動も効果は出ますが、元の生活に戻せば元の木阿弥になるどころか、ダイエット終了後にはより太りやすい身体になります。

 本サイトで繰り返し述べているように、ダイエットをしたいのなら、どのような方法であっても「生涯続けられること」をすべきなのです。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2022年12月8日 木曜日

2022年12月8日 帯状疱疹を発症すると将来の脳卒中・心疾患のリスクが増加

 最近、「50歳を超えると帯状疱疹を起こしやすいのですか?」という質問が増えています。これはおそらく帯状疱疹のワクチンのメーカーが接種を促すためのマーケティングとして、いろんな手を使ってそういう言葉を広めているからでしょう。

 では、帯状疱疹は50歳を超えれば注意すればいいのでしょうか。そんなことはまったくありません。統計上50歳を超えれば発症率が上がるのだとしても、あなたにとって重要なのは統計ではなく、「あなたはどうなの?」ということだからです。

 実際、太融寺町谷口医院では帯状疱疹の発症率は、(きちんと数字を見直したわけではありませんが)私の印象で言えば、30代であろうが70代であろうがほとんど変わりません。むしろ、一番患者数が多いのは40歳前後のような気がします。なかには20代で発症している人もいます。

 ここで帯状疱疹が発症する理由を確認しておきましょう。発症の理由は「免疫能の低下」です。ですから、睡眠不足、過重労働、精神的ストレスなどがリスクとなります。20代の発症者であれば、いくらかはHIV感染(男性の場合)か膠原病(女性の場合)があります。

 なかには帯状疱疹を繰り返す人もいます。「帯状疱疹が今回で2回目」という人はそれなりの確率で(HIVなどの)免疫能が低下する疾患を有しています。

 では、帯状疱疹を発症すれば、主症状の「痛み」に耐えればそれでいいのでしょうか。どうもそれだけではなさそうです。

 帯状疱疹を発症すれば、その5~12年後に脳卒中のリスクが30%上昇する……

 医学誌「Journal of the American Heart Association」2022年11月16日号に掲載された論文「帯状疱疹の心血管疾患に対する長期的リスク(Herpes Zoster and Long‐Term Risk of Cardiovascular Disease)」でそのような研究結果が報告されています。

 研究の対象は米国の大規模研究に参加した、研究開始時点で脳血管障害のない男女205,030人(男性31,440人、女性173,590人)です。調査期間中に、3,603件の脳卒中と8,620件の心疾患の発症がありました。帯状疱疹の発症との関連は次の通りです。

帯状疱疹発症後1~4年経過で脳卒中を発症するリスク:1.05倍
       5~8年経過脳卒中を発症するリスク:1.38倍
       9~12年経過脳卒中を発症するリスク:1.28倍
       13年以上脳卒中を発症するリスク:1.19倍 

帯状疱疹発症後1~4年経過で心疾患を発症するリスク:1.13倍
       5~8年経過で心疾患を発症するリスク:1.16倍
       9~12年経過で心疾患を発症するリスク:1.25倍
       13年経過で心疾患を発症するリスク:1.00倍

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 この研究は非常に重要だと思います。なぜなら脳卒中や心疾患というのは、発症すればその後の人生に大きく影響を与えるからです。なかには、そのまま死亡したり重篤な後遺症を残すケースもあります。

 ということは帯状疱疹の発症を可能な限り防ぐべきです。そのためにワクチン接種を受けるのは賢明な方法です。50歳になってからではなく、特にストレスや睡眠不足で免疫能が低下していると思われる人は30歳になれば(あるいは20代でも)ワクチンを検討するのがいいでしょう。尚、ワクチンには2種類あり、接種時の免疫能が正常であれば安い方で充分です。安い方なら1回接種でOKです(ただし、過去に水痘に感染していることが条件となります)。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2022年12月8日 木曜日

2022年12月 誰もが簡単に直ちに幸せになれる方法

 前回は「いずれ人類は絶滅する」という、たいていの人は日頃考えることを避けている「不都合な真実」について私見を述べました。今年最後のマンスリーレポートは「明るい話」で締めくくりたいと思います。

 2022年2月の本コラム「絶望から抜け出すための方法」で、「人・本・旅」に頼ってみよう、という話をしました。「人・本・旅」は私のオリジナルではなく、現在APUの学長をされている出口治明さんの名言です。出口さんは、この3つを「人間が賢くなる方法」あるいは「人生を豊かにする方法」として紹介されています。そのコラムでは、私は「人間関係には絶望しかないのだとすれば、<本>を持って<旅>に出よう」と述べました。今回は「人」の話をします。

 生まれてこの方、出会ってきたすべての人たちが素晴らしく人間関係で苦労したことがない、という人がいたら余程おめでたい人なのか、嘘を言っています。そういう人の言葉は信用しない方がいいでしょう。どれだけ運がいい人であっても、いろんな環境に身を置くにつれて、どうしようもない人と出会うことになります。

 本サイトで繰り返し主張しているように、そもそもすべての人から好かれようと思ってはいけません。まあ、思うのは自由ですが、そんなことをすれば薄っぺらい八方美人になり下がるだけで、真の友人には恵まれません。だから、これも繰り返し述べているように、つまらない承認欲求はさっさと捨て去るべきなのです。そんなものは捨ててしまって、自分の周りのかけがえのない人たちを、自分自身に対してと同じように大切にすればいいわけです。

 では、そのようなかけがえのない人たちを大切にするには何をすればいいのでしょうか。これも過去に述べたように重要なのは「誠実」と「謙虚」ですが、今回は別のことを話したいと思います。それは「感謝」です。

