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2013年6月21日 金曜日

80 それって愛ではないけれど 2009/9/20

今月のある日曜日の夜、たまたま時間ができた私は、映画『ディア・ドクター』を近くの映画館に見に行きました。

 『ディア・ドクター』は西川美和監督の作品で、笑福亭鶴瓶が演じるニセ医者の動揺する心境を描いたものです。(ここで「ニセ医者」と言ってしまうと、いわゆる”ネタバレ”になってしまうかもしれませんが、他の多くのサイトですでにニセ医者であることが書かれていることと、公開してすでに3ヶ月近くがたっているということを考慮して許されるのではないかと考えました)

 作品の良し悪しは別にして(いくつかの映画評論サイトを見てみましたが、のきなみ高得点がつけられています)、私がこの映画で最も印象に残った場面を紹介したいと思います。

 僻地で働いていた主人公のニセ医者は、ある理由から突然失踪します。警察の調べでニセ医者であることが分かり、刑事が関係者から証言を集めるのですが、香川照之が演じる薬会社の営業マンに対して、刑事が、「なぜ(失踪したニセ医者は)医者をやろうと思ったのか」と、この営業マンに尋ねます。この営業マンは日頃からニセ医者の診療所に出入りしていて仲良くやっていました。

 黙っている営業マンに対して、刑事は「(ニセ医者が僻地で医療をやろうと思ったのは)”愛”なのか」とイヤミっぽく質問します。つまり、金儲け以外に免許がないのに医師をしていた理由は、病人に対する愛情なのか、と皮肉をこめて聞いているのです。

 ここで、この営業マンは<ある行動>に出ます。(<ある行動>は映画を見ていない人のために伏せておきます) この営業マンが言いたかったのは、無医村の僻地で医者をやろうと免許のないニセ医者が志したのは”愛”と呼べるようなものではなくて、もっと別のものだ、ということです。

 このシーンを見たときに、私は、「そうそう!」と心の中で叫びました。

 私も医師ですから「どうして医師になろうと思ったのですか」と聞かれることがしばしばあります。特に私は、文科系の大学を卒業し、いったん商社に就職し、その後医学部受検を試み、医学部に合格したのは27歳のときですから、どうしても経歴を言うとこの質問を受けることが多いのです。

 実は私は、医学部入学当時は、まだ医師になることを考えていませんでした。医学部入学前は母校の関西学院大学社会学部の大学院に進学することを考えていて、医学部に進路変更したのは、医学の観点から社会学で取り上げるようなテーマを考えてみたいという思いがあったからです。要するに、私の医学部受験の動機は、「医師ではなく医学者を目指したいから」というものでした。

 それが、医学部在籍中にいろいろな出来事があり(すべては書けませんが、病気に関することで医療機関を受診してイヤな思いをした、という話を何人もの人から訴えられた経験が大きいと言えます)、それで、こういう医師を目指したい、という”想い”が芽生えたのです。

 その”想い”は”愛”か、と問われれば、そんな崇高なものではありません。そんな立派なものではなく、「このような医療を実践する医者がいないのだとすれば、そしてそういう問題に自分自身が気づいたのだとすれば、それは自分自身がやるしかないではないか・・・」、そういう類の”想い”なのです。

 登山家であるジョージ・マロリーは、マスコミからのインタビューで「なぜエベレストに登るのか」という質問に、「そこに山があるから」(原文では”Because it is there.”)と答えたというエピソードがありますが、医師が医師を目指す理由もこれに近いものがあるのかもしれません。

 医師を目指すこととエベレストに登ることを一緒にしてしまうのは、登山家の方に失礼かもしれませんが、もっと身近なところでも、この「そこに山があるから」と同じ動機で行動するケースはいくらでもあります。私は以前このコラムで「気づいたモン負けのルール」というものを紹介しましたが(下記コラム参照)、おそらく多くの人は、無意識的にこのルールに従って行動しているのではないかと私は考えています。人間は損得勘定のみで行動するわけではないのです。

 話を『ディア・ドクター』に戻したいと思います。

 主人公のニセ医者は、地域の人に慕われているというよりもむしろ神や仏のような扱いを受けています。困っている人から連絡が入ると、スクーターに乗りどこにでもかけつけます。また、毎晩医学書を見ながらひとりで遅くまで勉強をしています。このような姿を目の当たりにした研修医は、「一通りの研修を終えた後、再びこの村にやってきて(このニセ医者と)一緒に働きたい」、と言いだします。

 しかし、その地域で、たったひとりで医療をおこなうには、”愛”ではない医師を志す”想い”があったとしても、それだけでは務まりません。ときには交通事故の重症の被害者や妊婦や乳幼児も診なければならないわけです。ありとあらゆる患者さんに対して、最終的には隣町の高次医療機関に搬送するとしても、初期診察というのはひとりでおこなわなければなりません。

 映画の中では、破水がおこった妊婦を救急車の中で診察しながら、医学書をめくっているシーンがあったり、緊張性気胸といって早急に胸に針を刺さなければ命を失いかねない状態の患者を診たりするシーンがあります。緊張性気胸の場面では、ベテランの看護師の助言に従いながら処置をおこない、なんとか事なきを得るわけですが、これは見ている方もヒヤヒヤします。おそらく、重症患者を目の前にして何もできないニセ医者をみていた看護師は、このニセ医者がニセモノであることに気づいていたのではないかと思われます。

 映画では、”愛”ではない別の”想い”でニセ医者が活躍している姿を描きながら、同時に、そんな”想い”だけでは医療はできない、という現実も訴えられているのです。

 私は映画館を出るとき、この映画はもしかすると現役の医師に対するメッセージがこめられているのではないかと感じました。

 つまり、「あなたたち(本物の)医師とこの映画のニセ医師の違いは、医師免許を持っているかどうか以外に何があるのでしょう。たしかに(本物の)医師であるあなたには、このニセ医師が持っていない知識や技術をいくつも持っているでしょう。しかし、そんな(本物の)あなたは、すべての病人や怪我人に対して何の迷いもなく最も適切な治療ができるのですか。それができないから、あなたは毎日のように勉強を続けているのではないですか。それではそんな勉強熱心なあなたと、このニセ医師の本質的な違いは何なのですか・・・」、このような問いかけをされているように感じたのです。

 もしも、このニセ医師が金儲けや興味本位から僻地で医療をしていたなら、このようには感じなかったに違いありません。

 ”愛”ではない医師を志す”想い”が見事に描かれているが故に、それが我々医師に対する辛辣なメッセージとなっているように私は感じたのです。
 

参考:メディカル・エッセィ第53回「”気付いたモン負け”というルール」

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2013年6月21日 金曜日

第79回(2009年8月) ”掟”に背いた医師

 奈良県大和郡山市の病院が生活保護受給者の診療報酬を不正受給していた事件は我々医療従事者に大きな衝撃を与えました。

 報道によりますと、この病院は2005年から2008年に生活保護を受けていた複数の患者に対し、心臓カテーテル手術をしたように書類(カルテなど)を捏造し、合計約860万円もの大金を詐取したとされています。

 これら以外にも、実際には必要のない患者に心臓カテーテル手術を施した、との報道もあります。一部には、この病院の医師らが患者に対し、「手術しないと死ぬよ」と話していたとも伝えられています。

 マスコミの報道は、どうしても病院や医師を悪者として取り扱う傾向にあります。それは、マスコミの使命として仕方がないのかもしれませんが、実際にはそのあたりの偏った見方を取り除いて事の本質を見極めなければなりません。

 私はこの事件を初めて聞いたとき、「解釈の仕方によっては、診療報酬請求が不正ととられかねない」程度であろうと思っていました。

 例えば、一部のマスコミの報道にあった「手術をしないと死ぬよ」と医師が患者に話していたという点については、おそらく次のような会話があったのではないかと考えました。

患者「先生、やっぱり手術が必要になるんですかね」
医師「そうですね、今手術をしておかないと、この前みたいに突然胸が痛くなって意識を失う可能性がありますよ。この前はたまたま近くにいた人が救急車を呼んでくれたから奇跡的に助かったけど、今度同じようなことがあれば命にかかわるかもしれませんよ・・・」

