メディカルエッセイ
2014年10月21日 火曜日
第141回(2014年10月) 速く歩いてゆっくり食べる(前編)
歩くことが健康増進につながるのは間違いないのですが、日常の診療では、よく歩いているのにもかかわらず生活習慣病が改善しない、という人がいるのも事実です。また「1日1万歩」という言葉が一人歩きしていますが、例えば20代の健康な人が1日1万歩をゆっくりと歩いても健康増進にはほとんど意味がないでしょうし、その逆に80代の高齢者であれば早歩きで4千歩も歩けば充分健康に寄与します。
日頃の患者さんをみていても、「営業職で歩くことが多いから大丈夫です」とか「会社から帰宅するとき散歩をしてから電車に乗るようにしています」という人でも生活習慣病が改善せず悪化していくような人もいます。その逆に、「運動の時間はとれず内勤なのでほとんど歩いていません」という人でも日常の中のちょっとした工夫でダイエットに成功し、生活習慣病が改善する人もいます。
私は医師として生活習慣病を抱える患者さんを多くみてきましたが、運動をしていても(食事の量が増えているわけでもないのに)生活習慣病が改善しない人がいること、また、その逆にあまり時間がとれなくて最低限のことしかしていないという人でも改善することも多いことが数年前から気になっていました。
当初私は、(患者さんには失礼ですが)患者さんが本当のことを言っていないのではないかと考えていました。つまり、「営業職で歩く」といってもわずかな距離を大袈裟に言っているのではないかと考え、その逆の「さほど運動できていない」と言って効果がでている人は謙遜して控えめに話しているのではないか、と思っていたのです。
しかし、数多くの患者さんを診ているなかで、どうもそういうわけでもなさそうだ、ということに気付くようになりました。ここで私が太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)で診ている2人の患者さんを紹介したいと思います。(といっても患者さんの情報を公開するわけにはいきませんので、本人が特定できないようにアレンジを加えています)
ひとりめの患者さんは40代の男性(Aさん)で、仕事は通信機器の営業です。軽度の高血圧と高脂血症、さらに肥満があり、3~4ヶ月に一度私の元を受診しています。運動は得意でもないけれど苦手というわけでもないそうです。営業には電車を使い、歩く距離は少なくないと言います。また、仕事が早く終われば一駅分歩くようにしていて、さらに週末は自転車に乗ることを心がけているそうです。
できるだけ薬は使わないというのが生活習慣病の治療の基本ですし、またAさんもそのように考えているために、生活習慣の改善、具体的には食事の量と内容の見直し、そして運動をおこなうよう私は助言しています。診察を開始して2年近くがたちますが、残念ながら中性脂肪の値も血圧の数値も良くなるどころか少しずつ悪化してきています。このままでは薬を開始しなければならなくなります。
ふたりめの患者さんは50代の公務員の女性(Bさん)です。BさんもAさんと同じように軽度のメタボリック・シンドロームがあり、谷口医院受診のきっかけは、健診で異常を指摘されて、というものでした。BさんはAさんと異なり、運動は苦手とはっきりと言います。そして、主婦でもあるために運動時間をとることはできない、ウォーキングは定年退職後におこなうことを考えているけれども今は無理、ということでした。
そこで私は、今の状態でもできることをアドバイスしました。職場が3階だというので、まず職場では階段を使うこと、駅でも可能な限り階段を使うことをすすめました。電車では座らずにつり革を持って可能な範囲でつま先だちを繰り返す運動をおこなってもらうようにしました。(これを「カーフ・レイズ」と呼びます。本格的なカーフ・レイズはバーベルを持っておこないますが、自体重だけでも充分な運動になります) そして速歩きを心がけるように助言しました。結果は、これを3ヶ月おこなっただけで2kgの減量と、肝機能、中性脂肪の値が改善し、血圧も血糖値も下がったのです。(ちなみに、自宅でダンベルを用いた筋トレもすすめたのですが、これはやってもらえませんでした)
筋肉量を維持するには筋肉にある程度の負荷をかける必要がありますし、丈夫な骨を維持して骨粗鬆症を予防するのにもある程度の負荷が不可欠です。ならば筋トレをすればいいではないか、となるわけですが、先に紹介したBさんのように、理屈では分かっていても実際には・・・、という人は少なくありません。ジョギングは、特に下半身の筋肉量維持や股関節の骨折予防、また膝関節症の予防にもなるのですが、継続しておこなうのはそれなりに大変で、運動が苦手という人には相当ハードルが高いといえます(Bさんもそうでした)
