はやりの病気
第122回 飛行機の中の病気 2013/10/21
数年前の12月31日午後、東南アジアに向かう機内で2本目のビールをあけた私は、機体の小さな揺れを心地よく感じまどろんでいました。読んでいた英字新聞が頭に入ってこなくなり前の座席に押し込んで腕を組んで少し本格的に眠ろうと思ったときにその機内アナウンスが聞こえてきました。
乗客の中に医師、看護師、または他の医療従事者はいませんか? お客様の調子が悪く機内の一番後ろのスペースにいます・・・。
いくらお酒を飲んでいても、いくら眠たくても、それが日本語か英語なら医師の聴覚を司る細胞は敏感に反応します。直ちに目が覚めて腰を上げかけた私は、しかしここでたじろぎました。そしておそらくわずか1分程度の短い時間にいくつかのシーンが脳裏をよぎりました。
患者は心臓に持病のある高齢者。診察の結果、緊急性はないと判断しそのままフライトを継続。しかし着陸前に発作が起こり着陸時に患者は死亡。最初は、結果が報われなかったとはいえ、全力で診察し治療を検討した医師を非難する声は上がらなかったが、数日後、その医師が飲酒して正常な判断ができていなかった可能性があることが発覚し・・・。
あるいは・・・。患者は軽症だったのにもかかわらず医師が過剰な診断をし、飛行機は緊急着陸へ。患者は元気で、予定通りの旅行ができなかった乗客からは大変なブーイング。この日は12月31日で、なかには年に一度の家族との再会を楽しみにしていたという乗客も。そして診断した医師が飲酒していたことが判明し・・・。
このようなシーンが次々と浮かび心臓の鼓動が早くなっています。そのとき2回目の機内アナウンス、「乗客の中に医師、看護師、・・・」が流れてきました。もう一度考えよう・・・、しかし、心の奥から聞こえてきたその声は無視され、私の身体はすっと立ち上がっていました。そして後先のことは考えずに小走りで機内後方に向かいました。
奥のスペースで寝かされていたのは10代半ばの白人女子。母親と思われる中年の白人女性が付き添っていました。フライトアテンダントとその母親から情報収集すると、搭乗時には問題なかったが食事をとってしばらくしてめまいと嘔気が出現、気分不良がおさまらないためにフライトアテンダントを呼んだ、とのことでした。母親によれば過去にも何度か同じ状態になったことがあるとのことでした。
私が呼びかけるとその女子は反応しきちんと受け答えができます。呼吸・脈は正常であり、学校は好きか、とかペットは飼っているか、とかたわいもない世間話をしばらくしていると少しずつ笑顔が戻ってきました。血圧が正常であることを確かめた私は、母親とフライトアテンダントに「大丈夫です。気分不良が続くならもう少しこのまま寝ていてもらってもいいですが、着陸する頃には元気になっていると思います」と答え、席に戻りました。
席に戻ると一気に疲労感が出てきましたが、これは一仕事終えた充実感ではなく、「軽症でよかった~」という安堵感からくるものでした。
さて、私が機内で診察した(というほどのものではありませんが)この女子は、普段は健康だけれどもときどき乗り物酔いを起こすとのことでした。当たり前ですが、飛行機で途中下車はできませんし、乱気流に入ると大きな揺れを避けることもできません。水は用意してくれますが薬はごく一部のものを除きあらかじめ自分で準備しなければなりません。
飛行機の中は危険な環境で病気を発症しやすい・・・、などと言うと航空会社や旅行会社からクレームが来そうですし、機内は食事や飲み物を用意してくれて映画や音楽も楽しめるのだから極楽じゃないか・・、という声もあるでしょう。そういう私にとっても、先に紹介した<恐怖の呼び出し>がなければ、ゆっくり本を読めて飲み物をサービスしてくれる機内は大変快適な時空間です。
しかしながら、機内というのは場合によっては大変危険な時空間となります。なぜ危険かというと、揺れるとかテロの標的にされるとか、そういった問題は除くとしても、飛行機に乗る限り絶対に避けられない環境の変化が2つあるからです。ひとつは気圧が低いということ、もうひとつは空気が乾いている、ということです。