 心臓の手術の説明をおこなうとき、このような会話がおこなわれることはよくあります。これを患者側が過剰な解釈をすれば、医師に「手術をしないと死ぬよ」と言われた、となる可能性があります。

 ですから、私は当初は悪意をもったマスコミが、権力(この場合は病院)を叩くために、大げさな報道をしているのではないかと思っていたのです。

 ところが、その後、実際には手術をしていないのに手術をしたかのようにみせかけた偽りのカルテが発覚し、それを職員が認め、最終的には院長や理事長も認めた、との報道がおこなわれました。

 実情がここまで明らかになると、私の解釈が誤りであり、マスコミの報道が正しいことを認めざるを得ません。こんな病院があり、こんな医師が存在しているということが同じ医師としてにわかには信じがたいのですが、いったいなぜこんなことが起こってしまったのでしょう。

 「不正請求」という言葉は、しばしばマスコミに登場しますから、一般の方からみれば、他の医療機関でもこのような悪いことがおこなわれているのではないかと感じられるかもしれません。

 しかし、「不正請求」の大半は、悪意がない、というか、保険請求のシステムの関係で「不正」とされているだけです。例をあげましょう。

 最近喉が渇いて夜中にトイレに行く回数が増えたという45歳の男性が初診で受診されたとしましょう。この人がメタボリックシンドロームを示唆するような体型をしていれば我々医師はこの症状から糖尿病を疑います。糖尿病を疑っているわけですから、病名を「糖尿病の疑い」として、血糖値を測定します。検査をするにはそれに応じた「病名」を付けなければならない決まりになっているのです。

 さて、ここまではいいのですが、「HbA1C」という糖尿病の状態をより正確に示す項目も検査すべきだと考えることがあります。しかし、「HbA1C」は「糖尿病の疑い」という病名では認められず、「糖尿病」という病名が必要になります。このとき医師はどうするか。まだこの時点では糖尿病という診断が確定していないわけですから「糖尿病」という病名を付けることには抵抗がありますし、これ自体が不正な記載になると感じられます。そこで「糖尿病の疑い」という病名のままでHbA1Cを測定することになるのですが、こうすると「不正請求」とみなされて診療報酬が支払われなくなることがあるのです。(実際、太融寺町谷口医院でもこの理由で「不正請求」と見なされ支払いを拒否されたことがあります)

 このような例は他にもいくらでもあります。そして、「不正請求」の大半が、このように、少なくとも悪意はなく患者さんのためになる(と医師が考える)ものであり、病院の利益を目的としたような不正請求というのは、ほとんどの医師からすれば考えられないことなのです。ですから、今回の大和郡山市の病院の行為は、我々医師からみても許せるものではないのですが、それ以上に、信じられない・・・、というのが正直な感想なのです。

 なぜなら、病院がこのようなことをすれば、医療という社会システムそのものが崩壊の危機にさらされることになるからです。

 少し古い話になりますが、2005年に千葉県の1級建築士が、地震などに対する安全性の計算を記した構造計算書を偽造していた、いわゆる「耐震偽装問題」が報道されました。この事件は、一般市民を不安にさせただけではなく、ほとんどの建築関係者を落胆させたに違いありません。1級建築士も人間ですから、生涯を通して品行方正に暮らしているわけではないでしょうが、構造計算書を偽造、というのは何があっても、(端的に言えば命を差し出しても)してはいけないことではなかったでしょうか。つまり、この1級建築士は職業人としての”掟”に背いているわけです。

 大和郡山市の病院も同じことです。何があっても絶対にしてはいけないこと(「タブー」と言ってもいいかもしれません)をこの医師は犯しているのです。これは法律で裁かれる以上に、”掟”に背いた責任をとるべきであると私は考えています。

 個人的な話になりますが、私自身としては法律というものをあまり重要視していません。法律よりも大切なものが”掟”であり、それぞれの職業には職業人としての”掟”があると考えています。

 以前、ジャーナリストが取材源を露呈してしまうのは(それが故意でなかったとしても)”掟”に反する行為である、ということを述べました(下記コラム参照)。他にも、例えば、学校の先生が未成年の生徒に性的関係を強要したり、警察官が闇組織に情報を流したり、政治家が脱税していたり・・・、といった事件は、職業人としての”掟”に背くことになります。

 おそらく大和郡山市の病院の医師も、医師になりたての頃は、このようなことは思いもつかなかったでしょう。何かがきっかけとなり医師としての矜持を捨ててしまったのでしょうか。それとも、この医師の人格がもともと破綻していたのでしょうか。

 いずれにせよ、”掟”に背いた職業人が社会から許されることはないでしょう・・・。

参考:
メディカルエッセィ第64回(2008年5月)「職業人としての”掟”」

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2013年6月21日 金曜日

78 臓器移植法改正で闇の臓器売買は減少するか 2009/7/21

2009年7月13日、 「脳死=人の死」とすることを前提に、臓器提供の年齢制限を撤廃する改正臓器移植法(A案)が参院本会議で賛成多数で可決され成立しました。

 改正法は公布から1年後に施行されることになりますから、直ちに多くの「脳死=人の死」からの臓器が提供されるわけではありませんが、これで日本も国内での臓器移植が増えることが予想されます。

 今回の法改正の最大のポイントは「脳死=人の死」としていることと言えるでしょう。

 現行の臓器移植法では、<臓器を提供する場合に限って>脳死を人の死としています。それに対して、改正法では、脳死と判定されれば、それは少なくとも法律の上では「人の死」となるわけです。

 もちろん、残された遺族に対して、「あなたの息子さんは脳死と判定されましたので、すでに死亡しています。死亡されたんだから臓器をわけてくれてもいいじゃないですか」、などと医者が言うわけではありません。

 「脳死=人の死」というのは単に法律上の解釈にすぎないわけで、本質的な意味では脳死が人の死かどうかなどといった問題は誰にも分かりません。(その逆に、生命はいつ誕生するのか、つまり、生命誕生は受精時なのか、着床時なのか、死産届けが必要な妊娠12週以降なのか、あるいは母体から取り出されたときなのか、といった問題も誰も本質的な意味では答えられません)

 臓器移植に関して言えば、いくら法律上で「脳死=人の死」と言われても、自分の脳死後、あるいは自分の子供が脳死となったときに、臓器を提供しなければならないという義務はありません。生前に臓器提供を拒否していれば臓器が移植に使われることはありませんし、意思表示がはっきりしていない場合でも、遺族が臓器提供に同意しなければ移植されることはないのです。

 一方で、是非とも自分の臓器を使ってほしいという人もいるでしょうし、自分の子供が脳死になれば、子供が反対しなければ、あるいは子供に判断能力がなければ、自分の子供の臓器を必要な人に提供したいと考える親もいるでしょう。

 そのような臓器提供に積極的な考えをもつ人がいて、なおかつその臓器を必要としている人がいるなら、法律が妨げになるべきではない、と言えます。日本の法律が臓器移植を事実上妨げているから、海外に臓器を求める人がいるのは事実です。

 現行の法律では国内での移植手術が大変困難であるのが現実で、このような状況に目をつけて登場してきたのが臓器売買ビジネスです。臓器ブローカーが移植を必要としている患者さん、もしくは患者さんの家族を探し、同時に、海外(特にフィリピンと中国が多いと言われています)で臓器を提供したがっている遺族(臓器提供の見返りに報酬を受け取ることができると言われています)、そして、移植手術を貴重な収入源にしている病院をみつけ、それらをつなぎあわせるというわけです。

 こういった臓器移植は実際のところはどれほどの数になるのかははっきりと分かりません。合法なのか非合法なのかさえも曖昧なルートもあるようです。それに、臓器の提供者が本当に脳死だったのかどうか、つまり、本当は脳死の基準を満たしていないのに臓器を必要としている人のために(あるいは自分らの金儲けのために)脳死にされた人がいるのではないか、そのような噂は後を絶ちません。

