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2015年10月20日 火曜日
第153回(2015年10月) iPS細胞の未来
今年(2015年)のノーベル賞は日本人が二人も受賞したこともあり大きく取り上げられました。ニュートリノが質量を持つことを発見した東大の梶田隆章博士の功績は科学史を書き換えるほどのものですし、イベルメクチンという寄生虫の薬を開発しノーベル生理学・医学賞を受賞された大村智は、我々医師からみると、世界で初めて抗菌薬を発見・開発したフレミングに匹敵するくらいの偉大な科学者です。
ノーベル生理学・医学賞といえば2012年には京都大学の山中伸弥先生がiPS細胞の発見で受賞されました。3年前のこの時期、日本中はiPS細胞フィーバーで盛り上がりました。山中先生は私の母校である大阪市立大学医学部で講師をされていた時期もありましたから(私も医学部3年生のときに講義を受けていました)、私の周りではしばらく山中先生とiPS細胞の話が耐えませんでした。
今回お話したいのは、タイトルのとおり「iPS細胞の未来」ですが、その前に、大村先生のイベルメクチンと山中先生のiPS細胞では、同じノーベル生理学・医学賞を受賞された偉大な功績であっても方向性がまったく異なる、ということを確認したいと思います。
大村先生が開発したイベルメクチンという薬は、世界中の寄生虫疾患で苦しむ大勢の人を救っています。現在では年間に3億人もの人がイベルメクチンを服用しており、それまでは有用な治療がなかったフィラリア症やオンコセルカ症が治癒する病気になりました。こういった感染症はアフリカで多く日本人にはあまりなじみがありませんが、イベルメクチンは疥癬というやっかいな感染症にもよく効き、これは日本でもおこりうる感染症です(これについては「はやりの病気2015年10月号」で取り上げています)。これほど有用な薬を開発した大村先生がノーベル賞を受賞されるのは当然ですし、これからも世界の多くの人々がイベルメクチンで命を救われることになります。
一方、山中先生のiPS細胞は”現時点では”多くの人を救っていません。しかし、これからの展開を考えると、iPS細胞はとてつもない可能性を持っています。イベルメクチンで命が助かった人数の何倍、何十倍もの人を救うことができるかもしれません。また、誤った方向に開発されたとすると、(私はキリスト教徒ではありませんが)神を冒涜するような結果となるかもしれません。
具体的に説明しましょう。iPS細胞とはどんな細胞か。一言でいえば、どんな細胞にもなれる細胞です。つまり、自分のiPS細胞があれば、それを筋肉細胞にすることも、神経細胞にすることも、皮膚の細胞にすることも可能なのです。これがどれだけ素晴らしい、またある意味では”恐ろしい”ことか分かりますでしょうか。
加齢黄斑変性症という放っておくと失明することもある目の病気があります。この病気、高齢化と共に患者数が急増しており、現在日本には約70万人の患者がいると考えられています。治療法はないわけではありませんが、何をしても失明が避けられないということもあります。しかし現在この疾患に悩む人には「希望」があります。iPS細胞を応用した治療が開始されだしたからです。
現時点では研究レベルの治療ですが、2014年9月、世界初のiPS細胞から作った網膜細胞を加齢黄斑変性の患者さんに移植する手術がおこなわれました。この手術を一言でいえば「患者さん自身の皮膚の細胞などからiPS細胞をつくり、そのiPS細胞を網膜細胞に分化させ、その細胞をダメになった古い網膜と取り替える」というものです。私が聞いたところによると、この手術を受けた患者さんは術後1年が経過した現在、経過は非常に良好だそうです。
現段階では実際に患者さんに移植手術をした疾患は加齢黄斑変性症だけです。しかしいくつかの疾患ではかなり研究が進んでおり、実用化が見えてきています。しかもそれら研究中の疾患は、これまでは有効な治療法がなかったものです。
パーキンソン病という脳内の神経がやられる細胞があります。パーキンソン病の薬はありますが、ずっと飲み続けなければなりませんし、その薬の副作用もあります。iPS細胞を用いて正常な神経細胞を作り直すことができれば完全に治すことも夢ではありません。そして実際にiPS細胞を用いたパーキンソン病の治療の研究はかなり進んできています。ただ、網膜とは異なり、脳全体を交換するわけにはいきませんから、脳内にiPS細胞由来の正常な神経細胞をどのように定着させるかが、おそらく課題になるであろうと思われます。
パーキンソン病を含む神経内科の疾患というのは大変興味深いのですが、今ひとつ医学生から人気がなく神経内科専門医を目指すという研修医はそれほど多くありません。その最大の理由は「有効な治療法がない」からではないかと私には思えます。純粋な学問としては神経内科の疾患というのは非常に興味深いのです。しかし疾患の多くはいくらか進行を食い止めることができたとしてもやがて進行していきます。
そんな難治性の代表性疾患がALS(筋萎縮性側索硬化症)です。病名に馴染みがないという人も宇宙物理学者のホーキング博士の病気と言われれば分かるのではないでしょうか。あるいは(現在40代以上の人であれば)「クイズダービー」の篠沢教授の病気を思い出されるかもしれません。パーキンソン病の場合は、まだ症状を緩和させる薬がありますが、ALSについてはほとんど何もありません。実際の治療にはまだ相当の時間がかかるでしょうが、iPS細胞を用いた治療の研究がすでに開始され注目されています。
病気というよりは怪我ですが、交通事故やスポーツ外傷などで脊髄が損傷し車椅子の生活を強いられることがあります。「脊髄損傷」通称「せきそん」は若い人が苦しむことが多く何十年も車椅子、あるいは寝たきりの生活になります。本人の精神状態はかなり苦しくなることもあり家族のケアも大変です。もしも脊髄の神経細胞が再生できたら・・・、というのはこの病気に携わる医療者の長年の夢でしたが、iPS細胞を用いれば完全治癒も期待できるのです。
「夢の若返り」と聞いてSTAP細胞で世間を騒がせた小保方晴子氏のことを思い出す人もいるのではないでしょうか。私も小保方氏の記者会見をテレビで見た時にこの言葉を聞いた記憶があります。その後のSTAP細胞を巡る流れのなかで、この言葉もいつの間にか世間から忘れ去られていますが、iPS細胞を用いれば「若返り」は可能です。しかも、先に述べた神経内科の病気や脊髄損傷の治療よりもおそらくずっと簡単です。
治療希望者の血液や皮膚の一部を使ってiPS細胞をつくり、それを皮膚に分化させ、加齢でしわとしみだらけになった皮膚を交換することができますし、AGA(男性型脱毛症)で禿げ上がった頭皮を10代の頃のようなフサフサの状態にすることもできます。どこまで実用化に近づいているかはわかりませんが、やろうと思えばそうむつかしくはないと思います。
若返りは美容だけではありません。心臓は休みなく働き続けやがて動かなくなります。どのような心臓も永遠に拍動することはありません。しかし古くなった時点でiPS細胞から新しい心臓がつくれるとすればどうでしょう。また、脳細胞が古くなり認知症の可能性がでてくれば、iPS細胞からつくった新しい脳細胞を注入できるとすればどうでしょう。心臓と脳を定期的に入れ替えることができるとすれば、永遠に死なない身体を手に入れることも可能ということになります。筋肉も皮膚も必要に応じて新しくしていくことはそうむつかしくはないはずです。あるいは、完全なクローン人間をつくることも理論的には不可能ではありません。
私が主張したい問題はここからです。現在iPS細胞については京都大学iPS細胞研究所(CiRA)が特許を取得しています。しかし、ライセンスを取得すれば研究をおこなうことができますし、ライセンスを取得している企業からiPS細胞を購入することも可能です。そもそも、特許があるからといってiPS細胞を用いた治療がすべて日本の企業主導となると考えるのは甘すぎます。
iPS細胞をつくろうと思えば、人の血液や皮膚の一部に「山中ファクター」と呼ばれる物質を振りかければそれでできてしまうのです。それからどのような細胞に分化させたいかによって手順が変わり、必要な薬剤もかわるわけですが、原理自体は、もはやそれほどむつかしいものではないのです。
これまで治療法がなかった疾患のみならず、美容や、不死身の身体、さらにクローン人間までつくることができる可能性があるとすると、これを放っておかない人間は世界中に存在します。そしてこのようなことを考える人間は善人ばかりではありません。例えばCiRAの研究員をカネやイロで懐柔しようとする者もでてくるかもしれません。これ以上は小説や映画の世界のような話になりますが、私はiPS細胞が悪用される可能性を否定できないと考えています。
