マンスリーレポート

2020年11月 米国大統領選挙と新型コロナでみえてくる「勝ち組」の愚かさ

 2020年11月の米国大統領選挙で民主党のバイデン氏が勝利しトランプ氏が失脚したことが報じられました。今回の選挙は私自身としてはどちらが勝ってもおかしくないと思っていましたが、4年前の大統領選ではトランプ氏が勝利するなどとは微塵も思っていませんでした。就任してからでさえ、「誇り高きアメリカ人がこんな人物を大統領と認めるはずがない。近いうちに選挙がやり直しされるだろう」と本気で思い込んでいたほどです。

 しかし、世界中のメディアを見聞きし、実際にラストベルト地域などトランプ氏を支持する地域への取材記事などを読むにつれて「なるほど、そういうことか」と思うようになっていきました。トランプ氏がいくら差別発言をしようが、下品な言動を披露しようが支持者には関係がない。いや、むしろトランプ氏がそういった非理性的な行動をとればとるほど、一部の人達からは熱狂的に支持される理由が次第にわかってきたのです。

 その「理由」とは「リベラルへの反逆」です。つまり、民主党を支持するリベラルの言うきれいごとや偉そうな態度に我慢ならない人たちの「怒り」がトランプ氏支持へとつながっているのだと思うのです。「怒り」というのは反理性的な感情です。ですから、トランプ氏が非理性的・反理性的な言動を示せば示すほど、日ごろ感じているリベラルへの怒りが発散できるというわけです。つまり、トランプ氏は、リベラルを嫌う人たちの「代弁者」となっていたのです。

 ではなぜ彼(女)らはリベラルに対して「怒り」の感情を抱くのか。極端なエピソードを創作するとこんな感じです。

 あるハイスクール。勉強はたしかにできるけど付き合いが悪くて冗談が通じないビル。いいとこ育ちで、ちょっとは美人かもしれないけど愛想のないケイト。そして俺たち。ビルやケイトは有名大学に行き、俺たちは地元の工場勤務。不景気で工場が閉鎖に追い込まれた。他の工場で雇ってもらおうと思っても不法滞在のヒスパニック系がマジョリティになってしまっている。そんななか、ビルは弁護士に、ケイトは会社の社長をしていると聞いた。ビルは「平等が大切だ」とかきれいごとを言って移民に権利を与える運動をしているらしい。ケイトは「黒人を守る」などと言っているが本音は黒人へのマーケットを増やしたいだけなのは見え見え。今度の選挙? ビルやケイトは民主党を支持しているって? じゃあ俺たちは……。

 私の印象でいえば、FOXニュース以外の米国の主要メディアはほぼすべてリベラルで、民主党支持です。大手メディアのスタッフは(ほぼ)全員が高学歴者で、差別反対主義者で、ポリティカルコレクトネス大好き、きれいごと大好きです。つまり「エリート」もしくは「ブルジョア」です。

 こう言ってしまうと、マルクス主義でいうブルジョアジーとプロレタリアートの対立に聞こえるかもしれませんがそうではありません。実際、トランプ氏はプロレタリアートの代弁者でないのは自明です。大金持ちなのですから。むしろ、生まれは貧しかったけれど一所懸命に努力をして成功している人たちや、人種差別の被害に遭いながらも努力を重ね高収入を得ている人たち、つまり自身をプロレタリアートと考えているような人たちが民主党を支持しているのが現在の米国だと思うのです。

 マルクス主義の用語でこれらの対立を説明できないのならどう考えればいいのでしょうか。その答えが「勝ち組」です。つまり、「勝ち組への怒り」がアンチ民主党、そしてトランプ氏支持につながったのではないかというのが私の推論です。

 では、なぜ勝ち組が怒りや反感を買うのか。それは彼(女)らに「謙虚さ」が欠落しているからだ、というのが私の考えです。現代社会というのは努力が美化される社会です。努力して這い上がり栄光を手にすれば他人から賞賛を集めます。ロースクールに入り苦労して弁護士になった、メディカルカレッジに入学して努力を重ね医者になった。彼(女)らは欲しいものを手に入れるために自分の時間を犠牲にし、がんばってきたわけです。

