はやりの病気

2014年6月20日 金曜日

第130回 渡航者は狂犬病のワクチンを 2014/6/20

  私が代表をつとめるNPO法人GINA(ジーナ)は、現在主にタイのエイズ施設やエイズ孤児の支援をおこなっていますが、タイのエイズに関する日本のいくつかの団体も支援しています。そのひとつの団体が発行する機関誌に興味深い体験談が載っていました。

 体験談を書いたのはある男子大学生で、タイ北部でのボランティアに志願し現地に行ったそうです。そしてイヌに咬まれて病院に行き、破傷風と狂犬病のワクチンを接種したそうです。この体験談からは緊迫感が伝わってこずに、むしろ自分の失敗談をおもしろく語っている、というような印象を受けたのですが、私はこれは問題だと感じています。

 後から、この団体の幹部クラスの人から、その後この大学生は何の問題もなく暮らしている、ということを聞き安心しましたが、そもそもワクチンを接種しないで現地に行っていること自体が問題です。

 たしかに狂犬病はイヌに咬まれてからでも速やかにワクチン接種をおこなえば助かる病気ではあります。しかし対応が遅れて発症すると(ほぼ)100%死に至ります。

 以前、たしか医療者(だったと思います)が書いた何かの雑誌に掲載されていた文章に「狂犬病を発症して助かった者は世界中で4人しかいない」というものがあり、私自身も何度か「世界で4人」という話を聞いたことがあるのですが、どうもこの情報は疑わしく、私は今ではこれは一種の都市伝説ではないかとみています。

 というのも、きちんとした論文で、狂犬病を発症して助かった症例というのを見たことがありませんし、「●●●(例えばプノンペンやバラナシといったバックパッカーが大勢たまっているところ)で知り合った日本人がすごいヤツで、アフリカで狂犬病を発症して1ヶ月意識がなかったけれど助かったらしい。狂犬病で助かったのは世界で4人しかいないそうだ」という話を、日本人のバックパッカーから何度か聞いたことがあるからです。もしもこの「アフリカで狂犬病を発症して助かった日本人」が同じ人物なら納得いきますが、その日本人の情報がときには東京出身であったり九州出身であったり、また年齢も様々で到底同じ人物とは思えないのです。それに医療者からならまだしも、バックパッカーたちから次々と「世界で4人・・・」と聞くと、正直に言うとこの情報を信用しにくいのです。というわけで、私はこの「世界で4人が助かった」という話も現在は都市伝説に過ぎないのではないかとみています。

 話を戻しましょう。狂犬病は絶対に発症させてはいけない感染症であり、最善の対策はワクチン接種です。ワクチン接種をしていない場合は、「咬まれたら直ちに医療機関を受診してそこでワクチン接種」ということになります。狂犬病(と破傷風)は例外的に病原体が感染してからでも間に合う可能性のあるワクチンなのです。ワクチンのことについては最後にもう一度確認するとして、まず発症するとどのような転帰をたどるかについて述べておきます。

 といっても私は狂犬病の患者さんをこれまでひとりも診察したことがありません。教科書には、水を怖がる、幻覚をみる、興奮・精神錯乱などの症状が生じ、最終的には昏睡し死に至る、となっています。日本で医療をしている限り、よほどのことがない限りは狂犬病の患者さんを診る機会はないだろう、と考えていたのですが、先日ある学会で貴重なビデオを見ることができました。

 これは1950年に当時の厚生省が作成したもので、当時4歳の男の子が狂犬病で入院して死に至るまでの経過がビデオカメラにおさめられています。今の時代であればプライバシーの観点からこのようなビデオが作られることはないでしょうし、仮にあったとしても表情をぼかすなどの措置がとられることになると思いますが、当時はそのような配慮はなされておらず表情もそのままうつっています。

 入院したばかりの頃は子どもらしい笑顔でベッドに座りとても愛くるしい顔をしています。それが日がたつにつれて落ち着きをなくしていきます。教科書には「水を怖がる」と書かれていますから、水から逃げるのかと思いきや、そうではなく、カップの水を求めます。水を飲まなければ生きられませんからそれは当然でしょう。しかし水を口に含むと興奮を抑えられない不可解な行動をとりだします。その後けいれんを繰り返し、最後には死に至ります(注1)。

 現在では狂犬病というと、外国の病気、というイメージが強いのかもしれませんが、このビデオがつくられたのは1950年ですし、その後の国内での発症もあります。ここで日本の狂犬病の歴史を振り返っておきましょう。

 日本に古来からあったのかどうかは不明です。18世紀前半には狂犬病と思われる感染症が広がったとする記録があるそうです。どれだけ正確に報告されているか、という問題はありますが、狂犬病のピークは1920年代のようで、1925年には年間2千件以上の報告があったそうです。1920年代後半から減少傾向となり、先に紹介したビデオがつくられた1950年には狂犬病予防法が施行され、飼い犬の登録と(飼い犬への)ワクチン接種が義務化され、さらに野犬の駆除が徹底化され、1956年以降国内感染の報告はありません。

 何かと批判されがちな日本の行政ですが、この成績は立派です。日本に住んでいると、日本という国は対応が遅くて、感染症でいえば、なぜ海外では標準のワクチンが日本では入手すらできないのか、ということが指摘されますし、私自身もしばしば感じることですが、この狂犬病の対策に関しては見事だと思います。もちろん厚生省だけでなく、地域の保健所や獣医師会、そして国民ひとりひとりの協力があってこそですが、それでもこれだけの業績をこれだけ短期間で達成した国というのはおそらく他にはないでしょう。ちなみに、現在でも狂犬病のない国(輸入例は除きます)は(人口数万人以下の島国などを除けば)日本とイギリスくらいではないかと思われます。

 話を戻してその後の狂犬病の歴史をみていくと、1970年にネパールを旅行中の日本人が現地でイヌに咬まれ帰国後に発症し死亡しています。その後はまったく報告がなかったのですが2006年に60代の日本人男性2名が立て続けにフィリピンでイヌに咬まれて狂犬病を発症しました。このときは少し話題になりましたが、その後マスコミなどで狂犬病が取り上げられることはほとんどありません。

 さて、狂犬病の対策ですが、これはワクチン以外にはありません。狂犬病は発症すれば(ほぼ)100%死亡しますが、ワクチンを接種しておけばこれまた(ほぼ)100%防げる感染症なのです。ワクチンは事前に接種しておくべきですが、イヌに咬まれてからでも間に合います。

 しかし、これを過信してはいけません。先に紹介した北タイでイヌに咬まれた男子大学生は現地の医療機関を速やかに受診できたことで事なきをえましたが、もしもこの大学生が少数民族への支援をおこなうために国境付近の山奥に訪れていた場合はどうなったでしょうか。もちろんそんなところに医療機関はありません。もしも、複数箇所咬まれており痛みが強くて移動しにくいような場合、山を越すのは容易ではありません。

 海外に支援に行こうという若い人たちを怖がらせるようなことはしたくはないのですが、必要最低限の対策はおこなわなければなりません(注2)。また、狂犬病は日本人の支援が必要なへき地にのみ存在するわけではありません。実際、タイでは北タイや東北地方(イサーン地方)よりもむしろバンコクを含む中心部や南部の方で発生が多いのです。

 先進国でも起こりうるのが狂犬病です。そして気をつけなければならないのはイヌだけではないということです。かつての日本を含むアジアではイヌからの発症が大半を占める、というだけで、実際にはコウモリやキツネ、ネコ、アライグマなどからも感染します。

 海外で何かトラブルがあったとき、大使館が助けてくれるわけではありません。自分の身は自分で守らなくてはなりません。狂犬病のワクチン接種をお忘れなく・・・(注3)
 

注1:このビデオはもちろん一般には公開されていません。しかしこの男の子の写真が載ったポスターが厚労省によってつくられています。「私たちは君を忘れない」というタイトルで下記のURLで閲覧することができます。
http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou10/pdf/poster02.pdf

注2:海外(特にタイ)にボランティアに行く場合の注意点はNPO法人GINAのサイトに掲載しているコラムが参考になるかと思います。興味のある方は下記を参照ください。
GINAと共に第92回(2014年2月号)「無防備なボランティアたち」

注3:ただし狂犬病ワクチンは慢性的に供給不足となっており、希望すれば誰でも接種できるわけではありません。太融寺町谷口医院では、接種の優先順位を考えて、留学やボランティア、海外駐在や出張に行かれる人(会社の産業医に接種してもらえない場合)を優先しています。短期の旅行やバックパッカーはお断りすることもあるのが現状です。(へき地を好んで訪れるバックパッカーはリスクが高いのは事実ですが・・・)

しかし行政も狂犬病ワクチンが慢性的に不足しているこの事態を手をこまねいてみているわけではありません。日本製ワクチンの製造が間に合わないなら、海外製品を輸入すれば済む話です。まだ本決まりではありませんが、現在ヨーロッパのある製薬会社が作成している狂犬病ワクチンの認可が申請されているようです。

参考:はやりの病気第40回「狂犬病」

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2014年5月20日 火曜日

第129回(2014年5月) さっさとダニをやっつけよう

 ダニにはいろんなタイプがあって、吸い込んで鼻水が出るものから刺されて死亡するものまであり、「ダニ」という言葉で思い浮かべる病気は人それぞれで、対策はダニの種類によってまったく異なる、ということを以前紹介しました。(詳しくは過去のコラム「ダニほど誤解だらけの生物はいない」を参照ください)

 今回は「ダニ」を徹底的にやっつけて予防していく方法を紹介したいのですが、今回ターゲットにしている「ダニ」はヤケヒョウヒダニやコナヒョウヒダニと命名されている「ヒョウヒダニ」です。さらに「ハウスダスト」もほぼ同じものと考えて差し支えありません。

 下記コラムでも述べましたが、ヒョウヒダニの糞や死骸がハウスダストの原因物質となります。またホコリの一部はハウスダストです。つまり、「ヒョウヒダニ(ヤケヒョウヒダニ、コナヒョウヒダニ)≒ハウスダスト≦ホコリ」と便宜上考えて問題はありません。言葉が増えるとややこしくなりますから、ここからは「ヒョウヒダニ」で統一したいと思います。(「ハウスダスト」とすべきかもしれませんが、厳密にはハウスダストには細菌や人間の皮膚も含まれますし、後に述べる「防ダニグッズ」は「防ハウスダストグッズ」とは呼びませんので、今回のコラムでは「ヒョウヒダニ」に統一します)

 まず押さえておきたいのは、ヒョウヒダニはどのような家にも必ず発生するものであり、完全に死滅させてそれを維持することは不可能、ということです。古い家屋に住み着いているネズミは駆除することが可能ですし、マンションのある程度の高層フロアであればゴキブリの発症をなくすことはできると思います。しかし、ヒョウヒダニは人が住んでいる環境であれば完全にゼロにすることはできません。

 しかし発症を抑えていくことは可能ですし、また、あなたやあなたの家族の持っている疾患や体質によっては徹底的に防いでいかなければなりません。どのような疾患や体質かというと、アレルギー疾患、具体的には、喘息(咳喘息含む)、アトピー性皮膚炎、アレルギー性鼻炎・結膜炎などです。

