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2017年5月23日 火曜日
第172回(2017年5月) 医師に尋ねるべき5つの質問
医師の世界のことが世間では理解されていない、と感じることはしばしばあります。もちろんある程度は仕方がありませんし、「こんなに頑張ってることを知ってください」と言うつもりもありません。どのような業界でも少しくらいは世間から誤解されていることがあるのはむしろ当然でしょう。
ですが、その「誤解」のために、医師が大きな不利益を被る、さらに結果として多くの患者さんにも損失を与えることがあったとしたらどうでしょう。そのような「誤解」を世間に与えかねない「うんざりさせられるニュース」をまずは紹介したいと思います。
医師の情報サイト『M3.com』に「「増収のために不要な検査」は事実か」という記事(注1)が2017年5月3日に掲載されました。この事件のあらましをまずはまとめてみましょう。
2015年12月10日、当時69歳の女性が国立病院機構横浜医療センターに入院しました。診察の結果、心臓カテーテル検査が必要と判断され実施され、結果、心臓に異常はありませんでした。しかし、女性は「増収のために不要な検査をされた」という理由で病院を訴えました。
この女性は総腸骨動脈瘤という疾患が疑われて入院しています。総腸骨動脈は下半身にある動脈ですから心臓とは関係ないと思われるかもしれません。ですが、総腸骨動脈瘤が疑われるということは動脈硬化が進行している可能性があり、それならば心臓の血管の状態を評価しておくという考えは何ら間違っていません。ですから医療行為自体には「過失」があるようには思えません。
ですが、私は横浜医療センターに問題がないと言っているわけではありません。心臓カテーテル検査は多少なりとも危険が伴う検査です。ですから、緊急性がある場合を除き、その必要性と危険性を充分に説明し、また患者さんが充分に理解した上で実施しなければなりません。医師側が充分に説明したつもりであったとしても、結果的に患者さんが「知らなかった」と言えば、医師の過失の可能性が出てきます。これは同意書にサインがあったとしても、です。
したがって、危険性を知らされていなかったなら「説明義務違反」という理由で、医師や病院を訴えることには筋が通っています。ですが「増収のため」などあるわけがないのです。
横浜医療センターは国立病院です。国立病院も利益がまったくなければ存続できませんが、医師が「利益」を考えて仕事をしているわけではありません。そもそも、心臓カテーテル検査を実施しようがしまいが、その医師の給料が変わるわけではありません。上司から「今月は売上が少ないからあと〇件心臓カテーテル検査のノルマを課す」と言われるわけではありません。医師が考えているのはchoosing wisely(注2)です。つまり、「ムダな検査や投薬を減らす」のが医師がいつも考えていることなのです。
病院では、ひとりの医師が独断でものごとを決めるわけではありませんし、カンファレンスでは症例ごとに検討がおこなわれます。入院し心臓カテーテル検査を実施するような症例であれば必ずカンファレンスで取り上げられます。もしも不要かもしれない検査がおこなわれていれば、他の医師から猛烈な攻撃を受けることになります。(逆に必要な検査をおこなっていなくても責められます)
最近、医師は労働者かどうかという議論がよくおこなわれます。医師は拘束される時間が長く、病院に泊まり込むことも日常茶飯事であり、また自宅に戻っても勉強しなければなりません。どこまでを「労働」とみなすかが曖昧であり、医師の仕事は「聖域」だから労働法は適用されるべきでないという考えがあります。実際、日本医師会の横倉義武会長は2017年3月29日の記者会見で、「医師が労働者なのかと言われると違和感がある。(中略)医師の雇用を労働基準法で規定するのが妥当なのかを抜本的に考えていきたい」と述べました。
医師はお金のために働いているわけではない、と言うときれいごとに聞こえるかもしれませんが、これは大筋で事実です。病院勤務の場合、どの科であろうが給料が変わるわけではありませんし、歩合制でもありませんし、ノルマもありません。ですから、循環器内科医が、今月は〇件の心臓カテーテル検査を実施しなければ…、などという発想にはならないのです。
開業医の場合も(以前も述べましたが)、医療法人であれば解散するときに内部留保はすべて国に没収されますし、choosing wiselyをいつも考えています。我々が苦労するのは「いかに増収」ではなく、「いかにムダな検査や投薬を減らすか」です。「金払うって言うてるやろ!」と患者さんに暴言を吐かれながらも、我々は必要なことのみをおこなっているのです。
なんでこんな簡単なことが”聡明な”弁護士に分からずに「増収のため」などと言いだすのか…、と嘆きたくなりますが、おそらく実際には弁護士はそんなことは百も承知しているはずです。弁護士が裁判で「増収のため」という理屈を持ってくるのは、そういう戦略をとった方が裁判を有利に進められるからでしょう。それは、「とにかく勝てばよい」という弁護士の理屈に則れば正しくて、原告の女性には喜ばれるのかもしれませんが、社会には迷惑です。
このような報道がおこなわれると、「医療機関は増収のために検査をやることがあるんだ」と世間に思われる可能性があります。すると、患者さんと医師との間の信頼関係が損なわれることになりかねません。もちろん、すでに(信頼できる)かかりつけ医を持っている人はそのようには思わないでしょうが、今から医師を探すという人は、その病院が増収のための検査をしないかどうかを見極めなくては、と思うかもしれません。
さて、このニュースを読んで、どうにも「後味」が悪いのは、弁護士のうんざりさせられる戦略だけではありません。患者さんのためにおこなった心臓カテーテル検査を「説明を聞いていたら受けなかった」とどうして言われなくてはならないのか、担当医の立場に立てばとてもやるせない気持ちになります。担当医は、検査で異常がなかったことを患者さんに伝えるときには「きっと喜んでもらえるだろう」と思ったに違いありません。それが、患者さんから「説明をきちんと聞いていれば検査を受けなかった」という言葉が返ってきたというのですから悲しくなります。
もちろん、先述したように、どれだけ医師が一生懸命に説明していても患者さんが理解できていなければ医師の説明義務違反という「過失」になります。それは分かるのですが、なんとも寂しいというか、このようなニュースが増えると医療者側も患者側もお互いが疑心暗鬼になってしまい、コミュニケーションがうまくいかず治る病気も治らなくなるのではないかと危惧します。
こういう話題になるとよく出てくるのが「きちんとコミュニケーションをとりましょう」ということで、これは正しいのですが、具体的に患者さんが何をすればいいのか分かりません。そこで、すぐに使える医師への効果的な「5つの質問」を紹介したいと思います。といってもこれは私のオリジナルではなく、世界の多くのchoosing wiselyのウェブサイトに掲載されています。「choosing wisely five questions」でネット検索すればすぐに出てきます。その「5つの質問」を下記に記します。(この「5つの質問」は過去のコラムでも紹介したことがあります)
①その検査や治療は本当に必要なのでしょうか?
②その検査や治療にはどのようなリスクがありますか?
③もっとシンプルで安全なものはないのですか?
④もしもそれをおこなわなかったとすればどんなことが起こりますか?
⑤それはどれくらいの費用がかかりますか?
