マンスリーレポート
2017年6月16日 金曜日
2017年6月 「やりたい仕事」よりも重要なこと~前編~
「やりたいことを仕事にしなさい」とか「好きなことで稼ぎましょう」などと言われてもどこか空々しく感じてしまうのは私だけではないでしょう。そのようなセリフは成功者が言えることであって、一生懸命がんばったけど夢が叶わず挫折して、本意でない仕事に従事している人もたくさんいるからです。
ですから、こういったタイトルの本やブログを見つけたとしても実際に役に立つことはあまりない、というのが私の意見です。ひどい場合は成功者の「自慢話」を聞かされるだけです。
今回も前回に続いて「職探しの極意」について述べていきたいと思います。前回も指摘したように「受験」と「就職」はまったく異なります。受験は何といっても本人の努力がものをいいます。もちろん「運」も作用します。そもそも受験を許される家庭環境にいることが「幸運」ですし、たまたま知っている問題が出ることもあります。適当に選んだ選択肢が偶然当たることもあります。
ですが、受験は(難易度にもよりますが)努力なしでは絶対に合格することができません。それも他人よりもずっと努力をしなければなりません。そして、「努力できるかどうか」は、本当に大学でそれを勉強したいのか、その気持ちに比例する、というのが私の考えです。どうしてもその大学で勉強したいという気持ちが強ければ強いほど努力が苦にならずスランプから速やかに脱出できる、ということを拙書で述べました。私の場合、医学部の受験勉強をしていて調子が上がらなかったときは、医学部のキャンパスで勉強している自分の姿を想像したり、あるいは実際に志望校(大阪市立大学)まで出向いて、「このなかの研究室でいずれ働くことになるんだ…」という空想を楽しんだりしていました。こうすると再びやる気がみなぎってくるのです。
一方、就職はそうはいきません。ほとんど、とまではいいませんが、多くは「運」が左右するからです。就職したい会社の前に行って自分が働いているところを想像するようなことを繰り返せば、そのうち不審者として通報されるでしょうし、そもそも会社によっては縁故で大半が決まるところもあります。これがアンフェアだという意見もあるでしょうが、世の中とはそういうものです。賄賂が少ない日本はまだましな方です。また、多くの会社は認めないでしょうが、容姿の見栄えの良さや声の質といった個人の努力ではどうしようもない要因で採用が決まることは多々あります。
芸術やスポーツの分野では、求められる才能や能力も受験とは桁違いに厳しくなります。ある意味「勉強」で生きていく方がラクです。例えば、学年一ピアノが上手だったとして、さらに努力を重ねても将来ピアノだけで食べていける可能性は極めて低いのが現実です。学年一のストライカーがプロのサッカー選手になり、しかも選手時代に一生食べていけるだけ稼げるかというと、これも極めて困難でしょう。
その点「勉強」で勝負するなら、例えば小学生時代の算数の成績が上位3分の1くらいに入っていれば、その後の努力次第では、保護者の理解と支援は必要ですが、理系学部の大学院まで行くことも可能でしょう。そこまでいけばよほどの不景気でない限り、どこかの企業の研究職に就ける可能性は充分にあります。ただし、この会社しかイヤだ、というふうに考えると道はかなり険しくなりますから、どうしてもやりたいこと、を幅広く考えておかなければなりません。
さて、私が考える「職探しの極意」。「やりたい仕事」よりも重視しなければならないことがあるというのが今回の話です。それは、「今、目の前にある仕事が少しでも興味があるなら”卒業”できるまでがんばる」ということです。そしてこれは若ければ若いほど大切なことです。私自身のことを例にとって解説したいと思います。
私はひとつめの大学(関西学院大学)に入学して初めて、おもしろそうだな、と思って始めたのが旅行会社のアルバイトです。動機は極めて不純なもので「タダで沖縄に行きたい」というものです。ですが入ってみてすぐに「これは自分にはムリだ」と感じました。
当時の旅行業界というのは(すべてではありませんが)とても”いい加減”で、現地に着いたけど宿が取れていない、といったお客さんからのクレームは日常茶飯事でした。ここで私のような未熟者は怒っているお客さんの前であたふたするだけで、とてもその場をまとめることができません。しかし、仕事のできる先輩は怒り心頭のお客さんを上手にもてなし、笑いをとり、その後感謝の手紙をもらうのです。宿がなくても、旅館の宴会場に泊めたり、ひどい場合は場末のラブホテルに交渉に行ってそこに宿泊してもらうのです。常識的に考えてこんなことをされてお客さんは納得するはずがないのですが、当時の私の先輩たちはこれくらいのことを当たり前のようにやってのけていたのです。
このような先輩たちの「パワー」を目の当たりにすると、学校の勉強なんかしている場合じゃない、と思わずにはいられません。私はそのアルバイトを辞めるのではなく、こういった先輩たちのいわば「カバン持ち」をするようなつもりで、可能な限りプライベートの行動も共にさせてもらいました。
最初の頃は、そのような先輩たちと一緒にいればいるほど、自分は何もできない人間なんだ…、という劣等感を感じるだけでしたが、そのうちに単純に先輩の「マネ」をすればいいのかも、ということに気づきました。そこで先輩たちがいないところでは、話す中身のみならず、話し方や声の抑揚のつけ方なども真似るようにしてみました。そのうち、「こんなとき〇〇先輩ならこんなふうに言うに違いない。△△先輩ならひとつ”間”を入れてからこう言うかもしれない」などというように考えるようになったのです。
すると、百発百中とまではいきませんが、ある程度はその場で気の利いたことが言えるようになり、コミュニケーションの苦手意識がなくなってきたのです。これは「タダで沖縄に行きたい」と考えてアルバイトを始めた頃にはまったく予想もしていなかった私の「財産」となりました。相手が老若男女どのような人であったとしても、自分とはまったく異なる社会で生きている人であったとしても、初対面で苦手意識を持つことがなくなったのです。医師の多くは初めて接する患者さんと話すときに緊張するといいますが、私にはそれがほとんどないのはこの「財産」があるからです。
過去にも述べたように、大阪で深夜の救急外来をやっていると、泥酔者、暴力的な人、自殺未遂をした人などが次々とやって来ます。ときには「指をつめたから縫ってくれ」と言って受診する「そのスジの人」もいます。夜間の救急外来にやってくる人のいくらかは医療者に暴言を吐きますから、それが辛いと考える医師ももちろんいますが、私の場合、こういったことがほとんど苦痛になりません。これはちょっとマズイな…、と感じたときも旅行会社でのアルバイト時代を思い出し、「〇〇先輩ならどうするかな」というふうに考えます。
そのアルバイトを始めた頃は、百回生まれ変わっても先輩たちにはかなわないな…、と感じていて、それは変わっておらず、当時の先輩たちはいつまでも私の「永遠の先輩」であり、今も私など足元にも及びません。ですが、先輩たちから学ばせてもらった私の「財産」は、その後の人生で何度も私を救ってくれています。
もしも私がそのアルバイトをすぐにやめていれば、自分のコミュニケーション能力は低いままで、きっとまったく異なる人生を歩んでいたに違いありません。私が先輩たちから学んだことはいくら教科書を読んでもわからないことであり、「自分には向いてないから他にやりたいバイトを探そう」と諦めていれば身につかなかったことです。
しかし、その後の私の人生はこの「財産」でいいことばかり…、というわけではありません。関西学院大学を卒業し、満を持して入社したはずの会社で再び挫折を味わうことになります。
つづく。
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|2017年5月11日 木曜日
2017年5月 就職の相談
患者さんから就職の相談をされたときどうしていますか?
