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2013年6月21日 金曜日
50 「医療クライシス」を打開する方法 2007/3/20
2月24日の毎日新聞に、「医療クライシス」というタイトルで、医療関係者の声が特集されています。少し紹介しますと、
「(医師の仕事は)どれだけ過酷な勤務か知っていますか。(中略)医者を選んだのは人生の失敗でした」(40代開業医)
「結果責任を問われ、心身をすり減らして治療しても、感謝されるどころか疑いの眼を向けられることも多くなっている」(30代勤務医)
「医療に携わるなら、ある程度はボランティアのような覚悟で望まなければならないのは分かっていたが、過労死認定基準を大幅に超えていることには驚いた」(医学部を目指す女子高生)
・・・・・・
このような意見が多数集められているのですが、これらをまとめると、「医師の勤務時間は極めて長い割には報酬もそれほど多くなく、責任が非常に重く、一生懸命やってもそれほど感謝をされない」、ということになります。
もちろん、すべての医師がそのように感じているわけではありませんが、最近はこのように否定的な思いを持つ医療従事者が増えてきているのは事実です。
しかし、これらは突然そうなったわけではなく、以前から事情はそれほど大きく変わるわけではありません。細かいことを言えば、新研修医制度の導入で大学に残る若い医師が減少し、そのため大学傘下の病院から医師を引き上げざるを得ず医師の数が減る病院がある、とか、最近の医療訴訟の増加で医師をやめていく者が増えてきている、とかいったことはありますが、勤務時間が長い、報酬は多いわけではない(ただし少なくはありません)、責任が重い、感謝されないことも多い、などというのは今に始まったわけではありません。
「今に始まったわけではない」と言っても、私自身も医師として、こういった現状に満足しているわけではありません。満足しているわけではありませんから、自分の意見を本にも書いたわけです。
その意見をここで改めてご紹介すると、
医師の数を倍にせよ!
というものです。医師の数を倍にすれば、単純計算すればひとりあたりの患者さんの数が半減しますから、勤務時間が長い、という問題は解消されるでしょう。
しかし、医師の数が倍になれば、医療費が増額されない限りは、報酬は半減します。医療費を増額せよ、という意見もあります。OECD(経済協力開発機構)の2003年のデータによりますと、GDPに対する医療費の占める割合は、OECD平均が8.6%なのに対し、日本は7.9%です。G7だけでみると10%を超えていますから「先進国」のなかでみれば日本は医療にお金をかけていない国ということになります。(ちなみに、30ヶ国中1位は米国の15.0%、最下位は韓国の5.6%です)
したがって、この各国のGDPに占める医療費の割合の国際比較を持ち出して、医療費を上げるべきだ、という主張をときどき聞くことがあります。これはまったく正しい主張だと私は思いますが、残念ながら、日本政府は「はいそうですね。じゃあ来年から予算を上げますね」とは言ってくれません。
ということは、言い続けることは重要だとしても、当面の間は医療費の増額というのは期待できないわけです。もしも、医師の数が倍になり医療費が増額されないとすると報酬は半分になります。報酬が半減と聞くと、たしかにぞっとしますが、勤務時間も大幅に減少しての報酬半減です。
医師の仕事を一生懸命すればするほどプライベートな時間は犠牲となります。家族と過ごす時間が充分であると考えている医師などまず皆無ですし、時間がとれないことが時に家族関係を悪化させることもあります。
例えば、私の知り合いのある男性医師は、夜中に頻繁に病院から呼び出されるのですが、急変した患者さんがいれば駆けつけるのが当然という考えを持っています。しかし、この男性医師の奥さんはこの行動が理解できません。奥さんの言い分はこうです。
「本来の勤務時間以外の時間に出勤するなら時間外手当をもらうべき。そもそも医師という仕事は残業代がないのもおかしい。休みは月に一度あればいい方だし、これはあきらかな労働基準法違反だ」
この奥さんの言っていることも理解できます。「残業代」とか「休日出勤手当て」などというのは医師の世界ではほぼ皆無ですし、土日には学会・研究会などで出張費や宿泊費も自己負担で全国にでかけますから、医師の世界を特殊な世界と感じるのも無理はないでしょう。
もしも、医師の数が倍増して、夜間にも複数の医師が待機できるような状況を整えればこの奥さんの悩みは解決するかもしれません。たとえ収入が半減したとしても家族の時間は確保できるというわけです。
医師数が足らないのは勤務医だけではありません。開業医だって同じです。例えば、私は1月から一応開業医ということになりましたが、これまで勤務していた複数の病院では引き継いでくれる医師がいないため今も勤務を続けています。夜間の当直勤務も月に3~4回はおこなっています。夜間は勉強や学会発表のための準備などに時間をとられ睡眠時間を削らざるをえませんから、プライベートな時間などほぼ皆無です。
もうひとつ例をあげましょう。開業医には70歳を超えても仕事を続けている人が少なくありません。なかには80歳を超えても現役でがんばっている医師もいます。こういう医師たちはお金のために働いているのではもちろんありません。むしろ、これまでに蓄えたお金と年金で老後をのんびりと過ごしたいと考えている人たちも少なくないと思います。にもかかわらず、仕事を続けなければならないのは、仕事をやめると患者さんの行き場がなくなるからです。「私は今月かぎりで医師をやめますから、次からは別の病院に行ってください」とはなかなか言えるものではないのです。診療所を引き継いでくれる医師を探しているが見つからなくて困っている、と言っている年輩の開業医も少なくありません。
「医療費を増額せよ」に比べると、「医師の数を増やせ」という議論はそれほど活発にはおこなわれていないように感じますが、現場で働く多くの医師は、「収入が減っても勤務時間を減らしたい」と考えているのです。(少なくとも私はそう感じています)
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|2013年6月21日 金曜日
49 全人医療への道のり 2007/2/19
最近出席したプライマリケア関連の研究会で、ある大学の教授が、その大学での医学部生の教育について講演されていました。
その大学では非常にすぐれた教育システムをとっているようで、その講演を拝聴してまず感じたのは”羨望”でしたが、私の心のなかでもうひとつの気持ちが湧き上がってきました。その気持ちとは”なつかしさ”です。
その大学の教育システムでは、1年生のうちに「アーリー・イクスポージャー(
early exposure)」と呼ばれる、いわゆる「早期研修」があります。私の出身の大阪市立大学にもこの研修制度があり、私は講演を聞きながら、もう10年以上も前の自分がその研修を受けたことをなつかしく思い出したのです。
医学生といっても1年生のうちは医学の知識などほぼ皆無で、医療に対する感覚としては一般の患者さんとなんら違いはありません。早期研修では、医学生が何の知識も技術もない、いわばまだ”白紙”の状態であるうちに病院実習をおこないます。
この実習では、医学部1年生は医師の仕事を見学するのではなく、看護師について実際の看護業務を手伝います。手伝うといっても、シーツ交換すらろくにできない医学生は、実際には足手まといになっているだけなのですが・・・。
私は医学部入学当初は医師(臨床医)を目指していたわけではなく、将来は医学の研究をおこないたいと考えていました。そのため、この早期実習には初めから乗り気でなく、実習が必修だったため仕方なく参加したというのが正直なところです。しかし、2日間の実習を通して次第に臨床の現場に興味をもつようになりました。(もっとも、この実習を終えた後も自分は研究者になるんだという決意は変わらず、臨床医を目指しだすのは医学部の3年生の頃です)
私が早期研修を受けた大阪市内のその病院では、すべてのスタッフの患者さんへの対応が本当に素晴らしいものでした。医学部に入学した頃の私は、臨床に興味があったわけではありませんし、臨床に対してなんとなくイメージしていたのは、マスコミの報道などによる医療ミスとか脱税とか、そういった否定的なものでしたから、予想と現実の大きなギャップに驚いたのです。(マスコミの医師や病院に対する報道は否定的なものが圧倒的に多いのです・・・)
患者さんの立場にたって業務をおこなっているスタッフというのは医師や看護師だけではありません。事務や受付の人々まで、まさにスタッフが一丸となって患者さんのケアに取り組んでいるといった感じでした。
2日間私につきっきりで指導してくれた看護師が私に話してくれた言葉は今でも覚えています。その病棟は整形外科病棟で様々な年齢層の患者さんが入院されていました。その看護師は患者さんに応じて、ときには厳しく、ときには患者さんの手をとり、10代の男性に対しては姉のように、70代の女性に対してはまるで孫のように接していました。そして私に言いました。
