はやりの病気

2015年1月23日 金曜日

第137回(2015年1月) 脳振盪の誤解~慢性外傷性脳症(CTE)の恐怖~

 2014年の「感動した出来事」に、フィギュアスケートの羽生結弦さんの健闘をあげる人が少なくないようです。特に2014年11月8日に上海で開かれた大会で練習中に中国選手と激突し、頭部から出血ししばらく起き上がれなかったものの、自身の強い意志で予定通り出場し2位を獲得したことは日本中に大きな感動を呼びました。

 しかし、当初から関係者の間では「出場させるべきではなかった」という声が少なくありませんでした。脳振盪というのは、主にスポーツなどで頭部を強打した直後に一時的に意識がぼーっとする状態になることを言います。かつてはそれほど重視されていませんでしたが、後で詳しく述べるように、ここ数年は、特にアメリカで最も注目されている疾患のひとつと言えます。

 脳振盪というのは、スポーツなどで頭部に外力が加わり、一時的に意識障害を来すものの障害は一過性である、というのがおおまかな定義になると思います。「一過性」であるわけですから、意識が戻れば心配がない、と従来は考えられていました。

 ただし、頭を強打したときには、単なる脳振盪ではなく、「急性硬膜外血腫」や「急性硬膜下血腫」といって頭蓋内に出血が起こり入院・手術が必要になる場合もありますし、あまりに衝撃が強いと「びまん性脳損傷」(「びまん性軸索損傷」ともいいます)といって長期間障害が残ることもあります。急性硬膜外血腫や急性硬膜下血腫の場合はCTで、びまん性脳損傷の場合はMRIで診断をつけます。

 さて、ここまでは私が医学部の学生の頃に学んだことなのですが、今回お話ししたいのは2000年代に入ってから注目されている脳振盪を原因とした脳の疾患についてです。この疾患は「慢性外傷性脳症(chronic traumatic encephalopathy)」(以下CTE)と呼ばれる疾患で、ボクサーに多いことから以前はパンチドランカーと呼ばれていたもののことです。

 最近になって注目されるようになったきっかけは、米国のアメリカンフットボールのスーパースター、マイク・ウェブスターの死亡です。日本のマスコミでほとんど報道されていないと思いますので経緯を簡単に振り返っておきます。

 ウェブスターが死亡したのは2002年9月24日。当初、死因は心疾患と報道されましたが真相は異なっていました。死体を解剖した病理医が、脳皮質にタウ蛋白陽性の神経原線維変化が存在することを見つけたのです。そして、この神経原線維変化は、ボクサーに見られる脳障害と酷似していることをつきとめ、アメリカンフットボールのプレイで頭部への衝撃(つまり脳震盪)が繰り返されたことが病因であるCTEである可能性を疑ったのです。

 ところで、当初心疾患が死因と考えられていた死体の解剖でなぜ脳細胞が詳しく調べられたのでしょうか。それは、引退後ウェブスターが奇妙な行動を取るようになっていたからです。浪費を繰り返すようになり、記憶障害やイライラ・抑うつなどの精神症状が出現し、家を失い、妻には去られ、ついにホームレスにまで転落していました。そこで担当した病理医は認知症を疑い、脳細胞を詳しく調べたというわけです。

 この病理医は解剖の所見を論文にまとめて公表しました。そして脳振盪が従来考えられていたような一過性の軽度のものではなく、ウェブスターにおこったように精神を蝕み悲惨な顛末となるCTEの原因となる可能性を指摘しました。

 ところがNFL(National Football League)が真っ向からこの病理医の見解に反対し、論文撤回を求めました。NFLとしては、アメリカンフットボールが危険なスポーツであると思われることを何としても避けたいという思惑があります。そこでNFLは学者を抱え込み、脳振盪はたいしたことがないんだ、という言わば<初めに結論ありき>の調査をおこなったのです。

 そしてNFL主体の研究チームは、「脳振盪を繰り返し起こしたとしても心配する必要はない」と結論付けました。脳振盪の症状が回復していない時期に、再度衝撃が加わるとsecond impact syndrome(SIS)と呼ばれる後遺症を残す疾患が知られていますが、アメリカンフットボールの選手には生じていないとし、ボクサーに見られるような脳の症状は認められないと強調しました。

 NFL主体のこの論文が審査にも通り堂々と発表されたのは政治的な要因があったのではないかと言われています。また、NFLは潤沢な資金を用いマスコミを誘導し、アメリカンフットボールの脳振盪は心配ないことを世間にアピールするようになりました。となると、ウェブスターを解剖した病理医は世間を騒がせ「誤診」をした医師とみなされることになってしまいます。

