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2013年6月17日 月曜日
40 草の根レベルの国際交流 2006/6/1
私は現在5年目の医師ですが、この5年間で、次第に外国人の患者さんが増えてきているように感じています。
医師1年目の頃は、外国人の患者さんというのは月にひとり程度だったのですが、最近は確実に週に1~2人の患者さんと接します。以前は、外国人と言えば、西洋人の方がほとんどでしたが、最近は中国人やベトナム人といったアジアの方々が増えてきています。
外国人の患者さんを診察するときには、どうしても日本人の患者さんより時間がかかるのですが、それはもちろん言葉の問題があるからです。
西洋人の方であれば、たいがいは英語を話されます。しかも患者さんは日本企業に勤めていたり、語学学校の教師であったりすることが多いですから、日本人の話す英語もよく理解してくれることが多く、私のように下手くそな発音をしていても、なんとかコミュニケーションをとることができます。ですから、英語を話す患者さんであれば診察時間は日本人とそう変わらないと言えるでしょう。
日本語も英語も話さない患者さんの場合は、ときに診察に長時間を要します。
コミュニケーションがとれなければ問診ができませんから、患者さんによっては、あらかじめ知人の通訳を連れてきてくれることもあります。また、最近は自分の子供に通訳をさせる患者さんもおられます。アジアから日本に来られている女性は日本人男性と結婚していることが多く、その子供は日本語だけでなく、母親の母国語も話せることがあるからです。
今後ますます日本に来られるアジアの方が増えることが予想されますから、我々医療従事者は英語だけではやっていけない時代に入るのかもしれません。
通訳を介した問診では、どうしても時間がかかりますし、プライバシーの問題もあります。例えば、性行為に関する問診などは、できれば通訳なしでおこないたいものです。また、女性の月経に関する質問をするときに、まだ小学生の子供に通訳をしてもらってどこまで正確に伝わるのかを危惧することもあります。それに、通訳を介すと、ある程度は通訳者の恣意的な訳になることが避けられないため、コミュニケーションの正確さを欠いてしまいます。
患者さんにもよりますが、日本語を一生懸命に勉強されていることに驚くことがしばしばあります。日本人の私にとって、外国人の方が日本語を勉強されているというのは大変嬉しいものです。片言の日本語を話す患者さんは、年齢・性別を問わずたいへん「かわいく」感じます。
先日、ある中国人の方に興味深いことを教えてもらいました。彼女は日本語も英語も堪能で、一時は同時通訳を目指したこともある程、語学のセンスにすぐれた方です。
彼女によると、最近、「もったいない」という日本語が、世界共通語として認識されつつあるそうなのです。
この「もったいない」という言葉は、苗木の植樹を呼びかけたグリーンベルト運動が評価され、2004年にノーベル平和賞を受賞されたケニアのワンガリ・マータイ女史が世界に普及させたそうです。
マータイ女史が、この「もったいない」という言葉を気に入られたのは、アフリカには「もったいない」を表現する適切な言葉がないからだそうです。
アフリカにないからといって、何も日本語を使わなくてもよさそうに思いますが、それでも日本語を採用してくれたということに対しては、私は日本人として純粋に嬉しく思います。
たしかに、英語には「もったいない」に完全に合致する表現はないのかもしれません。状況によって、It’s a waste of money、It’s a waste of food、などと言うことはありますし、スムーズなコミュニケーションが取れている状況では、What a waste! などと言うと「もったいない」にピッタリ当てはまるように思いますが、「もったいない」のように一語で表現できる形容詞は私の知る限り見当たりません。
それに、これは私のイメージですが、日本語の「もったいない」には、「残念だ、惜しい」のようなニュアンスがあるように思われますが、「waste」という単語からはこういったニュアンスは引き出せないような気がします。
さらに、日本人はこの「もったいない」という単語を一日に何度も使いますが(少なくとも私は頻繁に使っています)、あまり欧米人が「waste」を連発しているのを聞いたことがありません。
しかし、中国語には日本語の「もったいない」にほぼピッタリあてはまる言葉があるそうです。「可惜」という言葉です。この漢字から分かるように、「可惜」にも「惜しい」というニュアンスは含まれています。そして、日本人が「もったいない」を多用するのと同じように、中国人もこの「可惜」を一日に何度も使うそうです。
タイ語では「もったいない」を「???????」と表現します。そして、この単語にも「惜しい」というニュアンスがあり、日本語の「もったいない」にも「惜しい」にも、ピッタリあてはまります。タイ人と一緒にいればすぐに分かりますが、彼(女)らは、この「???????」を一日に何度も使います。
(ちなみに、「可惜」「???????」を、無理やりカタカナ表記すると、それぞれ「コシ」「シアダイ」になるかもしれませんが、中国語もタイ語も声調があり、子音や母音の発音も日本語とは異なりますから、このままカタカタ表記を発音してもまず通じません。)
おそらく、他の言語でも、特にアジアの言語では、「もったいない」にピッタリ合致する表現が存在するのではないでしょうか。
マータイ女史が、日本語の「もったいない」を採用されたのは、「可惜」や「???????」を知るよりも先に「もったいない」という単語に巡り合ったからではないかと思われますが、もしかすると「もったいない」という響きのようなものが気に入られたのかもしれません。
いずれにせよ、「もったいない(mottainai)」がアフリカ諸国だけでなく、「kaizen」や「tsunami」や「karaoke」と同じように国際語として認識されつつあるというのは、日本人にとっては嬉しいものです。
日本語を勉強する日本滞在の外国人が増え、「mottainai」が国際語となるというのは、どちらも歓迎すべきことですが、最近のアジアの情勢をみていると、そう喜んでばかりもいられないようです。
例えば、最近、韓国や中国の大学生の間で、日本語を勉強したり、日本留学を希望したりする学生が激減しているそうです。もはや日本からは学ぶことがないということなのでしょうか。
また、相変わらず中国と韓国では「反日」のムードが強いそうです。仲のよい近所付き合いが日常生活上不可欠なのと同じように、近隣諸国とはいい関係を保たなければならないのは自明ですが、中国と韓国の世論では、良好な関係を維持することにより得られるメリットよりも、日本を敵対視することを優先させているようです。また、このような世論に反応して「中国や韓国は嫌い」と感じている日本人が増えてきているそうです。
しかし、こういう世論があるのは間違いないとしても、個人レベルでみたときに、「日本人は嫌い」と考えている中国人や韓国人、あるいは「中国人や韓国人は嫌い」と考えている日本人はどれだけいるでしょうか。
私は、何人かの韓国人や中国人の知り合いがいますが、「嫌い」などと思ったことは一度もありませんし、同じように、個人レベルで韓国人や中国人と付き合いのある日本人で、彼(女)らを嫌いと言っている日本人も、その人が彼らの詐欺の被害にあったなどという特殊な事情がない限りは、ほとんどいないのではないでしょうか。同様に、日本や日本人をよく知る韓国人や中国人で、日本人が嫌いと言っている人も見たことがありません。
つまるところ、共同体としての「日本」には敵対心をもっている韓国人や中国人も、個々の「日本人」と付き合えば理解し合えるのです。これは、日本人から彼(女)らをみたときも同様です。
イメージや幻想で人間を評価するのではなく、そんな評価をする前に、実際に彼(女)らと付き合ってみるべきなのです。かけがえのない友人となるかもしれない可能性を、先入観や偏見でつぶしてしまうのは「mottainai」ことなのです。
医師と患者さんは「友人」の関係にはなれないかもしれませんが、私はこれから、以前にも増して医師として彼(女)らの力になりたいと考えています。そして、こういったことを含めた草の根レベルの交流が、国際世論にまで影響を及ぼすことを期待しています。
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|2013年6月17日 月曜日
39 わいせつ医師を排除せよ!② 2006/5/15
少し古い話になりますが、1994年に大阪のある開業医が売春禁止法で逮捕されました。この開業医は結婚していながら韓国人の女性を愛人として囲っていました。そして、その愛人と共同で大阪ミナミに売春施設を経営していたのです。売春婦として働かせていた女性は日本人ではなくタイ人でした。
それだけではありません。この開業医は、同僚や後輩の医師、さらに自分の患者さんに対しても売春婦を斡旋していたといいますから驚きます。
「売春」という問題は非常に複雑で、「よくないことだからやめましょう」などと言うだけでは何の解決にもなりません。おそらく日本にまで来て身体を売っているタイの女性は、貧困地域の出身であり、売春で稼いだお金で一家を養っているのでしょう。タイは母系社会であり、女性が両親を支えるという伝統があります。
私にはそんな女性たちを非難することはできません。キレイ事の好きな人は、「貧しくても普通の仕事で頑張っている人もいるんだから売春はよくない」、などと言いますが、人にはそれぞれ事情があるのです。学歴のない地方出身のタイ女性は、バンコクなどの都会にでてきてもせいぜい日当が150バーツから180バーツ程度で、これは日本円にすると500円程度です。
タイの地方の女性は結婚が早いですから、10代ですでに二人の子供がいるということも珍しくありません。(ちなみにタイの中流から上流階級の女性は日本人よりも初婚が遅いようです。ある中流階級の女性は、バンコクだけでみると、たぶん平均初婚年齢は30歳くらいだと言っていました。)さらにタイでは、自分の夫が他に女を見つけて家を出て行くということが当たり前のようにあり、日本のように慰謝料を払うような男性はほとんどいません。(私がタイのエイズ施設でお会いした女性患者さんの大半がこのパターンです。)
タイにいても身体を売るしか生活する方法がないところに、日本人からうまい話をもちかけられて、というよりほとんど騙されて日本に不法滞在しているのが彼女らなのです。医師であれば、そんな彼女たちを救う立場にあるはずです。この開業医は、そんな彼女たちに売春をさせて自らは暴利をむさぼっていたというのですから、怒りを通り越してなんと言えばいいのかわかりません。