そして最後に、現在日本がお金をつぎこむべき分野がiPS細胞であることを行政がどれだけ理解しているかが疑問であるということを指摘しておきたいと思います。iPS細胞の研究には莫大なお金がかかります。「一億総活躍」する必要はありませんが、iPS細胞に関心のある若い人たちに研究の場と予算を割り当てられるように国を挙げて取り組んでいく必要があるのではないか、それがiPS細胞に対する私の考えです。
参考:マンスリーレポート2012年10月号「山中先生から学んだこととこれからも学びたいこと」
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|2015年10月20日 火曜日
第146回(2015年10月) 疥癬(かいせん)と大村先生のノーベル賞
今年(2015年)のノーベル医学・生理学賞に北里大学特別栄誉教授の大村智先生が選ばれました。大村智先生はこれまではあまりマスコミで報道されることはなかったかと思いますが、我々医師や生物学者の間では知らない者はいないといっていい偉大な先生です。
ノーベル賞を受賞されてから各マスコミが大きく取り上げましたからおよその活躍は一気に日本全国に知れ渡ったと思います。どのマスコミも書いている内容は同じようなもので、伊東市のゴルフ場から採取した土に生息していた細菌(放線菌)から寄生虫の特効薬を開発され、それがいくつかの寄生虫疾患に有効で、特にオンコセルカ症という失明につながる感染症を防いだことがノーベル賞に値する、これまでこの薬(イベルメクチン)で助かった人は10億人にも上る・・・、とこんな感じだと思います。
たしかに、世界に発信する記事であればこれでいいと思うのですが、日本人が日本人向けに書く記事であれば、「日本では、イベルメクチンのおかげで疥癬(かいせん)の治療が大きく進展した」という内容のものが必要です。私の知る限り、大村先生のノーベル賞受賞後の一連の報道で疥癬に触れたものはありません。というわけで、イベルメクチンが疥癬に対してどれだけ優れた薬かということを今回は紹介したいと思います。
以前「ダニ」をまとめたコラム(注1)で紹介しましたが、疥癬はヒゼンダニというダニが原因です。ダニが来す感染症としては、ライム病や日本紅斑熱、あるいはここ数年で報告が増えたSFTSなどが有名でこれらは「マダニ」が原因です。これらは「ダニが病原体を媒介する感染症」なのに対し、疥癬は「ダニそのものが感染症」です。
またイエダニやシラミダニであれば刺されて痒みがでますが「それで終わり」です。痒みはかなり強いですが、ステロイド外用薬を数日間使えば治ります。したがって、これらは感染症ではなく単なる「虫刺され」です。一方、ヒゼンダニの場合は、ダニそのものが人の皮膚の下に潜り、そこに卵を産み付けます。卵が孵化して成虫になるとまた新たに卵を産むことになり、人の皮膚の下で世代交代を繰り返すことになります。つまりヒゼンダニの場合は虫刺されではなく「感染症」になります。
もっとも、ダニが皮膚の下で動き出すと強烈な痒みがでますから、「世代交代」をさせる前に患者さんは医療機関を受診することになり、体内に生息するダニを完全に退治する、つまり治療をおこなうことになります。
では体内に侵入したダニを駆除しましよう、ということになるのですが、これがむつかしいのです。正確に言えば、「大村先生が開発したイベルメクチンが登場するまではむつかしかった」となります。
疥癬というのは老人ホームや老人が多い病院で集団発生します。見舞いに来た家族や医療者に感染することもあります。こういった人たち(見舞いの家族や医療者)が自宅に帰り、自宅で家族に感染させることもあります。疥癬はタオルの共用などでもうつる可能性がありますし、性感染症のひとつでもあります(注2)。
ここでどのような場合に疥癬を疑うべきか、について述べたいと思います。疥癬が湿疹と異なるのは、まず夜間に激烈な痒みが起こるということです。ほとんどの湿疹や痒みをきたす疾患では昼よりも夜に痒くなりますが、疥癬の場合はその傾向が一段と顕著なのです。これはヒゼンダニが夜に皮膚の下で動き回るからです。
痒くなる場所は「皮膚の柔らかいところ」です。特に多いのが指と指の間の皮膚の薄いところで、ここに痒みのあるブツブツがある場合はまっさきに疥癬を疑います。また、陰嚢(男性)や外陰部(女性)の場合も疑うことになります。この場合は全体が痒いのではなく、陰嚢(または外陰部)の一部にできた「しこり」のような部分が痒くなっていることが多いと言えます。
診断は、その部分をピンセットで採取し顕微鏡で確定します。成虫や卵が見つかれば診断確定です。ただし、初期の場合はなかなか見つからず、何度も検査をして始めて確定診断がつくということもあります。
従来、日本の医療機関でおこなわれていた治療は、クロタミトンという塗り薬で商品名は「オイラックス」というものです。この薬は一応「効く」とされていますが、我々からみると効いているという実感がそれほどありません。実際、外国のデータで、「痒みをとる効果はなかった」とされているものもあります。
他の治療としては、過去にはイオウの入浴剤を使うという方法がありました。「ありました」と過去形になるのは、現在この入浴剤は販売されていないからです。この入浴剤、商品名は「ムトーハップ」と言いますが、これが販売中止となった理由は、なんとも理解しがたいというか、この製品を一生懸命に作っていた人たちからするとやりきれない思いがあるに違いありません。(この理由は今回の趣旨と関係がないためにこれ以上の言及は避けます(注3))
イオウの入浴剤がどれだけ効いていたかというと、私の経験でいえば「痒みが改善する」という人はたしかにいましたが、劇的に治るわけではなく、また「まったく効果がない」という人もいました。
海外ではγBHCという「農薬」が使われることがあり、日本でも医療機関が輸入すれば使えないことはないのですが、やはり皮膚に農薬を塗布するということに抵抗のある人は少なくなく、また実際に接触皮膚炎(かぶれ)が起こることもあり、なかなか使いにくいものでした。
このように何をやっても治癒させることがむつかしいのが疥癬で、そのうちに他人にうつしてしまってまた広がって・・・、ということがあり、本当に難渋する感染症なのです。しかも重症型(「ノルウェー疥癬」と呼ばれます)もあり、こうなると腎機能が低下し命にかかわることもあります。
しかし、大村先生の開発したイベルメクチンの登場で疥癬の治療がドラスティックに変わりました。2002年、糞線虫(注4)の治療目的でイベルメクチンが保険適用となったのです。しかしこのときの保険適用は糞線虫にだけであり、疥癬に対して使用するには自費診療となり1錠800円近くもしました。ただ、内服量は体重にもよりますが3~4錠を一気に一度飲むだけですから、数千円の出費で済みます(注5)。
いま、「数千円の出費で済む」という表現をとりましたが、これに反発したくなる人もいるでしょう。たしかに「数千円」とだけ聞くと「高すぎる!」と私自身も言いたくなります。しかし、疥癬のあの辛い痒みを考えると、「数千円でかゆみから解放されるなら安いもの」と思えてくるのです。それくらい、疥癬がもたらす眠れないほどの痒みは辛いものなのです。
そして2006年8月、ついにイベルメクチンが保険診療で処方できるようになりました。これで、疥癬の治療が随分と簡単になり、かつてのように難渋することはほとんどなくなりました。以前のように、リスクを抱えてでもγBHCを使うべきだろうか・・・、と悩む必要もなくなったのです。
大村先生の業績はアフリカで最も大きいのは事実ですが、日本の大勢の患者さんも救われているということをここで強調しておきたいと思います。
***************
注1:下記を参照ください。
はやりの病気第118回(2013年6月)「ダニほど誤解だらけの生物はいない」
注2:私が長年かかわっているタイのエイズホスピス「Wat Phrabhatnamphu(パバナプ寺)」でも疥癬の患者さんは非常に多く痒みで悩まされる人は耐えません。しかし、この施設ではヒト疥癬ではなくイヌ疥癬がほとんどです。イヌ疥癬のダニはヒトを刺しますが、感染はしません。つまりステロイド外用だけで改善します。なぜイヌに接するの?と思われるかもしれませんが、この施設では病棟にいつもイヌがいます。感染予防上よくないのでは?と感じられますが、「郷に入っては郷に従え」なのです。
注3:この理由については下記を参照ください。
医療ニュース2008年12月1日(月)「老舗の入浴剤「ムトーハップ」が製造中止に」
