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2025年4月6日 日曜日

2025年4月 階上キックボクシングジム振動裁判は谷口医院の全面敗訴

 2021年1月に突然始まった階上キックボクシングジムによる振動による被害の裁判は谷口医院の全面敗訴となりました。今回はこの経緯を紹介します。別のページにもまとめていますが、まずはこれまでの経緯を簡単に振り返っておきましょう。

 谷口医院がオープンしたのは2007年1月で、大阪市北区太融寺町4丁目の「すてらめいとビル」の4階にありました。2021年1月中旬までの約14年間は平和に診療を続けていました。2018年6月18日に発生した「北摂地震」では棚に置いていた物が落ちるといった程度の被害はありましたが、人災はもちろん自然災害による被害もありませんでした。

 ところが、2021年1月中旬、5階にキックボクシングジム「リフィナス」がいきなり入居してきて激しい振動をまき散らし始めました。入居前にも入居後にも一切の挨拶はなく、これまでいろんな業者がそのビルに入居してきましたが、何の挨拶もないこんなにも非常識な会社や組織は他にはありませんでした。

 壁や天井が揺れる振動が起これば診療を中断せざるを得ません。新型コロナウイルス感染症(以下、単に「コロナ」)を疑い受診した患者さんたちは、他に診てもらえるところがないと言い、這いつくばるようにやってきていました。そこで激しい振動に襲われるわけですからたまったものではありません。キックボクシングジムとビルの管理者に連絡し、繰り返しお願いをして話し合いの場をもってもらいました。

 ところが、やってきたリフィナスの社長はいかにも「仕方がないから来てあげた」という態度でまともな話ができるような人間ではありませんでした。常に上から目線で「クリニックごときがごちゃごちゃ言うな!」という態度です。ビルの方も、こちらとしてはそんなジムを入居させたわけですから社長に出て来てほしかったのですが、社長はどこかに姿をくらまし、やってきた社員は建築の知識が一切ない素人で、何を聞いても「私には分かりません」としか言いません。まるで話になりませんでした。

 それでも話し合いを重ねて、振動のせいでヒビが入った壁や天井を見せて、なんとか「防振工事をする」という約束を文書で取り付けました。しかし、その後リフィナスの弁護士から手紙が届き「やっぱり工事はやりません」とのこと。弁護士も「たかが壁にヒビが入る振動程度で文句を言うな!」とう態度です。

 こうなると、もはや診察は続けられません。リフィナスもすてらめいとビルも話し合う気がないわけですから、これ以上粘っても無駄でしょう。このときにも一瞬裁判を起こそうか……、と考えましたが、まともな相手ではありませんからさっさと身を引いた方が得策だと判断しました。

 そこで移転先を探し始めました。ところが、当時はコロナが猛威をふるっており、ほとんどの貸しビル業者から「発熱患者を診るなら貸さない」と言われました。

 医療モールは裏切らないだろうと思って申し込むと「是非入居してください」とのこと。これで救われた、と思ったのですが、その医療モールに入っている複数のクリニックから「谷口医院がくれば競合するから来ないでほしい」と言われ話は流れてしまいました。当院としては「競合」ではなく「協力」したかったのですが、聞き入れてもらえず話し合いの機会すら拒否すると言われてしまいました……。

 しかし移転以外に道はないわけですから、その後も場所を広げて探し回ったのですが見つからず、さらに振動が、頻度は減ったものの(これはおそらく客が減ったからでしょう)、突然大きな振動に襲われるようになり、針刺し事故のリスクが上がっていきました。

 振動が起これば、聴診、触診、レントゲン、内診(婦人科的な診察)、超音波、呼吸機能検査、心電図など多くのシーンで診療中断を余儀なくされます。そして、最も危険なのは採血や点滴の針を刺すときです。振動で手指がぶれるのは我々だけではなく、突然の振動で患者さんが腕を動かすことがあります。これが危ないのです。

 針が患者さんの血管ではなく神経に触れれば生涯にわたり痛みが残ることがあります。いったん患者さんに刺した針が自分の手指に刺されば院内感染のリスクが生じます。あるとき、ある看護師が採血をしているときに、突然の振動が起こり患者さんが腕を動かし、針刺し事故寸前となりました。この患者さんはHIV陽性でした。この報告を看護師から聞いたときに「移転先探しにこれ以上時間をかけられない。閉院しかない」と決心しました。

 そして2023年1月4日、このサイトで「閉院」を発表し、受診された患者さんにはその旨を説明し新たな受診先を紹介し始めました。ところが「閉院は困る」という患者さんが思いの他多く、診察室で泣き始める患者さんが後を絶たず、なかには泣きながら「わたしが必ず移転先を見つけます!」と言って、実際に街中を歩き回って空き物件を探しに行ってくれた人もいます。そんなある日、当院に長年通院している不動産業を営む患者さんから「物件が見つかりました!」という報告を受けました。それが現在診療をしている谷口医院のビルです。

 裁判で我々が最も訴えたのは「針刺し事故を起こすわけにはいかなかった」という点です。裁判所でそのリスクを認めてもらうには、まず振動があったことを物証をもって示さねばなりません。そこで建築士に依頼して1週間分の振動を測定してもらいました。週に何度か64dBを超える振動が記録されていました。そして、その振動は階上キックボクシングジムが起こしたものだということを裁判所が認めました。これで我々の主張が受け入れてもらえるだろうと思ったのですが、当院の弁護士はそれではふじゅうぶんかもしれないと言います。「突然生じる64dBを超える振動で針刺し事故が起こるリスク」の証拠を示さねばならないとのことです。

 しかし、どの程度の振動下で針刺し事故が起こるか、などを調べた研究はありません。医療行為は振動がない環境でおこなうのが前提だからです。どうすべきかと悩んでいたところ、思ってもみなかった著名な医師が連絡をくれました。神経内科の大御所でEBM(evidenced based medicine)の大家であり、かつては厚労省で勤務されており、現在は法務省の矯正医官をされている池田正行先生が「裁判で振動のリスクについて証言してくれる」と言ってくれたのです。これで針刺し事故のリスクが実証できます。

 裁判では、まず池田先生への尋問がおこなわれました。相手側の弁護士は池田先生の答えようのない質問をします。例えば「あなたはEBMに詳しいそうですが、それが振動となんの関係が?」などです。池田先生にわざとイライラさせて、裁判官の心証を悪くするのが狙いなのではないかと感じられました。しかし池田先生は最後まで冷静に対応してくれました。