 ダニ(ヒョウヒダニ)の対策って本当に大切なの?と聞かれることがありますし、ダニ対策に躍起になり治療を怠れば本末転倒になりますが、ダニ対策は大変重要です。以前私がみたアトピーの患者さんで「ステロイドを一切使わずに高額な布団だけで治そうとして破産しかけた」という人がいました。ここは大切なところなので強調しておきたいのですが、ダニ対策だけでアレルギー疾患、特にアトピー性皮膚炎が治ることは(ほぼ)ありません。しかし、再発や病状の悪化を防ぐためにダニ対策は絶対に必要なのです。

 ちなみに、1歳時にヒョウヒダニに多くさらされると11歳時に喘息を発症しやすい、とする研究や、3歳までにネコやハウスダストにさらされると呼吸機能低下をきたしやすい、という研究があります。また、経験的にダニの量が多いと喘息が悪化するのは自明ですし、防ダニ枕カバーで喘息の吸入ステロイドの使用量が減少した、という報告もあります。

 ではここからは具体的な対策について述べていきたいと思います。

 まずは「部屋をきれいにする」ということで、当たり前じゃないの?と言われそうですが、「部屋はきれいにしています」と言う患者さんに詳しく話を聞いてみると、毎日のように掃除機をかけるという人もいれば、月に一度しか掃除機を使っていないのに「きれいです」と答える人もいます。「空気の入れ換えをしていますか」と聞くと、これまた「きれいです」と言う人でも毎日入れ替えをしている、という人から「気が向いたときにしかしていない」という人もいます。

 では、どれくらいの割合で掃除をし、窓を開けて空気の入れ換えをすればいいのか、という疑問がでてきますが、これはケースバイケースで「正解」はありません。お子さんがコントロール不良の気管支喘息があるような場合は、可能な限り毎日でも掃除をすべきでしょう。喘息があり、さらにネコを飼っているような場合はなおさらです。このようなケースでは、ネコは飼わないに超したことはありませんが、現在一緒に暮らしているネコと離ればなれになるのは無理、という人も多いでしょう。

 すべての人がまず検討すべきなのは「床はフローリングにする」ということです。わざわざ、フローリングの上にカーペットや絨毯を敷いている人がいますが、これではヒョウヒダニに「繁殖してください」と言っているようなものです。フローリングにしていてももちろんヒョウヒダニは発生しますから掃除は必要です。このときに注意したいのは、掃除のときにヒョウヒダニやヒョウヒダニの糞が空中に舞う、ということです。ですから、子どもが喘息やアトピーがある場合は、掃除は子どものいない時間帯におこない、あなたがアレルギー疾患を有している場合は、他の誰かに掃除を替わってもらうべきです。

 しかし、家族全員にアレルギーがある、という場合や、専業主婦でアレルギーを持っている人が毎回夫に掃除を替わってもらう、というのは無理な話でしょう。家政婦を雇ったり、プロの業者に毎回来てもらったり、というのも現実的ではないでしょう。

 そこで掃除の仕方を工夫していく必要があります。まずマスクは必携です。そして窓を開けて換気をよくしましょう。ただし、季節によっては花粉や黄砂が部屋に入ってこないかどうかに注意しなければなりません。換気をした結果が、布団を花粉まみれにした、ということになれば本末転倒です。したがって、花粉や黄砂、さらにPM2.5などを考慮すると、窓を開けるべきではない、ということになります。しかし、窓を閉め切って掃除をすると全身にハウスダストを大量にあびることになります。ですから、空気清浄機が必要ということになります。

 ここ数十年でアレルギー疾患が激増しているのは間違いなく、その原因はいろいろと指摘されています。スギ花粉が増えたことは間違いありませんし、いきすぎた清潔志向が原因と言われることもあります。また一部の学者は寄生虫感染がなくなったことを指摘しています。これらは私自身も正しいと考えていますが、もうひとつ指摘しておきたいのは家屋の形態が変わってしまった、ということです。

 昔の日本の典型的な家屋、つまり縁側があって動物が庭で飼われていた(勝手に住み着いていた)ような家屋であればアレルギーが発症しにくいのです。通気性にすぐれていますし、適度にクモなどのダニを食べてくれる生物がいます。ネコやイヌも室内で飼うと多量の抗原(アレルギーの元)にさらされることになりますが、外で飼っている分にはさほど問題になりません。アレルギーがあるから昔ながらの日本式家屋に引っ越すというのは現実的ではありませんが(日本式家屋は大量に増えた花粉には不向きかもしれません)、マンションと日本式家屋の構造的な違いを考えてみることには意味があるでしょう。

 話をヒョウヒダニに戻しましょう。フローリングにして、マメに掃除をして、換気をする(もしくは空気清浄機を用いる)、というところまで話をしました。次に見直すのはダニが潜んでいるものが室内にないか、ということです。よくあるのが布製のソファやぬいぐるみです。ぬいぐるみを捨てることはできないでしょうが、少なくとも寝室には置くべきではありません。もちろん衣服を積み上げて放置すればそこがダニの溜まり場になるのは時間の問題です。

 そして最もダニが生息しやすいのは布団と枕です。枕については、一番簡単なのは枕を使わずに毎日洗い立てのタオルを重ねて枕代わりにする、という方法です。それでは熟睡できないという人は防ダニ枕カバーを使用するのがいいでしょう。布団については一番おすすめなのは防ダニ布団を使うということです。値段が高すぎて・・・、という人は防ダニシーツを検討すればいいと思います(注1)。

 布団の手入れについては、防ダニシーツや防ダニ布団のメーカーに相談するのがいいと思いますが、ここでは一般論について述べておきます。まず、布団の丸洗いは大変有効です。このときに可能であれば60度以上の熱水を使いましょう。あるいは(お金はかかりますが)クリーニングに出すのも有効です。クリーニング屋に防ダニ対策も頼んでおくと、熱水での洗浄、もしくは熱風での乾燥をしてくれます。布団乾燥機を使うなら、布団の中に入れるタイプではなく、布団全体を包み込むタイプのものが有効です。50度で20分が基準と言われています。

 こうしてみてみると、ダニ対策というのはかなり大変です。時間もお金もかかります。「こんなことできるはずない!」と感じる人もいるかもしれません。そういう人におすすめなのは「転地療法」です。転地療法とは、アレルゲンが少ない地域、もっと簡単にいえば「環境のいいところ」に引っ越してしまうという”治療”です。例えば、喘息やアトピーに悩んでいる人の多くは、ハワイのコンドミニアムで3ヶ月も過ごせばかなりよくなるはずです。あるいはタイの東北地方(イサーン地方)やラオスに行っても多くの人は改善するでしょう。

 しかし、そのようなことを実際に実行できる人はほとんどいないでしょう。ということはある程度の時間とお金を費やしてダニ対策をするしか方法はないわけです。面倒くさい、と感じる人は、将来ハワイのコンドミニアムに居住することを夢にして、ハワイでくつろいでいる自分の将来の姿を空想しながら取り組んでみてはいかがでしょう・・・。

注1:念のために断っておくと、私はどこかの防ダニグッズメーカーから供与を受けているわけではありませんし、特定の会社を推薦しているわけでもありません。しかし、診察室で患者さんから質問を受けたときは、ヤマセイ株式会社を紹介することがあります。同社は私が所属している日本皮膚科学会、日本アレルギー学会の双方が賛助会員にもなっています。興味のある方は下記を参照ください。
http://www.drdanizerock.com/product/hq-futonset.html

 

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2014年4月21日 月曜日

第128回 混乱する高血圧の基準 2014/4/21

 2014年4月1日、日本高血圧学会は5年ぶりに高血圧のガイドラインを改定し「高血圧治療ガイドライン(GL)2014(JSH2014)」という名称で発表しました。改定のポイントはいくつかあるのですが、血圧を下げる努力目標である降圧目標の「若年・中年者高血圧」が130/85mmHgから140/90mmHgとされたことは注目に値するでしょう。

 今月になってから「血圧の基準、変わったんですよね」と言って受診される患者さんが増えています。

 最近はマスコミやインターネットから病気の情報を積極的に入手する人が増えてきておりこれは好ましいことであります。学会が発表するガイドラインというのは大変複雑であり簡単には理解しづらいのですが、それでも情報入手に努めるのは大変立派なことだと思います。

 しかし、です。「血圧の基準、変わったんですよね」と言う患者さんの何人かとはどうも話が噛み合いません。しばらく話すと分かるのですが、こういう患者さんは日本高血圧学会が発表したガイドラインの改定ではなく、日本人間ドック学会が発表した「健康人の基準」について話しているのです。

 2014年4月4日、日本人間ドック学会は、人間ドックを受診した約150万人を分析し、年齢差や男女差を踏まえた「健康な人」の検査値を発表しました。改めて2014年4月のマスコミの報道を調べてみると、一般紙では日本高血圧学会のガイドライン改定について触れている記事はわずかで、一方で日本人間ドック学会の発表を大きく報じていることが分かりました。

 マスコミはおもしろおかしい記事を書くのが使命なのでしょうから、意外な発表、もっといえば奇をてらったような発表を積極的に取り上げます。日本人間ドック学会の発表は特にうがった見方をしなくても、「これまで異常とされてきた血圧やコレステロールの数字、本当は問題ないんですよ。だからそこのあなたも必要のない薬を飲まされているかもしれませんよ」、と素直に読めば感じてしまいます。

 実際、先に紹介した例のように、診察室でこのことを話される患者さんもいるわけです。そして、この患者さんが「血圧の基準、変わったんですよね」の言葉の次に言いたいことは、「だから薬やめてもいいですよね」ということなのです。

 もちろん、これまで飲んでいた血圧の薬は必要だから飲んでいたわけで、その必要性が突然なくなるわけではありません。しかしこの説明には少々の苦労を要します。なにしろ、マスコミは「血圧の正常値が変わった」という誤解を与えるような表現をとりますから、患者さんの立場からすれば「じゃあ飲まなくていいんだ」と解釈してしまうのは無理もありません。

 太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)のようなプライマリ・ケア(総合診療)のクリニックでさえ、このような質問が急増しているのですから、生活習慣病専門のクリニックなどは連日パニックになっているのではないでしょうか。ここでは述べませんが、日本人間ドック学会の発表は、血圧だけでなく中性脂肪やコレステロールの基準についても「健康な人」の基準値について言及しており、これが各学会の発表しているガイドラインと異なるために混乱を招いています。

 混乱が生じているのは医療機関だけではないようです。おそらく日本高血圧学会に対しても質問が相次いだのでしょう。2014年4月14日、日本高血圧学会は「人間ドック学会と健康保険組合連合会による小委員会の新しい「正常」の基準値に関する報道を受けて、高血圧学会から国民の皆様へのお願い」というタイトルの声明(注1)を発表しました。内容を簡単にまとめると、健康診断(人間ドック)での基準と介入が必要な心血管疾患のリスクとなる高血圧や正常血圧の基準は異なるために必要な人は医師の診察が必要、となりますが、これではわかりにくいでしょう。

