メディカルエッセイ

2013年6月17日 月曜日

5 66歳の研修医 2004/6/9

私のところに寄せられる読者からの質問のひとつに、「私は○○歳ですが医学部受験は大丈夫でしょうか」というものがあります。この質問は非常に多く、そのためすべてのお問い合わせに返答できていません。ごめんなさい。そこで、この場を使ってこの質問にお答えしましょう。

 先日今年の医師国家試験の合格者が発表されました。8439人中7457人が合格し、合格率は88.4%で、3年ぶりに9割を下回ったそうです。最高年齢合格者は54歳だったとのことです。ちなみに昨年の最高年齢合格者は66歳でした。
 
 「私は○○歳ですが、・・・」という質問をされる方のメールをよく読んでみると、その懸念を3つに分類することができます。

 まずひとつめは、「○○歳で医学部入学が可能か」という点です。ふたつめは、「○○歳で医学部の授業についていけるか」という点です。そして3つめは、「○○歳で研修医となるのに問題はないか」という点です。

 これらをひとつずつみていきましょう。

 まずひとつめの「○○歳で医学部入学が可能か」という点です。66歳で医師国家試験に合格した人は、年齢が低くとも50代で医学部に入学しているということになります。したがって、「医学部受験を考えている人が50代以下であれば問題ありません」、ということになってしまうのですが、ここで、この質問をもう少し踏み込んで考えてみると、「○○歳で受験すると(現役生に比べて)不利になる大学はあるのか」ということになると思います。これについてお答えするのはちょっとむつかしいかもしれません。実際に現役生の比率が圧倒的に多く、再受験生があまりいない大学もあるからです。

 私の場合は、受験する大学に再受験生がいるかどうかということを事前に調べました。この方法についても質問される方がおられますが、方法は簡単です。実際にその大学に足を運んで聞いてみればいいのです。再受験生の割合や合格者最高年齢のデータを揃えている大学は少ないかもしれませんが、「他の大学を卒業してから来る人もいるよー」とか「30代の一年生もいるみたいよー」とかいうような情報はもらえるものと思います。
 
 次にふたつめの質問である「○○歳で医学部の授業についていけるか」という問題ですが、これはその人がどれだけ医学に興味を持っているか、どれだけ情熱をもって医者を目指しているかという点によるでしょう。私の場合で言えば、受験を決意したときから、どうしても医学を学びたいという意思がありましたから、結果的に言えば、たしかにかなりしんどかったのは事実ですが、6年間を通して楽しく学べたものと思います。少なくとも私が経験した関西学院大学理学部の1、2年生での勉強よりは遥かにおもしろかったですし、社会人時代に経験した難題よりはくらべものにならないくらい楽しかったです。

 社会に出られた経験のある方にはこう言えばお分かりいただけると思います。すなわち、「実社会で経験する困難さに比べれば医学部の6年間でやらなければならないことなど何でもない」と。
 
 最後に3つめの質問、「○○歳で研修医となるのに問題はないか」という点についてお話していきたいと思います。結論から言えば、「問題はないかどうかはその研修医による」ということになります。

 そもそも「○○歳で研修医・・・」という不安は、年齢が原因となる人間関係のことを言っているものだと思います。つまり、いろんなことを教わらなければならない研修医という身分の存在が、あまり年をとりすぎてたら教わりにくいのではないか、あるいは教える方がやりにくいのではないか、という問題だと思います。

 けれども、これは実社会ではよくあることで、日本の会社ではだいたいどこも年齢ではなく、その会社あるいはその業界でのキャリアで上下関係が決まるものだと思います。

 例えば、私が以前会社員をしていた商社では、新入社員の大半は、大学を卒業した直後の人間でした。けれども毎年30代の転職して入社する人も数人はいました。彼ら(彼女ら)は、例えば20代後半の中堅よりも年齢は上だけれどもキャリアは下なわけです。 上手く順応する人であれば、自分の方が年齢は上であっても、「年下の先輩」に指導を受けて、もちろん敬語を使って接するわけです。また、教える方も、「年上の後輩」に、最初は多少の敬語は使うこともあるでしょうが、基本的には自分の方が先輩なんだから、先輩らしく「年上の後輩」の指導にあたるわけです。こういった光景は別段珍しいものではないと思います。

