マンスリーレポート

2024年6月9日 日曜日

2024年6月 人間の本質は「憎しみ合う」ことにある

 今からちょうど4年前の2020年6月のマンスリーレポート「『我々の本質は優しくて思いやりがあり助けあうもの』ではない」で、オランダの歴史家ルトガー・ブレグマンが主張する「人間の本質は優しくて思いやりがあり助けあうもの」という主張には到底同意できないとする自論を述べました。

 私には人間の本質が優しくて思いやりがあるなどとは到底思えず、未来を楽観視することができないのです。そのコラムでも述べたように、30代の頃にはまだ人間の未来に期待していました。人間の諍いのほとんどはコミュニケーション不足からくる誤解によるものであり、たいていの場合話し合いをすれば互いを理解しあえると本気で思っていたのです。しかし、その後年をとり、40代半ばくらいには人への不信感が芽生えるようになり、次第に大きくなっていきました。

 そして新型コロナウイルスのパンデミックが起こりました。4年前のそのコラムで述べたように、日本人(東アジア人)というだけで見知らぬ人たちから差別され、襲われるようになりました。谷口医院の患者さんの当時欧米諸国に住んでいた人たちのなかにも逃げるように帰国した人がいます。当時バンクーバーに住んでいたある患者さんは「コロナ流行を機に隣人が豹変したかのようだった」と話していました。バンクーバーはそもそも移民が多く、国籍や民族で差別されないことで有名な街だったはずです。その街で最近まで仲良くやっていた隣人たちが豹変したというのですから、元々保守的な地域であればもっと恐ろしい光景が繰り広げられていたことが想像できます。

 2022年2月24日、ロシアがウクライナに軍事侵攻しました。もしも人間がブレグマンの言うように「人間の本質は優しくて思いやりがあり助けあうもの」ならば、世界の首脳は軍事で協力するのではなく、話し合いで解決することに力を注ぐのではないでしょうか。もちろん、突然軍事侵攻を開始したロシアに非があることは否めませんが、この戦争の”発端”は2004年のオレンジ革命にあります(と、私は考えています)。そして、オレンジ革命を事実上”煽動”したのは米国を中心とする西側諸国であることにはコンセンサスがあると言っていいでしょう。資金面ではジョージ・ソロスが大きく加担したと言われています。
 
 日本も含めた西側の報道では、2022年の軍事侵攻に先立つロシアの間違った行為として2014年のクリミア併合を挙げます。しかし、その併合は選挙の結果によるものですし、仮に選挙が公平でなかったとしても、ロシアに併合を決意させた原因はユーロマイダン革命にあります。そもそも、このユーロマイダン革命というものは革命と呼ぶにはふさわしくなく「西側諸国がしかけたクーデター」です。ヤヌコーヴィチ大統領を西側諸国が煽ったクーデターでウクライナから追放したのですから。ヤヌコーヴィチ大統領がロシアへの亡命を余儀なくされたため、ロシアはいわばその”仇”をとるためにクリミア半島を併合した、しかも民主的な選挙で、というのが私の見方です。ここでは私の史観が正しいかどうかは別にして、こんなことをやっている人間の本質が優しくて思いやりがあり助けあうものなどとは到底思えないわけです。

 2023年10月7日、パレスチナのガザ地区を支配するハマスがイスラエルに戦争をしかけました。「先に手を出した方が悪い」という理屈が正しいのなら、1948年のパレスチナ戦争(第一次中東戦争)まで遡って議論すべきです。そもそも1947年に国連が採択した「パレスチナ分割決議」の段階で、土地の43%がアラブ系住民に、57%がユダヤ系住民に与えられるという不公平なものでした。そんななかで勃発したパレスチナ戦争でイスラエルが勝利し、国連による分割決議よりも広大な地域を占領したのです。国連決議に従わないイスラエルが正しいとなぜ言えるのでしょうか。

 アラブ人とイスラエル人の対立をみていると、人間の本質は優しくて思いやりがあり助けあうものとは到底思えません。ハマスがイスラエルに侵攻した直後、イスラエルのヨアン・ガラント(Yoan Gallant)国防相はハマスの軍人を「human animals」、つまり「人間の顔をした獣」と呼びました。しかも、公式な記者会見の場で、です。

 国連にはさほど力がないのは事実ですが、それでも人間の本質が優しくて思いやりがあり助けあうものならば、こと平和に関しては世界各国は国連に従うべきです。ですが、イスラエルははなからそのつもりがありません。先月の国連総会において、イスラエルのエルダン国連大使は壇上で国連憲章の表紙を小型のシュレッダーにかけて細断しました。

 2024年5月31日、米国バイデン大統領はウクライナに対して、米国が供与した兵器でロシア領内を攻撃することを認める決断を下しました。ここまでくれば完全に代理戦争です。つまり、西側連合軍とロシアがいよいよ本格的な戦争に突入したといえなくもなくなります。イスラエルは攻撃をやめません。ここで、もしも北朝鮮が何かをしかけてくるようなことがあればこのまま一気に第三次世界大戦に進んでいくでしょう。

 しかし、本来戦争ほど馬鹿げた政策はないはずで、我々はそれを歴史から学んでいたのではなかったでしょうか。ではなぜこんな愚かな行為を繰り返すのか。私なりの答えは「人間が愚かだから」というよりも、「人間の本質が憎しみ合うことだから」です。

 そのことを証明するのに戦争のようなマクロな憎しみを持ち出す必要はありません。SNSをみればいかに人間が醜い罵り合いをしているかが自明です。

 個人的な話をすれば、私は医師になってからも数年間は「医師は他人に優しい」と思っていました。なぜって、困っている人を救いたいという気持ちがあって医者になるわけだから、優しくなければ務まらないではないですか。だから、私のように医学部入学時点で医師になることを考えておらず研究者を目指していたような者は、小さい頃から医師を目指していたようなタイプの医者にはかなわないと考えていて、そういう意味で少なからず劣等感もあったわけです。

 ところが、実際には医者なんて、特に開業医なんて全然優しくないわけです。新型コロナのパンデミックでそれが露わになりました。いつも診ている患者さんが発熱で苦しんでいるのに、「うちでは診られないから診てほしかったら自分で診てもらえるところを探せ」と言われ、すがるように当院にやって来た患者さんがどれだけいたか。それが、発熱外来を実施すれば点数アップという方針が決まるや否や、手のひらを返したように、今度は発熱患者の取り合いになったわけです。

 私はSNSはやっていませんが、何度か医師の投稿を見たことがあります。驚いたのは自分の意見に反するコメントに対し、汚い言葉を使って相手を攻撃する医師がいることでした。また、汚い言葉とは言えなくても「上から目線」の態度が目立つ医師もいました。オレは専門医だから、あるいは大学教授だから言うことを聞け、のような態度の書き込みもあり、当然のことながら、そういうコメントに対しては一般人から激しい反論がくるわけですが、私からみればそれは当然です。それで「名誉棄損だ」とか「人権侵害だ」などと被害者ぶるのはちょっと違うと思います。

 医者だけではありません。私は子供の頃、なんとなく「お金持ちの人は優しい」と思っていましたが、それはまったく正しくなかったのです。私は以前、マイルがたまったので飛行機のビジネスクラスに乗ったことがあります。たまたま私の周りだけがそうだったのかもしれませんが、ビジネスクラスの乗客は、フライトアテンダントに対する態度がとても横柄なのです。赤ちゃんが泣いたことに文句を言ったり、到着が遅いと言ってみたり(それはフライトアテンダントのせいではないでしょう)、辟易としました。

 ちなみに、South China Morning Postによると、日本人のビジネスクラスを利用する乗客は最悪だそうです。同紙では「the worst culprits(最悪の犯人)」という言葉まで使われています。彼(女)らは「ビジネスクラスに乗っているから特別だと思い込んでいて、地上職員を含め他の全員を見下している」そうです。

 カリフォルニア大学バークレー校の社会心理学者ポール・ピフ(Paul Piff)氏は、車によって社会階級を5つに分け、どのグレードの車が横断歩道の手前で止まって歩行者に道を譲るかを調べました。結果、高級車であればあるほど歩行者のために止まることはせずに自分勝手な行動をとることが分かったのです。

 調べてみると、「金持ちが他人に優しくない」ことを示した研究は多数あります。米誌「New York」の記事は「お金が人を反社会的にする」ことを示しています。ポール・ピフ氏の車のグレードの研究にも触れています。

 こうして考えると、ブレグマンはなぜ「人間の本質は優しくて思いやりがあり助けあうもの」などと言えるのでしょう。彼の周囲には優しい人ばかりが集まっているのでしょうか。そしてビジネスクラスに搭乗したことがないのでしょうか。

 などと言っていてもしかたありません。私自身は(私自身が優しいかどうかは分かりませんが)「利他の精神」が、たとえ人間の本質でなかったとしても「人間のあるべき姿」だと信じています。そして、優しくない人間はこれまで山ほどみてきましたが、利他の精神を発揮し他人に優しい人たちも知っています。そういう人たちとのネットワークを大切にし、たとえ戦争が起ころうとも、たとえ地球温暖化が進行し豊かな暮らしが失われようとも、「人間のあるべき姿」を貫いてみせるつもりです。

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2024年5月5日 日曜日

2024年5月 小池百合子氏のカイロ大学”卒業”が真実と言える理由

 8年前のコラム、マンスリーレポート2016年6月「己の身体で勝負するということ」には大勢のコメントをいただきました。当時、学歴詐称で表舞台から姿を消したタレントのショーンK氏を引き合いに出し、私自身の経験から、後に行き過ぎた私見であることは認めるようになったものの、現在も学歴・職歴にこだわる人たちを冷ややかにみている、という話をしました(尚、8年前には社会からバッシングされている氏をかばうために「SK氏」としていましたが、現在では氏を悪く言う人はもういないでしょうから「ショーンK氏」と”実名”にします)。

