はやりの病気
第80回 くも膜下出血と脳ドック 2010/4/20
最近、頭痛を訴える患者さんが増えてきたな、と感じていたのですが、この原因はどうやら読売ジャイアンツの木村拓也コーチがくも膜下出血で他界されたことと無関係ではなさそうです。実際、当院だけでなく、総合内科や総合診療科の外来がある医療機関では、大学病院も含めて、「自分の頭痛の原因はくも膜下出血ではないか」と考えて受診する人が急増しているそうです。
くも膜下出血は、緊急処置(手術)を要する脳外科的疾患でみると、比較的よくある疾患です。全体の頻度でみれば、脳梗塞や脳出血の方が多いでしょうが、これらは高齢者に多いのに対し、くも膜下出血は年齢に関係なくおこります。したがって、我々医師は、救急の現場にいるとき、比較的若い年齢で激しい頭痛を訴えて救急搬送された患者をみた際に、まず考える疾患のひとつがくも膜下出血なのです。特に、外傷のエピソードがなく、これまで経験したことのない激しい突然の頭痛、などと言われれば、患者さんが到着するまでにCT撮影の準備をしておきます。
しかし、くも膜下出血の患者さんがいつも激しい頭痛を有しているかというとそういうわけでもありません。それほど痛がっていない場合もありますし(「病院に来るべきかどうか悩んでいた」と言われることもあります)、数日前から頭痛が続いていると言われて受診することもあります。若い人にときどきあるのが、例えばスノーボードで転倒してから次第に頭痛を自覚するようになったというようなケースで、この場合、このスノーボードのエピソードを聞きだせるかどうかが、診断のポイントになってきます。
くも膜下出血という病名は、(少なくとも同じ脳外科領域の出血性の疾患である急性硬膜外血腫や慢性硬膜下血腫に比べると)、比較的よく知られていると思われます。しかし、病名が有名な割にはその病態は意外に知られていないように思われますので、まずは、くも膜下出血はどのようにして起こるのかについて確認しておきましょう。
脳は外側から硬膜、くも膜、軟膜の3つの膜で覆われています。そして、くも膜と軟膜のすき間はくも膜下腔と呼ばれています。(硬膜とくも膜のすき間は硬膜下腔と呼ばれます) くも膜と軟膜は密着しておらず、無数の線維の束で結ばれています。そしてその入り乱れた無数の線維がクモの巣に似ていることからこの真ん中の膜が「くも膜」と呼ばれているというわけです。(参考までに英語で「クモの巣」はspider webですが、植物学用語では「クモの巣」の形容詞はarachnoidとなります。そしてくも膜の英語はarachnoid membraneです)
くも膜下出血の原因で圧倒的に多いのは、脳動脈の一部が膨らんでできた動脈瘤(どうみゃくりゅう)の破裂によるものです。動脈瘤というと言葉がむつかしいですが、要するに脳を走っている動脈にできたコブです。このコブの壁は、普通の血管壁に比べると、構造がもろく高圧に耐えられないために、何かの拍子に血圧が上がったときに一気に破れてしまうのです。これがくも膜下出血のメカニズムです。
先に、「数日前から頭痛が続いている」という例を挙げましたが、この場合、一気にコブが破れたのではなく、少しずつコブから出血が起こっていた可能性があります。(これを「警告出血」と呼びます) また、先にあげたスノーボードの例では、動脈瘤がなく外傷を機転としています。これを動脈瘤の破裂によるものと区別して「外傷性くも膜下出血」と呼ぶこともあります。
木村コーチはシートノックの最中に倒れたようですが、一部の報道によりますと、前日から頭痛でほとんど眠れなかったと関係者に証言していたそうです。強靭な体力と精神力を有しているプロスポーツ選手ですから、普通の人なら耐えられないような痛みを隠してノックをしていたのかもしれません。
さて、先ほど、便宜上「何かの拍子に血圧が上がったときに」と述べましたが、脳動脈瘤が破れてくも膜下出血をきたした人は、何か特別なことをおこなっている最中にコブが破れたとは限りません。これまで私が救急の現場でみてきた患者さんたちも、食事中に、デスクワークをしているときに、夕食後テレビを見ているときに、などというケースもありましたから「○○をするときには気をつけましょう」という具合に予防できるわけではないのです。もっとも、高血圧、喫煙、過度の飲酒などがあればコブが破れるリスクが高くなるのは事実です。