ついでにもうひとつ述べておくと、日本に不法滞在しているタイ女性でHIV陽性の人は、タイではなく日本で感染しているという事実があります。これはタイで取材したときに分かったのですが、タイ女性を日本に斡旋しているブローカーは出国前に必ずHIVの検査をしています。検査でもれている女性もなかにはいるかもしれませんが、それでも大半は日本で感染しているのです。実際に私は、日本でHIVに感染し、現在はタイの施設に入居している患者さんを知っています。
私はこの開業医に直接会ったことはありませんが、この開業医をよく知る医師を何人か知っています。ところが、誰もこの開業医を悪いように言わないのです。この理由は私には皆目見当がつきません。違法行為を行い、良心や道徳的観念のない人間がどうして他の医者から非難されないのでしょう?世間から見れば医師独特の考えがあるのでしょうか?今後、この問題についても追って行きたいと思います。ちなみにこの開業医は今も開業医として仕事を続けています。
最近雑誌でみたケースをご紹介いたしましょう。これは医師が逮捕された事件ではなくて、東京に住む20代のある女性がある雑誌に投稿を寄せたものです。
その女性は、女性誌の広告をみて都内のある美容外科クリニックを受診しました。院長の話によると、今ならキャンペーン中で、美容外科手術を安く受けられることに加え、そのクリニックが経営している美容学校にも入学することができて卒業後は美容の仕事が与えられるそうです。しかしその価格は合計で370万円。彼女には到底支払うことのできない金額でした。値段を聞いてしぶっている彼女に院長はすかさず言ったそうです。「じゃあ、特別に150万円にしてあげよう。」
彼女は少しあやしいと思いながらも、これだけの値引きをくれるなら申し込まなければ損と考え、その場でカードローンにサインをしたそうです。
翌日の夕方、院長の携帯電話に電話をするように言われていた彼女は、約束どおりに電話を入れました。院長は今から講義をするから指定の場所に来るように、と言ったそうです。院長の指示した場所に行くと、そこは学校とは到底思えない単なるワンルームマンションだったそうです。そして、そこで彼女はこの医師に強姦されました。
ここでは雑誌の記事を簡単にまとめましたから、作り話のように聞こえますが、その記事ではここにまでいたる経緯が詳細に記載されており、私には作り話には思えませんでした。これが本当なら、この女性が被害届を出せば、この医師(本当に医師かどうかは疑わしいですが)には、強制わいせつ罪ではなく、強姦罪が適応されるはずです。
わいせつ医師だけでなくわいせつ医大生というのもいます。
1999年に報道された「慶応大学医学部集団レイプ事件」をご存知でしょうか。これは慶応大学医学部の学生4人が、そのうちのひとりが所有しているマンションに女性をつれこみ集団で強姦した事件です。しかもその様子をビデオカメラにおさめていたというのですから悪質極まりない事件です。
当然、これら学生は全員退学となりましたが、このうちのひとりは数年後に、ある国立大学の医学部に入学したそうです。ということは、今頃はどこかの病院で医師として働いていることが予想されるわけです。
私がわいせつ医師に対して最も問題だと思うのは、逮捕された医師に対する制裁が、せいぜい数ヶ月から数年の医業停止となるだけで、医師免許を剥奪されることがないという事実です。そして、これはあまり知られていないことですが、仮に医師免許を剥奪されたとしても、数年後には医師として復活することが現状のシステムでは可能なのです。これは医師免許を剥奪されたとしても、医師国家試験に合格したという事実は消えることがないという理由によるものです。
実際、前回そして今回ご紹介した医師たちは、一定の謹慎期間を経た後、何事もなかったように医師として働いているのです。慶応大学を退学になってから国立大学に入学しなおした医大生には、何事もなかったかのように医師免許が与えられている可能性が強いのです。
医事事故を起こす医師が社会的に制裁を受けるのは、事例によってはやむをえないと思いますが、それ以前に、まったく同情の余地のない「わいせつ医師」に対して、もっと厳しい処罰が与えられるべきではないでしょうか。
ところで、ときどき一般の方から、「医者は女性の裸が見れるからいいですね~」と言われることがあります。
これはとんでもない誤解で、実際に医療現場を少し経験すれば分かりますが、そんなものはよくもなんともありません。
例えば、女性の胸を診察するときは、乳房のために、心音や呼吸音が聞きにくくなりますから、短時間で正確に診察をするためには、卑猥な気持ちで乳房を観察している暇などありません。性感染症の診察のときなどは、ほんの少しの皮膚の変化やおりものの正常、あるいは臭いなども確認しなければなりません。診察でみる女性器というのは例えばポルノ映画で見る女性器とはまったく違うものなのです。また、私は経験がありませんが、乳癌の専門医であれば乳房を触って診察をおこないます。これとてほんの少しの異常も見逃すことができませんから、男性として女性を見ることなどできないのです。
「キレイな女性を診察するときはうれしいですか」と質問されることもありますが、これも答えは「NO」です。診察室では患者さんが入ってこられるときから診察が始まっています。患者さんの歩き方、表情、仕草などにも我々は注目しています。診察室のなかでは、街で女性を見るようには見られないのです。
それにもうひとつ重要な問題があります。若い女性患者さんは、医師に対して容易に恋愛感情を持ってしまうことがあります。これを「転移」と言い、特に精神疾患を患っている患者さんに多いという特徴があります。私は学生時代に、「どうして精神科の先生は女性患者さんに冷たい態度をとるのだろう」と疑問に思っていたのですが、これは「転移」を予防するためだったのです。ベテランの精神科医は、恋愛感情を抱かせることなく巧みに患者さんの心を開かせることができます。この「転移」を防ぐためにも、我々は女性を女性と見てはいけないという暗黙のルールがあるのです。
そろそろまとめに入りましょう。我々医師は『全員』、と言いたいところですが、ご紹介したようにとんでもないわいせつ医師がいるのも事実ですので、『ほとんどの医師』は女性患者さんに対して、わいせつな意識を持っていませんから安心して医師にかかってください。
けどやっぱり、『ほとんどの医師』では説得力がないですね・・・。
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|2013年6月17日 月曜日
38 わいせつ医師を排除せよ!① 2006/5/1
帝王切開で29歳の患者さんが死亡したことで議論を呼んでいる福島県の産婦人科医の話や、人工呼吸器を外したことで注目を集めている富山県の外科医の話が、マスコミでよく語られていますが、これらの事件は医師を非難する論調がある一方で、医師を擁護する意見も少なくありません。特に後者の事件では、患者さんや医療従事者でない一般の方々からも医師を弁護するような意見が相次いで出されているようです。
こういった問題は、一般論で片付けられるような単純なものではなく、症例ごとにじっくりと検証しなければなりません。
これに対して、こういった問題とはまったく別の次元で問題提起しなければならない医師の行動があります。例えば、覚醒剤中毒の医師やわいせつ事件を起こす医師です。シャブ中ドクターの話は拙書『今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ』でも述べていますが、私自身としては、覚醒剤に手を出さざるを得なかった医師の気持ちをも理解する必要があるという意見を持っています。「覚醒剤は危険だからやめましょう」というキレイ事だけでは真実が見えて来ずに何の解決にもならないからです。
しかしながら、わいせつ医師についてはまったく同情の余地がありません。患者さんに対してわいせつ行為を働く医師など、もちろん私の周囲にはいませんし、想像もできないのですが、ときおりマスコミの報道でとんでもない事件を聞くことがあります。
今回はわいせつ行為で報道された医師の実態をみていきたいと思います。
まずは、東京のある病院の外科部長がおこなった「全裸撮影事件」を振り返ってみましょう。52歳のこの心臓外科医は、2000年から2004年までの5年間、心臓の超音波検査を施行する際に、患者さんに「全裸にならなければ検査できない」と言い、看護師を退席させた上で、患者さんの全裸をデジタルカメラで撮影していたそうです。
心臓外科医がおこなう超音波検査で、全裸になる必要があるはずがない、ということは我々医療従事者であれば常識ですが、患者さんのなかには「大病院の心臓外科部長が言うんだから・・・」のような気持ちが働いて、疑いながらも同意せざるを得なかったのかもしれません。
普通の感覚をしていれば、患者さんを全裸にするということなど考えもしないのですが、例えそのようなことを考えついたとしても、「患者さんのなかには全裸の撮影を疑う人もいて自分は写真という証拠を残しているんだから見つかれば逃れられない」、という単純なことがなぜこの外科医には理解できなかったのでしょうか。
まあ、それが分かるくらいの常識を持ち合わせていれば、初めから患者さんを撮影しようなどとは思わないでしょうが・・・。
もっと悪質なものもあります。
2002年に強制わいせつ罪で逮捕された福岡県のある病院の理事長(当時73歳)は、自らが覚醒剤をキメた上で、27歳の女性に強制わいせつ行為をはたらいたのです。しかも、この医師は覚醒剤などの薬物中毒を専門としていたといいますから驚きます。
わいせつ医師の被害者は患者さんだけではありません。
昨年(2005年)、東京のある大病院の47歳の脳神経外科医が、病院の部長室で製薬会社の26歳の担当女性社員の体を無理やり押さえ付け、約15分間にわたって下半身を触るなど、わいせつ行為をおこない、「強制わいせつ罪」で逮捕されました。
自分の職場で強制わいせつをおこなっても逮捕されることがない、と、この外科医は考えていたのでしょうか。もちろん、「逮捕されたくないから強制わいせつをしない」というのはおかしな理屈で、まともな人ならそんなことを考えなくてもこのような犯罪行為を思いつくことはありません。
このような犯罪行為を犯す人間は精神的な異常をきたしているとしか考えられず、よく47歳まで外科医をつとめてこられたな、と感心してしまいます。
次に、昨年「準強制わいせつ罪」で逮捕された岩手県の42歳の精神科医についてみてみましょう。報道によりますと、この精神科医は勤務先の病院から睡眠薬を持ち出し、それを知人である飲食店勤務の18歳の女性に、「ビタミン剤だから・・・」と嘘をついて無理やり服用させ、身体を触るなどの行為をおこなったそうです。
こういう事件はたしかによくあって、そのため裏市場では睡眠薬がそこそこの値段で取引されています。患者さんのなかにも、強力な睡眠作用に加え幻覚作用のあるような薬を名指しで欲しがる人がいて、私は「怪しい」と思えば、そういった薬剤はできるだけ処方しないようにしています。しかし患者さんのなかには、簡単に薬剤を処方してくれるクリニックを複数箇所受診している人もいるようです。
