メディカルエッセイ

2013年6月22日 土曜日

第125回 肉をもっと食べろ、なんて誰が言った? 2013/06/20

私は産業医や労働衛生コンサルタントとしての仕事もしていることもあって、従業員の健康管理を担当している人の相談に乗ることがしばしばあります。私が面談をするのはたいてい小さな企業で、健康管理を担当している人はほとんどが人事部か総務部の責任者です。

 従業員が数十人程度の企業であれば、全員の健康診断の結果を見せてもらい、注意点をアドバイスするようなこともあります。

 そこでよく思うのが、30~50代の労働者(特に男性)の肥満率が大変高い、ということです。企業によってはBMI(注1)が25以上のあきらかな肥満が過半数を超えているようなところもあります。担当者に話を聞くと「ここ数年で喫煙者は減ったが肥満は一向に減らない」と言われます。

 また、健診の結果を見せてもらっても、高脂血症や高血圧、糖尿病(またはその予備軍)、あるいはおそらく脂肪肝からきている肝機能障害を有している人が非常に多いという印象があります。

 現在の日本人(特に中年男性が多いが女性も少なくはない)の多くは、エネルギーを摂りすぎているのは自明のように思われます。

 ところが、です。この私の印象とは正反対に、「日本人は必要な栄養素(カロリー)を摂っていない。もっと肉を食べなければ健康になれない」という肉食推進派が(科学者の中にも)けっこういます。私が日々診察している患者さんのことや、企業の担当者との話の内容を考えると、「日本人は高カロリーのあぶらっこいものを控えるように」と言いたくなるわけで、私と肉食推進派では大きく意見が食い違うことになります。

 今回は、なぜこのように見解が異なるのか、の謎を解き、「肉は摂りすぎるべきでない」という結論を述べていきたいと思います。

 まず、肉食推進派がよく言うセリフに、「戦後、欧米の食文化が入ってきて肉を食べるようになったおかげで寿命が延びた」というものがあります。しかし、だから「肉をもっと食べろ」とするのは乱暴すぎます。

 たしかにある程度の肉は必要だと私自身も考えています。しかし、ほとんど肉など口にすることができなかった時代と肉が自由に食べることができるようになった時代の比較は極端すぎて無理があります。平均寿命が延びたのは肉によるタンパク質を摂れるようになったから、というのは事実ですが、それは「必要最低限の肉を摂れるようになったから」と考えるべきです。

 戦後平均寿命が延びたのは肉のおかげだけではありません。まず、食事以外の要因がかなり大きいのは間違いありません。つまり医療技術の進歩です。なかでも感染症の治療は飛躍的に向上しています。アジア・アフリカの発展途上国が今も平均寿命が短いのは、何も肉を食べていないからではなく、最大の要因は感染症の適切な治療と予防ができていないからに他なりません。

 食事の内容が変わったことで平均寿命が延びているのも事実ですが、これは肉のおかげだけではありません。肉が自由に食べられるようになったことも重要ですが、それ以上に重要なのは塩分摂取量が大きく減少したことです。戦後間もない頃の日本人の食塩摂取量は1日あたり20グラムに近かったと言われています。東北地方に限って言えば30グラム近かったのでは、と指摘されることもあります。現在は国際的にはまだまだ塩分過多ですが、それでも平成23年度の「国民健康・栄養調査」(注2)では10.4グラムまで減少しており、この減少が脳血管障害のリスク減少に関連があるのは明らかです。

 ですから肉食推進派のよく言う「戦後欧米型の食事が入ってきたから寿命が延びた」というのはあまりにも乱暴な理屈なのです。

 次に、肉食推進派がよく言う「現代の日本人はカロリー摂取が少なすぎる」という点をみていきたいと思います。平成23年度の「国民健康・栄養調査」によりますと、日本人の平均エネルギー摂取は1,840Kcalと、これを見ると大変少ないことがわかります。私が日々肥満者が多いと感じている40代の男性だけをとりあげてみても2,090Kcal、20代の女性でいえば1,595Kcalしか摂取していません。

 たしかにこの数字だけをみると、飢餓とは無縁の先進国だけで比べると、日本ほどエネルギーを摂っていない国民はいない、ということになります。しかし、この数字は本当に実態を反映しているでしょうか。

 入院したことがある人ならわかると思いますが、入院食というのは厳格にカロリーがコントロールされており、一番多いものでも2,000Kcal程度です。私は交通事故で1ヶ月近く入院していたことがありますが、一番多い2,000Kcalの食事を選択しても、全然足りませんでした。私には働き盛りの40代男性が、飲み会や接待でのアルコール摂取なども含めて1日2,090Kcalというのが信じられないのです。

 ここで具体的に何をどれくらい食べれば何Kcalくらいになるかを確認しておきましょう。厚労省の「肥満を防ぐ食事」のサイト(注3)によりますと、ハンバーガーセットが676Kcal、幕の内弁当が727Kcal、チャーハン755Kcal、春巻き358Kcal,ビール大ジョッキ320Kcalです。こんなに食べられないという人もいるでしょうが、このくらい毎日のように食べているという人もいるのではないでしょうか。これらの合計が2,836Kcalです。これにビールのおかわりをしたり、3時のおやつにドーナツ1つを食べたりすれば、3,000Kcalを超えます。

 私が厚労省の発表するエネルギー摂取量の数字を信じられない理由をもうひとつ挙げたいと思います。この数字が発表された平成23年度の「国民健康・栄養調査」では、肥満者の割合も報告されています。BMI25以上が肥満とされ算出されており、その肥満に相当するのが、男性の30.3%、女性の21.5%というのです。

 厚労省の調査にいちゃもんをつけるようですが、平均エネルギー摂取量が1,840Kcalで、女性の2割、男性の3割もが肥満、となるのはおかしくないでしょうか。つまり、カロリー摂取量が適切に算出されているのかどうか私には疑問に思えてならないのです。また、このカロリー摂取量が正しいとすれば、極端にエネルギーを摂っていない人(つまりやせている人)と摂りすぎている人の差が大きいということになり、これはこれで問題です。なぜなら、「やせ」は肥満と同様かそれ以上に健康上のリスクがあるからです。

 さて、肉食推進派が主張する別の意見を紹介したいと思います。それは、数年前から欧米でしばしば指摘される「少し肥満がある方が長生きする」という研究(注4)です。肉食推進派は「日本人はやせすぎだ。長生きするためにももっと肉を食べて体重を増やすべきだ」と言うときに、こういった研究結果を引き合いにだします。

 しかしこの見解を日本人に当てはめるのはあまりにも危険です。なぜなら、体質というか遺伝子が日本人(東洋人)と欧米人では異なるからです。つまり、欧米人は少々体重が増えても高血圧や高脂血症、糖尿病、あるいは肝機能障害を起こしにくく、日本人は簡単に起こしやすいのです。日本人のなかにも肥満があっても血圧や血液検査の数値に異常がない人がいるのは事実ですが、少しの肥満でもすぐに異常値を示す人がいるのもまた事実です。もちろん少しの異常値が出ただけで大騒ぎする必要はありませんが、「ちょっと太っている方が長生きする」というのを盲目的に信じるのはあまりにも危険です。

 今回の私の結論としては、「肉を食べ過ぎるのは危険であり、今一度自分の摂取しているカロリー摂取量を見直して肥満は防ぎましょう」というものですが、私は、菜食主義者でもなければ、厳格な食事療法をすすめているわけでもありません。むしろ肉は大好物です。

 次回は、肉を美味しく健康的に食べる方法についてお話したいと思います。

注1:BMIとはボディ・マス・インデックスの略で、体重(キログラム)を身長(メートル)の2乗で割った数字です。体重88キログラム、身長2メートルの人なら、88÷2の2乗=88÷4=22となります。

注2:平成23年度の「国民健康・栄養調査」については下記URLを参照ください。
http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000002q1st-att/2r9852000002q1wo.pdf

注3:厚労省の「肥満を防ぐ食事」は下記URLを参照ください。 → 「現在は閲覧できません」
http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/seikatu/himan/meal.html 

注4:詳しくは下記医療ニュースを参照ください。
医療ニュース2012年8月27日「太っているだけなら早死にしない?」

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2013年6月22日 土曜日

第124回 予防接種の料金が同じで何が悪いのか 2013/05/20

  2013年4月23日、公正取引委員会は、埼玉県吉川市と松伏町を管轄する吉川松伏医師会(会員数約80人)に対して立ち入り検査を実施したそうです。

 インフルエンザ予防接種の料金でカルテルを結んでいた疑いがある、というのが立ち入り検査の理由であると報じられています。公正取引委員会は、2004年にも、三重県の四日市医師会がインフルエンザの予防接種の価格の下限を決めた、として排除勧告を出しています。

 公正取引委員会のこの立ち入り検査に対し、マスコミは一斉に医師会を非難しました。例えば、ある大手新聞紙は、「身近な予防接種にまつわる不正に市民からは憤りの声があがる」、としています。

 たしかに、決して安くはない予防接種の料金ですから、「カルテルで価格を不当に釣り上げられていた」などと言われると「憤りの声」は出てくるでしょう。しかし、「医師会=悪者」という前提で取材をするからこのような<声>があがるのではないでしょうか。

 私自身はこのような報道に違和感を覚えます。

 そもそも予防接種をカルテルの対象にすることに対して疑問を拭えません。公正取引委員会の存在は市場社会になくてはならないものです。しかし、それは自由に価格を設定できるマーケットに限ってのことであり、医療に市場原理主義を持ち込むのは誤りです。

 もしも医療行為に公正取引委員会が入ってくるなら、保険診療が日本全国どこで受けても料金が同じ、という現状の制度に対しても「カルテルではないのか」という意見が出てくることになりかねません。

 予防接種は自由診療だからカルテルの対象に、保険診療は対象にならない、という意見もあるかもしれません。しかし、どこからどこまでが自由診療であるべき、というのは理論的に決められるわけではなく恣意的なものにすぎません。

 予防接種で言うならば、例えば、怪我をして土が傷口についたときや野良犬に噛まれたときなどに破傷風を防ぐために破傷風トキソイドという一種の予防接種をおこないますが、これは医師が必要とみなせば保険診療でおこなうことが可能です。

 一方、インフルエンザが流行りだしたからインフルエンザの予防接種をおこなう、というのは保険診療が認められず自費診療になる、というのが現状の制度です。

 いま例にだした破傷風とインフルエンザについて、よく考えてみると疑問が出てこないでしょうか。破傷風のように土が傷口に入ったり、野良犬に噛まれたりというのは、不可抗力であることも少なくないでしょうが、気をつけていれば防げる場合も多いと言えます。そして人から人への感染はありません。一方で、インフルエンザウイルスというのは感染力が強く、他人の咳やくしゃみでうつりますから繁華街や駅など人の多いところで簡単に感染します。そして感染すると今度は他人へ感染させる可能性がでてきます。
 