 そして、「感謝」の力が偉大なのは周囲の大切な人をより大切にできるからだけではありません。それほど距離が近くない人たちをも幸せにすることができるのです。さらに「感謝」した自分自身もまた幸せになれます。

 私の個人的なエピソードを紹介しましょう。

 医学部の学生だった頃、アルバイトの関係である同年代の男性と喫茶店で話をする機会がありました。彼が何を注文したのかは覚えていないのですが、ウエイトレスがドリンクをテーブルに置いたときに、男性はそのウエイトレスの方を向いて「ありがとう」と笑顔で答えたのです。たったこれだけの話です。ですが、これだけなのですが、その光景を見ていた私はなぜか幸せな気持ちになり、その気持ちはその日喫茶店を出てその男性と別れてからも続いていたのです。

 もうひとつ例を紹介しましょう。これも私が医学部の学生の頃の話です。ある日のこと、自宅近くのコンビニでレジが混雑していました。混雑の原因はアジアからやってきたと思われる若い男性のアルバイトがもたもたして要領を得ていなかったからです。おまけに日本語もたどたどしくて、早く買い物を済ませたい客は明らかに苛立っていました。

 イライラして急いでいるという態度をみせつけていた横柄な男性が店を出て行った後、私のひとつ前に並んでいた若い女性が商品のペットボトルをレジに置きました。そして、アジア人の店員がおつりと商品を女性に渡すと、彼女は丁寧に受取り「ありがとう」と言ったのです。私は彼女の表情を見ていませんが、それまでぎこちなかった店員から笑みが漏れましたから、きっと他者を幸せにするような素敵な笑顔でお礼を言ったのでしょう。

 何気ないコンビニの一シーンかもしれませんが、それから20年以上経った今も、私の記憶のなかにはそのときの光景がはっきりと残っています。その見知らぬ女性とはその後再会することもありませんでしたが、私が抱いた彼女に対するイメージがひまわりだったことから、勝手に「ひまわり娘」と名付けて、私の頭のなかでは今も笑顔を絶やしません。当時の私が見たのは後ろ姿と横顔だけなのですが。

 この2つのエピソード以外にも誰かが誰かに感謝するシーンで心が温かくなったことが何度もあります。もちろん、自分自身が他人から感謝の言葉を述べられてもうれしく感じます。ただ、私には「医師は患者さんから感謝の言葉を期待してはいけない」という持論があり、いつの間にか私生活も含めて「感謝の言葉をもらうべきでない」というおかしな感覚が身に付いてしまっています(下記コラム参照)。

 その反対に、私自身が他者に対して感謝の言葉を伝えたいと思うことはよくあります。そして、可能な範囲でそうしているのですが、これがなかなかむつかしいのです。例えば上記1つ目のエピソードの男性の真似をして、喫茶店やレストランでウエイトレスやウエイターに「ありがとうございます」と言うように心がけているのですが、その男性のようなさわやかさがまったくない私が真似をするとなんだかぎこちなくなってしまうのです。

 そのうちに「他人に感謝することは大切だけれど簡単ではない」ことが分ってきました。だからいつも、どうやって感謝の言葉を伝えるか、どのような言葉を使ってどのタイミングでどのように言うかを考えるようにしています。そして、それがうまく伝わったとき、とりわけ、日頃は恥ずかしくてそういったことを言いにくい近い関係の人に上手に気持ちを伝えられたときはとても幸せな気持ちになります。

 ここで興味深い論文を紹介しましょう。科学誌「scientific reports」2022年7月9日号に掲載された論文「パートナーに感謝の気持ちを意識的に表明すれば、一緒にいる時間が増え、CD38の変動の影響を緩和する(Implementation intentions to express gratitude increase daily time co-present with an intimate partner, and moderate effects of variation in CD38)」です。

 研究の対象は125組のカップルです。カップルを2つのグループに分け、1つのグループには2人のうちどちらかに「パートナーに感謝を感じたときにはその気持ちをはっきりと表現する」ように指示しました。このとき、その感謝を表現する者はパートナー(感謝を表現される方)に実験の趣旨を伝えないようにしました。

 すると、対象カップルと比較して、どちらかが感謝を意識的に伝えたカップルの方は、一緒に過ごす時間が1日あたり68分も増えたのです。

 感謝したときにそれを言葉にするだけでパートナーと一緒に過ごす時間が68分も増えるのです。「感謝」の効果は凄まじいと言っていいのではないでしょうか。せっかく人間はこんなに素晴らしい感謝の言葉を生み出したのにもかかわらず、使わないのはもったいなさすぎます。

 ここからは論文に書いていない私の個人的意見です。実験では被験者に対して「感謝を”感じれば”言葉で伝えるように」と指示されていました。被験者はこのミッションを聞いて「感謝できるタイミングに注意しよう」と思ったはずです。つまり、少しでも感謝できることがないかを常に考えていたはずです。その結果、パートナーと一緒に過ごす時間が増えて平和で幸せな時間を過ごせたわけです。

 これを応用しない手はありません。つまり、すべての人間関係において、感謝の気持ちが芽生える瞬間を感知するセンサーの感度を上げておくのです。上述したように、感謝の言葉を述べるのはときに気恥ずかしくて照れ臭くて、タイミングを外せば場が白けてしまうというリスクもあります。ですが、この「感謝センサー」の感度を上げておくことで、人生が充実したものになることを私は確信しているのです。

参考:日経メディカル 谷口恭の「梅田のGPがどうしても伝えたいこと」2019年4月5日
「医師は感謝を期待してはいけない」

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

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