はやりの病気
2024年4月18日 木曜日
第248回(2024年4月) 危険なサプリメント
私が「サプリメント推奨派の医者」と思われているのか、当院では開院の2007年以来、サプリメントの質問はコンスタントに寄せられています。興味深いことに、その逆に「先生(私のこと)はサプリメントに反対する医者かと思っていました……」と言われることもしばしばあります。私自身はサプリメントには”中立”のつもりで、患者さんによっては推奨することもあれば、危険な(海外製の)サプリメントを摂取している人や、すでに副作用が出ている患者さんに対し中止するよう助言することもあります。
2007年の開院以来を振り返ると、サプリメントに関する質問も随分と変わってきました。当初多かったのは亜鉛、ビタミンC、プラセンタ、などで、2010年代中頃からはビタミンD、クロレラ、ウコンなどに関する相談が増えました。数年前からはNMNに関する問い合わせが急増しています。このようにサプリメントや健康食品には流行があります。
サプリメントに関する大きな「誤解」をはっきりさせておきましょう。これは患者さんが誤解しているというよりも、「医師が間違ったことを言っている」と私は以前から言い続けています。初診の患者さんから「前の病院では、サプリメントは効果がないからサプリメントなのであって、効果があるなら薬になるはず。だからサプリメントは必要ないと言われた」と教えてもらうことがあります。また「どんなサプリメントを飲んでいるかまで言わなくていい」と言われたという患者さんもいます。
これらは双方とも間違っています。まず、サプリメントに効果がないわけではありません。また使用しているサプリメントは申告してもらう必要があります。だから当院の問診票には、「健康食品・サプリメント等」という文字を入れて「使用している薬をすべて教えてください」と書いてあるのです。過去に何度か「〇〇で受診しただけでも必要なのですか」と聞かれることがあったので、問診票には「検査結果に影響を与えたり、飲み合わせの関係などで……」という文言を加えています。
「サプリメントに効果がない」が誤っていることを示すには「紅麹」だけでじゅうぶんでしょう。小林製薬の紅麹のサプリメントの事件で有名になったように、紅麹に含まれるモナコリンKはコレステロールを下げる薬「ロバスタチン」(名前が似ている「ロスバスタチン」とは別の薬)と同じ成分です。ロバスタチンは日本では承認されていませんが、米国ではコレステロール降下薬として処方されています。当然、他の「スタチン製剤」と同様、ときに腎機能障害をはじめ副作用のリスクがあり重症化することもあります。妊娠中は絶対に内服してはいけないものです。
「サプリメントの申告は不要」が間違っていることも紅麹だけでじゅうぶんでしょう。スタチンと同時に服用できない薬はいくつかあります。もしも、患者さんが紅麹を内服していることを知らずに医師がこういった薬を処方してしまえば取り返しのつかない事態になりかねません。
もちろん注意を要するサプリメントは紅麹だけではありません。「知らないでは済まされない」注意点があるものがいくつもあります。ちなみに紅麹に関していえば、谷口医院ではこれまで数回相談されたことがあり、全例で「やめておいた方がいい。どうしても必要なら保険診療でスタチンを処方します」と伝えています。保険診療のスタチンであれば、製品の品質が保証され、定期的な採血などで効果と安全性が確認できます。わざわざ高いお金を払ってサプリメントを飲む意味はまったくないのです。
では、日頃健康でかかりつけ医をもっていなくて、なんらかのサプリメントを始めたい場合はどうすればいいでしょうか。本来は薬局の店員や通販の担当者から助言を聞くべきだと思いますが、残念ながらそういったことはほとんどおこなわれていないようです。薬局やネットショップの販売店は利益が目的ですから、わざわざ販売額を減らすようなことに力を注がないのでしょう。「販売するなら安全配慮義務がある」と私は考えていますが、そんな正論を叫んでも虚しいだけです。よって自分の身は自分で守るしかなく、現実的な対処法を考えなければなりません。
サプリメントの総合サイトで私が推薦しているのは国立研究開発法人医薬基盤・健康・栄養研究所のサイトのなかにある「素材情報データベース」です。残念ながら薬学の知識がないとちょっとわかりにくいのですが、信頼性は極めて高いページです。例えば、紅麹についてはコレステロール低下に有用な研究が掲載されていると同時に「カビ毒が検出された報告がある」と危険性についても言及されています。
リスクについては内閣府の「食品安全委員会」のサイトも推薦できます。検索キーワードに「紅麹」と入れれば、各国で紅麹が禁止されたり、注意勧告が発表されたりした情報がよく分かります。
新たにサプリメントを開始するのであれば、最低でもこれくらいの調査はすべきなのです。といってもこんな面倒くさいことはやる気にならない人の方が多いでしょうし、上述したようにある程度薬学や生化学の知識がなければ難易度が高いかもしれません。しかし、ドラッグストアや通販のショップに相談してもまともな対応をしてもらえるとは思えません。
ならばかかりつけ医に相談するしかありません。と、考えて谷口医院の患者さんたちは新しいサプリメントを始める前に私に相談されるのでしょう。
もうひとつ例を挙げてみましょう。上述したように、過去数年で最も相談件数が多いのがNMN(ニコチンアミドモノヌクレオチド=nicotinamide mononucleotide)です。たしかにNMNは動物実験やヒトを対象とした小規模実験では、運動能力向上などの好ましい結果が出ています。では「素材情報データベース」をみてみましょう。NMNを調べてみると、残念ながら有効性は「見当たらない」とされています。おそらく「エビデンスがあるとされる研究はない」という意味でしょう。
小規模研究なら「健康状態が改善した」とするものもあるにはあるのですが(例えばこの論文)、とてもこれだけで推奨するわけにはいきません。また、他のサプリメントと同様、製品によって品質にばらつきがあるという問題もあり、実際それはメディアで報道されています。
では医療機関で実施している点滴なら有効で安全なのかというと、まったくそうではありません。そもそも規制があるために入手が簡単ではないはずのNMNをどうやって入手しているのかがよく分かりません。医師免許を持っている医師にとってみれば、医療行為に関する裁量権はかなり大きく(ありていの言葉で言えば「やりたい放題」)、医師だからといって信頼できるわけではありません。NMNの点滴は安全性も有効性もまったくなんの保証もありません。日本抗加齢医学会は2024年3月1日、「自由診療特に再生医療に関する安全性の注意喚起について」というタイトルの声明文を発表し、医師に向けて「特にNMN点滴療法、幹細胞培養上清液及びエクソソームの静脈投与につきましては、医療水準として未確立の療法であり、その有効性・安全性について、エビデンスに基づく十分な検討をお願いいたします」と注意を促しました。
では、なぜ一部の医師は有効性・安全性が確立していない医療行為に手を染めるのでしょうか。私は「結局はビジネスだから」という結論に達しました。私が医師になり、谷口医院を開業してからも「他の医師を悪く言わない」を心がけてきました。それが我々のルールであり、医師(のほとんど)は人格者だと信じていた(信じようとしていた)からです。しかし、医師の矜持を疑う出来事(つまり、「この医者、金儲けでこんなことやっているのか」と疑う事例)を繰り返し見聞きするようになり、コロナビジネスを手掛ける医師が少なくないことを知り、堕落した医師の存在を確信するようになりました。
NMNに話を戻すと、有効性が認められた人を対象とした大規模調査はありません。点滴のNMNは安全性が担保されていません。それから私がNMNに対してそれほど積極的になれない理由は「NMNと同じような働きをするナイアシンは日本人は充分に摂取できているから」です。2019年の国民健康・栄養調査によると、日本人のナイアシンの平均摂取量は、男性33.3mg/日、女性28.0mg/日で、厚労省が推奨している量(男性:13~15mgNE/日、女性:10~12mgNE/日)を上回っています。ということは、日本人の平均的な食事で(NMNと同様の成分が)じゅうぶんに補えていることになります。
では、平均的な日本人は必要な栄養素をすべて摂取できているのかというと、まったくそういうわけではなく、国民健康・栄養調査によると、摂取できているビタミンは、ナイアシンの他は、ビタミンE、ビタミンK、ビタミンB12、葉酸、パントテン酸だけで、ビタミンA、ビタミンD、ビタミンB1、ビタミンB2、ビタミンB6、ビタミンCは不足しています。ミネラルをみてみると、カルシウム、マグネシウム、亜鉛が不足しています。食事で摂れないのならサプリメントでの摂取が選択肢となります。これらについてはこのサイト(やメルマガ)で追って紹介したいと思います。
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|2024年3月21日 木曜日
第247回(2024年3月) 認知症のリスク、抗うつ薬で増加、飲酒で低下?
