マンスリーレポート

2016年11月7日 月曜日

2016年11月 Choosing Wiselyが日本を救う!

 ちょうど2年くらい前から私が日々の診療のなかで力を注いでいるのがchoosing wiselyです。過去のコラム(注1)にも書いたように、choosing wiselyの概念を普及させることによって、不要な医療行為がなくなり、患者さんの負担が減り、医師はストレスを減らすことができ、おまけに医療費も低下するという「いいことづくし」になります。

 2016年11月5日、大阪で開催されたあるセミナーでchoosing wiselyのセッションがあり、私も講師としてお呼びがかかったために参加してきました。このセミナーは医師を対象としたものですが、私が主張したことは一般の方にも知っていただきたいことです。そこで、今回はそのセッションで私が話した内容を簡単に紹介したいと思います。

 まず、choosing wiselyの言葉の意味について。直訳すれば「賢く選択」ですが、これでは何のことかよく分かりません。私個人の意見としては「不要な医療をやめる」くらいが一番いいのではないかと思っています。

 choosing wiselyは元々、ABIM(アメリカ内科学委員会、American Board of Internal Medicine)が、いくつもの学会に働きかけ「不要な医療行為」を挙げてもらい、それをリストにしたものです。これが世界中の医師に評価されたのですが、ここで”不自然さ”を感じないでしょうか。なぜなら、「不要な医療行為」をおこなわないのは、当たり前のことだからです。

 先日のセッションで私が主張したことの1つがこの点です。「不要な医療」をやめるのは当然のことであり、今さら強調することではありません。つまり、医師からみたときのchoosing wiselyの原理原則は医師にとって「自明の理」であり、choosing wiselyが有用なのは、具体的な医療行為のリストを参照することで、自分自身の医療に誤りがないかを確認することに他なりません。

 choosing wiselyの原理原則が自明であることを確認するために、私は医師にとっての3つのミッションを引き合いに出しました。1つめは、「ヒポクラテスの誓い」の一部です。そこには「自身の能力と判断に従って、患者に利すると思う治療法を選択し、害と知る治療法を決して選択しない」とあります。軽微な頭部外傷でのCT撮影は「被爆」という害がありますし、ベンゾジアゼピン系睡眠薬の安易な処方には「依存性」という害があります。

 2つめは、日本医師会の『医の倫理綱領』にある「医師は医業にあたって営利を目的としない」です。医業が営利行為でないのは当たり前なのですが、choosing wiselyの議論になると、医療機関が儲からなくなるから普及しないのでは?、という声が上がることがあります。しかし、初めから医療機関は営利を目的としていない、ということを確認しておくべきかと考えてこれを述べました。

 3つめは、ドイツの医学者フーフェランドが著した『Enchiridion Medicum』を緒方洪庵翻が翻訳した『扶氏医戒之略』の一部です。緒方洪庵は、医者に対する戒めを適塾の生徒たちへの教えとし、「医療費はできるだけ少なくすることに注意するべきである」「世間のすべての人から好意をもってみられるよう心がける必要がある。賭けごと、大酒、好色、利益に欲深いというようなことは言語道断である」と説いています(現代語訳は馬場茂明著「聴診器」より)。改めて主張すべきことではないかもしれませんが、再認識してほしいという意味で紹介しました。

 ついで、私は患者さんからの言葉で医師の「心が折れる」瞬間を紹介し、これらはchoosing wiselyを普及させることで解消できるということを述べました。具体的にみていきましょう。

医師: 「このじんましんは、非アレルギー性のものであり、血液検査は不要です」
患者A: 「いいから検査してください! 患者の希望を聞くのが医者の仕事でしょ!!」

医師: 「あなたの風邪はまず間違いなくウイルス感染であり、抗菌薬は不要です」
患者B: 「えっ、お金払うのあたしですよね・・・」

医師:「それはベンゾジアゼピンといってとても依存性の強い薬です。簡単に処方できる薬ではありません」
患者C:「もういいです! 友達にわけてもらいます!」

医師: 「その症状に点滴は不要です」
患者D: 「金払うって言うてるやろ! 前の病院はしてくれたぞ!!」

 米国版のchoosing wisely(注2)では、患者A,B,Cのことについては、すべて記載があります(注3)。例えば、患者Aについて言えば、「じんましんで血液検査を安易にすべきでない」といったことが書かれています。もしも、患者A,B,Cが、choosing wiselyの概念を知っていて、医療機関を受診する前に、ウェブサイトでこれらを調べていれば、「自分が希望する検査や治療は安易にはおこなうべきではないんだ」ということを理解してもらえる可能性があります。そうすれば不要な受診を避けられたかもしれません。

 あるいは、受診してからでも、診察室でchoosing wiselyのウェブサイトを見てもらえば、希望している検査や投薬が不要であることを納得してもらえるかもしれません。ですから、choosing wiselyの日本版のリストを早急に構築すべきではないか、と私は考えています。

 しかし「日本版リスト」は単に「米国版」の翻訳であってはなりません。例えば、患者Cで取り上げた若年者のベンゾジアゼピン依存症は、日本の方が深刻度が高く、米国のchoosing wiselyで取り上げられているのは高齢者に対する注意だけです。また、患者Dの点滴の問題については、米国のchoosing wiselyについてはまったく記載がありません。過去にも紹介しましたが日本には「点滴神話」というものがあり、科学的な有効性(エビデンス)が認められていないのにもかかわらず、点滴すれば早く治る、と思っている人が大勢いるのです。

 単なる翻訳ではこういった日本の実情が反映されませんから、日本の医療事情をよく吟味したうえで「日本版」のchoosing wiselyをつくらなければならない、というのが私の考えです。

 2016年10月15日、日本版choosing wiselyのキックオフセミナーが東京で開催されました。残念ながら私は参加できなかったのですが、このセミナーにはChoosing Wisely Canada代表でトロント大学教授のWendy Levinson氏が講演をされました。大盛況だったようで、choosing wiselyに関心を持つ医師が大勢いることが証明されたといっていいと思います。

 現時点では、このchoosing wiselyという概念が一般の方(患者さん)に充分に普及しているとは言えません。しかし、これを理解することで、医療機関の不要な受診がなくなり、被爆する機会が減り、針を刺すという痛い思いをすることが減り、不要な薬を処方されることもなくなり、時間とお金を節約することができます。我々医師も、先にあげたような「心が折れる」ことがなくなりますし、医療費の削減にもつながるのです。

 こんな「いいことづくし」のchoosing wisely。絶対に普及させなければならない、と私は考えています。

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注1;下記(メディカルエッセイ)を参照ください。

第144回(2015年1月) Choosing Wisely(不要な医療をやめる)(前編)
第145回(2015年2月) Choosing Wisely(不要な医療をやめる)(中編)
第146回(2015年3月) Choosing Wisely(不要な医療をやめる)(後編) 

注2:下記が米国版choosing wiselyのウェブサイトです。

http://www.choosingwisely.org/

注3:じんましん、抗菌薬、ベンゾジアゼピンのchoosing wiselyについては下記を参照ください。(ベンゾジアゼピンについては「高齢者に使用すべきない」という内容で、本文で取り上げたのは若い女性です。米国のchoosing wiselyでは若者へのベンゾジアゼピンについて記載したものがありません。これはおそらく若年者のベンゾジアゼピン依存症の問題は、米国では日本ほど深刻でないことが理由だと思われます)

http://www.choosingwisely.org/societies/american-academy-of-allergy-asthma-immunology/

http://www.choosingwisely.org/patient-resources/antibiotics/

http://www.choosingwisely.org/clinician-lists/american-geriatrics-society-benzodiazepines-sedative-hypnotics-for-insomnia-in-older-adults/

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2016年10月11日 火曜日

2016年10月 折れない心のつくり方

 なぜか最近、精神症状を訴える患者さんが増えています。そして、目立つのが「掲示板やブログで悪口を書かれて・・・」という理由です。

 ここ数年は「炎上」という言葉をよく聞きます。有名人の場合はその後謝罪するというのがお決まりのパターンですが、太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)で精神症状を訴えるのは患者さんのコメントが炎上を招いたわけではありません。ひとり、もしくは数人の匿名の者が書き込んだ言葉で精神的なダメージを負っているのです。

 職業でいえば、水商売の女性(キャバクラ譲と呼ぶのでしょうか)が目立ちますが、レストラン・居酒屋の店長さんが「食べログ」などで悪口を書かれて、という話もよく聞きます。美容師さんもいます。また、職業に関係なく個人のブログで誹謗中傷された、という人もいます。

 眠れない、動悸がする、不安とイライラが交叉して苦しい、何とかしてほしい・・、と言って相談に来られます。不安を和らげる薬を処方することもないわけではありませんが、こういうケースでは、通常、考え方を変えるよう助言し薬を用いないようにするのが私のやり方です。

 まず、こういったことで悩む人たちは元々真面目でナイーブな人が多く、他人の何気ない言葉で傷つきやすい性格を持っています。たとえ、抗不安薬で一時的な気分の改善を図ったところで、再び「書き込み」を読んで落ち込むことになります。そして、こういう人たちに限って、読まなくてもいいのに、まるで自分の悪口が他にないかを探すようにネットを探索するのです。

 それができれば苦労しない、と言われそうですが、最も有効な方法は「ネット上の言葉を一切気にしない」というものです。そもそも、その掲示板やブログを世界中のどれだけの人が見ているというのでしょう。水商売の女性は、自分の売り上げに関係する、と言いますが、その人の同僚が客を装って書込みしている可能性もあるでしょう。それに、世論はそれほどバカではありません。

 もしも私がキャバクラに行くことがあれば(行ったことがありませんし、生涯行かないとは思いますが)、ネット上で評判の悪い女性に会うことを楽しみにすると思います。なぜなら、こういう情報は個人的な恨みや妬みで書かれていることが多く、事実を反映していないからです。そして、このように考えるのは私だけではないはずです。

 レストランや居酒屋についても、書込みは一切当てにならないと私は考えています。私はそのような書込みをしたことがありませんが、もしも素晴らしいレストラン・居酒屋を見つければ、不特定多数の人に教えたくありませんから何も書きません。次に行ったときに満席であれば自分が困るからです。こんな私は意地汚いのかもしれませんが、他人に推薦したい店を見つけたときは、仲の良い友達だけに教えるようにするのが普通の感覚ではないでしょうか。逆に、とても不快な思いをしたとしても、私なら「書込みに時間をかけるのは馬鹿らしい。それに、読む人が賢明ならそれが単なる個人の恨みと思うだろう」と考え、やはり何も書きません。よく「同じ被害者を出さないために・・・」などと言う人がいますが、これは「悪口を書く言い訳」としての大義名分が欲しいだけです。