 次いで私自身への尋問がおこなわれたのですが、相手側の弁護士はこちらが主張している医療行為が中断された話には一切触れません。そして、「振動が始まったのは2021年1月ではなく2020年11月ではないのか」などとよく分からない質問をしてきました。私が繰り返し「2022年1月からです」と答えると「いつからなんだ!」突然怒鳴られました。終始訳の分からない時間でした。

 そして、結果は谷口医院の全面敗訴。弁護士から送られてきた判決文を読むと、なんと医療行為には一切触れられておらず、最重要事項の針刺し事故については「針」の文字すら出てきません。しかも池田先生の証言についてもまったく触れられておらず、「池田」という名前すら見当たらないのです。

 「64dBの振動が突然起こる環境のなかでの針刺し事故のリスクは医療者が背負え。振動を起こす者にも振動を起こす者を階上に入居させた者にも責任はない」が日本の司法の判断だというわけです。

 

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2025年3月23日 日曜日

2025年3月24日 魚の油のサプリメントは無効

 魚の油が心血管疾患の予防になることが確立されたのは2002年に医学誌「Circulation」で論文「Fish Consumption, Fish Oil, Omega-3 Fatty Acids, and Cardiovascular Disease」が公開されたときだとされています。そして、この論文が発表されてからも、魚の油が心血管系疾患の予防に、あるいは炎症性疾患や神経疾患など他の疾患にも良いとされる研究が相次いでいます。

 今回はその魚の油は「サプリメントで摂っても意味がない」ことを示した研究を紹介したいと思います。しかし、その前に言葉の整理をしておきましょう。ω3(脂肪酸)、DHA(ドコサヘキサエン酸)、EPA(エイコサペンタエン酸)などの区分がよく混乱されるからです。しかし、この理解は実は簡単で「魚の油≒ω3脂肪酸≒DHA≒EPA」と考えて差支えありません。

 では2つの研究を紹介しましょう。

 糖尿病患者15,000人以上を対象とした無作為化試験で、ω3サプリメントを摂取した人と摂取しなかった人の間で、重篤な心血管イベントのリスクに有意な差はありませんでした。

 25,000人以上が参加した別の無作為化試験では、ω3サプリメントを摂取しても、重大な心血管イベントやがんを発症するリスクは低下しないことが示されました。

 ちょっと古い記事ですが、米紙Washington Postもω3サプリメントが無効であり、健康食品業者が過剰な宣伝をしていることを指摘しています。

 では、医薬品であれば効果はあるのでしょうか。日本には次の2つの製品があります。

・エパデール:EPA

・ロトリガ:DHA+EPA

 効果を添付文書からみてみましょう。エパデールは中性脂肪の数値を1割程度下げます。ロトリガは4グラム(2グラムを1日2回)飲めば、エパデール服用時に比べて中性脂肪がさらに1割低くなる(何も飲まないときに比べると2割低くなる)とされています。両者とも適応は「高脂血症」とされていますが、これらでLDLコレステロールが下がったとする研究は添付文書に記載されていません。

 費用も加味して今回述べたことをまとめると、次のようになります。

・食事からω3系脂肪酸を摂取すれば心血管系疾患のリスクが低下する

・ω3系サプリメントでは効果がない

・効果が期待できる医薬品は2種類あり、添付文書を読む限りロトリガの方がエパデールよりも有効

・ロトリガの薬価は1日2回なら322円(3割負担で1日97円)。安い後発品を使えば157円(3割負担で1日47円)

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 サプリメントの費用を調べてみました。

・Nature Made: EPA+DHA:1日あたり約20円
・FANCL: EPA+DHA:1日あたり約60円
・小林製薬: EPA+DHA(+αリノレン酸):1日あたり約60円
・サントリー: EPA+DHA(+セサミン):1日あたり約220円

 こうしてみてみると、Nature Made製だけは医薬品より安いことが分かりますが、上述した2つの研究が示しているようにサプリメントの効果が否定された以上は意味がありません。FANCL、小林製薬、サントリーは医薬品よりも高額な上に効かないなら購入する理由がありません。

 ところで中性脂肪は運動(特に心拍数を上げる有酸素運動)で大きく下げることができます。その逆に、運動をおざなりにしてω3脂肪酸をいくら摂取しても中性脂肪は(もちろんコレステロールも)下がらないことは覚えておいた方がいいでしょう。

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2025年3月23日 日曜日

2025年3月20日 女性のADHDが増えている

 ADHDやADHDを含む発達障害が増えているかどうかについては議論が分かれますが、私自身は過去のコラム(「はやりの病気」第219回 2021年11月「発達障害」を”治す”方法)で述べたように、増えていると考えています。

 これは日本に限ったことではなく、英国でも同様で、The Timesによると、イングランドでは、ADHD薬を服用している患者総数は10年間で3倍に増加しています。2015年に同地域でADHDの治療薬を処方されたのは81,000人だったところ、2024年には248,000人にも増えているのです。特に顕著なのが20代後半から30代前半の女性で、なんと10倍に増加しています。

 「所得との関係」にも興味深い現象が生じています。2015年の時点では最も貧しい5分の1の地域の患者数は最も裕福な5分の1の地域の約2倍であったところ、2024年にはその差が縮まり、最も貧しい地域での処方箋数は52,262件、最も裕福な地域では49,073件と、ほとんど差が消失しています。

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 なぜ、裕福な地域にも患者が増え、そして若い女性の間で急増しているのでしょうか。その答えは「診断されやすくなったから」でしょう。ADHDの古典的な症状は「落ち着きがなく騒がしい」ですが、そうでない場合もあります。例えば「クラスで目立たない存在で夢見るように窓の外を見つめるタイプ」は周囲からは気づかれにくいと言えます。

 ところでADHDは「治る」のでしょうか。一般的には「治らない」とされています。実際、ADHDは脳の器質異常とされていて、MRIの所見では小脳や前頭前野の活動が低下していることが指摘されています(このような特徴があるのにも関わらず、画像診断を経ずに診断がつけられているのはおかしいのではないか、という私見を上述のコラムで述べました)。

 しかし、私自身はADHDを含む発達障害は「治る」と考えています。証拠を提示することもできます。ADHDの疫学についての研究によると、ADHDは若年者の5.9%、成人の2.5%に発生するとされています。もしもADHDが「治らない」のであれば、若年者が成人より罹患率が高い理由の説明がつきません。もしも治らないのであれば、(成人になってから診断がつく場合もあるわけですから)罹患率は「成人>若年者」でなければなりません。

 この数字からも分かるようにADHDは治るのです。「治る」が不適切な表現であれば「治療が不要なほど社会に適応できるようになる」でもかまいませんが、ADHDのレッテルを貼られても社会から遠ざかる必要はないわけです。