これを読んで「そんなこと、医師に聞くのは失礼では?」と感じる人もいるかもしれません。ですが、太融寺町谷口医院の患者さんは、日ごろからこういう質問をよくします。これにはおそらく「地域差」が関係しています。
以前、バンコクのホテルで勤務する知人(タイ人)に聞いた話があります。アメリカ人は何かあればすぐにフロントに文句を言ってくるのに対し、日本人は帰国してから「丁寧な苦情の手紙」を送ってくるそうです。おそらく大阪人はアメリカ人と”感性”が似ているのではないか、というのが私の意見です。
実はこの「5つの質問」、2017年2月に開催されたある学会で私の発表に取り入れました。その演題のタイトルは「大阪発のchoosing wisely」。この「5つの質問」を日本の医療現場で広めることができるのは大阪人をおいて他にはない、というのが私の言いたいことです。
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注1:下記URLを参照ください。
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|2017年5月23日 火曜日
第165回(2017年5月) ステロイドの罠と誤解
当たり前の話ですが、薬の使用はいかなるときも最小限にしなければなりません。たしかに長期間使用することを前提にした薬剤も多数ありますが、「少しでも減らす」ことを念頭に置いて開始しなければならないものの方が圧倒的に多いと考えるべきです。
前回の「はやりの病気」で紹介したベンゾジアゼピンはその最たるもので、依存症に苦しみ、離脱を試みても禁断症状に辛い思いをしている人が少なくないことを述べました。ベンゾジアゼピン以外で特に使用に注意しなければならないのは、鎮痛剤と抗菌薬であることも述べました。
今回は「ステロイド」の話です。ステロイドこそ、使用にはいくら慎重になってもなりすぎることはなく、わずかな使用でも副作用について熟知しておかなければなりません。では、なぜ前回のコラムで指摘した「慎重に使用しなければならない3つの薬」にステロイドを入れなかったのか。それは他の3種に比べて、使い過ぎて副作用に苦しむ人はそれほど多くないからです。
ですが、まったくいないわけではありませんし、離脱に苦しんでいる人も「3種」に比べれば少ないというだけであり、その苦しさはときに社会生活を制限されるほどです。例を挙げましょう。
【症例1】40代女性
通年性のアレルギー性鼻炎で、寝る前にセレスタミン(一般名は「ベタメタゾン・d-クロルフェニラミンマレイン酸塩配合剤」)を毎日2錠内服。それを6ヶ月継続しているとのこと。最近倦怠感が強く太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)受診。
この倦怠感とセレスタミンに関係があるかどうかは分かりません。しかし、セレスタミンを毎日2錠で6ヶ月は明らかに多すぎます。採血をおこなうとコルチゾールと呼ばれる体内で自然に合成されるステロイドの値が異常低値を示しています。ステロイドを飲んで血中濃度を上げれば自然につくられるステロイドホルモンが増えないのは当然です。「倦怠感とセレスミタンの関係は100%の確証をもって<ある>とは言えないが、セレスタミンをやめなくてはならない」と説明し、セレスタミンをゆっくりと減らしていきました。コルチゾールの値も少しずつ上昇し、半年後には正常値となり、倦怠感もすっかりなくなっていました。
実は似たような例は少なくありません。このセレスタミンという薬(後発品もたくさんでています)、漠然と長期投与されている例が目立ちます。症例1のように1日2錠ならまだ”まし”かもしれません。私がみた最も”ひどい”例は、1日6錠を1年間内服していた男性がいました。この男性は「前医からそんな強い薬とは聞いていなかった…」と嘆いていました。ちなみに、セレスタミンの添付文書には「用法」の説明として、「1回1~2錠を1日1~4回経口投与」と書かれています。1回2錠1日4回の内服を続ければ大変なことになります。
次はある意味でもっと”ひどい”例です。
【症例2】20代女性
アマチュアバンドのヴォーカリスト。東京在住。ステロイドを飲めば喉の炎症がとれていい声が出ると(本人が言うには)「知り合いの医師」に言われ、デキサメタゾンというステロイドを毎日内服。大切なステージの前には増量して内服しているとのこと。明日の大阪公演のため来阪したがデキサメタゾンが切れてしまっている。処方希望。
この女性、ステロイドの危険性をまるで理解していません。ただ、このケースは判断に迷います。この女性にとっての「明日のステージ」はステロイドの副作用よりも大切なものであることが理解できるからです。この女性はかかりつけ医をもっておらず、いろんな医療機関で同じステロイドを処方してもらっていることが判りました。そこで私は、危険性を充分に説明したうえで、「今回は処方するが東京に戻ってからかかりつけ医をもって相談すること」を条件に最小限の処方をおこないました。
たしかに風邪や大声を出したことで喉(喉頭)に炎症が生じた場合、ステロイドを内服すればその炎症が速やかに軽減します。ですから、谷口医院でも、例えば「あさってが自分自身の結婚式」とか「年に一度の合唱コンクールが明日」という場合は、危険性を説明した上で処方することもあります。けれども、これは例外中の例外であり、症例2の女性のように毎日内服などは絶対におこなうべきでありません。
ここでよくある「誤解」を紹介したいと思います。ステロイドを欲しがる人がよく言うのは、「世の中にはステロイドを毎日たくさん飲まなければならない病気もいっぱいあるでしょ」というものです。たしかに膠原病や炎症性腸疾患、一部の自己免疫疾患などで高用量のステロイド内服をせざるを得ないケースもあります。ですが、その場合、ほぼ確実に、骨がボロボロになり、おなかの周りにぜい肉がつき、肌はニキビに悩まされ、血糖値が上がります。精神状態が乱れることもあり、感染症にかかりやすくなり、そして寿命が短くなることは覚悟しなければなりません。こういった副作用を未然に防ぐために、いろんな薬を併用することになります。ですがすべての副作用を防げるわけではありません。
もうひとつよくある、これは本当によくある「誤解」を紹介します。それは「短期間なら安全でしょ」というものです。たしかに谷口医院でも、ごく短期間の処方をおこなうことがあります。適切なタイミングで適切な量のステロイドを使用しなければ、症状が悪化し入院が必要になることもあるからです。しかし、「短期間」が数日以上になれば問題です。
最近、ステロイド内服薬は短期間の使用でも、敗血症、静脈血栓塞栓症、骨折といったリスクが2~5倍に高まることが医学誌『British Medical Journal』2017年4月12日号(オンライン版)で紹介されました(注1)。この研究は米国でおこなわれ、1,548,945人分のデータベースが解析されています。ステロイド内服薬がわずか6日間使用されただけで、敗血症(感染症が重症化して全身に細菌が巡ること)のリスクが5倍にもなることが判ったのです。
この研究が興味深いのは、ステロイド内服がどのような目的で使われたかが調べられていることです。上位5つの疾患が、上気道感染症(いわゆる「風邪」のこと)、椎間板障害(頚部痛や腰痛など)、アレルギー、気管支炎、下気道疾患(肺炎のこと)です。これらはいずれもありふれた疾患ですが、ステロイド内服を使わなければならないケースはほとんどありません。谷口医院の例でいえば、これらの疾患にステロイド内服を処方するケースは年間数例で、処方期間はせいぜい2~3日です。
ただし、アレルギー疾患に対し、内服ではなく「吸入」「点鼻」「外用」などのステロイドを処方することはよくあります。過去にも述べたように(注2)、喘息は、上手にステロイド吸入を使うことによって症状が安定し、高い安全性を維持し、費用も安くつかせることができます。吸入ステロイドがなぜ安全かというと、作用するのは気道粘膜であり、血中には吸収されないからです。これは点鼻薬も同様です。「点眼」の場合は眼圧上昇に注意しなければなりませんから長期使用はNGです。外用は、皮膚の副作用を考慮しなければなりませんから最小限の使用にします。アトピー性皮膚炎の場合は、いかに早くステロイドを終わらせてタクロリムスにバトンタッチするかが基本です(注3)。
最後に、私の母校大阪市立大学医学部の石井正光元教授の言葉を紹介しておきます。
ステロイド一錠減らすは寿命を十年延ばす
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注1:この論文のタイトルは「Short term use of oral corticosteroids and related harms among adults in the United States: population based cohort study」で、下記のURLで概要を読むことができます。
http://www.bmj.com/content/357/bmj.j1415
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|2017年5月11日 木曜日
2017年5月 就職の相談
患者さんから就職の相談をされたときどうしていますか?
