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2013年6月17日 月曜日
11 経験多い医師ほどダメ医者?! 2005/3/15
先日、Annals of Internal Medicineという有名な医学雑誌に、The Relationship between Clinical Experience and Quality of Health Careというタイトルで、非常にショッキングな論文が掲載されました。なんと、「経験年数の多い医師ほど医療ケアの質は低い」ということが、これまでにきちんと認められている59の論文をメタ分析して明らかになったというのです。メタ分析というのは、簡単に言えば、しっかりとした論文を複数集め、それらを総合的に評価して分析するという方法です。このAnnals of Internal Medicineという雑誌は、世界中で最も有名な医学雑誌のひとつで、しっかりと科学的に分析・考察された論文だけが掲載されます。
この論文によると、経験年数の多い医師は、標準的治療を行わずに、知識レベルも低下している、とのことです。本当にこんなことがあるのでしょうか。しかもこれは米国の医師の話です。私はこの論文のタイトルをみたときに、日本の医師を批判する論文なのではないかと思いました。というのは、日本の制度では、一度医師国家試験に合格してしまえば、その後必ず受けなければならない試験というものはないからです。このため、なかには卒業と同時にほとんど勉強しない医師もおり(私の周囲にはいませんが)、一定期間を経るごとに試験に合格しなければ、医師免許を剥奪される欧米やオーストラリアとは勉強に対する姿勢が違うのではないかと思ったからです。
しかし、この論文では米国の医師を対象としています。なぜ、このようなことが起こるのでしょうか。この論文によると、経験年数を経れば経るほど、標準的な治療をおこなわなくなり、知識そのものも低下するとのことです。今の私にはなぜこのようなことが生じるのかよく分からないのですが、私なりに推測してみたいと思います。
まず、経験を積めば積むほど、教科書に書いてある知識よりも自分の経験に頼ることが多くなる傾向にあるということが予想されます。例えば、経験のある医師であればあるほど、患者さんを一目見ただけで診断をつけることができたり、わざわざ全身を診察して、教科書的には必要とされている検査をしなくても治療を開始できたりということがあることが想像できます。そして、これが思わぬ落とし穴になることがあるのかもしれません。
また、知識そのものが低下するという点においては、研修医あるいは、10年目以内くらいの医師であれば、日々勉強に勤しみますが、それ以上になると、毎日勉強するという習慣がなくなるのかもしれません。もちろん、こういうことはその医師によります。私が現在、臨床を習っている何人かのベテランの先生方は、常に新しい治療法や検査法の勉強をされています。一方、まだ研修医のくせにろくに勉強せずに、患者さんを積極的に診ようとしない医師もいます。だから、この論文が示しているように、経験年数の多い医師ほど知識不足というのは、全体から統計的にみた結果であって、すべての医師に言えるわけではないものと私は考えます。
だから、もしかかりつけ医を探そうとしている人がおられたら、単に「経験の多い医師を信頼する」とか、その逆に「アメリカの有名な論文で発表されたんだから、あまり経験の多い医師はやめておこう」とか、そういうことを考えるのではなくて、そういう先入観を持たずに、自分の目で、その医師が名医かそうでない医師かを判断するしかないと思います。
もしも気軽に雑談できる医師がかかりつけ医なら、この話をしてみるのもいいかもしれません。勉強熱心な医師なら、この論文の存在を知っているかもしれませんから、意見を聞いてみてはいかがでしょうか。
もうひとつ、最近発表された論文で気になるものがあったので紹介したいと思います。それは、日本看護協会が発表した「新卒看護職員の早期離職等実態調査」という速報です。これによると、就職後1年以内で離職する新卒看護職員が増加してきている、とのことです。
またこの速報には、新卒看護職員に対する悩みに関するアンケート調査も報告されており、悩みの第1位は「配属部署の専門知識・技術の不足(76.9%)」で、2位が「医療事故への不安(69.4%)」、3位が「基本的な看護技術が身についていない(67.1%)」とのことです。これをみたときに私は看護師の大変さを痛感しました。2位の「医療事故への不安」は当然だとしても(これは研修医にも言えることです)、1位の「専門知識・技術の不足」や、3位の「基本的な看護技術が身についていない」などというものは、新人看護師なら当然のことだからです。
看護師になりたての新人が、いきなり専門知識・技術を持っていたり、高度な看護技術を持っているはずがありません。こんなこと誰が考えても分かります。もちろん看護学校のときに、病院内での実習はありますが、それだけでベテラン看護師と対等の、知識や技術が身につくはずがありません。
にもかかわらず、このような回答が多いということは、新人なのにもかかわらず、実際の現場ではそれ相応のものが求められているということなのでしょう。これでは、就職後1年以内に離職する看護師が増加するのも無理はありません。せっかくやる気があっても、就職と同時に高度な専門知識や技術が要求され、それに応えられないと離職に追いやられる・・・、あきらかに異常です。
実際、新人看護師が辞めようと思った理由の第1位は「自分は看護職に向いていないのかと思う」だそうです。いきなり高度な知識や技術が求められてそれに応えられないと、そう思うのも仕方ありません。
2つの論文の趣旨だけをつなげてみると、医師は経験の多いほど能力が低く、やる気のある新人看護師はどんどん離職する・・・・、ということになってしまいます。これを端的に考えると、ある患者さんが手術をしてもらうために入院したときに、経験の少ない若い医師に手術をされて、術後のケアは年老いた看護師にしてもらう・・・ということになってしまいます。経験の少ない医師に手術されることほど不安なことはないでしょうし、また年老いた看護師だけにケアされるのもまた不安なものです(一般に若い看護師の方がすぐにベッドに駆けつけますし、患者さんからすると若い看護師には言えてもベテラン看護師には言えないこともあるのです。実際患者さんと話しをしていると人気のあるのは若い看護師の方が多いものです。もちろんその看護師によりますが・・・)
さて、冗談はさておき、この2つの論文の大事な共通点を述べることにします。それは、医師も看護師も、さらには薬剤師や検査技師など他の医療スタッフも、常に高度な知識や技術を要求されているということです。
今から医師を目指す人、また他の医療スタッフを目指す人もこれは覚えておいてください。医療に従事する以上は、生涯勉強を強いられます。医学部受験や看護大学の入試よりも、また医師国家試験や看護師国家試験よりも、仕事を始めてからの方が、はるかに多くの勉強をしなければなりません。こんなこと好きでないとできません。医療に興味がなくて、なんとなく資格がほしい、とか、収入がよさそうだからといった理由で、医療従事者を目指すととんでもないことになります。短い人生を無駄にしないように、進路選択は慎重に!!
