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2026年4月16日 木曜日

第272回(2026年4月) 「ホルモン補充療法(HRT)は安全」が世界の見解に

 ガイドラインやその他治療指針などで推奨されている治療で、なおかつ院長の私が研修を受けている疾患であれば、谷口医院では原則として「実施する」が基本方針なのですが、ほとんど唯一の例外が「ホルモン補充療法」(=Hormone Replacement Treatment、以下「HRT」)でした。「でした」と過去形なのは、2010年代から少しずつ開始し、2020年代に入る頃にはかなり積極的に実施しているからです。ただ、当院が開院した2007年からおよそ3年間は、患者さんが強く希望してもお断りするか、他院を紹介していました。

 その理由は、2007年のコラム「ホルモン補充療法の危険性」に書いたとおりです。2007年4月に2つの衝撃的な論文が発表されました。1つは「New England Journal of Medicine」の「米国では乳癌の発生率が近年急激に減少しているのはHRTがおこなわれなくなったから」という論文、もう1つは「Lancet」に掲載された「HRTを実施した女性は、していない女性に比べ卵巣がんで死亡するリスクが2割高い」とする論文です。

 論文だけではありません。そのコラムで述べたように、これまで大変お世話になった、私が師と呼ぶ先輩である米国の女性医師が、HRTが原因で自らが乳がんに罹患し、それ以降すべての患者に「HRTはやってはいけない」と助言していたからです。この話を聞いたのは私が医師になってまだ3年目の頃で、「この先生が絶対反対する治療なんだから自分もやるべきではない」と誓ったのです。

 さらに、当時の世界的潮流も「HRTは避けるべき」というものでした。その流れに大きな影響を与えたのが、2002年に JAMA に掲載された論文です。HRTの安全性を検証する目的で開始された「Women’s Health Initiative (WHI)」試験は、本来約9年の追跡を予定していましたが、平均5.2年で中止されました。心血管疾患および乳がんのリスク上昇が明らかとなり、これ以上継続できないと判断されたためです。

 しかし、前医から当院に転院してくる患者さんの中には、すでにHRTを開始しているケースが少なくなく、その評価が非常に高いのです。「メンタルが安定する」「肌がきれいになる」「髪が増えた」など実感しやすい効果があり、さらにLDLコレステロールの低下や骨密度の上昇も期待できます。まるで“魔法の薬”のように感じる人もいます。乳がんのリスクについても「日本人ではそれほど上がらない」という報告があり、リスクを理解し定期的に検診を受けるのであれば、過度に恐れる必要はないのかもしれないと考えるようになっていきました。
 
 最初に処方したのは、「前医と同じ薬を処方してほしい」と希望した患者さんでした。その後、更年期障害に悩む女性に対し「選択肢の1つ」として話をするようになり、そしてあるとき、ついに「更年期障害の治療で最も推薦する治療法」としてHRTを紹介し始めました。

 同時に「前医でHRTを受けているが安全か」という相談も増えました。意外なことに「安全ではない」ケースが時折見られました。最も驚いたのは、(子宮を摘出していないのに)卵胞ホルモンのみが処方され、黄体ホルモンが併用されていないケースです。これは子宮内膜増殖のリスクを高め、危険な状態になり得ます。子宮がある場合は原則として黄体ホルモンの併用が必要であり、定期的な経腟超音波検査も欠かせません。こうした「適切でない更年期治療」が目立つようになり(男性に対する更年期障害の治療も)、警鐘を鳴らす目的で書いたのが2023年のコラム「間違いだらけの男女の更年期障害のホルモン治療」です。

 今回は「(女性の)HRTの安全性が世界的にほぼ確立された」という話をしたいと思います。
 
 第二次トランプ政権の発足後、ケネディ保健長官は、新型コロナワクチンへの慎重姿勢、定期ワクチン接種の見直し、食事療法に関する方針転換、妊娠中のアセトアミノフェン使用への注意喚起など、さまざまな政策を打ち出し、医療関係者の間で議論を呼んでいます。一方で、あまり大きく報じられていませんが、政権はHRTの積極的な導入を支持しており、この方針は多くの女性から支持されています。マーティ・マカリ医師が長官を務めるFDAは、ホルモン剤の添付文書の見直し方針を示し、2026年2月12日にはHRTの安全性を強調するページを公表しました。

 具体的には、心血管疾患、乳がん、認知症に関するリスク記述が、FDAが定める最重要警告「boxed warning」から削除されました(安全性評価が改善したことを意味します)。さらに、無作為化比較試験(エビデンスレベルの高い試験)で、更年期開始後10年以内(かつ60歳未満)にHRTを開始した女性は全死亡率と骨折リスクが低下していたことが示されています。

 HRTの安全性を強調しているのはFDAだけではありません。医療ガイドラインを集約した世界最大級の臨床ガイドラインデータベース「GuidelineCentral」もHRTの有効性と安全性を高く評価しています。ページ冒頭には「HRTは更年期障害に対する最も効果的な治療法であり、骨量減少や骨折の予防にも効果がある」と明記されています。

 英国では米国とはまた違った「動き」が見られます。興味深いことに、英国で更年期医療の分野でもっとも有名な医師は婦人科専門医ではなく、女性GP(総合診療医)の Louise Newson 医師です。Newson医師が注目される理由は、一言で言えば「やり過ぎ」と批判されることが多いためです。危険なほど高用量のHRTを処方したとして、BBCのドキュメンタリー番組「パノラマ」で取り上げられ、これを受けてか、「British Menopause Society」(BMS=英国更年期学会)から認定資格を剥奪されました。

 しかし、Newson医師のクリニックで治療を受けた女性からの評価はすこぶる高く、英国の医療規制当局「Care Quality Commission」は、2026年2月、同クリニックを「outstanding(卓越した)」と最高評価で報告し、「女性のニーズに合ったケアを提供している」と結論付けました。尚、Newson医師は、批判されている「高用量のHRT」に対し、「本当に必要な場合にしか処方していない」とコメントしています。

 現在、世界的にHRT導入のムーブメントが強まっています。米国では半年ほど前から品薄が社会問題となり、日本でも供給量が減少しています。当院でも、人気の貼付薬「メノエイドコンビパッチ」が入荷しなくなり、その影響で内服薬「ウェールナラ」も入手困難となり、最近まで新規処方を見合わせなければならない状態が続いていました。

 今後も需要は増え続けると私は予測しています。最後に、HRTは本当に安全と言えるかどうかをみておきましょう。前半で述べたように、2002年には臨床試験の「Women’s Health Initiative」で「HRTの危険性は明白」とされていました。四半世紀を経て、それが誤解だったと言えるのでしょうか。実際には、HRTのリスクを指摘する研究もそれなりにあり、一方ではリスクは高くないとする研究も少なくありません。結論としては「個別に検討する」というつまらないものになるのですが、ひとつ言えるのは「60歳未満で閉経後10年以内であれば、HRTを検討する価値はじゅうぶんにある」ということです。

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2026年4月9日 木曜日

2026年4月 人類はもうすぐ確実に滅ぶのだから ~その2~

 マンスリーレポート2022年11月号「人類はもうすぐ確実に滅ぶのだから」で、私は、IPCC(Intergovernmental Panel on Climate Change=気候変動に関する政府間パネル)の勧告や、歴史学者ピーター・フランコパンの予測などを引き合いに出し、地球がいずれ滅びるのは間違いないことを指摘し、だからこそ、「戦争をしたり、マスクの是非で言い合いをしたり、SNSでつまらない罵り合いをしたり、といったことに時間を費やしている暇はない」と述べました。

 当時は新型コロナウイルス(以下「コロナ」)に伴う「マスク論争」が盛んで、賛成派、反対派が互いに相手を罵り合っていました。あれから3年以上が経ち、コロナは事実上「収束」し、マスクで人間どうしが醜い争いをするようなことはほぼなくなりました。では、人類は互いに手を取り合って仲良くしているのかというと、残念ながらその正反対に向かっています。

