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2013年6月17日 月曜日
21 「クスリ」を上手く断ち切るには①(全4回) 2005/8/13
前回は、「(違法な)クスリは絶対にやってはいけないが、手を出す気持ちも理解できないわけではない」、という話をしました。その最大の理由は、「クスリ」を使えば、容易に「日常」から抜け出して「非日常」の世界に飛び込むことができ、そこで得られる興奮や快感は、人生に感動を与えることもありうる、というものです。
けれども、私は医師として、そして個人としても、違法なクスリには断固反対します。反対するだけでは、単なる「正論の振りかざし」であり、説得力がないかもしれませんが、これは反対するしかありません。ただ、代替案も提案したいと考えています。
その前に、まずは違法薬物を分類して、その危険性を考えていきましょう。
現在の日本で流通している最大の違法薬物は「覚醒剤」です。一般的に覚醒剤とは、アンフェタミンとメタンフェタミンのことを指しますが、現在の日本で圧倒的に流通量が多いのはメタンフェタミンであり、輸入先は北朝鮮が多いと言われています。そして北朝鮮製のメタンフェタミンは非常に純度が高く、例えばタイなどで出回っているアンフェタミンなどよりも格段に「良品」だとされています。
覚醒剤は通称「シャブ」と呼ばれます。しかし、最近は、この「シャブ」という言い方がイメージが悪いからなのか、「スピード」とか、その頭文字をとって「エス」と呼ばれることが多いようです。
また1950年代まで日本の薬局で簡単に買えた「ヒロポン」も覚醒剤であります。おそらく、世界中で覚醒剤が合法だったのは日本だけだと思われます。
様々な違法薬物があるなかで、覚醒剤だけが日本の社会の隅々まで浸透しており、最もメジャーな薬物になっている原因は、日本人の気質に合うからではないか、と私は考えています。後で述べますが、「大麻」は覚醒剤に比べて、危険性が少ないですし、所持していても罪は軽いですから、大麻の方が流通していてもよさそうに思うのですが、現在の日本では圧倒的に覚醒剤の方が出回っているような印象があります。
覚醒剤を使用すると、ハイテンションになり、「眠れずに仕事や勉強ができる」とか「確実にダイエットできる」という効能がありますから、現代の日本人の需要に合っているのかもしれません。実際、合法だったヒロポンの効能書きには「痩身」と記載されていたそうです。
ヒロポンは、タクシーの運転手など、徹夜で仕事をしなければならない人たちの間で流行していましたが、現在も、徹夜で仕事をしなければならないサラリーマンや、一夜漬けをしなければならない学生などが覚醒剤をよく使用しているようです。また、ダイエット目的に使う女子高生や主婦も珍しくありません。
「エスは上手につきあえば怖くないよ」という人たちは、静脈注射ではなく、吸入(いわゆる「アブリ」)をしているようです。これは覚醒剤をアルミ箔に載せて気化させ、その気体を鼻から吸入するという方法です。たしかに、この方法だと緩徐に体内に吸収されますから静脈注射よりは安全であるかもしれません。しかし、最初はアブリで満足できていても、そのうちにそれでは足りなくなり、いずれ静脈注射に移行するという例は珍しくありません。
吸入、静脈注射以外によく用いられている方法が、「女性の腟壁に塗布する」という方法です。前回お話した「覚醒剤中毒の女医」も、そうやって使っていたという報道がありますが、この使用法が恐いのは、女性が気付かないうちに男性がコンドームに塗布して挿入し、女性はかつて経験したことのない快感に襲われ、その男性から離れられなくなることがある、ということです。なかには、その快感を「真実の愛に出会った」、ととらえる女性もいるかもしれません。そうなると、心理的にもその男性から離れられなくなってしまいます。
覚醒剤についてあまり知識のない人は、ここまで読めば「それほど悪いものでもないのかな・・・」と思われるかもしれません。しかし、ここからが覚醒剤の恐ろしいところです。
医薬品も含めて、多くの薬物には「耐性」というものがあります。最初は少ない量で満足できていたのに、そのうちに同じ量では効かなくなるということです。そのため、量を増やしたり、吸入から静脈注射に移行したりするようになってきます。量を増やしても、また効かなくなり、そのうちにどんどんと一度に使用する量が増えていきます。
覚醒剤はもちろん違法薬物ですから、裏ルートから購入しなければなりません。(といっても最近はごく簡単に入手できるようですが・・・。)そして、価格は決して安いものではありません。普通のサラリーマンやOLの給料ではとうてい追いつかなくなります。借金をできるところからは限界まで借りるようになります。前回紹介した女医のような立場であれば、病院から金になるものを持ち出すようなこともおこないます。
家族や友人からも借金するようになります。この時点になれば、本人も返済の目途がつかず、家族や友人を裏切ることになることは理解できるはずなのですが、一度覚醒剤に蝕まれた身体は正常な思考回路を妨げます。それまで信頼関係にあった家族や友人に対して、平気で嘘をつくようになります。そして、そのうちに家族や友人から見放されていきます。
覚醒剤は、キマっているときには、たしかにハッピーかもしれませんが、これが切れたときにいわゆるリバウンドが確実にやってきます。まるで廃人のように気力や活力がなくなり、脱力感に襲われます。こうなると、再び覚醒剤をキメるまで、まともな行動ができなくなります。もちろん仕事などできません。そして、そのうちに職を失うことになります。
職を失い、家族や友人に見放されても、身体は覚醒剤を欲しがります。この頃には全身の臓器がボロボロになっており、もはや生命の存続も危なくなります。夜道で倒れているところを補導されたり、救急搬送されたりすることになります。こうなると、逮捕までは時間の問題で、法的な制裁を受けることになるわけです。(病院の尿検査などで覚醒剤反応が陽性になることがあり、これを警察に通報すべきかどうかはむつかしいところです。覚醒剤取締法と医師の守秘義務の兼ね合いがあるからです。これについては改めて述べたいと思います。)覚醒剤中毒で、病院に搬送された人は、入院や懲役になればまだましな方で、実際に命を落とす人も珍しくありません。
ところで、覚醒剤は、初犯であれば、販売や製造などをしていない限り、実刑になることはあまりなく、執行猶予がつくと言われています。(これに対し、違法薬物の王様である麻薬は、個人で使用しているだけでも、まず間違いなく実刑となります。)
私は、覚醒剤取締法を直ちに改正して、個人の使用のみでももっと重い刑にすべきだと考えていますが、現在のところそのような動きはないようです。ちなみに、タイではタクシン政権が、違法薬物対策に力を入れ、覚醒剤を大量に所持している人間には容赦なく射殺するような方針を取るようになりました。これはいきすぎたきらいもあり(なんとこれまでに5000人以上もの人々が射殺されており、冤罪も少なくないと言われています)、反省の声も上がっているようですが、タイ国がドラッグ天国から、違法薬物を入手しにくいクリーンな国に変わったのは事実です。射殺まではいきすぎだと思いますが、日本も何らかのかたちで覚醒剤取締法を強化してほしいと私は考えています。
さて、決して忘れてはならない覚醒剤の恐ろしい点がもうひとつあります。それは「感染症」です。
実際に、覚醒剤を静脈注射する際に用いる注射針の使いまわしで、B型肝炎やC型肝炎に罹患した人は少なくありません。もちろん、HIVに感染することもあります。
「静脈注射するから感染するのであって、アブリなら心配ないじゃないか」、そのように言う人もいます。
しかし、先ほど述べたように、覚醒剤に耐性ができ、吸入では効果が得られなくなり、静脈注射に移行する人は決して少なくありません。そして、パーティなど複数で覚醒剤をキメるような場合、ひとりが注射を始めると、そのうちにひとりふたりと注射するようになり、自分だけが注射をしないわけにはいかなくなることもあります。(これをpeer pressureと言います。)
さらにもうひとつ問題提起をしておきましょう。最近、新型のHIVがニューヨークで発見されました。通常、HIVはヒトに感染してからおよそ10年間の潜伏期間を経てAIDSを発症しますが、抗HIV薬を適切なタイミングで内服することによりAIDSの発症を防ぐことができます。ところが、この新型HIVは、感染してから1年未満でAIDSを発症するのです。さらに、抗HIVが無効だというのです。
そして、ここからが問題なのですが、この新型HIVに罹患した人の全員が覚醒剤を使用していたというのです。しかも、注射ではなく、吸入で、です。
これはどういうことなのでしょうか。おそらく新型HIVに罹患した人たちは、注射針の使いまわしではなく、性行為など他のルートで感染したのでしょう。しかし、覚醒剤を高頻度で使用していたために、体内に何らかの変化が起こり、その変化がウイルスを新しいタイプにしたのではないか、私はそのような可能性を考えています。
つづく
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|2013年6月17日 月曜日
第20回(2005年8月) 覚醒剤中毒の女医
2005年3月25日、大阪の40歳の女医が、覚醒剤取締法で逮捕されました。
報道によりますと、兵庫県尼崎市内の病院で副院長をしていたこの女医は、2003年9月から04年10月にかけて病院に納入された向精神薬や注射器を売り覚醒剤の購入資金に充てていました。
私が『医学部6年間の真実』のなかで詳しく述べたように、覚醒剤中毒の医師というのは何も珍しくありません。覚醒剤をキメてから、手術をおこなっていた外科医と麻酔科医が逮捕された「兵庫医大覚醒剤事件」を皮切りに、数々の「シャブ中ドクター」が明るみになりました。今でも年に何度かは、新しく発覚したシャブ中ドクターが新聞に載ります。もっとも、珍しくなくなったせいか、最近では大きく取り上げられることはないようですが……。