 ということは、破傷風よりもインフルエンザのような感染症こそ、できるだけ多くの人がワクチンを接種して地域全体で感染者を減らしましょう、という理論が成立するわけです。

 実際、インフルエンザワクチンというのは、感染することを防ぐというよりも、重症化を防ぐことと、他人への感染を防ぐことを目的としています。ここは誤解している人が多いので念を押したいと思います。インフルエンザウイルスのワクチンは確かに接種していても罹患することがあります。この点を強調して、さらに稀な副作用のことを持ち出してインフルエンザワクチンに反対する人がいますが、たいていはそういう人たちの主張は論点がずれています。

 インフルエンザワクチンは接種していても罹患することがありますし、また重症化を防ぐことも100%できるわけではありません。しかし重症化する可能性が減るのは事実であり、他人へ感染させる確率も下がるのです。つまり、インフルエンザワクチンというのは自分の身を守るためというよりもむしろ「他人への感染を予防する」ことが目的なのです。

 一方、破傷風ワクチンというのは、土が傷口に入るとか、野良犬に噛まれるとか特殊な環境で生じることですから、インフルエンザに比べると予防しやすいものです。さて、インフルエンザと破傷風、公的なお金を使って防ぐことを考えるべきなのはどちらでしょうか。もちろん人から人に感染するインフルエンザとなるわけですが、破傷風トキソイドは保険診療で、インフルエンザワクチンは自費診療で、というのが現状なのです。

 もちろん私は破傷風トキソイドを保険診療から外せ、と言っているわけではありません。その逆で、インフルエンザも公費で、可能であれば全額公費で(つまり市民負担はゼロで)すべきではないか、ということを主張したいわけです。実際、市町村にもよりますが、高齢者と乳幼児は公費負担のある自治体が多いのです。

 今のところ医療者も含めて、公正取引委員会が予防接種の料金を監視するのはおかしい、という意見を主張する人がいないのが私には不思議で仕方がないのですが、私には各医療機関で予防接種の料金が異なる方がよほど不自然に思えてなりません。実際、市民も混乱しています。「○○クリニックは水で薄めてインフルエンザワクチンを安くしているらしいですよ」、という言葉を私は患者さんから聞いたことがあります。

 マスコミは医師会を叩くのが大好きなようで、例えば下記はある大手新聞の記事の一部です。

 医療機関の中には、ワクチン接種を「来院経験がない人に営業する絶好の機会」と考え、接種料金を安く設定するケースもあるという。

 これを書いた人は医療のことをまったくといっていいほどわかっていません。そもそも医療機関に「営業」という概念はありませんし、医療機関としては「来院経験がない人にはあまりワクチンをうちたくない」と考えることが多いのです。特にインフルエンザのワクチンは、先に述べたように、接種しても感染しうること、重篤な副作用はほとんどないとはいえ接種部位の腫れや痛みが長引くことがあること、卵アレルギーのある人には充分な説明が必要なこと、もともと誤解の多いワクチンでありそのマインドコントロールを解くのに時間がかかること、などがありワクチン1本でも相当の時間を必要とします(注1)。

 お金の観点で言うなら、これだけ時間をかけて説明をおこない、副作用が生じたときの対処まで責任を持ち、徴収料金は3~4千円程度です。徴収料金から、ワクチンの仕入れコスト、注射器と注射針の仕入れ値、看護師の人件費、医師の人件費(問診は看護師でなく医師がしなければなりません)を差し引いた分が医療機関の利益になります。これが安くないという意見もあっていいと思いますが、一方で保険診療の初診代はそれだけで2,700円です。しかも診察代というのは医師の人件費以外のコストがかかりません。つまり、インフルエンザワクチンというのは経営的な観点からの利点は<ほとんどないに等しい>のです。それに、いったん安くしすぎると次の年から値上げします、というわけにもいきません。

 医療機関はサービス業ではありません(注2)。個人の病気を治療し予防につとめてもらうよう啓発するのが業務であり、また、公衆衛生に貢献する、つまり地域社会全体での疾病の罹患率を下げる、そしてそのためにワクチン接種をおこなう、というのもミッションのひとつです。つまり、医療機関とは、サービス業ではなく一種の「公的機関」のような存在なのです。

 ワクチンの料金が不当に高いのであればそれは問題でしょう。しかし、そうであるならば疑問を呈する矛先は、医療機関や医師会ではなく、ワクチンを製造している製薬会社や、インフルエンザワクチンを保険診療として認めない、あるいは公費負担をおこなわない行政であるはずです。

 マスコミにはそのあたりのことをしっかりと考えてもらいたいと思います。また、インフルエンザワクチンに関する報道をおこなうなら、先に述べたように、ワクチンの目的は自らが感染しないようにすることではなく重症化を防ぎ他人への感染を予防するということや、ワクチンのリスクはまったくのゼロではないものの有益性が高いこと、公衆衛生学的にはできるだけ大勢が接種すべきであること、そのためには行政がいくらかの負担をすべきであること、といった科学的・社会的に正しいことを市民にわかりやすく啓蒙してもらいたいものです。

注1 ちなみに太融寺町谷口医院では、インフルエンザのワクチン対象者は「過去に一度でも受診したことのある人、もしくはその家族のみ」とさせてもらっています。誤解を防ぐために付記しておくと、これは、儲けのないインフルエンザワクチンをやりたくない、と考えているからではありません。インフルエンザワクチンというのは数に限りがありますから、ひとつのクリニックにそれほど数が回ってこないのです。ひとり分が貴重ですから、日頃から当院にかかっている人(及びその家族)を優先させたいのです。ただし、他にかかりつけ医をもっていなくて、当院が自宅もしくは職場から近い方は個別に相談に応じています。

注2 我々医療を供給する側の者は医療行為をサービス業とはまったく考えていません。(そのように考えている医療者もいるそうですが) 一方、医療機関はサービス業、と考えている患者さんは少なくありません。このために生じる誤解やトラブルというものがあります。詳しくは、下記コラムを参照してみてください。

参考:メディカルエッセイ第68回(2008年9月)「「医療はサービス業」という誤解」

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2013年6月22日 土曜日

第123回 (2013年4月)カルシウムのサプリメントは危険か

 サプリメントや健康食品というものが一気に普及しだしたのは1990年代半ばくらいでしょうか。それまでは、「サプリ」とか「健康食品」という言葉もさほど浸透しておらず、ビタミン剤やプロテインといったものを健康に高い関心を持つ人が使用している、といった感じだったと思います。

 90年代後半は、一般の人のみならず、多くの医療従事者もサプリメントに期待していたと思われます。βカロチンで大腸ガンが予防できる、ビタミンEで若返りができる、ビタミンCで風邪をひかなくなり、さらに大量に摂ればガンも治る、イチョウエキスで頭がよくなる、エキナセアで感染症が防げる、などなど、それなりに科学的にも正しいのではないかと一部の医療者や科学者も発言していたように思います。

 しかしながら、その後次第にきちんとした研究がおこなわれるようになると、βカロチンの過剰摂取は大腸ガンを予防しないだけでなく肺ガンのリスクになる、ビタミンEのサプリは心疾患のリスクになる、ビタミンCのサプリは風邪を予防してくれないしもちろんガンが治るわけでもない、イチョウやエキナセアは効果が認められず・・・、といった研究結果が次々と発表されました。きちんと検証してみると、サプリメントの有効性はほとんど認められなかった、というのが現状なのです。

 一方、2012年に内閣府がおこなった健康食品の利用に関するアンケート調査(注1)によれば、50代以上の約3割が日常的に健康食品・サプリを利用しているそうです。しかも、約6割の利用者が「概ね満足している」と答えているそうですから、これからもサプリメントの利用者は減っていくことはないのかもしれません。

 科学的に有効性が示されていないのにもかかわらず大勢の人が満足しているのは、おそらく期待が大きくて一種のプラセボ効果が出ていることが原因のひとつでしょう。しかし私はこのことを非難したいわけではありません。理由がどうであれ、サプリメントを摂取した人が健康になりそして幸せになるのであればそれで問題ないわけです。

 それに、私自身としては、サプリメントに完全に否定的な立場をとっているわけではありません。私個人の話をすれば、過去(90年代半ば)にはいくつかのサプリメントを飲んでいたこともありますが、現在は一切のサプリメント・健康食品の類を摂っていません。しかし、患者さんから相談を受けたときには、やみくもに「サプリメントは無効ですからやめなさい」などと言っているわけではありません。

 むしろ、場合によってはすすめることもあります。例えば、月経のある女性で軽度の鉄欠乏性貧血があり、自覚症状がなく薬が必ずしも必要でない場合は、「鉄分の多い食事に加えて鉄のサプリメントを摂ってみますか」という助言をおこなうことがあります。ただし閉経後の女性や男性は、鉄のサプリメントを安易に摂るべきではありません。鉄は不足になるのも問題ですが過剰になるのは大問題です。ですから閉経後の女性や男性でマルチミネラルのサプリメントを摂るならアイアンフリー(鉄抜き)のものを選ばなければなりません。

 貧血のある女性に対する鉄以外に私が勧めることがあるのは、妊婦さんに対する葉酸サプリメントです。ここでは詳しく述べませんが、妊娠中にはある程度の葉酸を積極的に摂取する必要があります。ただし、葉酸は摂ろうと思えば食事からでも摂れますし、摂り過ぎは胎児に悪影響を与える可能性も指摘されているので、すべての妊婦さんに勧めているわけではもちろんありません。

 さて、前置きが長くなりましたが、今回お話したいのは、カルシウムのサプリメントについてです。伝統的な日本食を食べなくなった日本人はカルシウムが不足している、ということが随分前から指摘されています。元々乳製品を摂らない日本人は小魚や小松菜・大根の葉などでカルシウムを補っていたわけですが、こういった食事を摂る機会は激減しています。代替として乳製品を上手く取り入れればいいのですが、乳製品は元々好きでないという人が少なくありませんし、乳製品の摂りすぎは脂肪過多になりがちですから、カルシウムの適量摂取というのはけっこうむつかしいものかもしれません。

 そこでカルシウム不足が気になる人、つまり小魚や青菜をあまり食べず、乳製品も好きでないという人は、サプリメントで不足したカルシウムを補おう、ということになります。実際、医療機関でも高齢者で骨粗鬆症がある人(70代後半以降の女性の半数以上が骨粗鬆症です)にはカルシウム製剤を処方することが多いですし、私自身も日頃の食事からカルシウムが充分に摂れてないと思われる人には(若い人も含めて)、「サプリメントでもいいからカルシウムを摂るべきですよ」と話をすることがありました。