少し前、複数の医師と雑談をしていたときに私がふった話題です。そこにいた医師は全員が無言に…。どうやら私は場違いで無神経な発言をしてしまったようです。しばらくして一番ベテランの医師が言うには「そんな相談されない」とのこと。
一方、私は研修医の頃から就職についての相談をしばしば受けています。おそらくこの理由のひとつは、私が医学部再受験の本を上梓したからだと思います。私は今もFacebookやLINEなどのSNSを一切おこなっていませんが、クリニックやNPO法人GINAのサイトから相談メールがよく届きます。数年前までは、就職よりも医学部再受験についての相談が多く、就職については、看護師、作業療法士、臨床心理士といった医療系の仕事についてのものが多かったのですが、最近は医療系以外の相談、例えば大学生から新卒の就職について相談されることもあります。
質問や相談をする人のすべてが私の本を読んでいるわけではありません。おそらく日ごろから「困ったことがあれば何でも相談してください」と言っていることが原因のひとつでしょう。この「困ったことがあれば」というのは、一応は「医療のことで」という前提で話しているつもりなのですが…。恋愛相談を受けることもしばしばあります。以前は恋愛関係の相談はLGBTの人たちからのものがほとんどだったのですが、最近はストレートの人からも寄せられるようになってきました。もちろん私は万能カウンセラーではなく、それほど期待に応えられるわけではないのですが…。
ですが、困っている人を放っておくわけにはいきません。結果として役に立たないことの方が多いのですが、ほとんどの相談に対して返答しています。(一部、明らかにふざけたような質問は無視しています)
話を「就職」に戻しましょう。私がひとつめの大学(関西学院大学)を卒業した1991年はバブル経済真っ只中で「空前の売り手市場」と言われていました。今年(2017年)は、そのバブル時代以上に求人率が高いそうですが、91年当時の方が時代背景もあり企業側が”過剰な”対応をしていました。説明会は高級ホテルの立食パーティが当たり前、入社前に海外旅行を用意する企業や新車一台プレゼントしてくれる会社まであったほどです。ですからよほど「狭き門」の企業を目指さない限りは、就職試験で落ちるということがなかったのです。
また、医師はいつの時代も人手不足ですから、やはりよほどの「狭き門」の病院でない限り、就職できないということはありません。医学部の学生時代のアルバイトも、医学生自体が稀少な存在ですから、どこに行っても珍しがられてすぐに採用ということになりました。
つまり、私は「職を探す」ということについてこれまで一切の苦労をしたことがなく、試験や面接で落とされた経験が一度もないのです。常識的に考えれば、こんな私に就職の助言などできるはずがないのですが、ものすごく都合のいい解釈をすれば、私は「職探しで一度も失敗したことがない男」となるのかもしれません。また、今は人を採用する側にいますから、こんな人はNGでこういう人はOK、ということが多少は分かるつもりです。特に医療職についてはそれなりに助言ができると思います。
では、さっそく私が考える「職探しの極意」を紹介したいと思います。まず「就職」と「受験」は異なります。どちらも「運と縁」が関与しますが、受験に比べて就職はその傾向が桁違いに高くなります。そして、このことを初めから理解しておくべきです。もしも希望しているところに就職できなかったとしても、それはあなたに実力がなかったからではなく「運と縁」がなかったと考えるべきです。就職の場合、新卒時を除けば就職時期は「適宜」となるのが普通です。最近、私の友人が「超」がつくような優良企業に就職が決まりました。めったに中途採用をしない会社です。求人が出た時期と友人が職を探していた時期が”たまたま”重なり、さらに偶然にも他にめぼしい応募者がいなかったようです。
太融寺町谷口医院(以下「谷口医院)」でも、募集して新しい採用が決まり求人活動が終了したそのわずか数時間後に、職歴も志望動機も申し分がなく「是非一緒に働きたい!」と感じる人からの履歴書が届いたということが過去に何度かありました。そして採用した人が、1ヶ月もしないうちに”本性”を現し、とうてい医療者には向いていないことが判り…、仕事のパフォーマンスは最悪で患者さんからのクレームが後を絶たず…、ということも。
一般に(とはいえ、これは特に私に強い傾向があることは認めます)、就職希望者が「未熟ですが一生懸命がんばりますのでお願いします!」と熱意を強く訴え、そして「なぜここで働きたいのか」その理由がまともなものであれば、たとえ、これまでの経歴が不十分であっても、試験の点数が低くても、その熱意が高ければ採用に至ります。逆に「私のこれまでの経験で充分にやっていけます」というような態度の人は、谷口医院では不採用になることが多いといえます。
しかし、この採用方法はときに”裏目”に出ます。一度、面接時に泣きながら「前の職場で辛かった。新たに当院でがんばりたい」と強く訴えた看護師を採用したことがあります。しかし、採用後、最初のうちは多少の”がんばり”を見せてくれたものの、数か月もたてば、言われたことしかしない、言われたことも文句をつけてやらない、という態度に変わっていきました・・・。
ですが、私はこれでいいと思っています。「裏切られても信じることから…」というのが私の考えです。こういう医療者と接した患者さんには申し訳ないですし、開き直るわけではありませんが、もしも当院の医療者が患者さんに不快な思いをさせることがあればそれは私の責任であり、精一杯のフォローをします。
仕事に流動性のあるこの時代、新卒の人も含めて「生涯働き続ける職場」を探す必要はないと思います。では、どのような基準で就職先を探せばいいのか。それは「自分の勉強になるかどうか」だと私は考えています。実際、私自身がそのような観点のみでこれまで仕事やアルバイトを探してきました。(かなり都合のいい解釈をすれば、私が面接や就職試験で一度も落とされたことがないのは、この考えを面接官や雇用者に汲み取ってもらったからかもしれません)
私はこれまでアルバイトも含めれば20以上の職場で働いていますが、面接のときに、「貴社(貴院)のためにがんばります」と言ったことは一度もありません。毎回私が主張するのは「貴社(貴院)で勉強させてください」ということです。もしかすると、こういうことを言う者は少なく「珍しいから」という理由で採用されるのかもしれませんが、これは私の本心です。その企業(や病院)のために働くなどと考えたことはただの一度もなく、私が考えることはただひとつ。「その仕事は自分の勉強になるか」というとても身勝手なものです。
私にとって仕事とは「お金を稼ぐ手段」ではなく「勉強」であり、どこの職場でも少しでも学ぶことを考えます。会社員時代は、英語、貿易事務、マーケティングなどを学ぶ”学校”でしたし、医師になってからはひとりひとりの患者さんが私にとっては「貴重な臨床症例」です。医学部の学生時代、何人かの先生から「患者さんから学ばせてもらえ」と言われ、当時はこの意味がよく分からなかったのですが、医師になってから日々実感しています。よりよい医療をおこなうには教科書だけでは不十分で臨床経験を重ねなければならないのです。
私は、医療者は(それは狭い意味の医療者だけでなく事務職や受付も含めて)、この「患者さんから学ぶ」そして「患者さんに貢献する」という姿勢が絶対に必要だと考えています。医療機関のために働く必要は一切ありません。患者さんから学びそして貢献するというこの精神(私はこれを「医療マインド」と呼んでいます)があれば、必ずやりがいをもって気持ちよく働くことができ、そして患者さんから「感謝」されます。
谷口医院のこれまでのスタッフを振り返ると、「医療マインド」を持っている者は、日ごろから私に患者さんの相談や質問をし、患者さんから感謝の言葉をかけられ、そして”卒業”するときにも患者さんの話をします。逆に、退職時に患者さんの話が一切でてこないスタッフもいます。そういうスタッフは例外なく「医療マインド」がなく、実際、それなりに長く働いたとしても患者さんから感謝の言葉がほとんど寄せられていません。
人のために貢献できる職業は医療者だけではありませんが、医療者は「貢献していること」を日々実感することのできる恵まれた職業だと私は考えています。「医療マインド」は絶対に必要ですが、これを身につけるのに特別な訓練は必要なく、「困っている患者さんの力になりたい」と思うことができればそれで「合格」です。(ですが、簡単そうにみえてこれができない人も世の中にはいるのです)
最後に阪急東宝グループの創始者小林一三氏の言葉を著書『私の行き方』から紹介したいと思います。これを書かれたのはおそらく戦前だと思われますが、今読んでも胸に響きます。
せち辛い世の中ではあるが、生きがいのある生活だとか、人格を認めてもらわなければ困るとか、そういう理屈、それは正しい主張であるとしても、それらの議論にこだわらず、己を捨てて人のために働くのが、かえって向上昇進の近道であると信じている。
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|2017年5月11日 木曜日
2017年5月11日 白ワインは女性の酒さのリスク
医療者からみると「よくある疾患」なのに、あまりメディアなどでは取り上げられず知名度の低い皮膚疾患のひとつが「酒さ」です。酒さは顔面にできる慢性の炎症性疾患で治療に難渋することがしばしばあります。
ほとんどの患者さんは「なんでこんな病気になったのですか?」と尋ねます。遺伝的な要因を除外すれば、私の印象でいえば、一番多いのがステロイドの不適切な使用、二番目が紫外線です。飲酒が原因や悪化因子になるのもほぼ間違いありません。どのようなお酒がいけないのかについてははっきりしたことは分かっていませんが「ワイン」という説が有力です。
女性のアルコール摂取は酒さの発症因子。なかでも白ワインのリスクが高い…。
