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2013年6月21日 金曜日

82 肥満患者が医師に丁寧に扱われていないというのは本当か 2009/11/20

医師はすべての患者に平等に接する、というのは我々医師にとっては、言わば当たり前のことであるはずで、わざわざ言葉にする必要もないようなことです。しかしながら、この当たり前のことも守られなくなる可能性がないわけではなく、そのため、様々な医師の倫理要綱には、例えば、「貧富の差に関わりなく医師は患者を平等に診察しなければならない」といった内容のものが記載されています。

 では、実際はどうなのでしょうか。実は、私が臨床医を目指そうと思った理由のひとつが、この「患者間の不平等をなくしたい」というものでした。そもそも私は医学部入学当初は臨床医をする気持ちはありませんでした。元々社会学部の大学院を目指していた私は、いったん医学部で医学を学んだ後に医学的なアプローチで社会学を研究したいという希望を持っていたのです。

 ところが、医学部に入学してみると、患者さん、というか知人や、あるいは知人の知人が、まだ医師になっていない医学部生の私に対して、医療機関に対する不満を話すことが多かったのです。

 「医者はちゃんと話を聞いてくれない・・・」「長時間待たされて診察時間は1分で終わった・・・」、こういう不満が多いのですが、この手のクレームは想像できることです。患者さんが結果として不満をもつのはもちろん良くないことですが、少ない医師が多くの患者さんを診察しなければならない日本の医療の現状を考えるとある程度は止むを得ないという側面もあります。

 しかしながら、次のような不満は学生の私でさえも多いに問題があると感じました。

 「外国人だからという理由できちんと診てもらえなかった」(30代の南米出身の男性。日本語はほぼ完璧なのにです)

 「信用していたから自分の過去も話した。すると医者の態度が突然かわり、診察に行くとイヤな顔をされるようになった」(過去に違法薬物の経験があるという20代男性)

 「言う必要があると思ったから本当は隠しておきたかった同性愛者であることを告げた。すると看護婦や他のスタッフも含めてジロジロ見られるようになって明らかに他の患者とは対応が違うようになった」(30代の男性同性愛者)

 「言いたくなかったけど過去に自分がウリ(売春)をしていたことを医者に話した。過去のことなのに医者と看護婦に説教をされた」(20代女性)

 外国人であろうが、違法薬物を使用していようが、売買春をしていようが、患者は患者です。このような理由で、医療機関で不快な思いをし、その結果病院を受診しなくなれば、病気が悪化することだってあるはずです。

 私は、普段は他人に言えないようなことでも包み隠さず話すことができる、そしてそのことを自身の個人的価値感ではなく病気を治すという観点から話を聞くのが患者と医師の関係だと考えています。

 医療の現場で、国籍や職業、犯罪歴などで差別されることがあってはならないのではないか・・・。私はそのように強く感じ、ならば自分自身がこういった患者さんも平等に診る医者になろうと考えました。研究者志向から臨床医を目指そうと思ったのは他にも理由がありますが、こういった人たちとの会話が私を臨床医に駆り立てたのは事実です。

 また、タイのエイズ施設でボランティアをしていた頃、HIV陽性という理由で病院からさえも差別的な扱いを受けた患者さんを何人も診ることになり、これがNPO法人GINA(ジーナ)を設立するきっかけとなりました。

 太融寺町谷口医院のミッション・ステイトメントに「患者さんの年齢、性別(sex, gender)、国籍、宗教、職業などに関わらず、全ての患者さんに平等に接する」とあるのは、私の個人的なこういった経験があるからです。

 さて、今回お話したいのは、「肥満患者は医師に丁寧に扱われていない」という大変ショッキングな研究結果が発表されたということです。

 この研究は米国ジョンズ・ホプキンス大学によっておこなわれ、医学誌『Journal of General Internal Medicine』2009年11月号に掲載されています(注1)。研究者らは医師40人に、肥満患者に対する態度について質問表を用いて質問した結果、238人の患者についてBMI(注2)が10増加するごとに、医師の患者に対する敬意が14%減少することが判明したといいます。

 研究者らは「このような医師の態度が、医師と患者の関係にどのような影響をもたらすかは不明」としていますが、「患者が再診を受けることを拒絶したり、否定的態度で扱われたと感じたりすることが示されている」と述べています。さらに、「(丁寧に扱わないことによる)情報伝達の減少は患者の健康転帰に有害性をもたらす可能性がある」と指摘しています。

 BMIが10増加するごとに、医師の患者に対する敬意が14%減少する、というのはにわかには信じがたいことです。

 米国の現状はよく分かりませんが、日本の医療の現場でもこのようなことがありうるのでしょうか。肥満があるからといって、コミュニケーションが取りにくいということはありませんし、医師に対して反抗的というわけでもありません。私には、この研究結果が事実を反映しているとは到底思えないのですが、実際はどうなのでしょうか。

 この研究では、医師の同様な態度は、アルコール中毒、麻薬使用者、HIV感染者などに対しても当てはまることが指摘されています。肥満というだけで丁寧に扱われないのなら、社会的に問題のあるアルコール中毒者や麻薬使用者などがもっとぞんざいにされていることは想像に難くありません。また、HIV陽性者が丁寧に扱われないのは、残念ながら現在の日本でもあり得ることです。

 私自身はクリニックのミッション・ステイトメントにも掲げているように「全ての患者さんに平等に接する」ということを医師としてのミッションと考えています。しかしながら、今回この論文を読んで感じたことは、「たとえ私が平等に接しているつもりでいても、患者さんの側からみたときには丁寧に扱われていないと感じているかもしれない」ということです。

 特に、患者数が多くひとりあたりに時間をあまりかけることができないときに、説明が早口になったりあまり大事でない部分は省略したりすることがあります。すると、結果的に患者さんは「ぞんざいに扱われた」と感じ、その結果再診に来なくなるかもしれません。すると場合によってはその病気がさらに悪化する可能性もあります。

 「全ての患者さんに平等に・・・」というミッションは、常に心の片隅に置いておかねばならない・・・。この論文を読んでそれを再認識するようになりました。

注1:論文のタイトルは「Physician Respect for Patients with Obesity」です。 
要約はhttp://link.springer.com/article/10.1007%2Fs11606-009-1104-8で読むことができます。

注2:BMIとはボディ・マス・インデックスの略で、体重(キログラム)を身長(メートル)の2乗で割った数字です。体重88キログラム、身長2メートルの人なら、88÷2の2乗=88÷4=22となります。一般的には22~25くらいが標準とされています。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2013年6月21日 金曜日

81 医学部受験はなぜ再受験生に有利か 2009/10/20

拙書『偏差値40からの医学部再受験』などでも述べましたが、医学部受験は現役生よりも再受験生の方が有利なのではないか、と私は感じています。

 これには反論も多いかと思います。例えば、いくつかの大学医学部では現役生の割合がやたらと高く、これには現役生は点数に「ゲタをはかせてもらっている」、あるいは再受験生には「ハンディが課せられている」などの噂もあります。また、2005年には群馬大学医学部で合格者の平均点(最低点ではない!)を上回る得点をとった55歳の女性が、実際に年齢が理由で不合格とされています。

 このような噂や事実があるのにもかかわらず、私が医学部受験は再受験生に有利と考える最大の理由は、「勉強を楽しむことができる」というものです。

 もちろん、勉強、特にテストが伴う勉強というのは楽しいだけではありません。かなりの苦痛も伴いますし、焦燥感、不安感、抑うつ感、ときには絶望感にさえ襲われることがあります。

 しかし、会社を辞め収入源を断たれても再受験生として受験勉強をしたいと考えるのは、学問に対する強い思い入れがあるからに他なりません。拙書でも述べましたが、受験勉強に伴う苦痛など、社会人として体験する様々な苦労に比べれば微々たるものです。

 少し考えてみればすぐに分かることですが、あらかじめ与えられた出題範囲(高校で習うこと)から問題が出題され、すべての受験生が同じ時間を与えられて採点は客観的におこなわれ点数が高ければ合格となるのです。

