はやりの病気
第141回(2015年5月) マラリアで死んだ僕らのヒーロー
そろそろ蚊の心配をしなければならないシーズンとなりました。昨年(2014年)はデング熱の日本で日本人が感染した症例が69年ぶりに報告され、最終的には150人以上に確定診断がつきました。デング熱を媒介するヒトスジシマカは冬になると姿を消しますが、夏前には出現しますから、そろそろ対策を立てなければなりません。
ヒトスジシマカが媒介するやっかいな感染症にはチクングニア熱もあります。私自身は、将来的にはデング熱よりもチクングニア熱の方がむしろ重要になるのではないかとみています。(詳しくは下記「はやりの病気」を参照下さい)
デング熱もチクングニア熱も、ウイルスを媒介する蚊はヒトスジシマカだけではなくネッタイシマカもあります。ネッタイシマカはデング熱もチクングニア熱もヒトスジシマカよりも人に感染させる可能性が高いことがわかっています。しかし、ネッタイシマカは文字通り「熱帯」に生息していますから現時点では日本にはいません。ただ、台湾で確認されていることから、今後沖縄や奄美諸島に上陸する可能性は充分にあります。
さて、今回お話したい蚊はヒトスジシマカでもネッタイシマカでもなく「ハマダラカ」という蚊です。現在この蚊は日本にはいません(注1)。中国を含むアジア、アフリカ、中南米に生息しており、世界三大感染症のひとつであり年間60万人以上を死に至らしめるマラリアを媒介する蚊です。(ちなみに三大感染症のあとの二つは結核とHIVです)
海外渡航をしない人や、するとしても欧米やオセアニアにしか行かないという人にはマラリアはほとんど縁がないでしょうが、アジア、アフリカ、中南米に渡航する人は充分な対策を立てなければなりません。とはいえ、例えば上海やバンコクに短期旅行や出張に出かけるという人は特に対策を立てる必要はありませんし、長期滞在の場合でも、例えば休日にジャングルを探検するといったようなことをしなければハマダラカに対する特別のことをする必要はありません。
ただし、これらの地域にはデング熱やチクングニア熱はありますから、一般的な蚊(つまり、ネッタイシマカやヒトスジシマカ)の対策は必要です。今回は、その「一般的な蚊の対策」に加え、「マラリアに対する予防・治療」の話をしたいと思いますが、その前に、マラリアを語るときにどうしても外せないある日本人の話をしたいと思います。(「どうしても外せない」というのは私が勝手に思っているだけで、今からする話を医療者から聞いたことはありません・・・)
『快傑ハリマオ』というヒーローをご存知でしょうか。1968年生まれの私で名前を知っている程度というか、私が子供の頃は『月光仮面』と対比されて語られていたような記憶がかすかにあります。wikipediaで調べてみると「1960年4月から1961年6月まで日本テレビ系で放送」という記載がありました。再放送で観たかどうかも記憶になく、私の世代にとっては「昔のヒーロー」という印象です。
そのハリマオが実在した人物ということを私が知ったのは大人になってからです。そして、そのハリマオこと谷豊(たにゆたか)という日本人がマレーシアでマラリアに罹患し他界したことを知ったのは医学部に入学してからです。
谷豊は1911年に福岡県で生まれ、2歳の時に一家で現在のクアラトレンガヌに移住しています。クアラトレンガヌは(私は訪ねたことがありませんが)マレーシア半島の東海岸に位置する都市で、クアラルンプールからは飛行機で1時間程度で着きます。当時はイギリス領でした。
谷豊は5歳の頃に日本に帰国し日本の小学校に入りますが、13歳の頃には再びマレーシアに渡り10代を過ごします。20歳になったとき徴兵検査を受けるために帰国するのですが、不合格になったそうです。この理由は諸説あり、谷豊自身が天皇制に反対していたとするものもあれば、身長が足らなかったとするものもあります。
同時期に悲劇が起こります。谷豊が日本滞在中に満州事変が起こり、マレーシアにいる華僑が排日暴動を起こし、なんと谷豊の妹が暴徒と化した華僑に斬首されたのです。しかも暴徒は妹の首を持ち帰りさらしものにしたそうです。
日本でこれを知った谷豊は怒りに身を任せ単身マレーシアに乗り込みます。そして10代を共に過ごしたマレー人の若者たちと徒党を組み、華僑の悪党たちを襲撃する盗賊団を結成しリーダーになります。これが『快傑ハリマオ』の原型です。マレー語をほぼ完璧に話し、すでにイスラム教に帰依している谷豊は日本人ではなくマレー人と思われていたそうです。ハリマオとはマレー語で「虎」を意味するそうですが、盗賊団のリーダーをしていた頃にハリマオと呼ばれていたかどうかには諸説あり、死後に英雄視する見方が広まりその頃に伝説の人物として「ハリマオ」という名が後からつけられたとする説が有力です。