認知症には信頼できる治療薬があるとは言えず、また決定的な予防法があるわけでもないことは本サイトで繰り返し述べています。治療薬について、日本のメディアではエーザイの「レカネマブ」を絶賛するような記事が目立ちますが、海外メディアは冷ややかなものが多いと言えます。ちなみに、海外メディアではレカネマブがいかに辛辣に酷評されているかについて私は「医療プレミア」で書いたことがあります。
2023年9月4日 「ここが問題! 認知症新薬「レカネマブ」」
2023年10月30日 「アルツハイマー病のリスク遺伝子検査は「気軽に受けてはいけない」」
認知症は内服薬もさほど効果は期待できません。期待できないどころか、余計に悪化する場合も少なくないことを知っておくべきです。実際、例えばドネペジル(アリセプト)を使いだしてから性格が荒っぽくなって家族が手に負えなくなったという事例は枚挙に暇がありません。効果に乏しく副作用のリスクが大きいわけですからそのような薬を保険診療で処方してもいいのか、という問題も生じています。仏国では2018年に、ドネペジル、ガランタミン(レミニール)、リバスチグミン(イクセロンパッチ/リバスタッチパッチ)、メマンチン(メマリー)の4種類が保険適用外とされました。これら4種はうまく使えば症状緩和に期待できるのは事実ですが、決して認知症を治すことができるわけではありません。
治療薬がないなら予防薬はどうでしょうか。昔から認知症の予防薬の開発は世界中で進められていますが、いまだに実現化にはほど遠い状態です。
では薬でない予防方法はどうでしょうか。これまた、世界中でいろんな研究が続けられていて、「地中海食がいい」「運動が予防になる」などととする研究結果もあるにはありますが、決定的なものではありません。少なくとも「〇〇をしていれば安心」というものはありません。
その逆に「〇〇はリスクになる」という研究は多数あり、肥満、喫煙、不健康な食事、運動不足、難聴、他人とのコミュニケーション不足、座りっぱなしなどがリスクとして確立されています。なかでも座りっぱなしは、「座りっぱなしの時間が長ければ運動しても認知症のリスクは上昇する」という研究があり、今すぐにでも対策をとらねばならない課題だといえます。
忘れてはならない認知症のリスクとなる要因は「薬」です。「はやりの病気」第151回「認知症のリスクになると言われる3種の薬」では、ベンゾジアゼピン、抗コリン薬、胃薬のPPI(プロトンポンプ阻害薬)を紹介しました。これらには「認知症のリスクを上げない」とする研究もありますが、最近発表されている数々の研究から判断して「リスクはある」と考えるべきだと私は思います。
他の「認知症のリスクを上げる薬」として、抗てんかん薬、抗パーキンソン薬、抗ヒスタミン薬、ステロイド、NSAIDs(非ステロイド性抗炎症薬)、循環器系治療薬(不整脈の薬や降圧薬)なども指摘されています。
さて、随分前置きが長くなりましたが、今回は最近「認知症のリスクになる薬」として報告された薬、そして「アルコールが認知症の予防になるかもしれない」という俄かには信じがたい研究を紹介したいと思います。
まずは最近報告された「認知症のリスクになる薬」の話をしましょう。その薬とは「SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)」です。SSRIとは2000年代以降、世界で最も使用されている抗うつ薬で「(重篤な)副作用はほとんどない」とされています。ベンゾジアゼピンのような依存性もなく、三環系抗うつ薬のような「眠気、ふらつき、倦怠感」もありません。当院でも2007年の開院以来、SSRIは最も多く処方している抗うつ薬です。2008年の「はやりの病気」で取り上げたこともあります(「SSRIは本当に効果がないのか」)。
世界で最も有名なSSRIはおそらく「プロザック」です。上述のコラムにも書いたように90年代には「ハッピードラッグ」と呼ばれ、全米での使用者は1千万人を超えました。日本ではなぜか今も発売されていませんが、他のSSRIは(当院も含めて)多くの医療機関で処方されています。フルボキサミン(デプロメール、ルボックス)、パロキセチン(パキシル)、セルトラリン(ジェイゾロフト)、エスシタロプラム(レクサプロ)の4種が日本では使用されています。
2008年のコラムでも書いたように、SSRIは万能ではありませんがよく効くことも多く、また副作用が少なく長期間使用しても依存性がないために使いやすい薬だと言えます。しかし最近、そのSSRIが認知症のリスクになるというショッキングな研究がスペインから発表されました。医学誌「Journal of Affective Disorders」2024年3月15日号に掲載されたその論文のタイトルは「抗うつ薬を使用した高齢者の認知症リスク:スペインにおける人口ベースのコホート分析(Risk of dementia among antidepressant elderly users: A population-based cohort analysis in Spain)」です。
研究にはスペインの医療データベースが用いられました。1種類の抗うつ薬を90日以上内服している60歳以上の62,928人を分析した結果、三環系抗うつ薬を内服している人に対し、SSRIを内服している人は認知症のリスクが1.792倍上昇していることが分かったのです(喫煙の有無、生活習慣上のリスク、既存疾患などの他のリスク因子は取り除かれて分析されています)。尚、この研究では他の抗うつ薬も「その他の抗うつ薬」として分析されており、三環系抗うつ薬のグループに比べ認知症のリスクが1.958倍高くなっていました。
では、うつ病には古典的な三環系抗うつ薬を使えばいいのかというと、上述したようにこの薬は「眠気、ふらつき、倦怠感」の副作用がそれなりの頻度で起こります。谷口医院では2000年代には(上述のコラムでも述べたように)SSRIをそれなりにたくさん処方していましたが、その後年々処方量を減らしています。患者さんからの要望も変化してきており、今では「他院で処方された抗うつ薬を減らしたい」という訴えが「抗うつ薬を処方してほしい」というリクエストをしのぐほどになっています。
最後に「飲酒が認知症のリスクを下げる」という衝撃的な研究を紹介しましょう。韓国の研究で、論文は医学誌「JAMA」2023年2月6日に発表された「韓国の全国コホートにおけるアルコール消費量と認知症リスクの変化(Changes in Alcohol Consumption and Risk of Dementia in a Nationwide Cohort in South Korea)」です。
研究の対象者は韓国在住の3,933,382人(平均年齢55.0歳、男性51.8%)で、飲酒量により4つのグループに分類されています。「まったく飲まない群」「少量(1日15グラム未満)飲酒する群」「中等量(1日15~29.9グラム)飲酒する群」「多量(1日30グラム以上)飲酒する群」の4つです。平均6.3年の追跡期間中に100,282人が認知症を発症しました。結果、「まったく飲まない群」に比べ、「少量飲酒する群」では21%、「中等量飲酒する群」では17%、認知症の発症リスクが低下していました。他方、「多量飲酒する群」ではリスクが8%上昇していました。
飲酒者には嬉しい研究と捉えられますが、さらに喜ばしい分析結果も出ています。多量飲酒する人が中等量に減らした場合、減らさなかった人に比べて認知症発症リスクが8%低下するという結果が出たのです。
ただし、少量、中等量、多量のアルコール量にはじゅうぶん注意が必要です。アルコールのグラム数は「摂取量(mL) × アルコール濃度(%)× 0.8」で算出します。例えば5%のビール500mLなら、500 x 5%(=0.05) x 0.8 = 20グラムとなります。この研究の「少量」がいかに少ない量かが分かるでしょう。
もうひとつ、注意が必要です。韓国人と日本人の「飲みっぷりの差」です。韓国の繁華街に行ったことのある人なら、韓国人がいかに大量に飲酒するかに驚いた経験があるのではないでしょうか。なにしろ、20歳前後の若い女性のグループがチャミスルの空瓶を大量に並べているシーンが日常的にあります。つまり、韓国人のアルコール分解能力は日本人を大きく凌ぐと考えるべきです。その韓国人が多くない飲酒量(1日30グラム未満)なら認知症のリスクが下がるというのがこの研究の結論です。同じことが日本人にあてはまるとは考えない方がいいかもしれません。
すべての日本人が直ちに完全禁酒する必要はないと思いますが、ほとんどの飲酒者は飲酒量を考え直すべきだとは言えるでしょう。前回のコラム「我々は飲酒を完全にやめるべきなのか」で述べたように、当院では最近ますますセリンクロの愛用者が増えています。
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|2024年2月12日 月曜日
第246回(2024年2月) 我々は飲酒を完全にやめるべきなのか
少し前まで「健康に良い」とされていたものが、ある日突然”悪者”になることがあります。典型的なのは薬やワクチンで、突然副作用がクローズアップされて使われなくなることがあります。コロナワクチンは依然公衆衛生学的には優れたものですが、個人レベルでみたときには取返しのつかない副作用が起こることがあり、それが知れ渡ると一気に”人気”がなくなりました。
現在、アルコール飲料(以下、単に「アルコール」)が悪者に成り下がろうとしています。言葉の起源はよく分からず誰が言い出したのかはっきりしませんが、つい最近まで「酒は百薬の長」という言葉すら使われていました(今も未練がましく言う人がいます)。しかし、今の時代にこんなことを言えば「時代に取り残された人」というレッテルを貼られかねません。
アルコールが優れているとする科学的なデータがある(あった)のは事実です。日本の研究で有名なのは2005年に医学誌「British Journal of Cancer」に発表された「がんになるリスクに対する飲酒の影響:日本における大規模集団研究のデータから(Impact of alcohol drinking on total cancer risk: data from a large-scale population-based cohort study in Japan)」です。結論は「男性では『時々飲む人』(occasional drinkers)のがんの発生率が最も低い」です。「時々飲む人」ががんになるリスクを1.00とすればまったく飲まない人のリスクは1.10。つまり、「まったく飲まない人はときどき飲む人に比べて発がんリスクが1割高い」のです。ビール酒造組合も参考文献としてこの論文を挙げています。