 一方、社会で体験する多くの苦労は実に理不尽なものです。例えば、客観的にはライバル社の製品の方がすぐれていると感じていても自社製品を売らなければならないとか、どう考えても期日までにできそうにない仕事をプライベートを犠牲にしてまで仕上げたとたん会社の方針が変更され努力が無駄になった、などといったことは日常茶飯事です。

 そんな理不尽で筋の通らない社会人の苦労に比べれば、勉強のスランプなど実に些細なことなのです。

 このことに気づいているだけで再受験生の方が受験には有利なわけですが、それ以上に、再受験生は勉強の楽しさをすでに知っている、ということについてお話したいと思います。

 私が医学部受験を本格的に開始したのは1995年の1月で26歳のときでした。この頃の勉強は苦労もありましたが、振り返ってみれば大変楽しく勉強に専念できたと思います。苦手の数学では解けない問題もありましたが、それを考えながら眠ると夢のなかで解けていた、などといった経験を何度かしましたし、生まれて初めて取り組んだ古文は最初はさっぱり分かりませんでしたが、そのうち好きになり、半年後には源氏物語や徒然草の原書を読むようになりました。友達や家族とも連絡をほとんどとらなくなり、私は文字通り「寝食を惜しんで」勉強に没頭していたのです。

 ところで、先日皮膚科関連のある学会で、ある著名な医師が講演しており、そのなかでハッとする内容がありました。

 26から33歳の頃がもっとも研究に専念できる・・・

 その著明な医師は講演のなかでそのような意見を述べられたのです。そして、この26から33歳が研究にふさわしいという考えは、その医師だけでなく多くの医師や研究者が感じていることである、ということを主張されていました。

 私が、なぜハッとしたかというと、これが自分にもあてはまったからです。私は26歳のときに本格的に医学部受験の勉強を開始し、1年後には医学部に入学し、その後の6年間は多少のスランプはあったものの、総じて言えば勉強に専念することができたのです。

 講演されていた著明な医師がおこなった立派な研究と比べれば、私がしたことは単なる勉強ですから比較するのは大変失礼なのですが、私は「そうだったのか・・・。自分が勉強に専念できたのは”勉強適齢期”だったからなのか・・・」というふうに感じ、この26から33歳という説に納得させられました。

 さて、この「26から33歳説」に共感した私は、さっそくこのコラムで取り上げようと考え、頭の中で整理することにしました。

 ところが、です。頭の中でこの説を反芻すればするほど、26から33歳という年齢を重視するのはちょっと違うかもしれないな・・・、と考えるようになってきたのです。

 私が勉強に没頭したいと考えるようになったのは、社会人を経験してからです。以前に通っていた大学生活や社会人の生活を通して、次第に勉強の魅力に惹かれるようになっていったのです。

 そして、もしかするとこの著明な医師も同じような転機をたどったのではないか・・・。そのような考えが頭をよぎりました。この医師は、おそらく中学高校と一生懸命に勉強をし、医学部入学後も過酷な勉強を強いられ試験に合格し、2年間の研修医を経て、大学院に入学し研究に専念するようになったそうです。ということは、大学と病院で様々な経験を通して勉強や研究の魅力を感じるようになったのではないでしょうか。

 私はこのように考えています。既存の教育システムでは、小中高及び医学部などの大学では勉強は能動的におこなうよりは、テストを中心に与えられたカリキュラムをマスターするように強いられます。しかし、本来勉強の面白さは、与えられたことを覚えるのではなく、自ら問題を発見することにあるはずです。私の場合も、医学部受験を決意したのは、人間の身体や精神の神秘性に興味を持ったからです。そして、学問や勉強そのものに真剣に取り組みたいと思うのは、試験に合格しなければならないから、などといったものではなく、もっと純粋な目的ができたときではないかと思うのです。そして、もちろん個人差はありますが、その純粋な目的意識を自覚できるようになるのは、様々な人生経験を経てからではないだろうか、と感じています。

 であるならば、何も勉強や研究に真剣に取り組みたくなるのは26から33歳に限ったことではありません。いくつになっても勉強を開始することはできるのです。少し例をあげると、伊能忠敬が測量に興味を持ったのは50歳を超えてからですし、少しジャンルが異なるかもしれませんが画家の丸木スマさんが初めて美術に取り組んだのは74歳のときです。

 結局のところ、学問の面白さに気づいた人間が研究や勉強に有利になるのです。勉強が好きで好きでたまらない、寝食を惜しんで勉強するのが楽しくて当然・・・、そのように感じる者が成果を上げることができるのです。

 医学部受験も例外ではありません。いくつになっても、勉強の面白さに気づきさえすれば医学部合格も時間の問題ではないか・・・。私はそのように考えています。

参考:
メディカルエッセィ第19回(2005年7月)「年齢が理由で医学部不合格」は妥当か」

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2013年6月21日 金曜日

80 それって愛ではないけれど 2009/9/20

今月のある日曜日の夜、たまたま時間ができた私は、映画『ディア・ドクター』を近くの映画館に見に行きました。

 『ディア・ドクター』は西川美和監督の作品で、笑福亭鶴瓶が演じるニセ医者の動揺する心境を描いたものです。(ここで「ニセ医者」と言ってしまうと、いわゆる”ネタバレ”になってしまうかもしれませんが、他の多くのサイトですでにニセ医者であることが書かれていることと、公開してすでに3ヶ月近くがたっているということを考慮して許されるのではないかと考えました)

 作品の良し悪しは別にして(いくつかの映画評論サイトを見てみましたが、のきなみ高得点がつけられています)、私がこの映画で最も印象に残った場面を紹介したいと思います。

 僻地で働いていた主人公のニセ医者は、ある理由から突然失踪します。警察の調べでニセ医者であることが分かり、刑事が関係者から証言を集めるのですが、香川照之が演じる薬会社の営業マンに対して、刑事が、「なぜ(失踪したニセ医者は)医者をやろうと思ったのか」と、この営業マンに尋ねます。この営業マンは日頃からニセ医者の診療所に出入りしていて仲良くやっていました。

 黙っている営業マンに対して、刑事は「(ニセ医者が僻地で医療をやろうと思ったのは)”愛”なのか」とイヤミっぽく質問します。つまり、金儲け以外に免許がないのに医師をしていた理由は、病人に対する愛情なのか、と皮肉をこめて聞いているのです。

 ここで、この営業マンは<ある行動>に出ます。(<ある行動>は映画を見ていない人のために伏せておきます) この営業マンが言いたかったのは、無医村の僻地で医者をやろうと免許のないニセ医者が志したのは”愛”と呼べるようなものではなくて、もっと別のものだ、ということです。

 このシーンを見たときに、私は、「そうそう!」と心の中で叫びました。

 私も医師ですから「どうして医師になろうと思ったのですか」と聞かれることがしばしばあります。特に私は、文科系の大学を卒業し、いったん商社に就職し、その後医学部受検を試み、医学部に合格したのは27歳のときですから、どうしても経歴を言うとこの質問を受けることが多いのです。

 実は私は、医学部入学当時は、まだ医師になることを考えていませんでした。医学部入学前は母校の関西学院大学社会学部の大学院に進学することを考えていて、医学部に進路変更したのは、医学の観点から社会学で取り上げるようなテーマを考えてみたいという思いがあったからです。要するに、私の医学部受験の動機は、「医師ではなく医学者を目指したいから」というものでした。

 それが、医学部在籍中にいろいろな出来事があり(すべては書けませんが、病気に関することで医療機関を受診してイヤな思いをした、という話を何人もの人から訴えられた経験が大きいと言えます)、それで、こういう医師を目指したい、という”想い”が芽生えたのです。

 その”想い”は”愛”か、と問われれば、そんな崇高なものではありません。そんな立派なものではなく、「このような医療を実践する医者がいないのだとすれば、そしてそういう問題に自分自身が気づいたのだとすれば、それは自分自身がやるしかないではないか・・・」、そういう類の”想い”なのです。

 登山家であるジョージ・マロリーは、マスコミからのインタビューで「なぜエベレストに登るのか」という質問に、「そこに山があるから」(原文では”Because it is there.”)と答えたというエピソードがありますが、医師が医師を目指す理由もこれに近いものがあるのかもしれません。