『快傑ハリマオ』として描かれている姿と実際の谷豊にはギャップがあるでしょうが、大勢のマレー人から慕われていたのは間違いなさそうです。谷豊は日本陸軍の諜報員として活躍していたのも事実ですが、このあたりの話はここではやめておきます。(興味のある方は下記参考文献①を読んでみて下さい)
谷豊の最期はマラリア感染です。当時もキニーネというマラリアの特効薬があったそうなのですが、谷豊は「白人のつくった薬は使いたくない」と言い、最後まで拒否し30歳で他界したそうです。作家の下川裕治氏は、谷豊の墓を探してクアラトレンガヌを訪れ紀行文を書いています。(興味のある方は下記参考文献②を読んでみて下さい)
さて、マラリア対策ですが、まずは渡航する地域がマラリアの可能性がある土地かどうかを調べるところから始めます。先に、上海やバンコクでは心配しすぎる必要はない、と書きましたが、私はタイの医療者からバンコクでもマラリアが発症することがある、という話を聞いたことがあります。大都市滞在のみでも、マラリアの予防薬内服までは不要ですが、「一般的な蚊の対策」は必要です。
一般的な蚊の対策としては、ホテル滞在なら蚊取り線香で充分でしょう。私はリキッドタイプのものを日本から持参します。部屋にバルコニーがついていればバルコニーには従来型の火をつけるタイプの蚊取り線香を使います。こういった蚊取り線香は現地で調達するという方法もありますが、私は日本から持参しています。(リキッド型は電源がいるために電圧変換器も持参します)
屋外に出るときは、ジャングルまで行かなくても、森や山、あるいは海岸に行くときにはDEETと呼ばれる蚊の忌避剤を使います。私はスプレー型のものを用いていますが、クリームタイプやローションタイプのものもあります。蚊取り線香は日本から持参しますが、DEETについては私は現地のコンビニや薬局で購入しています。日本のDEETは濃度が薄いために不充分である可能性があるからです。ただし、(幸いにも私は大丈夫なのですが)海外製のDEETはかぶれやすいと言う日本人は少なくありません。そのような人は日本製のDEETを使うか、それも使えない人はシトロネラと呼ばれるレモングラスに似た植物からつくられた一種のアロマを繰り返し塗ることになります(注3)。
ハマダラカが多数生息している地域でなければこういった一般的な蚊の対策で充分ですが、マラリア罹患率が高い地域に短期間渡航するときには、予防薬を内服すべきこともあります(注2)。
運悪くマラリア原虫を宿したハマダラカに刺されてしまい、高熱や皮疹などそれらしき症状が出現した場合は早急に医療機関を受診しなければなりません。マラリアにも種類があり、どのタイプかで重症度が変わりますが、早期発見できて早期治療ができれば治癒が期待できます。谷豊が拒否したというキニーネは最近ではあまり使われず、キニーネよりもよく効いて副作用の少ない薬剤が用いられます。ワクチンは現時点ではありませんが、近い将来登場する可能性はでてきています。
しかし、マラリアで最も重要なことは蚊(ハマダラカ)に刺されないようにすることです。もしも谷豊がそのときハマダラカに刺されなかったとすると、大勢のマレー人を従えたハリマオの活躍で太平洋戦争の歴史が変わったかもしれません。
一匹の蚊が日本の運命を変えた・・・、と言えなくもありません。
注1:正確に言えば、沖縄にはハマダラカは生息しています。しかし、現在マラリアはおらず、現在沖縄に生息しているハマダラカに刺されてもマラリアを発症することはありません。
注2:具体的な予防薬については当院のウェブサイトの下記を参照ください。
http://www.stellamate-clinic.org/kaigai/#__question_6__
注3(2016年12月25日追記): 最近は「イカリジン」が注目されています。2016年後半より高濃度のイカリジンが発売されています。また、DEETも2016年後半より日本でも高濃度のものが入手できるようになりました。詳しくは下記を参照ください。
旅行医学・英文診断書など → 〇海外で感染しやすい感染症について → 3) その他蚊対策など
参考文献:
①『マレーの虎ハリマオ伝説』中野不二男著 (文春文庫)
②『アジアの日本人町歩き旅』下川裕治著 (新人物文庫)
参考:
医療ニュース「デング熱騒ぎで報道されない2つの重要なこと」(2014年9月5日)
医療ニュース「米国国内で蚊からチクングニアに感染」(2014年8月18日)
はやりの病気第126回(2014年2月)「デング熱は日本で流行するか」
はやりの病気第133回(2014年9月)「デングよりチクングニアにご用心」
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