 そこで私なりにまとめなおしてみたいと思います。人間ドック学会が発表したのは、自覚症状がなく過去に大きな病気をしたこともなく、高血圧が進行したときにおこる動脈硬化もない人、つまりまったく健康な人だけを集めて血圧のデータを集めてみると、「健康な人」の血圧の上限は147/94mmHgであった、ということです。しかし、実際にはここまで上がらなくてももっと低い血圧で動脈硬化をきたし、心筋梗塞や脳梗塞を起こす人がいるのも事実です。つまり、人間ドック学会に所属する医師が診ているのは健康な人が大半であり、高血圧学会に所属する医師が診ているのはすでに動脈硬化がある人が多いわけです。大雑把にいってしまえば、そもそも人間ドック学会と高血圧学会で比較する対象が異なっているというわけです。

 まだあります。そもそも人間ドックを受ける人というのは、お金持ちか、一流企業に勤めていて会社が全額(もしくは一部)を負担してくれるような恵まれた人に限られます。そのような人たちの多くは健康に関心があり、日頃から体重コントロールにつとめ、定期的な運動をおこないバランスの良い食生活をしていることが多いのです。きちんとしたデータはみたことがありませんが、人間ドックを受ける人と受けない人で喫煙率に大きな差があるのではないかと私はみています。つまり、人間ドックを受けるような健康に関心が高い人は、遺伝的な要因で少々血圧が高かったとしても、体重を維持し、禁煙、運動、バランスのいい食事摂取ができているために、動脈硬化や他の心血管のリスクが帳消しになっている可能性が強いというわけです。

 ではどう考えればいいのかというと、日頃から市民健診や会社の定期健診を受けて「まったく問題ない」と言われているような人であればあまり気にする必要はありませんが、すでに治療を受けている人や、定期的な経過観察が必要と医師から言われている人は、人間ドック学会の発表ではなく主治医の意見を聞くべき、というわけで、高血圧学会の発表に従うべきなのです。

 しかし、です。一般人の立場からみると、高血圧学会、というよりも日本の医療界全体に対する不信感のようなものがぬぐえないのではないでしょうか。ノバルティス社の「ディオバン問題」は大変物議を醸しましたが、これに続いて日本最大手の製薬会社である武田薬品も「ブロプレス」という血圧の薬で広告に虚偽があることが発覚しました(注2)。日本最大手の製薬会社が不正行為をしていたとなると、庶民からすると何を信じていいか分かりません。この広告が不正であることに気付いたのは京都大学のある医師ですが、大半の医師はメーカーの広告にだまされていたわけです。しかし、私は製薬会社を責めるつもりはありません。広告が誇大であることを見抜けずに処方をおこなっていた医師にも責任はあるからです。

 ノバルティス社のディオバンも武田薬品のブロプレスも「アンジオテンシンⅡ受容体拮抗薬」(以下「ARB」)というグループに入ります。では、ARBが信頼できないものかと問われれば決してそういうわけではありません。高血圧の治療には必要な薬剤であり、谷口医院でも(これらとは異なる製品ですが)ARBを処方している患者さんは少なくありません。

 しかしARBを高血圧の第一選択薬にすることは谷口医院ではあまり多くはありません。カルシウム拮抗薬の方が効く印象があるからです。発表されたばかりの「高血圧治療ガイドライン(GL)2014(JSH2014)」によりますと、高血圧の第一選択薬は、ARB、ACE阻害薬、カルシウム拮抗薬、利尿薬の4つとなっています。このなかでACE阻害薬はARBと似たような薬でいい薬ですがやはり効きやすさではカルシウム拮抗薬に分があります。利尿薬は心不全の合併などがあると最初に使いたい薬で値段も安いのですが、薬疹がけっこうな割合で起こることもあり第一選択薬にすることは谷口医院では多くありません。

 このように書くと、私はカルシウム拮抗薬を手放しに信じているように思われるかもしれませんが決してそういうわけではありません。薬の使用には、肝臓や腎臓の機能が低下している場合や他の薬を飲んでいる場合には充分な注意が必要ですし、副作用についても軽視してはいけません。様々な要素を考慮してその人にあった薬を総合的に決めていく必要があります。ガイドラインというのはあくまでもガイドラインであって、それに盲目的に従うわけにはいかないのです。今回の改定ではβブロッカーと呼ばれる降圧剤は第一選択薬からはずれていますが、場合によってはβブロッカー中心で血圧を下げることもあります。

 高血圧を含む生活習慣病でコラムを書くと毎回同じような結論になってしまい面白みにかけますが、大切なのは「定期的な健診と生活習慣の改善」(注3)です。そして、健康のことならどんなことでも相談できる主治医を持つことです。最近血圧が上がり気味だという人は一度主治医に相談してみてください。

注1:この声明は下記のURLで読むことができます。
http://www.jpnsh.jp/files/cms/351_1.pdf

注2:詳細は下記メディカル・エッセイを参照ください。
メディカル・エッセイ第135回(2014年4月)「製薬会社のミッションとは」

注3:定期的な検診と生活習慣の改善については下記コラムを参照ください。コラムの中の「3つのENJOY、3つのSTOP、4つのデータに注意して」というところがポイントです。
メディカル・エッセイ第129回「危険な「座りっぱなし」」

参考:はやりの病気第120回(2013年8月)「高血圧を考え直す」

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2014年3月22日 土曜日

第127回(2014年3月) A型肝炎に要注意、可能ならワクチンを

 A型肝炎が2014年になり例年を超える勢いで急増しているようです。国立感染症研究所の報告によりますと、2014年第9週までの報告数は102例になり、例年の倍以上のスピードで推移しているそうです。2月21日までの報告を地域別にみてみると、宮城県、大阪府、埼玉県、東京都あたりでの報告が目立ちます。

 もう少し詳しくみてみると、2月21日までの報告では、年齢の中央値は46.5歳、年齢階級でみると50~69歳が41%で最多、次が20~39歳の32%です。性別では男性が59%、女性が41%です。感染した地域は7割が国内で3割が海外です。海外での感染は、カンボジア、タイ、パキスタン、フィリピン、インドネシア、エチオピア、韓国、モロッコなどとされています。

 感染経路については、2月21日までの報告のうち9割以上が経口感染で、そのうち約4割は生カキの摂取が原因と考えられています。残りの約1割は性感染ではないかとみられています(注1)。

 A型肝炎というのはA型肝炎ウイルスによって発症します。アルファベットがついた肝炎ウイルスにはA型からE型があります。B型とC型については、日本にも感染者が多数いること(どちらも100万人以上と推測されています)、慢性化し将来的に肝臓ガンや肝硬変のリスクがあることなどから広く周知されていると思います。D型は日本にはほとんど存在しないこととB型に感染している人にしか感染しないことから一般にはあまり知られていません。E型はブタやシカを生で食べない限りは国内では感染しませんし、海外での感染もA型ほどは多くないためにそれほど有名ではありません。

 一方、A型肝炎は2~3年前から一躍有名になりましたが、このきっかけはおそらく2011年の夏に発生したタイの大洪水でしょう。一般に洪水被害が起こると「水系感染」といって汚染された水からの感染症が流行することがあります。タイはもちろん水道水は飲めずに飲料水はペットボトルなどで飲みますが、料理に使う水をすべてペットボトルでまかなうわけにはいきません。不衛生な水で野菜を洗ったり、そのような水で洗った包丁を使ってフルーツをカットしたりしますから、野菜や果物にA型肝炎ウイルスが付着していた、ということが起こりうるのです。

 もっとも、日頃から感染症に対する注意をしている人であれば、アジア方面に渡航する前にワクチンを接種していました。A型肝炎はワクチンで防げる病気、つまりVPD(注2)なのです。ワクチンは2回もしくは3回接種でほぼ全員に抗体がつき、少なくとも数年間は有効であり、特にアジア方面の海外渡航には必須のワクチンです。そのため、太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)にも、アジア方面への旅行(短期旅行もバックパッカーなどの長期旅行も)、留学、ボランティア、海外駐在や出張などに行く人たちからの依頼が多く、希望があれば全員に接種していました。

 ところがタイの大洪水をきっかけにA型肝炎ウイルスのワクチンが一気に供給不足となり入手できなくなってしまったのです。これは、つまり、「大洪水が起こるまでは感染症に注意している人たちの需要量とワクチンメーカーの供給量がちょうど釣り合っていた。しかし大洪水をきっかけにタイに進出している日系企業が慌てて駐在員や出張する社員にワクチン接種をおこなったせいで一気に供給量が不足した」ということです。

 このサイトで何度も取り上げているように、日本人は感染症に関しては他国に比べると随分と遅れています。海外駐在員も同様で、さすがにB型肝炎ウイルスのワクチンを接種していない駐在員はほとんどいないと思いますが(ただし中小企業の駐在員や大企業でも現地採用の社員では接種していない人もいまだにけっこういます)、A型肝炎ウイルスのワクチンは接種率がさほど高くなかったのです。

 現在のワクチンの状況はどうかというと、谷口医院は旅行医学をおこなっているということもあり、ある程度は優先的にワクチンを回してもらっています。ただし以前のように希望者全員に接種できるほどは入手できません。そこで社会的に優先順位の高い人、具体的には、中小企業の駐在員・出張者(大企業の場合は社内で産業医に接種してもらうよう助言しています)、フリーのジャーナリストやカメラマン、ボランティア、留学などの目的の人に接種するようにしています。つまり、現時点では、バックパッカーも含めて単なる旅行目的の人には接種できないこともあります。また性感染症の予防目的という人や、カキを生で食べたいから接種したいという人にもお断りすることがあります。

 A型肝炎という病気やウイルスには馴染みがないという人が多いかもしれませんが、これは現在の日本が清潔になっていて感染の危険性が大きく減少しているからです。戦後間もない頃の不衛生な環境では感染者が珍しくありませんでした。日本は上水道は比較的早くから整備されており水道水がそのまま飲めるありがたい国ですが(水道水をそのまま飲める国というのはそれほど多くないのです)、糞尿を野菜栽培の肥料として使っていたこともありA型肝炎は稀な疾患ではなかったのです。

 実際、現在70代以上の人の採血をすると抗体ができている(つまり感染して治癒している)ということがけっこうあります。実はA型肝炎には不顕性感染(感染したことに気付かずに治っている)ことがあり、特に小児期では不顕性感染が8割以上と言われています。一方、成人の場合は不顕性感染が10~25%程度であろうと言われています。

 A型肝炎ウイルスに罹患し発症すると、発熱や倦怠感などに苦しめられます。初めから確定診断にいたることは少なく、風邪などと誤診されることが多いといえます。症状が継続するために採血をおこなうと肝機能が悪化しておりそこからA型肝炎が疑われて検査をおこない確定にいたる、という流れです。ただ、A型肝炎はB型肝炎やC型肝炎と同様、潜伏期間が長く(1ヶ月以上になることもあります)、問診から感染のエピソードを探りにくいことがあります。B型やC型であればタトゥーやボディピアス(これらは忘れないでしょう)や性交渉(これも忘れないのが普通でしょう)を思い出してもらうのにそれほど苦労しませんが、A型の場合は1ヶ月前に食べたものを思い出してもらうのは簡単ではありません。