 自分の学歴・職歴を前面に押し出そうとしている人を私が哀れに感じるのは、「あなたは自分に自信がないから、そういったことを持ち出すのですね」と思えるからです。その大学(院)やその企業はエライのかもしれませんが、「だからあんたは何なの?」と私には思えます。他人の学歴・職歴を気にする人に対しては「あなたは人を見る目がないから、そうやって他人の属性でしか人を判断できないんじゃないんですか」と言いたくなります。

 しかし、学歴(や職歴)で人を判断する人、自分の学歴を自慢したがる人は世の中に少なくありません。最近、立て続けにそのような”事件”が3件も報道されたことからもそれはよく分かります。まず、その3件を振り返ってみましょう。

 米国で活躍するプロ野球選手大谷翔平氏の元通訳で、違法賭博と銀行詐欺の罪を犯したとされる水原一平氏が学歴を詐称していたことが報道であきらかとなりました。水原氏は、2007年にカリフォルニア大学リバーサイド校を卒業とされていましたが、NBCによると、同校は「水原氏が通っていた記録はない」と回答しています。

 「県庁はシンクタンク。 野菜を売ったり牛の世話をしたりモノを作ったりとかと違い、皆さまは頭脳・知性の高い人たち」など、信じられないような差別発言を繰り返し、辞意を表明した静岡県知事の川勝平太氏は「オックスフォード大学で博士の資格を取ったこと」が自慢だそうです。川勝知事の場合、学歴を詐称しているのではなく学歴を自慢していることがなんとも滑稽です。日本学術会議任命拒否問題のとき、川勝知事は菅首相(当時)に対し「菅義偉という人物の教養のレベルが露見した」と発言し非難されました。調べてみると、菅首相(当時)は法政大学出身でした。

 川勝知事は、かつて自身が学長を務めていた大学の女子学生に「11倍の倍率を通ってくるんですから、もうみなきれいです」、「めちゃくちゃ顔のきれいな子は賢いこと言わないとなんとなくきれいに見えないでしょう。ところが全部きれいに見える」などと発言したことがNHKに報道されました。オックスフォードで博士号をとれる優秀な人になら分かるのでしょうが、私には「めちゃくちゃ顔のきれいな子は……全部きれいに見える」の日本語がいまだによく分かりません。

 カイロ大学文学部社会学科を1976年10月に主席で”卒業”した東京都知事の小池百合子氏は、90年代初頭からその学歴が虚偽であると繰り返し指摘されています。その都度、小池氏は卒業の”証拠”を公表し反論しています。ここで経緯を簡単に振り返ってみましょう。

・1992年の参院選の際、カイロ大学卒業を疑う報道が相次いだため、小池氏は当時連載していた『週刊ポスト』のコラム「ミニスカートの国会報告」1993年4月9日号でカイロ大学の卒業証書を写真で紹介した

・2016年の東京都知事選挙の際、6月30日放映のテレビ番組「情報プレゼンター とくダネ!」が学歴詐称疑惑を扱ったため、小池氏は卒業証書と卒業証明書を担当者に送った(ことを「週刊文春」が報じた)。

・2018年6月8日、「文藝春秋」が、「小池氏はカイロ大学を卒業していない」ことを証言した、小池氏がカイロ滞在時に同居していた女性(後に実名を公開)に取材をし、記事を発表した

・2020年5月27日、「週刊文春」が「『カイロ大学卒業は嘘』 小池百合子東京都知事の学歴詐称疑惑 元同居人が詳細証言」との記事を配信し、卒業関係書類のロゴやスタンプが偽物であると報じた

・同日、「プレジデントオンライン」に「『カイロ大学卒業は本当』小池百合子東京都知事の学歴詐称疑惑 カイロ大学が詳細証言」が掲載された。カイロ大文学部日本語学科の教授が「確かに小池氏は1976年に卒業している。72年、1年生の時にアラビア語を落としているが、4年生の時に同科目をパスしている。これは大学に残されている記録であり、私たちは何度も日本のメディアに、同じ回答をしている」と証言している、と報じた

・同年5月29日、石井妙子氏の『女帝 小池百合子』が出版され、(上述の)元同居人の証言などに基づいた学歴詐称疑惑が明らかにされた

Wikipediaによると、同年6月8日、カイロ大学のモハンマド・エルホシュト学長が「(小池氏は)1976年にカイロ大文学部社会学科を卒業したことを証明する」「卒業証書はカイロ大の正式な手続きにより発行された」「日本のジャーナリストが証書の信ぴょう性に疑義を示したことは、大学と卒業生への名誉毀損で看過できない」との声明を発表した

・同年6月9日、駐日エジプト大使館が、カイロ大学が発表した「小池氏が1976年10月に卒業したことを証明する旨の声明文」をフェイスブックで公開した

・2024年4月9日、「文藝春秋」が、元都民ファーストの会事務総長の小島敏郎の記事「『私は学歴詐称工作に加担してしまった』小池百合子都知事 元側近の爆弾告発」を公開。さらに、上述の同居人が実名を公表し「百合子さん、あなたが落第して大学を去ったことを私は知っている──」を公開した

 ここまでくると、小池氏がカイロ大学を「卒業」していないことはもはや疑いようがないでしょう。そもそも小池氏は(wikipediaによると)自著『振り袖、ピラミッドを登る』(1982年)の58ページに、「1年目に落第し、次の学年に進級できなかった」と記述しています。卒業には最低で5年かかり、早くても1977年となるわけですら、1976年10月に卒業していないのは自明です。

 ですが、私自身は小池氏が”卒業”したのもまた事実だと思っています。なぜ、そんなことが言えるのか。私はエジプトに渡航したことがありませんし、この国について詳しいわけではありませんが、「この地域の卒業証書なんて(少なくとも70年代には)金さえ払えばどうにでもなった」という話を複数の人から聞いているからです。

 学歴を金科玉条のように持ち出す人がいますが、しょせん学歴なんてそんなものです。実は、学歴や職歴を詐称している人など日本国内にもいくらでもいますし、バレない方法もあります。せっかくですから、その「方法」をここで伝授しましょう。

 提出先にもよりますが、例えばあなたが中小企業に就職するとして、その企業が卒業証書や職歴を証明する書類を求めたりすることはまずありません。だから、履歴書に嘘を書いてもバレることはまずないのです。

 では、大企業などに就職を考えるときはどうすればいいのでしょうか。その場合、今はない大学、今はない企業名を書くという方法があります。例えば関西出身の私の知人(といっても海外で知り合ったバックパッカーで今は交流はありませんが)は、「神戸商船大学卒業、兵庫銀行で勤務」と履歴書に書くそうです。神戸商船大学は今はなき国立大学で、兵庫銀行はすでに倒産しています。銀行はともかく、商船大学の卒業証明書は国立大学だったのですからどこかで発行してもらえると思うのですが、その知人によると「そこまで求められたことは一度もない」そうです。

 また、たぶんこれは「言ってはいけないこと」でしょうが、実は医者の世界には「裏口入学」や「替え玉受験」の話などいくらでもあります。医師国家試験に合格しているからいいではないか、と言う人すらいます。筋萎縮性側索硬化症(ALS)を患う京都在住の女性を殺害して起訴された40代の(元)医師は韓国の医大を卒業したとされていましたが、これが虚偽であったことが事件後に発覚しました。

 学歴なんてこんなものです。自分の学歴を自慢したり、学歴で人を判断することがいかに馬鹿げているかが分かるでしょう。学歴や職歴などの「付随するもの」ではなく、今あなたの目の前にいるその人が信用できる人物か否かを見極めるのはあなた自身の「眼力」にかかっています。その眼力を身に着けるためにあなたに必要なのが学歴や職歴でないことはもはや言うまでもないでしょう。

 ちなみに私は大阪市立大学(現・大阪公立大学)と関西学院大学を卒業していて、前者は一部の医師や医学生から(特に阪大の医師から、と聞きます)「阿倍野ドクター教習所」と揶揄され、後者は元大阪府知事の橋下徹氏から「8流大学」とこき下ろされています……。

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2024年4月10日 水曜日

2024年4月 サプリメントや健康食品はなぜ跋扈するのか~続編~

 小林製薬の「紅麹」のサプリメントで少なくとも5人が死亡し100名以上が入院した事件が連日報道されています。報道によると、プべルル酸による腎障害が指摘されているようですが、紅麹の危険性は随分前から分かっていたことで、谷口医院では以前から患者さんから相談されたときは(ほぼ)全例で「飲まない方がいい」と伝えてきました。

 今回は2018年11月のコラム「サプリメントや健康食品はなぜ跋扈するのか」の続編としたいと思いますが、まずはなぜ紅麹が以前から危険だったのかを振り返っておきましょう。

 そもそも紅麹は効果及び安全性が医薬品と同等と考えなければならないものです。紅麹の主成分はモナコリンKと呼ばれる物質で、これはコレステロールを下げる薬「ロバスタチン」(名前が似ている「ロスバスタチン」とは別の薬です)と同じ成分です。ロバスタチンは日本では承認されていませんが、海外ではコレステロール降下薬として処方されています。しかし、他の「スタチン製剤」と同様、ときに腎機能障害をはじめ重篤な副作用が起こり得ます。妊娠中は絶対に内服してはいけません。

 2010年代初頭より、世界中で紅麹の安全性が問題視されてきました。例えば、スイスでは販売が違法とされました。ドイツでは摂取しないよう注意喚起が出され、フランスEUは安全性の懸念を表明し、台湾では「慢性疾患がある場合は服用前に医療機関に相談するよう」勧告されています。

 有名な論文もいくつかあります。医学誌「JAMA Internal Medicine」は2010年10月に「市販の紅酵製品のモナコリンにはバラつきが顕著。購入者は注意して!(Marked Variability of Monacolin Levels in Commercial Red Yeast Rice Products / Buyer Beware!)」という論文を掲載しました。論文のタイトルに「購入者は注意して!」と入っているのは極めて異例です。