 人は本能的に、その人が「信頼できるかどうか」を見抜く力を持っています。これは鍛えて身につく力ではないかもしれませんが、ある程度はノウハウがあります。例えば、私はタクシードライバーに横柄な態度をとる人間を信用しません。このサイトで過去に何度か「医師の大半は高い人格を持っている」と書きましたが、タクシードライバーに偉そうな態度をとる医師を見たことがありません。

 キャバクラは(行ったことがないので)分かりませんが、レストラン・居酒屋なら、店員(特に店長)の態度、言葉、ミスがあったときの対応などでその店がいい店かどうかの判断ができます。もちろん美味しくなければ困りますが、頼んだメニューが口に合わなければおすすめメニューを聞いて、そのときどのような対応をしてくれるかを見ればいいのです。

 他人の評価を気にしすぎる人に「いい例」を紹介したいと思います。過去に何度か述べたことがありますが、私は医学部受験を決意する前から稲盛和夫さんのファンです。稲盛さんの名言「動機善なりや、私心なかりしか」は私の座右の銘のひとつです(注1)。HIV/AIDSに貢献するNPO法人GINAを立ち上げたときも、都心部で主に働く若い人を対象とし「どんなことでも相談してください」という医療機関が必要と考え、太融寺町谷口医院を開院したときも、稲盛さんのこの言葉を何度も反芻しました。

 稲盛和夫さんの言葉を座右の銘にしているのは私だけではないでしょう。また、京セラの社員の人たちからみれば「神」のような存在なのかと思っていたのですが、そういうわけでもなさそうです。Amazonで稲盛さんの本の書評をみてみると、否定的なコメントも少なくなく、なかには京セラの元社員が稲盛さんをこき下ろしているようなものもあります。稲盛さんのような人でさえ、悪く言う人がいるのです。

 もうひとつ例を挙げましょう。最近オンラインマガジンの『クーリエ・ジャポン』にケイトリン・ロバーツというカナダの女性の話が紹介されました(注2)。26歳のロバーツさんは「ボディ・プライド」と呼ばれるワークショップを開催しています。このワークショップでは参加者全員が裸になり、ありのままの自分の身体を受け入れることを目的としているそうです。

 このようなことをすると、SNSで話題にならないはずがありません。案の定、あるリベンジポルノのスレッドに彼女の裸の写真が掲載され、「胸くそ悪い女だが、ベッドのなかでは最高!」との匿名の書き込みがあったそうです。すると、ロバートさんは、なんとそのスレッドに飛び込んで、「無料の宣伝をありがとう!」と返したのです。

 通常、ここまでする必要はありませんが、匿名の書き込みなどすべて無視すればいい、というのが私の考えです。しかし、「それができれば苦労しないよ・・・」という声が聞こえてきそうです。では、どうすればいいか。その答えは実は”簡単”です。

 あなた自身が日ごろから誠実な態度を示し、他人から信頼されるようにすればいいのです。人は、見せかけだけの、つまり自分をよく見せたいからおこなう”善行”と、誠実な心から生まれる善行を見分けることができると私は考えています。そして、誠実な心から生まれる行動は他人からの「信頼」となります。「信頼」を積み重ねていけば、それは「信頼残高」を増やすことになります(注3)。いったん築き上げた信頼残高が不動のものとなるわけではありません。いくら信頼残高を増やしても、たった一度の裏切り行為があれば一瞬で吹き飛びます。仲睦まじい夫婦が、ただ一度の暴言・暴力・不倫などで崩壊することを想像すればわかるでしょう。つまり残高を築くには日々の誠実な態度が欠かせない一方で、いくら築き上げても不誠実な行為があれば一瞬で吹き飛ぶもの。それが「信頼」なのです。

 もしもあなたが、謂れのない悪口を書きこまれたり、あるいは周囲の人から冷たくされたりしたときも、慌てる必要はありません。まずは、いつも誠実な態度をとっているか、日ごろ自分が接している人に対して「信頼」される言動をとっているか、そして「信頼残高」は蓄積されているか、を見直してみてください。あなたが「誠実」であり「信頼」される態度を示していれば、何も慌てる必要はありません。もしも自分の「誠実」に自信がないなら、書き込みや周囲の態度に悩むのではなく、その時間をもっと「誠実」になるための努力に費やせばいいのです。

 折れない心の作り方。それは、いつも誠実な態度で他人と接し、信頼を築き上げていくことに他なりません。たとえ、あなたの悪口を言う人がいたとしてもあなたを信頼している人があなたを裏切ることはないのです。

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注1:下記を参照ください。

メディカルエッセイ第86回(2010年3月)「動機善なりや、私心なかりしか」

注2:下記を参照ください。

https://courrier.jp/translation/63821/

注3:この「信頼残高」という言葉は私がつくったものではなく、かなり有名な言葉です。発端はおそらく『7つの習慣』(スティーブン・R.コヴィー著)だと思います。私も『7つの習慣』でこの言葉を知り、大きな衝撃を受けました。

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2016年9月10日 土曜日

2016年9月 麻疹騒動から考える、かかりつけ医を持たないリスク

 幕張メッセのコンサートに麻疹(はしか)罹患者が参加していたことと、関西空港での集団感染を受け、現在麻疹が「パニック」と呼べるほどの状態になっています。実際の感染者は、例えばWHOが介入するほどの大規模なものにはなっていませんが、麻疹にかかるのではないか、麻疹のワクチンをすぐに打たなければ・・・、と考える人が増え、多くの医療機関に麻疹関連の問合せが殺到しています。

 太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)も例外ではなく、朝から晩まで麻疹の問合せの電話やメールが次々と寄せられます。ワクチンというのは、使用期限が短く「在庫確保」は他の薬のようにはできません。また、製造するのにかなりの時間がかかり、需要が増えたからといってすぐに増産体制に入れるわけではありません。

 現在麻疹ワクチンをうちたいけれどもうてないという人がたくさんいます。最近でワクチン不足になったのは2012年頃のA型肝炎ワクチン、2014年の風疹などが記憶に新しいですが、今回の麻疹はこれらの騒ぎをはるかに上回ります。これはもっともであり、A型肝炎は食物を介して感染(経口感染)するか、性感染かであり、風疹は飛沫感染であり感染者に近づかなければ感染しないのに対し、麻疹は空気感染ですから同じ場所にいるだけで感染の可能性がでてきます。ですから予防するのが困難であり、人が集まるところに行く人(注1)は気が気でないでしょう。

 ワクチン接種の原則は「理解してから接種する」であり(注2)、「かかりつけ医で接種する」のが基本です。かかりつけ医になら分からないことを何でも質問できるからです。(ですから、理解した上で「接種しない」という選択もあり得ます) したがって、谷口医院では、ワクチン接種は谷口医院をかかりつけ医にしている人を優先にしています。(しかし、今回の「パニック」は深刻で、谷口医院をかかりつけ医にされている人にも充分に行きわたらないのが現実です・・・)

 一方、谷口医院をかかりつけ医にしていない人には、麻疹ワクチンについてはお断りしているのが現状です。先に述べたように、A型肝炎や風疹と異なり、麻疹の感染力はけた違いに強いですから、谷口医院を受診したことがないという人に対してもなんとかしたいのですが、どうしようもありません。

 今回は、「かかりつけ医を持っていない」という人たちから寄せられた「健康だからかかりつけ医を持っていない。こんなときはどこに相談すればいいのか」という質問について考えていきたいと思います。

 好んで病気になる人はいませんから、できることなら医療機関のお世話にはなりたくありませんし、なったとしても最小限におさえたいのは誰もが思うことです。もう10年以上も医療機関を受診していない、職場の健診でも異常が出たことがない、という人は健康の「優等生」であり、こう考えると「かかりつけ医を持っていないこと」がいいことのように感じられます。私自身も「再診しなくていいように生活習慣の改善につとめましょう」と毎日患者さんに話しています。医療機関はサービス業ではなく、どちらかといえば警察や消防署のようなものです。つまり、できることならお世話になりたくないけれども、何かあったときには頼りになる存在です。

 ここで上手にかかりつけ医を利用しているといえる患者さんの例を紹介したいと思います。(ただし、本人が特定できないよう若干のアレンジを加えています)

 40代男性のEさんは、糖尿病、高血圧、高脂血症(高TG血症)、肥満、喫煙、運動不足、と生活習慣病のオンパレードでした。しかし、谷口医院の看護師の指導を受け(谷口医院では生活指導は医師の私よりも看護師が中心におこなっています)、Eさんは「やる気」を出しました。それまでの不摂生な生活を改め、禁煙に成功、苦手といっていた運動に取り組み減量にも成功。そして薬を中止してもいいレベルに採血データが改善。谷口医院初診時から2年後の会社の健康診断ではなんとオールA! 現在Eさんは、年に一度、インフルエンザのワクチン目的で谷口医院を受診されています。

 もう1例紹介します。今度は30代女性のFさんです。Fさんはアレルギー性鼻炎とアトピー性皮膚炎があり、風邪をひくと喘息の様な咳が続くという訴えで数年前に谷口医院を受診しました。生活習慣を聞くと、薬よりも環境の改善が重要そうです。寝室にネコを入れないようにする。絨毯やラグを処分しフローリングにする。空気清浄機を置く。部屋はまめに掃除する。花粉のシーズンにはマスクをし、帰宅後すぐにシャワーをする。規則正しい生活をおこない風邪の予防につとめる。などの工夫で、以前は毎日何種類も内服薬が必要だったのが、現在はマイルドな抗ヒスタミン薬を月に1~2錠使うだけです。また定期的な運動を始めたおかげで、持病の頭痛と便秘からも解放されたと言います。Eさんと同様、ここ数年間の受診は年に一度。インフルエンザのワクチンと、その日に抗ヒスタミン薬20錠程度の処方(Fさんにとっては1年分)を受け取るだけです。

 Eさん、Fさんの例にあるように、どれだけ健康な人でもインフルエンザのワクチンは年に一度接種すべきです。(今回のコラムの趣旨から離れるためこれ以上は述べませんが、例えば米国CDC(米疾病対策センター)は「生後6カ月以上のすべての人はインフルエンザワクチンを接種すべき」と勧告しています(注3))。

