マンスリーレポート
2017年4月11日 火曜日
2017年4月 なぜ「幸せ」はこんなにも分かりにくいのか
先月のマンスリーレポートで、私はいつも時間に追われる生活を送っているという話をしたところ、それで幸せなのか、という意見を複数の方からいただきました。ある人が「幸せ」かどうかは、幸せの定義によりますし、簡単に結論がでる話ではありません。古今東西、人間はいつも「幸せとは何か」について思索しているわけで、幸せについて論じた書籍は無数にあります。
私にとって何が幸せかはひとまず置いておいて、まずは幸せというテーマになると必ず出てくる「お金」について考えてみたいと思います。
最初に基本的なことをおさえておきましょう。人はお金のために生きているわけではないのは事実ですが、お金がないと生きていけません。これは当たり前のことですが、きれいごとが好きな人のなかには「お金なんてなくてもいい。もっと大切なものがある」と強調する人がいます。また、「自分はお金はないけど幸せだ」という人もいます。こういうセリフ、文脈によっては他人を傷つける無神経な発言となります。
話す相手によっては「お金はない」などと気軽に口にすべきではありません。私はNPO法人GINAの関係でタイによく渡航します。日本にはちょっとないような貧困層の人と話をすることもあります。彼(女)らの「お金がない」というのは、ひどい場合は、「その日に食べるものの確保も困難」というレベルです。そこまで困窮している人は私と継続的に付き合いのある人たちのなかにはそうそういませんが、「冷蔵庫やテレビがない」という人は地方に行けばいくらでもいます。それでも「家族がいれば幸せ」と話す人もいますから、「お金」は最低限必要ですが、お金があればあるほど幸せとは言えない、というのは間違いなさそうです。
お金と幸せについてもう少し掘り下げて考えてみましょう。個人差はあるにせよ、全体でみたときには年収がいくらくらいあれば人は満足できるのでしょうか。
これには有名な学説があります。科学誌『PNAS』に2010年に掲載された、ノーベル経済学賞受賞者ダニエル・カーネマンの論文「高収入で人生の評価が改善しても感情的な幸福は改善しない(High income improves evaluation of life but not emotional well-being)」です。カーネマンによれば、年収が75,000ドル(約900万円)を超えると、それ以上収入が増えても「感情的な幸福」が変わりません。「感情的な幸福」とは、喜び、ストレス、悲しみ、怒り、愛情などの頻度と強さのことです。つまり、「幸福」の基準を高級車や豪華な住宅に求めるならともかく、「感情」を大切なことと考えるなら、その感情を得るのに必要な年収はそんなに高くなくてもOK、ということです。
ですが、年収75,000ドルは低くありません。こんなに稼げる人は世界の5%もいないでしょう。この数字だけをみると、「年収75,000ドルなんて一生かかっても達成できるはずがない。ということは自分は生涯幸せとは縁がないんだ…」と考える人もいるかもしれません。しかし悲観するのはまだ早い。
これは米国の2010年のデータです。日本が世界有数の物価高だったのはバブル経済の頃の話であり、いまや日本は先進国のなかで物価は安い方です。一例をあげましょう。日本なら、都心部に住んでもワンルームマンションは安ければ家賃4万円代の物件があります。一方、アメリカでは、ニューヨークやロサンジェルスでワンルームマンションを探すと30万円近くを覚悟しなければなりません。単純に家賃だけで決められるわけではありませんが、物価を考慮すると、米国の75,000ドルは、日本でいえば年収300~400万円くらいではないでしょうか。
さて、ここで私が以前タイで知り合ったHさんの話をしたいと思います。Hさんは当時40歳くらいの男性で、15年間勤務した一部上場企業を退職しタイにやってきました。タイには「沈没組」と呼ばれる、日本でドロップアウトして安宿に引きこもっている人たちも大勢いますがHさんは異なります。いつも颯爽としていて明るくて話も面白いのです。英語だけでなくタイ語も堪能です。このHさんから聞いた「タイの農夫と日本のビジネスマン」の逸話がとても印象的でした。こんな話です。
タイのイサーン地方(東北地方)の昼下がり。ハンモックに揺られながらのんきにビールを飲んでいる中年男性に、同い年くらいの日本のビジネスマンが近づいた。
日本人:昼間からのんびりしているね。
タイ人:カモとナマズにエサをあげたから今日はもうすることがないんだ。
日本人:へえ、飼育の仕事をしているんだ。たくさん飼っているの?