では、事前にくも膜下出血を防ぐにはどうすればいいのでしょうか。単純に考えれば、まずは自分にその血管のコブ(脳動脈瘤)があるのかどうかを調べてみよう、ということになります。実際、脳ドックの1つの目的はこのコブの有無を調べることです。
となると、いったいどれくらいの割合の人がこのコブを持っているのかが気になりますが、だいたい人口の5%程度だろうと言われています。(最近、医療技術が向上し、より小さなコブも見つけられるようになったことと、脳ドックを受ける人が増えたことで、見つかる人が増えて5%よりも多いのではないかと言われることもあります)
ここでむつかしいのは、その人口の5%の人たちの全員のコブが破れてくも膜下出血が起こるわけではないということです。破れていないコブ(これを「未破裂脳動脈瘤」と呼びます)が、どれくらいの確率で破れるのか、というのは昔からよく議論されていて、私が学生の頃は、「1年間に破裂する確率はだいたい1%程度」と習いました。
しかしながら、この1%という数字は信憑性が乏しく実際はこれよりもずっと少ないのではないかと言われることが増えてきています。日本脳神経外科学会が立ち上げている未破裂脳動脈瘤悉皆調査(UCAS)のウェブサイトでは、「未破裂脳動脈瘤の破裂する正確な率は不明」とした上で、1998年の国際報告を引き合いに出しています。その報告によれば、1センチ以下のものでは破裂率は年間0.05%、1センチ以上のものでは年間0.5%、となっています。
では、たまたまMRIを撮影したり、脳ドックを受けたりして、自分の脳にこのコブが見つかってしまったときはどうすればいいのでしょうか。「くも膜下出血を発症する前にこのコブを治療してしまおう」というのも1つの考え方です。発症前に治療をしてしまえば、くも膜下出血を発症するリスクはかなりゼロに近づくでしょう。
不幸なことに木村コーチが他界されたように、くも膜下出血というのは重篤化する病気です。くも膜下出血を発症したとき、元通りの生活に戻れる人は3分の1程度だろうと言われています。そして3分の1が死亡、残りの3分の1は、命は助かるものの寝たきりや麻痺といった後遺症を残します。
では、そんな重篤な疾患のリスクがあるなら積極的にコブの有無を調べて、もしもあればすぐに手術をすればいいじゃないか、と考えられるかもしれません。しかしながら、手術にはリスクが伴います。
全身麻酔の下、開頭し、脳外科医が顕微鏡を用いてコブまでたどりつき、コブの根元にクリップをかけます。これでコブには血液が流れなくなり出血をきたす可能性が極めて低くなります。この手術を「脳動脈瘤クリッピング術」と呼び、コブの治療では最も一般的なものです。他の治療法としては、「コイル塞栓術」と言って、太ももの太い血管から管を入れて、その管の先端を脳動脈のコブまでもっていき、管からやわらかいプラチナ製のコイルをコブに流し込んで詰めてしまうという方法があります。どちらの方法でも、コブができている場所にもよりますが、治療は極めてむつかしくベテランの脳外科医にしかおこなうことができません。(「コイル塞栓術」は放射線科医がおこなうこともありますが、いずれにしても極めて難易度の高い治療法です)
脳ドックなどでたまたま脳動脈のコブを見つけてしまったときに手術をすべきかどうか・・・。これには絶対的な正解がないというのが現状でしょう。実際には、その人の年齢、既往(過去にどんな病気をしているか)、血縁者にくも膜下出血を発症した人がいるか、高血圧の有無、その人にとっての全身麻酔のリスク、コブの位置と大きさ、などによります。場合によっては、脳外科医の間でも意見が分かれることがあるかもしれません。
もしもコブが見つかったらどうすべきか、また、それ以前にそもそも脳ドックは果たして受けなければいけないものなのか、という問題もあります。少なくとも、現在無症状で血縁者にくも膜下出血を起こした人がいないのであれば、慌てて調べる必要はないでしょう。
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