はやりの病気

第174回(2018年2月) トキソプラズマ・前編~猫と妊娠とエイズ~

 太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)のような総合診療のクリニックでは妊婦さんからの相談をよく受けます。妊娠に関することは産科医に相談してもらいますが、妊娠中に風邪をひいた、湿疹ができた、頭痛が悪化した、などの場合は谷口医院を受診されます。妊娠前から通院していた人のみならず、妊娠してから谷口医院をかかりつけ医にする人もいます。

 そんな妊婦さんからの質問で、以前からしばしばある誤解の多いものが「妊娠中にネコと過ごすのは良くないのですか?」というものです。そして、妊娠中のネコとの付き合い方やその他の注意点については妊婦さんのコミュニティのなかでも混乱があるようです。それはトキソプラズマという寄生虫に対する誤解があるからです。まずはトキソプラズマ全般のことから述べていきます。

 トキソプラズマに感染すると一生体内から消えません、と伝えると多くの患者さんは驚きますがこれは事実です。ヘルペスウイルスやEBウイルスのようなウイルスなら生涯体内に潜むのはなんとなくイメージできるものの、トキソプラズマは寄生虫だから、そんな”虫”がずっと体内に居座っているなんて気持ち悪いし信じられない、と感じる人が多いようです。

 しかし、トキソプラズマがいったん感染すると生涯我々と共に暮らすことになるのは歴然とした事実で、世界の人口のおよそ3分の1が感染していると言われています。では日本人の陽性率はどれくらいかというと、これがきちんとした調査がなく実態はわかりません。一部の自治体では妊婦健診に取り入れられていて、およそ妊婦さんの1割が陽性と言われています。極端な男女差があるとも思えませんし、そういった報告も聞きませんから、男性もこれくらいの陽性率だと考えるべきでしょう。

 ではどのような人がトキソプラズマに感染しやすいのでしょうか。「ネコを飼っている人」と答える人が多く、これは間違いではありませんが、実際に多い感染経路はネコと過ごすことよりもむしろ、生肉の摂取や屋外・野外での作業です。ネコの飼育については後で話すとして、まずはより現実的な話をしましょう。

 牛でも豚でも鶏でも、あるいは鹿や猪でも、肉を生やタタキで食べるとトキソプラズマに感染するリスクがあります。肉の生食で生じる食中毒としては、カンピロバクター、サルモネラ、無鉤条虫、E型肝炎といったところが有名かと思いますが、トキソプラズマも忘れてはならない感染症です。肉の生食は「日本食の文化」という声もありますが危険を孕んでいることを忘れてはなりません。トキソプラズマの場合、生ハム、燻製肉、乾燥肉、塩漬肉などにも注意が必要ですし、滅菌が充分でないヒツジのミルクの危険性も指摘されています。

 屋外の作業で感染するのはネコの糞が口に入るからです。そんなものには触らないし万一触れても口に入ることなどないと考える人もいますが、野生のネコの糞(が散らばったもの)は屋外のあらゆるところ、例えば土や水にも存在すると考えなければなりません。そして、それが手に触れて食べ物に付着して…、ということが実際にあるわけです。ですから、きれいな庭先でガーデニングをしていて感染、ということはあり得ます。これを防ぐには手袋をいつも装着するようにします。
 
 しかし手袋のみですべて防げるわけではありません。屋外に散らばったトキソプラズマが野菜や果物に付着することがあります。ということは、生野菜やフルーツを食べるときにはよく洗わないと感染の可能性がでてくることになります。

 では感染するとどのような症状が出るかというと、ほとんどは不顕性(つまりまったく無症状)と言われていますが、数パーセントに頸部リンパ節炎が生じるという報告もあります。さらに頭痛、発熱、倦怠感が続き、血液検査で異型リンパ球という特殊な白血球が出てくることがあり、見かけ上、急性HIV感染症や、EBウイルスによる伝染性単核球症(いわゆる「キス病」)と区別がつかないこともあります。