医学誌『Journal of the American Academy of Dermatology』 2017年4月1日号(オンライン版)にこのような研究が報告されました(注1)。
この研究の対象者は「看護師健康調査II」(Nurses’ Health Study II)と呼ばれる調査に参加した82,737人の女性で、追跡期間は14年(1991~2005年)、4年ごとに飲酒に関する情報が収集されています。追跡期間中4,945人が新たに酒さを発症しました。
酒さの発症とアルコール摂取量には相関関係がありました。1日あたり1-4グラムのアルコール摂取で酒さの発症リスクが1.12倍に上昇、30グラムだと1.53倍にもなっていました。アルコールの種類で分類してみると、白ワインのリスクが最も高いことがわかりました。
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アルコール30グラムというのは、ビールなら大瓶1本、日本酒なら1.5合、ワインならグラスに2杯強といったところです。
男性についても大酒飲みが酒さになるのはおそらく間違いありませんが、今回の研究は女性のみを対象としたものであり、この程度の飲酒が男性でもリスクになるのかどうかは分かりません。
また、しっかりとした確証はないものの、赤ワインは酒さの(発症ではなく)「悪化」のリスクという説があります。
注1:この論文のタイトルは「Alcohol intake and risk of rosacea in US women」で、下記URLで概要が読めます。
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|2017年5月11日 木曜日
2017年5月10日 スタチンで糖尿病患者の下肢切断リスクが低下
ここ数年「スタチン」と呼ばれるコレステロールの薬が話題になることが増えてきました。その理由はおもに2つあります。
1つは、2010年9月に日本脂質栄養学会が「コレステロールは下げる必要がない」といった内容の発表をおこなったことです。このときマスコミは「コレステロールは高いほど長生きする」といった報道をおこない随分と物議を醸しました。コレステロール値は下げるべきか下げなくていいのか、実はこの論争は今も続いており、日本脂質栄養学会は「下げるべきでない」という考えを今も変えていません。一方、日本動脈学会をはじめとするいくつかの大きな学会や日本医師会は従来どおりの基準を守るべき、つまり高ければ治療すべき、という考えです。(このあたりの詳細は過去のコラム(注1)を参照ください)
もうひとつ、スタチンが話題になるのは「スタチンを内服することにより糖尿病のリスクが上昇する」と言われだしたからです。フィンランドの大規模調査ではっきりと有意差をもってこれが実証され、使用に慎重さが求められるようになりました。ただし、スタチンの種類にもより、例えばプラバスタチンは逆に糖尿病のリスクが3割も下がるという調査もあります。(詳細は過去のコラム(注2)を参照ください)
問題なのは、自分自身の判断でこれまで処方されていたスタチンを勝手にやめてしまう患者さんがいることです。病気や薬というのは、それほど単純なものではなく週刊誌の報道をみて自分で中止したり開始したりすべきではありません。医師で意見が異なることがあるのは事実ですが、例えば「LDLコレステロールが〇〇mg/dL以上ならこのスタチンを開始すべき」と簡単に決められるわけではありません。その人の年齢、性別、体重、運動度、ライフスタイル、他の疾患の有無などを考慮して総合的に判断します。
私は過去のコラム(注2)で、スタチンはまず使うならプラバスタチンがいいということを述べましたが、盲目的にプラバスタチンを処方しているわけではありません。患者さんごとにどのスタチンが最も適しているかを判断する必要があるのです。
今回お伝えしたい情報は「スタチンの使用で糖尿病患者の下肢切断リスクが低下する」という研究です(注3)。糖尿病が進行すると下肢の血行が不良となり、切断せざるを得なくなります。このようなことはなんとしても避けなければなりませんから、血糖コントロールは非常に重要です。そして、糖尿病がある人の多くが高コレステロール血症ももっています。そのときに「糖尿病が怖いから」という理由でスタチンを自分の判断で中止するようなことがあってはいけません。今回の研究はむしろスタチンを内服することによって糖尿病の合併症を防げるとしています。
研究は台湾のものです。対象者は台湾在住で糖尿病と末梢動脈疾患を有する20歳以上の69,332人です。スタチン使用者が11,409人、スタチン以外の脂質低下薬使用者が4,430人、非使用者が53,493人です。
データベースを用いて解析した結果、スタチン使用者は非使用者に比べ、下肢を切断するリスクが25%、院内心血管死亡率が22%、全死因死亡率が27%低かったことが判りました。
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糖尿病がある場合、LDLコレステロールの基準を低くするのが基本です。糖尿病も高血圧も肥満も喫煙も他のリスクもない場合、少々基準値を超えていてもスタチンの処方は必ずしも必要ありませんが、糖尿病があれば(もちろんその程度にもよりますが)LDLコレステロールの基準をかなり厳しくすることもあります。
結論としては、自分の判断で薬を中止するのではなく「スタチンを含めて現在の内服薬がなぜ必要か」について納得いくまで主治医と話をすることです。
注1:メディカルエッセイ第101回(2011年6月)「過熱するコレステロール論争」
注2:医療ニュース2015年4月6日「スタチンは糖尿病のリスク、使うならプラバスタチン」
注3:この論文のタイトルは「Statin therapy reduces future risk of lower limb amputation in patient with diabetes and peripheral artery disease」で、下記URLで概要を読むことができます。
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|2017年4月28日 金曜日
2017年4月28日 抗菌薬の長期投与は大腸がんのリスク
20~50代で抗菌薬を長期間使用すると大腸がんのリスクが増える…
これは医学誌『Gut』2017年4月4日号(オンライン版)に掲載された研究結果(注1)です。もう少し正確に言えば、抗菌薬長期使用で、結腸と直腸(大腸の肛門に近い部分)に「腺腫」と呼ばれる腫瘍ができやすいことが分かったという研究です。「腺腫」は時間がたつと「がん」になることもあります。
研究の対象者は米国の女性看護師です。NHS(Nurses’ Health Study)と呼ばれる大規模調査に参加した16,642人(2004年の時点で60歳以上)です。20~59歳のときに抗菌薬をどの程度使用したかを聞き出し、2008年には「最近の」抗菌薬の使用状況を確認しています。2004~2010年の間に大腸内視鏡検査がおこなわれ、結果1,195人に「腺腫」がみつかっています。
腺腫と抗菌薬使用の関係を分析すると、とても興味深い結果が出ました。20~30代で2ヶ月以上抗菌薬を使用した人は、使用していない人に比べて腺腫発症のリスクが36%も高く、40~50代で使用した人では69%も高かったのです。
まだあります。20~39歳で15日以上抗菌薬を使用し、さらに40~59歳でも15日以上使用した人は、まったく使用していない人に比べて、なんと73%も腺腫のリスクが上昇するというのです(下記の表)。
40-59歳 使用なし 1-14日 15日以上
20-39歳
使用なし 1.00 1.29 1.26
1-14日 1.06 1.37 1.47
15日以上 1.01 1.56 1.73
なぜ、抗菌薬を用いれば腺腫のリスクが上昇するのか。研究者らは腸内細菌叢が乱れることが原因だと指摘しています。尚、「最近の」抗菌薬の使用ではリスクが上昇していません。
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腸内細菌叢(最近は「腸内フローラ」と呼ばれることが増えてきました)の乱れが様々な疾患のリスクになることが分かってきています。重症の下痢をきたすクロストリジウム・ディフィシル感染症、クローン病や潰瘍性大腸炎などの炎症性疾患、花粉症や喘息などのアレルギー疾患、また最近では肥満や精神疾患の原因も腸内細菌叢の乱れが原因である証拠が増えつつあります。そして腸内細菌叢が乱れる最も大きな原因は「抗菌薬の過剰使用」です。
抗菌薬の使用が大腸がんのリスクにもなるのであれば、抗菌薬適応には今以上に慎重になるべきでしょう。このサイトでも何度も指摘していますが、抗菌薬を気軽に求める患者さんは少なくありません。使用は必要最小限にすべきです。
「風邪で抗生物質をください」という患者さんに、「この風邪は抗菌薬が不要です」という説明をするのに苦労することがありますが、日ごろ私がもっと問題だと感じている抗菌薬の使用があります。それは「ニキビ」に対する使用です。「過去に2か月間抗生物質を飲んでいた」という患者さんがときどきいます。腸内細菌叢についてどのように考えているのでしょうか。太融寺町谷口医院はニキビの患者さんも少なくありませんが、抗菌薬内服はせいぜい1週間の処方にしています。
注1:この論文のタイトルは、「Long-term use of antibiotics and risk of colorectal adenoma」で下記URLで概要を読むことができます。
http://gut.bmj.com/content/early/2017/03/16/gutjnl-2016-313413
参考:
毎日新聞「医療プレミア」
花粉症もアトピーも抗菌薬が原因かも?