 映画『闇の子供たち』では、日本人の心臓疾患のある子供(レシピエント)に心臓を提供した(させられた)のは、生きたタイ人の少女でした。もちろん、これはフィクションですし、実際にこのようなことはあり得ませんが、例えば、交通事故で意識不明、植物状態は免れないが脳死の基準を満たしていない・・・、このようなケースで脳死と判定されてしまうことは本当にないと言いきれるでしょうか。(これは私の憶測ではありますが)フィリピンや中国といった交通事故の多い国で、臓器をほしがる日本人、金儲けをしたいブローカーと悪徳病院、植物状態で寝たきりになる事故の被害者の家族、とそろったときに、脳死の判定基準は緩やかになってしまわないのか・・・、と思えてなりません。

 さて、日本の臓器移植法が改定されれば、日本人は日本人に臓器供給を、という流れになるのは間違いないでしょう。すでに世界各国から、日本人は(高い円で)外国人の臓器を買っている、と非難されてきました。これまでは、「法律が障壁となって自国で臓器が手に入らないから・・・」という言い訳ができましたが、法改正後は、この言い訳が通用しませんから、たとえ日本国内で臓器を提供してくれるドナーが見つかりにくかったとしても、これまでのように海外にドナーを求めて、というわけにはいかなくなるでしょう。

 ここでひとつ疑問を呈したいと思います。

 法改正で「脳死=人の死」となり、臓器提供のハードルが下がったときに、脳死の判定が、『闇の子供たち』のような極端な事態にはならないとしても、日本でも緩くなってしまわないか、という疑問です。

 もちろん脳死の判定には、いくつもの具体的な条件があり、複数の医師が判定に加わることになっています。悪い噂の耐えない国とは異なり、日本ではきっちりと判定がおこなわれるにきまっているじゃないか・・・、そう思う人がほとんどでしょうし、私自身もそのように思いたいのですが、私がどうしてもこの疑問をぬぐえない原因となっている事件が少なくとも2つあります。

 1つは「和田心臓移植事件」です。1968年8月8日、和田寿郎医師を主宰とする札幌医科大学胸部外科チームは、日本初となる世界で30例目の心臓移植手術を成功させました。しかし、後に”事件”と呼ばれるようになったことからも分かるように、この移植手術にはいくつもの疑問が残されています。詳細は割愛しますが、私が最も問題と感じている疑問は、脳死の判定基準が本当に守られたのか、という点です。実際、脳死判定にはかかせないはずの脳波が測定されていなかったことが後に判明しています。

 もうひとつは、最近奈良で発覚した「山本病院診療報酬不正受給事件」です。奈良県郡山市の山本病院が、生活保護受給者の診療報酬を不正受給していたことが2009年6月に発覚しました。この病院では、手術をする必要のない患者さん(主に生活保護受給者)に心臓カテーテル手術を施行し(手術を受ける必要のない生活保護受給者に「手術をしないと死ぬよ」と医師が話していた、という報道もあります)、さらに、実際には手術をしていないのに、手術をしたように虚偽のカルテを作成していたことが関係者の証言で明らかにされました。(この事件は我々医療従事者にとっても大変ショッキングなものでした。いずれこの事件については詳しく取り上げたいと思います)

 たしかに、心臓カテーテル手術と移植手術はまったく異なるものですし、移植手術の場合は、レシピエントだけでなくドナーが必要となります。しかし、ドナーについては、山本病院のように生活保護受給者にターゲットを絞ったとしたら・・・、そもそも生活保護受給者は身寄りのない人が多いわけで、そのような人が脳死には至らないものの植物状態になったとしたら・・・、そして臓器が必要な人がいたとして(実際いくらでもいます)、さらにそれらをつなぐブローカーが現れたとしたら・・・。

 現在のシステムでは、臓器移植を希望する人は日本臓器移植ネットワークに登録することになっています。そして脳死の判定は厳格にされていますし、臓器移植手術をおこなうことができる病院は厳しい基準で選別されています。ですから、日本国内で闇の臓器売買などは起こるはずがないのですが・・・。

 私の危惧が杞憂であることを祈ります・・・。

参考:
NPO法人GINAウェブサイト「GINAと共に」第27回(2008年9月)「幼児売春と臓器移植」
メディカルエッセィ第45回(2006年10月)「臓器売買の医師の責任(前半)」
メディカルエッセィ第46回(2006年11月)「臓器売買の医師の責任(後半)」

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2013年6月21日 金曜日

77 大学病院の総合診療科の危機 その2 2009/6/20

さて、マスコミの報道によりますと、大学病院の総合診療科が廃止に追い込まれている理由として次のようなものが挙げられています。

①利用度が上がらなかった。
②専門の診療科の方が患者に人気がある。
③総合診療を担当する医師が少ない。
④総合診療は時間がかかる割には、手術や高額な検査を行わず、経営側から見れば不採算部門。
⑤臓器別の専門診療科よりも地位が低く見られがちなことも、医師側に不人気。

 これらを順にみていきましょう。

 まず、①の「利用度が上がらなかった」ですが、大学病院はそもそも他の医療機関からの紹介状がなければ受診できない病院です。したがって、大学病院の総合診療科を受診する患者さんというのは、診療所/クリニックや地域の病院で診断がつかず、どこの専門科を受診すべきかが分からない(もしくはその時点では専門科を受診すべきでない)と医師が診断した症例に限られます。このような症例はそれほど数が多いわけではなく患者総数が多くないのは当然のことです。

 また、大学病院にもときどき紹介状を持たずに受診する人がいますが、たいていは”門前払い”をされます。これは、見方によっては「医師の応召義務違反」となるかもしれませんが大学病院の役割を考えればある程度は止むを得ないことです。しかし、紹介状がないからといって強い症状のある患者さんに帰ってもらうわけにはいきませんから、紹介状がなかったとしても急いで診察・治療をする必要のある場合はこの限りではありません。したがって、こういうケースでは総合診療科が診察することがあります。ただしこの場合も症例数としてはそれほど多いわけではありません。

 ですから、大学病院の総合診療科を受診する人というのは、初めから限られているのです。

 次に②の「専門の診療科の方が患者に人気がある」ですが、これも①で述べた理由と同じで、大学病院には他の医療機関からの紹介状を持参した患者さんが受診するのが原則であり、その紹介状の宛名は、「総合診療科」ではなく「脳神経外科」「消化器内科」など専門科になっていることがほとんどであることを考えると当然のことです。患者さんは紹介状に書かれた「科」を受診するわけですから、「人気のあるない」というのは少し論点がずれているような気がします。

 ③の「総合診療を担当する医師が少ない」というのも当然のことです。①、②で述べたように大学病院を受診する患者さんは、他の医療機関からの紹介状を持っているというのが原則です。一方、総合診療をおこなおうとする医師の多くは、紹介状持参の患者さんではなく、初期診療(一番最初の診察)をすることに重きを置いています。患者さんが健康上のトラブルを抱えたときにまず受診するのは大学病院ではなく地域の診療所やクリニックですから、大学病院で総合診療を学ぼうと思っても限界があります。ですから、総合診療を担当する医師は小さな医療機関であればあるほど多く、大学病院では少ないのが理にかなっているのです。

 ④の「総合診療は時間がかかる割には経営的に不採算」というのは、医療を市場社会で考えるならその通りであって、医療機関を「利益を追求する組織」と考えるのであれば廃止になっても仕方がないのかもしれません。

 前回のコラムで例にあげたように、複数の訴えをもった患者さんが総合診療科には(太融寺町谷口医院にも)よく受診されます。このような患者さんを診察するとき、まず話を聴くだけでかなりの時間を費やします。患者さんが検査を望んでいたとしても、現時点では不必要と考えられるケースも多く、その場合、「なぜ今その検査が必要でないのか」を患者さんに納得してもらうまで説明しなければなりません。そのため診察に30分以上もかかって検査や薬は一切なし、なんてこともよくあります。これでは経営的に成り立たないのです。

 しかしながら、医療というのは本来市場社会には馴染まないものです。医療機関と言えどもある程度の利益を出して税金を払うことができなくなれば倒産してしまうのは事実ですが、医療従事者たる者が利益を追求するようになってしまえば、もうそれは医療とは呼べないのではないでしょうか。現実と理想のバランスをとるのはむつかしいことかもしれませんが、「経営的に不採算だから総合診療科を廃止する」というのは寂しく感じます。