さて、今回逮捕された大阪の女医は、単に覚醒剤をキメたかった、という以外に複雑な事情があったようです。そのあたりが、『裏モノJAPAN』という雑誌の2005年8月号で詳しく取材されていますので、ここで簡単にご紹介しておきたいと思います。
この女医は、関西で開業医をする父親の次女として生まれ、早い時期から父親の後継者として医学部進学を義務づけられていたそうです。
予定通り、ストレートで医師になった彼女は、27歳のときに同じ医師である男と結婚しました。
ところが、その旦那が他に女をつくり結婚生活は五年で破綻し離婚に至ったそうです。
その後、友人の紹介で知り合った実業家の男性と恋愛関係になりました。アメリカで事業をしたいというその男を追いかけ、彼女は勤務していた病院をやめてアメリカに渡ることになりました。
その男から、「運転資金に」とか「事業資金に」などと言われて彼女は900万円以上を貢いだそうです。
ところが、結局その男は、彼女に一方的に別れを告げて去っていったそうです。
彼女は2001年に日本に帰国しました。寂しさを紛らわすためにツーショットダイヤルにのめりこんだそうです。そして、そこで知り合って付き合いだすことになったのが、覚醒剤の密売人だったというわけです。
間もなく、二人は同棲を始めました。その男が覚醒剤を静脈注射していることはすぐに分かったそうですが、彼女はとがめるどころか、「自分にもちょうだい」と言ってすすんで自分の腕に注射をしたといいます。
それだけではありません。セックスの際、腟壁に覚醒剤を塗るようになったそうです。かつてない興奮と快感が身体をつらぬき、一度その味を覚えると、彼女自ら積極的にセックスを求めるようになったといいます。
この頃から、男の帰りを待ちきれず、ベランダに体を乗り出し、男に向かって手を振る姿がよく目撃されていたそうです。
彼女は当時、複数の病院でアルバイトをしていましたから、それなりの収入はあったのですが、覚醒剤にハマりだせば貯金などすぐに底をつきます。そこで、彼女は自分の勤務する病院から、大量の注射器や向精神薬を持ち出して資金にあてていたというわけです。
逮捕後、取調官から問われても彼女は同じ供述を繰り返すばかりだったといいます。
「あの人が好きだったのです。あの人との絆を強くしたかった・・・・」
2005年3月24日の大阪地裁の初公判で、彼女は起訴事実をすべて認めました。すべてを失った、という悲愴感は彼女にはなかったそうです。彼女のなかにはまだその男との「絆」が残っているのかもしれません。
「シャブ中ドクター」が新聞の隅に載ることは珍しくなく、2005年7月にも、福岡大病院に勤務する41歳の男性医師が、覚醒剤取締法で逮捕されました。この男は、当直時にも「眠気覚ましに使った」などと供述しているそうです。
覚醒剤の効果は、「テンションがあがる」「眠らなくても平気」「食事を摂らなくてもエネルギッシュに働ける」などがありますし、違法ではあるものの、現在の日本では割と簡単に入手することができますから、その怖さを知っているはずの医師でさえ、気軽に手をだしてしまうのかもしれません。
最近は、あまりにも覚醒剤を使用する人が増えたために、「気をつければ中毒にならない」とか「お酒と一緒で度を越さなければハッピーになれる」とかいう噂が出回り、以前に比べると、それほど危険視されなくなっているような印象を受けます。
また、覚醒剤は実は合法的に入手する方法もあります。「リタリン」という名前の向精神薬は、覚醒剤の類似物質で、大量に内服すると、シャブとして出回っているメタンフェタミンと同じような効果が得られます。医師であれば簡単に入手できますから、「シャブ中ドクター」は見つかっていないだけで、かなりの数に昇るのでは、と私は考えています。
しかしながら、「覚醒剤には絶対に手を出すべきではない」という事実は変わりありません。
たしかに、中毒にならないように上手く使いこなしている人もいるようですが、そういう人たちがいつ中毒にならないとも限りませんし、中毒になって、職を失った、家族を失ったという人は枚挙にいとまがありません。
さて、中毒症状になりやすいパターンのひとつが、今回逮捕された女医がしていたような、パートナーとの「セックスでの使用」です。もちろん私は経験がありませんが、覚醒剤を使用したセックスの体験者に話を聞くと(患者さんと仲良くなるとこういう話もしてくれます。当然、昔の話であり、現在は立ち直っているからこそ話せるのでしょう)、普通の(覚醒剤なしの)セックスができなくなると言います。快感が何十倍にもなり、何時間おこなっていても疲れが来ないと口を揃えて言うのです。そのため、三日三晩、ほとんど休憩せずに、セックス浸りになることもあるそうです。覚醒剤を使うことによって、強烈な快感が数時間も続き、射精にいたらなくなりますから、早漏で悩んでいる男性のなかには特にやめられないという人もいます。また、覚醒剤をコンドームに塗られて腟に挿入されれば、女性は知らないうちに依存症になることもあります。
それまでに経験したことのない興奮と快感に襲われるわけですから、パートナーとの精神的な結びつきが強くなることも想像に難くありません。
おそらく、この女医もそうだったのでしょう。離婚後に出会って、アメリカまで追いかけて大金を貢いだ男には一方的に別れを告げられ、ツーショットダイアルで知り合った男性にやさしくされた彼女は、寂しさと男の優しさに覚醒剤がもたらす興奮と感動が加わったために、その男から離れられなくなったのでしょう。
仕事や生活を「日常」とすると、一部の恋愛やクスリは「非日常」に相当します。「日常」では常識であることが、「非日常」の世界では必ずしも常識ではなくなり、ある意味では「つまらないもの」に見えることがあります。そして、つまらなくなった常識を捨てて、「非日常」の興奮に身を投げたくなることがあります。例えば、家庭や仕事を投げ出して、駆け落ちするカップルや、これ以上やると社会に復帰できないことを知りながらハマっていくクスリなどはその典型です。
そして、これらは善くないことであることは自明ではありますが、そうなっていく気持ちもまた理解できないわけではありません。
だから、私は、「密売人と付き合ってはいけません」とか「クスリをやってはいけません」などというようなことを、「常識人が振りかざす正論」として主張するつもりはありません。単なる正論の主張だけであれば、おそらくいずれ逮捕されることに気付きながらも、その男との覚醒剤を使ったセックスから逃れられなかったこの女医の気持ちも理解できるはずがないのです。
覚醒剤に手を出すべきでないのは自明でありますが、覚醒剤に手を出してしまう人がいる理由も理解しなければならないと私は考えています。そして、そういった人たちが、覚醒剤から解放されるような手助けをするのが医師のつとめである、と私は思います。
次回から、そのあたりを考えていきたいと思います。
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第19回(2005年7月) 「年齢が理由で医学部不合格」は妥当か
群馬大学医学部を受験した東京都目黒区の主婦(55歳)が、「合格者平均以上を得点しながら年齢を理由に”門前払い”されたのは不当」と入学許可を求めて前橋地裁に提訴した、という事件が報道されました。
簡単にこの事件を復習しておきましょう。
2005年の群馬大学医学部を受験したこの主婦(佐藤さん)は、5月下旬に同大学から送られてきた封筒を開けて驚いたそうです。
合格者の平均点は551.2点。佐藤さんの得点はそれを10.3点上回る561.5点だったそうです。「本当は合格だったのが、間違って不合格にされたのでは」、佐藤さんはそう考えてすかさず大学に電話を入れました。
応対した担当者は「合格者の平均点を超えているのに、なぜ不合格なのか」という問いに、「センター試験、個別試験、小論文、面接、調査書のいずれかに著しく不良のものがある場合は不合格もありうる」と入試要項の一文をそのまま読み上げたといいます。
「では私の場合、著しく不良だったのは面接だったのか」と佐藤さんが尋ねると、この担当者は「総合的に判断した」と言葉を濁したそうです。なかなか引き下がらない佐藤さんに、担当者は「個人的見解」と前置きした上でこう言ったそうです。
「国立大学には長い年月と多額の費用をかけて社会に貢献できる医師を育てる使命がある。しかしあなたの場合、卒業時の年齢を考えたとき社会に貢献できるかという点で問題がある」
このときに、佐藤さんは自分の年齢が不合格の理由だったことを悟りました。「時間を費やし、入れ込んで勉強しただけに、年齢が理由で不合格にされるのは、やり切れない。「総合的な判断」で年齢が考慮されるなら、最初から入試要項に明記しておいてほしかった。何のために三年も頑張ってきたのか…」
この思いは当然でしょう。ちなみに、2003年には熊本大学を卒業した六十六歳の男性が医師国家試験に合格しています。
さて、この事件をめぐって、医師専用の掲示板やメーリングリストでは、多数の意見が飛び交いました。新聞などマスコミの取材に答えた医師もいます。
例えば、2005年7月5日の東京新聞の記事によりますと、都内の外科医(41歳)は「多額の税金を使う国立大学医学部の場合、育てた医者の将来的な社会的貢献度を尺度にするのは間違っていない。この女性が一人前の医者になるのは60歳代半ばで、体力的に難しい。研究医ならまだしも、女性が希望する臨床医は難しいだろう」との見解を述べています。
医師が意見を述べている掲示板やメーリングリストでもこのコメントに同調するような意見が多数ありました。
「高齢者医学部入学反対者」の述べている理由をまとめてみると次にようになります。
①高齢者(何歳から高齢者かは分かりませんが)が医学部合格を果たして卒業したとしても、一人前の医師として働ける期間は長くない。これは税金の無駄遣いである。
②医師は他の職業よりも体力と知力が要求される。体力が衰えて、記憶力の鈍った高齢者に適切な医療はできない。