 医学誌「British Journal of Clinical Pharmacology」は2017年1月に論文「紅麹サプリメントの副作用:イタリアの監視システムによる症例の評価(Adverse reactions to dietary supplements containing red yeast rice: assessment of cases from the Italian surveillance system)」を掲載しました。紅麹の副作用として、筋肉痛および/またはCK値上昇(その後腎機能障害が起こります)、横紋筋融解症(こちらも腎機能障害を伴います)、肝機能障害を挙げています。これは当然と言えば当然で、スタチンの副作用とまったく同じです。

 症例報告も上がっています。医学誌BMJは2019年に「紅麹サプリメントによる急性肝障害(Acute liver injury induced by red yeast rice supplement)」の報告を掲載しています。

 そもそもスタチンの内服が必要なら、安全性が確立されていて値段も安い通常の医薬品のスタチンを使うべきであり、品質保証がなく、副作用が出ても自己責任となるこのようなサプリメントをあえて使う必要はありません。

 ここでよくあるサプリメントの「誤解」を改めて述べておきましょう。「サプリメントは飲んでもたいして意味がない。意味があるなら医薬品になるはずだから」と言う人がいますが、これは完全に誤りです。誤解している人が多いので改めて強調しておくと、医薬品になるのは「効果があるから」ではありません。医薬品になるかどうかは「会社が医薬品にした方が儲かると判断したから」で決まるのが現実です。

 医薬品として承認を受けようと思えば、時間と費用がものすごくかかる臨床試験(治験)をしなければなりません。しかしいったん医薬品として認められ、そして医師に気に入ってもらえれば利益は自ずとついてきます。だから製薬会社は医者を取り込もうとするわけです。臨床試験に協力してもらい、論文を書いてもらい(ときには製薬会社の社員が書いて医者は名前を貸すだけのようなものもあります)、処方してもらおうとするのです。

 他方、このような戦略をとらず医薬品ではなくトクホ(特定保健用食品)を取得するという方法もあります。医薬品なら発売までにおそらく100億円を超える費用がかかりますが、トクホならその10分の1程度で済むと思われます。しかし、それでもとてつもない大金です。小さなメーカーにはとても捻出できません。そこで「サプリメント(機能性表示食品)として承認を得る」という選択肢がでてくるわけで、紅麹もそのひとつです。

 患者さんから質問を受けて危険性を伝えてやめるように私が助言したことがあるサプリメントは紅麹以外にも多数あります。比較的頻度が多いのは、ラクツロース(ラクチュロース)(便秘薬として使いますが医療者の管理のもとで内服すべき)、活性炭(下痢、薬疹などがそれなりに多い)、プロテイン(腎機能障害を起こしうる)、クレアチン(腎機能障害)、ムクナ(様々な神経症状)などがあります。輸入品になってくるとさらに注意が必要です。最近ある患者さんが腎機能障害を起こし、その原因はアーユルヴェーダで使われる「スペマン」というサプリメントでした。

 個人輸入という方法をとればサプリメントだけでなく通常の医薬品が簡単に入手できます。谷口医院の患者さんで最もトラブルが多いのはHIVの予防に使うツルバダ(またはデシコビ)の後発品です。他にも利尿薬、内服ミノキシジル、各種やせ薬などのトラブルが目立ちます。

 では日本製の市販薬なら安全かというと、これがまったくそういうわけではありません。最近風邪薬や咳止めの大量摂取がメディアで取り上げられることが増えていて、実際の検挙数も多いようですが、私の実感でいえばこういう「ドラッグ摂取」は昔から珍しくありません。検挙者が増えているのはおそらく警察がSNSなどを解析して売買情報を入手しているからでしょう。

 これら”ドラッグ”は初めから間違った使い方をするケースだけではありません。あまり指摘されませんが市販薬のなかには危険なものが多数あり、気付かぬ間に副作用や依存症を起こすことがあります。例えば、鎮痛薬の「イブ」を取り上げると、純粋な「イブ」には純粋なイブプロフェンしか含まれておらずこれはまだ安心できますが、「イブA」、「イブクイック」などの製品にはイブプロフェン以外にアリルイソプロピルアセチル尿素が含まれていて、これは眠気をもたらせる以外にも依存性がある薬物で、海外(のたいていの国)では市販が禁止されている物質です。他にもこのような例は無数にあります。また、そもそもイブプロフェン自体も使用は最小限にせねばならず腎機能障害のリスクになります。頭痛など慢性の痛みがある場合は医師の診察の下に服用すべきです。

 「サプリメントは効果は乏しいけれど副作用が少ない」が完全な誤解であるのと同様、「市販薬は安心」もとんでもない勘違いです。

 ではすべてのサプリメント、健康食品、市販薬には手を出さない方がいいのかというとそういうわけではありません。たとえば、妊娠中の鉄、葉酸は摂取すべきですし、たいていの日本人はビタミンDが不足していますからサプリメントでの摂取を検討すべきです。しかしこれらも摂りすぎるのは危険です。

 医師や薬剤師が常に正しいとは限りませんが、それでも身体に作用するものを摂取するときには専門家の助言を参考にすべきです。かかりつけ医をもつべき理由のひとつです。

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2024年3月10日 日曜日

2024年3月 「谷口医院がすてらめいとビルを”不法占拠”していた」裁判の判決

 2022年6月7日、旧谷口医院が入居していたすてらめいとビルを運営する会社「株式会社すてらめいとジャパン」が谷口医院に対し、「貸していないスペースを谷口医院が不法占拠していた」という理由で3120万円の損害賠償請求の裁判を起こしてきました。

 我々がビルを不法占拠していたとは穏やかではありません。当然のことながら谷口医院はすてらめいとジャパン(以下「すてらめいと」)と賃貸契約を結び、その契約どおりにビルを利用していました。もちろん契約書もあります。では、なぜ「すてらめいと」はこんな無茶苦茶なことを言ってきたのか。

 すでに本サイトでお伝えしているように、階上に突然入居して振動をまき散らすキックボクシングジムに対して当院は防振工事をしてほしいとお願いしました。すてらめいとにとってはどうやらそれが気に入らなかったようです。以下、簡単に経緯を振り返っておきます。

2020年12月 階上にキックボクシングジムが事前相談もなく入居。振動をまき散らし始める

2021年5月 ジムが「防振工事を6月20日を目途に開始する」と文書で連絡してきた

2021年7月  「やっぱり工事はやらない」という連絡が届いた。そのため「約束どおり防振工事を求める」訴訟を起こすことをジム・すてらめいとの双方に伝えた

2021年12月 すてらめいとの弁護士が「家賃を2倍にする」と文書を送って来た。裁判所で当院の弁護士と「調停」がおこなわれ、「調停不成立」となった

2022年1月 当院の弁護士が「当初の約束通り防振工事をすること」を求め大阪地方裁判所に訴状を提出

2022年6月 「谷口医院がビルを不法占拠しているから3120万円を支払え」という裁判(以下「不法占拠裁判」)をすてらめいとが起こしてきた

2023年1月 振動裁判の終結時期の見通しが立たず、振動が悪化したことで針刺し事故のリスクが急増し、また移転先が見つからなかったため「閉院」を決定

2023年6月5日 不動産業を営む当院の患者さんから紹介されたビルを使えることになり「閉院」でなく「移転」できることになった

2023年8月 移転先で新しい「谷口医院」の再開

2024年1月12日 「不法占拠裁判」で谷口恭が尋問を受けた

 「鉄筋」ではなく単なる「鉄骨」のビルで診療している医療機関の階上にキックボクシングジムを入れること自体がおかしいわけですが、今回は振動裁判の件はおいておくとして(現在も裁判中)、当院が防振工事をお願いしたことに対し、すてらめいとは腹を立てたのか、「そんなこと言うなら家賃を倍にする!」と訴えてきたことにまず驚かされます。

 こんなこと法律に詳しくなくても認められないことは明らかでしょう。ですが、法律に詳しい人に相談すると「社会の常識と司法の判断は異なることもあるし、こちらも弁護士を立てるしかない」と言われました。そんなものか、と考えて当院の弁護士に相談したところ「調停」がおこなわれました。

 結果は、もちろん「不成立」です。裁判所もいくら社会常識と異なる判断をするのだとしても、まさかこのケースで「家賃倍増に応じなさい」と当院に忠告することはないでしょう。

 分からないのはすてらめいとの弁護士です。ときに一般人が感情的になって滅茶苦茶な要求を突きつけることはあります。ですが、弁護士はプロの専門家なわけです。専門家ならそんな感情的な訴えは認められないと考えないのでしょうか。私が裁判官なら「この弁護士、ちょっとおかしいな」と判断すると思います。

 私には司法は分かりませんが、ビル会社の立場に立つなら「階上に入ったキックボクシングジムのせいで患者さんや医療スタッフに恐怖を与え危険な目に遭わせて申し訳ない。直ちに防振工事をおこなうから待ってほしい」と言うか、たとえ針刺し事故などのリスクが分からなかったとしても「家賃を下げることで我慢してもらうわけにはいきませんか」という申し入れをするのが普通の感覚ではないでしょうか。

 それを「家賃を倍にする!」と主張するとは今から考えても理解できません。

 2024年1月12日、大阪地方裁判所で「尋問」があり私が呼ばれました。通常、生まれて初めての裁判で、しかも「被告人」となり、相手方の弁護士や裁判官の尋問を受けるのは相当の緊張が強いられると思いますが、私にはそういったものがありませんでした。むしろ馬鹿馬鹿しくてやる気が起こりませんでした。そもそも「当院は契約書どおりに借りていただけです」と答える以外に何を言えばいいのでしょう。