 しかし、すぐに立場が逆転することになります。病理医はウェブスターに続く第2例目の解剖結果を発表したのです。2例目は、引退後うつ病を患い2005年に自殺したテリー・ロングというウェブスターの元チームメイトです。脳細胞に、ウェブスターと同様、タウ蛋白陽性の神経原線維が広範な領域に認められたのです。また、脳振盪の危険性に注目していたのはこの病理医だけではありませんでした。全米で次第にアメリカンフットボールの選手の脳振盪がCTEのリスクであるとするデータが集まり出したのです。

 脳振盪がCTEの原因であることがアメリカで広く知られるようになったのは、元プロレスラーのクリス・ノウィンスキーの貢献によるところが大きいようです。自らCTEであることを疑ったノウィンスキーは、脳振盪の危険性を訴えるためにマスコミを利用しました。2007年1月18日、『The New York Times』の第一面に、「自殺の原因は脳障害。アメリカンフットボールが原因で認知症やうつ病が起こる」という内容が掲載され(注1)これで一気に米国民に認知されることになりました。

 この頃から精神症状に苦しめられていた元アメリカンフットボールの選手たちが次々とNFLを訴えることになりました。2013年8月の時点で「脳震盪訴訟」の原告となった元選手の数はなんと4,500人にも達し、それまで脳振盪はCTEの原因でないと真っ向から反対していたNFLも、ついに2009年に自説を撤回し原告の要求に応じることになります。2013年8月、損害賠償総額7億6500万ドル(約918億円)で和解が成立したことが発表されました。

 雑誌『The New Yorker』の2014年1月27日号にオバマ大統領への取材記事が掲載されています。この取材で、フットボール選手のCTEの問題について聞かれたとき、オバマ大統領は「もし自分に息子がいたとすれば、フットボールの選手にはさせない」と発言しています(注2)。

 アメリカで人気のスポーツには、アメリカンフットボール以外に野球(メジャーリーグ)があります。野球はフットボールほど頭部外傷が多くありませんが、それでも脳振盪が起こらないことはありません。2012年12月、元大リーグ選手のライアン・フリールがショットガンで自殺をしました。その1年後の2013年12月、フリールの遺族は、彼がCTEを患っていた事実を公表し全米の野球ファンを驚かせました。

 アメリカの実際の状況を知ることは私にはできませんが、ここまで事実が積み上げられ、NFLが訴訟に応じ、大統領が「自分の息子には・・・」という発言をしているのです。アメリカでは今後コンタクトスポーツをおこなう子どもが減っていくことが予想されます。

 では、日本ではどうでしょうか。私の知る限り、冒頭で紹介した羽生結弦さんの脳振盪の報道でCTEに触れたものはありませんし、それどころかこれまでCTEの文字を一般のマスコミで見かけたことすらほとんどありません。認知症予防に有効かもしれないとされるサプリメントの情報を必死で集めるような国民が、スポーツによるCTEの情報に興味を持たないはずがないと思うのですが、私の知る限り新聞や週刊誌に記事を載せるジャーナリストも見当たりません。

 これは、NFLが当初そうであったように、コンタクトスポーツを回避すべきとする情報が流布することをスポーツ団体が危惧しているのでしょうか(注3)。それともスポーツ関連企業の圧力があるからなのでしょうか。

 コンタクトスポーツには大変魅力があり、自分でやることはないものの、実は私も、ボクシングを初めとした格闘技やサッカー、アメリカンフットボールなどを観戦するのは大好きです。しかし、その選手たちが引退後にうつ病や認知症を患い、さらに自殺を遂行する可能性があると考えると複雑な気持ちになります。

 それぞれのスポーツのCTEのリスクは実際にはどの程度なのでしょうか。アメリカではこれだけ大きな問題として注目されているわけですから、日本も行政主体の大規模調査をおこなうべきではないでしょうか。

注1:『The New York Times』のこの記事のタイトルは「Expert Ties Ex-Player’s Suicide to Brain Damage」で、下記URLで全文を読むことができます。
http://www.nytimes.com/2007/01/18/sports/football/18waters.html

注2:『The New Yorker』のこの記事は下記URLで全文を参照することができます。
http://www.newyorker.com/magazine/2014/01/27/going-the-distance-2

注3:ちなみに日本脳神経外科学会は2013年12月16日付けで「スポーツによる脳損傷を予防するための提言」と題した提言書を公表しています。ただしCTEについての記載はありません。
http://jns.umin.ac.jp/cgi-bin/new/files/2013_12_20j.pdf

また、日本サッカー協会(JFA)はウェブサイトのなかで「メディカルインフォメーション」というページで脳振盪の危険性について指針を公表しています。ただしCTEについての記載はありません。
http://www.jfa.jp/football_family/medical/b08.html

参考:
1.『ジ・エンド・オブ・イルネス 病気にならない生き方』デイビッド・B・エイガス 、クリスティン・ロバーグ 著(日経BP社)

2.医学書院ウェブサイト内のコラム李啓充氏による「続・アメリカ医療の光と影」
http://www.igaku-shoin.co.jp/paperDetail.do?id=PA03060_04

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

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