少し前、複数の医師と雑談をしていたときに私がふった話題です。そこにいた医師は全員が無言に…。どうやら私は場違いで無神経な発言をしてしまったようです。しばらくして一番ベテランの医師が言うには「そんな相談されない」とのこと。
一方、私は研修医の頃から就職についての相談をしばしば受けています。おそらくこの理由のひとつは、私が医学部再受験の本を上梓したからだと思います。私は今もFacebookやLINEなどのSNSを一切おこなっていませんが、クリニックやNPO法人GINAのサイトから相談メールがよく届きます。数年前までは、就職よりも医学部再受験についての相談が多く、就職については、看護師、作業療法士、臨床心理士といった医療系の仕事についてのものが多かったのですが、最近は医療系以外の相談、例えば大学生から新卒の就職について相談されることもあります。
質問や相談をする人のすべてが私の本を読んでいるわけではありません。おそらく日ごろから「困ったことがあれば何でも相談してください」と言っていることが原因のひとつでしょう。この「困ったことがあれば」というのは、一応は「医療のことで」という前提で話しているつもりなのですが…。恋愛相談を受けることもしばしばあります。以前は恋愛関係の相談はLGBTの人たちからのものがほとんどだったのですが、最近はストレートの人からも寄せられるようになってきました。もちろん私は万能カウンセラーではなく、それほど期待に応えられるわけではないのですが…。
ですが、困っている人を放っておくわけにはいきません。結果として役に立たないことの方が多いのですが、ほとんどの相談に対して返答しています。(一部、明らかにふざけたような質問は無視しています)
話を「就職」に戻しましょう。私がひとつめの大学(関西学院大学)を卒業した1991年はバブル経済真っ只中で「空前の売り手市場」と言われていました。今年(2017年)は、そのバブル時代以上に求人率が高いそうですが、91年当時の方が時代背景もあり企業側が”過剰な”対応をしていました。説明会は高級ホテルの立食パーティが当たり前、入社前に海外旅行を用意する企業や新車一台プレゼントしてくれる会社まであったほどです。ですからよほど「狭き門」の企業を目指さない限りは、就職試験で落ちるということがなかったのです。
また、医師はいつの時代も人手不足ですから、やはりよほどの「狭き門」の病院でない限り、就職できないということはありません。医学部の学生時代のアルバイトも、医学生自体が稀少な存在ですから、どこに行っても珍しがられてすぐに採用ということになりました。
つまり、私は「職を探す」ということについてこれまで一切の苦労をしたことがなく、試験や面接で落とされた経験が一度もないのです。常識的に考えれば、こんな私に就職の助言などできるはずがないのですが、ものすごく都合のいい解釈をすれば、私は「職探しで一度も失敗したことがない男」となるのかもしれません。また、今は人を採用する側にいますから、こんな人はNGでこういう人はOK、ということが多少は分かるつもりです。特に医療職についてはそれなりに助言ができると思います。
では、さっそく私が考える「職探しの極意」を紹介したいと思います。まず「就職」と「受験」は異なります。どちらも「運と縁」が関与しますが、受験に比べて就職はその傾向が桁違いに高くなります。そして、このことを初めから理解しておくべきです。もしも希望しているところに就職できなかったとしても、それはあなたに実力がなかったからではなく「運と縁」がなかったと考えるべきです。就職の場合、新卒時を除けば就職時期は「適宜」となるのが普通です。最近、私の友人が「超」がつくような優良企業に就職が決まりました。めったに中途採用をしない会社です。求人が出た時期と友人が職を探していた時期が”たまたま”重なり、さらに偶然にも他にめぼしい応募者がいなかったようです。
太融寺町谷口医院(以下「谷口医院)」でも、募集して新しい採用が決まり求人活動が終了したそのわずか数時間後に、職歴も志望動機も申し分がなく「是非一緒に働きたい!」と感じる人からの履歴書が届いたということが過去に何度かありました。そして採用した人が、1ヶ月もしないうちに”本性”を現し、とうてい医療者には向いていないことが判り…、仕事のパフォーマンスは最悪で患者さんからのクレームが後を絶たず…、ということも。
一般に(とはいえ、これは特に私に強い傾向があることは認めます)、就職希望者が「未熟ですが一生懸命がんばりますのでお願いします!」と熱意を強く訴え、そして「なぜここで働きたいのか」その理由がまともなものであれば、たとえ、これまでの経歴が不十分であっても、試験の点数が低くても、その熱意が高ければ採用に至ります。逆に「私のこれまでの経験で充分にやっていけます」というような態度の人は、谷口医院では不採用になることが多いといえます。
しかし、この採用方法はときに”裏目”に出ます。一度、面接時に泣きながら「前の職場で辛かった。新たに当院でがんばりたい」と強く訴えた看護師を採用したことがあります。しかし、採用後、最初のうちは多少の”がんばり”を見せてくれたものの、数か月もたてば、言われたことしかしない、言われたことも文句をつけてやらない、という態度に変わっていきました・・・。
ですが、私はこれでいいと思っています。「裏切られても信じることから…」というのが私の考えです。こういう医療者と接した患者さんには申し訳ないですし、開き直るわけではありませんが、もしも当院の医療者が患者さんに不快な思いをさせることがあればそれは私の責任であり、精一杯のフォローをします。
仕事に流動性のあるこの時代、新卒の人も含めて「生涯働き続ける職場」を探す必要はないと思います。では、どのような基準で就職先を探せばいいのか。それは「自分の勉強になるかどうか」だと私は考えています。実際、私自身がそのような観点のみでこれまで仕事やアルバイトを探してきました。(かなり都合のいい解釈をすれば、私が面接や就職試験で一度も落とされたことがないのは、この考えを面接官や雇用者に汲み取ってもらったからかもしれません)
私はこれまでアルバイトも含めれば20以上の職場で働いていますが、面接のときに、「貴社(貴院)のためにがんばります」と言ったことは一度もありません。毎回私が主張するのは「貴社(貴院)で勉強させてください」ということです。もしかすると、こういうことを言う者は少なく「珍しいから」という理由で採用されるのかもしれませんが、これは私の本心です。その企業(や病院)のために働くなどと考えたことはただの一度もなく、私が考えることはただひとつ。「その仕事は自分の勉強になるか」というとても身勝手なものです。
私にとって仕事とは「お金を稼ぐ手段」ではなく「勉強」であり、どこの職場でも少しでも学ぶことを考えます。会社員時代は、英語、貿易事務、マーケティングなどを学ぶ”学校”でしたし、医師になってからはひとりひとりの患者さんが私にとっては「貴重な臨床症例」です。医学部の学生時代、何人かの先生から「患者さんから学ばせてもらえ」と言われ、当時はこの意味がよく分からなかったのですが、医師になってから日々実感しています。よりよい医療をおこなうには教科書だけでは不十分で臨床経験を重ねなければならないのです。
私は、医療者は(それは狭い意味の医療者だけでなく事務職や受付も含めて)、この「患者さんから学ぶ」そして「患者さんに貢献する」という姿勢が絶対に必要だと考えています。医療機関のために働く必要は一切ありません。患者さんから学びそして貢献するというこの精神(私はこれを「医療マインド」と呼んでいます)があれば、必ずやりがいをもって気持ちよく働くことができ、そして患者さんから「感謝」されます。
谷口医院のこれまでのスタッフを振り返ると、「医療マインド」を持っている者は、日ごろから私に患者さんの相談や質問をし、患者さんから感謝の言葉をかけられ、そして”卒業”するときにも患者さんの話をします。逆に、退職時に患者さんの話が一切でてこないスタッフもいます。そういうスタッフは例外なく「医療マインド」がなく、実際、それなりに長く働いたとしても患者さんから感謝の言葉がほとんど寄せられていません。
人のために貢献できる職業は医療者だけではありませんが、医療者は「貢献していること」を日々実感することのできる恵まれた職業だと私は考えています。「医療マインド」は絶対に必要ですが、これを身につけるのに特別な訓練は必要なく、「困っている患者さんの力になりたい」と思うことができればそれで「合格」です。(ですが、簡単そうにみえてこれができない人も世の中にはいるのです)
最後に阪急東宝グループの創始者小林一三氏の言葉を著書『私の行き方』から紹介したいと思います。これを書かれたのはおそらく戦前だと思われますが、今読んでも胸に響きます。
せち辛い世の中ではあるが、生きがいのある生活だとか、人格を認めてもらわなければ困るとか、そういう理屈、それは正しい主張であるとしても、それらの議論にこだわらず、己を捨てて人のために働くのが、かえって向上昇進の近道であると信じている。
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|2017年4月11日 火曜日
2017年4月 なぜ「幸せ」はこんなにも分かりにくいのか
先月のマンスリーレポートで、私はいつも時間に追われる生活を送っているという話をしたところ、それで幸せなのか、という意見を複数の方からいただきました。ある人が「幸せ」かどうかは、幸せの定義によりますし、簡単に結論がでる話ではありません。古今東西、人間はいつも「幸せとは何か」について思索しているわけで、幸せについて論じた書籍は無数にあります。
私にとって何が幸せかはひとまず置いておいて、まずは幸せというテーマになると必ず出てくる「お金」について考えてみたいと思います。
最初に基本的なことをおさえておきましょう。人はお金のために生きているわけではないのは事実ですが、お金がないと生きていけません。これは当たり前のことですが、きれいごとが好きな人のなかには「お金なんてなくてもいい。もっと大切なものがある」と強調する人がいます。また、「自分はお金はないけど幸せだ」という人もいます。こういうセリフ、文脈によっては他人を傷つける無神経な発言となります。
話す相手によっては「お金はない」などと気軽に口にすべきではありません。私はNPO法人GINAの関係でタイによく渡航します。日本にはちょっとないような貧困層の人と話をすることもあります。彼(女)らの「お金がない」というのは、ひどい場合は、「その日に食べるものの確保も困難」というレベルです。そこまで困窮している人は私と継続的に付き合いのある人たちのなかにはそうそういませんが、「冷蔵庫やテレビがない」という人は地方に行けばいくらでもいます。それでも「家族がいれば幸せ」と話す人もいますから、「お金」は最低限必要ですが、お金があればあるほど幸せとは言えない、というのは間違いなさそうです。
お金と幸せについてもう少し掘り下げて考えてみましょう。個人差はあるにせよ、全体でみたときには年収がいくらくらいあれば人は満足できるのでしょうか。
これには有名な学説があります。科学誌『PNAS』に2010年に掲載された、ノーベル経済学賞受賞者ダニエル・カーネマンの論文「高収入で人生の評価が改善しても感情的な幸福は改善しない(High income improves evaluation of life but not emotional well-being)」です。カーネマンによれば、年収が75,000ドル(約900万円)を超えると、それ以上収入が増えても「感情的な幸福」が変わりません。「感情的な幸福」とは、喜び、ストレス、悲しみ、怒り、愛情などの頻度と強さのことです。つまり、「幸福」の基準を高級車や豪華な住宅に求めるならともかく、「感情」を大切なことと考えるなら、その感情を得るのに必要な年収はそんなに高くなくてもOK、ということです。
ですが、年収75,000ドルは低くありません。こんなに稼げる人は世界の5%もいないでしょう。この数字だけをみると、「年収75,000ドルなんて一生かかっても達成できるはずがない。ということは自分は生涯幸せとは縁がないんだ…」と考える人もいるかもしれません。しかし悲観するのはまだ早い。
これは米国の2010年のデータです。日本が世界有数の物価高だったのはバブル経済の頃の話であり、いまや日本は先進国のなかで物価は安い方です。一例をあげましょう。日本なら、都心部に住んでもワンルームマンションは安ければ家賃4万円代の物件があります。一方、アメリカでは、ニューヨークやロサンジェルスでワンルームマンションを探すと30万円近くを覚悟しなければなりません。単純に家賃だけで決められるわけではありませんが、物価を考慮すると、米国の75,000ドルは、日本でいえば年収300~400万円くらいではないでしょうか。
さて、ここで私が以前タイで知り合ったHさんの話をしたいと思います。Hさんは当時40歳くらいの男性で、15年間勤務した一部上場企業を退職しタイにやってきました。タイには「沈没組」と呼ばれる、日本でドロップアウトして安宿に引きこもっている人たちも大勢いますがHさんは異なります。いつも颯爽としていて明るくて話も面白いのです。英語だけでなくタイ語も堪能です。このHさんから聞いた「タイの農夫と日本のビジネスマン」の逸話がとても印象的でした。こんな話です。
タイのイサーン地方(東北地方)の昼下がり。ハンモックに揺られながらのんきにビールを飲んでいる中年男性に、同い年くらいの日本のビジネスマンが近づいた。
日本人:昼間からのんびりしているね。
タイ人:カモとナマズにエサをあげたから今日はもうすることがないんだ。
日本人:へえ、飼育の仕事をしているんだ。たくさん飼っているの?