 2022年2月24日にロシアが一方的にウクライナに侵攻して始まった戦争は今も終結の見通しが立ちません。ロシアが侵攻した2022年の時点で考えれば、いきなり戦争をしかけたロシアが悪いわけですが、視点を変えれば一方的にロシアに非があるとは言えません。2013年のユーロマイダン革命は「革命」とされていますが、親ロシアのヤヌコーヴィチ大統領を失脚させたクーデターに他ならず、それを指揮していたのは米国だったという話もあり、ロシア・ウクライナ戦争はどちらが悪いか、という問いに対する答えは簡単には出せません。

 ロシア・ウクライナ戦争勃発から4年が経過した2026年2月28日、今度は米国がイランに空爆を仕掛け戦争が始まりました。イランとしては米国と協力関係にある中東諸国を部分的にでも攻撃せざるを得ず、戦火が他国に広がりました。

 特に、ドバイは甚大な被害を受け、裕福な外国人の移住で成り立っていた「砂漠の楽園」は事実上消滅しました。日本のメディアはドバイ当局に忖度しているのか控えめな報道しかしていませんが、たとえば英紙「Daile Mail」は「ドバイは終わった(Dubai is finished)」というタイトルで、外国人からドバイが見捨てられた現実を報じました。

 ドバイ国際空港が被害を受け、ラグジュアリーホテルとして有名なフェアモントホテルも炎上しました。ドバイ当局は「空に響く大きな爆発音はUAEの防空システムが作動している証拠であり、我々の安全が守られている証拠だ」と苦し紛れの広報を出しましたが、高級ホテルが燃えているのを目の当たりにした外国人がこんな言葉を信じられるはずがありません。紛争勃発から数週間で数万人の住民と観光客が次々とドバイを離れ、「二度と戻らない」と宣言しています。スタンダードチャータード銀行やシティバンクなどの欧米系銀行の従業員は、イラン政府から次の爆撃目標とされるという脅迫を受け、すでにオフィスから退避しています。もはやドバイがつい最近までの栄光を取り戻すことはないでしょう。

 尚、イランのペゼシュキアン大統領は、イランが湾岸諸国をミサイル攻撃の標的としたことに対して謝罪しています。

 最も被害の大きい地域はもちろんイラン国内で、特に南部ミーナーブ(Minab)の女子小学校が爆破され175人が犠牲になった事件は胸が張り裂けるような痛ましい出来事でした。トランプ米大統領は、「イランの兵器は命中精度が低いからイランの仕業だ」と述べましたが、そんなはずがありません。実際、The New York Timesは「標的の誤りにより、この学校は米国のトマホークミサイルの攻撃を受けた」と報じています。

 これから米国とイランが仲直りして首脳同士が心から歩み寄ることなどあり得ませんし、ドバイが栄光を取り戻すこともないでしょう。仮に米国がこの戦争に勝利したとしてもイラン国民を掌握することは不可能です。軍隊を地上に投入すれば、イラクやアフガニスタンで繰り広げた泥沼の二の舞になるでしょう。つまりイランと米国(及びイスラエル)にはハッピーエンドの解決はないのです。

 では日本は何をしているのか。中東在住の邦人保護には取り組んだものの、ドバイを含め中東諸国を守るような行動はなにひとつしていませんし、大勢の小学生が犠牲になった事件に対しても何もしていません(少なくとも報道されていません)。ちなみに、中国政府はイランの人道支援組織「Red Crescent Society」に20万ドルを寄付しました。

 本稿執筆時点の4月9日現在、今後のホルムズ海峡の行方は分かりませんが、当分の間、原油入手困難な状況が続くでしょう。輸入に頼っているアジア諸国は国を挙げて節約の方向に舵を切っています。韓国では曜日ごとに公用車の使用を制限、スリランカでは1週間の給油量に上限を設けました。インドネシアでは公務員は毎週金曜日は在宅勤務とされ、フィリピンでは一部政府機関が週4日勤務となりました。翻って我が国がとった政策は、なんと「石油元売り会社への補助金」です。

 今は国民が一丸となって節約に努め、そして国を超えて助け合わねばならないときです。日本は石油の輸入依存度が高いのは事実ですが、備蓄量がそれなりにあります。高市内閣はそれを自慢するかのように「我が国では年内は石油が不足することはない」などとアピールしているようですが、本来すべきは備蓄量が少なく困窮している国に対しその備蓄を供与することではないでしょうか。例えば、フィリピンやベトナムは備蓄量が極めてわずかしかないと言われています。こんなときに支援しなくてどうするのでしょう。

 今、日本政府がすべきなのは石油の補助金をばらまくことではなく、国民に節約を呼びかけることです。すでに報道されているように、石油からつくられる商品が枯渇する可能性があり、特に影響を受けやすいのは医療業界です。医療用グローブや、注射器、点滴バッグなどは石油が枯渇すれば供給が止まります。たとえば透析を受けている人にとって、これらの供給不足は命を失うことを意味します。

 2020年にコロナが登場したとき、反対意見はありましたが、政府は外出を控えるよう呼びかけ、飲食店の営業を禁じました。あのときできたことをもう一度やればいいわけです。夏の冷房費を削るわけにはいきません。しかし、外食や遊行など節約できることはたくさんあります。なぜ政府はそれを言わずに、その逆に石油に補助金をばらまくのか。お金を使うべきは、飲食店など自粛を要請すべき業界に対してです。では、なぜ総理大臣はそれをしないのか。今の人気を維持したいからでしょう。

 ところで、米国はなぜイランに侵攻したのでしょう。たしかにイランの核兵器疑惑には不透明な部分がありましたが、IAEA(国際原子力機関)との対話は続けていました。2025年に一時中断されたのは、イランのせいではなくイスラエルと米国が戦争(いわゆる「12日間戦争」)を仕掛けたからです。今回の侵攻に対して、トランプ大統領は「イランの核兵器の脅威を防ぐために必要な戦争だ」と言っているそうですが、IAEAのグロッシ事務局長は、「イランが核兵器を製造している証拠はない」と正式に述べています。

 では、なぜ米国はこのタイミングで戦争を仕掛けたのか。イスラエルがトランプ大統領を焚きつけた、というのが一般の見方だと思います。特に、ユダヤ教徒である、大統領の娘婿Jared Kushner氏が大統領にけしかけた、とする説が有力視されています。

 それもあると思いますが、私はもうひとつトランプ大統領を戦争に向かわせた理由があると思っています。そして、実はこちらの方が強いインセンティブになったのではないかと疑っています。それは「自身のエプスタイン疑惑から世間の目を逸らそうとする目的」です。「エプスタイン関連文書にトランプ氏が未成年者を性的虐待したという主張が含まれている」と英紙The Guardianなどが報道したのが2月26日、米国がイランに爆撃を開始したのはその2日後です。これが単なる偶然だとは思えません。実際、戦争が開始されてから、トランプ氏のエプスタイン疑惑の報道は氏の思惑通りほぼなくなりました……。

 大国の大統領が自らの恥ずかしい過去から世間の目を背けるために戦争を起こし、まあまあ大きな国の総理大臣が近隣の国々の窮状には見向きもせずに自らの人気維持のために補助金をばらまく……。これが人間の真実の姿なのだとすれば、そのうち全滅するのも時間の問題では?