 ADHDを含む発達障害を議論するときに最も重要なのは「増えているのか、変わらないのか」、あるいは「診断は正しいのか、見逃されていただけではないか」といった議論ではなく、「その人が苦しいのか否か」です。ですから、ADHDであろうがなかろうが、またADHDと診断されようが否定されようが、その人の立場に立って考えれば診断名などどうでもいいわけです。

 「前医でADHDって診断されたんですけど……」と診断に疑問を感じて受診する人や、「わたしはADHDでしょうか……」と相談されに来る患者さんにも私はこのようなことを話しています。

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2025年3月20日 木曜日

第257回(2025年1月) 人生が辛いなら「スマホを持って旅に出よう」

 「格差社会」という言葉が人口に膾炙し始めたのは2000年代前半あたりでしょうか。当時は「勝ち組/負け組」という分かりやすい表現もよく使われていました。しかし、「勝ち組/負け組」はあまりにも露骨な言い回しであり、品がなく、一過性の流行語のように消えていきました。他方「格差社会」という用語は、社会に根付き、一般人から学者まで幅広い人たちに使われています。

 その格差社会は成人のみならず、若年者、さらに10代の若者にも広がっているような気がします。谷口医院の患者さんをみていても、いわゆるスクールカーストの上位にいそうなキャラクターの10代男女もいれば、その反対に中学や高校、あるいは大学で、対人関係が上手くいかず、親友どころか友達もできず、学校から足が遠のき、心を病んでいく人たちがいます。

 そしてその傾向は全国的にみられるようです。まず、不登校の児童の増加ぶりは異常と呼べるほどです。2023年度の不登校の小中学生は34万人を超え、これは11年連続の増加です。東洋経済が作成した下記のグラフを見れば不登校児童が異常なほど急増していることに驚かされます。

https://toyokeizai.net/articles/-/853036?utm_campaign=ADict-edu&utm_source=adTKmail&utm_medium=email&utm_content=20250215

 では、これだけ大勢の若者が病んでいるのは「失われた〇〇年」などという言葉がしばしば当てはめられる日本特有の現象なのでしょうか。そうではなく、若年者が心を病んでいるのは世界共通の現象です。米国の10代のうつ病の増加率は驚くべきもので、5人に1人がうつ病です。

https://www.statista.com/chart/33610/share-of-us-teenagers–12-17-y-o–who-have-experienced-a-major-depressive-episode/

 もっとひどいのが英国で、10代のうつ病罹患者は年ごとに増え、2021年にはなんと4割を超えています。

https://www.statista.com/statistics/1199302/depression-among-young-people-in-the-united-kingdom/

 国の将来を担う10代の4割がうつ病を患っている国家がまともであるはずがありません。日本では10代のうつ病の年次推移を調べたデータは見当たらず、米国や英国との直接比較はできないのですが、日本も深刻な状態にあるのはおそらく間違いありません。自民党の山田太郎議員が不安に関して調査した報告書には、「死んだ方がマシ」「早く死にたい」「死ぬしかない」「正直死にたい」「生きていても意味がない」「ただただ苦しい」「あと何十年も生きるのかと思うと不安」といった若者の言葉が並んでいます。

 「21世紀には明るい未来が待っている」と前世紀に世界中の多くの人が考えていたはずなのに、これだけ大勢の若者が心を病んでいるのはなぜなのでしょう。テクノロジーは発達し、世の中は随分と便利になりました。科学技術だけではなく、医療も大きく発展しました。今やがんやHIVは命をなくす疾患ではありません。関節リウマチや潰瘍性大腸炎といったかつては生活が大きく制限された疾患も今では普通の生活ができるようになっています。薬でやせることができ、髪を増やすこともできるようになり、美容外科が日常となりました。人々は心身ともに若返り、元気になっているはずです……。

 しかし実際には10代の若者の何割かが心を病んでいるのです。格差社会というからには「勝ち組」に入る幸運な若者もいるはずですが、そんな彼(女)らもいつ「負け組」に転落するかもしれないという恐怖に実は怯えているのではないでしょうか。

 では科学も医療も発展したのにも関わらず、心が病んでいくのはなぜなのか。医療のなかでも精神医療だけが遅れているのでしょうか。それもあるでしょう。しかし最大の原因はやはり多くの識者が指摘しているように「SNSの普及」だと思います。そして、これは識者だけでなく、誰もが気付いているはずです。

 もしも、世界からSNSが一掃され、SNSが存在しなかった頃の世界に戻れば、人は人間らしいつながりや絆を取り戻すことができると皆が分かっているのになぜそれができないか。それは、人はSNSの”魅惑”に取りつかれてしまっているからです。豪州では近日「16歳未満のSNSは禁止」というルールが施行されますが、すでにSNSに魅了されている若者はなんとかしてそのルールを破ろうとするに違いありません。それに16歳になれば解禁されるわけですから、仮にそれまで健全な精神を保てていたとしてもSNSの使用開始と同時に病んでいく男女が続出するでしょう。では、「20歳未満はSNS禁止」というルールを世界一斉に発令したとすればどうでしょう。その場合も、大人たちはSNSの使用をやめないわけですから、なんとかしてSNSに手を出そうとする若者が続出することになるでしょう。結局、人類がいったん知ってしまったSNSの”果実”から逃れることはできないのです。

 ではなぜ人はそんなにもSNSに惑わされるのか。おそらくその答えは「SNSによりすぐに孤独から救われるから」でしょう。SNSを続けていればそのうち誰かがメッセージをくれます。人に飢えている人はそれに飛びつきます。SNSの世界ではやたら褒められて承認され、自己肯定感が生まれます。そうすると、人はこの”麻薬”を断ち切ることができなくなります。しかし、その”幸せ”は、本物の麻薬と同じように実は見せかけのものであることにそのうちに気付きます。それでも万が一くらいの確率では生涯の親友やパートナーができるかもしれないという希望が捨てられず、SNSの果てしない”夢”の前には屈するしかないわけです。

 だから、悩める若者に対し「スマホを捨てよ、町へ出よう」と言ったところで絵に描いた餅に過ぎません。この言葉は「書を捨てよ、町へ出よう」と似ているようで、実は意味するところは正反対だからです。「書を捨てよ……」に説得力があるのは、「本を読んでいても本当に大切なことは分からない。人生の真の喜びは人との関係でしか生まれない」ということを我々は本能的に知っているからです。そして、街へ出たから直ちに素敵な出会いがあるわけではありませんが、少なくとも狭いアパートにこもって本を読んでいるよりははるかに期待できるわけです。他方、「スマホを捨てよ……」といっても説得力がないのは、街へ出てもいい出会いに遭遇する可能性はこの社会では限りなく低く、スマホの方がはるかに可能性が高いからです。