 もうひとつ例をあげましょう。

 私は、20歳のとき、しばらくアルバイトでディスコのウェイターをしていました。この世界、いわゆる水商売の世界は上下関係がかなり厳しいのが普通です。少しでもミスをすれば、ペンやフォークなどが飛んできますし、言葉づかいは絶対です。中途半端な敬語を使おうものなら容赦なく手や足が出てきます。そしてこの世界でももちろん、上下関係は年齢ではなく、キャリアで決まるのです。それも一日でもキャリアが上であれば絶対的な先輩となるわけです。

 私は当時20歳でしたが、中卒と同時にこの世界に入った2年目の先輩はまだ17歳なわけです。逆に私より後に入った30歳の後輩もいました。17歳の先輩からみれば私は20歳の後輩となるわけですが、容赦なく厳しい指導をしていただきました。その逆に20歳の私からみた30歳の後輩にも容赦なく厳しい指導をしました。

 そういう社会が苦手という人もいるかもしれませんが、仕事とは厳しいものなのです。その代わりというわけではありませんが、厳しさの裏側にはいろいろな楽しいこともあるのです。厳しい分だけ人間関係も強固なものになることだってよくあるのです。

 ただ、心配しなくても、医師の世界では、手や足が容赦なく出てくるということはありませんし、例えば人間性を否定するような厳しい言葉を浴びせられることもありません。私の知る限り、看護師の世界の方がよっぽど厳しい上下関係があります。

 話を元に戻しましょう。たしかに研修医の多くは24から28歳くらいであり、私のように33歳の研修医というのは少数派でした。40代、50代の研修医はさらに少数派であり、66歳の研修医となると相当珍しいといえるでしょう。

 けれども、私はその年齢から不利益を被ったことは一度もありませんし、おそらく40代、50代の人たちも、彼ら(彼女ら)がまともな社会常識を有している限りは、20代の研修医と同様の研修が受けられるものと思います。

 教える方、例えば指導医や看護師、その他のスタッフの方に抵抗があるのでは、とお考えの方もおられるでしょう。しかしながら、彼ら(彼女ら)とて立派な社会人のはずです。20代の研修医には丁寧に指導するけれど、40代の研修医にはいい加減に教える、なんてことはしないはずです。絶対にそんな人間がいないとはいいきれないかもしれませんが、どんな世界にも、良識のある人間は必ずいますから、そういう良識というか常識のある人たちから教わればいいわけです。

 「○○歳で研修医となるには・・・」というような質問をされる方は、あらためて社会常識というものを振り返ってみてはどうでしょうか。

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2013年6月17日 月曜日

4 forget-me-not 2004/6/9

2004年4月、それまで1年間研修医として勤務していた星ヶ丘厚生年金病院(以下、星ヶ丘)を退職しました。この一年間で数え切れないほどのことを学んだように思います。これまでの人生を振り返って、これほどたくさんのことを学んだ一年間はなかったように感じます。

 あらためてこの一年間を思い返してみると、本当に数々のドラマがありましたし、医師としての知識や技術も大幅に向上したように思います。私は何とめぐまれていたのか、こう感じてやみません。

 知識の習得という観点だけで考えてみると、医学部受験を目指した一年間や、医師国家試験の勉強に従事した一年間の方が得たものが大きかったかもしれません。また、ドラマという点からみれば、私が18歳から20歳まで経験した旅行会社でのアルバイトの方が大きかったかもしれません。

 けれども、生と死の狭間にいる患者さんやその家族、不治の病におかされた患者さんらと接したことで得られたものは計り知れません。また星ヶ丘の先生方や看護師さん、その他のスタッフの方々からも多くのことを学ばせていただきました。本当にいくら感謝してもしきれないように思います。