 しかし、最近はカルシウムのサプリメントに否定的な研究が相次いでいます。

 カルシウムの過剰摂取は女性の全死因死亡や心血管死のリスクを増大させる可能性がある・・・

 これは医学誌『British Medical Journal』2013年2月13日号(オンライン版)に掲載された研究結果です(注2)
 
 この研究は、スウェーデンのウプサラ(Uppsala)大学のKarl Michaelsson氏らによっておこなわれています。研究の対象となったのは、1987~1990年にマンモグラフィ検診を受けたスウェーデン人女性61,433人(1914~48年生まれ)で、平均19年の追跡調査がおこなわれています。この間の全死因死亡数は11,944件(17%)で、心血管死は3,862件、虚血性心疾患死は1,932件、脳卒中死は1,100件だったそうです。

 これらをカルシウムの摂取量に基づき解析をおこなうと、カルシウムの摂り過ぎは死亡リスクにつながることが判り、リスクの増大は、食品由来のカルシウムではなく、サプリメントのカルシウムに由来していることが判ったそうです。

 健康な高齢女性は骨折予防の目的でカルシウムやビタミンDのサプリメントを摂取すべきではない・・・

 これは、米国予防医療作業部会(U.S. Preventive Services Task Force、以下USPSTF)が発表した声明で、医学誌『Annals of Internal Medicine』2013年2月26日号(オンライン版)に詳細が報告されています(注3)。

 この論文では、USPSTFの勧告として、低用量のサプリメントを日常的に摂取すべきでなく、閉経後の女性の400IUを超えるビタミンDや1,000 mgを超えるカルシウムによる利益(ベネフィット)を示す充分な根拠は見当たらない、としています。また、50歳未満の男女の骨折予防目的でのサプリメント摂取を推奨する根拠はない、とも述べられています。

 ここでは最近発表された2つの論文を紹介しましたが、数年前からカルシウムのサプリメントの有害性についての報告が増えてきているように思えます。(下記医療ニュースも参照ください)

 現時点では、すべての研究者や医師がカルシウムやビタミンDのサプリメントを否定しているわけではありません。少なくとも骨粗鬆症の診断が付いている人やその予備軍と言われている人たちは、主治医の意見を参考にしながら、カルシウムやビタミンDのサプリメント(または製剤)の摂取を検討すべきでしょう。

 私個人の意見として、現時点でひとつだけ強調したいことがあります。それはサプリメントに頼るのではなく、食事からカルシウムやビタミンDを摂るのが最も大切、ということです。そんな身も蓋もないことを言うな、と思われるかもしれませんが、バランスの取れた食事に勝るサプリメントは存在しない、ということを強調しておきたいと思います。

 冒頭でβカロチンやビタミンEの有害性について言及しましたが、これらも「サプリメントとしての弊害」であり、こういった栄養素が豊富に含まれる「食品」を摂取することは大変有益なことなのです。

注1:この調査は内閣府のウェブサイトで公開されています。下記URLを参照ください。

http://www.cao.go.jp/consumer/doc/20120605_chousa_gaiyou.pdf

注2:この論文のタイトルは、「Long term calcium intake and rates of all cause and cardiovascular mortality: community based prospective longitudinal cohort study」で、下記のURLで全文を読むことができます。

http://www.bmj.com/content/346/bmj.f228

注3:この論文のタイトルは、「Vitamin D and Calcium Supplementation to Prevent Fractures in Adults: U.S. Preventive Services Task Force Recommendation Statement」で、下記のURLで全文を読むことができます。

http://annals.org/article.aspx?articleid=1655858

参考:医療ニュース
2012年6月30日「カルシウムのサプリで心筋梗塞のリスクが2倍」
2011年5月6日「カルシウムサプリメントが女性に危険かも・・・」
2010年8月30日「カルシウム・サプリで心筋梗塞のリスクが増加?」

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2013年6月22日 土曜日

第122回(2013年3月) 不飽和脂肪酸をめぐる混乱 

  2010年から2011年にかけて、従来高い数値がよくないとされていた「悪玉コレステロール」とも呼ばれるLDL(低密度リポ蛋白)が、「実は数値が高いほど長生きする」という説が提唱され物議をかもしました。最近この論争についてはあまり聞かなくなりましたが、昨年(2012年)の終わりから今年(2013年)にかけて、今度は不飽和脂肪酸に関する話題が増えてきて、さらに従来の理論に合致しない研究も発表され話題を呼んでいます。

 EPA(エイコサペンタエン酸 )やDHA(ドコサヘキサエン酸)という物質を聞いたことがあるでしょうか。青魚に含まれていることで有名な不飽和脂肪酸の一種で、サプリメントとしても広く知られています。

 2012年9月28日、武田薬品工業は、高脂血症の治療薬として「ロトリガ粒状カプセル2g」が承認されたことを発表しました。この薬の中身はEPAとDHAです。この発表が我々医療者を驚かせたのは(少なくとも私は驚きました)、国内最大手の武田薬品がサプリメントと変わらないような薬の発売を発表したということです(注1)。

 ここ数年間は世界的に新しい画期的な薬の発売がないと言われていましたが、武田製薬も業界をリードするような新薬をだすことができずに苦肉の策としてこのような製品を扱うことになったのか、と皮肉っぽく語られることもありました。

 その発表から1ヶ月もたたない2012年10月17日、今度は持田製薬がEPAの処方薬「エパデール」を薬局で買える薬(OTC)として販売することを発表しました(注2)。エパデールはEPA単剤でDHAを含みませんが、武田薬品のロトリガと同じカテゴリーに入るものです。製薬会社のなかで最大手の武田薬品が新たに<処方薬として>販売することを発表した直後に、製薬会社としては中堅の持田製薬が<薬局で買える薬(OTC)として>承認をとったことを発表したのは興味深いと言えます。

 今回は、これからEPAやDHAはどのように認識されていくのか、摂取すべきなのはどのような人たちなのか、そしてロトリガがいいのかエパデールがいいのか、あるいは既存のサプリメントで充分なのか、といったあたりを考えていきたいと思います。

 大変興味深いことに、上記2つの製薬会社の発表がおこなわれたのと偶然にも同時期に、ω3(オメガ3)不飽和脂肪酸摂取に関する否定的な論文が発表されました。しかし、それらを紹介する前にω3、不飽和脂肪酸、EPA、DHAなど、いくつも単語が出てきましたのでまずはこれらを整理したいと思います。

 健康診断などでよく言われる「高脂血症」とよばれるものは、通常コレステロールが高いか、中性脂肪が高いか、のどちらかです。今回取り上げる不飽和脂肪酸は、中性脂肪とコレステロールの双方に関係があるとされていますが、医療機関で処方するときは中性脂肪の値を基準にすることが多いといえます。

 中性脂肪(別名トリグリセリド)は、脂肪酸とグリセロールからなります。グリセロールというのは、別名グリセリンと呼ばれるアルコールの一種です。グリセロールは簡単な実験室(理科室)で石鹸などからつくることができるものですが、人間に必要なものは体内で合成されています。グリセロールの値が高すぎたり低すぎたりして不都合がある・・、ということは通常ありません。

 問題は脂肪酸の方です。脂肪酸がグリセロールとくっついて(結合して)中性脂肪になるのですが、この脂肪酸にはいくつかのものがあります。まず、脂肪酸は飽和脂肪酸と不飽和脂肪酸にわけることができます。ヒトを含めて動物の中性脂肪は飽和脂肪酸とグリセロールがくっついています。ということは、飽和脂肪酸を食事からどんどん摂れば、それだけ体内の中性脂肪がどんどん増えることが予想されます。一方、飽和脂肪酸の代わりに不飽和脂肪酸を積極的に摂れば、体内の中性脂肪はそれほど上昇しない、ということが期待できます。したがって、理屈の上でも、不飽和脂肪酸がたくさん含まれる魚介類や植物を積極的に摂りましょう、となるわけです。

 では、不飽和脂肪酸ならなんでもいいかというとそういうわけではありません。食品中に含まれて、なおかつ体内で合成することのできない不飽和脂肪酸(より正確には「必須脂肪酸」と呼びます)はω3系とω6系に分けることができます。(オリーブオイルで有名なω9系の不飽和脂肪酸は必須脂肪酸ではありません) ω3系には、α-リノレン酸 、ステアリドン酸、エイコサペンタエン酸(EPA)、ドコサペンタエン酸、ドコサヘキサエン酸(DHA)、などがあります。ω6系には、リノール酸やγ-リノレン酸があります。

 どのような食品にω3系、ω6系の不飽和脂肪酸が含まれているかというと、ω3系では、魚介類、亜麻仁油、しそ油、えごま油などが有名です。ω6系は、紅花油、ひまわり油、大豆油、菜種油などです。

 ω3とω6、どちらがいいかというと、ω3をω6よりも積極的に摂るべきと言われています。ω3系の比率を高めれば、生活習慣病の予防になるだけでなく、うつの予防や自殺予防、またPTSDの予防にもなるということが、日本、アメリカを含む多くの国の研究で指摘されています。

 一方、ω6系は悪者扱いされることが最近増えてきています。例えば、医学誌『British Medical Journal』2013年2月5日(オンライン版)に掲載された論文(注3)によりますと、食事に含まれる飽和脂肪酸(つまり肉やバターなどに含まれる脂肪酸)をω6系のリノール酸に代替した食事療法は、全死因死亡や心血管疾患による死亡をむしろ増加させる可能性があるそうなのです。

 この論文発表は瞬く間に世界中で物議をかもし、AHA(米国心臓協会)は論文発表のわずか2日後の2013年2月7日、「1日当たりの摂取カロリーのうち、飽和脂肪酸からは7%未満とするAHAの食事ガイドラインの推奨に変更はない」と発表しました。つまり、『British Medical Journal』に発表された論文は、決して肉やバターに含まれる飽和脂肪酸(動物性脂肪酸)を多くとってもかまわない、という意味ではないんですよ、ということを強調したわけです。

 ω3系不飽和脂肪酸を積極的に摂取する、あるいはω3/ω6比を増やす(ω6系を減らしてω3系を増やす、という意味です)ことは高脂血症の予防になり、さらに心血管疾患のリスクを減らす、と従来から言われていますが、残念ながらそれを否定する研究が2012年後半に相次いで発表されました。

 ひとつめは、医学誌『JAMA』に2012年9月に掲載されたもの(注4)で、結論を言えば「EPAやDHA製剤を内服しても、全死亡、心血管疾患による死亡、脳卒中などの発症は減少せず、この結果からEPAやDHA製剤の内服を正当化することはできない」、とされています。

 もうひとつは、医学誌『British Medical Journal』に2012年10月に発表されたもの(注5)で、この論文の結論は、「魚の摂取量が増えると心筋梗塞や脳卒中といった血管疾患のリスクは有意に低下するが、ω3脂肪酸自体に有意な利益は見られない。つまりサプリメントや製剤でω3系脂肪酸を摂取しても意味がない」、ということです。