「あたしたちは患者さんの病気や怪我をみてるだけじゃないの・・・。患者さんが安心して入院生活を送れるようにいろんな手助けをしているのよ・・・」
この言葉が単なる美辞麗句ではなく、行動の伴ったものであることはすぐに理解できましたが、私には、なぜスタッフ全員が患者さんの立場に立ったケアが徹底しておこなえているのかが不思議でした。その頃の私はそれなりにいくつかの社会を経験していましたから、人間が善人だけでないということも知っていたからです。
2日間の研修の最後におこなわれた反省会でその謎が解けました。
反省会はその病院の会議室でおこなわれ、研修をおこなったわれわれ医学部1年生や医学部の教師のほか、その病院の看護師長も参加されました。その会議室の壁にかけられていた額には「全人医療」という言葉がありました。そして、われわれは、その看護師長から「全人医療」についての話を聞きました。
「全人医療」とは、患者さんの臓器、例えば肝臓の悪い人なら肝臓だけを、目の悪い人なら目だけをみるのではなく、その人の心理的あるいは社会的苦悩にも配慮し、患者さんの人格を尊重した医療である、というようなことをその師長は話されていました。
先にも述べたように私はこの時点では臨床医を目指していたわけではなく、そのときは、スタッフの患者さんへの態度に感銘を受けたのは事実ですが、将来的には自分にはそれほど関係のないことだろうと感じました。しかし、その言葉が心のどこかにずっと残っていたのは間違いありません。(現にこうして今でも覚えているのですから・・・)
私はこれまでに、研修やアルバイトも含めれば20以上の病院や診療所で診療をおこなってきましたが、看護師を含めたスタッフの対応というのは病院によって様々です。なかには、これで患者さんの立場に立った医療がおこなえているのか・・・、と思わずにはいられないような、自分が患者なら受診したくない病院というのもあります。
しかし、その一方で、どうしてこんなにも素晴らしいスタッフばかりがそろっているんだ・・・、と感じるような病院もあります。先にのべた私が早期研修を受けた病院もそうですし、私が研修医の頃にお世話になった病院もそうでした。その病院で主任をされていたある看護師はこのように話していました。
「この病院では全職員は採用になったときから、いえ、看護師の場合は、(その病院附属の)看護学校に入学したときから、徹底して”患者さんの立場にたった医療”の教育を受けるの。だから、多くの患者さんや、そして先生たちも、この病院に来て驚くのよ。だけど、あたしたちにとっては当たり前のことなの・・・」
「全人医療」という言葉にこだわる必要はありませんが、いつの頃からか私は患者さんの臓器だけをみるのではなく、その患者さんの社会背景や心理状態にも配慮できるような医師になりたいと思うようになっていました。最終的には、大学の「総合診療科」に所属し、今も総合診療(=家庭医療=プライマリケア)を実践しているのは、そういう思いもあるからです。
しかし、私自身が実際に「全人医療」ができているかと問われれば、自信をもってできているとは到底言えません。たしかに、すてらめいとクリニックでも患者さんのなかには複数の訴えを話される人がいますが、それは単に臓器の数を足しただけであって、「全人医療」からは程遠いもののように思えます。
「個人の単なる集合」と「組織」は異なるように、あるいは「部分の総和」が「全体」ではないように、単に複数の訴えを聞いて治療をおこなったからといって、それが「全人医療」になるわけではありません。
私の「全人医療への道のり」はまだまだ続きそうです・・・
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|2013年6月21日 金曜日
48 あなたはAEDが使えますか 2007/1/20
それは私が医師1年目、ある病院の救急部で研修を受けていた頃の話・・・。
深夜1時ごろ、救急隊から連絡が入りました。「20歳の女性が突然心肺停止となり、現在救急車内で人工呼吸と心臓マッサージをおこなっている。5分以内に到着するから救命してほしい」、との要請です。
救急部に緊張が走りました。心肺停止での救急搬送は珍しくありませんが、20歳となると話は別です。末期の病気でいつ心臓が止まるかも分からないと医師に言われている高齢者の心肺停止であれば、本人も家族もある程度は”死”というものを受け入れていることが多いのですが、20歳の場合はなんとしても助けなければなりません。
しかし、30分以上に及ぶ救命処置の効果もなく、その女性は享年20歳で生命を終えることになりました。
後にいくつかのことが分かりました。ひとつは、この亡くなった女性は以前心電図の異常を指摘されたことがあるということ、さらにこの女性は看護学生で寮に入っており、通報したのは同じ寮に住む看護学生であるということも分かりました。
そして、もうひとつ分かったことがあります。通報した看護学生は、亡くなった女性が突然意識を無くした現場にいたのにもかかわらず、その場で何もできず、通報したのは女性が倒れてからおよそ10分が経過していたということです。
意識をなくして倒れた同僚に何もできず、通報するのも遅れたということからこの看護学生は大変なショックを受け、救急隊に対してまともに話をすることができなかったそうです。
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突然の心肺停止が目の前で起こったとき、あなたは何ができますか。もちろん、すぐに救急車を呼ぶことが最も大切です。しかし、それ以外にもできることはあります。一般の人にもできる、あるいはおこなう義務のある救命処置です。
この一般の人にもできる(しなければならない)救命処置のことをBLS(一次救命処置)と呼びます。医療従事者はもちろんトレーニングを受けていますが、現在では、医療者以外にも、客室乗務員やスポーツジムのインストラクター、コンサートホールや競技場の警備員といった人たちも訓練を受けています。また、最近では自動車の教習所でも学ぶようになってきています。
なぜ、BLSは一般の人もできるようになっておかなければならないのか・・・。それは、心肺停止が起こったときの措置は一刻を争うからです。呼吸が止まった状態が4分間続けば、脳に回復しないダメージを与えることが分かっています。心肺停止の人を発見してから救急車が到着するまでに4分以上はかかるでしょうから、その間はそばにいる人が人工呼吸をしなければ、その人は命が助かったとしても植物状態になってしまいます。
心停止の場合、少し遅れても電気ショックを与えたり止まっている心臓を動かす薬剤を使ったりすれば再び心拍が再開することもありますが、脳に長時間血流がなくなるとやはり植物状態になりますし、時間がたてば心拍が再開する可能性も格段に低くなります。したがって、そばにいる人が心臓マッサージをおこなわなくてはならないのです。
当たり前の話かもしれませんが、心肺停止ほど時間が勝負の状態はありません。そこで、以前から一般の人もできるだけ医療行為に参加できるようにしようという試みがありました。
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スポーツジムや空港に設置されているランドセルくらいの大きさのオレンジ色の箱を見たことがありますでしょうか。
これは、AED(自動体外式除細動器)と呼ばれる心臓に電気ショックを与える器械です。心停止には心臓マッサージをおこないますが、あるタイプの心停止の場合は、マッサージよりも電気ショックが有効な場合があります。AEDは、電気ショックが有効な心停止かどうかを瞬時に判断することのできる器械です。
心停止を確認すれば、AEDをその人に装着します(2つのパットを胸に貼ります)。すぐにAEDは電気ショックを与えるべきかどうかを判断し、与えるべきときは「電気ショックが必要ですのでボタンを押してください」としゃべります。その声を聞いて、その場にいる人がボタンを押すと電気ショックがパットを伝わって流れます。もしも、電気ショックが無効であると判断した場合は、「そのまま心臓マッサージを続けてください」としゃべります。
アメリカでは、AEDが普及しだしてから突然の心肺停止の救命率が劇的に上昇しています。例えば、シカゴの空港ではAEDを設置してから心肺停止を起こした人の61%が助かったという報告があります。ラスベガスのカジノでも、53%が救命されたというデータがあります。AEDを設置する前のデータははっきりしないのですが、おそらくほとんどが助からなかったものと思われます。
日本でもAEDを普及させようとの動きが数年前から活発になりました。現在は一般の人がおこなえる救命処置(BLS)の項目にAEDの使用が入れられています。AEDだけでなく、人工呼吸も心臓マッサージも理屈を覚えただけではできるようにはなりません。実技指導を受けて模擬演習をしなければ実際にできるようにはならないのです。