 他のことを聞かれれば正直に答えるだけです。しかしすてらめいとの弁護士があまりにも無茶苦茶なことを言ってくるので、つい「嘘を言わないでください!」と一喝してしまいました……。なんと、「入居後数年してから貸していないスペースに勝手にレントゲンを置いた」と言い始めたのです。

 レントゲンは2007年の開院当初から設置してあることは調べればすぐに分かることです。レントゲンは一般のオフィス機器とは異なり保健所への登録が必要で、保健所の職員がきちんと法律に従って設置しているかを見に来ます。当然その記録も残っています。器械の販売会社にも記録があるはずです。それに、2007年にはすてらめいとの社員の健康診断も請け負ったのです。当然レントゲン撮影もしています。つまり、すてらめいともすてらめいとの弁護士も自分たちの主張が嘘であることが分かっていて、しかも調べればすぐにバレる嘘であることも知っていながら堂々と嘘をついてきたのです。裁判では嘘を言ってはいけないのではなかったでしょうか。さすがに私が一喝した後は黙っていましたが。

 呆れる嘘はまだありました。弁護士はなんと「不法占拠するために谷口医院がドアを改造して医院のスペースを広げた」と言ってきたのです。しかし、すてらめいとビルはセキュリティの関係でそのような改造や工事をすることができません。実際、他のフロアと同じ構造になっていることはビルに立ち入ればすぐに分かることです。そもそも、すてらめいとの本社はビルの2階にあって、その2階の入り口と谷口医院が入居していた4階のドアの構造や外観はまったく同じなのです。なぜこのようなすぐにバレる嘘をつくのか。そもそもこの弁護士は賃貸契約書を何と思っているのでしょうか。
 
 2024年3月4日、大阪地方裁が判決を下しました。「原告の請求を棄却する」というものです。つまり、当院の全面勝訴です。しかし、我々としては達成感や充実感はまったくありません。馬鹿らしい裁判に付き合わされた上、費やさざるを得なかった総額200万円ほどは裁判に勝利しても返ってこないからです。数字だけみれば「3120万円もの訴えを起こされ無傷ですんだんだから200万円程度の費用は安いものだ」となるのかもしれませんが、やりきれないものがあります。

 おそらくすてらめいとの目的は我々を疲弊させることにあるのでしょう。勝ち目のない裁判でも我々の時間と費用を奪うことはできます。彼らも時間と費用がかかるわけですが、いわば「Lose-Loseの関係」を目指したのでしょう。あるいは、この裁判の敗訴が”貸し”になり、振動裁判では有利になると考えたのでしょうか。「不法占拠では負けてあげたんだから振動裁判では谷口医院が譲歩しなければならない」と思っているのでしょうか。

 司法の世界では当事者が相手側の弁護士と会うことは禁じられているそうですが、いつかすてらめいとの弁護士から真相を聞きたいと考えています。その前に、メインの振動裁判の方を終わらせなければなりませんが。

参考:階上ボクシングジムの振動・騒音の問題について


投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2024年2月10日 土曜日

2024年2月 「競争しない」という生き方~その3~

 谷口医院は「精神科」を標榜していませんが、総合診療のクリニックということもあり、2007年1月の開院当初から精神症状を訴える患者さんも少なくありませんでした。開院当初は患者さんが拒否しない限りは、精神科クリニックに積極的に紹介していました。ところが、精神科を受診してもらっても必ずしも上手くいくわけではなく、それなりの患者さんが再び谷口医院に戻ってきます。これは「その精神科医がよくない」という意味ではなく、精神疾患とはそういうものだとそのうちに気付きました。

 2010年代半ばからは「精神科で処方されている薬をやめたい」という訴えが少しずつ増えてきました。特に依存性のある薬を長期間内服している人たちはその悩みが深刻で、「どうしてもやめられない。そういう薬を出す精神科には行きたくない」と訴えます。

 「その診断、合っているのかな?」と思わずにはいられないケースもあります。最近顕著なのが発達障害です。本来、発達障害は幼少時のエピソードを確認する必要もあり、簡単には診断できなかったはずなのですが、初診時に簡単な問診で確定診断を下され、いわゆる「精神刺激剤」が処方されているケースが少なくありません。しかも薬の説明がほとんどされておらず、「(従来の発達障害の薬と異なり)依存性はない」と言われたという患者さんがたくさんいます。しかし、アトモキセチン(ストラテラ)、グアンファシン(インチュニブ)などの精神刺激剤は、これらが登場する前によく使われていたメチルフェニデート(リタリン、コンサータ)、あるいは米国でよく処方されているリスデキサンフェタミンメシル(ビバンセ)のような覚醒剤類似物質とは異なるカテゴリーではありますが、決して副作用がない薬ではありません。そして、こういった処方に疑問を感じて谷口医院を受診する患者さんがいます。

 こういった経緯もあって、数年前から(あくまでも患者さんが希望すれば、ですが)谷口医院で精神疾患の治療をおこなうことがあります。

 まず気付いたのは、精神疾患の大部分は「環境に原因がある」という当たり前の事実です。以前、精神科でうつ病と言われたという男性が「僕はうつ病なんかじゃありません。安定した仕事と貯金があればすぐに回復します」と言っていました。そして後日、これが真実であることを身をもって証明していました。ある患者さんは失恋から立ち直り新しいパートナーができた瞬間に精神症状がすっかりなくなりました。その後、そのパートナーと入籍し今も元気にしています。

 では、どのような人がなかなか改善しないか、というと、もちろん持って生まれた素因や自身では変えようのない環境なども原因になるのですが、最近よく感じるのは「競争によるプレッシャーから逃れられない人」は治りにくいんじゃないか、ということです。

 というわけで、精神状態を改善させるために「競争から降りること」を提唱したいと思います。といっても、すでに過去に2回、「馬鹿らしい競争なんてさっさとやめて楽しく生きましょうよ」というコラム(「競争しない、という生き方」「競争しない、という生き方~その2~」)を書いていますので、今回は視点を変えて、「競争することは人間らしくない」ことを歴史的に”証明”したいと思います。

 歴史上、初めて人が人らしくなったのはおそらく集団で狩りをする狩猟生活をするようになった頃ではないかと私は考えています。一人一人がバラバラに行動していれば人どうしで殺し合いになることもあったでしょうし、獲物が効率よく獲得できません。仲間で力を合わせて狩猟生活を開始したことで人は集団生活の必要性と利便性を理解したはずです。

 次の転機は農耕生活の始まりです。身体能力にさほど恵まれていなかった弥生人が頑強な肉体を有する縄文人になぜ勝利できたかについては諸説ありますが、「集団行動に長けていた」が最たる理由ではないか、つまり一致団結できる力を有する集団の方が最終的には強いのではないか、というのが私の見立てです。そして集団での力を向上させるには「協調性」が不可欠となります。

 狩猟生活であれば、その集団が嫌になれば他のグループに移ることもできるでしょうが、農耕生活の場合は自身の土地を持っているわけですし、持っていない場合でも、他の村に入れてもらおうとしてもよその集団からやってきた者は不審者とみなされるでしょう。ならば多少嫌なことがあったとしても自身が生まれたその村で生きていくしかありません。

 村の中には他人の言うことを聞かず、すぐに争いごとをおこす者もいたでしょう。そのような者たちは村八分にされ子孫を残すことができません。「革命家」が現れ、村の有志を引き連れて新しいコミュニティをつくるというケースもあったでしょうが、それは極めて稀だったと予想されます。また、誰にも頼らず一人きりで生きていくことはほとんど不可能だったわけです。ということは、よほどの人物でない限りはその村のルールに従い、ある程度は自身の欲求を抑えて仲間に合わせていく他はなく、そのようなことができる人間のみが子孫を残すことができたわけです。そして「我々はその末裔だ」ということが重要です。

 つまり、我々現代人の大半は、歴史的に、そして遺伝的に「集団のなかでしか生きていくことができない」のです。そして、集団のなかでは弱肉強食ではなく、強い者が弱い者を守ろうとする文化が構築されたことが予想されます。なぜなら、誰もがいつ病気や怪我で身体が不自由になるかもしれない状況の中、「我々の社会では弱い者を助ける文化が根付いている」とメンバー全員が理解していれば、その村全体に安心感が広がるからです。村人の大半が頻繁に喧嘩している集団より、助け合いの精神にあふれている集団の方が存続しやすいのは当然です。このような集団ではひとりひとりの精神状態が良好であったに違いありません。

 では、この歴史上の”事実”を現代社会にあてはめてみましょう。同僚との競争を強いられ、いつリストラに遭うかもしれないという環境は、例えていえば「村人の大半が頻繁に喧嘩している集団」、あるいは「誰もが革命家を目指さねばならない集団」のようです。これではストレスから逃れられないのは当然で、同僚を蹴落として勝ち続けることができる人はほんのわずかしかいない、まさに弱肉強食の社会です。しかも、(私の仮説が正しければ)人間は”遺伝的に”助け合いの精神を持っているはずで、他人を蹴落とす行為はその”自然”に逆らうことになるわけですから心が痛くなるのは当然です。

 だからこんな競争社会からは降りてしまえばいいのです。例えば、私の知人に出世などにははなから興味がなく、職場のグチは言うものの家族や近しい友人との週末のキャンプやドライブを楽しみにしている男性がいます。また、パートナーはいないものの友達は男女共に多く、馴染みの客だけを対象に小さな飲食店を経営している女性がいます。彼(女)らは、金持ちではなく、世間がいうステイタスも高くありません。けれども、気の置けない身内に囲まれ楽しくやっています。いろんな愚痴を私には言いますが、どこか微笑ましいというか、話のネタとしてそのような不平不満を話すことを楽しんでいるようにすら見えます。診察室で患者さんから聞く苦しみとは異なるものです。