 しかしながら、ω3系の不飽和脂肪酸を豊富に含む青魚を積極的に食べる地域では心筋梗塞などの心臓病が少ないということは、過去にいくつもの大規模調査で指摘されており、これはほぼ間違いありません。いろんな研究があり、それらのなかには相反するものもあるわけですが、確実に言えることは、「薬やサプリメントからではなく食品からω3系の不飽和脂肪酸を積極的にとることは高脂血症の予防につながり寿命を伸ばすことが期待できる」、ということです(注6)。

 このコラムを書きかけていた2013年3月11日、偶然にも国立がん研究センターなどの研究者が飽和脂肪酸に関する疫学調査を発表し同日に各マスコミが報じました。この調査は、日本国内の約82,000人を対象とし、飽和脂肪酸の摂取量と脳卒中及び心筋梗塞との関連を調べています。結果は、飽和脂肪酸を摂り過ぎれば心筋梗塞になりやすく、少なすぎれば脳卒中になりやすい、とされています。つまり「肉や乳製品に含まれている飽和脂肪酸もほどほどに摂るのが一番いいですよ」ということです。

 身も蓋もない結論に聞こえるかもしれませんが、やはり大切なのは「バランスの良い食事」であり、極端な食べ物の制限やサプリメント・薬に頼るのはよくない、ということです。

参考:メディカルエッセイ第101回(2011年6月) 「過熱するコレステロール論争」

注1:ロトリガは、2013年1月より医療機関で処方が開始されました。

注2:「エパデール」は、2013年4月に薬局で処方箋なしで買える薬(OTC)として発売される予定ですが、2013年3月10日現在、正式な発売日や価格は未定だそうです。

注3:この論文のタイトルは、「Use of dietary linoleic acid for secondary prevention of coronary heart disease and death: evaluation of recovered data from the Sydney Diet Heart Study and updated meta-analysis」で、下記のURLで全文を読むことができます。

http://www.bmj.com/content/346/bmj.e8707

注4:この論文のタイトルは、「Association Between Omega-3 Fatty Acid Supplementation and Risk of Major Cardiovascular Disease EventsA Systematic Review and Meta-analysis」で、下記のURLで全文を読むことができます。

http://jama.jamanetwork.com/article.aspx?articleid=1357266

注5:この論文のタイトルは、「Association between fish consumption, long chain omega 3 fatty acids, and risk of cerebrovascular disease: systematic review and meta-analysis」で、下記のURLで全文を読むことができます。

http://www.bmj.com/content/345/bmj.e6698

注6:補足しておくと、本文で紹介したふたつの論文では、いずれも調査対象者のEPA摂取量が「エパデール」の1日摂取量1,800mgと比較すると有意に少ないことには留意すべきかもしれません。つまり、市販のサプリメント程度の量なら摂取することに意味がないとしても、EPAを1日あたり1,800mg摂取すれば中性脂肪やコレステロールの値を改善し、動脈硬化の予防を期待できる可能性はあります。しかし、その場合も他の高脂血症の薬との併用や効果的な運動療法、食事療法などについては検討すべきですし、定期的な血液検査も必要でしょうから、主治医と相談するのが最適でしょう。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2013年6月22日 土曜日

第121回(2013年2月) 糖質制限食の行方 その2

 2012年7月のメディカル・エッセイ第114回で、私は「糖質制限は現在医学界で最もホットな話題」と述べました。その後約半年が立ちましたが、糖質制限はますます注目を集めているようで、太融寺町谷口医院(以下、谷口医院)でも、患者さんから糖質制限についての質問を受けない日はない、と言ってもいいくらいです。

 少し前までは、ぜひ取り組んでみたい、という人が多かったのですが、最近は、糖質制限は危険って聞いたんですけど・・・、という質問が増えてきています。メディカル・エッセイ第114回でも、糖質制限の危険性を指摘した論文を紹介しましたが、今回は、その後の医学界での糖質制限に対する評価についてまとめておきたいと思います。

 糖質制限は、もともとは糖尿病の食事療法として有効ではないか、という考えが少数の学者から提唱され次第に普及していったものです。従来糖尿病に罹患したときに摂取すべき食事は「カロリー制限食」であり、特に高カロリーの脂肪摂取の上限は厳しく制限されています。糖質制限食が、高脂肪食品が食べ放題でありながら糖尿病に有効である可能性が指摘されると、肥満の解消に、あるいは肥満の予防、つまりダイエットに有効ではないかと考えられ世界中に広がっていきました。

 肥満は糖尿病のみならずほとんどの生活習慣病の最大のリスク要因のひとつですから、糖質制限で肥満が防げるならば、行政の立場からは医療費を大きく軽減できる可能性があります。そこで、各国は糖質制限にどのような評価をおこない国民に広く推薦すべきなのかどうかを公表していくことになりました。

 いち早く学会を挙げて糖質制限食に評価を与えたのはスウェーデンだと言われています。イギリスでも英国糖尿病学会が発表しているガイドラインで、糖質制限食を治療の選択肢の一つとすると述べられています。アメリカでも、米国糖尿病学会が、カロリー制限食と並行する形で、糖質制限食を承認することを公表(Nutrition Position Statement)しています。

 では日本ではどうかというと、2012年5月18日、横浜で開催された第55回日本糖尿病学会年次学術集会では、「糖質制限食は糖尿病の食事の選択肢のひとつとなりうる」、というコンセンサスが得られました。しかし、2013年1月13日に開催された第16回日本病態栄養学会年次学術集会で、日本糖尿病学会食事療法委員会の委員長を務める宇都宮一典氏(東京慈恵会医科大学糖尿病・代謝・内分泌内科教授)が、糖質制限を勧めないことを明言したことが報じられました。

 ここは重要な点だと思いますので少し詳しく取り上げてみたいと思います。

 この学術集会で、日本糖尿病学会が今年出す見通しの「糖質制限を含めた食事量をめぐる声明案」の概要が説明されました。そのなかでまず強調されたのが、肥満の是正について、です。肥満の是正は糖尿病の予防と治療で最重要であり、<総エネルギー制限を最優先にする>と強調されました。そして、糖質制限については具体的な数字をあげて次のようにコメントされています。

「総エネルギー制限をせずに、炭水化物を100g以下に制限するのは、長期的な有用性や安全性のエビデンスが不足しており勧められない。1日当たりの糖質の摂取量は100g以上にすべきである」

 また、炭水化物、タンパク質、脂質の構成比についいては、<従来の考え方>が改めて強調されました。つまり、糖質制限はすべきでない、ということです。具体的には、「炭水化物は50%-60%、タンパク質は20%以下を目標とする。脂質の摂取上限は25%とする」と説明されました。脂質については、n-3不飽和脂肪酸の摂取を増やす、といった脂肪酸の構成にも配慮することが付記されています。

 では、糖質制限については、やってはいけない危険な食事療法とされたのかと言えば、そこまでは言及されておらず「今後の検討課題」とされています。日本糖尿病学会は、今後パブリックコメントを募集した上で、あらためて声明を発表する方針のようです。

 日本糖尿病学会が糖質制限に消極的なのは、糖質制限食を長期間継続したときに有用性や安全性がはっきりとしないからです。

 糖質制限の長期的な有用性及び安全性について検討した比較的大規模研究で有名なものにスウェーデンの女性を対象としたものがあります。その研究については、メディカル・エッセイ第114回で詳しく述べましたからそちらを参照してほしいのですが、結論を述べれば「糖質制限を長期間続けると心筋梗塞や脳卒中になる危険性が高まる」というものです。

 この研究が世界中で物議を醸していたのですが、日本からも同様に糖質制限の危険性を指摘する研究が発表され話題を呼んでいます。

 国立国際医療研究センター病院の能登洋医師らのグループは、2012年9月12日までに著名な医学誌に掲載された合計17件の論文を解析し、糖質制限が死亡に与える影響を調査しました。対象者は合計272,216人になり、追跡期間は5~26年間です。合計27万人以上を対象とした研究というのは、糖質制限の有効性・安全性について調べたものでは世界最多ではないかと思われます。研究結果は医学誌『PLOS ONE』2013年1月25日号(オンライン版)に掲載されています(注1)。

 研究の結果は、「糖質制限をおこなうと全死亡リスクが約1.2~1.3倍に上昇する」、とされています。

 スウェーデン女性を対象とした研究では「心筋梗塞や脳卒中になる危険性が高まる」とされており、能登洋医師らの研究でもこの点が検討されています。その結果は、「糖質制限をおこなうと心筋梗塞や脳卒中といった血管の疾患のリスクは上昇する傾向にあるが、統計学的な有意差まではでていない」とされています。しかし、これは、「有意差はでていないものの、これら疾患に対する糖質制限の危険性については充分な注意をすべき」と捉えるべきでしょう。

 以前にも何度か述べましたが、私自身が感じている糖質制限の最大の欠点は「長続きしないこと」です。糖質制限、要するに「炭水化物を減らした食生活」は決して簡単ではない、ということです。味噌汁と漬物があってご飯を制限、という食事がどれだけつらいかは容易に想像できるでしょう。洋食を中心としても、パンやパスタの制限、さらにじゃがいもや豆もダメとなると、いくら1日あたり100グラム程度の糖質はかまわない、と言われても、それが2ヶ月程度なら続いても、生涯続けなさい、と言われると、これは相当大変です。

 糖質制限をおこなうと心筋梗塞や脳卒中が起こりやすくなるのが事実だとすると、おそらくその理由のひとつは、炭水化物の代わりに脂質を多く摂取してしまうということでしょう。コレステロールや中性脂肪の値が高くなる高脂血症は、これら血管障害の最大のリスクのひとつです。

 糖質制限肯定派の人たちがよく言うセリフに、「大昔の人類は米や小麦を栽培しておらずマンモスなどの肉を食べていた。だから人類にとって自然なのは肉食なのだ」というものがありますが、これも最近では否定的な見解がでてきています。つまり大昔の人間にとって肉にありつける機会はそれほど多くなく、日頃食べていたのは自然に育っている野菜や果物、さらに木ノ実やイモ類であったであろう、ということが化石などの解析からわかってきているそうです。

 ではどうすればいいのか・・・、ということについて、私の意見をメディカル・エッセイ第114回に書きましたのでそちらを参照してほしいのですが、糖質制限を実践するなら、医師や栄養士の指導の下でおこなうべきで、脂肪を取りすぎていないかどうかについてはときどき血液検査などでチェックしていくべきでしょう。

