マンスリーレポート
2022年2月 「絶望」から抜け出すための方法
前回は昨年(2021年)12月に起こった西梅田精神科クリニック放火事件を取り上げ、こういった犯罪を実行する人間は「絶望」を抱えていて、その絶望を阻止するには社会の一人一人が草の根レベルで他人を慮り信頼されるように努めることだ、という自説を紹介しました。
今回はその後新たに生じた不幸な2つの事件を振り返り、絶望を感じそうになったときや感じてしまっているときには何をすればいいのか、について私見を述べたいと思います。
まずは1つめの事件です。
2022年1月15日午前8時半ごろ、東京大学近くの路上で、名古屋の17歳の高校生が、大学入学共通テストを受験しにきていた高校生2人(男子1名女子1名)及び70代の男性の合計3人を刃物で刺傷。さらに犯行現場の最寄り駅「東大前」で放火事件も起こしました。刺傷被害の高校生2人は意識があり助かりましたが70代男性は重症(その後の報道は不明)。加害者の17歳男子は「勉強していても上手くいかず、大きな事件を起こして自分も死のうと思った」と供述したそうです。
次は2つ目の事件です。
2022年1月27日午後9時頃、ふじみ野市在住の66歳の男、渡辺宏が44歳の男性医師を含むクリニックの関係者7人を自宅に呼びつけ、散弾銃で医師を殺害、さらに41歳の理学療法士も銃撃しました。報道によると、渡辺の母親がこのクリニックによる在宅医療を受けており事件前日に他界。医師を含むクリニックの関係者7人を弔問に呼びつけ「死んだ母を蘇生せよ」と迫りました。犯人は日頃からクリニックに不満を抱えており、過去15回に渡り医師会に苦情の電話を入れていたとのこと。さらに、複数の医療機関にも抗議しており、治療方針や病院対応に不満を感じると院内で大声を出して怒っていたことが報道されています。
ふじみ野市のこの銃殺事件は、特に訪問医療に従事する大勢の医療関係者を震撼させました。当然のことながら、犯人の渡辺を非難する声は医療者からだけでなく一般の世論からも挙がっており、簡単に銃所持を許可した行政にも批判の矛先が向いています。
後になってから、実情を知らない無責任な立場から「~たら、~れば」と論じるようなことは避けるべきではありますが、それでもこの事件について「私だったら」という視点で私見を述べておきます。
医師は基本的に患者さんの立場に立ちます。疾患を抱えている場合、少々矛盾したことを言っていたとしてもあくまでも患者さんの「味方」となります。患者さんが会社や家族と争っている場合、「医学的な観点から」という条件はつきますが、できる限りのことをして患者さんを守ります。
ただし、患者さんの味方になるのも「限度」というものがあります。「患者さんよりも大切な人たち」を守らねばならないからです。そして、その「大切な人たち」とは共に働くスタッフです。
医師の前では腰が低いのに、看護師や受付スタッフに対しては横柄な態度をとる患者がいます。太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)にもたまにそういう患者がやってきます。もちろん、谷口医院のスタッフ側に問題があるような場合は別ですが、そうではなく言いがかりとしか考えられないようなとき、つまり「限度」を超えた場合には、私自身がその患者の目を見ながら「当院では診られません。二度と来ないでください」と「出入り禁止宣告」をおこないます。この「宣告」は平均すると年に1人くらい、つまり過去に十数名に対しておこなっています。
ただ、これ以上は大切なスタッフに言葉の暴力の被害を負わせるわけにはいかないと判断して「出入り禁止宣告」をおこなうわけですが、それでも「この患者にも何らかの事情があるに違いない」とは考えます。これまでこの社会で生きてこられたわけですから、それなりの常識や節度も持っているはずです。ふじみ野市の渡辺も、報道によれば過去には銀行員として勤めていたそうですから、まったく社会に適合できないわけではないでしょう。
では、なぜ「暴走」する患者がいるのか。それは社会や他者への怨恨などから「絶望」が取返しのつかないところまで大きく膨れ上がったからであり、その絶望を抑制するためには周囲の人間が草の根レベルで他者を慮らねばならない、というのが前回のコラムで述べたことです。
では、運悪く周囲にそういった気遣いをしてくれる他者がいなかった場合は防ぎようがないのでしょうか。
報道によれば、渡辺は病弱する母親のために1つ1万円もする魔除けの「塩」を2つも購入していたそうです。宗教的なパワーに期待することは決して悪いわけではありません。宗教に救われたという話は古今東西どこの社会にもいくらでもあります。では、魔除けの塩を販売した宗教には何か問題があったのでしょうか。自分がよく知らない宗教を悪く言うべきではありませんが、この宗教は困窮した人(渡辺)に対するコミュニケーションが不十分だったのではないでしょうか。
現代日本に住む我々はもはや宗教に頼ることができないのでしょうか。その答えは簡単には出せませんが、私なら宗教よりも別のものを探し求めます。それは何かというと「人、本、旅」です。この「人、本、旅」という言葉は私のオリジナルではなくて、現在APUの学長をされている出口治明さんの名言です。出口さんは、この3つを「人間が賢くなる方法」あるいは「人生を豊かにする方法」として述べられていますが、私はもっと根源的なレベル、すなわち「人が人として絶望せずに生きていくために不可欠なもの」と捉えています。ちなみに、出口さんは私の出身高校の大先輩(ちょうど20年先輩)です。
世の中の何もかもがイヤになり、手を差し伸べてくれる人がまったくいなければ「人、本、旅」から「人」は消えますが「本」「旅」は残ります。本は申し訳ないくらいに安く手に入るものですし、旅もさほどお金をかけずにすることもできます。もちろんお金があるに越したことはありませんが。
本は何を読んでも救われるわけではありませんが、私の”独自調査”によると、いわゆる「古典」を数多く読んでいる人はたいてい心が安定しています。古典とは聖書など宗教に関わるものから、歴史書、シェークスピアなどの古典文学、夏目漱石や志賀直哉といった日本の名著も含めてのことです。
旅についてはやはりお勧めは「一人旅」です。最も推薦したいのはスケジュールを決めずにバックパッカーとして海外を放浪することですが、国内1泊旅行でも自分と向き合って心を豊かにすることは可能です。ちなみに私は、コロナ前までは学会参加にかこつけて全国各地を訪れることを趣味にしていました。
もしもこれを読まれている方が、人生に行き詰っていたり、やりたいことやすべきことが見つからなかったり、あるいは絶望を抱えているのであれば、「人、本、旅」の大切さを思い出し、周囲に適当な人がいなければ「本」をもって「旅」に出てみませんか。それだけでも心が平和になります。さらに旅先では、新たな「人」との出会いが待っているかもしれません。
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