 医師を目指すこととエベレストに登ることを一緒にしてしまうのは、登山家の方に失礼かもしれませんが、もっと身近なところでも、この「そこに山があるから」と同じ動機で行動するケースはいくらでもあります。私は以前このコラムで「気づいたモン負けのルール」というものを紹介しましたが(下記コラム参照)、おそらく多くの人は、無意識的にこのルールに従って行動しているのではないかと私は考えています。人間は損得勘定のみで行動するわけではないのです。

 話を『ディア・ドクター』に戻したいと思います。

 主人公のニセ医者は、地域の人に慕われているというよりもむしろ神や仏のような扱いを受けています。困っている人から連絡が入ると、スクーターに乗りどこにでもかけつけます。また、毎晩医学書を見ながらひとりで遅くまで勉強をしています。このような姿を目の当たりにした研修医は、「一通りの研修を終えた後、再びこの村にやってきて(このニセ医者と)一緒に働きたい」、と言いだします。

 しかし、その地域で、たったひとりで医療をおこなうには、”愛”ではない医師を志す”想い”があったとしても、それだけでは務まりません。ときには交通事故の重症の被害者や妊婦や乳幼児も診なければならないわけです。ありとあらゆる患者さんに対して、最終的には隣町の高次医療機関に搬送するとしても、初期診察というのはひとりでおこなわなければなりません。

 映画の中では、破水がおこった妊婦を救急車の中で診察しながら、医学書をめくっているシーンがあったり、緊張性気胸といって早急に胸に針を刺さなければ命を失いかねない状態の患者を診たりするシーンがあります。緊張性気胸の場面では、ベテランの看護師の助言に従いながら処置をおこない、なんとか事なきを得るわけですが、これは見ている方もヒヤヒヤします。おそらく、重症患者を目の前にして何もできないニセ医者をみていた看護師は、このニセ医者がニセモノであることに気づいていたのではないかと思われます。

 映画では、”愛”ではない別の”想い”でニセ医者が活躍している姿を描きながら、同時に、そんな”想い”だけでは医療はできない、という現実も訴えられているのです。

 私は映画館を出るとき、この映画はもしかすると現役の医師に対するメッセージがこめられているのではないかと感じました。

 つまり、「あなたたち(本物の)医師とこの映画のニセ医師の違いは、医師免許を持っているかどうか以外に何があるのでしょう。たしかに(本物の)医師であるあなたには、このニセ医師が持っていない知識や技術をいくつも持っているでしょう。しかし、そんな(本物の)あなたは、すべての病人や怪我人に対して何の迷いもなく最も適切な治療ができるのですか。それができないから、あなたは毎日のように勉強を続けているのではないですか。それではそんな勉強熱心なあなたと、このニセ医師の本質的な違いは何なのですか・・・」、このような問いかけをされているように感じたのです。

 もしも、このニセ医師が金儲けや興味本位から僻地で医療をしていたなら、このようには感じなかったに違いありません。

 ”愛”ではない医師を志す”想い”が見事に描かれているが故に、それが我々医師に対する辛辣なメッセージとなっているように私は感じたのです。
 

参考:メディカル・エッセィ第53回「”気付いたモン負け”というルール」

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2013年6月21日 金曜日

第79回(2009年8月) ”掟”に背いた医師

 奈良県大和郡山市の病院が生活保護受給者の診療報酬を不正受給していた事件は我々医療従事者に大きな衝撃を与えました。

 報道によりますと、この病院は2005年から2008年に生活保護を受けていた複数の患者に対し、心臓カテーテル手術をしたように書類(カルテなど)を捏造し、合計約860万円もの大金を詐取したとされています。

 これら以外にも、実際には必要のない患者に心臓カテーテル手術を施した、との報道もあります。一部には、この病院の医師らが患者に対し、「手術しないと死ぬよ」と話していたとも伝えられています。

 マスコミの報道は、どうしても病院や医師を悪者として取り扱う傾向にあります。それは、マスコミの使命として仕方がないのかもしれませんが、実際にはそのあたりの偏った見方を取り除いて事の本質を見極めなければなりません。

 私はこの事件を初めて聞いたとき、「解釈の仕方によっては、診療報酬請求が不正ととられかねない」程度であろうと思っていました。

 例えば、一部のマスコミの報道にあった「手術をしないと死ぬよ」と医師が患者に話していたという点については、おそらく次のような会話があったのではないかと考えました。

患者「先生、やっぱり手術が必要になるんですかね」
医師「そうですね、今手術をしておかないと、この前みたいに突然胸が痛くなって意識を失う可能性がありますよ。この前はたまたま近くにいた人が救急車を呼んでくれたから奇跡的に助かったけど、今度同じようなことがあれば命にかかわるかもしれませんよ・・・」

 心臓の手術の説明をおこなうとき、このような会話がおこなわれることはよくあります。これを患者側が過剰な解釈をすれば、医師に「手術をしないと死ぬよ」と言われた、となる可能性があります。

 ですから、私は当初は悪意をもったマスコミが、権力(この場合は病院)を叩くために、大げさな報道をしているのではないかと思っていたのです。

 ところが、その後、実際には手術をしていないのに手術をしたかのようにみせかけた偽りのカルテが発覚し、それを職員が認め、最終的には院長や理事長も認めた、との報道がおこなわれました。

 実情がここまで明らかになると、私の解釈が誤りであり、マスコミの報道が正しいことを認めざるを得ません。こんな病院があり、こんな医師が存在しているということが同じ医師としてにわかには信じがたいのですが、いったいなぜこんなことが起こってしまったのでしょう。

 「不正請求」という言葉は、しばしばマスコミに登場しますから、一般の方からみれば、他の医療機関でもこのような悪いことがおこなわれているのではないかと感じられるかもしれません。

 しかし、「不正請求」の大半は、悪意がない、というか、保険請求のシステムの関係で「不正」とされているだけです。例をあげましょう。

 最近喉が渇いて夜中にトイレに行く回数が増えたという45歳の男性が初診で受診されたとしましょう。この人がメタボリックシンドロームを示唆するような体型をしていれば我々医師はこの症状から糖尿病を疑います。糖尿病を疑っているわけですから、病名を「糖尿病の疑い」として、血糖値を測定します。検査をするにはそれに応じた「病名」を付けなければならない決まりになっているのです。

 さて、ここまではいいのですが、「HbA1C」という糖尿病の状態をより正確に示す項目も検査すべきだと考えることがあります。しかし、「HbA1C」は「糖尿病の疑い」という病名では認められず、「糖尿病」という病名が必要になります。このとき医師はどうするか。まだこの時点では糖尿病という診断が確定していないわけですから「糖尿病」という病名を付けることには抵抗がありますし、これ自体が不正な記載になると感じられます。そこで「糖尿病の疑い」という病名のままでHbA1Cを測定することになるのですが、こうすると「不正請求」とみなされて診療報酬が支払われなくなることがあるのです。(実際、太融寺町谷口医院でもこの理由で「不正請求」と見なされ支払いを拒否されたことがあります)

 このような例は他にもいくらでもあります。そして、「不正請求」の大半が、このように、少なくとも悪意はなく患者さんのためになる(と医師が考える)ものであり、病院の利益を目的としたような不正請求というのは、ほとんどの医師からすれば考えられないことなのです。ですから、今回の大和郡山市の病院の行為は、我々医師からみても許せるものではないのですが、それ以上に、信じられない・・・、というのが正直な感想なのです。

 なぜなら、病院がこのようなことをすれば、医療という社会システムそのものが崩壊の危機にさらされることになるからです。

 少し古い話になりますが、2005年に千葉県の1級建築士が、地震などに対する安全性の計算を記した構造計算書を偽造していた、いわゆる「耐震偽装問題」が報道されました。この事件は、一般市民を不安にさせただけではなく、ほとんどの建築関係者を落胆させたに違いありません。1級建築士も人間ですから、生涯を通して品行方正に暮らしているわけではないでしょうが、構造計算書を偽造、というのは何があっても、(端的に言えば命を差し出しても)してはいけないことではなかったでしょうか。つまり、この1級建築士は職業人としての”掟”に背いているわけです。