注4:糞線虫は世界的には重要な感染症で熱帯・亜熱帯地方では珍しくありません。一方、日本では九州南部から奄美、沖縄にはありますが、感染者の多くは高齢者であり増加してはいません。糞線虫の治療ももちろん重要ですが、なぜ製薬会社は初めから疥癬に対しても保険適用できるようにしてくれなかったのでしょうか・・・。
注5:保険診療と自費診療を組み合わせることは「混合診療」と呼ばれ禁じられている診療です。入院している患者さんにイベルメクチンを投与したとき、イベルメクチンが自費なのだから入院代も自費になるのではないかという疑問を私は過去にもったことがあります。しかし、本来の入院している疾患とは別のものと考え、疥癬だけを自費診療でおこなうと考えれば混合診療に該当しないと判断されるようです。ただし、疥癬の治療だけを目的として医療機関の外来を受診すれば診察代も含めてすべて自費になるはずです。こういう問題もあり、イベルメクチンが2006年以降疥癬の治療にも保険適用となり我々もほっとしています。
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|2015年10月9日 金曜日
2015年10月 英語の使用に反対する人たち
楽天が英語を社内の公用語にしたのは2010年頃だったでしょうか。当初は「現実的でない」「大事なことが伝わらない」など批判的な声の方が大きかったようですが、最近は英語公用化を評価する意見も増えてきていると聞きます。
その後、ユニクロのファーストリテイリングも英語を社内公用化したと報道されました。そして、2015年6月にはホンダが2020年を目標に社内公用語を英語にすることを発表し話題を呼びました。
私はホンダが英語の社内公用化に踏み切ったことが、日本のビジネス英語普及のターニングポイントになるかもしれないと考えています。楽天やファーストリテイリングというのは若い社員が多く、特に楽天はもともとITレベルの高い社員が集まっているでしょうから英語へのハードルはそれほど高くないでしょう。
しかしホンダはこれら新興企業とは異なります。日本を代表する自動車老舗メーカーのホンダはグループ会社も加えると従業員は20万人を超えます。20万人以上の従業員全員が、TOEICでハイスコアを取るようになり、会議はもちろん、もしも社内食堂での雑談まで英語を使うとなると、これは革命的なことになると思います。
日本で働きたいという外国人は少なくありませんが、ホンダはそのような外国人にとって超人気企業となるはずです。そして優秀な人材が集まるでしょう。海外での営業は英語力に秀でた日本人または外国人がおこないますから、他の日本の自動車メーカーよりもアドバンテージがでてきます。従業員全員が英語をスムーズに使えるとなれば社内伝達も早くなりますから、極めて効率よく世界をターゲットにした戦略がおこなえます。
しかしながら、楽天のときもホンダのときも社内公用語計画が発表されたときには、反対意見が目立ちました。不思議なことに、英語のできない人だけではなく、英語が堪能な知識人のなかにも「欧米の戦略にやられてしまう」とか「日本人が愚民化する」などということを言う人がいます。
はたして英語公用化が日本の経済界に普及したとき、反対派の人たちが言うような日本人にとって不利益なことが起こるのでしょうか。
ここで医療界の話にうつりたいと思います。
2015年8月、医師のコミュニティサイト「m3.com」で「英語で教授回診、カンファレンスを開始した理由」というタイトルで、大阪市立大学附属病院の一部の科では英語で会議がおこなわれていることが報告されました。
大阪市立大学医学部は私の母校であり、実は私が学生の頃からすでに一部の科では会議時に英語が使われており、医学生が会議で発表をおこなうときも英語が義務づけられていました。医学部の学生は、使用している一部の教科書や講師が配布するプリントには英語のものも少なくありませんから、少なくとも英語を読むということについては(苦手意識があるとしても)できないことはありません。というより英語がある程度できなければ医学部の勉強は続けられません。
けれども、会議時に英語で発表となると「自信があります」といえる学生はほとんどおらず最初は抵抗を示します。しかしこれは必ずやらなければならないことで「拒否する」という選択肢はありません・・・。この話の続きは後でおこなうこととして、英語公用化の反対意見についてみていきましょう。
大阪市立大学の報告をした「m3.com」は医師のコミュニティサイトであり、この記事を読んだ医師が自由に意見を書き込んでいます。それらを読んでみると、意外なことに英語での会議に反対する意見が少なくありません。反対するその理由をみてみると「英語ばかりに注意がいくようになり肝心の医学的内容がおろそかになる」「医学の質が英語よりも大事」などと述べられています。
大変興味深いことに、こういった反対意見は楽天やホンダの英語公用化が発表されたときにでてきた意見とそっくりです。楽天やホンダを含めて一般の企業に就職した人のなかには、それまでの人生で英語に接する機会がほとんどなかったという人もいるでしょう。しかし、医師の場合は、医師国家試験は日本語で出題されますが、6年間の勉強を英語の知識が低いまま続けることなど絶対にできません。その医師たちが一般企業の英語反対派の人たちと同じような理由で反対することが私には意外でした。
一般企業の英語公用化に私自身は賛成ですが、反対派の人たちの考えが分からないわけではありません。というのは、英語はまったくできないけれども、仕事がよくできて人望も厚い、人間的に大変尊敬できる人がどこの企業にもいるからです。その逆に、ネイティブスピーカー並みの流暢な英語を話すものの、中身が無くて、仕事ができない、人間的にも問題のある、いわば「英語はできるが日本語ができない」社員というのもおそらく多くの企業でみられます。
仕事ができて英語ができない派からすれば、英語社内公用化のせいで英語ができないと低い評価となるシステムになれば、英語ができて仕事ができない人たちを非難したくなる気持ちは充分に理解できます。
しかし、です。これは私の個人的意見に過ぎないかもしれませんが、英語が現時点でできない人はこれまで英語に接する機会がなかっただけです。もしくは接する機会があったけれどもそれをチャンスと見なすことができなかった、だけです。たとえていえば、生涯を共にすべきパートナーとの出会いのチャンスがあったのに、なぜかそのときは血迷ってしまい別のパートナーを選んでしまって後から後悔するようなものです。
考えてみてください。仕事ができて厚い人望があり人間的に尊敬できる人は努力を惜しみません。そのような人が英語の勉強を真剣にやってできないはずがないのです。逆に流暢な英語は話すものの中身がない人は、初対面の印象こそ悪くないかもしれませんが、その後は相手にされなくなるはずです。
というわけで、私はすべての人に英語の勉強をすすめたいと考えています。さて、一部の人が言うように英語を公用化すれば日本人は愚民化するのでしょうか。ここで再び大阪市立大学医学部の学生の英語での発表についての話に戻します。
私自身は英語は得意ではありませんが、医学部入学前は商社に勤めていて外国人を交えた会議などでは英語を使用しなければなりませんでした。ですから英語での発表と言われてもそれほど抵抗はなく、そのため何人かの同級生は私に助言を求めてきました。そこで私は、彼(女)らにまず発表する内容をすべて英語でつくるように助言し、それを添削しました。そしてできるだけシンプルな英文にして、それを暗唱するように言いました。
私自身も彼(女)らに言われて「なるほど」と思ったことがあります。それは英語で文章をつくる方が論理的に考えることができて、それまであいまいだったことがクリアになったというのです。日本語だけで言葉をつないでいくと曖昧な表現がいくらか含まれます。その曖昧さが日本語の美しさという考えもあるでしょうが、仕事で使う言葉では曖昧さを取り除かなければなりません。
医学の会議や学会では、最近はそれほど大きなものでなくても外国人が発表したり、海外からの留学生が参加したりすることもよくあります。一般企業でも、国内外にかかわらず会議に外国人が参加していることがすでに珍しいことではなくなっているでしょうし、今後も増えていくでしょう。
つまり、すでに世界共通語が英語になってしまっていると認識すべきです。これは医療界のみならず一般企業、一般社会においてもです。日本にやってくる外国人を意味する「インバウンド」という言葉は数年前までまったく聞かれないものでしたが、今や毎日のように新聞紙上で見かけます。そして、今後インバウンドはますます増えていきます。