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|2013年6月17日 月曜日
10 過去問やってますか? 2005/3/2
『偏差値40からの医学部再受験』で、過去問が有用な理由をさんざん述べましたが、これを読まれている受験生の方は、どれくらい過去問に取り組まれたでしょうか。
先日、過去問の有用性を証明するような記事が新聞に掲載されましたので、今日はそれを紹介いたします。
2005年2月9日の日経新聞朝刊に、「35問中33問昨年と同じ」という記事が掲載されました。記事によりますと、静岡県の県立高校の国語の試験問題で、35問のうち33問が昨年と同じ問題を出題するミスがあったとのことです。もちろん、こんなことが発覚すれば静岡県教育委員会も放っておくわけにはいきません。国語のみの再試験をおこなうことになるそうです。
「過去問を中心に勉強した人は、高得点を取れただろうが、結局再試験になるんだから何も得をしてないじゃないか」、そう思われる人もいるでしょう。しかし、私が言いたいのは別のところにあります。
この高校は今回の出題ミスについて説明をしていますのでそれを紹介しましょう。同校によると、「複数作成した原案の中に前年度の設問が紛れ込んでおり、これらの中から一番完成度が高いものを選んだところ、ミスが起きてしまった」ということです。さらに、試験後に採点した教員が同校のホームページで前年度の出題を確認するまで、ミスに気付かなかったというのです。また、試験問題は同校の教員が作成し、校長らが点検したとのことです。
つまり、同校のコメントを別の観点からみてみると、「質の高い問題を出題しようと思えば必然的に同じような問題に集中してしまう」ということになります。
相変わらず、私のところに届く受験生の方々からの質問は、「谷口先生はもともと頭がよかったから、偏差値40でも医学部にいけたんですよ」とか、「暗記だけで医学部に合格できるはずがありません」といった内容のものが多くあります。けれども、そんなこと言う前に、たとえ確信が持てないとしても、一度は赤本の暗記というものをやってみればどうでしょうか。やってみると、それほどたいしたことはないのです。これも何度も言ってますが、過去問の暗記なんて、社会に出てから経験する苦労に比べれば何でもありません。
それに、私はもともと頭がいいわけでは決してありません。たしかに、ほとんど勉強しなくてもテストだけはいい成績という人がたまにいます。こういう人は、いったん気合いを入れて勉強すると、短期間で難関な大学に合格する人もいるようです。だいたいこの手の人は理科系に多く、英語が苦手で数学が異常によくできるというタイプです。しかし私の場合は、普段からまったく勉強していなかったというわけではなく、実際、勉強すればそれなりに点の取れる英語が最も得意科目(といっても偏差値50から55程度)で、数学や物理はそれなりに勉強しても高くても偏差値40台でした。また、一般的にもともと頭の良い生徒というのは現代国語(古文や漢文は除く)はできるものですが、これも私の場合は、なにしろ現役時のセンター試験の国語が200点満点中68点でしたから、話になりませんでした。特に長文(論説文)は、与えられた文章が、何が書いてあるのかさっぱり分からなかったのです。
数学にしても、物理にしても(私は医学部受験時は生物に変えましたが)、暗記中心の勉強で医学部程度なら合格できるのです。たしかに国語の場合は多少の時間がかかりますが、さまざまな文章を読むことにより、ある程度は自然に成績が上がっていきます。
さて、話を少しグローバルな方向に向けてみましょう。先日OECDが、世界各国の15歳の学力の国際比較を発表しました。2000年の成績に比べて、日本は、読解力が世界8位から14位へ、数学的リテラシーは1位から6位へ落ちたということで、マスコミ各社が一斉に、日本人の学力低下が深刻であるといった報道をしました。(ちなみに科学的リテラシーは2000年と同様2位、今回から調査の始まった問題解決能力は4位です。)
また、日本だけの調査においても、10年前に比べて、各科目とも成績が落ちているそうです。
しかしながら、マスコミががなりたてるほど、この学力低下というのは本当に嘆かわしい問題なのでしょうか。それに、確かに数字だけを見れば国際比較で落ちているようですが、別の見方をすれば、落ちたといっても読解力で世界14位です。これがサッカーの国際比較で14位なら、多くの人が大喜びするはずです。
私の意見としては、読解力が世界14位でOK、というものです。人間の能力や国際力というものは読解力だけで決まるものではありません。勉強の好きな人間は勉強すればいいし、スポーツで生計を立てたいなら、勉強はできなくてもかまわないと思います。そもそもこの統計に私が納得できないのは、全15歳児を対象にしているからです。勉強の好きな15歳だけを集めてこの比較をやり直すと、全然違った結果になるかもしれないではないですか。
10年前に比べて学生の学力が落ちているという意見にしても、私の意見としては、10年前に比べていろんな方向で勝負する若い人達が増えたことは喜ばしいことと考えます。例えば、高校大学で好成績を残す学生が、生涯にわたってやりたい仕事をしているわけでも、高収入を得ているわけでもないことに気づいた人が増えてきています。そういう人達は、早い時期から手に職をつけることに専念したり、大学に行かずに海外へ渡り語学をマスターしたりしています。
これは私の知人の知人の話ですが、その男性は、中学卒業と同時にオーストラリアに渡り、英語をマスターしました。その後はタイに行って、今度はタイ語を覚えました。今では英語にもタイ語にも不自由しなくなり、タイの日系企業からひっぱりだこです。あまりにもタイ語ができるので、例えば日本の外国語大学でタイ語を勉強した人よりも高収入の仕事をしているのです。おそらくこの人が、学力調査の試験を受ければそれほど高い得点が取れずに、「学力の低い嘆かわしい若者」となるでしょう。しかし彼にしてみればそんなこと、大きなお世話以外のなにものでもないわけです。
さて、このあたりで今日の話をまとめてみましょう。まず、「勉強したくない人はしなければいい」ということを確認したいと思います。嫌いなことをイヤイヤやって、いいことがあるはずがありません。本人も周囲も不幸になるだけです。だから、これを読まれている人のなかにも、なんとなく医学部に行きたいけど本当は勉強が嫌いという人は、今すぐ医学部受験を中止して、ほかのことを見つけましょう。
「何がやりたいか分からない」という意見もよく聞きますが、実はそういうときこそがチャンスなのです。あまり興味がなくても、いろんな仕事やアルバイトや、場合によってはボランティアなんかも試してみてはどうでしょうか。いろんなことをしていると価値観が変わったり、視野が広がったりして、思いもしなかったことに興味を持てるようになることも多々ありますから。
次に勉強が好きな人、特に医学や医療に興味のある方は、現在の成績に関係なく、医学部を目指しましょう。私のように高校時代に偏差値40でも、国語の点数が200点満点の68点でも、過去問の暗記中心の勉強法で充分に合格できるわけですから。
ただし、くどいようですが、本当に興味があるのかどうかは確認しておきましょう。よく、「医学には興味があるけど勉強は嫌い」という人がいますが、これはダメです。この人が医学に興味があると言っているのは「嘘」です。こういう人は、医者というイメージに憧れているだけであって、医学に本当に興味を持っているわけではありません。一応言っておくと、医者というのは、医学部受験時よりも医学部に入ってからの勉強の方がずっと大変ですし、医学部在学中の勉強よりも医者になってからしなければならない勉強量の方がずっと多いわけですから。
けれども、本当に医学や医療に興味のある人が医者になれば、これほど幸せなこともありません。日々好きな勉強ができて、勉強したことが直接仕事に役立つわけですから。
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|2013年6月17日 月曜日
9 コエンザイムQ10の弊害 2005/2/11
最近やたらと「コエンザイムQ10」の名前を聞きます。私は、この物質は医学部の2回生の生化学の講義で「ユビキノン」という名前で教わりました。体中のすべての細胞に含まれる補酵素で、加齢とともに減少していくそうです。現在どこの健康食品メーカーも躍起になって販売しており、その謳い文句をみると、「老化を防げる!」「心臓が元気になる!」「絶大な抗酸化作用がある!」「ダイエットにも効果あり!」「美肌にかかせない!」など、少し言いすぎだなと思われる表現も見られます。
こういう物質はまだまだ解明されていない部分が多いですが、いくつかの調査で有用性が確認されていますから、積極的に摂取したいと考える人は多いでしょう。しかし、最近病院を受診する人のなかで、このコエンザイムQ10を摂取したことが原因の人が少しずつ増えているような印象を受けます。
