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2013年6月13日 木曜日

2006年11月号 「人の役に立ちたい」という欲求 2006/11/10

 11月1日、ついにGINAがNPOとして承認されることになりました。あとは、登記が終わるのを待つだけです。おそらく二週間もあれば登記の手続きが完了するでしょうから、そうなればついに特定非営利活動法人(NPO法人)GINAが正式に誕生することとなります。

 GINAは正式にNPO法人となってからPRをおこなおうと思っていたため、これまで私は、比較的身近な友人も含めてGINAのことをほとんど話していません。にもかかわらず、GINAのウェブサイトには月に33,000以上のアクセスがあるようで、この数字は大きくはないでしょうが、PRをほとんどしていないことを考えれば小さくもないと感じています。最近の日本は「エイズへの関心が低い」と言われることが多いのですが、実際はそうでもないのではないか、という気もします。

 GINAは、趣旨に賛同してくれた仲間と共に立ち上げたのですが、このようなNPOの必要性を訴え始めたのは私自身です。

 ところで、最近、「NPOって何のメリットがあるの?」、と聞かれることが多いのでこの場でお答えしておきたいと思います。

 「メリットは何?」と尋ねる人に、「社会貢献ができるから」と答えると、「???」という反応が少なくありません。彼(女)らは、「社会貢献」がキレイ事に聞こえるのでしょう。しかしそういう彼(女)らの気持ちが分からないわけでもありません。私も、20代の頃なら、NPOをつくって「社会貢献」をするなどということは思いつきもしませんでしたから。

 私がタイのエイズ問題に興味を持ち出してNPOの設立を考え出したときから、絶えず頭から離れなかったひとりの男性がいます。

 といっても私はその男性を直接知っているわけではありません。数年前にある雑誌でその男性が書いた文章を読んだことがあるだけです。それを読んだときは、その内容が私の人生に影響を与えるなどということは微塵も思いませんでしたから、その雑誌は捨ててしまって今は手元にありません。しかしその男性の言葉は今も私の心に根付いています。

 その男性は50代で、ひきこもりの青年を社会復帰させることを目的としてNPO法人を設立しました。通常はひきこもっている青年の両親から依頼を受けて、あの手この手で社会復帰を企てます。その男性は、そのNPOを設立するまで、いわゆる「裏社会」で生きてきており、まともな仕事をしたことがなかったそうです。数々の修羅場をくぐりぬけ、かなりの悪事にも手を染めているその男性は、50代になって、「人の役に立ちたい」と思うようになったそうです。

 この男性はひきこもっている青年に対して、ときには脅しを使ったり(裏社会で生きてきただけあり、得意とするところなのでしょう)、ときには涙を見せたり、あらゆる手を使ってひきこもりたちを社会復帰させているそうです。成功したときにしか報酬を受け取らないためなかなか黒字にはならないそうですが、それでも他の同じような組織に比べると、ひきこもりの社会復帰成功率は格段に高いそうです。

 その雑誌は現在手元になく、正確な言葉を思い出すことはできませんが、その男性はたしかこのようなことを述べていました。

 「若い世代には分かってもらえないと思うが、私のように無茶苦茶な人生を歩んでいると、死ぬまでに人のために役立つことをしたいっていう欲求が強くなるんだ」

 この言葉が、なぜか私の胸にずっと引っかかっており、私がGINA設立を決意するきっかけとなったのは事実です。

 私の人生など、この男性のものからみると、比較するのもおこがましいほど取るに足らないものです。そしてこんなことを言えばこの男性に失礼だとは思うのですが、私はこの男性の言葉に「共感」しています。

 私は20代前半までは、社会貢献どころか、低次元の利己的な欲求のみに支配されて生きてきました。25歳のときに、社会学部大学院の受験を考え、それが最終的に医学部受験に変わりました。この動機は「勉強がしたい」という欲求で、これは必ずしも低次元とは言えないでしょうが、それでも「利己的」な欲求であったことには変わりありません。

 私が医師になることを考え始めたのは医学部3年生、30歳のときでした。病気から社会的な差別を受けている人の力になりたい、というのがそのときの理由でした。これは「利己的」とは言えないとは思いますが、この時点ではNPOなどはまだ頭にのぼることはありませんでした。

 医師3年目のとき、タイに出向き、社会から家族から、そして病院からも差別を受けているエイズに苦しんでいる人たちに直面し、次いでエイズ孤児たちの存在を知るようになり、少しでもこういった人たちに貢献したいと感じた気持ちがGINAの設立につながりました。

 私は当分の間、日本で医師をおこないますが、これは異国の地で苦しんでいる人よりも力になるべき人は身近にいると考えているからです。しかし、それでも日本では考えられないような過酷な環境で暮らさざるを得ない人たちに少しでも貢献し続けたいと考えています。

 最近、ある雑誌でNPOを設立した人の記事を読みました。その人は40代半ばで地域社会に貢献するためのNPOを設立し、さらに現在はインターネットを使った人生相談もおこなっています。

 この人が書いた記事のなかに興味深い文章があります。自分の値打ちということを考えたとき、20代ならそれは「モテるか?」、30代なら「カネあるか?」と「社内的なオレのポジションは?」で、40代になり「オレは人の役に立てるのか?」となったそうです。

 やはり人間は年齢を重ね、経験を積むにつれて、「人の役に立つ」あるいは「社会貢献」といったことに対する欲求が強くなってくるものなのでしょう。

 私は20代の頃には、ボランティア活動など考えたことすらありませんでしたし、「利他的な行動」などといったことは、家族のための行動を除けば、あり得ないと思っていました。

 もちろん、ボランティア、社会貢献などをすることによって、充足感が得られますから、人の役に立つ行動も「利己的」な側面を孕んでいるという見方もできるでしょう。しかしながら、結果としてそれが「貢献」につながるなら、「利他的」であるとも言えるわけで、他人にも自分自身にも満足感を与える、極めて安定した力強い欲求が「人の役に立ちたい!」というものだと私は考えています。

 ところで、現在日本に存在するNPO法人は約2万8千、NPO法人への寄附金総額は約7千億円です。一方アメリカは、NPO法人数が約90万、寄附金総額は24兆円です(日本経済新聞2006年11月3日)。日本はアメリカの3%にも満たないのです。

 NPOを設立したり、NPOに寄付したりすることだけが「人の役に立つ」わけではありませんが、NPO法人なら活動内容も会計報告も透明化していますから、「人の役に立つ」きっかけとしてもっと注目されてもいいのではないかと思います。

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2013年6月13日 木曜日

2006年10月号 新天地 2006/10/10

 先月のマンスリーレポートは「卒業」というタイトルで作成しましたが、その原稿を書いた後、偶然にも新しい世界に踏み込むことになりました。

 来年年明けから大阪市北区に新たにクリニックを開院することになったのです。

 クリニックの開院は、もともと今年の4月を考えていたのですが、なかなかいい物件が見つからず、やっと見つかって仮契約書まで交わすところまでいっても、同じビルに入っているクリニックの反対で中止になったり、間一髪で他人に借りられてしまったり、ということが相次ぎ結局実現できませんでした。

 その後も物件は探し続けていたのですが、なかなかいいものが見つからずに時間だけが過ぎていました。ところが、最近になって、ひょんなことからある業者が大変魅力的な物件を探してきてくれたのです。

 その物件は、日頃私がよく通る道沿いにあり、以前から、「こんなところでクリニックができたらいいなぁ・・・」と思っていたビルでしたから、物件を探してきた業者が、「ここです」と案内してくれたときは大変驚いてしまいました。

 そのビルはその地域で最も大きなビルのひとつで、外観は大変美しく、そのビルで働けること自体に喜びを見出させると言っても言い過ぎではないようなところです。

 これからやらなければいけないことは、融資の交渉、スタッフの確保、機器の購入、内装・・・、など大変ですが、患者さんに満足してもらえるようなクリニックを構築できるように頑張っていきたいと思います。

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 新しいクリニックの準備で大変忙しくなるな・・・、と思っていたところ、エール出版社から問い合わせがありました。

 拙書『偏差値40からの医学部再受験』の改訂第4版を出版したいというものです。

 新クリニックの準備を始めるからといって、現在の医師の仕事を減らすわけにはいきませんし、GINAの仕事も次第に増えてきていますから、もしもお金で時間が買えるなら買いたいくらいに忙しく、本の執筆をする時間の捻出はかなりむつかしいのですが、結局この依頼も引き受けることにしました。