③高齢の研修医は、年下の指導医や看護師などのパラメディカルが指導をおこないにくく迷惑である。
④高齢者が医学部に入学することによって、若い受験生がひとり不合格になる。この若い受験生が気の毒である。
①が最も多い意見ですが、②や③や④の意見を述べる医師も少なくありません。
では、ひとつひとつを検証していきましょう。
まず、①ですが、「医師として働く期間が短いのは税金の無駄遣い」というのであれば、医学部合格者は全員が医師となり、長期間働かなくてはならなくなります。けれども、実際は、医学部に合格したものの途中でドロップアウトする者もいますし、医師になったけれども、結婚や出産を機に退職する女性医師は珍しくありません。数は多くありませんが、他の職業に転職する者もいます。
たしかに、自治医大や防衛医大のように、卒業までの費用全額を行政が負担しているような大学では、卒業してから一定期間は、行政の人事命令どおりに働く必要があるでしょう。
しかしながら、群馬大学も含めて普通の大学ではそのような規制はないはずです。そもそも憲法では「学問の自由」が保障されています。年齢を理由に、不合格とするのは明らかに憲法違反です。
私は27歳で医学部に入学しました。27歳であればほとんどどこの大学でも年齢を理由に不合格になることはないでしょうが、私が面接でも答えた医学部の志望動機は、「臨床医になりたい」ではなく、「社会学的な観点から医学を学びたい」というものでした。結局、臨床医になったわけですが、当時の私は、「卒業までに税金が投入されるのは分かっているが、それは他の学部でも同じで(金額は違うでしょうが)、学問を学びたいという理由があり合格点を取れば、入学を拒む理由はどこにもない」という考えをもっており、それは今でも変わっていません。
佐藤さんの件に話を戻すと、彼女が言うとおり、年齢を理由に不合格にするならば、大学は初めからそれを示すべきで、願書を受けつけるべきではありません。そんなこと、誰が考えても分かることで、わざわざ司法の判断を待つこともないように思えます。おそらく、大学側としては、裁判では、年齢以外の不合格の理由を立証しようとするのでしょう。
次に②ですが、それを言うなら、障害者の医学部入学も制限すべきという理論にならないでしょうか。現在の医師法では、全盲者であっても全聾者であっても医師国家試験を受験することができます。医学部生の間に、あるいは医師になってから、病気や事故で、体力のいる仕事ができなくなる医師だっているでしょう。②の意見を述べる人は、そういう医師に対してどのように思っているのでしょうか。
③はおそらく社会というものが分かっていない人が発言しているに違いありません。どこの職場に行っても、上下関係というのは年齢ではなく、キャリアで決まります。私が企業で働いていたときは、年齢がずっと上の後輩がいました。また、19歳時にウエイターをしていたときは、17歳の先輩がいましたし、30歳の後輩がいました。もちろん17歳の先輩には絶対的な敬語を使いますし、私が仕事でミスをすれば容赦なく手や足が出ました。そして、30歳の後輩には容赦なく厳しい指導をしました。これは社会の常識で当然のことです。
こんなこと、学生のアルバイトでも分かることですが、③のような発言をする人は社会に出たことがないばかりか、学生のときも家庭教師や塾講師など、他人から「先生、先生」と呼ばれる仕事しかしていないに違いありません。
④は、明らかに不当な年齢差別で、「高齢者は長生きしないから選挙権を与えない」と言っているのと同じようなものです。
私自身の臨床の経験で言えば、社会人を経験していて得したことは山ほどありますが、逆に損をしたことは一度もありません。社会人の経験があると言うだけで、いろんなプライベートな話をしてくれる患者さんは少なくありません。その逆に、「社会人の経験のあるような医師には診られたくない」という患者さんにはお目にかかったことがありません。
私はまだ30代ですし、(当たり前ですが)主婦の経験もなければ、身内を介護した経験もほとんどありません。そういう意味では、佐藤さんの視点は私とはまったく異なるわけで、佐藤さんだからこそ心を開く患者さんもきっとおられることでしょう。
誤解を恐れずに言うならば、年齢ではなく、「プライドを満たしたい」とか「裕福な暮らしがしたい」という理由で医学部を受験する輩を不合格にしてもらいたいものです。
参考:メディカルエッセイ第148回(2015年5月)「高齢の研修医はなぜ嫌われるのか」
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18 6月20日は何の日か知ってますか? 2005/7/6
「○○の日」というのをちょこちょこ目にします。例えば、6月4日は、ム(6)シ(4)だから「虫歯の日」、11月12日は、イイヒフだから「皮膚の日」、2月22日は、ニャンニャンニャンで「猫の日」なんていうものもあります。
では、6月20日な何の日がご存知でしょうか。この日は、日本で決められた日ではないため、「虫歯の日」や「皮膚の日」のように数字の語呂合わせからできてはいません。
正解は、「世界難民の日」です。「世界難民の日」は、2000年の12月に国連総会で制定され、2001年6月20日に第1回が実施、今年は第5回目ということになります。これを記念して、日本全国各地でも様々なイベントが開かれています。
ところで、この「世界難民の日」をご存知の方はどれくらいおられるでしょうか。今年の6月20日は月曜日で、私はその日の新聞やテレビに注目していたのですが、私の知る限り、このことを取り上げたマスコミはゼロでした。「猫の日」や「虫歯の日」であれば、関連したイベントがマスコミに取り上げられるのに、です。
「世界難民の日」がマスコミで報道されないのは、それだけ日本国民の難民に対する関心が低いからでしょう。誰も興味を示さないからマスコミも取り上げないということだと思います。私は、報道しないマスコミを批判しようとは思いません。けれども、年に一度でもいいから、日本では考えられないような劣悪な環境で生活せざるを得ない人々、特に子供たちがいることを、何らかのかたちで考える機会があってもいいのではないかと思います。
私は以前別の場所で、「寄付をするならユニセフやUNHCRなどしっかりとした団体に寄付をしましょう」という旨を主張しました。街頭で募金活動をしている団体のなかには、相当うさんくさいものもあり、寄付金が正当に使われているかどうか、はなはだ疑わしいと思うからです。
最近、残念なことに、私のこの考えを裏付けるような事件が報道されました。
大阪の34歳の男性と60歳の男性が、職業安定法違反(虚偽広告)容疑で逮捕されたという事件です。
新聞(産経新聞2005年5月31日)によりますと、容疑者は、NPOを名乗って大阪市内の繁華街でアルバイトを雇って街頭募金をする際、「ケーキ製造」などと虚偽の求人広告を出していたというものです。二人は昨年十月から十一月に発行された求人雑誌で計六回にわたって、大阪市内の喫茶店名義でアルバイトの求人広告を掲載し、実際は街頭募金のスタッフとして雇うつもりだったのに、ケーキの製造や試食、清掃業務など虚偽の名目で募集した疑いが持たれているとのことです。
容疑者らは、当日、集合場所に来た十代後半から二十歳代前半の若者らに、「ケーキ製造などのアルバイトはすでに募集が終了した。募金活動だけが残っている」と嘘をつき、募金箱やそろいのジャンパーなどを貸して、そのまま街頭募金をさせていたといいます。
募金場所は大阪のキタやミナミの繁華街で、一度に数十人を雇用し、「NPO緊急支援グループ」という団体名で難病の子供たちへの支援を呼びかけさせ、終了後、集まった募金と引き換えに時給千円のアルバイト代を支給していたとのことです。募金は多い日で一日に百万円近くあり、これまで数千万円以上を集めたそうです。
彼らは、実際に50万円を、あるNPO法人に寄付し、あたかも慈善活動をしているように見せかけるという巧妙な手口を使い、残りの金額は使途不明になっているそうです。
容疑者のひとりは、株式投資やソフトウエアの開発、昆虫育成などの事業失敗で多額の借金を抱えていたそうですが、日頃から贅沢な暮らしをしており、周囲からは不振がられていたという報道もあります。
これほど許しがたい事件もないと思いますし、この団体に寄付をされた人達は抑えがたい憤りを感じられていることだと思います。
さて、「よく分からない街頭募金に協力するのではなく、ユニセフやUNHCRなど世界規模のしっかりとした機関に寄付をすべき」、というのが私の考えですが、それで問題がまったくないかというと、残念ながらそういうわけでもありません。その理由を述べていきましょう。
まず、その寄付金が、災害などで実際に困っている末端の人々のところにまで届いているかどうか疑問が残ります。例えば、スマトラ沖津波の被害者が多いインドネシアでは、津波から半年が経った最近になってようやく被災者にいくぶんかのお金が支給されたそうです。しかもとうてい生活できないようなわずかな金額だそうです。
これを報道した「クローズアップ現代(2005年6月27日放送)」によると、ユニセフなどの機関が寄付したインドネシアの行政機関で、不正に横領された可能性が強いそうです。
また、タイのピピ島では、タイ政府が多額の資金を投じて島を再建しようとしているのですが、それは次回津波が起こったときに被害を少なくするようなインフラの整備に重点が置かれ、海岸線に沿って建築物の構築がすすめられているそうです。ところが、海岸線には大勢の住民の住居や商店が存在し、政府の計画がすすめられると、立ち退かざるを得ません。そういった住民たちは、津波で家や店をつぶされ、必死の思いで建て直したのにもかかわらず、政府の勝手な方針によって再度撤退を余儀なくされるというわけなのです。これでは、結果的には我々の寄付金が、結果的に被災者を苦しめるという皮肉なことになってしまいます。
大きな機関からの寄付金とはまったく正反対の観点からみてみましょう。