 大和郡山市の病院も同じことです。何があっても絶対にしてはいけないこと(「タブー」と言ってもいいかもしれません)をこの医師は犯しているのです。これは法律で裁かれる以上に、”掟”に背いた責任をとるべきであると私は考えています。

 個人的な話になりますが、私自身としては法律というものをあまり重要視していません。法律よりも大切なものが”掟”であり、それぞれの職業には職業人としての”掟”があると考えています。

 以前、ジャーナリストが取材源を露呈してしまうのは(それが故意でなかったとしても)”掟”に反する行為である、ということを述べました(下記コラム参照)。他にも、例えば、学校の先生が未成年の生徒に性的関係を強要したり、警察官が闇組織に情報を流したり、政治家が脱税していたり・・・、といった事件は、職業人としての”掟”に背くことになります。

 おそらく大和郡山市の病院の医師も、医師になりたての頃は、このようなことは思いもつかなかったでしょう。何かがきっかけとなり医師としての矜持を捨ててしまったのでしょうか。それとも、この医師の人格がもともと破綻していたのでしょうか。

 いずれにせよ、”掟”に背いた職業人が社会から許されることはないでしょう・・・。

参考:
メディカルエッセィ第64回(2008年5月)「職業人としての”掟”」

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2013年6月21日 金曜日

78 臓器移植法改正で闇の臓器売買は減少するか 2009/7/21

2009年7月13日、 「脳死=人の死」とすることを前提に、臓器提供の年齢制限を撤廃する改正臓器移植法(A案)が参院本会議で賛成多数で可決され成立しました。

 改正法は公布から1年後に施行されることになりますから、直ちに多くの「脳死=人の死」からの臓器が提供されるわけではありませんが、これで日本も国内での臓器移植が増えることが予想されます。

 今回の法改正の最大のポイントは「脳死=人の死」としていることと言えるでしょう。

 現行の臓器移植法では、<臓器を提供する場合に限って>脳死を人の死としています。それに対して、改正法では、脳死と判定されれば、それは少なくとも法律の上では「人の死」となるわけです。

 もちろん、残された遺族に対して、「あなたの息子さんは脳死と判定されましたので、すでに死亡しています。死亡されたんだから臓器をわけてくれてもいいじゃないですか」、などと医者が言うわけではありません。

 「脳死=人の死」というのは単に法律上の解釈にすぎないわけで、本質的な意味では脳死が人の死かどうかなどといった問題は誰にも分かりません。(その逆に、生命はいつ誕生するのか、つまり、生命誕生は受精時なのか、着床時なのか、死産届けが必要な妊娠12週以降なのか、あるいは母体から取り出されたときなのか、といった問題も誰も本質的な意味では答えられません)

 臓器移植に関して言えば、いくら法律上で「脳死=人の死」と言われても、自分の脳死後、あるいは自分の子供が脳死となったときに、臓器を提供しなければならないという義務はありません。生前に臓器提供を拒否していれば臓器が移植に使われることはありませんし、意思表示がはっきりしていない場合でも、遺族が臓器提供に同意しなければ移植されることはないのです。

 一方で、是非とも自分の臓器を使ってほしいという人もいるでしょうし、自分の子供が脳死になれば、子供が反対しなければ、あるいは子供に判断能力がなければ、自分の子供の臓器を必要な人に提供したいと考える親もいるでしょう。

 そのような臓器提供に積極的な考えをもつ人がいて、なおかつその臓器を必要としている人がいるなら、法律が妨げになるべきではない、と言えます。日本の法律が臓器移植を事実上妨げているから、海外に臓器を求める人がいるのは事実です。

 現行の法律では国内での移植手術が大変困難であるのが現実で、このような状況に目をつけて登場してきたのが臓器売買ビジネスです。臓器ブローカーが移植を必要としている患者さん、もしくは患者さんの家族を探し、同時に、海外(特にフィリピンと中国が多いと言われています)で臓器を提供したがっている遺族(臓器提供の見返りに報酬を受け取ることができると言われています)、そして、移植手術を貴重な収入源にしている病院をみつけ、それらをつなぎあわせるというわけです。

 こういった臓器移植は実際のところはどれほどの数になるのかははっきりと分かりません。合法なのか非合法なのかさえも曖昧なルートもあるようです。それに、臓器の提供者が本当に脳死だったのかどうか、つまり、本当は脳死の基準を満たしていないのに臓器を必要としている人のために(あるいは自分らの金儲けのために)脳死にされた人がいるのではないか、そのような噂は後を絶ちません。

 映画『闇の子供たち』では、日本人の心臓疾患のある子供(レシピエント)に心臓を提供した(させられた)のは、生きたタイ人の少女でした。もちろん、これはフィクションですし、実際にこのようなことはあり得ませんが、例えば、交通事故で意識不明、植物状態は免れないが脳死の基準を満たしていない・・・、このようなケースで脳死と判定されてしまうことは本当にないと言いきれるでしょうか。(これは私の憶測ではありますが)フィリピンや中国といった交通事故の多い国で、臓器をほしがる日本人、金儲けをしたいブローカーと悪徳病院、植物状態で寝たきりになる事故の被害者の家族、とそろったときに、脳死の判定基準は緩やかになってしまわないのか・・・、と思えてなりません。

 さて、日本の臓器移植法が改定されれば、日本人は日本人に臓器供給を、という流れになるのは間違いないでしょう。すでに世界各国から、日本人は(高い円で)外国人の臓器を買っている、と非難されてきました。これまでは、「法律が障壁となって自国で臓器が手に入らないから・・・」という言い訳ができましたが、法改正後は、この言い訳が通用しませんから、たとえ日本国内で臓器を提供してくれるドナーが見つかりにくかったとしても、これまでのように海外にドナーを求めて、というわけにはいかなくなるでしょう。

 ここでひとつ疑問を呈したいと思います。

 法改正で「脳死=人の死」となり、臓器提供のハードルが下がったときに、脳死の判定が、『闇の子供たち』のような極端な事態にはならないとしても、日本でも緩くなってしまわないか、という疑問です。

 もちろん脳死の判定には、いくつもの具体的な条件があり、複数の医師が判定に加わることになっています。悪い噂の耐えない国とは異なり、日本ではきっちりと判定がおこなわれるにきまっているじゃないか・・・、そう思う人がほとんどでしょうし、私自身もそのように思いたいのですが、私がどうしてもこの疑問をぬぐえない原因となっている事件が少なくとも2つあります。

 1つは「和田心臓移植事件」です。1968年8月8日、和田寿郎医師を主宰とする札幌医科大学胸部外科チームは、日本初となる世界で30例目の心臓移植手術を成功させました。しかし、後に”事件”と呼ばれるようになったことからも分かるように、この移植手術にはいくつもの疑問が残されています。詳細は割愛しますが、私が最も問題と感じている疑問は、脳死の判定基準が本当に守られたのか、という点です。実際、脳死判定にはかかせないはずの脳波が測定されていなかったことが後に判明しています。

 もうひとつは、最近奈良で発覚した「山本病院診療報酬不正受給事件」です。奈良県郡山市の山本病院が、生活保護受給者の診療報酬を不正受給していたことが2009年6月に発覚しました。この病院では、手術をする必要のない患者さん(主に生活保護受給者)に心臓カテーテル手術を施行し(手術を受ける必要のない生活保護受給者に「手術をしないと死ぬよ」と医師が話していた、という報道もあります)、さらに、実際には手術をしていないのに、手術をしたように虚偽のカルテを作成していたことが関係者の証言で明らかにされました。(この事件は我々医療従事者にとっても大変ショッキングなものでした。いずれこの事件については詳しく取り上げたいと思います)

 たしかに、心臓カテーテル手術と移植手術はまったく異なるものですし、移植手術の場合は、レシピエントだけでなくドナーが必要となります。しかし、ドナーについては、山本病院のように生活保護受給者にターゲットを絞ったとしたら・・・、そもそも生活保護受給者は身寄りのない人が多いわけで、そのような人が脳死には至らないものの植物状態になったとしたら・・・、そして臓器が必要な人がいたとして(実際いくらでもいます)、さらにそれらをつなぐブローカーが現れたとしたら・・・。