注1:この論文のタイトルは、「Low-Carbohydrate Diets and All-Cause Mortality: A Systematic Review and Meta-Analysis of Observational Studies」で、下記のURLで全文を読むことができます。

http://www.plosone.org/article/info%3Adoi%2F10.1371%2Fjournal.pone.0055030

参考:
メディカル・エッセイ第114回(2012年7月) 「糖質制限食の行方」
メディカル・エッセイ第109回(2012年2月) 「糖質制限食はダイエットにどこまで有効か」
医療ニュース2013年1月7日 「やはり減量には脂肪を減らすのが有効」

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2013年6月22日 土曜日

120 セルフ・メディケーションのすすめ~抗ヒスタミン薬~ 2013/1/21

 以前、このサイトのマンスリーレポート(下記参照)で、軽度の花粉症であれば「アレジオン10」という薬局で買えるようになった薬で対処できるかもしれない、ということを述べました。

 今回は、新たに薬局で買えるようになった花粉症の薬について紹介し、さらに今後の展望について考えていきたいと思います。

 2012年11月1日、久光製薬は「アレグラFX」というアレルギー性鼻炎の薬を発売しました。この薬は従来医療機関で「アレグラ」として処方されていたもので、数ある花粉症の薬のなかでも「最も眠くなりにくい」とされているもののひとつです。

 今、便宜上「アレジオン10」も「アレグラFX」も花粉症の薬、あるいはアレルギー性鼻炎の薬、としましたが、もう少し正確に言えばこれらは「抗ヒスタミン薬」、さらに詳しく言えば「第2世代の抗ヒスタミン薬」となります。まずはこれらを整理したいと思います。

 抗ヒスタミン薬にどのような効き目があるのかというと、1つは鼻炎に有効です。この「鼻炎」というのは、花粉症を含むアレルギー性鼻炎ももちろん含みますし、アレルギーが関与しないタイプの鼻炎も含みます。また、風邪を引いたときには鼻粘膜に炎症がおこりその結果鼻水が出ますが、これも「鼻炎」のひとつです。ですから、市販の風邪薬(総合感冒薬)には抗ヒスタミン薬が入っています。市販の風邪薬で眠くなるのは(古いタイプの)抗ヒスタミン薬のせいなのです。ということは、風邪をひいて鼻水を止めたい、だけど眠くなるのはイヤ、という人はアレジオン10やアレグラFXを使えば眠くならずに鼻水を止めることが期待できます。(ただし実際には、風邪ではこれらの薬は販売できないことになっています)

 花粉症は鼻炎症状で悩まされる人が最も多いのですが、結膜炎(目がかゆい)、皮膚炎(特に目の周り)、咽頭炎(咽頭に違和感)、気管支炎(咳がでる)などもあります。抗ヒスタミン薬はこういった鼻炎以外の炎症を抑える効果もあります。ですから、花粉のシーズンになると、鼻水・鼻づまりだけでなく、目が真っ赤になって痒くなり、目の周りの皮膚もかゆくて、喉に不快感があるし咳が出ることもある、という人が抗ヒスタミンを飲むだけですべての症状から開放される、ということもあります。

 もうひとつ抗ヒスタミン薬が有効、しかも極めて有効なのは「じんましん」に対してです。抗ヒスタミン薬が利かないじんましんが全くないわけではありませんが、少なくともほとんどのじんましんに対し、まず初めに使うべきなのは抗ヒスタミン薬です。じんましんには様々なタイプのものがありますが、それが食べ物などが原因のアレルギー性のものであったとしても、非アレルギー性のものであったとしても抗ヒスタミン薬はよく効きます。

 さらに抗ヒスタミン薬は「湿疹」や「かぶれ」にも有効です。これらには外用薬が主役となり、抗ヒスタミン薬は補助的な役割となるのが普通ですが、外用薬だけで完全に治らない湿疹には極めて有効ですし、なかには外用薬よりも抗ヒスタミン薬の方がよく効く、というケースもあります(注1)。

 例えば、花粉症があって、ときどきじんましんが出て、水洗いなどで手に湿疹がでやすい、という人がいれば(実際このような人は多い)、抗ヒスタミン薬はこれらすべての症状に有効であり大変ありがたい薬となるわけです。

 抗ヒスタミン薬が世界の市場に初めて登場したのは1950年代です。塩酸ジフェンヒドラミンという抗ヒスタミン薬が最も有名なもののひとつですが、これは今は薬局で(誰でも簡単に)買えます。商品名で言えば「レスタミン」(注2)などです。「ドリエル」(注3)も同じ塩酸ジフェンヒドラミンですが、薬局ではかゆみや鼻炎に対してではなく、睡眠薬(睡眠改善薬)として販売されています。これは抗ヒスタミン薬の副作用の眠気を利用したものなのです。(下記コラムも参照ください)

 抗ヒスタミン薬の登場で、鼻炎やじんましんで悩んでいた人たちはこれまでのつらい症状からは開放されたわけですが、今度は眠気に悩まされることになりました。鼻炎やじんましんは世代を問わず起こります。学生や社会人は日中から強い眠気があれば勉強や仕事に影響がでます。眠気が起こらずに何の副作用も感じられない、という人もいないわけではありませんが、そういう人でも作業効率が低下しやすいことがこれまでの研究から分かっています。知らず知らずのうちに注意力が散漫になったり、集中力が途切れたり、ということが生じるのです。

 抗ヒスタミン薬の発見は薬理学の歴史に残る画期的なものだったわけですが(注4)、眠気を克服しないことには使いにくい薬です。その後の抗ヒスタミン薬の開発は、いかに眠気をなくすかとの戦い、といっても過言ではありません。1980年代から少しずつ眠気が起こりにくい抗ヒスタミン薬が市場に登場しだし、これらは「第2世代の抗ヒスタミン薬」と呼ばれだしました(注5)。

 医療機関で医師が抗ヒスタミン薬を処方するときには常に眠気に注意をして、その患者さんに最も適したものを選択するようにします。第2世代の抗ヒスタミン薬がどんどん進化してくるにつれて、第1世代のものは、「寝る前にじんましんがでやすいのでむしろ眠気があるものの方がいい」とか「眠気が出てもいいからとにかく安いものを処方してほしい」というようなケースを除けば使われなくなっていきました。

 そして2011年11月、エスエス製薬株式会社は、第2世代の抗ヒスタミン薬「アレジオン10」を発売しました。私はこれが日本の抗ヒスタミン薬の歴史のターンニングポイントになるのではないかとみています(注6)。アレジオンが処方薬として登場したのは1994年ですから、実に17年たってようやく薬局でも買えるようになった、ということになります。冒頭で紹介したアレグラは医療機関での処方開始が2000年で、12年後に薬局に登場、ということになります。

 アレジオン10やアレグラFXが薬局で買えるようになったことはもちろん歓迎すべきことなのですが、手放しで喜べない点が2つあります。

 1つは認可されている「効果・効能」です。両方の薬剤とも効果・効能として、「花粉、ハウスダスト(室内塵)などによる次のような鼻のアレルギー症状の緩和:鼻みず、鼻づまり、くしゃみ」、と記載されています。つまり、鼻炎には使えますが、じんましんや湿疹には使うことができない、のです。じんましんで悩んでいる患者さんが薬局に行き薬剤師に相談したときに、薬剤師はこれらをすすめることが少なくとも”法的には”できないわけです。薬剤師からすれば、じんましんや湿疹で困っている人が目の前に来たときに「本当は眠くならないアレジオン10やアレグラFXをすすめたい。しかしそれをすると薬事法に抵触する・・・」というジレンマに苦しむことになります。

 一方、眠くなる第1世代の抗ヒスタミン薬であるレスタミンや、古い第2世代の抗ヒスタミン薬であるスカイナーAL錠(注6参照)の効果効能には「じんましん、湿疹・かぶれによるかゆみ、鼻炎」と記載されています。医療機関でじんましんや湿疹に処方するのは、アレジオンやアレグラを含む眠くならない新しい第2世代の抗ヒスタミン薬です。なぜ、アレジオン10やアレグラFXを市場に出すときにこれら製薬会社はじんましんや湿疹を効果・効能に加えなかったのか、私にはこの点が残念でなりません・・・。

 アレジオン10、アレグラFXの登場を手放しで喜べないもうひとつの点は「価格」です。この点は別のコラムで取り上げましたから(注7)、ここでは詳しく述べませんが、アレジオンの後発品を医療機関で処方してもらうと、アレジオン10で同様の自己治療をしたときに比べて、ケースによっては10分の1以下(!)になるのです。

 新しいタイプの眠くならない(なりにくい)第2世代の抗ヒスタミン薬には、アレジオン、アレグラ以外に、アレロック、クラリチン、ジルテック、タリオン、ザイザルなどがあります。このうち、ジルテックは近日薬局で買えるようになり(注8)、アレロックとクラリチンはすでに海外では薬局で処方箋なしで購入できます。

 これらがどんどん薬局に現れ、さらに後発品も薬局に登場するようになり、また鼻炎だけでなくじんましんや湿疹にも認められるようになれば、患者さんとしては医療機関で待たされなくてすみますし、医療者の疲弊が改善されますし(もちろん重症例は医療機関で診察すべきですが現状では軽症の人も大勢受診されています)、また製薬会社も薬局も潤い景気対策にも有効でしょうから皆にとって大変有益だと思うのですが、さて実際には今後どうなるのでしょうか・・・。

注1 ここで言う外用薬は保湿薬(尿素軟膏やセラミド、ヘパリン類似物質など)、ステロイド外用薬、タクロリムス(プロトピック)などです。抗ヒスタミン薬の外用薬もないわけではないのですがそれほど使われません。抗ヒスタミン薬は内服薬が主役なのです。

注2 レスタミンUコーワ錠、レスタミンコーワ糖衣錠、などです。

注3 ドリエルは1回2錠で希望小売価格が12錠入り1,900円ですから1回あたり(ジフェンヒドラミン塩酸塩50mg相当)317円となります。一方、レスタミンコーワ糖衣錠は希望小売価格が220錠入り1,450円で、ジフェンヒドラミン塩酸塩50mgは5錠に相当し33円になります。つまり、睡眠改善目的でドリエルでなくレスタミンコーワ糖衣錠を用いると、コストはおよそ10分の1で済むことになります。薬事法上の問題はありますが・・・。

注4 抗ヒスタミン薬を発見したイタリアのダニエル・ボベット氏はノーベル賞を受賞しています。

注5 90年代半ば以降に登場した「さらに眠くなりにくい抗ヒスタミン薬」を「第3世代の抗ヒスタミン薬」と呼ぶこともあります。

注6 アゼプチン(一般名は塩酸アゼラスチン)という第2世代の抗ヒスタミン薬があり、これはスカイナーAL錠(以前はハイガードという名称でした)という名前で薬局で売られています。これは一応第2世代の抗ヒスタミン薬に分類されますが、アレジオンやアレグラに比べると眠気を訴える人が比較的多い印象が私にはあります。