タイのプーケットは、津波で大きな打撃を受けたのにもかかわらず、現在急速なピッチで復興が実現しています。これはひとつには、タクシン政権がピピ島よりも、プーケットの観光事業再建に力を入れ、巨額の資金を投入していることもありますが、実際には、外国人が、店を建て直したり、ビーチをきれいにしたりと、ボランティアとして活動していることが大きな理由のようです。彼らはもちろんボランティアとして無償で復興を手伝っているのです。
何ヶ月もに渡り、プーケットに留まり、無償で復興を手伝っている彼ら彼女らのバイタリティはどこからくるのでしょうか。そういえば、私が昨年1ヶ月間、ボランティア医師として滞在した、タイのロッブリーのパバナプ寺でも、西洋人のボランティアは短くても半年、長ければ数年の単位でボランティアに来ていました。短ければ数日、長くても一ヶ月から二ヶ月間しか滞在しない日本人のボランティアとは大きな違いです。
私のある知人が言っていたのは、「西洋人は文化として寄付やボランティアの習慣がある」、ということです。
私は、これは日本人もそのまま見習うべきだと考えています。長期間ボランティアをしている西洋人は、必ずしも裕福な人たちばかりではありません。にもかかわらずボランティアに従事するのは、それが「文化としての習慣」になっているからでしょう。
最近、「子供が小さいうちから家族で海外旅行をしたい」、と考える家庭が増えているそうです。子供の頃から、日本よりも発展途上の国に行き、現地の人々の生活を見学したり、あるいは、そういった地域にボランティアに来ている外国人と交わり、仕事を手伝ったりすることは素晴らしい体験になるのではないでしょうか。
今から何年かがたったとき、6月20日は何の日かを知らない大人たちに、若い世代がそれを教えて、世代間で難民について考える、そんな時代がきてほしいものだと思います。
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|2013年6月17日 月曜日
17 なぜあの学生は退学にならないのか 2005/6/16
2005年5月に、大阪大学でとんでもない事件が発覚しました。
大阪大学医学部の学生が、「ネイチャー・メディシン」という医学誌に発表した論文のなかで、なんとデータの捏造があったと言うのです。
少し詳しくみてみると、その学生が発表した論文に使われている画像データが複数個所で同じものが使われていることを、研究室の研究員が発見したそうです。直ちにその学生を問いただしたところ、学生は、一部で意図的に画像を改変したことを認めたそうです。また、この学生が国内に発表した論文にもデータが未熟なところがあり、論文の取り下げの申請がおこなわれたそうです。
この学生は、「マウスの実験はきちんとやった」と言い、画像については「いいデータを早く出さなければと思った」と話したそうです。
しかし、「実験はきちんとやった」などというこの学生の言葉をいったい誰が信じることができるでしょうか。
この論文の内容は、肥満に関する遺伝子についての研究結果であり、将来的には肥満の予防あるいは治療に応用できると考えられていたものです。学生は、医学をばかにしているばかりか、他の研究者の信頼もなくしていると言わざるを得ません。
捏造したデータを平気で発表する研究室の信頼も落ちるでしょうし、これでは大阪大学医学部から発表されるすべての論文、さらには他学部の論文、もっと言えば、日本人のすべての論文の信憑性が疑われることになるかもしれません。
この学生のとった行動は、法的にどれくらい裁かれるべきなのか私には分かりませんが、断じて許せるものではありません。捏造したデータを使った論文を平気で発表できるこの学生は、いったい医学というものをどのように考えているのでしょうか。真実を解明することに情熱を燃やし、着実に研究を積み重ねている研究者に対し、この学生はどのように思っているのでしょうか。法的には無罪であったとしても、この行為は、科学に対する「冒とく」であり「侮辱」であり、二度と科学に携わることをさせてはいけない、と私は考えます。
たしかに、人間は誰でも「失敗」することがあります。昨今マスコミで報道されている「医療過誤」にしても、「失敗」から患者さんの生命をなくしたものもあります。それに対して、「人間は誰でも失敗するものだから過失のある医師を許してほしい」というつもりはありません。けれども、過失をした医師とて、患者さんのためになると思うことをしているのです。例えば、患者さんを救おうと思って手術をおこない、結果的にそれが「失敗」となり、法的に過失が認められたというわけです。
それに対し、データ捏造の学生は、明らかに「悪意」があります。この学生の行為で、命を亡くした人はいないでしょうが、「悪意」のある行為を断じて許してはいけない、と私は思います。
それにしても、なぜこの学生は退学にならないのでしょうか。退学にならないどころか、報道では名前さえ公表されていません。この学生は現在医学部の6回生だということですから、来年の今頃は医師免許を所得して、研修医として患者さんの治療をおこなうことになるのでしょう。しかし、こんな医者を誰が信用することができるでしょうか。
この医学生の起こした事件とほとんど同時期に、北海道のある医師が殺人容疑で書類送検されました。この医師は、入院中の患者さん(当時90歳)の人工呼吸器のスイッチを切り死亡させたというのです。この医師がスイッチを切る時点では、この患者さんはすでに意識不明であり、もしもスイッチを切らなかったとしても死亡した可能性が強いとのことです。
報道によりますと、この医師と患者さんの関係は非常に良好で、患者さんの長男の妻は、「まるで親子のように仲が良かった。近所でも評判のいい先生だった。」と発言しているそうです。そして、殺人容疑での書類送検に対して、「こんなことになるなんて…。先生はまだ若いので、先のことが心配です」とつぶやいたとのことです。また、呼吸器のスイッチを切ることについては家族の同意があったと報道されています。
現在の日本では、安楽死に関する法的整備がきちんとなされているとは言い難い状況であり、このようなケースに遭遇することは私にもしばしばあります。法的には、いったん作動させた人工呼吸器を止めることはむつかしいことが予想されますから、患者さんが高齢で、先が長くないと思われるときには、あらかじめ患者さんと家族に、呼吸状態が悪くなったときに人工呼吸器を使うかどうかを確認しておくことが多いと言えます、
おそらく、この医師もそのようなことを考えていたと思います。これは、私の推測ですが、この患者さんは、まだ先が短いという状態ではなく、呼吸器の説明をするタイミングになかったのではないかと思われます。ところが、何らかの理由で、突然呼吸困難に陥り、緊急的に気管内挿管をおこない、人工呼吸器を接続する事態になったのではないかと思われます。高齢者は、例えば、誤嚥などによって突然呼吸不全に陥ることもあり、それはこの医師も予想していたのでしょうが、患者さんと「親子のように仲がよかった」こともあり、急変したときの対応について、本人や家族にそういった話をするタイミングが結果的には遅くなったのではないでしょうか。
安楽死や尊厳死といった問題は、また改めて述べたいと思いますが、こういった問題は、単に法律を制定すれば解決するといった問題ではありません。「死」とは、法律で決められるものではなく、それぞれ個人が決めるべきものだと思うからです。
この医師が殺人容疑で書類送検されたのに対して、データを捏造した医学生は名前の公表がなされないばかりか、1年後には医師として患者さんと接することになります。このふたりのうち、どちらが患者さんの立場にたった医師と言えるでしょうか。答えは自明でしょう。私が患者ならこの書類送検された医師を信頼します。
法律というものは、本当の意味でものごとを正しく判断できない、というのが私の持論です。本当の意味での罪の重さと、法律で裁かれる罪の重さは必ずしも相関していないように感じることがよくあります。
例えば、「殺人」という罪を考えたときに、自分の低次元な欲求を満たすために少女を誘拐し殺害した未成年者は数年間の刑期を終了すれば社会に復帰します。これに対し、ヤクザが自分の親分の仇をとるために、抗争相手のヤクザを殺害すれば、ヤクザという理由だけで一般人よりも長い刑期を命じられるのが普通です。これら2つの例では、本当の意味でどちらが重い罪を受けるべきでしょうか。
もうひとつ例を挙げましょう。大阪市では、スーツの支給を始め様々な手当てを市役所の職員に供給していたことが発覚し、税金を不当に使用していることが明らかになりました。これは職業倫理上許されないことですが、誰も職を失っていません。
数年前に、中部地方のある警察官が、裏ビデオ所持で逮捕された犯人の所有していたビデオを自宅に持ち帰り懲戒免職になったという事件がありました。
市民の税金を不当に使っていた大阪市の職員と、ビデオを自宅に持ち帰った警察官のどちらが懲戒免職になるべきでしょうか。
私個人の考え方ですが、法律に従って生活することが正しく生きることではないと思います。私の基準は、「法律」ではなく、「良心」や「情熱」「人情」といったものです。アウトロー的な言い方をすれば、「法律」ではなく「掟」に従うべきということです。
「掟」に照らして考えれば、データ捏造は絶対に許せる行為ではありません。多くの医師や研究者、それに間接的には患者さんをも裏切る行為になるからです。これに対し、日頃から仲がよかった患者さんの人工呼吸器のスイッチを家族の同意を得た上で切る行為は「法律」には反しているとしても、「掟」の基準では許されるのです。
私は『偏差値40からの医学部再受験』で、医学生のカンニングを激しく非難していますが、これも「掟」を踏みにじる行動だからです。
どのような仕事についても、自分なりの「掟」をもっていれば道を踏み外すことがなくなるのではないでしょうか。仕事だけではありません。あらゆる行為、あらゆる人間関係に「掟」を適用すれば、変わらざる真理と価値観に従い、正しく生きていけるということを私は確信しています。