 私は医師としての最初の一年間は大学で研修を受けました。大学病院には、大学病院でしかみることのできない疾患を経験することができますし、多くのスタッフの方に丁寧に指導していただいたのも事実です。しかしながら、結果として言えば、医師二年目の一年間、すなわち星ヶ丘で過ごした一年間の方がずっと心に残るものが多かったといえるように感じます。

 大学病院を去るときは、それほど感慨深いものはなかったのですが、星ヶ丘を去るときには感謝の気持ちと同時に、さみしさで胸がいっぱいになりました。いま、星ヶ丘を去って一ヶ月がたちましたが、毎日のように星ヶ丘での出来事を思い出します。指導していただいた先生方、一緒に喜びや虚しさを語り合った研修医の先生たち、いつも患者さんの立場にたって優しく患者さんと接しておられた看護師さんたちやその他のスタッフの方々、そして、本当は私がしっかりしないといけないのに、逆に私に生命の尊さを教えてくれたり励ましてくれたりした患者さんたち・・・、このような人たちとめぐりあえた私は何と幸せなのでしょうか・・・。
 
 今私が思うのは、いつかこの星ヶ丘に何らかのかたちで恩返しがしたいということと、私のような研修医が、一年間というわずかな期間だけだけれど、多くのことを学ばせてもらったということをスタッフの方々がときどき思い出してくれたらな・・・、ということです。

 そんな思いを込めて、私は星ヶ丘を去る前日に、体育館の横の草木が茂っている場所に、12株の忘れな草を植えました。12という数は、私を含めた研修医の数です。忘れな草は多年草となることもありますが、多くは一年で枯れてしまいます。けれどもこの生命力の極めて強い草は、きっと一年後にも芽が出るものと思います。

 この前久しぶりに病院を訪ねて、こっそりとその忘れな草を見てきました。花は枯れているものもありましたが、まだ葉は堂々と元気な様子を見せてくれました。

 現在私は、大学の医局を離れ、大好きだった星ヶ丘も退職し、昼間は大阪市内のクリニックで無給で修行を重ね、夜は当直のアルバイトで当面の生活をしのいでいます。収入も減り、医師免許は持っているとはいえ、いわばフリーターの生活です。この夏にはタイ国に医療ボランティアに行きます。こんな生き方、自分の好きで選択したこととはいえ、ときには不安になることもありますし、同級生のように安定した医師の生活がふとうらやましくなることもあります。

 けれども、私が自分で植えた忘れな草を見て感じました。この草のように、力強く生きていこう。夏の暑さに負けていったん枯れてしまったとしても、翌年にはまた芽を出す。そんな生き方がしたいな・・・と。

 そしてこのようにも思います。もし私がくじけてしまったら、一年間お世話になった星ヶ丘の患者さんやスタッフの方々に合わせる顔がない。あの忘れな草が芽を出し続ける限り、私も頑張らなければ・・・と。

 私の本の読者の多くは医学部を目指している方々だと思います。学力や年齢、その他の環境のために、周囲から医学部受験を反対されている方も少なくありません。そんな方々に今ひとつアドバイスをさせていただくとするならば、街に出て自然を見つけてほしいと思います。周囲の環境に負けず、堂々と生命力を披露している草木を見て感じて、自分を鼓舞してほしいのです。きっとからだの奥底から生命力があふれてくるはずです。

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2013年6月17日 月曜日

3 差別される病気 2004/3/19

病気になると様々な苦悩が伴うことが多いと言えますが、医療従事者から軽視されがちと私が感じることのひとつに「差別」という苦悩があります。病気の苦悩と言えば、痛み、呼吸苦、不快感、痒み、あるいは不安、抑うつなどもそうでしょうが、なかなか「差別」という苦悩については、大きく取り上げられることは少ないように感じます。

 この理由として、まず我々医師や看護師などの医療従事者が「差別」に対する教育を受けていないということがあげられます。痛みや痒みに対しては、薬剤もありますし、患者さんの訴えがあればすぐに対処しようとします。ところが、「差別」に対しては、患者さんの訴えを聞くことがあっても、現場の医療従事者はほとんど無力です。