 ではどうすればいいか。きれいな答えとはほど遠いのですが、私が診察室でときどき若者に言っているのは「スマホを持って旅に出よう」です。さすがに小中学生にこんなことを言うわけにはいきませんが、大学生やときには高校生にもこのような助言をすることがあります。「旅に出る」も「町に出る」も変わらないように感じられるかもしれませんが、旅の場合は、そしてそれが日常からかけ離れていればいるほど予期せぬハプニングやアクシデントが起こります。楽しいハプニングとは呼べないものの方が多いでしょうが、見知らぬ人と接することで、ほっこりしたり、あるいはエキサイティングな気持ちになったりすることもたまにはあるものです。どうせ人生なんて辛いことの方がずっと多いわけです。ならばSNSで完璧な自分を演じようとしてみたり、他人の不幸をかいまみてほくそえんだりするのではなく、自分が主体になって辛いことが大半の舞台に立ってそのときの”役”を演じる方がずっと意味があるのではないでしょうか……。

 と、こんな感じのことをときどき診察室で若い患者さんに伝えたり、メール相談に応えたりしています。若くない人にも同じようなことを話しています……。

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2025年3月9日 日曜日

2025年3月 医師になるつもりもなかったのに医学部に入学した理由(後編)

 前回は、1つ目の大学を卒業後企業に就職したものの学問への興味が強くなり、母校の大学の先生に相談して社会学部の大学院進学を目指すようになったこと、たくさんの文献を読むようになったこと、米国の人類学者Helen Fisherの書籍を読んで神経伝達物質に興味が出てきたこと、さらに、神経伝達物質を解明することで人間の感情・思考・行動などが解読できるのではないかと考えたこと、などを述べました。今回はその続きです。

 神経伝達物質で人間の感情や行動が説明できるとしても、なぜ、そしてどのように神経伝達物質がつくられるのかを知らねばなりません。当時から、人間の遺伝情報はすべて遺伝子によって決定されること、遺伝子は生涯変わらないこと、どの遺伝子が発現するかによりどのような蛋白質がつくられるかが決まること、特定の蛋白質が神経伝達物質になったり酵素として様々な体内の物質に変化を与えたりすること、などは知っていました。

 ということは、どうしても究明しなければならないのはやはり「遺伝子」ということになります。当時はまだヒトのDNAの塩基配列がすべて解き明かされていませんでしたが、いずれそれらが分かる時代が来ると考えられていました。塩基配列の解明はその人間の「設計図」が明らかにされることを意味します。人が人との関係を通して学ぶ人生の教訓でさえも、所詮は遺伝子の塩基配列が決めることなのでしょうか。そう考えると虚しくなる気がしないでもないのですが、私の関心は「こうあってほしい」ではなく「真実が知りたい」でした。どうしても遺伝子を学ばなければならないという気持が強くなってきました。

 ところで、遺伝子の話になると、ひとつ”場違いな言葉”が存在することが当時ずっと気になっていました。「セントラル・ドグマ」です。セントラル・ドグマとは「遺伝情報の伝達は『DNA→RNA→蛋白質』の一方通行であり、その逆はない」とするものです。DNAからRNAに遺伝情報が「転写」され、RNAの情報が蛋白質に「翻訳」されることは高校の生物でも習う基本事項です。それはいいのですが、なぜ”ドグマ”なのでしょう。

 ドグマとは我々社会学(というか人文系の科学)を学んだ者からみれば「真実」を表す表現ではありません。例えば、カルト宗教の教義などを指すときに用いる、明らかにうさん臭さの伴う考えのことを指します。たしか栗本慎一郎さんが似たようなことを指摘していたと思うのですが、ドグマなどと言わず、生命科学の真理であるのなら「rule」とか「law」とか、あるいは「principle」または「theory」などでいいわけです。なぜ、いかがわしい意味がつきまとうドグマなどという言葉が用いられたのでしょう。この理由として栗本さんは「いずれ遺伝情報の流れが一方通行でないことが判ると考えられていたからだ」と指摘されていました。

 そして、栗本さんの指摘どおりセントラル・ドグマは”破られ”ました。つまり「例外」があったのです。セントラル・ドグマと呼ばれていた生物学の常識を破ったのは何を隠そう「レトロウイルス」です。まだ生命科学の文献は英語で読んでいなかった当時の私でさえも「レトロ」が懐古趣味のレトロでないことくらいは分かりました。ですが、このレトロという響き、ドグマと同様、どこかワクワクしてこないでしょうか(私だけでしょうか)。

 ワクワクする言葉はドグマ、レトロだけではありません。レトロウイルスのレトロはreverse transcriptase、つまり「逆転写酵素」からきています。この「逆転写」、そして「逆転写酵素」という響きもどこか魅惑的に感じられないでしょうか。「ドグマ」「レトロ」「逆転写(酵素)」とくると、なんだかこれまで体験したこともない不思議な時空間に放り出された気分にならないでしょうか(私だけでしょうか)。

 まだあります。逆転写酵素はレトロウイルスの持つ遺伝子によってつくられます。その遺伝子には3種類あり、それぞれの名前を「ギャグ(gag)」「pol(ポル)」「env(エンヴ)」というではないですか。ギャグ、ポル、エンヴというこの響きも妙にワクワクしてこないでしょうか(私だけでしょうか)。

 そういうわけで、セントラル・ドグマを打破したのは人間ではなくウイルスであり、そのウイルスに関連した用語が、レトロ、逆転写(酵素)、ギャグ、ポル、エンヴというのです。誰からも理解してもらえないと思いますが、これらの言葉の響きが「もっと詳しく学びたい!」という私の気持ちを強くしたのです。

 話はまだ続きます。先に述べたように、私にとってドグマという言葉には「本当は正しくないけれど人々が信じ込まされている誤った考え」というイメージがあります。その「誤った考え」を暴いたのがレトロウイルスです。ということは、ここまでを振り返れば、レトロウイルスとは「正義の味方」のようなイメージになります。

 ところが、90年代前半も今も、レトロウイルスの代表といえばHIVです。逆転写酵素を”武器”に、ギャグ・ポル・エンヴの”三兄弟”を引き連れて、セントラル・ドグマに”戦い”を挑んで”真実”を暴いたレトロウイルスの”本性”は人間を死に至らしめるHIVだったのです。しかもその方法が、逆転写酵素を使って「ドグマ」を打破し、自らのRNAの遺伝子をDNAに変換した上で人の遺伝子のなかに忍び込ませるというなんとも巧妙な手口を駆使するのです。 