携帯電話やインターネットがない時代に戻れないのと同様、英語を使うということからもほとんどの人が逃れられないというのが私の考えです(注1)。
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注1:今回のコラムでは英語の勉強法について述べていません。私が最も言いたいことは、上達度に差はあるものの英語は勉強すれば誰でも必ず上達する、ということです。効果的な勉強法については過去にコラムを書きましたので、興味のある方は下記を参照ください。
マンスリーレポート
2011年10月号「私の英語勉強法 その1」
2011年11月号「私の英語勉強法 その2」
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|2015年10月6日 火曜日
2015年10月6日 「酒さ」の原因は生活習慣と遺伝
医療者にとっては「よくある疾患(common disease)」と認識されているけれども、一般の人にはあまり知られていない病というのがいくつかあります。
酒さはそのひとつで、これを正しく読めない人もいるのではないでしょうか。酒さは「しゅさ」と読みます。英語はrosaceaで、無理矢理カタカナにすると「ロゼイシア」となります。
我々医療者が不思議に感じるのは、酒さを患っている患者さんは決して少なくないのに、なぜかマスコミなどであまり取り上げられず知名度が低いということです。
酒さとは一言で言えば「顔面に生じる慢性の炎症性疾患」です。単に赤くなるだけのこともあれば、一見ニキビのような小さな腫瘤ができることもありますし、重症化すれば鼻が変形することもあります。
原因については「不明」と言われることが多いのですが、おそらくそのことが原因ではないか、あるいは少なくともそれが悪化因子になっているだろう、という印象を受けるものはいくつかあります。
最も多いのがステロイド使用です。長期間ステロイド外用薬を顔面に塗布すると酒さが生じることがあるのです。ただし、ステロイドのせいで「酒さの様になった状態」は「酒さ様皮膚炎」と呼び、酒さと区別することもあります。興味深いことに、ステロイドによる酒さ(酒さ様皮膚炎)はステロイド外用を使用しているときだけでなく、中止した後に生じることもあります。そして治療に難渋します。また、ステロイドは外用だけでなく、過去に内服や注射をしていたことで酒さ(酒さ様皮膚炎)が生じることもあります。
ステロイドの使用以外の酒さの原因はいろいろあるだろうと考えられますが、実態はよく分かっていません。また遺伝的な要因もあるのではと考えられていますが、これまできちんとしたデータがありませんでした。
酒さの原因の46%は遺伝である・・・
このような研究発表がおこなわれ、医学誌『JAMA Dermatology』2015年8月26日号(オンライン版)に掲載されました(注1)。
酒さをきたす遺伝子が特定できたわけではありませんが、この研究では対象者を双子としているために信憑性は高いと言えます。対象者の双子は米国在住18~80歳の合計275組で、一卵性双生児が233組、二卵性が42組です。
研究の結果、酒さのリスクの46%に遺伝が関与していることがわかりました。遺伝以外のリスクとしては、生涯の紫外線曝露、加齢、肥満、喫煙、飲酒、心疾患、皮膚がんがあることがわかったそうです。
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現在の医療技術では遺伝子を変えることはできません。つまり46%の要因はどうにもならないわけです。しかし残りの54%は努力次第でリスクの減少を図ることはできます。たとえば、若いうちから紫外線対策をおこない、太らないように気をつけ、禁煙し、深酒をしない、といったことで酒さのリスクの半分を下げることができるわけです。
そして、これはおそらく酒さの診断がついた後も、こういったリスクの低減に努めることにより、完全治癒には至らなくとも改善させることが期待できると考えるべきです。
酒さは治療に時間がかかることもあり、諦めてしまっている人やドクターショッピングを繰り返している人が少なくありません。しかし、治療が功を奏し、「完治」にまでは至らなくてもかなり「いい状態」を維持できる人も多いのも事実です。様々な治療法がありますから、決して諦めるべきでない疾患です。
参考:トップページ「ニキビ・酒さ(しゅさ)を治そう」
注1:この論文のタイトルは「Genetic vs Environmental Factors That Correlate With RosaceaA Cohort-Based Survey of Twins」で、下記のURLで概要を読むことができます。
http://archderm.jamanetwork.com/article.aspx?articleid=2429555&resultClick=3
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|2015年9月28日 月曜日
2015年9月29日 どのような人がお酒を飲み過ぎるのか
成功者は飲酒過多になる可能性が高い・・・。
最近、いくつかのマスコミでこのようなことが主張されており、どうやらその根拠としているのは医学誌『BMJ Open』2015年7月23日号(オンライン版)に掲載された1つの論文(注1)のようです。
この論文は、イングランド在住の50歳以上の男女9,251人が対象とされた研究に基づいています。きちんと読むと、決して「成功者」のリスクが高いと言っているわけではなく、もう少し細かく見ておいた方がいいでしょう。そこでこの論文の要旨をまとめておきたいと思います。
まず、どの程度のアルコールを飲むと健康被害のリスクが生じるか、についてです。下記のように「単位」に基づいてまとめられています。3単位に相当するのが、ワインであればグラス1杯、ビールであれば1pint(約473mL)です。
・低リスク:男性は週に21単位以下、女性は週に14単位以下。
・中リスク:男性は週に22-50単位、女性は週に15-35単位。
・高リスク:男性は週に50単位以上、女性は週に35単位以上。
どのような人で飲酒過多のリスクが高くなるかについては男女で差があります。
女性の場合、興味深いことに「(仕事から)引退していること」「収入が高いこと」が飲酒過多のリスクとなっています。50歳をピークとして(49歳以下はこの研究では検討されていない)年をとるにつれてリスクは減少しています。また、介護を担っている人(原文では「caring responsibility」)はリスクが低いようです。
男性は女性とは異なる点がいくつかあります。まず、年齢のリスクは50歳から上昇し、60代半ばがリスクのピークとなり、その後は減少していきます。独身者や離婚をしている場合はリスクが上昇しています。そして子供と同居している場合や孤独を感じている場合はリスクが減少する(意外!)としています。また、年をとり収入が減ればリスクも減少していくようです。
興味深いことに、孤独感や抑うつ感(loneliness and depression)は男女とも飲酒過多とは無関係のようです。
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いくつかの日本のマスコミが「成功者は飲酒過多になる」と報じたのは、この論文の一部を取り上げたからです。収入があれば外で飲酒することができますし、購入して家で飲むこともできますから、飲酒機会が増えるのは当然といえるでしょう。この研究では男女とも年をとり収入が減るにつれて飲酒量が減っていると述べています。
さてこの研究全体をどう解釈するか、ですが、まずどこの文化にも同じことが当てはまるとは思わないことです。実際、論文の著者も「イングランド以外のイギリス(UK)では検討していない」ことをこの論文の限界と述べています。イングランドと他のイギリスの地域(スコットランド、ウエールズ、北アイルランド)でも差がでるでしょうが、日本との差はもっと大きいはずです。
特に、この論文を読んで私が意外に思ったのが、男性の孤独感(loneliness)が飲酒過多のリスクを下げるとしていることです。独身者や離婚者は飲酒過多につながりやすいとしている一方で(これは理解できます)、リスクを下げる要因として、子供との同居(これも理解できます)の他に孤独感があげられているのです。そして、男女とも孤独感や抑うつ感は飲酒過多のリスクにはならないとされています。日本では孤独感や抑うつ感から飲酒に走る人は少なくありません。
また、男女ともリタイヤ(退職)することがリスクにつながるとしており、この理由として著者らは「時間に余裕がある」ということを考えています。しかし、日本では仕事上での「つきあい」の飲酒も問題になります。