やせられない… それは抗菌薬が原因かも
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|2017年4月28日 金曜日
2017年4月28日 胃薬PPIは認知症患者の肺炎のリスク
つい数年前まで「最も優れた胃薬」と考えられていたPPI(プロトンポンプ阻害薬)の弊害が次々と指摘されています。インパクトが強かったのが認知症のリスク(注1)になるというものですが、他にも様々な副作用や弊害が指摘されています(下記「医療ニュース」参照)。
今回紹介したいのは、「認知症患者にPPIを用いると肺炎のリスクが9割も上昇する」というものです。
医学誌『Journal of the American Geriatrics Society』2017年3月21日号(オンライン版)に台湾の研究(注2)が紹介されています。
研究の対象者は、PPIを投与された認知症患者786人です。PPIを投与されていない認知症患者との比較がおこなわれました。結果、PPIを投与されると89%も肺炎のリスクが上昇することが分かったのです。
他の肺炎のリスクとしては、年齢(5%の上昇、以下同様)、男性(57%)、脳血管疾患の既往(30%)、慢性肺疾患(39%)、うっ血性心不全(54%)、糖尿病(54%)、向精神薬の使用(29%)という結果です。
興味深いのは、H2ブロッカーと呼ばれる、PPIとよく比較される胃薬を用いれば肺炎のリスクが低下するという結果がでたことです。
************
おしなべて言えば、PPIはH2ブロッカーよりもよく効きます。ですが、太融寺町谷口医院の患者さんで、胃炎、胃潰瘍、逆流性食道炎などでPPIでなければコントロールできないという人はそう多くありません。前医でPPIを処方されていても、症状が安定していればH2ブロッカーに変更できることも多々あります。
漢方薬なども含めて他の胃薬を併用したり、食生活の習慣を見直してもらったりして、PPIからの離脱に成功することはそう珍しくありません。以前は「安全」と言われていましたが、これだけリスクが指摘されていますから、今後PPIの使用は最小限にすべきでしょう。
注1:下記を参照ください。
はやりの病気第151回(2016年3月)「認知症のリスクになると言われる3種の薬」
注2:この論文のタイトルは「Association of Proton Pump Inhibitors Usage with Risk of Pneumonia in Dementia Patients」で、下記URLで概要を読むことができます。
http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/jgs.14813/abstract
参照:医療ニュース
2017年1月25日「胃薬PPIは細菌性腸炎のリスクも上げる」
2016年12月8日「胃薬PPI大量使用は脳梗塞のリスク」
2016年8月29日「胃薬PPIが血管の老化を早める可能性」
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|2017年4月21日 金曜日
第171回(2017年4月) こんなにも不便な院外処方
こんなにも安くなるんですね…
今年(2017年)になってから患者さんからこのセリフを何度聞いたでしょうか。スギ花粉症に対する舌下免疫療法の薬「シダトレン」は、冷蔵庫のスペースが確保できなかったことから当院は過去2年間院外処方としていました。しかし、あまりにも「院内処方にしてほしい」という要望が多いために2017年1月から院内処方に変更しました。
太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)は、2007年にオープンしたときからほとんどの薬を院内処方にしていました。この理由はおもに2つ。ひとつは開院当初は近くに調剤薬局がなかったことです。このあたりはオフィス街と繁華街が一緒になったようなところで昼間の人口が多い割にはクリニックがあまりありませんでした。そのため調剤薬局が存在しなかったのです。しかしこの10年で少しずつクリニックの数が増えてきて、そのおかげで調剤薬局も誕生しました。
谷口医院が院内処方にしている理由はもうひとつあります。そしてこの理由のために、近くに調剤薬局ができたのにもかかわらず院内処方を続けているのです。その理由とは「患者さんを診ていない薬剤師に薬の適正使用を説明できるのか」という疑問を私が持っているからです。
このようなことを言うと薬剤師からは反対意見が出るでしょう。私も別に薬剤師と喧嘩をしたいと思っているわけではありません。薬剤師の方々には、勤務医時代に随分とお世話になりましたし、また助けられました。医師は自分の患者さんに処方する薬の形も色も大きさもよく知りませんし、「味」となるとまったくお手上げです。ところが薬剤師はこれらを何でも知っているのです。ですから実際の服薬指導は薬剤師の方が医師よりも何倍も上手です。しかし、これは入院患者さんに限ってのことです。入院の場合は、医師と薬剤師が同じ患者さんを「診ている」わけで、看護師も交えたミーティングを頻繁におこない、まさに「チーム」で患者さんに接することができます。
ところが、外来はそうはいきません。調剤薬局に勤める薬剤師は診察室で患者さんを診るわけではありません。薬局のカウンター越しに患者さんと簡単な会話をするだけで、医師が発行した処方箋をみて薬の「一般的な説明」をするだけです。あえて意地の悪い言い方をすると、そのような「一般的な説明」は添付文書を読めばわかることです。薬の添付文書はネット上で簡単にダウンロードできます。
なぜ患者さんを診ていない薬剤師に薬の適切な説明ができないのか。例を挙げましょう。
【症例】30代女性Fさん
谷口医院では、喘息とアトピーと花粉症で通院。症状が改善してきたため、吸入薬は今回から別のタイプのものに変更となった。内服は抗ロイコトリエン拮抗薬を1種類と抗ヒスタミン薬1種類、アトピーは経過良好で顔面と首はタクロリムスでコントロール可能。身体も安定してきたためステロイドからタクロリムスに変更を検討。
この症例に対し、まず吸入薬の「一般的な説明」をおこないます。その後、症状が安定していれば頻度を減らすことも可能で、その減らし方について説明します。Fさんは介護士であり夜勤もあります。その場合吸入する時間をどうするかを考えなければなりません。内服については、抗ロイコトリエン拮抗薬は1日1錠継続し、抗ヒスタミン薬は調子が悪いときには自己判断で1日2錠に増やしてもいいという判断をおこないました。ステロイド外用は次第に弱くすることに成功していますから、今回は全身をタクロリムスでコントロールすることを目標とします。しかし、必ず成功するとは限りませんから、悪化すれば再びステロイドに戻します。ステロイドは部位によって種類も塗る回数も異なります。さらに、ステロイドを「治療」として用いるのではなく「予防」として用いる場合の使用法(これを「プロアクティブ療法」と呼びます)を説明します。
さて、この説明が医師と一緒にFさんを見ていない薬剤師にできるでしょうか。外用薬の説明はできるはずがありませんし、抗ヒスタミン薬の増量についても患者さんのことをよく知っていなければできません。
この一例で充分でしょう。患者さんを診ていない調剤薬局の薬剤師に薬の適切な説明をするのは多くの例で困難なのです。
ところが、21世紀になってから、クリニックの院外処方の割合が急増しています。厚労省が2017年3月29日に公表した「診療報酬(その1)」という資料(注1)があります。この資料に「医薬分業」がいかに増えているかを示したグラフが掲載されています。「医薬分業」とは一言でいえば、「クリニックで医師の診察を受けて、調剤薬局で薬剤師から薬を受け取る」というもので、要するに「院外処方」のことです。グラフをみれば医薬分業率は右肩上がりに上昇しており、平成27年度の医薬分業率はなんと7割。谷口医院のように院内処方を中心としている医療機関は3割しかありません。