 ⑤の「臓器別の専門科より総合診療科の地位が低くみられる」というのは私にはよく分かりません。「科」によって序列があると考える人がいるということなのだと思いますが、おそらくそのような”地位”を気にする人は、「職業に貴賎はない」という言葉をキレイごとと捉え、医師と他の職業の間にも”序列”を考えているのではないでしょうか。

 さて、大学病院における総合診療科が廃止に追い込まれているのは事実だとしても、その一方で、民間病院の総合診療科に人気があるのもまた事実です。実際、総合診療に力を入れている病院には、研修医の就職希望が集中しています。(こういった病院の多くは、給与は決して高くありません。給料ではなくやりたいことを求めて多くの研修医が希望をしているのです)

 また、総合診療関連の学会や研究会も大変盛り上がっており、今月開催される予定だった総合診療関連の大きな学会は、定員の定められているワークショーップのほとんどで申し込みが殺到し随分早くに締め切られていました。(この学会は新型インフルエンザの影響で8月に延期されることになりました)

 では、総合診療科は民間病院にのみ意味があって大学病院には存在価値がないのかというと、決してそんなことはありません。やはり大学病院というところは、いろんな情報がいち早く入ってきますし、いろんな人材が豊富ですから、総合診療を学ぶという点においては大変有益な場です。

 私が大学の総合診療科で学んでいた頃は、週に1~2回、大学病院の総合診療科外来で研修を積み、それ以外は地域の診療所やクリニックに勉強に行っていました。大学病院でのカンファレンスや症例検討会というのは大変充実しており、一般病院でのカンファレンスにはない良さがあります。その症例が治癒に至ったとしても、その過程において学術的な観点からとことん討論を重ねるような形式はやはり大学病院特有のものだと思われます。また、大学にいれば各専門科の医師にすぐに質問しにいけるというメリットもあります。

 大学病院の総合診療科が廃止になるのは大変残念なことです。大学病院の利点をいかしながら、地域の病院や診療所/クリニックと連携をして、営利を追求するのではなく、幅広い知識と技術を学べるような総合診療の教育・研修システムが構築されることを願います。

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2013年6月21日 金曜日

76 大学病院の総合診療科の危機 その1 2009/5/20

このウェブサイトでは何度も紹介していますが、「総合診療科」というのは、患者さんの臓器のみをみるのではなく、患者さんを総合的にみることを重要視しています。従来、医療機関というのは臓器別に細かく専門化されすぎていましたから、それを反省する意味もあり日本でも今から10年ほど前に注目を集めだしました。

 実際、2000年前後までに、総合診療科(「総合診療部」または「総合診療センター」と呼ばれることもありますがここでは「総合診療科」で統一します)は、およそ50の大学病院に設置されました。

 ところが、ここに来て大学の総合診療科が次々と廃止に追い込まれています。

 2005年9月に北海道大学が総合診療科を廃止し、2007年4月には杏林大学が廃止を決めました。2009年度からは京都大学が廃止、群馬大学は救急部と統合することになりました。また、2002年には島根大学が総合診療科設立の翌年に廃止を決めています。(報道は2009年4月20日の読売新聞)

 大学での総合診療科が次々と廃止されている理由を考える前に、まずはなぜ総合診療科が必要と考えられるようになったかについてまとめておきましょう。

 臓器別に診療をおこなうのが従来の日本の医療です。例えば、肝臓と心臓と皮膚に疾患のある人に対しては、肝臓、心臓、皮膚の診察を得意とする3人の医師がそれぞれ診察にあたるというわけです。

 このような診察方法のメリットとしては、それぞれの臓器のスペシャリストが担当するわけですから、例えば、その患者さんが非常に稀な病気にかかっていたとしてもその疾患を見逃される可能性は少なく、初めから最新で最適の治療が受けられることが期待できます。これは、患者さんからみてもありがたいことです。町の開業医のみを受診しているだけでは発見できなかった病気が見つかるかもしれないのですから。

 ではデメリットにはどのようなものがあるでしょうか。医師側からみたときには、いつも他の医師がどのような検査をおこないどのような薬を処方したかに注意を払わなければなりません。検査内容が重なってしまえば医療費の無駄遣いになりますし、患者さんにとっても二度手間になります。薬についても同じ系統の薬を処方することにならないか、また薬の相互作用についてもいつも考えていなければなりません。したがって、複数の医師を受診している患者さんに対しては、毎回「他の医師の受診で薬の変更や追加はないですか」と聞かなければなりません。

 患者さんからみたときのデメリットとしては、まずは3人の医師を受診しなければなりませんからお金と時間がかかります。お金の問題はさておき、時間は大変なものです。これだけ医師不足が深刻化している日本では、ひとりの医師に診察してもらうまでの待ち時間はかなりのものになります。3人の医師を受診するのに1日では不可能な場合もあるでしょう。また、同じ話を何度もしなければならないでしょうし、場合によっては採血を何度もしなければなりません。患者さんの気持ちとしては、「3人の医者が話し合って必要な項目を決めてくれれば1回の採血で済んだんじゃないの」、となるかもしれません。

 問題はまだあります。この例で言えば、肝臓、心臓、皮膚のそれぞれの疾患が独立したものであればいいかもしれませんが、例えば、肝臓と皮膚の疾患は同じことが原因で発症していた、というようなことがあった場合、それぞれのスペシャリストを受診していたときには発見が遅くなるかもしれません。なぜなら、患者さんとしては肝臓の医師には肝臓に関することだけを話し、皮膚の医師に対しては皮膚のみについての症状を話すことになり、その関連性が問診から読み取れなくなることがあるからです。

 仮に人間の身体はA,B,Cの3つの臓器から成り立つとしましょう。この場合、「A+B+C=人間」となるわけではありません。必ず「A+B+C<人間」となります。少し形而上学的に言えば、「部分の総和と全体は同じでない」ということです。なぜなら、AとB、BとC、CとAの相互性・連関性にも意味があり、さらにA,B,Cの3つがそろったときに初めて現れる事象や意味が存在するからです。

 抽象的なうんちくはこれくらいにして話を元に戻しましょう。

 例えば、次のような患者さんがいたとします。

 32歳女性。営業職。2~3ヶ月前から食欲がなくなり、ときどき吐き気がする。1ヶ月くらい前からめまいも自覚するようになり、先週は2回ほど動悸があった。最近、肌のつやがなくなってきたような気がするし、先月には円形脱毛もできた。夜に眠れないことがあるし、最近イライラすることが増えた。これまでなかった生理不順が目立つようになってきた。花粉症が今年から始まったのか目のかゆみと鼻づまりが気になる。

 さて、もしもすべての医療機関が臓器別にしか診察しないとすると、この患者さんはいったいいくつの科を受診しなければならないでしょうか。食欲不振+吐き気→消化器内科、めまい→脳内科もしくは脳外科、動悸→循環器内科、肌+脱毛→皮膚科、不眠+イライラ→精神科、生理不順→婦人科、目のかゆみ→眼科、鼻づまり→耳鼻科、といったところでしょうか。

 営業職で忙しいこの女性がこれだけたくさんの科を受診することは現実的でしょうか。この女性のように複数の悩みがある人は実際にはいくらでもいます。では、このような人たちはどこの医療機関に行けばいいのでしょうか。

 こういった悩みをもつ人に対して最初に対応すべきなのが総合診療科なのです。(総合診療と同じように使われる言葉に「家庭医療」「プライマリケア」というものがあり、定義の仕方によっては意味がそれぞれ少しずつ異なる場合もあるのですが、ここでは同じ意味とします。以下も「総合診療」で統一します)

 大学病院や大病院の診療科が臓器別になっていることからも分かるように、医学教育も臓器別におこなわれています。ただし、臓器別の教育には有効な面も非常に多く、学生や研修医の立場からしても医学を理解する上で臓器ごとに学ぶことは絶対に必要です。