 A型肝炎を発症すると通常は入院になります。倦怠感と発熱がしばらく続き日常生活が困難になるからです。入院してもたいした治療はないのですが点滴をつなぎっぱなしにして水分を補うことをします。重症化(劇症化)はB型肝炎などと比べると頻度は低いのですがないわけではありません。今年(2014年)の報告では劇症化はないようですが、劇症肝炎になると命を失うこともあります。

 ところでカキといえば、A型肝炎よりもむしろノロウイルスの方が有名です。ノロウイルスによる下痢症が昨年(2013年)末から急激に増えました。ノロウイルスは感染力が非常に強く、例えば、感染者が嘔吐した絨毯を拭いた後掃除機をかけてウイルスが空気中に散乱しそれを吸って感染、といったこともあります。またアルコールでは死滅せずに特別な対策が必要です。ここ数年間は毎年ノロウイルスが原因と思われる下痢が冬になると増えますが、生カキを食べて、というのはそれほど聞きませんでした。ところが、今シーズン(2013年11月頃から2014年3月にかけて)は、生カキを食べて、と答える人が私の印象で言えば異様に多いのです。

 そして、もう少し踏み込んで言えば、生カキを食べる人が増えた結果としてA型肝炎に罹患する人が増えているのではないか、という印象がぬぐえないのです。ちなみに、我々医療従事者は(全員とは言い切れないかもしれませんが)生カキは食べません。A型肝炎ウイルスのワクチンは接種していますが、ノロウイルスにはワクチンもなく防ぐ術がないからです。そして医療者がノロウイルスに感染したとなると、感染力の強さを考えると仕事は休まなければなりませんし、生カキを食べて下痢で休んだなどということは医療の世界では「恥」以外の何物でもありません。

 もちろん生カキというのは美味しいものですから(実は私も大好物で、引退後に思いっきり食べることを夢見ています)、一般の人は医療者ほど敏感になる必要はありません。ノロウイルス感染のリスクを抱えて食する、という考えがあってもいいと思います。それに小児や高齢者や免疫不全の状態でなければ、感染して数日間は下痢と嘔吐に苦しめられても水分摂取さえ持続できれば命にかかわる状態にはなりません。

 ただしA型肝炎はそういうわけにいきません。稀とはいえ劇症化もありますし、劇症化に至らなくても入院治療が必要になります。A型肝炎ワクチンは(値段は安くありませんが)副作用もほとんどなく極めて有効なワクチンです。海外渡航、生カキの摂取を考えている人は積極的に検討すべきでしょう。

注1:A型肝炎は不衛生な水や食べ物から感染することが多いのですが、性的接触を介して他人の肛門からの感染もあります。詳しくは下記コラムを参照ください。

NPO法人GINAウェブサイト
Dr.谷口のセイフティ・セックス講座(2010年4-5月)

注2:VPDについては下記コラムを参照ください。
第119回(2013年7月)「VPDを再考する」

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2014年2月21日 金曜日

第126回 デング熱は日本で流行するか 2014/2/21

 今回は以前私がタイ渡航中にある日本人男性から聞いた話から始めたいと思います。

 西岡直也氏(仮名)は30代半ばの男性です。20代の頃からタイが大好きで、タイでの生活を楽しむために働いていた会社を退職し、時給のいい夜間の工場勤務を数ヶ月間おこない、まとまったお金ができるとタイで数ヶ月過ごし、お金が尽きると日本に戻り再び夜間の工場勤務、という生活を続けていたそうです。

 景気のいい頃はこのような工場勤務の仕事がいくらでもあったのにリーマンショック以降はピタっとなくなった、と西岡氏は言います。仕事の内容にこだわらなければ日本でも仕事がないわけではなかったそうですが、氏の選択した方法は、タイで仕事を探す、というものでした。

 とはいえ、景気が悪いのはタイも同じです。大学を卒業しておらず、特に何ができるというわけでもなく、英語は片言、タイ語については普通の日本人観光客よりはできますし日本企業のタイ駐在者よりも日常用語は話せますが、とてもビジネスに応用できるレベルではありません。そんな西岡氏が選んだタイでの仕事とは日本語教師です。

 日本語教師と聞けばハードルが高そうですが、東南アジアで日本語を教えている日本人は日本語を教える教育を受けているとは限りません。というより、そのような教育を受けている教師の方が少なく、実際は日本人であれば学校のレベルにこだわらなければほとんど誰にでもできる仕事だと言われています。(たしか沢木耕太郎氏の名著『深夜特急』にも、レベルの低い日本人の日本語教師がタイで登場していたような記憶があります)

 ただし日本語教師の給料は驚くほど安いものです。西岡氏はバンコクでの仕事をあきらめ、タイ人の友達のつてを頼ってバンコク近郊のある県の日本語の塾での仕事をみつけました。給料は安いけれど(日本円で月給2万円程度)、家賃も安く(5千円未満)、なんとか生きていくことはできるそうです。

 しかし、タイでお金がなくてもやっていける自信があった西岡氏は、あることに対する知識を充分に持っていませんでした。それは「蚊対策」です。

 ある日の朝、身体がだるく風邪でもひいたかなと思った西岡氏は、いつものように塾には行ったものの昼過ぎからは立っているのも辛くなってきました。塾長に付き添われて現地の公立病院を受診した結果、診断は「デング熱」でした。数日間でよくなるだろうと言われましたが、水分摂取もままならないほど倦怠感が強いため西岡氏は入院することになりました。主治医の話だと当初は1~2日で退院できるだろうとのことだったそうです。

 ところが、西岡氏の様態は急激に悪化していきました。意識が朦朧とし何日間寝ていたのかも分からなかった、と氏は回想します。そのときはタイ語も(西岡氏のタイ語レベルでは病気の話はできません)英語もできない氏は医師の説明がよく分からなかったのですが、後から日本語のできるタイ人(医療関係者)から、それは「デング出血熱」であったことを教えてもらったそうです。血小板が生命を維持する数値を大きく下回っていたと聞かされたと言います。幸運にも西岡氏は何の後遺症もなく回復しましたが、デング出血熱がここまで進行すると助からないことも珍しくありません。

 タイでデング熱にかかる日本人は少なくありません。私自身も過去に何度か、タイでデング熱にかかったという日本人にタイでも日本でも会ったことがあります。しかし、西岡氏のようにデング出血熱に進行したという例は初めて聞きました。

 ここでデング熱についておさらいをしておきましょう。デング熱はデング熱ウイルスに感染することで発症します。感染経路は「蚊に刺されること」です。ネッタイシマカやヒトスジシマカという蚊の体内にデング熱ウイルスが潜んでいることがあり、これらの蚊がヒトを刺すときにそのウイルスがヒトの体内に侵入してくるのです。

 タイではとてもありふれた感染症で、以前タイの医師から聞いたことがあるのですが、私が「デング熱は大変恐ろしい感染症だと思う」と言うと、意外そうな顔をしたその医師は「タイでは全然珍しくないよ。子どもの多くはかかるものだよ」と言いました。その医師によれば、そんなに重症化するものでもなく、マラリアとは質が違うと話していました。

 私はこのタイ人医師の話を聞いて「なるほど」と感じました。東南アジアの渡航者に対し、我々医師は蚊の対策について説明をします。長袖・長ズボンを着用すること、虫除けスプレーやクリームを使用すること(日本製でなく現地で調達することをすすめています)、夜間は窓を開けないこと、もしくは蚊帳を張ることを説明し、蚊取り線香などの利用を勧めることもあります。

 しかしよく考えてみると、ここまでの対策をタイ人の子どもがやっているとは到底思えません。タイの地方に行けば、長ズボンどころか靴もはいておらず短パンに裸足で生活している子どもたちもいます。そんな子どもたちが蚊に刺されてデング熱ウイルスに感染しても何の不思議もありません。実際に大勢の子どもたちが感染していると思われます。しかし、このタイの医師によれば、子どもが感染してもあまり重症化はしないそうです。そういえばA型肝炎ウイルスも、水や食べ物からタイでは幼少時に感染することが多いのですが、幼少時の感染であればそれほど重症化せず、発症しても軽症ですみます。ちなみに、日本も戦後しばらくまでは現在のタイと同じような状況であり、現在70歳以上くらいの人のA型肝炎ウイルスの抗体を調べるとけっこうな確率で陽性になります。

 話をデング熱に戻しましょう。デング熱は子どもに感染しても軽症ですむことが多く、成人でも1回目の感染であれば、普通の風邪よりははるかにしんどいですが、必ずしも入院しなければならないわけではありません。怖いのは「デング出血熱」となった場合です。通常、初めてデング熱ウイルスに感染したときにデング出血熱になることはないとされています。デング熱ウイルスは4つのタイプに分類できるのですが、2回目に最初に感染したときと別のタイプのウイルスに感染したときにデング出血熱ウイルスを起こすことがあるとされています。

 西岡氏の場合、タイに長年住んでいることで、おそらく本人は気付いていなかったけれども(通常の)デング熱に一度罹患しており、そして後に別のタイプのウイルスに感染しデング出血熱を発症したのでしょう。西岡氏は後から振り返ると、そういえば数年前に微熱と原因不明の皮疹が数週間続いたことがあった、と言います。

 デング熱ウイルスは、ここ数年間、毎年のように東南アジアや太平洋地域のどこかではやっています。最近では東ティモールで流行があったことが報道されています。地球温暖化と共に発生地域が北半球では北上してきており、台湾でもここ数年は問題になっています。沖縄に上陸するのも時間の問題か・・・、と私は考えていたのですが、意外なことに、日本に旅行に来たドイツ人の女性が関東地方で罹患した可能性があるとの発表を厚生労働省が2014年1月におこないました(注1)。

 その後厚労省は追加の発表をおこなっておらず、ここから先はネット上の情報になりますが、どうもそのドイツ人女性は他国を経由して日本に入国出国したわけではなく、往路も復路もドイツ・日本の直行便を利用していたそうです。となると、日本での感染を疑わざるを得ず、滞在したとされている長野、山梨、東京のどこかで感染したことになります。そして、出所は不明ですがネット上の情報によれば、このドイツ人女性は「8月21日から24日の間に滞在していた山梨県笛吹市で蚊に刺された」と証言しているそうです。

 ただ、私自身はこのドイツ人女性の感染に疑問を持っています。数十年も日本で報告されていない感染症がごく短期間日本に滞在した外国人だけに感染、しかも地域の蚊の調査ではウイルスが検出されていない、という状況を考えると、本当に日本で感染したのかと疑いたくなります。例えば、ドイツから日本へ直行した飛行機が、その前のフライトではアジアを飛んでいてそこで機内に蚊が侵入した、という可能性はないでしょうか。とはいえ、私も自分が厚労省の役人なら、わずかでも可能性がある限りは、日本での感染が否定できないという発表をおこなうでしょう。