注7 下記コラム(「セルフ・メディケーションのすすめ~花粉症編~」)で、アレジオンの後発品の価格を具体的な数字をあげて説明していますので参照してみてください。尚、アレグラの後発品はこれまでありませんでしたが、2013年1月の下旬に発売予定です。

注8 処方薬のジルテックも2013年2月1日に薬局で買える薬として登場します。2社から発売される予定で、「ストナリニZ」(佐藤製薬)、「コンタック(R)鼻炎Z」(グラクソスミスクライン社)です。

参考:
はやりの病気第86回(2010年10月) 「新しい睡眠薬の登場」
マンスリーレポート2012年4月 「セルフ・メディケーションのすすめ~花粉症編~」

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2013年6月22日 土曜日

119 絶対に許せないイタズラ電話 2012/12/21

わいせつ事件や違法薬物など到底許されるものではない犯罪で逮捕される医師が少なくない、ということを昨年(2011年)と一昨年(2010年)の12月のこのコラムで述べており、なんとなく年末には医師の犯罪について一年を振り返ることが恒例になってしまうのかな、と感じていたところ、イギリスからとんでもないニュースが伝わってきたので、今回はこの事件について取り上げたいと思います。

 これは今年私が最も怒りを感じた事件のひとつです。

**********

 2012年12月7日9時35分、ロンドン中央部に位置するウエーマス通り(Weymouth Street)で(一部の報道では看護師寮と言われています)ひとりの女性が意識不明との通報がロンドン警視庁に寄せられました。女性はすでに死亡しており、鑑識によれば他殺の可能性はなく警察は自殺と断定しました。

 この女性は、ジャシンタ・サルダナ(Jacintha Saldanha)さん、ロンドンの名門病院キング・エドワード7世病院に勤務する46歳の看護師で二児の母親でもあります。

 なぜサルダナ看護師は自殺しなければならなかったのか。事件は3日前にさかのぼります。

 2012年12月4日、ロンドン時刻で早朝の5時30分に1本の電話がキング・エドワード7世病院にかかってきました。通常外部からの電話は専門のオペレータがとりますが、その時間帯はオペレータがおらず、夜勤の看護師として勤務していたサルダナ看護師が取りました。

 電話をかけてきたのは男女二人で、なんとエリザベス女王とチャールズ皇太子だと名乗ります。実は、12月3日に第一子の妊娠が発表されたキャサリン妃はこの病院に入院していたのです。つわりがあまりにもひどいために入院が必要であったと報道されています。電話をとったサルダナ看護師はさぞかし驚いたことでしょう。受話器の向こう側の男女が女王と皇太子なわけですから緊張しないはずがありません。

 キャサリン妃の容態を知りたい、と皇太子と女王に言われたサルダナ看護師は、この電話をキャサリン妃の担当看護師につなぎました。そして、担当看護師はキャサリン妃の容態を皇太子と女王に電話で伝えました。

 ところが、この電話がイタズラ電話だったのです。女王と皇太子になりすまして電話したのはオーストラリアのラジオ局『2DayFM』の番組「The Summer 30」でパーソナリティをつとめるメル・グレイグ(Mel Greig)とマイケル・クリスチャン(Michael Christian)の2人でした。

 キャサリン妃の容態はラジオで報道されることになりました。そして、守秘義務を守れなかったサルダナ看護師は強い責任を感じ自殺という道を選択するまでに追い詰められたのです。この事件を報道しているBBC(注1)によりますと、キング・エドワード7世病院は、サルダナ看護師を「大勢の患者さんに献身的な看護をしてきた一流の看護師(a first-class nurse)」と敬意を表しています。

 イタズラ電話をかけたラジオ局の代表取締役であるリース・ホラーラン(Rhys Holleran)氏は、記者会見を開き、「誰も予測できなかった悲劇であり深く悲しんでいる」とコメントしていますが、同時に「このようなイタズラ電話は昔から行われていることで、法律的には何ら問題がない」と述べています。報道からは謝罪の言葉は一切伝わってきません。

**********

 オーストラリアは英連邦王国に属するひとつの国ではありますが、それでも一般のイギリス人からみればオーストラリア人は外国の人間です。その外国人の悪質極まりないイタズラ電話で自国の看護師が自殺に追い込まれたということに対し、イギリス人はどのような感情を持っているのでしょう。

 この事件を伝えているBBC(注1)は、あからさまにはこのラジオ局やイタズラ電話をした2人のDJに対して非難をしていないように見受けられますが、それでも、真剣な表情をしたサルダナ氏の写真を大きく載せ、同時に2人のDJがのんきに笑っている写真を掲載し、必死で記者会見に応じているようにみえるラジオ局代表取締役の写真も合わせて載せていることから考えて、イギリスの世論は相当怒りを感じているのだと思われます。

 この事件を聞いた人のなかには、「プロの看護師ならなぜイタズラ電話を見抜けなかったのか」とか「本人確認をせずに電話をとりつぐことがおかしいのではないか」と感じる人もいるかもしれません。

 実際、医療機関にはなりすまし電話がかかってくることがしばしばあります。家族を名乗る人や、自称「上司」という人、ひどい場合は弁護士を名乗るとか、あるいは警察のふりをして電話をかけてくる人もいます。我々医療者はそういうことがあることをわかっていますから、患者さんの容態を教えてほしいという電話があったときは、慎重に本人確認をします。

 例えば、警察から電話がかかってきたときには、警察署と内線番号を聞いて、いったん電話を切ってこちらからかけ直すようにします。太融寺町谷口医院(以下、谷口医院)にもときどき警察からの電話がかかってきます。事件の加害者も被害者も病気にはなりますから医療機関の受診内容が事件解決の手がかりになるということもあるのです。実際、谷口医院の患者さんのなかにも、マスコミで報道された大きな事件の被害者もおられますし、報道されないような事件の加害者も過去に何人かいました。余談になりますが、報道されないけれども悪質な事件が世の中にはたくさんあることを、医師をしていれば実感せざるを得ません。

 話を戻しましょう。医療者であれば、患者さんに関する外部からの問い合わせには慎重すぎるほど慎重になります。それを考えると、一見サルダナ看護師のとった行動は軽率に思われるかもしれません。しかし、電話の相手が女王と皇太子となると動転するのも無理もありません。「失礼ですが、本人確認のためにこちらから(皇室に)かけ直します」と言えるでしょうか。もしもそのようなことを言ってしまうと、後で病院から「あなたは皇室に対して大変失礼なことをしました。これは解雇の理由になります」と言われるかもしれません。サルダナ看護師がこの電話を担当看護師に取り次いだときは相当悩まれたと思いますが、よく考えた上での判断だったのでしょう。

 裏をかえせばそれだけこのイタズラ電話が巧妙だったということです。ですからラジオ局のパーソナリティとしてはこの2人は一流なのかもしれません。報道によれば、この2人のDJは事件の後相当ふさぎこんでいるようです。しかしどのような謝罪の言葉を述べようが、サルダナ看護師の遺族はこの2人を許せないのではないでしょうか。

 この2人のDJにもこれからの人生があります。ならば、この事件をいろんなところで取り上げて(なぜか日本のマスコミはこの事件をそれほど報道していません(注2))、このようなイタズラ電話は許されるものではない、ということを世界中にアピールするような活動をやってもらえないでしょうか。

 同じ医療者である私が言っても説得力がないかもしれませんが、どこの国でもほとんどの医療者は疲弊しています。そして、ほとんどの医療者は他人を疑うことが得意ではありません。他人を疑うことが得意でない疲弊した人間を騙すことはおそらくそうむつかしくないでしょう。今後同様の事件が起こらないことを願いたいと思います・・・。

注1:下記のURLでBBCの記事と写真が閲覧できます。
http://www.bbc.co.uk/news/uk-20649816
 
注2 例えば日経新聞では、この事件の直後の2012年12月16日の社会面で「揺れる英大衆紙 盗聴取材で批判」というタイトルで、イギリスのマスコミ(主にタブロイド紙)がいきすぎた取材をしていることを非難していますが、サルダナ看護師の自殺については一切触れていません。また、日本のいくつかの大衆誌は、フランスの芸能誌がキャサリン妃の盗撮トップレス写真を掲載したときに記事にしたようですが、やはりサルダナ看護師の自殺についてはほとんど取り上げていないようです。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2013年6月22日 土曜日

第118回(2012年11月) 解剖実習が必要な本当の理由

 医学部受験を考えているという人から「成績が悪いので不安です」と相談されることがよくあります。こういう質問に対しては、ほぼ例外なく「頑張りましょう」と私は答えています。ところが、「僕は、人の死体を解剖する自信がありません。医学部はやめた方がいいでしょうか・・・」と聞かれることがあり、このときの返答には悩まされます。

 というのも、解剖実習に耐えられなくて、せっかく苦労して医学部に入学したのだけれども退学せざるを得ない、という人が実際にいるからです。

 解剖実習はだいたいどこの大学医学部でも2回生のときにおこなわれます。私の母校の大阪市立大学医学部でも2回生の4月から解剖実習が始まりました。その解剖実習のときに初めて会う「先輩たち」がいます。その先輩たちとは、要するに解剖学の単位が取得できずに留年した人たちです。多くは、勉強不足で解剖学の試験に合格できなかった人たちですが、なかにはテストができなかったのではなく実習に耐えられなくなり途中でドロップアウトしたという人もいるのです。私が2回生になったとき、そのような先輩が1人いました。

 私はその先輩とは一度も話したことがなく名前も覚えていませんが、たしか2年連続で解剖実習を途中でリタイヤし、その年を最後のチャンスと考えている、といったようなことを人づてに聞いた記憶があります。過去2年間は、がんばってみたもののどうしても、ご遺体に向き合いメスを入れる、ということに耐えられなくなり途中から実習に参加できなくなったそうです。3年目は、「今年こそ!」という気持ちで望まれたのでしょう。たしか、実習に対する態度はどの学生よりも熱心だったように覚えています。しかし、2ヶ月が経過したかどうかという頃だったと思います。ある日から実習に来られなくなり、その後一度も会うことはありませんでした。その人が現在何をされているのかも分かりません。

 大阪市立大学医学部のこの私の先輩のように、どこの大学でも解剖実習に耐えられなくて退学する医学生がいるそうです。だいたい、2~3年に1人くらいそのような学生がいて、不思議なことに男性ばかりのようです。たしかに、解剖実習に耐えられなくて退学した女子学生、の話は今も聞いたことがありません。

 私は、この解剖実習に耐えられなくて退学していった人たちと話をしたことがないのですが、退学という選択が苦渋の決断であったに違いありません。医学部入学は簡単ではありませんから、退学してしまうとその苦労が無駄になるという気持ちも出てくるでしょうし、家族など周囲からも残念に思われることでしょう。しかし、耐えられないものは耐えられないのであって、誰も彼らを責めることはできません。