 次に、患者さんが「差別」に対しては、なかなかその苦悩を訴えないということがあります。いくら差別に悩んでいたとしても、医師や看護師との間に、ある程度の信頼関係ができるまで言い出し辛いのです。やっとの思いでその苦悩を口にしたとしても、なかなかきちんと聞いてくれなかったり、初めから相手にされなかったりということも珍しくないようです。

 では、医者は患者の「差別」について取り組まなくてもいいのでしょうか。そんなはずは絶対にありません。そもそも医療というのは、身体面だけをみているだけでは不十分なはずです。健康というのは、身体だけでなく、精神的、社会的にも健康でなければならないはずです。

 病気であるがゆえに「差別」を受けているとすれば、これは健康からはほど遠い状態にあるわけです。たしかに、上にあげた理由もあり、患者の「差別」という苦悩に対する対処はむつかしいのですが、医師である以上は、病気に伴うすべての苦悩について取り組まなくてはならない、私はそう考えます。

 では、どんな病気が「差別」されるのでしょうか。まずひとつは、結核やハンセン病などの感染症があげられます。結核患者は現在でも隔離されることが多いですし、ハンセン病などは、見た目で分かることもあり、歴史的に差別されてきた事実があります。昨年、九州のある旅館で、ハンセン病の患者の宿泊を拒否したという事件もこのことを物語っています。

 身体障害者も差別されることが少なくありません。小学校のとき、小児麻痺の生徒がいじめられたり、ばかにされたりといったいわれのない差別を受けていたことを思い出します。大人でも、例えば、一生車椅子を強いられた人は、健常人からは分からないようなところで様々な差別を受けているという現実があります。
 
 別のところでも書きましたが、皮膚疾患もそうです。見た目ですぐに病気とわかる疾患は何かと差別の対象になるものです。実は私が医師になりたいと思った動機のひとつに、「差別に取り組みたい」というのがあります。私は、皮膚疾患もそうですが、もうひとつ、差別に取り組みたい疾患が、「性感染症」です。

 AIDS患者が差別されている現状は明らかでしょう。私は今年の夏に、タイ国にあるパバナプ寺というAIDS患者がおよそ400人ほど収容されている施設にボランティアに行く予定ですが、日本よりも断然患者数の多いタイ国でさえ、AIDS患者は差別されています。家族からも見放されることさえ少なくありません。

 私は一昨年もその施設に行ったのですが、ボランティアをしている医師からこのようなことを聞きました。レントゲン撮影のできないその施設で、どうしても胸部レントゲンを撮る必要のある患者がいて、その医師は近くの病院にその患者を送ったそうです。ところが送り先の病院では、その患者がAIDSであるという理由で撮影を拒否したというのです。そしてこのようなことは日常茶飯事だというのです。

 差別される性感染症は何もAIDSだけではありません。すべての性感染症が差別の対象となっているといってもいいでしょう。クラミジアでもヘルペスでも感染すると、患者さんはなかなか人にはそのことを告げられません。勇気をだして病院に行ったとしても、なかなか堂々と症状を訴えることはできません。

 そして、性感染症は、身体障害や通常の皮膚疾患など、他の社会的に差別を受けている疾患と大きく異なる点があります。それは医療従事者からも差別的な発言をされることがあるということです。誰にも言えない病気にかかり、やっとの思いで病院に行っているのに、その病院で医者や看護師から差別的な発言をされることも少なくないのです。「不潔なことをするからそんなことになるんだ」とか「君みたいな女がいるから世の中の性病はなくならないんだ」とか、そんなことを言われることもあるのです。

 私が実際にある女性から聞いた話を紹介しましょう。その女性は、私の知人の知人で、あるとき数人で食事をしていたときに、たまたま席が横になったので話すことになりました。当時私は医学部の学生で、まだ臨床医学をほとんど知らない頃でした。話の流れで自分は医学部生だという話題になったときに、彼女は私にだけ聞こえるように身の上話を始めました。