睡眠薬はもちろん有用な薬剤ですから市場から無くすわけにはいきません。したがって、不正な使用をなくすためには、我々医師が処方に厳重な注意を払わなければならないのです。その医師、しかも睡眠薬のプロフェッショナルである精神科医が、自らの低次元な欲望を満たすために睡眠薬を使用したというのですから、呆れると言うほかはありません。
もうひとつ、強制わいせつで逮捕された事件をみていきましょう。
国立のある研究所に勤めていた51歳の医学博士が2005年6月に逮捕されました。この事件は、先にみてきた事件に比べると少々手が込んでいます。(この事件の詳細は『裏モノJAPAN』という雑誌の2005年9月号でレポートされています。)
まず、この医学博士は「安藤健二」という偽名を使って、《医師限定》出会い系サイトに登録をしました。この男は妻とふたりの子供と共に千葉県のマイホームに住んでいますが、出会い系サイトに登録した際には「独身」としていたそうです。
そして40代の女性とメール交換を繰り返して1ヶ月が経過した頃、ようやくアポイントメントに成功し都内で会うことになりました。仙台出身のこの女性がその晩都内に泊まることを知った<安藤>は、口八丁手八丁で女性の部屋に入りこみました。ふたりが会うのはこの日が初めてということもあり、この女性は執拗に言い寄る<安藤>をかわしていましたが、ついに<安藤>は「実力行使」に出たそうです。
次の瞬間、悲鳴とともに払いのけられた<安藤>は、一応謝罪をし、そのまま部屋を飛び出したそうです。
普通ならここで終わりそうなものなのですが、なぜか<安藤>はその後もこの女性にメールを続けます。謝罪のメールを何度も送り、そのうちにこの女性の方からも反応の悪くない返事が来るようになり、二度目のデートの話もまとまりかけていたそうです。
このあたりの<安藤>の心理が私には理解できないのですが、エリート街道をひたすら歩んできた<安藤>にとっては他人からの「拒絶」を受け入れることができず、謝罪してでもこの女性をモノにしなければプライドを満たすことができなかったのでしょうか。それともこの女性に「恋」をしてしまったのでしょうか。
再デートも時間の問題と思われた頃、<安藤>が致命的なミスを犯します。他人に送るはずのメールを誤ってこの女性に送信してしまい、その内容から<安藤>が妻帯者であることがバレてしまったのです。
騙されていたことを知ったこの女性は<安藤>を許すことができませんでした。警察に被害届けを出したのです。2005年6月4日の早朝、<安藤>の自宅に刑事が訪問し、強制わいせつ罪で逮捕となりました。
《医師限定》出会い系サイトなどというものを私はこの事件が報道されるまで知りませんでしたが、そもそも登録の際、医師であることをどうやって確認するのでしょう。もしも医師免許証の提出などで、医師であることの証明をするなら偽名は使うことができないでしょうから、おそらくこのサイトでは、誰でも簡単に医師になりすまし登録をすることができたのではないかと予想されます。
おそらく本当の医師であれば、こういうサイトには登録しないと思われます。普段から我々の元には、やれマンションを買えだの、高利回りの投資信託を始めろだの、いかがわしい電話やメールが頻繁に届きます。いったいどのようにして個人情報を入手しているのか分かりませんが、こういった迷惑なセールスが我々医師の悩みのひとつです。そんな悩みを持つ医師が、わざわざ《医師限定》の出会い系サイトなどに登録するでしょうか。そんなサイトへの登録は、デート商法や絵画商法の女性詐欺師に対して、ネギをしょって歩くカモになるようなものです。そういうリスクを冒してまでこういうサイトを利用するのは初めから「下心」がある<安藤>のような男だけではないでしょうか。
次回はさらに悪質な「わいせつ医師」をみていきたいと思います。
つづく
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|2013年6月17日 月曜日
37 人工呼吸器の是非 2006/4/15
最近、医師が人工呼吸器を止め、延命を中止したことに対する報道が注目を集めているようです。
2006年3月25日のasahi.comの報道によりますと、富山のある病院の外科医が、2000年から2005年にかけてかかわった末期の入院患者7人の人工呼吸器を外し、全員が死亡していたことが分かったそうです。この病院はこの医師の「延命治療の中止措置」について、倫理上問題があると判断し、院内調査委員会を設置するとともに、県警に届け出たとのことです。
この病院の院長によると、亡くなったのは同県内に住む50~90代の患者7人(男性4人、女性3人)で、いずれも意識がなく回復の見込みがない状態だったそうです。
そして、この外科医は病院側の調査に対し、人工呼吸器の取り外しについて「いずれも家族の同意を得ているが、うち1人は家族から本人の意思も確認できた」と説明し、病院によると、いずれも本人の同意書はないが、カルテには「家族の同意」を示す記述があるそうです。
こういう事件が報道されると、必ず「お前はどう思う?」と知人から聞かれます。「どう思う?」と聞かれて困るのは、症例というのはひとつひとつ異なるものであり、必ずしも一般論で論じることができないからです。
もう少し詳しくお話しましょう。
まず、個々の症例において、人工呼吸器をどのような状態で装着したかというのが重要になってきます。通常、末期の状態であれば、いずれ呼吸状態が悪化することが考えられ、その場合、気管内挿管をおこない人工呼吸器を用いた治療をおこなうかどうかというのを、あらかじめ本人もしくは家族と話をしておきます。
今回報道された事件では、末期の患者さんとされていますが、あらかじめそのような話をされていたのかどうかが明らかではありません。もしも、本人もしくは家族が「どんなことをしてでも少しでも延命してください」という希望を持たれていたのであれば、この外科医のとった行動は許されるべきではないということになります。
しかし、報道ではカルテに「家族の同意」があるとされています。とすると、人工呼吸器の話をするまでに、つまり予想よりも早く呼吸状態が悪化したのか、あるいは、その患者さんの病気による呼吸状態の悪化ではなく、例えば何らかの理由で窒息や薬物の副作用で呼吸が停止し、緊急処置として人工呼吸器を装着した可能性も考えなくてはなりません。さらに、その患者さんが本当に末期といえる状態であったのかどうかという点については報道からは皆目見当がつきません。こうなると推測の域を出ずに、私が医師としてコメントするのは不適切ということになります。
今回の事件のように、余命いくばくもないと思われる患者さんに装着されている人工呼吸器を停止させるのは、いわゆる「安楽死」ということになります。実は、この「安楽死」については明確な定義がありません。
便宜上よく引き合いに出されるのが、いわゆる「東海大安楽死事件」に対して、1995年に横浜地裁が述べた「安楽死の3要件」です。それらは、(1)回復の見込みがなく、死が避けられない末期状態にある、(2)治療行為の中止を求める患者の意思表示か家族による患者の意思の推定がある、(3)「自然の死」を迎えさせる目的に沿った決定である、の3つです。
人工呼吸器を装着すべきか否か、というのは可能であれば、できるだけ早い時期に本人もしくは家族に考えておいてもらうのがいい、というのが私の考えです。そのため、私はまだ患者さんの元気な早い時期に本人及び家族にこの話をしておくようにしています。「先生、そんなに早く結論ださないといけないんですか」、と聞かれることもありますが、いったん装着した人工呼吸器のスイッチを切るというのは、今回報道された事件のように合法かどうかという点がはっきりしませんし、正直に言って私自身に「スイッチを切る」という行為は抵抗があるのです。(念のために言っておくと、私は今回の外科医を非難しているわけではありません。私自身の臨床医としての、あるいはひとりの人間としての未熟性から、今の私には人工呼吸器を外すことに抵抗があるのです。)
人工呼吸器というのは、単なる延命医療の道具と考えている人もいるようですが、人工呼吸器がなければ助かる命が助からなくなることもあります。例えば健康な人が窒息や薬物中毒など急激に呼吸困難に陥ったような場合、迅速に気道を確保し、人工呼吸器を接続し、一時的に器械の力を借りて呼吸をおこなうことがあります。この場合、治療がうまく進めば、何事もなかったかのように復帰することができます。
また、全身麻酔の手術のときは人工呼吸器を接続し呼吸管理をおこなうことが必要です。人工呼吸器を用いた呼吸管理がおこなえるからこそ長時間の手術も安心しておこなうことができるのです。
つまるところ、「人工呼吸器の良し悪し」というのは単純な理屈で語られるべきものではなく、個々の症例でしっかりと検討されるべきものということになります。
末期の状態であれば、最近は人工呼吸器を用いた延命治療を望まない人が増えているというようなことが言われますが、そもそも生命についての決定権は本人(もしくは家族)にあるわけで、医療従事者が決めるべきものではありません。
したがって、例えば、脳死になったときに臓器を提供すべきかどうか、といった問題と同様、患者さんの意識がしっかりとしている早い段階で決めておくべきものだと私は思うのです。
最近経験した、末期癌の患者さんのことをお話したいと思います。
その患者さんは80代の男性で、病気は、ある消化器系の癌で、もはや手術ができないほど進行している状態でした。数ヶ月ももたないと思われたため、あらかじめ本人と家族に、呼吸状態が悪化したときに呼吸器をつけるかどうかを相談していました。本人及び家族の返事はNO! つまり、人工呼吸器をつけたところで寿命がそれほど変わるものでもなく、癌自体は治らないのだから、ここまでくれば自然なかたちにまかせたい、とのことでした。「この患者さんは死というものを完全に受け入れている」、それが私の印象でした。
よく晴れたある日曜日の午後、いつものように昼食を終えた患者さんの様態が少しずつ変化しだしました。血圧や呼吸数は正常なのですが、意識がぼーっとしてきています。「これは家族を呼んだ方がいい」、私はそう判断しました。
意識状態を正確に把握するために、痛みの刺激を与えてどのような反応をとるかをみることがあります。私は、患者さんを少したたいたりつねったりして刺激を与えてみましたが、表情はまったく変わりません。これは意識状態がかなり悪いことを示しているのですが、しかしながらその表情が非常に穏やかなのです。この患者さんは、癌の末期なのにもかかわらず日頃から痛みをほとんど訴えず、強力な鎮痛剤も使っていませんでした。そのうちに血圧が下がりだし、呼吸の回数が少なくなりだしました。
そして、ちょうど家族の方々が到着したのと同時に、静かに息をひきとりました。
私はこの患者さんの表情が今も忘れられません。癌の患者さんによくある苦悶の表情を見せることなく、まるで、「生命をまっとうしました」、と宣言しているような印象を私は持ちました。この患者さんは末期癌であったことは間違いありませんが、病気が直接の死因というよりも、むしろ自然なかたちで生命に終止符を打たれたのかもしれません。