 

 

 

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2026年3月26日 木曜日

2026年3月26日 枕をやめて眼圧を下げて緑内障を予防

 50歳を超えると一気にリスクが上がる緑内障は日本では失明の原因第1位です。40代から発症することがあり、50代で人口の3~5%、60代で5~10%、70歳以上では10~20%が発症します。治療を受けずに放置すれば次第に視野が欠損し、ついには失明にいたります。

 リスクは近視、糖尿病、喫煙、ステロイド使用(特にアトピー性皮膚炎)などで、予防にはこれらへの対策や治療が有効です。しかし最近、もっと簡単に予防する方法があることが報告されました。「枕を使わない」です。

 医学誌「British Journal of Ophthalmology」2026年1月27日号に掲載された論文「緑内障患者における高い枕使用時の睡眠姿勢と眼圧との関連(Association of high-pillow sleeping posture with intraocular pressure in patients with glaucoma)」を紹介します。

 研究の対象は緑内障の患者144人です。枕を2つ重ねて頭部を20~35°挙上した姿勢と枕を使わない姿勢(仰臥位)でそれぞれの眼圧を測定しました。また、健常ボランティア20人を対象に、超音波検査を用いて体位変化に伴う頸静脈内腔の変化が評価されました。

 結果、仰臥位と比較すると、高い枕を使用した姿勢では眼圧が有意に上昇していました。また、健常ボランティアを対象とした超音波検査では、枕を高くした姿勢では、内頸静脈および外頸静脈の内腔が有意に狭窄し(これはよくないことです)、内頸静脈の最大血流速度が上昇することが示されました(これもよくないことです)。

 

上記論文に掲載されたグラフ:眼圧は日中活動しているときは低く、夜間就寝時に上昇する。黄色が高い枕を使ったときで、枕なし(青色)よりも眼圧が上昇していることがわかる

 

 これらから言えることをまとめてみましょう。まず、枕を重ねると首の位置が変わり、その結果、頸静脈が圧迫されます。そして、この圧迫により、眼球内の液体である房水の自然な排出が妨げられます。

 また、枕を高くすることにより、眼灌流圧(ocular perfusion pressure=OPP)が有意に低下することも分かりました。眼灌流圧とは、眼球内の微細血管に血液を送り出すための圧力のことを差します。直接眼圧に関係するわけではありませんが、眼灌流圧の低下は緑内障のリスクとなることが知られています。

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 枕は高い方がぐっすり眠れるという人もいますが、高すぎる枕は頸椎に負担がかかりますから、枕なしでは眠れないと言う人も高くし過ぎない方がいいでしょう。

 それから、よくある質問に「オーダーメイドの枕はどうですか」というものがあります。これについてはどの程度の効果があるのかよく分かりませんが、この論文が示した「高い枕は頚静脈を圧迫し、緑内障のリスクが上昇する」という点については、どのような枕を使用する際にも知っておくべきでしょう。

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2026年3月19日 木曜日

第271回(2026年3月) 入浴と室温の工夫で不眠を克服

 不眠については本サイトで度々取り上げ、過去にも述べたように、当院では「睡眠薬の処方」よりもむしろ「睡眠薬をやめること」を目的に受診する人が増えています。彼(女)らのなかにはいわゆるドクターショッピングを繰り返している人も多く、東京を含めた遠方からオンライン診療で「睡眠薬を断ち切りたい」と訴えるケースも少なくありません。

 このような治療を20年間続けてきて確実に言えるのは、「眠れない」よりも「睡眠薬依存症から抜けられない」の方がはるかに苦しいということです。本人には依存症だという自覚がない場合も不幸な事故が起こり得ます。2023年のコラム「睡眠薬の恐怖」で紹介した「意識のないまま5歳のわが子を殺めた40代の女性」がその典型です。この女性が飲んでいたマイスリー(ゾルビデム)は、当院の経験でいえば、記憶が消えることが非常に多いのですが、非常に興味深いことに「前のクリニックでは一番軽い睡眠薬と言われた」と信じられないことを言う患者さんがいます。1人だけならその患者さんの勘違いかもしれませんが、複数の人が同じ証言をするということは、実際にそのように伝えて気軽に処方している医師がいるのでしょう。

 東京在住のある患者さんの情報によると、彼女の住む地域ではクリニックが複数あって睡眠薬の入手にはまったく困らないそうです。なかにはきちんとした問診もなく、希望する睡眠薬は何でもすぐに出してもらえるとのこと。彼女はそのせいでベンゾジアゼピン依存症になってしまったのですが、不思議なことに、そういうクリニックは睡眠薬をすぐに処方するものの、睡眠薬依存症の治療は一切おこなっておらず、ひどい医師になると「一生飲み続けても問題ない」と断言するとか。

 谷口医院もいつのまにか開院してもうすぐ20年が経過します。総合診療を実践していますから患者さんの訴えは実に様々です。そして、最も治療に難渋する疾患のひとつが「睡眠薬依存症」です。

睡眠薬依存症に陥らないために最も重要なこと、それは「依存性のある睡眠薬には初めから手を出さない」につきます。では、いくら不眠に苦しんでいても絶対に飲んではいけないのかというとそこまでは言えないのですが、薬の特徴とリスクを理解した上で上手に付き合っていく必要があります。このあたりは最近「毎日メディカル」に「不眠でも睡眠薬には手を出さないで! 依存と副作用避けるために」というタイトルのコラムを書きましたからそちらを参照してもらえればと思います。

 さて、今回お伝えするのは、「ちょっとした入浴と室温の工夫で不眠を克服する方法」です。そんなことで眠れるなら誰も苦労しない、と思う人もいるでしょうが、これらの方法、意外に効果は高く、きちんとしたエビデンスもあります。

 まずは入浴から。以前、不眠で悩むある患者さんから「少しでも寝たいから早くベッドに入るようにしている。風呂もさっとシャワーで済ませる」という話を聞いたことがあります。それで寝つきがいいのかと聞くと、まったくそんなことはなくて眠れないのが辛いと言います。睡眠の基本は「眠くなるまでベッドに入らない」です。「早くベッドに入る」はむしろすべきでないのです。

 重要なのは「湯舟につかること」です。特に冬場に言えることですが、夏も入浴する方がよく眠れます。このときに重要なのは「時間」と「温度」です。

 非常に興味深い日本の論文を紹介しましょう。医学誌「Journal of Physiological Anthropology」2023年5月号に掲載された「入浴による体温変化が睡眠に及ぼす影響(Effects of bathing-induced changes in body temperature on sleep)」です。

 研究の対象者は「シャワー群」「短時間入浴群」「長時間入浴群」の3つに分けられています。「短時間入浴群」は5.2分、「長時間入浴群」は16.1分、湯舟につかりました。3つの群のそれぞれのシャワーや湯舟の温度は40度に設定されました。シャワーまたは湯舟につかった後に、各自が寝床につきました。

 驚くほどきれいな結果が出ています。下記の図をみればあきらかでしょう。「長時間入浴群」は「寝つき(falling asleep)」も「睡眠の質(sleep quality)」も有意差をもって他の2つのグループとは大きくかけ離れて優れていることが一目で分かります。

 この論文から言えることは「入浴は長めに。5分ではなく15分くらい」です。ここまでくると、では30分なら?、60分なら?と考えたくなりますが、それはデータがないので、まず15分での寝心地を確認した上で、少しずつ伸ばしていくのがいいでしょう。当院の患者さんのなかには「30分くらい入浴するとぐっすり眠れる」という人もいます。なかには「風呂のなかで寝てしまう」という人もいて驚かされます。

 次に知りたくなるのは「温度」です。この研究では実験の条件が40度で統一されていましたが、では、例えば38度と42度では睡眠に差が出るのでしょうか。

 これを調べた研究が2つ見つかりました。いずれも同じ学者によるもので、ひとつは、1996年に医学誌「Journal of Geriatric Psychiatry and Neurology」に掲載された「高齢女性不眠症患者の睡眠に対する受動的な体温調節の効果(Effects of passive body heating on the sleep of older female insomniacs )」。もう1つは、1999年に医学誌「Sleep」に掲載された「高齢女性不眠症患者における受動的な体温調節前後の深部体温と睡眠(Core body temperature and sleep of older female insomniacs before and after passive body heating )」です。