 このように、レトロウイルスの存在は90年代前半、つまり医学部受験を考える前の時期の私にとって衝撃的な「遺伝子に関する出来事」だったのですが、当時、世間では遺伝子といえば別のことが話題をさらっていました。リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』です。ドーキンスによれば、人間の行動はすべて遺伝子に支配されていて、一見利他的に見える行動(「人間らしい行動」と呼べるかもしれません)はすべて遺伝子が規定したものであり、実際には利他的でも何でもなく、遺伝子にとって有利なものに他ならないというのです。

 そんなことがあってもいいのでしょうか。私がそれまでの人生で感動を覚えていた親友や先輩の仁義ある行動が、あるいは当時のパートナーの献身的な行為が、その人たちの遺伝子が利己的に決めたものだとでも言うのでしょうか。しかし『利己的な遺伝子』を読めば(和訳版で読みました)ドーキンスの理屈は間違ってなさそうです。

 少し前まで、社会学や人類学を極めれば人間の感情・思考・行動といったものが解き明かせるに違いない、ひいては人間は何のために生まれて来たのかが解明できるに違いない、と考え、私は社会学部の大学院進学を目指していました。しかし、ドーキンスの理屈を拡大して解釈すれば、ヒトの行動はすべて遺伝子で決まることになってしまいます。

 ここまでくればもうあとには引けません。Helen Fisherの『Anatomy of Love』を読んで神経伝達物質が恋愛までも支配していることを知ってしまい、”ドグマ”を打破したレトロウイルスの正体が人間を死に追いつめるHIVであることを知り、そして、ドーキンスからは「人間の利他的な行動なんて本当は存在しない」と言われ、それまでの私が培ってきた人間に対する美徳が貶されてしまったのです。こうなれば、私自身がこれらの学問を極めて真実を解き明かすしかありません。

 同時に、当時の私は社会学や人文科学を超えた現代思想や精神分析学への探求も続けていました。ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ドゥルーズ=ガタリなどの書籍に触れ、難解ながらも解読することを試みていたのです。

 そういった書籍を原書(仏語)でマスターし、興味を持ち始めたばかりの生命科学を極め、そしてこれらを”融合”すれば、すべてが解き明かされ「人間の正体」が解明できるのではないか、そしてそれを白日の元に晒すことが私が目指す道ではないか。そんな大それたことは成功しないにしてもそれを突き詰めることが自分が進むべき人生ではないか、と思うようになっていったのです。

 そして医学部を受験し合格しました。当時の私は臨床すなわち医者になることにはまったく関心がなく、入学と同時に基礎医学の分厚い原書を大量に買い込み、仏語の勉強を基礎から始め、少しのアルバイトと友達とたまに会う時間を除けば学問に没頭する日々に耽溺していきました。その後挫折することになるのですが……。

 

 

 

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2025年2月13日 木曜日

2025年2月13日 睡眠薬により脳内に老廃物が貯まるメカニズム

 「睡眠薬には初めから手を出さない方がいい」と当院では言い続けています。この表現は医療者からは嫌がられます。「睡眠障害で苦しんでいる人を余計に苦しめるではないか!」というのが彼(女)らの主張です。ちょうど、「覚醒剤は初めから手を出さない方がいいと」言うと「そんなことを言えば覚醒剤依存症の患者を傷つけるではないか!」という理屈と同じです。

 当院でも大勢の覚醒剤依存症、睡眠薬依存症(≒ベンゾジアゼピン依存症)、その他依存性薬物の依存症の人たちを診てきましたから(今も診ていますから)、依存性物質摂取者をまるで犯罪者のようにみることには反対しますが、かといって最初に手を出す”敷居”を低くすることにはそれ以上に反対します。睡眠薬も覚醒剤も(どうしても必要という場合を除いて)初めから手を出さないのが最善なのは自明だからです。もちろん、「どうしても必要」という場合があるのは事実ですが、それでも危険性を知った上で摂取すべきです。

 科学誌「Cell」2025年2月6日号に興味深い論文が掲載されました。「ノルエピネフリンを介した緩やかな血管運動が睡眠中のグリンパティック・クリアランスを促進する(Norepinephrine-mediated slow vasomotion drives glymphatic clearance during sleep)」です。

 この論文を理解するにはタイトルに含まれる「グリンパティック・クリアランス」を押さえておかねばなりません。グリンパティック・クリアランス(Glymphatic clearance )とは、簡単に言えば「脳内の有害な老廃物が除去される際のプロセス」となります。つまり、このプロセスを経て脳内の老廃物が取り除かれるというわけです。もしも老廃物が脳内に残留したままであれば認知症やその他脳疾患のリスクが上昇するわけです。

 この論文は2つの画期的な事象を証明しました。1つは「グリンパティック・クリアランスがうまく働くにはノルエピネフリンが血管に働きかけるプロセスが必要である」、もう1つは「睡眠薬がこのプロセスを妨げる」です。

 脳の老廃物を取り除くには脳脊髄液(CSF)が循環しなければなりません。その循環には脳の血管がリズミカルに収縮することが必要です。そして、その収縮は脳内神経伝達物質のノルエピネフリンが担います。そして、そのノルエピネフリンは脳の青斑核(locus coeruleus)から放出されます。簡単に言えば次のようになります。

 青斑核 → ノルアドレナリン → 脳内の血管のリズミカルな収縮 → 脳脊髄液の循環

 これを覚醒時と睡眠時で比較すると次のイラストのようになります(この論文のページにあるイラストです)。

https://www.cell.com/cell/fulltext/S0092-8674(24)01343-6

 論文によると、このプロセスはノンレム睡眠(NREM sleep)のときに生じます。そして睡眠薬ゾルピデム(=マイスリー)がこのプロセスを破壊することをこの論文は示したのです。

 もっとも、睡眠薬を使用すれば”深い睡眠”が得られるのは事実です。特に、ゾルピデムのような超短時間型の睡眠薬は「さっと効いてさっと切れる」ために、朝の目覚めも爽快です。だからクセ(=依存症)になるわけですが、実際には重要なクリアランスができなくなってしまっているわけです。

 反対する意見もありますが、ゾルピデムは認知症のリスクを33%上昇させることを示した台湾の研究があります。ゾルピデムのせいで我が子を殺害した40代の母親の話は過去に紹介しました。これらの原因が、ゾルピデムにより上記クリアランスが適切におこなわれなかったことにあると考えるのが自然ではないでしょうか。

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2025年2月11日 火曜日

第258回(2025年2月) 認知症のリスクを下げる薬

 周知のように認知症自体を治す薬というのはほとんど存在しません。効果よりも費用が話題になるレカネマブ(商品名「レケンビ」)とドナネマブ(「ケサンラ」)の薬価は年間約300万円です。これらは「進行を遅らせる(かもしれない)」薬で、発症リスクを下げてくれるわけではありません。それなりの副作用のリスクも覚悟しなければなりません。