酒好きでかつインテリの人はよくこういう研究を話題にするわけですが、実はこの論文、よく読めばさほどアルコールを絶賛していないことがわかります。まず、女性には飲酒でがんのリスクが下がるとは一切書かれていません。また「時々飲む」の定義は「毎日少量飲む」でも「休肝日をつくる」でもなく「定期的に飲まず宴会などで機会があれば少量飲む」という意味です。改めてよく読んでみると「時々飲む」人のがんのリスクを1.00とすれば、週に350mLの缶ビールを1~10本飲む人(つまり1日1~2本飲む人)のリスクは1.18と18%上昇しているのです。論文の「時々飲む」がどれだけ少量かを認識しなければなりません。
現在世界的には「飲酒は一切しないのが理想」という考えがすでに主流となっています。そのような研究は2010年代に入ってから相次いでいたのですが、大きく舵が切られたのは2023年1月4日、世界保健機関(WHO)が発表した「我々の健康に安全なレベルのアルコール消費はない(No level of alcohol consumption is safe for our health)」という声明です。WHOがはっきりと「アルコールはわずかでも健康を害する」と主張したのです。
このWHOの声明をいち早く取り入れて国の方針にしたのがカナダです。カナダは国のガイドラインにこの考えを取り込み、アルコールの有害性を国民に強調しました。大麻が完全合法のカナダが「アルコールはわずかでも危険だ」と発表していることは興味深いと言えるでしょう。
「酒は百薬の長」などという言葉が、いかに時代錯誤かが分かるでしょう。我々は世界の見解を謙虚に受け止め、アルコールはわずかでも有害であることを認めなければなりません。
では、アルコールが有害であることを認めるとして、長所はまったくないのでしょうか。そんなことはありません。リラックス効果があるのは間違いありませんし(ただし個人差が大きい)、アルコールのおかげで人間関係が構築できた、あるいは関係性がより強固になった、ということはいくらでもあるわけです。ということは、「有害性を自覚しながら各自が飲酒量をコントロールしていく」ことが重要となります。
アルコールについて考えたとき「生涯飲酒をしない」と選択する人もこれからはどんどん増えるでしょう。特にまだ酒を口にしたことがない未成年の人たちのいくらかは生涯飲酒をすることはないのではないか、と私は予想しています。「送別会などどうしても参加しなければならない席で乾杯だけ付き合う」という選択肢も出てくるでしょう。
他方、「飲酒をやめたいけれどやめられない」あるいは「減らしたいけれど飲み始めると理性が効かなくなる」という人はどうすればいいのでしょうか。その場合「断酒」または「節酒」を考えることになります。
アルコール依存症の診断がついている人には以前は「断酒しか選択肢がない」と言われていました。実際、長期間やめていても1滴のアルコールが引き金となり再び依存症に……、というケースは実によくあります。ですから「依存症には断酒しかない」とされ、今でもその考えは根強くあります。
しかし、その一方で依存症には断酒が最適だとしても断酒に踏み切れない人や、あるいは依存症とまでは呼べないけれどもう少し飲酒量を減らすべき人には「節酒」が推薦されるようになってきました。この理由はいくつかありますが「断酒しなくても、一定の割合の人は上手に節酒できるから」もそのひとつです。実は、これはあまり指摘されませんが、私が診てきた患者さんでも、アルコールのみならず、大麻はもちろん、覚醒剤でさえも上手に付き合っている人がいます。ただし(特に覚醒剤については)そのようなことを言うと「自分もそっち側だ」と都合よく解釈する人がほとんどですから「やめたくてもやめられなくなり人生が崩壊していくリスク」を私自身も強調するようにしています。実際、私の経験でいえば(少なくとも覚醒剤については)そのように崩壊していく人の方がずっと多いのです。
アルコールに話を戻しましょう。最近、「断酒は古い。これからは節酒だ」と言われるようになった理由のひとつは、セリンクロ(一般名「ナルメフェン」)という薬が登場したことです。この薬は従来の抗酒薬と呼ばれるノックビン(ジスルフィラム)、シアナマイド(シアナミド)、あるいはレグテクト(アカンプロサート)のように「断酒」が内服の条件ではなく、飲酒することを前提としています。通常、飲酒する1~2時間前に1錠(または2錠)飲みます。すると、アルコールによる快楽が減少し、結果として飲み過ぎを防いでくれるのです。
ということは、「飲酒量を減らしたい。だから家では飲まないようにしている。だけど、飲みにいくとついつい場の雰囲気に負けて飲んでしまうんだよなぁ。つがれた酒はあけなければならないと教えてくれたのは誰だっけ……」などという人には最適な薬です。なにしろ、飲酒しない日には飲む必要がなく、友人知人と飲酒をする日にのみ飲み会が始まる少し前に飲んでおけば効果が期待できるのですから。
ところで、依存症はどの医師が診るのかというと、一応は精神科医ということになっています。しかし、当院では2007年の開院以来大勢の依存症の患者さんをいろんな精神科に紹介してきましたが、たいていは結局診てもらえずに帰されています。精神科を受診してもらっても門前払いされているケースが大半なのです。特に覚醒剤依存症についてはほとんど診てもらえた試しがありません。摂食障害ですらも(摂食障害も広義には依存症だと私は考えています)精神科クリニックから断られることがしばしばあります。
そういう事情もあって、覚醒剤のみならず、咳止め/風邪薬、ベンゾジアゼピン(これはそもそも精神科で処方された薬が原因です)、大麻なども結局当院で診ることになるケースが以前からあり、次第に増えてきているのです。
アルコールについては「節酒」を選択した場合、超音波検査で肝臓の状態をチェックし、血液検査の値や各種がんのリスクも考えながら、セリンクロを生活のなかに上手に取り入れてもらっています。
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|2024年1月21日 日曜日
第245回(2024年1月) 「間食の誘惑」をどうやって断ち切るか
谷口医院では開院した2007年から継続して「メール相談」を承っていて、毎日数通から20通くらいの相談メールがコンスタントに届きます。新型コロナウイルス(以下「コロナ」)が流行し始めた2020年からは9割くらいがコロナの相談(後遺症、ワクチンの相談、ワクチン後遺症の相談も含む)で、多い日には同じような質問が100通以上も寄せられました。そういう経緯もあって無料メルマガを発行することにしました。メルマガでQ&Aを読んでもらえば大勢の人の参考になるに違いないと考えたのです。
ただ、メルマガを始めても質問の件数自体は減らず、むしろ遠方の人からの相談や質問が増えました。コロナが急速に終焉した(実際は終焉していませんがどんどん軽症化してきているのは事実です)現在、メール相談もコロナに関するものは激減しています。一方で、コロナ以外の質問が増え、昨年(2023年)の後半に寄せられた相談メールで最も多かったのが「GLP-1受容体作動薬」(以下、単に「GLP-1」)です。
GLP-1は本来糖尿病の薬ですが、相談メールを寄せる人たちの大半は糖尿病があるわけではなく「やせたい」と考える人たちです。そこで、今回はこれまでもこの連載で繰り返し紹介しているGLP-1について再度取り上げ、また薬以外の「やせる方法」についてまとめてみたいと思います。
まずGLP-1の現時点での「立ち位置」をみてみましょう。保険診療で処方できることになった「ウゴービ」(英語では「Wegovy」、一般名は「セマグルチド」、糖尿病で使う「オゼンピック」「リベルサス」と成分は同じ)はかなり期待されて登場したわけですが、それほど普及しないと私はみています。
その理由は2つあります。1つは処方できる医療機関が極めて限定されることです。管理栄養士を置かねばならない、常勤医師に日本糖尿病学会の専門医の資格が必要、などいくつかの条件が求められますからこれらの条件をすべてクリアできるところはそう多くありません。そしてもう1つの理由が「処方期間が最大68週(約1年4ヶ月)」と限定されていることです。GLP-1を使用して体重が減るのは、当然のことながら薬が効いているからです。そして、やはり当然のことながら薬を中止すれば痩せる効果がなくなります。
実際、谷口医院の患者さんで美容外科クリニックなどでGLP-1を購入していたダイエターの人たちは中止後に軒並みリバウンドしています。結局、費用を工面しながらGLP-1を続けるか、ダイエットを諦めるかのどちらかになり「GLP-1を中止したけど理想の体重を維持している」という人は残念ながらほとんどいません。つまり、GLP-1ダイエットでやせるのは(ほぼ)間違いありませんが、「薬を中止すれば元の木阿弥」となるのもまた事実なのです。
ではどうすればいいか。まず糖尿病がある人はGLP-1を保険診療で半永久的に処方してもらうのがいいでしょう。これは私見でもありますが、糖尿病のGLP-1処方の”敷居”は下げてもいいのではないかと考えています。といっても薬には容易に頼るべきではありませんから、当院では現在もGLP-1を含む糖尿病の薬をそれほど簡単には処方していません。
ですが、数年前に比べるとその敷居を低くしたのも事実です。当院が開院した2000年代にはまだ糖尿病のいい薬がなく、メトホルミンの処方は最大750mgまでしか認められていませんでした(現在は2,250mgまで可能)。それ以外にも糖尿病の薬は何種類かありましたが、副作用で「空腹感を自覚する」ことが多くて使いにくかったのです。2010年代の半ばから、まずDPP4阻害薬、次いでSGLT-2阻害薬を少しずつ処方し始めました。これらは内服しても空腹感を覚えず、また(いい意味で)当初の予想に反して副作用はほとんど起こらず、SGLT-2阻害薬はやせる効果があることもはっきりしてきました。
当院ではGLP-1の敷居はしばらく高くしていましたが、日本のガイドラインの改訂時に評価が上がったこともあり、昨年(2023年)の後半からは比較的早期に処方するようにしています。特に、体重を落とさなければならない人にはうってつけの薬なのは間違いありません。
メトホルミン(ビグアナイド)、SGLT-2阻害薬、GLP-1はいずれも、副作用が少なく、低血糖を起こしにくい(つまり空腹を感じにくい)優れた薬だと言えます。そして、いずれも痩身効果(やせる効果)があります。これら3種のなかで圧倒的に痩身効果が高いのはGLP-1です。その最大の理由は「食欲抑制効果が高いから」です。
GLP-1の食欲抑制効果には個人差がありますが、効きすぎる人は「食への楽しみがなくなって生きることが面白くなくなった」と言う人もいます。ここまで抑制されるのは問題ですが、当院の経験でいえば、このようなことを言う人はもともと肥満などないのに美容クリニックなどでGLP-1を購入していた人(ほとんどが女性)です。
さて、これら薬剤を使用する以外のやせる方法、そしてそもそも糖尿病がなくこのような薬が使えない人がやせるにはどうすればいいのでしょうか。それを述べる前に、以前にも紹介した「絶対にやってはいけないダイエット」を確認しておきましょう。それは2021年のコラム「やってはいけないダイエットとお勧めの食事療法」でも述べた「急激なダイエット」です。方法にかかわらず短期間に体重を落とすことは絶対にしてはいけません。「余計に太りやすい体質」になってしまうからです。そのコラムで紹介しましたからここでは繰り返しませんが「Biggest Loser」にまつわる話を聞けば誰もが納得できるはずです。