 現在のシステムでは、臓器移植を希望する人は日本臓器移植ネットワークに登録することになっています。そして脳死の判定は厳格にされていますし、臓器移植手術をおこなうことができる病院は厳しい基準で選別されています。ですから、日本国内で闇の臓器売買などは起こるはずがないのですが・・・。

 私の危惧が杞憂であることを祈ります・・・。

参考:
NPO法人GINAウェブサイト「GINAと共に」第27回(2008年9月)「幼児売春と臓器移植」
メディカルエッセィ第45回(2006年10月)「臓器売買の医師の責任(前半)」
メディカルエッセィ第46回(2006年11月)「臓器売買の医師の責任(後半)」

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2013年6月21日 金曜日

77 大学病院の総合診療科の危機 その2 2009/6/20

さて、マスコミの報道によりますと、大学病院の総合診療科が廃止に追い込まれている理由として次のようなものが挙げられています。

①利用度が上がらなかった。
②専門の診療科の方が患者に人気がある。
③総合診療を担当する医師が少ない。
④総合診療は時間がかかる割には、手術や高額な検査を行わず、経営側から見れば不採算部門。
⑤臓器別の専門診療科よりも地位が低く見られがちなことも、医師側に不人気。

 これらを順にみていきましょう。

 まず、①の「利用度が上がらなかった」ですが、大学病院はそもそも他の医療機関からの紹介状がなければ受診できない病院です。したがって、大学病院の総合診療科を受診する患者さんというのは、診療所/クリニックや地域の病院で診断がつかず、どこの専門科を受診すべきかが分からない(もしくはその時点では専門科を受診すべきでない)と医師が診断した症例に限られます。このような症例はそれほど数が多いわけではなく患者総数が多くないのは当然のことです。

 また、大学病院にもときどき紹介状を持たずに受診する人がいますが、たいていは”門前払い”をされます。これは、見方によっては「医師の応召義務違反」となるかもしれませんが大学病院の役割を考えればある程度は止むを得ないことです。しかし、紹介状がないからといって強い症状のある患者さんに帰ってもらうわけにはいきませんから、紹介状がなかったとしても急いで診察・治療をする必要のある場合はこの限りではありません。したがって、こういうケースでは総合診療科が診察することがあります。ただしこの場合も症例数としてはそれほど多いわけではありません。

 ですから、大学病院の総合診療科を受診する人というのは、初めから限られているのです。

 次に②の「専門の診療科の方が患者に人気がある」ですが、これも①で述べた理由と同じで、大学病院には他の医療機関からの紹介状を持参した患者さんが受診するのが原則であり、その紹介状の宛名は、「総合診療科」ではなく「脳神経外科」「消化器内科」など専門科になっていることがほとんどであることを考えると当然のことです。患者さんは紹介状に書かれた「科」を受診するわけですから、「人気のあるない」というのは少し論点がずれているような気がします。

 ③の「総合診療を担当する医師が少ない」というのも当然のことです。①、②で述べたように大学病院を受診する患者さんは、他の医療機関からの紹介状を持っているというのが原則です。一方、総合診療をおこなおうとする医師の多くは、紹介状持参の患者さんではなく、初期診療(一番最初の診察)をすることに重きを置いています。患者さんが健康上のトラブルを抱えたときにまず受診するのは大学病院ではなく地域の診療所やクリニックですから、大学病院で総合診療を学ぼうと思っても限界があります。ですから、総合診療を担当する医師は小さな医療機関であればあるほど多く、大学病院では少ないのが理にかなっているのです。

 ④の「総合診療は時間がかかる割には経営的に不採算」というのは、医療を市場社会で考えるならその通りであって、医療機関を「利益を追求する組織」と考えるのであれば廃止になっても仕方がないのかもしれません。

 前回のコラムで例にあげたように、複数の訴えをもった患者さんが総合診療科には(太融寺町谷口医院にも)よく受診されます。このような患者さんを診察するとき、まず話を聴くだけでかなりの時間を費やします。患者さんが検査を望んでいたとしても、現時点では不必要と考えられるケースも多く、その場合、「なぜ今その検査が必要でないのか」を患者さんに納得してもらうまで説明しなければなりません。そのため診察に30分以上もかかって検査や薬は一切なし、なんてこともよくあります。これでは経営的に成り立たないのです。

 しかしながら、医療というのは本来市場社会には馴染まないものです。医療機関と言えどもある程度の利益を出して税金を払うことができなくなれば倒産してしまうのは事実ですが、医療従事者たる者が利益を追求するようになってしまえば、もうそれは医療とは呼べないのではないでしょうか。現実と理想のバランスをとるのはむつかしいことかもしれませんが、「経営的に不採算だから総合診療科を廃止する」というのは寂しく感じます。

 ⑤の「臓器別の専門科より総合診療科の地位が低くみられる」というのは私にはよく分かりません。「科」によって序列があると考える人がいるということなのだと思いますが、おそらくそのような”地位”を気にする人は、「職業に貴賎はない」という言葉をキレイごとと捉え、医師と他の職業の間にも”序列”を考えているのではないでしょうか。

 さて、大学病院における総合診療科が廃止に追い込まれているのは事実だとしても、その一方で、民間病院の総合診療科に人気があるのもまた事実です。実際、総合診療に力を入れている病院には、研修医の就職希望が集中しています。(こういった病院の多くは、給与は決して高くありません。給料ではなくやりたいことを求めて多くの研修医が希望をしているのです)

 また、総合診療関連の学会や研究会も大変盛り上がっており、今月開催される予定だった総合診療関連の大きな学会は、定員の定められているワークショーップのほとんどで申し込みが殺到し随分早くに締め切られていました。(この学会は新型インフルエンザの影響で8月に延期されることになりました)

 では、総合診療科は民間病院にのみ意味があって大学病院には存在価値がないのかというと、決してそんなことはありません。やはり大学病院というところは、いろんな情報がいち早く入ってきますし、いろんな人材が豊富ですから、総合診療を学ぶという点においては大変有益な場です。

 私が大学の総合診療科で学んでいた頃は、週に1~2回、大学病院の総合診療科外来で研修を積み、それ以外は地域の診療所やクリニックに勉強に行っていました。大学病院でのカンファレンスや症例検討会というのは大変充実しており、一般病院でのカンファレンスにはない良さがあります。その症例が治癒に至ったとしても、その過程において学術的な観点からとことん討論を重ねるような形式はやはり大学病院特有のものだと思われます。また、大学にいれば各専門科の医師にすぐに質問しにいけるというメリットもあります。

 大学病院の総合診療科が廃止になるのは大変残念なことです。大学病院の利点をいかしながら、地域の病院や診療所/クリニックと連携をして、営利を追求するのではなく、幅広い知識と技術を学べるような総合診療の教育・研修システムが構築されることを願います。

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2013年6月21日 金曜日

76 大学病院の総合診療科の危機 その1 2009/5/20

このウェブサイトでは何度も紹介していますが、「総合診療科」というのは、患者さんの臓器のみをみるのではなく、患者さんを総合的にみることを重要視しています。従来、医療機関というのは臓器別に細かく専門化されすぎていましたから、それを反省する意味もあり日本でも今から10年ほど前に注目を集めだしました。

 実際、2000年前後までに、総合診療科(「総合診療部」または「総合診療センター」と呼ばれることもありますがここでは「総合診療科」で統一します)は、およそ50の大学病院に設置されました。

 ところが、ここに来て大学の総合診療科が次々と廃止に追い込まれています。

 2005年9月に北海道大学が総合診療科を廃止し、2007年4月には杏林大学が廃止を決めました。2009年度からは京都大学が廃止、群馬大学は救急部と統合することになりました。また、2002年には島根大学が総合診療科設立の翌年に廃止を決めています。(報道は2009年4月20日の読売新聞)

 大学での総合診療科が次々と廃止されている理由を考える前に、まずはなぜ総合診療科が必要と考えられるようになったかについてまとめておきましょう。

 臓器別に診療をおこなうのが従来の日本の医療です。例えば、肝臓と心臓と皮膚に疾患のある人に対しては、肝臓、心臓、皮膚の診察を得意とする3人の医師がそれぞれ診察にあたるというわけです。