ではどうすればいいのか、ですが、私はウォーキングをすすめています。ただしどのようなウォーキングでもいいというわけではありません。私は直接Aさんが歩いているところを見たことがありませんが、おそらくAさんの歩く速度では遅すぎるのです。つまり、一般的な歩行速度では、あまり意味がないということです。高齢者ならまだしも40代で普通の速度(おそらく時速はせいぜい5km/hr程度でしょう)であればあまり生活習慣病の改善にはつながらないのです。
Aさんは自転車にも乗っていると言っていましたが、市内で自転車に乗ってもあまり健康増進には寄与しません。ウォーキングにしてもサイクリングにしても少し心拍数が上昇するくらいにもっていく必要があります。しかし、心拍数が上がるほど自転車をこぐとスピードが出過ぎて危険です。ウォーキングであればこのような危険性はありませんし、少し心拍数が上昇するくらいの速度を意識するようにすれば大変有効な運動になります。
Bさんが実践しているように「階段を使う」というのも大変優れた方法です。谷口医院の何人かの患者さんは、駅では原則として階段を使うというのをルールにしています。実際にやってみると分かりますが、日頃運動をしていない人がエスカレーターを使わないというのはけっこうしんどいものです。しかし、慣れてくると階段の利用がそれほど苦痛でなくなってきます。
ウォーキングは速く歩いてこそ意味がある、というのは私ひとりが主張していることではなく科学的に実証した疫学データもあります。日本で最も有名なのは、東京都健康長寿医療センター研究所の青柳幸利医師がおこなった青柳研究(中之条研究とも呼ばれています)です。この研究は、群馬県中之条町の65歳以上の高齢者約5,000人を対象として13年間の追跡調査をおこない、1日の歩数や運動強度と健康の関係を調べたものです。その結果「1日8,000歩、20分の速歩き」が健康の鍵という結論が導かれています(注1)。
海外でも歩く速さと生活習慣病の関係の研究はときどき報告されており、例えば医学誌『Journal of the American Heart Association』2010年4月6日号に掲載された論文では、歩くのが速い女性は脳卒中を起こしにくい、ということが述べられています(注2)。
また、最近では「運動認知リスク症候群」(Motoric cognitive risk syndrome、MCRと略されます)という疾患の概念が確立されてきています。これは、遅い歩行速度と軽度の認知異常がある状態のことをいい、認知症の前段階と言われています。ここで重要なのは、「軽度の認知異常」は本人にも家族にも分かりにくいけれども、「遅い歩行速度」なら気付きやすい(気付かれやすい)ということです。早い段階で認知症のリスクが評価されると、適切なタイミングで薬を開始することが可能になります。
私は、メディカルエッセイ第129回(2013年10月)「危険な「座りっぱなし」」で健康を増進させる「10個の習慣」を提唱しました(注3)。「10個の習慣」の1つがExercise(運動)であり、今回はそのひとつのExerciseについて述べました。まとめると、次のようになります。
・本格的な運動のハードルが高い人にはウォーキングがおすすめ
・ウォーキングのためのまとまった時間がとれないという人は日頃から速歩きをこころがける
・エスカレーターやエレベーターは極力避けて階段を使う
・漠然とゆっくり歩いて歩数を稼いでも健康増進には寄与しない
・日常生活で筋トレもできる。電車の中でのカーフ・レイズはそのひとつ
・年齢に応じたトレーニングを考慮する
次回は「10個の習慣」のひとつであるEating(食事)について、最近の研究結果を踏まえて効果的な食事について述べていきたいと思います。
注1:この研究は下記URLで詳しく知ることができます。
http://www.yakult.co.jp/healthist/221/img/pdf/p20_23.pdf
また、青柳医師の著書『病気の9割は「運動」が原因』(あさ出版)でも詳しく知ることができます。このタイトルは一見すると運動を否定したもののようにとれますが、実際には適度な運動が推薦されています。おそらく出版社や編集者がインパクトのあるタイトルを求めたためにこのような誤解を招くものになったのだと思います。
注2:詳しくは、下記医療ニュースを参照ください。
2010年4月14日「歩くのが速い女性は脳卒中を起こしにくい」
注3:下記コラムを参照ください
メディカルエッセイ第129回(2013年10月)「危険な「座りっぱなし」」
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