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2023年8月20日 日曜日
第240回(2023年8月) 「自然光」と「公園」が”抗うつ薬”になる
旧・谷口医院(太融寺町谷口医院)では2021年1月より、何の予告も挨拶もなく突然入居した階上キックボクシングジムの振動に苦しめられてきました。突然の振動に小さな悲鳴を上げ、身体を震わせる患者さんを前にし、我々医療者はいつ針刺し事故を起こしてもおかしくない環境を強いられ、私自身が精神的に次第に病んでいきました。裁判自体は「振動」の測定データのある谷口医院が有利でしたが、「もうこれ以上事故を起こすリスクを背負えない」と判断し、また、さんざん探した移転先が見つからなかったためにやむを得ず「閉院」を決めそれを公表しました。
ところが予想をはるかに超えた「閉院は困る」という声が届き、最終的には谷口医院に長年通院されている不動産会社の社長から現在の物件を紹介してもらい移転できることになった、という話は随所でしました。
2年7か月ぶりに「振動のない部屋」で仕事をするのは思いのほか快適です。旧・谷口医院ではたとえしばらく静かだったとしても突然ハンマーを落とされたような激しい振動を起こされ、壁や天井が揺れるなかで恐怖に耐えねばならなかったわけですからやはりあの環境は異常でした。その異常な環境に2年7ヶ月も苦しめられ、そしてようやく解放されたのですから快適なのは当然です。
それに、苦しくて恐怖感が消えなかったのは振動だけが原因ではありません。ジムの社長は一度会っただけでは顔を覚えられないような地味な風貌をしているのですが、話がまるで噛み合わず、対面時にはTシャツ、短パン、ビーチサンダルという恰好でやって来て「何か文句あんのか?」という態度。何を言ってもヘラヘラしているだけで、コミュニケーションが一切とれないのです。家主が何か対策をとってくれるのかと思いきや、振動で診察が続けられないことを伝えると「家賃を倍にする」と言われ、そんな無茶苦茶な欲求が認められないことを裁判で告げられると、今度は「谷口医院がビルを不法占拠している」と言いだして谷口医院を訴えてきたのです。
このようなキックボクシングジムと家主から患者さんとスタッフを守らねばならないわけで、今から振り返れば「よく神経がもったな」と思わざるを得ません。おそらくあのまま続けていればいずれ私の精神が破綻したでしょう。この2年7ヶ月は間違いなく私のこれまでの人生の最悪期でした。その地獄のような生活から解放されたのですから、現在は天国にいるようなものです。
しかし、8月14日から診察を開始し数日がたったとき、はたしてこんなにも気持ちがいいのはそれだけなのかと、ふと疑問が湧いてきました。なぜなら、「振動」から解放されたことで快適なのであれば、それはどこにいても同じように快適であるはずだからです。
しかし、実際に快適で気分が安定するのは新しい谷口医院に出勤したとき、なのです。自宅よりも職場にいるときに快適なのは、私が「仕事人間」の証ということなのでしょうか。初めはそうかな、と考えていたのですが、そのうちに妙なことに気付きました。出勤の際、遠回りしたくなるのです。帰り道に寄り道をする人は大勢いるでしょう。ですが、朝の慌ただしい時間にわざわざ遠回りして出勤する人がいるでしょうか。
もっとも、私の場合、朝の7時前後に出勤していますからかなり時間の余裕はあります。しかし、それにしても旧・谷口医院に用事もないのに遠回りして出勤したことなどただの一度もありません。
では、なぜ私は新・谷口医院にはわざわざ遠回りして出勤するのか。おそらく公園の横を歩きたい、あるいは公園を横切りたいからです。ただし、私が遠回りしたくなるのは晴れた日だけです。ということは朝の光が心地いいということなのでしょう。
新・谷口医院に到着し診察室に入ると、まず私は窓から外の景色を眺めます。特に特徴のある景色があるわけではなく、クリニックに面した道路の向こう側はマンションですから、他人の部屋の窓が見えるだけできれいな景色ではありません。しかし、窓は南側にありますから、季節にもよるのでしょうが、窓から差し込む光がなんとも言えない平和的な気分にさせてくれるのです。
こうなると「理屈」が欲しくなるのが私のクセです。もともと私は冬に抑うつ感が生じて春に解消されます。自分は「冬季うつ病」ではないかと疑ったこともあり勤務医時代の2005年にコラムを書きました。そこで、自然光が人を幸せにすることを示した研究がないかどうかを調べてみました。最初に見つかったのが「毎日の太陽光はあなたを幸せにするか? 幸福と天気の主観的な尺度(Does Daily Sunshine Make You Happy? Subjective Measures of Well-Being and the Weather)」で、研究規模が比較的大きいですし、タイトルから期待できそうだと考えたのですが、結局「自然光と幸福感の関係ははっきりしない」が結論でした。