 このような診察方法のメリットとしては、それぞれの臓器のスペシャリストが担当するわけですから、例えば、その患者さんが非常に稀な病気にかかっていたとしてもその疾患を見逃される可能性は少なく、初めから最新で最適の治療が受けられることが期待できます。これは、患者さんからみてもありがたいことです。町の開業医のみを受診しているだけでは発見できなかった病気が見つかるかもしれないのですから。

 ではデメリットにはどのようなものがあるでしょうか。医師側からみたときには、いつも他の医師がどのような検査をおこないどのような薬を処方したかに注意を払わなければなりません。検査内容が重なってしまえば医療費の無駄遣いになりますし、患者さんにとっても二度手間になります。薬についても同じ系統の薬を処方することにならないか、また薬の相互作用についてもいつも考えていなければなりません。したがって、複数の医師を受診している患者さんに対しては、毎回「他の医師の受診で薬の変更や追加はないですか」と聞かなければなりません。

 患者さんからみたときのデメリットとしては、まずは3人の医師を受診しなければなりませんからお金と時間がかかります。お金の問題はさておき、時間は大変なものです。これだけ医師不足が深刻化している日本では、ひとりの医師に診察してもらうまでの待ち時間はかなりのものになります。3人の医師を受診するのに1日では不可能な場合もあるでしょう。また、同じ話を何度もしなければならないでしょうし、場合によっては採血を何度もしなければなりません。患者さんの気持ちとしては、「3人の医者が話し合って必要な項目を決めてくれれば1回の採血で済んだんじゃないの」、となるかもしれません。

 問題はまだあります。この例で言えば、肝臓、心臓、皮膚のそれぞれの疾患が独立したものであればいいかもしれませんが、例えば、肝臓と皮膚の疾患は同じことが原因で発症していた、というようなことがあった場合、それぞれのスペシャリストを受診していたときには発見が遅くなるかもしれません。なぜなら、患者さんとしては肝臓の医師には肝臓に関することだけを話し、皮膚の医師に対しては皮膚のみについての症状を話すことになり、その関連性が問診から読み取れなくなることがあるからです。

 仮に人間の身体はA,B,Cの3つの臓器から成り立つとしましょう。この場合、「A+B+C=人間」となるわけではありません。必ず「A+B+C<人間」となります。少し形而上学的に言えば、「部分の総和と全体は同じでない」ということです。なぜなら、AとB、BとC、CとAの相互性・連関性にも意味があり、さらにA,B,Cの3つがそろったときに初めて現れる事象や意味が存在するからです。

 抽象的なうんちくはこれくらいにして話を元に戻しましょう。

 例えば、次のような患者さんがいたとします。

 32歳女性。営業職。2~3ヶ月前から食欲がなくなり、ときどき吐き気がする。1ヶ月くらい前からめまいも自覚するようになり、先週は2回ほど動悸があった。最近、肌のつやがなくなってきたような気がするし、先月には円形脱毛もできた。夜に眠れないことがあるし、最近イライラすることが増えた。これまでなかった生理不順が目立つようになってきた。花粉症が今年から始まったのか目のかゆみと鼻づまりが気になる。

 さて、もしもすべての医療機関が臓器別にしか診察しないとすると、この患者さんはいったいいくつの科を受診しなければならないでしょうか。食欲不振+吐き気→消化器内科、めまい→脳内科もしくは脳外科、動悸→循環器内科、肌+脱毛→皮膚科、不眠+イライラ→精神科、生理不順→婦人科、目のかゆみ→眼科、鼻づまり→耳鼻科、といったところでしょうか。

 営業職で忙しいこの女性がこれだけたくさんの科を受診することは現実的でしょうか。この女性のように複数の悩みがある人は実際にはいくらでもいます。では、このような人たちはどこの医療機関に行けばいいのでしょうか。

 こういった悩みをもつ人に対して最初に対応すべきなのが総合診療科なのです。(総合診療と同じように使われる言葉に「家庭医療」「プライマリケア」というものがあり、定義の仕方によっては意味がそれぞれ少しずつ異なる場合もあるのですが、ここでは同じ意味とします。以下も「総合診療」で統一します)

 大学病院や大病院の診療科が臓器別になっていることからも分かるように、医学教育も臓器別におこなわれています。ただし、臓器別の教育には有効な面も非常に多く、学生や研修医の立場からしても医学を理解する上で臓器ごとに学ぶことは絶対に必要です。

 しかし、それだけでは実際の患者さんには対応できないのです。そのことに気づいていた私は、2年間の基礎研修を終えた後に大学の総合診療科の門を叩くことになりました。(実は、私が総合診療科の医局に入ろうと考えたのは、タイのエイズ施設でボランティアをしていたときに欧米の総合診療科医たちが臓器にとらわれずにどのような症状にも対応していたのを見て感銘を受けた、というのもひとつの理由なのですが、ここでは詳しくは述べないでおきます)

 大学の総合診療科に入った私は、早速大学病院を受診される患者さんの診察(上級医の診察の見学や補助)をおこなうようになりましたが、自分が思うような成果が得られないことに気づきました。大学病院を受診される患者さんには一定の特徴があり、大学病院の患者さんを診るだけでは本当の意味での総合診療ができないと感じたのです。

 私が感じたこのようなことと、今回のテーマである「大学病院で総合診療科が廃止」には関係があるように思えます。次回はそのあたりについてお話したいと思います。

つづく

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2013年6月21日 金曜日

75 医師をだます詐欺師たち 2009/4/20

2009年4月7日、秋田地裁は20代の女性とその同居人の20代の男性に対し、詐欺罪の有罪判決を言い渡しました。判決は実刑で、女性には懲役2年6月(求刑懲役3年6月)が、男性には懲役1年6月(求刑懲役2年)が言い渡されています。

 マスコミの報道によりますと、この事件は、主犯の41歳の男性がその妻(30代)と上に述べた2人と共に、(さらに一部の報道によると合計20人余りで)、実態のない架空の会社を設立し、うつ病で働けなくなったと社会保険事務局などに虚偽の申請をおこない、傷病手当金合計5,500万円をだましとったとされています。

 傷病手当金は、申請は社会保険事務局などにおこないますが、申請するには医師の証明(診断書)が必要になります。主犯の41歳男性は、医師に「うつ病」と診断させるためにマニュアルを作成し、医師にどのように症状を伝えるべきかを指示していたそうです。

 この事件は悪質極まりない断じて許すことのできないものでありますが、このように医師をだますのはむつかしいことではない、ということについて論じてみたいと思います。しかしその前に、この事件についてマスコミの報道を振り返って少し詳しくみてみましょう。

 主犯の41歳男性(S氏とします)は、3年前に実態のない貴金属輸入販売会社を北海道に設立しました。全国7カ所に架空の支店を置き、約20人の社員にうつ病と偽らせて、傷病手当金を申請させていました。北海道警察は、会社設立の目的自体が手当金の詐取で、約7都道府県の社会保険事務局から計5,500万円を受給し、社員と山分けしたとみています。

 S氏は、インターネットなどでうつ病の症状を調べ、うつ病による手当金受給者の体験談や症例が書かれた資料を社員に配布したそうです。「よく眠れない」「動悸(どうき)がする」「物事をやるのがおっくうだ」など、受診時に医師に訴えるべき具体的な内容を指示、さらに実技指導もしていたといいます。また、仲間には受診する医療機関も分散させ、発覚するのを予防したとも報じられています。

 さて、この事件を一般の人が聞いたときにどのように思われるでしょうか。なかには、「患者にだまされるなんてバカな医者だなぁ」とか「こんな詐欺師にだまされるのはヤブ医者だけじゃないの」などと感じる方もいるかもしれません。

 しかし、患者側が上手に演技をすればなかなかその嘘を見破れるものではありません。とくに今回の「うつ病」のように精神疾患の場合は、診断が非常にむつかしく、患者さんの訴えが診断の決め手になることも少なくないのです。

 例えば、ガンに違いないと思っている人、HIVに感染したに違いないと思っている人(いずれのケースも太融寺町谷口医院にはよく来ます)になら、画像検査や血液検査で、「あなたは病気ではないんですよ」と伝えることができます。

 ところが、精神疾患の場合、(特にうつ病では)、客観的な血液検査や画像検査などでは分かりませんから、患者さんの主張が最重要の所見となります。(心理テストのようなものもありますが、画像や血液検査に比べて”絶対的な”基準になるわけではありません。また2009年4月から一部の医療機関で「光トポグラフィー」という脳の活動を測定する器械を使った検査がおこなわれており、うつ病の診断に役立ちますが、あくまでも”補助的な”ものです)

 以前、臓器売買であることを見抜けずに腎臓移植をおこなった医師が非難されるのはおかしい、ということをこのコーナーで述べましたが(下記コラム参照)、その事件も、患者側が「この女性は親族です」と嘘をついて医師をだましていたのです。

 おそらく、患者側の立場に立って一生懸命に治療しようという思いが強ければ強いほど、患者側の嘘にひっかかってしまうでしょう。もちろん、今回のような詐欺を考える輩がいることは我々医師も認識してはいますが、その演技力が巧みであればやはりだまされてしまうことはあるのです。今回の報道をみる限り、「うつ病」と診断した医師(精神科医)が非難されていないことに対して私はマスコミを評価したいと思います。

 さて、問題はこれからも同様の事件がおこらないかということです。

 今回の地裁の判決が、執行猶予がつかず実刑となったことは評価されていいと思います。私は法律には詳しくありませんが、こういった犯罪は実行されなくても企てただけでも罪にすべきと考えています。このような事件が模倣となって繰り返されるようなことは絶対にあってはならないからです。

 なぜなら、このような事件が次々と繰り返されるようになれば、本当にうつ病や他の病気に罹患している人が本来すべき申請をしにくくなる可能性があるからです。「私の症状はうつかもしれないけど、病院でそれを疑われて不快な思いをするのなら、受診しないでおこう・・・」、このように考える人がでてくるとすればそれは問題です。

 うつも含めて精神症状を抱えている患者さんは、おそらく他人には言えないようなことも医師の前では話します。私は精神科医ではありませんが、プライマリケア医(家庭医)として患者さんの心の悩みを聞くことがよくあります。なかには、「そのようなことを、よく話してくれたね」と、他人に知られたくないようなことを勇気を出して話せたことに、こちらが感動するようなケースもあります。

 その心の悩みが深刻であればあるほど、なんとか力になりたい、と感じます。自分の診療能力を超えると判断したようなケースであれば、精神科専門医を紹介するようにしていますが、患者さんが当院で治療を受けたいと強く希望されるような場合は、太融寺町谷口医院で診ることもあります。

 当院でこのように感じているのは私だけではありません。看護師や他のスタッフも同じ思いです。(当院では、カウンセリング経験の豊富な看護師による1時間単位のカウンセリングをおこなうこともあります) 

 なんとかして患者さんの力になりたい・・・。その思いが強ければ強いほど、演技力巧みな詐欺師にかかれば騙されやすくなるでしょうし、また、その思いが強ければ強いほど、今回のような事件をどうしても許せないと感じます。このような詐欺行為は、医師・医療に対する冒涜であると私は思っています。

 医師側からみたときに、こういった詐欺師に対処する術というものは何もありません。「詐欺師を詐欺師と見抜くための講義」などはありませんし、そんな勉強をするくらいなら、日々進歩している医学の新しい知識習得に時間を費やすべきです。

 医師をだますのはそれほどむつかしいことではありません。しかし、医師をだますことは、医療に対する冒涜であり、本当に医療が必要な人の受診を抑制させる可能性があるということを強く主張したいと思います。

参考:メディカルエッセイ第45回「臓器売買の医師の責任(前半)」

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2013年6月21日 金曜日

74 レセプト電子化をめぐる論争 2009/3/23

「レセプト」という言葉は一般的には馴染みがないと思われますが、現在この「レセプトの電子化」をめぐって医療界では大変な論争が起こっています。一部には医師らが原告団を結成し国を訴えるところまで発展していますし、レセプト電子化に反対する医療関係団体を非難する日経新聞の社説が物議をかもし、日本医師会が記者会見で反論する事態にまで進展しました。

 話を整理していきましょう。まずは「レセプト」とは何か、からです。

 このウェブサイトでも何度かレセプトについては取り上げましたが、レセプトとは分かりやすく言えば、医療機関が患者ごとにどんな治療をしたかをまとめた診療明細書のことです。医療機関はこのレセプトを毎月「支払基金」という公的機関に提出します。支払基金は、レセプトを1枚1枚確認し、記入ミスがないかどうかとか、不正請求になっていないかなどをチェックします。問題がなければ、そのレセプトに書かれた保険点数に基づいて支払基金が医療機関に診療費(の7割)を支払うことになります。3割は受診時に患者さんが医療機関にすでに支払っています。

 要するに、医療機関側からみれば、レセプトとは支払基金に対する請求書のようなものです。

 医療界でもIT化を促進するために、このレセプトを完全電子化するよう討議がなされており、2011年度からは完全電子化が決まっています。「完全電子化」とは、医療機関は必ずレセプトの提出をオンラインでしなければならない、というものです。昔はどこの医療機関もレセプトは「紙」だったわけですが、もう紙のレセプトは受け付けられなくなることを意味します。

 さて、いったん2011年度からはレセプトの提出をオンラインでおこなわねばならないということが閣議決定されていたわけですが、医療関係者から次々に反対意見があがり、2月27日の自民党医療委員会でオンライン義務化に対する反対意見が相次ぎ、「完全電子化」から「原則電子化」になる見込みがでてきました。「原則電子化」とは、「原則としてオンライン請求しなければならないけれども例外も認めよう」とするものです。

 この「完全電子化」から「原則電子化」に軟化しそうな状況を受けて、3月9日、日本経済新聞の社説は「レセプト完全電子化を撤退させるな」というタイトルで、閣議決定どおり完全電子化しなければならない、という旨の論調を発表しました。

 日経新聞の主張をまとめると、以下のようになります。

・医療界ではIT化がさほど進んでおらず、2008年12月時点でのオンライン請求の割合は、病院では57%だが、診療所は4%にすぎない。歯科の請求にいたっては、いまだにすべて紙のレセプトに頼っている。

・オンライン請求義務化は、請求事務の効率化や人件費の圧縮を通じ、国民医療費の増大を抑えるのに役立つ。

・医療機関が診療報酬を請求する過程が健保組合や患者本人にガラス張りになり、過大請求や不正請求があった場合には即座に見抜けるようになる。

 たしかに、オンライン請求が義務化されれば、コンピュータがレセプトの誤りや過大請求、不正請求などを判別できるようになり、請求事務の効率化や人件費の圧縮が実現されるようになると思われます。現在は、紙のレセプトに対して、審査員がレセプトの誤りがないかどうかを1枚1枚チェックしています。

 きちんとした数字はみたことがありませんが、日本全国の医療機関から集まるレセプトの合計は毎月数千万枚になるでしょう。この1枚1枚を人間がチェックしているわけですから相当な人件費がかかっているはずです。もしも、この作業をすべてコンピュータがおこなうようになれば、かなりの初期費用がかかったとしても、長期的には大幅に医療費が削減できるはずです。ですから、私個人の意見としても、いずれオンライン義務化は実現しなければならない課題だと思っています。

 太融寺町谷口医院では、今月からオンライン請求をおこなっています。これをおこなってみると、実にラクなことが分かりました。技術的にいくつかクリアしなければならない点がありますが、いったんやり方をパターン化してしまえばそうむつかしくはありません。以前だと、紙を打ち出してそれを紐で閉じて提出しに行かなければならなかったのですが、オンライン請求だとこの手間も省けます。コンピュータに詳しいスタッフがいない当院では実施するまでにいくつもの壁がありましたが、実際にやってみると「もっと早く取り組んでいればよかった」というのが正直な感想です。

 ですから、オンライン請求というのは、医療機関にとってもメリットがあり、また審査員の人件費が大幅に削減できますから医療費自体がかなり抑制されるはずで、誰からみても優れた請求方法ということになります。(審査に携わっていた人が失業するかもしれないという問題はありますが・・・)