ちょうど私が研修医の頃、BLSを一般市民に広めてACLS(二次救命処置)を医療者に普及させようというムーブメントが起こりました。私は、冒頭で述べた20歳の看護学生の死を経験したこともあり、その直後にACLSを覚え、BLS及びACLSのインストラクターをおこなうようになりました。ACLSだけでなく(ACLSは医療者向けの救命処置で薬剤の使用や気管内挿管もおこないます)、BLSにも取り組んだのは、一般の方にもできるだけ救命活動に参加してほしいと思ったからです。
ただ、私がインストラクターをしていた頃は、AEDの使用は医師や救命士に限られており、客室乗務員も日本上空を離れてからでないと使用が許されていませんでした。2004年の7月にようやく一般市民にも認められるようになり、次第に普及するようになってきました。
1月16日の毎日新聞によりますと、広島県では県の医師会が中心となって一般市民にAEDの使用を含むBLSの講習をおこない始めたそうです。
これが全国的に広がり、多くの国民がBLSをできるようになり、さらにAEDがどこにでもある社会になれば、心肺停止の救命率が飛躍的に上昇するでしょう。
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|2013年6月21日 金曜日
第118回(2013年6月) ダニほど誤解だらけの生物はいない
太融寺町谷口医院で1日外来をしていると「ダニ」という言葉を何度も患者さんから聞くことになります。「ダニのせいで鼻水が止まりません」「草むらでダニに血を吸われました」「汚いホテルに泊まったらダニに刺されて身体がかゆくなりました」、などです。
大変興味深いことに「ダニ」に対するイメージは人それぞれのようで、例えばアトピー性皮膚炎で悩んでいる患者さんやそのお母さんは、ダニと言えばアトピーの悪化因子を考えています。一方、アウトドア派の人たちは、ダニとは草むらで咬まれて皮膚から離れないやっかいなもの、という印象をもっています。また、不潔なホテルなどに棲息しており手足を刺されて赤く腫れあがるのがダニ、と思っている人もいれば、ダニはネズミに寄生するんだからまずはネズミを駆除すべき、と考えている人もいます。最近ではSFTSがマスコミで報道されたことで、ダニは咬まれると死ぬこともある怖いもの、というイメージを持っている人もいます。
さらに興味深いことに、ダニがどのようなもので人にどのような症状をもたらすかについては、医療従事者のなかにもきちんとした知識を持っていない人がいます。さすがに医師のなかにはいないでしょうが、看護師をしている患者さんで、「イエダニ」がハウスダストの原因のダニ、と勘違いしている人がいて驚かされたことがあります。医療者でさえ誤解しているくらいですから、おそらく一般の人できちんとダニの説明ができる人はそう多くないでしょう。
いったいダニとは何者なのでしょうか。「刺されて死ぬ」と「吸い込んで鼻水」では随分と異なりますが、これが同じ生き物のなせる仕業なのでしょうか。というわけで、今回はダニの総復習をおこないたいと思います。
まず「ダニとは何か」ですが、ダニは昆虫ではありません。マダニなど比較的大きなダニであればルーペを使えば足が観察できますから機会があればよく見てみてください。足は合計8本あります。8本足ですからダニは昆虫ではなくクモの仲間です。
生物学的な話には深入りせずに病気の観点から話をすすめていきます。生物学の教科書にどのように書かれているかは分かりませんが、私の頭の中の分類は次のようになっています。
①アレルギー症状をきたすダニ(コナヒョウヒダニ、ヤケヒョウヒダニ、など)
②ネズミに寄生しネズミだけでなく人も吸血するダニ(イエダニ)
③人を刺し痒みや痛みをきたすダニ(ツメダニ、シラミダニ、など)
④野原に棲息し人も吸血する大きなダニ(マダニ)
⑤人に寄生し人から人に感染するダニ(ヒゼンダニ)
⑥ニキビダニ(デモデックス)
生物学者からは「いい加減な分類」と馬鹿にされるかもしれませんが、少なくとも患者さんから「ダニ」という言葉を聞いたときに、患者さんが何を考えているかを推測するのにこの分類は大変役に立ちます。
①のアレルギー症状をきたすダニは、ダニが人に噛み付いたり吸血したりするわけではありません。ダニも生物ですからご飯を食べて消化管で消化をおこない糞をします。消化の際に消化管から消化酵素というものが分泌され、これが糞に混ざって体外に排出されるわけですが、この消化酵素(タンパク質でできています)がアレルギーの原因、すなわちアレルゲンとなると考えられています。
ほこりっぽい部屋に入ると、鼻水がでて、目が痒くなり、咳がでて、皮膚がかゆくなるのは、ダニの糞や死骸を吸い込んだり、浮遊しているものが目に入ったり、皮膚に付着したりするからなのです。つまりほこりっぽい部屋とはダニの糞や死骸が空気中に蔓延しまくっている空間なのです。そして、いわゆる「ハウスダスト」の多くはこういったダニの糞や死骸のことを指します。
またこのタイプのダニは、日本ではお好み焼き粉の中に潜んでいることがしばしばあります。そのためお好み焼きを食べた後にじんましんがでてきたり、ひどい場合は喘息発作や呼吸困難に陥ったりすることもあります。なぜ焼いているのに・・、と思う人がいるかもしれませんが、お好み焼きのなかにいるダニは熱で死にますが、消化酵素は熱で変性するわけではないからです。ちなみに冷凍させてもアレルゲン(消化酵素)は変性しません。
ここで多くの人が誤解している重要な点を指摘しておきます。このアレルギーを来たすコナヒョウヒダニやヤケヒョウヒダニを「イエダニ」と表現する人がいますが、これは完全に誤りです。さらに、この誤解は誤解として認識されておらず「家ダニ」と思ったり書いたりする人がいます。すると、「ハウスダスト」の「ハウス」と「家ダニ」の「家」が無意識的にシンクロし、その結果「ハウスダスト=家ダニ=イエダニ」というイメージができ上がっているのです。
もちろんこれは完全な誤解であり、正しくは、イエダニというのは、ネズミ、特にクマネズミに寄生するダニです(上記②)。クマネズミは名前とは裏腹に小型のネズミで運動神経もよく、わずかな隙間から侵入し、都会のマンションなどにも棲息しています。そしてイエダニはネズミの血を吸って生きています。きれい好きな日本人は、自分の住居にネズミを見つけると駆除することを考えます。そしてネズミの駆除はそうむつかしくありません。
駆除されるとネズミは困りますが、ネズミの血という「ご飯」がなくなったイエダニも困ります。そこでイエダニは「ご飯」のターゲットをネズミの血から人の血に変更します。これまでネズミに向けてきた牙を人に向けてくるというわけです。
イエダニに血を吸われるとその部分は赤くなり痒みがでます。イエダニによる皮膚症状の特徴は、おなかや太ももなどやわらかいところに出やすいということ、赤みは比較的強いということ、よくみると発赤部位の中央部に吸血した瘢があること、などです。治療は簡単ですが、再発予防のために、今度はネズミ駆除ではなくイエダニの駆除を考えなければなりません。
③のダニはかなりの痒みをきたしますが治療は簡単で数日間のステロイド外用で治ります。ツメダニというのはダニを食べるダニ、シラミダニは昆虫に寄生するダニという程度を覚えておけばいいでしょう。(別に覚えておく必要もないですね・・・)
④のマダニはときに重要になります。2013年になってから脚光を浴びだしたSFTS(注1)はすでに8人の死亡者(2013年5月時点)を出しています。また、他のところでも述べましたが、マダニに刺されることによっておこる感染症には、日本紅斑熱、ツツガムシ病、ライム病などもあり、診断と治療が遅れると、ときに「死に至る病」になります。また海外にも致死的なマダニ関連の感染症があります。(詳しくは下記医療ニュースを参照ください)
私はマダニが媒介する感染症の不安を煽るようなことをしたくありません。SFTSが怖いから楽しみにしていたハイキングを中止する、といったことはやめてもらいたいと考えています。しかし、あまりにも無防備なのも困ります。私自身はSFTSを含めてダニに刺されて死亡した患者さんを診察したことはありませんが、蚊の対策を怠ったがためにデング熱を発症した人を何度かみたことがあります。なかでもタイで出会った日本人のひとりは、デング出血熱と呼ばれる重症型に進行し、一時は命も危うい状態になりました。
キャンプやハイキング、トレッキングや登山に行く時は長袖・長ズボンに虫除けスプレーやクリームを忘れないようにしなければなりません。マダニに刺されると吸血されるのですが、おなかいっぱいまで吸血されれば自然に離れていきますから痛くないこともあります(注2)。しかし、まだおなかいっぱいになっていないときに手でマダニを皮膚から剥がそうとすると上手くいかないことがあります。マダニの口がギザギザした針のようになっており、このギザギザした部分が皮膚にひっかかるからです。そして無理に剥すと、皮膚に残ったそのギザギザの部分が周囲の皮膚組織に炎症をきたしそれが瘢になることもあります。