 このコラムを読んで、あなたが「では、現在かかりつけ医を持っていないので、かかりつけ医を持つきっかけとしてどこかのクリニックでインフルエンザのワクチンをうとう」と考えたとしましょう。それはとてもいい考えなのですが、残念ながら簡単ではないかもしれません。麻疹と同様、インフルエンザのワクチンも品薄になることがよくあるからです。ですから谷口医院では、毎年、インフルエンザのワクチンは「谷口医院を一度でも受診したことのある人だけ」とさせてもらっています。(ただし、ここ2~3年は、「なんとかうってもらえないですか」という問合せが多数寄せられているために、一度も谷口医院を受診したことがない人にも接種できるように検討中です。しかし、あまり増えすぎると、日ごろ受診している患者さんの待ち時間が長くなりますからこのあたりの加減には苦労しそうです)

 生涯一度も警察のお世話にならないという人はいるかもしれませんが、医療機関を一度も受診せずに一生を終える、という人は極めて稀でしょう。ならば、何か健康上のことで気になることがあれば、なんでも相談できるクリニックを持っておくのが賢明です。もちろんかかりつけ医ですべての治療ができるわけではありません。谷口医院でも大きな病院を紹介することは頻繁にあり、大病院への紹介状を1枚も書かない日はほとんどありません。そして病院での検査や手術が終わればまた谷口医院に戻ってこられます。

 最近受診した患者さんで、麻疹のワクチンを希望されていたものの在庫がなく接種できなかった、という人がいました。その患者さんは残念そうにされていましたが、麻疹についていくつかの疑問があり、それを私に尋ねました。空気感染と飛沫感染の違い、ワクチンの有用性と副作用、以前は1度の接種でいいと聞いていたのになぜ2回接種しなければならなくなったのか、外出時には何をすればいいのか、などを質問され、抗体検査をしていくことになりました(注4)。「ワクチンがうてなかったのは残念だけど、いろいろと学べてよかった。検査結果も聞きに来ますし、また他のことで気になることがあれば相談します」と言って帰られました。

 我々としても希望されていたワクチンを供給できなかったことは心苦しいのですが、これを機に、正しい知識の習得に努めてもらい、かかりつけ医を持つ重要性を理解してもらえれば嬉しく思います。

注1:このような人の集まりのことを「マスギャザリング」と呼びます。下記「医療ニュース」を参照ください。

医療ニュース2016年8月31日「麻疹とマスギャザリング」

注2:興味のある方は下記を参考にしてください。

毎日新聞「医療プレミア」:「理解してから接種する「ワクチン」の本当の意味の効果」

注3:下記が参考になると思います。

毎日新聞「医療プレミア」:「インフルエンザワクチンは必要?不要?」

注4:麻疹ワクチンの誤解はたくさんありますが、最も有名なのは英国の元医師による「MMRワクチン論文捏造事件」でしょう。興味のある方は下記コラムを参照ください。

毎日新聞「医療プレミア」: 「麻疹感染者を増加させた「捏造論文」の罪」

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2016年7月11日 月曜日

2016年7月 その医学部受験、後悔しませんか?

 医学部の人気が上昇し、偏差値がかつてないほど上昇しているそうです。『週刊ダイヤモンド』2016年6月18日号の特集は「医学部&医者」で、医学部受験の実態を詳しく紹介していました。倍率が最も高い東海大学医学部ではなんと85.7倍。63人の枠に5,398人が押し寄せたそうです。

 しかし、そこまでして医師になりたいという人は本当にそんなに多いのでしょうか。私は医学部入学前に文系(社会学部)の大学を卒業しており、その後4年間の会社員生活をしていましたから、医師以外の友達や先輩と話す機会は今もあります。そういう友達たちに医師の生活の話をすると、ほとんどの人が「自分は医師にはなれない。いや、なりたくない」と言います。例を挙げましょう。

 以前私が勤務していた病院のある女性医師の話です。彼女には結婚まで考えているパートナーがいました。ところが医師になってから「すれ違い」が増え、医師の世界のことを理解してもらえないと言います。次のような感じです。

(22時頃、久しぶりのデート。レストランを出てこれからどうしようかと迷っているところに病院からの電話をとった女性医師。その後の展開は・・・)

女性医師:「緊急内視鏡の患者さんが来たから病院に戻らないといけなくなったの」

パートナー:「えっ、今から? この前もそれで一緒に行った映画の試写会、途中で抜けて出て行ったじゃないか。それに、こうやって突然呼び出されても手当がついたり代休がもらえたりするわけじゃないんだろ。そんなの労働法違反だよ」

女性医師:「労働法なんて言ってたら医師の仕事は務まらないの」

パートナー:「先週の日曜も学会発表だとか言って、東京に出張に行ってたよね。あれもお金がでないのか」

女性医師:「当たり前よ。そんなの出るわけないでしょ。医者とはそういう職業なの。うちの病院なんか交通費を出してくれるからまだましよ。交通費も宿泊費も自腹で、という病院も少なくないのよ。患者さんを待たせるわけにはいかないからもう行くね・・・」

 このパートナーの男性は、彼女を束縛しているわけでも無茶なことを言っているわけでもありません。やはり”おかしい”のは医師の方だと私も思います。しかし、これが現実なのです。タイムカードは病院によってあることもないこともありますが、医師の残業代というのは非常に曖昧で、収入が労働時間を反映しているわけではありません。ほとんどの医師は早朝から深夜まで働き尽くしで、休日も入院患者さんを診に行ったり、学会や研究会に参加したりします。1日中家にいるという休日はめったになく、あったとしても自宅で論文や教科書を読んでいる医師がほとんどでしょう。

 私は産業医の仕事もしていますから、過重労働がある労働者と面談をする機会があります。現行の労働安全衛生法では、月平均の過重労働(平日の残業時間+休日の労働時間)が80時間を超えるか、ひと月でも100時間を超えると、産業医との面談をおこなわなければなりません。そこで私は、「80時間を超えると心身ともに異常が出現する可能性が増え、仕事ができなくなって、最悪の場合は「過労死」も考えないといけなくなる」、といったことを話します。しかし、自分自身のことを振り返ってみると、月の過重労働は「労働時間」の解釈の仕方によっては軽く150時間(全労働時間でいえば310時間)を超えます。それが何年も続いているというか、医師になってからずっとこの調子です。現在は夜中に起こされることがないだけましです。

 ただ、これは「労働時間」を、教科書や論文を読む時間、患者さんの問い合わせにメールで回答したり、わからないことを他の医師に質問したりする時間も入れ、さらに、学会や研究会の参加時間も含めてのことです。論文を読んだり学会に参加したりするのは、「自分の勉強のため」であり「仕事ではない」という解釈をすれば、労働時間は大きく減少します。(それでも、診察時間とカルテやその他必要書類を書く時間だけを労働時間としたとしても過重労働は月100時間を超えますが・・・)

 では、なぜこんなにも医師の労働時間は長いのでしょうか。答えは自明であり、それは医師不足だからです。勤務医であれば、夜間の当直業務から逃れることはできません。絶え間なく救急車が入ってきて一睡もできないことだってあるのです。それで翌朝は通常通りの仕事が待っています。開業医であったとしても在宅や往診をおこなっている医師は24時間365日、患者さんからの電話に待機しなければなりません。現在の私は夜間の当直業務はしていませんし、夜中の電話はとらないようにしています。(クリニックを開始した初期は電話を取っていたのですが、緊急性のない電話があまりにも多く、現在は夜間は電話を取らないことにさせてもらっています) それでも労働時間は先に述べた通りです。

 ならば医師の数を大幅に増やせばいいではないか、となるわけで、私は昔からそう思っています。拙書でも述べたことがありますが、私は医師の数を現在の倍にして労働時間と収入を半分にすべきと考えています。医師の年収の調査はときどきおこなわれており、冒頭で紹介した『週刊ダイヤモンド』の記事によれば、職業別平均年収ランキングで医師は2位で1098.2万円もあるのです! ちなみに1位は航空機操縦士で1531.5万円、3位は弁護士の1095.4万円です。

 年収1千万円もいらないから、休みが欲しい、家族と過ごす時間を大切にしたい、と考えるのが”普通の”感性だと私は思いますが、現実は先に述べたような状況です。では、そんな非人間的な生活を強いられているなら、医師が一致団結して医師数を増やしてもらえるように厚労省に訴えればいいではないか、と考えたくなります。しかし、不思議なことに、医師数を増やしてほしいと考えている医師はなぜかそう多くないのです。

 医師不足問題にいち早く取り組み市民活動もされている本田宏医師の著書などによると、「医師は増やすべき」という本田氏の主張に反論する医師も多いそうです。もうひとつ例を挙げましょう。医師の総合医療情報サイト「m3.com」が2016年4月に全国81医学部の学長を対象としたアンケートを実施しています。そのアンケートの項目のひとつに「医学部の定員を増やすべきか、減らすべきか」というものがあります。結果は、「減らすべき」が64%、「現状維持」が36%で、「増やすべき」という回答は皆無だったのです。

 つまり、本田宏医師や私のように「医師を増やすべき」と考えている医師は少数派であり、多くの医師は医師増員に反対、つまり「現在の労働時間に不満はない」と考えているということになります。あるいは、「現在の収入を維持したいから長時間勤務は辛いけれど頑張り続ける」と考えているのかもしれません。たしかに、医師不足が続いている限り、医師は高収入を維持できます。私を例にとってみてみましょう。

 私がこれまでに最も年収が多かったのは、クリニックをオープンする前の年です。実はもう少し早くオープンさせる予定でいたのですが、予定していたビルに直前で入れなくなり計画が狂ってしまいました(注1)。そのため、クリニックのオープンは延期とし、当時立ち上げたばかりのNPO法人GINAの活動に力を入れ、2ヶ月に一度程度のペースでタイに渡航していました。そして、日本に滞在している間に複数の病院や診療所でアルバイトをすることにしたのです。どこの医療機関も医師不足ですから、医師のアルバイトというのは、単発のものでも週に一度のものでも簡単にみつけられますし、アルバイト代は「破格」です。救急車がひっきりなしに入ってくるような病院であれば一晩10万円以上なんてこともあります。このようなアルバイトを続けていると収入は驚くほど高くなり、この年の私の年収はなんと1500万円を超えました! これがこれまでの私の年収の最高額で、今後これを超える年は、再び同じような生活をしない限りは起こりえません。もっともこの年に稼いだ収入は、半分は税金で持っていかれましたし、GINAの関連で寄付などに大半を使い、手元にはほとんど残りませんでしたが・・・。

 現在の私はこの逆の立場です。つまり診療所をオープンさせていますから、自分が休みたければ、他の医師を雇うということが理屈の上では可能です。しかし、医師不足の中、私が以前もらっていたようなお金を今度は支払わなければなりません。そうすると、当院のように一人当たりの診察にそれなりに時間をとる診療スタイルであれば、一気に赤字になり、診療を続ければ続けるほど赤字が膨らんでいくことになります。もちろんそんなことはできませんから、結局のところ、「自分の勉強のため」という大義名分を思い出しながら、これまで通り長時間労働に勤しむしかない、ということになります。