タイ人:いや、家族と親戚が食べる程度。これで充分だ。夕方になると村の連中が集まってくる。一緒に飲んで騒いで子供たちがはしゃいでいるのをみればそれで幸せだ。
日本人:もっとたくさん飼育して金儲けをすればいいのに。
タイ人:金儲けをしようと思えばどうすればいいんだ?
日本人:そうだな、まず経営のことを勉強する。資金がないなら銀行に借りればいい。事業計画書がきちんとしていればお金を借りることができる。そして会社を立ち上げてこの県一番の食品会社にするんだ。
タイ人:それで?
日本人:次は国際関係も学んで輸出をするんだ。一時的に誰かに経営をまかせて海外留学してMBAをとるのがいい。
タイ人:それで?
日本人:輸出で大儲けすれば次は株式上場だ。
タイ人:それで?
日本人:そうなれば株式を全部売ってしまって億万長者だ。
タイ人:億万長者になれば何ができるの?
日本人:もう勉強も仕事もしなくていい。昼間からハンモックに揺られながらビールが飲めるぞ…。
その後似たような話を何度か聞きました。どうやらこの話は世界的に有名な逸話で、オリジナルは「メキシコの漁師と米国人ビジネスマン」という説が有力です。
Hさんは退職金には手を付けずに、日本で3か月ほど工場で夜勤をして、そのお金を持ってタイなどで残りの9か月を過ごすそうです。ローカルバスに乗り、日本人が行かないような田舎に行ってタイを楽しんでいると言います。
私がHさんと知り合ったのはタイのエイズ問題に関わり始めたばかりの頃で、当時はまだNPO法人GINAの設立も、日本でクリニックを始めることもまったく考えていませんでした。工場の夜勤も高収入でしょうが、過去にも述べたように医師のアルバイトもそれなりに高収入です。例えば、日本で3か月の間、健康診断や深夜の救急外来のアルバイトをおこなえば、残りの9か月をタイで過ごし、エイズ施設でボランティアをすることも充分に可能です。
もしもあのときHさんのような生活を選択したとすれば、私の時間管理は上手くいき、今のように時間に追われる毎日から解放されていたでしょうか。そして「幸せ」と感じることができていたでしょうか。
実はこのことは今でもときどき考えます。そして結局毎回同じ結論にたどり着きます。私の「選択」は正しかった、という結論です。当時の私は研修医を終えたばかりで、医師としての知識も技術もまだまだ未熟でした。ということは、患者さんに貢献するには自分がもっと勉強せねばなりません。私のとった行動は、母校の大阪市立大学医学部の総合診療科の門を叩き、研修医のとき以上に勉強するということでした。大学病院のみならず複数の病院や診療所に修行にでかけ知識と技術の習得に努めました。そして、タイのエイズ患者さんや孤児に対してはNPO法人GINAを立ち上げて組織として貢献することを考えました。
今も知識と技術の習得はまだまだ必要だと考えています。結局、私は「勉強」と「貢献」に価値を置いていて、これらを自分のミッションと認識しています。つまり、当時も今もやるべきことをやっているということに他なりません。ならば私は幸せなのか…?
「タイの農夫と日本のビジネスマン」の逸話は、金持ちでなくとも幸せになれることを示しています。そして、私はあきらかに「タイの農夫」とは異なるライフスタイルをとっています。では、私は「日本のビジネスマン」に近いのかというと、これも明らかに違います。日ごろしている勉強、無料でおこなっているメール相談、GINA関連の諸業務などは時間とお金を使うだけですから、ビジネスとは真逆のものです。
それで忙しい、時間がない、と嘆いている私は幸せなのでしょか…。イエス、と言いたいところですが、Hさんや「タイの農夫」のことが羨ましいと思うこともあります。
私にとって「幸せ」とは何か。いまのところ自分ではまったく分かっていないようです…。
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