⑤のヒゼンダニは疥癬(かいせん)というたいへんやっかいな感染症をきたすことがあり、ヒトからヒトに感染します。老人ホームなどで集団感染することもありますし、タオルを介しての家族内感染や性交渉を介しての性感染もあります。顕微鏡で診断をつけることは可能なのですが、なかなか見つからないこともあり、湿疹と誤診されることもしばしばあります(注3)。
⑥のニキビダニは誰の皮膚にも棲息していると言われており、通常は問題になりません。ただし、ステロイドを長期で外用したときなどはこのダニが異常増殖し、ニキビや酒さ(しゅさ)のように見えることもあります。
ダニかなと思ったり、友達から「ダニが原因で・・・」という話を聞いたりしたときは、これら6つのどのタイプのダニかをまずは考えるようにしてみてください。自ずと対処方法が見つかるかもしれません。
注1 SFTSについては下記の厚生労働省のサイトも参照ください。
http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou19/sfts.html
注2 刺された部分は肉眼でも分かることが多いと私はこれまで考えていましたが、SFTSでは刺し傷が見つかっていない症例が多数あるそうです。刺し傷がなく(SFTSのように)症状が出ることもなければ医療機関を受診することはないでしょうから、実際にはマダニに刺されて吸血されたけれどもまったく気づいていなかった、ということは珍しくないのかもしれません。
注3:疥癬については下記も参照ください。
http://www.stellamate-clinic.org/seikansensho-ketuekikansensho/#14
参考:
医療ニュース2013年5月31日「SFTS、マダニからウイルス検出される」
医療ニュース2012年9月15日「ダニに刺されて発症する新しい感染症」
マンスリーレポート2009年8月号「虫刺されと夏の風邪」
はやりの病気第36回(2006年8月)「夏のかゆみにご用心」
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|2013年6月17日 月曜日
47 美しい身体をつくるには 2006/12/21
メタボリック・シンドロームという言葉が定着してきたからなのか、健康診断を受ける人が増えてきたからなのか、最近では30代で生活習慣病に罹患している人、もしくは放っておけば罹患するであろう、いわゆる”予備軍”の人を診察する機会が増えてきています。
生活習慣病には、糖尿病、高血圧、高脂血症、高尿酸血症、・・・・、といろいろありますが、こういった疾患に罹っている、もしくはその予備軍の人たちに共通している点は「肥満」です。メタボリック・シンドロームの診断基準にあるように、特にウエストラインの太さが目立つ人が多い印象があります。
「肥満」になれば、生活習慣病のリスクが高まるだけでなく(「肥満」そのものが生活習慣病だとする考え方もあります)、自身のボディイメージが損なわれますから、肥満に悩む多くの人たちは「ヤセル」ことを目標としているようですが、なかなかこの「ヤセル」ということは簡単ではないようです。
世間では、様々なダイエット方法が氾濫し、痩身効果をうたった器具が次々と開発されていますが、なかなか劇的な効果の得られるものは多くないようです。こういったものは有効性が怪しいどころか、危険性の伴うものも少なくなく、医師などの専門家の指導のもとでおこなわなければ大変危ないと思われるのですが、それでも世間の関心はとどまることがありません。
しかしながら、あらためて言うまでもなく、ヤセルのに最も効果的なのは「食事」と「運動」です。このふたつをないがしろにしていれば、どれだけ痩身効果をうたった高価な器具を使ったところでそれほど効果は得られません。
「食事」について言えば、あきらかに現代日本の食生活は「過食」です。その人の生活環境にもよりますが、事務職に従事している人であれば、一日に必要なエネルギー量は男性であれば2,000キロカロリー前後、女性なら1,600から1,800キロカロリー程度で充分でしょう。
しかし、例えば食堂やレストランで、ランチセットなどとして組まれているもののなかには、一食で1,000キロカロリーを超えているものが少なくありません。昼食がメインであればまだいいかもしれませんが、夕食にも同じようなもの、あるいはそれ以上のものを食べ、さらにおやつまで食べていれば一日の摂取カロリーは軽く3,000キロカロリーを超えてしまいます。これでは肥満になるのは時間の問題です。
それに、日本人の体質は高脂肪食を日常的に摂取するようにはできていません。もともと高蛋白・低脂肪の食生活に適した遺伝子を日本人は持っているはずですから、欧米型の食事を導入すれば、一気に肥満となり生活習慣病を発症するのは時間の問題です。
そして、これは日本に限ったことではなく、例えばフィリピンの一部では、西洋の食文化が入ったために以前は肥満などなかったのに、現在では住民の過半数が肥満に悩んでいるという地域もあります。最近、タイでも食生活の変化から肥満児が増えており、行政が伝統的なタイ料理を食べるように呼びかけています。
とは言え、カロリーの高いものは美味しいものが多いですから、ついつい食べ過ぎてしまう人の気持ちが分からないわけではありません。医師という仕事をしていれば、とにかく時間がなくて食事の時間を捻出するのに苦労を強いられますから、私の場合、できるだけカロリーの高いものを食べられるときに食べるようにしていますが、これは世間からみると例外的なことでしょう。もしも、私も昼食時と夕食時にある程度の時間が確保できるなら、過食によって肥満となるかもしれません。
「運動」はその重要性をほとんどの人が認識しているでしょうが、時間を決めてエクササイズに通ったり、ジョギングを規則的におこなったりしている人はそれほど多くないのかもしれません。おそらく現代の日本人のライフスタイルでは、よほど大きな決心をして運動の時間を確保しない限り、規則的な運動というのは相当むつかしいのでしょう。
しかしながら、「食事」と「運動」を適切におこなうことによって、「肥満」のない身体、そして美しい身体をつくることは、本当は誰にでもできることなのです。「あたしは太る体質だから仕方がないの・・・」という人がいて、確かに太りやすい太りにくいというのは体質(遺伝子)によってある程度は規定されていることが分かっていますが、それがすべてではありません。日本人もフィリピン人もタイ人も少し前までは、肥満に悩む人などほとんどいなかったのですから。
私はこのことを以前、タイのイサーン(東北)地方で実感したことがあります。タイという国は、地域によって文化が大きく異なり、イサーン地方の奥地ではバンコクなどとは食生活がまったく異なり、西洋食が存在しません。コンビニもほとんどなく、日本人が日頃食べているようなお菓子も入手できません。
私はその地域に5日間ほど滞在しましたが、年齢・性別を問わず、太っている人をひとりも見かけませんでした。太っているどころか、男女とも非常に美しいプロポーションをしているのです。
男性であれば、肩幅が広く、腹筋が割れており、重いものを平気で片手で持ち上げます。私は、家をつくっている現場で仕事を手伝わせてもらったことがあるのですが、彼らはいとも簡単に50キロのセメントを片手で運んでいました。あまりにも簡単そうに運んでいるので私も手伝わせてもらったのですが、私の体力では片手では不可能で、結局私だけが両手で運ぶことになりました。彼らには無駄な脂肪がついていないどころか、無駄な筋肉もついていません。
女性の場合も、ウエストに余分なぜい肉が付いている人などひとりもおらず、全員が美しい手足をしています。しかし、無理なダイエットでやせた身体ではなくて、筋肉はしっかりとついており、少々の力仕事ならなんなくこなしています。彼女たちは家をつくるといった肉体労働はあまりおこないませんが、日頃から魚や(食用の)カエルを捕ったり、農作業に従事したりしているためにバランスよく運動ができているのでしょう。
イサーン地方では食事にも驚かされます。主食はもち米で、魚を醗酵させてつくった味噌のようなものにつけて食べます。あとはキノコや野菜、アリの卵や昆虫がメインです。肉や魚はないわけではありませんが、それほど食卓には乗らず、肉についてはホルモン(内蔵)がほとんどで、日本人が好んで食べるような部分の肉はほとんど口にしません。
さらに驚くのは”おやつ”です。彼(女)らがおやつに食べるのは、昆虫か果物のどちらかなのです。その地域のある女性はこう話していました。
「あたしは以前バンコクに住んでいたことがあるけど、コンビニにはほとんど行ったことがないわ。バンコクでも屋台で昆虫や果物は買えるんだもの。昆虫や果物の方が安くて美味しいんだから、あたしたちにはコンビニは不要なのよ」