機内の気圧は0.8気圧程度しかありません。それがどうしたの?と感じる人もいるでしょうが、気圧の変化というのは一部の病気、特に呼吸器や心血管系の病気を悪化させます。また、乾燥もときに問題になります。一般に機内の湿度は5~15%程度に調節されており、これはサハラ砂漠よりも乾燥していると言われることもあります。
乾燥のせいで皮膚がかゆくなる、という程度であればいいのですが、例えば、気管支喘息があれば、普段は安定しているとしても機内で悪化することがあります。飛行機に長時間乗ると咳が出るとか、喉がイガイガする、という人がときどきいますが、これも機内の乾燥に原因がある可能性があります。
気圧と湿度が低いことで悪化する可能性のある疾患は多数あり、喘息の他、COPD(酸素ボンベは持ち込めませんから必要な場合はあらかじめ航空会社に酸素の用意をお願いしなければなりません)、気胸(過去に気胸を起こしたことがあれば搭乗できないこともあります)、狭心症や心筋梗塞、間質性肺炎、などですが、普通の風邪でも咳が悪化することがあり注意が必要です。
特に喘息については、日頃落ち着いていたとしても、突然機内で発作を起こすことがありますから、発作時用の吸入薬と、場合によっては内服ステロイドを持参してもらうこともあります。機内で喘息発作が起これば本人も大変ですが、周囲の人も慌てることになりますから充分な準備をしておかなければなりません。
普通の風邪で症状が軽ければ搭乗してもかまいませんが、インフルエンザの場合は確定がついておらず疑いがあるという程度でも搭乗は見合わせることを検討すべきです。日頃健康な方であれば機内で急変という可能性はほとんどありませんが、他人へ感染させるというリスクがあります。もしも新型インフルエンザに罹患しており、それを機内で蔓延させたとなると責任を追及される可能性もなくはありません。
注意すべき感染症はインフルエンザだけではありません。SARSやMERS(中東呼吸器症候群)、あるいは結核などは確定診断がついていなくても、感染の可能性があることを知っていながら搭乗したとなると大変な問題になります。また、風疹や麻疹(はしか)も同様です。もしも風疹にかかっていて、機内に妊婦さんが乗っていたとすると、国際問題にもなりかねません。
機内の病気で忘れてはならないのがエコノミークラス症候群(ロングフライト血栓症、旅行者血栓症)です。この疾患については過去に取り上げたときに述べましたが(下記「はやりの病気」参照)、エコノミークラスかどうかに関係なく同じ姿勢をとり続けることが発症のリスクになります。長くてもせいぜい2時間程度の国内線であればそれほどリスクは高くありませんが、4時間を超える国際線では注意が必要です。
特に、高齢者、肥満がある人、女性、手術の後、喫煙、薬を用いている人などは要注意です。薬で特に忘れてはいけないのがピルや更年期障害に用いるホルモン剤です。低用量ピルを飲んでいる人のなかには薬という意識に乏しい人がいますし、貼り薬のホルモン剤を使っている人も危険性を理解していないことがあります。特に低用量ピルを飲んでいる女性で喫煙している人は要注意です。このような場合、まずはできるだけタバコをやめることが必要で、機内の中では、通路側の席をとる、こまめにトイレに行く、水分をとる、お酒を飲まない、足を組まずに定期的に足を動かす、などの対策が必要になります。
太融寺町谷口医院の患者さんのなかにも低用量ピルを服用している患者さんは少なくなく、なかにはタバコを完全に止められてないこともあり、飛行機に乗ることがあるか何度も聞くことがあります。きっと一部の患者さんにはしつこいと思われていることでしょう・・。しかしこれは大変重要なことで、もしも機内で血栓症を起こして呼吸困難にでもなれば大変なことになります。特に、個人輸入でピルを買っているという人のなかに、このような知識がないことが多く驚かされることがあります。
今何らかの病気がある人、過去に呼吸器や心血管系の病気をしたことがある人、現在何らかの薬(個人輸入のピルなども含めて)を飲んでいる人などで、飛行機に乗る機会のある人はかかりつけ医に相談するようにしましょう。
参考:
トップページ:旅行医学・英文診断書など → 機内での注意
はやりの病気第92回(2011年4月)「エコノミークラス症候群を防ぐには」
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