 当分の間、国内でも蚊に対する注意が必要でしょう。また、台湾、香港を含めたアジア方面に旅行に行く人にとって充分な蚊対策が必要なのは言うまでもありません。

注1:詳細は下記医療ニュースを参照ください。

医療ニュース2014年1月27日「デング熱は本当に日本で感染したのか」

参考:
はやりの病気第60回(2008年8月)「虫刺されにご用心」
医療ニュース2009年1月27日「マレーシアでデング熱が急増」
医療ニュース2008年7月24日「デング熱は蚊を駆除すると重症者が増加!?」
医療ニュース2008年4月3日「ブラジルでデング熱と黄熱が大流行」
医療ニュース2008年2月19日「タイでデング熱が急増」

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2014年1月21日 火曜日

第125回(2014年1月) 糖尿病治療の変遷

 糖尿病といえば、ここ数年間マスコミで話題になるのは「糖質制限食の是非」が多く、今も肯定派と否定派の意見が様々な誌面で取り上げられているようです。興味深いことに、医療者の中でも肯定派と否定派に分かれて論争がおこなわれることがあります。

 糖尿病については、実は薬についてもここ数年でドラスティックに内容が変わってきています。新しい薬が次々と登場し、従来の治療が塗り替えられているといっても過言ではありません。

 もちろん、糖尿病の治療の基本は、まず予防と早期発見につとめ、薬を使う前に食事療法、運動療法、禁煙などをしっかりとおこなうことです。それでも改善しないときに初めて薬を開始することになります。

 糖尿病治療の歴史を塗り替えることになった薬としてまず挙げなければならないのは「インクレチン関連薬」と呼ばれるものです。インクレチン関連薬には2種類あります。1つは「DPP4阻害薬」と呼ばれる飲み薬で、商品名でいえば、グラクティブ、ジャヌビア、エクア、ネシーナ、トラゼンタ、テネリア、スイニー、オングリザなどです。もうひとつは「GLP-1アナログ(GLP-1受容体作動薬)」と呼ばれる注射薬で、商品名ではビクトーザ、ビデュリオン、バイエッタ、リキスミアなどです。

 商品名は聞いたことがあったとしても「インクレチン」という名前には馴染みがないという人も少なくないのではないでしょうか。ここで簡単に説明しておきます。インクレチンというのは体内で分泌されるホルモンの1種で、インスリンの分泌を増やして、グルカゴンの分泌を減らす作用があります。またまたカタカナがでてきてややこしいと感じる人がいるかもしれませんが、じっくり考えればそれほどむつかしくはありません。インスリンもグルカゴンも血糖値に関わるホルモンで、インスリンは血糖値を下げて、グルカゴンは逆に血糖値を上げる、と考えてください。

 糖尿病の人は血糖値を下げたいのですから、インスリンの量を増やしてグルカゴンを減らせばいいわけです。ということは、糖尿病の人にとってインクレチンというのは大変ありがたいホルモンになります。さらにインクレチンがありがたいのは、血糖値が高いときにしか働かないという特徴があるからです。もしも血糖値が低いときに働けば血糖が下がりすぎて低血糖症状が出てしまいますが、インクレチンはその心配がないのです。

 そんな夢のようなインクレチンですが欠点もあります。ごく短時間しか働いてくれないのです。なんとかしてインクレチンにもっと働いてもらう方法はないか、あるいはインクレチンを外部から取り込む方法はないか、このようなことを世界中の研究者は随分長いこと考えて研究を重ね、ついに登場したのが「DPP4阻害薬」と「GLP-1アナログ」というわけです。

 DPP4というのは、インクレチンを分解する酵素のことで、この酵素の働きを弱める薬、つまりDPP4阻害薬が働けばインクレチンがそれだけ長い間作用することになります。GLP-1アナログというのは、インクレチンと構造が似たもので、インクレチンと同じように働いてくれて、インクレチンそのものではないためにDPP4に分解されにくくなっているのです。

 これらを考えるとインクレチン関連薬というのは、糖尿病の患者さんにとってまさに夢の薬のようにも思えてきます。では、欠点はないのでしょうか。「ない」と断言する医療者もいるかもしれませんが、私は手放しに「欠点がない」とは思っていません。後に述べるように、実は私は現時点ではインクレチン関連薬を積極的には処方していません。転居などで前にかかっていた病院から引き継ぐようなケースでは処方することもありますが、その場合でもインクレチン作動薬を中止できるように患者さんに生活指導をおこなうことが多いのです。

 私がインクレチン関連薬を積極的に推薦しない理由は2つあります。1つは値段が高いことです。DPP4阻害薬は種類にも使う量にもよりますが、1日あたり3割負担であったとしても50~60円くらいはします。(後に述べるメトホルミンであれば1日あたり6~25円程度です) 糖尿病という病は薬を飲めばいいというわけではありません。まずは食事療法・運動療法をおこなって、それでも改善しなければ薬を始めるということになっていますが、薬を飲み始めたからといって運動・食事療法をやめていいわけではありません。むしろ糖尿病が悪化しているわけですからこれまで以上に食事・運動療法をしっかりとやらなければならないのです。そして効果的に食事・運動療法をおこなおうと思えばある程度の費用がかかります。薬にお金をかけるのではなく、食事・運動に投資しよう、というのが私の基本的な考えです。

 もうひとつ私が積極的にインクレチン関連薬を処方していない理由は「未知の副作用」を考えてのことです。インクレチン作動薬の副作用についてはこれまで世界中で随分と調査がおこなわれており、現時点では特に大きな副作用はなく「安全性の高い薬剤」ということになってはいます。しかし今後もそれが続くかどうかは分かりません。歴史があり安い薬が他にあるのであれば必ずしもインクレチン関連薬を使う必要はないのです。

 糖尿病の新しい薬はインクレチン関連薬だけではありません。開発中のものが非常にたくさんあります。糖尿病の薬というのはいったん飲み出すとかなり長期になりますから製薬会社としては安定した収益につながるわけで、世界中の製薬会社がいろめきたって開発しているのかもしれません。

 そんななか、まもなく市場に登場するのが「SGLT2阻害薬」と呼ばれるものです。この薬の作用機序は大変シンプルで、糖尿病は血液中に糖が多いのだからその糖を尿と一緒に出してしまおう、というものです。つまりこの薬を飲めば血中の余分な糖が尿と一緒に排出されて血糖値が下がる、というわけです。日本では合計6種類のSGLT2阻害薬が申請されていたのですが、一番乗りはアステラス製薬の「スーグラ」という商品となりました。2014年1月17日に承認取得したようですからまもなく処方開始となるでしょう。

 ではSGLT2阻害薬が発売されるとすべての医師が処方を始めるかというとそういうわけではないと思います。少なくとも私は当分の間処方を見合わせるつもりです。理由はインクレチン関連薬と同様、価格が高いことが予想されるのと、副作用についてです。糖の混じった尿がでるようになるわけですから、すでに、膀胱炎を起こしやすくなるのではないか、ということが指摘されています。常に尿糖がでる状態であれば排尿時の不快感が生じる可能性がありますし、女性の場合カンジダ腟炎を起こしやすくなるでしょうし(男性でも包茎があればカンジダ性゙亀頭炎のリスクとなる可能性があります)、また浸透圧の関係で血圧が下がりすぎないか、という心配もあります。

 さて、ここからが今回のコラムの本題です。私はインクレチン関連薬を積極的に処方していませんし、SGLT2阻害薬も現時点では処方する予定はありません。にもかかわらず私自身もここ数年で最も処方内容を変えた疾患のひとつに糖尿病をあげます。これはマスコミなどにはあまり注目されていないようですが、私自身は「メトホルミンが高容量で使えるようになった」ということが糖尿病治療にとって大変重要なことであると考えています。

 メトホルミンというのは50年以上も前に誕生した薬なのですが、乳酸アシドーシスという副作用が起こりやすいという意見があり、随分と長い間、わずかな量しか使えなかったという歴史があります。ところが、実際には副作用が従来指摘されてきたように発生するわけではなく、また非常に高い効果が期待できることが次第に明らかにされ、海外では高容量の処方がスタンダードになってきていました。日本でもメトホルミンのなかで「メトグルコ」という商品は2010年に高容量が認められるようになりました。それまでは1日合計量が750mgまでだったのが、2,250mgまで認められるようになったのです。高容量でメトホルミンを内服しても副作用はあまり起こらず、低血糖もおこりません。したがって空腹に悩まされることもありません。その上、コストは安く(3割負担で1錠3円未満)、使用する量にもよりますが、1日あたり6円~25円程度ですから経済的にも使い勝手がいいのです。

 先にも述べましたが、糖尿病の基本治療は薬ではなく食事療法、運動療法、禁煙です。治療にお金をかけるなら薬ではなく、これら生活習慣の改善に投資しよう、それが私の基本的な考えです。

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2013年12月21日 土曜日

第124回(2013年12月) 睡眠薬の恐怖

  薬に対するイメージというのは人それぞれで、危険性をまるで顧みずに処方を強く希望する人もいれば、使用することをすすめたいのだけれど頑なに使用を拒否する人が混在する薬というのがいくつかあります。今回お話する「睡眠薬」はその代表的な薬です。(ちなみに、他にはステロイドと抗菌薬でこの傾向があります)

 日本では、少し年配の方であれば、睡眠薬と言えばサリドマイドを思い出す人が少なくないでしょう。サリドマイドを内服した妊婦さんから生まれた子どもたちの悲惨な姿を報道された写真などで目にすると「睡眠薬=恐怖の薬」という方程式が頭の中でできあがるのも無理もないかもしれません。(サリドマイドは現在睡眠薬としては用いられていませんが、一部の難治性の疾患に奏功することからその後再び注目されるようになりました)

 一方、現在の若い人たちのなかには、サリドマイドを知らず、また睡眠薬を友達からわけてもらって気軽に飲んでいる人や、インターネットで入手して使っている人もいるようで、もちろんこれらは違法行為なのですが、随分と睡眠薬に対する敷居が低くなっているような印象があります。そしてこの傾向は年を経るごとに加速しているような気がします。太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)がオープンした7年前は、不眠の相談に受診される人は「睡眠薬はできるだけ使いたくない」という人が多かったのですが、最近は、薬の名前を指定して処方してほしい、というような人もいます。

 改めて言うまでもないことですが、睡眠薬というのはそんなに簡単に使うべきものではありません。谷口医院に不眠を訴えて受診された人に最初から睡眠薬を処方するのは、3人に1人もいません。

 現在医療機関で標準的に処方される睡眠薬はサリドマイドのような催奇形性のあるものはありませんが、原則として妊婦さんは使うべきではありませんし、副作用については誰もが充分に理解しなければなりません。またアルコールとの併用は絶対にNGです。

 患者さんを必要以上に怖がらせることはしたくありませんが、最近起こった事件を取り上げて睡眠薬の注意点について改めて考えてみたいと思います。

 2012年9月2日、日曜日の正午過ぎ、東京都目黒区の高級住宅街の豪邸に住む会社社長(当時46歳)が3階の自室から1階の居間に降りると、変わり果てた当時5歳の息子の姿がありました。目と口をガムテープでふさがれ、ビニール紐で身体が縛り上げられ、さらに家庭用ゴミ袋を二重に被せられガムテープで密閉されていたのです。