 「認知症のリスクを下げる薬」として現在最も注目されているのはGLP-1受容体作動薬でしょう。これは元々糖尿病の薬として上市されましたが、実際には「やせ薬」として有名になりました。実際、かなりの確率で体重減少が起こります。そのGLP-1受容体作動薬が認知症のリスクを下げるのではないかと期待されています。

 医学誌「eClinicalMedicine」2024年7月号に掲載された論文「スウェーデンの2型糖尿病の高齢者における認知症リスクに対するGLP-1受容体作動薬、DPP4阻害薬、SU薬の有効性の比較:模擬試験研究(Comparative effectiveness of glucagon-like peptide-1 agonists, dipeptidyl peptidase-4 inhibitors, and sulfonylureas on the risk of dementia in older individuals with type 2 diabetes in Sweden: an emulated trial study)」を紹介しましょう。

 研究の対象者はスウェーデン在住で糖尿病の治療を受けている65歳以上の88,381人で、調査期間は2010年1月1日から2020年6月30日。対象者でGLP-1受容体作動薬を処方されていたのは12,351人、DPP4阻害薬は43,850人、SU薬は32,216人。平均追跡期間は4.3年で、この間に認知症を発症したのは4,607人でした。薬ごとにみると次のようになりました。

・GLP-1受容体作動薬:278人 (発症率は1,000人年あたり6.7)
・DPP4阻害薬:1,849人(発症率1,000人年あたり11.8)
・SU薬:2,480人(発症率1,000人年あたり13.7)

 これらを計算すると、GLP-1受容体作動薬を使用すれば、DPP4阻害薬、SU薬のときに比べ、それぞれ、23%、30%認知症発症リスクが低下しています。

 糖尿病の薬ではメトホルミンも認知症のリスクを下げることが指摘されています。台湾の14,558人を対象とした研究では、60歳以上の2型糖尿病患者がメトホルミンを使用すると、認知症を発症するリスクが低下することが示されました。しかも用量が多ければ多いほどリスクが低下します。下のグラフは驚くべき結果を示しています。

 ただ、メトホルミンは認知症のリスクを上げるとする研究もあります。韓国の糖尿病患者70,499人を対象とした研究(2002~2017年)では、メトホルミンを使用すれば認知症発症リスクが50%増加した、とされています。糖尿病の罹患が長ければ長いほど、またうつ病を伴っていればリスクは上がりやすいようです。

 他にも認知症のリスクを下げる薬を紹介しましょう。2008年から2020年に米国ニューヨーク市で診察を受けた約200万人の患者のデータを使用した研究です。認知症のリスクを下げるという結果がでたのは、ロスバスタチン(コレステロールを下げる薬)、シタロプラム及びエスシタロプラム(抗うつ薬)、オメプラゾール(胃薬)でした。意外なのがオメプラゾールです。この胃薬はPPI(プロトンポンプ阻害薬)に分類され、PPIは認知症のリスクになると言われているからです(参考:医療ニュース2019年12月28日「やはり胃薬PPIは認知症のリスクを増やすのか」)。

 もうひとつ興味深い研究を紹介しましょう。1億3000万人以上の患者と100万件の認知症症例のデータを使用した14件の研究を対象とした分析によると、アルツハイマー病や認知症のリスクを増減させる薬を特定することはできなかったものの、抗菌薬、ワクチン接種、抗炎症薬はリスクを低減させることが分かりました。リスクを上げるのは、糖尿病薬、ビタミン・サプリメント、抗精神病薬です。

 この研究結果に頷けるのは、抗菌薬、ワクチン接種、抗炎症薬はいずれも「炎症を軽減する薬剤」だからです。ですから、薬が認知症のリスクを下げるというよりも、感染症を予防して、感染すれば効果的な治療を速やかに開始するのが認知症予防に有効だと考えるべきでしょう。

 ワクチンが認知症を予防するという報告は複数あります。

 2022年に医学誌「Journal of Alzheimer’s Disease」で報告された研究では、インフルエンザのワクチン接種で認知症発症リスクが40%も低減するとされています。研究の対象者は米国の65歳以上で、インフルエンザワクチンを接種した935,887人と、未接種の同じ人数が比較されました。平均年齢73.7歳、追跡期間は46ヶ月です。この間にワクチン接種者では5.1%(47,889人)が、未接種者では8.5%(79,630人)が認知症を発症しました。

 帯状疱疹ワクチンの認知症リスク低減効果も有名です。2024年7月に公表された研究では、生ワクチン、不活化ワクチン(組換えワクチン)ともに認知症発症リスクを低減させることが示されています。

 2023年に医学誌「Journal of Alzheimer’s Disease」に掲載された論文では、三種混合ワクチン(正確にはTdap/Tdワクチン)、帯状疱疹ワクチン、肺炎球菌ワクチンが、それぞれ認知症のリスクをどの程度軽減するかが調べられています。結果、三種混合ワクチンでは30%、帯状疱疹ワクチンでは25%、肺炎球菌ワクチンでは27%、認知症のリスクを低下させるという結果が出ました。

 最後に、「サプリメントで認知症のリスクが下がるかもしれない」夢のような研究を紹介しましょう。2023年に医学誌「Alzheimer’s & Dementia: Diagnosis, Assessment and Disease Monitoring」に掲載された「ビタミンD補給と認知症発症:性別、ApoE、ベースライン認知状態の影響(Vitamin D supplementation and incident dementia: Effects of sex, APOE, and baseline cognitive status)」です。研究の対象者は米国の12,388人です。

 結果、ビタミンDを摂取する人は、しない人と比べて認知症の発症率が40%も低下することが示されました。各グループに差があり、男性よりも女性、軽度認知障害がある人よりもない人、ApoEε4保有者よりも非保有者で認知症予防効果が高いことがわかりました。しかし、それでもハイリスクグループでも予防する可能性があることが示されています。

 これらをまとめると、日頃からビタミンDのサプリメントを摂取し、ワクチンを積極的に接種し、糖尿病になれば早い段階からメトホルミンとGLP-1受容体作動薬を使う、ということになるのかもしれません。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2025年2月6日 木曜日

2025年2月 医師になるつもりもなかったのに医学部に入学した理由(前編)