 最近、医療における情勢が大きく変わってきており、医師に対する風当たりがきつくなってきているように見受けられます。医事紛争は急増していますし、最近では、生体腎移植に金銭授与が絡んでいたという事件が発覚し、その責任を病院と医師に求める世論も強くなってきています。

 もちろん、医療というのは患者さんのためにあるべきもので、いかなるときにも患者さんの立場から考えなければなりません。医師側の都合というものは尊重されるべきではありません。

 しかしながら、医療を始める前から医事紛争や患者さんどうしの金銭介入という問題まで想定しなければならないとなると、医師側の精神的な負担がかなり重くなりますし、結果として患者さんに最善の利益をもたらすことができなくなる可能性もあります。つまるところ、これからの医師は以前に比べると、純粋に「患者さんに元気になってもらいたい」という気持ちだけではつとまらなくなってしまうかもしれません。

 けれども、私が言いたいのは、「それでも医師とは大変やりがいのある魅力的な職業である」ということです。新しく改訂する本には、そのあたりのことを詳しく書きたいと思います。

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 医師の仕事のひとつに学会参加や発表というものがあります。小さな規模のものも含めると私の場合、月に1~2回は参加していますが、毎年年末には重要なものが重なります。

 11月中旬には、バンコクでWONCAという国際プライマリケア学会があります。タイに出張し、その学会に参加して、ついでにGINA関連の仕事もしてくるつもりですが、帰国するとすぐに日本エイズ学会があります。まだ正式には決まっていませんが、今年のエイズ学会ではひとつ演題を発表する予定です。

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 12月に入ると、新しいクリニックを一応はオープンさせなければなりませんし(現行の医療法では保険診療をおこなう一月前から開院させなければなりません)、学会出席のため出張しなければなりませんし、さらに新しいクリニックで効果的な診療がおこなえるよう、何日かは別のクリニックに研修を受けに行くことも考えています。

 以前会社員をしていた頃は、12月と言えばボーナスが支給され、「忘年会」と称して週に何度も飲みに行く機会があったのですが、今となってはあの頃が大変なつかしく感じられます。

 あの頃に戻りたい・・・という気持ちが沸いてきても、すぐに打ち消すようにはしていますが、多忙さのなかに埋もれてしまっている自分に気付き、昔の自分がうらやましくなることもあります。

 けれども、ふんばらなければならない時期だ! と自分に言い聞かせて今は頑張るしかないのでしょう。

 新天地を目指して・・・

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2013年6月13日 木曜日

2006年9月号 卒業 2006/09/09

 先月の大学病院でのカンファレンスで、「卒業試験の問題をつくるように」との業務命令が私に下されました。医学部の卒業試験は問題数が莫大なものですから、私のように教壇に立つ資格のない者も問題作成をおこなうことになるのです。もっとも、私がつくった問題は実際のテスト問題に組み入れられる前に何人かの教員のチェックを経て、必要があれば修正が加えられることになっています。

 私の大学では、卒業試験は11月と12月の2ヶ月間かけておこなわれます。現在は、医師国家試験は2月末におこなわれますから、医学部の6年生は卒業試験が終わればすぐに国家試験のために猛勉強しなければなりません。そのため、11月からは勉強以外にほぼ何も考えられなくなります。

 大学によっても異なりますが、私の大学では、10月までは臨床実習として大学病院以外の大きな病院での研修(実習)を受けなければなりませんから6年生の後半はかなり多忙になります。もっとも、医師になってからの方がこのような生活よりもはるかに多忙なのですが・・・。

 日頃の臨床で多くの症例にあたっていると、題材は豊富にありますから、卒業試験の問題をつくること自体は、そんなにむつかしいことではありません。ただ、せっかくつくるなら、医学生にはそれを考えることによって将来の臨床に役立つような問題をつくりたいものです。

 だから、私はこれまでの卒業試験や医師国家試験を参照することなく、オリジナリティの強い問題をつくりました。(オリジナリティが高いといっても、問題を考えるプロセス自体は奇抜なものではなく、過去問を解いて基本的な考え方を理解していれば、そんなにむつかしくはありません。もしもこれを私の大学の6年生の人が読んでいれば、あまり不安にならないように・・・)

   ***

 私は受験の本を出版していることもあり、大学4年生の人からもメールや手紙をもらうことがあるのですが、今年は去年までに比べると、その内容に変化がみられるように思います。去年までは、「今、大学4年生ですが、就職はせずに医学部受験の勉強を始めます(続けます)」、というものが多かったのですが、今年は「いったん就職してお金をためてから再度医学部受験を検討します」、というものが増えています。

 この理由はおそらく景気がよくなって、就職状況が一気に売り手市場に突入したからでしょう。新聞をみていても、今年はバブル経済以来の売り手市場で、複数の内定をもらう学生が続出し、企業側は優秀な人材の確保に必死であるという記事を目にします。

 企業に就職しようが、就職せずに受験勉強の生活に入ろうが、3月になれば「卒業」がやってきます。同じ卒業式を迎えるにあたって、就職が決まっている人とそうでない人は気分が違うかもしれません。

 私は関西学院大学社会学部を1991年に卒業しましたが、卒業式の頃は、これから始まる社会人としての生活にワクワクしていたのを覚えています。
 
 卒業試験の問題を考えながら、そんなことを思い出してしまいました。

   ***

 私は、受験の本を出版しているだけであり、就職についてこれまで言及した記憶がないのですが、なぜか私のところに就職活動の相談をされる方がいます。すべての問い合わせに返事を書いているわけではありませんが、手紙やメールの内容によっては、悩みや考えが真剣に伝わってきて、相談にのらせてもらうこちらの方も(不謹慎な言い方ですが)楽しませてもらっています。

 「楽しませてもらっている」というのは、私自身がその人の気持ちになってこれから始まる暮らしのことを考えるとワクワクしてしまうからです。みんなにそれぞれ夢があって、その夢を少しだけ共有できたような気がして嬉しくなってくるのです。

 人間というのは贅沢なもので、私は今の生活は自分に与えられたミッションを遂行していると感じられるため、幸せだとは思うのですが、それでも、「前みたいに日本の会社でビジネスマンをしたいな・・・」とか、「新興企業に就職して海外市場を開拓してみたいな・・・」とか、はたまた「もう一度大学に行って勉強や研究に没頭してみたいな・・・」などと思うこともあります。

   ***

 今月から、GINAのwebsiteで、『イサーンの田園にルークトゥンが流れる時』という小説を連載することになりました。この物語はフィクションで、主人公は架空の人物です。これまでの生活に終止符を打ち、新しくNPOのスタッフとして働き始めた主人公(元看護士の男性)が、ある女性との出会いをきっかけに新たな発見をしていく、というストーリーなのですが、私はいつしかこの主人公に感情移入をするようになり、現実では体験できないことをストーリーのなかで実現させることの面白さが分かるようになりました。

 新しい世界に飛び込むというのは、一度きりの人生のなかでそう何度もできるわけではありません。しかし、どんな人にもその機会は確実にやってきます。

 そのひとつが「卒業」です。

 卒業試験の問題を考えながら、新しい世界に飛び込む感動について想いを巡らせてしまいました・・・。

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2013年6月13日 木曜日

2006年8月号 医師が家族と過ごす時間 2006/08/10

 「黎明」という表現はおこがましいでしょうが、組織を起こすのはやはり初めが肝心であり、また大変であり、現在のGINAもそういう真っ只中にいます。
 
 で、何が大変かというと、もちろんいろいろとあるのですが、現実的には「時間」と「お金」です。
 
 私が以前から何度も指摘しているように、医師という職業は他に類をみない売り手市場であります。つまり、慢性的な人手不足です。ですから、週末勤務や夜勤の仕事はすぐに見つかり、こういう仕事を増やせばある程度はお金を稼ぐことができます。GINAは非営利組織でありますから、活動を活発にすればするほど出費がかさみます。これを補うために、現在私は週におよそ100時間のペースで医師としての仕事をしています。

 けれども、週末勤務や夜勤を増やすことによって、GINAの活動の時間そのものが制限されてしまいますから、GINAの費用を捻出しなければならないが、そちらに傾きすぎるとGINAの活動が充分にできなくなってしまう、という微妙なバランスに常に注意を払っていなければなりません。