タイ人:いや、家族と親戚が食べる程度。これで充分だ。夕方になると村の連中が集まってくる。一緒に飲んで騒いで子供たちがはしゃいでいるのをみればそれで幸せだ。
日本人:もっとたくさん飼育して金儲けをすればいいのに。
タイ人:金儲けをしようと思えばどうすればいいんだ?
日本人:そうだな、まず経営のことを勉強する。資金がないなら銀行に借りればいい。事業計画書がきちんとしていればお金を借りることができる。そして会社を立ち上げてこの県一番の食品会社にするんだ。
タイ人:それで?
日本人:次は国際関係も学んで輸出をするんだ。一時的に誰かに経営をまかせて海外留学してMBAをとるのがいい。
タイ人:それで?
日本人:輸出で大儲けすれば次は株式上場だ。
タイ人:それで?
日本人:そうなれば株式を全部売ってしまって億万長者だ。
タイ人:億万長者になれば何ができるの?
日本人:もう勉強も仕事もしなくていい。昼間からハンモックに揺られながらビールが飲めるぞ…。
その後似たような話を何度か聞きました。どうやらこの話は世界的に有名な逸話で、オリジナルは「メキシコの漁師と米国人ビジネスマン」という説が有力です。
Hさんは退職金には手を付けずに、日本で3か月ほど工場で夜勤をして、そのお金を持ってタイなどで残りの9か月を過ごすそうです。ローカルバスに乗り、日本人が行かないような田舎に行ってタイを楽しんでいると言います。
私がHさんと知り合ったのはタイのエイズ問題に関わり始めたばかりの頃で、当時はまだNPO法人GINAの設立も、日本でクリニックを始めることもまったく考えていませんでした。工場の夜勤も高収入でしょうが、過去にも述べたように医師のアルバイトもそれなりに高収入です。例えば、日本で3か月の間、健康診断や深夜の救急外来のアルバイトをおこなえば、残りの9か月をタイで過ごし、エイズ施設でボランティアをすることも充分に可能です。
もしもあのときHさんのような生活を選択したとすれば、私の時間管理は上手くいき、今のように時間に追われる毎日から解放されていたでしょうか。そして「幸せ」と感じることができていたでしょうか。
実はこのことは今でもときどき考えます。そして結局毎回同じ結論にたどり着きます。私の「選択」は正しかった、という結論です。当時の私は研修医を終えたばかりで、医師としての知識も技術もまだまだ未熟でした。ということは、患者さんに貢献するには自分がもっと勉強せねばなりません。私のとった行動は、母校の大阪市立大学医学部の総合診療科の門を叩き、研修医のとき以上に勉強するということでした。大学病院のみならず複数の病院や診療所に修行にでかけ知識と技術の習得に努めました。そして、タイのエイズ患者さんや孤児に対してはNPO法人GINAを立ち上げて組織として貢献することを考えました。
今も知識と技術の習得はまだまだ必要だと考えています。結局、私は「勉強」と「貢献」に価値を置いていて、これらを自分のミッションと認識しています。つまり、当時も今もやるべきことをやっているということに他なりません。ならば私は幸せなのか…?
「タイの農夫と日本のビジネスマン」の逸話は、金持ちでなくとも幸せになれることを示しています。そして、私はあきらかに「タイの農夫」とは異なるライフスタイルをとっています。では、私は「日本のビジネスマン」に近いのかというと、これも明らかに違います。日ごろしている勉強、無料でおこなっているメール相談、GINA関連の諸業務などは時間とお金を使うだけですから、ビジネスとは真逆のものです。
それで忙しい、時間がない、と嘆いている私は幸せなのでしょか…。イエス、と言いたいところですが、Hさんや「タイの農夫」のことが羨ましいと思うこともあります。
私にとって「幸せ」とは何か。いまのところ自分ではまったく分かっていないようです…。
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|2017年3月17日 金曜日
2017年3月 遂に破綻した私の時間管理
しまった! やってしまった…。そう叫びたくなったのは昨日中に目を通すはずだった新聞を読まずに寝てしまったからです。どうしてそこまで後悔するかというと、私は日経新聞の電子版を購読していて、1週間が過ぎるとデータが消されてしまうからです。そうです。今の私は新聞を読むのが1週間遅れなのです…。
私の人生はいつも時間に追われていて、物心がついたときから、とまでは言えないにしても、少なくとも高校を卒業したあたりから、「時間がない、時間がもったいない」が口癖になっていました。もっとも、このようなことを言い過ぎると周囲に不快感を与えますから、なるべく言わないようにはしていますが…。
そんな私が高校を卒業してまず取り組んだのが「睡眠時間を減らす」ということです。中学・高校とラジオの深夜放送にハマっていた私は、元々どちらかという睡眠時間を削るのが得意でした。関西学院大学(以下「関学」)に入学した18歳の時点から、大学生には時間はたっぷりある、と言う同級生を横目で見ながら、「寝る時間を削ってでも楽しんでやる!」と考えました。
以前にも述べましたが、18歳の頃の私はアルバイト先で自分が何もできず役に立たない人間であることを知ることになりました。(関学のように)偏差値が高い大学に行ければ…、と考えていたのが完全に間違いで、名前も聞いたことのない低偏差値の大学生がバリバリ仕事をこなしているのをみて、のんきに大学生活を楽しもうとしている場合ではない!と自覚したのです。
そこで私は、同級生がのんびりしている時間にもアルバイトにでかけ、深夜からでも遊びに行き、早朝からまたアルバイトに行きという生活をすることになっていったのです。当時の私はショートスリーパーであることは”いいこと”のように考えていて、睡眠を削ればその分人生を謳歌できる、と本気で考えていました。一度、オールナイトで遊んで夜が明けてから帰ったとき、二日酔いもあり不本意ながら夕暮れ時まで寝てしまったことがあります。そのときに窓から見えた夕陽の虚しかったこと…。あぁ、今日という日を無駄に過ごしてしまった…、という後悔の念を痛切に感じました。
就職してからも人の倍は遊んでやる!と考えていた私は早々にその思いを挫かれることになります。英語がまったくできなかった私の配属先はなんと「海外事業部」。英語ができなければ存在価値がゼロのような部署です。これも以前に述べましたのでここでは繰り返しませんが、そのときの選択肢は2つ。死ぬほど英語を勉強して少しは使える社員になるか、入社早々退職し次を探すか…。前者を選択した私は朝5時に起床し英語の勉強を開始しだしました。関学の学生の頃、朝5時に起きてアルバイトに出かけていましたから、早起きには慣れています。今も私の起床時間は午前4時45分ですから、結局私の人生はずっと早起きです。
会社を辞めて医学部の受験勉強を開始しだしたときも睡眠時間は5時間と決めていました。その頃の私は、雑念を追い払うために、付き合いで出かける、ということをほとんどしませんでしたから、私のこれまでの人生でもっとも規則正しい生活となりました。会社員時代は、英語の勉強で忙しくても、どれだけ睡眠時間が短くても、人付き合いは断らず、むしろそれを自分の「セールスポイント」にしていたくらいですが、医学部受験勉強時代は、友人にも「一年間は出家したものと思ってほしい」と伝え、可能な限り受験以外のことを考えないようにしていたのです。
医学部入学後は、再び友人や先輩との付き合いが始まりましたから、相変わらず夜中でも出かけることもありました。その上、医学部の勉強はとても大変ですから、のんびりする余裕などありません。医学部の若い同級生と同じ勉強時間では太刀打ちできませんから、それまでの人生の「他人の倍は遊ぶ」というルールを「他人の倍は勉強する」に変更することになりました。
医学部の1回生の終り頃、1997年の初頭に読んだ『7つの習慣』に感銘を受けた私は、同書で紹介されている「自分の葬儀を想像する」ことを実践するようになりました。これは、自分がどんなふうに人生の最後を迎えたいかを思い描くことにより、今すべきことが逆算できるというもので、たしかに、自分が死ぬまでに何をしていたいか、どんな人間になっていたいかを考えると、残された時間はあまり多くないことに気づきます。そして、このことに気づけば時間をムダにしている余裕はありません。
例えば、元々私はテレビをあまり観ませんが、この頃からNHKの語学教育番組を除けばテレビの前に座ることがほとんどなくなりました。映画は好きなのですが、漠然と観るのではなく、いつも「貴重な一本」と考えて楽しむようにしています。自分の行動は損得で決めるわけではありませんし、生産性が高いか低いかで判断しているわけでもありません。悩んでいる後輩から連絡があれば夜中でも会いに行くことは変わりませんが、ダラダラと過ごすような時間はほとんどなくなりました。
医師になってからはこの傾向がさらに進み、以前もどこかで言ったように、トイレと寝室以外は24時間監視されていてもかまわないと思うほどです。20代の会社員の頃は、他人の倍遊ぶことが目標でしたが、医師になったときには同僚の倍働こうと思いました。たしかに研修医は誰もが仕事と勉強だけの日々になるのは事実ですが、それでも私は同僚よりも患者さんと接する時間を長くし、救急外来に入りびたり、そして論文も教科書もたくさん読むことを心がけました。
太融寺町谷口医院を始めてからも、教科書や論文を読む量は減らしていない、どころか最近はネット上で簡単に論文にアクセスできますから読む量は増えています。医学部の学生時代には値段が高くて買えなかった世界的に有名な医学書も最近はiPADで読んでいます。医学書というのは驚くほど高価で何万円もするものもざらにあります。学生の頃は、親からもらう小遣いで買える同級生を羨ましく思っていましたが、今の私は出張時の機内でそれらを読んでいます。
ネット社会は新聞や論文、医学書へのアクセスを簡単にしただけではありません。私の元には谷口医院やGINAのサイトを見た人から健康相談などのメールが毎日たくさん届きます。外国人からのメールもほぼ毎日送られてきます。谷口医院のウェブサイトには英語版もあるからです。これらのひとつひとつに回答するのはそれなりに時間がかかるのですが、必要なことですし、メールで問題が解決するならとても有益なものといえます。
これからももっと勉強してもっと仕事をして…、と考えているのですが、最近、ついに私の時間管理が破綻してしまいました。谷口医院のサイトの「医療ニュース」は、海外の論文などから興味深いものをピックアップして月に4本書いていたのですが、先月(2017年2月)は1本しか書けませんでした。
実は2月と3月にそれぞれ学会発表があり、この準備に時間を取られ…、というのは言い訳で、よく考えると私のスケジュールはとっくに破綻していることに気づきました。
NHKの英語教育番組「ニュースで英会話」はテレビのハードディスクにたまりっぱなしで、昨日観たのは2年前のものです。「話題のニュースで旬な表現を学ぶ…」がこの番組の特徴なのに、私にとっては「なつかしのニュース」になってしまっています。定期的に読んでいる週刊誌は1~2週間遅れ。新聞は冒頭で述べた通り。amazonの「ほしいものリスト」に入っている書籍はとっくに1000冊を超えています。
コラムというのは、考えがまとまってから書くものだと思いますが、今書いている破綻している私の時間管理には改善策が見当たりません。現在の睡眠時間は6時間。20代の頃と異なり、これ以上削ることはできません。また週に5~6時間、脊椎症の術後のリハビリ(筋トレとジョギング)にあてていますが、これも減らすことはできません。
この「マンスリーレポート」は、だいたい毎月10日ごろに公開していましたが、現在すでに17日。破綻した時間管理の打開策は今のところ見当たらず…。これからも私の人生は時間に追われっぱなしなのでしょうか…。
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|2017年2月16日 木曜日
2017年2月 私が医師を目指した理由と許せない行為
なんで医師になろうと思ったんですか?
医師になってからこの質問をもう何百回受けたか分かりません。医師になろうと思えばかなりの時間を「犠牲」にしなければなりませんし、いろんな意味で「自由」ではありませんから一般の人からすれば医師を目指す動機が気になるのは当然だと思います。また、この質問は医師からも聞かれますし、私自身も他の医師に尋ねることがあります。
こういう質問は単なる社交辞令ではなく、本当に興味を持って聞いてくれていることがほとんどですから、私はできるだけ丁寧に答えているつもりです。ここでそれを披露してみたいと思います。
まず私は医学部に入学した時点では医師になるつもりはありませんでした。医学部を目指した理由は「医学を学びたかったから」です。医学部受験の前は、母校の関西学院大学社会学部の大学院進学を考えていました。社会学部の大学院で本格的に勉強したかったテーマは、「人間の行動・感情・思考について」です。そのため私は社会学関連の文献のみならず、生命科学系の書籍も読み漁っていました。もちろん当時の私には本格的な論文などは敷居が高すぎて読めませんでしたが、講談社ブルーバックスをはじめとした初心者向けの生命科学の本を片っ端から読んでいたのです。
生命科学のおもしろさに魅せられた私は、そのうちに、私が研究したかった「人間の行動・感情・思考」といったテーマは社会学的なアプローチよりも生命科学から追及すべきではないか、あるいはいったん生命科学を本格的に勉強してから社会学に戻るべきではないか、と考えるようになり、この気持ちが医学部受験につながったのです。
ところが、です。医学部も4回生くらいになってくると、自分には研究者としてやっていく能力もセンスもないことに気づくようになります。この現実を受け入れるのはそれなりに辛いものではあったのですが、同時期にある種の「使命」のようなものに気づき始めました。これを「使命」と言ってしまうのはおこがましいのですが、「お前ならできる」と期待の声(それはもちろん「おせじ」なのですが)を繰り返し聞くようになり、その気にさせられた、というのが最も真実に近いでしょうか。
説明しましょう。当時の私は、多くの友人や知人から健康上の相談を持ちかけられていました。私以外に医師や医学生の知り合いがいないのであればそれは当然でしょう。もちろん、まだ医師になっていない私ができることなどほとんどないのですが、それでも話を聞くことはできます。
彼(女)らは、医師への不平・不満を容赦なく私にぶつけてきます。そのなかの多くは「それは医師が悪いんじゃなくて、そういう制度だから仕方がない」「気持ちはわかるけど、その病気は治らなくて他に治療がない」といったものなのですが、なかには「たしかに…。そんな説明じゃ分からないよね」「えっ、そんなひどいこと言われたの?」といったようなものもあり、「医療機関で患者さんにこんな思いをさせてはいけない…。自分ならこうする!」と感じることがあり、その思いが度重なるにつれて、「もしかして自分が進むべき道は研究なんかじゃなくて臨床じゃないのか…。これが自分の”使命”なのでは?」と思うようになってきたのです。
さて、このあたりまでは、私が「なんで医師になろうと思ったんですか?」と聞かれたときにいつも話していることです。たいていはここまで話すと、理解・共感してもらえますのでこのあたりで終わりになるのですが、今回はもう少し掘り下げて話してみたいと思います。
医療の不満といったことが語られるとき、治療の結果に満足できない、副作用について知らされてなかった、説明が足らない、といったことを指す場合が多いのですが、私が最も心を動かされた「不平・不満」というのはこのようなことではありません。私が医師のあり方に疑問や、ときには憤りを感じ、「自分ならこうする!」と思ったのは「病気に伴う差別」についてです。
例を挙げましょう。アトピー性皮膚炎というのは痒みが辛い疾患ですが、それだけではありません。「見た目の問題」が決して小さなものではないのです。当時医学部生の私に相談してきた患者さん(というか知人)は、見た目のせいでどれだけ社会生活で辛い思いをしているかというようなことは医師や看護師は理解してくれない、と言います。もっとも、医療者にとっての「目標」は痒みを解消することであり、それ以上の治療については医療者を責めても仕方がないことかもしれません。けれどもその見た目のせいで社会から差別を受けているとすればどうでしょう。子どもが口にするような無神経で露骨で残酷な言葉を浴びせられることはないにしても、かげで容姿の悪口を言われたり、言われなくても外出に躊躇してしまうことはあるわけです。それで就職活動に消極的になり、恋愛も諦める。さらには引きこもりにも…、という人もなかにはいました。
アトピーに限らず、皮膚症状が目立つ疾患に罹患すれば、それを隠さなければならなくなります。プールにも海にも銭湯にも行けなくなります。他人の「かわいそうに…」という言葉はときに彼(女)らを傷つけることになります。いつしか私は、患者さんの痛みや痒み、あるいは手足の不自由さそのものよりも、社会的に不利益を被ることに関心を持つようになりました。このときに患者さんに「かわいそう」などと思ってはいけない、ということを強く感じました。医療者は患者に憐れみを持ってはいけません。患者の人格を尊重し、社会的な不利益があるならばそんな社会と闘っていかねばならないのです。
研修医の頃、タイのエイズホスピスに短期間のボランティアに赴くことになり、この体験がその後の医師としての進路に大きな影響を与えることになります。エイズという病のために、食堂や雑貨屋から追い払われ、病院では診療を拒否され、地域社会から追い出された人たちがその施設に大勢いました。彼(女)らの苦痛を聞く度に、心の底から沸々とあふれてくる憤りを抑えられなくなってきました。
病気やケガで困っている人を救いたい…。医師であれば誰もがこのように思います。私も例外ではないのですが、私の場合、それ以上に「病気のせいで差別を受けることが許せない」という気持ちが抑えられないのです。これは理性では説明できないようなものです。
そんな私が最近どうしても許せない行動を目にしました。米国の女優メリル・ストリープのスピーチの原稿で見つけたトランプ大統領の行為です。大統領は、なんと、障害をもつリポーターの真似をしてこきおろしたというのです。メリル・ストリープは次のように述べています。
It kind of broke my heart when I saw it, and I still can’t get it out of my head, because it wasn’t in a movie. It was real life. (そのシーンを見たとき、私の心が壊される思いがしました。そのシーンを頭から取り除くことができません。映画ではなく、現実の話だからです)
このシーンはyoutubeで見ることができます。メリル・ストリープが「心が壊される思い」をしたのがよく分かります。私は政治的にはニュートラルな立場であり、特定の支持政党を持っていません。また、政権与党に対し何らかの「抗議」をしたこともありません。しかし、今回ばかりは、他国とはいえ、そして就任前のこととはいえ、トランプ大統領のこの行為を許すことは絶対にできません。
差別をしない人はいない、と言われることがあります。それが事実だとすれば、私が差別をするのは「病気や障害を理由に差別をする輩」です。トランプ大統領の行動を知ったことにより、私が医師を目指すことになったきっかけである「心の底から沸々とあふれてくる憤り」を再び思い出すことになりました。
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|2017年1月5日 木曜日
2017年1月 10年たっても変わらないこと
2007年1月に大阪市北区でオープンした太融寺町谷口医院(以後「谷口医院」)は、2016年12月で丸10年がたち、今月から11年目に突入ということになります。10年というのはひとつの区切りになりますから、今回は、谷口医院はどのような変化をたどったかについて振り返ってみたいと思います。
政治、経済、国際情勢、どれをとってもこの10年間で大きく歴史が動きました。また、東日本大震災をはじめとする自然災害、さらに原発の問題もクローズアップされ、新たな観点から生命について考え直したという人もいるでしょう。医療界では、高価な新薬の登場、ロボット手術の普及、iPS細胞の実用化など、前世紀には考えられなかったようなことが起こっています。