もしも、この患者さんに人工呼吸器を装着していれば、このような表情は見られなかったに違いありません。人工呼吸器をつなぐということは、プラスチックの管を口(あるいは鼻)から気管に挿入します。そしてその管を固定するために、口の周りをテープで何重にもとめることになります。そして呼吸器の「シュー」という乾いた無機質な音が規則的に病室に響き渡ります。患者さんの心臓が弱ろうが呼吸器は同じリズムで空気を送ってきますから、末期の患者さんに接続した呼吸器はその患者さんをいじめているように見えることもあります。
私は、この患者さんは人工呼吸器を使わなくてよかったんじゃないかな、と思いました。
家族の前で死亡宣告を終えた後、この方の奥様が話されました。
「先生、主人の死に顔がこんなにも穏やかだとは思いませんでした。こんなに幸せそうな表情をしているなんて・・・・」
口にはしませんでしたが、私も同じことを感じていました。
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|2013年6月17日 月曜日
36 医師の努力がむくわれないとき 2006/4/1
年々、患者さんが医療従事者を訴える、いわゆる医事紛争が増加していますが、同様に、刑事的に医師が逮捕や書類送検されるという事件が目立つようになってきました。
最近、福島県のある病院の産婦人科医が、業務上過失致死と医師法違反で逮捕されるという事件が世間の注目を集めています。
この事件を振り返ってみましょう。
2004年12月、この医師が帝王切開した女性(当時29歳)が死亡し、24時間以内に届けなかったとして、福島県警がこの医師を逮捕しました。報道によりますと、この医師は、帝王切開の手術を執刀した際、胎盤の癒着で大量出血する可能性があり、生命の危険を未然に回避する必要があったにもかかわらず、癒着した胎盤を漫然とはがし大量出血で女性を死亡させたとのことです。また女性の死体検案を24時間以内に警察署に届けなかったことが医師法違反に該当するとのことです。
この逮捕に対し、日本産科婦人科学会、日本医師会などが次々と反対の意思を表明しています。例えば、ある学会は、「術前診断が難しく、治療の難度が最も高い事例で対応が極めて困難。産婦人科医不足という現在の医療体制の問題点に根差しており、医師個人の責任を追及するにはそぐわない部分がある」と声明を発表しました。
すると今度は、「産婦人科医不足や現在の医療体制の問題を理由にするのは、患者さんの立場に立った理由ではない」といった旨をマスコミに発表する医師も登場し、事態の混乱が続いています。
話は少々ややこしくなっていますので、ここで整理をしておきましょう。
まず、検察が逮捕に踏み切った理由は、業務上過失致死と医師法違反です。
業務上過失致死というのは、例えばトラックの運転手などが路上で人をはねて死亡させたときなどに適応される法律用語です。この場合、運転手に殺人の意図がなくても法律(この場合は「道路交通法」)は適応されます。
医師が全力を尽くしたのにもかかわらず、術中、あるいは術後に患者さんが亡くなった場合はどうなるのでしょうか。もちろん、すべての死亡が業務上過失致死にはなりません。業務上過失致死と認められるのは、文字通り「過失」がある場合のみです。
では、今回の福島県の事件では「過失」があったのでしょうか。検察は、あらかじめ大量出血が予見できて生命の危険を未然に回避できた、と主張していますが、これを実証するのは簡単ではありません。癒着した胎盤というのを私は教科書でしか知りませんから、私自身はコメントする立場にありません。ただ、産婦人科の各団体が、一斉に逮捕に抗議をしていることを考慮すると、明らかな「過失」があったとは到底考えられないように思われます。
次に、医師法違反についてですが、同法には、「医師は,死体又は妊娠4月以上の死産児を死体検案して異状があると認めたときは,24時間以内に所轄警察署に届け出なければならない。」との記載があります。ところが、この「異状」の定義がはっきりしておらず、以前より問題視されていました。
今回のケースでは、胎盤の癒着から大量出血が起こったということ事態が「異状」に該当するのかどうかという点が争点になるのかもしれませんが、定義のあいまいさが以前より指摘されている法律をこのような症例に適応するというのは問題があるように私には思えます。それに、大量出血を「異状」とするなら、あらかじめ「大量出血を予見できた」と主張する検察のコメントが「過失」ではないことを示していないでしょうか。
今回のこの事件が大きな意味をもつひとつの理由は、同業者である他の医師や病院、あるいは医学生、さらには医学部受験を考えている受験生にも少なくない影響を与えているということです。すでに、癒着した胎盤の帝王切開はやりたくない、と考える産科医が現れているそうです。少しでも危険のある帝王切開は他院にまかせようとする病院もでてくるに違いありません。産科をやめたいと考えている医師もいるという噂もあります。さらに、将来産科医になることを考えている研修医、医大生、受験生も進路の変更をおこなうかもしれません。すでに、医事紛争の増加で減少の一途をたどる出産施設が今後加速度的に増加することが予想されるわけです。
さて、今回の一連の報道で私が疑問に感じるのは、患者さんのご遺族のコメントがまったく報道されていないという点です。私は医師として、患者さんとこの産科医がどのような話をされていて、この事件に対して遺族はどのような感想を持たれているのかを知りたいのですが、私の知る限りそういったことは報道されていません。医療の主役は患者さんであるということが忘れられているような気がしてさみしく思います。
もちろん、「業務上過失致死」や「異状死体届出義務違反」というのは、患者さんやご家族がどのような感想を持たれるかに関係なく適応されなければならないものです。また、検察官や警察官は、個人的にどのような意見があろうとも法律に基づいて任務を遂行しなければなりません。
しかしながら、私はひとりの医師として、患者さんがどのような思いで手術を受けられ、またご遺族はどのように思われているのかが知りたいのです。というのも、極端に言えば、嫌がる患者さんを無理やり説得してその病院での帝王切開に踏み切ったのと、あらかじめある程度の危険性を認識された上で、その医師による帝王切開を強く希望されていたのとでは天と地ほどの差があると思うからです。これは法律とは別の次元の話です。
私の率直な感想を言えば、これから自分がおこなう医療のなかでこの産科医と同じような経験をしないという確信は持てません。私はいつも患者さんにとって最善と思われる治療を選択しているつもりです。さらにその治療法を患者さんに説明し同意が得られたときにのみ実施するようにしています。また、その治療法が、例えば難易度が高く私にはできないような手術などのときには、他の医師を紹介するようにしています。おそらくほとんどの医師がこのようにしているに違いありません。
しかしその結果が不幸を招いたとき、あるいは努力がむくわれなかったときというのも、今後起こりえない保証はありません。おそら今後の医師人生のなかで一度くらいは予期せぬ結果というものが起こりえるのではないかと思います。
そんなときにどうすべきかというと、法を犯したのであれば法に従い、最後まで患者さんやその家族の立場にたった態度を貫き通すということです。これ以外にはありません。
法律や医事紛争を恐れて治療をおこなっていれば、患者さんにとってのいい治療ができなくなってしまいます。例えば、後に医事紛争になったときに自分に有利になるように、といった観点からのみカルテを書けばどのようになるでしょうか。カルテはあくまで患者さんにとって最善になるような観点から書かれるべきものです。それに、医事紛争のことばかりを気にしていると、少しでも診断がつきにくかったり、少しでも未知数があったりする症例をすべて他の病院に搬送することばかりを考えるようになるかもしれません。これでは常に、自分の身を守ることだけを考えて、患者さんにとっての最善の医療ができなくなってしまいます。
医師にとって必要なことはたくさんあります。絶え間ない知識や技術の習得、高い人格、協調性、など、あげればいくらでもありますが、私がもっとも重要視しているのは「良心」です。常に自分の「良心」に従って診療をおこなう限り、少なくとも後に後悔することはなくなるはずです。いつも「良心」に従っていれば、結果的に法律を犯したことになったとしても、それほど恥じることもないのです。たとえ患者さんにとってみれば不幸な結末になったとしても、最後まで「良心」に従い、最後まで患者さんの立場にたった態度を取り続ける限り、それが謝罪や慰謝料というかたちになったとしても、少なくとも自分の「良心」は傷つけることはないわけですから。また、「良心」は常に鍛えていくということも必要です。そのためには、日頃からどんな行動をとるときにも「良心」に従うことが大切です。
これから医師を目指されている方がこれを読まれているとすれば、どうかこの点をよく考えていただきたいと思います。医療とは、自分の身を守るものではなく、患者さんのためにおこなうものなのです。
私が診させている患者さんがこれを読まれているなら、私が良心に従っていない治療をおこなっているのでは、と感じられるようなことがあればすぐにご指摘いただければ幸いです。
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|2013年6月17日 月曜日
第35回(2006年3月) 理想の父
先日、ある病院で夕方に外来をしていたときのことです。最後の患者さんの診察を終え、片付けを始めようとしたところ、突然救急車でひとりの患者さんが搬送されてきました。
その患者さんは14歳の女子、搬送の理由は喘息発作です。これまでも度々同様の発作を起こしているそうです。私は彼女を診察台に寝かせ、聴診器を使って診察をおこないました。幸い症状はそれほどひどくなく、吸入と点滴で改善しそうな状態です。予想通り、点滴を開始してしばらくすると、苦しそうにしていた呼吸状態が落ち着いてきました。
救急隊からの情報によると、この女子、自分で救急車を要請したそうです。14歳の女子がひとりで救急車を呼ぶとはなかなかしっかりしています。しかし、女子の外見が私にはひっかかりました。体格は14歳相応なのですが、服装や髪型、それに外見から醸し出している雰囲気がとても14歳には見えず、幼い感じがするのです。
この幼くみえる女子がひとりで救急車を・・・。
もちろん、人を外見で判断するのはよくないことなのですが、医師という職業上、患者さんの外見というのはいつも気になります。10代の女子で言えば、極端に化粧が濃かったり、あるいは逆にあまりにも不潔な格好をしていたりすれば、社会背景に何か問題があり、そのために身体上の障害が出現しているということが珍しくないのです。
この女子の場合、化粧はまったくしていませんし、不潔にしているわけでもありませんでしたが、全体の雰囲気が普通ではないように見受けられます。
あらためてよく観察してみると、髪は決して不潔というわけではないのですが、あまりまとまっておらず染めてもいません。髪は染めているのがいいというわけではもちろんありませんが、最近は中学生でもヘアダイやヘアブリーチをしていることがごく普通なので、逆に何もしておらず、あまり手入れをしていない黒い髪に違和感を覚えてしまうのです。
服装は、上は色あせたトレーナーで、下は体育の授業で使うようなトレパンです。トレーナーはおそらくもともとは濃い赤色なのですが、何度も洗濯したせいでその赤色がまだらのようになっており、はげかけて薄いピンク色になっている部分もあります。両肘の部分は布地が相当磨り減っています。現代の日本でここまで同じ服を繰り返し着る10代も少ないのではないかと思わずにはいれません。はいているトレパンも、いくら動きやすいからといっても、おしゃれに敏感な14歳の女子が体育の時間以外にはいているというのも普通ではありません。
この女子が幼く見えるのは、あまりにも貧しい衣服を身にまとい、おしゃれとは疎遠であることが原因のようです。
しかし、話してみると、その幼さとは裏腹に、言葉遣いも丁寧で大人びた側面も持ち合わせています。
「苦しくなったらいつも救急車を自分で呼ぶの?」
私の質問に彼女は答えました。
「はい。父がいるときは父に呼んでもらいますが、父と二人暮らしなのでこの時間だと私が自分で救急車を呼ぶんです」
私は自分が14歳のとき、自分の父のことを人に話すときに「父」とは呼んでいなかったことを思い出しました。彼女のように正しい敬語を使うこともできていませんでした。
ボロボロの衣服を身にまとった言葉遣いがしっかりした14歳の女の子……。
こうなると次に気になるのが、この子のお父さんです。医師をしていると、ついつい家族関係を追求したくなることがよくあります。実際、家族関係が良好かそうでないかによって診断や治療に影響がでてくることがあるからです。虐待や近親相姦はその最たる例です。
服装や髪型から想像を膨らませ、家族関係まで詮索してしまう・・・、私は医師になってから随分イヤなやつになってしまったのかもしれません。
そんなことを考えているとき、この子の父親が診察室に飛び込んできました。
「娘は?! 娘は大丈夫ですか!」
血相を変え、息を切らせて必死に娘の安否を気遣うこの父親に、私が「大丈夫ですよ。今は息苦しさもほとんどないはずです」と答えると、診察台で横になっている娘の両肩を抱きかかえ、「大丈夫か、ほんまに大丈夫か!」と何度も自分の娘に返事を促しています。
私や看護師の目の前で父親が大きなリアクションで安否を気遣うものですから、女子は少し恥ずかしそうにしています。
「お父さん、大丈夫やで。いつもよりましやわ。そんなに心配せんといて~な。うち、はずかしいわ」
微笑ましい親子愛といった感じです。
それにしてもこの父親の格好、娘のそれと同じように、いえ、娘よりも私には奇異にうつりました。
髪はボサボサで手入れはまったくしておらず、無精ひげは決して清潔とはいえない状態で、服装は上下とも作業服で相当汚れています。作業服だから汚れていても不思議ではないのですが、この父親の作業服はところどころ破れていて、そのすりきれた布地からかなり使い古されたものであることが伺えます。それに靴には穴が開いています。失礼な言い方ですが、21世紀の日本人の服装とはとうてい思われないような格好なのです。
「娘さんと二人で暮らされているのですか」
私は父親に質問しました。
「はい。そうなんです。この子の母親は今から7年前に病気で亡くなって、それからは私ひとりで育てているんです」
この父親は、以前はある大企業に勤めていたのですが、妻を病気で亡くしてから、娘を育てるためにその会社をやめ、定時で終われる現在の仕事に転職したそうです。給料は半減したそうですが、それよりも娘と一緒にいる時間を大切にしたいと言います。毎朝5時半に起床し、朝食と娘の弁当をつくり、夕食も必ず自分でつくるそうです。娘にはできるだけ家事を手伝わさせずに掃除も洗濯もこの父親がほとんどおこなっているそうです。
娘は言いました。
「父の料理はとってもおいしいんです。お弁当が毎日すごく楽しみなんです」
このときの娘の瞳の美しさに私は小さな感動を覚えました。
喘息発作で度々救急搬送されるということは、現状の喘息の治療が適切でない可能性があります。問診してみると、最近かかりつけの診療所に通っておらず、自己判断で治療を中断しており、発作がおこったときに救急車を呼ぶということを繰り返していることが分かりました。
私はそれが非常に危険であることを話し、明日にでもかかりつけ医を受診するよう指示しました。点滴が終了する頃にはすっかり元気になっており、ふたりは何度も礼を言って仲良く帰っていきました。
大企業を退職し、貧しいなかでたったひとりで娘を育てる……。おそらく私には想像もつかないような苦労をされていることでしょう。この父親は40代半ばくらいですから、その大企業にそのまま勤めていれば、それなりの収入とそれなりの暮らしがあったに違いありません。それらを捨てて娘ひとりに愛情を注いでいるのです。
片親に育てられて非行に走る子もなかにはいますが、この子は非行どころか、家が貧乏であることを恥じることなく、そしてきっと父親を誇りに思っていることでしょう。
すばらしい親子関係が構築できているのは、この父親が世間体や自分のプライドのためにひとりで娘を育てているのではなく、心から無条件の愛情を示しているからに違いありません。
私自身は結婚の経験も、子育ての経験もありませんが、いずれ結婚して子供をもつときがくれば、無条件の愛情を示すこの父親のようになりたいと思いました。
また、私はこれからも、多くの患者さんや、国内外のエイズの患者さんをみていくことになりますが、ひとりひとりに医師としての精一杯の愛情を注いでいきたいと、この父親をみて思うようになりました。大勢の患者さんの役に立つ医師というよりもむしろ、目の前の患者さんに精一杯の愛情を注げる医師、それが私の理想です。
最後に、私の好きな言葉を紹介します。
「大衆の救いのために勤勉に働くより、ひとりの人のために全身を捧げる方が気高いのである」
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|2013年6月17日 月曜日
34 語学はこんなにおもしろい! 第2回(全2回) 2006/2/28
私は一度、タイ語の先生に、「C」の二つの音(無気音と有気音)を続けて発音してもらったところ、違いがまったく分からなかったために、「一緒やん」という言葉が思わず出てしまったことがあるのですが、彼女はすかさず「イッチョじゃないよ!」と言ったので、おかしくなって笑ってしまいました。2つの「C」を、無気音と有気音として、厳密に区別しているタイ人が、タイ語より格段に音の少ない日本語の「し(SHI)」を発音できないのです。
英語を母国語とする外国人はどうでしょうか。私は、ある西洋人に、このタイ人の先生とのエピソードを話した上で、「英語を母国語とする人にとって、むつかしく感じる日本語の音があるか」という質問をしたことがあります。彼女の答えは「まったくない」というものでした。
けれども、よくよく思い出してみると、アメリカ人であろうがオーストラリア人であろうが、日本語の文章をきれいに発音している西洋人を私は見たことがありません。どれだけ日本に長く暮らしている人であっても、声だけを聞いて、「この人、日本人かな」と感じたことは一度もありません。
それに対して、日本語のよくできるタイ人は、「SHI」や「Z」などがあまり出てこない文章であれば、ほとんど日本人と同じように発音します。例えば「お元気ですか」という文を、英語を母国語とする人に発音してもらうと、イントネーションや発音の微妙な違いから、すぐに日本人でないことが分かりますが、これをタイ人が発音すると、場合によっては「この人、日本人かな」と思うほどきれいです。
どうやら、スピーキングという語学の領域は、単に母音や子音を正しく聞き取れて発音できるかどうか、という問題だけではなさそうです。
もうひとつアジアの例を挙げましょう。
中国という国は、多民族から成立している国家ですが、統一支配をする上で、語学の問題にもっとも難渋した(している)そうです。北京語が一応の共通語ということになっていますが、北京語は数多い中国語のなかでも音の数の多い、少なくともリスニングとスピーキングにおいてはもっとも難易度の高い言語です。
そんな言語を共通語にしようとしたものですから当然無理がでてきます。いくら言葉を強制されても、もともと発音できない音が多数含まれているのですから、地方の民族の人には正しく使えるはずがありません。例えば、台湾の言語は北京語よりも音が少なく、そのため台湾人には上手く発音できない音が北京語には多数あり、北京語を話す中国人が台湾人の中国語を聞けば、洗練されていない、どこか野暮ったい言葉に聞こえることがあるそうです。
日本人が外国語を学ぶときに、発音のハンディキャップを背負っているのは確かに事実ですが、西洋人が日本語を流暢に話すかと言えば、必ずしもそうではありませんし、タイ人は母国語に多くの音を持っていながら、正しく発音できない日本語がありますし、中国にいたっては、同じひとつの国でありながら、地方によっては標準語が正しく発音できないのです。
こう考えれば、日本人だからといって一方的に悲観的になる必要はありません。また、考え方を変えて、日本語と同様に音の少ない言語を勉強するというのもひとつの方法かもしれません。(センター試験で英語以外の科目を選択するというのはかなりリスキーかもしれませんが・・・)
ちなみに、日本人が発音に比較的コンプレックスを持つことなく勉強できるメジャーな外国語は、韓国語とスペイン語だと言われています。私の知る範囲でも、韓国語はある程度までマスターする人が多いような印象があります。スペイン語については、発音には抵抗なく入れたけれど、単語の語尾変化の多さに疲れてしまって挫折するというケースが多いようです。
ところで、語学が苦手という人は男性に圧倒的に多いような印象があります。これは昔からよく言われていることですし、脳生理学的な説明が試みられることもあります(例えば右脳と左脳の使い方の差異や脳梁(のうりょう)の太さの違いなど)。また、私自身の経験から言っても、英語をきれいに話す韓国人は圧倒的に女性に多いという印象がありますし、タイ人にいたっては、例えばタイ国内の銀行に入ると、女性はほとんどがある程度きれいな英語を話しますが、男性職員はかなりのベテランと思わしき人でも、さっぱりしゃべれないということがよくあります。
実際、「語学は女の方が有利なんだから試験にハンディをつけてほしい」、とまで言う男性もいます。語学にコンプレックスを持っている男性のなかには、「女性はもともと語学のセンスがあるのに加えて、日本人の女であれば、容姿にかかわらず(?)、たいていどこの外国人からもモテるから、恋人をつくることによって語学が飛躍的に上達する。それに対して日本人の男は、特に西洋の女性からはまったく相手にされないからハンディを背負っているんだ」、と言う人までいます。
