はやりの病気

第185回(2019年1月) 避けられない大気汚染

 四日市ぜんそくを代表とする大気汚染が社会問題となったのはもはや遠い昔の話で、今や日本は「世界で最も空気のきれいな国」と呼ばれることすらあります。私の知人の外国人は、口をそろえて「東京は空気がきれい」と語ります。東京に限らず日本国内では工場のせいで空気が汚染されていると感じることなどほぼ皆無です。

 一方、海外に行くと空気の汚さに辟易としてしまうことが多々あります。そして、「海外」とは中国や東南アジアだけではありません。欧米諸国であっても東京と比べると空気は汚れていて、それを裏付けるデータもあります。

 医学誌『The Lancet』2018年11月14日号(オンライン版)に「ロンドンの低排気ガス地域における空気の質と子供の呼吸の研究(Impact of London’s low emission zone on air quality and children’s respiratory health: a sequential annual cross-sectional study)」というタイトルの論文が掲載されました。

 この研究の対象はロンドン在住の小学生2,164人です。ロンドンでは2008年に一部の地域が「低排気ガス地域」(low emission zone)に指定されており、そこに住所がある小学生に対し、2009年から2014年に肺の機能と排気ガスの関係が調べられています。

 結果、5年間で肺活量が5%も低下していたことが分かりました。ここで言う肺活量は正確には「努力性肺活量(forced vital capacity)」 で、医療者がFVCと呼んでいるものです。喘息やCOPD(慢性閉塞性肺疾患)があり、息を吸ったり吐いたりする検査を受けたことがある人はこのFVCという単語を聞いたことがあるかもしれません。簡単にいうと、胸いっぱい空気を吸い込んだところから思いっきり一気に吐き出したときの空気の量のことです。これが5%も低下したというのはとても大きな問題です。老人が長年の喫煙のせいで低下したのなら仕方ありませんが、これは小学生の話です。スポーツで不利になるのは明らかですし、この時期にこれだけの低下があるということは将来、肺の病気のリスクが増加するに違いありません。

 そして、この研究は「低排気ガス地域」でのものです。この地域における微粒子の測定では5年間でわずかではありますが改善しています。つまり空気が少しはきれいになっているということです。にもかかわらず小学生の呼吸機能は低下しているのです。ということは、依然規制がないところではさらに悪化していることが予想されます。

 私はロンドンには90年代後半に一度行ったことがあるだけですが、そのときの記憶では、空気はきれいとは言えないにしても不快極まるとまでは感じませんでした。少なくとも、現在のバンコクやホーチミン、上海などよりははるかにましです。

 太融寺町谷口医院の患者さんは若い人が多いため、出張や観光などで海外に行く人が多数います。そして、喘息や慢性気管支炎がある患者さんのなかに「渡航すると必ず悪化する」という人が少なくありません。実際、世界で最も大気汚染がひどいと言われているインドと中国では、それぞれ年間161万人、158万人が大気汚染により死亡しているという報告もあります。

 IHME(Institute for Health Metrics and Evaluation)の報告によれば、世界では毎年550万人が大気汚染により死亡しています。

 そして、偶然にもこのコラムを書いているとき、WHOが「2019年の世界の10の脅威」(Ten threats to global health in 2019)を発表しました。その筆頭に挙げられているのが「大気汚染と温暖化」(Air pollution and climate change )です。ちなみに残りの9つは、非感染性疾患(Noncommunicable diseases)、インフルエンザの世界的流行(Global influenza pandemic)、脆弱で心許ない環境(Fragile and vulnerable settings)、 薬剤耐性(Antimicrobial resistance)、エボラウイルスなどの高致死率の感染症(Ebola and other high-threat pathogens)、脆弱な公衆衛生(Weak primary health care)、ワクチンへの抵抗(Vaccine hesitancy)、デング熱(Dengue)、HIVです。

 大気汚染と温暖化についてのWHOのコメントをまとめてみます。

・世界の10人に9人が汚染された空気を毎日吸っている

・大気汚染は2019年の最大の環境リスクである

・汚染された大気に含まれる微粒子は肺から吸収され全身に及び、肺疾患の他、心疾患、脳疾患を発症させる。がん、脳卒中などの原因にもなり年間700万人の命を奪っている

・死亡者の9割は低所得もしくは中所得の国に住む人たちである。こういった国の大気汚染は、工業、輸送、農業のみならず、家庭で用いる不衛生なコンロや燃料も原因となっている

・大気汚染は地球温暖化の主たる原因でもある。2030年から2050年の間に、毎年25万人が地球温暖化により生じる疾患、すなわち、低栄養、マラリア、下痢、熱中症などで死亡する

・パリ協定がすべて遵守されたとしても今世紀に3度の気温上昇が生じる

 これを読むと「パリ協定を離脱する」と宣言している”かの大国”に「もう一度考え直してください」と訴えたくなります。

 日本はどうでしょうか。今のところ、冒頭でも述べたように、日本は世界で最も優秀な国とみられています。ですが、毎年春になると黄砂とPM2.5が大陸からやってきます。残念ながら自然にやってくるものに対してはなす術がありません。PM2.5は中国の工業化が主な原因とされていますが、同国に厳しい規制を求めるのは政治マターですから簡単には進まないでしょう。黄砂については砂漠などから自然発生するものですから、政治的に解決できる問題ではありません。

 では我々日本人は大陸からやってくる黄砂やPM2.5に対してどのような対策をとればいいのでしょうか。できるかどうか別にして、リスクが高いのは北・東日本より西日本、太平洋側より日本海側ですから、これらを考慮して居住地を選ぶという考えもでてきます。実際、喘息の患者さんから「福岡に住んでいるときは辛かった」と聞いたことがあります。福岡県の病院を対象とした研究で、黄砂で脳梗塞のリスクが1.5倍にもなるというものもあり、これは過去の記事で紹介しました。

 私は以前から福岡県が好きなので、幾分ひいき目に見てしまうのかもしれませんが、福岡滞在時に大気汚染が気になったことはありません。しかしながら、私の経験で言えば、福岡同様に魅力的な鹿児島で、早朝ランニングをしているときに息苦しくなり、ハードコンタクトレンズをしている目に激痛が走ったことがあります。この原因は黄砂でもPM2.5でもなく「火山灰」です。

 となると、気になるのは鹿児島県での実際の健康被害の報告です。調べてみると、因果関係は分かりませんが、鹿児島県は人口あたりの喘息罹患率が全国2位、脳梗塞は全国7位とするものがあります。脳梗塞については、あの濃い味(でも美味しい!)が主要な原因かもしれませんが、火山灰が原因の微粒子(PM2.5)も関与している可能性があるのではないでしょうか。ただ、個人的には鹿児島はそういったことを差し引いても魅力のある土地だと思っています。ちなみに、どうでもいい話ですが、鹿児島ファンの私は「与論島慕情」を今もフルコーラスで歌えます…。

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