もう少し調べると、一流誌「The LANCET」の2002年12月7日号に「脳内セロトニン代謝に対する太陽光と季節の影響(Effect of sunlight and season on serotonin turnover in the brain)」という論文が見つかりました。脳内でセロトニンが生成される速度は、日光にあたる時間に関係していて、明るさが増すと速度が急速に上がるそうです。「セロトニン=幸せホルモン」と単純化することに私は反対の立場ですが、とは言え私が晴れた日の朝に得ている幸せ感は朝の光で脳内に生成されたセロトニンのおかげかもしれません。
もうひとつ興味深い論文が見つかりました。医学誌「Building and Environment」2022年9月号に掲載された「家屋内での露光による幸福: 居住空間における幸福の認知と悲しみに対する自然光の影響(Enlightening wellbeing in the home: The impact of natural light design on perceived happiness and sadness in residential spaces)」です。
この研究が面白いのでちょっと詳しく紹介しましょう。研究に参加したのは750人。様々な部屋のシュミレーション画像を見てもらい幸せ感または寂寥感を評価してもらっています(シュミレーション画像の写真は論文に掲載されていますので是非見てみてください)。その結果、室内に差し込む自然光の量が多いほど、参加者はより強い幸福を感じることが分かったのです。そして、冬よりも夏の方がより強い幸福を感じるようです。窓の大きさも幸福感の因子になっているようで、壁に対する窓の割合が40%のときに最も幸せ感が強いそうです。参加者の年齢・性別も関与するようで、30歳未満の若者と女性はより強い影響を受けます。
偶然にも、私がいつも仕事をしている診察室の窓は壁のだいたい40%を占めています。窓は南向きのため早朝から夕方まで光が入ってきます。ということは、計らずも私は最適の環境を手に入れたということになるのかもしれません。
ところで私が寄り道をして通っている公園には晴れの日以外は行かないとはいえ「緑」という健康によさそうなものがあります。公園の横にあるマンションは家賃が高いと聞いたことがありますが、公園が健康に良いとする科学的なエビデンスはあるのでしょうか。
ありました。医学誌「International Journal of Environmental Research and Public Health」2014年3月号に掲載された論文「近くの緑地訪問と精神的健康: ウィスコンシン州の健康調査からのエビデンス(Exposure to Neighborhood Green Space and Mental Health: Evidence from the Survey of the Health of Wisconsin)」です。この研究によれば、近隣の緑地のレベルが高いほど、うつ病、不安、ストレス症状のレベルが有意に低いことがわかりました。
さらに興味深い研究が見つかりました。医学誌「People and Nature」2019年8月19日号に掲載された論文「都市の緑地を訪れた人は、Twitter上での感情が高まり、否定的な言葉が少なくなる(Visitors to urban greenspace have higher sentiment and lower negativity on Twitter)」です。人々が公園に訪問前、訪問中、訪問後にどのようなツイートをするかが調べられました。結果、公園訪問中のツイートは感情が(いい意味で)高ぶり、その後数時間はその感情が持続したことが分かったのです。
どうやら現在の私が快適な日々を過ごすことができるのは、キックボクシングジムが巻き散らす振動から解放されたことだけでなく、公園が近くにあって自然光が差し込む部屋で仕事ができるという非常に恵まれた環境のおかげのようです。上述したように、我々にこの物件を紹介し「閉院」の危機から救ってくれたのは不動産会社を経営している谷口医院の患者さんです。本当にありがたい話です。
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|2023年8月13日 日曜日
2023年8月13日 認知症になれば突然絵が上手くなるかも
このサイトでは認知症について繰り返し取り上げています。「〇〇で発症リスクが下がる」「△△は悪化因子だ」といった研究を数多く報告してきましたが、結局のところ認知症には決定的な予防法があるわけではなく、また有効性の高い治療法があるわけでもありません。ですから、自身や家族が発症すれば、割り切って上手くつきあっていくしかありません。