糖尿病があろうがなかろうが、太っていようがやせていようが、健康を維持したいのであれば「運動」は絶対不可欠です。しかし、運動をしてもやせないことはアフリカの未開民族ハドザ族を例にとってそのコラムですでに紹介しました。
となると「食事を制す」がどうしても必要になってきます。過去に何度か取り上げた「糖質制限」は効果があるのは間違いありませんが、その方法には様々な意見があります。また、日本糖尿病学会は今も手放しで糖質制限を支持しているわけではなく、2013年のコラム「糖質制限食の行方 その2」で取り上げた状況からほとんど変わっていません。
では「食事療法」の話をしましょう。本サイトですでに紹介したように、すぐにでも実践できる簡単な方法は「食事前に水(または牛乳や豆乳)を飲む」で、実際これだけでも減量できる人は少なくありません。また「パンを食べない」もかなり効果があります。世の中には「パン好き」が少なくなく、パンを米に替えることに抵抗がある人も多いのですが、ここはなんとか頑張ってほしいところです。尚、多くの人が誤解していることに「(発芽)玄米や五穀米にしなければ意味がない。白米ならパンと変わらない」があります。たしかに、白米よりも玄米などにする方が体重抑制効果はあるでしょうが、パンと白米でもまったく違います。パンは単にコムギでできているわけではなく、大量の砂糖と脂肪が使われています。実際、朝食をパンから白米に替えるだけで大きく体重が減る人は珍しくありません。
「パンを白米に替える」に比べるとハードルは上がりますが、「1日1食にする」はかなり効果があります。「16時間ダイエット(あるいはオートファジーダイエット)」でも効果が出る人がいますが、やはり「1日1食ダイエット」の方が減量効果が大きいのは間違いありません(参考「医療ニュース2023年12月14日時間制限ダイエットよりも1日1食ダイエットが有効」)。ただし、この方法はすでに糖尿病があったり、他の疾患を抱えていたりすれば危険が伴います。必ずかかりつけ医の許可をもらってください。
1日1食ダイエットを実施するときの最大の”敵”、そして、多くのダイエターにとっても最も強敵となるのが「間食の誘惑」です。「元々間食をしない」という人には理解しがたいでしょうが(そもそもそういう人は太っていません)、間食を完全にやめるのは思いの他困難です。大勢の患者さんを診てきた当院の経験でいえば、タバコをやめるよりもはるかに難しいと言えます。つまり、間食(お菓子、スイーツ、ファストフードなど)がやめられない人は立派な依存症だと考えられるのです。
タバコに限らず、アルコールでも大麻でもベンゾジアゼピンでも痛み止めでも、いったん依存症になってしまえばそこから脱却するのは極めて困難です。しかもタバコや大麻と異なり、お菓子は簡単に入手できてしまいますし、職場ではお土産などでもらいますから止めようとする意思が簡単に崩れ去ってしまいます。ではどうすればいいか。決定的な切り札はないのですが、当院では次のような助言をしています。
#1 GLP-1を使う(これは効果がありますが、糖尿病がなければ保険診療で処方できません)
#2 間食はナッツ類のみにする(高脂肪ですが低糖質のためさほど太りません)
#3 低糖質のお菓子を用意する(最近はクッキーなど甘いものだけでなくチップスタイプもあります)
#4 お土産でもらうお菓子は他人にあげる
#5 スポーツドリンクを避け、カフェでは甘いドリンクを注文しない
#6 できるだけ我慢する
#6の「できるだけ我慢する」は個人差が大きく、当院の経験でいえば努力してもあまり変わりません。この理由を示唆するのが有名な「マシュマロ実験」です。「机に置かれた1つのマシュマロを15分我慢できればもう1つもらえる」という実験で、これがクリアできる幼児は成人したときに社会的な成功をおさめている、とするものです。この実験から「自制心がIQなどより大切」とされてきましたが、その後の再現を試みた実験の結果などから現在では「我慢できるかどうかは遺伝または家庭環境で決まる」と考えられています。ということは、成人してからは「我慢できる能力を努力で向上させることは極めて困難」と言えそうです。
当院はハードな依存症、例えば覚醒剤やコデイン(咳止め)などの依存症も診ていますし(これらは精神科で断られることが多いのです)、アルコール、タバコ(ニコチン)などの分かりやすい依存症、さらに買い物依存、摂食障害、性依存症などの人たちも診ています。最近は「承認欲求依存症」の人たち(不安症やうつ病につながります)も少なくありません。大勢の依存症の人たちを診ていると「誰もがなんらかの依存症を持っている=人が人である限り依存症から逃れられない」と思えてきます。
間食をやめるには栄養学的・内分泌学的な視点よりもむしろ「人間の本質」から考えていくべきなのかもしれません。
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|2023年12月18日 月曜日
第244回(2023年12月) なぜ「骨」への関心は低いのか
それは私がまだ医学部の学生だった頃の話。臨床実習で整形外科の外来の見学をしていたとき、整形外科医が患者さんの腰のレントゲン写真をみながら「骨折していますね」と説明しているのを聞いて、驚きました。
骨折というのは、例えば交通事故やスポーツなどで何らかの強烈な物理的な力が骨に加わって折れる、というイメージしか当時の私にはなくて「いつの間にか骨折している」なんてことがあるのか、と不思議に思ったのです。
その後、この背骨(腰椎)がいつの間にかつぶれたように骨折している「腰椎圧迫骨折」がものすごい頻度で起こっていることを知りました。日本人の有病率の正確な数字は知りませんが、80代以上だと3割くらいは圧迫骨折があると思います。実際、腰が曲がっている老人はたいていレントゲンを撮影すれば圧迫骨折が見つかります。
その後私は総合診療医となり、多くの腰椎圧迫骨折を診るようになりました。まだ40代の圧迫骨折は診たことがありませんが、50代なら経験があります。そういえば、元アイドルの松本伊代さんは2021年、2022年と2回も腰椎圧迫骨折を起こしたことが報道されました。松本伊代さんは1965年生まれですから50代で2回も骨折したことになります。しかし、それにしても不思議です。松本伊代さんだけでなくやせていれば腰椎圧迫骨折のリスクがあるのは自明なのになぜ対策が取られていなかったのでしょうか。
もうひとつ、私にとって”不可解な”骨折があります。大腿骨頸部骨折と呼ばれる、股の付け根の骨折です。こちらは腰椎圧迫骨折と異なり「いつの間にか」ではありません。骨折すれば激痛が走り、歩けなくなりますから救急搬送されるのが一般的です。たいていは転んだり、しりもちをついたりしたときの衝撃で起こり、原因というかきっかけがはっきりしています。
では私にとって何が不可解なのか。その後の展開が悲惨だからです。悲惨とまで言えば患者さんには失礼でしょうが、その後寝たきりになる事例がものすごく多いのです。手術がうまくいったとしても日常生活には何らかの制限が課せられます。寝たきりになれば、認知症のリスクが急上昇します。実際このような高齢者は珍しくなく、私は研修医の頃にアルバイトで勤務していた高齢者の病院で不思議に思っていました。なぜ、転倒→大腿骨頸部骨折→寝たきり→認知症→幸せとはいえない末期、のパターンがこんなにも多いのか。
どちらも決して稀ではなくどこにでもある腰椎圧迫骨折と大腿骨頸部骨折の共通点、それは「どちらも多くの人がリスクがあるのが分かっていながらじゅうぶんな対策をとっていない」ことです。
年をとれば骨折するのは仕方がない、という意見があるかもしれません。しかし、骨折だけが無関心なのは不思議です。なぜなら、他の年齢とともに生じやすくなる疾患、例えば、がん、高血圧や糖尿病などの生活習慣病、認知症などは、多くの人たちが関心をもち、人によっては検査や予防に大金をつぎこんでいるからです。そして、多くの医師が危険性を主張し定期的な健康診断や早い受診を促します。
がんのリスクが簡単に分かると宣伝された線虫の尿検査(N-NOSE)は効果が疑わしい(というよりほとんど否定されている)のにも関わらず、谷口医院にはたくさんの問合せが寄せられます。がんに効くと謳われているいかがわしい健康商品の相談もよく聞きます。「認知症だけにはなりたくない」と必死で訴える患者さんもいます。しかし、これらに比べると骨に関心のある人はそう多くありません。
健康で長生きしたければ骨を丈夫に保つのは必須条件です。診察室でこういう話をすると「カルシウムを(ビタミンDを)摂っています」と言われることがしばしばあります。そして、「前のクリニックではビタミンDを処方されていました」と言われる人も少なくありません。しかし、こんなものは骨折の予防にはなりません。
もっとも、以前はたしかにカルシウムやビタミンDが骨折予防に有効とされていましたから患者さんがそう考えるのは無理もありません。ですが、少なくとも10年くらい前からはこれらの有用性が否定されていました。谷口医院の医療ニュース(2017年10月23日「骨折予防にビタミンDやカルシウムは無効」)でも紹介したことがあります。
こういう調査結果は繰り返し発表されていて、最近のエビデンスレベルの高い論文としては「The New England Journal of Medicine」2022年7月28日号に掲載された「中高年におけるビタミンDの補給と偶発的な骨折(Supplemental Vitamin D and Incident Fractures in Midlife and Older Adults)」があります。この研究は非常に分かりやすいのでここに紹介しておきましょう。
対象者は米国人の50歳以上の男性及び55歳以上の女性、合計25,871人(女性が50.6%)で、中央値5.3年の調査期間中に1,551人が合計1,991回骨折しています。ビタミンDを摂取したグループとしていないグループで比較すると、次のような結果が得られました。
・ビタミンD摂取グループ:12,927人中769人が骨折
・ビタミンDを摂取しないグループ:12,944人中782人が骨折
この数字をみればもはや説明はいらないでしょう。では骨折を防ぐにはどうすればいいのでしょうか。まず誰もがすぐにすべきなのは「骨塩量を計測する」です。たいていの内科または整形外科系のクリニックであれば簡単に調べることができます。谷口医院でも50歳以上の男女(特に女性)の場合は積極的に検討しています。ただ、骨粗しょう症を臨床的に疑ったときにしか保険適用されないので、男性の場合は特に60歳未満では保険適用にはなりにくいという問題はあります(その場合は自費になります)。まだ、50代前半なのに驚くほど骨が少ない人がいます。特に(松本伊代さんのように)やせている女性は要注意です。