 「どうして医者になろうと思ったのですか?」という質問はいろんな人たちからもう500回くらいは聞かれたと思います。私の場合、医学部入学時には医師になることなど微塵も考えたていなかったので、この質問に答えるときには「医学部在学中にいろいろありまして……」という答えになります。その内容はこのサイトのどこかにも書いたかもしれませんし、いろんなところで話をしているのですが、「どうして医師になるつもりもないのに医学部を目指したのか」についてはこれまでごく簡単にしか話していませんでした。最近立て続けに医療者からこの質問をされたこともあって、ここでその理由を披露しておきたいと思います。

 私は物心がついた頃から「何のために生きているのか」をずっと考えてきました。「生きる意味」が分からなかったのです。普通の子供はこんなことを考えないわけですが、(このサイトで述べるべきようなことではありませんが)私の幼少時代の悲惨な環境が原因です。もうこの年齢になったから言ってもいいと思うのですが、要するに「まともな家庭ではなかった」のです。他人からは普通の家に見えたかもしれませんが、一言で描写するなら「常に怯えながら過ごさねばならない家庭」でした。だから、物心がついてテレビを見るようになって、一家団欒のシーンなんかを目にすると「こんな世界、本当にあるのかな」と疑っていたほどです。幼稚園の頃、遊びに行った友達の家でその家族が楽しそうに会話しているのをみて絶望的な苦しさに襲われたのを覚えています。

 学校は辛くはありませんでしたし、仲の良い友達もいました。小学生の頃、近所の友達の家に遊びに行ったとき、その日は日曜日でその友達のお父さんが家にいて、今からドライブに行こうと海まで連れて行ってくれました。そんなにも楽しかった経験は生まれて初めてで、「この家族のメンバーにしてもらえないだろうか」と真剣に考えました。同時に「今の家庭で生きていかねばならないのなら、それは何のため?」という疑問が頭から離れなくなりました。中学の時、悪い友達の影響もあって少し道を踏み外しかけたことがあるのですが、結局学校に戻り、高校にも進学し、高3の12月になってからとはいえ猛勉強を開始したのは、とにかくあの町から、そしてあの家から出たかったからです。家を出れば「生きる望みが生まれるかもしれない」と希望を持ったのです。

 高校卒業と同時に志望大学に入学することができた私のそれからの4年間はまさに「酒と薔薇の日々」という感じでした。それまでの不幸な日々を帳消しにするほどの楽しさがありました。この頃に、私自身の人格が形成され(少しは)まともな人間になれたと思っています。今もあの頃共に過ごしていた友達や先輩たちに頭が上がらないのは私をまともにしてくれたからです。「己の身体で勝負せよ」「義理を忘れるな」「損をしてでも筋を通せ」「裏切られても裏切るな」などはすべてこの頃に学んだことです。人生で大切な99%を最初の大学4年間で教わったのです。

 大学とは勉強するところではありますが、ほとんど興味が持てませんでした。しかし少しずつ、それは本を読む程度ですが、学問というものが面白くなってきていました。とはいえ、大学4回生の頃は「中小企業に入って企業内起業家になりたい」などと言っていましたから大学院に進学することは考えていませんでした。

 ところが、就職してから学問をきちんとしたいという気持が次第に強くなってきました。仕事自体はおもしろかったのですが、入社3年目の途中で「10年後も同じようなことをしているのかな……」という思いがふと脳裏をよぎり、すると突然言いようのない虚しさに襲われたのです。そして、子供の頃からずっと考えていた「何のために生きているのか」という疑問に再び胸が苦しめられるようになりました。その後、自分がすべきことは社会学部に戻って「人間とは何か」を研究することではないか、と思うようになりました。

 それまでの経験で私には人間についていろんな疑問が生まれていました。「なぜ祝祭の時空間では何もかもが破壊されるのに罪に問われないのか」「なぜ何もかも捨てて不倫に走る男や女がいるのか」「なぜ芸術家には同性愛者が多いのか」「なぜ音楽はこんなにも心を平穏にしてくれるのか」「人間にとって本当に大切なものは何なのか」などなど、こういった疑問に対し、当時の私は社会学そして人類学を極めれば人間の本質がみえてくるのではないかと考えました。そして、最終的には自分が生まれてきた意味が分かるのではないかと思えてきたのです。

 そこで大学のゼミの先生のところに向かいました。社会人3年目が終わる頃です。私が取り組みたいことを話すと、「君に適した教授がいる」とのことでその教授に手紙を書いてくれました。今度はその教授のところに向かい、自分の思いを伝えました。一年後の大学院の試験を受ければいいと助言してもらい、そこから社会学の本格的な勉強を開始しました。難解な論文や英語のテキストを渡されましたが、やる気がみなぎっていましたからいくらでも勉強できました。当時の私はショートスリーパーを自認していたくらいで短い睡眠時間でも平気でした。それまでの会社員時代の3年間とその前の大学生活4年間は朝までクラブなどで踊り明かすのが当たり前のような生活でしたから朝まで勉強するなど何でもなかったのです。

 あるとき、梅田の旭屋書店で米国の人類学者Helen Fisherの『Anatomy of Love』という本を手にしました。世界のどの文化でも「恋愛は4年で破綻する」ことを人類学的に示した書籍です。この本は当時それなりに話題になって邦訳も出ていたのですが、「文献はできるだけ原書で読むべきだ」と考えていた私は原書を選びました。この本がどのような評価を受けていたのかのかはインターネットが登場していない時代でしたからよく分かりませんでしたが、私にとっては頭を強打し意識を失うほどの衝撃がありました。古今東西、恋愛が4年で終わるのが人間の真実だとすれば「永遠の愛」は存在しないか、存在したとしても自然に背くことになります。そして恋愛という極めて人間的で個人的な情事にさえも古今東西に共通したルールがあるのなら、人間の本質を規定しているルールや法則は他にも存在するに違いなく、それらを解き明かせば人間の「真実」が見えてくるのではないかと考えたのです。

 この書籍のなかで筆者はとても興味深い指摘をしています。それは、人間が初期の恋愛状態に陥っているときにはフェニルエチルアミン(phenylethylamine)という神経伝達物質が脳内で分泌されているという指摘です。この物質は恋愛の初期にしか分泌されず、その後は別の神経伝達物質に置き換わるとされています。しかし、やがてそれも”枯渇”し、その結果人はこれまで愛していたパートナーに関心がなくなると言います。当時20代前半の私にとって、この見解がどれだけ衝撃的だったか。「♪この世で大切なのは愛し合うことだけと……♪」という流行歌が示すように、恋愛というのは極めて人間的な感情・行動であり、それがまさか化学記号で決められた物質の影響に支配されているなんて、それまでは思いもしなかったわけです。