この食生活は栄養学的にみて抜群です。主食は米で、野菜やキノコと少量の肉や魚がおかずとなっており、醗酵した魚でアミノ酸や乳酸菌を摂取し、昆虫と果物でビタミンとミネラルがバランスよく効果的に取れています。
つまり、イサーン人がほとんど例外なく美しい身体を保持しているのは、彼(女)らの特有の遺伝子がそうさせているのではなくて、合理的な食生活と運動(仕事)をしているからなのです。
日本人もイサーン人と同じような食生活と運動を・・・、というのは非現実的ですが、彼(女)らの美しい身体とイサーンの文化をときどき想像するようにすれば、あるいは昔の日本の文化を思い出せば、今自身が何をすべきかについてのヒントが得られるのではないでしょうか。
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|2013年6月17日 月曜日
第46回(2006年11月) 臓器売買の医師の責任(後半)
医師と患者さんとの関係は信頼の上に成り立っているわけで、患者さんとその親族がグルになって医師を欺こうと思えば簡単にできてしまう、という話を前回しました。
今回の事件は、臓器売買をめぐってこのような問題が生じたわけですが、患者さんと親族がいくら「お願いします」と言っても、倫理上の観点からできない問題もあります。
例えば「自殺幇助」が該当します。高齢で生きる希望をなくしている患者さんがいたとしましょう。生きる希望をなくしているからといって末期癌など治療法のない病を患っているわけではありません。患者さんは死ぬことを希望しており、仮に家族もその考えを尊重したいと考えているとしましょう。このとき、「分かりました。致死量の劇薬を注射しましょう」などと言う日本の医者は(おそらく)ひとりもいません。「自殺幇助」が罪になるだけでなく倫理上許されないことを医師は分かっているからです。ヨーロッパの一部の国ではこのようなケースでも罪に該当しない法律をつくっていますが、それは例外と考えるべきでしょう。
「自殺幇助」などに比べると「臓器売買」については、倫理上あるいは歴史上、抵抗はそれほど大きくないと言えます。実際に、海外で臓器を買っている日本人が少なくないのは周知の事実です。日本人が生体腎移植を受けている国で最も多いのがフィリピンと中国だと言われています。少し詳しくみてみましょう。
2006年10月6日の共同通信がフィリピンの生体腎移植の実情を報道しています。フィリピンでは貧困地域に住む住人に対して、いわゆる臓器ブローカーが腎臓売買の斡旋をもちかけます。対象となるのは18歳から25歳の健康な男性で、腎臓を提供すると13万~16万ペソ(約30~38万円)が支払われます。腎臓を買うのはほとんどが日本人で、支払う金額はこれの10倍程度だそうです。
実際に腎臓を提供したある男性のコメントがこの記事に載せられています。その男性は、「(腎臓を受け取った日本人は)ありがとうと言ってくれたし、元気になっていたし、良かったと思う」、と述べています。
また、フィリピンでは死刑囚が臓器を有償で提供しています。つまり腎臓を売っているのです。これは、合法であるばかりか、「臓器を提供することに賛同した受刑者は刑を軽減する」という法案が提出されたこともあります。
フィリピン大学の哲学科のある教授は、「臓器提供は、受刑者が社会に何かを還元できる機会だ」、とコメントしています。
詳細は覚えていませんが、数年前に、肝硬変を患った日本の有名プロレスラーが、フィリピンで生体肝移植を受け、肝臓の一部を提供したフィリピンの若い男性が術後に亡くなったという報道もありました。
共同通信の同記事では、インド、中国、ブラジルの臓器売買の実情も報道されています。
インドでは、以前は、臓器売買は合法でしたが現在では違法となっています。しかし、現在でも水面下で売買がおこなわれているのが実情です。そして、違法とされているのは移植に伴う臓器売買だけです。研究用の臓器の売買は合法であるばかりか、増加傾向にあるそうです。ちなみに、インドでは移植に伴う臓器売買が違法になる前は、南部のタミルナド州が臓器ビジネスの拠点でしたが、現在では北部ウッタルプラデシュ州やパンジャブ州が中心となっているそうです。
中国では年間の移植件数が1万2000件を超え、米国に次ぎ世界第二位の「移植大国」となっています。腎移植だけで年間5000件以上が施行されています。中国の場合はドナーの大半が死刑囚であり、これが倫理上の観点から問題視されていますが、中国側にとっては貴重な外貨獲得源になっていることもあり、地方政府は実質臓器売買に荷担していると言えます。
ブラジルでは臓器売買は違法とされていますが、実際には水面下でおこなわれています。2003年に摘発されたブローカー組織は、およそ1万ドル(約118万円)で腎臓の提供者を募集していました。この組織では少なくとも38人の貧しい人々を南アフリカへ連れて行き、そこで移植手術がおこなわれたようです。
では、先進国ではどうでしょうか。偶然にも米国エール大学の移植医が「British Medical Journal」という医学誌に移植に関する論文を2006年10月5日に発表し、翌日に共同通信が報道しています。
この移植医は、「生体移植の腎臓提供者に金銭が支払われるような仕組みを立法化すべきだ」、と述べています。
同医師によりますと、「米国では2005年に6,500回余りの生体腎移植が行われたが、その10倍の約6万5千人が腎臓移植を待っており、平均待ち時間は2~4年」と、臓器不足が深刻化しています。
米国では、血液や精子、卵子の売買は合法です。同医師は、「政府の管理下で提供者への報酬も統一して移植を実施すれば違法な売買はなくなり、公平さが増し、安全性も向上する」、とコメントしています。
このように歴史的、地理的にみても臓器売買は必ずしも絶対的な「悪」とは言えません。考え方によっては、腎臓を受け取る人は健康を取り戻し、病院と医師には報酬が支払われるのに、腎臓の提供者だけが不利益を被るのは不公平であるという見方ができるかもしれません。もちろん、臓器売買は日本の臓器移植法で禁止されている行為ですから、国内でおこなえば罪に問われることになります。
しかし、内容を吟味せずに、ただ単に「法律に抵触することはすべて絶対に許してはならない」、などと言ってしまえば事の本質を見誤ることになりかねません。以前、このコーナーで述べましたが、「法律による罪の重さと本当の意味での罪の重さは相関しない」と私は考えています。
今回の愛媛の病院で腎移植を執刀した医師は、臓器売買をおこなった当事者ではなく、当事者たちの嘘の証言により騙されて手術をおこなったのです。その嘘が見破れなかったということが、大手マスコミの主張する「病院と医師の倫理意識の低さは驚くしかない」というコメントに果たして相当するのでしょうか。
金に羽振りをきかせて、後進国の若者の腎臓を買いまくっている多くの日本人が存在しているということ、世界で最も移植医療の進んでいるアメリカの専門医が臓器売買の合法化を提唱しているということ、アメリカを含め先進国のなかには血液や精子、卵子の売買が許されている国があるということ、今回の売買事件では提供者が「いいことをしたかった」とコメントしていること、そして、執刀医は腎臓提供者と受け取った患者さんの双方から「身内の関係ですのでよろしくお願いします」と頭を下げられていたこと、などを考慮したときに、この執刀医は、驚かれるほどの低い倫理意識しか持っていなかったのでしょうか・・・。
地域でもっとも腕の立つ移植医と言われていたこの医師が、この事件のせいで今後移植手術がおこなえなくなるとすると、最も不利益を被るのは誰でしょうか・・・。
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|2013年6月17日 月曜日
45 臓器売買の医師の責任(前半) 2006/10/19
昨年9月に愛媛県のある病院でおこった臓器売買に際してマスコミからいくつかの問題が指摘されています。
まずは、この事件を簡単に振り返ってみましょう。
愛媛県の59歳の男性が重症の糖尿病から腎不全をきたし腎移植を希望していました。その男性と内縁の関係にあった59歳の女性(仮にA子さんとしておきます)は、腎臓の提供者を探していました。A子さんには20年来のつきあいになる同じく59歳の女性の友人(B子さんとします)がいました。貸しビル業を営んでいたB子さんは、A子さんに200万円を貸していました。A子さんはB子さんに対して、「借りているお金を上乗せして返すから腎臓を提供してほしい」と言いました。B子さんはこの申し入れを承諾し、生体腎移植術が2005年9月に施行されました。B子さんは腎臓提供後、ふたりから30万円の現金と150万円相当の新車を受け取りましたが、最初の約束だった借金を返済してもらえずに2006年1月に警察に届けたことからこの事件が発覚しました。
このあたりまでは間違いのない客観的な事実でしょう。マスコミの報道をもう少し詳しくみてみましょう。