 しかしこういった症状は通常は数か月で自然に消失します。ですから、微熱や倦怠感などいろいろと症状が出て長引いて結局原因は分からなかったけれど最終的には治癒した、というエピソードがあったとすればそれはトキソプラズマによるものかもしれません。ただし、一部の人は治癒せずに、肺炎、脳炎、筋炎などを起こすことがあります。トキソプラズマ脳炎は免疫能が低下すると生じますからエイズの合併症として有名ですが、時に免疫正常者でも起こり得るのです。また、後で述べるように、妊娠中に感染すると生まれてくる赤ちゃんに奇形が生じる可能性があります。

 ところで、私がタイのエイズホスピスで本格的にボランティアをしていたのは今から14年前の2004年です。そのときはまだ抗HIV薬が充分に使われておらず、死に至ることが日常的でした。進行すると、脳にも様々な合併症が起こります。その原因はいくつもあり、トキソプラズマ脳炎もそのひとつです。

 このエイズ施設では、重症病棟にもイヌのみならずネコも出入りしていましたからトキソプラズマはいつ発生してもおかしくありません。ただし、エイズ患者にトキソプラズマ脳炎が発症するのは、初感染での可能性もあるでしょうが、むしろ過去に感染して体内でおとなしくしていたトキソプラズマが増殖しだすことの方が多いと考えられます。何しろ世界の人口の3分の1がこの寄生虫を体内に”飼育”しているわけです。

 トキソプラズマのことはいったん置いておくとしても、重症病棟にイヌやネコがいるのはおかしいではないか、と我々日本人は思いますが、そこはタイ。さらに抗HIV薬が使えないとなると、あとは「死へのモラトリアム」となるわけですから、患者さん自身が気にしないというか、むしろ動物と過ごす時間を貴重なものと考えていたのです。ですが、感染予防上好ましくないのは自明ですから、施設に強く抗議をした西洋人もいました。しかし、郷に入っては郷に従え、という言葉があるように、施設側は「自国の価値観を押し付けるな」という対応でした。結局、強く抗議をした西洋人の何人かは施設を追い出されました。

 話を戻します。脳の症状というのは、意識障害、片麻痺(右か左のどちらかの上肢、下肢が動かない)、歩行時にフラフラする、話せない、飲み込めない、物が二重に見える、認知力が低下する、人格が変わる、など様々です。エイズを発症している状態になると、いろんな原因でこういった症状が起こりますから、「これはトキソプラズマが原因に違いない」と推測できることはまずありません。他に、例えば、エイズの合併症として有名なサイトメガロウイルスやクリプトコッカスでもありえますし、結核も鑑別に入れなければなりませんし、進行性多巣性白質脳症という感染症に起因するものもあります。また、HIVが進行すると悪性リンパ腫を起こしやすくなり、脳に起こることもあります。さらにHIV脳症と呼ばれるHIV自体が脳を破壊する病状もあります。これらのいずれでも様々な脳の症状が出てきます。

 当時はちょうど抗HIV薬が無料で入手できつつあったときで、元気のなかった患者さんに使用しだすと、パワーがみなぎってきて食欲が出てくることもありました。ですが、脳に関する症状が出現している場合は、元の姿に戻ることはほとんど望めません。この施設でボランティアをしていたのは医療者だけではありませんでした。性格が狂暴になったり、認知症が進行したり、あるいは夜間に徘徊する患者さんに対するケアというのは本当に困難です。日本の高齢者の施設でも認知症の人は大勢いますが、当時のタイのその施設ではまだ20代の男女がこういった症状を呈していたのです。

 タイのエイズの話になると、ついつい懐かしくなり、述べる予定のなかったことを書いてしまいました。冒頭で言及したように、妊婦さんの話をすることが今回の目的でした。次回は、妊娠を考えたとき、あるいは妊娠しているときにネコとどのように過ごすべきか、そして検査はどのタイミングで受けるべきかについて話していきます。

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