 恋愛初期のエキサイティングなワクワク感は他に代え難いと言えるでしょう。寝なくても何も食べなくても平気ですし、その相手と同じ時空間にいるだけで世界一幸せだと実感できます。世の中にこれほど素晴らしいものは存在しないと確信し「あなたに出会うためにこれまで生きてきたんだ……」などとどこかの歌詞にあるようなことを本気で思うわけです。この感覚は魂と魂が引き寄せられているからだと感じられ、まさか化学物質に支配されているなんて思いもよらないわけですが、真実は神経伝達物質にあるのでしょうか。

 しかし、実はそれまでに、「ドーパミン」と呼ばれる神経伝達物質が人間の快楽を支配しているという話や、ランナーズハイと呼ばれる現象がエンドルフィンという神経伝達物質によるものであるという話をどこかで聞いていました。ということは、これら神経伝達物質をすべて解明できれば、人間の感情・思考・行動のメカニズムが解き明かされ、それにより「人間はどうあるべきか」、「どのように生きるべきなのか」といったことが分かるようになるのではないかと当時の私には思えてきたのです。

 次回に続きます。

 

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2025年2月6日 木曜日

2025年2月6日 肉食ダイエットはほどほどに……

 8か月間「肉食ダイエット」を続けた40代男性が手のひらが黄色くなったことで病院を受診した事例が症例報告として論文に掲載されました。

 その論文は「JAMA Cardiology」2025年1月22日号に掲載された「肉食を摂る男性の黄色い結節(Yellowish Nodules on a Man Consuming a Carnivore Diet)」です。

 症例は米国フロリダ州在住の40代の男性で、8カ月前からいわゆる「肉食ダイエット」を開始し、手のひら、肘、足の裏に黄色い結節が生じ、そこから滲出液が出てきたためにタンパ市の病院を受診しました。

 男性の日々の食生活は、バター1本(約200グラム)、チーズ6~9ポンド(約3~4キログラム)、及びハンバーガーのパテで、血中総コレステロール値はなんと1,000mg/dLを超えていたそうです。

 ただ、男性は「体重が減り、エネルギーが増し、頭がすっきりした」と報告し、この肉食ダイエットを実施したことに後悔はしていないようです。

 この男性の手のひらの写真が「New York Post」に掲載されていますので貼り付けます(下記タイトルにリンクを貼っています)。

Man who only ate cheese, beef and sticks of butter for 8 months suffers shocking side effect

 「New York Post」によると、肉食ダイエットの熱心な信者は蛋白質摂取を信条とし、野菜も含め他の栄養素を摂らず、この食生活が体重を減らし健康状態を改善するのに役立つと主張しているとのことです。

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 この症例報告を読んで私が思い出したのは、2016年に他界したジャーナリストの桐山秀樹さんです。糖質制限を自ら実践し、その極端な食事療法を絶賛する著書も出版されていましたが、若くして心筋梗塞で亡くなりました。正式に公表されたわけではありませんが、心筋梗塞の原因は極端な糖質制限のせいでLDLコレステロールが高値だったことではないかと推測されています。

参考:はやりの病気第182回(2018年10月) 糖質制限食の行方 その3

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2025年1月30日 木曜日

2025年1月30日 コーヒーは頭頚部がんのリスクを減らし紅茶は喉頭がんのリスクを上げる

 首から頭部にかけての複数の臓器のがんをまとめて「頭頚部がん」と呼ぶことがあります。具体的には、口腔がん、咽頭がん(上咽頭がん、中咽頭がん、下咽頭がん)、喉頭がん、鼻腔がん、副鼻腔がん、唾液腺がんなどです。GLOBOCANというデータベースによると、このなかで最も多いのが口腔がん、次いで喉頭がん、上咽頭がん、中咽頭がん、下咽頭がん、唾液腺がんと続きます。世界全体では毎年約89万人に頭頚部がんが見つかり、毎年約45万人が死亡しています。頭頚部がんによる死亡者はがん全体の死亡者の約4.5%を占めています。

 頭頚部がんについてまとめられた2023年の論文によると、頭頚部がんは「世界で7番目に多いがん」とされています。発症因子はかなりはっきりとしていて、タバコ、アルコール、ビンロウ(台湾の路上で見かける血を吐いたような唾液が出る実です)、HPV感染です。先進国ではすでにHPV関連の頭頚部がんがタバコやアルコールによるがんを上回っています。

 今回紹介したいのは「リスク」でなく「リスクを下げる因子」で、それがコーヒーと1日1杯未満の紅茶です。医学誌「Cancer」2024年12月23日号に掲載された論文「コーヒーと紅茶の摂取と頭頸部がんのリスク:国際頭頸部がん疫学コンソーシアムにおける最新の統合分析(Coffee and tea consumption and the risk of head and neck cancer: An updated pooled analysis in the International Head and Neck Cancer Epidemiology Consortium)」から引用します。この研究は、これまでに公表されている14件の研究から9,548 件の頭頸部がんの症例と15,783件の対照例を元に分析したものです。結果は次のようになります。

・カフェイン入りコーヒーを1日4杯以上飲む人は、まったく飲まない人と比較して、頭頚部がんのリスクが17%低い。口腔がんのリスクは30%、中咽頭がんのリスクは22%低い

・カフェイン入りコーヒーを1日3~4杯飲む人は、下咽頭がんのリスクが41%低い

・カフェイン抜きのコーヒーを飲むか1日1杯未満のカフェイン入りコーヒーを飲む人は、口腔がんのリスクが25%低い

・紅茶を飲む人は、下咽頭がんのリスクが29%低い

・紅茶を1日0~1杯飲む人は、頭頚部がんのリスクが9%、下咽頭がんのリスクは27%低い

・紅茶を1日1杯以上飲む人は喉頭がんのリスクが38%高い

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 カフェイン抜きのコーヒーでもリスク低下がみられたのはおそらくコーヒーに含まれるポリフェノールの影響でしょう。

 コーヒー好きの人はいいとして紅茶派の人たちはこの結果に戸惑うのではないでしょうか。「1杯以下ならOKで、1杯以上は喉頭がんのリスクを上げる」というのですから。なぜ、咽頭がんのリスクは下がるのに喉頭がんは上がるのでしょう。咽頭は熱に強くて喉頭は弱いということなのでしょうか。だとすると、紅茶はコーヒーに比べて熱い温度で飲んでしまうのでしょうか。

 いずれにしても頭頚部がん予防のためにコーヒーや紅茶を飲むのは筋違いだと思います。リスクを下げたいなら、禁煙、禁酒/節酒、台湾(だけではないですが、私は台湾でしか見たことがありません)渡航時にはビンローを買わない、そしてHPVワクチン接種を検討する、ということになるでしょう。

 

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