私個人の見解を述べれば、あまり「〇〇の人は飲酒のリスクが高い」と考えるのでなく、週にどれくらい飲酒すれば健康被害を生じる可能性があるかをひとりひとりが主治医に相談すべき、ということです。特に先に述べた週に50単位(男性)35単位(女性)を超えている人は一度かかりつけ医と話をすべきでしょう。
注1:この論文のタイトルは「Socioeconomic determinants of risk of harmful alcohol drinking among people aged 50 or over in England」で、下記のURLで概要を読むことができます。
http://bmjopen.bmj.com/content/5/7/e007684.abstract?sid=13b88d12-f978-4bfd-820c-9504345d9862
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|2015年9月28日 月曜日
2015年9月28日 「情け」をかければ社会不安障害が改善
「社会不安障害」という精神疾患をご存知でしょうか。「社会恐怖」とも呼ばれるもので、人から注目を浴びるかもしれないという状況のなかで生じます。
軽症であれば、軽度の緊張感・不安感程度で済みますが、重症化してくると、顔面紅潮、手足の震え、声が出なくなる、発汗過多、胃痛・下痢などの身体の症状も伴うようになります。このため、精神科ではなく(当院のような)総合診療の医療機関を受診する患者さんが少なくありません。
早めに相談してくれればいいのですが、なかには自分でなんとかしようと考え、アルコールに走る人がいます。そしてアルコール依存症、さらにうつ病を発症する人もいます。
この疾患の生涯有病率は低くなく、米国のある調査では2.4~13.3%とされています。日本では1.4%とする報告があります。
今回紹介したいのは「他人に親切にすれば社会不安障害が改善する」という研究です。医学誌『Motivation and Emotion』2015年6月5日号(オンライン版)に論文が掲載されています(注1)。
この研究は、カナダ・ブリティッシュコロンビア州のサイモンフレーザー大学(SFU、Simon Fraser University)の研究者によりおこなわれています。社会不安障害の診断がついている学生115人が研究の対象者です。
115人がランダムに3つのグループにわけられています。1つめのグループ(38人)は4週間にわたり「他人に親切にする」を実行しました。2つめのグループ(41人)は「寄付などの行為」(原文では「exposure only」とされています。おそらく他人とコミュニケーションをさほどとらない慈善行為のことを指しているのだと思われます)をおこないました。3つめのグループ(36人)は「日記を付ける」ことをおこないました。つまり3つめのグループは「対照群」です。
その結果、1つめのグループと2つめのグループ共に、3つめのグループに比べて社会的交流を避けたいという気持ちが減少しました。特に1つめのグループ、つまり「他人に親切にする」を継続したグループでは社会不安障害の症状が大きく改善したようです。
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太融寺町谷口医院に社会不安障害で受診される患者さんは社会人がほとんどです。最もよくあるのが「今度朝礼でスピーチをしなければならない・・・」とか「次の会議でプレゼンをしなければならない・・・」というケースです。
こういったケースでは、一時的に不安を和らげる薬や心拍数をおさえる薬を本番の30分くらい前に内服してもらっています。これでうまくいくことが多いのですが、このような薬に頼る方法を繰り返すのもよくありません。
2015年9月号の「マンスリー・レポート」で、私は「情けは人の為ならず」を実行すれば自分自身がお金に困らなくなり社会全体が理想的なものになる、ということを述べました。私個人の意見としては、社会不安障害がある人のみならず、すべての人が他人に親切にする社会をつくるべきだと考えています。
注1:この論文のタイトルは「Kindness reduces avoidance goals in socially anxious individuals」で、下記のURLで概要を読むことができます。
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|2015年9月20日 日曜日
第145回(2015年9月) 髄膜炎菌による髄膜炎
あまり大きく報道されなかったようですが、2015年8月に山口市で開かれた第23回世界スカウトジャンボリー(WSJ2015)に参加したイギリス人(スコットランド人)3人とスウェーデン人1人が帰国後に髄膜炎菌による感染症を発症していたことが分かりました。
この大会はいわばボーイスカウトの世界大会で、世界162の国と地域から約3万人(日本人は約6千人)が参加しており、参加者の大半は14歳~17歳の少年(スカウト)です。感染者は4人とも日本で感染したと見なされています。国立感染症研究所によりますと(注1)、幸いなことに4名とも速やかに治療がおこなわれ軽症で済んだようです。
今回は「髄膜炎菌」の話をしていきたいと思いますが、その前に「髄膜炎」と「髄膜炎菌」の言葉を整理しておきたいと思います。ここを曖昧にしておくと必ず混乱します。
まず「髄膜炎」というのは髄膜に生じる炎症のことですが、これではわかりにくいので「髄膜」のおさらいから始めましょう。脳と脊髄には外側に「膜」があります。膜は三重構造になっていて、外側から「硬膜」「クモ膜」「軟膜」と呼びます。「髄膜」は「クモ膜」と「軟膜」の総称です。その「髄膜」に炎症がおこった状態が「髄膜炎」というわけです。
髄膜の炎症は一気に広がることが多く、なんらかの原因で脊髄の髄膜の一部に炎症が生じるとその炎症は脳の髄膜に及びます。そうなると高熱、嘔吐、頭痛などに苦しめられることになります。髄膜炎の原因としては感染性が最も多く、細菌性、ウイルス性、真菌性、寄生虫性、結核性(結核菌は細菌ですが臨床上は他の細菌性と分けて考えます)に分類できます。非感染性の髄膜炎としては腫瘍性(脊髄腫瘍など)、膠原病など自己免疫疾患によるものなどがあります。
今回とりあげるのは、感染性髄膜炎のなかの細菌性髄膜炎の原因のひとつである「髄膜炎菌」の話です。「髄膜炎を来す原因は多数あり、感染症はそのひとつ。感染症をきたす病原体のなかに細菌があり、その細菌性髄膜炎の原因のひとつに髄膜炎菌がある」ということです。決して「髄膜炎=髄膜炎菌」ではありません。
一方、髄膜炎菌は髄膜炎以外の感染症を起こさないのか、というとそうではなく、当院の例でいえば長引く咽頭痛の原因に髄膜炎菌性のものがあります。髄膜炎菌は特徴的なかたちをしているので(注2)、のどの赤いところを綿棒でぬぐって顕微鏡で観察すると見つかることがあります。顕微鏡だけでは100%断定できるわけではないため培養検査という精密検査をおこない確定します。
つまり、細菌性髄膜炎の原因には多数あり髄膜炎菌はそのひとつに過ぎない、一方で髄膜炎菌が起こす感染症は髄膜炎のみならず、咽頭炎なども起こしうる、ということです。
髄膜炎菌が重要なのは「重症化」があるからです。特に10~20代では注意が必要で死亡することもあります。日本ではかつて終戦前後には年間4千例以上の感染の報告がありましたが、2000年代は10人程度です。しかし2000年代になってからも集団感染の報告、そして死亡例もあります。
2011年5月、宮崎県の高校で寮生活をしていた4人の生徒が髄膜炎菌に感染し、うち1人が死亡しています。冒頭で紹介したイギリス人とスウェーデン人は多くの10代の生徒が集まる場で感染し、宮崎県の症例は寮で感染しています。これらが示しているように、髄膜炎菌による感染症の最も典型的なパターンがこのケース、つまり10代の生徒が集まる場所での発生です。したがって、国によっては寮に入るのに髄膜炎菌のワクチン接種が必須の条件とされています。特にアメリカではこのルールが厳格です。日本人がアメリカのハイスクールに留学するときには(州にもよりますが)通常は髄膜炎菌のワクチン接種をしていることが入寮の条件となるのです。
しかし、このアメリカの制度、少し前まで日本人には多いに問題でした。というのは日本には正式に認可された髄膜炎菌のワクチンがなかったからです。このため、どうしても米国のハイスクールに行きたいという人は、危険を抱えて輸入モノの未承認ワクチンを接種するしか方法がなかったのです。