 彼女は数年前に、ある風俗店で働いていたというのです。風俗店で働くということは、言うまでもなく、様々な性感染のリスクがあります。特に症状が出たわけでもないのですが、性感染が心配になった彼女は、いくつかのクリニックを受診したそうです。

 彼女は、医師や看護婦には、「なぜ受診したか」ということを正直に話しました。彼女は、現在の仕事のことも話しました。社会的には何かと差別の対象になる仕事ですが、医療従事者ならそのまま受け止めてくれて相談にのってくれると考えたのです。

 ところが、彼女がかかったクリニックの医療従事者は全員、冷淡な態度をとったというのです。

 「そんな仕事をしているのが悪いのです。」「すぐに仕事をやめなさい。」

 どこへ行ってもそのように言われて、なぜ仕事を続けなければならないかという点については、誰も聞いてくれなかったというのです。彼女にとって、性感染のことを真剣に相談できるのは医療機関をおいて他にはなかったのです。本当は彼女だって仕事のことは誰にも言いたくなかったのです。

 それに、彼女は好き好んでそのような仕事をしているわけではないのです。彼女の場合、両親の残した巨額の借金を返済するために、仕方なく働いていたそうです。もちろんこれは本当のことかどうかは分かりませんが、少なくとも私が聞いた印象では、高収入が得られるからとか、嫌いな仕事じゃないから、とかそんな理由で働いていたとは思えませんでした。

 性感染症、これほどまで差別の対象となる病気は他にないのではないでしょうか。誰にも言えずにひとりで悩まなくてはならず、さらに医療機関でさえも差別的な発言を受けるのです。

 彼女は、なぜ言う必要のない過去の嫌な思いを私に話したのでしょうか。現在は借金を返済し終えており、忘れたいことをわざわざ話す必要などなかったはずです。

 私はこのように考えました。「私も数年先には医師になる以上、性感染症の患者をみることがあるかもしれない。私には他の患者と同様、差別することなく診てほしい。」、彼女はそれを伝えたかったのではないかと思うのです。

 私は、そのとき、彼女の連絡先どころか名前も聞きませんでした。今ではどこにいるのかも分かりません。これから会うこともないでしょう。

 けれども、私はこのことを語っているときの彼女の目を忘れることができません。そしてこのエピソードが、私が性感染症に取り組みたいと思った最大の理由なのです。

 ちなみに性感染症を扱っている科というのは、まず性病科が筆頭にきますが、「性病科」の看板をあげているクリニックはほとんどありません。実際は、皮膚科、泌尿器科、婦人科などが、部分的にみているというのが現状です。

 「部分的に」というのは、例えば、婦人科では男性はみませんし、皮膚科ではヘルペスやクラミジア、梅毒といった皮膚に症状の出る疾患は得意としますが、クラミジアや淋病といった疾患については通常みることはありません。これとは逆に、泌尿器科では、クラミジアや淋病以外の疾患はあまり得意としていません。

 ところが、患者さんの立場にたったときに、これは相当不便です。というのは、まずひとつめに性感染というのは、重複感染していることが多いという問題があります。例えば、クラミジアとヘルペスに同時に感染したなどという場合、クラミジアは泌尿器科で、ヘルペスは皮膚科でというふうに、複数の医療機関を受診しなければならないのです。

 もうひとつ、性感染は、パートナーを同時に治療しなければ意味がありません。勇気を出して、ふたりで婦人科に行っても、男性はみてくれないのです。

 私は、あらゆる性感染症をパートナーも含めてトータルで治療していく必要があると考えています。

 このような経緯があって、私は性感染症をトータルにみることのできる皮膚科医をめざそうと考えたわけです。

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2013年6月17日 月曜日

2 人間見た目が大事 2004/2/19

私が皮膚科に入局して(現在は退局してます)、よく聞かれることのひとつに、「どうして皮膚科をやろうと思ったのですか。」という質問があります。『偏差値40からの医学部再受験』にその理由を詳しく書いていますが、質問する人たち全員に、「本を読んでください」、などと言うわけにもいかないので、このように言うようにしています。