 出世、高収入、高級車、高級品、名誉、ステイタスなど、このようなものに興味を持たず、友達やパートナーとお金をかけずに楽しく過ごす人生の方が魅力的だと思えてこないでしょうか。このことを私は谷口医院の患者さんやプライベートの友人・知人をみていて強く感じます。社会的なステイタスや収入が低くても、仕事のグチは言うものの、プライベートを楽しんでいる人の精神状態は軒並み良好です。他方、中年の男性で精神的に弱っているのは昔から優等生をやめられない大企業の人たちに多いのです。

 中年の女性でいえば、メンタルが不安定なのはいつまでも他人との”比較”をやめない人たちです。特に高学歴の女性で専門職に就いている人たちは、世間では「男社会の不平等さに苦しんで……」というようなことが言われていて、「不平等」についてはその通りなのですが、精神状態にフォーカスして言えば、私はむしろ、女性どうしの「ライバル意識」が不幸を招いているような気がします。たとえば「同僚の〇〇さんはすごく恵まれているのに私はいつもひどい目に遭って……」というようなことを繰り返し訴える人がいます。このような人たちは他人との比較をやめるだけで随分と精神状態が改善すると思うのですが、これがなかなか困難です。

 ちなみに私自身は、「医者はステイタスが高いでしょ」と言われることがありますが、実際にはそんなことはありません。年収は医師の平均よりも(たぶんずっと)少ないですし、今も大学に籍を置いていますが役職は「非常勤講師」のままですし、医師会や学会には入っていますが役職はありませんし、論文は読むのは好きですがほとんど書きませんから誰からも評価されません。つまり、医師のなかでは最低のランクです。農耕社会で言えば「小作人」くらいでしょうか。しかしそれを悔しいなどとは思ったことは一度もなく、競争社会に乗る気は一切ありません。競争社会から距離をとることで気楽な生活が楽しめているのですから。

 出世、高収入、名誉などに初めから興味を持たなければそれなりに楽しくやっていけます。逆に、そのようなものにこだわって他人と競争しようとしても、人類は歴史のなかで集団内のメンバーとは争わない方が有利なように”進化”してきたわけですから、その進化に抗うのは賢明ではないのです。

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2024年1月10日 水曜日

2024年1月 世界は終末に向かっている

 「世界終末論」というのはノストラダムスの大予言に代表されるようなオカルト、あるいはかつてオウム真理教が予言していたような新興宗教の独自の教義であり、信頼できる科学的な根拠はありません。そういった終末論を求める(特に若い)人たちというのは、「現状が満たされておらず”一発逆転”で自分の時代が来ることに賭けている人たち」と、私は考えていました。

 誰かの予言などそもそも信じられませんし、古文書を曲解したような理屈も信用できません。そもそも古文書に書かれていることが科学的に正確とは思えません。よって「世界が近々終焉することなどはあり得ず、淡々とした日常が続くのがこの世界であり、世界が変わるのを待つのではなく自分自身が変わらねばならない」と私は(特に若い)人たちに言うことがあります。

 けれども、数年前から私の心のなかでずっと引っかかっていたことがあります。それは2018年のIPCC(Intergovernmental Panel on Climate Change)の報告です。IPCCとは地球温暖化を研究する国際組織で、国土交通省は「気候変動に関する政府間パネル」と呼んでいます。IPCCは2007年にノーベル平和賞を受賞しました。受賞理由は「人為的に起こる地球温暖化の認知を高めた」です。

 ノーベル平和賞というのは、生理学・医学賞や物理学賞などの自然科学系のノーベル賞に比べると、どうしても(狭義の)科学的信頼度が低いように思えますが、それでもエビデンスに裏付けされた報告をしています(そうでなければ困ります)。

 2018年、IPCCは「早ければ2040年までに地球は(温暖化により)壊滅的な状態になる」との内容を報告しました。The New York Timesは「(IPCCの)報告書によると早ければ2040年にも危機が訪れるリスクがある(Major Climate Report Describes a Strong Risk of Crisis as Early as 2040)」とのタイトルでこの発表を報じました。

 これ、かなりのビッグニュースではないでしょうか。もしも私が政治家や官僚なら、ことあるごとにIPCCのこの報告を取り上げ「地球を守りましょう!」と叫びます。SNSを駆使して「2040年まであと〇年!」とPRに努めます。地球が壊滅的になれば食料確保にも苦労し日々生き残ることが困難となります。「生きがいが……」とか「本当の自分は……」などと言っている場合ではありません。2040年といえば、残り16年しかありません。焦っているのは私だけなのでしょうか。IPCCの勧告がまるで顧みられていない現在の世界の状況は、人類が集団自決に向かっているかのように私には見えます。

 もしも、例えば知識人、特に地学に詳しい学者から「いや、2018年のIPCCの発表には計算間違いがあって実際にはあと数千年は地球は問題なく暮らせる場所だ」と言ってもらえれば安心できるわけですが、私の知る限りそういう話はほとんどありません。

 正確に言うと、安心できそうなことを主張した学者が(私の知る限り)1人いました。英国ノーサンブリア大学の天体物理学者で数学教授のヴァレンティーナ・ザルコバ(Valentina Zharkova)博士です。ザルコバ博士は地球温暖化どころか、「これから地球はミニ氷河期に入る」との自論を発表し、これをカナダのメディアがIPCCの報告と同じ2018年に取り上げました。尚、この主張を科学的に発表しているザルコバ博士の論文は難解すぎて私には読破できませんでした……。

 この記事がそれなりに注目されたのは(といっても日本ではおそらく報道されていなと思いますが)、2018年のカナダでは前年より平均気温が低かったことが原因のひとつだと思われます。カナダ政府によると、2018年のカナダは2005年以降最も平均気温が低い年でした。おそらく「このまま毎年寒い冬を迎えるのか……」という大衆心理に応じるかたちでザルコバ博士の論文が紹介されたのでしょう。

 ところが、その後の数字を追ってみると、翌年からカナダの気温は再び上昇傾向に転じています。私が知る限り、現在もザルコバ博士の主張を積極的に取り上げている世界のメディアはありません。

 では、2018年のIPCCの報告以降、地球温暖化はどのような状態になっているのでしょう。2023年に生じた具体的な災害をみてみましょう。これについてはすでに「GINAと共に」の10月号「他人の不幸や未来はどうでもいいのか」の後半で、世界各地の温暖化の状況を数値を挙げて紹介しました。よってここでは繰り返しませんが、中東やアフリカ大陸では深刻な洪水が発生し、カナダでは史上最悪の山火事が起こったことは記憶に新しいと思います。

 本稿執筆時、タイムリーなことに、通称「C3S」と呼ばれる「EUコペルニクス気候変動局(European Union’s Copernicus Climate Change Service)」が、「2023年の世界平均気温は、記録が残る1850年以降で最高、おそらく過去10万年で最高で、業革命前からの世界の平均気温上昇が1.48 ℃だった」と発表しました(発表は2023年1月9日)。2015年のパリ協定では「1.5℃未満を目指す」とされましたから、目標の上限ギリギリまで近づいたことになります。

 1.48℃という数字を目の当たりにすると、2018年のIPCCの報告にある「2040年」が前倒しされるのではないかと思えてきます。では、パリ協定(及びその前の京都議定書)に従い、地球温暖化を防ぐにはどうすればいいのでしょうか。国連は「ゼロカーボン」の重要さを強調し新しい技術に期待していると言っていますが、この主張、なんだか虚しくないでしょうか。

 その理由は、人類の愚かさを象徴するような紛争や戦争が世界で相次ぎ、さらに兵器を製造し輸送し消費することで多量の(二酸化炭素などの)「カーボン」を発生させているからです。呑気にゼロカーボンなどと言っている場合ではなく、優先順位を考えなければならないのは明らかです。ここで現在人類はどれくらい兵器製造に熱心なのかをみてみましょう。

 世界各国の軍事支出の年間総額を算出しているストックホルム国際平和研究所(SIPRI)によれば、2022年の全世界の軍事費(兵器、人件費、その他諸費用)は合計2兆2000億ドル(300兆円以上)にもなります。The New York Timesによると、2022年の時点で世界の武器輸出量が最も多い国は米国で世界全体の45%です。

 驚くべきことに、イスラエルは戦争相手のハマスが武器を購入することを「奨励(encourage)」しています。The New York Timesによると、ネタニヤフ首相はカタール政府に対しハマスに武器輸出の停止ではなく奨励しているというのです。私にはこの理由がよく分かりませんが、おそらく右派のネタニヤフ首相にとっては派手な戦争を起こした方が自分のプレゼンスが高まると考えているのではないでしょうか。

 そして、我が国もすでに戦争に加担しています。日本政府は12月22日、防衛装備品の輸出ルールを定めた「防衛装備移転三原則」とその運用指針を変更しました。日本で製造されたパトリオットミサイルが直接ウクライナに運ばれることはありませんが、米国で備蓄されることになるようです。日本のメディアはこの件について事の重要さをさほど報じているようには思えませんが、例えばアルジャジーラ(カタールの英字新聞)は「致死性武器の輸出を認めない姿勢を長年取ってきた日本にとって大きな転換を示すものであり、攻撃能力の強化は、武力行使を自己に限定するという第二次世界大戦後の原則からの脱却」と緻密な言葉を使って深刻さを伝えています。

 尚、日本のパトリオットミサイルは三菱重工グループが製造しており、フィナンシャル・タイムズによると、米国政府は過去数ヵ月間、日本(政府)に対し、同社のパトリオットミサイルの輸出を許可するよう迫っていました(ちなみに12月中旬頃より三菱重工の株価が急騰しています)。

 「ゼロカーボン」の前に「ゼロ兵器・ゼロ戦争」にすべきなのは自明だと私は思いますが、どうも世界の権力者たちはそうは考えないようです。2040年まであと16年しかありません。このまま戦争が続けられるのなら「淡々とした日常」はもうすぐ終わり、世界終末論が現実化するかもしれません。
 

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2023年12月10日 日曜日

2023年12月 そもそも自尊心とは何なのか、いらないのでは?