そして、場合によっては認知症になったからこそ新たな才能が生まれることもあることは知っておいた方がいいでしょう。一部の認知症になれば芸術的創造性が生まれるかもしれません。
医学誌「JAMA Neurology」2023年2月27日号に掲載された論文「前頭側頭型認知症における視覚的創造性、頻度、時期、脳の位置(Prevalence, Timing, and Network Localization of Emergent Visual Creativity in Frontotemporal Dementia)」を紹介します。
認知症にはいくつかのタイプがありますが、芸術的創造性が現れるのは「前頭側頭型認知症」と呼ばれるタイプの認知症で、認知症全体のなかのおよそ1%に相当します。この認知症がアルツハイマー型認知症など他の認知症と異なるのは、初期の時点で人格が豹変し、異常行動をとることが多く、周囲の負担がかなり大変になることです。そのため、認知症のなかで唯一「難病」に指定されています。
研究の対象となったのは、2002年から2019年までの期間に前頭側頭型認知症の診断がついていた689人です。689人中、17人 (2.5%) が視覚的芸術的創造性(visual artistic creativity, VAC)の基準を満たしました。
************
認知症患者は世界的に増えていますが、今回取り上げた前頭側頭型認知症は全体の1%に過ぎず、そのなかで視覚的芸術的創造性を発揮するのは2.5%ですから、認知症患者全体でみれば、このような芸術性が期待できるのは4千人に1人、非常に稀です。
しかし、認知症発症でこのような才能が生じるというのは興味深いと言えます。先述したように、前頭側頭型認知症は人格が変わっておかしな行動をとるので周囲は大変です。おかしな行動とは、例えば、他人に暴言を吐く、暴力をふるう、(男性患者なら)女性を強姦しようとする、万引きを繰り返す、などです。
芸術活動に夢中になって、こういった周囲が疲弊する事件を起こさなくなれば理想でしょう。
よく言われるように認知症を発症しても自分自身ではそれに気づきません。もしも、高齢になって突然絵がうまくなった、というようなことがあれば前頭側頭型認知症を疑うべきかもしれません。
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|2023年8月13日 日曜日
2023年8月 開業医は心身が健康である限り引退してはいけない
前々回のコラムでは、医師という職業は患者さんの病の苦痛を引き受け続けなければならないことから”幸せ”にはなれない、という私見を述べました。
「職場のストレスがひどくて……」と訴える患者さんに対し、私は「オン・オフを上手く切り替えましょう」と助言することがあります。つまり、退社時刻になれば仕事のことはきれいさっぱり忘れてプライベートを楽しみましょう、とアドバイスしているのです。
ですが、患者さんが医師の場合(あるいは看護師など他の医療者の場合も)はこのようなことを言いません。私自身がオン・オフを切り替えることができないからです。前回のコラムで述べたように、患者さんの苦痛を忘れることはできません。さらに、あくまでも私見ですが「忘れるべきではない」と考えています。
たいていの医師は、医師という職業を辞めず、医師以外の職業に転職する医師はわずかしかいません。また、早期リタイヤする医師も少数で、80代の医師も何ら珍しくはありません。「もういい年齢だから余生をゆっくり楽しみたい」と言って引退しても、そのうち医療の現場に戻ってくる医師もいます。もちろん、いったん引退したけれども再び仕事を始めるという人は他の業界でも珍しくありませんし、谷口医院の患者さんのなかにも少なくありません。ですが、「職業を替えず、引退もしない職業」をランク付けするとすれば、医師が第1位となるのではないでしょうか。
では、なぜ医師は引退しないのでしょうか。私はこの「答え」を、偶然にも、太融寺町谷口医院を閉院しなければならなくなったことで理解できました。
一般に「人はなぜ働くか」の答えは「生活するため」、つまり「お金を稼ぐため」です。では「一生食べていけるだけのお金があれば引退するか」に対して人はどのように答えるでしょう。「引退する」と答える人もそれなりにいると思います。実際、先述したように引退しても仕事を再開する人がいる一方で、きれいさっぱり仕事はやめて趣味の世界に生きる人もいます。谷口医院の患者さんでいえば、仕事をやめると覇気がなくなる人が多いのですが、なかには「趣味が充実していて楽しくて仕方がない」という人も(少数ではありますが)います。