それから、骨が脆くなるのは加齢や女性ホルモンの低下だけではありません。見逃してはいけないのが「薬剤性」です。ステロイド、抗リウマチ薬、タモキシフェン(乳がんの薬)などが有名ですが、頻度はそう多くないものの胃薬プロトンポンプ阻害薬(PPI)やSSRIと呼ばれる抗うつ薬、甲状腺ホルモン(チラーヂン)などが原因になることもあります。最近、問題になっているのはHIVの曝露前予防(PrEP)として使われる抗HIV薬です。HIVのPrEPは若い人が飲んでいるケースも目立ち、長期的にはそれなりに高いリスクがあると考えるべきです。
骨粗しょう症が見逃されていることを示すショッキングな日本の報告を紹介しておきます。「日本人の骨粗しょう症性の骨折による死亡者数は人口動態統計として公表されている数値の約19倍にも上る」というのです。医学誌「Journal of Orthopaedic Science」2023年11月18日号に掲載された論文「日本における骨粗しょう症性骨折による死亡者数:疫学調査(Deaths caused by osteoporotic fractures in Japan: An epidemiological study)」によると、2018年の人口動態統計上の骨粗しょうによる死亡者数は190例ですが、死亡診断書(死体検案書)のデータを解析すると3,437例が骨粗しょう症が原因だと判明したのです。
では骨を丈夫にするには、そして骨折を予防するにはどうすればいいか。答えは「ビタミンDを摂る」でも「シイタケなどのキノコを摂る」でもありません(ちなみに、松本伊代さんは主治医からこれらを摂るように言われていたとyoutubeで述べています)。
最も重要なのは「運動」です。それも単なるウォーキングのような軽度のものでなく負荷をかけたワークアウト(筋トレ)が重要になります。筋肉をしっかりつければ骨も丈夫になります。とにかくやせたい、と考える人が多いですが、体重があれば、それが筋肉でなく脂肪であったとしても骨は頑丈になります。とはいえ、身体全体を考えると脂肪はほどほどにして筋肉を増やさなければなりません。
骨折/骨粗鬆症の予防/治療には有効な薬もあります。もちろんカルシウムでもビタミンDでもありません。最近は効果の高い注射薬も出ていますが、より一般的なのは(そして谷口医院でもよく処方するのは)次の3種の内服薬です。
#1 女性ホルモン製剤(エストロゲン)
#2 SERM(選択的エストロゲン受容体モジュレーター)
#3 ビスフォスフォネート製剤
#1と#2は女性のみが適応となります。閉経後に急激に骨密度が低下するのはエストロゲン(女性ホルモン)が分泌されなくなるからで、当然それを補えばリスクが下がります。谷口医院ではまず#1を検討することが多いのですが、乳がんや子宮体がんなどのエピソードがある人には使えないためにその場合は#2を選択します。ただし、血栓(血の固まり)ができる病気や心筋梗塞、脳梗塞などの血管の病気のエピソードがあれば#1、#2とも使えません。
このように有効な治療があるのですが、残念ながら治療を始める前に骨折してしまう人が少なくありません。まずは骨に関心を持つこと、そして骨密度を測ることが重要です。
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|2023年11月19日 日曜日
第243回(2023年11月) GLP-1受容体作動薬で依存症の治療ができるか
2023年3月に、ダイエット(正確には「肥満症の治療」)目的として保険で処方できることが承認されたのにもかかわらず、長い間「薬価収載」されずに発売が延期になっていた「ウゴービ」(一般名はセマグルチド)が、11月22日についに薬価収載されることが決まりました。正確な発売日は未定ですが、おそらく12月には処方できると思われます。
GLP-1ダイエットについては過去に何度か取り上げ危険性も指摘しましたが、基本的には使用者は増加の一途をたどると私はみています。最大のリスクは自殺念慮と自傷行為で、EMA(European Medicines Agency、欧州医薬品庁)の安全委員会が注意喚起を促しています。実際、谷口医院の患者さんのなかにも自殺や自傷までは進まなくても抑うつ状態になる人はいます。
ただし、それらは重篤なものではなく「食べる楽しみを失って……」とか「パーティに行きたくなくなった。行っても飲み食いする気持ちになれなくて……」という感じで、食欲がなくなることに起因する軽度の抑うつ状態であるため、そういった副作用があることを事前に承知してもらい、なおかつかかりつけ医が見守りながら続けるのであれば、たいていはそう大きな問題ではないと思います。
これまでGLP-1ダイエット(正確には「GLP-1受容体作動薬を用いたダイエット、以下は単に「GLP-1ダイエット」とします)をしている人をみてきた私が不思議に感じることが3つあります(尚、谷口医院ではダイエット目的でGLP-1受容体作動薬を処方したことは一度もありません。ダイエットしている人を診ているのは谷口医院では別のことでかかっているからです)。
#1 まったく、あるいはほとんど効果がない人がいる。おそらく全体の1割程度。
#2 食欲がなくなるだけでなく摂食障害が大きく改善する人がいる
#3 食のみならず、飲酒、さらに買い物やギャンブルなどへの衝動が抑制できるようになる人もいる
#2については、最初の一人から聞いたときは「食欲がなくなるのだからあり得るだろう」と思ったのですが、よく考えてみると摂食障害というのはそんなに簡単に治る疾患ではありません。精神科医でさえも診察を嫌がることが少なくなく紹介しても断られて戻って来ることが多く、そのため、結局谷口医院で診ることになるのです。
そもそも摂食障害というのは「満腹でも食べなければならないという思いが頭を支配する」と表現する人もいるほどで、他人より空腹感が強いから起こるわけでは決してありません。ですから、食欲が低下したからといって摂食障害までが良くなるとは思えないのです。しかし、実際に改善(しかも大きく改善)する人がいます。
さらに#3です。食欲は低下したとしても、アルコールに対する欲求までが減るのはなぜなのでしょう。飲酒はまだ口にするものですから理解できるとしても、買い物やギャンブルへの衝動が低下するのはなぜなのでしょう。
食欲低下、特に嗜好品に対する欲求がどれだけ変化するのかをみてみましょう。ニューヨークに本社を置くモルガン・スタンレーがGLP-1ダイエットを開始した300人を対象とした興味深い調査を実施しました。「Healthier categories see a boost in consumption by patients after starting on AOM(抗肥満薬の開始後、より健康的なカテゴリーの食品の消費が増加)」というタイトルのグラフに注目してみましょう。「健康に悪い」のが自明な飲食物の摂取量が大きく減っているのがわかります。
例えば、GLP-1ダイエットを開始してスイーツ(Confections)の摂取量が減った人が72%。清涼飲料水(Carbonated / sugary drinks)は70%、スナック菓子(salty snacks)は67%、アルコールは66%もの人たちが消費量を減らしています。一方、その逆に野菜や果物の摂取量が増えた人が54%もいます。
「Patients report the most significant changes to fast food and pizza restaurant trips(患者はファストフードやピザレストランへの利用に最も大きな変化があったと報告)」というタイトルのグラフもみてください。77%もの人が「ファストフード店の利用が減った」と回答しています。
モルガン・スタンレーのアナリストPamela Kaufman氏は、「食品、飲料、レストラン業界では、不健康な食品、高脂肪食、甘いもの、塩辛いものに対する需要が低下するだろう」と述べています。同社は、GLP-1ダイエットが流行した結果、炭酸飲料、焼き菓子、塩味のスナックの総消費量は2035年までに最大3%減少するとみています。実際、すでにウォルマートはGLP-1ダイエットをしている人たちの食品購入の減少を実感していると発表しています。
さらに驚く報告を紹介しましょう。医学誌「nature」はGLP-1ダイエットによりアルコール、ニコチン、さらにギャンブルへの欲求が低下する可能性について言及しています。
具体的な論文をみてみましょう。まずはアルコールです。好んで飲酒をすることが知られているアフリカベルベットザルにGLP-1受容体作動薬を投与した研究があります。結果は、プラセボ投与群に比べてGLP-1作動薬を投与したグループのサルは、アルコール消費量が有意に減少していました。ラットを用いた別の研究でもGLP-1受容体作動薬がアルコール消費量を減少させることが分かりました。
日本に比べて米国ではアルコール依存症に苦しむ人が多いのですが、その米国でアルコールよりも遥かに深刻なのが麻薬依存です。そして、なんとGLP-1受容体作動薬は麻薬(オキシコドン)の依存も減らすという研究があります。さらに、コカインへの渇望が減るとする研究もあります。
米国紙「The Atlantic」の記事によると、GLP-1受容体作動薬はアルコール、ニコチン、オピオイドなどの薬物のみならず、買い物、爪を噛む、皮膚をむしるといった依存症、あるいは強迫行動を改善させることができると報告しています。これは私見ですが摂食障害の病態は「依存症+強迫障害」です。この記事が言うように、GLP-1受容体作動薬で依存症と強迫行動が改善するなら、摂食障害の治療に使える可能性があります。
谷口医院では禁煙治療のみならず、(受け入れてくれる精神科の医療機関がないために)覚醒剤(メタンフェタミン)を代表とする薬物依存の患者さんも診ています。そして、治療の困難さを日々実感しています。一時は自助グループやグループセッションに積極的に紹介していたのですが、こういった試みもうまくいった試しがほとんどありません。もしもGLP-1受容体作動薬の投与で改善するのなら、少なくともその可能性があるなら試してみる価値はありそうです。
ただし、肥満も糖尿病もない患者さんに保険診療でGLP-1受容体作動薬を処方することはできませんし、自費診療によるこういった薬の処方も谷口医院ではおこなっていません。覚醒剤依存症の人は例外なく肥満はありません(というより全員がやせています)から、そもそも現時点では処方が不可能です。もしも将来、依存症の治療に使うことができるようになったとしても、全員に効くわけではありません。これは上述の論文でも指摘されていて、効く人と効かない人がいるのです。上記#1で述べたGLP-1受容体作動薬を使ってもやせない人が一定数いることと関係があるのではないかと私は考えています。
しかし、すべての事例に有効なわけではないにせよ、他に有効な治療法のない依存症に対してGLP-1受容体作動薬が効くかもしれないというのは夢のある話です。
参考:はやりの病気
第239回(2023年7月) 「GLP-1ダイエット」は早くも第3世代に突入?!