2006年10月4日の毎日新聞によりますと、腎臓を提供したB子さんは、「自分が生きている間にいいことをしたいから提供を引き受けた」、「A子さんとは長いつきあいだし、(腎臓をあげる)男性にもお世話になった」、「私の(腎臓を)ぜひ使ってほしい」、などと話していたそうです。また、B子さんは、手術を受けた時点で、「違法性の認識はまったくなかった」そうです。
10月5日の共同通信によりますと、A子さんは、「執刀した医師からB子さんの乗用車要求を伝言する電話があった」と話しており、執刀医はこれを否定しています。
事件の当事者が何を言った、言わなかったというのは実際にはよく分かりませんから、マスコミの報道は必ずしも信憑性に高くないと思われます。
さて、この事件の問題点を整理してみましょう。
まず、臓器売買は97年に制定された臓器移植法によって禁止されていますから、今回の事件は法律に抵触していることになります。このケースが臓器売買に該当するということに異論のある人はいないでしょう。ですから、腎臓を受け取った男性、売買を斡旋したA子さん、自分の腎臓を売ったB子さんは同法違反の罪に問われることになります。一部のマスコミが報道しているように、B子さんに違法性の認識がなかったとしても法を犯したことには変わりありません。
次に病院と医師に対する責任という問題です。この事件でもっとも罪が問われるべきなのは違法と分かっていながらB子さんに腎臓の提供を求めた男性とA子さんであることは自明であるのにもかかわらず、マスコミの報道はむしろ医師と病院に対する非難を大きく取り上げています。
例えば、日経新聞10月6日の社説には「臓器売買、病院の責任も重い」というタイトルで医療サイドを激しく非難しています。
「臓器提供者の身元確認も移植に絡む手続きも「ずさん」でそれが事件につながった」
「(医師が)臓器売買が禁じられていることを伝えたのか疑問だ」
「(医師に)金品のやりとりの気配を全く感じなかったのか疑問」
「病院と医師の倫理意識の低さは驚くしかない」
まるで今回の事件は病院と医師の不手際が原因で起こったというようなコメントです。しかし、可能な限り客観的にみたとして、今回の事件における病院と医師の責任はどの程度のものなのでしょうか。
たしかに、保険証以外の方法で身元を確認せずに患者さんの話を信用したことにはいくらかの責任はあるでしょう。しかしながら、移植を受けた男性、その内縁の妻、提供者が一丸となって「よろしくお願いします」と言って移植の希望を申し出た場合、「こいつらグルになって騙そうとしているのではないか・・・」などと疑うことができるでしょうか。
一部のマスコミは、病院によっては保険証の提示だけでなく親族であることを確認する血液検査をやっているのに、この愛媛の病院でしていないのは不適切だ、などという報道をしていますが、これはまったくナンセンスな報道であり、このような報道自体が不適切です。一般の人の多くは、こういう報道を信じて、「臓器移植の際には、血液検査までおこなって身元確認を徹底している病院もあるのに、この愛媛の病院はいい加減だ」、と感じられると思われます。
しかし、親族であることを確認する血液検査とは、HLAと呼ばれる、簡単に言えば白血球の血液型のようなもので、これは確かに親族であれば似たような形になりますが、移植手術の際にHLAを調べるのは、移植を受ける人がもらう臓器を拒絶しやすいかどうかをみるためのものです。例えば白血病などで骨髄移植を受ける場合には、移植を受ける人と骨髄を提供する人のHLAができるだけ一致している必要があります。(このため骨髄バンクの役割が重要になるのです) 一方、腎臓の場合はHLAが似ていなくても身体が拒絶反応をそれほど示さずに、術後の問題が他の臓器移植に比べると少ないという特徴があります。
執刀した医師がコメントしているように、医師と患者さんとの関係は信頼の上に成り立っています。そもそも今回の事件に限らずに、医師を欺こうと思えばいくらでも簡単に陥れることができます。
例えば、ある患者さんが交通事故で重態になったとしましょう。その患者さんが緊急手術の必要な状態となり術後に家族がやって来たとします。当然その家族は患者さんの状態を尋ねます。このとき医師は、「あなたが患者さんの家族であることを証明するために戸籍をとってきてください」などと言えるでしょうか。
あるいは外来に患者さんが家族とともにやってきたとします。患者さんに痴呆があるような場合、その付き添いの人に話をすることになります。このとき、「私はあなたがこの方の家族であることが信用できませんからお話はできません」などと言えるでしょうか。
今挙げたふたつの例は極端かもしれませんが、いずれの場合も、後になってから患者さんから、「説明をした人は私の家族でもなんでもない。あんたは私のプライバシーのことを赤の他人に話したんだ。守秘義務違反及び個人情報保護法違反で訴える!」、と言われれば医師にはなす術がありません。
今回の移植事件は倫理委員会を通すべきだったという意見もあるかと思いますが、委員会を通したとしても、公文書を偽造することだってできるでしょうし、本気で騙そうと思えばそんなにむつかしいことではありません。
今回の事件を医師と病院の責任にするのは、まるで「いかなる詐欺師にも医師は騙されてはいけない」と言っているようなものです。日常生活では詐欺師に騙されることのない医師であったとしても、医師というのは、日頃から「患者さんのためにできる限りのことをしたい」と考えているわけですから、手の込んだ方法で欺かれれば打つべき手がないのです。
次回は、臓器売買はどこまで違法かという点についてもう少し詳しくみてみたいと思います。
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|2013年6月17日 月曜日
44 人は何のために働くのか 2006/9/20
先日、生命保険を生前給付型のタイプに切り替えたので、その際に必要な健康診断を受けるために保険会社に行ってきました。
健康診断をおこなうのはその生命保険会社に勤務する医師です。その医師はその生命保険会社の社員であり、仕事は健康診断がほとんどで、病院や診療所での一般診療はしていません。
健康診断が終わった後、少し時間があったので、私はその医師に仕事のやりがいについて尋ねてみました。というのは、医師を志す時点で、「保険会社で健康診断をやりたい!」と言っている医学生や受験生は見たことがありませんし、私の周囲にはこのような仕事をしている医師がいないからです。
その医師の回答はこういうものでした。
「こんな仕事、誰にも薦められないよ。やりがいはまったくと言っていいほどないし、わりきってやらないとできないよ。実際、この会社にもときどき病院を辞めて就職する医者がいるけど、大半は一年足らずでやめていくしね・・・。ただ、給料は高くて、残業はなくて完全週休二日だし、有給休暇は取得できるし、夜中に呼び出されることもないし、プライベートの充実という観点から考えたら、これほどいい仕事もないという見方もできるんだよ・・・」
おそらくこの医師のこの意見は本音だと思われます。たしかに、病院や診療所での勤務であれば、勤務時間は長くて、休みもあまりとれないですし、その上日々新しい医学の勉強をしなければなりませんし、論文を書いたり、学会発表をしたり、と時間がいくらあっても足りません。給料にしても、夜間や土日の勤務があるから他の仕事よりも高収入であるわけであって、時給換算すれば医師の仕事はそれほど割高ではありません。時給でみれば、おそらくこの保険会社の給与は、一般の医師の倍以上になるのではないかと思われます。
社会には保険会社で勤務する医師も必要なわけですから、この仕事を非難するようなことはもちろんできませんし、人にはそれぞれ自身の考え方があるわけですから、こういう仕事についてとやかくいうことは誰にもできません。
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今度は、保険会社の医師とはある意味で対照的な、私の知る医師を紹介したいと思います。
その医師はヨーロッパのある小国出身です。若い頃にある程度の貯金をし(ただし、ヨーロッパでは医師はそれほど高額所得者ではないため貯金といってもそんなに大金ではありません)、また家賃収入で月に5万円ほどの不労所得があることから、長期でタイに旅行に来ていました。
その医師は以前からタイが好きで(私には「I “LOVE” Thailand.」と言っていました)、タイへの長期旅行は長年の夢だったそうです。その医師がタイを好きな理由は、物価が安いことと自然が美しいことだと言います。実際、その医師はタイに来てからしばらくは美しいビーチでのんびりと過ごしていたそうです。
ところが、その医師に転機が訪れることになります。彼がタイに来たのは90年代後半だったのですが、当時のタイは今以上にエイズが大きな社会問題となっていました。家庭や社会から追い出され、行き場をなくした患者さんたちは行くあてもなく彷徨っていたのです。