ですが、ほとんどの人にとって働く理由は「お金のためだけではない」のはあきらかです。上述したように医療者でなくても「いったん退職したけれど再び仕事を始めた」という人はかなりたくさんいますし、引退せずに「可能な限り働き続けたい」という人も少なくありません。谷口医院の患者さんにも大勢います。その理由は「社会とつながっていたい」というものが一番多い気がしますが、「自分がいないと現場が回らないから引退できない」という人もいます。
後者の理由、つまり「自分がいないと……」に対しては、「いずれ引退せねばならないときが来るのだからそれは理由にならないのでは?」という意見があります。むしろ、「引退のタイミングを逃すと”老害”が出てくる」が現実です。
老害はどこの世界にもあると思いますが、医師の世界でもしばしば見受けられます。医師の典型的な老害を感じるのは「学会」です。演者の発表の後の「質疑応答」の場面で手を挙げて、「意味不明の自説」を延々と話し続ける高齢医師がいるのです。座長(司会者)が「時間がおしているのでそろそろ……」と終わらせようとしてもそれでも話をやめない”老害まるだし”の医師もいます。
若い頃活躍していた医師に限って、自身が認知症であると認められず、周囲のスタッフを困らせ、患者さんに迷惑をかけたり、さらに呼ばれていない学会に出掛けたり、頼まれてもいないのに会議に出席しようとしたりすることもあるそうです。
「週刊現代」がある医師の”末路”を負った記事があります。この医師はかつて「天才外科医」の名前をほしいままにしていた、医療者であれば誰もが知っている名医です。記事のなかでは仮名(かめい)が使われていますが、その仮名を見れば医療者ならこの医師が誰なのか容易に推測できます。これだけの名医が認知症となり、そして……。この記事は我々医師にとって最後まで読むのに耐えられないほど辛いものです。
人はいずれ能力が衰えるのですから、あえて早期に引退するのは一種の”美学”だとも言えます。ならば私も早期引退を考えてもいいのではないか。そう思って、太融寺町谷口医院の閉院を決めた1月、タイでボランティアをしながら永住する道やその他引退後のプランを具体的に思案していました。
ところが、私が大好きな西日本のある町で開業する医師から「診療所を引き継いでもらえないか」と言われ、その選択を考えるようになり、その医師から「これまで診てきた患者を見捨てられなくて……」という言葉が私を打ちのめした、という話を前回しました。
閉院を表明した1月以降、私は日々患者さんに「新しいところを紹介しますので閉院を許してください」と言い続けていたわけですが、怒り出したり、泣き出したりする患者さんが後を絶たず、不動産関連の仕事をしている人たちからは「自分が移転先を探しますからなんとか続けてください」などと言われました。なかには不動産業界とは無縁なのに、休日に街を歩いて移転先候補の物件を探してきてくれた患者さんもいました。
そんな患者さんたちを見捨てることなど誰ができるでしょう。では、移転先が見つかったとして(そして幸運にも実際に見つかったわけですが)、私はいつまで医師を続けるべきなのか。この答えはあきらかです。「私の診察を希望する人がいなくなるまで」、そして「私が診療を続けられなくなるほど心身が破壊されるときが来るまで」です。
これが分かった瞬間に「もう一度移転先を探し、そして絶対に見つけなければならない」と決意しました。そして、「老後の楽しみ」とか「引退後の第二の人生」といったものとは自分には縁がないことを自覚し、「私の診察を希望する人がいるのなら、体力、知力、認知力が続く限り診療を続ける」という決心がつきました。
過去のコラム「『偏差値40からの医学部再受験』は間違いだった」でも取り上げたシェークスピアの『As You Like It』に登場するセリフをもう一度紹介したいと思います。
All the world’s a stage, and all the men and women merely players. They have their exits and their entrances.(すべての世界は舞台だ。すべての男と女は単に役者を演じているだけだ。我々には初めから出口(退場)と入口(登場)が与えられているのだ)
日本語訳は私によるもので、韻も踏めていないし下手くそな和訳であることは承知していますが、それでも自分の言葉で訳したかったのは、このセリフが「人生の真実」を示していると考えているからです。この世界は誰にとっても”舞台”、そして我々一人一人はその舞台で演じる”役者”なのです。私に与えられた”役”は「体力が続き認知機能が保たれている限り、そして求める人がいる限り診療を続ける」なのです。
それを理解させてくれたのが、谷口医院の「閉院宣言」に反対し、怒り、涙を流し、休日に移転先の物件を探しに行ってくれたような患者さんたちなのです。
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