第228回(2022年8月) GLP-1ダイエットが危険な理由~その2
第223回(2022年3月) GLP-1ダイエットが危険な理由
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|2023年10月15日 日曜日
第242回(2023年10月) 間違いだらけの男女の更年期障害のホルモン治療
副作用のリスクをきちんと認識していなければ取り返しのつかないことになりかねないのが「更年期障害」のホルモン治療です。
谷口医院では(旧・谷口医院の)開院時の2007年から女性の更年期障害のホルモン治療を実施しています。他方、男性の更年期障害については、テストステロンの処方については今もしておらず、希望者には薬局で、もしくは通販で外用薬を購入してもらっています(後述するように注射のリスクは相応にあるからです)。
男女とも更年期障害のホルモン治療は、谷口医院で開始するよりもむしろ、他院での治療を引き継ぐ、あるいは他院で実施していた方法を変えるケースが多いという特徴があります。「引き継ぐ」はともかく、なぜ「方法を変える」必要があるのでしょうか。それは誤った使用をしている人が少なくないからです。
女性の更年期障害のホルモン治療から始めましょう。女性が更年期障害に苦しんでいたとしても、必ずホルモン治療を実施しなければならないわけではありません。実際、谷口医院でも漢方薬のみで治療をしている人もそれなりにいます。
しかし、谷口医院では年々ホルモン治療に移行する、あるいは漢方治療にホルモン剤を加える人が増えてきています。その最大の理由は更年期障害に使えるすぐれたホルモン剤の種類が増えたからですが、他院での処方を変更することも少なくないからです。例を挙げましょう。
前医が間違っていると言うことはこの世界ではご法度なのですが、それでも例外的にそれを患者さんに言わねばならないことがあります。1つ目は、子宮があるのにも関わらず卵胞ホルモン(エストロゲン)のみ投与されていて黄体ホルモン(プロゲステロン)が処方されていないような事例です。女性に卵胞ホルモンのみを投与すれば、子宮内膜が増殖するリスクがあります。増殖するだけならいいかもしれませんが、これは子宮体がんのリスクです。そのリスクを下げるために黄体ホルモンを必ず併用しなければならないのですが、なぜかその説明すら聞いていない人がいるのです。
さらに重要なのは、黄体ホルモンを併用していればそれで完全に安心できるわけではないことです。定期的に経腟超音波検査をして子宮内膜が増殖していないかどうかを確認せねばなりません。ところが、この検査を受けていないどころか、そんな話は聞いたことがない、という人がいるのです。そこで、そういう人たちには、経腟超音波検査のみを谷口医院でおこなって、ホルモン剤はこれまで通り近所の婦人科クリニックでの処方を続けてもらうわけですが、これはおかしい、というか滑稽ですらあります。総合診療科の谷口医院が経腟超音波検査を実施して、婦人科でホルモン剤の処方だけをする、というのはこれが「逆」ならまだ分かるのですが、おかしいのは自明です。そこで結局谷口医院ですべて実施することになるのです。
上記2つに比べると頻度はぐっと減りますが、(過去の子宮筋腫などで)手術で子宮をとっているのにもかかわらず更年期障害のホルモン治療でプロゲステロンが併用されているケースも何例かありました。この場合、プロゲステロンにはまったく意味がありません。そもそもプロゲステロンは子宮体がんを防ぐために服用するわけですから、その子宮がないのであれば不要です。
これと似たような「おかしな治療」がトランス女性(生物学的には男性で性自認は女性)へのホルモン治療で、なぜかプロゲステロンが併用されている事例です。トランス女性の場合、元々子宮はありませんからプロゲステロンにはまったく意味がありません。にもかかわらず双方のホルモンの注射をされているトランス女性がそれなりにいるのです。
ちなみに、谷口医院では積極的なトランス女性へのホルモン治療は実施していませんが、外国人にだけは以前から治療しています。これは英語で対応してくれるトランスジェンダーへのホルモン治療を実施しているクリニックが(複数のメーリングリストも使ってさんざん探しましたが)ないからです。
外国人の場合、母国での治療をそのまま引き継ぐことがほとんどです。興味深いことに、海外ではホルモン剤を注射で投与されていることはほとんどなくて、ほぼ全例が内服薬を使います。内服であれば副作用が生じたときに投与量を調節しやすいので(注射はうってしまえばなかなか排出されない)安全だと言えるのですが、なぜか日本ではほぼ全例が注射なのです。しかし、実際には「注射でなく飲み薬で治療を受けたい」というトランス女性も少なくありません。そこで、少し前から谷口医院では、そういう人には内服でのホルモン治療を開始しています。
エストロゲンを用いた女性(トランス女性を含む)への治療の場合、他に注意しなければならないのは乳がんのリスク(トランス女性もリスクがあります)、血栓症のリスク、肝機能障害などで、これらも定期的なチェックが必要です。
このように書くと、なんだかホルモン治療は面倒くさそうに思えてきますが、実際にはそんなことはありません。必要な検査はすべきですが、得られる恩恵がたくさんあって、かなりの女性が「一生やめたくない」と言います。そして、谷口医院ではそのつもりで治療を続けている淑女の方々も少なくありません。
男性の注意点も述べておきましょう。男性の場合は、「谷口医院で更年期の治療をしている」、というよりは、狭義には「谷口医院で更年期の治療をやめてもらった」ケースが圧倒的多数です。上述したように、前医の悪口を言えないのが我々のルールなのですが、「リスクを知らされていない人たち」があまりにも多いのです。
男性更年期のホルモン治療にはテストステロンの注射か外用薬を使います(海外では内服薬もありますが日本では入手困難です)。注意点はいくつもあるのですがここでは3つを紹介します。
まず、男性のテストステロンの場合、女性とは異なり、いわゆる「ネガティブ・フィードバック」がかかります。つまり、外からテストステロンを投与することにより、内因性(endogenous)のテストステロンが体内でつくられにくくなる可能性があるのです。このジレンマを「諸刃の剣( double-edged sword)」と表現した論文もあります。
例えば、高齢者で、血中テストステロンレベルが常に異常低値を示し、回復の見込みがないようなケースではテストステロン補充療法は有意義な治療です。ですが、40~50代、ときには30代の男性が前医で(じゅうぶんな説明もないまま)注射をうたれ、そして疑問を感じて谷口医院を受診、というケースが目立つのです。「テストステロン補充療法を続けることで、天然のテストステロンが生成されなくなるリスクがありますよ」という説明をすると(ほぼ)全員が「そんなリスクがあるのならやめます」と”即決”します。
また、議論が分かれることもあるのですが、テストステロン補充療法には心疾患や前立腺がんのリスク上昇が指摘されています。多血症もそれなりの頻度で起こります。にもかかわらず(心疾患と多血症のリスクがあるのにもかかわらず)喫煙者がテストステロンを投与(しかも注射で)されていることがあります。これは極めて危険なのですが、きちんと説明を受けていない(あるいは説明はされていても理解されていない)ケースが非常に多いのです。
谷口医院ではテストステロンの補充が必要と思われる患者さんには薬局で外用薬を購入するよう助言しています。そして、副作用のチェックは谷口医院で実施しています。しかし、その前に内因性テストステロンを上昇させる努力をすべきです。そしてこの「努力」を手伝うのが谷口医院の”治療”だと考えています。米国には「Tパーティ」と呼ばれるテストステロン補充療法に頼らずに内因性テストステロンを上げるための集いがあります。このような試みが日本にはないのは残念です。
いかなるときも「薬はいつも最小限」が基本です。女性の更年期障害のホルモン治療は優れた治療法ですし、男性の場合も必要あれば薬を使うべきです。しかし、使用量は最小限とし、安全性にはじゅうぶんな注意が必要なのです。
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|2023年9月21日 木曜日
第241回(2023年9月) 円形脱毛が”治癒”する時代に
総合診療を実践している谷口医院では内科領域のみならず、婦人科、小児科、皮膚科、整形外科、精神科など多彩な症状や疾患を診ています。ひとりの患者さんが多数の疾患を持っていることが多く、さらに各症状につながりがある場合もあるからです。標準的な治療、もしくはガイドラインに沿った治療をすれば完治、あるいは症状が完全に消えなくても大きく抑えられる、という場合ももちろん多いのですが、何をやってもうまくいかない「難治性」の疾患もあります。
そのひとつが「円形脱毛症」です。
もっとも、脱毛自体がどのタイプのものも簡単ではなく一筋縄ではいきません。AGA(男性型脱毛症)の場合、すでに高齢で、デュタステリド/フィナステリドを10年以上使っているが効果が感じられない……、というような場合は効果が期待できる安全な治療はほとんどありません(もっとも、AGAが治さなければならない病気か、という議論があります)。
さて円形脱毛症。あらゆる脱毛のなかで「治療薬がなくもどかしい……」と医師が最も強く感じるのが円形脱毛症です。なぜもどかしく感じるのか。なんとしても治したいのだけれど効いていることを実感できる薬がほとんどないからです。では、我々医師は他の脱毛症(例えばAGA)に比べてなぜ円形脱毛症を治さなければならないと強く考えるのか。「若い女性に多いから」です。
私が大学病院の皮膚科で研修を受けていた頃、難治性の様々な疾患が集まって来るなか、私が最も「なんとかしたい!」と強く感じたのが円形脱毛症です。皮膚がんよりも皮膚に症状のでる白血病よりも他の難治性の皮膚疾患よりも円形脱毛症を治したい、と思ったのです。円形脱毛症が重症化すると、頭皮の半分以上、さらに進行すればほぼ全領域に脱毛が起こります。女子中学生に起こることも珍しくありません。まだアイデンティティが確立しておらず、ルックスを気にするこの年齢で髪のほとんどがなくなることがどれだけ辛いかが想像できるでしょうか。
ではなぜ円形脱毛症はそんなにも治しにくいのでしょうか。それを知るには「なぜ円形脱毛が生じるのか」を考える必要があります。円形脱毛症を一言でいえば「自己免疫疾患」です。本来なら大切な仲間であるはずの毛母細胞を免疫系の細胞(リンパ球)が攻撃してしまうのが円形脱毛症の正体です。リンパ球は外から入ってくる病原体に立ち向かわなければならないのに、よりによって大切な大切な毛母細胞を”敵”と勘違いしているわけです。
