メディカルエッセイ

第32回(2006年2月) 医者は「勝ち組」か「負け組」か

 2006年1月23日、ライブドアの堀江社長が証券取引法違反で逮捕されたという事件は、翌日の各新聞のトップを飾り、大きな議論を呼んでいます。この事件を報道しているのは日本のマスコミだけでなく、ReuterやBBCといった海外の一流メディアまでもが大きく取り上げました。

 そして、海外のメディアも、堀江容疑者の人物像について、不正行為の容疑についてばかりでなく、放送局やプロ野球チームを買収しようとしたことや、衆院選に立候補したことなどにも触れています。

 数年前から「勝ち組・負け組」という言葉が流行していますが、堀江氏は典型的な「勝ち組の象徴」として語られることが多かったように思います。

 人間を単純に二極化してしまうような、この「勝ち組・負け組」という言葉には、私は当初から抵抗感があったのですが、あまりにもこの言葉が世間に浸透してしまったために、様々な弊害が生じているように思えてなりません。

 例えば、私のホームページからメールを送ってくる医学部受験を考えているという人のなかにも、「医師になって勝ち組になりたい」というような表現を使う人がいます。

 この「勝ち組・負け組」という言葉が広がることに危惧を感じるのは、世の中の価値を単に「お金」を尺度としてみなされてしまうからです。文脈にもよるでしょうが、結局のところ「お金」のある人間は「勝ち組」で、「お金」のない人を「負け組」と捉えることが多いように思われます。実際、堀江氏の発言のなかで「人の心はお金で買える」とか「お金があればオンナをものにできる」というものもあったそうです。

 「人間の幸せはお金で決まるものではない」と言ってしまえば、中身のない綺麗事に聞こえますが、世の中にはお金を優先事項にしていない人も大勢います。今回は私の知るそういう人たちを紹介したいと思いますが、その前に世間で言われているような「負け組」とは何なのかを考えてみましょう。

 森永卓郎氏の『年収300万円時代を生き抜く経済学』という本が大ベストセラーになったこともあり、年収300万円程度の人を「負け組」と呼ぶような風潮があります。ところが、あるデータによると、年収300万円程度の人の9割以上がインターネットの使える環境のパソコンを所有しており、また、半数以上の人が車を所有しているそうです。また、現在の日本ではよほどのことがない限り、衣・食・住に困ることはありません。

 はたして、自宅で悠長にインターネットをしている人を「負け組」と呼んでいいのでしょうか。たしかに、年収何億もある人と単純に収入だけで比較すれば「負け組」ということになるのかもしれません。けれども、それを言うならパソコンどころか、その日に食べるものがない環境にいる人が世界にどれだけいるかを少し想像してみればどうでしょうか。

 見方を変えれば、日本国籍を有していること自体がすでに「勝ち組」なわけです。

 しかし、こういう見方は「屁理屈、あるいは単なる綺麗事だ」と言う人もいるかもしれません。そういう人に私が問いたいのは「それでは、衣・食・住に困らずに車やパソコンを有していてそれ以上に必要なものは何なのですか」ということです。

 実際に年収300万円くらいの男性にこの質問をすると、よく返ってくる言葉が「それでは恋愛や結婚ができない」というものです。

 けれども、本当にそうなのでしょうか。たしかに、恋愛や結婚に関するデータをみてみると、女性が男性に求めるひとつに「高収入」というのがあるようです。しかしながら、アンケートで「お金があるのとないのではどちらがいいですか」と聞かれれば、よほどの変人でもない限り「お金はある方がいい」と答えるでしょう。

 統計学的な根拠があるわけではありませんが、私には世間の女性が「年収300万円程度の男とは恋愛ができない」と考えているようには到底思えないのです。私の周りの女性に話を聞くと、「お金はそれほど重要じゃない」と言いますし、年収300万円くらいの男性と付き合っている女性は何も珍しくありません。