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|2013年6月17日 月曜日
16 タトゥーの功罪 2005/6/1
タトゥーを入れる人が増えてきているように感じます。一昔前までは、タトゥー(刺青)とは、そのスジの人が入れるものと考えられていたように思います。ところが、最近では、10代の女性や家庭の主婦が、何のためらいもなく、「普通に」入れているような印象を受けます。
タトゥーを「普通に」入れる人が増える一方で、日本には依然として、タトゥーに対する偏見があるのも事実です。
例えば、タトゥーを入れている人は入場できない銭湯がありますし、入会を断るフィットネスクラブも珍しくないようです。私は、こういう事実は許しがたい「差別」だと思うのですが、そういう規則を設けている銭湯やフィットネスクラブに苦情が寄せられたり、差別の撤回を求めた市民運動が起こったり、という話を聞くこともありませんから、社会全体でみたときには、タトゥーを入れる人たちは、まだ充分に社会的に認められていないマイノリティであるのかもしれません。
先日、この「差別」を逆手にとって、許しがたい利益を享受している若い男性の話を聞きました。二十代前半のこの男性は、全身にタトゥーを入れているのですが、「タトゥーがあるせいで、社会的に差別を受けておりそのため就職ができない。だから生活保護を受けたい。」という主張で、実際に生活保護を受けているのです。この男性は、全身にタトゥーを入れていると言っても手足には入っておらず、普通に衣服を着ればタトゥーを入れていることなど分かりません。自分が働かずにお金を得たいがために、屁理屈をこねているだけなのです。
医師をしていると日々感じるのですが、生活保護を受給している人たちのなかには、本当は働けるのじゃないのかと思われる人が少なくありません。一方で、病気があるのだから生活保護を申請すればいいのに、と思われる人で、「どうしても生活保護には頼りたくない」という信念を持っておられる方もおられます。
さて、タトゥーですが、タイでは日本よりもはるかに普及しているようです。バンコクの繁華街やパタヤなどのリゾート地では、タトゥーショップが乱立しており、ファッション感覚でタトゥーを入れる人が多いのに驚きます。
けれども、タイではタトゥーとは、もともとはファッション感覚で入れるようなものではなく、神聖で宗教的なものなのです。
タイ人なら誰でも知っている伝説があります。
それは、アユタヤ時代の中部バングラチャン村での出来事です。タトゥーを入れた11人の村人は、ビルマ兵に切られてもケガひとつ負わず、逆に侵略者を苦しめたそうです。そして現在でもタトゥーが、「特別な力をもたらす」と信じる人が多いのです。
最近、イスラム過激派による襲撃が続くタイ南部に派遣されるタイ国軍兵士のあいだで、タトゥーを入れるのが流行しているそうです。テロ活動と戦う兵士たちは、タトゥーに仏の加護を求めているのです。また、タイでは、実際にタトゥーを入れてから、「仕事も家庭も好転した」という人が大勢いるそうです。
神聖化しているタトゥーを入れる彫師のなかには、「カリスマ彫師」と呼ばれる人がいます。例えば、タイのパトゥムタニ県在住のヌー氏がそのひとりで、氏のもとには、政治家やビジネスマンに加えて、兵士や警官、さらには女優も訪れます。アンジェリーナ・ジョリーの背中の「虎」も、ヌー氏の手によるものだそうです。
ヌー氏によると、タトゥーと仏教の間には密接な関係があるそうです。「タトゥーはタイを支える精神的な柱。道徳心がない者は受け付けない。」と氏は言います。実際、兵士でも、イスラム教徒に対する敵意をむき出しにするような者は追い返すそうです。
神聖で宗教的な意味を持ち、人々の精神の土台となるタトゥーですが、私は、安易にタトゥーを入れることの危険性を医学的な観点から主張したいと考えています。
私が、タイ国のエイズホスピスで医療ボランティアをおこなったことは、別のところで述べましたが、このエイズホスピスに入所されている大半の患者さんが、タトゥーを入れていました。なかには、両手両足も含めて全身に鮮やかなタトゥーを入れている患者さんもいました。北タイの施設でお会いしたエイズ患者さんも全身にタトゥーを入れていました。
そして、タイの医師や看護師が口をそろえて言います。「タイでは、正確な統計はないけれども、かなりの人がタトゥーを入れることによってHIVに感染している」、と。
カリスマ彫師のヌー氏は、寺のなかの神聖なスペースで、「彫り」の施術をおこなうそうですが、バンコクの繁華街やパタヤなどのリゾート地でファッション感覚でタトゥーを入れる人も少なくありません。
そして、こういった場所での施術は、感染予防が充分におこなわれているとは到底思えないのです。寺でタトゥーを入れたとしても、感染予防対策が万全とは言えないと思いますが、繁華街やリゾート地での施術は、私の目には危険極まりないものにうつりました。
こういった地域のタトゥーショップでは、街頭でタトゥーの写真を見せて客引きをおこないます。客がタトゥーを入れることに同意をすると、近くの小屋のようなところに行くことになります。そこで施術がおこなわれるのですが、そういった場所には、滅菌器が置いてあるとは到底思えませんし、どれだけ無菌の環境で施術されるのか、多いに疑問です。
日々の臨床上で遭遇する患者さんのなかで、C型肝炎ウイルスを保有している人は少なくありません。日本全体では、およそ300万人もの人がこのウイルスを持っているとも言われています。このウイルスが発見されたのは1989年で、それ以前に輸血を受けた人に感染者が多いという特徴があります。また、1960年代頃までは、予防接種の際の注射針を使い回ししていた地域があったそうで、それが原因で感染した人もいると言われています。
昔の日本ではヒロポンが合法で、薬局にも売っており(世界中で覚醒剤が合法だったのはおそらく日本だけです)、この覚醒剤の静脈注射により感染したという人も少なくありません。
そして、患者さんを問診すると、タトゥーを入れることによってC型肝炎ウイルスに感染したと思われる人も決して珍しくはないのです。
おそらく、現在でもタトゥーを入れることによってC型肝炎ウイルスに感染する人もいるに違いありません。また、タイではHIVに感染したと思われる人が大勢いるのです。
タトゥーショップによっては、かなり入念に対策を取っているところもあるようです。例えば、施術で使う針をすべて使い捨てにしているショップもあるそうです。
しかしながら、完全な滅菌対策をおこなうというのであれば、少なくとも医療現場で実際におこなわれている外科手術の環境と同じようにする必要があります。医療現場では、術者は滅菌されたガウンを着て、滅菌された手袋を着用し、使用する器具もすべて滅菌されたものです。手術室によっては、室内を室外に比べて気圧を高くしてあり、ドアが開いたときに、室外の空気が室内に入らないような工夫もなされています。
しかし、それでも感染するときは感染するのです。だから、術中、及び術後には抗生物質の投与が不可欠です。しかしながら、抗生物質は細菌を死滅させることはできても、C型肝炎ウイルスやHIVのようなウイルスにはまったく無効です。
私はこれまでの人生でまだタトゥーを入れたいと思ったことはありませんが、興味がないこともありません。もしも私が入れることを決意したなら、病院や診療所に彫師を呼んで、完全な無菌状態でやってもらいたいと思います。それに医療機関で施術を受ければ、同時に痛みのコントロールをおこなうこともできます。ただ、医療機関でのタトゥーなどという話は聞いたことがありませんから、現実的にはそういうやり方はむつかしいのかもしれません。
タトゥーというものは、たしかに医学的にはすすめられるものではありませんし、残念ながら社会的な偏見があるのも事実です。しかしながら一方では、神聖な、あるいは宗教的な意味を有するものですし、タトゥーを入れることによって士気が上がる兵士がいるのも事実なわけですから、一概にいいとか悪いとか言えるような問題ではありません。
入れようと思っている人は、その利点とリスクを充分に考慮する必要があるものと、私は考えています。
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|2013年6月17日 月曜日
15 私が怒らせてしまった患者さん 2005/5/22
先日、外来を受診された患者さんを怒らせてしまいました。これまでも、院内で医療従事者に対して怒りをあらわにする患者さんを何度かみたことがありましたが、ひとりの患者さんが私ひとりに怒りをぶつけられたのは初めてでした。
怒りの内容は、「どうしても点滴をしてほしい」という患者さんに対して、「点滴は必要ない」という旨を私が話したのですが、私の説明に納得されず、結局「点滴をしてくれないなら薬も要りません! 診察代だけ払って帰ります!」と言って帰られたというものです。
もう少し詳しくお話しましょう。
患者さんは、40代の女性で、数日前から喉が痛くて熱があるという理由で来院されました。診察すると、おそらく細菌性の急性扁桃炎であることが分かりました。発熱と喉の痛み、それに軽い咳以外は症状がなく、水分摂取も可能なため、抗生物質と解熱鎮痛剤を内服し数日間安静にしていれば充分に治癒が見込めるという状態でした。
診察を終える前に、何か言いたそうにしている患者さんに私は尋ねました。
「何かお聞きになりたいことはありますか。」
「先生、熱が出てしんどいので、熱を下げる点滴をしてください。」
「通常、熱を下げるために点滴をおこなうことはしません。薬が飲める人には内服薬を飲んでもらいます。飲めなければ坐薬を使うこともあります。坐薬も使えないような場合は、注射をすることもありますが、注射の場合、副作用もありますから、安易にはおこなわないことになっています。」
この患者さんには、注射の解熱薬が使えない理由がありました。患者さんはピリン系の薬剤に対してアレルギーがあるのです。現在、日本で使用できる注射可能な解熱剤はピリン系のものしかありません。私はそれを説明しました。