 ただ、私自身はそれでいいと思うようになってきました。残された人生、自分の最大のミッションのひとつは「医療に貢献すること」です。しかも、私にとっては教科書や論文を読んだり、学会や研究会に参加したり、他の医師たちとメールで症例の検討をおこなったりするのは楽しいことであり、その楽しさが単に楽しいとうだけでなく医療への貢献にもつながるのです。楽しくて貢献できるなら、長時間労働も厭うべきでないというのは「自然で当然」なことなのかもしれません。

 しかし、これから医学部を目指すという人は、本当にそのような生活でいいのかどうか再度考えてみた方がいいでしょう。最初に紹介した女性医師はその婚約者とその後どうなったのか。今度どこかで会えば聞いてみようと思いますが、苗字は今も変わっていないようです・・・。

注1:詳しくは下記を参照ください
マンスリーレポート2006年3月号「天国から地獄へ」

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2016年6月10日 金曜日

2016年6月 己の身体で勝負するということ

 「お前、まだ△〇◇□大学って言うてるんか?」

 これは、少し前に偶然再会した旧友から言われた言葉で、私はこれを聞いて思わず赤面してしまいました。この旧友は私が18歳、つまり関西学院大学(以下「関学」)に入学してすぐ知り合い仲良くなった同級生で、関学の1回生の頃、学校で会うとよく話をしていた仲です。

 入学直後、私は至るところで「唯一の志望校、関学に入学できて本当に良かった! 自分はなんて幸せなんだろう」と言いまくって、関学がいかに素晴らしい大学であるかということを誰彼かまわずに力説していました。それが、1回生の夏休みが終わり、後期の授業が始まる頃には、他人に自分が関学の学生であることを隠すようになったのです。隠しただけではありません。今思えば愚かなことですが、名前さえ書けば合格できる、と当時言われていたような偏差値の極めて低い△〇◇□大学の学生だ、と言いだしたのです。最近再会した旧友がそれを覚えていて指摘され、恥ずかしさがこみ上げてきたというわけです。

 なぜ夢にまでみた理想の大学に入学できたのにもかかわらず、その数ヶ月後にはその憧れの関学を否定するようなことを言い出したのか。それは私のアルバイトでの経験によります。以前にもどこかに書きましたが、私は大学生時代におこなったいくつかのアルバイトで、それまでの考えを根底から覆される体験をしたのです。

 まず、自分が全然仕事ができず、受験勉強で得た知識など微塵も役立たないことを知りました。しかも偏差値の高さと仕事のできる・できないには逆の相関関係がある、つまり(関学のような)偏差値の高い大学生は無能であり、逆に聞いたこともないような大学生がバリバリと仕事をこなすことに気づいたのです。もちろん、このようなことが事実であるはずもなく、後に「仕事(どのような仕事かにもよりますが)のできる・できないは偏差値にはまったく関係が無い」ことを理解するようになるのですが、18歳当時の私は、自分の無能さと、偏差値の低い大学に行っている仕事がよくできる同僚や先輩の魅力を痛いほど思い知らされ、「偏差値が低い方が仕事ができる」といった極端な考えを持つようになったのです。そして、自分も早く仕事ができるようになりたいと思う気持ちから、関学の大学生であることを恥じるようにまでなってしまったのです。

 このような考えは無茶苦茶であり、四半世紀後に冒頭で紹介した旧友の言葉を聞いたときは「穴があれば入りたい」気持ちになりました。しかし、当時の私が偏差値の低い大学の先輩や同僚達から学んだことは、それまでの価値観をひっくり返すほどの衝撃だったのです。例えば、私がおこなっていたアルバイトのひとつに旅行会社での現地駐在があります。当時の旅行業界では(もちろんすべての会社ではありませんが)、予約システムがいい加減で、旅先に到着したが予約されているはずの宿に宿泊できず、他にも空いているところがない、などということは日常茶飯事でした。こういう状況で、関学など偏差値の高い大学生はあたふたするだけで何もできません。

 しかし、こんなときにも怒り心頭のお客さんを上手くもてなし、後に感謝の手紙をもらうような強者もいるのです。彼らは、例えば翌朝に早朝の便で帰るノリの良い若者のグループを見つけて、「今日は朝までパーティをするからチェックアウトの準備をして宴会場に集合!」と誘い出します。そして、その日に到着した別の客をその部屋に案内するという”荒技”をいとも簡単にやってしまうのです。巧みな話術やパフォーマンスなどで、朝まで客を飽きさせない先輩たちの人心掌握のパワーにはただただ圧倒されるばかりでした。

 仕事(アルバイト)の場面だけではありません。当時私が仲良くしていた女性たちは「関学とか偏差値の高い大学の男は話がおもんない。女は男の所属を見てるわけやない。男そのものを見てるんや」と言っていました。ある女性は就職後東京に研修に行き「合コン」に参加して「東京の男どもには驚いた」と言っていました。まだ盛り上がってもいない最初の段階で出身大学を聞かれたというのです。しかも、その大学(短大)は関西でもそれほど有名でないのにだいたいの偏差値を言われたというのです。さらに、「〇〇大学の学生は~」などと、関西人でも聞いたことのないような関西の大学の話をされ、さらに東京の大学の特徴の話を延々と語り出したというのです。この女性は「そんな話おもんないねん! 他に話題ないの?」と怒鳴って途中で退席したそうです。

 憧れの関学に入学した私はその数ヶ月後、授業にまったくついていけなかったことから嫌気がさし、退学することも考えていました。(そんなとき、偶然にもアルバイト先で出会った関学社会学部の先輩に「社会学」の魅力を聞くことになり、退学ではなく社会学部編入を目指すことになったという話は過去のコラムで述べました) 

 1回生の夏休みが終わった後期には大学に行ってもおもしろいことは何もなく、周囲の学生がみんな”子供”に見えたことを覚えています。怒り心頭のお客さんを笑わせて感謝の手紙をもらうような先輩たちと一緒に時間を過ごせば退屈な大学でそう感じるのも無理はありません。

 当時私が尊敬していた先輩や同僚から学んだことは「己の身体で勝負せよ!」ということです。学歴や家柄などそんなものは何の役にも立たない、頼れるのは自分自身だけだ、ということです。

「己の身体で勝負せよ!」この言葉を金科玉条とするようになった私は、就職活動もあえて大企業を避けました。大企業の歯車になることを嫌い、企業内の競争が不毛だと思っていたことに加え、もうひとつ私が大企業を避けた理由は「大企業〇〇会社の谷口恭」と思われるのがイヤだったからです。名刺を見せれば会ってくれるような立場の人間にはなりたくなかったのです。名前の通っていない中小企業であれば、名刺や肩書きは役に立たず、自分自身の魅力をつくり上げ理解してもらうしかありません。

 その後私はその会社に4年勤務し多くのことを学びました。自分がいかに未熟であったかを知るようになり、冒頭で紹介したエピソードのように自分の大学を偽るということがいかにバカげていたかを理解するようになり、自分の極端な考えが少しずつ修正されていきました。そして、人間的に魅力のある人たちに共通することとして「誠実」「謙虚」が不可欠であることを知るようになりました。また、この頃に読んだ稲盛和夫さんの本で「利他の精神」が真実であることも学びました。

 ただ、今も「己の身体で勝負せよ!」という言葉は私の中に深く根付いています。だから、今も学歴や職歴にこだわる人を見ると「かわいそうに・・・。早く真実に気づけばいいのに・・・」と感じます。誤解を恐れずにいえば、学歴や職歴にこだわる人は関西よりも関東に多いように私は思います。先に紹介した女性の体験もそうですし、東京の人は「〇〇大学卒業者は…」とか「△△社の人間は…」という話をよくするなぁという印象があります。

 さて、私の恥ずかしい話までして延々とこのようなことを述べてきたのは、少し前にSKという名のテレビ・ラジオのパーソナリティが学歴を詐称していたことが話題になったからです。私はこの事件というか出来事にとても大きな違和感を覚えます。ウソをつくことが良くないのは自明ですし、ウソを言ったなら謝らなければならないとは思います。

 しかし、これが番組を降板しなければならないような大きなウソでしょうか。SK氏は自ら降りたのでしょうか。あるいは番組側が降板させたのでしょうか。私がテレビ・ラジオ局の側の者なら、降板させることはありません。逆に、話題性がありますから、「SKさん、なんで学歴詐称してたの? 詐称していいことあった?」と言った質問をおこなって視聴率を稼ぎます。私はこの出来事が報道されるまでこのSK氏について何も知りませんでしたが、一連の報道を聞いて「ハデな学歴詐称というそんな面白いことする人物なら、話を是非聞いてみたい」と思いました。

 SK氏は学歴詐称が発覚する前までは、大変な売れっ子で多くの人気番組のパーソナリティをつとめていてファンも多かったと聞きます。学歴詐称が発覚していなかったとしたら人気を維持していたのではないでしょうか。そして、SK氏が卒業したと言っていた一流大学を実際に卒業してもそのような人気パーソナリティになれる人はほとんどいないわけです。ということは、人気のあるパーソナリティになるには学歴は一切不要ということにならないでしょうか。

 私自身は、友達はもちろん、仕事で出会う人も、また面識のないテレビやラジオのパーソナリティでも作家やジャーナリストであったとしても、その人の出身大学などまったく気になりません。自分自身の目で、信頼できる人か否か、面白い人かどうかを判断できる自信があるからです。

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2016年5月10日 火曜日

2016年5月 恥ずべき日本人~海外でやってはいけないこと~

 過去3回にわたり、我々日本人が外国人、特にアジア人と上手くやっていくにはどのようにすべきかということを、私の実体験をまじえながらお話してきました。最大のポイントは「どこの国にも良い人もいれば悪い人もいる」ことを認識し、「〇〇人は・・・」といった先入観を持たないようにすること、です。

 外国人シリーズはこの3回で終了にしようと当初考えていたのですが、3月にタイからとんでもないニュースが入ってきました。これは大変大きな問題であり、国をあげて・・・、とまではいかなくても日本人全体できちんと議論すべきだと私は考えているのですが、日本のマスコミはほとんど報道しませんでした。そこで、今回はこの事件をおさらいして日本人の海外でのあるべき姿について考えてみたいと思います。我々日本人はよく、中国人は・・・、韓国人は・・・、といったことを言いますが、外国人も「日本人は・・・」という会話をしています。そして、それが否定的なことも、特に最近は少なくないのです。