自己免疫疾患なのであればステロイドは効きそうです。実際、入院してもらってステロイドを大量に点滴すれば毛は生えてきます。しかし終了すればまたすぐに抜け始めます。では、ステロイドを点滴ではなく毎日内服すればどうか、と考えたくなります。この方法でもそれなりの量を内服すれば髪は生えます。しかしステロイドを長期で飲むわけにはいきません。副作用のリスクが大きすぎるからです。
では、ステロイドの外用薬ならどうでしょう。こちらは副作用のリスクは各段に下がりますが、残念ながら重症例にはほとんど効きません。軽症例になら効きますが、軽症の円形脱毛の場合、何もしなくても自然に治ることが多いため(つまり、リンパ球が毛母細胞を敵と勘違いしていたことに気付いて攻撃をやめるため)、ステロイドで治ったのか、自然に治ったのかの区別がつかないこともあります。
ステロイド以外の薬としては飲み薬のセファランチン、グリチロンなどがありますが、やはり効いているのか自然治癒だったのかが判断できないケースが多々あります。カルプロニウムというグリーンの塗り薬も保険診療で処方できるのですが、これで治った人を私は見たことがありません。この薬はAGA用の市販の外用薬にも入っていることが多いのですが、やはり効果が出たケースを私は一例も知りません。尚、慢性の皮膚疾患に対してときに絶大な効果を発揮する漢方薬も円形脱毛(を含むすべての脱毛症)にはまったく歯が立ちません。初めから使わない方がいいでしょう。
基本的に自己免疫疾患というのは難治性であり、「ステロイドを使うしかないけれどステロイドの副作用で苦しむ」というトレードオフのジレンマがあります。ですが、2000年代初頭から少しずつ普及しはじめた(広義の)生物学的製剤のおかげで、いくつかの疾患は随分と治療しやすくなりました。
突破口を切り拓いたのが関節リウマチに対して登場したレミケード(インフリキシマブ)です。これは間違いなく歴史に残る優れた薬で、この薬の登場とともにリウマチという疾患が変わったと言っても過言ではないでしょう。今やリウマチには10種類近くの注射型の生物学的製剤が使われるようになり、さらにJAK阻害薬と呼ばれる内服型の(広義の)生物学的製剤も登場し、すでにリウマチに対しては5種が処方されています。また、全身性エリトマトーデス、シェーグレン症候群、クローン病、潰瘍性大腸炎、強直性脊椎炎などの自己免疫疾患も生物学的製剤の登場のおかげで随分と治療しやすくなりました。さらに、広義の自己免疫性疾患ともいえるアトピー性皮膚炎や尋常性乾癬といった慢性の皮膚疾患にも生物学的製剤が使用できるようになってきました(参考:はやりの病気第226回「アトピーの歴史は「モイゼルト」で塗り替えられるか」)。
この後の話の展開はもうお分かりでしょう。他の自己免疫疾患に有効な生物学的製剤はやはり自己免疫疾患である円形脱毛症にも効果があるのでは?と期待したくなります。そして、その期待に対する答えは「効果あり」なのです。
リウマチ、アトピー、慢性副鼻腔炎などに使用できる生物学的製剤のデュピクセント(デュピルマブ)は円形脱毛症にも効果があるとする報告が増えています。残念ながら円形脱毛症に対しては保険適用がありませんが、アトピー性皮膚炎と合併している場合には使えることもあります。
すでに円形脱毛症に対して保険適用のある薬も(2023年9月20日時点で)2つあります。ひとつは、アトピー、リウマチ、そして新型コロナウイルスにも使えるJAK阻害薬のオルミエント(バリシチニブ)、もうひとつはリットフーロ(リトレシチニブトシル酸塩)というJAK阻害薬です。
さて、ここまで読まれて何か”違和感”を覚えないでしょうか。私はこれまでアトピーに対し、(JAK阻害薬を含む)生物学的製剤を「安易に使用すべきでない」と言い続けています。値段が高いこと(3割負担で年間50万から100万円くらいします)以外に「強力な免疫抑制がかかるから」がその理由です。生物学的製剤は、ステロイドのように骨密度が低下したり、血糖値が上昇したり、といった副作用は(ほぼ)ありません。ですが、免疫能が大きく低下しますから感染症に対してかなり脆弱になります。生ワクチンがうてないほどに低下するのです(生ワクチンに含まれる弱毒化した病原体にもやられてしまうわけです)。
リウマチが重症化すると動けなくなりますし、IBD(クローン病/潰瘍性大腸炎)の場合は何も食べられなくなり日常生活ができなくなります。そんな状況から抜け出すために免疫抑制のリスクを抱えてでも生物学的製剤を使うという方針は理にかなっています。感染症に気を付けていれば日常生活を営めるのですから。他方、アトピー性皮膚炎や尋常性乾癬の場合、重症例の場合はもちろん使っていいわけですが、そこまで生活が制限されない状態であれば、JAK阻害薬の外用薬であるコレクチム(こちらは内服と異なり副作用は軽度)や、PDE阻害薬であるモイゼルト(こちらは免疫抑制がほぼゼロ)、あるいはタクロリムス外用でじゅうぶんにコントロールできるのです。
他方、円形脱毛症がそれなりに重症化すれば外出することができなくなります。精神状態も悪化していきます。上述した3種の薬には免疫抑制のリスクがあり、新薬ですから長期的な安全性は保証されていません。ですがそういうリスクを抱えてでも使用すべきときがあるのです。
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|2023年9月10日 日曜日
2023年9月 『福田村事件』から見えてくる人間の愚かな性(さが)
2020年初頭から始まった新型コロナウイルス(以下、単に「コロナ」)に関する騒動はほぼ終わったと言っていいと思いますが、「ワクチン論争」はいまだに続いています。
私自身は「ワクチン肯定派」でも「反ワクチン派」でもなく、「ワクチンは『理解してから接種する』ものであり、接種すべきか否かは個々によって異なる。コロナワクチンの場合は安全性が担保されているとは言い難く、うつのはリスク、しかしうたないのもまた(一部の人には)リスクだ」と言い続けています。
ちなみに、この考えをコロナワクチンが登場したばかりの頃に公表した毎日新聞「医療プレミア」のコラムは大炎上しました。内容は、「コロナワクチンは製薬会社から発表されている有効性は高いが、新しいワクチンだから接種するのはリスクとなる。しかし感染すれば(当時はまだ薬がそろっていなかったこともあり)重症化して命を奪われるかもしれないから接種しないのもリスクである」という内容で、編集部に提出した私が考えたタイトルは「コロナワクチン、うってもうたなくても『大きなリスク』」でした。
それを公開するときに編集者が「新型コロナワクチン 打つも打たぬもリスク大きい」としました。ところがこれが大炎上し、その結果「新型コロナ ワクチン接種はよく考えて」というつまらない(と私は思います)タイトルに変更されてしまいました。
最初のタイトル、そして内容は反ワクチン派、ワクチン肯定派双方の”怒り”を買いました。私がコロナワクチンに関するコラムを書くと、たいてはワクチン肯定派・否定派の双方から攻撃されるのですが、このときには、どちらかというと「肯定派」の人たちからの怒りが強く、私の人格を否定するような内容のものも少なくありませんでした。彼(女)らから、私は「反ワク」のレッテルを貼られたのです。しかし、興味深いことに、同じコラムを読んだ反ワクチン派の人たちは、私が肯定派だ、と言って怒りを表すのです。
こんな論争、というかつまらない言いがかりは無視するしかありません。それに、私はこういう誹謗中傷に慣れている、というわけではありませんが、何を書かれてもほとんど負の感情を抱きません。なかには(特に医師には)SNSで罵られたり悪口を書かれたりすると、それで落ち込んで、極端な場合はそれを根に持って訴訟を起こすこともあるそうですが、私自身は「無視すれば済む話なのに……」と思ってしまいます。
もっとも、SNSの誹謗中傷が原因で自殺した若い女性の話や、そのせいでタレントとしての仕事を失った人の話も聞いていますから、何を書きこんでもいいわけではないということは理解しているつもりです。しかし、私自身は「書きたければ書けば?」と思ってしまいます。きっと、私は(いい意味で)鈍感なのでしょう。ちなみに、私は面と向かって罵詈雑言を吐かれたとしてもあまり苦痛ではありません。まあ、実際にはそんな経験はほとんどないわけですが。
話をコロナワクチンに戻しましょう。ワクチンは個々の状況を考えて決めるべきです。つまり、ワクチンが必要な人もいれば、うたない方がいい人もいるわけです。質問や相談があれば個別に考えて助言するのが医師の仕事であり、谷口医院の患者さんにはそうし続けています。一律に「ワクチン賛成」とか「反対」といった意見を述べることがおかしいのです。
しかも、奇妙なことに、反ワクチンの人(医師も含めて)たちは、決まって「反マスク」と「イベルメクチン信奉」をセットにします。一人くらいは「ワクチンをうたない代わりにマスクで予防しよう」とか「ワクチンをうって、なおかつ感染すればイベルメクチンで対処しよう」と言う医師がいてもおかしくないと思うのですが、そういう医師は(一般市民も)みたことがありません。
なお、マスクについては近くにハイリスク者がいなければ不要ですが、必要な時と場合もあります。それは常識的にもそうだと思うのですが、「反マスク」を強く主張する医師はそうではないという主張を譲りません。ちなみに、最近「英国王立学会」が、マスクが有効であることを示す報告をしています。
なぜ、「反ワクチン+反マスク+イベルメクチン信奉」がセットになるのでしょう。その答えはきっと「人間とは集団闘争が好きな生き物だから」ではないかと私は考えています。つまり、自分の考え(「イデオロギー」と呼んでいいでしょう)に共感する仲間を求め、そして反対する連中を攻撃したいと考える生き物だと思うのです。実は、似たようなことを過去のコラムにも書いています。このコラムでは「リベラル」と「保守」はステレオタイプ化してしまっていて、リベラルなら「自衛隊海外派遣反対」と「福祉充実」がセットになってしまう、などの事例について述べました。
最近、森達也監督の『福田村事件』を観て、やはりそうだろうと確信するようになりました。
『福田村事件』は実際にあった事件を元につくられた映画です。1923年、香川県三豊郡の被差別部落出身の薬売りの集団が、千葉県福田村で朝鮮人と間違われて集団虐殺された事件です。
何年か前にこの事件について初めて聞いたときにまず私が感じたのは「(日本人を殺すのはダメで)朝鮮人なら殺してもいいのか」です。
森監督は私の期待に応え、その部分を浮き彫りにしてくれていました。永山瑛太扮する薬売りのリーダーが……、と書きかけたところで気付きました。このように映画のストーリーを話すことを「ネタバレ」と言うことに。ただ、この映画はミステリーやサスペンスではなく実話に基づいた社会的な映画なので許されるでしょう(許せない人はこれ以上読まないでください)。