 そういう人たちの中には自分にだけでなく他人にも厳しい人が少なくありません。「成功していないのは努力が足りないからだ」という考えに固執するようになり、自分が勝ち組になったのはあれだけ頑張ったのだから当然だ、とうぬぼれるようになります。

 そして、彼(女)らがその後も自分のアイデンティティを維持するには、自分が成功しているのは「公正で正しい競争社会で勝ち抜き、今も平等な社会で勝負しているのだ」と思いこむ必要があります。だから彼(女)らは「平等」という概念を大切にします。性的指向や性自認に関わらず、有色人種も、外国人も、身体障がい者も、みんなが”平等に”チャンスが与えられている世界で自分は正当な競争を勝ち抜いたんだ、という「幻想」が彼(女)ら”エリート”には必要なのです。

 そして、これは日本にもそのままあてはまります。「勝ち組」の人たちの多くは、たしかに真面目に努力を重ねて成功しているのでしょう。一方、「勝ち組」の人たちのいくらかはきれいごとが好きで、努力を重ねて成功したのは自分ががんばったおかげだと思いこんでいます。

 東日本大震災のときには被災者を支援し、ラグビーで日本が善戦したときには「ワンチーム」という言葉に熱狂し支え合いを美化していた「勝ち組」の人たちも、新型コロナが流行しはじめると「他者を思いやる発言」が減っていないでしょうか。仕事をなくすかもしれないと考え始めると他人のことを考える余裕がなくなるのかもしれません。

 新型コロナの流行で「勝ち組」の立場を脅かされそうになった人たちのいくらかは、また新たな努力を始めるでしょう。会社を経営している人なら、助成金を上手に申請してこの状況を耐え忍び、そして再び成功することでしょう。成功を確認した時点で「苦境のなかでここまでこれたのは自分ががんばったからだ」と再び思うに違いありません。一方、コロナ禍でも雇用やお金の不安を感じることなく働いている人は「これまで一生懸命がんばってきたからだ」と自分自身をねぎらっているのではないでしょうか。

 今から14年前のコラム「医者は「勝ち組」か「負け組」か」で、私は「勝ち組」と言う考え方に疑問を投げかけ、何でもお金に換算する考えを強く批判し、お金が勝ち負けの指標にはならないことを主張しました。また、お金を求めることが馬鹿馬鹿しいことをタイの農民と日本のビジネスマンの逸話を用いて述べたこともあります(「なぜ「幸せ」はこんなにも分かりにくいのか」)。成功の原因として自分の実力が占める割合はほんのわずかであり、「人生を決めるのは99%の運と1%の努力」だということを過去のコラム「『偏差値40からの医学部再受験』は間違いだった」で述べました。

 私は自分自身のことを「勝ち組」とは思っていませんし、また「勝ち組」を目指すつもりもありません。過去のコラムでも述べたように自分自身の役割を演じるだけです。米国の大統領選については他国の人間が口をはさむべきではありませんが、日米問わず、勝ち組の人たちには”勝っている”要因をもう一度考えてもらいたいと思っています。”勝っている”のは自分ががんばったからなのか?ということを。

 最後に旧約聖書から興味深い言葉を引用しましょう(日本聖書協会の和訳を引用しようとしたのですが著作権の関係でできないようなので私が勝手に英文を訳しました。尚、英文にも複数あり、下記に示したのはその一例です。興味のある方はBible Hubのサイトを参照ください)。

私が白日のもとで見てきたのはこういうことだ。すなわち、足の速い者が競争に勝つとは限らない。強い者が闘いに勝つとは限らない。知恵のある者がパンを手にできるわけではない。賢者が金持ちになれるわけでもない。しかし、これらを成し遂げた者たち全員に「時」と「運」が味方したのだ。

“I have seen something else under the sun: The race is not to the swift or the battle to the strong, nor does food come to the wise or wealth to the brilliant or favor to the learned; but time and chance happen to them all.”

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