 「人間見た目が大事だから。」

 これは誤解を招きやすい言葉かもしれませんが、私が皮膚科に決めた最大の理由を短い言葉で説明するとこのようになります。

 「いや、人間は見た目ではなく中身が大切だ。」このような反論もあるでしょう。しかし、そんな意見は、その人の見た目がそこそこだからこそ言えるのです。

 例えば、あなたの顔面に直径10cmを超える大きな良性腫瘍があったとしましょう。「そんなことあるわけないから想像もできない。」とあなたは言うかもしれませんね。けれども、そのような皮膚疾患で悩んでいる人は、それほど少なくはありません。なぜあなたがそのような人を見たことがないかと言うと、そういう病気を持った人というのは、通常外出をしないからなのです。そしてこの人の腫瘍は良性腫瘍のために、生命が短くなるということもあまりないのです。

 皮膚科の患者さんの、最も頻度の高い疾患のひとつにアトピー性皮膚炎があります。きっとあなたの身近にもひとりやふたり、アトピーで悩んでいる人がいるでしょう。たいがいは、肌に優しい化粧品を使ったり、症状が出やすい首を露出しないような服を着たりして、対処しているものと思います。

 ところが、このアトピー性皮膚炎にしても、重症例になると、見た目がボロボロで、化粧などまったくできなくなります。カサカサして粉がふいたような顔になったり、真っ赤になって顔が腫れたりします。アトピーでも重症になると、例えば無垢な子供が見れば泣き出してしまうような醜貌になってしまうのです。

 にきびにしてもそうです。重症例になると、肌がでこぼこになって、ちょっとやそっとの化粧では隠すことができません。化粧をしない男性ではさらにその醜い肌が露出されることになります。

 もうひとつ例をあげましょう。男性でも、そして最近では女性も、若くして脱毛症に悩む人が増えています。50代、60代になってからならまだしも、20代で脱毛が始まれば、その人の人生は大きく変わってしまうこともあります。最近は手術にしても内服薬にしてもかなりいい治療法ができてきていますが、それでもまだまだ悩む人は後を絶ちません。

 皮膚疾患というのは、社会的に非常につらい疾患です。例えば、皮膚疾患に悩むために、就職活動を断念した、とか、皮膚症状が目立つようになってきたために、友人の披露宴や同窓会にも出席できないという人がいるのです。

 これを一般の内科・外科疾患と比べてみましょう。心臓が悪くても、肝臓が悪くても、かなり症状が進行しない限り、他人からは病気であることすら分からないことが多いと言えます。さらに重症化し、誰の目からも病気であることが明らかになったときは、他人がかなり心配してくれるのではないでしょうか。例えば、職場の人が肝炎や腎炎で入院すれば、同僚がお見舞いにいくのはよくあることです。

 ところが、皮膚疾患が重症化すれば、まず患者さん自身が他人と会うことを嫌がります。皮膚の悪性腫瘍の場合など、ほとんどの人が目をそむけるような醜貌に加え、強烈な悪臭がその患者さんの周縁に充満するのです。

 つまるところ、端的に言えば、軽症のうちは、死ぬ病気じゃないからということもあり、誰も気に留めず、重症化すれば見舞うことすら困難になるのが、皮膚疾患と言えるのです。

 また、もっとも差別を受けやすいのが皮膚疾患であるとも言えると思います。

 昨年、ハンセン病の患者の宿泊を拒否したという旅館がマスコミで取り上げられましたが、これとて、ハンセン病という皮膚症状が前面に出る疾患だからこそです。たしかにB型肝炎やC型肝炎の患者さんも、(針刺しや性行為で)他人に感染させる可能性があることから、差別を受けることもありますが、通常の社会生活では、他人に知られることはまずありません。

