マンスリーレポート

2025年8月3日 日曜日

2025年8月 「相手の面子を保つ(save face)」ということ

 前回のコラム「『人は必ず死ぬ』以外の真実はあるか」で述べたように、「知識をひけらかす人」はたいてい嫌われます。こういう人たちが滑稽に見えるのは、「とても格好悪いことをしていることに気付いていない」からです。

 しかし「知識人」と呼ばれる人たちは、自分の知識を伝えることが仕事です。そして、広義には我々医師も「知識人」に含まれます。では、「(職業人として)知識を伝える」と「知識をひけらかす」の違いはどこにあるのでしょうか。

 例えば、医師がプライベートの飲み会でうんちくを垂れ始めればたいてい嫌われることになります。しかし、学会で専門的な話のディベートになれば、言葉選びは慎重にしなければならないにせよ、きちんと理論整然と説明すればそれは知識のひけらかしではありません。

 では診察室や病室で医師が患者さんに説明する行為はどのように考えればいいのでしょう。この場合、職業人としての説明ですから「知識を伝える」となりそうですが、ときに医師は「失敗」します。私は医学生の頃から、そんな失敗の数々をみてきました。先輩医師たちのそういう姿がとても勉強になったことを自負しているくらいです。

 例を挙げましょう。心臓の症状に非常によく”効く”薬に「救心」があります。

患者:検査では心電図にもレントゲンにも異常がないと言われるんですけど、動悸がしんどいんですよ。救心を飲めばラクになるんですけど、私の病気は何なんですか?

医師:それは病気ではありません。救心が効くのは気持ちの問題です

患者:そんなことありません。救心は効くんです

医師:救心なんてものにはエビデンスがないんですよ。それは病気ではありません

患者:もういいです!

 サプリメントや健康食品というものを医師は嫌うことが多いのですが、なかでも救心はそのトップにきます。私はこれまで医師が救心を否定する場面を数十回は見てきました。そして、お決まりのセリフが「エビデンスがない」。

 これは医師の方が間違っています。「エビデンスがない」は便利な言葉で、一部の医師はこの一言で患者を黙らせることができると思っているようですが、「エビデンスがない」を示すのであれば、例えば二重盲検法などのエビデンスレベルの高い臨床試験を実施した結果「有効性がない」ことを証明しなければなりません。それができてはじめて「エビデンスがない」と言えるわけです。だから救心にはエビデンスがないのではなく、そもそも「エビデンスが検証されていない」が適切な表現です。

 「病気ではない」も医師が間違っています。病気かどうかは「病気」の定義によって異なります。患者さんが動悸でしんどいのは事実です。しんどいわけですから少なくとも広義には「病気」と呼ぶことに問題はないはずです。自分の「ものさし」でみようとするから話が通じないわけです。

 ちなみに私は医学生の頃から数えると、たぶん百人以上の患者さんから「救心は効く」と聞いています。そのため、検査で異常がなくて動悸や息切れでしんどいという人に救心を私の方から勧めることがあるくらいです。これはほとんどの医師からバカにされるでしょうが、実際に何割かは救心で症状が取れるわけで、これがバカな行為ならバカでけっこう、と思っています。という話を以前当院に来た研修医に話すと驚いていました……。

 救心の例も含めて「知識をひけらかす」話者に常に共通しているのは「相手の気持ちが分かっていない」ことです。原則として、たいていどんなときも、まずは相手の気持ちを理解することに努めなければなりません。次に、その気持ちを理解していることを相手に理解してもらわねばなりません。つまり、目の前の相手に「ああ、この人は私が考えていることをきちんと理解してくれているんだな」と思ってもらう必要があるわけです。ここまできて初めて「知識を伝える」スタート地点に立つことができます。

 結果として、目の前の相手が初めに考えていたことと正反対のことを伝えなければならなくなったとしましょう。例えば「救心で胸の症状が改善するそうだが、心電図に気になる所見がある。入院して精密検査が必要。しかし患者さんは入院を望んでいない」という場面に遭遇したとしましょう。