2015年5月、ついに日本国内で髄膜炎菌のワクチンが発売となりました。誰がこのワクチンを接種すべきかということを考えていきたいのですが、その前に髄膜炎菌がどのようなものなのかもう少し詳しくみておきたいと思います。
髄膜炎菌の感染はおそらくほとんどは飛沫感染だと思われます。最初に咽頭に感染し、成人の場合は、先に例を述べたように「長引く咽頭痛」などの症状から見つかることがあります。咽頭炎でとどまらない場合、菌は血中に浸入します。そして大量に増殖すれば菌血症または敗血症といって血液中に大量の髄膜炎菌が生息する状態となります。そして一部の菌が髄液に入り込み髄膜に炎症をきたすと髄膜炎となります。こうなると生命に関わる可能性もあります。
なぜか髄膜炎菌性の髄膜炎は10代から20代に多く発症します。このため髄膜炎菌のワクチンを定期接種としている米国では、1回目を11~12歳時に接種し、追加接種を16歳時におこないます。しかし10歳未満なら髄膜炎菌が怖くないというわけでは決してありません。それ以下の小児で致死的な感染症を起こすこともあります。
髄膜炎菌の重症化の例で医学の教科書によくでてくるのが「ウォーターハウス・フリーデリクセン症候群」と呼ばれるもので、数日の間に一気に重症化し症状が全身に及び四肢を切断しなければならないような場合もあります。私自身はこういった症例を直接診察したことはなく、論文や学会の症例報告で見聞きしたことがあるだけですが、これほど急激に進行し死に至る病、たとえ死を免れたとしても四肢を切断しなければならない感染症というのもめったにありません。しかも10歳未満の小児にもおこるのです(注3)。
さて、どのような人がワクチンを接種すべきか、ですが、その前にワクチンの種類について簡単に説明しておきます。従来海外でよく使われていた髄膜炎菌のワクチンは「ポリサッカライドワクチン」(多糖類ワクチン)と呼ばれるもので、このタイプのワクチンは、結論をいえば強い免疫ができずに有効期間が短いという欠点があります。
この欠点を克服したものが「結合型ワクチン」と呼ばれるもので、従来のポリサッカライドワクチンに特殊な蛋白を結合させたものです。日本で発売になった髄膜炎菌ワクチンはこのタイプです。結合型ワクチンは(B型肝炎ウイルスなどのように)一度抗体ができると長期間免疫が成立するという長所があります(注4)。しかし短所として価格が高いという問題があります。
髄膜炎菌のワクチン接種が望ましいのは、国内外を問わず寮などの集団生活をおこなう10代から20代前半の生徒・学生ということになります。クラブの合宿などでも検討すべきでしょう。
あと2つあります。
ひとつはアフリカ大陸に渡航するときです。特に「髄膜炎ベルト」と呼ばれるアフリカの中央部(西はセネガルから東はエチオピアやスーダン)では髄膜炎が猛威を振るっていて、毎年数万人が罹患し、数百人から多い年は数千人もの死亡者が報告されています。
もうひとつは、イスラム教のメッカ巡礼(「ハッジ」と呼ばれます)の時期にサウジアラビアへ入国するときです。これは自らの感染予防というよりは、サウジアラビアから求められるからです(注5)。つまり髄膜炎菌のワクチン接種をしたことの「証明書」がなければ入国を拒否されることがあるのです。
これだけ世界中で人の流れが活発になると、もはや「日本にはない(少ない)感染症だから・・」というのがワクチンをうたない理由にならないと考えるべきでしょう。有効なワクチンのある感染症に罹患した人は「あのとき接種しておけばよかった・・・」と必ず後悔します。
感染症対策の基本は「自分の身は自分で守る」です。今回紹介した髄膜炎菌を含めて接種すべきワクチンがないかどうか、各自がよく考えるべきです。
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注1:詳細は国立感染症研究所のサイトに記載されています。興味のある方は下記URLを参照ください。
http://www.nih.go.jp/niid/ja/bac-megingitis-m/bac-megingitis-iasrs/5878-pr4272.html
注2:髄膜炎菌は細菌学上の分類では「グラム陰性双球菌」となります。これはグラム染色という特殊な染色をおこなうとピンク色に染まる菌で、まん丸の菌がペアで観察されます。ただし、グラム陰性双球菌が見つかると直ちに髄膜炎菌確定というわけではありません。性的接触で感染する「淋菌」もこのグループに入り、実際、髄膜炎菌と淋菌は顕微鏡の検査だけでは鑑別がつきません。
注3:ではこの疾患の可能性を回避するために幼少時にワクチンをうつべきでないのかという意見がでてくるかもしれませんが、いまのところ推奨されてはいません。
注4:少し詳しく述べると、ポリサッカライドワクチンは、接種してもT細胞という免疫を司る細胞が刺激されず、そのためメモリー細胞という細胞がつくられず免疫の記憶が成立しません。一般的な不活化ワクチン(たとえばB型肝炎ウイルスのワクチン)ならば、メモリー細胞が残っていますから血中の抗体が消えていても免疫応答が可能なのです。
注5:このように「接種していないと入国できないワクチン」をrequired vaccine(要求されるワクチン)と呼びます。他には一部の国の黄熱ワクチンが相当します。また、本文に述べたようにアメリカのハイスクールで求められる髄膜炎菌ワクチンやその他ワクチン(麻疹やB型肝炎ワクチンも入学の条件になっていることが多い)も広義ではrequired vaccineということになるでしょう。
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|2015年9月20日 日曜日
第152回(2015年9月) 医師とMRの「齟齬」~薬を減らすということ~
たしか2年ほど前のある休診日のことです。その日は複数の製薬会社のMR(「医薬情報担当者」という表現が正しいとされていますが、簡単に言えば「営業職」のことです)との面談をおこなう日でした。
医師とMRはあまり近づきすぎない方がいいのですが、私としては製品に対する複雑な質問があるときや、新製品についてプレゼンテーションをおこなってもらうときなどに太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)に来てもらっています。
その日、あるMRにこのようなことを言われました。「〇〇(薬の名前)は、この地域で先生(私のこと)の処方量が一番多いんです」。そのときのそのMRは満面の笑みを浮かべいかにも嬉しそうでした。私はこの言葉を聞いたとき、心の奥からある種の不快感がこみ上げてきたのですが、その感情を奥に押しやってMRの立場になって考えてみました。
おそらくこのMRの言いたいことは、「ありがとうございます。先生(私のこと)のおかげで売り上げも伸びて私も社内で鼻が高いです。これはいい製品ですので、これからもどんどん処方していってください」、とこのようなことだったと思います。
これはMRの立場になれば分からないことはありません。私も自分がMRであれば同じようなことを考えると思うからです。製薬会社は資本主義の中に存在するひとつの企業ですから売り上げを伸ばさなければ存続できませんし、新しい薬の開発もできません。ですから”ある程度は”<売り上げ重視>になるのはやむを得ません。
しかし我々医師は違います。私がそのMRに言われて「不快感」を覚えたのはその点にあります。私はこのように感じたのです。「私の処方量が多いということは、他の医療機関では、薬を使わずに生活指導がうまくいっているのではないか・・・。私は薬に頼りすぎているのではないか・・・」
医師のミッションは「薬を処方すること」ではなく、「いかに薬を減らすか、あるいは初めから薬を使わない」であり、MRとは向いている方向が正反対なのです。(もしもこのようにMRに褒められていい気分になる医師がいるとすれば、その医師は直ちに医師を辞めて製薬会社に転職すべきです)
薬というのはどのようなものでも使わない方がいいに決まっています。ただ、ここを「決まっています」で終わらせると一種の「感情論」になってしまいますので、少し詳しくみておきます。
メディカルエッセイ第129回(2013年10月号)「危険な「座りっぱなし」」(注1)で、「生死にかかわる疾患」の分類をおこないました。ここでもう一度振り返ってみたいと思います。
生死にかかわる疾患 = ①感染症 + ②生活習慣に関連する疾患(脳卒中、心疾患、悪性腫瘍など) + ③一部の遺伝的疾患 + ④一部のアレルギー疾患・自己免疫疾患 + ⑤外傷・事故 + ⑥自殺・他殺 + ⑦その他