 この無惨な殺人事件の犯人は、なんと実の母親(当時42歳)でした。これだけを聞くと、母親に化けた鬼畜が犯した断じて許すことのできない児童虐待か、と思いますが、事実はまったくそうではありませんでした。

 この事件を後に詳しく報道したジャーナリストの森哲志氏のレポート(注1)に、この母親の法廷での様子が描写されていますので少し引用したいと思います。

 開廷中、(母親の名前が書かれていますがここでは実名を伏せます)のすすり泣きが絶えない。細身の体に黒袖のカーディガンと白いブラウス。ブラウンのメガネをかけた顔立ちに、理知的な上品さ。細い右手のピンクのハンカチは濡れている。(中略)進学校を出て(中略)税理士資格を取得、玉の輿に乗り、3億円超の豪邸に住むセレブの面影が、長期留置を経ても漂う。(中略)イタリア製外車が置かれた豪邸。夫婦のいさかいもなく、上の男の子2人は野球少年。仲のよい家族と見られていた。

 つまり、この母親は残虐性を持ち合わせている反社会的な人間ではなく、我が子を殺すような動機はまったく見当たらないのです。では、何がこの女性を殺人に導いたのか。それが睡眠薬、しかも、日本で最も頻繁に処方されている睡眠薬のひとつである「マイスリー」だったのです。

 誤解を避けたいのでこの時点で解説しておくと、数多い睡眠薬のなかでマイスリーが危険な睡眠薬というわけでは決してありません。マイスリーは作用時間が短く、翌日に眠気やだるさが残ったりしにくいために、危険どころか、日本でもっとも処方量の多い睡眠薬であり、睡眠薬を初めて使うという人にも比較的処方されやすい薬なのです。

 では、なぜそれほど危険性のないと考えられているマイスリーでこのような悲惨な事件が起こったのか。それはアルコールを同時に摂取していたからです。睡眠薬とアルコールの同時摂取、または睡眠薬内服後に眠れないからといってアルコールを摂ることは絶対にやってはいけないことなのです。この母親が睡眠薬とアルコールの併用の危険性をどれだけ認識していたのかは報道からは分かりませんが、きちんと理解していればこのような事件は起こらなかったはずです。

 では、アルコールさえ摂らなければ危険性は完全に回避できるのか、と言えばそういうわけでもありません。もうひとつ、最近の事件を紹介しましょう。

 2012年3月31日未明、兵庫県明石市内の総合病院の病室。夜勤の看護師が異様な光景を目撃しました。肺炎で入院していた72歳(当時)の男性が、女性の病室に忍び込み、87歳(当時)の女性に馬乗りになり、自らの下腹部を押し当てていたそうなのです。

 病院側は警察に通報し、この男性は準強姦未遂罪で起訴されました。しかしこの男性、犯行のことはまったく記憶になく、「夢の中で、縛られたおばあさんの縄をほどこうとした。何も覚えていない」と証言したそうです。

 2013年11月21日、神戸地裁はこの被告に無罪を言い渡しました。(検察の求刑は懲役3年でした) 無罪とした理由について、地裁は「睡眠導入剤の副作用で心神喪失状態だった可能性」を認めたのです。つまり、この男性は事件を起こす7時間前に睡眠薬(この事件もマイスリーでした)を内服しており、この薬が心神喪失の原因となった可能性を認めた、というわけです。念のために付記しておくと、この男性はアルコールを摂取していたわけではありませんし、精神疾患を有していたわけでもありません。

 先にも述べたように数多い睡眠薬のなかでも、マイスリーは短時間しか作用せずに作用強度もさほど強くないために相対的にはそれほど危険なものではないのですが、なぜか睡眠薬に関連した事件はマイスリーが原因であることが目立ちます。2006年5月に、故ケネディ大統領の甥であるパトリック・ケネディ下院議員が議会敷地内で自動車事故を起こしたのもマイスリーが原因であると報道されています。

 こういった事件はインパクトが強いために、睡眠薬を処方するときにすべての患者さんに事件の詳細を伝えているわけではありませんが、谷口医院では(というより以前から私は)、高齢者にはよほどのことがない限り睡眠薬の処方はしませんし、若い方に対しても注意点をしつこいくらいに話しています。しかし、それでも”副作用”が出現することがあります。例えば、翌朝台所に大量に食べ散らかした後があった(つまり暴食した記憶が一切ない)という患者さんがいましたし、谷口医院宛てに記憶のないまま赤ちゃん言葉のメールを送ってくる人もいました。ちなみにこの患者さんは社会的ステイタスの大変高い立場にいる人です。

 では、眠れないときはどうすればいいのか。私が不眠を訴えるすべての患者さんに話すのは、まずは「同じ時間に起きて同じ時間に寝る」ということです。海外出張が多く時差が睡眠を妨げている場合や、夜勤があって生活が乱れている場合でも、まずは薬なしで眠れる工夫をしてもらいます。そして薬が必要と判断すれば、マイスリーのような睡眠薬ではなく、メラトニン作動薬であるロゼレム(一般名は「ラメルテオン」)を使ってもらいます(注2)。

 それでも眠れないときは、一時的にマイスリーのような睡眠薬を処方することがありますが、危険性は充分に承知してもらった上での処方になります。睡眠薬は怖がりすぎるのもよくありませんが(睡眠薬を飲んだことで不安が昂じて眠れなくなれば本末転倒です)、安易に飲むのはもっと問題です。日本人が気軽に睡眠薬に頼りすぎていることは以前から指摘されており、先に紹介した森哲志氏のレポートによりますと、睡眠薬の世界市場125億円中、日本人は75億円を消費しているそうです。

 もしもあなたが睡眠薬の使用が常習化しているなら、危険性を改めて顧みて、「同じ時間に起きて同じ時間に寝る」ことの重要さをまずは見直してみてください。

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注1:このレポートは『新潮45』2013年12月号に「目黒碑文谷「愛児袋詰め殺人」の真相」というタイトルで掲載されています。

注2:下記コラム「新しい睡眠薬の登場」を参照ください。
(2016年1月付記:2015年12月以降は「ベルソムラ」(一般名:スボレキサント)という従来とは異なる機序で作用する薬が広く使われるようになっています)

参考:
はやりの病気第86回(2010年10月)「新しい睡眠薬の登場」
メディカルエッセイ第130回(2013年11月)「噛み合わない薬の論争」

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2013年11月20日 水曜日

第123回 マラソンに伴う健康被害と利点 2013/11/20

 マラソンブームと言われて久しいように思われます。ここ10年くらいで日本のマラソン人口は急増し1千万人とも2千万人とも言われています。マラソンはもちろん健康にいいことですから我々医療者としても喜ぶべきことなのですが、危険がないわけではありません。しかも命に直結するような病気のリスクもあります。

 今回はマラソンに伴う身体のリスクについてまとめていきたいと思います。しかしその前にこのマラソンブームの背景を振り返っておきたいと思います。

 健康のためにジョギングをする人は昔からいましたが、フルマラソンにチャレンジする人は1980年代まではさほど多くなかったと思います。マラソン大会では制限時間がだいたい5時間くらいに設定されているのが普通ですから、日頃トレーニングをしているような人でなければハードルが高いのです。

 マラソンが一般人にとって敷居が低くなったのはホノルルマラソンが注目を浴びだしたからではないかと私はみています。1989年頃から、私の周りにもホノルルマラソンにチャレンジするという人がちらほら現れだしました。円高とバブル経済のおかげで、ハワイがすでに憧れの地ではなく気軽にいける旅行先になったことがその理由です。しかし、ホノルルマラソンが一躍注目を集めた最大の理由は「制限時間なし」というルールにあります。これなら日頃トレーニングをしていない人でも出場することができます。そして、冷やかし半分で出場したような人たちもゴールをすると感動に包まれ、それが口コミで広がっていったのではないか、と私は分析しています。後に改めて述べますが、マラソンとは誰もが感動できるスポーツかつイベントであり、精神衛生上も非常にすぐれたものなのです。

 日本経済が停滞することがなければマラソンブームはもっと早く訪れたのではないか、というのが私の分析です。不景気で失業する人が増えるなかで、のんきに「ホノルルマラソンで感動を・・・」などと言っている場合ではなくなってしまいました。転機が訪れたのは2007年の東京マラソンでしょう。この頃は円安でしたが、好景気に見舞われ(といっても多くの庶民に好景気という感覚はありませんでしたが)、健康ブームが重なっていました。そして制限時間を7時間としたのが結果的にあのブームを引き起こしたのではないかと私はみています。42.195kmを7時間でゴールしようと思えば平均速度は6.03km/hですから、これなら早歩きの程度で完走することができます。東京マラソンが口火をきったかたちとなり、その後全国に次々と制限時間のゆるやかな市民マラソンが誕生しました。

 大阪マラソンが始まったのは2011年で、2013年の今年は3回目の開催となりました。今年は私もランナーを支援したいと考え、医師として救護所で待機する係を引き受けました。(本当は私自身も走りたかったのですが、今年は応援係として業務をまっとうすることにしました) 

  あまり報道はされていないと思いますが、フルマラソンが開催されると軽症から重症まで大勢のランナーが身体のトラブルに遭遇します。なかには命にかかわるような重篤な事態になることもあります。私の担当したポイントでは、生命に関わるような大きなアクシデントはありませんでしたが、それでも救急車を2台要請せざるを得ませんでしたし、軽症ではあるものの医学的なケアの必要なランナーが次々と救護所にやってきました。

 マラソンに伴う健康被害を私なりに分類すると次の4つになります。①熱中症・脱水及び低ナトリウム血症、②筋肉、靱帯、関節などの整形外科的疾患、③不整脈や虚血性心疾患(これが最重症になります)、④その他、の4つです。「その他」は、持病の悪化(喘息発作や糖尿病の人の低血糖症状など)、低体温症(冬場)、風邪(大会に参加して風邪をひく人は少なくない)、あるいは2013年4月15日にボストンマラソンでおこった爆破テロなどです。以下に①②③をみていきます。

 ①の熱中症・脱水については炎天下のマラソンでは当然おこりえます。低ナトリウム血症についても、最近はかなり周知されてきているように思われますが、マラソンの現場では決して少なくありません。単に水分を摂るのではなく塩分(電解質)も摂取しなければ、低ナトリウム状態が進行し、行くところまで行けば生命が危険な状態になることもあります。ですから、最近のマラソン大会の給水ポイントでは、水だけでなく「OS-1」のような電解質を含んだ飲料水も置かれています。しかし大会によってはいまだに水だけのところもあるようです。

 低ナトリウム血症が怖いのは、なかなかそれを自覚できない、ということです。単なる脱水であれば、喉が渇けば水を飲めばそれで事足ります。低ナトリウム血症になると、身体はしんどくなりますし、汗で水分が失われているのは事実ですから水を飲めば回復することを期待してしまいます。そして水を飲むわけですが、塩分の含まれていない水であれば余計に低ナトリウム血症が進行してしまいます。