 2016年3月5日、タイのホアヒンのビーチで約30人の若い男性が全裸で円陣を組み大声を出し、公然わいせつの現行犯で逮捕されました。タイ警察は全員をブラックリストに載せました。

 ホアヒンというのはタイ中部に位置するプラチュワップキーリーカン県にある海岸沿いの郡です。なぜこのようなあまり有名でない県にあるひとつの郡が有名かというと、ホアヒンは王室の保養地だからです。プーケットやサムイ島などと比べると、ビーチはそれほどきれいとはいえないものの、静かで落ち着ける、まさに「保養地」といった感じです。

 王室の保養地だけあって安くはありませんが、ビーチの前に建てられたホテルは人気があり国内外から大勢の観光客がやってきます。そんな人気のホテルのひとつが「インペリアル・ホアヒン・ビーチリゾート」。ホテル内のレストランで夜の海や砂浜を眺めながらディナーを楽しむことができます。

 少し話しはそれますが、ここで私の個人的な経験を述べておきます。私は過去に一度だけホアヒンに行ったことがあります。タイでは計画どおりに事が運ばないことが多く、たしか2006年に1週間ほどタイに滞在していたとき、丸1日時間があきました。そこで、バンコクの宿をチェックアウトしてバスターミナルを目指し、一度訪れてみたかったホアヒン行きのバスに飛び乗ったのです。

 バスは3時間程度で到着し、まず宿を探しました。安いゲストハウスのようなところはあまりなく、また、せっかくホアヒンという土地に来ているのだから少しくらい贅沢しようと考え、ホテルの予算を1,500バーツ(約4,500円)まであげました。たしか「インペリアル・ホアヒン・ビーチリゾート」も見に行った記憶があるのですが予算オーバーで断念。サムロー(三輪タクシー、トゥクトゥクの自転車版)の運転手に相談すると、いいところがあると言われ少し離れたホテルに連れて行かれました。

 そのホテルは市街地からは少し遠いのですが、ほとんど誰もいないビーチの前にあり、なかなかきれいなところで価格も予算内。ここに決まりです。

 その日の私の時間は夢のような世界でした。夕方は静かなビーチでのんびり過ごし、夜には街の方に行ってみました。すると、たまたま地元のお祭りの最中で、バンコクやチェンマイとは異なる賑わいを体験できました。夜店のひとつに軍が運営している射撃場があり、夜店でありながらなんと本物の拳銃を撃たせてくれるのです。しかも50バーツ(約150円)という安さ。バンコクでも射撃場はありますが価格は1万円以上と聞きます。射撃と買い物と食事を楽しみ、その後は部屋から夜の海の眺めを満喫しました。翌朝、早起きし静かなビーチに行くと貝を捕っているお婆さんがひとりだけ。そのお婆さんに笑顔で話しかけられ、言葉はよく聞き取れなかったのですが、ひとつの貝殻をもらいました。その貝殻のおかげでその後の人生が好転・・・、といったうまい話はありませんでしたが、その後私はしばらくその貝殻をかばんに入れていました。

 話を戻しましょう。

 2016年3月5日の夜、インペリアル・ホアヒン・ビーチリゾート内のレストランで食事をしていたタイ人女性はビーチの異様な光景を目にしました。砂浜で全裸になった約30人の男性が円陣をくみ大声を出しています。このような非常識な行動をとるのは中国人に違いないと考えたそのタイ人は写真を撮り「中国人の醜態」としてツイッターに投稿しました(注1)。2日で1万回以上リツイートされたこの写真はタイ全土で大きな問題となり、ただでさえ評判のよくない中国人の信用を地に落としました。

 しかし、彼らは中国人ではなく日本人であったことが判明しました。このため件のタイ人女性は中国人への謝罪文を投稿したそうです。写真をみると、裸の若い男性達が肩を組んでいます。3月という季節を考えると大学生の卒業旅行かと思いきや、なんと社員旅行とのこと。まともな会社なら、30人のうち誰かひとりくらい、「これは非常識じゃないのか」という疑問を持ってもよさそうなものですが、これが日本人の実態なのです。

 外国にきて、しかも王室の保養地で全裸で騒ぐ・・・。これがどれだけ失礼なことか。もしも伊勢神宮の境内で外国人が同じことをすれば我々日本人はどう感じるでしょう。それと同じ罪をこの日本人達は犯したわけです。

 私はいわゆる「左翼思想」を持っているわけではありませんし「自虐史観」もありません。しかし、日本人の海外での振る舞いに辟易とさせられることは少なくなく、年々増えているような気がします。10年くらい前までは、タイの、特に地方に行けば「コボリ、コボリ」と呼ばれ(注2)、日本人というだけで無条件の歓迎を受けることもありましたが、最近はそのような話もほとんど聞きません。それどころか、私自身がタイにいる日本人に嫌悪感を持つことも増えています。下記はすべて私自身が見た例です。

・バンコクのある銀行。Tシャツ、短パン、ビーチサンダルでガムを咬みながら二人の日本人中年男性が入ってきて(ビジネス街のため他の客はすべてスーツ姿)、大声でタイ人の悪口を言い、受付の女性に横柄な態度。パスポート提示を求められると投げるように渡した。

・BTS(モノレール)内。30代の日本人男性3人が「昨日のオンナは2千バーツで最高・・・」など明らかな買春自慢。こういう人たちは、周囲に日本人もしくは日本語のわかる外国人がいるとは考えないのか。

・チェンマイのある食堂。日本人のおそらくロングステイヤーと思われる高齢男性二人が大声でののしり合う。周りのタイ人から奇異な目で見られていてもおかまいなし・・・。その男性達がそれぞれ連れている自分の孫ほどの年齢の若い女性も完全にひいているのに気づかないのか。ちなみに女性と高齢男性のカップルは双方ともコミュニケーションがほとんど成立していない。男性たちは日本語しかできず明らかにカネのみの関係(注3)。

・バンコク、スクンビット通りのある交差点。日本人の泥酔した集団が万歳三唱と一本締め。これ、外国人からはかなりの顰蹙なのにそれに気づかないのか。

 これ以外にもタイではいろいろとありますし、タイ以外の国でも恥ずかしいと感じることがあります。つまらない正論は言いたくありませんが、海外に行けば「その国に滞在させてもらっている」という謙虚な気持ちを持つことが必要です。これは、もしも日本にやって来た外国人が、母国の慣習や文化を押しつけようとすれば我々がどのような気持ちになるかを考えれば分かることです。

 日本人であるというだけで海外で歓迎されればこれはとてもありがたいことです。タイではその信用が失われつつあります。東日本大震災のとき、そして今回の熊本の地震のときも、多くの外国人は日本を応援してくれていますし、争いもなく協力して助け合っている我々の姿に対し賞賛と感動の眼差しを送ってくれています。その眼差しを裏切らないためにも我々は海外での自分たちの行動を反省すべきではないでしょうか。

注1(2021年7月3日修正):日本人が集団逮捕されブラックリストに掲載されたという新聞記事(タイ語)があり、ツイッターに投稿された写真も載せられていました。また、英語での報道記事もありましたが、現在はいずれもURLが削除されています。

注2:最も有名な日本人として今も「コボリ」を挙げるタイ人は少なくありません。タイでは何度も映画化されている『クー・カム』(日本語は『メナムの残照』)という小説の主人公の日本人男性が「コボリ」だからです。

注3:北タイの恥ずべきロングステイヤーについて、過去にコラムを書いたことがあります。下記も参照ください。

GINAと共に第75回(2012年9月)「恥ずべき北タイのロングステイヤー達」

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2016年4月11日 月曜日

2016年4月 インド人の詐欺と外国人との話のタブー

 私はこれまでの人生で「詐欺」の被害に遭ったことが3回あります。そのうち2回は日本人から、もう1回は外国人からです。このコラムで前々回から外国人とのつきあい方を紹介し、過去2回は私の「良き思い出」を語りました。今回は否定的な思い出、外国人の詐欺についての話です。

 あれはたしか2005年だったと記憶しています。タイのエイズ患者・孤児を支援するためのNPO法人GINA設立に向けて準備をしており、その頃の私は定期的にタイを訪問していました。ある日バンコクで知人に会う約束をしていた私は、1時間ほど時間が空いたために、大通りに面したオープンカフェに入りました。

 テーブルにノートパソコンを広げた私は、午前中に面会した人と話したことをまとめていました。すると頭にターバンを巻いた大柄な、いかにもインド人というような中年男性がやってきて、相席してもいいか、と尋ねてきました。満席に近い状態だったので、私は彼に同席を勧め、軽く挨拶をしました。やはりインド出身で現在タイに出張に来ているとのことでした。

 私の経験上、インド人というのは話好きで、プライバシーという言葉を知らないのかと思うくらいどんどん踏み込んだ質問をしてきます。親は元気かとか兄弟は何をしているのかとか、これくらいならいいかもしれませんが、いとこはもう結婚しているのか、とかそんなこと聞いてどうするの、と言いたくなるようなことまで聞いてきます。以前タイで知り合った別のインド人からも質問攻めにあって辟易とした経験を思い出した私は、相席したそのインド人からの質問を手短に終わらせてノートパソコンに専念しようとしていました。

 しかし、インド人は会話を続けようとします。そして「お前の一番好きな花を私は知っている。それを当ててみせよう」という怪しげなことを言ってきました。この後どのような会話があったか、そのインド人が何をしたかをはっきり覚えていないのですが、たしか自分が今握った紙にその花の名前が書いてある、という話だったように記憶しています。それまでの会話で私が花が好きだなどとは言っていませんでしたから、私はその挑戦を受けて立つことにしました。それから、数分間会話をした後、インド人は「お前が好きな花がこの紙に書いてあるから開けてみろ」と言います。

 それを開けたとき、私の息は止まりました。なんと、私が考えていた花の名前が本当に書かれていたのです! 驚いてインド人の顔を見上げたとき私の心臓は凍り付きました。さっきまでそこにいたインド人とは同じ人間と思えないほど表情が変わり、冷酷な視線が私の顔面に突き刺さります。あれから10年以上たちますが、私はあの目が今も忘れられません。そして、「約束通り100ドル払え」と小さいながらも低く太い声で脅してきます。「100ドルなんてそんな話、聞いていないぞ」などと言っても通用しないでしょう。

 これは危ない、と感じた私は、冷静さを装うようにし、目をそらさないようにしながら、手探りでパソコンをたたみかばんに入れ、財布を取り出しました。一瞬心臓が凍り付きそうになりましたが、まだ日は暮れておらず周囲には大勢の人がいます。私は財布から20バーツ紙幣(約60円)を取り出して机に置いて立ち上がったと同時に、「おっちゃん、悪いけどおっちゃんの英語、よう聞きとらんわ~。悪いなあ~。少ないけどこれもらっといてや~」と、半径5メートル以内にいる人たち全員が振り向くくらいの大声で大阪弁を叫び、ゆっくりと後ずさりし、その後ダッシュで大通りを駆け抜けました。