 誤解を恐れずに言うならば、恋人のいない男性は、その理由を年収のせいにして、恋人のできない本当の理由を見ようとしていないだけではないでしょうか。また、恋人のいない女性は「周りには年収の低い男しかいないからひとりでいるんだ」という言い訳を用意して、恋人のできない本当の理由を見ないようにしているだけではないでしょうか。

 恋愛や結婚のことはさておき、衣・食・住は満たされているけれども「心の平安」がないという人に私がおすすめしたいのは、「感動」を探すということです。そもそも、衣・食・住、さらに車やパソコンの次に必要なものが「お金」だ、という考えばかりが注目されるから、人間の価値を「お金」だけで評価するような「勝ち組」という概念ができあがってしまっているわけで、「お金」以外の「感動」を求めてもかまわないわけです。

 もちろん、世の中にはお金が好きで好きでたまらないという人がいますし、私はそれはそれでかまわないと思います。実際、そういう人もいなければ資本主義がうまく回転しないのかもしれません。

 けれども、「お金」以外の選択枝を見つめなおすのは悪いことではないでしょう。
 
 例をあげましょう。

 私が、タイのエイズホスピスにいたときにヨーロッパから来ているボランティアが何人かいました。彼(女)らは医師であったり、看護師や介護師であったり、普通の主婦であったりするわけですが、お金持ちはひとりもいませんでした。年収は300万円もありません。ヨーロッパでは一部の貴族的な身分の人を除けば、大半は年収300万円以下の人たちです。物価が安いかというとそうではなく、日本の方がよほど物が安く買えるように思います。

 そんな状況のなかで、彼(女)らは短くても数ヶ月、長ければ数年という単位でボランティアに来ていました。義務感でボランティアをしているわけではありません。楽しくて「感動」があるからこそはるばるとやって来ているのです。これはやってみないと分からないかもしれませんが、患者さんと触れ合って得ることのできる「感動」というのは、お金では買えない、いわば「priceless」なものです。

 もうひとつ例をあげましょう。

 タイでは貧富の差が激しいという話を別のところでもしましたが、例えば、地方からバンコクに出稼ぎにきてホテルのルームメイキングをしているような女性は、月収で1万円程度です。私が彼女らと話して感動するのは、表情に悲壮感がまったくなく、その仕事を楽しんでいるということです。お金はないけれども、外国人と話すのはおもしろいし、仕事が暇なときは同僚とおしゃべりするのが楽しいと言います。なかにはもう20年も同じ仕事をしている女性もいます。彼女らは月収1万円で楽しく生活しているのです。

 日本に目を向けてみましょう。

 『医学部六年間の真実』でも述べましたが、日本の医師というのは儲けようと思えばかなり儲けることができます。2005年12月に発覚したニセ医者の年収が2000万円というのがいい例でしょう。しかし一方では、年収数百万円程度で自分の好きな臨床や研究に没頭している医師も少なくありません。

 私はこの春にクリニックの新規開業を考えていますが、私の試算ではこれまでに比べて年収が半分以下になります。それでも開業にこだわるのは、総合診療ができて(これまでは皮膚科の外来をしているときは風邪すらもみることができず、内科の外来をしているときは湿疹すら診れませんでした。なぜならそれらの診察をすれば他科に対する「越権行為」になるからです)、継続して患者さんを診ることができるからです。つまり、患者さんとの距離がぐっと近くなるわけで、それだけ「感動」も増えると考えているのです。

 お金のみに価値を置いていれば、いつも強盗や詐欺師から身を守ることを考えなければいけませんし、近づいてくる人間はお金目当てかもしれない、と要らぬ疑いを持つことになるかもしれません。お金で買えない「priceless」な「感動」というものを考えてみるのは決して悪くないことです。

 私個人としては「勝ち組・負け組」という言葉は好きではありませんが、あえて使うならば、「お金」ではなく、どれだけ自分の人生で「感動」を体験できたかによって「勝ち組・負け組」が決まる、とは言えないでしょうか。