う~ん、たしかに一理あるような気もします。例えば、オーストラリアには、de facto partner visaと呼ばれるものがあります。これは通称「恋人ビザ」と言われているもので、オーストラリアでは、結婚していなくても、ある程度長期間の付き合いがあれば、恋人とみなされて居住権を獲得できるという制度です。この制度を利用したことのある日本人女性(要するにオーストラリアの男性ときちんと付き合っている(いた)女性)の話は、たまに聞くことがありますが、男性でこのビザを取得したことがあるという話は私の知る限りありません。
けれども、男性も決して悲観することはありません。私の知る限りでは、リスニングとスピーキングで女性に劣ることが多いとしても、リーディングやライティングではそれほどひけをとっていないのではないかと思われます。
実際、英文がほとんど書けずに初歩的な文法のミスをしている日本人女性が、ビックリするくらいきれいな英語を話すことがよくあるのと同様、ほとんど英会話ができない男性が、難解な英文をスラスラ読んでいる光景も珍しくありません。
私は現在、月に2~3度、タイ語を習っていますが、その先生によると、「(私のような)男性は文字や文法をすぐに覚えるけれど発音はもうひとつ」、だそうです。それに対して、「女性は文字や文法をイヤがるけれど発音はきれい」、だそうです。男の私からすれば、文字や文法をイヤがる、というこの女性心理が理解できません。タイ文字はとても「かわいい」ですし、そもそも文字を覚えなければ辞書すら使えないのです。辞書も使えない状態で、語学力を向上させるなんてことは私には不可能です。しかし、女性たちは、辞書なしで会話力をどんどんアップさせていくのです。興味深いと思いませんか。
特に語彙力に関しては、男性も自信を持っていいのではないか、と私は思っています。もちろん、語彙力アップには絶え間ない努力が必要ですが、トータルでみれば、語学で女性に劣っているというわけでは決してないと思うのです。リスニングが採用されたといっても、まだまだ大学入試の英語は筆記試験が中心ですし、また、ビジネスの現場でも、いくら流暢に英語を話そうが、英字新聞をろくに読めないような日本人は信用されません。
それに、語彙力を増やし、正しい文法を見につけることによって、リスニング力も上達するのです。これは、多数の単語や文章に慣れることによって、その単語の発音が正確にできなくても、文脈から意味をとれるようになるからです。特に長い単語というのは少々発音に自信がなくても、馴染みがあれば簡単に理解できるものです。
「Y」の発音に苦手意識があり、「year」が正確に聴き取れず発音できなくても、例えば、同じ「Y」から始まる、「yellow-dog-contract」(労働組合に加入しないことを条件とする雇用契約のこと)という単語が会話のなかで出てきたときに、この単語を知っていればすぐに理解できるでしょう。そして、この単語を知っていれば、西洋人から(おそらく)一目おかれるでしょう。
受験生の方には時間的な余裕がないかもしれませんが、実際に英語を母国語とする外国人と話す機会をつくれば、単に自宅で英語を聞くよりもはるかに効果があります。これは、先に述べたように、よく使うフレーズを何度も聞くことによって文脈から単語を類推する能力がアップするからですが、他にも理由はあります。
英語教育番組にはないすぐれたところは、その外国人がどういうところでつまるか、あるいはどのような「間」を置くかが、セリフを話すだけの教育番組よりも手に取るように分かるからです。そして、こういうことが分かるようになると、英語独特のリズムのようなものが身につくようになります。また、もう一度聞き返すことによって、例えば、今の発音は「that」なのか「the」なのかといったことを確認することもできます。
それに、会話の内容を興味深いテーマにすることによって、楽しんで英語と接することができます。お互いの国の文化の違いや、考え方の相違点を知るのは本当に楽しいものですし、書物からは分からないことも多々あって、語学がますます好きになります。
私は昨年の秋から月に2~3度、英語のプライベートレッスンを受けていますが(と言うよりは、ほとんど雑談ですが)、次回のテーマは、「母国ではさっぱりモテない西洋の男が日本に来ればアイドル並みの扱いを受けている実情、なかには寄ってくる日本人女性をひどく扱っている男もいるという現実」、というものです。こういう話は、実際に被害(?)にあった日本人女性から聞くことはありますが、このテーマで、西洋人とディスカッションするということがおもしろいわけです。
こんな会話をしながら実力がアップするなんて・・・。語学っておもしろいと思いませんか。
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|2013年6月17日 月曜日
33 語学はこんなにおもしろい! 第1回(全2回) 2006/2/15
受験シーズンになって、私にメールをくださる受験生の割合が増えてきました。内容は、「二次試験対策をがんばって合格目指します!」というものもあれば、「センター試験に失敗したので来年に照準を合わせます」というものまで様々です。
最近目立つ質問に、「医学部二次試験の理科が3科目のところは不利ですか」、というものと、「英語のリスニングの効果的な勉強法ってありますか」、というものがあります。
「理科3科目」については、近日出版予定の『偏差値40からの医学部再受験テクニック編(仮)』にも書きましたので、ここでは詳しく触れませんが、私としては、不利になることはなく、むしろ有利になるものと思っています。
今日は、英語のリスニングについてお話したいと思います。
英語のリスニングに苦手意識を持っている人は非常に多いように思います。実は私も、リスニングは決して得意ではなく、英語の4つの分野、すなわち、リスニング、スピーキング、リーディング、ライティングのなかでは、リスニングがもっとも、そしてダントツで苦手です。
日本人の多くが英語のリスニングが苦手なのに対して、英語を母国語とする人たちは日本語を勉強するときに、リスニングがもっとも簡単だ、と言います。そしてこれは、英語を母国語とする人だけでなく、他の言語を母国語とする人にとっても同じようです。外国人が受験する日本語検定というのは4級から1級までありますが、日本に数ヶ月もいれば、たとえ日本語検定1級の試験でも、リスニングに関してはそれほどむつかしくないという外国人も珍しくありません。
この最大の原因は、日本語は母音も子音もその数が多言語に比べて圧倒的に少ないということです。母音を考えてみると、日本語の母音は「あ・い・う・え・お」の5つしかありません。一方、多言語では、英語で12、ベトナム語で15、タイ語で32、中国語は36もあると言われています。(尚、母音の数については、本によって書いてあることが違うので、これらの数字はあくまでも参考程度です。)
子音については、日本語は、「K、S(SH)、T(TH)、N、H、M、Y、R(L)、W、G、Z、D、B、P(PH)、J」の15個しかありませんが、英語では20個、タイ語では22個、中国語は30以上もあるといわれています。さらに、これらだけではありません。中国語とベトナム語には4つの声調が、タイ語には5つの声調があります。
文法や作文については、努力すればかなり実力を伸ばすことが可能ですが、リスニングについてはそう簡単には上達しません。よく、「音感のある人は上達が早い」と言われますが、(私も含めて)音感がそれほどなくてもやらなければならない人も大勢いるわけですから、「自分は音感がないから・・・」と言って逃げるわけにはいきません。
では、どうすればいいかと言うと、繰り返し繰り返し聞く練習をするのです。「なんだ、当たり前のことじゃないか・・・」と思われるかもしれませんが、これは、単に「何度も繰り返し聞けば聞き取れるようになる」という意味ではありません。むしろ、「正確に聞き取れなくても意味が理解できるようになる」ということが重要なのです。そして、そのためには、文法をしっかりとしたものにして、語彙力を増やすことが必要です。
例を挙げましょう。
英語を母国語とする人は、「ear」と「year」を正確に区別しますが、日本人でこれらを正確に聴きわけて、そして区別して発音している人はどれくらいいるでしょうか。少なくとも私にはほとんど絶望的です。先ほど日本語の子音に「Y」を含めましたが、実は日本人の多くはこの「Y」が正確に発音できません。「や・ゆ・よ」はそれぞれ「YA,YU,YO」と発音しているのですが、「YI」「YE」については、「I」「E」になってしまう人がほとんどです。五十音の表にも「や・い・ゆ・え・よ」と書かれていることからも、それは明らかでしょう。
外国人が日本に来て驚くことのひとつに、「日本人は自国の通貨の発音もできないのか・・・」というものがあります。つまり、日本の通貨は「YEN」(円)なのに、これを「EN」と発音するからです。「Y」の発音は、「I」と「J」の中間のような音ですが、これを日本人が正確に発音するのは至難の業です。(しかし、よく考えてみると、なぜ「円」の英語は「EN」ではなく「YEN」なのでしょうか・・・)
私は、「Y」の発音は難しくないのか、ということをオーストラリア人に質問したことがあります。彼女の答えは、「日本人が難しく感じるのは分からないでもないが、英語を母国語とする人からみればまったく難しくない」というものでした。
同様の質問をタイ人にしたこともありますが、彼女の答えも「簡単です」の一言でした。ちなみに、タイ語では日本のことを「???????」(これを無理やりアルファベットで表記するとyiipunもしくはyiibpunとなると思います)と言いますが、これを正しく発音できる日本人はほとんどいないそうです。彼女によれば、日本人は「YA」や「YU」は発音できるのに、「YI」ができないことが大変不思議で興味深いそうです。
では、日本人は、母国語のハンディキャップから、リスニング習得を諦めなくてはならないのでしょうか。もちろん、そんなことはありません。受験にも英語のリスニングは必須化されるようになってきているわけですから、かなりのハンディがあろうとも克服しなければなりません。
私は、先ほど「繰り返し繰り返し聞く」ことが大切だと述べましたが、これは「その単語の発音に慣れる」という意味ではなく、「その単語を含めた文章に慣れる」ということです。
「ear」と「year」は確かに単独で発音されれば聴き取るのは至難の業ですが、文脈と合わせて考えるとそれほどむつかしくはありません。実際、私はこれら2つの単語が聴き取れずに苦労した経験はありません。そのスピーカーが「耳」のことを言っているのか、「年」のことを言っているのかで迷うなんてことは、普通はありえないからです。
これは「L」と「R」でも同じことです。「glass」と「grass」、「collect」と「correct」などは、それだけで聞くと判別しにくいことがありますが、文脈から察すればそれほどむつかしくはありません。(ただし、TOEICのリスニングの問題でこれらの区別を問うている問題はあります。)