では谷口医院では何が変わったかというと、基本的には何も変わっていません。もちろん、新しい薬が登場すれば必要に応じて処方していますし、新しい検査も必要あればおこないます。スギ花粉やダニの舌下免疫療法といった新しい治療法については積極的に推奨することもあります。
ですが、基本的なビジョンやミッションは10年間でまったくといいほど変わっていません。具体的に述べていきます。
〇どのような疾患にも対応する
私が医学生や研修医の頃、「それはうちでは診られません」「うちではなくよそに行ってください」といったことを医師が患者さんに言うのを聞いてやるせない気持ちになったことが何度もありました。このようなことを言われて困っている患者さんはどうすればいいのでしょうか。
こういった場合は、「その症状なら〇〇病院の△△科がいいと思います。紹介状を書きますね」とか、「その程度なら大病院を受診する必要はありませんから、紹介状なしで近くの◇◇科を受診してください」とか、あるいは「今は心配する必要はありません。その症状が続いたり不安が強くなったりするなら目安として1か月後に受診してください」とか、そういった助言をすべきです。医療者はドクターショッピングをおこなう患者を嫌がりますが、医療者自らがドクターショッパーを生み出しているんじゃないのか、というのが私がかねてから感じていたことです。ならば自分自身がそういった患者さんを困らせないようにしようと考えたのです。
もちろん、ありとあらゆる疾患が谷口医院でスッキリ解決というわけにはいきません。だいたい95%の患者さんは谷口医院で治療をおこない、残りの5%はより適切な医療機関を紹介しています(注5)。他のクリニックに比べて紹介状を作成する率は高いと思います。
〇どのような患者さんにも対応する
これは私が医学生の頃から感じていたことで、タイのエイズ施設でボランティアをしたときにさらに強力になりました。トランスジェンダーという理由で病院でイヤな思いをした、思い切って同性愛者であることを医師にカムアウトすると「そんな”趣味”はやめなさい」と言われた、過去に違法薬物の経験があることを伝えると医師の態度が豹変した(現在はやめているのに…)、HIV陽性であることを伝えると「うちではみられない」と言われた(今日来たのは単なるかぶれなのに…)。こんな話がとてもたくさんあります。また、外国人だから診てもらえなかった、という訴えも少なくありません。異国の地に来て困っている人がいるなら、多少言葉の障壁があっても診察すべきではないのか…。私はそう思います。
谷口医院のミッション・ステイトメントの第3条は「年齢・性別(sex,gender)・国籍・宗教・職業などに関わらず全ての受診者に対し平等に接する」で、10年間まったく変わっていません。医療は全ての人に平等でなければならないのです。
〇医療機関受診は最小限にしてもらう
先の2つに一見矛盾するように感じられるかもしれませんが、これは重要なことです。谷口医院では「どのような人」が「どのような疾患」で受診されても診察しますが、同時に、受診は最小限にすべきということを日々訴え続けています。ほとんどの病気は予防が最も大切であり、受診しなくてもいいように日ごろからセルフ・ケア(注1)、薬が必要な場合はセルフ・メディケーションに努めるべきです。この方針も10年間変わっていません。
なぜ受診を最小限にすべきかにはいろんな理由があります。まず受診すればある程度の時間とお金がかかります。貴重な時間とお金を医療機関受診に費やすのはもったいないことです。次に、受診したがために待合室で風邪をうつされる、といったリスクもあります。診療所を受診して余計に不健康になるなど笑い話にもなりません。
しかし健康上のことで困ったことがあれば医療機関受診が望ましいことももちろん多々あります。受診すべきか否か、それを迷ったときにどうすべきか…。谷口医院に長年通院している患者さんはメールで質問されます。もちろん緊急性・重症性が高いときには直ちに受診すべきですが、メールだけで解決することもよくあります。それに、メールは何度でも無料です。誰からも承っており、長年通院している人でなくても、一度も受診したことがない人からも届きますし、受診を前提としたものではありませんから、遠方から(文字通り、北は北海道から南は沖縄まで)毎日のように送られてきます。これら全てに返答するのはそれなりに大変なのですが、一種のノブレス・オブリージュと考えて全例に回答しています。
〇薬や検査は最小限にする。choosing wiselyを考える。
choosing wiselyという言葉は比較的新しいものですが、その基本コンセプトである「薬や検査は最小限」は過去10年(というよりも私が医師になってからずっと)不変です。薬はいつも副作用を考慮すべきですし、検査も無害ではありません。被爆や痛みが伴うこともあるからです。
過去10年間で特に減らすことにつとめた薬は「抗菌薬」「鎮痛剤」「ベンゾジアゼピン系」です。抗菌薬を最小限にすべきことはこのサイトだけでなく毎日新聞の「医療プレミア」でも繰り返し取り上げています(注2)。鎮痛剤についてはその依存性や薬物乱用頭痛について何度も注意してきました(注3)。ベンゾジアゼピン系の睡眠薬や抗不安薬を使っている患者さんは今も大勢いますが、当院を受診するようになってからは大幅に減らすことができたという人は少なくありません(注4)。今後、これらの薬についてはさらに減らすよう努めていきます。
また、生活習慣病の薬やアレルギー疾患の薬も、習慣の見直しや環境の改善で大きく減らす、あるいは薬をやめることも可能です。血圧の薬をやめられた、ステロイド外用をゼロにできた、喘息の吸入薬の使用頻度を大きく減らせた…。そういう患者さんをこれからももっと増やしていく予定です。
〇我々自身が成長する
基本的なビジョンやミッションは変わりませんが、患者さんから学ぶことは毎日ありますし、新しい薬や検査についても勉強しなければなりません。なかなか診断がつかなかったケース、治療に予想以上に時間がかかった症例などからは学ぶべきことが豊富にあります。また「学び成長する」のは医師だけではありません。看護師ももちろんそうですし、受付・事務のスタッフも患者さんとの対応のなかで学び、成長し、貢献できることがたくさんあります。我々は成長し続けなければならいという姿勢もこの10年間で変わっていません。
以上、簡単に「10年たってもかわらないこと」を述べてきました。そして、これはまず間違いなく次の10年も変わらないことなのです。
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注1:生活習慣病の予防には「3つのEnjoy, 3つのStop, 4つのDataに注意して」と覚えてもらうようにしています。詳しくは下記を参照ください。
はやりの病気第152回(2016年4月)「大腸がん予防の「6つの習慣」とアスピリン」
注2:例えば下記が相当します。
毎日新聞「医療プレミア」「薬剤耐性菌を生む意外な三つの現場」(2016年9月4日)
注3:鎮痛剤の危険性については下記を参照ください。
はやりの病気第96回(2011年8月)「放っておいてはいけない頭痛」
注4:ベンゾジアゼピン系の危険性については下記を参照ください。
メディカルエッセイ第164回(2016年10月)「セルフ・メディケーションのすすめ~ベンゾジアゼピン系をやめる~」
注5(2019年4月11日追記):きちんとデータをとってみました。2018年1年間での総受診者数が15,080人、入院・手術・専門医の診察が必要で紹介したのがそのうち137人で、「真の紹介率」は0.9%となります。本文で述べた「5%」というのは「当院受診までに他の医療機関を受診していて診断がついていなかった症例のうち、当院から専門医を紹介した症例がどれくらいあるか」という数字(しかも私の印象だけです)です。
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|2016年12月13日 火曜日
2016年12月 Choosing Wiselyがドクターハラスメントから身を守る!