 いずれの研究も対象は不眠症に悩む高齢女性で、就寝1.5時間前に熱いお風呂(40~40.5℃)に入ると、ぬるめのお風呂(37.5~38.5℃)のときよりも、睡眠の継続性が有意に改善し、徐波(slow wave sleep)が増加していました。徐波(デルタ波とも言います)とは深い睡眠中に現れる脳波のことで、いわゆる「ノンレム睡眠(NREM)」の中でも最も深いレベルの睡眠時に出現します。徐波がじゅうぶんな時間出現すると、深い睡眠が得られ、身体の疲労回復が効率よくおこなわれ、成長ホルモンの分泌が活性化し、記憶の定着に役立ちます。

 最近はAppleWatch、Fitbit、Ouraringなどのwearable deviceを用いればどの時間にどのくらい徐波が出現したかが分かります。どこまで正確か、という問題がありますが、私自身がAppleWatchとOuraringを同時に装着して実験してみたところ、睡眠スコア自体には差が出ましたが(Apple Watchの方が高くでました)、徐波についての記録はほとんど一致していましたからそれなりには参考になると思います。

 では入浴後はどうすればいいのでしょう。やはり眠くなるまで待つべきでしょうか。これは私見ですが、適切な入浴をしたのなら眠くなるまで待つ必要はなく、そのままベッドに入ってもいいと思います。ただし、寝室の環境には条件があります。当然ですが、静かで暗くなくてはなりません。「幹線道路沿いのマンションから、奥まったところに引っ越してよく眠れるようになった」という当院の患者さんが複数います。当然といえば当然ですが静かな環境の方がよく眠れます。また明々とした光のもとでは寝にくいのは当然でしょう。真っ暗がいいかどうかは意見が分かれるでしょうが、燦燦とした光のもとでは眠りにくいことに異議を唱える人はいないでしょう。

 大切なのは「室温」です。結論からいえば室温はちょっと寒いくらいが理想です。なぜなら、生理学的にみて、深夜に向けて中核体温は自然に約0.5~1.0度下がり、その下がり始めに、末梢(手足)の血管が拡張し「熱放散」が起こり、これが眠気を促すからです。寝室の温度が涼しければこの「熱放散」がスムーズになります。

 何度くらいがいいかについては意見が分かれるのですが、The Sunday Timesは「良質な睡眠には涼しい部屋が重要で、体温が約1℃下がると眠気が誘発される。16~18℃が望ましい。ただし、ベッドは暖かくする必要があり、冬は15togの羽毛布団を使うのが賢明」と述べています。

 米国オハイオ州クリーブランドに本部を置くクリーブランドクリニック(Cleveland Clinic)という医療機関があります。この施設、「クリニック」と付きますが、実際は世界中から患者が集まる心臓医療でも有名な非営利の医療施設です。クリーブランドクリニックのウェブサイトに「睡眠時の適度な室温」があって、「目安として室温は15~19度が望ましく、涼しく、暗く、静かな環境が必要。21度以上の室温は不適切」とされています。

 夏に眠れないという人がいれば是非室温を見直してみてください。おそらく21度を超えているのではないでしょうか。「熱い湯舟にじゅうぶんな時間つかった後、涼しい部屋でぐっすり睡眠」、早速今日からでも実践してみてください。

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2026年3月8日 日曜日

2026年3月 不幸せなお金の使い方

 前回に引き続き今回も「幸せ」の話をしましょう。本サイトでは度々「幸せ」を取り上げていて、このテーマでコラムを書くと、それなりに感想メールが増えます。これまで述べてきたことを簡単にまとめてみたいと思います。

・2017年のコラム「なぜ『幸せ』はこんなにも分かりにくいのか」で取り上げた「タイの農夫と日本のビジネスマン」の逸話が幸せの本質をついている

・しかし、2023年のコラム「『幸せはお金で買える』という衝撃の結末」で紹介したように、「幸せはお金で買える」という説が現在世界の通説となっている

・2023年のコラム「幸せになりたければ自尊心を捨てればよい」で紹介したように「幸せ度は年齢でかわる。世界では「最も不幸せな年齢は48.3歳でそれ以降は幸せに向かっていく」とされているが、「日本人は例外的に年をとればとるほど不幸になる」ことを内閣府が発表している

・2024年のコラム「自分が幸せかどうか気にすれば不幸になる」で述べたように、自身が幸せかどうかを気にし過ぎると幸せになれない

 今回は再び「お金」を取り上げたいと思います。上述のコラムで述べたように、この話には「歴史」があります。その歴史を振り返っておきましょう。

・ノーベル経済学賞受賞者のダニエル・カーネマンは科学誌2010年の「PNAS」に論文「高収入で人生の評価が改善しても感情的な幸福は改善しない(High income improves evaluation of life but not emotional well-being)」を発表。年収が75,000ドルを超えると、それ以上収入が増えても「感情的な幸福」が変わらないとした

・2021年、マシュー・キリングスワースが「PNAS」に論文「年収75,000ドルを超えたとしても幸せは収入に連れて上昇する (Experienced well-being rises with income, even above $75,000 per year)」を発表し、カーネマンの主張を否定し、幸せの年収の”上限”はないとした

・2023年、カーネマンとキリングワースの”対決”に決着がついた。二人が共同で「PNAS」に論文「収入と精神的幸福: 対立が解決(Income and emotional well-being: A conflict resolved)」を発表。カーネマンは自身の「75,000ドル説」を取り下げ、幸せを感じる年収に上限がないことを認めた

 私自身は彼らの主張を正しいとは思えず、実際、金銭を目的に行動を決めたことは(少なくとも医師になってからは)一度もなく、これからもカネを求めた行為をとるとは思えません。過去のコラム「故・ムカヒ元大統領の名言から考える『人は何のために生きるのか』」で述べたように、「カネで買えないものを追求する」が私のポリシーです。そのときにも言及したように、私には「カネを求める人生はものすごく格好悪い」と感じられるのです。

 しかしながら、カネがまったくなければ生きていけませんし、「幸せになるお金の使い方」があることも知っています。

 例えば、お世話になった人にプレゼントを贈るためには少しくらいのお金は必要です。気の置けない仲間と食事を楽しんだり、一緒に旅行に行ったりするときにもお金が要ります。私が宿に求めるのはホットシャワーと窓くらいなのですが、旅行を共にするメンバーによっては私だけがそのようなところに泊まることを快く思いませんから、そういうときにはお金を使います。私は(正直に言うと)高級料理よりもジャンクフードが好きなのですが、例えば初めて共に食事をする人にそのようなところに行こうとは言えません。よって、家族や友人、知人と楽しく過ごすにはそれなりのお金が必要なのは間違いありません。

 では、その逆に「無駄なお金の使い方」とはどのようなものでしょうか。ギャンブルと答える人がいるかもしれませんが、私はそうは思いません。私自身はギャンブルをしませんが、ギャンブルに大金をつぎ込んで非日常の感動を覚えるという使い方は、私自身は否定しません。いつかどこかで述べたような気がしますが、ホストに大金をつぎ込むとか、ブランド物の服を借金して買いまくる、といった行動も人間らしくて素敵だと思います。

 しかしながら、例えば「他人に自慢したいから高級品を買う」とか「同僚が3000万円の家を買ったから自分はなんとしても3500万円の家を手に入れる」とか、あるいは「出世したいから教授にお金を包む」とか、もっと極端な例を出せば「違法な賄賂」などはすごくバカらしいものに感じられます。

 こういう私の考え、というか感性に対し、「バカじゃないの? お金をどのように使おうが人の勝手でしょ。なんであんたにごちゃごちゃ言われなきゃならないの?」と感じる人もいるでしょう。たしかに、自分のお金をどのように使おうが、その人の勝手です(他人を陥れるような行為でなければ)。しかし「幸せになるお金の使い方」となれば、それが余計なお世話だとは分かっていても、ちょっと口出ししてみたくなるのです。そして、私が考えることと同じことを考える学者がいるようで、興味深い論文があります。