 このような現実があるから、冒頭で述べたように「解剖実習が不安なので医学部受験が心配・・・」という人に対して、どのように返答すべきか悩まされるのです。訓練すれば解剖に耐えられるようになるのか、持って生まれたものであり耐えられない人は何をしても耐えられないのか、私にはこの答えが分かりません。しかし、何の抵抗もなく解剖実習がおこなえる、という人もまたほとんどいないと思われます。

 ご遺体に対面したときのことは、私は今でも鮮明に覚えています。初めから顔を拝見することはできず、まずは右上肢をおそるおそる視界に入れ、ホルマリンに保管されてやや黄色に変色した皮膚の色に自分の目をならしました。そして、体全体を眺めるように視線を動かし、最後に顔を拝見しました。視界に入るこの光景が日常から隔絶されたような感覚をもたらせますが、鼻腔を刺激するホルマリンの臭いがさらに非日常さを増幅します。医学部に来たんだ、という実感が、合格通知を受け取った日や入学式以上に重たく感じられたのはおそらく私だけではないでしょう。

 この日から私は医師の仲間入りをしたような感覚にとらわれました。最初にご遺体にメスを入れるときは緊張し、「この人はどんな人生を歩まれたのだろう・・」などと考えていましたが、1週間もすれば、そのような気持ちは次第に薄れていきました。最初の数日間は肉が食べられませんでしたが、そのうちに実習終了直後から普通に食事ができるようになりましたし、覚えなければならない筋肉、血管、神経などのことで頭がいっぱいになっていきました。もはや感傷的な気持ちに浸っている余裕はありません。

 解剖実習では筆記試験以外に口頭試問があります。これは、ご遺体の横に1人で立たされ、その場で先生から、例えば「肩甲下動脈と胸背動脈を示しなさい」といった問題が出題されるのです。学生はピンセットを持って、これら動脈を探し出して先生に提示しなければなりません。このような問題が4~5問ほど出題され、これが実習中を通してたしか4回ほどあったと思います。この口頭試問で不合格となれば、筆記試験ができたとしても留年となってしまいます。ですから学生としてはまさに必死であり、とてもご遺体に対するセンチメンタリズムを感じている余裕はないのです。

 解剖実習を終了するというのは、医学部の学生にとって儀式を通過したような意味があるのではないか、と私は考えています。ご遺体にメスを入れることによって、生命の重さを感じるのと同時に、人間を「治療の対象」とみることができるようになるのではないかと思うのです。医学部の学生はその後、臨床実習で手術を見学することになりますが、解剖実習を経ていなければ、手術を冷静に観察することはできないでしょう。もちろん、実際に手術をすることもできません。

 顔面を包丁で何箇所も切られていたり、腹部を刺されて腸管が飛び出していたり、あるいは電車に引かれて足が切断されていたり、といった症例を救急の現場で私は何度も経験しましたが、我々医師は誰一人、そのような光景におびえたりとまどったりしません。一般の人からは「目の前の患者さんを救いたいという気持ちがあるからこそなんですね」とかっこよくみてもらえるかもしれませんが、実はそのような高尚なものではありません。どのような状態の患者さんをみても戸惑うことがないのは、医師として高い倫理観を持っているから、といったものではなく、解剖実習という”儀式”を通過しているからではないか、そしてその”儀式”を経ることによって医師という職業人のいわば”本能”が培われるのではないか、と私は考えています。

 切断や顔面の切傷などの外傷をみても怖くないの?、というもの以外に、一般の方からときどき受ける質問に「異性の裸をみてドキドキすることはないの?」というものがありますが、これも普通の医師であれば、まったくありません。誤解を恐れずに言えば、我々は患者さんを「同士としての人間」とはみていません。「物」としてみているわけではありませんが、「患者さん」は「患者さん」なのです。患者さんの歩き方、目線のやり方、声の大きさやトーン、話すときの仕草やクセ、そのようなことすべてに注目しています。(男性)医師が、「外陰部がかゆい」と訴える若い女性の外陰部を診察するとき、周囲も含めて外陰部に、発赤や丘疹など異状所見はないか、帯下(おりもの)の性状や量、臭いに異常はないか、といったことをみていき、瞬時に必要な検査を考えて実施していきます。このとき男性医師はこの患者さんを「異性」とはみていないのです。

 同じように「好みのタイプの患者さんがやってきたらデートに誘いたくなることはないの?」と聞かれることがありますが、これもまともな医師であればありません。つまり、医師からみれば患者さんは「恋愛」はもちろん「友達」の対象にさえもならないのです。一般の方からは分かりにくいかもしれませんが、これは不文律のようなものです。米国では、実際に倫理規定として指針が文章で示されています(注1)。わざわざ言葉にしなくても日本人からすれば常識なのに・・、と思いますが、米国ではきっちりと文章にする必要があるのでしょう。

 患者さんを「同士の人間」ではなく「患者さん」とみることができるようになるのは解剖実習という”儀式”を経たからではないか、私はこのように考えています。つまり、外傷で原形を残していないような患者さん(あるいはご遺体)をみても、異性(同性も)の外性器をみても、美しい女性(や男性)をみても、冷静に診察ができるのは、解剖実習を経験しているから、と私は思うわけで、解剖実習はどのような医師になるにしても避けることができない、というのが私の考えです。

 解剖実習に不安がある、という医学部受験生の気持ちはわからないではないのですが、何と助言していいのか悩まされます・・・。

注1:アメリカ医師会(American Medical Association、AMA)の「医療倫理の指針」(AMA Code of Medical Ethics)に、患者との性的接触についての項目があります。下記に一部を示し、下に簡単な和訳を記しておきます。

Sexual contact that occurs concurrent with the patient-physician relationship constitutes sexual misconduct. Sexual or romantic interactions between physicians and patients detract from the goals of the physician-patient relationship, may exploit the vulnerability of the patient, may obscure the physician’s objective judgment concerning the patient’s health care, and ultimately may be detrimental to the patient’s well-being.

患者と医師の性的接触は不正行為に相当する。 医師と患者の性的関係、あるいはロマンスは、医師と患者のあるべき関係を損ない、患者の弱い立場が悪用される可能性があり、また医師の客観的な判断を鈍らせる可能性がある。つまり、患者にとって有害となり得るのである。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2013年6月22日 土曜日

117 医師の勤務時間・年収の実態 2012/10/20

 毎年夏が終わる頃になると、受験の相談のメールが増えるようになります。現役の高校生や浪人生からの「医学部を目指しています」というものもあれば、現在何らかの仕事をしている人、あるいは無職の人から「医学部再受験を考えています」、というものもあります。

 メールの内容は大変熱心で真摯なものもあれば、そうでないものもあります。「そうでないもの」とはどのようなものかというと、代表的なのが「勤務条件がいいから医師になりたい」、もっと端的に言えば「医師になって金を稼ぎたい」というものです。

 動機がどのようなものであれ、与えられた仕事をまっとうしそれに見合う報酬を受け取ることには何の問題もないではないか、という意見もあるでしょうが、「医師という仕事そのものに魅力を感じなければ医師は目指すべきでない。もしも勤務条件を医師という職業選択のただひとつの理由と考えるなら後悔することになる」、というのが私の考えです。

 「m3.com」という医師向けのウェブサイトがあります。サイトの案内によれば、m3.comは、全国の医師20万人以上が登録している「日本最大規模の医療専門サイト」だそうです。最近、このm3.comが医師の勤務状況に関してアンケート調査をおこないました。

 その調査によりますと、勤務医の平均時給は2,643円、平均年収は1,442万円だそうです。

 この数字をみてあなたは何を感じるでしょうか。私自身はこれら2つの数字をみて「まさか、これほどとは・・・」と驚きました。そのことについて述べる前に、この調査について少し詳しくみておきましょう。

 m3.comは、医師会員を対象とし、2012年9月14~15日にアンケート調査を実施しました。回答者は、勤務医270人と開業医231人の合計501人だったそうです。せっかくこのような調査をおこなうなら、もう少し母数を増やして調査の信憑性を上げてもらいたい、と感じますが、同サイトはこれで充分と判断としたのでしょう。

 時給については、「昨年の1ヶ月の平均休日数」のデータを基に、「年収÷12÷(30-休日)÷勤務時間」の計算式で算出しているそうです。

 さて、私が驚いたことですが、勤務医の平均時給が2,643円、平均年収が1,442万円ですから、単純にこれらから年間労働時間を計算すると、14,420,000円÷2,643円/時=5,456時間となります。これを月にしてみると、5,456÷12=455時間!となります。

 現在労働法で定められている標準的な労働時間は、1日8時間x週5日=40時間です。1月4週とすると40時間x4週=160時間となります。現行の労働安全衛生法によれば、月平均の時間外・休日労働時間が80時間を越えれば産業医の面談を受けなければならないことになっています。以前弁護士に聞いたことがあるのですが、最近はだいたい月150時間以上の時間外・休日労働があれば過労死を含む労災が認められる傾向にあるそうです。

 今回のm3.comの調査から算出された勤務医の月平均の時間外・休日労働時間は、455-(40 × 4週)=295時間!となります。150時間で労災が認定されるなら、大半の勤務医は、うつなどの精神症状や何らかの身体症状が生じれば、過重労働が原因、と容易に認められることになるでしょう。

 月あたり455時間という数字を考えてみましょう。休日ゼロと仮定すれば、1日あたりの労働時間は15.17時間(455時間÷30日)となります。毎日休みなく、1日15時間以上働く気合いと体力がなければ勤務医はつとまらない、というわけです。

 では、開業医はどうかというと、m3.comの調査によれば、開業医の平均時給は4,333円、平均年収は2,156万円となっています。これをみれば、開業医ははるかに勤務医より恵まれている!、となりますが、実際はそうではありません。以前も述べたことがありますが(下記コラムも参照ください)、開業医の7割は診療所・クリニックを医療法人としていません。医療法人にしていなければ診療所・クリニックの経常利益がそのままその開業医の年収と計上されます。しかし、実際はここから高い税金を払い(給与所得控除が認められませんから税率はかなり高い)、残ったお金から借入金の返済をしなければならないのです(借入金の利子は経費として認められますが借入金そのものは認められません)。この手の調査は「勤務医vs開業医」とするものが多いのですが、実際は医師になっていきなり開業医となる者はいませんし、開業をしながら勤務医として週1~2回は勤務医としても働いている医師もいますから、2項対立の構図を描くことはあまり意味がありません。