相次ぐ医師の不祥事、心なき医師の言葉、止まらないドクターハラスメント、などの話を聞くと、世間の医師への不信感はますます大きくなってきているような気がします。
しかし、当たり前のことですが、我々医師としては患者さんを傷つけたくて言葉を選んでいるわけではありませんし、ハラスメントしたいと思っているわけではありません。不祥事については、たしかに医師からみても「直ちに医師をやめてほしい」と思わざるをえないおかしな医師がいるのは事実ですが、報道されている事件のなかには冤罪としか考えられないようなものもあります(注1)。医師は、全員ではないことは認めますが、大半は高い人格を持ち、患者さんに貢献できるように日々の診療をおこなっています。
では、なぜ医師・患者関係がこうもうまくいかないのか。その理由はたくさんあるでしょうが、私自身が長年感じているのは「医師と患者の考えの方向がまったく異なるときに会話がかみあわず関係がうまくいかない」ということです。
例をあげましょう。患者さんが何か健康上のことで気になることがあったときにまず相談するのは、見ず知らずの医師ではなく「近くにいる人」のことがあります。大阪では、その「近くにいる人」が「近所のおばちゃん」であることが多く、患者さんは「近所のおばちゃんに病院で〇〇の検査をしてもらうのが一番いいと聞いたから来ました」というようなことを言います。
あるいは、「ワイドショーのパーソナリティが言ってたから…」というのも多い訴えです。私が研修医の頃、指導を受けていた先生たちから「(朝のワイドショーの司会の)MM氏が言ったことは絶対正しいと思っている患者が大勢いる」という話を何度も聞きました。
具体的な症例をみてみましょう。太融寺町谷口医院でよくある訴えに「じんましんが出たから血液検査をしてほしい」というものがあります。一般に、じんましんで血液検査が必要な症例というのはごくわずかで、大半は時間とお金の無駄になるだけです。しかし、それを説明しても引き下がらない人はけっこういます。そして、なぜそこまで血液検査にこだわるのかを聞いてみると、「近所のおばちゃんが言ってたから…」「テレビでそう言ってたから…」という答えが多いのです。
医師側からみれば診察がおこないやすいのは「白紙」の状態で受診してくれて、症状や困っていることを先入観なしに語ってくれるときです。こういうときは説明がスムーズに進み、必要な検査や治療に関してすんなりと受け入れてくれます。一方、初めから「〇〇の検査が絶対が必要」と思い込んで受診された場合、それが医学的に標準的なものであればいいのですが、著しくかけ離れている場合にはとても苦労します。そして、こういうときにコミュニケーションがうまくいかず、医師患者関係も悪化します。
じんましんの例で言えば、はじめから「血液検査が絶対に必要」と思い込んでいる患者さんに説明するのはことのほか時間がかかります。なかには「もういいです。他の病院に行きます!」と怒って帰る人もいます。こういう経験をすると、私も含めてほとんどの医師は落ち込んで反省します。「説明が伝わらなかったのは自分の力量不足。けれどなぜあの人はあんなにも血液検査にこだわったのだろう…。もしかすると、知人のじんましんが悪化してアナフィラキシー(アレルギー性のじんましんが重症化した状態)でもおこしたことがあったのだろうか…」といったことを想像することもあります。
前回の「マンスリーレポート」でも、私はこの「大半のじんましんには血液検査が不要」ということを述べました。それは医師側の観点ですから、読者からは批判されるかな、と思っていました。予想に反してクレームのメールなどは来なかったのですが、患者側の言い分もあると思います。「近所のおばちゃん(やテレビ)が言ってたのに…」は勘弁してほしいと思いますが、「知人が重症化したから心配で・・・」という理由は我々にも理解できます。初めから「知人が…」と言ってくれればいいのに、と我々は思いますが、そういうことを話しにくい雰囲気を医師側がつくってしまっているのかもしれません。
choosing wiselyは現在日本で少しずつ盛り上がってきています。ただし、それは医師だけの話です。医師はこの概念を理解し、現在おこなっている医療行為にムダなものはないか、ということを考えるようになってきています。一方、患者サイドのchoosing wiselyを意識している人はほとんどいません。アメリカのchoosing wiselyのサイトには「患者用」のページもありますが、日本では今のところ、このような充実したサイトはありません。
前回も述べましたが、たとえばじんましんで困っているなら、choosing wiselyのページで「じんましん」で検索をおこなえば「ルーチンで血液検査をすべきでない」という内容の説明文がでてきます。受診前にこういった知識を身につけてもらっていれば、医師とのコミュニケーションがスムーズにいきます。ただ、私はchoosing wiselyのウェブサイトに書かれていることがすべてです、と言っているわけではありません。「知人がアナフィラキシー…」というエピソードがあれば、いくら信頼できるウェブサイトに「血液検査は不要」と書かれていてもそれで安心できるわけではありません。
ですから、そういった場合、なぜ血液検査をすべきと思うのかを診察室で医師に話してくれればいいのです。その際に、choosing wiselyのサイトで「大半のじんましんは検査不要」ということを知っていてくれれば、医師とのコミュニケーションは非常にうまくいきます。先ほど患者さんの知識や先入観が「白紙」であれば診察をおこないやすいと述べましたが、もっといいのは「ある程度正しい知識をもっておいてもらうこと」であり、もっといえば、「不要な検査や治療についてある程度知ってほしい」ということです。
ただ、多くの人にとってそういった「予習」をしておくことはハードルが高いと思います。ではどうすればいいか。どうすれば医師とのコミュニケーションが潤滑になり、良好な関係をつくることができるのでしょうか。
アメリカのchoosing wiselyには「検査や治療を受ける前に医師に尋ねる5つの質問」というものがあります(注2)。この5つ(下記)を常に考えてもらうことにより良好な医師患者関係を築けるのではないか、というのが私の考えです。
①その検査や治療は本当に必要なのでしょうか?
②その検査や治療にはどのようなリスクがありますか?
③もっとシンプルで安全なものはないのですか?
④もしもそれをおこなわなかったとすればどんなことが起こりますか?
⑤それはどれくらいの費用がかかりますか?
日本の医師にこんな質問をすると気分を害されるのではないか…、という意見があります。しかし、医師にとって最も嬉しいのは「患者さんに満足してもらうこと」であり、患者側からみれば「本当に必要な検査や治療を、リスクに注意しながら、安い費用で受けること」であるのは自明です。そして、当然のことながらこれは医師からみても同じです。ということは、「5つの質問」は、患者側からみても医師側からみても「当然の原理原則」を再確認するツールと言えるのではないでしょうか。
医師といい関係を築く方法。それは疾患や症状のことをあらかじめある程度”正確に”知っておくことです。そのためにchoosing wiselyのようなウェブサイトは役立ちます。しかし、現時点で日本語のわかりやすいサイトがあるとは言い難いですし、正確な知識の習得は易しくありません。(インターネットで出回っている情報の多くはあてになりません)
ですが、choosing wiselyの原理原則を覚えておくことはそうむつかしくはありません。この「5つの質問」を常に意識していれば、不要な医療を避けることができ、医師患者関係も良好になり結果としてドクターハラスメントも避けられる、というのが私の考えです。
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注1:例えば、2016年5月に東京足立区の病院で発生した「準強制わいせつ事件」は報道されている内容が事実とは思えません。詳しくは下記を参照ください。
メディカルエッセイ第163回(2016年9月)「そんなに医者が憎いのか」
注2:詳しくは下記を参照ください。
http://www.hospitalsafetyscore.org/media/file/ChoosingWiselyPoster_TheLeapfrogGroup.pdf
米国の非営利団体「Consumer Reports」は、この「5つの質問」のカードを作成しています。下記のページに写真があります。
http://consumerreports.org/doctors-hospitals/questions-to-ask-your-doctor/
下記はchoosing wiselyのオーストラリア版です。少しニュアンスが異なりますが同じような「5つの質問」があります。
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|2016年11月7日 月曜日
2016年11月 Choosing Wiselyが日本を救う!
ちょうど2年くらい前から私が日々の診療のなかで力を注いでいるのがchoosing wiselyです。過去のコラム(注1)にも書いたように、choosing wiselyの概念を普及させることによって、不要な医療行為がなくなり、患者さんの負担が減り、医師はストレスを減らすことができ、おまけに医療費も低下するという「いいことづくし」になります。
2016年11月5日、大阪で開催されたあるセミナーでchoosing wiselyのセッションがあり、私も講師としてお呼びがかかったために参加してきました。このセミナーは医師を対象としたものですが、私が主張したことは一般の方にも知っていただきたいことです。そこで、今回はそのセッションで私が話した内容を簡単に紹介したいと思います。
まず、choosing wiselyの言葉の意味について。直訳すれば「賢く選択」ですが、これでは何のことかよく分かりません。私個人の意見としては「不要な医療をやめる」くらいが一番いいのではないかと思っています。
choosing wiselyは元々、ABIM(アメリカ内科学委員会、American Board of Internal Medicine)が、いくつもの学会に働きかけ「不要な医療行為」を挙げてもらい、それをリストにしたものです。これが世界中の医師に評価されたのですが、ここで”不自然さ”を感じないでしょうか。なぜなら、「不要な医療行為」をおこなわないのは、当たり前のことだからです。
先日のセッションで私が主張したことの1つがこの点です。「不要な医療」をやめるのは当然のことであり、今さら強調することではありません。つまり、医師からみたときのchoosing wiselyの原理原則は医師にとって「自明の理」であり、choosing wiselyが有用なのは、具体的な医療行為のリストを参照することで、自分自身の医療に誤りがないかを確認することに他なりません。
choosing wiselyの原理原則が自明であることを確認するために、私は医師にとっての3つのミッションを引き合いに出しました。1つめは、「ヒポクラテスの誓い」の一部です。そこには「自身の能力と判断に従って、患者に利すると思う治療法を選択し、害と知る治療法を決して選択しない」とあります。軽微な頭部外傷でのCT撮影は「被爆」という害がありますし、ベンゾジアゼピン系睡眠薬の安易な処方には「依存性」という害があります。