 2014年に科学誌「Journal of Personality and Social Psychology」に掲載された「物質主義と個人の幸福感の関係:メタ分析(The Relationship Between Materialism and Personal Well-Being: A Meta-Analysis)」です。

 この論文は小規模なものでなく、これまでに発表された259の研究を総合的に分析(メタ解析)したもので、それなりにエビデンスレベルは高いと言えます。この研究結果は「物質至上主義(Materialism)の人は、人生の満足度が低く、また自己評価も低く、身体及び精神の健康状態も良くない」ことを示しています。さらに、物質至上主義は抑うつ感や不安感をもたらすとも結論づけています。

 興味深いことに、この論文では、どのようなお金の使い方が「主観的な幸せ(subjective well-being=SWB)を妨げるか」、つまり「不幸せなお金の使い方」を4つに分類しています。その4つは次の通りです。

#1 to overcome self-doubt(=自己不信の克服):自己不信を克服するためのカネ(例:自分にやましいところがあるから、高級な衣服をまとってごまかす)

#2 to seek power over others(=権力の追求):他者よりも上の立場に立つためのカネ(例:賄賂を使って選挙に勝とうとする)

#3 to engage in social comparison(=他人との比較):他者よりもよく見られるためのカネ(例:同級生の〇〇さんよりもきれいに見られたいからという理由で美容外科手術を受ける)

#4 to show off(=誇示):目立つためのカネ(例:別に興味があるわけではないのに、高級レストレンに行って写真を撮りSNSで公開する)

 「例」は私が考えたものです。このように「不幸せなお金の使い方」が4つに分けられていますが、これらは結局「根」は同じようなものだと思います。

 ではこれら4つの視点からみた私が考える「幸せなお金の使い方」を紹介しましょう。

#1 大切なパートナーと晴れの場に参加するために二人で高級な衣服を買う
#2 他人に理解されることを求めない趣味にお金を使う
#3 コンプレックスだった顔面のほくろを除去するために美容外科の施術を受ける
#4 大切なひととちょっと贅沢な食事や旅行にお金を使う。写真は撮るがSNSには上げない

 「自分のカネをどのように使おうが他人からごちゃごちゃ言われる筋合いはない」、はまったくその通りではありますが、お金はあればあるほど幸せと考えている人は、一度上記4つの「不幸せなお金の使い方」をしていないかどうかを省みてもいいのではないでしょうか。

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2026年3月8日 日曜日

2026年3月8日 数週間の脳トレーニングで認知症発症リスクが25%減少!?

 2月15日の医療ニュース「レッドライトセラピーで慢性外傷性脳症が防げる!?」で、信じられないような慢性外傷性脳症の予防法の話をしました。今回紹介する話も俄かには信じ難い報告です。なんと、わずか数週間の簡単な脳トレーニングで認知症発症リスクが25%も減少するというのです。

 この報告は医学誌「Alzheimer’s Association」2026年2月9日号に掲載された論文「20年間にわたる認知トレーニングが認知症に及ぼす影響:ACTIVE研究からのエビデンス(Impact of cognitive training on claims-based diagnosed dementia over 20 years: evidence from the ACTIVE study)」にまとめられています。

 研究の対象者は米国の65歳以上の2,802人です。対象者はACTIVE研究と命名された認知トレーニングを受けた人(対照含む)です。対象者は次の4つのグループに分けられました。

#1 視覚による情報を処理する能力に焦点を当てた処理のスピードトレーニング
#2 言語エピソード記憶の向上に重点を置く記憶訓練
#3 推論する能力の訓練
#4 対照群(何もしないグループ)

 #1~#3のグループは、5~6週間にわたり、小グループで60~75分のトレーニングを最大10回受けました。その後、8回以上トレーニングを受けた被験者の一部のグループは、11ヶ月後と35ヶ月後に、追加トレーニング(各セッションは最大4回の75分間)を受けました。この研究が開始されたのは1998年で、その後20年間追跡調査がおこなわれました。

 結果は驚くべきものとなりました。#1のなかで追加トレーニングを1回以上受けたグループはアルツハイマー病を発症するリスクが25%減少していたことが分かったのです。興味深いことに、#1のなかで追加トレーニングを受けなかったグループでは認知症リスクの低下は認められませんでした。

 #2、#3のグループもリスクの低下は認められませんでした。

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 この研究は米国では相当大きなニュースとして捉えられているようで、NIH(米国国立衛生研究所)は「数週間にわたる認知スピードトレーニングは、認知症の診断を数十年遅らせる可能性がある(Cognitive speed training over weeks may delay the diagnosis of dementia over decades )」というタイトルで、論文が公表された翌日の2月10日、ニュースリリースを発表しました。

 認知症の予防に役立ちそうなトレーニングがあるとすれば、なんとなくスピードトレーニングよりも#2や#3のじっくりと頭を使うトレーニングの方が有効なイメージがないでしょうか。それが、#2や#3では認知症のリスク低下につながらず、スピードトレーニングのみが有効というのです。

 ここまでくると、#1の「視覚処理のスピードトレーニング」とはどのようなものかが気になります。調べてみると米国メディアNMR(National Public Radio)に興味深い解説記事がありました。

 この研究で実施されたスピードトレーニングでは、ユーザーはコンピューター画面を見つめます。ある時点で、画面中央で車かトラックが点滅し、周辺に道路標識が表示されます。正しい車両を識別し、道路標識がどこに表示されたかを覚えておくことが課題となります。ゲームが進むにつれて、車両は見分けにくくなり、周辺にも注意をそらすものが現れ始めます。

 このトレーニングなら、例えば学校で習うような基礎知識や文章作成能力や高度な数学の能力などはまったく不要です。求められるのはゲームセンターでよくあるようなゲームで高得点を獲るような能力であり、このような能力であればたいてい繰り返し実践すれば上達します。

 ということは、近いうちに「認知症予防ゲーム」が市場に登場するに違いありません。それにしてもわずか数週間のトレーニング(+追加トレーニング)でアルツハイマー病のリスクが25%も低下するとは驚きです。近いうちに、「65歳になれば国民全員がこのゲームに参加することが義務付けられる」といった社会になるかもしれません。

 

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2026年2月28日 土曜日

2026年2月28日 樹木は心血管疾患を防ぎ、草や花はリスクを上げる

 植物との接触が健康に良いとする研究は多数ありますが、ではどのような植物が有効なのかを調べた研究はほとんど見当たりません。最近、公開された論文でその点が検討されていて、結果は、意外なことに「背の高い樹木は心血管疾患を防ぐが、芝生や花壇などでは逆に心血管疾患のリスクとなる」というものでした。

 論文は医学誌「Environmental Epidemiology」2026年2月号に掲載された「看護師健康調査(Nurses’ Health Study)におけるストリートビュー画像のディープラーニング分析を用いた緑地と心血管疾患リスクの評価(Assessing greenspace and cardiovascular disease risk through deep learning analysis of street-view imagery in the US-based nationwide Nurses’ Health Study)」です。

 研究の対象は「Nurses’ Health Study」と呼ばれる米国の看護師を対象としたデータベースに登録されている88,788人の女性。植物の種類については、AIを用いたストリートビュー画像で解析されました。その地域を歩行する際に目にする可能性のある植物を下記のように分類しました。

#1 目に見える樹木【=visible trees】
#2 芝生【=grass】
#3 その他の緑(植物、花、野原など)【=other green (plants/flowers/fields)】

 結果、#1に接する人はそうでない人に比べ心血管疾患のリスクが4%低いことが分かりました。他方、#2に接する人は、意外なことに、心血管疾患のリスクが6%、#3については3%上昇していました。

 地域ごとに分析されていて、例えばカリフォルニア州では、街路緑度(street greenness)が最高3分の1の地域では心臓疾患の有病率が26%低下、高血圧は29%低下していました。ユタ州では、街路緑度が最高3分の1の地域で高血圧のリスクが16%低下していました。