「点滴ではなく、普通は筋肉注射をしますが、解熱薬はあります。しかし、それはピリン系の薬剤で、あなたのようにピリン系の薬剤にアレルギーがある人には使えません。もし使うと、危険な状態になることも予想されるからです。」
患者さんはあきらめません。
「でも、先生。点滴をするとすぐに治るんです! とにかく熱を下げる点滴をしてください!」
「細菌性の感染症に対して、抗生物質の点滴をすると、たしかに劇的に治癒することもあります。しかし、あなたはピリン系の薬剤にアレルギーがありますし、花粉症も軽いものではないようです(問診で花粉症のあることが分かっていました)。アレルギー体質の方に、抗生物質の点滴をおこなうと短時間で危険な状態になることもあるのです。そんな危険なことをするよりも、飲み薬で様子をみた方がいいと思いますよ。」
「いえ、どうしても点滴をしてください!」
「そこまで言われるなら、点滴をしましょうか。ただし、薬剤は入れないでおきましょう。水と電解質のみの点滴になりますが、それでもいいですか。」
「水と電解質だけなら意味ないでしょ! せめてビタミン剤などの栄養剤を入れてください!」
「あなたは、栄養剤が必要な状態ではありません。それにあなたのような状態の人に栄養剤を保険診療で供給することはできないのです。どうしてもと言われるなら、自費診療で点滴をすることは可能ですが、栄養剤の点滴が、高額なお金を払ってまでやるべきものではないと思いますよ。」
「けど、先生。熱を下げるのに飲み薬では効果がないんです!」
このままでは納得してもらえないと思って、私は薬の本を取り出して、注射の解熱剤のところを見せました。
「ここに書いてある通り、現在日本で使われている注射の解熱薬はこれらだけで、これらはいずれもピリン系なのです。あなたには使うことができないのです。」
「こんな本見せられても分かりません! どうしても点滴をしてくれないならもういいです! 帰ります! 飲み薬も要りません! 診察代だけ置いて帰ります!」
と言って、バタンと大きな音を立ててドアを閉め、その患者さんは診察室を去っていきました。
我々医療従事者は「点滴神話」と呼ぶこともありますが、患者さんのなかには、点滴をすれば、たちまち病気が治ると思っている人がいます。
たしかに、点滴をすれば劇的に症状が改善する場合があります。この患者さんに私が述べたように、抗生物質が劇的に効く場合もありますし、嘔吐や下痢が数日間続いていて脱水の状態にあるときに、点滴をするとみるみるうちに元気になることもあります。この場合は特別な薬剤は必要でなく、水と電解質のみのもので充分です。水と電解質のみの点滴とは、要するにポカリスエットのようなものです。
嘔吐が続いているときには、「吐き気止め」を点滴の中に入れると数時間でよくなりますし、喘息の場合もある薬剤を使うことで劇的に改善します。また、低血糖で意識を失っているときにブドウ糖の注射をすると、まるで何事もなかったかのように意識が戻ります。
しかしながら、この患者さんのように、細菌性の急性扁桃炎が疑われたものの、その様態はさほど重症ではなく、飲み薬で充分と思われるようなケースには点滴は必要ありません。診察する医師によっては、飲み薬すら必要ないと言うかもしれません。
私は、この「点滴神話」を持っている患者さんに対しては、点滴が必要でない理由を説明し納得してもらうようにしています。これまでも、「どうしても点滴をしてほしい」という患者さんに何度も遭遇してきましたが、必要ない理由を説明し納得してもらうか、あるいは同意を得た上で、水と電解質のみの点滴をするようにしていました。
今回のように、水と電解質のみの点滴では納得されずにどうしても薬剤を入れてほしいという患者さんは初めてでした。しかも、「それができないなら飲み薬も要らない」と言って怒って帰られた、という体験も初めてです。
この患者さんに最も必要なのは安静にすべきことだったのですが、このように怒りをあらわにして不快な気分を持てば治る病気も治りにくくなります。また、私からみても、患者さんに利益を与えられなかったわけですから気分のいいものではありません。結局、医師からみても患者さんからみても結果的にはマイナスになってしまったのです。
では、この症例ではどちらが悪いのでしょうか。おそらく、医療従事者に話をすれば、「それは仕方ないよ。」とか「お前は悪くないよ。」という意見も出てくるでしょう。
しかし、私としては、やはり自分に非があったのではないかと考えています。
「ナラティブ・ベイスド・メディシン」という言葉をご存知でしょうか。「ナラティブ(narrative)」とは、「物語」という意味で、患者さんはそれぞれ自分の症状に対する自分だけの物語を持っていて、それを医療従事者が察知し、その物語を解決するようなアプローチをすべきであるという考え方です。
例えば、頭痛がするといって診察室を訪れた患者さんに、「それは片頭痛だから薬で様子をみてください」と言っても、「片頭痛じゃなくてもっと怖い病気かもしれないから徹底的に検査をしてください」などと言われることがあります。なぜ、そんなに怖い病気を心配しているのかと思い、詳しく話しを聞いてみると、実は自分の父親が脳腫瘍で発見が遅れ命を落としたというエピソードを持っていた、などといったことがあります。
この場合は、なぜ脳腫瘍を疑う必要がなく、片頭痛という診断がつけられるのかということをじっくりと説明する必要があります。ただ、むつかしいのは、患者さんが、この例の「父親が脳腫瘍」というようなエピソードをなかなか話してくれないことがあるからです。
さて、話を戻しましょう。「ナラティブ・ベイスド・メディシン」の立場から、私が怒らせてしまった患者さんのことを考えたときに、やはりこの患者さんにも、どうしても点滴にこだわる理由があったのでしょう。それが科学的あるいは理性的でないこともありうるでしょうが、患者さんにとっては非常に重要なことであるために、数分間の私の説明では納得できなかったのかもしれません。
「自分のことを理解してもらう前に相手のことを理解する」というのは、あらゆる人間関係の鉄則ですが、私にはその鉄則が守れていなかったのです。
最後に偉人の名言をご紹介いたしましょう。
「心には理性で分からない理屈がある」(パスカル)
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|2013年6月17日 月曜日
第14回(2005年8月) 習慣としての奉仕
発生から四ヵ月以上がたち、インド洋(スマトラ島沖)大津波について語られることが少なくなってきたように思います。振り返ってみると、あの津波によって、死者・行方不明者の総数は30万人となりました。現在もPTSDに苦しんでいたり、身寄りをなくして生活に不自由している子供たちが大勢います。
マスコミの報道だけをみていると、あの津波についてのニュースは最近ほとんどありませんし新たに大きな天災が起こってもいませんから、普通に生活をしている限りは世界で困窮している人々のことを考える機会はほとんどないのではないでしょうか。
しかしながら、現在も水がない、食料がない、衣類がない、医薬品がない、安全な環境がない、などの理由で支援を必要としている人が大勢います。
例えば、スーダンで20年以上続いた南北間の内戦は、2005年1月9日に包括的和平協定が結ばれたことにより一応は終戦となりましたが、この内戦によって発生した難民はまだまだ大勢います。スーダンの西側に位置するチャドに内戦から逃れるために避難しているスーダン難民は約20万人もいます。単純に数字だけで比べられるものではありませんが、インド洋大津波の死者・行方不明者のおよそ3分の2にあたる人々が、スーダンの内戦から逃れるために隣国に避難しているのです。
そして、この20万人の難民のうち、およそ8割が女性と子供です。このなかには、自分の夫や父親が内戦で死亡したという人達も大勢います。そして、家を襲撃されたり暴力を受けたりしてPTSDになっていると思われる人たちもいるわけです。
スーダンだけではありません。アフガンの難民はまだ数百万人もいます。タリバン政権が崩壊した2002年以降、少しずつ故郷に戻ることのできる人が増えてきていますが、まだ数百万人の人たちが故郷に戻れずにいるのです。
また、慢性的な水不足に苦しむ人々は、世界29ヶ国でおよそ4億5千万人もいると言われています。水は飲むだけでなく、手を洗ったり洗濯をしたり、清潔な衛生状態を保つために不可欠なものです。世界で20億人以上の人々は、清潔な衛生状態になく、水を原因とする病気は8秒に1人のペースで幼児の命を奪い、途上国の死因の80%を占めます。
インド洋大津波のときはその衝撃的な映像がメディアを通して流れましたから、被害の状況がわかりやすかったと思いますが、今お話したような、スーダンの状況や、アフガンの難民、不衛生な環境で苦しむ人々といったようなことは、なかなかマスコミでは報道されません。
しかしながら、こういった支援を必要としている人々の情報というのは、誰もが常に意識している必要があると私は考えています。
では、私はどのようにしてこのような情報を入手しているかというと、主にユニセフやUNHCR、日本赤十字のホームページからです。また、これらの機関から定期的に送られてくる冊子からも情報を得ることができます。これらの冊子は、定期的にこれらの機関に寄付をしていれば無料で送ってきてくれますから、興味のある人は寄付をしてみてはいかがでしょうか。
以前、別のところでも述べましたが、テレビ局などが主催する基金に寄付をしても領収書の発行もしてくれませんし、こういった情報も入手することができません。そういった点からも、ユニセフやUNHCRなどの組織に寄付をする方がずっと有用だと私は考えています。
奉仕、例えば寄付金なんていうものは、黙って匿名ですべきものと以前の私は考えていました。「○○円の寄付をした」などといったことを他人に言うのは、単なる偽善、あるいは有名人であれば売名行為であると思っていたのです。それに、最後まで誰にも言わず寄付を続けていくことが男の美学であるように感じていたのです。