ただ、「L」と「R」については、発音するときには充分に注意しなければなりません。これを曖昧にして発音すると、文章の意味が伝わらないことがよくあります。私はそんな経験をこれまでに何百回としてきています。
英語を母国語としない外国人のこともみておきましょう。
「L」と「R」の区別は、韓国人も苦手なようです。そのため韓国では幼少児に舌の手術をおこなうこともあるそうです。舌を手術して「L」と「R」の発音が正しくできるのかどうか、私には甚だ疑問なのですが、世界一の受験大国と呼ばれている韓国の教育の狂信的な力の入れように驚きます。ちなみに、韓国人の多くは日本語の「ず」が正しく発音できないようです。私は一度「ミジュをください」と言われて、それが「水」だと分かるまでに随分長い時間がかかったという経験があります。
タイ語では「L」と「R」は区別されているのですが、欧米人に言わせると、タイ人の「R」は、はっきりと「R」と発音するときと、「L」に極めて近い音を出すときがあるそうです。
また、タイ語には、日本語はもちろん、英語よりも多数の母音と子音、さらに5つの声調がありますが、発音できない日本語があって興味深いと言えます。タイ人のほとんどは、日本語の「し(SHI)」が発音できません。だから「新幹線」は「チンカンセン」と発音しますし、「ショッピング」は「チョッピング」と言います。また、「Z」の音もタイ語にはなく、そのため「象さん」は「ソウさん」になります。
その一方で、日本人にはかなりのむつかしさを感じさせる発音がタイ語には多数あります。先に述べた「Y」もそうですし、「C」「P」「T」「K」はそれぞれ2種類(無気音と有気音)あって、これらを厳格に区別しなければなりません。例えば、日本人には(少なくとも私には)、同じように聞こえる「C」を発音するときに、息を出すか出さないかで、まったく別の音として扱うのです。欧米人も、この点についてはタイ語を難しいと感じているようです。
これらを発音するときに区別しようとすると、例えば「C」については、有気音の「C」は日本語の「ち(CHI)」と同じ音で、無気音の「C」は「じ(JI)」と同じ音で発音すると、問題なく通じることも多いのですが、逆にタイ語を聞くと、どう聞いても「C」の無気音は「じ(JI)」とは聞こえなくて不思議です。これは、タイ語には英語や日本語の「J」の音がないことが原因なのですが、語学のおもしろさはこういうところにもあります。
つづく・・・・
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|2013年6月17日 月曜日
第32回(2006年2月) 医者は「勝ち組」か「負け組」か
2006年1月23日、ライブドアの堀江社長が証券取引法違反で逮捕されたという事件は、翌日の各新聞のトップを飾り、大きな議論を呼んでいます。この事件を報道しているのは日本のマスコミだけでなく、ReuterやBBCといった海外の一流メディアまでもが大きく取り上げました。
そして、海外のメディアも、堀江容疑者の人物像について、不正行為の容疑についてばかりでなく、放送局やプロ野球チームを買収しようとしたことや、衆院選に立候補したことなどにも触れています。
数年前から「勝ち組・負け組」という言葉が流行していますが、堀江氏は典型的な「勝ち組の象徴」として語られることが多かったように思います。
人間を単純に二極化してしまうような、この「勝ち組・負け組」という言葉には、私は当初から抵抗感があったのですが、あまりにもこの言葉が世間に浸透してしまったために、様々な弊害が生じているように思えてなりません。
例えば、私のホームページからメールを送ってくる医学部受験を考えているという人のなかにも、「医師になって勝ち組になりたい」というような表現を使う人がいます。
この「勝ち組・負け組」という言葉が広がることに危惧を感じるのは、世の中の価値を単に「お金」を尺度としてみなされてしまうからです。文脈にもよるでしょうが、結局のところ「お金」のある人間は「勝ち組」で、「お金」のない人を「負け組」と捉えることが多いように思われます。実際、堀江氏の発言のなかで「人の心はお金で買える」とか「お金があればオンナをものにできる」というものもあったそうです。
「人間の幸せはお金で決まるものではない」と言ってしまえば、中身のない綺麗事に聞こえますが、世の中にはお金を優先事項にしていない人も大勢います。今回は私の知るそういう人たちを紹介したいと思いますが、その前に世間で言われているような「負け組」とは何なのかを考えてみましょう。
森永卓郎氏の『年収300万円時代を生き抜く経済学』という本が大ベストセラーになったこともあり、年収300万円程度の人を「負け組」と呼ぶような風潮があります。ところが、あるデータによると、年収300万円程度の人の9割以上がインターネットの使える環境のパソコンを所有しており、また、半数以上の人が車を所有しているそうです。また、現在の日本ではよほどのことがない限り、衣・食・住に困ることはありません。
はたして、自宅で悠長にインターネットをしている人を「負け組」と呼んでいいのでしょうか。たしかに、年収何億もある人と単純に収入だけで比較すれば「負け組」ということになるのかもしれません。けれども、それを言うならパソコンどころか、その日に食べるものがない環境にいる人が世界にどれだけいるかを少し想像してみればどうでしょうか。
見方を変えれば、日本国籍を有していること自体がすでに「勝ち組」なわけです。
しかし、こういう見方は「屁理屈、あるいは単なる綺麗事だ」と言う人もいるかもしれません。そういう人に私が問いたいのは「それでは、衣・食・住に困らずに車やパソコンを有していてそれ以上に必要なものは何なのですか」ということです。
実際に年収300万円くらいの男性にこの質問をすると、よく返ってくる言葉が「それでは恋愛や結婚ができない」というものです。
けれども、本当にそうなのでしょうか。たしかに、恋愛や結婚に関するデータをみてみると、女性が男性に求めるひとつに「高収入」というのがあるようです。しかしながら、アンケートで「お金があるのとないのではどちらがいいですか」と聞かれれば、よほどの変人でもない限り「お金はある方がいい」と答えるでしょう。
統計学的な根拠があるわけではありませんが、私には世間の女性が「年収300万円程度の男とは恋愛ができない」と考えているようには到底思えないのです。私の周りの女性に話を聞くと、「お金はそれほど重要じゃない」と言いますし、年収300万円くらいの男性と付き合っている女性は何も珍しくありません。
誤解を恐れずに言うならば、恋人のいない男性は、その理由を年収のせいにして、恋人のできない本当の理由を見ようとしていないだけではないでしょうか。また、恋人のいない女性は「周りには年収の低い男しかいないからひとりでいるんだ」という言い訳を用意して、恋人のできない本当の理由を見ないようにしているだけではないでしょうか。
恋愛や結婚のことはさておき、衣・食・住は満たされているけれども「心の平安」がないという人に私がおすすめしたいのは、「感動」を探すということです。そもそも、衣・食・住、さらに車やパソコンの次に必要なものが「お金」だ、という考えばかりが注目されるから、人間の価値を「お金」だけで評価するような「勝ち組」という概念ができあがってしまっているわけで、「お金」以外の「感動」を求めてもかまわないわけです。
もちろん、世の中にはお金が好きで好きでたまらないという人がいますし、私はそれはそれでかまわないと思います。実際、そういう人もいなければ資本主義がうまく回転しないのかもしれません。
けれども、「お金」以外の選択枝を見つめなおすのは悪いことではないでしょう。
例をあげましょう。
私が、タイのエイズホスピスにいたときにヨーロッパから来ているボランティアが何人かいました。彼(女)らは医師であったり、看護師や介護師であったり、普通の主婦であったりするわけですが、お金持ちはひとりもいませんでした。年収は300万円もありません。ヨーロッパでは一部の貴族的な身分の人を除けば、大半は年収300万円以下の人たちです。物価が安いかというとそうではなく、日本の方がよほど物が安く買えるように思います。
そんな状況のなかで、彼(女)らは短くても数ヶ月、長ければ数年という単位でボランティアに来ていました。義務感でボランティアをしているわけではありません。楽しくて「感動」があるからこそはるばるとやって来ているのです。これはやってみないと分からないかもしれませんが、患者さんと触れ合って得ることのできる「感動」というのは、お金では買えない、いわば「priceless」なものです。
もうひとつ例をあげましょう。
タイでは貧富の差が激しいという話を別のところでもしましたが、例えば、地方からバンコクに出稼ぎにきてホテルのルームメイキングをしているような女性は、月収で1万円程度です。私が彼女らと話して感動するのは、表情に悲壮感がまったくなく、その仕事を楽しんでいるということです。お金はないけれども、外国人と話すのはおもしろいし、仕事が暇なときは同僚とおしゃべりするのが楽しいと言います。なかにはもう20年も同じ仕事をしている女性もいます。彼女らは月収1万円で楽しく生活しているのです。
日本に目を向けてみましょう。
『医学部六年間の真実』でも述べましたが、日本の医師というのは儲けようと思えばかなり儲けることができます。2005年12月に発覚したニセ医者の年収が2000万円というのがいい例でしょう。しかし一方では、年収数百万円程度で自分の好きな臨床や研究に没頭している医師も少なくありません。
私はこの春にクリニックの新規開業を考えていますが、私の試算ではこれまでに比べて年収が半分以下になります。それでも開業にこだわるのは、総合診療ができて(これまでは皮膚科の外来をしているときは風邪すらもみることができず、内科の外来をしているときは湿疹すら診れませんでした。なぜならそれらの診察をすれば他科に対する「越権行為」になるからです)、継続して患者さんを診ることができるからです。つまり、患者さんとの距離がぐっと近くなるわけで、それだけ「感動」も増えると考えているのです。
お金のみに価値を置いていれば、いつも強盗や詐欺師から身を守ることを考えなければいけませんし、近づいてくる人間はお金目当てかもしれない、と要らぬ疑いを持つことになるかもしれません。お金で買えない「priceless」な「感動」というものを考えてみるのは決して悪くないことです。
私個人としては「勝ち組・負け組」という言葉は好きではありませんが、あえて使うならば、「お金」ではなく、どれだけ自分の人生で「感動」を体験できたかによって「勝ち組・負け組」が決まる、とは言えないでしょうか。
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|2013年6月17日 月曜日
第31回(2006年1月) 正しい医師への謝礼の仕方、教えます!