 しかし、それだけでは実際の患者さんには対応できないのです。そのことに気づいていた私は、2年間の基礎研修を終えた後に大学の総合診療科の門を叩くことになりました。(実は、私が総合診療科の医局に入ろうと考えたのは、タイのエイズ施設でボランティアをしていたときに欧米の総合診療科医たちが臓器にとらわれずにどのような症状にも対応していたのを見て感銘を受けた、というのもひとつの理由なのですが、ここでは詳しくは述べないでおきます)

 大学の総合診療科に入った私は、早速大学病院を受診される患者さんの診察(上級医の診察の見学や補助)をおこなうようになりましたが、自分が思うような成果が得られないことに気づきました。大学病院を受診される患者さんには一定の特徴があり、大学病院の患者さんを診るだけでは本当の意味での総合診療ができないと感じたのです。

 私が感じたこのようなことと、今回のテーマである「大学病院で総合診療科が廃止」には関係があるように思えます。次回はそのあたりについてお話したいと思います。

つづく

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2013年6月21日 金曜日

75 医師をだます詐欺師たち 2009/4/20

2009年4月7日、秋田地裁は20代の女性とその同居人の20代の男性に対し、詐欺罪の有罪判決を言い渡しました。判決は実刑で、女性には懲役2年6月(求刑懲役3年6月)が、男性には懲役1年6月(求刑懲役2年)が言い渡されています。

 マスコミの報道によりますと、この事件は、主犯の41歳の男性がその妻(30代)と上に述べた2人と共に、(さらに一部の報道によると合計20人余りで)、実態のない架空の会社を設立し、うつ病で働けなくなったと社会保険事務局などに虚偽の申請をおこない、傷病手当金合計5,500万円をだましとったとされています。

 傷病手当金は、申請は社会保険事務局などにおこないますが、申請するには医師の証明(診断書)が必要になります。主犯の41歳男性は、医師に「うつ病」と診断させるためにマニュアルを作成し、医師にどのように症状を伝えるべきかを指示していたそうです。

 この事件は悪質極まりない断じて許すことのできないものでありますが、このように医師をだますのはむつかしいことではない、ということについて論じてみたいと思います。しかしその前に、この事件についてマスコミの報道を振り返って少し詳しくみてみましょう。

 主犯の41歳男性(S氏とします)は、3年前に実態のない貴金属輸入販売会社を北海道に設立しました。全国7カ所に架空の支店を置き、約20人の社員にうつ病と偽らせて、傷病手当金を申請させていました。北海道警察は、会社設立の目的自体が手当金の詐取で、約7都道府県の社会保険事務局から計5,500万円を受給し、社員と山分けしたとみています。

 S氏は、インターネットなどでうつ病の症状を調べ、うつ病による手当金受給者の体験談や症例が書かれた資料を社員に配布したそうです。「よく眠れない」「動悸(どうき)がする」「物事をやるのがおっくうだ」など、受診時に医師に訴えるべき具体的な内容を指示、さらに実技指導もしていたといいます。また、仲間には受診する医療機関も分散させ、発覚するのを予防したとも報じられています。

 さて、この事件を一般の人が聞いたときにどのように思われるでしょうか。なかには、「患者にだまされるなんてバカな医者だなぁ」とか「こんな詐欺師にだまされるのはヤブ医者だけじゃないの」などと感じる方もいるかもしれません。

 しかし、患者側が上手に演技をすればなかなかその嘘を見破れるものではありません。とくに今回の「うつ病」のように精神疾患の場合は、診断が非常にむつかしく、患者さんの訴えが診断の決め手になることも少なくないのです。

 例えば、ガンに違いないと思っている人、HIVに感染したに違いないと思っている人(いずれのケースも太融寺町谷口医院にはよく来ます)になら、画像検査や血液検査で、「あなたは病気ではないんですよ」と伝えることができます。

 ところが、精神疾患の場合、(特にうつ病では)、客観的な血液検査や画像検査などでは分かりませんから、患者さんの主張が最重要の所見となります。(心理テストのようなものもありますが、画像や血液検査に比べて”絶対的な”基準になるわけではありません。また2009年4月から一部の医療機関で「光トポグラフィー」という脳の活動を測定する器械を使った検査がおこなわれており、うつ病の診断に役立ちますが、あくまでも”補助的な”ものです)

 以前、臓器売買であることを見抜けずに腎臓移植をおこなった医師が非難されるのはおかしい、ということをこのコーナーで述べましたが(下記コラム参照)、その事件も、患者側が「この女性は親族です」と嘘をついて医師をだましていたのです。

 おそらく、患者側の立場に立って一生懸命に治療しようという思いが強ければ強いほど、患者側の嘘にひっかかってしまうでしょう。もちろん、今回のような詐欺を考える輩がいることは我々医師も認識してはいますが、その演技力が巧みであればやはりだまされてしまうことはあるのです。今回の報道をみる限り、「うつ病」と診断した医師(精神科医)が非難されていないことに対して私はマスコミを評価したいと思います。

 さて、問題はこれからも同様の事件がおこらないかということです。

 今回の地裁の判決が、執行猶予がつかず実刑となったことは評価されていいと思います。私は法律には詳しくありませんが、こういった犯罪は実行されなくても企てただけでも罪にすべきと考えています。このような事件が模倣となって繰り返されるようなことは絶対にあってはならないからです。

 なぜなら、このような事件が次々と繰り返されるようになれば、本当にうつ病や他の病気に罹患している人が本来すべき申請をしにくくなる可能性があるからです。「私の症状はうつかもしれないけど、病院でそれを疑われて不快な思いをするのなら、受診しないでおこう・・・」、このように考える人がでてくるとすればそれは問題です。

 うつも含めて精神症状を抱えている患者さんは、おそらく他人には言えないようなことも医師の前では話します。私は精神科医ではありませんが、プライマリケア医(家庭医)として患者さんの心の悩みを聞くことがよくあります。なかには、「そのようなことを、よく話してくれたね」と、他人に知られたくないようなことを勇気を出して話せたことに、こちらが感動するようなケースもあります。

 その心の悩みが深刻であればあるほど、なんとか力になりたい、と感じます。自分の診療能力を超えると判断したようなケースであれば、精神科専門医を紹介するようにしていますが、患者さんが当院で治療を受けたいと強く希望されるような場合は、太融寺町谷口医院で診ることもあります。

 当院でこのように感じているのは私だけではありません。看護師や他のスタッフも同じ思いです。(当院では、カウンセリング経験の豊富な看護師による1時間単位のカウンセリングをおこなうこともあります) 

 なんとかして患者さんの力になりたい・・・。その思いが強ければ強いほど、演技力巧みな詐欺師にかかれば騙されやすくなるでしょうし、また、その思いが強ければ強いほど、今回のような事件をどうしても許せないと感じます。このような詐欺行為は、医師・医療に対する冒涜であると私は思っています。

 医師側からみたときに、こういった詐欺師に対処する術というものは何もありません。「詐欺師を詐欺師と見抜くための講義」などはありませんし、そんな勉強をするくらいなら、日々進歩している医学の新しい知識習得に時間を費やすべきです。

 医師をだますのはそれほどむつかしいことではありません。しかし、医師をだますことは、医療に対する冒涜であり、本当に医療が必要な人の受診を抑制させる可能性があるということを強く主張したいと思います。

参考:メディカルエッセイ第45回「臓器売買の医師の責任(前半)」

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2013年6月21日 金曜日

74 レセプト電子化をめぐる論争 2009/3/23

「レセプト」という言葉は一般的には馴染みがないと思われますが、現在この「レセプトの電子化」をめぐって医療界では大変な論争が起こっています。一部には医師らが原告団を結成し国を訴えるところまで発展していますし、レセプト電子化に反対する医療関係団体を非難する日経新聞の社説が物議をかもし、日本医師会が記者会見で反論する事態にまで進展しました。

 話を整理していきましょう。まずは「レセプト」とは何か、からです。

 このウェブサイトでも何度かレセプトについては取り上げましたが、レセプトとは分かりやすく言えば、医療機関が患者ごとにどんな治療をしたかをまとめた診療明細書のことです。医療機関はこのレセプトを毎月「支払基金」という公的機関に提出します。支払基金は、レセプトを1枚1枚確認し、記入ミスがないかどうかとか、不正請求になっていないかなどをチェックします。問題がなければ、そのレセプトに書かれた保険点数に基づいて支払基金が医療機関に診療費(の7割)を支払うことになります。3割は受診時に患者さんが医療機関にすでに支払っています。