 前回のマンスリーレポートでは、「日本人は他国の人たちと異なり、年をとればとるほど自尊心が上昇し、その代わり幸福度はどんどん低下する」ことを紹介しました。自尊心と幸福度に直接の因果関係があるとは言えないかもしれませんが、両方とも「主観」で決まることなので、あながち関連がないとは言えないのではないか、という私見を述べました。

 こうなると「自尊心とは何か」が気になります。前回は自尊心が極端に高い人と低い人の特徴を挙げて、「自尊心が高ければ傲慢なナルシシストになってしまい、これが不幸せの原因である。だから謙虚さを身につけるべきだ」と結論付けました。

 このように、私は「自尊心が高いこと=悪いこと」という前提に立ちましたが、文脈によっては「自尊心を高く持つべし」とするものもあります。というより、一般的には自尊心は高ければ高いほどよい、とされています。今回は、このよくわからない自尊心を掘り下げて考えてみましょう。

 自尊心について最も深く学ぶのはおそらく心理学でしょう。ちなみに、臨床医学ではほとんど取り上げられず、精神医学の領域でも言葉くらいは出てくるでしょうが、自尊心についての精神医学者の研究というものを私はあまり見たことがありません。しかし、心理学では自尊心自体がテーマになり繰り返し研究されているはずです。

 前回紹介した論文のタイトルにもある「ローゼンバーグ自尊心尺度」はそれなりに有名です。下記の10項目で点数をつけます。簡単にできますから未実施の人は一度試してみてください。

1. 私は、自分自身にだいたい満足している。
2. 時々、自分はまったくダメだと思うことがある。
3. 私には、けっこう長所があると感じている。
4. 私は、他の大半の人と同じくらいに物事がこなせる。
5. 私には誇れるものが大してないと感じる。
6. 時々、自分は役に立たないと強く感じることがある。
7. 自分は少なくとも他の人と同じくらい価値のある人間だと感じる。
8. 自分のことをもう少し尊敬できたらいいと思う。
9. よく、私は落ちこぼれだと思ってしまう。
10. 私は、自分のことを前向きに考えている。

 上記項目1,3,4,7,10については「強くそう思う」=4点、「そう思う」=3点、「そう思わない」=2点、「強くそう思わない」=1点で点数化します。項目2, 5, 6, 8, 9は、「強くそう思う」=1点、「そう思う」=2点、「そう思わない」=3点、「強くそう思わない」=4点とします。

 合計点数が20点以下であれば「自尊心が低い」、30点以上であれば「自尊心が高い」となり、日本人の平均は約25点だと言われています。ちなみに私の場合、ちょうど25点となり、「自分の自尊心は日本人の平均程度」というとてもつまらない結果となってしまいました……。

 しかし、こんなもので本当に人間の自尊心が評価できるのでしょうか。はっきり言うと私は「できない」と思っています。さらに、前回引き合いにだした論文の筆者らには申し訳ないですが、この尺度が信頼できない以上、「日本人は年齢とともに自尊心が高くなる」とした結論の信ぴょう性も疑わしいと思っています。

 なぜこのような質問では自尊心が正確に評価できないのか。例えば質問1の「自分自身にだいたい満足している」を考えてみましょう。これは自分自身の「何を」対象とするかで答えが大きく変わってきます。例えば「容姿」なら20代に比べて60代は「満足している」からはほど遠くなるはずです。ですが、「貯蓄」をメインに考えるなら、多くの人は容姿とは反対に20代のときよりも60代の方が満足しているわけです。

 また、このような設問に「本当に正直に答えられるか」という問題もあります。そもそも人は自分自身のことをそれほどよく分かっていません。設問10のように「前向きに考えている」と言われても、「前向きなこともあるけど、慎重になって行動を控えることもあるし……」と考える人が多いのではないでしょうか。ちなみに私の場合、自分のことを「悲観主義者で前向きにはなれない」と常々考えているのですが、私をよく知る昔からの友達からは「お前ほどの楽観主義者はいない」と言われます。

 というわけで、本来私は他人の悪口を言うのは好きでないのですが、ローゼンバーグさんがお考えになったこの尺度が有用とは到底思えません。

 では正確に自尊心を評価する方法はないのでしょうか。日本心理学会のウェブサイトを調べてみると「顕在的自尊心と潜在的自尊心」というタイトルの記事がありました。この記事、ある意味でとても興味深いと言えます。

 この記事によると、顕在的自尊心はローゼンバーグ自尊心尺度で測定することができて(ここまではOK)、国際比較ではなんと日本が最も低く、年代による変化は日本では下降傾向にあるというのです。この時点で、前回と紹介した論文とで結論が食い違っています。調査方法が異なりますが、2つの主張に整合性があるとは到底思えません。

 潜在的自尊心は興味深い考えだと思いますが、紹介されている検査法がどれだけ正確なものなのかが疑問です。また、顕在的自尊心が高く潜在的自尊心が低い不安定的高自尊心者と、顕在的・潜在的自尊心の両方が高い安定的高自尊心者の分類についてはたしかにおもしろいと思いますが、果たしてそんなに単純に分類できるのか、という疑問が私には残ります。またこの記事の最後には「この論争については明確な結論が出ておらず、今後の研究が待たれるところです」という文章もあり、やはり共通のコンセンサスがあるわけではなさそうです。

 結局、自尊心はどのように考えればいいのでしょうか。思い切って誤解を恐れずに私見を述べれば「自尊心なんてものを考えること自体がナンセンス」です。そもそも、日頃から「幸せになりたい」と考える人は大勢いるでしょうし、また考えるべきだと思いますが、「自尊心を高くもちたい」と考えている人がいるとは思えません。もしも、目の前に神様が現れて「幸せがほしいか」と問われれば、よほどのひねくれ者でない限り「ほしいです」と答えるでしょうが、「自尊心がほしいか」と言われて「どうしてもほしい」と答える人はどれだけいるでしょう。私なら「どっちでもいい」と答えます。「くれるならほしい」と答える人は多いでしょうが、「幸せと自尊心のどちらかを選べ」と問われれば誰もが「幸せ!」と即答するに違いありません。

 過去のコラムで繰り返し述べたように(例えば「「承認されたい欲求」と「承認したくない欲求」」、「「承認欲求」から逃れる方法」)、私は「承認欲求なんて捨ててしまえばいい」と言い続けています。しかし、これは誰からも嫌われてもよいという意味ではなくて、「自身にとって大切な少数の身内から愛されていればそれでじゅうぶんであって誰からも愛されることに意味はない。身内以外からは嫌われても何の問題もない。大切なのは<変わらざる自身>を持つことだ」という意味です。

 自尊心も同じようなものだと思います。つまり、「自尊心なんてどうでもよくて考えることにも意味はない。それよりもそんなことを考える暇があるなら自身にとって大切な少数の身内から認められるよう<変わらざる自身>を持つように努めればよい。もしも他人から『あいつには自尊心がない』などと咎められたとしてもそんな悪口は無視すればいい」と私は思います。

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2023年11月12日 日曜日

2023年11月 幸せになりたければ自尊心を捨てればよい

 半年ぶりに「幸せ」を取り上げます。今回注目するのは「年齢」です。一般に、人は何歳頃が最も幸せで、何歳頃が最も不幸なのでしょうか。若さが失われることで年をとればとるほど不幸になっていくのでしょうか。それとも、加齢と共に人生を達観できるようになり、その結果幸せが訪れるのでしょうか。

 実は「年代と幸福感」については世界で繰り返し研究されています。そして、一致した見解があります。それは「幸福度と年齢の関係はU字型になる」です。おそらく最も有名な論文は、これまでに発表されているデータをまとめ直した研究(これを「メタアナリシス」と呼びます)で、2021年に科学誌「Journal of Population Economics」で発表された「幸福はどこでもU字型を示すか? 145か国の年齢と主観的健康状態(Is happiness U-shaped everywhere? Age and subjective well-being in 145 countries)」です。この論文によると、世界中のほとんどの地域で「幸せ曲線」はU字型を描きます。つまり、「若い頃は幸福で、次第にその程度が低下し、いったん底をついて、再び上昇する」のです。この論文によると、そのU字カーブの底、つまり「最も不幸せな年齢」は48.3歳です。ということは、48.3歳を過ぎれば人はどんどん幸せになるというわけです。本当でしょうか。

 どれくらいの人がこれを信じることができるでしょう。この論文では日本のデータも加味されています。日本人の「U字カーブのどん底」は世界平均より少し高くて50歳だそうです。では、あなたの周囲の人たちは50歳が最も不幸で、40歳や60歳の人は50歳の人よりも幸せそうに見えるでしょうか。そして、50歳を超えた人は安心していいのでしょうか。

 日本独自のデータもみてみましょう。第一生命経済研究所が、30歳から89歳の全国の男女800名を対象に幸福観に関する意識調査を実施し、2012年に発表しています。この報告によると日本人の年齢ごとの幸福度は男女で異なります。男性の場合、先の論文と同様、30代から40代にかけて落ち込み、その後どんどん上昇します。最も幸せなのは80代で、20代よりも上です。他方、女性の場合はまるで異なり、年齢ごとの変化はほとんどありません。60代で少し幸福度が上昇し、最低は80代ですが大きな差ではありません。ただし、この研究は対象がわずか800人ですから信頼性はさほど高いとは言えないでしょう。

 内閣府によるかなりショッキングな調査があります。日本人の幸福度は年々低下することを示しているのです。グラフをみると明らかで、調査対象最年少の15歳をピークにして幸福度はどんどん低下していきます。興味深いことに、このグラフには米国人の幸福度が合わせて記されています。米国人の幸せはやはり40歳頃で底をうつU字型カーブです。