 しかしながら、実際の問題として2011年度から完全オンライン請求義務化が現実的かどうかという点については、もう一度検討しなおすべきではないかと私は感じています。

 その最大の理由は、オンライン請求をおこなうのにいくらかの設備投資をしなければならないということです。実際、医師会の調査によれば、オンライン請求が義務化されれば、設備面でついていけないという理由で、全体の8.6%もの医療機関が「実施されれば廃業を考える」と答えています。(3月2日の共同通信)

 もしも、全医療機関の8.6%が廃業するようなことがあれば、日本の医療は完全に麻痺してしまいます。地域によっては診療所が充分足りているところもあるかもしれませんが、そうでない地域も多いのです。もしも診療所の8.6%がなくなってしまえば、そこに通院していた患者さんが行き場を失います。他のクリニックを受診すればいい、という考えもあるでしょうが、ただでさえ待ち時間の長いクリニックがさらに待ち時間が長くなってしまいます。

 8.6%の医療機関の医師が廃業をしても、現在人手不足が深刻化している病院に就職すればいいという考えもあるでしょう。これは理論的にはその通りかもしれませんが、実際には相当むつかしいでしょう。なぜなら、「オンライン請求が義務化されれば廃業する」と答えている医師の多くは高齢の医師であることが予想されるからです。そういった医師たちの全員が、夜勤や当直義務もある病院勤務ができるとは考えにくいのです。

 このウェブサイトで何度も繰り返しているように、日本の医療の最大の問題は「医師不足」です。レセプトのオンライン請求が義務化されるようになって、本来なら(他の職種なら)とっくに引退している年齢で頑張っておられる高齢の医師たちが医療をやめてしまえば、現在より深刻な医師不足となってしまいます。

 そのあたりを役人や日経新聞の論客はどのように考えているのでしょうか・・・

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2013年6月21日 金曜日

73 なぜ初診時に尿検査が必要なのか 2009/2/27

それは私が小児科でトレーニングを受けていた頃の話・・・。

 生後6ヶ月の赤ちゃんが発熱と皮疹で入院してきました。発熱はごく普通の咽頭炎が原因で、皮疹は単純な湿疹でしたが、出生時から体重が少し少ないこともあって、しばらく様子を観察するための入院となりました。

 入院してたしか3日目だったと思います。その赤ちゃんの親御さんが当時研修医だった私を呼び止めて強い口調で尋ねてきました。

 「なぜ、この病院では尿検査をしないんですか! 熱は下がってません。尿がいつもより臭いから異常があるんじゃないですか。採血よりもまずは尿をみてください! 尿は簡単に取れるでしょ!!」

 この患者さん(赤ちゃん)は、体表から血管が見えないため採血をするのも点滴をとるのも一苦労です。小児科の外来で私が採血をするときに一度失敗したこともあって、親御さんの立場からすれば、「痛い思いをこんな小さな子にさせるんじゃなくってまずは尿をみてほしい」という気持ちになられたのでしょう。尿の臭いがいつもと違う、ということをしきりに強調されていました。

 一方、医師側からみれば、入院時の尿検査では異常がなく、血液検査では少し気になる点があったので、引き続き採血をさせてほしい、という思いがあります。親御さんが「尿の臭いが・・・」というのは、そのときの状況で言えば、我々からみてあまり重要度が高くなかったのです。

 しかしながら、この親御さんの言われていることはもっともなことです。

 尿を採取するのは、採血とは異なり痛みがありませんし、費用だって血液検査と全然違います。もっとも簡単にできる検査なんだから、なんでもっと積極的にしないんだ、という気持ちになるのは当然でしょう。

 ******** 

 大きな病院でも小さなクリニックでも、初めて受診したときに受付で「尿検査をお願いします」と言われることが多いと思います。このとき、「今日は尿をみてもらいに来たわけじゃないのに、どうして尿検査が必要になるの?」と感じたことはないでしょうか。

 実は尿検査は、手軽にできて費用も安い上にたくさんの情報を得ることができます。ですから、どのような症状であったとしても、まずは尿をみることが診察の第一歩となることが多いのです。

 今回は、尿検査がどれだけ有用かという点についてお話したいと思います。

 まず、「手軽にできる」というのは説明不要でしょう。採血と違って”失敗”されることもありません。次に費用ですが、一般的な尿検査の場合、3割負担でおよそ90円です。(正確に言うと一般尿検査そのものの費用が80円、通常尿検査はその日に結果がでますから「迅速加算」というものが10円ついて合計90円となります)

 さて、簡単にできる一般尿検査でどれだけの情報が得られるかについては、実際の太融寺町谷口医院の患者さんを例にとってお話しましょう。(ただし、本人が特定できないように少々アレンジを加えています。似たような人を知っていたとしてもそれは偶然であることをお断りしておきます)

 まずは疲労感を訴えて受診した30代の男性です。アルバイト生活が長いため健康診断は受けていないと言います。初診時の尿検査で尿糖が2+、これだけで糖尿病であることが推測できます。その後の血液検査で糖尿病が確定し現在治療中です。

 もしもこの症例で尿検査をせずに、疲労感について延々問診をおこなっていれば糖尿病という診断にたどりつくまでにかなりの時間を費やしたかもしれません。

 次は、風邪でやってきた20代の女性です。これまで健康診断で異常を指摘されたことはないと言います。しかし、初診時の尿検査で蛋白が3+です。風邪とは関係ない可能性が強いですが、私は「最近むくみが気にならないか」聞いてみました。すると、「言われてみれば足がむくむような気がする。仕事が立ち仕事に変わったからだと思っていた」、とのことです。

 この患者さんには、風邪の治療をしてから、再度尿検査をおこなうとやはり蛋白尿が続いていました。今度は特殊な容器を渡し24時間尿をためてもらうと、多量の蛋白尿が検出されたため、腎臓専門内科のある病院を、紹介状を持って受診してもらいました。すぐに入院となりましたが、入院時の精密検査の結果、今後も経過観察が必要となるものの現時点では薬も不要、ということになりました。この患者さんは今も当院に定期的に通ってもらっていますが、蛋白尿は減少しており薬も不要の状態が続いています。

 30代女性のある患者さんが、めまいで受診されたことがあります。尿検査で白血球が3+だったため、尿を遠心分離して沈渣を顕微鏡で観察すると、やや重症の膀胱炎があることが分かりました。問診表には書いていなかったものの、「最近トイレが近くないですか」と聞くと、「なんで分かったんですか?! トイレに行っても少ししか出ないんです!」と答えられました。

 この患者さんの受診の原因であるめまいとは直接関係がありませんが、もし尿検査をしていなければ、せっかく医療機関を受診しているのに膀胱炎を見逃すことになったかもしれません。膀胱炎は重症化すると、細菌感染が腎臓まで到達し、発熱や高度の倦怠感を来たすこともあります。

 その他、水虫で来院した50代男性の患者さんの初診時の尿検査で血尿がみつかり、そこから膀胱癌が分かったケース、花粉症で来院した40代女性の尿検査でウロビリノーゲン尿が見つかり、そこから肝障害が分かったということもありました。

 ここでひとつ、注意点を述べておきます。尿検査は健康診断のときにも必ずおこないますが、労働安全衛生法で規定されている健康診断時の尿検査の項目は「蛋白尿」と「尿糖」のみです。したがって、上にあげたような、「尿中白血球」「血尿」「ウロビリノーゲン」などは、会社などでおこなう健康診断の項目には含まれていないことが多いと言えます。(福利厚生に力を入れている企業であれば、これらも検査してくれているかもしれませんが)

 手軽で安い尿検査をおこなうことで病気が早期発見できるかもしれません。我々は(特に初診の)患者さんを診るときには、そういうことを考えて尿検査をさせてもらっているのです。

注1 上に述べたように尿検査は大変便利で有用なものですが、患者さんに強要するものではありません。太融寺町谷口医院では、初診時の問診表で、尿検査を希望されるかされないかを確認するようにしています。

注2 尿検査で思いもしない病気が見つかった、という話をしましたが、厳密に言えば尿検査に関係ない症状で受診したときに尿検査をおこなえば「健康診断的な検査」とみなされ医療保険が適用されない可能性もあります。

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