 マラソンやジョギングの途中や走行後に採血をしてナトリウムの濃度を調べるようなことを普通はしませんから気づきませんが、けっこうな人が低ナトリウム血症になっているのではないかと私はみています(注1)。そんなに距離を走ったわけでもないのに、疲労感が急激に進行し、嘔気がでてきたようなときは迷わずに塩分を摂るべきです。ランナーのなかには「塩タブレット」を携帯し、症状から低ナトリウム血症を疑えばそれを直ちに飲むという人もいます。

 ②の整形外科的な疾患は軽症のものを含めれば頻度としては一番多いでしょう。足底にマメができた、靴擦れがおこった、という程度であればテーピングのみでマラソンを続けられることもありますが、肉離れや強い関節痛などが生じればリタイヤせざるを得ません。単なる筋肉痛であれば続けられることもありますが、場合によってはそれ以上筋肉を動かすことがかなり困難になります。

 ときどき、元々体力はあるはずで息切れはほとんどしていないのに途中から筋肉が動かなくなり歩いてゴールした、という人がいますが、これは運動不足があればよくおこります。筋肉を使うことにより血中乳酸濃度が上昇し、その濃度がおよそ4mmol/L(ミリモル/リットル)を超えると筋肉が硬直してしまい動かなくなるのです。しかし、この問題はトレーニングにより克服することができます。つまり効果的なトレーニングにより血中乳酸濃度の上昇を遅らせることができるのです。(このコラムはマラソンのタイムを上げることを目的としていませんのでこれ以上は述べません。興味のある方はマラソンの指南書を参照してみてください)

 ランナーを救護する立場の医療者からみれば整形外科的疾患というのはあまり怖くありません。なぜなら重症化することはまずないからです。医療者が最も懸念するのが不整脈や虚血性疾患などの死に直結するアクシデントです。

 私の知る限り、国内の市民マラソンでの死亡事故はないと思いますが、心肺停止は何度か報告されています。有名なところでは2009年の東京マラソンで、15km地点で心筋梗塞を起こし致死的な不整脈がでたものの救護班の迅速な対応で一命を取り留めたタレントの松村邦洋さんが有名です。このアクシデントは、もしも医療者が近くにおらずAED(注2)がなければ松村さんは助かっていなかったでしょう。

 松村さんが日頃どのようなトレーニングをしていたのか私には分かりませんが、15km地点で発症したことを考えると、それほど本格的なトレーニングをされていなかったのではないでしょうか。医療者からみて、最も危惧すべきなのは、日頃からトレーニングをしているベテランのランナーが30kmを超えたあたりです。実際、過酷なランニングのトレーニングを続けると心臓の障害につながる、とするアメリカの研究(注3)もあります。

 さて、マラソンの否定的な側面ばかりをみてきましたから、最後にマラソンの利点を確認したいと思います。まず、当たり前のことですが持続的なトレーニングは適正体重を維持し生活習慣病の予防になります。「走った距離は裏切らない」は野口みずきさんの名言ですが、私はこの言葉は、健康のためにランニングをするすべての人にあてはまると思っています。

 もうひとつの利点は、精神状態に大変いい、ということです。運動そのものがうつ状態を改善させることはよく指摘されますし、質のいい睡眠につながることは容易に想像できるでしょう。私がそれ以上に主張したいことは、ゴールしたときの感動、です。といっても私はフルマラソンを走った経験がないので、完走したランナーに聞いたことばかりなのですが、大勢の人に声援をかけられてゴールしたときの感動は何にも変えられないと、誰もが口をそろえていいます。年に一度のマラソン大会を励みに日々の仕事をがんばっているという人もいるほどです。ここまでくると、マラソン大会とは一種の<祝祭>とも言えます(注4)。

 ランニングは「百薬の長」と言えば言いすぎかもしれませんが、身体的にも精神的にも大変すぐれた低コストで簡単に始められる健康増進法なのです。ただし、過ぎたるは及ばざるがごとし・・・、トレーニングのしすぎは心臓を障害する可能性を指摘されていることはお忘れなく・・・。

注1:採血は容易にできませんが、低ナトリウムをおこしたかどうかを簡便に知る方法はあります。それは体重を量るという方法です。低ナトリウムが進行すると身体がむくみ体重が増加します。通常はランニングの後は体重が減りますが(フルマラソンでは約2キロ減ると言われています)、減っていないときは低ナトリウム血症になっている可能性があります。

注2:AEDについては下記コラムを参照ください。
メディカルエッセイ第48回(2007年1月)「あなたはAEDが使えますか」

注3:この研究は医学誌『Mayo Clinic Proceedings』2012年6月号(電子版)に「Potential Adverse Cardiovascular Effects From Excessive Endurance Exercise」というタイトルの論文が掲載されています。下記のURLで概要を読むことができます。
http://www.mayoclinicproceedings.org/article/S0025-6196%2812%2900473-9/abstract

注4:祝祭が人間個人にとって(あるいは社会にとって)いかに有益なものかというのは社会学や人類学ではよく指摘されることです。例えば年に一度のホノルルマラソン(東京マラソンでも大阪マラソンでもかまいませんが)を生活の中心に据えて、日頃のライフスタイルやトレーニングを考える、というのは医学的にも社会学的にも大変健全なことではないかと私は考えています。

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2013年10月21日 月曜日

第122回 飛行機の中の病気 2013/10/21

  数年前の12月31日午後、東南アジアに向かう機内で2本目のビールをあけた私は、機体の小さな揺れを心地よく感じまどろんでいました。読んでいた英字新聞が頭に入ってこなくなり前の座席に押し込んで腕を組んで少し本格的に眠ろうと思ったときにその機内アナウンスが聞こえてきました。

 乗客の中に医師、看護師、または他の医療従事者はいませんか? お客様の調子が悪く機内の一番後ろのスペースにいます・・・。

 いくらお酒を飲んでいても、いくら眠たくても、それが日本語か英語なら医師の聴覚を司る細胞は敏感に反応します。直ちに目が覚めて腰を上げかけた私は、しかしここでたじろぎました。そしておそらくわずか1分程度の短い時間にいくつかのシーンが脳裏をよぎりました。

 患者は心臓に持病のある高齢者。診察の結果、緊急性はないと判断しそのままフライトを継続。しかし着陸前に発作が起こり着陸時に患者は死亡。最初は、結果が報われなかったとはいえ、全力で診察し治療を検討した医師を非難する声は上がらなかったが、数日後、その医師が飲酒して正常な判断ができていなかった可能性があることが発覚し・・・。

 あるいは・・・。患者は軽症だったのにもかかわらず医師が過剰な診断をし、飛行機は緊急着陸へ。患者は元気で、予定通りの旅行ができなかった乗客からは大変なブーイング。この日は12月31日で、なかには年に一度の家族との再会を楽しみにしていたという乗客も。そして診断した医師が飲酒していたことが判明し・・・。

 このようなシーンが次々と浮かび心臓の鼓動が早くなっています。そのとき2回目の機内アナウンス、「乗客の中に医師、看護師、・・・」が流れてきました。もう一度考えよう・・・、しかし、心の奥から聞こえてきたその声は無視され、私の身体はすっと立ち上がっていました。そして後先のことは考えずに小走りで機内後方に向かいました。

 奥のスペースで寝かされていたのは10代半ばの白人女子。母親と思われる中年の白人女性が付き添っていました。フライトアテンダントとその母親から情報収集すると、搭乗時には問題なかったが食事をとってしばらくしてめまいと嘔気が出現、気分不良がおさまらないためにフライトアテンダントを呼んだ、とのことでした。母親によれば過去にも何度か同じ状態になったことがあるとのことでした。

 私が呼びかけるとその女子は反応しきちんと受け答えができます。呼吸・脈は正常であり、学校は好きか、とかペットは飼っているか、とかたわいもない世間話をしばらくしていると少しずつ笑顔が戻ってきました。血圧が正常であることを確かめた私は、母親とフライトアテンダントに「大丈夫です。気分不良が続くならもう少しこのまま寝ていてもらってもいいですが、着陸する頃には元気になっていると思います」と答え、席に戻りました。

 席に戻ると一気に疲労感が出てきましたが、これは一仕事終えた充実感ではなく、「軽症でよかった~」という安堵感からくるものでした。

 さて、私が機内で診察した(というほどのものではありませんが)この女子は、普段は健康だけれどもときどき乗り物酔いを起こすとのことでした。当たり前ですが、飛行機で途中下車はできませんし、乱気流に入ると大きな揺れを避けることもできません。水は用意してくれますが薬はごく一部のものを除きあらかじめ自分で準備しなければなりません。

 飛行機の中は危険な環境で病気を発症しやすい・・・、などと言うと航空会社や旅行会社からクレームが来そうですし、機内は食事や飲み物を用意してくれて映画や音楽も楽しめるのだから極楽じゃないか・・、という声もあるでしょう。そういう私にとっても、先に紹介した<恐怖の呼び出し>がなければ、ゆっくり本を読めて飲み物をサービスしてくれる機内は大変快適な時空間です。

 しかしながら、機内というのは場合によっては大変危険な時空間となります。なぜ危険かというと、揺れるとかテロの標的にされるとか、そういった問題は除くとしても、飛行機に乗る限り絶対に避けられない環境の変化が2つあるからです。ひとつは気圧が低いということ、もうひとつは空気が乾いている、ということです。

 機内の気圧は0.8気圧程度しかありません。それがどうしたの?と感じる人もいるでしょうが、気圧の変化というのは一部の病気、特に呼吸器や心血管系の病気を悪化させます。また、乾燥もときに問題になります。一般に機内の湿度は5~15%程度に調節されており、これはサハラ砂漠よりも乾燥していると言われることもあります。

 乾燥のせいで皮膚がかゆくなる、という程度であればいいのですが、例えば、気管支喘息があれば、普段は安定しているとしても機内で悪化することがあります。飛行機に長時間乗ると咳が出るとか、喉がイガイガする、という人がときどきいますが、これも機内の乾燥に原因がある可能性があります。

 気圧と湿度が低いことで悪化する可能性のある疾患は多数あり、喘息の他、COPD(酸素ボンベは持ち込めませんから必要な場合はあらかじめ航空会社に酸素の用意をお願いしなければなりません)、気胸(過去に気胸を起こしたことがあれば搭乗できないこともあります)、狭心症や心筋梗塞、間質性肺炎、などですが、普通の風邪でも咳が悪化することがあり注意が必要です。

 特に喘息については、日頃落ち着いていたとしても、突然機内で発作を起こすことがありますから、発作時用の吸入薬と、場合によっては内服ステロイドを持参してもらうこともあります。機内で喘息発作が起これば本人も大変ですが、周囲の人も慌てることになりますから充分な準備をしておかなければなりません。

 普通の風邪で症状が軽ければ搭乗してもかまいませんが、インフルエンザの場合は確定がついておらず疑いがあるという程度でも搭乗は見合わせることを検討すべきです。日頃健康な方であれば機内で急変という可能性はほとんどありませんが、他人へ感染させるというリスクがあります。もしも新型インフルエンザに罹患しており、それを機内で蔓延させたとなると責任を追及される可能性もなくはありません。