 今となっては、20バーツでおもしろい体験ができた、といいように解釈していますが、あの視線は今思い出しても恐怖が蘇ります。しかし、それにしてもなぜ私の好きな花が当てられたのか、これは今でも解決していません。その後、海外詐欺事情に詳しそうなバックパッカー歴が長い日本人数人に聞いてみたところ、その詐欺はよくあるものでトリックは簡単だと言います。「たいていの日本人は好きな花としてバラかサクラを挙げるからそのどちらかを用意しておけば50%の確率であたる。お前もどちらかを思い浮かべたんだろう」と言われたのですが、私が思い浮かべた花はバラでもサクラでもなく少しマイナーなものです。今思えば、そのときインド人に「驚いた。100ドルあげるからトリックを教えて」と言えばよかったと少し後悔しています。いや、やっぱり100ドルは高すぎるか・・・。

 この体験をしてから、この手の話には乗らないよう自制しています。先にも述べたように、私の経験からいえば、インド人というのはよく言えば話し好きでフレンドリー、悪く言えば空気が読めずずうずうしい人が多いのですが、もちろんそんな人ばかりではありません。

 バンコクでは日本では考えられないくらいの低価格でオーダーメイドのスーツが買えます。そしてそういう仕立屋はたいていインド人が経営しています。一度ふらっと入った仕立屋でインド人のオーナーにとても誠実に対応してもらった私はその後も何度かその店に足を運びました。勤勉で誠実な彼は古き良き時代の日本人のようです。

 私は外国人の友人や知人が特別多いというわけではありませんし、外国人と恋人の関係など特別な仲になったことはありません。しかし、これまでの経験から、外国人との会話にはいくつかのタブーがあることが分かるようになってきました。誰でも思いつくのが相手の宗教や支持政党に触れることですが、これは日本人相手でも同じでしょう。私が外国人との会話で最も注意すべきタブーと考えているのは「領土」です。例をあげましょう。

 タイ人の私の友人(女性)の話です。彼女(Wさんとします)の出身はシーサケート県というカンボジアに接する県です。シーサケート県は特に産業もなく貧しい県ですが、彼女は努力を重ねタイのなかでも有名な大学に合格、さらに大学院に進学しました。国際学会に参加するために来日したこともあります。今でこそインバウンド誘致政策に力を入れている日本も、彼女が来日した2008年はタイ人が日本に入国するのは容易ではなく、ビザを申請するために私が保証人になりました。きれいな英語を話すその彼女は話題が豊富です。

 あれはたしか2005年頃、私がタイに滞在中にWさんと話す機会があり、話題がプレアヴィヒア寺院になりました。この寺院は、Wさんの出身県であるシーサケート県とカンボジアとの国境に位置しており、後に(2008年7月)、世界文化遺産に登録されることになる歴史的価値の高い寺院です。

 プレアヴィヒア寺院がタイ、カンボジアのどちらに帰属するかという問題は、太平洋戦争にも関連しフランスや日本も絡んでいて非常に複雑なのですが、ごく簡単にまとめておくと、太平洋戦争終結後しばらくタイが実効支配していたものの、カンボジアが国際司法裁判所に提訴し、同裁判所はカンボジアに領有権があることを認めました。しかしその後も対立が続き現在も解決しているとは言いがたい状況です。

 私はあるとき、何気なく、話題を広げるだけの目的でWさんにプレアヴィヒア寺院について触れてみました。すると、それまで穏やかだったWさんが豹変したのです!「あの寺院はタイのものです!あなたがカンボジアのものというならあなたとは絶好です!!」という勢いでまくしたてるのです。これには驚きました。その直前まで、この地方のタイ人とカンボジア人は顔も似ていて区別がつきにくい、といったカンボジアに好意的な発言をしていただけに私は何と答えていいのか分かりませんでした。なにしろ私は「プレアヴィヒア寺院」という単語を出しただけで、帰属権の話を持ち出したわけではなかったのです。

 もうひとつ例を挙げましょう。こちらは私のこの体験よりも深刻なもので2003年頃の知人の話です。私の知人の日本人男性(Y氏)には、交際に発展しそうな韓国人女性がいました。その女性は留学生として来日し、卒業後も帰国せずアルバイトながら日本の出版社で働いていました。狭いワンルームマンションの壁はジャニーズのポスターだらけ。日本文化が大好きで、もちろん日本語もかなり上手です。ある日のこと、Y氏とこの女性の間で竹島の話題が浮上しました。すると、竹島という呼び方自体が気に入らなかったのか、ふだんは冷静沈着なこの女性が激情しだしたそうです。この事件以来、Y氏は領土問題を「地雷」と命名し二度と触れなかったそうです。この事件が原因かどうかは分かりませんが、結局二人の関係はその後しばらくして終焉したようです。

 おそらく世界にはこのようなエピソードが無数にあると思います。私はアルゼンチン人の友人はいませんが、もしも、たとえばどこかのバーでアルゼンチン人に知り合ったとして、話題につまったとしても、フォークランド諸島の話には触れないのが無難です。まず間違いなくフォークランド諸島を英国のものと思っているアルゼンチン人は皆無です。そして韓国では竹島が「独島」と呼ばれるように、アルゼンチンではフォークランド諸島でなく別の呼び方がきっとあるはずです。

 さて、結論として、外国人と上手くつきあうための2つのコツを述べたいと思います。外国人と話をするとき、「〇〇人は~」という話題はとても楽しめます。これは日本人のことでも、その外国人の国民のことでも、別の国のことでもです。ちょうど日本人どうしの会話で「〇〇県民は~」という話題になるのと同じです。私自身も外国人との会話で話題を探すときに「△△国は行ったことがあるか。□□人に友達がいるか」といったことを質問し、「〇〇人の特徴は~」という話をすることはよくあり、これはとても盛り上がります。

 しかし、それはステレオタイプの特徴を話のネタとして披露しているだけであり、どこの国にも善人もいれば悪人もいます。私はこの手の話が過熱しすぎたときは、この言葉で閉めるようにしています。外国人と上手くつきあうための1つめのコツがこの「どこの国にも良い人もいれば悪い人もいる」という事実を認識するということです。そして、もうひとつが「領土問題には触れない」ということです。

 よく「価値観が違うからあの人とはつきあえない」と言って、自ら交友関係を狭める人がいますが、私に言わせればもったいない話です。「価値観が違うからこそ」話していて楽しいのです。そして、日本人どうしの「価値観の違い」などたかがしれています。外国人と話してみると、思いもしなかった驚きと興奮が次々に訪れるのです。

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2016年3月11日 金曜日

2016年3月 外国を嫌いにならない方法~中国人との思い出~

 私が中国人と初めて本格的にコミュニケーションをとったのは1991年、前回紹介した韓国人女性の話と同じで、やはり商社勤務時代の新入社員の頃です。韓国人のときのように若い女性ではなく、今度は50代の男性です。

 事前に上司から聞いていた情報では、「来日するのは経済省の役人。日本語はできないだろうが、国の任務で来日するのだから英語は堪能なはず」、とのことでした。その役人の任務というのは、私が勤務していた商社の取引先である工場の見学です。日本の技術を学ぶために国の任務として来日する、というわけです。当時の私は英語がダメですし、工場の説明など日本語であったとしてもできません。しかし、工場に行けば、英語のできるスタッフがいるので問題ないとのことでした。その工場には外国人がしばしば見学に来るそうです。

 ということは、私の任務としては、朝ホテルにその中国人を迎えに行き、一緒に電車に乗ってその工場を訪れることと、見学が終われば再び電車に乗ってホテルまで送っていくことだけです。昼食時にはいくらかの雑談も必要になるでしょうが、上司によれば、昼食は工場の応接室でいただくことになるので、英語のできるスタッフも一緒だとのこと。「昼食時くらいは下手くそな英語ででもお前がもてなせ」と上司には言われましたが、当時の私に昼食をとりながら気の利いた話を英語ですることなどできるわけがありません。工場に着いてから出るまではすべて工場のスタッフに任せよう、私はそのように考えました。

 その中国人(ここからはTさんとします)が泊まっていたのは大阪の繁華街の小さなホテルでした。国の役人なんだからもう少し高級なところに泊まればいいのに・・、とおせっかいなことを考えましたが、当時の日中の経済格差を考えれば妥当なのかもしれません。しかし、小さなホテルであったおかげで私はTさんをすぐに見つけることができました。ロビーというよりは歯医者の待合室くらいの空間にいたのはTさんだけだったからです。

 Tさんは私を見かけるとにっこりと微笑んでくれました。よく、中国人は無愛想でウェイトレスもにこりともしない、と言われますが、中国人全員がそういうわけでもなさそうです。初対面の挨拶が大切だ、と考えた私は満面の笑顔をつくり、「グッドモーニング」と言いました。

 ところが、です。Tさんは、笑顔はつくりうなずいてはくれるものの何の返答もありません。年下の者が先に自己紹介すべきだと考え、私は自分の会社名と名前を名乗り、今日は一日お供します、ということを下手くそながら暗記してきた通りに英語で話しました。しかし、依然としてTさんは一言も話してくれません・・・。

 ようやく私は気づきました。そうなのです。Tさんは英語がまったくできないのです。私は焦りました。聞いていた話と違う・・・。しかし、そんなこと言っても何も解決しません。おそらく身振り手振りで工場まで連れて行くことは可能でしょう。しかし、工場に着いてからはどうすべきなのでしょう。英語が堪能な工場のスタッフも中国語はできません。これは困ったと思いましたがとりあえず工場に行くしかありません。私はノートを取り出し「熱烈歓迎」と書いてみました。するとTさんはニッコリ微笑んで初めて何かを話してくれました。しかし中国語など私に分かるわけがありません。この先工場ではどうすればいいのでしょう・・・。

 その日の私は幸運でした。工場で担当者に事情を話すと「何とかなるかもしれない」とのこと。しばらくしてその担当者が連れてきたのはなんと中国人の研修生。今でこそ日本で働く中国人は珍しくありませんが1991年当時、このような中国人研修生は非常に珍しく、実際この工場でも受け入れたのはその研修生が初めてであり、しかも翌日には帰国する予定とのことです。これで私の肩の荷は一気におりました。その研修生は「国の偉い人を日本で案内することになるとは思わなかったが重要な任務を任せられて嬉しく思う」と日本語で話してくれました。工場を出るまで私の役割はまったくなく、タダで昼食をいただいたことを申し訳なく思ったことを覚えています。

 Tさんを無事にホテルまで送りとどけ、私が帰ろうとするとTさんは私の腕をとって引き留めます。どうやら「部屋に来い」とのことです。私は商社勤務時代にいろんな国の人をホテルまで迎えにいったり送ったりしていましたが、後にも先にも「部屋に来い」と言われたのはその一度限りです。

 そのまま帰るわけにはいかないような雰囲気になり、私はTさんと一緒にホテルの部屋に入りました。狭い部屋はベッドが占領し、立っているスペースもないほどです。Tさんは私にベッドに座れ、とジェスチャーで指示します。私より身体の大きい若い男性なら恐怖を覚えたかもしれませんが、Tさんは小柄な初老という感じです。

 大きなかばんの中から小さな箱を取り出したTさんはそれを私に手渡します。それがプレゼントだと気づいた私は、シェイシェイと言いながら箱を開けると、そこにはきれいなデザインでいかにも高級そうなネクタイが入っていました。私が嬉しそうな顔をするとTさんは本日一番の笑顔になりました。シェイシェイと何度も言い私はTさんの部屋を去りました。

 後日、私の発音ではシェイシェイが通じないと中国語に詳しい上司に教えてもらいましたが、このときは通じたのではないかと思っています。話す言葉のコミュニケーションがまるでなかったとはいえ、筆談で3割くらいは通じましたし、丸一日一緒に過ごしたおかげでそれなりの意思表示ができるようになっていたからです。ちなみに、それから25年たった今も私はそのネクタイを使っています。

 この出来事があって数ヶ月後、会社に香港人の若い女性が入職してきました。当時香港はイギリス領でしたから香港人と中国人はライフスタイルが大きく異なっていたはずです。実際、この女性(Cさんとします)もオーストラリアの大学を卒業してから来日しています。英語は堪能で発音は恐ろしいほどきれいです。おまけに日本語も上手とは言えないまでも、それなりに会話はできます。しかも日に日に上達していくのが分かります。英語と中国語を話す外国人が、日本語を、間違えながらも一生懸命に話そうとする姿は大変微笑ましいものです。これは日本語を外国人に教えた経験がある人ならよく分かると思います。
 
 英語が堪能なことをひけらかすこともなく、謙虚な態度で日本語を使って仕事を覚えようとするCさんに否定的な気持ちを持つ社員など誰もいません。それどころか社員全員がCさんをフォローしようという気持ちになっていました。結局Cさんはたしか1年ほどで香港に帰っていきましたがその間Cさんの悪口を言う者は皆無でした。

 筆談で会話をした役人のTさんとオーストラリアの大学を卒業している香港人のCさん。私が初めてコミュニケーションをとった中国人がこの二人だったおかげで、私は中国という国に対して好印象をもっています。もちろんすべての中国人と上手くやっていけるとはまったく思っていませんが。

 香港は私が最も好きな国(地域)のひとつですが、初めて訪れたとき、英語があまりにも通じないことに驚きました。Cさんのような海外の大学を出ている人はごくわずかで、大半の人は英語とは縁の無い生活をしています(注1)。タクシードライバーもほとんど英語ができず香港でタクシーに乗るのは一苦労です。

 私は中国本土に行ったことがないのですが、中国が好きで何度も訪れている人に聞いても、最近は少しましになったとはいえ、日本人との違いに辟易とすると言います。店員はどこも無愛想で、ゲストハウスは明らかに空室があるのに「メイヨー」(無い)と言われるし、列をつくらない中国人に紛れて駅で切符を買うのは本当に苦労する、といった話は何度も聞きました。

 太融寺町谷口医院にも中国人の患者さんは少なくありませんが、「値引きしろ」、とか、「保険証がないから知人の保険証で診てくれ」、などと平気で言う人がいます。なかには、「薬は不要です。安心してください」と伝えると「それなら今日は無料だネ」と言って診察代を払わない人や、(客観的には改善しているのに)「治るのに時間がかかりすぎるから今日はお金を払わない」と言ってクリニックを飛び出していくような人もいます。このような人ばかりをみていると、「中国人は~」と言いたくなることもあります・・・。しかし、もちろんこのような人たちばかりではありません。

 次回は、私が海外で被害に遭った「詐欺」について、そして外国人との話の「タブー」について話したいと思います。
 

注1:世界で最も信頼できるといわれている「英語能力指数(EF EPI 2015)」によりますと、英語を母国語としない国のなかで英語能力のランキングは、香港は33位で日本は30位です。やはり私の実感としてだけでなく香港人は英語があまりできないようです。ちなみに他のアジア諸国をみてみると、韓国27位、台湾31位、タイは62位です。


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2016年2月11日 木曜日

2016年2月 外国を嫌いにならない方法~韓国人との思い出~

 前々回(2015年12月)の「マンスリー・レポート」でイスラムの問題を取り上げたところ、予想以上に多くのコメントをいただきました。ほとんどは「自分もそのように感じていた」と私の考えに同意してくれるものであり、こういう問題を取り上げてよかったと安心しました。もっとも、これまでも、医学以外のことを取り上げたときの方が寄せられる感想が多く、意外なのですが・・・。

 そのような経緯もあって、今回も「国際関係」についてです。国際関係と言っても何もむつかしい話をするのではなく、外国を嫌いにならずに外国人と上手につきあう方法の紹介をしたいと思います。

 ネット右翼(ネトウヨ)という言葉が一般化して随分時間がたちます。ここで私は思想に立ち入るつもりはなく、彼(女)らの主張の善し悪しを検討したいとは思いません。ここでは、海外(特に近隣諸国)を敵対視している日本人が(本当にインターネットばかりしている人たちなのかどうか分かりませんが)存在している、という事実を確認しておきたいと思います。

 ここからは私個人の思い出を語ってみたいと思います。

 私が韓国人と初めてじっくりと話をしたのは1991年の秋、大阪の中堅商社の新入社員だった頃です。日本にやって来たのは取引先の韓国企業の女性社員。ソウルの一流大学を卒業しており、英語も日本語も堪能でまだ入社数年だというのに重要な仕事を任せられているキャリアウーマンです。新入社員の私に重要な商談などできるはずがありません。私に当てられた任務は、半日間で大阪を案内(アテンド)せよ、というものでした。

 高いヒールと高級ブランドのスーツに身をまとい、オフィス街を颯爽(さっそう)と歩いているようなタイプの女性を想像していた私は随分と緊張していたのですが、現れた女性はこちらが拍子抜けするほど大人しい感じの「少女」と形容した方がいいような女性(ここからは「Kさん」とします)でした。日本語が驚くほど上手で、当時英語にまったく自信がなかった私はほっと胸を撫で下ろしました。

 25年前の記憶で、Kさんをどこに案内したのかは覚えていないのですが、私は彼女の怯えたような表情、振る舞い、そして話してくれた言葉を今も鮮明に覚えています。少しはにかんだような笑顔は見せてくれるものの、まるで誰かから追われているかのようにビクビクしています。会社で少し話をし、地下鉄に乗り、ランチをする頃になり、ようやく緊張がほぐれてきました。

 Kさんは、私を「安全な」男と認めてくれたのか、次第に饒舌になってきました。私は事前に上司から「韓国の若い女性が日本にひとりで出張に来るというのはめったにないこと」と聞いていましたから、Kさんはエリート中のエリートで、日本出張は”名誉”なことだと思い込んでいました。しかしKさんは、日本出張を命じられて何度も断った、と言います。日本に行け!だなんてひどい会社だ、と感じ、こんな会社でやってられない、と退職まで考えたそうです。

 私は混乱しました。この話の前に、Kさんは日本文化に興味があり、大学では日本語を学び、日本語の書籍を必死で求めていたという話を聞いていたからです。当時、韓国では日本の書籍は販売禁止でした。日本文化に触れることが禁じられていたのです。もっとも、Kさんのように一部の大学では日本語を学ぶことができていたわけですから、このあたりはダブルスタンダードになっていたのでしょう。

 しかし日本語堪能なKさんも、日本文化を知るための情報源は図書館に置かれている一部の書籍に限られます。テレビで日本の番組を見ることはできませんし、日本映画や日本の歌謡曲は禁止されています。もちろん1991年当時はインターネットもありません。それに日本がいかに凶悪な国かというのを子供の頃からさんざん聞かされているのです。Kさんが言うには、大阪や東京というのは、ヤクザが跋扈(ばっこ)した街で、若い女性は決してひとりで歩いてはいけない、男性から声をかけられるようなことがあれば直ちに逃げないといけない、と聞いていたというのです。たしかに、それならば、日本出張を命じる会社が理解できない、と感じる気持ちが分からなくもありません・・・。

 Kさんは私と一緒に地下鉄に乗ったとき「大(だい)の大人が漫画を読んでいることに衝撃を受けた」と話しました。そして「本当に驚いた・・」と何度も繰り返していたことを覚えています。”暴力的な”日本人が漫画を読むなどということをKさんはそれまで考えたことすらなかったそうです。しかも、地下鉄の中の男性は緊張感がまるでない・・・。「韓国の男性の方がずっと男らしい・・・」、Kさんはそう話していました。

 観光案内も終盤を迎えた頃、私は思いきってKさんに尋ねてみました。Kさんは日本が好きなのか、日本人をどう思っているのか、そして韓国人は全員が日本を嫌っているのか・・・。実は、私はKさんに会う前に、できればこのようなことを聞いてみたいと思っていたのです。韓国人に直接聞くのは「タブー」だとは思っていたのですが、あわゆくば聞いてみたい・・、という好奇心を抑えられなくなってきたのです。

 Kさんの答えは少し複雑なものでした。日本の文化にはとても興味があり、可能なら日本の漫画も読んでみたいと話しました。日本人が怖いというイメージはなくなったと言います。しかし、日本で短期間働くことはあったとしても、日本に住み着くとか、日本で家庭を持つとかいったことは考えられない。そして何よりも、韓国で「日本が好き」などとは絶対に言えない、と小さいながらもしっかりとした口調で話してくれました・・。

 7年後の1998年。韓国で日本文化が解放され、日本の映画や歌謡曲、漫画などに触れることができるようになりました。この頃私はすでにその会社を退職し、医学部の学生になっており、会社員時代の記憶は次第に薄れてきていました。しかしこのニュースを聞いたとき、Kさんのことを思い出しました。仕事は好きだけど近いうちに結婚して家庭を持ちたいと言っていたKさんはおそらくすでに子供の世話に追われる毎日を過ごしていることでしょう。忙しい家事のなか、ちょっとした休憩時間に日本の漫画を手にしているKさんの姿が私の脳裏に浮かびました。