 これに対し、ハンセン病など、皮膚症状が露骨になる疾患では、他人から隠すことができません。そのため、宿泊拒否などいわれのない差別を受けることになるのです。

 AIDSにしてもそうです。AIDS患者はそれ自体で差別を受けているという現実がありますが、症状が出るまでの間は、少なくとも街を歩いていて差別を受けることはないでしょう。ところが症状が出現すると、AIDSの症状というのは、カポジ肉腫であったり、皮膚の悪性腫瘍であったりと、皮膚症状から差別を受けることが多いのです。

 私が、一昨年に出向き、また今年の夏にも行く予定のタイ国にあるパバナブ寺という寺では約400人のAIDS患者さんが収容されていますが、患者さんの何割かは、皮膚症状が出現して、家族や知人から受け入れられなくなり、社会的に差別を被っている人たちです。
 
 どのような病気をどのように捉えるかは、人それぞれで、医師によってもまちまちですが、私は皮膚疾患がもっともつらい病気だと感じています。これが私の皮膚科志望の最大の理由です。

 「人間見た目が大事」なのです。

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2013年6月10日 月曜日

1 小児科最後の日のセンチメンタリズム 2004/2/5

2004年1月30日、この日は私の小児科での研修最後の日となりました。今なんとも言えないセンチメンタリズムに心が苦しめられています。

 思えば、もともと私はここ、星ヶ丘厚生年金病院(以下、「星ヶ丘」)で、昨年5月から10月まで半年間形成外科の研修を受ける予定であって、11月からは大学の皮膚科に戻る予定でありました。ところが、星ヶ丘の症例の多さと、医師や看護師をはじめとするスタッフの手厚さに感銘を受け、大学の医局と星ヶ丘の先生方に無理を言って、半年間の研修延長を認めてもらったのです。

 そして、11月から今年の1月末まで、星ヶ丘の小児科の研修を受けさせてもらえることになったわけです。私の3ヶ月間での小児科研修の目的は、採血や点滴などの基本的な手技を覚えることと、風邪や腹痛などのいわゆるコモン・ディジーズの診察及び治療ができるようになることでした。

 ところが、研修が始まった頃は、採血ができない、点滴がとれない、(当たり前だけど)子供が言うことを聞いてくれない、お母さんとのコミュニケーションがなかなかスムーズにいかない、などトラブル続きで、医師になってはじめてとも言えるスランプに陥りました。

 もともと子供には苦手意識もあり、なんとか3ヶ月間で子供のことが理解できるようになりたいと考えていたのですが、理解するどころか、ますます苦手になっていったのです。先月の中ごろまでは、夢の中でも子供の泣き声に悩まされ、電車の中で子供が泣いているのを見ただけで逃げ出したくなるといった日々が続いていました。

 私は幸いなことに、それまでの研修生活では、患者に苦手意識を持ったことはほとんどなく、例えば他の医師が嫌がる患者に対しても、何のストレスもなく接することができていました。そのため、トラブルをおこしがちな患者の主治医をまかされるということがこれまでにも何度かあったのです。

 そういうわけで、対患者のコミュニケーションで、これまでまったく不都合を感じていなかった私は、小児科で初めて壁にぶちあたったのです。

 そして、私が苦手意識を持っていたのは、実は対患者さんだけではありませんでした。小児科病棟の看護師と接するのも、特に最初の頃は、苦手というかうっとうしく感じていたのです。

 そもそも研修医というのは、看護師さんとの関係が上手くいかないことが多く、ろくに仕事のできない研修医が看護師からはけむたがられ、やたら冷たく接する看護師が研修医からはうっとうしがられるという構図はよくあることです。(この点については、別の機会に詳しくお話しようと思います。)

 ただ、私の場合は、大学にせよ、星ヶ丘にせよ、これまで所属したところが自分に合っていたため、看護師をうっとうしく思うことはほとんどありませんでした。

 ところが、今回初めて、研修医も4分の3を終えて初めて、看護師を苦手と感じたのです。というのも、星ヶ丘の小児科病棟では、看護師から、やれ、伝票は2枚打ち出せだの(他の病棟では1枚でよい)、やれ、薬をオーダーしたときは薬剤部に電話連絡をしろだの(他の病棟では看護師がやってくれることが多い)、なにかと煩わしいことを言われることが多いのです。他の研修医から、「小児科病棟は看護師から何かと文句を言われることが多い」と事前に聞いてはいたのですが、実際に体験してみると予想以上のしんどさがあったわけです。