その医師は、そんなエイズの実情を目の当たりにし、「こんなにも困窮している人たちがいるのに、私はのんびりとビーチで過ごしていていいのだろうか・・・」という思いが次第に彼を苦しめるようになりました。
そして、その医師は、ビーチサイドのまったりとした生活を捨てて、タイのある施設で、無給で医療ボランティアをおこなうことを決心したのです。彼が選んだその施設は、周囲には山と田畑しかない田舎で、美しいビーチからはほど遠い世界です。
その医師は、現在もタイの困窮した患者さんのために、自らの身体も精神も捧げています。現在の月収は、母国での家賃収入の約5万円のみです。
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「金のために働くんじゃない、なんていうのは単なるキレイ事だ」
と言う人がいます。また、
「儲かればどんな仕事だっておもしろくなる」
と言う人もいます。
果たして本当にそうでしょうか。
アンドリュー・カーネギーという大富豪をご存知でしょうか。カーネギー財団、カーネギーホールという名前はきっと聞かれたことがあるでしょう。カーネギーは「鉄鋼王」として有名ですが、実は彼が大富豪になったのは若い頃から「投資」をおこなっていたからです。
カーネギーは20代半ばですでに大富豪になっていましたが、33歳の頃にこんなメモを残しています。
「人間は理想とする目標を持たねばならぬ。金儲けは最悪の目標である。富の崇拝ほど悪しき偶像崇拝はない」
カーネギーは、若い時期から、儲けた富を社会に還元していくことを決めていたが故に、あれほどの成功をおさめることができたのではないかと、私には思えます。
ヒルティというスイスの思想家がいます。彼は『幸福論』のなかで、次のようなことを言っています。
「働いていない休息は、食欲のない食事と同じく楽しみのないものだ。最も愉快な、最も報いられることの多い、その上最も安価な、最もよい時間消費法は、常に仕事である」
私は先に紹介したヨーロッパの医師の話を聞いて、この言葉を思い出しました。
ここにご紹介した生命保険会社で働く医師とヨーロッパのボランティア医師のどちらがいいか、という議論には意味がありませんが、対照的ともいえるこのふたりの医師の姿を比べてみることは興味深いと言えましょう。
最後にヒルティの言葉をもう少し紹介しておきましょう。彼は、『幸福論』のなかで、「生まれつき働き好きな人間などありはしない」、と言いながらも次のように述べています。
人間の本性ははたらくようにできている・・・
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|2013年6月17日 月曜日
第43回(2006年8月) 世界一幸せな国
先日、イギリスのNPOのnef (new economic foundation)が、世界178カ国を対象に「幸せ度数」のランキングを発表しました。
「幸せ度数」とは、nefが独自に考案した指標で、主に3つの要因が基準となっています。その3つとは、生活満足度、平均寿命、環境汚染度です。平均寿命は客観的なものですが、生活満足度と環境汚染度はnef独自の調査によるものです。
ランキングの1位から10位は、バヌアツ、コロンビア、コスタリカ、ドミニカ、パナマ、キューバ、ホンジュラス、ガテマラ、エルサルバドル、セント・ビンセントとグレナディーン諸島で、いわゆる先進国はひとつもはいっておらず、太平洋沖の諸島や中南米の国家ばかりです。
こういった国には、観光でなら行ってみたい気がしますが、本当にこういった国家に住む人たちが幸せと感じているのかどうかが知りたいところです。例えば、コロンビアやコスタリカなどは、治安の悪さから、気軽に観光にも行けない国家とされています。一人当たりのGDPも高いわけではなく、自然の恵みがあるために飢えることはないのかもしれませんが、本当に住民は満足しているのでしょうか。幸せな国第一位とされたバヌアツは、オーストラリアの東に位置する小さな島国ですが、ひとりあたりのGDPは1,340ドル(2004年)しかありません。
では、この調査で先進国はどのように位置づけされているのでしょうか。主要国をみてみると、アメリカ150位、イギリス108位、フランス129位、ドイツ81位、オーストラリア61位、日本は95位です。他のアジア諸国では、韓国102位、台湾84位、中国31位、マレーシア44位、シンガポール131位、タイ32位、フィリピン17位となっています。
大まかに言えば、自然が多くて開発の進んでいない国がより幸せであり、その逆の傾向にある国が不幸せとされているように思われます。(それにしても、アメリカの150位というのは低すぎるような気がします・・・)
この結果は、nefが、自然環境を極端に重視するイデオロギーを持っているからではないかと、私には思えます。ランキングの上位に入っている国家には、先進国から開発援助を受けているところもあります。nefの主張することが正しいとすれば、「より不幸せな国家がより幸せな国家を援助している」、という図式が成立してしまいます。
この結果が公表されてから一月もたたないうちに、イギリスのレスター大学が「生活の満足度」を基にした「幸せの世界地図」を発表し、nefの報告と同じように世界各国にランキングを付けました。この調査は、世界178カ国を対象に、100個の様々な研究を基にしておこなわれています。
ランキングの1位から10位は、デンマーク、スイス、オーストリア、アイスランド、バハマ、フィンランド、スゥエーデン、ブータン、ブルネイ、カナダです。nefの報告とは異なり、こちらは多くが先進国です。この報告をおこなったレスター大学の社会学者は、「貧困な国家に住む人たちこそが本当は幸せである、などといった”神話”から我々は目覚めるべきだ」、と話しているそうです。まるで、nefに対抗するかのようなコメントです。
レスター大学の報告をもう少し詳しくみてみましょう。他の先進国では、アメリカ23位、イギリス41位、オーストラリア26位、フランス62位、ドイツ35位、日本は90位です。他のアジア諸国では、韓国102位、台湾68位、中国82位、マレーシア17位、シンガポール53位、タイ76位、フィリピン78位となっています。
どちらの調査でも、日本と韓国が同じような下位にランキングされているのが興味深いと言えます。うがった見方をすれば、日本と韓国は、美しい自然がないだけではなく、文明の利益も受けていない、ともに不幸せな国家とされてしまっているわけです。
もちろん、こういった調査結果は鵜呑みにする必要はありません。日本が両方の調査でこれだけ下位に位置づけされているのは気持ちのいいものではありませんが、別段これらの機関に抗議するような問題でもないでしょう。
レスター大学の調査結果をみて、私はあることに気づきました。
それは、バハマを除く上位1位から7位までの国家、すなわち、デンマーク、スイス、オーストリア、アイスランド、フィンランド、スゥエーデンは、いずれも、私がこれまでにタイで出会ってきたボランティアの出身国で多い国家に合致するということです。これらに、ベルギーとオランダを加えれば、私の経験にほぼピッタリとなります。
以前、このコーナーでも述べましたが(谷口恭のメディカル・エッセィ第32回「 医者は「勝ち組」か「負け組」か」)、これらヨーロッパの国々からタイにボランティアに来ている人たちは、年齢性別を問わず、私の知る限りお金持ちはひとりもいません。金持ちどころか、彼(女)らの年収は日本円にして300万円にも満たないのです。それでも、困窮している人を救うために、はるばる遠いところからアジアにやってきて一生懸命ボランティアをしているのです。
私は、ボランティアをすることが偉いことなんだ、というつもりは毛頭ありませんが、私がこれまでに出会ってきたボランティアの出身国を、レスター大学が「幸せな国」としていることは、単なる偶然以上の意味があるに違いないと思います。
これらの先進国は、どちらかと言うとヨーロッパの小国です。一方で、なぜか私の知る範囲では、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペインなどといった欧米の大国からタイに来ているボランティアはそれほど多く見かけません。(タイの繁華街やリゾート地では、こういった大国の出身者によく出会いますが・・・)
日本人はどうかというと、タイにはもちろん大勢のボランティアがいますし、ボランティアに来られない人でも、困窮している人々を救うためにお金を出している人は少なくありません。一方で、同じアジアに位置しており、同じ先進国である韓国、台湾、シンガポールなどの出身のボランティアはほとんど見たことがありません。
もしも、私のこの仮説「ボランティアに積極的な国家=幸せな国家」が妥当だとすれば、タイには多くの日本人ボランティアがいるのに、日本が「幸せな国」のランキングに入らないのはなぜでしょうか。