 要するに、医療機関側からみれば、レセプトとは支払基金に対する請求書のようなものです。

 医療界でもIT化を促進するために、このレセプトを完全電子化するよう討議がなされており、2011年度からは完全電子化が決まっています。「完全電子化」とは、医療機関は必ずレセプトの提出をオンラインでしなければならない、というものです。昔はどこの医療機関もレセプトは「紙」だったわけですが、もう紙のレセプトは受け付けられなくなることを意味します。

 さて、いったん2011年度からはレセプトの提出をオンラインでおこなわねばならないということが閣議決定されていたわけですが、医療関係者から次々に反対意見があがり、2月27日の自民党医療委員会でオンライン義務化に対する反対意見が相次ぎ、「完全電子化」から「原則電子化」になる見込みがでてきました。「原則電子化」とは、「原則としてオンライン請求しなければならないけれども例外も認めよう」とするものです。

 この「完全電子化」から「原則電子化」に軟化しそうな状況を受けて、3月9日、日本経済新聞の社説は「レセプト完全電子化を撤退させるな」というタイトルで、閣議決定どおり完全電子化しなければならない、という旨の論調を発表しました。

 日経新聞の主張をまとめると、以下のようになります。

・医療界ではIT化がさほど進んでおらず、2008年12月時点でのオンライン請求の割合は、病院では57%だが、診療所は4%にすぎない。歯科の請求にいたっては、いまだにすべて紙のレセプトに頼っている。

・オンライン請求義務化は、請求事務の効率化や人件費の圧縮を通じ、国民医療費の増大を抑えるのに役立つ。

・医療機関が診療報酬を請求する過程が健保組合や患者本人にガラス張りになり、過大請求や不正請求があった場合には即座に見抜けるようになる。

 たしかに、オンライン請求が義務化されれば、コンピュータがレセプトの誤りや過大請求、不正請求などを判別できるようになり、請求事務の効率化や人件費の圧縮が実現されるようになると思われます。現在は、紙のレセプトに対して、審査員がレセプトの誤りがないかどうかを1枚1枚チェックしています。

 きちんとした数字はみたことがありませんが、日本全国の医療機関から集まるレセプトの合計は毎月数千万枚になるでしょう。この1枚1枚を人間がチェックしているわけですから相当な人件費がかかっているはずです。もしも、この作業をすべてコンピュータがおこなうようになれば、かなりの初期費用がかかったとしても、長期的には大幅に医療費が削減できるはずです。ですから、私個人の意見としても、いずれオンライン義務化は実現しなければならない課題だと思っています。

 太融寺町谷口医院では、今月からオンライン請求をおこなっています。これをおこなってみると、実にラクなことが分かりました。技術的にいくつかクリアしなければならない点がありますが、いったんやり方をパターン化してしまえばそうむつかしくはありません。以前だと、紙を打ち出してそれを紐で閉じて提出しに行かなければならなかったのですが、オンライン請求だとこの手間も省けます。コンピュータに詳しいスタッフがいない当院では実施するまでにいくつもの壁がありましたが、実際にやってみると「もっと早く取り組んでいればよかった」というのが正直な感想です。

 ですから、オンライン請求というのは、医療機関にとってもメリットがあり、また審査員の人件費が大幅に削減できますから医療費自体がかなり抑制されるはずで、誰からみても優れた請求方法ということになります。(審査に携わっていた人が失業するかもしれないという問題はありますが・・・)

 しかしながら、実際の問題として2011年度から完全オンライン請求義務化が現実的かどうかという点については、もう一度検討しなおすべきではないかと私は感じています。

 その最大の理由は、オンライン請求をおこなうのにいくらかの設備投資をしなければならないということです。実際、医師会の調査によれば、オンライン請求が義務化されれば、設備面でついていけないという理由で、全体の8.6%もの医療機関が「実施されれば廃業を考える」と答えています。(3月2日の共同通信)

 もしも、全医療機関の8.6%が廃業するようなことがあれば、日本の医療は完全に麻痺してしまいます。地域によっては診療所が充分足りているところもあるかもしれませんが、そうでない地域も多いのです。もしも診療所の8.6%がなくなってしまえば、そこに通院していた患者さんが行き場を失います。他のクリニックを受診すればいい、という考えもあるでしょうが、ただでさえ待ち時間の長いクリニックがさらに待ち時間が長くなってしまいます。

 8.6%の医療機関の医師が廃業をしても、現在人手不足が深刻化している病院に就職すればいいという考えもあるでしょう。これは理論的にはその通りかもしれませんが、実際には相当むつかしいでしょう。なぜなら、「オンライン請求が義務化されれば廃業する」と答えている医師の多くは高齢の医師であることが予想されるからです。そういった医師たちの全員が、夜勤や当直義務もある病院勤務ができるとは考えにくいのです。

 このウェブサイトで何度も繰り返しているように、日本の医療の最大の問題は「医師不足」です。レセプトのオンライン請求が義務化されるようになって、本来なら(他の職種なら)とっくに引退している年齢で頑張っておられる高齢の医師たちが医療をやめてしまえば、現在より深刻な医師不足となってしまいます。

 そのあたりを役人や日経新聞の論客はどのように考えているのでしょうか・・・

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2013年6月21日 金曜日

73 なぜ初診時に尿検査が必要なのか 2009/2/27

それは私が小児科でトレーニングを受けていた頃の話・・・。

 生後6ヶ月の赤ちゃんが発熱と皮疹で入院してきました。発熱はごく普通の咽頭炎が原因で、皮疹は単純な湿疹でしたが、出生時から体重が少し少ないこともあって、しばらく様子を観察するための入院となりました。

 入院してたしか3日目だったと思います。その赤ちゃんの親御さんが当時研修医だった私を呼び止めて強い口調で尋ねてきました。

 「なぜ、この病院では尿検査をしないんですか! 熱は下がってません。尿がいつもより臭いから異常があるんじゃないですか。採血よりもまずは尿をみてください! 尿は簡単に取れるでしょ!!」

 この患者さん(赤ちゃん)は、体表から血管が見えないため採血をするのも点滴をとるのも一苦労です。小児科の外来で私が採血をするときに一度失敗したこともあって、親御さんの立場からすれば、「痛い思いをこんな小さな子にさせるんじゃなくってまずは尿をみてほしい」という気持ちになられたのでしょう。尿の臭いがいつもと違う、ということをしきりに強調されていました。

 一方、医師側からみれば、入院時の尿検査では異常がなく、血液検査では少し気になる点があったので、引き続き採血をさせてほしい、という思いがあります。親御さんが「尿の臭いが・・・」というのは、そのときの状況で言えば、我々からみてあまり重要度が高くなかったのです。

 しかしながら、この親御さんの言われていることはもっともなことです。

 尿を採取するのは、採血とは異なり痛みがありませんし、費用だって血液検査と全然違います。もっとも簡単にできる検査なんだから、なんでもっと積極的にしないんだ、という気持ちになるのは当然でしょう。

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 大きな病院でも小さなクリニックでも、初めて受診したときに受付で「尿検査をお願いします」と言われることが多いと思います。このとき、「今日は尿をみてもらいに来たわけじゃないのに、どうして尿検査が必要になるの?」と感じたことはないでしょうか。

 実は尿検査は、手軽にできて費用も安い上にたくさんの情報を得ることができます。ですから、どのような症状であったとしても、まずは尿をみることが診察の第一歩となることが多いのです。

 今回は、尿検査がどれだけ有用かという点についてお話したいと思います。

 まず、「手軽にできる」というのは説明不要でしょう。採血と違って”失敗”されることもありません。次に費用ですが、一般的な尿検査の場合、3割負担でおよそ90円です。(正確に言うと一般尿検査そのものの費用が80円、通常尿検査はその日に結果がでますから「迅速加算」というものが10円ついて合計90円となります)