2つめは、日本医師会の『医の倫理綱領』にある「医師は医業にあたって営利を目的としない」です。医業が営利行為でないのは当たり前なのですが、choosing wiselyの議論になると、医療機関が儲からなくなるから普及しないのでは?、という声が上がることがあります。しかし、初めから医療機関は営利を目的としていない、ということを確認しておくべきかと考えてこれを述べました。
3つめは、ドイツの医学者フーフェランドが著した『Enchiridion Medicum』を緒方洪庵翻が翻訳した『扶氏医戒之略』の一部です。緒方洪庵は、医者に対する戒めを適塾の生徒たちへの教えとし、「医療費はできるだけ少なくすることに注意するべきである」「世間のすべての人から好意をもってみられるよう心がける必要がある。賭けごと、大酒、好色、利益に欲深いというようなことは言語道断である」と説いています(現代語訳は馬場茂明著「聴診器」より)。改めて主張すべきことではないかもしれませんが、再認識してほしいという意味で紹介しました。
ついで、私は患者さんからの言葉で医師の「心が折れる」瞬間を紹介し、これらはchoosing wiselyを普及させることで解消できるということを述べました。具体的にみていきましょう。
医師: 「このじんましんは、非アレルギー性のものであり、血液検査は不要です」
患者A: 「いいから検査してください! 患者の希望を聞くのが医者の仕事でしょ!!」
医師: 「あなたの風邪はまず間違いなくウイルス感染であり、抗菌薬は不要です」
患者B: 「えっ、お金払うのあたしですよね・・・」
医師:「それはベンゾジアゼピンといってとても依存性の強い薬です。簡単に処方できる薬ではありません」
患者C:「もういいです! 友達にわけてもらいます!」
医師: 「その症状に点滴は不要です」
患者D: 「金払うって言うてるやろ! 前の病院はしてくれたぞ!!」
米国版のchoosing wisely(注2)では、患者A,B,Cのことについては、すべて記載があります(注3)。例えば、患者Aについて言えば、「じんましんで血液検査を安易にすべきでない」といったことが書かれています。もしも、患者A,B,Cが、choosing wiselyの概念を知っていて、医療機関を受診する前に、ウェブサイトでこれらを調べていれば、「自分が希望する検査や治療は安易にはおこなうべきではないんだ」ということを理解してもらえる可能性があります。そうすれば不要な受診を避けられたかもしれません。
あるいは、受診してからでも、診察室でchoosing wiselyのウェブサイトを見てもらえば、希望している検査や投薬が不要であることを納得してもらえるかもしれません。ですから、choosing wiselyの日本版のリストを早急に構築すべきではないか、と私は考えています。
しかし「日本版リスト」は単に「米国版」の翻訳であってはなりません。例えば、患者Cで取り上げた若年者のベンゾジアゼピン依存症は、日本の方が深刻度が高く、米国のchoosing wiselyで取り上げられているのは高齢者に対する注意だけです。また、患者Dの点滴の問題については、米国のchoosing wiselyについてはまったく記載がありません。過去にも紹介しましたが日本には「点滴神話」というものがあり、科学的な有効性(エビデンス)が認められていないのにもかかわらず、点滴すれば早く治る、と思っている人が大勢いるのです。
単なる翻訳ではこういった日本の実情が反映されませんから、日本の医療事情をよく吟味したうえで「日本版」のchoosing wiselyをつくらなければならない、というのが私の考えです。
2016年10月15日、日本版choosing wiselyのキックオフセミナーが東京で開催されました。残念ながら私は参加できなかったのですが、このセミナーにはChoosing Wisely Canada代表でトロント大学教授のWendy Levinson氏が講演をされました。大盛況だったようで、choosing wiselyに関心を持つ医師が大勢いることが証明されたといっていいと思います。
現時点では、このchoosing wiselyという概念が一般の方(患者さん)に充分に普及しているとは言えません。しかし、これを理解することで、医療機関の不要な受診がなくなり、被爆する機会が減り、針を刺すという痛い思いをすることが減り、不要な薬を処方されることもなくなり、時間とお金を節約することができます。我々医師も、先にあげたような「心が折れる」ことがなくなりますし、医療費の削減にもつながるのです。
こんな「いいことづくし」のchoosing wisely。絶対に普及させなければならない、と私は考えています。
************
注1;下記(メディカルエッセイ)を参照ください。
第144回(2015年1月) Choosing Wisely(不要な医療をやめる)(前編)
第145回(2015年2月) Choosing Wisely(不要な医療をやめる)(中編)
第146回(2015年3月) Choosing Wisely(不要な医療をやめる)(後編)
注2:下記が米国版choosing wiselyのウェブサイトです。
http://www.choosingwisely.org/
注3:じんましん、抗菌薬、ベンゾジアゼピンのchoosing wiselyについては下記を参照ください。(ベンゾジアゼピンについては「高齢者に使用すべきない」という内容で、本文で取り上げたのは若い女性です。米国のchoosing wiselyでは若者へのベンゾジアゼピンについて記載したものがありません。これはおそらく若年者のベンゾジアゼピン依存症の問題は、米国では日本ほど深刻でないことが理由だと思われます)
http://www.choosingwisely.org/societies/american-academy-of-allergy-asthma-immunology/
http://www.choosingwisely.org/patient-resources/antibiotics/
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|2016年10月11日 火曜日
2016年10月 折れない心のつくり方
なぜか最近、精神症状を訴える患者さんが増えています。そして、目立つのが「掲示板やブログで悪口を書かれて・・・」という理由です。
ここ数年は「炎上」という言葉をよく聞きます。有名人の場合はその後謝罪するというのがお決まりのパターンですが、太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)で精神症状を訴えるのは患者さんのコメントが炎上を招いたわけではありません。ひとり、もしくは数人の匿名の者が書き込んだ言葉で精神的なダメージを負っているのです。
職業でいえば、水商売の女性(キャバクラ譲と呼ぶのでしょうか)が目立ちますが、レストラン・居酒屋の店長さんが「食べログ」などで悪口を書かれて、という話もよく聞きます。美容師さんもいます。また、職業に関係なく個人のブログで誹謗中傷された、という人もいます。
眠れない、動悸がする、不安とイライラが交叉して苦しい、何とかしてほしい・・、と言って相談に来られます。不安を和らげる薬を処方することもないわけではありませんが、こういうケースでは、通常、考え方を変えるよう助言し薬を用いないようにするのが私のやり方です。
まず、こういったことで悩む人たちは元々真面目でナイーブな人が多く、他人の何気ない言葉で傷つきやすい性格を持っています。たとえ、抗不安薬で一時的な気分の改善を図ったところで、再び「書き込み」を読んで落ち込むことになります。そして、こういう人たちに限って、読まなくてもいいのに、まるで自分の悪口が他にないかを探すようにネットを探索するのです。
それができれば苦労しない、と言われそうですが、最も有効な方法は「ネット上の言葉を一切気にしない」というものです。そもそも、その掲示板やブログを世界中のどれだけの人が見ているというのでしょう。水商売の女性は、自分の売り上げに関係する、と言いますが、その人の同僚が客を装って書込みしている可能性もあるでしょう。それに、世論はそれほどバカではありません。
もしも私がキャバクラに行くことがあれば(行ったことがありませんし、生涯行かないとは思いますが)、ネット上で評判の悪い女性に会うことを楽しみにすると思います。なぜなら、こういう情報は個人的な恨みや妬みで書かれていることが多く、事実を反映していないからです。そして、このように考えるのは私だけではないはずです。
レストランや居酒屋についても、書込みは一切当てにならないと私は考えています。私はそのような書込みをしたことがありませんが、もしも素晴らしいレストラン・居酒屋を見つければ、不特定多数の人に教えたくありませんから何も書きません。次に行ったときに満席であれば自分が困るからです。こんな私は意地汚いのかもしれませんが、他人に推薦したい店を見つけたときは、仲の良い友達だけに教えるようにするのが普通の感覚ではないでしょうか。逆に、とても不快な思いをしたとしても、私なら「書込みに時間をかけるのは馬鹿らしい。それに、読む人が賢明ならそれが単なる個人の恨みと思うだろう」と考え、やはり何も書きません。よく「同じ被害者を出さないために・・・」などと言う人がいますが、これは「悪口を書く言い訳」としての大義名分が欲しいだけです。
人は本能的に、その人が「信頼できるかどうか」を見抜く力を持っています。これは鍛えて身につく力ではないかもしれませんが、ある程度はノウハウがあります。例えば、私はタクシードライバーに横柄な態度をとる人間を信用しません。このサイトで過去に何度か「医師の大半は高い人格を持っている」と書きましたが、タクシードライバーに偉そうな態度をとる医師を見たことがありません。
キャバクラは(行ったことがないので)分かりませんが、レストラン・居酒屋なら、店員(特に店長)の態度、言葉、ミスがあったときの対応などでその店がいい店かどうかの判断ができます。もちろん美味しくなければ困りますが、頼んだメニューが口に合わなければおすすめメニューを聞いて、そのときどのような対応をしてくれるかを見ればいいのです。
他人の評価を気にしすぎる人に「いい例」を紹介したいと思います。過去に何度か述べたことがありますが、私は医学部受験を決意する前から稲盛和夫さんのファンです。稲盛さんの名言「動機善なりや、私心なかりしか」は私の座右の銘のひとつです(注1)。HIV/AIDSに貢献するNPO法人GINAを立ち上げたときも、都心部で主に働く若い人を対象とし「どんなことでも相談してください」という医療機関が必要と考え、太融寺町谷口医院を開院したときも、稲盛さんのこの言葉を何度も反芻しました。
稲盛和夫さんの言葉を座右の銘にしているのは私だけではないでしょう。また、京セラの社員の人たちからみれば「神」のような存在なのかと思っていたのですが、そういうわけでもなさそうです。Amazonで稲盛さんの本の書評をみてみると、否定的なコメントも少なくなく、なかには京セラの元社員が稲盛さんをこき下ろしているようなものもあります。稲盛さんのような人でさえ、悪く言う人がいるのです。
もうひとつ例を挙げましょう。最近オンラインマガジンの『クーリエ・ジャポン』にケイトリン・ロバーツというカナダの女性の話が紹介されました(注2)。26歳のロバーツさんは「ボディ・プライド」と呼ばれるワークショップを開催しています。このワークショップでは参加者全員が裸になり、ありのままの自分の身体を受け入れることを目的としているそうです。