けれども、今の私は違います。例えば、「今日は久しぶりにパチンコに行って5千円負けてしもたわ~」というようなことを隣に住む人に言う感覚で、「財布に5千円あったから、明日になったら給料も入ることやし、スーダン難民に寄付してきたわ~」と気軽に言えるような社会がいいのではないか、と感じています。
もちろん、5千円もの大金を気軽に寄付できる人というのはそう多くはないでしょう。これに対し、5千円が大金でないと感じる人もいるかもしれません。いくらくらいの額を寄付したりボランティアに使ったりするのが望ましいのかということを私はよく考えるのですが、ある人が興味深いことを言っていましたので紹介いたします。
その人は、毎年年収の1%を奉仕に使うと言います。その人の年収がいくらかは知りませんが、例えば600万円だとしたら6万円を寄付などに使っているわけです。私はこの「年収の○%」という考えに、なるほど、と思いました。
私は医師という立場もありますし、タイのエイズ施設に深く関わるようになりましたから、とりあえず、今年の奉仕に使う金額の目標を年収の10%に想定しています。例えば今年がんばって600万円の収入を得ることができたら、60万円を奉仕に使うつもりです。
ちなみに、ユニセフやUNHCRなどの組織に寄付した場合、年収の4分の1マイナス1万円までは税控除の対象となります。例えば年収1千万円であれば、4分の1の250万円から1万円を引いた金額、すなわち249万円までは控除されるのです。ということは、日本政府としても、年収のおよそ4分の1を寄付に使うことを奨励しているのでしょうか。だとしても、今の私は年収の10%が限界で、なかなか4分の1まではおこなえません。まあ、将来的な目標ということにしておきたいと思います。
ところで、寄付をおこなったり、あるいはボランティア活動をしたりといった意識が生じるのはもちろん「良心」からであります。なかには「満たされない日常を埋め合わせるために被災地に行ってボランティアに参加する」という人もいると思いますが、大半の人は「良心」から寄付やボランティアをおこなっているものと私は考えています。「良心」とは、本当はすべての人が持ち合わせている、古今東西変わることのないひとつの真理(原理、または原則)なわけです。
よく、寄付をおこなうのは単なる自己満足だ、と言う人がいますが、たとえ自己満足であったとしても、それは寄付をおこなうという行動に満足しているのではなく、「良心」に従って行動しているということに対する満足なのです。
寄付やボランティアにかかわらず、いつも「良心」に従って行動すると、揺ぎ無い不変の自己を意識することができますから、例えば周囲の環境がどのように変化しようと、何も動じることはないのです。
私は、他人からみればいつも変わった行動をとっていると思われがちですし、また組織に所属していなくて不安じゃないの、と聞かれることもありますが、私はいつも「良心」に従って行動しているということを自負していますから、何も動じないのです。組織の理屈で動くよりも、自分の「良心」に従って行動した方が、ずっと自信に満ちたものになります。なぜなら、組織を構成するのがたかだか数十人から数千人なのに対し、「良心」を支持してくれる人は世界中に何十億人といるからです。
最近、日本の先行きを不安に思わせるような新聞記事をみかけました(日経新聞2005年4月30日)。その記事によりますと、新入社員の約4割が「自分の良心に反しても会社のためなら上司の指示通り仕事をする」と答えているというのです。
これは問題です。他国での調査がないから分かりませんが、おそらくこのような調査結果が出るのは日本だけではないでしょうか。いつから日本人とはこのような民族になってしまったのでしょうか。いえ、あるいは昔からそうなのかもしれません。一連の銀行の不祥事や、最近では大阪市の公務員の事件などをみてみても、以前から日本人とはそのような国民であったのかなという気がしないでもありません。
最後に、ある人が述べた私が大好きな言葉をご紹介したいと思います。
「奉仕とはこの地球に住む特権を得るための家賃である」
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|2013年6月17日 月曜日
第13回(2005年4月) 病苦から自ら命を絶った男性
ここ数年間、日本では毎年3万人以上が自殺しています。人口当たりの自殺者(いわゆる自殺率)を国際比較すると、日本は先進国のなかではトップです。全世界でみると第10位ですが、9位までは先進国とは呼べない旧ソビエト連邦の国や東欧諸国ばかりですから、先進国に限れば日本が第1位となります。
メディアでは「リストラを苦に自殺」、「生活苦からの死」などといった報道が多いのですが、実は自殺の原因でもっとも多いのは「病苦」(健康問題)です。日本の自殺の特徴は「病気を苦にして自殺する人が多い」なのです。
救急医療の現場にいると、自殺未遂の患者さんがよく搬送されてきます。自殺の方法はリストカット、薬物の大量服用、飛び降り、など様々です。なかには、本当は死にたくなくて他人(関係がうまくいっていないパートナーなど)の気をひきたいだけ、というものもなくはありません。
しかしながら、本当に死を決意して自殺を図り、運よく(?)助けられたという症例もあります。また、そのときは救命されたけれども、再び自殺を図り完遂した、という人もいます。今回は、私が診察しその後自殺したある患者さんの話をしたいと思います。この男性は、若くして糖尿病を発症しました。生活習慣病の代表である糖尿病は、生活の不摂生からおこることが多いのですが、なかにはウイルス感染などをきっかけに、生活習慣とは関係なく発症するタイプのものもあります(これを「Ⅰ型糖尿病」と呼びます。生活習慣からくるタイプは「Ⅱ型糖尿病」です)。
医療従事者と話をしても、「不治の病、要するに、治療方法がない病気もあるのだから、Ⅰ型糖尿病のようにインスリン自己注射という効果的な治療法がある病気はそれほど重病じゃない」と考えている人は少なくありません。しかし、本当にそうでしょうか。Ⅱ型糖尿病のように、自分の生活態度がもたらした病気であれば、「自業自得」の要素はあるかもしれません。けれども、Ⅰ型糖尿病は本人の態度とはまったく関係なく発症するわけです。そして、いったん発症すると、一生インスリンの注射を打たなければなりません。「注射だけ打っていれば命が助かるならたいしたことないじゃないか」、そのように思う人もいるかもしれません。
しかしながら、実際はそんなに単純な話ではありません。注射といっても、一日一回いつでも好きな時間に打てばいい、というわけではないのです。インスリンは、毎日欠かさず、1日に2回もしくは3回も決まった時間に決められた量を打たなければなりません。それだけではありません。日に三度の食事も、ある程度決められた量を決められた時間に摂らなければならないのです。激しい運動も制限されます。そして、これらの制限に従わなかった場合、低血糖発作を起こし(血糖値は下がりすぎると非常に危険です)、意識を失い、救急搬送されることになるのです。
私がある救急病院で当直の仕事をしているとき、救急車で28歳の男性の患者さんが搬送されてきました。男性の持病はⅠ型糖尿病。自殺目的でインスリンを大量に注射して意識をなくし、部屋を訪れた友人に発見されたのです。
意識消失の原因が低血糖発作の場合、ブドウ糖を静脈注射すればすぐに意識が戻ります。この男性も注射後1分程度で意識が戻りました。そして、自分が病院にいることに気付くと、男性は我々医療従事者に暴言を吐きました。「なんで死なせてくれへんねん!」、そのような言葉を何度も叫びました。
それでもしばらくすると落ち着きを取りもどし、やがてまともに話をしてくれるようになりました。Ⅰ型糖尿病を発症したのは18歳。その現実をしばらく受け入れられなかったことを教えてくれました。
18歳と言えばいろんなこと新しいことをやりたい年齢であり、街に遊びに出掛けたり旅行に行ったりすれば、眠らずに夜通し起きていたいこともあるわけです。ところが、Ⅰ型糖尿病がありインスリンで血糖コントロールしなければならなくなれば、規則正しい生活を余儀なくされ、決まった時間に食事を摂り、インスリンを自己注射しなければなりません。もちろん暴飲暴食などできません。友達と話が盛り上がっていたとしても、徹夜で遊ぶなどということはできず、夜中に食事をしようという流れになっても彼だけはできないわけです。そういったことを18歳の青年に強いるのはかなり酷なことです。案の定、徹夜で遊んでエネルギーを過剰に消費し、その結果低血糖発作を起こしたことも何度もあったそうです。
やがてそんな彼にも彼女ができました。病気のことを理解してくれて、お互いに心から愛し合っていたそうです。数年後には結婚の話もでました。
ところが、彼女の両親に挨拶に行くと「結婚など絶対に反対だ」と言って彼の話を聞いてくれなかったのです。両親から「病気をもった障害者とうちの大切な娘を結婚させるわけにはいかない」と言われたというのです。結局、彼女の両親の反対でふたりは別れることになりました。
自分は何も悪くないのにⅠ型糖尿病という病気になって、最愛の女性の両親からは障害者と呼ばれ、そして別れなければならなくなったのです。これほど辛いことがあるでしょうか。この頃から彼の精神状態は再び悪化し、精神安定剤がなければ眠ることもできなくなりました。
社会からほとんど交流を断つような生活を数年続けた後、やがて社会復帰しました。仕事もみつけ、まともな暮らしをするようになったそうです。そんなとき、新たに彼女ができました。
ところが、新しい彼女は、以前のパートナーとは異なり、なかなか病気のことを理解してくれなかったと言います。以前の女性が彼の病気をそのまま受け止め、悲しみも苦しみも分かち合ってくれたのに対し、新しい彼女は「病気なんか気にしないで前向きに生きていけばいい」ということばかり言います。女性のこういった励ましの言葉は分からないでもないのですが、彼が必要としていたのは悲しみを共に感じてくれる以前のパートナーのような存在でした。