 医師という職業の特徴のひとつは、勤務時間だけが仕事ではない、ということです。診断がつかなかったり、初期治療にそれほど効果が認められなかったりする場合には、それに対する調査(勉強)をおこなわなければなりません。最終的に、他の専門病院に行ってもらうことになることもありますが、その場合でも、その施設での診断や治療を学ばなければなりませんから、これはこれで大変です。

 日頃から最新情報を知っていなければならない、という使命が医師にはあります。私が研修医の頃にはなかった薬剤や検査法、治療法などがたくさん登場してきていますし、以前からある薬剤でも、注意書きの内容が変わったり、新たな効果が報告されたりすることも頻繁にありますから、こういったことにも対応できなければなりません。

 手術件数を増やしたり、あるいはセミナーなどに出席したりして、技術の向上につとめなければなりませんし、新しく出版される教科書も読まなければなりませんし、所属学会からは定期的に学会誌が送られてきますし、世界中で毎日大量に誕生している論文にも目を通さなければなりませんし、文字通り時間はいくらあっても足りません。

 さらに、医師であれば学会や研究会での発表をおこなわなければなりませんし、論文も書かなければなりません。これらに取られる時間も相当なものです。発表や論文は英語でおこなわなければならないことも多く、そのためほとんどの医師は日頃から英語の勉強を欠かしていません。私の場合は、英語に加えタイ語が加わります。GINAの活動はタイ国に関連するものが多いため、タイ語が不可欠になってくるのです。

  以前、ある人が、「医者は高級車を乗り回して、毎日のように高級クラブに通って、週末はゴルフ三昧なんでしょ」、と言っているのを聞いたことがあるのですが、少なくとも現在の日本においてはこんな医師はひとりもおらず、このような医師像は「都市伝説」のようなものです。

 たしかに、高級車に乗っている医師もいますが、残念なことにそれを乗り回す時間はそれほどありません。医師であれば夜間に呼び出されることも頻繁にあり車が必要になるため、自動車所有率は高いと思いますが、必ずしも高級車に乗っているわけではありません。(ちなみに私の車は12年落ちの国産で、購入価格は45万円。「当て逃げ」されてへこんでいるところを修理する金銭的余裕はありません。)

 高級クラブやゴルフに通う、というのも医師である限り事実上不可能です。その医師の立場にもよりますが、夜間や休日に呼び出されることもあるため、お酒を度々飲むわけにはいかないのです。私の場合、医師になってからお酒を飲むのは2~3ヶ月に一度程度になりました。(ちなみに商社勤務時代には週に3~4度程度はお酒を飲む機会がありました。)

 そんな医師にも家族というものがあります。
 
 私は、結婚の経験がなく、ひとりで暮らしていますから、夜勤や週末の勤務を積極的におこなうことができますが、パートナーや子供がいれば、いくら多忙でも家族のための時間をどこからか捻出しなければなりません。

 職業人としての医師の立場からすれば、いくら遅い時間に帰宅しても、先に述べたように「勤務時間以外の仕事」をおこなわなければなりません。語学の勉強も待っています。

 しかし、家族の一員としての立場からすれば、パートナーや子供との語らいの時間が必要です。

 そして、実際かなりの医師が、仕事と家庭の両立の困難さに悩んでいます。

 以前新聞に、ある大学病院の男性産婦人科医の話が載っていました。その産婦人科医は、夫婦や家族関係についての研究や臨床で有名で、夫との人間関係がうまくいかないという女性の患者さんをたくさん診ており、なかには、この医師に相談にのってもらうために遠方から来られる患者さんもおられるそうです。

 ところが、この医師は、自分の奥さんから、「あなたは夫としても父親としても最低」と言われているそうなのです。この原因は、おそらく、この医師の多忙さが家族との語らいの時間をなくしてしまっていることと無関係ではないでしょう。

 先日発表された、国立女性教育会館の実施した「家庭教育に関する国際比較調査」によりますと、父親が子供と平日に一緒に過ごす時間は、日本が3.1時間で韓国の2.8時間についで世界6カ国中下から2番目だったそうです。その一方で、母親が接する時間は7.6時間と6カ国中で最長だったそうです。

 もしもこの調査を日本の男性医師でおこなうと、とても3.1時間などには及ばず、想像するのも恐ろしいような数字になるでしょう。仮に子供が夜10時に寝るとすると、3.1時間を確保しようとすれば夕方の6時50分から接し始めなければならないことになります。毎朝1時間を確保するとしても、夜7時50分には帰宅していなければならないことになります。医師は朝も早いため、毎朝1時間もの子供と接する時間を確保することは不可能です。

 この調査によれば、父親が最も子供と長い時間接しているのはタイ国で5.9時間です。一般的なタイ人はよほどのことがない限り残業をしませんし、子育ては夫婦でおこないますからこのような数字になるのでしょう。実際、タイ人と話していると、彼(女)らの強い家族の絆を感じることが頻繁にあります。「多くの日本人は残業をしている」、という話を以前タイ人にしたことがあるのですが、「日本人はいったい何のために働いているの?」、と不思議そうに質問されてしまいました。

 しかし、そのタイでも医師は例外的な職業であるようです。給与は高いが勤務時間が長すぎるために医師は人気職業ではない、という記事を以前タイの新聞で読んだことがあります。タイ人にとっては、いくら高級でも家族との時間が減るのなら意味がないようです。

 「医者の不養生」という言葉があり、通常は、「患者さんに健康指導をすべき医師自身が不健康な生活をしている」、といった意味で使われますが、家族との絆という意味でこの言葉をあらためて考えてみればどうでしょう。

 「患者さんを診る前に、自分の家族と良好な関係を維持すること」、が大切だと私は考えていますが、現在の日本の医師が担っている役割と責任を考えると、現実的ではないかもしれません。

 医師の数を倍にして、勤務時間を半分にして、できた時間を家族と接する時間と勉強にあてる、というのが私の提案ですが、今の日本では絵に描いた餅なのでしょう。勤務時間が半分になれば、当然収入は半減しますから、この点に同意が得られない、という問題もあります。

 けれども、年収数十万円で家族一同幸せそうにしているタイの家庭をみると、やっぱり羨ましいなぁ・・・と思ってしまいます。

 GINAが始まったこの時期は仕方がないですし、新しいクリニックをオープンさせてからしばらくも、長時間の勤務は避けられないでしょうが、それでもいずれは、家族との時間や勉強時間をゆったりととりたいものです。

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2013年6月13日 木曜日

2006年7月号 邂逅 2006/07/10

 GINAの活動を本格的に開始してからおよそ4ヶ月が経過いたしました。

 この4ヶ月間で、多くの施設訪問、患者さん宅への訪問、研究者との対談、ボランティアとの話し合い、オリジナルの研究開始、など様々なプロジェクトをおこなうことができました。

 GINAはNPOですから、活動を活発にすればするほど経費がかさみ、金銭的にはしんどくなります。そのため、現在も医師としての仕事は以前と変わりなく続けています。医師の仕事として、1週間に100時間程度はとられ、さらに空き時間には医学の勉強を続けなければならず、その上語学の勉強がありますから、GINAのための時間を捻出するのは相当大変です。

 にもかかわらず、GINAの活動が予定通り、あるいは予定以上に順調に進んでいるのは、もちろん周囲の方々の支えのおかげです。
 
 例えば、私はGINAの事務的な仕事は、GINA副代表の浅居氏に全面的に任せています。websiteの管理についても、浅居氏及び浅居婦人にすべておこなってもらっており、私は、ただレポートや記事の下書きをしているだけで、その校正も浅居夫妻に任せています。彼らの活躍、さらに他のGINA正会員の働きがなければ、これほどまでにGINAは順調に進んでいないはずです。
 
 もちろん、GINAの順調な進行は、GINAスタッフの力だけによるものではありません。GINAの趣旨に賛同してくださり、アドバイスや寄付金をくださる方々がおられるからこそ、我々は活動を続けることができるのです。

 もちろん、タイで我々の活動に賛同してくださり、多くのアドバイスを授与してくださる方々や、実際に本音をお聞かせくださるエイズ患者さんの存在も、我々が活動を続けていく上で大変貴重なものであります。