それは、コエンザイムQ10を摂取したことが原因で生じる薬剤性肝炎です。特に自覚症状はないのだけれど、健康診断の血液検査で肝臓の数値が高いと言われた、という人を調べてみると、このサプリメントが原因で肝臓を悪くしたという症例があるのです。サプリメントも含めて、どのような薬品を摂取してもアレルギーや、湿疹、そして肝炎などが生じる可能性があります。市場に出回っているサプリメントは数多くありますが、最近特に目立つのがこのコエンザイムQ10です。
私は、コエンザイムQ10を摂取すべきでない、と言っているわけではありません。ただ、肝炎などのリスクがあるということを充分に理解してから摂取する必要があると言いたいのです。それから販売する側も、販売する際にはこのようなリスクがあるということを必ず伝えてもらいたいのです。
患者さんに話を聞いていると、特にひどいと思われるのが、一般の薬局に置いてない海外メーカーのものを取り扱っている販売員です。とにかく体にいいからと、積極的(あるいは強引に)購入をすすめている販売員もいるようです。我々医師は患者さんに薬を処方する際、頻度の高い副作用についてはきちんと説明する義務がありますが、サプリメントの販売員はそのようなことを考えないのでしょうか。薬剤ではないといえども、サプリメントは体に有用な作用をもたらす反面、副作用にも注意しなければならないのです。
あるとき、健康食品の販売をしている人と話をしていたときに、「医学部では栄養学を勉強しないから、医者は栄養学を分かっていない。サプリメントのことなら医者よりも自分達の方がよく知っている」と言われたことがあります。
これほど大きな誤解もないでしょう。そもそも「医学部では栄養学を勉強しない」などということをどこで聞いたのでしょう。もちろん医学部でも栄養学を勉強します。たしかに「栄養学」という講座はありませんが、生化学や公衆衛生学のなかでしっかりと勉強してテストにも出題されます。コエンザイムQ10にしても「ユビキノン」という名称で習っています。「それだけでは不充分ではないのか」と言われるかもしれませんが、それを言うなら、内科にしても整形外科にしても皮膚科にしても医学部で学ぶ範囲だけでは不充分すぎて、とても実際に患者さんを診察することはできません。
大学では基本的なことだけを学び、その後は自分で勉強するものなのです。勉強というのは教科書を読むのはもちろんですが、論文を読んだり、学会や研究会に出席したりということもあります。それに医者どうしの会話のなかから新しい知識を得ることも毎日のようにあります。
私は「医者は健康食品の販売員よりも偉い」と言っているわけではありません。私が知らない最新のデータを健康食品の販売員が知っていることもあるでしょう。しかし、あたかも医者を敵対視するような考えは改めてもらいたいのです。我々医師は、常に健康に関する情報を求めています。ですから、健康食品の販売員の方からも学べることは学びたいですし、逆に学びたいことがあると言われれば喜んで知識をお伝えいたします。
摂取する側にも問題があります。自分が摂取するサプリメントの基本的な知識はしっかりと持っていなければなりません。「自分にはむつかしすぎる・・・」と思うならば、自分の主治医に相談すべきです。患者さんと話をしていると、正しい知識をもって正確に摂取していると思われる人もいますが、何の知識もなく他人にすすめられたから、という理由でやみくもに摂取している人が少なくありません。これは危険です。
問題だなと思うのは、どうやら患者さんの中には「サプリメントを飲んでいることを医者に言うと怒られる」と考えている人がいるらしく、そういう人はサプリメントを服用していることを医者に隠す傾向にあります。実際、私が診察した、コエンザイムQ10により薬剤性肝炎を発症した患者さんも、そう考えていたらしくてなかなか話してくれませんでした。
これは非常に危険なことです。この薬剤性肝炎のケースもそうですが、薬とサプリメントを併用することによって生じる危険性も問題です。例えば、セント・ジョーンズ・ワートというサプリメントがあります。これは別名オトギリソウと呼ばれている植物で、抗うつ作用があることから注目されています。実際ドイツでは抗うつ薬として医者が処方しているそうです。
ところが、この薬草は同時に服用してはならない薬品がいくつかあります。心臓の薬や喘息の薬、それに偏頭痛の薬などで医者が頻繁に処方している薬剤と併用すると、重篤な副作用が出現することがあるのです。このセント・ジョーンズ・ワートというサプリメントは特に海外の健康食品の会社から発売されているものが日本でも出回っているようです。
先日、ビタミンEに関する有害性が発表されて話題になりました。ビタミンEをたくさん摂取している人は、そうでない人に比べて死亡率が10%も増えることが分かったのです。日本ではビタミンEの1日の上限を1000mgとしていますが、この研究によると、1日に267mg以上摂取している人が危険だと言うのです。一般の薬剤もそうですが、サプリメントなどはまだまだ研究段階で、いったん有用とされたものが後に危険だと分かったということが多々あります。サプリメントを摂取する人も販売する人も常にこういう情報に敏感であらねばなりませんし、摂取によるリスクを背負わなければならないのです。
サプリメント(健康食品)の摂取を考えている人は、できるだけ医師に相談する必要があると私は考えています。販売員が医者を信用していなかったり、摂取する人が医者に内緒にしたりするのは、医療不信が背景にあるからかもしれません。しかし摂取する人の健康を考えた場合、医師、販売員、患者の三者が協力していく必要があるのは間違いないでしょう。
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|2013年6月17日 月曜日
8 専門医とプライマリケア医 2005/2/3
私が2年前にタイのエイズホスピスに行ったときのこと。そこで2年以上ボランティアとして働いているベルギー人医師に「何科のドクターですか?」と聞くと、「GP(general physician)」という答えが返ってきました。去年の夏、再び同じエイズホスピスに行ったとき、同じようにボランティアで働いているアメリカ人に同じ質問をしてみました。すると返ってきた答えはまたもや「GP」でした。
日本の医者に同じ質問をすればどうなるでしょう。「GP」と答える医者はほとんどいないでしょう。この「GP」という言葉は日本では一般的ではないかもしれません。同じような意味で「プライマリケア医」「総合診療科医」「家庭医」などといった言い方があります。けれどもこういう答え方をする医者もあまりいないでしょう。
実は欧米では、循環器内科医、整形外科医、などと同系列に「GP」という立場があるのです。一例としてUKのシステムを紹介しましょう。UKでは医学部を卒業と同時に、「GP」になるか専門医になるかを決めなければなりません。GPを選択すれば、各科のcommon diseaseを一通り勉強することになります。専門医を選択すれば、ひとつの科を特化して勉強することになります。専門医として認められるようになるにはかなりの修行をつまなければならないのですが、これをクリアすれば、「心臓外科医」とか「脳外科医」などといった称号を与えられることになります。どの専門医を目指すかによって、研修というか修行する期間、要するに専門試験を受けるまでの期間が決められており、例えば脳外科専門医を目指すのであれば、10年間以上も研修期間が必要となります。
一方日本では、医学部卒業と同時にひとつの医局に入局するのが一般的です。医局というのは「整形外科」とか「血液内科」とかひとつの専門分野に特化した診療科のことです。2004年から卒後研修が必須化され、卒後2年間はすべての医師は、プライマリケアを主体とした研修を受けなければならないということになりましたが、結局2年たてばほとんどの医師はどこかの医局に入局することになると言われています。それに研修期間の2年間も、1年近くは自分の決めた専門の科だけの研修を受ける研修医が多く、充分にプライマリケアを履修できるわけではありません。
つまり、日本のシステムでは、プライマリケアを主体とした2年間の研修が必須化されたとはいえ、ほとんどの医師は専門医になるというわけです。このため大病院の勤務医はもちろん、多くの開業医でさえ、自分の専門の領域しか診ることができないという事態にあるわけです。
日本ではプライマリケア医(GP)がまったくいないのかというとそういうわけではありません。例えばアメリカでプライマリケアの実習を受けた後、日本で開業している医師や、日本で積極的にプライマリケアを勉強して地域のかかりつけ医になっている医師も確かにいます。しかし数はそれほど多くはないでしょう。
患者さんの意識の点からみてみても、プライマリケア医という言葉がまだまだ一般的には普及していないことからも分かるように、多くの人は何か病気になれば専門医を受診しようとします。なかには単なる風邪でも大病院の専門医を受診しようとする人もいます。とりあえず近くの開業医の内科を受診しようとする人もいて、地域の開業医の医師がプライマリケア医の立場にあることもありますが、すべての開業内科医が、自分の専門分野以外の領域も診ようとしているわけではありません。