 ちょうどこの頃、医学部生の私が借りていたアパートに韓国人の男子留学生も住んでいて、ときどきコインランドリーで会いました。彼は日本語を一生懸命に話そうとするのですが、ハングル(韓国語)にない音が上手く言えません。初対面のとき、彼は私に「ミジュ、ミジュ、ナイ」と訴えてきたのですが、それが「水が出ない」ということが分かるまでに随分と時間がかかりました。ハングルには「ズ」という音がなく、よほど訓練しないと「ジュ」となってしまうことをその後知りました。

 日韓共同開催ワールドカップの2002年、大阪ミナミのオープンカフェで知人と話しているとき、ふたりの好青年が「相席してもいいか」ときれいない英語で話しかけてきました。「もちろん」と答えた我々は彼らとしばらくサッカーの話で盛り上がりました。彼らは韓国の大学生で、休暇を利用して日本に観光に来ているとのことでした。二人とも英語が(私とは比較にならないくらい)流暢で、話題も豊富。韓国経済の未来について熱く語っていたのが印象に残っています。

 さて、このような私の経験があれば、韓国という国そのものはさておき、韓国人、少なくとも日本文化に関心があり来日している韓国人に対する否定的な感情は沸いてこないのではないでしょうか。もちろん、どこの国にもおかしな人はいますし、個人の相性もあります。このコラムでは追って「外国を嫌いにならない方法」を述べていくつもりですが、今回は「私の知り合った韓国人」について思い出を語ってみました。次回は中国人の話をしたいと思います。

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2016年1月12日 火曜日

2016年1月 苦悩の人生とミッション・ステイトメント

 昨年(2015年)の7月から毎日新聞ウェブサイト版の「医療プレミア」というサイトに連載コラムを持たせてもらっています。年始には特別企画ということで、年末に編集長が私におこなったインタビューが掲載されました。

 インタビューでは、私が個人的におこなっている健康の秘訣のほかに、なぜ医師になったのか、どのような医師を目指しているのか、といったことなども聞かれました。事前にインタビューを受けることを聞いていましたし、あらかじめ内容も教えてもらっていたのでこのインタビューを私は気軽に考えていました。

 ところが、インタビューは2時間以上に及び、随分と掘り下げたところまで尋ねられた、というか、結果として私が自分自身を日頃おこなわないレベルで省みることになりました。

 さすがは毎日新聞の編集長、楽しい時間をつくりながら巧みに質問を重ねてきます。自身の失敗談なども交えながら私からホンネを引きだそうとしているのかもしれません。インタビュー自体はとても楽しい時間であったのですが、私の回答は事前に”キレイに”まとめたものでは対処できませんでした。

 そのときは、過去のなつかしい思い出などを語ることになり心地よかったのですが、その夜から自分自身をじっくりと省みることとなりました。

 これまでどのような人生を歩んできたのか、というのが質問の骨子でした。私は社会人の経験もありますし、『偏差値40からの医学部再受験』という本を上梓していますから、そのあたりを詳しく尋ねられたのです。

 これまでの人生をざっとまとめると、高校時代に勉強ができず偏差値40程度であったが2ヶ月間の猛勉強で関西学院大学理学部現役合格。しかし大学の勉強に馴染めずに退学を考える。ところが同じ大学の社会学部の先輩の一言がきっかけで社会学部に編入を決意、編入学に成功。卒業後社会人になるが、社会学の勉強を本格的におこないたくて大学院進学を考える。ところが、社会学の勉強を続けるうちに生命科学に興味がでてきて医学部受験に方向転換。1年間の猛勉強で入学。医学部入学当初は医師ではなく医学者になることを考えていたが能力の限界を感じ臨床医に転換。どのような医師になるか決めかねていたところ、タイのエイズホスピスで出会った総合診療医(プライマリ・ケア医)に影響を受け、帰国後に大学の総合診療部の門を叩く。その後複数の医療機関で研修を受け、クリニックをオープンさせる。

 と、このような感じです。一見サクセスストーリーに見えなくはありませんから、私はこれまでの自分史を事前に”キレイに”まとめていたのです。しかし、実際のところ、私の人生はスムーズに進んだわけではありません・・・。

 まず高校時代に相当悩みました。何に悩んでいたのかと問われれば、それさえも答えられないような悩みで、他人には分かってもらえないようなものかもしれません。当時の私は何が楽しいのかが分かっていませんでした。勉強、スポーツ、音楽活動(少しだけバンドというものをかじったことがあります)、遊び、恋愛、どれも中途半端、というか、何をしてもそれなりには楽しいものの、心のどこかで「何か違う・・・」という違和感を拭えなかったのです。

 何のために生きているのだろう、本当に大切なことは何なのだろう・・・、そんなことばかり考えて空虚な日々を過ごしていました。何もしなくても卒業する日は確実にやってきます。このままいれば高校卒業後は、町工場にでも勤めて、20歳前後で結婚して、その後子供ができて、趣味は車いじりとパチンコと週末のスナック通い・・・。そしてこの空虚感からは永遠に逃れられない・・・。そんなことを考えると、たとえようのない閉塞感に襲われ、息をするのも苦しくなったことがあります。

 当時の私の唯一の希望は「都会への憧れ」でした。いくつもの大学を見に行って関西学院大学を訪れたときに”身体に電流が流れるような衝撃”を受けた私はその後関西学院大学を目指すことだけを「生きる糧」にしました。

 そして合格。しかし今度は、自分が考えていた理想と現実のギャップに悩むことになります。大学進学の目的は都会への憧れ、ただそれだけでしたから、大学生が勉強しなければならないなどとはまったく思っていなかったのです。退学を決意し両親に相談するも却下(当たり前ですが)・・・。そんなとき先輩の一言で社会学部の編入学を考えることになりました(注1)。

 しかし事務局では「理学部から社会学部の編入は前例がないから無理」と却下されてしまいます。「前例は自分でつくるもの!」と考えて猛勉強の末に合格、と言えば聞こえはいいですが、そう簡単に気持ちを切り替えられたわけではありません。最終的には「背水の陣」を敷いて編入学試験に臨みましたが、合格する自信があったわけではありません。何しろ申し込みの時点で「無理」と言われていたのですから。

 編入学試験に合格しその後大学を卒業するまでは夢のような生活でした。時はバブル経済真っ只中、といってもお金はありませんでしたが、それでも毎日が楽しくて仕方がありませんでした。まさに私にとっての「酒と薔薇の日々」です。

 卒業後、私が就職したのは大阪にある商社です。このときは英語で苦労したものの、仕事自体は苦痛ではなくむしろ楽しい思い出の方がずっと多いといえます。

 しかし、楽しいはずの社会生活で再び苦痛に襲われます。このまま今の仕事を続けるべきなのだろうか・・・。これが自分が本当にやりたいことなのだろうか・・・。そのようなことが頭をよぎりだすと、ちょうど高校時代に感じたような閉塞感が再び私を襲ってきたのです。そんなとき、私の出した結論が社会学部の大学院進学。そして独学で社会学の勉強を続けるうちに興味が生命科学に向かうようになり、ついに医学部受験を決意するに至ります。

 そして受験勉強に専念するために退職するわけですが、医学部受験といった突拍子もないことを言い出した私を応援してくれる人などほぼ皆無です。予備校に行くお金などありませんから、独学でひたすら毎日勉強しました。そして1年後に合格を果たすことになります。

 医学部入学後は、再び大学で勉強できることが幸せだったのですが、学年が上がり勉強を重ねるにつれ、次第に「能力の限界」を感じるようになりました。そして、当初考えていたような医学者になることを諦めます。代わりに臨床医を目指すことになるのですが、このときには自分の将来の像が見えていたわけではありません。

 研修医を終えてから訪れたタイのエイズ施設で私の人生がほぼ決まることになります。社会から疎外されている患者さんをみてエイズという病に関わりたいと感じたと同時に、その施設にボランティアに来ていた欧米の総合診療医(プライマリ・ケア医)をみて私が進む道が決まりました。帰国後私は大学の総合診療部の門を叩くことになります。

 その後は複数の医療機関、複数の診療科で研修を受け、大学に籍を置きながら大阪市北区に自分自身のクリニックをオープンすることになります。クリニックオープン後もいくつもの苦痛に見舞われましたが、最も辛かったのは、自身の「変形性頸椎症」に対する手術を受けたときです。手術は成功したものの芳しくない術後の経過が私を苦しめました。このときには、過去に診てきた患者さんのことが頭に浮かんだことなどがきっかけとなり、比較的早い段階で苦しみから抜け出すことができました。

 さて、改めて自分の人生を振り返ってみると「転機」が訪れたのは1997年、医学部1年生の終わり頃、28歳のときです。何か特別な事件があったわけではありません。生まれて初めて自分自身のミッション・ステイトメントをつくったのです(注2)。私はそれ以来、精神的な”ぶれ”がかなりなくなったように感じています。高校時代や会社員時代に私を襲った「何のために生きているのだろう・・・」という疑問に苦しめられることがなくなりましたし、将来の方向がはっきりしていなくても自分のミッションを持っていれば悩まなくてもいいことを理解するようになりました。手術を受けた直後には、一瞬それを見失いそうになりましたが、脳裏に現れた過去の患者さんに助けられたことがきっかけで、ミッション・ステイトメントを振り返ることになり自分自身を取り戻すことができました。

 これからも私はいろんな苦痛を感じることになるでしょう。また、文章にはできませんが、これまでの人生で人間関係や恋愛関係で傷つけたり傷つけられたりといったことは多々ありますし、これからもあるでしょう。人間関係からくる苦痛というのは、ときに生きる気力を奪うほど大きなものです・・・。

 私はここ数年、毎年1月1日にミッション・ステイトメントの全面的な見直しをおこなっています。この時間は私にとってとても大切な時間です。今年は、直前に毎日新聞の奥野編集長から鋭い質問を受けたおかげで、例年よりも心の奥深くにまで問いかけ、ミッションの見直しをおこなうことができました。そして、傷つけた人、傷つけられた人たちも含めてこれまで私と関わってきた人たちのことを考えていると、感謝の気持ちが沸き上がり身体の奥底からパワーがみなぎってくるような感覚に包まれました。

 そして、私の2016年がスタートしました。

注1:このあたりのことは過去にも書いたことがあります。興味のある方がおられれば下記を参照ください。

マンスリーレポート
2013年10月号「安易に理系を選択することなかれ(前編)」
2013年11月号「安易に理系を選択することなかれ(後編)」

注2:ミッションステイトメントについては下記も参照ください。

マンスリーレポート
2009年1月号「ミッション・ステイトメントをつくってみませんか」

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