メディカルエッセイ
104 塩分制限が不要というのは本当か 2011/9/20
コレステロールは下げる必要がないのではないか、という議論が物議をかもしており、大変な論争になっているということを以前お伝えしましたが(下記コラム参照)、今度は「塩分制限は不要」という意見がでて混乱を招いています。
まず、現在の医療の前提となっている、「塩分過剰摂取は悪いこと」、についてまとめておきましょう。過剰な塩分摂取→血圧上昇、というのは常識中の常識です。ナトリウムが血中に増えることにより水分が血管内に引き寄せられ血管内に水分が豊富になり、これが高血圧をもたらすのです。(化学が得意な方は、Na↑→浸透圧↑と考えてもらえれば簡単に理解できるでしょうが、浸透圧という言葉に馴染みがなくても、ナトリウムが水をひっぱる、というイメージをもってもらえれば理解しやすいと思われます)
血圧が高くなれば、動脈硬化のリスクになり、動脈硬化が進展すると虚血性心疾患(狭心症や心筋梗塞)、脳卒中(脳出血、脳梗塞など)を起こしやすくなります。ですから、こういった疾患を予防するには血圧を低く保つ必要があり、そのためには塩分を控えなければならない、という理屈です。
このことは疫学的にも実証されています。日本ではかつて塩分がものすごく摂取されていました。特に東北地方では、1日あたりの塩分摂取量が20gを超えており、これが原因で脳卒中を起こす人が多かったのは間違いありません。実際、塩分摂取が次第に減少してきたことに相関して脳卒中の発症率は低下しています。しかし、それでも日本人は(全国的に)塩辛いものを好むようで、世界的にみても現在でも食塩摂取量はかなり多いと言われています。
その日本の厚生労働省が発表する食塩の摂取基準は、1日あたり、男性で9グラム、女性で7.5グラムとされています(2010年4月に改定された厚生労働省発行の「日本人の食事摂取基準」より)。また、すでに高血圧があったり慢性腎臓病があったりすれば、男女とも1日6グラム未満にすることが推奨されています。しかし、同省の2008年の調査では、成人の1日あたりの塩分摂取量平均は、男性で11.9グラム、女性で10.1グラムです。
塩分を減らすというのは決して簡単ではなく、特に日本食が好きな人は相当困難です。味噌、しょうゆにも塩分は含まれていますし、漬物や佃煮、せんべいなどはかなり制限しなければなりません。鍋焼きうどん1杯で7.4グラムの塩分(厚生労働省のウェブサイトより)を摂取することになりますから、6グラムなんていうのは至難の業であることがおわかりいただけると思います。
もっとも、最近の健康ブームで減塩ブームもおこっており、専門のウェブサイトもいくつもありますし(注1)、以前に比べると、梅干にしても佃煮にしても「減塩」を謳った製品が増えてきています。しかし、塩分制限というのは思いのほか大変で、医療現場では日々減塩指導をおこなうのですが、1日6グラム未満を遵守できる人はそう多くはありません。
ところがです。この塩分過剰摂取はNGという医学界での常識中の常識が覆されようとしているのです。まず、議論を呼んだのは、ポーランドとベルギーの研究で「尿中ナトリウム排出量が高くても高血圧や心疾患合併症のリスク上昇と関連がみられなかった」とするもので著明な医学誌『JAMA』に2011年5月に掲載されました(注2)。
この研究では、心血管疾患にかかったことがない対象者3,681人(平均41歳)の24時間尿を採取しています。約8年間の追跡期間中、尿中ナトリウム排泄量が最も低かったグループ(つまり塩分摂取量が一番少なかったグループ)に心血管死の増大がみられたというのです。また、約6.5年間の追跡がおこなわれた2,096人の対象者を調べた結果では、ナトリウム排出量の高さと高血圧との間に関連性は認められなかったそうです。
ただし、この研究では、研究者が「今回の結果から、全員に対して塩分の制限を推奨する現在のガイドラインを支持することはできない」としながらも、同時に、「高血圧患者の減塩による降圧効果を否定するものではない」とも言及しています。
この研究は規模がさほど大きくありませんが、一流雑誌に掲載されたことで話題を呼びました。そして、さらに大きな議論となったのが2011年7月に公表されたコクランレビューです。
まず「コクランレビュー」とは何か、ですが、コクラン共同計画というのがあって、これは健康に関する大規模調査や研究を的確に評価することを目的として設立された国際プロジェクトのことです。要するにコクランレビューで公表される研究結果は、国際的に信憑性が極めて高いと考えられている、というわけです。
2011年7月6日、そのコクランレビューが「減塩の心血管疾患や死亡に対する効果は不明」という発表をおこないました(注3)。
コクランレビューのこの発表は瞬く間に全世界に伝わり、イギリスの大衆紙Expressは、同日に「NOW SALT IS SAFE TO EAT(塩分摂取はいまや安全)」というタイトルでいささか過激な報道をおこないました(注4)。イギリスでは日本でいう厚労省に相当するNice(the National Institute for Health and Clinical Excellence)という行政機関が、塩分の1日摂取量を2015年までに6グラムとし、さらに2025年までに3グラムにするという方針を打ち出しているのですが、この記事では、そのような基準を守ることはもはや有益でなく、フィッシュ&チップスの愛好家には嬉しいニュース、と報道されています。
もちろんこの話題を取り上げたのはイギリスだけではありません。たしか日本のマスコミでも報道されていたはずです。(塩分摂取の多い日本ではイギリス以上に大きく取り上げられるかと私は予想していたのですが、なぜかさほど日本では盛り上がらなかったようです)
さて、コクランレビューのこの発表を受けて、医療者はどうしているかというと、おそらくほとんどの医師は、減塩が必要と思われる患者さんには「これまでどおり減塩の努力をしてください」と言っていると思われます。私もそうしています。もちろん、コクランレビューの研究結果を否定するつもりは毛頭ありませんが、疫学調査をそのまま個人にあてはめることはできないのです。
