はやりの病気
第261回(2025年5月) アルツハイマー病への理解は完全に間違っていたのかもしれない(前編)
現在、アルツハイマー病を「最もかかりたくない病気」と考えている人は少なくないでしょう。「認知症は病気ではなく自然の経過だ」という考えは根強くありますが、そのような意見を主張する人でさえも「ではあなたがアルツハイマー病になってもいいですか?」という質問に「イエス」とは答えません。
アルツハイマー病は単に「認知機能が衰える病気」ではありません。最近「Lancet」に発表された論文によると、「GBD(=Global Burden of Diseases, Injuries, and Risk Factors Study)」と呼ばれる統計データから371の疾患が分析された日本人の死因第1位が認知症で、全死因の12.0%に相当します(ちなみに、第2位から5位は、脳卒中、虚血性心疾患、肺がん、下気道感染症)。また、認知症を発症すれば、あるいは認知機能が低下すれば、健康への関心が低下し、体重コントロール、食事や運動などのライフスタイルが乱れ、他の疾患を発症して認知症以外の死因で死に至ることもあります。つまり、「認知症は万病の元」とも言えるわけです。
世界規模でみると、現在アルツハイマー病を患う人は3000万人を超えています。65歳を過ぎると発症率は5年ごとに倍増し、85歳になると3人に1人が発症します。
アルツハイマー病には有効な治療法がありません。世界中の製薬会社がアルツハイマー病の治療薬開発にしのぎを削り、1995年から2021年の間に1000件以上の臨床試験に約420億ドルが投入されました。市場に出ている薬はあるにはありますが、治癒、あるいは予防にはほど遠いものです。
アルツハイマー病が「どんな人に起こりやすいか」については過去にも繰り返し述べて来たようにかなり検討されています(例えば「はやりの病気第253回<2024年9月>『コレステロールは下げなくていい』なんて誰が言った?」)。しかし、「なぜ起こるのか」についてはいまだに分かっていません。
もっと正確に言えば「いったんはなぜ起こるかが解明されたと思われたが実は間違いだった」となります。
これまでアルツハイマー病は「アミロイド仮説」で説明されてきました。タンパク質の一種であるアミロイドβの沈着が脳内の神経細胞の間に蓄積し、神経細胞を障害するというものです。しかし、この説に対しては以前から疑問視する声がありました。例えば、アルツハイマー病の脳には必ずアミロイドβの沈着が観察されますが、沈着があってもアルツハイマー病を発症しない人もいます。それに、アミロイドβの蓄積はアルツハイマー病発症の「要因」ではなく、単なる「結果」である可能性を否定できません。
2006年、1つの論文が風穴を開けました。ミネソタ大学のKaren H. Ashe氏らによる研究が科学誌「Nature」に掲載され、「アミロイドβが記憶障害を引き起こす」ことが”証明”されたのです。もう少し詳しく言うと「『Aβ*56』と呼ばれるアミロイドのオリゴマー(蛋白質の固まり)がアルツハイマー病の発症に関与している」ことが示されました。さらに詳しく解説すると、著者らは「アルツハイマー病を発症するように遺伝子操作されたマウスにはAβ*56が存在し、認知機能が低下するにつれてAβ*56がたくさん蓄積した。また、Aβ*56を注入されたラットに記憶障害が認められた」と報告したのです。
アミロイドβには複数のサブタイプがあることが知られていますが、アルツハイマー病との関連については分かっていません。そんななか、アルツハイマー病を引き起こす特定のオリゴマーが発見されたわけですから、この論文は極めて価値の高い、いわばノーベル賞級の快挙です。実際、責任著者のAshe氏は神経科学の世界で名誉あるPotamkin賞を受賞しました。この論文はその後2,500件近くの学術論文で引用され、世界中の科学者が数億ドル規模の公的研究助成金を用いてアミロイドβの研究に勤しみました。
ただ、この論文にはひとつの「欠点」がありました。「捏造」だったのです。現在もこの論文はウェブ上で閲覧できますが、各ページに大きな字で「RETRACTED ARTICLE(撤回された論文)」と記されています。人間、嘘をついたならできるだけ早くそれを公表し嘘を撤回すべきですが、この論文が撤回されたのは捏造疑惑が生じてから2年後の2024年6月でした。
ちなみに、現在日米でアルツハイマー病に一応有効とされ発売されている薬「レカネマブ(レケンビ)」「ドナネマブ(ケサンラ)」はアミロイドβを攻撃するとされていますが、認知機能低下の効果はわずかしかなく、脳腫脹や脳出血など危険な副作用のリスクが(特にアルツハイマー病のハイリスクとなるApoE遺伝子をε4で持つ人にとって)あります。ちなみに、レケンビ発売元のエーザイは「論文の不正とレカネマブは関係がない」とする声明を出しています。
聞くところによると、この捏造論文が撤回された後も、アルツハイマー病の原因が尚もアミロイドβだと考え研究を続けている研究者もいるようです。その一方、「原因は他にある」と考える研究者もいます。現在最も注目されている一人が、英国の神経学者Ruth F Itzhaki氏です。Ashe氏らの捏造論文が登場した1年後の2007年、医学誌「Neuroscience Letters」に「単純ヘルペスウイルスの感染により脳細胞内のアミロイドレベルが劇的に上昇する」ことを示したItzhaki氏の論文が掲載されました(尚、アルツハイマー病ではアミロイドβが細胞の外に沈着しますが、アミロイドβが生成されるのは細胞内です)。
Ashe氏らの「Nature」の論文が世界に多大なる影響を与えた一方で、Itzhaki氏の「単純ヘルペスウイルスが認知症の原因」とするこの説はあまり注目されず鳴りを潜めていました。しかし、論文捏造で評判を地に墜としたAshe氏とは対照的に、Itzhaki氏に賛同する学者は次第に増え、ついに「AlzPI(Alzheimer’s Disease Pathological Biome Initiative=アルツハイマー病病理研究チーム)と呼ばれるチームが結成されました。チームの使命は「感染症がアルツハイマー病の発症に中心的な役割を果たしていることを正式に証明すること」です。
アミロイドβ以外にもう1つ、アルツハイマー病で脳内に蓄積する蛋白質があり「タウ蛋白」(または単に「タウ」)と呼ばれます。アミロイドβ説の信奉者は「アミロイドβが増えるからアルツハイマー病を発症する」と考え、タウ蛋白説を信じる人は「タウ蛋白が増えるからアルツハイマー病を発症する」と考えます。一方、Itzhaki氏らAlzPIのメンバーは「アミロイドβとタウ蛋白は脳における病原体に対する最前線の防御線」(=アミロイドβとタウ蛋白が病原体をやっつける)と考えます。
この根拠となると思われるのが2018年に医学誌「Neuron」に掲載された論文「アルツハイマー病に関連するアミロイドβはヘルペスウイルスによって急速に増殖し脳感染から保護する(Alzheimer’s Disease-Associated β-Amyloid Is Rapidly Seeded by Herpesviridae to Protect against Brain Infection)」です。タイトルから分かるように、「ヘルペスウイルスの脳内の感染でいわば免疫応答としてアミロイドβがつくられる」とこの論文は主張しています。つまり、アミロイドβの生成は感染予防上必要だというのです。しかし、その免疫反応が過剰に働いたときに(いわば余剰につくられた)アミロイドβが脳に蓄積して、アルツハイマー病を発症すると考えられるわけです。
この説が正しいとするならば、認知症の最大の予防は「ヘルペスウイルスに感染しないこと」、あるいは「ヘルペスウイルスに感染してしまったらできるだけ再発させないこと」が最重要になります。
次回に続きます。
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