これはなぜなのでしょうか。Fさんの例を振り返るまでもなく院内処方の方が薬の説明をしやすいのは自明です。では、なぜ医薬分業率がこれだけ上昇しているのか。その答えは「厚労省の誘導」です。つまり、厚労省がクリニックに対して医薬分業を促しているというわけです。ですが、なぜ医薬分業をすべきなのか、その理由が私には理解できません。理解できる人に意見を聞いてみたいものです。では、厚労省はどのようにして医薬分業を促しているのか。答えは「クリニックの儲け」です。もちろん医療機関は営利団体ではありませんが、多少は利益を出さないと人件費を払えませんから、利益が高い方に流れるのはある程度は仕方がありません。そこで、クリニックからみたときに院内処方よりも院外処方の方が儲かるように「操作」をおこなったのです。
つまり、院外処方箋を発行する際の保険点数を高く設定したのです。クリニックで処方箋を発行すると、それが軟膏1本でも「院外処方箋発行代」として680円(3割負担で200円、以下かっこ内は3割負担)かかります。そして薬局では、最大で1,780円(530円)もかかります(注2)。合わせると最大で合計2,460円(730円)もかかることになります。もしも院内で薬を受け取った場合、この費用(処方代)は合計で620円(190円)で済みます。この差額、1,840円(540円)は決して小さくありません。
〇院内処方の場合: ゲンタシン軟膏1本122円 + 処方代620円 (調剤料60円+処方料420円+外来後発医薬品使用体制加算40円+薬剤情報提供料100円)
〇院外処方の場合: ゲンタシン軟膏1本122円 + 処方箋発行代680円 + 薬局での費用1,780円 (基準調剤加算320円+調剤基本料410円+調剤料350円+かかりつけ薬剤師指導料700円)
薬を処方してもらう度に薬代以外にかかる費用が院外処方から院内処方にするだけで最大540円(3割負担)も安くなるのです。冒頭で紹介したように、院外から院内処方に変更するだけで患者さんから感謝されることがよく理解できます。
院外処方から院内処方に切り替えるとこれだけ安くなり、しかも診察している医師から薬の説明を聞けるとなると、誰が好んで院外処方箋をもって調剤薬局に行くでしょうか。しかも、薬局にまで行く時間と手間がかかるわけです。クリニック側としても、院内処方にすれば、利益は減りますが患者さんには喜ばれます。
では、なぜ7割の医療機関は院外処方とし、院内処方にこだわる医療機関は3割しかないのか、そして院内から院外への流れが止まらないのはなぜなのでしょうか。おそらくその最大の理由は、院内処方だと「見かけ以上の損失が多い」ということだと思われます。薬の利益というのはほぼゼロです。例えば1錠100円で処方する薬であればだいたい仕入れ値は99円です。もしも薬の準備をするときに床に落としてしまったりすればクリニックの損失になります。また消費期限もあります。期限の切れた薬は廃棄せねばなりません。さらに、品切れをしないように、かつ在庫を抱えすぎないように薬を管理するのは思いのほか大変です。実際、谷口医院のスタッフも薬の管理で疲弊してしまっています。しかも谷口医院のような総合診療のクリニックは取り扱っている薬の種類が非常に多いのです。
ですが、谷口医院では時代に逆らって院内処方を続けていく方針です。たとえ赤字になったとしても、薬の説明は患者さんを診ている医師や看護師がおこなうべき、という考えを変えるつもりはありません。
************
注1:下記URLを参照ください。4ページに医薬分業率がいかに増えているかを示している分かりやすいグラフがあります。
http://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-12404000-Hokenkyoku-Iryouka/0000158273.pdf
注2:注1の資料の43ページに分かりやすい説明があります。
http://www.stellamate-clinic.org/images_mt/0000158273%2043.pdf
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|2017年4月21日 金曜日
第164回(2017年4月) 本当に危険なベンゾジアゼピン依存症
太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)を開院して以来、多くの患者さんに対してずっと言い続けていることは「薬や検査は最小限に」というものです。以前どこかに書きましたが、「お金払うのあたしですよね…」と言われ、「金払うって言ってるやろ!」と言葉を荒げられ、また泣き落としをされたとしても、医師は患者さんの害になるかもしれないことはできないのです。
薬でいえば、谷口医院で特に慎重な処方をおこなっているのが、睡眠薬や抗不安薬として用いる「ベンゾジアゼピン」(注1)、抗菌薬、鎮痛薬の3種です。他の薬も、原則として最小限の処方としていますが、とりわけこの3種にはしつこいくらい危険性を訴えてきました。(鎮痛薬については過去のコラム「メディカルエッセイ第97回(2011年2月)鎮痛剤を上手に使う方法」を参照ください。抗菌薬については、現在もシリーズとして連載を続けている毎日新聞「医療プレミア」の「抗菌薬の過剰使用を考える」が参考になると思います)
ベンゾジアゼピンについては、過去のコラム(注2)でデパス/エチゾラムの危険性を例を挙げて示し、さらに依存しやすい薬のランキングを紹介しました。また、マイスリー/ゾルピデムの危険性については、実際に記憶がないまま我が子を殺めた40代の主婦の事件や、高齢者のレイプ事件を紹介し、安易に手を出すべきでないことを述べました(注3)。
我々医療者と患者さんの認識の”ズレ”を感じることはしばしばありますが、このベンゾジアゼピンに対する危険性の認識はそのズレが非常に大きいと言わざるを得ません。先日も次のような患者さんが来ました。
【症例】30代男性Aさん
東京から出張中。怪我をして下肢が膿んできた、とのことで当院受診。投薬が必要ですから、今飲んでいる薬との飲み合わせを検討せねばなりません。
私:「今飲んでいる薬はありますか?」
Aさん:「一番弱い安全な睡眠薬を寝る前に2錠飲んでます。名前は忘れました」
私:「今飲んでいる薬が分からなければ、飲み合わせの関係から当院では一切の処方ができません。処方してもらっているクリニックに電話して聞いてください」
(5分後)
Aさん:「トリアゾラムを2錠です。弱い薬だから心配ないと聞いています。もう2年ほど毎日欠かさず飲んでいます」
私:「副作用のリスクとか依存性のことについてはどのように聞いていますか」
Aさん:「そんな話聞いたことありません。弱い薬、ということしか聞いていません…」
医師のルールとして「安易に前医を批判してはいけない」というものがあります。前医が診察したときには、そうすべき理由があったと考えなければならないからです。ですが、2年間も依存性の強い薬を説明もなしに処方している医師がいるのであればこれは問題です。
注2のコラムで紹介したように、実は”安易に”ベンゾジアゼピンを処方している医師は思いのほか多いようです。医学部の授業では、ベンゾジアゼピンについては副作用のみならず依存性についても学びますから、なんで??という疑問が拭えません。たしかにベンゾジアゼピンを使用すべきケースもあり、谷口医院でも処方することもあります。ですが、必ず危険性、副作用、依存性などについても理解してもらうことが処方の条件となります。
医薬品の過剰摂取で入院した患者は日本全国で年間21,663人。うち63.1%でベンゾジアゼピンの使用。35~49歳では74%、75歳以上でも59.3%…。
これは医学誌『Journal of Epidemiology』2017年2月24日号(オンライン版)に掲載された研究結果です(注4)。