このようなことをすると、SNSで話題にならないはずがありません。案の定、あるリベンジポルノのスレッドに彼女の裸の写真が掲載され、「胸くそ悪い女だが、ベッドのなかでは最高!」との匿名の書き込みがあったそうです。すると、ロバートさんは、なんとそのスレッドに飛び込んで、「無料の宣伝をありがとう!」と返したのです。
通常、ここまでする必要はありませんが、匿名の書き込みなどすべて無視すればいい、というのが私の考えです。しかし、「それができれば苦労しないよ・・・」という声が聞こえてきそうです。では、どうすればいいか。その答えは実は”簡単”です。
あなた自身が日ごろから誠実な態度を示し、他人から信頼されるようにすればいいのです。人は、見せかけだけの、つまり自分をよく見せたいからおこなう”善行”と、誠実な心から生まれる善行を見分けることができると私は考えています。そして、誠実な心から生まれる行動は他人からの「信頼」となります。「信頼」を積み重ねていけば、それは「信頼残高」を増やすことになります(注3)。いったん築き上げた信頼残高が不動のものとなるわけではありません。いくら信頼残高を増やしても、たった一度の裏切り行為があれば一瞬で吹き飛びます。仲睦まじい夫婦が、ただ一度の暴言・暴力・不倫などで崩壊することを想像すればわかるでしょう。つまり残高を築くには日々の誠実な態度が欠かせない一方で、いくら築き上げても不誠実な行為があれば一瞬で吹き飛ぶもの。それが「信頼」なのです。
もしもあなたが、謂れのない悪口を書きこまれたり、あるいは周囲の人から冷たくされたりしたときも、慌てる必要はありません。まずは、いつも誠実な態度をとっているか、日ごろ自分が接している人に対して「信頼」される言動をとっているか、そして「信頼残高」は蓄積されているか、を見直してみてください。あなたが「誠実」であり「信頼」される態度を示していれば、何も慌てる必要はありません。もしも自分の「誠実」に自信がないなら、書き込みや周囲の態度に悩むのではなく、その時間をもっと「誠実」になるための努力に費やせばいいのです。
折れない心の作り方。それは、いつも誠実な態度で他人と接し、信頼を築き上げていくことに他なりません。たとえ、あなたの悪口を言う人がいたとしてもあなたを信頼している人があなたを裏切ることはないのです。
************
注1:下記を参照ください。
メディカルエッセイ第86回(2010年3月)「動機善なりや、私心なかりしか」
注2:下記を参照ください。
https://courrier.jp/translation/63821/
注3:この「信頼残高」という言葉は私がつくったものではなく、かなり有名な言葉です。発端はおそらく『7つの習慣』(スティーブン・R.コヴィー著)だと思います。私も『7つの習慣』でこの言葉を知り、大きな衝撃を受けました。
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|2016年9月10日 土曜日
2016年9月 麻疹騒動から考える、かかりつけ医を持たないリスク
幕張メッセのコンサートに麻疹(はしか)罹患者が参加していたことと、関西空港での集団感染を受け、現在麻疹が「パニック」と呼べるほどの状態になっています。実際の感染者は、例えばWHOが介入するほどの大規模なものにはなっていませんが、麻疹にかかるのではないか、麻疹のワクチンをすぐに打たなければ・・・、と考える人が増え、多くの医療機関に麻疹関連の問合せが殺到しています。
太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)も例外ではなく、朝から晩まで麻疹の問合せの電話やメールが次々と寄せられます。ワクチンというのは、使用期限が短く「在庫確保」は他の薬のようにはできません。また、製造するのにかなりの時間がかかり、需要が増えたからといってすぐに増産体制に入れるわけではありません。
現在麻疹ワクチンをうちたいけれどもうてないという人がたくさんいます。最近でワクチン不足になったのは2012年頃のA型肝炎ワクチン、2014年の風疹などが記憶に新しいですが、今回の麻疹はこれらの騒ぎをはるかに上回ります。これはもっともであり、A型肝炎は食物を介して感染(経口感染)するか、性感染かであり、風疹は飛沫感染であり感染者に近づかなければ感染しないのに対し、麻疹は空気感染ですから同じ場所にいるだけで感染の可能性がでてきます。ですから予防するのが困難であり、人が集まるところに行く人(注1)は気が気でないでしょう。
ワクチン接種の原則は「理解してから接種する」であり(注2)、「かかりつけ医で接種する」のが基本です。かかりつけ医になら分からないことを何でも質問できるからです。(ですから、理解した上で「接種しない」という選択もあり得ます) したがって、谷口医院では、ワクチン接種は谷口医院をかかりつけ医にしている人を優先にしています。(しかし、今回の「パニック」は深刻で、谷口医院をかかりつけ医にされている人にも充分に行きわたらないのが現実です・・・)
一方、谷口医院をかかりつけ医にしていない人には、麻疹ワクチンについてはお断りしているのが現状です。先に述べたように、A型肝炎や風疹と異なり、麻疹の感染力はけた違いに強いですから、谷口医院を受診したことがないという人に対してもなんとかしたいのですが、どうしようもありません。
今回は、「かかりつけ医を持っていない」という人たちから寄せられた「健康だからかかりつけ医を持っていない。こんなときはどこに相談すればいいのか」という質問について考えていきたいと思います。
好んで病気になる人はいませんから、できることなら医療機関のお世話にはなりたくありませんし、なったとしても最小限におさえたいのは誰もが思うことです。もう10年以上も医療機関を受診していない、職場の健診でも異常が出たことがない、という人は健康の「優等生」であり、こう考えると「かかりつけ医を持っていないこと」がいいことのように感じられます。私自身も「再診しなくていいように生活習慣の改善につとめましょう」と毎日患者さんに話しています。医療機関はサービス業ではなく、どちらかといえば警察や消防署のようなものです。つまり、できることならお世話になりたくないけれども、何かあったときには頼りになる存在です。
ここで上手にかかりつけ医を利用しているといえる患者さんの例を紹介したいと思います。(ただし、本人が特定できないよう若干のアレンジを加えています)
40代男性のEさんは、糖尿病、高血圧、高脂血症(高TG血症)、肥満、喫煙、運動不足、と生活習慣病のオンパレードでした。しかし、谷口医院の看護師の指導を受け(谷口医院では生活指導は医師の私よりも看護師が中心におこなっています)、Eさんは「やる気」を出しました。それまでの不摂生な生活を改め、禁煙に成功、苦手といっていた運動に取り組み減量にも成功。そして薬を中止してもいいレベルに採血データが改善。谷口医院初診時から2年後の会社の健康診断ではなんとオールA! 現在Eさんは、年に一度、インフルエンザのワクチン目的で谷口医院を受診されています。
もう1例紹介します。今度は30代女性のFさんです。Fさんはアレルギー性鼻炎とアトピー性皮膚炎があり、風邪をひくと喘息の様な咳が続くという訴えで数年前に谷口医院を受診しました。生活習慣を聞くと、薬よりも環境の改善が重要そうです。寝室にネコを入れないようにする。絨毯やラグを処分しフローリングにする。空気清浄機を置く。部屋はまめに掃除する。花粉のシーズンにはマスクをし、帰宅後すぐにシャワーをする。規則正しい生活をおこない風邪の予防につとめる。などの工夫で、以前は毎日何種類も内服薬が必要だったのが、現在はマイルドな抗ヒスタミン薬を月に1~2錠使うだけです。また定期的な運動を始めたおかげで、持病の頭痛と便秘からも解放されたと言います。Eさんと同様、ここ数年間の受診は年に一度。インフルエンザのワクチンと、その日に抗ヒスタミン薬20錠程度の処方(Fさんにとっては1年分)を受け取るだけです。
Eさん、Fさんの例にあるように、どれだけ健康な人でもインフルエンザのワクチンは年に一度接種すべきです。(今回のコラムの趣旨から離れるためこれ以上は述べませんが、例えば米国CDC(米疾病対策センター)は「生後6カ月以上のすべての人はインフルエンザワクチンを接種すべき」と勧告しています(注3))。
このコラムを読んで、あなたが「では、現在かかりつけ医を持っていないので、かかりつけ医を持つきっかけとしてどこかのクリニックでインフルエンザのワクチンをうとう」と考えたとしましょう。それはとてもいい考えなのですが、残念ながら簡単ではないかもしれません。麻疹と同様、インフルエンザのワクチンも品薄になることがよくあるからです。ですから谷口医院では、毎年、インフルエンザのワクチンは「谷口医院を一度でも受診したことのある人だけ」とさせてもらっています。(ただし、ここ2~3年は、「なんとかうってもらえないですか」という問合せが多数寄せられているために、一度も谷口医院を受診したことがない人にも接種できるように検討中です。しかし、あまり増えすぎると、日ごろ受診している患者さんの待ち時間が長くなりますからこのあたりの加減には苦労しそうです)
生涯一度も警察のお世話にならないという人はいるかもしれませんが、医療機関を一度も受診せずに一生を終える、という人は極めて稀でしょう。ならば、何か健康上のことで気になることがあれば、なんでも相談できるクリニックを持っておくのが賢明です。もちろんかかりつけ医ですべての治療ができるわけではありません。谷口医院でも大きな病院を紹介することは頻繁にあり、大病院への紹介状を1枚も書かない日はほとんどありません。そして病院での検査や手術が終わればまた谷口医院に戻ってこられます。
最近受診した患者さんで、麻疹のワクチンを希望されていたものの在庫がなく接種できなかった、という人がいました。その患者さんは残念そうにされていましたが、麻疹についていくつかの疑問があり、それを私に尋ねました。空気感染と飛沫感染の違い、ワクチンの有用性と副作用、以前は1度の接種でいいと聞いていたのになぜ2回接種しなければならなくなったのか、外出時には何をすればいいのか、などを質問され、抗体検査をしていくことになりました(注4)。「ワクチンがうてなかったのは残念だけど、いろいろと学べてよかった。検査結果も聞きに来ますし、また他のことで気になることがあれば相談します」と言って帰られました。
我々としても希望されていたワクチンを供給できなかったことは心苦しいのですが、これを機に、正しい知識の習得に努めてもらい、かかりつけ医を持つ重要性を理解してもらえれば嬉しく思います。
注1:このような人の集まりのことを「マスギャザリング」と呼びます。下記「医療ニュース」を参照ください。
注2:興味のある方は下記を参考にしてください。
毎日新聞「医療プレミア」:「理解してから接種する「ワクチン」の本当の意味の効果」
注3:下記が参考になると思います。
毎日新聞「医療プレミア」:「インフルエンザワクチンは必要?不要?」
注4:麻疹ワクチンの誤解はたくさんありますが、最も有名なのは英国の元医師による「MMRワクチン論文捏造事件」でしょう。興味のある方は下記コラムを参照ください。
毎日新聞「医療プレミア」: 「麻疹感染者を増加させた「捏造論文」の罪」
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