話を戻すと、薬売りたちが「朝鮮人ではないか」という疑いをかけられ福田村の村民に囲まれ襲われそうになった状況のなか、一部の良識ある村民のおかげで「(朝鮮人ではなく)日本人ではないか」という空気が流れ始めました。つまり誤解が解けて助かるかもしれない雰囲気になったのです。しかしその直後、薬売りのリーダーは「朝鮮人なら殺してもいいのか!」と大声で何度も訴え村民の周りを歩き始めます。ここで、意外な女性にいきなり殺され、ここから見境のない残酷な殺戮シーンが始まります。
この映画では「差別」が幾層にも絡んでいます。三豊郡(現・三豊市でしょうか)が被差別部落という設定(実話ですから実際もそうだったのでしょう)で、作品中には何度も「エタ」という言葉が飛び交い、彼(女)らが一斉に水平社宣言を暗唱するシーンもあります。
また、別のシーンでは東京在住の社会運動家が警察官に斬首され、朝鮮人の女性が(おそらく)自警団に新聞記者の目の前で殺される場面もあります。さらに、韓国(当時の朝鮮)の京畿道で日本人が29人の朝鮮人を殺戮した提岩里教会事件に関与した元教師が(たぶん)主人公です。
日本人vs朝鮮人、資本主義者vs社会主義者、一般市民vs被差別部落民、といった差別の構図を抉り出し、人間とは敵と味方をつくらずにはいられない愚かな存在だ、ということを森監督は訴えたかったのではないでしょうか。
反ワクチン主義者(あるいはワクチン絶対主義者)がこの映画を観れば私が言いたいことに気付いてくれるでしょうか。
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|2023年8月20日 日曜日
第240回(2023年8月) 「自然光」と「公園」が”抗うつ薬”になる
旧・谷口医院(太融寺町谷口医院)では2021年1月より、何の予告も挨拶もなく突然入居した階上キックボクシングジムの振動に苦しめられてきました。突然の振動に小さな悲鳴を上げ、身体を震わせる患者さんを前にし、我々医療者はいつ針刺し事故を起こしてもおかしくない環境を強いられ、私自身が精神的に次第に病んでいきました。裁判自体は「振動」の測定データのある谷口医院が有利でしたが、「もうこれ以上事故を起こすリスクを背負えない」と判断し、また、さんざん探した移転先が見つからなかったためにやむを得ず「閉院」を決めそれを公表しました。
ところが予想をはるかに超えた「閉院は困る」という声が届き、最終的には谷口医院に長年通院されている不動産会社の社長から現在の物件を紹介してもらい移転できることになった、という話は随所でしました。
2年7か月ぶりに「振動のない部屋」で仕事をするのは思いのほか快適です。旧・谷口医院ではたとえしばらく静かだったとしても突然ハンマーを落とされたような激しい振動を起こされ、壁や天井が揺れるなかで恐怖に耐えねばならなかったわけですからやはりあの環境は異常でした。その異常な環境に2年7ヶ月も苦しめられ、そしてようやく解放されたのですから快適なのは当然です。
それに、苦しくて恐怖感が消えなかったのは振動だけが原因ではありません。ジムの社長は一度会っただけでは顔を覚えられないような地味な風貌をしているのですが、話がまるで噛み合わず、対面時にはTシャツ、短パン、ビーチサンダルという恰好でやって来て「何か文句あんのか?」という態度。何を言ってもヘラヘラしているだけで、コミュニケーションが一切とれないのです。家主が何か対策をとってくれるのかと思いきや、振動で診察が続けられないことを伝えると「家賃を倍にする」と言われ、そんな無茶苦茶な欲求が認められないことを裁判で告げられると、今度は「谷口医院がビルを不法占拠している」と言いだして谷口医院を訴えてきたのです。
このようなキックボクシングジムと家主から患者さんとスタッフを守らねばならないわけで、今から振り返れば「よく神経がもったな」と思わざるを得ません。おそらくあのまま続けていればいずれ私の精神が破綻したでしょう。この2年7ヶ月は間違いなく私のこれまでの人生の最悪期でした。その地獄のような生活から解放されたのですから、現在は天国にいるようなものです。
しかし、8月14日から診察を開始し数日がたったとき、はたしてこんなにも気持ちがいいのはそれだけなのかと、ふと疑問が湧いてきました。なぜなら、「振動」から解放されたことで快適なのであれば、それはどこにいても同じように快適であるはずだからです。
しかし、実際に快適で気分が安定するのは新しい谷口医院に出勤したとき、なのです。自宅よりも職場にいるときに快適なのは、私が「仕事人間」の証ということなのでしょうか。初めはそうかな、と考えていたのですが、そのうちに妙なことに気付きました。出勤の際、遠回りしたくなるのです。帰り道に寄り道をする人は大勢いるでしょう。ですが、朝の慌ただしい時間にわざわざ遠回りして出勤する人がいるでしょうか。
もっとも、私の場合、朝の7時前後に出勤していますからかなり時間の余裕はあります。しかし、それにしても旧・谷口医院に用事もないのに遠回りして出勤したことなどただの一度もありません。
では、なぜ私は新・谷口医院にはわざわざ遠回りして出勤するのか。おそらく公園の横を歩きたい、あるいは公園を横切りたいからです。ただし、私が遠回りしたくなるのは晴れた日だけです。ということは朝の光が心地いいということなのでしょう。
新・谷口医院に到着し診察室に入ると、まず私は窓から外の景色を眺めます。特に特徴のある景色があるわけではなく、クリニックに面した道路の向こう側はマンションですから、他人の部屋の窓が見えるだけできれいな景色ではありません。しかし、窓は南側にありますから、季節にもよるのでしょうが、窓から差し込む光がなんとも言えない平和的な気分にさせてくれるのです。
こうなると「理屈」が欲しくなるのが私のクセです。もともと私は冬に抑うつ感が生じて春に解消されます。自分は「冬季うつ病」ではないかと疑ったこともあり勤務医時代の2005年にコラムを書きました。そこで、自然光が人を幸せにすることを示した研究がないかどうかを調べてみました。最初に見つかったのが「毎日の太陽光はあなたを幸せにするか? 幸福と天気の主観的な尺度(Does Daily Sunshine Make You Happy? Subjective Measures of Well-Being and the Weather)」で、研究規模が比較的大きいですし、タイトルから期待できそうだと考えたのですが、結局「自然光と幸福感の関係ははっきりしない」が結論でした。
もう少し調べると、一流誌「The LANCET」の2002年12月7日号に「脳内セロトニン代謝に対する太陽光と季節の影響(Effect of sunlight and season on serotonin turnover in the brain)」という論文が見つかりました。脳内でセロトニンが生成される速度は、日光にあたる時間に関係していて、明るさが増すと速度が急速に上がるそうです。「セロトニン=幸せホルモン」と単純化することに私は反対の立場ですが、とは言え私が晴れた日の朝に得ている幸せ感は朝の光で脳内に生成されたセロトニンのおかげかもしれません。
もうひとつ興味深い論文が見つかりました。医学誌「Building and Environment」2022年9月号に掲載された「家屋内での露光による幸福: 居住空間における幸福の認知と悲しみに対する自然光の影響(Enlightening wellbeing in the home: The impact of natural light design on perceived happiness and sadness in residential spaces)」です。
この研究が面白いのでちょっと詳しく紹介しましょう。研究に参加したのは750人。様々な部屋のシュミレーション画像を見てもらい幸せ感または寂寥感を評価してもらっています(シュミレーション画像の写真は論文に掲載されていますので是非見てみてください)。その結果、室内に差し込む自然光の量が多いほど、参加者はより強い幸福を感じることが分かったのです。そして、冬よりも夏の方がより強い幸福を感じるようです。窓の大きさも幸福感の因子になっているようで、壁に対する窓の割合が40%のときに最も幸せ感が強いそうです。参加者の年齢・性別も関与するようで、30歳未満の若者と女性はより強い影響を受けます。
偶然にも、私がいつも仕事をしている診察室の窓は壁のだいたい40%を占めています。窓は南向きのため早朝から夕方まで光が入ってきます。ということは、計らずも私は最適の環境を手に入れたということになるのかもしれません。
ところで私が寄り道をして通っている公園には晴れの日以外は行かないとはいえ「緑」という健康によさそうなものがあります。公園の横にあるマンションは家賃が高いと聞いたことがありますが、公園が健康に良いとする科学的なエビデンスはあるのでしょうか。
ありました。医学誌「International Journal of Environmental Research and Public Health」2014年3月号に掲載された論文「近くの緑地訪問と精神的健康: ウィスコンシン州の健康調査からのエビデンス(Exposure to Neighborhood Green Space and Mental Health: Evidence from the Survey of the Health of Wisconsin)」です。この研究によれば、近隣の緑地のレベルが高いほど、うつ病、不安、ストレス症状のレベルが有意に低いことがわかりました。
さらに興味深い研究が見つかりました。医学誌「People and Nature」2019年8月19日号に掲載された論文「都市の緑地を訪れた人は、Twitter上での感情が高まり、否定的な言葉が少なくなる(Visitors to urban greenspace have higher sentiment and lower negativity on Twitter)」です。人々が公園に訪問前、訪問中、訪問後にどのようなツイートをするかが調べられました。結果、公園訪問中のツイートは感情が(いい意味で)高ぶり、その後数時間はその感情が持続したことが分かったのです。
どうやら現在の私が快適な日々を過ごすことができるのは、キックボクシングジムが巻き散らす振動から解放されたことだけでなく、公園が近くにあって自然光が差し込む部屋で仕事ができるという非常に恵まれた環境のおかげのようです。上述したように、我々にこの物件を紹介し「閉院」の危機から救ってくれたのは不動産会社を経営している谷口医院の患者さんです。本当にありがたい話です。
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