 さて、簡単にできる一般尿検査でどれだけの情報が得られるかについては、実際の太融寺町谷口医院の患者さんを例にとってお話しましょう。(ただし、本人が特定できないように少々アレンジを加えています。似たような人を知っていたとしてもそれは偶然であることをお断りしておきます)

 まずは疲労感を訴えて受診した30代の男性です。アルバイト生活が長いため健康診断は受けていないと言います。初診時の尿検査で尿糖が2+、これだけで糖尿病であることが推測できます。その後の血液検査で糖尿病が確定し現在治療中です。

 もしもこの症例で尿検査をせずに、疲労感について延々問診をおこなっていれば糖尿病という診断にたどりつくまでにかなりの時間を費やしたかもしれません。

 次は、風邪でやってきた20代の女性です。これまで健康診断で異常を指摘されたことはないと言います。しかし、初診時の尿検査で蛋白が3+です。風邪とは関係ない可能性が強いですが、私は「最近むくみが気にならないか」聞いてみました。すると、「言われてみれば足がむくむような気がする。仕事が立ち仕事に変わったからだと思っていた」、とのことです。

 この患者さんには、風邪の治療をしてから、再度尿検査をおこなうとやはり蛋白尿が続いていました。今度は特殊な容器を渡し24時間尿をためてもらうと、多量の蛋白尿が検出されたため、腎臓専門内科のある病院を、紹介状を持って受診してもらいました。すぐに入院となりましたが、入院時の精密検査の結果、今後も経過観察が必要となるものの現時点では薬も不要、ということになりました。この患者さんは今も当院に定期的に通ってもらっていますが、蛋白尿は減少しており薬も不要の状態が続いています。

 30代女性のある患者さんが、めまいで受診されたことがあります。尿検査で白血球が3+だったため、尿を遠心分離して沈渣を顕微鏡で観察すると、やや重症の膀胱炎があることが分かりました。問診表には書いていなかったものの、「最近トイレが近くないですか」と聞くと、「なんで分かったんですか?! トイレに行っても少ししか出ないんです!」と答えられました。

 この患者さんの受診の原因であるめまいとは直接関係がありませんが、もし尿検査をしていなければ、せっかく医療機関を受診しているのに膀胱炎を見逃すことになったかもしれません。膀胱炎は重症化すると、細菌感染が腎臓まで到達し、発熱や高度の倦怠感を来たすこともあります。

 その他、水虫で来院した50代男性の患者さんの初診時の尿検査で血尿がみつかり、そこから膀胱癌が分かったケース、花粉症で来院した40代女性の尿検査でウロビリノーゲン尿が見つかり、そこから肝障害が分かったということもありました。

 ここでひとつ、注意点を述べておきます。尿検査は健康診断のときにも必ずおこないますが、労働安全衛生法で規定されている健康診断時の尿検査の項目は「蛋白尿」と「尿糖」のみです。したがって、上にあげたような、「尿中白血球」「血尿」「ウロビリノーゲン」などは、会社などでおこなう健康診断の項目には含まれていないことが多いと言えます。(福利厚生に力を入れている企業であれば、これらも検査してくれているかもしれませんが)

 手軽で安い尿検査をおこなうことで病気が早期発見できるかもしれません。我々は(特に初診の)患者さんを診るときには、そういうことを考えて尿検査をさせてもらっているのです。

注1 上に述べたように尿検査は大変便利で有用なものですが、患者さんに強要するものではありません。太融寺町谷口医院では、初診時の問診表で、尿検査を希望されるかされないかを確認するようにしています。

注2 尿検査で思いもしない病気が見つかった、という話をしましたが、厳密に言えば尿検査に関係ない症状で受診したときに尿検査をおこなえば「健康診断的な検査」とみなされ医療保険が適用されない可能性もあります。

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2013年6月21日 金曜日

72 都心の医療過疎とコンビニの薬 2009/1/23

医師をしているとマスコミからの取材を受けることがしばしばあります。私の場合、都心部でプライマリケアをしていること、HIV/AIDSに関するNPO法人GINA(ジーナ)の代表をしていること、医学部受験の本を出版していること、最近クリニックを医療法人にしたこと、などについて聞かれることが多いのですが、最近取材に来るマスコミの人々がよく口にされる言葉に「都心の医療過疎」というものがあります。

 これは、医師が不足しているのは何も僻地に限られたことではなく、都心に住んでいても簡単にかかれる医療機関はそれほど多くなく、そのためいざ医師にかかろうとしたときに病院を探すのに大変苦労することが多いというものです。

 「都心の医療過疎」という言葉があらためてクローズアップされるようになったのは、おそらく墨東病院の妊婦死亡が報じられたことがきっかけだと思われます。この事件は、2008年10月4日、東京都内の36歳の妊婦さんが、7つの病院に受け入れを断られ、一度受け入れを断った都立墨東病院に最終的に搬送され手術を受けたものの結果として死亡したというものです。

 大都会東京に住んでいながら、救急搬送を受け入れてくれる病院がなかなか見つからないというのは大きな問題です。この最大の理由が絶対的な医師不足です。

 そして、医師不足による「都心の医療過疎」というのはもっと身近なところにも存在します。

 昨年末からインフルエンザを含めて様々な風邪がはやっていて、今年(2009年)になり高熱や喉の痛みを訴える患者さんが急激に増えています。特にインフルエンザは深刻で、全国各地で警報が出されたり、学級閉鎖に追い込まれたりしています。

 太融寺町谷口医院は、大阪市北区の都心部にあり、日中なんとか仕事をがんばり通し、仕事が終わってから風邪症状で受診される会社員の方が大勢おられます。そして、あまりにも大勢の患者さんが来られますから待ち時間が大変長くなります。特に午後7時以降は、日にもよりますが風邪症状の患者さんでいっぱいになることもあります。

 しんどい思いをしてなんとかクリニックまでたどり着いてそこで2時間待ち、なんてこともあります。そんなとき、我々は他の医療機関を受診できないか調べるようにしていますが、こういう日はたいがいどこの病院・クリニックに問い合わせても、「うちも2時間以上の待ちです」、と言われることがほとんどです。

 これが日本の都心部の医療情勢の現実なのです。もちろん、日本全体でみたときには、よく指摘されるように産科や小児科、また僻地での医師不足の方が深刻なのは間違いないでしょう。しかしながら、都心部についても程度の差はあったとしても医師不足で患者さんが気軽に医療機関を受診できないという現実があるのです。

 私が特に医師不足を実感するのは、午後7時以降と土曜日の午後です。(太融寺町谷口医院は、日曜日は診察していませんので日曜日のことはよく分かりませんがおそらく状況は同じだと思われます)

 大阪市北区で言えば、午後7時以降と土曜日にあいている医療機関が極めて少なく、この時間帯に診察を希望する人のニーズにまったく応えることができていないのです。

 ところで、2009年4月から薬事法が改正され、これまで薬局やドラッグストアでのみ売られていた薬が、スーパーやコンビニ、電気量販店などでも販売できるようになります。これまではこういった薬を扱うのには薬剤師を置かなければなりませんでしたが、4月からは薬剤師も不要になります。(ただし一部の薬の取り扱いについては従来どおり薬剤師を置かなければなりません)

 薬がどこででも買えるようになるだけではありません。これまでどこの薬局でも価格が同じものであった薬も、安売りができるようになります。

 これは、一般の方々からすると”朗報”でしょう。これまで薬局でしか売っていなかった薬がスーパーやコンビにで、しかも安く買えるわけですから。

 これに対し医療者のなかにはこの薬事法改正を疑問視する人がいます。「患者側の判断で薬を買って、副作用がでたり余計に症状が悪化したりしたときにどうするんだ。初めから医療機関を受診していればそのようなことにはならなかったのに・・・」、というふうに考えるのです。

 たしかにこれは一理あって、例えば水虫と思い込んで薬局で自分自身の判断で水虫の薬を買って余計に悪くなったから医療機関を受診したという患者さんがときどきおられます。足の痒みや皮疹は水虫とは限りません。水虫の薬を付けたがために余計に症状が悪化したり、その薬でかぶれたり、その薬をぬっているせいで診断がつくのが遅れたり、といったことはときどきあります。