結局、その新しいパートナーの考えにはついていけず、しばらくして別れることになりました。そして、再び社会から距離を取るようになったのです。
救急搬送され私が投与したブドウ糖のおかげで(のせいで)意識が戻った彼は、もう何もかもが嫌になった、と言いました。仕事を見つけても「病気のことで何かと差別的な扱いを受けることが多い」と言います。
「先生、朝がくるのがどれだけ辛いことか分かりますか!」
この言葉が私にとって最も印象的でした。毎晩眠れない夜を迎え、大量のアルコールと睡眠剤を頼りになんとか寝るようにはするのですが、朝起きたときに痛烈な苦痛がやってくると言います。「朝がくるのが辛い……」、言葉の意味は分かりますが、私には真の意味で共感することができるとは言えません。私が経験したことのない苦しみなのです。
幸いこの日は救急外来を受診する患者さんがそれほど多くなく、私は時間がとれれば彼の病室に足を運び話を聞くようにしました。けれども、なんとか生きる希望を与えたいのですが、どんな言葉をかけていいかが分かりません。ひたすら黙って話を聞くことしか私にはできませんでした。
やがて、彼は言いました。「今まで多くの精神科の先生にみてもらって、ひとりだけよくしてくれた先生がいた。明日その先生のところに行ってみる」、私はこの言葉を聞いたとき心底ほっとしました。もう一度「生」に向かって進んでくれるんだ、そう感じました。
少しだけ嬉しくなった私は彼の病室を後にしました。その後、その病院を出る朝7時頃にもう一度病室を覗いてみたときには彼はぐっすりと眠っていました。「あとはその精神科の先生に任せよう」、そう思って病院を出ました。
悲劇はその直後に起こりました。
彼は私が病院を出たおよそ30分後、病室のカーテンを首に巻いて自殺を図ったのです。そして、今度の試みの結果は……、最悪のかたちでした。
彼のこの死の話を聞いたのはその1ヵ月後でした。救急搬送されたときに同乗していた友人がたまたま夜間の救急外来にやって来て、たまたまその夜にその病院で当直業務をしていた私に出会ったために教えてもらえたのです。
私は自己嫌悪に陥りました。彼が「精神科の先生のところに行く」と言ったのは、単に私を安心させるためだったのです。私が彼を死に追いやったのではないのか……。今もその思いは拭えません。
この事件以来、私はⅠ型糖尿病の患者さんを診ると必ず彼のことが頭に浮かびます。私にとって特別の思い入れのある病気が、Ⅰ型糖尿病なのです。
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|2013年6月17日 月曜日
12 医師免許更新はなぜ実施されない? 2005/4/2
政府の規制改革・民間開放推進会議が、小泉首相に提出する答申に盛り込む方針だった「医師免許の更新制導入の是非について05年度中に結論を出す」との項目が削除されることになりました。推進会議は、厚生労働省と折衝したうえで同意を得ていましたが、自民党の医療関係議員が強く反対し、削除に追い込まれたとのことです。
医師免許の更新制は、ミスを続発する医師を排除するなどして医療の質を向上させるのが目的で、こうした医師の処分と再教育制度の確立も提言しようとしていました。
読売新聞によりますと、医師会や医療関係議員らは、「これは医師イジメだ」と強く反発したとのことです。また、推進会議側には「医師の既得権益を守るためだ」と不満がくすぶっているそうです。
ところで、欧米やオセアニア諸国では、一定の年数が経れば、すべての医師は免許を更新するために試験を受けなければなりません。おそらく先進国のなかでは、日本だけが免許更新制度がないのではないでしょうか。
免許更新制度がないということは、一度医師国家試験に合格してしまえば、よほどのことがない限り免許を剥奪されることはないということを意味します。
更新制度の是非を議論する前に、この日本の特殊な制度をもう少しご紹介しましょう。刑事事件などを犯して、業務停止の処分を受けた医師が毎年発表されています。
最近では2005年2月4日に、刑事事件などで有罪が確定した医師ら合計38人の処分が厚生労働省から発表されました。今回最も重かったのが、東京女子医大病院事件で証拠隠滅罪に問われ、懲役1年、執行猶予3年の有罪判決を受けた男性医師で、医業停止1年6か月を命じられています。この医師は刑事事件で有罪が確定していながらも、1年6ヶ月が経過すれば、医師として仕事に復帰することができます。もちろん復帰するための試験などもありません。
実際の罪の重さと、事件の重大さは、必ずしも相関するとは限らず、また人によってもとらえ方が異なります。私は、個人的には、覚醒剤取締法や強制猥褻罪で刑事罰を受けたような医師が現場に復帰することに嫌悪感を抱いていますが、これらの法律で刑事罰を受けた医師でも1年以内の医業停止にとどまることがほとんどです。
それでは、富士見産婦人科事件(不必要な手術で患者の子宮摘出などをした)や、あるいは殺人などのように、免許停止の処分を受けた医師はどうなるのでしょうか。
実は、医師免許停止の処分を受けた医師も、一生医師の仕事に戻れないかというとそうではないのです。
医師免許停止の処分を受けた医師であっても、一定期間おとなしくした後に、申請手続きをすれば再び医師として仕事をおこなうことができるのです。これは、医師免許停止の処分を受けても、医師国家試験に合格したという事実は消えない、という理由によるものです。そして医師国家試験というのは毎年合格率が90パーセント前後という非常に合格しやすい試験なのです。
つまるところ、日本という国においては、いったん医師国家試験に合格してしまえば、あるいは少し乱暴な言い方をすれば、いったん医学部の入試に合格してしまえば、よほどのことがない限り、いえ、よほどのことがあっても、医師として医業に従事できなくなるということはないのです。
医療のレベルが低い医者が、医業停止や医師免許停止の処分を受けるというわけでは必ずしもないと思いますが、今回、政府の規制改革・民間開放推進会議が、医師免許更新について言及したことは、そういった既存体質に風穴をあける、いい機会だと私は考えていました。
ところが、現実は、日本医師会や医療関係の議員による反対で、医師免許更新についての議論は見送られることになりました。その理由が、「医師に対するイジメ」というのは少し幼稚すぎる反論ではないでしょうか。なぜ免許の更新が医師へのイジメになるのでしょう。
日本医師会の偉い方々や、議員の先生方のように、それほど患者さんと接する機会のない方が反対しているわけですが、これは、実際に日々患者さんと接している医師の意見をどれほど反映しているのでしょう。
いえ、日々臨床をしている医師よりも、患者さんの意見を尊重することが最も大切なことではないのでしょうか。
私は臨床医ですが、一患者の立場に立てば、自分を診察してくれるのは、常日頃から知識と技術の習得に努め、新しい見解にも熟知しているような医師であってほしいと思います。医師会の偉い方々や議員の先生方は、そのあたりについてどのように考えておられるのでしょうか。
なるほど、こういった偉い方々は、病院や医療従事者とのコネを持っています。したがって、自分や自分の身内が何か病気になったときも、そのコネを駆使して、適切な医療機関を受診したり、腕のいい医師を見つけることはたやすことでしょう。
しかしながら、一般の市民はそういったネットワークを普通は持っていませんし、マスコミなどが発表している「いい病院のリスト」などというのは、はっきり言ってあまり当てになりません。(この理由については機会があれば別のところで述べたいと思います。)
おそらく、国民の大多数は医師の免許更新に賛成なのではないでしょうか。政府の規制改革・民間開放推進会議が言うように、免許更新により、医療ミスを犯す医師が減少するかどうかは分かりませんが、少なくともすべての医師が、免許更新に向けて勉強することになるでしょうから、国民というか患者さんの立場からみればこれは歓迎されるべきことなのではないかと思います。
では、我々一般の臨床医がどのように考えているかお話しましょう。この、医師免許更新については以前からよく言われていることであり、我々医師どうしの話でもよく話題になります。
結論から言えば、私の知る限り、ほぼすべての医師が免許更新制度を望んでいます。たしかに、自分が更新の試験で合格点を取れなければ、少なくとも次の試験までは失業してしまうわけで、そういうリスクを抱えなければいけなくなるわけですが、それでも私の知り合いのすべての医師は賛成の立場にあります。
もちろん私も直ちに免許更新制度を導入すべきだと考えています。
自分が不合格になるかもしれないというリスクを抱えなければなりませんし、常日頃の勉強でも大変なのに、免許更新のための勉強もしなければならない、となると時間的にもかなりしんどくなることが予想されます。にもかかわらず、免許更新に賛成するのは、もちろんそれが患者さんのためになると考えているからです。医師というのは、日々自分の専門領域にかたよった勉強をしていますから、免許更新の試験があれば、自分の知識を見直すいい機会になるのではないでしょうか。
最後に、他の政府の政策との比較をしてみたいと思います。今よく話題になる、「郵政民営化」と、「アメリカの牛肉輸入」について、ここでは考えてみましょう。どちらの問題も、国民にアンケートをとれば、賛成と反対に分かれるようです。賛成が圧倒的大多数とか、逆に国民のほとんどが反対しているとか、そういうことはないようです。
ところが、この医師免許更新については、実際に調査したわけではありませんが、おそらく国民の大多数が賛成するのではないでしょうか。にもかかわらず、案が見送られたというのは、国民の意見をまったく無視していると言わざるをえません。そこのところを考えていただきたいものです。
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