 樹木に触れる機会が多ければ心血管疾患のリスクが下がる理由について、論文では「ストレスの軽減、騒音、大気汚染、極端な気温からの緩衝」を挙げ、さらに「並木道は近隣の歩きやすさと社会的結束を高め、身体活動を奨励し、社会的支援ネットワークを強化する」としています。

 芝生や花が心血管疾患リスクを上げるという意外な結果については、「農薬の増加、芝刈りによる大気への影響、草の花粉、樹木に比べて低い冷却能力、騒音や大気汚染をろ過する能力の低さ、生物多様性の低下など」が挙げられています。

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 芝生や菜園、花壇などは都心部でも小さな庭やあるいはベランダを利用すればつくれなくはありませんが、樹木となると、公園や並木道の近くに住む以外には方法がほとんどありません。

 となると、樹木が植えられている公園に毎日通う、とか、散歩するなら並木道を歩く、という工夫が必要なのかもしれません。私の肌感覚としては、通行量の多い並木道よりも、樹木がなくても川沿いの静かな道を歩く方がいいような気がしますが……。

 いずれにしても芝生や花壇に過剰な期待をしない方がよさそうです。

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2026年2月15日 日曜日

第270回(2026年2月) 嘘だらけの食事ガイドライン

 医者が言うことはいつも正しいとは限らない、ということは歴史をみれば明らかですが、たいてい医者はいつも上から目線で、どこかで聞きかじったばかりのにわかの知識をあたかもその道の大家のような口ぶりで説明します。おきまりの言葉「エビデンスがありますから……」を言い訳のように使いながら。

 1990年代、日本を含め世界各国の医者、公衆衛生学者、そして政府はパンやコメなどの炭水化物を多く摂り、肉や乳製品は減らすべきだと主張していました。「ワインは身体に良い」など、いまでは完全に否定されている突飛な主張をし、なかにはタバコはアルツハイマー病、パーキンソン病、そして潰瘍性大腸炎の予防になると言う珍説までありました。

 その一方で、砂糖や加工食品についての有害性はほとんど指摘されていませんでした。これらをまとめたのが1992年に米国で発表された「理想の食事のピラミッド」でした。

 ピラミッドの底部に重要で積極的に食すべき食物が記され、上に行くほど避けるべき食品が提示されました。「底部=最重要食物」にはパン、シリアル、パスタ、コメなどの炭水化物が並べられ、そのひとつ上に野菜や果物が置かれました。「一番上=最も避けるもの」は脂肪や甘いものとされ、その下に乳製品や肉類が置かれました。当時は、低脂肪・高炭水化物こそが健康的な食事であり、肉や乳製品、脂肪は避けるべきだと信じられていたのです。

 このピラミッドによる「推奨される食品」が大きく変えられたのは2011年1月でした。米国HHS(米国保健福祉省)とUSDA(米国農務省)が「2010年版食事ガイドライン」を公表したのです。そして同年6月、ミシェル・オバマ大統領夫人(当時)らが、この食事ガイドラインを分かりやすく視覚に訴えた「My Plate」を発表しました。

 1992年版のように穀物をたくさん摂って他を少なくするのではなく、皿を4分割し、野菜、果物、炭水化物、タンパク質を同じように並べ、横に乳製品が置かれました。「皿の半分を野菜と果物にする」というメッセージが一瞬で理解できるように工夫されたのです。そして、蛋白質は炭水化物(Grains)よりも少なく設定されていました。

 2026年1月、米国トランプ政権は、ロバート・F・ケネディ・ジュニア保健長官(以下「ケネディJr保健長官」)が中心となり、HHSとUSDAによるガイドラインを大幅に改定しました。

 公表されたイラストはなんと逆ピラミッド、1992年のガイドラインに対抗しているのが明らかです。それぞれの食品カテゴリーは1992年版の真逆となっています。最も顕著なのがパンやコメなどの炭水化物で、1992年版のピラミッドでは最重要食品、2010年版のMy plateでは野菜や果物と同程度に格を下げられ、そして最新の2025年版ではついに最も格下とされました。一方、1992年版では「減らすべき」とされていた肉や乳製品が「最重要食物」とされています。ケネディJr保健長官は記者会見で、「食事にはタンパク質と良質の脂肪が不可欠だ。以前の食事ガイドラインは誤っていてこれらが推奨されていなかった。我々は飽和脂肪酸との戦いに終止符を打つのだ!」と宣言しました。

 これが世論の感情に火をつけ、世界中のインターネットやSNSで様々な論争が繰り広げられるようになりました。ここで、脂肪酸について簡単に復習しておきましょう。2013年のコラム「不飽和脂肪酸をめぐる混乱」で取り上げたように、健診で数値が高すぎると注意を受ける中性脂肪(別名トリグリセリド)は、脂肪酸とグリセロールからできています。問題はグリセロールではなく脂肪酸の方にあります。脂肪酸は飽和脂肪酸と不飽和脂肪酸に分けることができます。おおまかにいえば「脂肪酸=悪」「不飽和脂肪酸=善」です。なぜなら飽和脂肪酸の方が多ければ中性脂肪がつくられやすくなるからです。つまり、不飽和脂肪酸からも中性脂肪はつくられるものの、血中に脂肪酸が多ければ簡単に中性脂肪が合成されてしまうのです。

 不飽和脂肪酸には体内で合成できない(食事から摂るしかない)「必須脂肪酸」と「必須脂肪酸でない脂肪酸」があります。さらに、必須脂肪酸はω3系とω6系に分けられます。

 一方、飽和脂肪酸も「すべての飽和脂肪酸が諸悪の根源」というわけではありません。例えば、乳製品にはペンタデカン酸と呼ばれる飽和脂肪酸が多く含まれていて、これは中性脂肪もLDLコレステロールも上昇させません。赤身肉に含まれるパルミチン酸は中性脂肪、LDLコレステロールの双方を増加させます。2021年に医学誌「JAMA」に掲載された論文によると、ヨーロッパ9カ国で数万人を調査した結果、赤身の肉やバターから飽和脂肪酸を多く摂取すれば(つまり、パルミチン酸を多数摂れば)心臓病を発症するリスクが高かった一方で、チーズ、ヨーグルト、魚から飽和脂肪酸を多く摂取している場合は(ペンタデカン酸を多く摂れば)心臓病のリスクが低いという結論が出ています。

 また、肉や乳製品をどれだけ摂るべきか、どれくらいまでにとどめるべきかについて議論をするなら客観的な「量」を提示しなければ意味がありません。米国の逆ピラミッドのガイドラインでは「飽和脂肪酸は1日の総摂取カロリーの10%以下に抑えるべきだ」と書かれています(3ページの真ん中あたり)。そして、実はWHOの2023年版の飽和脂肪酸に関するガイドライン(9ページの一番上)にも同じように「10%以下に抑えるべきだ」と書かれています。つまり、ケネディJr保健長官が「戦いに終止符を打つ」という言葉まで持ち出して主張している考えは、WHOのガイドラインとまったく同じものなのです。

 先述したように、現在米国の新しいガイドラインをめぐり飽和脂肪酸の対立がありますが、私がインターネットやSNSを覗いた限り、この2点をはっきりさせて述べているものは見当たりませんでした。つまり、知識人、あるいは専門家を自認する人たちでさえ、飽和脂肪酸の区別をせず、さらにWHOの見解に反対しているわけではないのです。こんな議論に付き合うのは時間の無駄でしかありません。飽和脂肪酸について言えることは「1日の総摂取カロリーの10%以下に抑えるべき」「飽和脂肪酸にもLDLコレステロールや中性脂肪を上昇させやすいものとそうでないものがある」の2点です。