したがって、風邪をひいたことをきっかけに近くの内科開業医を受診したときに、ついでに以前から気になっている、例えば、腰痛、水虫、ニキビ、残尿感、めまい、抑うつなどを相談しようと思っても、他科を受診するように言われることも多いのです。
これでは患者さんは、自分の体のことで多くの科の主治医をもたなければならないことになります。今の例で言えば、この患者さんは、内科の他に、整形外科、皮膚科、神経内科、泌尿器科、精神科の主治医をもたなければならないことになります。
大病院にいけば、すべての科があるから、大病院を自分のかかりつけの病院にしようと考える人もいるでしょう。しかし最近では、大病院を受診する際には、開業医で紹介状をもらってくるように注意されますし、紹介状なしで受診を希望すると、1500円から10000円程度のお金が余計にかかります。それに大病院でこれだけの科を受診しようとしても1日では不可能です。ひとつの科を受診するための待ち時間も相当長くなります。
ではどうすればいいかと言うと、それは「プライマリケア医のかかりつけ医をもつこと」です。そしてそのかかりつけ医に健康や病気のことを何でも相談してみることです。プライマリケア医は、特定の疾患の専門医ではありませんから、もしも気になっている症状が専門的な治療を要するものであれば、そのプライマリケア医では充分に治療することができません。しかし、その場合プライマリケア医は適切な大病院や専門医に紹介状を書くことになります。紹介状があれば、大病院の受診もスムーズになるわけです。
実際にプライマリケア医のみることのできる疾患はどれくらいあるのか疑問に思われる方もおられるでしょう。とりあえずプライマリケア医を受診したけど、紹介状を書いてもらうだけで、ほとんど治療してもらえず、結局二度手間になってばかりでは意味がないからです。
実は、全疾患のおよそ9割程度はプライマリケアの範疇だと言われています。例えば、めまいを例に考えてみましょう。めまいというのは原因が様々で、人によって受診しようとする科はまちまちです。(目が舞うから)眼科、耳鼻科、脳外科、内科、神経内科など同じめまいでも人によって考えている専門家が違います。もちろん立っていられないようなめまいであれば、直ちに救急車を呼んで適切な病院へ搬送してもらうべきですが、それほど重症でもない場合は、まずはプライマリケア医を受診するのが賢明です。実はめまいを訴える人の大半はプライマリケアの範疇なのです。
最も賢く医者を受診するためには、プライマリケアを自分のかかりつけ医にすることが最善の方法だと私は考えています。
もちろん、日本中のすべての医師がプライマリケア医になっては困ります。専門的治療のできる医師が不在では治る病気も治らなくなってしまからです。プライマリケア医も専門医も両方が必要とされているのです。
例えが悪いかもしれませんが、コンビニを考えてみましょう。コンビニでは日常生活で必要なものの多くを買うことができます。だから必要なものがあれば、とりあえずコンビニに行ってみようとなるわけです。しかし、コンビニでは新鮮な魚介類を買うことはできませんし、パソコンも売っていません。書籍もごくわずかしか置いていません。したがって、高級で鮮度の高い魚を買うためには、魚屋に行く必要がありますし、同様にパソコンならパソコンショップ、書籍なら本屋に行くでしょう。これらを同時に求めようと思えば百貨店に行けばいいわけです。
つまり、この例では、コンビニがプライマリケア医、魚屋・パソコンショップ・本屋が専門医、百貨店が大病院ということになります。コンビニだけですべてまかなえるかというとそうではないように、プライマリケア医だけでは不充分で、プライマリケア医と専門医が協力しあうことによって最も効果的な治療がおこなえるわけです。最初にプライマリケア医を受診して、大病院あるいは専門医に紹介されそこで手術を含めた専門的な治療を受け、症状がよくなったので再びプライマリケア医が経過をみる、という流れが最も効果的なのです。
そして最近では、専門医はさらなる専門領域に特化していく傾向にあり、これは歓迎されるべきことだと思います。例えば、従来の消化器外科医が取り扱う範疇は、胃、肝臓、胆嚢、膵臓、大腸などの手術ですが、これをもっと特化したような病院もあります。
例えば、大阪市立総合診療センターの消化器外科は、胃癌の治療成績が日本一です(日経新聞2005年1月9日朝刊)。この病院では、ほとんどの胃癌手術を一人の外科医に任せ、専門性を高めているそうです。その医師によると、「総合病院では様々ながんを担当するのが普通だが、一つのがんに集中できれば自然と技術力が上がり一人ひとりの病状にも柔軟に対応できる」のだそうです。
治療する領域を特化した専門医と、プライマリケア医(GP)。同じ医師といっても全く異なる診察・治療をおこなっており、そのことを患者さんにも理解してもらえれば、患者さんにとっても、また行政の立場からみても最も効率のいい医療が実践できるのではないでしょうか。
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|2013年6月17日 月曜日
7 義援金のナゾと正しい救援活動 2005/2/3
2004年12月26日の早朝、マグニチュード9.0の大規模な地震が北スマトラの西海岸を襲いました。地震によって発生した高さ10mにも及ぶ津波は一時間でインド洋沿岸500kmにわたって波及し、インド、インドネシア、スリランカ、タイ、モルディブ、ミャンマー、セーシェル、ソマリアの沿岸地域を破壊したそうです。これまでに、約13万9,000人が命を落とし、そして1万8,000人がいまだ行方不明となっているそうです(2005年1月8日現在)。今後不衛生な環境から、コレラやマラリアなどの感染症が蔓延し、さらに多数の被害者が出ると予想されています。
津波の被害者に対する義援金の募集が、多くの団体でおこなわれています。私はこのような被災が生じたときにいつも疑問に思うことがあります。なぜ、多くの団体がそれぞれの基金を立ち上げる必要があるのでしょうか。例えば、ほとんどのテレビ局では、独自に新たに口座を開設し、その口座に義援金を振り込むように視聴者に語りかけています。そして一定の期間を経たところで、ユニセフ、日本赤十字、国境なき医師団などに寄付するというのです。
それならば、はじめからこれら機関のホームページのアドレスや、口座番号をテレビで知らせればいいのではないでしょうか。私はテレビ局のエゴを感じずにはいられないのです。テレビ局は、一定の期間がたったところで、「全部で○○円集まりました。皆様ありがとうございました。」と言います。テレビ局としては、義援金の金額が、どこどこの局に勝ったとか、負けたとか、そういうことを気にしているように思えてならないのです。
テレビ局などの大きな組織では、確実に然るべき機関に義援金が寄付されるものと思われますが、これが聞いたことのないような組織であれば、本当に被災者に使われているのかどうかも疑問です。本当に被災者のことを考えるのであれば、そもそも新しく基金を始める必要などはないはずです。「ユニセフや日赤に義援金を送りましょう!」と宣伝すればいいわけですから。
もしもこれを読んでくれている人のなかで、スマトラ沖地震による津波の被災者に義援金を送りたいと考えている方がおられるなら、私は、直接ユニセフや日赤に募金することをすすめます。その理由をいくつかご紹介しましょう。
まず、自分の寄付した義援金が確実に被災者のために使われていることが実感できます。例えば、街角で募金を呼びかけているような、聞いたこともない組織に寄付しても本当に被災者の元に届いているのかどうか分かりません。随分前の話ですが、街角で募金箱を持って募金活動をしている若い男が、その募金箱から1000円札を取り出し、ファストフード店に入っていったのを見たことがあります。もちろん、すべての街角の募金活動をしている人がそんなことをしていると言っているわけではありませんが、ユニセフや日赤などに寄付をすれば、「自分のお金が本当に被災者の元に届いているのだろうか」などといった心配をしなくてもいいわけです。
次に、これらの機関に一度募金をして名前、住所などを登録しておくと、定期的に世界中で困窮している人たちの情報や、募金の情報などを知らせてくれるという利点があります。こういった情報を定期的に入手することによって、世界の状態がわかり、ときに新聞では報道されていないようなことも知ることができます。そして、自分が困窮している人たちのために何ができるのかといったことを考える機会を得ることができます。衛生状態がよくてモノにあふれた現代日本からは考えられないようなことが、スマトラ沖地震以外でも今も世界の各地で起こっています。
そういったことを常日頃から意識することによって、世界観が変わることもあります。実際に私の知人に、以前はブランド物を買ったり高級クラブに通ったりすることを楽しみにしていたけど、カンボジア難民に寄付したことをきっかけに、奉仕の必要性・重要性を認識し、以降は収入の一定の割合を寄付に使うようになったという人もいます。