この研究は、2012年10月から2013年9月までの1年間に「急性中毒」で入院した21,663人の症例をレセプト(診療明細書)を用いて分析しています。日本では薬の過剰摂取による入院費用が年間77億円に上ると推計されています。原因となる薬剤は、米国ではオピオイド系鎮痛薬(麻薬に近いもの)が多いのに対し、日本ではベンゾジアゼピンが最多です。
2017年3月、PMDA(医薬品医療機器総合機構)が「ベンゾジアゼピン受容体作動薬の依存性について」というタイトルの発表(注5)をおこないました。患者さん向けに、ベンゾジアゼピンの漠然とした使用がいかに危険かを分かりやすく、実例を挙げて示しています。
厚労省もアクションを起こしました。2017年3月21日、「催眠鎮静薬、抗不安薬及び抗てんかん薬の「使用上の注意」改訂の周知について(依頼)」という通知(注6)をおこないました。これは医療者に対して、ベンゾジアゼピンの処方を最小限にするよう注意勧告したものです。
ここで、なぜベンゾジアゼピンが危険なのかを振り返っておきましょう。まず「記憶障害」があります。注3のコラムでは悲惨な事件について触れましたが、そこまでいかなくても、食事や電話の記憶がなくなっている、ということはよくあります。次に「反跳性不眠」があります。これはベンゾジアゼピンを睡眠薬として使った場合、たしかに飲めば眠れますが、使い続けることにより不眠が悪化し、飲み始める前よりもかえって不眠の程度がひどくなることを言います。
長期使用した場合「依存性」がでてきます。もはやベンゾジアゼピンがないとほとんど眠れない身体になってしまいます。さらに、認知症のリスクがあると言われています。これは「リスクがない」とする研究もあるのですが、大規模調査では「認知症のリスクあり」とされています(注7)。他にもたくさんの副作用があります。
次に、ベンゾジアゼピンはなぜ簡単にやめられないかを説明します。一番の理由は「依存性があるから」で、タバコや覚醒剤が簡単にやめられないのと同じです。そして、ベンゾジアゼピンの場合、覚醒剤や麻薬などと同様のやっかいな点があります。それは、急にやめると「禁断症状」が出るということです。嘔気や頭痛程度なら軽症で、ひどい場合は、痙攣や意識障害が起こります。
ですから、効果的にベンゾジアゼピンを中止するには、突然やめるのではなく、ゆっくりと量を減らしていかねばなりません。谷口医院では、中等度から重度のベンゾジアゼピン依存症の人に対しては半年から1年くらいかけてゆっくりと少しずつ減らしていくようにします。しかし、必ずしもうまくいきません。タバコならチャンピックスという禁煙補助薬があり、麻薬の場合は(日本で実施しているところはおそらくないと思いますが)「メサドン療法」といって麻薬の代替品を用いる方法があります。ベンゾジアゼピンの場合は、そのようなものがありませんから、ベンゾジアゼピンを弱いものや作用時間の異なるタイプのものに変更していきます。あるいは異なる作用機序の比較的安全な睡眠薬を併用します。
タバコをやめるときは、禁煙補助薬で”自動的に”やめられるわけではなく、ある程度は「絶対やめるんだ!」という意思が必要です。それと同様、ベンゾジアゼピンの場合も、患者さん自身がまず危険性を充分に認識し、やめるという意思を持たねばならないのです(注8)。
************
注1:ベンゾジアゼピンは、正確には「ベンゾジアゼピン受容体作動薬」という名称です。これを省略して「ベンゾジアゼピン系」と呼ぶこともあります。BZと略すこともあります。英語はbenzodiazepineで、略すなら「BD」の方がいいような気がしますが、なぜかBZとなります。(ちなみに、英語をそのままカタカナにすると「ベンゾダイアゼピン」となります。私は日本人以外の医師が「ベンゾジアゼピン」と発音するのを聞いたことがありません) ここでは「ベンゾジアゼピン」で統一します。また、マイスリー/ゾルピデム、ゾピクロン/アモバン・ルネスタは「非ベンゾジアゼピン」と表記されることがありますが、実際の作用・副作用は同じですから、ここでは「ベンゾジアゼピン」に含めます。
注2:メディカルエッセイ第165回(2016年10月)「セルフ・メディケーションのすすめ~ベンゾジアゼピン系をやめる~」
注3:はやりの病気第124回(2013年12月)「睡眠薬の恐怖」
注4:この論文のタイトルは「Epidemiology of overdose episodes from the period prior to hospitalization for drug poisoning until discharge in Japan: An exploratory descriptive study using a nationwide claims database」で、下記URLで概要を読むことができます。
http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0917504017300254
注5:下記を参照ください。
https://www.pmda.go.jp/files/000217046.pdf
注6:下記を参照ください。
http://www.pmda.go.jp/files/000217230.pdf
下記は、このなかで取り上げられているベンゾジアゼピンです。
○一般名 ○先発品の商品名
アルプラゾラム コンスタン、ソラナックス
ロフラゼプ酸エチル メイラックス
エスゾピクロン ルネスタ
エスタゾラム ユーロジン
オキサゾラム セレナール
クアゼパム ドラール
クロキサゾラム セパゾン
クロラゼプ酸二カリウム メンドン
クロルジアゼポキシド コントール、バランス、クロルジアゼポキシド
ジアゼパム エリスパン、セルシン、ダイアップ、ホリゾン
ゾピクロン アモバン、ルネスタ
ゾルピデム酒石酸塩 マイスリー
トリアゾラム ハルシオン
ニトラゼパム サイレース、ネルボン、ベンザリン、ロヒプノール
ニメタゼパム エリミン
ハロキサゾラム ソメリン
クロチアゼパム リーゼ
フルジアゼパム エリスパン
フルタゾラム コレミナール
フルトプラゼパム レスタス
フルニトラゼパム(経口剤) サイレース、ロヒプノール
ブロマゼパム(経口剤) セニラン、レキソタン
フルラゼパム塩酸塩 ダルメート
ブロチゾラム レンドルミン
メキサゾラム メレックス
メダゼパム レスミット
リルマザホン塩酸塩水和物 リスミー
ロラゼパム ワイパックス
ロルメタゼパム エバミール、ロラメット
クロナゼパム ランドセン、リボトリール
クロバザム マイスタン
ジアゼパム(坐剤) ダイアップ
ミダゾラム ドルミカム、ミダフレッサ
エチゾラム デパス
注7:はやりの病気第151回(2016年3月)「認知症のリスクになると言われる3種の薬」
注8:ベンゾジアゼピンは1カ月内服すると約半数(47%)が依存症になるという研究があります。医学誌『Psychopharmacology』2003年5月号に掲載された論文「Benzodiazepines: more “behavioural” addiction than dependence」で紹介されています。この論文によれば、 より依存しやすいのは、中年で離婚していて低学歴で、無職か専業主婦をしている女性だそうです。
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|2017年4月11日 火曜日
2017年4月 なぜ「幸せ」はこんなにも分かりにくいのか
先月のマンスリーレポートで、私はいつも時間に追われる生活を送っているという話をしたところ、それで幸せなのか、という意見を複数の方からいただきました。ある人が「幸せ」かどうかは、幸せの定義によりますし、簡単に結論がでる話ではありません。古今東西、人間はいつも「幸せとは何か」について思索しているわけで、幸せについて論じた書籍は無数にあります。