実際に医療現場にいるとよく分かりますが、減塩をがんばっている患者さんは、それだけで(薬を使わなくても)血圧が正常値に戻ることがしばしばあります。コクランレビューは、決して「高血圧を放置しておいてもよい」と言っているわけではありません。おそらく、コクランレビューの研究の対象者のなかには、「塩分をあまりとっていなかったけれど何らかの理由で血圧が徐々に上昇したような人」が相当数混じっていたのではないかと思われます。高血圧がむつかしい理由のひとつは、ある程度は遺伝的な要因に規定されていて、減塩をして血圧が下がる人もいればそれほど下がらない人もいるということです。
ここ数年間の各国の減塩に対する行政指導は、それが理論的には正しいとしても、現実的には「絵に描いた餅」になっているように私は感じています。先に述べた1日3グラムなどという基準を、どれだけのイギリス人が遵守できるのでしょうか。また、以前別のところで述べましたが、ニューヨークでは、2010年3月に、「塩を使って料理をすると店主に罰金 1,000ドル(当時のレートで約 90,000円)を科せる」という法案が提出されています。さすがにこの法案は否決されましたが、アメリカではレストランで塩を使うことを禁止しようとする動きすらあるということは注目に値するでしょう。
今回のコクランレビューの研究は、(研究に携わった公衆衛生学者が意図したかどうかは別にして)、最近の急激に進行している減塩ムーブメントに対するアンチテーゼのような印象が私にはあります。
血圧が遺伝的な要因で高い人のなかには、いくら減塩しようが体重を落とそうが有酸素運動をおこなおうが、下がらない人がいます。そのような人は比較的早期から降圧剤を使用するべきでしょう。一方で、減塩で降圧が期待できる人は、できる限り薬を使うことを遅らせて、まずは生活習慣の改善に努力すべきでしょう。
大切なのは、コクランレビューも含めて疫学的な調査結果に振り回されるのではなく、個人にとって最適なケアを医療者と共に考えていくことです。
参考:
はやりの病気第81回(2010年5月) 「慢性腎臓病と塩分制限」
メディカルエッセイ第101回(2011年6月) 「過熱するコレステロール論争」
注1 例えば、「塩を減らそうプロジェクト」( http://www.shio-herasou.com)があります。
注2 この論文のタイトルは、「Fatal and Nonfatal Outcomes, Incidence of
Hypertension, and Blood Pressure Changes in Relation to Urinary Sodium Excretion」で、下記のURLで概要を読むことができます。
http://jama.jamanetwork.com/article.aspx?articleid=899663
注3 この論文のタイトルは、「Reduced dietary salt for the prevention of
cardiovascular disease」で、下記のURLで概要を読むことができます。
http://www.cochrane.org/contact
注4:Expressのこの記事は下記のURLで読むことができます。
http://www.express.co.uk/news/uk/257048/Now-salt-is-safe-to-eat
最近のブログ記事
- 第186回(2018年7月) 裏口入学と患者連続殺人の共通点
- 第185回(2018年6月) ウイルス感染への抗菌薬処方をやめさせる方法
- 第184回(2018年5月) 英語ができなければ本当にマズイことに
- 第183回(2018年4月) 「誤解」が招いた海外留学時の悲劇
- 第182回(2018年3月) 時代に逆行する診療報酬制度
- 第181回(2018年2月) 英語勉強法・続編~有益医療情報の無料入手法~
- 第180回(2018年1月) 私の英語勉強法(2018年版)
- 第179回(2017年12月) これから普及する次世代検査
- 第178回(2017年11月) 論文を持参すると医師に嫌われるのはなぜか
- 第177回(2017年10月) 日本人が障がい者に冷たいのはなぜか
月別アーカイブ
- 2018年7月 (1)
- 2018年6月 (1)
- 2018年5月 (1)
- 2018年4月 (1)
- 2018年3月 (1)
- 2018年2月 (1)
- 2018年1月 (1)
- 2017年12月 (1)
- 2017年11月 (1)
- 2017年10月 (1)
- 2017年9月 (1)
- 2017年8月 (1)
- 2017年7月 (1)
- 2017年6月 (1)
- 2017年5月 (1)
- 2017年4月 (1)
- 2017年3月 (1)
- 2017年2月 (1)
- 2017年1月 (1)
- 2016年12月 (1)
- 2016年11月 (1)
- 2016年10月 (1)
- 2016年9月 (1)
- 2016年8月 (1)
- 2016年7月 (1)
- 2016年6月 (1)
- 2016年5月 (1)
- 2016年4月 (1)
- 2016年3月 (1)
- 2016年2月 (1)
- 2016年1月 (1)
- 2015年12月 (1)
- 2015年11月 (1)
- 2015年10月 (1)
- 2015年9月 (1)
- 2015年8月 (1)
- 2015年7月 (1)
- 2015年6月 (1)
- 2015年5月 (1)
- 2015年4月 (1)
- 2015年3月 (1)
- 2015年2月 (1)
- 2015年1月 (1)
- 2014年12月 (1)
- 2014年11月 (1)
- 2014年10月 (1)
- 2014年9月 (1)
- 2014年8月 (1)
- 2014年7月 (1)
- 2014年6月 (1)
- 2014年5月 (1)
- 2014年4月 (1)
- 2014年3月 (1)
- 2014年2月 (1)
- 2014年1月 (1)
- 2013年12月 (1)
- 2013年11月 (1)
- 2013年10月 (1)
- 2013年9月 (1)
- 2013年8月 (1)
- 2013年7月 (1)
- 2013年6月 (125)