私の仮説が正しいとするならば、「幸せな国」に住む人たちは、タイだけでなく、アフリカや東欧も含めた世界各地で活躍しているのではないでしょうか。それに対して、日本人がボランティア先として選ぶのはアジアが圧倒的に多く、アフリカなどはまだまだ少数なのではないかと思われます。
この私の仮説が正しいかどうかは別にして、いずれ世界のどこにいってもボランティアとして活躍している日本人と出会える時代が来ることを期待したいと思います。
そのときのレスター大学の調査結果を見てみたいものです。
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|2013年6月17日 月曜日
42 馬を水辺に導くことはできるが馬にその気がなければ水を飲ませるこ とはできない 2006/7/19
2006年6月20日に奈良で起こった、有名進学高校の1年生が自宅に火を付け母子3人が死亡した事件は、我々医師の間でも議論を呼んでいます。
加害者の少年が、医学部にたくさんの卒業生を送り込んでいる有名進学高校の生徒であるのと同時に、父親が医師である、というのもその理由です。
報道によりますと、この47歳の父親は、加害者である息子に、医学部進学を義務付け、週に1~2回暴力を振るっていたそうです。勉強部屋を「ICU(集中治療室)」と呼び、スパルタ教育を徹底していたとの報道もあります。
暴力行為のほかにも、テレビゲーム機を取り上げて破壊したり、友人らの訪問中に勉強することを命令したりしたこともあったそうです。
また、一部の報道によりますと、加害者は高校入学まで人気タレントの木村拓哉さん(33)の名前すら知らなかったことが分かり、奈良地検の調べに「家が灰になってすっきりした」「勉強しなくていいので留置場は快適だった」などと話しているとのことです。
この話を医師のあいだでおこなうと、「他人事とは思えない」と感想を述べる者が少なくありません。
よく知られているように、医師の父親(もしくは母親)もまた医師である、というケースは非常に多く、きちんとした統計は見たことがありませんが、おそらく半数近くの医師が該当するのではないかと思われます。もちろん、親も医師である医師のすべてがスパルタ教育を受けていたわけではありませんが、少なくとも両親から医師になることを薦められていた人はかなりの数になると予想されます。
この加害者の罪を軽くするよう求めた嘆願書が全国からすでに1500通以上集まっているそうですが(7月2日現在)、嘆願書を書いた人のいくらかは、事件を起こした加害者の気持ちに共感できるからでしょう。
この「スパルタ教育」という言葉は、決していい意味ではありません。「子供の気持ちを無視した親の一方的な教育方針」というニュアンスで語られることが多いと言えます。
しかし、客観的には「スパルタ教育」と見える家庭でも、両親に話を聞けば、けっして「子供の気持ちを無視」しているわけではなく、「子供のためを思ってしっかりした勉強の環境を与えている」つもりのことが多いようです。
そのため、この事件を他人事とは思えないと言う医師は、それまでは子供のためを思ってやっていると信じていたことが幻想であり、「自分の子供ももしかしたら・・・・」、と感じているのかもしれません。
私自身は、自分の子供はいませんが、医師であり、また勉強に関する書籍を出版していることもあり、この事件に対するコメントを求められることが多いので、この場で私自身の意見を述べたいと思います。
まず私は、嘆願書を書く人の気持ちが理解できません。たしかに、過酷な環境で勉強を強いられていたことには同情しますが、そこから殺人へは飛躍しすぎです。殺害は放火の帰着であって殺人の意図はなかった、という弁護もあり得るでしょうが、16歳にもなっていれば、自宅に火をつければどのような結果になるかということくらい、いくら世間知らずで木村拓哉さんを知らなくても分かるはずです。
これは私の持論ですが、殺人については、自分の身内が殺られた復讐としての動機を除けば、罪を軽くすべきではないと考えています。
一方で、私はこの父親にも同情する気になれません。
というのは、自分が医師という職業に誇りを持っているならば、自分の臨床の成果や患者さんとの心のふれあいの話をして、医師の魅力を伝えることをすればいいわけで、それで充分なはずです。
もしも、医師の魅力が息子に伝わって、息子が医師になりたいと思えば、親が何も言わなくても勝手に勉強するでしょう。医師になるという目標があって勉強をおこなえば、自然に勉強のおもしろさが分かってくるはずです。
なぜなら、病気や怪我の治せる一人前の医師になろうと思えば、基礎知識が必要になることは明らかで、その基礎知識を身につけるためには高校の勉強こそが大切だということが分かるからです。今やっている勉強が、将来患者さんのためになると思えば、少々のスランプが来ても乗り越えられるはずです。
医師の魅力以外に、父親が息子にアドバイスすることがあるとすれば、今おこなっているほとんどの勉強が将来の患者さんに喜ばれることになる、ということを伝えればいいのです。
「まだ、うちの子供は未熟だから勉強の大切さが分かっていない」、という親もいますが、私はこれにも同意できません。この親の言うことはたしかに事実かもしれませんが、そうであったとしても、やる気のない人間に何かを強いることは、どんな方法をもってしても不可能です。
他人になにかをおこなってもらうときに有効な方法はただひとつしかありません。それは、その人にそのことがらに対する興味を持ってもらうことです。これ以外にはありません。いくらアメとムチを使ってコントロールしようとしても、その行動は長続きしません。まして、受験勉強のように、長期間の忍耐力が必要とされるようなものに対しては、本人が興味を持つ以外に方法はないのです。
拙書『偏差値40からの医学部再受験実践編』で述べているように、医学部志望の動機が、金儲けとかブランドであっては勉強に対するモチベーションが継続せず、医療の本質に興味を持たない限りは、医学部合格はあり得ないのです。
ちなみに、私は両親から「勉強しなさい」と言われた経験はほとんどありません。実際には言われていたのかもしれませんが、もし言われていたとしても無視していたに違いありません。
私は、皮肉なことに、大学に入学してから他学部の学問が好きになり編入学をおこない、医学に興味を持ってからは会社を退職し、今も勉強を続けていますが、「勉強しなさい」と言われて勉強したことは一度もありません。
しかしながら、現在ひとつだけ後悔していることがあります。
それは、英語の発音です。商社に入社したての頃、まったく英語ができない私に対して、先輩方は、「(英語は)読み書きはいつでもできるから、先に発音をしっかり勉強しなさい」、というアドバイスをくださいました。
先輩方は、たしかに例外なく発音がきれいでした。しかし、入社時から英語のできた人はほとんどおらず、ほぼ全員が入社後に発音の勉強をおこなうことによって上達したそうなのです。よく、英語の発音は幼少時に学ぶ必要がある、ということが言われますが、実はそうではなく、成人してから勉強しても上達するということを、先輩方は身をもって証明していました。
ところが、私はそんな先輩方の忠告には一切耳を傾けず、貿易業務にすぐに役立つと思われたビジネス英語の読み書きに絞って勉強したのです。
その結果、たしかに読み書きにはあまり苦労しなくなりましたが、会話、特に発音は今でも苦手です。
けれども、最近になって、私もついに重い腰を上げました。商社を退職してからも、英語を使う機会が続いており、発音のおもしろさが10年以上の月日をかけてようやく分かるようになってきたのです。 先日、発音の教科書を購入し、毎日少しずつCDを聴きながら勉強しています。どれくらいの年月がかかるかは分かりませんが、今の私は発音に興味を持っていますから、いくらセンスがないとは言え、少しくらいは上達する日がやがてくるでしょう。
あのときの先輩方、なぜ「発音を勉強しなさい」ではなく、「発音のおもしろさ」を教えてくれなかったのですか・・・
と感じている私はあまりにもわがまますぎますか?
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- 第254回(2024年10月) 認知症予防のまとめ
- 2024年10月11日 幼少期に「貧しい地域に住む」か「引っ越し」がうつ病のリスク
- 2024年10月 コロナワクチンは感染後の認知機能低下を予防できるか
- 2024年9月19日 忍耐力が強い人は長生きする
- 2024年9月8日 糖質摂取で認知症のリスクが増加
- 第253回(2024年9月) 「コレステロールは下げなくていい」なんて誰が言った?
- 2024年9月 「反ワクチン派」の考えを受けとめよう
- 2024年8月29日 エムポックスよりも東部ウマ脳炎に警戒を
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