これは「生死にかかわる疾患」です。この分類を元に「すべての疾患」をまとめなおすと⑦「その他」の割合が増えることになります。そして⑦「その他」には、頭痛、めまい、便秘・下痢、胃炎、じんましんなどの慢性疾患やうつ病、不安神経症、統合失調症、薬物依存症などの精神疾患が多くを占めます。
また「すべての疾患」は「生死にかかわる疾患」と比べると⑦「その他」以外にも割合が増えるものがあります。「生死にかかわる疾患」では、①「感染症」と②「生活習慣の関連する疾患」でほとんどを占め、他は無視できるほど低頻度です。一方、「すべての疾患」では、①②も多いのですが、さらに④(喘息やアトピー性皮膚炎などの)「アレルギー疾患」、⑦「その他」も高い割合を占めます。
では、「すべての疾患」で多いもの(①②④⑦)で薬を使うべきかどうかについてみていきましょう。
①「感染症」では、たとえば結核やHIV、マラリアなどでは薬が必ず必要になります。(ただしこれらの疾患は感染後の薬を考えるのではなく「予防」をしっかりおこなうことが重要です) しかし、これら一部を除く多くの感染症では薬は必須ではありません。よく言われるように、ウイルス性の感染症には抗菌薬は無効(というよりも有害)ですし、細菌性のものであっても必ずしも抗菌薬が必要になるわけではありません。実際私は、健康な方の急性感染症の場合、程度がさほど深刻でなければ、細菌性を疑っても、それが咽頭炎でも腸炎でも膀胱炎/尿道炎でも、抗菌薬の処方をせずに治す方法を考えます。
②「生活習慣に関連する疾患」についてはどうでしょう。これら疾患は、具体的には、糖尿病や高血圧、高脂血症といった生活習慣病が大半を占めます。谷口医院は大阪市北区という都心部に位置していることもあり、転勤などで新しい患者さんがよく来られます。そのときにこれまで内服していた薬を聞くことになりますが、たくさんの薬を飲んでいる人には「1つでも薬を減らす努力をしましょうね」という話をします。初めからこういう考えに好意を持ってくれている人が谷口医院に集まるということかもしれませんが、私のこの提案はほとんどの患者さんが受け入れてくれます。
そして実際に多くの人が薬を減らすこと、あるいは完全にやめることに成功しています。また、元々谷口医院で診ていた患者さんで、生活習慣病の薬が必要になった場合でも、日々の食事や運動をしっかりおこなってもらうことで薬の中止に成功したケースも多数あります。
④「アレルギー疾患」については、禁煙や規則正しい生活といった生活習慣の見直しに加え、「生活環境」の見直しをおこなうことにより大きく薬を減らすことができます。ペットとの共存における工夫、ダニやハウスダストの対策、汗対策、職場での環境対策などをおこなうことで劇的に薬が減る人も少なくありません。⑦「その他」の慢性疾患も同様で、規則正しい生活を徹底するだけで薬がゼロになる人もいます。
ここで、私の考えを後押ししてくれそうなデータを2つ紹介したいと思います。ひとつめは薬剤費です。厚生労働省の資料によりますと、年間の薬剤費は約8.5兆円(2012年度)にも上ります。日本の人口を1億2千万人とすると、ひとりあたり、実に年間70,800円ものお金を使っていることになります。これは薬代だけです。医療費全体で考えると年間の医療費は40兆円に迫る勢いですから、減らすことができる薬剤があるなら当然減らすべきです。
もうひとつは、日本薬剤師会が発表しているショッキングな数字です。同会によると、75歳以上の在宅患者の残薬(処方されたが飲まなかった薬)はなんと年間475億円にも上るそうです。475億円というこの金額は保険料や税金から捻出されているのです。しかもこの数字には75歳未満の在宅患者や、全年齢の通院患者の分は含まれていません。
私はこれまでこのサイトで「セルフ・メディケーション」と「Choosing wisely」(不要な医療をやめる)という2つのキーワードについて述べ、これらの重要性をウェブサイトを通して伝えていくことを今年(2015年)の目標にしました(注2)。しかし、2015年も残りわずかとなってしまっているのにまだ準備段階の域を抜け出せていません・・(注3)。
先日患者さんに対してある薬の説明をしているとき、冒頭で述べたMRの言葉を思い出しました。私がそのMRに”褒められた”原因の薬がその薬だったからです。私はそのとき患者さんに次のように言いました。「今はこの薬が必要ですが、近い将来中止できるように日常生活でできることをやっていきましょう・・・」
この私の言葉は私自身への戒めでもあったのです・・・。
******
注1:メディカルエッセイ第129回(2013年10月)「危険な「座りっぱなし」」を参照ください。
注2:「開業9年目に向けて(2015年1月)」を参照ください。
注3:これについては未完成のものでもなんとか年内に公開したいと考えています。
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|2015年9月11日 金曜日
2015年9月 お金に困らない生き方~4つの秘訣~(後編)
今回は「お金に困らない生き方」の最終回として3つめと4つめの秘訣を述べたいと思います。前々回、前回に引き続き、今回も私がタイで見聞きしたエピソードが中心となります。「もうタイの話は聞き飽きた」という人も今しばらくおつきあいください。
3つめの秘訣は「情けは人の為ならず」です。このことわざ、以前私はあまり好きでなかったのですが、最近はどうもこれは世の中の”真実”であるのではないかという気持ちになってきています。
説明していきたいと思いますが、その前にこのことわざの意味をはき違えている人が少なくないという新聞記事を以前読んだことがあるので、念のため正しい意味の確認からしていきたいと思います。その記事によると「情けは人の為ならず」を「他人に情をかけることはその人の為にならない。だから他人に同情するな!」という意味と思っている人が少なくないそうです。
もちろん正しくはまったく逆で「誰にでも親切にしなさい。そうすると、いずれ自分が困ったときに助けてくれるものですよ。だから情をかけるのは<他人>のためでなく<自分>のためなんですよ」という意味です。(「国語学者」からみると幾分ずれているかもしれませんが、私の解釈で大意は合っているはずです)
では本題に入ります。以前私がなぜこのことわざを好きでなかったかというと、なんとなくエゴイスティックなイメージがあったからです。あとで見返りを期待して他人に親切にすると言っているように聞こえて、「あ~、なんか打算的でイヤな考え」と思っていたのです。
しかし「情けは人の為ならず」を社会の構成員全員が実践していたとすればどうでしょう。そして、それがタイなのです。誤解のないように言っておくと、私はタイがパラダイスと言っているわけでは決してありません。タイ人と仕事をしたことがある人には同意してもらえると思いますが、あの「いい加減さ」についていける日本人はあまりいません。これからタイ人の優しさについて述べていきますが、一方で平気で仲間を裏切るタイ人は少なくありませんし(裏切られた方もいつのまにか許しているのがタイ人の魅力のひとつかもしれませんが)、彼(女)らは借りたものは返しませんし、嘘をよくつきますし、義理・人情というものがあるのかないのかよく分かりません。
タイ人は男性でも女性でも、仲良くなるとすぐに「家に遊びに来い」とか「親戚が来るから一緒にご飯を食べよう」とかいいます。そして一緒に食事をすると、だいたい日本人が全額払わされることになります。経済格差がありますから、これは当然と言えば当然かもしれません。我々日本人が理解しがたいのは、彼(女)らがお礼を言わないことです。(このような機会でお礼を言われたとすれば、そのタイ人は日本文化を知っていると考えるべきです)
タイ人の感覚は「お金は持っている者が払うもの」というものです。では、私に(日本人に)おごってもらう人たちはいつも他人の善意に頼っているのかというとそうではありません。彼(女)からみて困っている人に対しては手を差し伸べるのです。
深夜、バンコクの繁華街では、男性なら薬物のディーラーかジャンキー、女性ならセックスワークをしているだろうと思われる不良タイ人にイヤでも遭遇します。そんな彼(女)らが悪人かといえばそうは思えません。彼(女)らがホームレスに果物やご飯を恵んでいる光景をしばしば目にするからです。
「タイでホームレスや障害者からお金を求められても無視するように」と言う日本人がいます。しかし、実際にホームレスや障害者をしばらく観察していると、タイ人、それもスーツを着た富裕層ではなく、低い層と思われる男女がそのような社会的弱者にお金をあげているシーンを目にします。