先日、ある患者さんと話していたときのことです。
「先生、あたし3年前に手術受けたときに10万円も医者に渡してんで~。ほんま腹立つわ~。」
医師への金銭の授与・・・。誰が考えてもおかしいのは明らかですが、いまだにこの悪しき慣習は根強いようです。
「そんなに腹立つんやったらあげへんかったらよかったのに・・・」
私がそう言うと、その患者さんは続けました。
「そやかて、そこの病院では手術を受けるときにはお金を渡すのが暗黙のルールやって聞いてんもん・・・」
そんなルール、本当にあるのでしょうか。
この患者さんのように10万円という大金は極端だとしても、今でも実際に、我々医師にお金を渡そうとする患者さんは少なくありません。特に手術の後に渡そうとする患者さんが多いような印象があります。
もちろん、こんなことは誰が考えてもおかしいわけで、医師もできるならば受け取りたくありません。お金を失うことになるわけですから患者さんの負担にもなりますし、受け取る医師としても気持ちのいいものではありませんから、合理的に考えれば、このようなおかしな慣習は直ちに撤廃してしまえばいいのですが、現実はそう簡単ではないようです。
私自身も含めて医師側からみれば、お金を渡そうとしてくる患者さんと接するのは、かなりしんどくて疲れます。もちろんできることなら受け取りたくないわけですから、最初はなんとかして断ろうとします。しかしそのうちに、患者さんが「先生が受け取るまで帰りません!」などと言って一歩も譲らなくなると、その場の空気から逃げ出したいがために受けとってしまうこともあります。
しかし、その気まずい空気からは抜け出したとしても、その後に「患者さんから受け取ってしまった・・・」という罪悪感に苦しめられることになります。
また、私の「受け取りません」という言葉にいったんは納得した患者さんでも、後で(どうやって住所を調べたのか)自宅に送ってくる人もいます。
私は、できるだけ早いうちに、いただいたお金をそのまま(商品券の場合は換金してから)、各団体に寄付するようにしていますが、寄付したからといって罪悪感が完全に消えるとは限りません。
私の尊敬するある医療従事者は、「患者さんからお金や物を受け取らない」ことを徹底しています。その人は、患者さんから非常に人気があるということもあり、お金や物を渡したいという患者さんが後を絶ちません。院内では何があっても絶対に受け取らないことが分かると、一部の患者さんはその人の自宅にお金を送ります。お金が送り返されてくると、今度は米や酒、果物といった物を送るようになります。しかし、その人の態度は徹底していますから、きちんと手紙が添えられて送り返されてくるというわけです。
医師への金銭の授与、この悪しき慣習は、なぜなくならないのでしょうか。
その最大の理由は、「お金を渡さないと治療で手を抜かれるんじゃないのか・・・」と患者さんが考えるからではないでしょうか。
けれども、そんなことは絶対にありえません。いくら大金を渡そうが、その逆にわがままばかり言って医療従事者をてこずらせようが、医療従事者が手を抜くということは絶対にありません。これは決して綺麗事や単なる理想論ではなく、医師が患者さんによって治療に差をつけるということはありえないのです。
その理由は、少し考えるとすぐに分かります。例えば手術を例にあげて考えてみましょう。医師というのは、できるだけ手術の成績をあげたいと考えています。つまり、自分のおこなった手術で患者さんがよくならなければ、自信を失うことになりますし、その医師や病院の評判が落ちてしまうことにもなりかねません。医師はどんな患者さんに対しても全力で手術をおこなっているのです。そして、これは他の治療でも同じです。治る病気が治らなければ、その医師や病院の評判が下がってしまいますから、治療で手抜きなどをおこなうと、結果としてその医師や病院が困ることになるのです。
ですから、「お金を渡さないと治療で手を抜かれるんじゃないのか・・・」という心配は理論上でもまったく不要なのです。
「純粋な感謝の気持ちからお金を渡したい・・・」、そのように考えられる患者さんもおられるかもしれません。自分にとっていいことをしてもらえば、何かのかたちで感謝の気持ちを現したい、と思うのは人間にとって自然なことかもしれません。
けれども、その患者さんに対しておこなった治療行為というのは、我々医療従事者は「仕事」としておこなっているのです。もちろんその「仕事」に対する報酬は病院からきちんと支払われています。与えられた「仕事」をして、その分の報酬を得ているわけですから、それ以上の収入を得ることはおかしいのです。それに、そもそも病院から支払われている報酬は、元をただせば国民の税金と保険料から捻出されているのです。
「でも、本当にあの先生にはよくしてもらったし、なにかのかたちでどうしても感謝の意を示したい・・・」、そのように考えられる方もおられるでしょう。
では、その問題にお答えしましょう。
お金を渡すからいろいろと問題が生じるわけですから、どうしても感謝の意を示したいなら、お金以外のものを渡せばいいのです。「お金以外のもの」といっても、商品券の類のものは金銭と同じですからダメです。また明らかにお金がかかっていると思われるモノもダメです。
患者さんによっては、お菓子や花を持ってこられることがあります。小さな箱に入ったチョコレートを退院した後で持って来られた方がいました。退院の日に一輪の花を「みなさんのおかげで元気になれました」という言葉とともに渡してくれた患者さんもいました。お金や商品券ならイヤな気持ちになりますが、こういうときは私は純粋に嬉しく感じます。
しかしながら、小額であっても、やはりお金のかかるプレゼントを患者さんが医療従事者に渡すという行為は、問題がないわけではありません。
ならば手作りのものならいいのか、そう考えられる方もいるでしょう。確かに手作りのアクセサリーなどをいただくと大変嬉しく思います。私も患者さんにもらった手作りのブローチや、子供が書いてくれた絵などは宝物にしています。
しかしながら、感謝の意を示すには、もっと簡単でもっと適したものがあります。
それは、「手紙」です。
患者さんからの手紙ほど嬉しいものはありません。医療従事者にとって、患者さんからの手紙というのはお金に代えることのできない価値のあるものです。私も患者さんからいただいた手紙は宝物にしています。小さな子供が覚えたての文字を使って色鉛筆で一生懸命に書いてくれた手紙など、何度読み直してもすがすがしい気分にさせてくれます。最近は、インターネットで私の名前を検索してメールをくれる方も増えてくるようになりました。
患者さんの手紙からは学べることもあります。例えば、「先生は最初は怖い人かと思っていましたが・・・」とか「あの検査があれほどしんどいとは思いませんでした」などと書かれていると、「ああ、もっと第一印象を大切にして丁寧に患者さんに接するようにしよう」とか「検査の苦痛についても勉強する必要があるな」とか、そういうフィードバックができるわけです。
それに、手紙というのは出した方も気持ちのいいものではないでしょうか。手紙なら、冒頭で紹介した患者さんのように後からグチを言いたくなることもなくなるはずです。
私は私生活で、人に親切にしてもらったり、助けてもらったりすると、できるだけ手紙や電子メールで感謝の意を伝えるようにしています。手紙や電子メールは、直接会って話したり電話で話したりするのとは違った表現ができるために、特に感謝の意を示したいときには最適ではないかと私は考えています。
手紙(や電子メール)がきっかけで、人間どうしの絆が太くなったり、お互いに理解し合えたりすることはよくあります。これはあらゆる人間関係で言えることだと思います。
そして、それは患者さんと医師の関係でも同じなのです。
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