 こういうことがしばしばありますから、薬はできるだけ病院で処方すべきという医療者側の考えも合理的なのですが、それでも患者側の立場からみれば、「どこの病院に行っても長時間待たされるじゃないか。それに薬だけでみればたしかに保険が使えて安いけども、診察代や検査代などで結局高いお金がかかるじゃないか」、ということになります。実際、治療費が高いという理由で医療機関を受診するのを控えたという人が4割にものぼるという調査もあります。(詳細は、医療ニュース2008年12月28日「「医療費が高いから受診を控えた」が4割以上! 」)

 医療費については様々な角度からの検討が必要ですが、仮に医療費がもっと安くなるとして、医師が増えれば(ただし大幅に増やさなければなりませんが)少なくとも待ち時間の長さや開いている医療機関が少なすぎるという問題は解決します。スーパーやコンビニに行く気軽さで医療機関を受診、というのはいきすぎですが、夜間でも土日でも近くに開いている医療機関があれば、副作用のリスクをおかしてスーパーやコンビニで薬を買おうとする人はそれほど多くはないでしょう。近くに気軽に受診できる医療機関があり、しかもそれほど待たされないなら、まずは医師の診断で正しい診断をつけてもらって、適切な量の適切な薬を適切な期間処方してもらおう、と考える人が増えるでしょう。

 ただし、医療機関の数を増やし医師数を増やすといっても、今から新たに医師の養成を開始したとすると医学部入学から考えて10年以上の月日は必要です。また、その財源をどうするのだという問題もあります。ただでさえ高い医療費が、増加する医師をまかなうためにさらに高くなってしまい、結果として医療費の高さから医療機関を受診する人が減るようなことになれば本末転倒になってしまいます。

 けれども、そうは言っても現在の医師不足は相当深刻です。せめて多くの方が医師という職業を目指してもらえたらなと切に願います・・・。

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2013年6月21日 金曜日

71 病気の予防に王道なし 2008/12/20

「たらたら飲んで、食べて、何もしない人の分の金(医療費)を何で私が払うんだ」

 これは2008年11月20日に開かれた政府の経済財政諮問会議で、社会保障費の抑制を巡って麻生太郎首相が発言したと報道されている言葉です。(報道は11月28日の読売新聞)

 麻生首相は、与謝野経済財政相が社会保障費の抑制や効率化の重要性を指摘したのを受けて、自身が出席した同窓会の話を紹介しながら、「67歳、68歳で同窓会にゆくとよぼよぼしている。医者にやたらかかっている者がいる」、「彼らは学生時代はとても元気だったが、今になるとこちら(首相)の方がはるかに医療費がかかってない。それは毎朝歩いたり何かしているから」と発言した、とされています。

 何もしない人の分の医療費を何で私が払うんだ、という言葉を聞いて、我々医療従事者がまず言いたいのは、「ちょっと待って! 病気にならないように日ごろからいろんな努力をしている人も病気になるときはなるんですよ。そんなあなただって明日検査を受けてみるとガンが発見された、なんてこともあるかもしれませんよ」、ということです。

 たらたら飲んで、食べて・・・、の代表のように思われている糖尿病でも、10代の元気な少年少女が突然発症し、その後生涯にわたりインスリンの自己注射を余儀なくされる、なんてことも医療の現場にいれば珍しくないことです。また、悪性腫瘍の場合も、たしかに長年の喫煙が原因で肺がんになるというような場合も多いですが、若い女性がいきなり進行性の胃がんになった、ということもあるのです。

 したがって、「何もしない人の分の金を何で・・・」という言葉には反発したくなるのです。

 しかしながら、麻生首相の立場になって考えてみると、この言葉の意味が分からないでもありません。

 先ほど、健康に気を使っていても病気になるときはなるんだ、という話をしたばかりですが、生活習慣の不摂生が原因と思われる病気に罹患している人がいかに多いかということを医療の現場では日々実感します。メタボリックシンドロームという言葉はすっかり社会に定着してきたように思われますが、この状態になっている人のほとんどが患者さん自身にいくらかの原因があります。

 メタボリックシンドロームの条件である「肥満」は、体質や遺伝に左右されることもありますが、やはり自身の日ごろの行動の結果と考えるべきでしょう。

 では、日ごろから肥満に気をつけ、健康な身体を維持するにはどうすればいいでしょうか。

 麻生首相のように、「毎朝歩く」というのは大変すばらしい健康維持法だと思われます。一言に「毎朝歩く」と言っても、寒い日も雨の日もあるわけですし、前の晩に飲みすぎてしんどい、というようなこともあるでしょう。「毎朝歩く」という習慣を維持しようと思えば、確固とした意思と強い忍耐力が必要です。麻生首相の立場に立てば、こういう努力もしないで病気になった人は自分自身に責任がある、という気持ちになるのでしょう。

 若い人の場合は、もっと積極的な運動をするのがいいでしょう。大きな負荷をかけて筋トレをおこなったり、歩くのではなく走ったり泳いだりするのもおすすめです。私は、よく患者さんにスポーツジムに通うことをすすめますが、ジムに通うことは「保険のきかない予防治療」と考えています。

 運動以外にはもちろん食事が大切です。どんなものを食べればいいですか、というのもよく患者さんから聞かれる質問です。巷では「1日30品目以上」とか「粗食がいい」とかいろいろ言われますが、私個人としては”適正な体重とウエストラインを維持していれば”好きなものを食べればいいと考えています。肥満が多くの病気の原因になるわけですから、まずは太らないこと!、これが最も大切です。

 ただし、食生活が極端に偏ったものになると、体重とウエストラインだけに注目していればいいというわけにはいきません。この点については定期的な健康診断を受けて血液検査などをおこなっていれば、異常があっても早期発見できるでしょう。

 さて、運動と食事が重要なことに異論のある人はいないと思いますが(それ以前に禁煙が大切なのは言うまでもありません)、例えば、「これを毎日服用すれば健康維持」とか「毎日1錠飲むだけで若返る」などと言われれば、安易に手をだしたくなるものです。ビタミンやミネラル、その他健康食品やサプリメントにはこのような思いがきっかけとなって飲み始める人が多いようです。

 こういった類のものが本当に健康や美容に効果があるなら試す価値は充分にあるでしょう。しかしながら、実際には、サプリメントの有効性については否定的な研究の方がずっと多いのが現状です。

 最近発表された研究から少し例を挙げてみましょう。

 まずはビタミンCとビタミンEです。この2つのビタミンは抗酸化作用があることがわかっており、老化防止や健康維持に有効ではないかと考えられてきました。ところが、これを否定する研究が増えてきています。

 例えば、医学誌『JAMA』2008年11月12日号に掲載された論文によりますと、中高年男性がビタミンEとCを長期的に摂取しても心臓病の抑制効果がないことが分かったと報告されています。ビタミンCもEも抗酸化作用があるため動脈硬化に有効と以前は考えられていましたから、この結果は多くの人をがっかりさせたことと思います。しかし、それだけではありません。ビタミンEに関しては、出血性脳卒中リスクが1.7倍にもなるという結果がでたのです。こんなことを聞かされるとビタミンEは身体にいいどころか有害になる可能性もでてきます。

 ビタミンBについても否定的な研究が発表されています。同じく『JAMA』の2008年11月5日号によりますと、ビタミンB群を大量に摂取しても女性のガンのリスクは減少しないことが分かったようです。これまでビタミンB群はガンの予防になると考えられていただけに、この結果も多くの人を落胆させていることでしょう。

 ビタミンだけではありません。頭がよくなり認知症を予防するサプリメントと言われているイチョウの葉は、実際には認知症予防効果がないとする研究が『JAMA』2008年11月19日号で発表されました。認知症を予防する薬は現在存在しませんから、イチョウの葉は大変期待されていたのですが、残念な結果に終わってしまいました。

 ではサプリメントや健康食品の病気の予防効果がまったくないかというと、そういうわけでもないでしょうが(このウェブサイトの医療ニュースでもときどき紹介しています)、やはり「病気の予防に王道なし」と考えるべきでしょう。

 すなわち、日ごろの食事と運動の地味な積み重ねこそが、最も信頼できる健康で長生きの秘訣だというわけです。

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