 私は6月30日から7月8日にかけて今年4度目の訪タイをしてまいりました。今回はやや強行的なスケジュールを実行しましたが、7月から航空料金が大幅に上昇するので、できるだけ経費を抑制するために6月中の出発にしたというわけです。

 GINAのタイをベースとした初期の活動が、今回の出張でとりあえずは落ち着きましたから、これから当分の間GINAの活動は国内が中心となります。次回の訪タイは、11月中旬にバンコクで開催されるプライマリ・ケア関係の国際学会に合わせてとなる予定です。

 さて、今回の訪タイでお会いし、その献身的な生き方に大きな感動を教えてくれた方々がおられますので、ここで簡単にご紹介させていただきたいと思います。
 
 まずは、パヤオで「21世紀農場」を運営されている谷口巳三郎先生です。巳三郎先生のことは、「マンスリーレポート4月号」でもご紹介いたしましたが、この方の生涯を通しての献身的な態度は、ただただ敬愛するばかりです。

 巳三郎先生は、60歳を過ぎてから単身タイに渡り、20年以上にわたり現地の農業指導に従事されています。21世紀農場はタイ北部のパヤオ県にありますが、この地域では90年代初頭からエイズが蔓延し、その結果行き場を失った人々が、巳三郎先生を頼って21世紀農場を訪問したのです。

 巳三郎先生は、そんな彼(女)らに対して農業指導やミシンの使用を学ばせ生活を支援し、適切な医療が受けられるように現地の行政や病院に対する計らいをされました。

 また、パヤオ県さらには隣県のチェンライ県にも、巳三郎先生の農業指導のおかげで自立され、さらに農業を学びたい人に対する指導をされているタイ人の方が大勢おられます。

 巳三郎先生は、タイの歴史に残るタイに貢献した日本人、として今後も大勢の方に語られることでしょう。

 パヤオ県では、依然エイズで困窮されている方々が大勢おられます。そんな方々のために日々尽力されているトムさんというタイ人がおられます。この方の夫は日本人の赤塚さんという方で、ご夫婦でエイズにまつわる諸問題に取り組んでおられます。

 このご夫婦の献身的な行動にも私は深い感銘を受けました。おそらくこういった方々がおられなければ、パヤオ県のエイズ問題は依然進展を見ていないのではないかと思われます。
 
 タイ北部の高地民族の出身でおられる、パンさん、ヨハンさん、ダイエさんには、彼らが運営する高地民族のための学生寮を拝見させていただきました。

 高地民族とは、タイ北部の山岳に住まわれている少数民族で、アカ族、カレン族、リス族、ラフ族、モン族など、11の民族があります。彼(女)らの地域では、学校がほとんどなく充分な教育を受けることができません。そこで、パヤオ県やチェンライ県の学校に通うことになるのですが、通うと言っても、とても山岳部からは通うことができません。

 そのため、子供たちが安心して勉強や寝泊りができる施設(寮)が必要となり、彼らが私財を投げ打って寮を設立されたというわけです。運営費の一部は日本からの寄附金にも頼っています。

 寮を設立し、子供たちが安心して生活するためには、どうしてもある程度の費用がかかり、どの寮もけっして裕福ではありません。そのため、彼らは、私生活をかなり犠牲にして子供たちのために献身されています。

 高地民族のために寮を設立されているのはタイ人だけではありません。チェンライ県の外れに、「ルンアルンプロジェクト」という高地民族の生徒寮があるのですが、この寮を設立したのは、中野穂積さんという日本人女性です。

 中野さんは、高地民族の子供たちのために日々尽力なさっています。彼女のおかげで多くの高地民族の子供たちが安心して勉強を続けることができるのです。

 高地民族のなかには、すでに両親を亡くしている子供たちが少なくありません。その最たる原因はエイズです。こういった子供たちは、いわゆる「エイズ孤児」となり、そのままでは勉強どころか生活することもできなくなるため、高地民族の寮を運営されている方がいなければ路頭に彷徨うことになってしまうのです。

 エイズ孤児のみを収容している施設もあります。チェンマイ県のドイサケートには「希望の家」と呼ばれる施設があり、両親をエイズで亡くしたおよそ20人の子供たちが生活しています。現在はタイ人のご夫妻が中心となって運営されていますが、寮の名前からも分かるように、この施設はある日本人女性が設立に大きな役割を果たしています。

 その方は、大森絹子さんという女性で、私と同じ大阪市立大学出身です。大森さんは看護師及び助産師の免許を所得され、現在の私と同じ大阪市立大学医学部附属病院でも勤務されていました。タイに渡られ少数民族の医療に従事され、その後訪米し医療人類学を学ばれた後、再びタイに渡航し、高地民族のために尽力され、「希望の家」を設立されるに至ったのです。

 不幸なことに、大森さんは48歳という若さで他界されました。しかし、その後も生前から大森さんと懇意にされていたプラセン&タッサニーさんご夫妻の活躍のおかげで「希望の家」は現在も子供たちにとってはなくてはならない存在であり続けています。

 日本に帰国する機内で、私は今回お世話になった方々のことを考えているうちに深い眠りに落ちていました。毎度のことなのですが、訪タイ時には強引なスケジュールを組んでいるためにかなり疲労が蓄積します。今回は極端に疲れており、機内サービスで出された食事にも気づかない程でした。
 
 機内でひとつの夢を見ました。私の中学時代の授業の再現シーンです。なぜか科目は「道徳」。中学の授業などほとんど何も覚えていないのに、よりによって道徳の授業が夢に出てくるとは不思議なものです。

 教壇に立つ先生は、黒板にある文字を書きました。

 邂逅・・・

 漢字の読めない私は、先生が振り仮名を振ってくれて初めて、それが「かいこう」と読むんだ、ということが分かりました。「思いがけなく巡り合う」という意味だそうです。

 考えてみれば、私がGINAを通してめぐり合った人たちは、以前から希望してお会いしたというよりは、いくつもの偶然が重なってお会いしています。私は元々、この3月から新しいクリニックを設立する計画を立てていましたから、それが実現していればこういった方々にお会いしていない可能性が高いのです。

 こういった人たちとの巡りあいは、まさに「邂逅」ではないでしょうか。

 夢のなかで先生は続けました。

 「邂逅に始まって一生のお付き合いをすることになる人もいるのですよ・・・」

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2013年6月13日 木曜日

2006年6月号 遺言 2006/06/01

 私は現在複数の医療機関で仕事をおこなっていますが、先月ほど患者さんの死に遭遇した月はこれまでなかったように思います。

 医師になってからこれまでの間に、およそ100人の患者さんの死を見てきましたが、先月だけで5人もの患者さんの死に遭遇しました。ターミナルステージの状態で、死をある程度受け入れていた方もおられましたが、容態が急激に悪化し、緊急で気管内挿管や心臓マッサージをおこなった患者さんもいます。

 医師を数ヶ月も続けると、例えば、顔面を包丁でメッタ刺しにされた患者さんに直面しても、交通事故ですでに片足が切断されている患者さんが運ばれてきても、冷静に対応できるようになりますが、私はいまだに患者さんの「死」に遭遇すると、その後しばらくは落ち着いていられません。夜間に患者さんの死亡確認をするときは、それが本人も家族もすでに受け入れていた死であったとしても、その日は朝まで眠れません。

 これは、もっと積極的な医療をおこなって救命したかったという気持ちだけではありません。患者さんが長い間病気を放っておいたり、交通事故やナイフで刺されるといった事件性があったりするものでは、そのように思うことも多いのですが、もっと積極的な医療をおこないたかった、というよりは、「生命の尊厳」のようなものが頭を支配して離れなくなるのです。
 
 先月のある夜、亡くなった患者さんが送迎されるのを見送った後、インターネットで新聞記事を眺めていると、5月23日のタイ北部の大雨の被害で、50人以上が死亡、60人以上が行方不明となったとの情報が入ってきました。

 また、南シナ海を襲った大型台風チャンチーの影響で、ベトナムでは20人以上が死亡、およそ200人が依然行方不明という記事も目にしました。

 天災による被災者に自分は何ができるだろう・・・、そんなことを考えていた矢先に、27日にジャワ島で大地震が発生し、すでにおよそ6000人の人が命を失っています。

 また、相変わらずイラクではテロが頻発し、これまでにジャーナリストだけで死者が70人を超え、これはベトナム戦争をすでに超えているそうです。
 
 天災は予期できるものではありませんし、テロにしても、イラクで起こることは予想できるとしても、例えば、2002年10月1日に起こった、バリ島クタ地区での惨事は誰が予期できたでしょうか。
 
 日本にいれば安全と考えられるわけでもありません。阪神大震災や新潟中越地震を予期していた人はほぼ皆無でしょうし、最近では理解不能な殺人事件の報道をよく見聞きします。テロは今後もないか、というとそういう保障もあるわけではありません。イスラム地区ではないバリのクタ地区のような観光地で、およそ200人もの人が命を失う大惨事が起こるくらいですから、今後日本でもテロがないという保障はないのです。

 であるならば、誰もが「死」というものを意識する必要があるのかもしれません。私は、「脳死」や「臓器移植」の観点から、あるいは「人工呼吸器」を装着するかしないか、といった問題から、誰もができるだけ早いうちに、そのような事態になったときにどうするか、ということがらを家族で話し合っておくべき、という考えを持っていますが、この1ヶ月でその考えがさらに強固なものとなりました。

 私は明日未明からタイ国に渡航します。今回は南タイ中心で、主目的はソンクラー県にある大学訪問です。

 タイは大半が仏教徒ですが、南タイを中心にイスラム教徒も少なくありません。もともと、イスラム教徒の多いタイ南部では、独立を訴える声が小さくなく、最近まで圧倒的な支持率を得ていたタクシン首相も、この地域ではそれほど支持されていなかったという経緯があります。今年に入ってからのタクシン首相の急激な支持率低下も重なり、現在タイ南部はそれほど安全ではないとの噂もあります。実際、昨年ソンクラー県では戒厳令が引かれています。(依然タクシン首相が圧倒的な支持率を維持しているタイ東北部(イサーン地方)とは対照的です。)

 そのような地域に赴くわけですから、やはりそれなりのリスクを負わなければなりません。もちろん、(戒厳令が解除されていたとしても)夜間の外出を控える、ひとりで危険と思わしき地区に行かない、などの対策は取りますが、それでも危険性をゼロにすることはできないと考えるべきだと思います。

 私はまだまだ死にたくありませんが、その一方で、天災やテロでの死亡なら仕方がないという気持ちもあります。「Nothing ventured, nothing gained.(リスクを冒さなければ何も得られない)」は、私の座右の銘のひとつですし、まだまだやり遂げていないことがあるにせよ、これまで一生懸命生きてきたから悔いはない、というのもその理由です。

 臓器移植カードはカバンの中に入っていますから、これはいいとして(ただしタイでも有効なのかどうかは知りませんが・・・)、「遺言」を残しておいた方がいいのではないかとの考えに至りました。

 「遺言」と言っても、私には遺産は何もありません。それどころか家のローンも残っています。ただ、生命保険には入っていますし、海外での死亡で保険金のおりるクレジットカードを複数枚持っています。これらを全部合わせて、保険金が最大限支払われるとすると、1億円以上の現金がおりることになります。

 実際に1億円以上の保険金が支払われるなら、必要な分を両親とGINAのスタッフの元に届くようにして、残りの大部分を、GINAを通していくつかの施設に寄附してもらいたいと思います。これでGINAの存在価値が少しは認められるかもしれませんし、私自身が満足のいく生命の終焉を実感できるはずです。

 保険金の遺言とは別に、GINAのスタッフにお願いがあります。

 もしも私が本当に死亡して、なおかつ骨が残っているときには、どうかチェンマイのピン川で散骨をお願いいたします。

 これまで何度もタイに行きましたが、ゆっくりできたことはほとんどありませんでした。

 散骨してもらえれば、私はピン川でのんびりと水浴びを楽しんで、ゆっくりとタイを南に下ります。そのうちチャオプラヤー川となるでしょうから、今度はタイ中部でのんびりします。アユタヤあたりで休憩したいですね。それに飽きたらバンコクに入って夜景を楽しみ、最後はタイランド湾、そして南シナ海です。

 こう考えるとけっこう優雅な旅だと思います。

 ただ、ひとつだけ心配なことがあります。

 タイではそろそろ雨季に入ります。ピン川もチャオプラヤー川もときに洪水を引き起こします。洪水で流されれば、私はいずれタイ中部あたりの土となるのでしょうか。
 その時はその時で、タイ国永住です。それも悪くはないでしょう。

 では、ここに遺言を残します・・・、と言いたいところですが、おそらく現行の法律では、遺言状はこのようなwebsiteに書きこむだけでは無効で、きちんと日付と署名の入ったものが必要ではないかと思われます。
 
 日本を発つまであと数時間あります。

 では、そろそろ遺言状の作成にとりかかります。

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2013年6月13日 木曜日

2006年5月号 GINA誕生 2006/05/03

 「人間は生きているのではなく生かされているのである」

 これは、私が以前読んだ本のなかにでてきた言葉です。不思議なことに、この本のタイトルや著者はまったく記憶になく、そればかりかこの本の内容すら覚えていません。また、いつ頃この本を読んだのかも思い出すことができません。

 にもかかわらず、なぜかこの言葉だけは私の心に深く刻まれており、ときおり思い出すことがあるのです。

 思い出すと言っても、私はずっとこの言葉が好きではありませんでした。なぜなら、「人生とは自らが切り開いていくもの」だと思っているからです。「生かされている」などといった消極的な意識を持っていれば夢も希望も叶うはずがないではないか、私がこの言葉を初めて見たときに持った印象はそのようなものでした。

 実際、私はこれまでの人生において、いつも「人生とは自らが切り開いていくもの」と信じて行動してきました。平均偏差値が40しかなく、すべての模試でE判定という状況で周囲の反対を押し切って関西学院大学の受験に挑んだのも、周囲にバカにされながらも26歳で医学部受験を決意したのもこの信条があったからです。

 関西学院大学卒業時には、バブル経済真っ盛りで大企業への就職には一切困らない状況のなかで、あえて関西の中堅企業を選んだのですが、これは「大企業に入って組織の歯車になるのではなく中堅企業でおもしろい仕事がしたい」という動機からです。大企業に入ってしまえば、自分のやりたいことを自分の意思で開拓していくことができなくなることを懸念したのです。

 また、医師になってから、自分が勉強したいことを追求し続けているのも「人生とは自らが切り開いていくもの」というこの信条があるからです。

 幸いなことに、私はこの信条を強く意識していたことが功を奏してなのか、どうしてもやりたい!と思った夢の大部分を実現させてきました。

 しかしながら、最近になって、この信条「人生とは自らが切り開いていくもの」は、真実であることには変わりはないとしても、これだけを強調しすぎるのは「謙虚さ」を見失うことになるのではないかと考えるようになりました。

 仮に私のこれまでの人生を一応の「成功」とするならば、その「成功」は決して自分ひとりの努力によるものではありません。ふたつの大学進学は両親の理解と協力がなければ実現しなかったことですし、会社で楽しく仕事ができて英語の実力を付けることができたのはその会社の多くの方のおかげです。

 英語のことをもう少し掘り下げると、そもそも私は英語にはまったく興味がなかったのです。面接時には、私は国内営業希望と言い、海外事業部には興味がないと話していました。それが、なぜか、男性では私ひとりだけが海外事業部に配属されたのです。希望が叶えられず腐りかけていた私を鼓舞させてくれたのもまたこの会社の方々でした。そして、会社員時代に英語ができるようになったおかげで医学部受験が有利になり、現在仕事で海外に行くようになっても英語で困ることはそれほどないのです。

 医学部在学時代には、勉強のスランプに陥ったことがありましたが、このときは同級生の励みに助けられました。医師になってからは、多くの素晴らしい先輩医師に恵まれたおかげで非常に有意義な勉強ができました。

 つまるところ、私がこれまでの人生で、夢の多くを実現させているのは周囲の支えがあったからなのです。決して自分ひとりの実力ではないのです。

 そして、今、もうひとつ思うことがあります。それが、冒頭で述べた「人間は生きているのではなく生かされているのである」という言葉です。これまで私は「人生とは自ら切り開いていくもの」であって、「生かされている」というのはその対極の考え方であると思っていましたが、そうではなく、これらふたつは互いに矛盾するものではないのでは、と思うようになったのです。

 そう思うようになったのは、今年の4月から新しいクリニックを設立するつもりで、昨年秋から準備を進めていたのにもかかわらず、土壇場で物件が見つからないというアクシデントに見舞われたのがきっかけなのですが、それだけではありません。

 クリニックを開始するのと同時に立ち上げようと思っていたNPO法人GINAについては、協力者が次々と現れ、現在タイですすめている調査も順調に進んでいます。現在、ウェブサイトの作成に取り組んでいますがこちらも楽しく進めることができています。

 クリニックとGINA、どちらも同じように力を入れようと思っていたのですが、クリニックの方は一歩も前に進まず、かたやGINAは何もかも順調なのです。臨床とNPO活動、どちらも他人に奉仕するという意味では変わりないのですが、GINAに流れがきているのは、きっと私が「生かされている」ことに関係があるのではないか、と思うのです。

 さらに、これまでの人生を振り返ってみると、先に述べた会社員時代に英語を勉強するきっかけを与えられたのも、そもそも勉強ができないのにもかかわらず大学進学ができる環境にいることができたのも「生かされている」からではないかと感じるのです。

 ところで、「生かされている」というのは「見えざる手」に導かれている、という言い方ができるかもしれません。

 「見えざる手」というのは、アダム・スミスの言葉で、市場主義を絶対視する人たちの間で語られることが多いようです。これは、利己的に行動する各人が市場において自由競争をおこなえば、自然と需要と供給は収束に向かい、経済的均衡が実現され、社会的安定がもたらされる、というものです。

 市場主義を絶対視する人たちは、この「利己的に行動」という言葉を正当化するために、「見えざる手」という言葉をよく引き合いに出します。

 けれども、アダム・スミスは「見えざる手」には前提条件があるということも述べています。有名な『国富論』よりも先に出版された『道徳感情論』という書物のなかで、アダム・スミスは、「自由市場主義の土台には個人的な徳性と善意が必要」という考えを披露しています。つまり、「利己的に行動」し「見えざる手」に導かれるのは、徳性と善意、要するに道徳的な基盤があっての上だということなのです。
 
 話をGINAに戻しましょう。

 4月22日に記念すべき第1回の総会が開かれました。

 GINAのミッション・ステイトメントは、「HIV/AIDS患者を支援し、同時にHIV/AIDSに関連した差別・スティグマなどを失くすために社会に対し正しい知識を啓発する。また、HIV感染を予防するための啓発活動もおこなう。」というものです。ミッション・ステイトメントは、つくりっぱなしでは意味がありませんし、これから協力してくれる人たちの意見も取り入れて何度も見直していくつもりですが、まずはこれで開始したいと考えています。

 GINAはNPO法人であり(法的に認可されるのは9月の予定です)、利益団体ではありませんから、競争相手はおらず、はじめから「利己的に行動」する組織ではありません。そして、もちろん「道徳的な基盤」の上に成り立っています。

 GINAの目的のひとつは、支援を必要としている人たち、あるいは正しい知識を必要としている人たちのニーズを把握し、そして人間の自然な欲求である(少なくとも私はそう考えています)「奉仕」や「貢献」をおこないたいと考えている人たちの力になることです。
 
 「見えざる手」に導かれて人々に貢献できる組織、GINAがそのようになることを私は確信しています。

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2013年6月13日 木曜日

2006年4月号 パヤオで見た真実 2006/04/04

 先月のマンスリーレポートで、いったん決まりかけた新しいクリニック用の物件が借りられなくなって落ち込んでいることを報告したところ、たくさんの読者の方から、お叱りの言葉や励ましの言葉をいただきました。

 あまりにも多くの方からメッセージをいただいたため、すべての方にお返事を差し上げることができませんでした。この場でお詫び申し上げたく存じます。同時に、たいへん多くの方から勇気をいただいたことに対しお礼申し上げたく存じます。本当にありがとうございました。
 
 実は先月のマンスリーレポートを書いてから、またひとつ非常に魅力的な物件が見つかりました。「こんないいところが残っていたのか」と感じた私に、不動産屋の人は言いました。「先約がひとりいるけど、その人の条件とは合わないようですから、おそらくお貸しできると思います。」しかし、このとき私は、もう期待はしないことに決めていました。数日後届いたその不動産屋の連絡は、やはり「先約が決めたようです」というものでした。

 さらに、もう一件、これまた非のうちどころのない物件を紹介されましたが、結局ビル側の事情で借りられなくなりました。

 これで、1月から検討した物件は15件にもなり、そのうちの5件はぜひとも借りたいというものでしたが、間一髪で他の業者に決まったり、10年以上は借りられない条件がつけられたため断念したり、水回りの工事ができないビルであったり、先月に報告したようなこともあったりで、結局物件は決まりませんでした。

 これだけ不運が連続するのは単なる偶然とは思えません。偶然でないなら、きっと今は物件を探すべきでない、つまり今は新規開業するタイミングでない、という運命なのでしょう。私はそのように考えて、いったん物件探しを中断することにしました。

 そんな私がとった行動はタイ国渡航です。拙筆『今そこに・・・』のあとがきにも書きましたが、私はこれまで、国内外のHIV/AIDS患者さんをサポートするNPO法人の設立を検討してきました。当初の予定では、新しいクリニックと同時にスタートさせるつもりでしたが、こうなれば先にNPO法人だけを立ち上げることにしよう、そう考えたのです。

 このNPO法人の名称はGINA(ジーナ)と言います。(Getting Into No AIDSの略です。) 

 GINAの主事業は5つあります。

 1つめは、国内外のHIV/AIDS患者さん、あるいは患者さんを支援している組織や個人のサポートです。当初は、私と交流のあるタイ国のエイズ施設中心にサポートをしていく予定です。

 2つめは、HIV/AIDS、あるいは性感染症に関連した研究です。これは主にタイ国と日本の比較研究を考えており、すでに最初の研究(調査)を開始しています。

 3つめは、HIV/AIDSの子供を救うための里親奨学金制度の設立です。タイ国では、両親がAIDS、あるいは自身がHIV陽性であり、これらに貧困という問題が加わり、義務教育を続けることがままならない子供が大勢います。こういった子供たちが安心して勉強できるように里親奨学金を設けようと考えています。

 4つめは、HIV/AIDSまたは性感染症に対する予防啓蒙活動です。こういう活動はすでにおこなっているNPOやNGOがいくつかありますから、そういった組織と協力したりあるいは特定のグループに対する啓蒙活動をおこなったりすることを考えています。

 そして5つめは、エイズホスピスの設立です。「はやりの病気」4月1日号で述べたように、タイでは差別意識が若干減少したことにより、患者さんが施設から家庭に戻る傾向にあります。しかしながら、全員が家庭に戻れるとは限りません。家族全員をAIDSで亡くした人もいますし、元々孤独に生きてきた人もいるのです。タイには現在もHIV陽性の方がおよそ55万人もいます。55万人全員が家族とともに幸せに暮らせるわけではないのです。ホスピスはタイで設立することを決めたわけではありませんが、現在のところ最有力候補にしています。(もっともホスピスを設立するには莫大な資金が必要となりますから、これは将来的な目標ということになります。)

 今回のタイ国渡航は非常にタイトなスケジュールになりました。(まあ今回だけでなくいつものことなのですが・・・) 

大阪→バンコク→ウボンラチャタニ→シーサケート→ウボンラチャタニ→バンコク→ロッブリー→バンコク→チェンマイ→パヤオ→チェンライ→バンコク→大阪という日程を8日でこなしましたから、まさに息つく暇もない、といった感じでした。

 今回の出張で訪問した施設でもっとも印象的だったのが、初めて訪れたパヤオにある「21世紀農場」です。

 このパヤオという県は、全部で76個あるタイ国の県のなかでも最も貧しくて、人口あたりのエイズの患者さんが最も多いと言われています。美しい自然はありますが、特に観光名所と呼べるようなところはなく、そのため『地球の歩き方』や『Lonely Planet』にも紹介されていません。チェンライかチェンマイからバスに乗って山をいくつも越えなければなりませんから、観光客はまず来ないのです。タイ国内ならどこにでもいると思われる西洋人もこのパヤオにはほとんど来ないそうです。

 そんなパヤオの中心地(「中心」と言っても何もないのですが・・・)から、さらに車で1時間ほど走ったところに、この「21世紀農場」があります。

 この農場は、鹿児島大学出身で以前は熊本に住んでおられた農学博士である谷口巳三郎先生が設立された広大な農場です。巳三郎先生は、タイの人々に農業を指導するため1982年に60代で単身タイに渡り、おひとりで近代的な農場を設立されました。農薬の類は一切使わずに、すべて有機栽培で米や野菜をつくられ、また魚や豚などの飼育もされています。

 そんな巳三郎先生を日本で最も支えているのが熊本にある「タイとの交流の会」で、会長は巳三郎先生の奥様です。名前を谷口恭子先生と言い、偶然にも私と一字違いです。

 谷口巳三郎先生は、非常に献身的な方で、私財を投げ打って農場を設立し、さらに貧困にあえぐ多くの方々を救ってこられました。農業とは縁のない医師である私が「21世紀農場」を訪問し巳三郎先生にどうしてもお会いしたかったのは、巳三郎先生は、パヤオのエイズで苦しんでいる人々をも救っておられるからです。

 そんな巳三郎先生に魅せられた私は、お会いした瞬間から先生の話に引き込まれました。強い意志とこれまで見たことも聞いたこともないような奉仕の精神をお持ちの巳三郎先生は、私が自分の人生を終えるときに、生涯に渡り最も影響を受けた人物のひとりとして思い出すことになるでしょう。

 農場のなかにある先生の家の壁には、先生の書かれた次の言葉が掲げられていました。

 最期のひとこと「もうこれ以上他人のために尽くすことができなかった」と云いたい

 この言葉を読んだとき、背筋に電流が流れるような感覚を覚えました。こんな「最期のひとこと」、いったいどれだけの人が言うことができるでしょうか。私は、これまでの人生を振り返っただけですでに「失格」です。けれども、少しでも先生に近づきたい、先生と同じ苗字で、奥様の名前は私と一字違いというのも単なる偶然ではない、と(大変失礼ですが)思い込み、胸に熱いものを感じながら、私はパヤオを後にしました。

 タイから帰国後、早速私は熊本に出向き、奥様の恭子先生にお会いしました。恭子先生もまた、10代前半時にすでに「他人のために尽くす」ことを自分の使命と決意し、これまで献身的な人生を歩まれてきた方です。私はこのような素晴らしいご夫婦とめぐり合えたことに幸せを感じ、自分自身も「他人のために尽くす」ことを生涯の目標にすることを決意しました。

 さて、今私は再びタイに来ています。チェンマイでの仕事を済ませ、今Huahinのはずれにあるリゾートホテルのバルコニーでこれを書いています。Huahinは、PhatayaやPhuketと異なり(?)、おそらくセックスワーカーが一切おらず、そのため品のない観光客もほとんどいない場所で、自然が美しくとても静かなリゾート地です。物価は驚くほど高いですが・・・。

 誰もいない静かな海岸で、ミッションステイトメントの見直しをおこなうために、私はHuahinにやってきました。ミッションステイトメントは、私の信条であり中心であり、これがあるから私が私でいられるのです。

 そんなミッションステイトメントを見直すには、都会の喧騒から離れて、ひとり静かに自分自身を見つめなおすことのできる静かな場所が最適なのです。

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2013年6月13日 木曜日

2006年3月 天国から地獄へ 

 先月のマンスリーレポートで、私は、自分の不運を嘆いていたところを、患者さんの一言で立ち直り、再び前向きな気持ちで頑張り始めた、という話をしました。

 この「前向きな気持ち」のおかげなのか、1月は努力してもまったく見つからなかった新しいクリニック用の物件が、2月の早々についに見つかったのです!

 その物件を見つけたときの気持ちを表そうとしても、ちょっと言葉が見当たりません。その物件に「一目ぼれ」した、とでも言えばいいのでしょうか。とにかく、これだ!と感じるものがあったのです。まるで運命で結ばれている二人の出会いのように・・・。

 その物件のビルは、私が(医学部でなく)以前の大学生だった頃、ときは1988年ですが、その頃にアルバイトをしていた会社のビルのすぐ前にあったのです。今度出版する『偏差値40からの医学部再受験テクニック編』の「あとがき」にも書いたように、私のアイデンティティはその頃に形成されたものと思っています。私のこれまでの人生でもっとも充実していたその当時、いわば「古き善き時代」、あるいは、私の「酒とバラの日々」とでも言えばいいのでしょうか、ともかくその頃の思い出が蘇る「私の原点の地」にその物件はあったのです。

 場所だけではありません。近代的に設計されたそのビルは、外観もロビーもエレベーターも、そしてもちろんその部屋も完璧なものでした。通りに面した部分は全面ガラス張りで眺めもよく、待合室には最高です。トイレもきれいで、部屋の大きさもクリニックとしては最適。おまけに、地下鉄の駅の上にあり交通の便もよい、まさに非の打ち所のないパーフェクトな物件だったわけです。

 まだあります。そのビルの別の階には、ある医療クリニックが入っていました。そのクリニックはある専門の科を掲げていましたから、そのビルでクリニックを開くと、その別の階のクリニックとも協力して患者さんの診察にあたることができるわけです。私の方が患者さんを紹介してもらうことは少ないかもしれませんが、私の方は、専門的な検査や治療が必要な患者さんを積極的に紹介できる、そしてこうすることによって患者さんに満足度の高い診察をすることができる、そのように考えました。

 私は、一緒にクリニックをたちあげるマネージャーに相談もせずに、すぐに申込書にサインをしました。マネージャーもきっとここを気に入るに違いない、と確信したからです。マネージャーは私の旧友ですが、彼もまた私と同じアルバイトをしており、その物件の目の前のビルで一緒に時代を過ごしていたのです。

 その日の夜、マネージャーに報告すると、予想通り彼も大喜び、ふたりでこれからの夢を語り合いました。

 しかし、まだその物件を借りることができると決まったわけではありません。ビル会社の審査があるからです。私とマネージャーは必死になって企画書を作成し、これから取り組んでいきたいことを丁寧に記載していきました。

 企画書を提出し、面接を受けたその結果は・・・。ビル会社も我々の意向を受け入れてくれて、「是非とも借りていただきたい」というものでした。

 もう、天にも昇る気分です。目にうつるすべてのものが輝いてみえました。このビルで働けるなら、出勤すること自体が楽しみになります。どれだけ満員の電車に揺られても苦になりません。私はなんて幸せ者なのだろう・・・。このときには、先月までの沈んだ気持ちのことを完全に忘れていました。

 ビル会社の担当者は最後にこう付け加えました。「別の階にもクリニックがあるので事前に挨拶をしておいてください」

 これは当然のことですし、これからそのクリニックに患者さんを紹介することを考えましたから、早急に挨拶に向かうことにしました。

 そして翌日、私はそのクリニックに出向きました。院長先生に自己紹介をし、「これからよろしくお願いします」と丁寧に挨拶をしました。

 話し合いは順調にすすみました。少なくともある話題になるまでは・・・。

 「私は大学の総合診療科に所属していて、大学とも協力して患者さんの診察をおこない、また研修医の教育にも力を入れていきたく考えています」

 私がそう言った瞬間、突然その院長先生の顔色が変わり、私には信じられない言葉が飛び出しました。

 「それは困る! 君とはやっていけない!」

 ??? 