 つまるところ、私は研修医になって初めて、患者(及び患者の家族)に対しても、看護師に対しても苦手意識を持ち、医者になって初めてのスランプに陥っていたのです。

 そんななか小児科研修も半ばを迎えたころ、小児科の先生方に丁寧に指導してもらってきたおかげで、採血や点滴などの手技がある程度できるようになってきました。さらに、子供やお母さんとのコミュニケーションも少しずつ苦手意識がなくなってきました。一度毎回入院する度にトラブルを起こしている患者さん(のお母さん)が入院してきたときに、私が主治医となりましたが、このときも何らクレームもトラブルも起こさずに無事退院されていきました。

 対看護師の関係にしても、別に人間的に嫌な人がいるわけでなく、制度として医師がやりにくいという点があるだけであり、これはシステム維持のために仕方のないこともあるわけで、慣れればどうってことはないように感じるようになりました。まあ、郷に入っては郷に従え、というわけです。

 さて、3ヶ月の小児科研修がたった今終わってしまったわけですが、今なんとも言えないセンチメンタリズムに心が苦しめられています。胸の奥が緩やかに締め付けられるようなこの感覚は、ここ数年経験したことのないような不思議な感じです。

 どうして、こんな感覚に捉われるのでしょうか。もう毎日子供とコミュニケーションすることができなくなるという寂しさなのか、これまでお世話になってきた先生と別れる辛さなのか、あるいは最初はうっとうしく感じていた看護師と接することができないことからくる空虚さなのか、それは分かりませんが、何かとても苦しい気持ちでいっぱいです。

 話は変わりますが、私は、「人生の価値はどれだけ感動できたかで決まる」と常々感じています。どれだけ大きな感動をどれだけ数多く体験できたかで、その人の人生が実りの多いものだったのか、そうでなかったのかが決まると思うのです。だから私の行動の選択基準は、「常に感動のある方へ」です。

 小児科で研修医をさせてもらった3ヶ月では、そんなに大きな感動があったわけではありません。その代わり、日々小さな感動を覚えることができました。忙しいなか、私のために時間をつくってくださって、丁寧にご指導いただいた先生たちからはあたたかさを感じました。熱が下がって元気になった子供の笑顔も感動を与えてくれます。採血するときは泣きじゃくっていても、終わってからだっこしてあげようと手を差し出すと、あわせて両手を差し出してくる子供を見ると嫌なことも忘れます。聞き分けのない子供を一生懸命なだめて子供を落ち着かせている看護師さんの姿からも感動を覚えることができました。「子供が元気になってほしい」その気持ちは看護の姿勢から伺い知ることができるのです。

 これら小さな感動の積み重ねのおかげで、私にとって非常に実りの多い3ヶ月となりました。先生方、看護師の方々、多くの患者さん、患者さんのお父さん、お母さんたちにはいくら感謝してもしすぎることはありません。

 私は星ヶ丘の小児科で3ヶ月間研修を受けたということを誇りにしたいと思います。これらお世話になった方々にむくいるためにも、私はこの3ヶ月の経験を、医師としての、そして人間としての糧にしていくつもりです。

 それにしてもこのセンチメンタリズムは一体何なのでしょうか。もしかすると、あと3ヶ月でこの病院を去らなければならないという辛さも相まっているのかもしれません。ここを去れば新天地で新たな出会いがあるわけで、それは確かに楽しみではあるのですが、一方でお世話になった方々と別れる辛さもあり、これはこれで非常に辛い。

 高校の卒業式のときもこんな感じだったのかな、ふとそんなことを考えました。けれども高校のときは、おそらく都会に出る期待の方が圧倒的に大きかったと思います。今回は、・・・・、何なのでしょう。このセンチメンタリズムは。あぁ誰かと朝まで飲み明かしたい、今そんな気分です。

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