 注意すべき感染症はインフルエンザだけではありません。SARSやMERS(中東呼吸器症候群)、あるいは結核などは確定診断がついていなくても、感染の可能性があることを知っていながら搭乗したとなると大変な問題になります。また、風疹や麻疹(はしか)も同様です。もしも風疹にかかっていて、機内に妊婦さんが乗っていたとすると、国際問題にもなりかねません。

 機内の病気で忘れてはならないのがエコノミークラス症候群(ロングフライト血栓症、旅行者血栓症)です。この疾患については過去に取り上げたときに述べましたが(下記「はやりの病気」参照)、エコノミークラスかどうかに関係なく同じ姿勢をとり続けることが発症のリスクになります。長くてもせいぜい2時間程度の国内線であればそれほどリスクは高くありませんが、4時間を超える国際線では注意が必要です。

 特に、高齢者、肥満がある人、女性、手術の後、喫煙、薬を用いている人などは要注意です。薬で特に忘れてはいけないのがピルや更年期障害に用いるホルモン剤です。低用量ピルを飲んでいる人のなかには薬という意識に乏しい人がいますし、貼り薬のホルモン剤を使っている人も危険性を理解していないことがあります。特に低用量ピルを飲んでいる女性で喫煙している人は要注意です。このような場合、まずはできるだけタバコをやめることが必要で、機内の中では、通路側の席をとる、こまめにトイレに行く、水分をとる、お酒を飲まない、足を組まずに定期的に足を動かす、などの対策が必要になります。

 太融寺町谷口医院の患者さんのなかにも低用量ピルを服用している患者さんは少なくなく、なかにはタバコを完全に止められてないこともあり、飛行機に乗ることがあるか何度も聞くことがあります。きっと一部の患者さんにはしつこいと思われていることでしょう・・。しかしこれは大変重要なことで、もしも機内で血栓症を起こして呼吸困難にでもなれば大変なことになります。特に、個人輸入でピルを買っているという人のなかに、このような知識がないことが多く驚かされることがあります。

 今何らかの病気がある人、過去に呼吸器や心血管系の病気をしたことがある人、現在何らかの薬(個人輸入のピルなども含めて)を飲んでいる人などで、飛行機に乗る機会のある人はかかりつけ医に相談するようにしましょう。

参考:
トップページ:旅行医学・英文診断書など → 機内での注意
はやりの病気第92回(2011年4月)「エコノミークラス症候群を防ぐには」

 

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2013年9月20日 金曜日

第121回 肌が白くなる病気のいろいろ 2013/9/20

 カネボウなどの一部の化粧品メーカーがスキンケア製品に配合していたロドデノールが肌を白くすることが判り現在大変な問題になっています。一部のマスコミがこの副作用を過剰に報道していることもあり、不安を抱えている人も少なくないようです。(詳しくは下記医療ニュースを参照ください)

 一般に肌が白く抜ける現象を「白斑」と呼びます。白斑には様々な原因があり、そのひとつが今回のロドデノールのように、何か物質に触れることによって生じるタイプの白斑です。きちんとした病名があるわけではありませんが、病名をつけるとすると「化学物質性白斑」くらいになるかと思います。

 さて、今回は「肌が白くなる疾患」についてまとめてみたいと思います。肌が白くなる疾患には様々なものがあり、簡単に治るものから、生涯つきあっていかなければならないものまで様々です。また白さの程度も様々で、周囲の皮膚と比べると少し白いかな、というものから、明らかに白くて目立って外出もためらわれる、というものまであります。

 まずは軽症のものから紹介していきましょう。夏になると増える疾患に「癜風(でんぷう)」と呼ばれるものがあります。これはマラセチアという真菌(カビ)による感染症です。マラセチアは誰の皮膚にも存在しているいわゆる常在(真)菌なのですが、汗をかいて真菌が増殖しやすい環境になると一気に仲間を増やして皮膚の色を変色させます。

 通常、癜風は痛みも痒みも伴いません。そして発症部位は、手足など自分で見つけやすいところではなく、胸や背中、首のうしろなど、改めて鏡をみないとわかりにくいところですから、医療機関を受診するのはそれなりに進行してからであることが多いと言えます。

 癜風は、色が白く抜けるタイプ以外にも、赤くなるタイプや黒っぽくなるタイプのものもあります。一度発症すると、汗をかく季節になると必ず出るという人もいます。(実は私も20年以上ほぼ毎年この癜風が出現します。しかしこの後述べるようにすぐに治ります)

 癜風は診断も治療も簡単です。疑えばその部分をピンセットやセロテープを使って検体を採取し(痛くありません)、顕微鏡で癜風そのものを確認すれば確定診断がつきます。薬は軽症であれば外用薬だけ、やや重症化していれば飲み薬を1週間程度併用すればまず間違いなく治ります。その後は再発を防ぐために、マメにシャワーをするようにしてもらいます。

 癜風は夏に患者さんが増えますが、一年を通してときどき相談されるのが「老人性白斑」と呼ばれる治療の必要のないタイプの白斑です。「老人性」という名前がついていますが、実際は早ければ30代から生じます。大きくてもせいぜい1センチ未満で痛くもかゆくもありません。境界は不鮮明でよく見ないとそれほど目立ちません。相談されるのは男性よりも圧倒的に女性に多いのですが、これは女性に多いからではなくおそらく女性の方が気になるからでしょう。治療は不要です。気になる人にはコンシーラーなどでメイクするよう助言しています。

 子供の顔が部分的に白くなれば単純性粃糠疹を疑うことになります。これは別名「はたけ」と呼ばれるもので頬部にできることが多いと言えます。通常かゆみはないかあっても軽度ですし、境界不鮮明でそれほどくっきりと目立つわけではありませんので放置しておくことが多いと言えます。アトピー性皮膚炎があると生じやすいと言われています。アトピーがあると鱗屑(りんせつ)と呼ばれる粉がふいたような状態になりやすく、ここを強くこすると余計に色が薄くなりますから、触りすぎるのはよくありません。

 日常の診療で比較的よく遭遇して難治性の肌が白くなる病気は「尋常性白斑(じんじょうせいはくはん)」と呼ばれるものです。別名「しろなまず」とも呼ばれます。尋常性白斑は日本人の1~2%に生じると言われており決して珍しい病気ではありません。マイケル・ジャクソンもこの病気に罹患していました。

 尋常性白斑の原因は免疫異常であると言われています。また他の疾患を合併していることもあり、実際に尋常性白斑から甲状腺異常や膠原病が見つかることもあります。また円形脱毛症を合併することは少なくないような印象があります。治療は、ステロイド外用のみで治ることもありますが、重症化していくこともしばしばあります。

 急速に進行していくような場合にはステロイド内服を使うこともないわけではありませんが、ステロイドは長期で内服すべきではありませんし、使用量が増えていくことも避けなければなりませんから、多くの場合においてあまり現実的な治療ではありません。

 ここ数年で普及してきているのは「ナローバンドUVB」と呼ばれる紫外線を当てる治療法です。大病院の皮膚科であればこの治療がおこなえる機械を置いてあるのが普通ですが、最近はクリニックでも置いているところが増えてきています。(当院には置いていませんが・・) 

 では、ナローバンドUVBで尋常性白斑が何事もなかったかのように完全に治るかというとそういうわけではありません。治療には長期間を要しますし、症状が改善したとしても患者さんが満足のいくレベルまでは届かない場合もあります。では、そのような場合どうするのかと言うと「化粧品」を使います。カモフラージュメイクと呼ばれるメイクが有効で、一部の化粧品メーカーが積極的に開発しています(注1)。

 日常よく診る「肌が白くなる病気」でもうひとつおさえておきたいものがあります。それはきちんとした病名があるわけではありませんが、「炎症後の色素脱失」とでも呼ぶべきものです。アトピー性皮膚炎などで慢性の皮膚の炎症があると、ときに一部が白くなることがあります。また、何らかの物質で「かぶれ」を起こすと、その治癒後に肌の一部が白くなることもあります。「炎症後色素沈着」と呼ばれる炎症の後に色素沈着が残ることはよく知られていますが、その逆に色が白くなることもときどきあるのです。

 何か物質に触れることによって起こる白斑をまとめてみたいと思います。ロドデノールが一躍有名になりましたが、このいわば「化学物質性白斑」とでも呼ぶべき原因物質で比較的多いのがハイドロキノンです。ハイドロキノンは美白剤として有名で一般の化粧品にも低濃度で含まれていることもあります。医療機関で処方するのは化粧品よりも高濃度であり、たしかに高い効果は期待できるのですが、色が白くなり過ぎてトラブルになることもあるのです。

 また、ステロイドの副作用としての色素脱失もあります。ステロイドの副作用に色素沈着がある、と世間では”噂”されているようですが、これは間違いです。(ちなみに、このような”噂”があるのは世界広しといえども日本だけだそうです) ステロイドを外用して色素沈着が起こるのは、ステロイドによるものではなく皮膚の炎症の後の色素沈着です。しかし、ステロイドの副作用で色素脱失があるのは事実です。

 産業医学の分野では、フェノール化合物による色素脱失(白斑)が有名です。特にp-t-ブチルフェノール(PTBT)と呼ばれる物質はよく知られており、過去には多くの労働者が白斑の被害に合っています。以前は粘着テープなどの原料として用いられていたそうです。

 肌が白くなる病気は教科書的には今回述べた以外にも複数あります。例えば先天性の「眼皮膚白皮症」や、眼症状を伴うことの多い「Vogt-小柳-原田病」などは、医師であれば知っておかなければならない(医師国家試験対策には必須です)疾患です。しかし、日常の診療で目にする機会はあまりありません。

 さて、ロドデノールに話を戻したいと思います。現時点ではロドデノールは「化学物質性白斑」とでも呼ぶべき白斑でありメカニズムは不明です。(PTBTは色素細胞に対する毒性作用が指摘されていますがロドデノールでははっきりしていません)。もしもロドデノールの白斑が、上に述べた炎症の後の一次的な色素脱失であるならばロドデノールの使用をやめれば何もしなくても治っていくはずです。色素細胞に毒性があるなら、何もしなければ治らない可能性もあります。その場合、ナローバンドUVBは治療の選択肢となるでしょうが、有効性は現時点では不明です。

 白斑はロドデノールで有名になりましたが、実際の臨床の現場では「色が白くなりました」と言われて受診される原因は様々です。気になることがあればかかりつけ医に相談してみてください。

注1:カモフラージュメイクに積極的に取り組んでいる代表的なメーカーは
GRAFA(http://www.grafa.jp/individual/
資生堂(パーフェクトカバー)(http://www.shiseido.co.jp/pc/
マーシュフィールド(http://www.marsh-f.co.jp/
などです。
一部の大学病院の皮膚科外来では、白斑の患者さんのためのメイクアップ外来をおこなっています。またリハビリメイクという言葉が有名になったかづきれいこさん(http://www.kazki.co.jp/rehabilimake/)は白斑のメイクにも積極的に取り組んでおられます。

参考:
トップページ:ロドデノール含有化粧品が原因の白斑
医療ニュース:2013年9月13日「ロドデノールの被害に対する”誤報”」
はやりの病気第58回(2008年6月)「カビの病気1(癜風・水虫)」

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

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