では、ホームレスや障害者の人たちは恵んでもらうだけかというと、そうではないのです。彼(女)らは野良犬にご飯をあげています。つまり、タイでは社会を構成するすべての階層のひとたちが、困っている人(犬)たちに何らかの手を差し伸べているのです。
そして、以前は自分よりお金を持っていた人が何らかの理由で転落したときには、今度はその人を助けようとします。これは、私の印象でいえば、日本人が感じる「恩返し」とは少し異なります。「恩を返す」あるいは「借りを返す」というものではなく、あたかもそれが「当然」という感じなのです。
東日本大震災が起こったとき、バンコクではBTS(モノレール)の主要な駅周辺に募金箱が置かれました。BTSの料金は冷房なしのバスの何倍もしますからある程度の富裕層しか使わない乗り物です。このとき、庶民的なタイ人たちはBTSを利用するわけでもないのに駅まで来て募金をしてくれたのです。「困っている人は放っておけない」という感覚が自然に身についているのかもしれません。
タイは特に地方に行けば日本よりもはるかに貧しく、また格差はすさまじいものがあり日本の比ではありません。生活保護などの公的扶助は日本とは比較にならないほど貧弱です(ただし医療費は無料です)。しかし、自殺する人は非常に少ないですし、最近よく聞く「孤独死」もおそらくほぼ皆無でしょう。
「情けは人の為ならず」をただひとり実践したとしても社会は変わらないかもしれません。しかし、良貨は悪貨を駆逐します。(これは私があえて「誤用」している言葉で、正しいことわざは「悪貨は良貨を駆逐する」です。念のため) 私はタイの文化をみて「情けは人の為ならず」が「非現実的な理想」ではなく「真実」であると考えています。真実であるならば、少しずつ草の根レベルで他人に広めていけばいいのです。つまり「情けは人の為ならず」を実践し続けることでそれが真実であることに気づく人が増え、結果として「お金に困らない」=「お金がないときも他人に頼れる」社会になると思うのです。
「お金に困らない」4つめの秘訣は「健康」です。健康を損なえばお金に困ることがあります。またまたタイの話で恐縮ですが、北タイ在住のある日本人男性の話をしたいと思います。この男性に私は会ったことはありませんが、チェンマイでは有名のようで、作家の下川裕治氏はこの男性を実名をだして著書で紹介しています(注1)。沖縄出身で東京で飲み屋をやっていたこの男性はチェンマイが気に入り移住したそうです。しかし持病の腎臓病が悪化し人工透析が必要になってしまいました。
人工透析はかなりの高額が必要になり、日本で治療を受けた場合、実際は保険や公的扶助で自己負担はあまりありませんが、透析の費用だけで月あたり40~50万円程度かかります。タイで透析を受けるとなると自費診療となりますから10万円以上は必要になります。このような高額な費用を払い続けることはできません。下川氏によると、この男性は月額7万円の年金で楽しく暮らしていたそうです。前回も述べたように月7万円もあれば贅沢しなければ北タイでは充分に暮らしていけます。しかし透析代が必要となるとすぐに破産してしまいます。下川氏は「乞食をやってもチェンマイにいる」とこの男性に言われ、言葉をなくしたそうです。
タイを含むアジア諸国で老後をまったり過ごす予定だったけれども、現地で病気を患って帰国せざるを得なくなった。あるいは、海外に旅立つ前に持病が悪化し夢を諦めなければならなくなった、という話はそう珍しくありません。
比較的よくある疾患が、生活習慣病(特に糖尿病)や悪性腫瘍です。HIV感染も珍しくありません。ちなみに抗HIV薬はタイでは日本よりも格段に安く入手できますが、それでも(円安の影響もあり)月に1万円以上はします。しかも、この安い薬剤が副作用で使えなくなったり、他の病気を併発したりすると、日本に帰国せざるをえなくなってきます。
さて、3回にわたり、私が思う「お金に困らない秘訣」を述べてきました。「年金」「倹約」「情けは人の為ならず」「健康」がその4つです。振り返ってまとめてみると、「日頃から健康に気をつけ、倹約に努め、年金は遅滞なく支払い、困っている人がいれば手を差し伸べる」となります。
どこかで聞いたことがあるようなないような・・・。もしかすると小学校の道徳の時間に習ったようなことかもしれません。つまり、「道徳的に生きること」が結局のところ「お金に困らない生き方」につながる。それが私の考えです。
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注1:私の記憶はいい加減ではありますが、下川裕治氏は確実にこの男性を著作で紹介しています。けれども、私はこのコラムを書くにあたり、本棚をひっくり返し下川氏の10冊以上の本を手にとってみたのですが結局見つかりませんでした・・・。どこか海外のホテルにでも忘れてきたのでしょうか・・・。ただ、この日本人のことを自身のブログで書かれていました。下記URLを参照ください。
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|2015年9月4日 金曜日
2015年9月5日 立ちっぱなしも健康にNG?
「座りっぱなし」が生活習慣病の大きなリスクとなり、規則正しい生活を心がけようが定期的な有酸素運動をおこなおうがそのリスクが減るわけではないとする研究もある、という話を過去に何度かおこなってきました。
ならば立ちながら仕事をすればいいのでは?となるわけで、私もそのように思っていたのですが、「立ちっぱなしの仕事が健康に被害をもたらす」という研究がでてきました。
医学誌『Human Factors』2015年6月5日(オンライン版)に掲載された論文(注1)によりますと、1日5時間の立ちっぱなしの仕事をおこなうと下肢筋肉の疲労を引き起こし、腰痛や筋骨格障害のリスクが高まる可能性があるとしています。
この研究はスイス連邦工科大学(ETH, Eidgenössische Technische Hochschule)の研究チームによっておこなわれています。対象者は男性14人、女性12人で、半分が18~30歳、残りの半分は50~65歳です。過去に神経障害や筋骨格障害がないことが条件で、前日の激しい運動は控えてもらっています。
対象者全員に工場でおこなうような軽作業をシミュレートしてもらっています。5時間の立ちっぱなしの業務の間、何度かの5分間の休憩と30分の昼食休憩が設けられています。
姿勢の安定と下肢の筋力を計測し、対象者には不快度を答えてもらっています。結果、年齢・性別にかかわらず、作業日の終了時に著しい疲労を感じていることがわかりました。
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この研究、きちんとした医学誌に掲載されたこともあり興味を持ったのですが、対象者が少なく、長期間での検討がなされていません。日頃、立ちっぱなしになる習慣のない人が5時間も立ったままの仕事をやらされれば不快感を自覚するのは当然のことであり、日頃使っていない筋肉に負荷をかけることになるでしょうから、筋力低下が生じるのも十分理解できることです。
座りっぱなしの危険性が指摘されるのは、生活習慣病のリスクが上昇するということ、食事や運動を改善させても座りっぱなしのリスクが軽減されない可能性があること、です。立ちっぱなしに健康被害があることを証明するには、長期間の観察が必要なのは当然であり、さらに一時的な筋肉の疲労などではなく(これらは慣れると改善する可能性が高い)、生活習慣病の罹患率や死亡率との関連を調べなければなりません。
一方で、今回の論文では触れられていませんが、「下肢静脈瘤」が立ちっぱなしの仕事をしている人に多いのは自明です。つまり、立ったままじっとしていれば下肢にたどり着いた血液が戻りにくくなりうっ滞し、その結果下腿がむくみ心臓に戻れなくなった血液が静脈を太らせるようになるのです。これを解消するには、足踏みをする、(可能なら)そのあたりを動き回る、などの工夫が必要です。
立ちっぱなしの健康被害を総まとめする必要がありそうです。
注1:この論文のタイトルは「Long-Term Muscle Fatigue After Standing Work」で、下記URLで概要を読むことができます。
http://hfs.sagepub.com/content/early/2015/06/05/0018720815590293.abstract
参考:
メディカルエッセイ第129回(2013年10月)「危険な「座りっぱなし」」
医療ニュース
2014年8月22日「運動で「座りっぱなし」のリスクが減少する可能性」
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