もうひとつは、ユニセフや日赤などの組織に寄付したお金は、寄付金控除の対象となって、確定申告をすればいくらか減税されるということです。だから、インターネット上で寄付する場合は、必ず領収書をもらうようにしましょう。例えばユニセフでは募金後数ヶ月以内に領収書を自宅に送ってもらうことができます。もしもテレビ局などに寄付金を送り、それがユニセフに送られたとしてもユニセフの領収書は発行してもらえず、テレビ局に対する寄付では、所得税控除の対象にならないのです。
「テレビ局経由でも直接ユニセフでも結果は同じじゃないか」と言う人もありますが、ひとつには、この寄付金控除の問題があるわけです。それに、ユニセフ側としても、一定の期間を経てからテレビ局経由でまとまった寄付金が送られてくるよりも、その都度個人から直接送られてくる方が、寄付金が早い段階で集まるので利用しやすいのではないでしょうか。
被災者への義援金という話になると、必ず「カネも大事だけどヒトを派遣することが大切」という議論がでてきます。今回も津波の被害者を救うために、世界各国から救援部隊が現地に駆けつけています。日本も自衛隊の派遣が迅速におこなわれましたし、政府から派遣された、医師を含む医療従事者で構成される国際緊急援助隊も現地で活躍しているそうです。医療ボランティアをおこなっているNPO法人のAMDAもすぐに医療従事者を派遣しました。
自衛隊や医療従事者でない一般の人のなかにも、現地に行ってできることがあるなら何でもしたいと考える人も多いでしょう。実際、私のもとにも「お前は行かへんのかい」とか「ボランティアに行きたいねんけどどうしたらええんやろ」という声が寄せられています。
私個人としては、医療ボランティアをおこないに現地に行きたいのですが、現在身内が入院中のこともあって大阪を離れられない状況のため、現時点では寄付金での協力のみとさせていただいています。
「ボランティアに行きたい」という人には、私はとりあえず現地に行くことをすすめています。やみくもに行っても混乱するだけだから組織に属していないなら行かない方がいい、という人もいますが、私はそうは思いません。実際には、行ってみると被災者の役に立つことはいくらでもあります。それに、行ってみないことには本当の状況が分かりません。マスコミの報道をみていても実際のところはよく分かりません。水が足りないのか、感染症が問題なのか、治安の悪化が問題なのかといった問題は、日々変わりますし、実際に自分の目で確かめるのが一番確実なのです。
とりあえず現地に赴き、何が問題になっていて、自分には何ができるのかということを考えて整理し、その上で、現地で中心的な立場で救援活動をおこなっている人に、自分のできることを伝えて指示やアドバイスを求めればいいのです。
ただし、最低限のマナーは必要です。まず最低でも英語ができること。現地の言葉ができるとなおいいです。それに健康であることも絶対必要です。健康を害していれば自分が足手まといになることもあるからです。それから、被災における救援活動の基礎知識は持っていなければなりません。こういった最低限のマナーを無視して「やる気だけはありますので!」といったところで、なかなか使いものにはなりません。
しかしながら、英語については、とりあえずは日本の中学程度のものができればなんとかコミュニケーションは取れるでしょうし、救援の基礎知識は本を一冊読めばある程度の知識が身につきます(例えば『災害初動期における活動マニュアル』へるす出版)。やる気のある人はとりあえず行ってみてはどうでしょうか。
ただし、ボランティアには相当のリスクが伴うことも覚えておいてください。インドネシアでの大量の子供の誘拐(人身売買)は大きく報道されているようですが、他にも、火事場泥棒や強盗が各地で起こっているようです。タイでは被災地の簡易トイレを盗撮していた男が捕まったそうです。阪神大震災のときも、被災者に対する強盗やレイプがいくつもおこりました。こういった被害は被災者だけでなく、善意のボランティアにもふりかかることがあります。そういったリスクもあることを忘れてはいけません。
地震や津波というのは予期せぬときに突然やってきます。明日にでも世界のどこかで起こるかもしれません。自分にも災害が襲ってくるかもしれません。いつの時代もそうですが、我々は常に災害が起こりうるということを頭の片隅においておく必要があり、他人が被害にあったときに何ができるのかということを考えておかなければならないと思います。
今回の津波をもう一度振り返って、今自分に何ができるのか、できるとすればそれは寄付なのか行動なのか、そして助け合いの意味を改めて考えてみてはいかがでしょうか。
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|2013年6月17日 月曜日
6 研修医は本当にしんどいか 2004/7/8
「研修医って大変なんでしょ」
私は現在3年目の医師で、いわゆる「研修医」は卒業したことになりますが、この言葉を研修医の2年間の期間にどれほど聞いたか分かりません。最近はテレビなどで、休みなく働く研修医の姿がえがかれたりして、世間の方々に「研修医は大変な職業」という認識ができあがっているようです。
98年には関西医大附属病院の研修医が26歳という若さで急性心筋梗塞で死亡し、また99年には横浜市立大医学部附属病院の研修医がうつ病から自殺にいたりました。これらの死亡はともに「過労死」と認定され、世間に研修医の大変さが認知されるようになりました。
けれども本当に研修医とはそんなに大変な職業なのでしょうか。たしかに研修医は早朝から深夜まで病院に拘束されますし、深夜に患者さんが急変したり、緊急処置の必要な患者さんが運ばれてくれば、寝ていても電話で起こされます。もちろん休日などほとんどなく、私の場合も、1年目のときに1週間休暇をいただいてタイ国にボランティアに行った以外は、2年間で丸一日休めたのは10日ほどです。そのうえ、研修医としての給料だけではとうていやっていけませんから、月に何度かは、他の病院で当直のアルバイトをすることになります。
こうやって文章にしてみると、たしかに研修医とは決してラクな職業ではなさそうですが、私は他の職業と比べて、研修医だけが大変な職業とはとうてい思えません。
というのは、私は医師になるまでアルバイトも含めれば、20近くの仕事をしていますが、どの仕事もそれなりに大変で、研修医だけが特殊な仕事であるなどとはまったく思えないのです。
例えば、私が18歳のときにアルバイトをしていた旅行会社では、社員の人は一年間で丸一日休めるのは1日あるかないかでしたし、ほぼ毎日早朝から深夜まで激務に追われていました。朝5時に起きてパンフレットを街頭に配布しにいき、出勤するとまず掃除をおこないます。昼間は通常業務に加え、お客さんのクレーム処理などの仕事もあります。ときには事務所に怒鳴り込んでくるお客さんにも対応していました。お客さんに殴られた蹴られたということも一度や二度ではありません。そのうえ聞けばびっくりするような安い給料しかもらっていないのです。
アルバイトの私は、主に沖縄などの観光地で働いていましたが、仕事でミスをすると眉毛を剃られたり、熱湯をかけられたりというイジメもありました。(ただしこれらの「イジメ」は陰湿なものではなく、文章では上手く表現できませんが、笑いのあるイジメであり、イジメられる方もそれほど苦痛ではなかったのですが・・・)
また、私が19歳のときにウエイターのアルバイトをしていたディスコでは、お客さんからだけではなく、先輩方からも殴る蹴るの「ご指導」を受けていました。水商売の世界というのはその業界に一日でも早く入った人間がエラいという社会ですから、19歳の私が、中学卒業と同時にその世界に入った17歳の2年目の「先輩」から蹴られるということも日常茶飯事だったというわけです。
私が正社員をしていた会社では、さすがに暴力というものはありませんでしたが、製品の納期が間に合わないときなど、寝る暇もないほど働いていました。
一方研修医というのは、ときどき泥酔した患者さんに殴られるというようなものはありますが、先輩医師から暴力をふるわれるということはまずありませんし、多くの患者さんは研修医であったとしても敬語で接してくれます。また、看護師など他の医療従事者もずっと年齢が下の研修医に対して、丁寧に敬語で接してくれることが多いといえましょう。10年以上も先輩の看護師さんや検査技師さんが、入ったばかりの研修医に対して、どうしてそこまで丁寧に接する必要があるのだろうと、私はいつも感じていました。
例えば、患者さんの縫合処置をするとき、道具をすべて用意するのは看護師さんで、処置が終われば後片付けをするのも看護師さんです。薬を決めるのは医師ですが、それを準備したり会計をしたり事務的な説明をするのはすべて他の医療従事者です。医師がすることは処置と病状の説明だけです。夜間の当直のときなど、患者さんからの電話をとったり注射や採血をしたりするのはすべて看護師さんで、医師の診察と処置が必要なときだけ、起こされるだけで、それらがなければずっと寝ているだけです。