 以前私は自分の年収から時給を計算したことがあります。(太融寺町谷口医院は医療法人にしていますから収入は勤務医と比較しやすい) その結果は、上に述べた勤務医の時給よりはいくらか高いのですが、逆に年収はいくらか低くなります。ということは、私は平均の勤務医ほど働いていない、ということになります。「開業医でラクをしているのはけしからん! 勤務医を見習って働け!」という意見もあるかもしれませんが、それでも私の月あたりの労働時間は320~350時間ほどになっています。一般の労働者で、残業なし、休日出勤なしの場合、勤務時間は40時間x4週=約160時間/月、ですから、すでに私のレベルでもこの倍以上働いていることになります。

 私自身も産業医としてときどき労働者の面談をすることがあります。月あたりの時間外・休日労働時間が80時間を越えている人に対し、「こんな状態が続くといろんな病気のリスクになりますよ」などと話していますが、心の中では「説得力ないなぁ・・・」と感じているのが正直なところです。

 もしもあなたにとって興味のない仕事を「時給2,643円あげるから月に400時間やりなさい」と言われればどうするでしょうか。おそらく大半の人は辞退して他の仕事を探すでしょう。しかし、私は「こんなに過酷なんだから医師になるのはやめなさい」と言っているわけではありません。その逆に、それでも医師は魅力ある職業だ、と言いたいのです。

 月あたり455時間の労働時間は、すべて外来や手術などで患者さんと接している時間だけではないはずです。このなかには勉強と呼ぶべき時間も含まれているでしょう。つまりカルテをみながら、複数の教科書を広げ、いくつもの論文に目を通している時間が相当入っているはずです。また、学会や研究会での発表の資料を作る時間や、そのための勉強時間も含まれているのではないかと思われます。(私が算出した自分の労働時間にはそのような時間も含めています) そして、こういった仕事と勉強の中間のようなことをするのは大変楽しいことなのです。楽しいですし、学んだことを治療にいかせることができるのです。そして担当している患者さんが元気になることが期待できるわけです。
 
 もしも「医師は年収が高い。高い年収をもらえるなら興味のないことでも我慢してがんばろう」などと思っている人がいるなら医学部受験は辞めるべきでしょう。これからの人生が大変不幸なものになります。

 その逆に、「医師の仕事は自分にとってとても興味深い。だから目指すんです」とか「目の前の患者さんの力になりたい。そのためなら過酷な労働条件にも耐えます」、という人は是非医学部を目指してください。

 過酷な労働条件に不安を持つ人もいるでしょう。私自身も、もう少し勤務時間を減らしたいと考えています。医師増員に反対する医師がいるのは事実ですが、行政としては医学部の定員を増やす方向にありますし、医学部新設も検討されています。将来的には、少しくらいは労働時間を減らすことが期待できます。

 さあ、あなたも医学部を目指しませんか?

参考:メディカル・エッセィ第106回(2011年11月) 「開業医は儲かる」のカラクリ」

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2013年6月22日 土曜日

116 待つ苦痛と待たせる苦痛 2012/9/20

外来患者の4人に1人が病院で診察を受けるまでの待ち時間に不満を持っている・・・

 2012年9月11日、厚生労働省は2011年の「受療行動調査」を公表しました。上記は、そのなかの「待ち時間」に関する調査結果です。この調査は2011年10月18日から20日の3日間、厚労省が無作為に抽出した全国の500病院(岩手・宮城・福島を除く)を受診した患者約10万人が対象となっています(注1)。

 外来での不満で最も多い原因が「診察までの待ち時間」で25.3%、2位が「診察時間」の7.8%、3位が「精神的なケア」で6.0%となっています。

 待ち時間に関して詳しくみてみると、「待ち時間に非常に不満」は6.9%、「やや不満」が18.4%で、合わせて25.3%にのぼります。実際の待ち時間は「15分未満」が21.6%、「15分以上30分未満」が22.6%、「30分以上1時間未満」が21.0%と、「1時間未満」が全体の65.2%を占めます。

 この調査を正確に読むには少し解説が必要であり、また医療者からの観点も述べておいた方がいいと思います。

 まず、この調査の対象となっているのは「20床以上の病院」のみです。通常(大きな)病院であれば「予約制」を引いていることの方が多いですから、予約がなかなか取れないという問題はありますが、待ち時間はそれほど長くないはずです。ではなぜ25%以上もの人が「待ち時間が長い」と考えているかというと、予約制を引いていない病院もあるということ、予約外でもみてもらえるが予約優先のため相当時間待たなければならない病院があるということ、そして、予約制なのだけれど医師の診察が長引いてそれが積み重なって待ち時間が長くなっていること、などがあるからです。

 厚労省の調査結果によれば「1時間未満」の待ち時間が65.2%となっています。私はこの数字をみて驚きました。それは、約3分の2の患者さんの待ち時間が1時間以内であり、にもかかわらず待ち時間に不満を感じている人が4人に1人以上となっていることに対してです。

 厚労省のこの調査は20床以上の病院が対象です。もしもクリニックや診療所を調査に加えれば、待ち時間の平均は短くても2時間程度にはなるでしょう。そして、「待ち時間の不満」は・・・、ちょっと想像するのが怖いくらいです。

 患者さんの立場に立って医療をおこなう、というのは医療の原則ですが、今回は「医療者の立場に立って待ち時間を考える」ことにお付き合いいただきたいと思います。

 我々医療者も職場を離れれば一人の市民ですから、レストランや買い物で並んで待つこともありますし、患者として医療機関を受診して待たされることもあります。そんなときは「こちらも忙しいんだから早くしてくれ!」と叫びたい気持ちになることがあります。ですから、(言い訳がましいですが)我々は患者さんに「病院では待つのが当然のことです」と思っているわけでは決してありません。我々としても、患者さん(多くは早く帰宅して安静にする必要がある!)の診察はできる限り早くしてできる限り早くお帰りいただきたいと考えているのです。

 「待つ苦痛」が辛いことは承知していますが、「待たせる苦痛」も相当辛いものです。太融寺町谷口医院の会議では、待ち時間対策として「患者さんが1秒でも早く帰れるように何ができるかを考える」ことにしていて、毎回のようにスタッフ全員で検討しています。私自身も、例えば、カルテには診察時間には必要最低限のことだけ記載して不足分は後で書くようにしていますし(そのため診察後のカルテ記載時間は1日あたり3~4時間になります)、診察室を離れてレントゲンの撮影をおこなうときには、どちらの足から踏み出せば診察室を早く出られるか、といったことまで考えています。

 また、診察そのものを短くするために、可能な限り早口で話すようにしています。このため、私の話し方が早すぎる、と感じている患者さんも少なくないでしょう。診察時間中に看護師や他のスタッフから報告や相談を受けるときは、「できる限り手短に、結論から話す」ということをルールにしています。

 しかし、一方では患者さんの話をもっと聞きたいですし、説明ももっと時間をかけておこないたいのです。厚労省の調査の「外来での不満」が、1位の「待ち時間」に続き、2位、3位がそれぞれ「診察時間」「精神的なケア」となっていますが、我々医師としても、診察時間をもっと取りたいですし、精神的なケアにももっと力を入れたいのです。しかし、それらをやりすぎると、待ち時間がさらに長くなってしまいます。

 では、どうすればいいのか。私はこれを医師になる前から主張していますし、上梓した書籍でも述べていますが、「医師の数を増やす」のが最も理に適っているのです。2012年9月10日、厚生労働省と文部科学省は、「地域の医師確保対策2012」を取りまとめ、そのなかで2013年度の医学部の定員を暫定的ではありますが126人以上にすることを認めています。現行の省令では、大学医学部の定員数は1校125人までと定められていますから、この基準に従わなくてもいいという決定をしたというわけです。

 この決定は歓迎すべきことですが、医学部の定員を増やす、医師数を増やす、といった議論になると、反対意見が必ずでてきます。そしてそれは現役の医師のなかから出てくるのです。誤解を恐れずに言えば、医師増員に反対する医師の大半は「何らかの専門医」です。

 歯科医院が過剰であることはよく指摘されますが、例えば、眼科、耳鼻科、皮膚科、糖尿病専門の内科、消化器専門の内科、などは地域によっては飽和している可能性があります。先日、ある医師向けのサイトに掲載されている眼科医のコラムを読んでいると、その眼科専門開業医の半径1.5kmにはなんと合計14軒もの同じような眼科専門開業医があるというのです。こうなってくると、自分が食べていくために「医師増員に反対!」となる医師がでてくることもあるかもしれません。開業医だけではありません。例えば私の知人のある循環器内科医は心臓カテーテルを専門としていますが、心臓カテーテルを積極的におこなえる病院での勤務の空きはほとんどないそうです。

 一方、開業医であろうが勤務医であろうが、プライマリケアや総合診療の現場では医師が大幅に不足しています。特に、開業医の場合、夜や土曜日にも開いていることが多く、病院よりも受診しやすいですから、いろんな訴えを持った患者さんが”大勢”受診されます。

 ここでいう”大勢”は専門医の開業とは実際の人数がまったく異なります。例えば、整形外科専門クリニックでは1日に200人を超えるところも珍しくないそうです。一方、太融寺町谷口医院では午前は完全予約制を引いていますから約25人を超えると予約をお断りしていて、予約制をとっていない午後では40人を超えると2時間以上の待ち時間、50人を越えると3時間以上の待ち時間となります(注2)。

 開業当初には、「健康のことで困ったことがあれば気軽に相談しにきてくださいね」と話していたのですが、もうこのようなことは言えないのが現状です。”気軽に”受診して待ち時間が2時間を越えれば、「待ち時間に不満」となるのは当然ですし、我々も「待たせることが大変苦痛」なのです。

 今回の厚労省の調査に対し、各マスコミは数字をそのまま報道しているだけのように見受けられますが、病院よりも診療所・クリニック、特にプライマリケアを実践しているところでは待ち時間が大きな問題になっていること、患者さんが待つのも苦痛だけれど待たせる医療者も苦痛に感じていること、これを解決するにはプライマリケアをおこなう医師を増やす必要があること、などを報道してもらいたいと思います。

注1;調査結果の詳細に関心のある方は下記を参照ください。

http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jyuryo/11/dl/kekka-gaiyo.pdf

注2:本文では述べていませんが、ひとりあたりの診察に時間がかかるプライマリケアの開業が医師からみて人気がないのは経営的には大変だから、ということが言えるかもしれません。本文で述べたような1日200人を診察する専門医と、1日70人がやっとのプライマリケア医では診療所が得る収入がまったく異なります。さらに、専門医療に比べ、プライマリケアでは検査は少ないですし、薬は安いものが中心(薬がないことも多い)ですから、収入の差は患者数以上の差となります。ですから、医師になってお金を儲けたいと考えている者は(実際はこのような考えを持っている医師はほとんどいませんが)、プライマリケア医は初めから目指さないでしょう。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL