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2013年6月17日 月曜日

第31回(2006年1月) 正しい医師への謝礼の仕方、教えます!

 先日、ある患者さんと話していたときのことです。

 「先生、あたし3年前に手術受けたときに10万円も医者に渡してんで~。ほんま腹立つわ~。」

 医師への金銭の授与・・・。誰が考えてもおかしいのは明らかですが、いまだにこの悪しき慣習は根強いようです。

 「そんなに腹立つんやったらあげへんかったらよかったのに・・・」

 私がそう言うと、その患者さんは続けました。

 「そやかて、そこの病院では手術を受けるときにはお金を渡すのが暗黙のルールやって聞いてんもん・・・」

 そんなルール、本当にあるのでしょうか。

 この患者さんのように10万円という大金は極端だとしても、今でも実際に、我々医師にお金を渡そうとする患者さんは少なくありません。特に手術の後に渡そうとする患者さんが多いような印象があります。

 もちろん、こんなことは誰が考えてもおかしいわけで、医師もできるならば受け取りたくありません。お金を失うことになるわけですから患者さんの負担にもなりますし、受け取る医師としても気持ちのいいものではありませんから、合理的に考えれば、このようなおかしな慣習は直ちに撤廃してしまえばいいのですが、現実はそう簡単ではないようです。

 私自身も含めて医師側からみれば、お金を渡そうとしてくる患者さんと接するのは、かなりしんどくて疲れます。もちろんできることなら受け取りたくないわけですから、最初はなんとかして断ろうとします。しかしそのうちに、患者さんが「先生が受け取るまで帰りません!」などと言って一歩も譲らなくなると、その場の空気から逃げ出したいがために受けとってしまうこともあります。

 しかし、その気まずい空気からは抜け出したとしても、その後に「患者さんから受け取ってしまった・・・」という罪悪感に苦しめられることになります。

 また、私の「受け取りません」という言葉にいったんは納得した患者さんでも、後で(どうやって住所を調べたのか)自宅に送ってくる人もいます。

 私は、できるだけ早いうちに、いただいたお金をそのまま(商品券の場合は換金してから)、各団体に寄付するようにしていますが、寄付したからといって罪悪感が完全に消えるとは限りません。

 私の尊敬するある医療従事者は、「患者さんからお金や物を受け取らない」ことを徹底しています。その人は、患者さんから非常に人気があるということもあり、お金や物を渡したいという患者さんが後を絶ちません。院内では何があっても絶対に受け取らないことが分かると、一部の患者さんはその人の自宅にお金を送ります。お金が送り返されてくると、今度は米や酒、果物といった物を送るようになります。しかし、その人の態度は徹底していますから、きちんと手紙が添えられて送り返されてくるというわけです。
 
 医師への金銭の授与、この悪しき慣習は、なぜなくならないのでしょうか。

 その最大の理由は、「お金を渡さないと治療で手を抜かれるんじゃないのか・・・」と患者さんが考えるからではないでしょうか。

 けれども、そんなことは絶対にありえません。いくら大金を渡そうが、その逆にわがままばかり言って医療従事者をてこずらせようが、医療従事者が手を抜くということは絶対にありません。これは決して綺麗事や単なる理想論ではなく、医師が患者さんによって治療に差をつけるということはありえないのです。

 その理由は、少し考えるとすぐに分かります。例えば手術を例にあげて考えてみましょう。医師というのは、できるだけ手術の成績をあげたいと考えています。つまり、自分のおこなった手術で患者さんがよくならなければ、自信を失うことになりますし、その医師や病院の評判が落ちてしまうことにもなりかねません。医師はどんな患者さんに対しても全力で手術をおこなっているのです。そして、これは他の治療でも同じです。治る病気が治らなければ、その医師や病院の評判が下がってしまいますから、治療で手抜きなどをおこなうと、結果としてその医師や病院が困ることになるのです。

 ですから、「お金を渡さないと治療で手を抜かれるんじゃないのか・・・」という心配は理論上でもまったく不要なのです。

 「純粋な感謝の気持ちからお金を渡したい・・・」、そのように考えられる患者さんもおられるかもしれません。自分にとっていいことをしてもらえば、何かのかたちで感謝の気持ちを現したい、と思うのは人間にとって自然なことかもしれません。

 けれども、その患者さんに対しておこなった治療行為というのは、我々医療従事者は「仕事」としておこなっているのです。もちろんその「仕事」に対する報酬は病院からきちんと支払われています。与えられた「仕事」をして、その分の報酬を得ているわけですから、それ以上の収入を得ることはおかしいのです。それに、そもそも病院から支払われている報酬は、元をただせば国民の税金と保険料から捻出されているのです。
 
 「でも、本当にあの先生にはよくしてもらったし、なにかのかたちでどうしても感謝の意を示したい・・・」、そのように考えられる方もおられるでしょう。

 では、その問題にお答えしましょう。

 お金を渡すからいろいろと問題が生じるわけですから、どうしても感謝の意を示したいなら、お金以外のものを渡せばいいのです。「お金以外のもの」といっても、商品券の類のものは金銭と同じですからダメです。また明らかにお金がかかっていると思われるモノもダメです。

 患者さんによっては、お菓子や花を持ってこられることがあります。小さな箱に入ったチョコレートを退院した後で持って来られた方がいました。退院の日に一輪の花を「みなさんのおかげで元気になれました」という言葉とともに渡してくれた患者さんもいました。お金や商品券ならイヤな気持ちになりますが、こういうときは私は純粋に嬉しく感じます。

 しかしながら、小額であっても、やはりお金のかかるプレゼントを患者さんが医療従事者に渡すという行為は、問題がないわけではありません。

 ならば手作りのものならいいのか、そう考えられる方もいるでしょう。確かに手作りのアクセサリーなどをいただくと大変嬉しく思います。私も患者さんにもらった手作りのブローチや、子供が書いてくれた絵などは宝物にしています。

 しかしながら、感謝の意を示すには、もっと簡単でもっと適したものがあります。

 それは、「手紙」です。

 患者さんからの手紙ほど嬉しいものはありません。医療従事者にとって、患者さんからの手紙というのはお金に代えることのできない価値のあるものです。私も患者さんからいただいた手紙は宝物にしています。小さな子供が覚えたての文字を使って色鉛筆で一生懸命に書いてくれた手紙など、何度読み直してもすがすがしい気分にさせてくれます。最近は、インターネットで私の名前を検索してメールをくれる方も増えてくるようになりました。

 患者さんの手紙からは学べることもあります。例えば、「先生は最初は怖い人かと思っていましたが・・・」とか「あの検査があれほどしんどいとは思いませんでした」などと書かれていると、「ああ、もっと第一印象を大切にして丁寧に患者さんに接するようにしよう」とか「検査の苦痛についても勉強する必要があるな」とか、そういうフィードバックができるわけです。

 それに、手紙というのは出した方も気持ちのいいものではないでしょうか。手紙なら、冒頭で紹介した患者さんのように後からグチを言いたくなることもなくなるはずです。

 私は私生活で、人に親切にしてもらったり、助けてもらったりすると、できるだけ手紙や電子メールで感謝の意を伝えるようにしています。手紙や電子メールは、直接会って話したり電話で話したりするのとは違った表現ができるために、特に感謝の意を示したいときには最適ではないかと私は考えています。

 手紙(や電子メール)がきっかけで、人間どうしの絆が太くなったり、お互いに理解し合えたりすることはよくあります。これはあらゆる人間関係で言えることだと思います。

 そして、それは患者さんと医師の関係でも同じなのです。

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2013年6月17日 月曜日

30  ニセ医者とシャブ中東大医大生 2005/12/31

2005年12月6日の新聞記事は我々医療従事者を大変驚かせました。

 33歳の男性が、なんと医師免許を持っていないのにもかかわらず8年半もの間、医師として勤務していたことが発覚したというのです。偽造医師免許証のコピーを提出し、医師になりすまし、複数の病院で勤務し、年収はなんと2千万円もあったというのですから、我々医療従事者だけでなく、一般の方も大変驚かれたと思います。

 この事件はいくつかの問題点がマスコミなどで指摘されていますので、それらをみていきましょう。

 ひとつめに、なぜ偽造医師免許証がバレなかったのか、という点です。私も現在複数の医療機関で仕事をしていますが、雇用契約を結ぶ前には、医師免許証の原本と保険医登録票(こちらはコピーでいいことが多い)を提出します。おそらく被告の男性(以下、「ニセ医者」とします)の勤務先の病院では医師免許証の原本は求めていなかったのでしょう。

 けれども、このニセ医者が偽造に関する高度な技術を持っていて、原本を偽造していたらいったいどうなっていたのでしょうか・・・。

 ふたつめの問題点は、なぜ2千万円もの年収があったのかということです。2004年度の人事院調査のデータによりますと、全国の勤務医の平均給与は28~32歳で月収約73万7000円だそうです。この数字とニセ医者が取得していた年収2千万円には大きな格差があります。

 私が、『医学部六年間の真実』で述べたように、医師の当直アルバイトというのは破格で、なかには一晩で20万円ももらえるところもあるようです。けれども、そのような高額アルバイトは重症の患者さんがひっきりなしに入ってくるような救急医療の現場であって、ニセ医者に務まるとは到底思えません。だとしたら、ごく軽症の患者さんしか来られない病院で働いていたことが予想されるわけで、当然そういう病院は給与はそれほど高くないですから(ただし一般の仕事に比べればそれでも破格です)、どう計算しても2000万円という数字は不可解なのです。

 12月18日に政府が発表した、「診療報酬マイナス3・16%の改正」というのは大きな議論を呼び、医師会を初めとする医療団体は一斉に反対の表明をしています。「これでは医師に充分な報酬が支払われず医療の質が低下する」というのがその理由だそうです。

 しかしながら、ニセ医者が2千万円も稼いでいるんだから、やっぱり医師はもらい過ぎているんじゃないのか、と言われても仕方がないのではないでしょうか。
 
 もうひとつ指摘されている問題点は、(これはマスコミからというよりは我々医師の間で議論になることですが)、なぜ8年半もの間ニセ医者であることを隠し通せたか、ということです。それもニセ医者であることが発覚したのは、医療行為が不十分であったとか、患者さんからクレームが来て、とかではなく免許証の原本の提示を求められて発覚したわけです。ということは原本の提示が求められなければいつまでも続けていた可能性があるわけです。しかもこの二セ医者は、患者さんから評判がよかったというから驚きです。

 医学部での六年間は、医学部受験とは比較にならないほどの勉強をおこなわなければなりません。後半の二年間は臨床実習で実際に患者さんを診察することによっても勉強をおこないます。卒業後は二年間の研修医期間が義務付けられています。しかし、これでもまだまだ不十分で、それからもしばらくは実質研修期間のようなものです。私の場合も、二年間の研修ではまだまだ未熟であることを自覚し、その後の二年間さらに研修医のような生活を続けました。

 ところがこのニセ医者は、定時制の高校を中退した後、都立の病院で一年間見習いをおこなっていたそうですが、そんなことだけで医療行為がおこなえるようになるとは到底思えないのです。(この「見習い」というのもよく分かりません。いったい誰を対象とした何のための「見習い」なのでしょう・・・)

 もしかすると、我々が(私が)思っているほど、現在の医療レベルというのは高いものではなく、たしかに六年間の勉強とその後の研修は大変ではあるけれど、そこからアウトプットされるものは、素人が短期間で勉強して得るものとそんなに変わらないのかもしれません。いや、そんなはずはない!と思いたいのですが、そんなことで意地を張るよりも、今まで通り日々の勉強を頑張る方が私にとってはきっといいことでしょう。

 ところで、今回発覚したようなニセ医者は氷山の一角ではないか、という話があります。私には到底そのようには思えないのですが、インターネットで複数の掲示板を探してみると次のような書込みが見つかりました。
 
>コンタクト屋でアルバイトをしたことがあるんだけど

>医師不在時に、コンタクト屋の店員が医師のふりをして

>診察や投薬をしているのは日常茶飯事のことですよ…

>以前にせ医者が精神科病院に勤務していて、よく日医雑誌に投稿していた。頻繁に投稿していたので、緑陰随筆まで書いていたことがあったっけ。

 やはり、ニセ医者は他にも大勢いるのでしょうか。

 ところで、このニセ医者発覚が報道された同じ日に、この事件とは対照的な記事が報道されました。

 それは、東大医学部の学生が覚醒剤中毒で逮捕されたという記事です。報道によりますと、覚醒剤取締法で逮捕されたこの27歳の東大医学部四年生は、超有名進学校の灘高を卒業している超エリートで、高校時代も成績は上位だったそうです。ところが医学部に入学してから覚醒剤にハマりだし4年連続留年していたとのことです。

 私が『今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ』などで指摘したように、シャブ中医師は何も珍しくありません。日頃から覚醒剤中毒者と接し(夜間の救急外来にはよく来ます)、覚醒剤の恐ろしさをよく知っているはずの医師がなぜ自らもシャブ中になるのかについては、『今そこに・・・』に書きましたからここでは述べませんが、危険性を充分に知っているはずの医師でさえ手をだしてしまう覚醒剤の恐ろしさは何度繰り返し強調してもしすぎることはありません。

 医師でさえハマるわけですから、まだ知識が充分でない医学生が覚醒剤に溺れるのは理解できることです。いくら灘高で上位の成績であろうが日本で最難関とされる東大医学部の学生であろうが、そんなことは関係ないわけです。ちなみに東大では2004年の9月に、教養学部の学生が大麻取締法で逮捕されています。
 
 さて、何も珍しくないシャブ中ドクター(医大生)をここで取り上げたのは、覚醒剤の恐ろしさを再確認したかったからだけではありません。というのは、マスコミの報道に疑問を感じるのです。

 例えば、夕刊フジが報道したこの記事の見出しは「東大理Ⅲ(医学部)エリート人生がシャブで霧散」となっており、本文のなかで「クスリにハマり、エリート医師への道を自ら閉ざした学生の堕落ぶりに・・・」と述べられています。

 たしかにこの男が再び医師の道を目指すのは不可能でしょう。しかし「エリート人生がシャブで霧散」というのは言いすぎではないでしょうか。この男はまだ27歳です。おそらく初犯でしょうし販売をしていたわけではありませんから、実刑にはならず執行猶予がつくことになると思われます。

 ならば、人生が終わったわけでは決してありません。灘高から東大医学部に進学するくらいの頭脳を持っているのです。賢い頭脳があるからといって覚醒剤を断ち切れるかどうかは分かりませんが、もし完全に断ち切ったとすれば、その体験を本にするとか講演するとかして、現在もシャブに依存している人を救うような活動はできるのではないでしょうか。なにも東大出身の医師だけが「エリート」ではないのです。

 念のために断っておくと、私はこの男の罪を軽くせよと言っているわけではありません。むしろ、現在の覚醒剤取締法はユルすぎることが問題で、初犯であっても実刑にすべきという考えを持っています。しかしながら、それと同時に、依存症の人から覚醒剤を断ち切る支援や、また断ち切った人に社会に復活してもらう方法も考えていかなければならないとも思っています。

 覚醒剤取締法違反というのは、殺人やレイプとは犯罪の質が違うのです。覚醒剤取締法で逮捕されたとしても、殺人やレイプのような被害者はいませんし、本人の努力次第では充分に社会復帰することが可能なのです。

 だから、私はこのシャブ中(元)医大生を応援したいと考えています。まずは覚醒剤を断ち切ることに専念してもらいたいと思っています。そして、その後は社会のために貢献してほしいのです。

 これからの努力によっては、もしかすると医師になるよりも多くの人に貢献できるかもしれないのです。決して「エリート人生がシャブで霧散」と決まったわけではないのです。

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2013年6月17日 月曜日

第29回(2005年12月) なぜ日本人の自殺率は高いのか③(最終回)

 「死生学」と呼ばれる学問のジャンルがあります。これは欧米では一般的なのですが、日本では以前に比べると随分マシになったかもしれませんが、まだまだ普及しているとは言えません。例えば、「死生学」を学ぶために大学を目指すという受験生は聞いたことがありませんし、「死生学」で修士論文や博士論文を書いている学生はほとんどいないのではないでしょうか。それどころか、ある大学で「死生学」をテーマとした市民講座を開くという話が持ち上がったとき、地域の住民から反対意見が相次いだそうです。

 医療の現場では「死」に頻繁に遭遇しますが、現代医学というのはいかに「死」を逃れるか、あるいは引き伸ばすかという点からの考察ばかりで、例えば、「残りの生を幸せに生きる」という観点からはほとんど語られることがありません。

 末期癌の患者さんやその家族を対象とした雑誌を見てみても、抗癌剤やリハビリの記事ばかりで、「いかによりよく死んでいくか」という観点からの記事はほとんどありません。「死」を頻繁に経験する医療現場でさえも「死」はタブー視されているのです。

 日本社会は昔から「死」をタブー視してきています。タイの社会なら当たり前の「死体を見る」ということさえタブーとなっています。

 けれども、このことが「死」を適切に捉えることを妨げて、結果として「自殺」につながっているのではないか、私はそのように考えています。「死」は誰にでも起こる避けられない運命であるのは自明です。ところが、その当たり前の「死」をきちんと見つめないことによって、安易と言わざるを得ないような「自殺」を選んでしまっている人が少なくないように思われるのです。

 「自殺の自由」という考えを主張する人がいます。これはこれで正当化されなければならないのかもしれませんし、実際に自殺という道を選んだ人には図りしれない想像を絶するような苦痛があったものと察します。しかしながら、国際比較で異常ともいえるような高い自殺率を記録している日本では、やはり安易に死を選んでいる人が少なくないのではないかと感じずにはいられません。

 ところで、なぜ日本では死体を報道することがタブーとされているのでしょうか。私は当初、死体の報道は法律で禁じられているのではないかと思っていたのですが、私の調べた限りそのような法律はありませんでした(ご存知の方おられましたら教えてください)。

 法的な制約がないとすれば、世論の圧力が問題となる可能性があるが故に死体の報道がなされないのでしょう。おそらく、夕方のニュースで死体がアップで報道されたらテレビ局に苦情が殺到するでしょう。その理由は、例えば「不謹慎である」とか「子供に悪影響を与える」、あるいは「プライバシーの侵害」といったものではないかと思われます。

 しかしながら、「不謹慎である」というのは明確な科学的根拠が見当たりませんし、「子供に悪影響を与える」というのも科学的なデータがありません。漫画や映画、ゲームといったツールでしか死体と接することがないために、逆に「死」というものをきちんと把握できていないのではないかと私は考えています。

 「プライバシーの侵害」というのは確かにあるかもしれませんが、一般に殺人事件が起こると、被害者の生前の写真は公開されています。また、社会的に重要な意味のある事件であれば、公益性がプライバシーを優先するという議論が起こってもいいはずです。

 つまり、死体を報道すべきでない、という考え方は、なんとなく昔からみんなが感じていることに過ぎないわけで、死体を報道することによって社会的混乱が生じるという科学的根拠はなく、むしろ死体を報道することによって、日本人がきちんと死と直面するようになるのではないか、さらに安易に自殺する人が減少するのではないか、と私は思うのです。
 
 前回、タイでは輪廻転生の考えが深く社会に浸透しているという話をしました。一方、日本では心底から輪廻転生を信じている人はそれほど多くないのではないでしょうか。自己啓発を目的とした雑誌や書籍に目を通すと、「一度きりの人生・・・」「悔いのない人生を・・・」などといった表現をよく目にします。たしかに、何かを決意するときや頑張らなければならないときにはこういった考え方は有効です。例えば、医学部受験を決意するときにはこのように思うことが非常に効果的です。

 けれども、いつもいつもこのような考えでいると、避けられない運命に遭遇したときや、予期せぬ不幸に見舞われたときには絶望を加速することになりかねません。そんなときには、「一度きりの人生・・・」ではなく、「何度も生まれ変わる魂が経験するひとつの場面」くらいに思ってしまう方が強いストレスから脱出できるのではないか、と私は考えています。

 実は、このような考え方をもつにいたるきっかけとなった経験があります。

 それは私が研修医の頃の経験です。ある末期の状態の患者さんと話をしているときのことです。自分でもそれほど長くないことを悟っていたその患者さん(女性)は、ある日私にポツリと言いました。

 「先生、あたしね、もういいんです。もう充分です。そろそろあの世に行くときが来ました。あの世に行けば久しぶりに主人と会えるんです。あの世で会おうって主人が亡くなるときに約束したんです。あの世でふたりで楽しく過ごして、また生まれ変わったら結婚しようねって・・・・」

 輪廻転生なんてあるわけないという人がおられれば質問したいと思います。この患者さんに、例えば「何を言っているんですか。あの世とか生まれ変わるとかそんな非科学的なことを・・・。人生は一度きりです。人間は死んだら終わりなんです!」と言うことができるでしょうか。

 この患者さんが輪廻転生のことをどれだけ真剣に信じていたかは分かりませんが、少なくともこの患者さんにとっては輪廻転生という考えを持つことによって、死の不安が和らぎ、落ち着いた精神状態を保つことができていたのです。

 「一度きりの人生・・・」という考えに縛られすぎると、避けられない運命に遭遇したときに、強いストレスから自殺へとつながることになるかもしれません。配偶者の突然の死や予期せぬ難病だけでなく、突然のリストラや厳しい借金の取立てにあったとしても、長い長い寿命の魂が経験するほんの一場面だという認識に立てば、少しは自殺を思いとどまるのではないでしょうか。

 そろそろまとめに入りましょう。

 私が日本人の自殺率が高い理由として考えているものは3つあります。

 ひとつは、日本は「階級社会」ではなく、身分というものを考えることなく生きていける社会でありながら、以前のように国民の多くが中流階級である思っていた時代がすでに過去のものになったことが原因です。よく言われるように「終身雇用」「年功序列」というものが完全に崩壊してしまい、「才能のある者だけがやりたいことをみつけて努力したときにしか幸せが来ない」、というような幻想が存在するように見受けられます。このため、何をやっていいか分からない者は、デュルケームの言うところの「アノミー」の状態に容易に陥り、その結果自殺を選んでしまうというわけです。

 ふたつめは、「一度きりの人生・・・」という観念が強すぎるというものです。例に挙げた仏教だけではなく、キリスト教をはじめほとんどの宗教は輪廻転生というものを認めています。それに対して無宗教の日本人は、この考えを信じていないだけでなく、それが精神状態に寄与する効果についても考えようとしていません。そのため「人生に失敗した」と考えることが自殺につながっているのではないかと思われるのです。

 3つめは、「死」というものをタブー視しすぎているということです。「死」をタブー視するあまり、現実的に適切に「死」を捉えることができず、安易に「死」を選んでしまうというパラドックスが存在するのではないかと思われるのです。
 
 「自殺の自由」を主張するのは個人の「自由」でありますが、日本の自殺率が先進国のなかで第1位であるという現実にはしっかりと注目する必要があるでしょう。

 そして、予期せぬ不幸に突然見舞われたときに、何ができるか、何を思うことができるか、ということについて日頃から考えておくべきではないか、私はそのように感じています。

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2013年6月17日 月曜日

第28回(2005年12月) なぜ日本人の自殺率は高いのか②

 タイに行って驚くことのひとつは、日本からは考えられないくらいの階級社会である、ということです。

 例えば、年収何億円もの稼ぎがあり、豪邸に住み高級車を乗り回している富裕層がいるかと思えば、裸足の幼児を抱きかかえながら真夜中に小銭を乞うている中年女性もいます。街角では、そんな身分の違う人たちが、当たり前のようにすれ違っています。

 タイでは一応は小学校までは義務教育ということになっていますが、本当に小学校に通っているのか疑いたくなるような子供は少なくありません。真夜中に小さなバラを外国人に強引に買わせようとしている子供や、信号待ちで停車している車の窓ガラスを勝手に拭いて小銭をねだる子供は観光名物と言っていいほど有名です。彼(女)らは例外なくボロボロの衣服を身にまとい靴は履いていません。

 タイでは、福祉とか生活保護とかいった考え方がそれほど浸透しておらず、タイにしばらく滞在すれば、日本は本当は社会主義国なんじゃないかと思わずにはいられません。
 
 最近の日本は、「格差社会」という言葉がよく使われているような印象があります(例えば『希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』山田 昌弘著 筑摩書房)。親の身分や年収で子供の人生がある程度規定されてしまう、というのが「格差社会」の一面です。例えば、東大に入学する学生の大半が高収入の家庭で育っているというデータもあるそうです。ここから、「地方で貧乏な家に生まれると高学歴・高収入は期待できない」という理屈につながっていくようです。

 実際のデータで、親の年収と子供の学歴(あるいは年収)にある程度の相関関係があるのが事実だとしても、私には日本が「格差社会」あるいは「階級社会」だとは到底思えません。

 私は地方出身で裕福でない家庭に育っていますが、公立大学の医学部を卒業しています。私立の高校や予備校には経済的な事情から行けませんでしたが、他の先進国と比べると信じられないくらいに安い授業料(例えば米国の医学部では公立でも年間300万円以上の授業料が必要)と複数の奨学金を借りることによって、特に苦労もせずに卒業することができました。

 また、ほとんどの人が希望をすれば高校程度は卒業することができるでしょうし、高卒であっても、本人の才能と努力次第で高所得者になるのはまったくの夢というわけではないでしょう。

 そんな日本に比べて、タイでは地方の貧困層として育てられれば、将来的に高額所得者になるのはほとんど絶望的であろうと思われます。

 これといった産業がなく、農作物も育たないために蛋白源として昆虫を食べなければならないような家庭で育てられれば、一攫千金を夢見て、男ならムエタイ選手を目指したり、女性なら都心に春を鬻ぎに行かねばならないというのが現状です。

 私がタイの様々な層の人たちと話をして不思議に思うのは、彼(女)らがそういう「階級社会」を言わば当然のことと見なしているということです。

 日本的な感覚で言えば、同じ国のなかでそれだけ身分に差があるのは許容しがたいことです。政治的に左翼的というか、プロレタリアート層が一致団結した運動が起こってもおかしくないのでは、と思うのですがそういう話は聞いたことがありません。

 それどころか、初めから一生貧困層でいることに対して「諦めている」というよりもむしろ「納得している」という印象を受けるのです。先にあげたムエタイ選手や売春の話にしても、極一部の人を除けば、正確に言えば「一攫千金を夢見て」ではなく、「単に生活するため」という感覚でいるように思われるのです。

 生まれたときから自分がどういう人生を歩むのかが分かっている・・・。タイの社会とはそんな社会であるように私には思われます。

 しかしながら、ある意味でこれはこれでいい面もあるのではないか・・・。最近私はそのように考えています。というのは、彼(女)らは近代社会がもたらした「自由」の苦痛から解き放たれているからです。

 前回に引き続き社会学者の説を紹介します。エーリッヒ・フロムという著明な社会学者がいます。フロムによると、人間は前近代的な諸々の束縛から解放されて (消極的)自由を手にすると孤独や不安にさいなまれ、自由を耐え難い重荷であると認識するようになります。

 フロムの学説に照らし合わせて考えると、タイの(特に貧困層の)人たちは、近代的な消極的自由を手にしておらず、その消極的自由がもたらす苦痛を感じずにいるのではないか。そしてその結果、極度の貧困であるのにもかかわらず自殺に至らないのではないか、私はそのように考えています。

 これは、前回取り上げたデュルケームが主張している「アノミー」を体験せずにすんでいる、という言い方もできると思います。

 そしてこのことが、タイの自殺率が低い原因のひとつではないかと考えているというわけです。

 ところで、タイは仏教国です。仏教といっても日本のような集約力の高くない仏教ではなく、国民の大多数が信仰している国民的宗教としての仏教です。実際、タイの社会は、仏教、あるいは僧侶なしでは語ることができません。例えば、通常名前は僧侶がつけます。タイ人は通常ニックネームで呼び合います。このニックネームは親がつけます。そしてIDカードに記載されている本名は僧侶がつけるのが一般的です。

 名前だけではありません。例えば車を買う日とか、海外に渡航する日なども僧侶に決めてもらうことが珍しくありません。もちろん結婚式も仏教的儀式でおこないます。「得を積む」という考えはタイにもありますが、基本的な「得を積む」方法は、寺に対してどれだけ貢献するかということです(これを「タンブン」と言います)。もちろん寺を訪問することを慣習としていますし、街角にある仏像に対しても素通りすることなく手を合わせます。タクシーの中からでも手を合わすのが普通です。これはいかにも信心深そうな人はもちろんですが、普段はやんちゃをしてそうな若い男女でもそうなのです。

 そんな仏教(小乗仏教)の考え方のひとつに「輪廻転生」というものがあります。タイ人は私の知る限り、ほとんど例外なく「輪廻転生」を信じています。

 そして、この「輪廻転生」が低い自殺率と関係があるのではないか、私はそのように考えています。つまり、人生とは自ら得たものではなく、与えられたものであって、運命に逆らって生きるのはよくない。そして自殺は運命に逆らう最たる行動である。今世がそれほど恵まれたものでなくてもきちんと得を積んでおけば、来世では富裕層として生まれてくるかもしれない・・・。そのような考えがあるのではないかと思うのです。

 ちなみに、タイには相続税というものがありません。つまり、先祖が金持ちであればよほどのことがない限り、子孫も裕福な暮らしができるというわけです。そして、相続税を導入すべき、という声は私の知る限り聞いたことがありません。

 「輪廻転生」への信仰、これが私の考えるタイで自殺率が低いふたつめの理由です。

 もうひとつ、タイ人が自殺をしない理由を私は考えています。

 それは、死体に対する考え方です。バンコクには有名な「死体博物館」というものがあり、多くの死体が展示されています。例えば、凶悪殺人犯が死刑にされた後の死体が輪切りにされて多くの人の目にさらされています。また、私がいろんなところで報告しているエイズホスピスのパバナプ寺では、エイズで亡くなった人の死体がミイラにされ展示されています。また、タイの新聞やテレビのニュースでは、ほとんど毎日といっていいくらい、事件や事故での死体の映像が報道されています。

 タイ人が日本に来て驚くことのひとつに、日本の新聞やテレビでは死体が写されていない、というものがあるそうです。死体が写されていないとその事件や事故がよく分からないではないか、と感じるそうなのです。

 凶悪殺人犯の死体を輪切りにすることの良し悪しは別にして、たしかに日頃から死体を目にする機会が頻繁にあれば、嫌でも「死」というものを考えるようになるはずです。

 それに対して、日本では昔から「死」というものが、タブー視されてきているのではないでしょうか。
 
 つづく

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2013年6月17日 月曜日

第27回(2005年11月) なぜ日本人の自殺率は高いのか①

 私が初めて学問的に「自殺」というテーマに興味を持ったのは社会学部の学生の頃です。社会学部を学んだ者なら誰でも知っているデュルケームという学者の代表著作が『自殺論』なのです。

 「自殺」までも学問の対象にする社会学とはなんて魅力的なんだろう・・・。当時の私はそのように感じて、必死にデュルケームの『自殺論』を勉強しました。

 デュルケームの理論は、発表してから100年以上たった現在でも尚正しいのではないか、私はそのように考えています。今回取り上げたいテーマは、「日本人の自殺率の高さ」で、このことを考える際にもデュルケームの理論は参考になるのでは、と思うので、少し触れておきたいと思います。

 デュルケームは、冬季よりも夏季、カトリックの国よりもプロテスタントの国、女性よりも男性、既婚者よりも未婚者、農村よりも都市で自殺率は高くなると言います。

 現在の日本の自殺の状況をみてみましょう。季節ごとのデータは私の調べた限りありませんでした。宗教別の考察はキリスト教がそれほど深く浸透していないために日本にあてはめて考えることはできません。

 しかしそれら以外の要素、つまり、女性よりも男性、既婚者よりも未婚者、農村よりも都市に自殺者が多いというのは、現在の日本にも当てはまります。

 デュルケームは「自殺」を4つに分類しています。

 ひとつめは「利他的自殺」と呼ばれるもので、自殺せざるを得なくなるような集団の圧力によって起こる自殺のことです。具体的には、社会の秩序を乱したとか、ルールや掟を破ったときにのしかかる社会的圧力から死を選ぶような場合です。現在でも、例えば暴力団の組員が組織の掟を破って責任をとるために自殺、というようなことはあるかもしれませんが、現代日本においてはそれほど多くはないでしょう。

 ふたつめは、「利己的自殺」と呼ばれるもので、 孤独感や焦燥感などエゴイスティックなものによって起こる自殺のことです。これは現代日本では若い世代を中心にあり得るものと思われます。ただ、最近の統計も含めて日本では、若い世代よりも中年から老年の自殺が多いのが特徴ですから(日本では55歳から64歳で最も自殺率が高い)、このタイプの自殺は日本では多くはありません。

 三つめは、「アノミー的自殺」と呼ばれるもので、社会的規則・規制がない(もしくは少ない)状態において起こる自殺のことです。自由のもと、自分の欲望を抑えきれずに自殺するというイメージです。

 この「アノミー」という言葉は、デュルケーム自らが提唱した概念で、社会秩序が乱れ、混乱した状態にあることを指します。社会の規制や規則が緩んだ状態においては、個人が必ずしも自由になるとは限らず、かえって不安定な状況に陥るとデュルケームは言います。デュルケームによると、規制や規則が緩むことが必ずしも社会にとってよいことではないのです。

 私が社会学を勉強していた80年代後半、日本はバブル経済に突入し、このようなアノミーの状態にあるのではないかと言われていました。デュルケームはなにも不景気のときだけに自殺率が上昇するのではなく、景気の急上昇期、大繁栄の時代にも自殺者が急増するということを示しています。この指摘が当時に私には非常に衝撃的でした。

 しかしながら、結果的にはバブル経済の頃の日本の自殺率はそれほど高いものではありませんでした。

 一方、バブル経済が破綻し、不景気に突入しだした頃から自殺率は上昇しています。そして失業率が極めて上昇した1998年から現在まで毎年3万人前後の人が自ら命を絶っています。日本の自殺率の推移は失業率と明らかな相関関係があるのです。

 失業率が急上昇したのは、不景気そのものもさることながら、以前から崩れつつあった終身雇用がドラスティックに崩壊したり、正社員の雇用が大幅に減少し、代わりに契約社員やフリーターが一般化したりしたこともその一因です。一方では、IT企業に代表されるような若者のミリオネラーが次々と誕生し、一部の者に大金が集中しています。

 このような現在の日本の状態は、まさにデュルケームの言う「アノミー」ではないでしょうか。

 デュルケームが唱えた4つめの自殺は「宿命的自殺」と呼ばれるもので、閉塞感など欲求への過度の抑圧から起こる自殺のことです。これは、アノミー的自殺の亜種と類型でき、社会的混乱から生じた閉塞感などが自殺につながることは容易に想像できます。現代日本の社会混乱(アノミー)に上手く対応できず閉塞感を感じている人は少なくないでしょう。

 さて、デュルケームの考察はこれくらいにしておいて、今度は医学的な観点から日本人の自殺を考えて生きましょう。

 日本で自殺者が多いのは、確かに失業者の増加や不景気と相関がありますが、実は日本の自殺の原因の第1位は「病気による苦悩」です。慢性の病気や不治の病に耐え切れず、さらにおそらく家族に負担のかかることを懸念した人たちが自ら命を絶っているというわけです。

 どのような病気が自殺へとつながるかという点についてはデータがありませんが、最近デンマークの学者が発表した興味深い論文(Archives of Internal Medicine(2004; 164: 2450-2455))をご紹介したいと思います。

 この論文によりますと、シリコン豊胸術後の女性の自殺率が有意に上昇しているそうなのです。豊胸術を受ける女性は以前から精神的な悩みを抱えており、それが自殺と関係があるのではないかと、この論文では述べられています。

 これは日本のデータではありませんが、今後日本における自殺を考える際の参考になるかもしれません。

 次に自殺率の国際比較をみてみましょう。

 日本の自殺率は世界第10位です。しかし、1位から9位は旧ソ連や東欧の国ばかりで、いわゆる先進国のなかでは日本は第1位です。

 世界全体に目を向けてみると、明らかに自殺率の低いのが南米です。以前どこかで「自殺をしたくなったらブラジルに行け!」という言葉を聞いたことがあります。ブラジルに行けば、自殺を考えていた自分があほらしくなるそうなのです。

 また、すべての国でデータが揃っているわけではありませんが、中東諸国も低い国が多いようです。連日のように新聞で報道されているイスラム教徒の「殉死」はどのように解釈すればいいのでしょうか……。

 アジア諸国はどうかというと、これはバラバラです。日本以外ではなぜかスリランカの自殺率が高いようです(11位)。また、韓国(24位)、中国(27位)、香港(31位)もまあまあ高いと言えます。台湾はデータがありません。中国では、農村部の女性の自殺率が高いのが特徴で、旧態依然の、女性を大切にしない風潮が原因なのかもしれません。
 
 一方、タイ(71位)とフィリピン(83位)では、南米と同様に極めて自殺率が低いと言えます。タイは人口10万人あたりの自殺者数が4.0人で日本の6分の1以下です。

 私はフィリピンには行ったことがありませんが、タイには何度も訪問しています。親密な付き合いをしているタイ人も何人かおり、ある程度タイの文化に触れていると言えるかもしれません。

 世界第10位、先進国のなかでは第1位にランキングされ、一応は仏教徒である日本人に対して、同じアジア人であり、仏教徒であるタイ人は世界的にみて自殺率が極めて少ないのはなぜなのでしょうか。

 私は、これに対して一応の仮説を持っています。次回はその仮説について述べてみたいと思います。

つづく

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2013年6月17日 月曜日

第26回(2005年10月) 後医は名医?!

 「後医は名医」という言葉を聞かれたことがあるでしょうか。

 これは、我々医師がよく使う「ことわざ」のような言葉で、「同じ患者さんを診るなら、後から診た方が名医になれる」というものです。

 例えば、ある患者さんがA診療所を受診したとしましょう。その患者さんはその診療所で診察を受け、薬を処方されたのにもかかわらず、一向にその病気は治りそうにありません。

 そこで、この患者さんは次にB診療所を受診したとします。患者さんは、A診療所に行って薬を処方してもらったことを話しました。すると、B診療所では別の薬が処方されました。その薬を飲みだすと、一気に症状が消失しました。

 ここで、この患者さんはどのような印象を持つでしょうか。

 「A診療所はヤブ医者で、B診療所が名医だ」と思われるのではないでしょうか。
 しかし、これには”トリック”があります。

 まず、ひとつめは、この患者さんの症状は、薬に関係なく、自然に治った可能性があります。つまり、A診療所の処方もB診療所の処方も特に効いたわけではなく、患者さんの自然治癒力で勝手に治っていたということです。

 次に、B診療所では、すでにA診療所で処方された薬が無効であることが分かっているために、次の手をうちやすかった、ということが言えます。疾患にもよりますが、実は患者さんの想像以上に、現在の日本においては、各疾患(症状)に対する治療法が標準化されています。

 つまり、この病気では、通常は最初にA診療所で処方された薬剤が標準的で、その薬剤で効果がなかったときに初めてB診療所で処方された薬剤を使用する、ということがある程度確立されているわけです。

 さらに、この患者さんがB診療所を受診したときに、A診療所を受診したときには見られなかった症状が出現していた、という可能性もあります。つまり、最初、この患者さんがA診療所を受診したときには、熱だけしかなかったけれど、B診療所を受診したときには、熱プラス特有の皮疹が出現しており、そこから、B診療所では適切な診断がつけられた、ということがあるのです。

 このように、後から診察する医師の方が、その疾患を適切に診断するのに有利になることはよくありますす。

 患者さんのなかには、最初近くの診療所を受診したけれどなかなか治らないため大きな病院に行きそこでの治療を受けた結果よくなった、という経験をする人がいますが、こういう経験のある人に言わせると、「やっぱり診療所よりも大病院の方が信頼できる」、となるわけです。

 例をあげて説明しましょう。

 川崎病と呼ばれる小児の病気があります。この病気は現在でも原因不明なのですが、発症すると入院治療を余儀なくされ、完治するまでに時間がかかることもある、場合によっては難儀な病気です。

 川崎病は、最初熱が出て、そのうちに全身のリンパ節が腫れだしたり、目が充血したり、舌が真っ赤に腫れあがったり、全身のいろんなところにいろんなタイプの皮疹が出現したり、と様々な症状が出現するのが特徴です。

 最初に熱が出たときに、「この熱は川崎病によるものです」と断言できる医師など世界中にひとりもいません。なぜなら、川崎病という病気は、いろんな症状が出現してから初めて診断がつけられる病気だからです。

 通常、子供が高熱を出せば、ウイルスや細菌による急性感染症を疑います。かなりの高熱が出現していれば、細菌感染を疑い抗菌薬を処方することになります。ところが、川崎病では抗菌薬がまったく効きません。

 心配したこの子供のお母さんは、この診療所では治らないのではないか、と考えて大きな病院を受診することになります。

 そして、その頃には熱が出てから数日たっていることもあり、皮疹や充血などが出現しているのです。この患者さんをみた大病院の医師は、川崎病を疑い、すぐに入院させて点滴治療をおこないます。

 すると、お母さんとしては、「さすが大病院。すぐに病名を言ってくれたし、入院、点滴と適切な対応をしてくれた。それに比べて最初に行った診療所では、病名も分からないし、出した薬は効かないし、もう二度と行きたくない」、となるのです。

 私が、ある病院の小児科にいた頃、こういうケースが多々ありました。

 しかしながら、もちろんこのお母さんの感じていることは必ずしも正しいわけではありません。

 最初にみた診療所の医師も、子供をみる以上は、常に川崎病のことも念頭に置いています。しかし、川崎病に比べて、高熱が主症状の風邪の方が圧倒的に頻度が高く、熱の患者さんすべてに、川崎病の話をするのは適切ではありません。かえって余計な不安を与えることにもなりかねません。

 診療所の医師としては、「まずは普通の細菌感染と判断し抗菌薬を飲んでもらおう。それでも効かないときは薬を変更するとか、あるいは他の症状が出現したら、(川崎病も含めて)他の疾患を鑑別しよう」、と考えているのです。

 ところで、我々医師のルールのひとつに「前医を批判しない」というものがあります。これは、医師はお互いに尊敬し学びあうべき、という倫理的な観点から生まれたルールでありますが、実際的には「後医は名医」となってしまうことが頻繁にあることを知っているからです。

 そもそも、最初の現場にいない人間が、あとからとやかく言うのはアンフェアであるわけで、たとえ結果として、最初の診断が間違っていたとしても、そのときのその状況ではそう診断せざるを得なかった可能性もあるからです。

 ですから、安易に前医を批判する医師を私は信用できません。

 先日、あるテレビプログラム(民放)を見ていると、医師が登場して、ゲスト出演者の質問に答えていました。そのゲスト出演者は、ある症状である病院に行って治療を受けたけど治らなかった、ということを話しました。すると、その医師は、「その医師の診断が間違っているのです。病院選びは正しくおこないましょう。私なら誤診はしません」というようなことを言っていました。

 これほど、傲慢な医師もいないでしょう。普通なら、そのときはそのように診断した根拠があったはずだ、と考えます。もちろん、最初の診断が間違ったために、とりかえしのつかないことになった、というような事態になれば問題ですが、通常、医師というのは、病態の重症化や急変の可能性のことも考えて、診察をおこないます。

 おそらく、その診察医も、まずはこの治療をおこなって、それで効果がなければ次に進もう、と考えていたはずです。それをきちんと患者さん(このゲスト出演者)に伝えていなかったところに非はあるかもしれませんが、それにしても、「前医の診察が間違っている」と断定するのは問題です。

 こういった発言をする医者のせいで、医療不信が加速されているのではないか、と私は考えています。このテレビを見ていた人の多くは、「そうか、医師の診断力はバラバラだから、いい病院を受診しなくてはならないんだな」というふうに感じるでしょう。

 けれども、そうではなくて、この出演医師のような、「前医を安易に批判するような医師」の方がよほど問題があるわけです。

 モノを売る人のセールストークがライバル会社の悪口中心であれば、イヤな気持ちにならないでしょうか。それと同じで、同僚を安易に批判することによって、自分の価値を高めようとする医師は決して名医ではないのです。

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2013年6月17日 月曜日

25 日本の医師はこれだけ不足している!! 2005/10/15

2005年9月22日、財団法人社会経済生産性本部が、「国民の豊かさの国際比較」を発表しました。発表によりますと、日本は、経済協力開発機構(OECD)加盟30カ国中、総合で第10位にランクされたそうです。2004年には総合第14位だったために、4ランク上昇したと喜びの声がある一方で、詳細を見渡すと決して楽観はできないという慎重論があるようです。

 この国際比較の項目のなかには、健康指標というものも含まれており、健康指標だけでは第8位です。ここでは健康指標に含まれる項目を少し詳しくみていきたいと思います。

 まず、平均寿命の長さでは第1位、人口当たりの病院ベッド数は(多い順に)第2位、乳児死亡率(少ない順に)第3位、人口あたりの死亡者数(少ない順に)第9位、国民ひとりあたり健康支出(多い順に)第17位、国民ひとりあたり公的健康支出(多い順に)第14位です。そして、人口あたりの看護師数は(多い順に)第19位、人口あたりの医師数は(多い順に)、なんと30カ国中、27位です。

 平均寿命やベッド数が世界のトップに位置していながら、医師数が下から4番目の低さであるというのは、つまるところ、ひとりの医師がたくさんの患者さんをみていて、なおかつ質の高い医療を供給しているということになります。今回の社会経済生産性本部の発表では、医師の平均勤務時間は発表されていませんが、もしもこういう統計がとられたなら、日本の医師の勤務時間の異常なほどの長さが浮き彫りになったに違いありません。(先日の国勢調査では、1週間の勤務時間を書く欄がありましたが、私は117時間でした。)
 
 日本の医師数が少なすぎるというのは、こういった統計をみても明らかです。

 しかしながら、日本の厚生労働省は1990年代後半あたりから、医師数を抑制すべきであるという主張をし続けてきました。具体的には、2020年を目途に医学部の定員を10%削減するという目標を掲げていました。実際、私が医学部在学中の頃から、○○大学医学部は何年後かになくなる、とか、△△大学医学部と××大学医学部は近いうちに統合される、などという噂がとびかっていました。

 私は、自分の本のなかでも繰り返し主張していますが、医師数が多すぎるということは絶対にありません。こんなこと、自分の身の周りをみれば明らかです。患者サイドから考えてみても、大病院はもちろん、診療所を受診しても、長時間待たされたあげくに、数分間の診察というのは珍しくありませんし、医師サイドからみても勤務時間が長すぎるのは明らかです。

 では、こういう現実がありながら、なぜ厚生労働省は医師を抑制すべきだという主張を続けてきたかというと、それは、少子化と高齢化社会、人口減少から、徴収できる税金と保険料は頭打ちになり、それでは、医師の給与の現状維持ができないからに他なりません。

 厚生省と同様、医師数抑制を主張し続けてきた日本医師会によれば、「医師が過剰になれば、粗製乱造で医療の質の低下を招くとともに、医師の失業につながりかねない」、そうです(asahi.com 2005年3月12日)。

 果たして本当にそうでしょうか。本当に医師が過剰、というか、他の先進国並みになれば、医療の質の低下を招くのでしょうか。

 少なくとも、睡眠不足から判断力の低下をきたすことはなくなるでしょう。最近発表されたアメリカの論文によりますと、睡眠不足の医師はアルコールを飲んでいるのと同程度に判断力が鈍るというデータがあります。

 また、医師が増えれば、医師ひとりあたりが診る患者さんの数が少なくなり、患者さんひとりひとりにじっくりと取り組めることになります。現状では、入院患者さんのところに行くのが1日に一度だけであったり、また外来では、積み上げられたカルテを横目で見ながら、目の前の患者さんを早く終了させることを考えなければならないということが日常茶飯事なのです。このような診察をして、病院の経営者は喜ぶかもしれませんが、我々医師にとっても、患者さんにとっても、お互いあるべき姿ではないのです。

 もうひとつ日本医師会が主張している「医師の失業」という問題についても、いったん医師になれば失業はない、という現状の方がよほど問題があるわけで、医師免許をいったん取得すればそれで安泰などと考えている医師がいるとすれば、このことこそが、日本の医療のレベルを低下させることになるのではないでしょうか。

 厚生労働省の「医師数を抑制する」という主張は、どこからどう考えても納得のいかないものです。

 しかしながら、最近になって、ようやく厚生労働省も現実を見始めたようです。新研修医制度の導入とともに、大学の医局には新しい医師が二年間は入局できなくなり、このため多くの医局で人手不足が深刻化しました。特に痛手を被っているのが、産婦人科と小児科で、この2つの科は従来から相対的に人が足らなかったところに、新研修医制度が導入され、結果として関連病院から医局員を引き上げることになり、その結果、その関連病院では産婦人科や小児科をやめざるをえなくなったのです。

 産婦人科については、この傾向が特に顕著で、昨今の医事紛争の増加も重なり、総合病院で産婦人科を標榜するところが全国的に激減してきています。例えば、関西のある中堅都市(人口約27万人)では、ついに出産のできる総合病院がなくなってしまいました。その市では産科を標榜している個人病院が3つだけになり、この市で出産しようと思えばその3つの個人病院に行くしかないのです。これではとうていベッドが足りませんし、例えば喘息や高血圧などを持っている、本来高度医療のおこなえる総合病院で出産すべき妊婦さんはその市では出産することができないのです。

 小児科不足も深刻です。例えば、関西のある総合病院は夜間に小児科の救急外来をおこなっていますが、その地域には、他に夜間に子供をみる病院がないために、多い日では一晩に100人もの患者さんを診なければならないのです。ひとりの小児科医が一晩で100人です。もちろんその小児科医は翌日の朝から通常業務が待っています。この状態で、一晩に100人の患者さんを、的確な判断力をもって、まったくミスをすることなく診察し続けることができるでしょうか。

 産婦人科、小児科以外に深刻なのが麻酔科です。麻酔科医が不足しているために、本来麻酔科医が麻酔をすべき症例に対し、外科医が執刀をしながら麻酔をかけるということが、日本の医療現場ではごく普通におこなわれています。

 他の領域においても、地方に行けば医師不足は深刻です。医師が不足し、存続が危うい病院は少なくありませんし、どこの病院にいっても、数少ない医師が多くの患者さんを診なければならないわけですから、当然医療の質は低下します。

 厚生省は最近になって、ようやく「医師数抑制」の方針を見直すようになりましたが、医学部の定員を増やすという議論にはなっていないようです。

 私は自分の本で主張しているように、医師の数は現在の倍くらいにすべきだと考えています。そうすれば医師側にとっても患者側にとっても、今よりははるかに満足度の高い治療ができるに違いありません。

 こういうことを言うと、では財源はどうするのか、という反論が必ずでてきますが、その答えは簡単なことです。

 医師の数を倍にする代わりに、医師の給与を半分にすればいいのです。よく、「医師が儲けているというのは幻想であって、実際は一部の開業医を除けば、特に勤務医などは安い給与でこきつかわれている」などという人がいますが、これは間違いです。

 先日も、あるテレビ番組で、医師(勤務医)が登場し、「私の給与は1000万円しかないんですよ」と言っていましたが、1000万円を少ないと思っていること自体が異常です。

 ちなみに、民間企業に勤める人が2004年一年間に受けとった一人あたりの平均給与は439万円です(日本経済新聞2005年9月29日)。この医師は、世間の人々がどれくらいの給与を貰っているのか知っているのでしょうか。知っていれば、こんな無神経な発言はできるはずがありません。医師の給与は、その439万円の中から徴収される税金と保険料でまかなわれているのです。こういう発言をする医師がいる限り、医師は世間知らずと言われても仕方がないでしょう。医師は新聞すら読んでいないということなのですから。

 もっとも、医師不足のために勤務時間が長くなりすぎ、新聞を読む時間すらない、ということなのかもしれませんが・・・・。

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2013年6月17日 月曜日

第24回(2005年9月) 「クスリ」を上手く断ち切るには ④(最終回)

 これまでに、私が述べてきたことをここで確認しておきましょう。

    ・違法薬物はやらないに越したことはないが、必要と感じている人もいる理由は理解しなければならない

    ・その理由とは、人間は「日常」だけでは生きられずに、「非日常」の時空間も必要であり、「クスリ」は簡単に「非日常」を体験できる、というものである

    ・「非日常」の時空間が特に必要になるときというのは、人生のどん底に沈んでいるとき、自暴自棄になっているとき、あるいは、「クスリ」のリバウンドで苦しんでいるとき、なども該当する

  ・ 「非日常」を適切に体験できればそれは素晴らしいことであるが、現代社会では必ずしも容易なことではない。そのため、医療機関を受診するのもひとつの方法である

 しかしながら、「あたしって、非日常をうまく体験できないから、先生助けて~」と言って医療機関を受診するわけにはいきません。そんなこと言っても、私以外の医師は「???」となるに違いありません。

 けれども、私の言う「日常/非日常」というのは、実は社会学では常識的な考えです。これまでも多くの学者が提唱してきています。「日常/非日常」という言い方は、場合によって、「ハレとケ」であったり、「労働(生産)/祝祭」であったり、「過剰/蕩尽」であったりします。

 もう少し解説しましょう。人間は、生産活動をするようになってから、モノを過剰につくるようになりました。食べる分だけ生産すれば事足りるはずなのに、それ以上のものをつくります。そして、ある一時期に、それら過剰なものを一気に消費するのです。これは一見非合理なように見えます。なにも努力して余計なものをつくって一気に消費しなくても、初めから余分なものなどつくらなくてもよさそうに思われるからです。

 けれども、例えば、お祭りのときには、普段口にしないような料理や酒を絶対に食べられないほど大量に用意してドンちゃん騒ぎをします。普段はご法度のケンカやナンパもお祭りのときは誰もとがめません。年に一度、それまで住民が一生懸命作り上げた建物をみんなで壊す習慣のある地域も世界にはあります。日本でも、岸和田のだんじり祭りや青森のねぶた祭りでは、勢いあまって建物が壊れたり怪我人が出たりすることも珍しくありませんが、非難する人はほとんどいません。

 祝祭や儀式があるような文化では、住民が自然に「非日常」を体験できて「健康に」過ごせるというわけです。おそらく、こういう文化を心底楽しめるような人は「クスリ」が必要になることはないのではないかと私は考えています(もっとも、バリ島の伝統的な祝祭のように、儀式で「クスリ」を用いるということはあるでしょうが・・・)。

 理由はともかく、人間は「日常」と「非日常」をうまく使い分けてきた、というのが社会学の考え方です。そして、現在でも周りを見渡せばこういう現象は見受けられます。

 例えば、毎日早朝から深夜まで休みなく長期間働き、ようやく仕事が一段落すると、ハメを外して遊びたくなります。普段真面目でおとなしい人が、飲み会で人柄が変わるというのもよくあります。コツコツ貯金をしてやりたいことを我慢していると、あるとき一気に消費してしまうものです。

 もうひとつ、強烈な「非日常」を紹介しましょう。それは「恋愛」です。恋愛といっても、例えば長年寄り添っているカップルや夫婦の恋愛は「非日常」でなく「日常」になってしまっています。そうではなく、例えば、恋愛の初期というのは、突然それまでの「日常」になかったドキドキするものが舞い込んでくるわけですから、これは強烈な「非日常」になるわけです。また、周囲から反対されている恋愛や、不倫や浮気のようなかたちの恋愛も「非日常」になるでしょう。駆け落ちを考えているカップルが世間の常識からはずれた行動を取るのは、まさに「非日常」の真っ只中にいるからです。

 だから、長年連れ添った配偶者よりも、新しい浮気相手に夢中になるのはある意味では当然のことなのです。「日常」に退屈していたところに、突然魅力的な「非日常」が舞い込んできたわけですから・・・。念のために言っておきますが、私はこのような恋愛を奨励しているわけではありません。むしろ、恋愛の非日常性を理解していれば、長年連れ添ってからでも二人で何らかの「非日常」を見つけることによって、恋愛を長続きさせることができるのではないかと考えています。

 一般的には、「のむ・うつ・かう」というのが、「非日常」の典型であるかもしれません。だから、「のむ・うつ・かう」というような行為をうまくおこなえる人というのは、社会学的には(私に言わせれば医学的にも)健全であるのです。

 しかしながら、複雑な現代社会では、近代以前のような祝祭というのは地域にもよりますがそれほど期待できませんし、モノをつくって壊すという行動も簡単にできるものではありません。また、「のむ・うつ・かう」などという行動も、環境によってはむつかしいでしょうし、そうそう新しい恋愛や危険な恋愛をおこなうわけにもいきません。

 では、どうすればいいのかというと、一般的には、スポーツ、旅行、音楽、買い物、などがいいのでしょうが、自分でいろんなことを試行錯誤してみて見つけていく他に方法はありません。

 そして、うまく見つけられなかった場合には、人生のスランプがやってきます。ちょっとしたトラブルやストレスにも上手く対処できなくなってしまいます。そして気分は沈みがちになり、何をやっても上手くいかなくなります。
 
 さて、そろそろ話しを戻しましょう。うまく「非日常」を体験できない場合、医療機関を受診するのもひとつの方法であると私は言いました。もちろん、医師にむかって「先生、非日常を体験させてください」というわけにはいきません。

 では、どうすればいいかと言うと、気分がすぐれずに、人生のスランプであることをそのまま訴えればいいのです。あるいは、薬物をやめたいがリバウンドで苦しんでいるということを言えばいいわけです。

 そして、医師は話を充分聞いた上で、必要であれば、薬剤を処方することになります。向精神薬と言えば、何か恐いものというイメージをもたれている人もおられますが、そんなことはありません。当たり前の話ですが、違法薬物なんかより遥かに安全です。
 
 例えば、「プロザック」という薬剤があります。これは「SSRI(Selective Serotonin Reuptake Inhibitorsの略、これを和訳すれば、選択的セロトニン再取り込み抑制剤、となる)」というクスリのひとつで、別名「ハッピードラッグ」と呼ばれています。抗うつ薬の一種ですが、従来の抗うつ薬に比べ副作用が少なく、医師の処方箋がなくても買える国もあるくらいです。アメリカには2000万人以上のプロザックユーザーがいると言われており、サラリーマンやOLが出勤前に飲んでいるそうです。日本でもインターネットを通して個人輸入して使用している人はかなりの数に上ると言われています。

 「プロザック」は、日本ではなぜか販売されていませんが、同じ効果のある「SSRI」がたくさんあり、どこの医療機関でも処方してくれます。

 「SSRI」だけではありません。抗不安薬やSSRI以外の抗うつ薬も作用の軽いものから、それなりに作用の大きいものまでたくさんの種類があり、必要に応じて医師は処方をおこないます。もちろん、安易に使用するものではなく、ある程度長期的に医師の管理のもとで服用する必要がありますが、充分に効果が期待できます。

 実際に、私がみた患者さんで、長年覚醒剤を断ち切れずに自殺未遂までしたけれども、SSRIのみで(しかも少量で)完全に社会復帰を遂げ、元気に働くようになり新しい恋人までできたという例もあります。

 抗不安薬を使用して、ストレスを感じなくなり、一度やめた仕事を復活させたという患者さんもおられます。

 頭のかたい昔の人は、「何がストレスだ!何が不安だ!何が退屈だ!」などと言って、現代人が「クスリ」が必要な理由を分かろうとしません。違法薬物を使用するのは、社会からドロップアウトしたやつらだ、などと決め付け、普通の女子高生や、サラリーマンや主婦がドラッグに手を出している現実を見ようとしません。彼らには、複雑な現代社会の構図が読めていないのです。

 私は、「現代社会に住む誰もが向精神薬を服用すべきだ」と言っているわけではありませんし、使用するには必ず医師の指導のもとでおこなう必要があると思っています。

 けれども、「非日常」を求めて違法薬物に手を出す前に、あるいは違法薬物から断ち切るために、いくつかの向精神薬は有効である、ということを主張したいのです。

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2013年6月17日 月曜日

第23回(2005年9月) 「クスリ」を上手く断ち切るには③(全4回)

 これまで、覚醒剤、麻薬、大麻、MDMAと、違法薬物をみてきました。残りを簡単に片付けておきましょう。

 「マジックマッシュルーム」というキノコが一時大量に出回りました。このキノコは、幻覚が見られるというのが特徴で、例えばバリ島の伝統的な儀式などでは今でも使われています。大量に出回った最大の理由は、最近まで合法だったからです。合法だったといっても、それは取り締まる法律がなかったからであって、危険性は以前から指摘されていました。そして、2002年の6月に、麻薬取締法のなかの指定薬物に加えられたのです。

 麻薬取締法について簡単にみておきましょう。この法律は、正確には「麻薬及び向精神薬取締法」といい、そこで指定されているのは、狭義の麻薬であるヘロインやモルヒネだけではなく、コカインやLSD、その他医薬品として扱われている向精神薬の一部が含まれます。そして、マジックマッシュルームもこのなかに入れられたというわけです。

 しかし、マジックマッシュルームが違法になったとたんに急速に別の薬物が普及しだしました。それらは「合法ドラッグ」と呼ばれるもので、麻薬取締法やその他の薬物を取り締まる法律では規制できないものです。これらは、違法とされている物質を少し変化させるだけで、取り締まる法律がなくなり合法となりますから、堂々と販売されるのです。

 これでは、いくら法律を増やしても「いたちごっこ」になります。そこで、2005年の4月から、麻薬取締法が改正され、これまで合法ドラッグとされていたものも「麻薬に類似するもの」となり規制の対象となりました。

 これで、依存性や中毒性のあるすべての薬物が違法となったわけです。
 
 もうひとつだけ、違法薬物について述べておきましょう。

 それは、「シンナー」です。日本でよく問題になるのは「トルエン」で、純度の高いものは通称「純トロ」と呼ばれています。これは「毒物及び劇物取締法」で規制されています。シンナーは、他のどんな薬物よりも簡単に手に入りますから、ついつい手をだしてしまう機会が多いかもしれません。しかし、シンナーは、短期間に視神経、呼吸器、循環器に障害ももたらし、そのうち脳細胞も障害されることになります。

 シンナー中毒で死亡する中学生の報告もそう珍しいことではありません。一方、中学生に常用者が多いのに対し、成人してからシンナー中毒になるという人はそれほど多くありません。比較的短期間で致死的な状態になる恐ろしい一面を持つ一方で、依存性が他の薬物に比べればそれほど高くないのがその原因だと思われます。

 さて、これまで違法薬物をざっとみてきましたが、私がお話したいのは、それらの危険性だけではありません。

 人間が「クスリ」を欲しがるのには理由があるわけで、やみくもに正論を振りかざし、「違法薬物はやめましょう」と言ってみても何も始まりません。どれだけ説得力があるかは分かりませんが、私なりの薬物対処法をお話したいと思います。

 まず、避けられるのであれば避けるに越したことはありません。一度やって味を覚えてしまうと、そう簡単には抜けられません。麻薬はもちろん、覚醒剤やMDMAでも、一度やってしまったばかりに、断ち切るのにかなりの苦痛と苦労を強いられたという人は少なくありません。「依存しない人もいる」という意見は昔からあり、たしかに一度でも摂取した全員が依存症になるわけではありませんが、誰にでもその危険性があることは知っておくべきです。

 タバコを吸う人なら、禁煙をすることがどれだけ大変かが分かるでしょう。麻薬は論外ですが、覚醒剤でもそのタバコの数十倍の苦痛が伴うと言われています。禁煙の数十倍の苦痛・・・。こう考えると、安易に覚醒剤に手を出しにくくなるのではないでしょうか。
 
 次に、避けられない状況があったと仮定しましょう。若い世代の間では、「今日は、みんなホンネで話そうね」などと言って、覚醒剤パーティをおこなうことが少なくないと聞きます。たしかにみんなで覚醒剤を使うと、全員がハイテンションになり、普段言えないようなことも言えるようになるかもしれませんし、絆が深くなることもあるかもしれません。

 そんなとき、自分だけ「あたしはやめておくね」などということが言えるでしょうか(このようなプレッシャーのことを「同調圧力」、または「peer pressure」と呼びます)。

 では、このようなケースではどうすればいいのでしょうか。答えになっていないかもしれませんが、周囲の空気が変わろうとも、自分だけ仲間はずれにされようとも、「自分はやらない!」と言うことが必要です。

 長期的にみれば、薬物をやらないという選択が絶対的に正しいわけです。たとえ、そのときのメンバー全員にシカトされようが、友達をなくそうが、世界の大部分の人は、自分の意思を貫いて薬物をやらなかったあなたの勇気に感動するはずです。長い人生のなかで、一度や二度、すべての友達を失ったとしても、自分の信念を通すことの方が大切なのです。それに、それを契機に疎遠になった友達がいたとしても、いずれ、あなたのあのときの勇気の意味が分かって、相手の方から近寄ってくるものです。つまり、「嫌われる勇気」を持つことが大切なのです。

 だから、周囲のプレッシャーに負けない、自分の強い意志が求められるのです。

 人生のどん底に沈んでいたり、何かが原因で自暴自棄になっていたりするときに、ふと目の前に違法薬物があった場合にはどうすればいいのでしょうか。周囲のプレッシャーに負けないような強い意志が普段は持てたとしても、自分の精神状態がまともでないときには、そんな理性は保てません。生きる望みを失っているようなときには、強い意志はどこかに消えてしまっているものです。

 しかし、これには解決法があります。

 それは、薬物に手を出す前に、医療機関を受診するということです。人生のどん底に沈んでいたり、自暴自棄になっているとき、というのは、人間なら誰でもあることだとは言え、正常な状態ではありません。これは、風邪は誰でもひくけれども、風邪をひいているときには正常ではない、というのと同じようなことです。精神状態がすぐれない、というのは、決して珍しい異常ではないのです。

 だから、わざわざ敷居の高い専門の精神科を受診する必要はありません(もちろん受診してもかまいませんが)。自分のかかりつけ医でいいわけです。もちろん、症状が重症で、入院などのより専門的な治療が必要な場合もあるでしょうが、その場合でもかかりつけ医に紹介状を書いてもらえば、すみやかに最良の治療が受けられます。

 何らかの理由で精神状態が正常でないとき以外にも、病院を受診するのが得策であるときがあります。それは、「一度やってしまった薬物を断ち切りたいとき」、です。この場合、例えば覚醒剤が切れたときに、リバウンドはかなりの苦痛を伴います。他人からみれば廃人にしかうつらないようなときもあります。そんな状態では、まともに物事が考えられませんし、手を伸ばせば届く範囲に薬物があれば、再び手を出すのも時間の問題でしょう。

 そんなときこそ、医療機関を受診するべきなのです。
 
 では、医療機関を受診すれば、人生のどん底から救ってくれたり、依存している薬物を断ち切ることができるのでしょうか。答えは「YES」です。もちろん、本人の努力も必要ですし、100%の確率で成功するとは限りません。けれども、少なくとも自分ひとりで悩んだり、カウンセリングだけに頼ったりするよりは、遥かに効果がある、と私は考えています。
 
 また、以前も述べましたが、人間には「日常」だけではなく「非日常」の時空間が必要です。そして、この「日常」と「非日常」を上手く使い分けることこそが、人生を上手に生きるコツである、というのが私の理論で、この理論を用いると、受験勉強のスランプから抜け出せるということを、『偏差値40からの医学部再受験』で述べました。

 人生のどん底に沈んでいたり、依存している薬物のリバウンドで苦しんでいるときなども、実は「非日常」の時空間が必要なときではないか、と私は考えています。

 そして、いずれの場合でも、自分の努力で「非日常」を体験できず、人生の苦しみから抜け出せないときには医療機関を受診することが有効である、と私は考えているのです。

 つづく

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2013年6月17日 月曜日

22 「クスリ」を上手く断ち切るには②(全4回) 2005/8/29

覚醒剤の次は、違法薬物の王様である「麻薬」をみていきましょう。

 「麻薬」とは、狭義には、ケシの種子からとれる阿片から精製されたものを言い、モルヒネやヘロインの名で知られています。(ちなみに、ケシの栽培や阿片の所持はあへん法で、モルヒネやヘロインは麻薬取締法で裁かれます。)

 麻薬の効果は、覚醒剤とはまったく異なり、ハイテンションにもしてくれませんし、活動性は低くなります。しかし、なんとも言えない恍惚感に包まれて至上の幸福感につつまれます。(といっても私は経験がありませんので。念のため・・・。)

 アヘン戦争で、イギリスが中国人に阿片を浸透させたのは、誰もが戦意を消失することを狙ったからです。これに対し、もしも中国人が阿片ではなく、覚醒剤を使用していたら、眠らずにどこまでも戦ってくる無敵の軍隊になったかもしれません。

 麻薬の最も恐ろしい点は、その依存性にあります。前回は、覚醒剤の依存性についてその恐ろしさをお話しましたが、実は麻薬はその比ではありません。いったん、その味を覚えてしまえば、かなりの確率で廃人になり、そしてそのうちに死亡します。

 ただし、麻薬は協力な鎮痛効果があることから、医薬品としてはなくてはならないものです。痛みがあるうちは、麻薬はいくら使っても中毒症状になることはありません。(これを「ceiling effectがない」と言います。)

 前々回、「シャブ中ドクター」は珍しくないという話をしましたが、「麻薬中毒ドクター」は聞いたことがありません。現在の日本の医療では覚醒剤に比べると、麻薬の方が使用量はずっと多いと言えます。もちろん、麻薬の取り扱いは厳重に規制されていて、もしも1錠でも紛失させると、それを届出しなければならず、場合によっては処罰の対象になります。けれども、臨床での消費量は、覚醒剤よりも麻薬の方がずっと多いわけです。最近では、末期癌患者の在宅医療にも麻薬を使いますから、麻薬が家族の管理になることもあるわけです。医師が不正に持ち出そうと思えば、それほどむつかしいことではないと思われます。

 しかし、「麻薬中毒ドクター」というのは、ほとんどいないのです。これはなぜなのでしょうか。おそらく、医師もバカではないため、その危険性を承知しているからでしょう。医師であれば、麻薬と覚醒剤の効能の違いや危険性について充分に理解しています。「シャブ中ドクター」が後を絶たないのは、麻薬に比べて、覚醒剤が中毒性が低いことを甘くみているのと、眠気覚ましや集中力アップのために有用だという理解があり、さらに罪がそれほど重くないことが原因ではないかと、私は考えています。

 麻薬は、強烈な依存性と耐性のできやすさから、覚醒剤に比べて、初めは吸入で満足していても、静脈注射に移行するのが早いと言われています。麻薬の静脈注射から立ち直った人もいるにはいますが、そのまま廃人になり命を落としていく人の方がずっと多いのは間違いありません。

 したがって、法律は当然厳しいものになります。麻薬は保持しているだけで、まず実刑から逃れられることはありませんし、一部の国では、持っているだけで射殺というところもあります。知らないうちに誰かに自分のポケットにヘロインを入れられ、問答無用ですぐに射殺、ということもあるわけです。

 静脈注射をすれば、麻薬であっても覚醒剤であっても、感染症の危険性はありますが、麻薬の場合はあまり問題にはならないのではないかと思われます。感染症の危険性よりも、中毒になり、そのうち死亡する可能性の方がずっと高いからです。
  
 次に、大麻取締法で規定されている、「大麻」をみていきましょう。「大麻」は別名、「マリファナ」とか「ガンジャ」と言われることもありますし、単に「草」とも呼ばれます。また大麻の樹液を固めたものを「ハシッシュ」と呼び、大麻と同様の効果があります。

 大麻は、覚醒剤や麻薬と異なり、依存性はないと言われています。また、オランダやインドの一部の州では合法ですし、カンボジアでは伝統料理にも使われます。ちなみにカンボジアではタバコの方が高級品であり、大麻を吸うのはタバコを買う金がない貧乏人だと言われていたことがあるそうです。

 大麻を吸うと、全身の感覚が研ぎ澄まされます。ミュージシャンがよく使用するのは、音楽がシャープに聞こえるからではないかと思われます。例えば、ひとつの曲のベースの音だけを取り出して聞くことができるようになりますし、あるいは音感が敏感になることが作曲の際に有用なのかもしれません。聴覚だけではありません。視覚も鋭敏になります。白い壁が紫や緑に見えてきたり、雲の形が動物や人の顔に見えたりします(これを「パレイドリア」と呼びます)。

 覚醒剤のようにハイテンションになることはなく、どちらかと言うと、麻薬のときのように動けなくなります。しかし、麻薬で得られるような恍惚感はありません。なぜか喉が渇き、食欲も亢進するため、大麻をやりすぎて太ってしまったという人もいます。

 大麻愛好家の人たちは、依存性もないし注射をしたりすることもないわけだから、他の違法薬物はもちろん、タバコや酒よりもよっぽど健康的なものではないのか、と主張します。

 たしかに、この考え方には一理あって、危険性がそれほど強くないことから、オランダなどでは合法となっているのでしょう。「大麻以外の薬物は一切やらない」、というポリシー(?)を持っている人もいて、たしかに健康上の被害はそれほど問題にならないかもしれません。「先生、オランダに行って大麻をやってもいいですか。」と聞かれたら、私は医師として何と言っていいか分かりません。草に火をつけて吸入するわけですから、身体にいいはずはありませんが、それ以上のことは言えないのです。

 大麻が危険なのは、日本への持ち込みです。日本では当然違法であるわけで、そのため海外から日本に持ち込めば高値で売ることができます。もちろん、税関で厳しいチェックがありますから、簡単には持ち込むことができません。そのため、最近よく取られている方法は、少量の大麻をサランラップに包んで、それをコンドームに入れて、そのコンドームを飲み込むというものです。

 しかし、この方法は非常に危険です。腸管でコンドームが破けて、大麻が吸収される、ということがありうるからです。日本の空港に着いたものの、大麻が全身にまわってしまい、立ち上がれなくなり、救急搬送され、病院で逮捕という事件がときどきおこっています。女性の場合、腟内に挿入する方法もあり、この場合は飲み込むよりも危険性は少ないでしょうが、見つかって逮捕されることはよくあります。

 大麻取締法は、麻薬や覚醒剤に比べてたしかに罪は軽いのですが、コンドームで大量に持ち込んでいれば販売目的とみなされて、まず実刑から逃れられません。

 ちなみに、このコンドームに入れて飲み込むという方法を、覚醒剤でおこなった場合、危険性は大麻の比ではありません。もしも腸管でコンドームが破ければ、日本に到着する前に、上空で突然死、という可能性もあります。

 次に、最近日本で消費量が爆発的に増えている「MDMA」についてみていきましょう。「MDMA」とはメチレンジオキシメタンフェタミンの略で、通称「エクスタシー」と呼ばれています。「MDA」と呼ばれるものもあり、これはメチレンジオキシアンフェタミンの略で、こちらは通称「ラブドラッグ」と呼ばれることもあります。MDMAもMDAも、その名称から分かるように、メタンフェタミンやアンフェタミンの類似物質、要するに、覚醒剤の親戚です。しかし、規制する方法はなぜか、覚醒剤取締法ではなく、麻薬取締法です。

 MDMAもMDAも効果は同じようなもので、強い興奮作用があります。覚醒剤とよく似ており、セックスの際に用いると強烈な快感に襲われます。(しつこいようですが、私は経験がありませんので・・・。)

 覚醒剤と同様に、日本では都心部を中心に若い世代の間で出回っています。(日経新聞2005年8月4日夕刊の記事によりますと、2005年上半期での押収量は過去最多を記録しており、これで7年連続の増加となったそうです。)また、UKではクラブで簡単に入手できるそうです。UKは薬物に厳しい国で、例えば、日本では睡眠剤として医療機関で処方される「ハルシオン」は、使用法によっては幻覚をみたり、記憶をなくしたりして(間違った使い方をすると)非常に危険な薬物です。そのため、ハルシオンの製造元のアップジョン社は、本国のUKで販売を禁止しています。それほど薬物に厳しいUKでも、なぜかロンドンなどのクラブでは比較的簡単にMDMAが入手できるそうなのです。(ちなみに、ハルシオンは、かつてドラッグ天国と呼ばれたタイでも以前から販売禁止にされており、タイ人は主に日本人から入手していたそうです。)

 日本のクラブでも、ロンドンと同様、MDMAは比較的簡単に入手できるようです。もちろん、覚醒剤と同様、非常に危険な薬物で、錯乱や不安に襲われることもありますし、死亡例も報告されています。通常は内服のみであるため、静脈注射に移行することはありませんが、MDMAのユーザーは覚醒剤にも手をだすことが多く、病院に救急搬送された患者さんの尿から覚醒剤とMDMAの両方が検出されるということも少なくありません。

 つづく

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

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