私の場合を例にとってみても、勤務時間というか拘束時間だけをみてみると、週に100時間を越えますが、そのなかには寝ている時間もけっこうあるのです。
看護師さんの方が、勤務時間はたしかに研修医よりは短いでしょうが、その大変さはずっと上なのです。
もしも研修医が本当に大変な仕事なら、離職率が高くなるはず。しかしながら、実際のところ、私の知る限りでは、仕事のキツさがイヤでやめた研修医というのはほとんどいません。データがないのではっきりと数字で示すことはできませんが、他の職業と研修医の離職率を比べると、天と地ほどの差があるに違いありません。
では研修医は気楽な仕事かというと、そういうわけでもありません。研修医が本当の意味で大変なのは、治らない患者さんを目の前にしたときでしょう。こういうときに本当のしんどさが訪れるのです。教科書を読んでもどうしていいか分からないですし、先輩医師に助言を求めても、そのしんどさが軽減されることはほとんどありません。
「研修医は大変な仕事か」という質問に答えるとするならば、不治の病や死を目前にした患者さんやその家族と接するときに、他の職業ではなかなか感じることのないしんどさがあるということになります。
「医師になりたいけれど(特に研修医の)仕事って相当大変なんでしょうか」こういう質問をする人にこの文章が参考になれば幸です。
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|2013年6月17日 月曜日
5 66歳の研修医 2004/6/9
私のところに寄せられる読者からの質問のひとつに、「私は○○歳ですが医学部受験は大丈夫でしょうか」というものがあります。この質問は非常に多く、そのためすべてのお問い合わせに返答できていません。ごめんなさい。そこで、この場を使ってこの質問にお答えしましょう。
先日今年の医師国家試験の合格者が発表されました。8439人中7457人が合格し、合格率は88.4%で、3年ぶりに9割を下回ったそうです。最高年齢合格者は54歳だったとのことです。ちなみに昨年の最高年齢合格者は66歳でした。
「私は○○歳ですが、・・・」という質問をされる方のメールをよく読んでみると、その懸念を3つに分類することができます。
まずひとつめは、「○○歳で医学部入学が可能か」という点です。ふたつめは、「○○歳で医学部の授業についていけるか」という点です。そして3つめは、「○○歳で研修医となるのに問題はないか」という点です。
これらをひとつずつみていきましょう。
まずひとつめの「○○歳で医学部入学が可能か」という点です。66歳で医師国家試験に合格した人は、年齢が低くとも50代で医学部に入学しているということになります。したがって、「医学部受験を考えている人が50代以下であれば問題ありません」、ということになってしまうのですが、ここで、この質問をもう少し踏み込んで考えてみると、「○○歳で受験すると(現役生に比べて)不利になる大学はあるのか」ということになると思います。これについてお答えするのはちょっとむつかしいかもしれません。実際に現役生の比率が圧倒的に多く、再受験生があまりいない大学もあるからです。
私の場合は、受験する大学に再受験生がいるかどうかということを事前に調べました。この方法についても質問される方がおられますが、方法は簡単です。実際にその大学に足を運んで聞いてみればいいのです。再受験生の割合や合格者最高年齢のデータを揃えている大学は少ないかもしれませんが、「他の大学を卒業してから来る人もいるよー」とか「30代の一年生もいるみたいよー」とかいうような情報はもらえるものと思います。
次にふたつめの質問である「○○歳で医学部の授業についていけるか」という問題ですが、これはその人がどれだけ医学に興味を持っているか、どれだけ情熱をもって医者を目指しているかという点によるでしょう。私の場合で言えば、受験を決意したときから、どうしても医学を学びたいという意思がありましたから、結果的に言えば、たしかにかなりしんどかったのは事実ですが、6年間を通して楽しく学べたものと思います。少なくとも私が経験した関西学院大学理学部の1、2年生での勉強よりは遥かにおもしろかったですし、社会人時代に経験した難題よりはくらべものにならないくらい楽しかったです。
社会に出られた経験のある方にはこう言えばお分かりいただけると思います。すなわち、「実社会で経験する困難さに比べれば医学部の6年間でやらなければならないことなど何でもない」と。
最後に3つめの質問、「○○歳で研修医となるのに問題はないか」という点についてお話していきたいと思います。結論から言えば、「問題はないかどうかはその研修医による」ということになります。
そもそも「○○歳で研修医・・・」という不安は、年齢が原因となる人間関係のことを言っているものだと思います。つまり、いろんなことを教わらなければならない研修医という身分の存在が、あまり年をとりすぎてたら教わりにくいのではないか、あるいは教える方がやりにくいのではないか、という問題だと思います。
けれども、これは実社会ではよくあることで、日本の会社ではだいたいどこも年齢ではなく、その会社あるいはその業界でのキャリアで上下関係が決まるものだと思います。
例えば、私が以前会社員をしていた商社では、新入社員の大半は、大学を卒業した直後の人間でした。けれども毎年30代の転職して入社する人も数人はいました。彼ら(彼女ら)は、例えば20代後半の中堅よりも年齢は上だけれどもキャリアは下なわけです。 上手く順応する人であれば、自分の方が年齢は上であっても、「年下の先輩」に指導を受けて、もちろん敬語を使って接するわけです。また、教える方も、「年上の後輩」に、最初は多少の敬語は使うこともあるでしょうが、基本的には自分の方が先輩なんだから、先輩らしく「年上の後輩」の指導にあたるわけです。こういった光景は別段珍しいものではないと思います。
もうひとつ例をあげましょう。
私は、20歳のとき、しばらくアルバイトでディスコのウェイターをしていました。この世界、いわゆる水商売の世界は上下関係がかなり厳しいのが普通です。少しでもミスをすれば、ペンやフォークなどが飛んできますし、言葉づかいは絶対です。中途半端な敬語を使おうものなら容赦なく手や足が出てきます。そしてこの世界でももちろん、上下関係は年齢ではなく、キャリアで決まるのです。それも一日でもキャリアが上であれば絶対的な先輩となるわけです。
私は当時20歳でしたが、中卒と同時にこの世界に入った2年目の先輩はまだ17歳なわけです。逆に私より後に入った30歳の後輩もいました。17歳の先輩からみれば私は20歳の後輩となるわけですが、容赦なく厳しい指導をしていただきました。その逆に20歳の私からみた30歳の後輩にも容赦なく厳しい指導をしました。
そういう社会が苦手という人もいるかもしれませんが、仕事とは厳しいものなのです。その代わりというわけではありませんが、厳しさの裏側にはいろいろな楽しいこともあるのです。厳しい分だけ人間関係も強固なものになることだってよくあるのです。
ただ、心配しなくても、医師の世界では、手や足が容赦なく出てくるということはありませんし、例えば人間性を否定するような厳しい言葉を浴びせられることもありません。私の知る限り、看護師の世界の方がよっぽど厳しい上下関係があります。
話を元に戻しましょう。たしかに研修医の多くは24から28歳くらいであり、私のように33歳の研修医というのは少数派でした。40代、50代の研修医はさらに少数派であり、66歳の研修医となると相当珍しいといえるでしょう。
けれども、私はその年齢から不利益を被ったことは一度もありませんし、おそらく40代、50代の人たちも、彼ら(彼女ら)がまともな社会常識を有している限りは、20代の研修医と同様の研修が受けられるものと思います。
教える方、例えば指導医や看護師、その他のスタッフの方に抵抗があるのでは、とお考えの方もおられるでしょう。しかしながら、彼ら(彼女ら)とて立派な社会人のはずです。20代の研修医には丁寧に指導するけれど、40代の研修医にはいい加減に教える、なんてことはしないはずです。絶対にそんな人間がいないとはいいきれないかもしれませんが、どんな世界にも、良識のある人間は必ずいますから、そういう良識というか常識のある人たちから教わればいいわけです。
「○○歳で研修医となるには・・・」というような質問をされる方は、あらためて社会常識というものを振り返ってみてはどうでしょうか。
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|2013年6月17日 月曜日
4 forget-me-not 2004/6/9
2004年4月、それまで1年間研修医として勤務していた星ヶ丘厚生年金病院(以下、星ヶ丘)を退職しました。この一年間で数え切れないほどのことを学んだように思います。これまでの人生を振り返って、これほどたくさんのことを学んだ一年間はなかったように感じます。