 私は、その言葉の意味がしばらく理解できませんでした。いや、今でも理解できていません。なぜ、私がそのクリニックと協力してやっていくことができないのでしょうか。

 医療機関というのは、美容室や酒屋とは異なります。そういった業種なら、近くに同業者がやって来るとライバルになることがあるでしょうが、医療機関というのは、それぞれ担当する領域が異なりますから、ライバルにはならず、むしろ協力することによって、患者さんに、より満足度の高い診療を供給できるのです。

 もしも、その場所が郊外の住宅地などで医療機関がすでに過剰なのであれば、患者さんの取り合いということがあるのかもしれません(医師過剰の地域があるとは思えませんが)。けれども、そのビルは関西を代表する繁華街にあるのです。しかも地下鉄の駅の上です。一日に何千人、あるいは何万人もの人がその場所を通るのです。圧倒的に需要が供給より多い地区なのです。

 いかなる場合であっても、他の医師と喧嘩をするのは得策ではありません。私は「お時間をとっていただきありがとうございました」と言ってその場を後にしました。そして、その足で「ここをお借りすることができなくなるかもしれません」とビル会社に告げに行きました。

 その数日後、ビル会社から呼び出しがありました。「別の階のクリニックが反対しているみたいだが、我々の方から交渉してみるからまだ諦めないでほしい」という内容でした。

 しかしその結果は・・・。結局そのクリニックを説得できなかった、というものでした。

 この絶望感をお分かりいただけるでしょうか。いったん、天にも登りつめたような気分だったのが、突然一気に地獄の底に突き落とされたような悪夢へと転化したのです。

 私は、いつも起こりうる最悪のことを考えて行動するようにしています。前向きな気持ちを持つのも大切ですが、最悪のことを考えていないと、予期せぬことが起こったときの対処法を誤ることがあるからです。

 車に乗るときは、子供が飛び出してくることを念頭におきますし、飛行機に乗る前には墜落することを考えます。患者さんを診察するときは、緊急性がないか、あるいは重要な病気はないか、をまず考えますし、友達にお金を貸すときは、戻ってこないことを想定して貸すようにしています。人は、たとえ自分が親友と思っている人物であったとしても、状況によっては裏切ることがあるかもしれませんし、自分の軽率な行動が悲劇を招くこともあり得ます。

 私はこれまでの人生で、人に裏切られたり、結果として後悔することになる行動をとったりしたことが何度かあり、そのために、いつのまにか「最悪のことを考えて行動する」クセがついています。

 しかし、そんな私でさえも、まさかその物件が借りられなくなるとは想像できなかったのです。

 もう何もやる気がおこりません。仕事中は、患者さんにそんな気分が伝わらないよう必死で笑顔をつくるようにしていますが、いったん仕事を離れると動くことさえままならなくなりました。部屋は荒れ放題、毎日やらなければならない医学の勉強もおろそかになり、毎日必ず時間をとって取り組んでいた英語とタイ語の勉強もまったく手に付かなくなりました。友人からの電話にも出なくなってしまいました。

 私はこれからどこへ行くのでしょうか・・・・。

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2013年6月13日 木曜日

2006年2月号 患者さんの一言 2006/02/04

 2006年2月になりました。今年もすでに一ヶ月が過ぎ去ったわけですが、私のこの一ヶ月はついてないというか、バイオリズムや運勢にならった言い方をすれば「低調期」であったように思います。

 というのも、一ヶ月の間で、父親が腹痛で救急搬送されそのまま緊急手術となりましたし、自分のホームページがサーバーのトラブルで丸二日も閲覧できなくて多くの方からお叱りをいただくことになりましたし、パスポートを紛失しましたし、自分の駐車場で車をぶつけましたし、・・・と振り返るのがイヤになるくらいです。

 私は4月から大阪市内にクリニックを新規開業する予定でいるのですが、その場所もまだ決まっていません。不動産屋には昨年から話をしていたのですが、年末の時点での不動産屋のアドバイスは、「いい物件がいくつもあるから年明け早々に本格的に探せば大丈夫」というものでした。

 ところが、大阪では突然景気がよくなったみたいで、特に私が希望している地域では、ここ一ヶ月であっという間にいい物件がなくなってしまったそうなのです。実際この一ヶ月に何軒か物件を見に行ったのですが、魅力的なところはまだ見つかっていません。

 こんなことで本当に4月から新規開業できるのか・・・、不安な気持ちになってきます。 一緒にクリニックをたちあげてくれるマネージャーのこともありますし、何よりも「4月になったら行くからね」と言ってくれている患者さんに申し訳ない気持ちになります。

 先日、ある患者さんからメールをいただきました。その患者さんにも、「いい物件が見つからなくて苦労している」という話をしていたのですが、その患者さんがくれたメールはとてもシンプルなもので、最後に「がんばれ!」と書かれていました。

 この「がんばれ!」という言葉が私の心に響きました。それまで、あまりにも良くないことが続いていたために憂鬱な気分にどっぷりとつかっていたのですが、この一言で何かふっきれたというか、突然元気が出てきました。

 本来、医師である私が患者さんを元気にしなければならないのに、まったく逆の立場になったというわけです。

 私自身もそうなのですが、何かよくないことが立て続けに起こると、イヤな気持ちが身体を支配してなかなかそこから抜け出せなくなってしまうことはないでしょうか。そうなると、物事を冷静に見ることができなくなり、ちょっとしたことでも自分の不運を嘆いたり、前向きな気持ちが持てなくなったりしてしまいます。

 今回の私は、患者さんの一言のおかげで、すっかり立ち直ることができましたが、いったん元気になれば、物事は冷静に見えてくるもので、よく考えれば私が不幸と思っていたことなど取るに足らないものばかりです。私よりも不幸な境遇にいる人がどれだけいるかを考えればすぐに分かります。

 例えば、ここ数日間毎日のように新聞紙上を賑わせている、ライブドアの(元)社長の堀江氏などは、どのような心境にいるのでしょう。「カネで何でも手に入る」と豪語し、何不自由のない生活をしていたところを突然の逮捕となったわけです。

 私は「証券取引法」というものをよく知らず、堀江氏がどの程度重い罪を犯した(と疑われている)のかがよく分かりませんし、氏の行動について詳しく知っているわけではないので、多くを語る資格はありません。

 けれども、氏が日頃から公言していたと言われている、「法律に抵触しなければ何をしても大丈夫」という考えには同意できません。以前別のところにも書いたと思いますが、私は法律というものをあまり重視していません。もちろん私自身は法律を守るつもりでいますが、本当の意味での「罪」の大きさは法律では計ることはできない、というのが私の考えです。法律ではなく、人間が本来持つべき言わば「自然の条理」に従うべき、という考えを私は持っています。「自然の条理」というのは「倫理」「道徳」、あるいは「掟」と言ってもいいかもしれません。

 そういったものに反した行動を氏がとっていたならば、法的な罪の重さはともかく、「自然の条理」について考えてみてくれればと思います。
 
 私は、堀江氏をめぐるメディアの報道をみているときに、頭の中で、氏とある人物がオーバーラップしました。

 その人物とは元エジプト大統領のアヌワール・サダト氏です。

 イスラエルを強く憎むように教育されていたサダト氏は、「イスラエル人と握手など絶対にしない!」と公言していました。そしてそんなサダト氏にほとんどの国民がエールを送っていました。

 ところが、です。サダト氏は、後にファルーク王を倒す陰謀にかかわったため、カイロ中央刑務所の第54番独房に監禁されることになります。

 しかし、サダト氏の人生はここで終わりません。その後開放された氏は地道な活動を重ね、ついにイスラエルの国会を訪問し、歴史的な和平交渉をおこなうに至りました。そしてこれが後のキャンプ・デイビッド条約につながったのです。

 サダト氏のこのエピソードはいろんなところで語られていますが、例えばスティーブン・R・コビー氏の『7つの習慣』によれば、サダト氏は、独房のなかで「物やお金を獲得することではなく、自分自身に打ち勝ち、自制する力を持つことを悟った」そうです。

 サダト氏は、最終的には国内の過激派に暗殺されることになるのですが、死後も彼の残した業績は忘れ去られることはありません。

 サダト氏は、自叙伝のなかで「独房を離れたくない気持ちもあった」と述べているそうです。彼が辿り着いた「悟り」は、そんな気持ちにさせるほど大きな意味があったのでしょう。

 いわば成金の堀江氏と歴史的人物のサダト大統領をオーバーラップさせるなどけしからん!と思われる方もおられるでしょうが、その良し悪しはさておき、人間は窮地に追い込まれて初めて「真実」に気づくということはよくあることではないでしょうか。

 堀江氏はまだまだ若いですし、実力のある人物であることは間違いないでしょうから、サダト大統領のように、「物やお金を獲得することではなく、自分自身に打ち勝ち、自制する力を持つことを悟った」と後に回想するようになったとすれば、誰からも尊敬される立派な人物になられるのではないか、と私は考えています。

 私はこの1ヶ月間で、数々のついてない体験から患者さんの一言で立ち直り、冷静になったところ堀江氏について思いを巡らせ、そこからサダト大統領のことまで考えることができました。

 患者さんの一言には深く感謝したいと思いますし、それと同時に、ついてない体験もたまにはあった方がいいのかな、とも今では思うようになりました。

 私自身も、「自分に打ち勝ち自制する力」を身につけていきたいと考えています。

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