 こんなとき「救心が効いていると感じるのは気のせいです。心電図に異常があるんだから入院して精密検査を受けてください」などと頭ごなしに言ってしまえば、患者さんはいい気持ちがしません。ときには反抗的になって「何があっても入院しません!」という態度になるかもしれません。わざわざ「気のせい」などという言葉まで使って患者さんの考えを否定することに意味はまったくないわけですが、なぜかこういうことを平気で言う医師がいます。

 「相手を否定しない」、言い換えると「相手の面子を保つ」はこの社会で生きていく上で絶対に必要なマナーのようなものです。これは世界共通のマナーで、英語ではsave face、タイ語では(カタカナにすると)「ラックサー・ナー」(直訳すると「顔を守る」)となります。

 個人的な体験になりますが、私がこの「相手の面子を保つ」の重要さを初めて身をもって知ったのは18歳の頃、アルバイトの場面です。当時旅行会社でアルバイトをしていた私は、ある日、神戸の三ノ宮駅で朝6時半からツアーのパンフレットを配布する役割を担っていました。パンフレットを駅前まで運ぶのは入社したばかりの社員の役割です。私を含めて合計5人ほどのアルバイトは全員遅れずに集まったのですが、待てど暮らせどその社員が来ません。その社員が来なければ肝心のパンフレットがないわけですから配布ができません。結局1時間ほど待っても社員は来なかったので我々アルバイトは何もせずに帰りました。

 その日の夜、その会社の事務所に顔を出しました。ホワイトボードに日々のパンフレットの配布枚数が記載されていて、その日の三ノ宮の実績は当然「ゼロ」と書かれていました。これを見て社長から怒られるのは我々アルバイトです。このままではアルバイトがさぼったみたいです。そこで、私はそのホワイトボードに「〇〇さんが来なかったため」と書いたのですが、1つ上のアルバイトの先輩が立ち上がってそれを消し、さらに社長のところに赴いて「明日からまた頑張ります」と頭を下げたのです。私が「責任は社員の〇〇さんじゃないですか」と言うと、先輩は「社会っていうのはこういうもんや」とつぶやきました。このとき私は18歳で先輩は19歳。それから40年近くたった今も、私はその先輩を師と仰いでいます。

 私見ですが、最近見事なsave faceを成し遂げたのが米国のトランプ大統領です。トランプ大統領についてはこのサイトでも否定的なことしか述べていませんし、私自身はまったく支持しませんが、イランに対する「外交」は見事でした。

 2025年6月22日、米国空軍および海軍がイラン国内の複数の核関連施設に対し軍事攻撃を成功させると、翌日、イランは報復として、カタールの米軍基地に対してミサイルによる攻撃をしかけました。イランの被害が(諸説ありますが)かなり大きかったのに対し、イランの攻撃は最小限のものでした。しかし、米国のみならずイランも「勝利宣言」をしました。

 つまり、トランプ大統領が非常にスマートにイランの「面子を保つ」ことに成功したのです。もしもイランが「戦争に勝った」と言うことができなければ、国民の支持を一気に失い、もしかするとやけくそになってイスラエルや米国に核戦争をしかけたかもしれません。繰り返しますが、私はトランプ大統領を一切支持しません。ですが、戦争という極めて難易度の高い交渉においてこれだけ見事に「相手の面子を保つ」ことに成功したことは賞賛されるべきだと思います。

 政治家だけでなく我々一般人にも「相手の面子を保つ」に注意しなければならない場面はいくらでもあります。ついつい上から目線になってしまいがちな知識人は特に注意をしなければなりません。自分の価値観で、あるいは自分の「ものさし」で考えを押し付けてはいけません。

 最後に、最近、御堂筋の「北御堂」の階段に掲げられていた掲示板の写真を張り付けておきます。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

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