あらためてこの一年間を思い返してみると、本当に数々のドラマがありましたし、医師としての知識や技術も大幅に向上したように思います。私は何とめぐまれていたのか、こう感じてやみません。
知識の習得という観点だけで考えてみると、医学部受験を目指した一年間や、医師国家試験の勉強に従事した一年間の方が得たものが大きかったかもしれません。また、ドラマという点からみれば、私が18歳から20歳まで経験した旅行会社でのアルバイトの方が大きかったかもしれません。
けれども、生と死の狭間にいる患者さんやその家族、不治の病におかされた患者さんらと接したことで得られたものは計り知れません。また星ヶ丘の先生方や看護師さん、その他のスタッフの方々からも多くのことを学ばせていただきました。本当にいくら感謝してもしきれないように思います。
私は医師としての最初の一年間は大学で研修を受けました。大学病院には、大学病院でしかみることのできない疾患を経験することができますし、多くのスタッフの方に丁寧に指導していただいたのも事実です。しかしながら、結果として言えば、医師二年目の一年間、すなわち星ヶ丘で過ごした一年間の方がずっと心に残るものが多かったといえるように感じます。
大学病院を去るときは、それほど感慨深いものはなかったのですが、星ヶ丘を去るときには感謝の気持ちと同時に、さみしさで胸がいっぱいになりました。いま、星ヶ丘を去って一ヶ月がたちましたが、毎日のように星ヶ丘での出来事を思い出します。指導していただいた先生方、一緒に喜びや虚しさを語り合った研修医の先生たち、いつも患者さんの立場にたって優しく患者さんと接しておられた看護師さんたちやその他のスタッフの方々、そして、本当は私がしっかりしないといけないのに、逆に私に生命の尊さを教えてくれたり励ましてくれたりした患者さんたち・・・、このような人たちとめぐりあえた私は何と幸せなのでしょうか・・・。
今私が思うのは、いつかこの星ヶ丘に何らかのかたちで恩返しがしたいということと、私のような研修医が、一年間というわずかな期間だけだけれど、多くのことを学ばせてもらったということをスタッフの方々がときどき思い出してくれたらな・・・、ということです。
そんな思いを込めて、私は星ヶ丘を去る前日に、体育館の横の草木が茂っている場所に、12株の忘れな草を植えました。12という数は、私を含めた研修医の数です。忘れな草は多年草となることもありますが、多くは一年で枯れてしまいます。けれどもこの生命力の極めて強い草は、きっと一年後にも芽が出るものと思います。
この前久しぶりに病院を訪ねて、こっそりとその忘れな草を見てきました。花は枯れているものもありましたが、まだ葉は堂々と元気な様子を見せてくれました。
現在私は、大学の医局を離れ、大好きだった星ヶ丘も退職し、昼間は大阪市内のクリニックで無給で修行を重ね、夜は当直のアルバイトで当面の生活をしのいでいます。収入も減り、医師免許は持っているとはいえ、いわばフリーターの生活です。この夏にはタイ国に医療ボランティアに行きます。こんな生き方、自分の好きで選択したこととはいえ、ときには不安になることもありますし、同級生のように安定した医師の生活がふとうらやましくなることもあります。
けれども、私が自分で植えた忘れな草を見て感じました。この草のように、力強く生きていこう。夏の暑さに負けていったん枯れてしまったとしても、翌年にはまた芽を出す。そんな生き方がしたいな・・・と。
そしてこのようにも思います。もし私がくじけてしまったら、一年間お世話になった星ヶ丘の患者さんやスタッフの方々に合わせる顔がない。あの忘れな草が芽を出し続ける限り、私も頑張らなければ・・・と。
私の本の読者の多くは医学部を目指している方々だと思います。学力や年齢、その他の環境のために、周囲から医学部受験を反対されている方も少なくありません。そんな方々に今ひとつアドバイスをさせていただくとするならば、街に出て自然を見つけてほしいと思います。周囲の環境に負けず、堂々と生命力を披露している草木を見て感じて、自分を鼓舞してほしいのです。きっとからだの奥底から生命力があふれてくるはずです。
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|2013年6月17日 月曜日
3 差別される病気 2004/3/19
病気になると様々な苦悩が伴うことが多いと言えますが、医療従事者から軽視されがちと私が感じることのひとつに「差別」という苦悩があります。病気の苦悩と言えば、痛み、呼吸苦、不快感、痒み、あるいは不安、抑うつなどもそうでしょうが、なかなか「差別」という苦悩については、大きく取り上げられることは少ないように感じます。
この理由として、まず我々医師や看護師などの医療従事者が「差別」に対する教育を受けていないということがあげられます。痛みや痒みに対しては、薬剤もありますし、患者さんの訴えがあればすぐに対処しようとします。ところが、「差別」に対しては、患者さんの訴えを聞くことがあっても、現場の医療従事者はほとんど無力です。
次に、患者さんが「差別」に対しては、なかなかその苦悩を訴えないということがあります。いくら差別に悩んでいたとしても、医師や看護師との間に、ある程度の信頼関係ができるまで言い出し辛いのです。やっとの思いでその苦悩を口にしたとしても、なかなかきちんと聞いてくれなかったり、初めから相手にされなかったりということも珍しくないようです。
では、医者は患者の「差別」について取り組まなくてもいいのでしょうか。そんなはずは絶対にありません。そもそも医療というのは、身体面だけをみているだけでは不十分なはずです。健康というのは、身体だけでなく、精神的、社会的にも健康でなければならないはずです。
病気であるがゆえに「差別」を受けているとすれば、これは健康からはほど遠い状態にあるわけです。たしかに、上にあげた理由もあり、患者の「差別」という苦悩に対する対処はむつかしいのですが、医師である以上は、病気に伴うすべての苦悩について取り組まなくてはならない、私はそう考えます。
では、どんな病気が「差別」されるのでしょうか。まずひとつは、結核やハンセン病などの感染症があげられます。結核患者は現在でも隔離されることが多いですし、ハンセン病などは、見た目で分かることもあり、歴史的に差別されてきた事実があります。昨年、九州のある旅館で、ハンセン病の患者の宿泊を拒否したという事件もこのことを物語っています。
身体障害者も差別されることが少なくありません。小学校のとき、小児麻痺の生徒がいじめられたり、ばかにされたりといったいわれのない差別を受けていたことを思い出します。大人でも、例えば、一生車椅子を強いられた人は、健常人からは分からないようなところで様々な差別を受けているという現実があります。
別のところでも書きましたが、皮膚疾患もそうです。見た目ですぐに病気とわかる疾患は何かと差別の対象になるものです。実は私が医師になりたいと思った動機のひとつに、「差別に取り組みたい」というのがあります。私は、皮膚疾患もそうですが、もうひとつ、差別に取り組みたい疾患が、「性感染症」です。
AIDS患者が差別されている現状は明らかでしょう。私は今年の夏に、タイ国にあるパバナプ寺というAIDS患者がおよそ400人ほど収容されている施設にボランティアに行く予定ですが、日本よりも断然患者数の多いタイ国でさえ、AIDS患者は差別されています。家族からも見放されることさえ少なくありません。
私は一昨年もその施設に行ったのですが、ボランティアをしている医師からこのようなことを聞きました。レントゲン撮影のできないその施設で、どうしても胸部レントゲンを撮る必要のある患者がいて、その医師は近くの病院にその患者を送ったそうです。ところが送り先の病院では、その患者がAIDSであるという理由で撮影を拒否したというのです。そしてこのようなことは日常茶飯事だというのです。
差別される性感染症は何もAIDSだけではありません。すべての性感染症が差別の対象となっているといってもいいでしょう。クラミジアでもヘルペスでも感染すると、患者さんはなかなか人にはそのことを告げられません。勇気をだして病院に行ったとしても、なかなか堂々と症状を訴えることはできません。
そして、性感染症は、身体障害や通常の皮膚疾患など、他の社会的に差別を受けている疾患と大きく異なる点があります。それは医療従事者からも差別的な発言をされることがあるということです。誰にも言えない病気にかかり、やっとの思いで病院に行っているのに、その病院で医者や看護師から差別的な発言をされることも少なくないのです。「不潔なことをするからそんなことになるんだ」とか「君みたいな女がいるから世の中の性病はなくならないんだ」とか、そんなことを言われることもあるのです。
私が実際にある女性から聞いた話を紹介しましょう。その女性は、私の知人の知人で、あるとき数人で食事をしていたときに、たまたま席が横になったので話すことになりました。当時私は医学部の学生で、まだ臨床医学をほとんど知らない頃でした。話の流れで自分は医学部生だという話題になったときに、彼女は私にだけ聞こえるように身の上話を始めました。