 100歳以上の高齢者が最も多く居住するいわゆる「ブルーゾーン」は5つあるとされています。イタリアのサルデーニャ島、ギリシャのイカリア島、米国カリフォルニア州のロマリンダ、コスタリカのニコヤ半島、そして沖縄です。その沖縄には「ヌチグスイ」という言葉があり、これは栄養のある食べ物など美しいものが心身を健やかにするという意味だと聞いたことがあります。端的に言えば「食べ物は薬」と考えられているのです(最近の沖縄は米国から入ってきた食べ物の影響で古き良き伝統が失われていますがここでは深入りしません)。

  では、ヌチグスイに相当する薬にもなる食品とはどのようなものなのでしょうか。ここからは私見を述べます。蛋白質、脂質、炭水化物、野菜や果物をバランスよく摂ればいいわけですが、このなかで最も簡単に摂れる、というより摂り過ぎてしまうのが炭水化物、次いで脂質です。蛋白質は思いのほか摂取が困難です。簡単に良質の蛋白質が摂れるのは牛乳と豆乳で、これらはほとんどの人が積極的に摂るべきです。「牛乳が飲みにくい」という人がいますが、下痢をするならまず「A2ミルク」を試すのがいいでしょう。それでも下痢をするならラクトース不耐症(乳糖不耐症)の可能性がありますから、この場合はラクトースをあらかじめ分解した牛乳、すなわち「ラクトースフリーミルク」を選べばOKです。

 米国の新しいガイドラインではほとんど触れられていなくて、現代人の食生活で圧倒的に欠けているのは「プロバイオティクス」と「プレバイオティクス」です。

 プロバイオティクスとはありていの言葉で言えば「善玉菌を含む食品」もしくは「発酵食品」で、もう少し詳しく言えば、乳酸菌、ビフィズス菌、酪酸菌、納豆菌、酵母などを含む食品です。納豆やヨーグルト、漬物などが思い浮かびますが、ヨーグルトの場合は「生きた菌」が入っていなければプロバイオティクスには入りません。沖縄料理でいえば、 豆腐ようや魚や島野菜の乳酸発酵の漬物が相当します。少し想像すれば分かるように、実際にこれらを毎日相当量摂取するのは思いのほか大変です。幼少時から食べていなければこれらの臭いが隘路となります。臭いはさほど気にならないという人も、例えば、鮒寿司、なれずし、クサヤ、ホンオフェ(エイの韓国料理)、シュールストレミング(ニシンのスウェーデン料理)などを抵抗なく食べられる人はそういないはずです。私が子供の頃、発酵と腐敗は異なると習った記憶があるのですが、実際にはこれらに明確な区別はありません。結局のところ、食品からの完全な摂取は困難であることを認め、サプリメントに頼ることも検討すべきということになります。

 プレバイオティクスはプロバイオティクスよりは摂取しやすいと言えます。源となる食品が多数あるからです。理屈の上では「野菜+海藻+豆類」を毎食食べればある程度は摂取できます。しかし、実際にはこれらを毎食じゅうぶんな量を摂取するのは困難です。よって、食生活の内容によっては、サイリウムハスクやイヌリンなどのプレバイオティクスのサプリメントを考えた方がいいでしょう。

 また、今回は深入りしませんが、ビタミンDはサプリメントを摂らない限り、ほとんどの人は不足しています。

 反対に、ついつい摂り過ぎてしまうのが炭水化物です。そして、可能な限り減らすべきなのが、過去のコラム「『超加工食品』はこんなにも危険」で述べたように、加工食品、とりわけ「超加工食品」と呼ばれる食べ物です。また、過去のコラム「砂糖入りだけでなく『人工甘味料入りドリンク』もアルツハイマー病のリスク」「カロリーゼロでも太る? やせたいなら、食べてはいけない『人工甘味料』」「砂糖は『依存性薬物』? 摂取量を規制するあの手この手」で述べたように、砂糖や人工甘味料が入ったドリンクは可能なら生涯にわたり飲まないのが得策です。

 冒頭で述べたように、医者や政府が言うことが常に正しいとは限りません。新たな研究が出てこれまでの定説が覆される可能性もあります。そういう意味ではここに述べたことも絶対に正しいとは言えません。ではどうすればいいか。伝統を大切にしながら、最新の研究にもついていくようにして、それぞれに適した「理想の食事」をかかりつけ医と共に考えていくのが賢明でしょう。

 

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2026年2月15日 日曜日

2026年2月15日 レッドライトセラピーで慢性外傷性脳症が防げる!?

 思わず声がでるほどビックリする論文が公開されました。なんと、単純なレッドライトセラピー(red light therapy)で慢性外傷性脳症(CTE)が治るというのです。常識的には考えられないようなこの論文を紹介しましょう。

 その前に、「レッドライトセラピー」と「慢性外傷性脳症」を簡単に振り返っておきましょう。

 レッドライトセラピーとは近赤外光(Near Infrared=NIR)を皮膚に当てて肌を若返らせるというエステティックサロンなどでおこなわれている施術で、誰もが有効性を認めている治療ではなく、むしろ胡散臭い民間療法とみる向きが多いものです。

 慢性外傷性脳症(以下「CTE」)は本サイトで繰り返し取り上げている、コンタクトスポーツなどで頭部に繰り返し衝撃を受けた結果、認知症や人格崩壊を起こす恐ろしい疾患です。オバマ大統領(当時)が「もし自分に息子がいたとすれば、フットボールの選手にはさせない」と発言したことでも有名になった疾患です。有効な治療法はなく、この疾患を避けたければ、初めからサッカーやアメリカンフットボールなどのコンタクトスポーツに手を出さないようにするしかありません。

 その恐ろしいCTEが民間療法のレッドライトセラピーで治るというのですから、驚く他ありません。では件の論文を紹介しましょう。医学誌「Journal of Neurotrauma」2026年1月20日号に掲載された「反復頭部加速イベントに曝露された現役大学アメリカンフットボール選手の神経学的レジリエンスを経頭蓋光バイオモジュレーションが促進(Transcranial Photobiomodulation Promotes Neurological Resilience in Current Collegiate American Football Players Exposed to Repetitive Head Acceleration Events)」です。

 研究の対象者は26人のアメリカンフットボールの大学生の選手です。うち13人の選手には、16週間のシーズンを通して、週3回、1回20分間、赤色光を発するヘッドセットを装着しました。残りの13人には、プラセボ群として、光を発しない同一のデバイスを装着しました。

 結果、プラセボ群の13人の脳をMRIで調べると、シーズン開始前のMRIに比べて、炎症の程度が増悪していました(シーズン中に頭部への刺激を繰り返し受け、その結果、脳内に炎症が生じたと考えられます)。

 他方、レッドライトセラピーを受けた13人は炎症が増加しませんでした。脳のほぼすべての領域で刺激による炎症から保護されていたのです。

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 なぜこのような奇跡が起こったのか。じゅうぶんな強度の赤色光は頭蓋骨を通過して脳の表層に到達し、脳細胞を刺激します。脳の表層に到達したレッドライトが細胞内の「発電所」とも呼べるミトコンドリアを活性化し、細胞の働きを刺激するというメカニズムです。

 この論文を報じた米国メディアHealth Dayによると、この研究チームは現在、米国国防総省(Department of Defense)の資金提供を受け、外傷性脳損傷または脳震盪による持続的な症状を持つ300人を対象とした臨床試験を開始しています。

参考:医療ニュース2026年1月31日「頭部の外傷が自殺のリスクとなる」

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2026年2月1日 日曜日

2026年2月 「最期の晩餐」への違和感と本当の幸せ

 数年前の、あれはたしか総合診療関連の学会だったと思うのですが、ある緩和ケア医が自身の経験について講演していました。その内容は「不要な医療をやめて人間らしい最期を看取るには」というような感じのもので、話の趣旨としてはまあまあ納得できるものだったのですが、その話のなかででてきた「最期の晩餐」の話に抑えきれない違和感を覚えました。