私にとって何が幸せかはひとまず置いておいて、まずは幸せというテーマになると必ず出てくる「お金」について考えてみたいと思います。
最初に基本的なことをおさえておきましょう。人はお金のために生きているわけではないのは事実ですが、お金がないと生きていけません。これは当たり前のことですが、きれいごとが好きな人のなかには「お金なんてなくてもいい。もっと大切なものがある」と強調する人がいます。また、「自分はお金はないけど幸せだ」という人もいます。こういうセリフ、文脈によっては他人を傷つける無神経な発言となります。
話す相手によっては「お金はない」などと気軽に口にすべきではありません。私はNPO法人GINAの関係でタイによく渡航します。日本にはちょっとないような貧困層の人と話をすることもあります。彼(女)らの「お金がない」というのは、ひどい場合は、「その日に食べるものの確保も困難」というレベルです。そこまで困窮している人は私と継続的に付き合いのある人たちのなかにはそうそういませんが、「冷蔵庫やテレビがない」という人は地方に行けばいくらでもいます。それでも「家族がいれば幸せ」と話す人もいますから、「お金」は最低限必要ですが、お金があればあるほど幸せとは言えない、というのは間違いなさそうです。
お金と幸せについてもう少し掘り下げて考えてみましょう。個人差はあるにせよ、全体でみたときには年収がいくらくらいあれば人は満足できるのでしょうか。
これには有名な学説があります。科学誌『PNAS』に2010年に掲載された、ノーベル経済学賞受賞者ダニエル・カーネマンの論文「高収入で人生の評価が改善しても感情的な幸福は改善しない(High income improves evaluation of life but not emotional well-being)」です。カーネマンによれば、年収が75,000ドル(約900万円)を超えると、それ以上収入が増えても「感情的な幸福」が変わりません。「感情的な幸福」とは、喜び、ストレス、悲しみ、怒り、愛情などの頻度と強さのことです。つまり、「幸福」の基準を高級車や豪華な住宅に求めるならともかく、「感情」を大切なことと考えるなら、その感情を得るのに必要な年収はそんなに高くなくてもOK、ということです。
ですが、年収75,000ドルは低くありません。こんなに稼げる人は世界の5%もいないでしょう。この数字だけをみると、「年収75,000ドルなんて一生かかっても達成できるはずがない。ということは自分は生涯幸せとは縁がないんだ…」と考える人もいるかもしれません。しかし悲観するのはまだ早い。
これは米国の2010年のデータです。日本が世界有数の物価高だったのはバブル経済の頃の話であり、いまや日本は先進国のなかで物価は安い方です。一例をあげましょう。日本なら、都心部に住んでもワンルームマンションは安ければ家賃4万円代の物件があります。一方、アメリカでは、ニューヨークやロサンジェルスでワンルームマンションを探すと30万円近くを覚悟しなければなりません。単純に家賃だけで決められるわけではありませんが、物価を考慮すると、米国の75,000ドルは、日本でいえば年収300~400万円くらいではないでしょうか。
さて、ここで私が以前タイで知り合ったHさんの話をしたいと思います。Hさんは当時40歳くらいの男性で、15年間勤務した一部上場企業を退職しタイにやってきました。タイには「沈没組」と呼ばれる、日本でドロップアウトして安宿に引きこもっている人たちも大勢いますがHさんは異なります。いつも颯爽としていて明るくて話も面白いのです。英語だけでなくタイ語も堪能です。このHさんから聞いた「タイの農夫と日本のビジネスマン」の逸話がとても印象的でした。こんな話です。
タイのイサーン地方(東北地方)の昼下がり。ハンモックに揺られながらのんきにビールを飲んでいる中年男性に、同い年くらいの日本のビジネスマンが近づいた。
日本人:昼間からのんびりしているね。
タイ人:カモとナマズにエサをあげたから今日はもうすることがないんだ。
日本人:へえ、飼育の仕事をしているんだ。たくさん飼っているの?
タイ人:いや、家族と親戚が食べる程度。これで充分だ。夕方になると村の連中が集まってくる。一緒に飲んで騒いで子供たちがはしゃいでいるのをみればそれで幸せだ。
日本人:もっとたくさん飼育して金儲けをすればいいのに。
タイ人:金儲けをしようと思えばどうすればいいんだ?
日本人:そうだな、まず経営のことを勉強する。資金がないなら銀行に借りればいい。事業計画書がきちんとしていればお金を借りることができる。そして会社を立ち上げてこの県一番の食品会社にするんだ。
タイ人:それで?
日本人:次は国際関係も学んで輸出をするんだ。一時的に誰かに経営をまかせて海外留学してMBAをとるのがいい。
タイ人:それで?
日本人:輸出で大儲けすれば次は株式上場だ。
タイ人:それで?
日本人:そうなれば株式を全部売ってしまって億万長者だ。
タイ人:億万長者になれば何ができるの?
日本人:もう勉強も仕事もしなくていい。昼間からハンモックに揺られながらビールが飲めるぞ…。
その後似たような話を何度か聞きました。どうやらこの話は世界的に有名な逸話で、オリジナルは「メキシコの漁師と米国人ビジネスマン」という説が有力です。
Hさんは退職金には手を付けずに、日本で3か月ほど工場で夜勤をして、そのお金を持ってタイなどで残りの9か月を過ごすそうです。ローカルバスに乗り、日本人が行かないような田舎に行ってタイを楽しんでいると言います。
私がHさんと知り合ったのはタイのエイズ問題に関わり始めたばかりの頃で、当時はまだNPO法人GINAの設立も、日本でクリニックを始めることもまったく考えていませんでした。工場の夜勤も高収入でしょうが、過去にも述べたように医師のアルバイトもそれなりに高収入です。例えば、日本で3か月の間、健康診断や深夜の救急外来のアルバイトをおこなえば、残りの9か月をタイで過ごし、エイズ施設でボランティアをすることも充分に可能です。
もしもあのときHさんのような生活を選択したとすれば、私の時間管理は上手くいき、今のように時間に追われる毎日から解放されていたでしょうか。そして「幸せ」と感じることができていたでしょうか。
実はこのことは今でもときどき考えます。そして結局毎回同じ結論にたどり着きます。私の「選択」は正しかった、という結論です。当時の私は研修医を終えたばかりで、医師としての知識も技術もまだまだ未熟でした。ということは、患者さんに貢献するには自分がもっと勉強せねばなりません。私のとった行動は、母校の大阪市立大学医学部の総合診療科の門を叩き、研修医のとき以上に勉強するということでした。大学病院のみならず複数の病院や診療所に修行にでかけ知識と技術の習得に努めました。そして、タイのエイズ患者さんや孤児に対してはNPO法人GINAを立ち上げて組織として貢献することを考えました。
今も知識と技術の習得はまだまだ必要だと考えています。結局、私は「勉強」と「貢献」に価値を置いていて、これらを自分のミッションと認識しています。つまり、当時も今もやるべきことをやっているということに他なりません。ならば私は幸せなのか…?
「タイの農夫と日本のビジネスマン」の逸話は、金持ちでなくとも幸せになれることを示しています。そして、私はあきらかに「タイの農夫」とは異なるライフスタイルをとっています。では、私は「日本のビジネスマン」に近いのかというと、これも明らかに違います。日ごろしている勉強、無料でおこなっているメール相談、GINA関連の諸業務などは時間とお金を使うだけですから、ビジネスとは真逆のものです。
それで忙しい、時間がない、と嘆いている私は幸せなのでしょか…。イエス、と言いたいところですが、Hさんや「タイの農夫」のことが羨ましいと思うこともあります。
私にとって「幸せ」とは何か。いまのところ自分ではまったく分かっていないようです…。
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