彼女は数年前に、ある風俗店で働いていたというのです。風俗店で働くということは、言うまでもなく、様々な性感染のリスクがあります。特に症状が出たわけでもないのですが、性感染が心配になった彼女は、いくつかのクリニックを受診したそうです。
彼女は、医師や看護婦には、「なぜ受診したか」ということを正直に話しました。彼女は、現在の仕事のことも話しました。社会的には何かと差別の対象になる仕事ですが、医療従事者ならそのまま受け止めてくれて相談にのってくれると考えたのです。
ところが、彼女がかかったクリニックの医療従事者は全員、冷淡な態度をとったというのです。
「そんな仕事をしているのが悪いのです。」「すぐに仕事をやめなさい。」
どこへ行ってもそのように言われて、なぜ仕事を続けなければならないかという点については、誰も聞いてくれなかったというのです。彼女にとって、性感染のことを真剣に相談できるのは医療機関をおいて他にはなかったのです。本当は彼女だって仕事のことは誰にも言いたくなかったのです。
それに、彼女は好き好んでそのような仕事をしているわけではないのです。彼女の場合、両親の残した巨額の借金を返済するために、仕方なく働いていたそうです。もちろんこれは本当のことかどうかは分かりませんが、少なくとも私が聞いた印象では、高収入が得られるからとか、嫌いな仕事じゃないから、とかそんな理由で働いていたとは思えませんでした。
性感染症、これほどまで差別の対象となる病気は他にないのではないでしょうか。誰にも言えずにひとりで悩まなくてはならず、さらに医療機関でさえも差別的な発言を受けるのです。
彼女は、なぜ言う必要のない過去の嫌な思いを私に話したのでしょうか。現在は借金を返済し終えており、忘れたいことをわざわざ話す必要などなかったはずです。
私はこのように考えました。「私も数年先には医師になる以上、性感染症の患者をみることがあるかもしれない。私には他の患者と同様、差別することなく診てほしい。」、彼女はそれを伝えたかったのではないかと思うのです。
私は、そのとき、彼女の連絡先どころか名前も聞きませんでした。今ではどこにいるのかも分かりません。これから会うこともないでしょう。
けれども、私はこのことを語っているときの彼女の目を忘れることができません。そしてこのエピソードが、私が性感染症に取り組みたいと思った最大の理由なのです。
ちなみに性感染症を扱っている科というのは、まず性病科が筆頭にきますが、「性病科」の看板をあげているクリニックはほとんどありません。実際は、皮膚科、泌尿器科、婦人科などが、部分的にみているというのが現状です。
「部分的に」というのは、例えば、婦人科では男性はみませんし、皮膚科ではヘルペスやクラミジア、梅毒といった皮膚に症状の出る疾患は得意としますが、クラミジアや淋病といった疾患については通常みることはありません。これとは逆に、泌尿器科では、クラミジアや淋病以外の疾患はあまり得意としていません。
ところが、患者さんの立場にたったときに、これは相当不便です。というのは、まずひとつめに性感染というのは、重複感染していることが多いという問題があります。例えば、クラミジアとヘルペスに同時に感染したなどという場合、クラミジアは泌尿器科で、ヘルペスは皮膚科でというふうに、複数の医療機関を受診しなければならないのです。
もうひとつ、性感染は、パートナーを同時に治療しなければ意味がありません。勇気を出して、ふたりで婦人科に行っても、男性はみてくれないのです。
私は、あらゆる性感染症をパートナーも含めてトータルで治療していく必要があると考えています。
このような経緯があって、私は性感染症をトータルにみることのできる皮膚科医をめざそうと考えたわけです。
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|2013年6月17日 月曜日
2 人間見た目が大事 2004/2/19
私が皮膚科に入局して(現在は退局してます)、よく聞かれることのひとつに、「どうして皮膚科をやろうと思ったのですか。」という質問があります。『偏差値40からの医学部再受験』にその理由を詳しく書いていますが、質問する人たち全員に、「本を読んでください」、などと言うわけにもいかないので、このように言うようにしています。
「人間見た目が大事だから。」
これは誤解を招きやすい言葉かもしれませんが、私が皮膚科に決めた最大の理由を短い言葉で説明するとこのようになります。
「いや、人間は見た目ではなく中身が大切だ。」このような反論もあるでしょう。しかし、そんな意見は、その人の見た目がそこそこだからこそ言えるのです。
例えば、あなたの顔面に直径10cmを超える大きな良性腫瘍があったとしましょう。「そんなことあるわけないから想像もできない。」とあなたは言うかもしれませんね。けれども、そのような皮膚疾患で悩んでいる人は、それほど少なくはありません。なぜあなたがそのような人を見たことがないかと言うと、そういう病気を持った人というのは、通常外出をしないからなのです。そしてこの人の腫瘍は良性腫瘍のために、生命が短くなるということもあまりないのです。
皮膚科の患者さんの、最も頻度の高い疾患のひとつにアトピー性皮膚炎があります。きっとあなたの身近にもひとりやふたり、アトピーで悩んでいる人がいるでしょう。たいがいは、肌に優しい化粧品を使ったり、症状が出やすい首を露出しないような服を着たりして、対処しているものと思います。
ところが、このアトピー性皮膚炎にしても、重症例になると、見た目がボロボロで、化粧などまったくできなくなります。カサカサして粉がふいたような顔になったり、真っ赤になって顔が腫れたりします。アトピーでも重症になると、例えば無垢な子供が見れば泣き出してしまうような醜貌になってしまうのです。
にきびにしてもそうです。重症例になると、肌がでこぼこになって、ちょっとやそっとの化粧では隠すことができません。化粧をしない男性ではさらにその醜い肌が露出されることになります。
もうひとつ例をあげましょう。男性でも、そして最近では女性も、若くして脱毛症に悩む人が増えています。50代、60代になってからならまだしも、20代で脱毛が始まれば、その人の人生は大きく変わってしまうこともあります。最近は手術にしても内服薬にしてもかなりいい治療法ができてきていますが、それでもまだまだ悩む人は後を絶ちません。
皮膚疾患というのは、社会的に非常につらい疾患です。例えば、皮膚疾患に悩むために、就職活動を断念した、とか、皮膚症状が目立つようになってきたために、友人の披露宴や同窓会にも出席できないという人がいるのです。
これを一般の内科・外科疾患と比べてみましょう。心臓が悪くても、肝臓が悪くても、かなり症状が進行しない限り、他人からは病気であることすら分からないことが多いと言えます。さらに重症化し、誰の目からも病気であることが明らかになったときは、他人がかなり心配してくれるのではないでしょうか。例えば、職場の人が肝炎や腎炎で入院すれば、同僚がお見舞いにいくのはよくあることです。
ところが、皮膚疾患が重症化すれば、まず患者さん自身が他人と会うことを嫌がります。皮膚の悪性腫瘍の場合など、ほとんどの人が目をそむけるような醜貌に加え、強烈な悪臭がその患者さんの周縁に充満するのです。
つまるところ、端的に言えば、軽症のうちは、死ぬ病気じゃないからということもあり、誰も気に留めず、重症化すれば見舞うことすら困難になるのが、皮膚疾患と言えるのです。
また、もっとも差別を受けやすいのが皮膚疾患であるとも言えると思います。
昨年、ハンセン病の患者の宿泊を拒否したという旅館がマスコミで取り上げられましたが、これとて、ハンセン病という皮膚症状が前面に出る疾患だからこそです。たしかにB型肝炎やC型肝炎の患者さんも、(針刺しや性行為で)他人に感染させる可能性があることから、差別を受けることもありますが、通常の社会生活では、他人に知られることはまずありません。
これに対し、ハンセン病など、皮膚症状が露骨になる疾患では、他人から隠すことができません。そのため、宿泊拒否などいわれのない差別を受けることになるのです。
AIDSにしてもそうです。AIDS患者はそれ自体で差別を受けているという現実がありますが、症状が出るまでの間は、少なくとも街を歩いていて差別を受けることはないでしょう。ところが症状が出現すると、AIDSの症状というのは、カポジ肉腫であったり、皮膚の悪性腫瘍であったりと、皮膚症状から差別を受けることが多いのです。
私が、一昨年に出向き、また今年の夏にも行く予定のタイ国にあるパバナブ寺という寺では約400人のAIDS患者さんが収容されていますが、患者さんの何割かは、皮膚症状が出現して、家族や知人から受け入れられなくなり、社会的に差別を被っている人たちです。
どのような病気をどのように捉えるかは、人それぞれで、医師によってもまちまちですが、私は皮膚疾患がもっともつらい病気だと感じています。これが私の皮膚科志望の最大の理由です。
「人間見た目が大事」なのです。
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