 レポートには「諸外国の調査研究では、(幸福度は)U字カーブをたどるとされる。(中略)しかし、日本では高齢期に入っても他国(たとえばアメリカ)に比べると幸福度が上昇していかない」と、「日本人は例外的に年を取るほど不幸になる」と断言されているのです。内閣府からこれだけはっきりと言われると、日本人でいることを恨みたくなってこないでしょうか。

 では、(第一生命経済研究所ではなく)内閣府の見解が正しいとすれば、なぜ日本人は(日本人だけが)年を重ねても幸せが訪れないのでしょうか。この疑問に対する答えになるかもしれない興味深い報告を紹介しましょう。

 科学誌「Frontiers in Public Health」に2020年に掲載された興味深い論文があります。タイトルは「日本の生涯にわたる自尊心の発達の軌跡: 青年期から老年期までのローゼンバーグ自尊心尺度のスコアの年齢差(The Developmental Trajectory of Self-Esteem Across the Life Span in Japan: Age Differences in Scores on the Rosenberg Self-Esteem Scale From Adolescence to Old Age)」で、日本人による日本人を対象とした「自尊心(self-esteem)」に関する研究です。結論は「ヨーロッパ系アメリカ人では中年期以降自尊心が低下するのに対し、日本人の自尊心は青年期で低くなりその後成人期から老年期にかけて高くなり続ける」です。

 論文に掲載されたグラフをみれば一目瞭然です。調査対象最年少の15歳での自尊心が最も低く、その後は男女とも一貫して上昇し続けています。はたして、これは事実を反映しているのでしょうか。そして、なぜ日本人の(日本人だけの)自尊心が年齢と共に上昇し続けるのでしょうか。この点は世界からも注目されているようで、英国紙The Guardianに2023年9月に掲載された記事もこの研究を紹介しています。記者は、日本人の自尊心が年齢と共に上昇する理由として「日本人は謙虚でバランスのとれた態度をとっているからではないか」と推測しています。

 世界中の人々が読んでいる著名な新聞で「日本人は謙虚で……」と書かれると、我々は誇りに思っていいのかもしれませんが、ここでは「日本人は年をとればとるほど不幸になる」という内閣府の調査と合わせて考えてみましょう。もちろん直ちに自尊心と幸福度に直接の因果関係があるとは言えないわけですが、自尊心も幸福度も共に本人の主観、つまり「本人がどう思うか」で決まることを考えると、「日本人は加齢とともに次第に自尊心が高くなることが理由でどんどん不幸せになっていく」と言えないでしょうか。

 では「自尊心」とはいったい何なのでしょうか。一言で言えば「自分に対する自信」となりますが、これは様々な意味に解釈できますから、ここでは「自尊心が低すぎる人・高すぎる人はどんな人たちか」を考えてみましょう。

 自尊心が低すぎる人はアイデンティティが持てず自分に自信がない人で、「薬物などの依存症になりやすく、自殺未遂をしやすい」という傾向があります。

 他方、自尊心が高すぎると、いわゆる自信過剰となり過度なナルシシズムに陥ります。そういえば、自分の非は一切認めず大声で若者に説教している高齢男性をしばしば見かけます……。これはThe Guardianの記者がほめてくれている「謙虚」とは正反対のものです。おそらくこの記者は日本人の自尊心の高さをステレオタイプの「武士(サムライ)」に当てはめているのではないでしょうか。寡黙でいつも他人を慮りときには自身を犠牲にするようなタイプです。

 しかし当事者である我々がよく知っているように、実際の日本の高齢者はこのような「武士タイプ」ばかりではありません。年齢と共に自尊心が高くなるのが事実だとしても、それはいばりちらしているだけの「見苦しい自尊心」であることも多そうです。しかし、いずれにしても自尊心が上昇する代わりに幸せ度が低下するのであればまったく嬉しくありません。

 ではその自尊心を捨ててしまえば幸せになれるのでしょうか。そして、世界の人たちはいったいどのようにして自尊心を上手に低下させているのでしょう。「年齢と共に自尊心を低下させることで幸せ度が増す」と考えるのは論理の飛躍かもしれませんが、あながちこの仮説も間違っているとは言えないのではないでしょうか。

 では、自尊心を上手く低下させる方法を考えてみましょう。最も簡単なのは「謙虚になること」です。The Guardianの記者は「自尊心が高いから謙虚だ」と言っているわけですが、私はその逆だと思っています。「もう年をとったから何でも若者に任せて年寄りらしく目立たないように人生を楽しもう」と考えて自尊心を徐々に低下させるのです。そういえば、いつまでたっても権力にしがみつこうとする見苦しい高齢者が日本社会のいたるところにいるような気がします。

 50代以降、幸せになりたければ自尊心を少しずつ下げることを意識してみましょう。「年をとり体力や認知力などが低下していることを自覚し、チャンスはどんどん若者に譲り、周囲の人たちに感謝しながら、自身はおとなしく目立たぬようにする」が50代以降の幸せになる秘訣ではないか、というのが現在の私の考えです。

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2023年10月10日 火曜日

2023年10月 賢い薬の受け取り方

 谷口医院は閉院予定のわずか25日前に奇跡的に現在の物件をある患者さんから紹介してもらい、閉院を回避できました。当初の予定では6月30日が最終日で、その発表を1月4日におこないました。発表時、閉院は「予定」ではなく「決定」であったために、発表と同時に「診療の縮小」を開始しました。

 新患患者をできるだけ少なくし、谷口医院をかかりつけ医にしていた患者さんには別の医療機関を紹介し始めました。薬については、谷口医院は開業以来「院内処方」が中心でしたが、診療縮小に合わせ、仕入れを中止し、院外処方に変更しました。

 ところが院外処方に替えたとたんに、患者さんが困るケースが続出し、つまり調剤薬局でのトラブルが相次ぎ、結局大部分を院内処方に戻さざるを得ませんでした。

 なぜ、院外処方にするとうまくいかないのでしょうか。しかし現在、新しい谷口医院では原則として院外処方にしています。そして非常にうまくいっています。この違いはどこにあるのでしょうか。そして、どうすれば患者さん側からみて薬の受取がスムーズになるのでしょうか。今回は「賢い薬の受け取り方」を取り上げます。

 まずは、なぜ谷口医院が長年院内処方にこだわってきたのかについて説明しておきます。2007年の開院時、近くに調剤薬局がまったくなかったというのも理由のひとつですが、最大の理由は「大切な患者さんの大切な薬の説明を会ったこともない薬剤師に任せられないから」です。これは、薬剤師が力不足だと言っているわけではありません。実際、薬の知識は医師よりも薬剤師の方が豊富です。

 ではなぜ薬剤師に薬の説明を任せられないのか。それはその薬剤師が患者さんのことをほとんど何も知らず診察の様子も見ていないからです。薬の説明は単に添付文書(薬の説明書)に書いてあることを伝えればいいわけではありません。そんなことなら誰にでも(あるいは生成AIにでも)できます。

 例えば、「その薬は少々の副作用が生じても飲み続けなければならないのか」「症状が改善すれば減らしてもいいのか」「自己判断で増やしてもいいのか」「どのようなときに増量すべきか」「飲み忘れたときにはどうすべきなのか」などについては、その患者さんの症状と重症度、さらには社会背景(夜勤などで生活が不規則、家族に病気を隠しているために自宅では飲みにくい、など)や心理状態やキャラクター(薬に抵抗がある、毎日飲むことに自信がない、物忘れが多い、など)も考慮しなければなりません。

 塗り薬の場合はさらに困難になります。全身に症状が及ぶ場合、薬をどの部位にどの程度の量を1日に何回塗って、何日間で経過をみて改善していれば次にどの薬に切り替えればよいか、などといったことは診察に立ち会うか医師から直接話を聞いていなければ分かるはずがありません。

 院内処方から院外処方に切り替えた1月上旬には「それでも薬剤師がなんとかしてくれるかな」と淡い期待をしたのですが、結局患者さんを不安にさせる事例が相次ぎ、院内処方に戻さざるを得なくなりました。

 その患者さんのことをよく知らない者が、たとえどれだけ薬に関する知識が豊富な薬剤師であったとしても、その患者さんに対して適した説明をすることには初めから無理があるわけです。

 そして、それ以前に医師として、顔も知らない薬剤師に薬の説明を任せることなど到底できません。薬剤師の免許を持っているというだけでその薬剤師がまともに薬の説明をできると信用することはできません。これは、薬剤師からみても「医師免許を持っているというだけでまともな医師とは確証できない」のと同じことです。

 ですから、医療機関の医師(及び看護師)と近隣の薬局の薬剤師は、最低でも互いに名前と顔を知っていなければなりません。これって、常識的に考えて当然ではないでしょうか。患者さんに薬を使ってもらうというのは大変重要なことです。薬がきちんと使用できるかによってその患者さんの人生が変わってしまうと言っても過言ではありません。それだけ大切な薬の処方+調剤(説明)をするのであれば供給側(医師+薬剤師)はしっかりと連携できていなければならないのは当然です。

 にもかかわらず、医療界というのは医師と薬剤師が互いの顔も名前も知らないということが往々にしてあるのです。

 上述したように、2007年に旧・谷口医院がオープンした頃には近くに調剤薬局が1軒もありませんでした。しかし、そのうちにひとつふたつとできてきました。私としては、そして谷口医院としても、薬剤師が挨拶に来てくれるのかと期待して待っていました。しかし、待てど暮らせど薬局からは誰も来ません。そこで、谷口医院に出入りしている薬の卸業者に「我々の方から挨拶に行けばいいんですかね」と聞いてみたところ、「いえ、普通は薬局の方から挨拶に来ますよ」と言われ、そのまま待っていたのですが、ついに閉院までほとんんどの薬局は来ませんでした。