 その医者は担当する末期の患者全員に「最期の晩餐は何がいいか」と尋ねると言うのです。そこから話を広げてその人の人生観を共有するんだ、みたいなことを言っていました。話が巧みなその医者はその場にいた聴講者のひとり(おそらく医者)に、「あなたは何を選びますか」と問い、いきなり質問されたその(おそらく)医者は、たしか「家族旅行のときにみんなで食べたフランス料理が……」という感じのことを答えていました。するとその演者の医者は「やっぱり家族と過ごすのが幸せで……」というおきまりの幸せの方程式のような話に持ち込みました。

 次にその医者は、意外な展開に話を運ぼうとしたのか「かつてこのテーマで市民講演をしているときにある男性の聴講者に同じ質問をすると『吉野屋の牛丼』という答えが返ってきて驚いたことがあります」という話を始めました。聴衆も意外に感じたのか、会場の空気が「次に演者は何を言うか」に注目する雰囲気となりました。演者は「その男性は『若い頃に苦労していた頃の味がなつかしい』と言うのです」と、これまた感動のヒューマンドラマをなぞるような展開へと持っていきました。

 私がこの医師のこの話を聞いてまず不思議に感じたのは、「実際の終末期にはそんなもの食べられるはずがないのにそんなこと聞いてどうするんだ?」というもので、受け入れられず違和感が拭えなかったのは、私自身がこれまで看取ってきた大勢の患者さんたちを思い出したからです。

 私がこれまで大勢の患者さんを看取ってきた時期は2つあります。1つは研修医2年目から3年目にかけて複数の病院で当直のアルバイトをしていた頃です。医師のアルバイトはとにかく破格で一晩で5~10万円も稼げたので(本コラムとは無関係のためこの話題には深入りしませんが、この価格設定がおかしいのは自明です。まあ、もらっておいてから「おかしい」という私もおかしいわけですが……)、週に3~4回くらいはそういうアルバイトをしていました(昼間は複数の病院やクリニックで研修を受けていましたから、あの頃はほとんど寝ていなかったのですがその話はやめておきます)。

 忙しい病院では救急車をどんどん受け入れながら、病棟では旅立っていく人たちの看取りもします。たいていは点滴や酸素のチューブ、それに尿道の管(カテーテル)がつながれていて意識はすでにありません。モニタが示す心電図の波形や心拍数がおかしくなっていけば看護師が家族を呼び出して「そのとき」を待ちます。そのうち心電図の波形がフラットになり死の兆候を確認し、儀式のような「死亡宣告」をします。「最期の晩餐」を楽しんでいる患者さんなど見たことがありません。

 もう1つ、私が大勢の患者さんを看取ったのはタイのエイズホスピスでボランティア医師として働いていた2004年から2005年にかけてです。当時のタイではHIVの薬が使われ始めたばかりで、その待望の薬も副作用で使えないことが多々あり、まだHIVは「死に至る病」だったのです。そのため、大勢の患者さんを看取ることになりました。

 そのタイのホスピスでは日本とは異なる大きな点がありました。「末期では点滴や尿道カテーテルを使わない」のです。「タイでは」というよりも「欧米方式では」の方が正確かもしれません。私やタイ人の看護師が相談して点滴を始めようとしても、欧米の医師やボランティアが反対し、「点滴は自然な姿ではなく、最期は自然なコースをたどるべきだ」と言うのです。すべての欧米人が同じ考えではないでしょうが、彼(女)らは口をそろえてこれが我々の国では常識だと言います。

 そのホスピスにいた欧米人たちの終末期に対する考えは日本とは大きく異なっていました。あるとき若い日本人女性のボランティアが、末期の患者さんにスプーンを使って食事介助をし始めました。すると、米国人の医師は「そんなヘルプはすべきでない」と言ってやめさせたのです。たしかにその患者さんはあと何日も生きられないほど衰弱していて死を待っているのはあきらかでした。日本人女性は「食べれば少しでも元気になるかも」と考えて一生懸命食事介助をしていて、それは日本で見慣れた光景でしたから、私はその若い日本人女性を応援していたのですが、米国人医師は非情にも「終末期に食事を食べさせるのは虐待ともいえる」とまで言うのです。

 日本では、最期には食事どころか水分補給も自己でせずに点滴に頼ります。一方、欧米では食事がひとりで摂れなくなればそれは死への自然な道のりだと考えます。どちらがいいかという問題はひとまず置いておくこととしますが、最期まで点滴を続け死にゆく人はたいてい身体中がむくんでいます。他方、私がタイで診てきた点滴をしなかった患者さんたちは全身がエイズに蝕まれていても人間らしく旅立っていくように見えました。

 日本でも欧米でも死の直前に食事がとれなくなるのは事実です。ならば冒頭で取り上げた緩和ケア医がいうような「最後の晩餐」を患者さんに語らせることに何の意味があるというのでしょう。

 たしかに、食事というのは幸せを感じる瞬間ではあります。愛するパートナーや気の置けない友人との食事は人生を豊かにします。これは間違いありません。また、ひとりで摂る食事であっても、美味しいものを食べる瞬間には幸せを覚えます。食べ物だけでなく、たった一杯の紅茶を飲んだだけでリラックスできて安らぎを感じることもあります。それに、美味しい食べ物のことを考えただけでワクワクすることもあります。よって、食が人に幸せを与えるのは事実です。

 ですが、それは本当の意味での幸せでしょうか。あるいは人生において最も大切な幸せでしょうか。もしもあなたが今「最期の晩餐に何を食べたいですか」と問われたとして、食べたいものを想像してワクワクできるでしょうか。「死ぬ間際に〇〇が食べられれば幸せな一生で締めくくれる」と考えられる人は本当にいるのでしょうか。

 私にはそんな人がいるとは思えません。「幸せとは?」という問いに対する「答え」を私は物心がついた頃から考え続けています。本サイトでも幸せについては度々取り上げています。たいていいつも「幸せについて私は今もよく分かっていません」というような結末になってしまっていますが、それでも最近は少しずつ見えてきたような気がします。その見えてきたひとつが「最期の晩餐で幸せになれるわけではない」です。

 人間が本当の意味で幸せになれるのは「他者との関係」に他なりません。これは考え抜いて分かった答えではなく、谷口医院の患者さんたちが教えてくれたことです。例えば、ある50代男性の患者さんは「妻ははように出ていったし、残された娘には父親らしいことなんにもできひんかったけど、そんな娘から『お父さん、ありがとう』と言われたとき、自分はなんて幸せなんやろと思ったんです」と話していました。60代女性のある患者さんは「わたしの人生は辛いことばかりで死んでしまいたいと何度思ったか。けど今の店長がわたしを拾ってくれてコンビニで働きだして、それで初めて他人から感謝されて。店長はわたしの命の恩人です。残業代が出なくても働いているのは幸せだからなんです」とゆっくりと言葉を紡いでいました。

 死の直前にすべきことは「最期の晩餐」ではないはずです。では旅立つ直前には何をすべきか。そして本当の意味で幸せとはどのようなものなのか。それは「自分の人生を豊かにしてくれた人たちに感謝の気持ちを述べること」ではないでしょうか。上述の50代の男性なら死ぬ直前に娘に枕元に来てもらうことが最高の幸せでしょう。50代の女性の場合は、死ぬ直前にその「店長」を枕元に呼ぶことはできないかもしれませんが、まだ元気なうちに感謝の気持ちを述べておいて、そして旅立つ直前には心の中で改めてお礼を言うことがこの女性の「最期の幸せ」ではないでしょうか。そして、心の中でお礼を言うのなら、どのような宗教観を持っていたとしても、あるいは無宗教だったとしても、合わせた両手を胸の上に置きたくならないでしょうか。点滴のチューブに邪魔されずに。

 人生の最期に「最期の晩餐」を考えるという発想が私には理解できません。そして、点滴での水分補給についてもその必要性を考え直すべきではないでしょうか。

 

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