 正確には1軒のみ、その薬局がオープンした頃にそこの社長がやって来たのですが、その薬局は営業時間も短く、電話で薬に関する問い合わせをしても「うちみたいな小さな薬局じゃなくて大きなところに聞けばどうですかぁ?」などと、あきらかにやる気がなさそうな態度で返答されるため、そんなところに大切な患者さんの薬の説明を任せられないと判断しました。

 さて、新しい谷口医院では院内処方を継続することも考えたのですが、2つの理由から断念しました。1つはここ2~3年、薬の製造に問題が続出し供給が不安定な状態が続いているからです。このような状況では、製薬会社と卸業者は医療機関よりも薬局に納入することを優先します。谷口医院のようなグループの医療機関を持たない個人医院は最も不利になってしまいます。となると、薬を安心して処方するには薬局の力を借りるしかありません。

 そしてもうひとつの院外処方に決めた理由は、新・谷口医院の入居するビルの1階に薬局がオープンすることが決まったからです。谷口医院はビルの2~5階を借り、1階には薬局が入居するのです。この条件であれば谷口医院と1階のその薬局が「協力」するのが賢明です。

 そこで、新・谷口医院そして階下の薬局がオープンする前に、その薬局の薬剤師とミーティングを重ね、あるべき「医師・薬剤師関係」について議論を交わしました。そして互いに協力しあい、患者さんが安心できる体制をつくることで意見が一致しました。

 具体的には、まず薬局にはプライバシーを確保した「個室」をつくってもらうことにしました。そもそも日本のほとんどの調剤薬局はプライバシーがなさすぎます。例えば、緊急避妊薬、抗がん剤、抗HIV薬などは処方されることを他の患者さんに知られたくありません。しかし、既存のほとんどの薬局では隣や後の患者さんに薬剤師との会話が聞こえてしまいます。「プライバシー確保」についてはすぐに取り組んでもらえることになりました。

 薬剤師には私の診察を見学に来てもらうことにしました。診察時に私が薬について患者さんにどのような話をしているかを見てもらったのです。そして、診察終了時には何人かの患者さんについてディスカッションをおこないました。私が「薬はいつも最小限」を基本にし、患者さんの社会背景や心理状態も考慮して薬の説明をしていることを理解してもらいました。

 医師が発行する院外処方せんは日本全国どこの薬局でも利用できます。しかし現在、谷口医院の患者さんのほとんどは階下の薬局で薬を受け取っています。その理由は、「すぐに飲まねばならない薬があるから」だけではありません。何かトラブルや疑問点が生じたときにも薬剤師と医師が協力してすぐに対応できるからです。診察室と薬局はPHSを使い、いわばホットラインを引き、何かあればすぐに連絡を取り合っています。さらにGoogle Chatを使って注意事項を速やかに連絡しています。副作用が出たり飲み忘れたりしたときには、谷口医院にでも薬局にでも電話やメールで問い合わせができる体制を敷いています。

 そして実際、患者さんからは非常に好評です。医師と薬剤師が日頃から顔を合わせ、患者さんごとの注意点を話し合い、常にその患者さんにとって最善の薬の説明を考えているわけですから好評なのは当然といえば当然です。

 けれども、谷口医院と階下の薬局は別に特別なことをやっているわけではありません。医師と薬剤師が互いに顔も名前も知らない状態で薬の処方・調剤をおこなうことがおかしいのは自明でしょう。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2023年8月13日 日曜日

2023年8月 開業医は心身が健康である限り引退してはいけない

 前々回のコラムでは、医師という職業は患者さんの病の苦痛を引き受け続けなければならないことから”幸せ”にはなれない、という私見を述べました。

「職場のストレスがひどくて……」と訴える患者さんに対し、私は「オン・オフを上手く切り替えましょう」と助言することがあります。つまり、退社時刻になれば仕事のことはきれいさっぱり忘れてプライベートを楽しみましょう、とアドバイスしているのです。

 ですが、患者さんが医師の場合(あるいは看護師など他の医療者の場合も)はこのようなことを言いません。私自身がオン・オフを切り替えることができないからです。前回のコラムで述べたように、患者さんの苦痛を忘れることはできません。さらに、あくまでも私見ですが「忘れるべきではない」と考えています。

 たいていの医師は、医師という職業を辞めず、医師以外の職業に転職する医師はわずかしかいません。また、早期リタイヤする医師も少数で、80代の医師も何ら珍しくはありません。「もういい年齢だから余生をゆっくり楽しみたい」と言って引退しても、そのうち医療の現場に戻ってくる医師もいます。もちろん、いったん引退したけれども再び仕事を始めるという人は他の業界でも珍しくありませんし、谷口医院の患者さんのなかにも少なくありません。ですが、「職業を替えず、引退もしない職業」をランク付けするとすれば、医師が第1位となるのではないでしょうか。

 では、なぜ医師は引退しないのでしょうか。私はこの「答え」を、偶然にも、太融寺町谷口医院を閉院しなければならなくなったことで理解できました。

 一般に「人はなぜ働くか」の答えは「生活するため」、つまり「お金を稼ぐため」です。では「一生食べていけるだけのお金があれば引退するか」に対して人はどのように答えるでしょう。「引退する」と答える人もそれなりにいると思います。実際、先述したように引退しても仕事を再開する人がいる一方で、きれいさっぱり仕事はやめて趣味の世界に生きる人もいます。谷口医院の患者さんでいえば、仕事をやめると覇気がなくなる人が多いのですが、なかには「趣味が充実していて楽しくて仕方がない」という人も(少数ではありますが)います。

 ですが、ほとんどの人にとって働く理由は「お金のためだけではない」のはあきらかです。上述したように医療者でなくても「いったん退職したけれど再び仕事を始めた」という人はかなりたくさんいますし、引退せずに「可能な限り働き続けたい」という人も少なくありません。谷口医院の患者さんにも大勢います。その理由は「社会とつながっていたい」というものが一番多い気がしますが、「自分がいないと現場が回らないから引退できない」という人もいます。

 後者の理由、つまり「自分がいないと……」に対しては、「いずれ引退せねばならないときが来るのだからそれは理由にならないのでは?」という意見があります。むしろ、「引退のタイミングを逃すと”老害”が出てくる」が現実です。

 老害はどこの世界にもあると思いますが、医師の世界でもしばしば見受けられます。医師の典型的な老害を感じるのは「学会」です。演者の発表の後の「質疑応答」の場面で手を挙げて、「意味不明の自説」を延々と話し続ける高齢医師がいるのです。座長(司会者)が「時間がおしているのでそろそろ……」と終わらせようとしてもそれでも話をやめない”老害まるだし”の医師もいます。

 若い頃活躍していた医師に限って、自身が認知症であると認められず、周囲のスタッフを困らせ、患者さんに迷惑をかけたり、さらに呼ばれていない学会に出掛けたり、頼まれてもいないのに会議に出席しようとしたりすることもあるそうです。

 「週刊現代」がある医師の”末路”を負った記事があります。この医師はかつて「天才外科医」の名前をほしいままにしていた、医療者であれば誰もが知っている名医です。記事のなかでは仮名(かめい)が使われていますが、その仮名を見れば医療者ならこの医師が誰なのか容易に推測できます。これだけの名医が認知症となり、そして……。この記事は我々医師にとって最後まで読むのに耐えられないほど辛いものです。
 
 人はいずれ能力が衰えるのですから、あえて早期に引退するのは一種の”美学”だとも言えます。ならば私も早期引退を考えてもいいのではないか。そう思って、太融寺町谷口医院の閉院を決めた1月、タイでボランティアをしながら永住する道やその他引退後のプランを具体的に思案していました。

 ところが、私が大好きな西日本のある町で開業する医師から「診療所を引き継いでもらえないか」と言われ、その選択を考えるようになり、その医師から「これまで診てきた患者を見捨てられなくて……」という言葉が私を打ちのめした、という話を前回しました。

 閉院を表明した1月以降、私は日々患者さんに「新しいところを紹介しますので閉院を許してください」と言い続けていたわけですが、怒り出したり、泣き出したりする患者さんが後を絶たず、不動産関連の仕事をしている人たちからは「自分が移転先を探しますからなんとか続けてください」などと言われました。なかには不動産業界とは無縁なのに、休日に街を歩いて移転先候補の物件を探してきてくれた患者さんもいました。

 そんな患者さんたちを見捨てることなど誰ができるでしょう。では、移転先が見つかったとして(そして幸運にも実際に見つかったわけですが)、私はいつまで医師を続けるべきなのか。この答えはあきらかです。「私の診察を希望する人がいなくなるまで」、そして「私が診療を続けられなくなるほど心身が破壊されるときが来るまで」です。

 これが分かった瞬間に「もう一度移転先を探し、そして絶対に見つけなければならない」と決意しました。そして、「老後の楽しみ」とか「引退後の第二の人生」といったものとは自分には縁がないことを自覚し、「私の診察を希望する人がいるのなら、体力、知力、認知力が続く限り診療を続ける」という決心がつきました。

 過去のコラム「『偏差値40からの医学部再受験』は間違いだった」でも取り上げたシェークスピアの『As You Like It』に登場するセリフをもう一度紹介したいと思います。

 All the world’s a stage, and all the men and women merely players.  They have their exits and their entrances.(すべての世界は舞台だ。すべての男と女は単に役者を演じているだけだ。我々には初めから出口(退場)と入口(登場)が与えられているのだ)

 日本語訳は私によるもので、韻も踏めていないし下手くそな和訳であることは承知していますが、それでも自分の言葉で訳したかったのは、このセリフが「人生の真実」を示していると考えているからです。この世界は誰にとっても”舞台”、そして我々一人一人はその舞台で演じる”役者”なのです。私に与えられた”役”は「体力が続き認知機能が保たれている限り、そして求める人がいる限り診療を続ける」なのです。

 それを理解させてくれたのが、谷口医院の「閉院宣言」に反対し、怒り、涙を流し、休日に移転先の物件を探しに行ってくれたような患者さんたちなのです。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

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