マンスリーレポート
2020年5月 ポストコロナをどう生きるか
ほんの2カ月前までは、まだ世界中の多くの人が「インフルエンザをちょっと重症化させただけ」と考えていた新型コロナ。今も楽観論を唱える人がいるのは事実ですが、それは危険な考えです。1918年に流行が始まったスペイン風邪に例える人もいて、そういう人たちの一部は、死亡数の比較を持ち出して「新型コロナの方がずっと軽症」と言います。たしかに数の上ではそうなのですが、事の深刻度は新型コロナの方が圧倒的に高いのは間違いありません。新型コロナは医療のあり方を一転させ、そして社会にも歴史を塗り替えるほどのインパクトを与えています。今回は、いわば「ポストコロナ」の社会についての私見も述べたいと思います。
先に新型コロナの「重症性」について確認していきましょう。私自身が新型コロナを「これは大変なことになる」と確信したのは2月7日、中国の武漢中心医院の30代の医師・李文亮氏が死亡した時でした。通常のインフルエンザで30代の医師が死ぬことはありません。その後中国では20代の医師が死亡し、欧州では大勢の若い医療者が他界しています。当初は、小児の重症化はないと言われていましたが、(日本での報告は幸いまだないものの)欧米では20歳未満の子供たちも犠牲になっています。日本人は(BCG接種のおかげで、という人もいますがこれは疑わしいです)重症化しないと言う声がある一方で、ニューヨークで新型コロナに感染した2人の日本人医師(30代と40代)は「死」を覚悟したことをメディアの取材に答えています(参考:「NYの日本人医師感染 軽い違和感が、まさか死の恐怖に」 「新型コロナに感染したNYの日本人医師が警告。「自分は『無症状感染』かもと思って行動して」)。
なぜ重症化するのかを確認しておきましょう。当初新型コロナの正体は「肺炎」と言われていました。感染症としての肺炎は通常は一過性です。免疫力が低下している高齢者や持病のある人なら重症化することはあり得ますが、打ち勝てば、つまりウイルスと免疫系の”短期間の決戦”で免疫系が勝利すれば「完全治癒」します。
ところが、新型コロナはそういう単純な感染症ではないのです。それを理解する上でのキーワードが「ACE2受容体」「サイトカイン・ストーム」「血栓」「血管内皮細胞炎」の4つです。順にみていきましょう。
ACE2受容体はいろんな細胞の表面に存在している蛋白質のことです。新型コロナウイルスは、このACE2受容体を見つけると、ここからヒトの細胞内に侵入していきます。肺の細胞のACE2受容体から侵入すると肺炎が起こります。そして、ACE2受容体は肺だけでなく、心臓、腎臓、腸管、血管などの細胞にも幅広く存在しています。ということは、ウイルスは肺だけでなく他の臓器も標的とするわけです。3月以降全世界で心疾患での死亡が増えていることが指摘されています。このなかのいくらかは新型コロナウイルスが直接心臓の細胞を傷つけた可能性があります。当初は少ないと言われていた新型コロナが原因の下痢もかなり多いことが分かってきており、この原因もACE2受容体で説明できます。
次に「サイトカイン・ストーム」を説明しましょう。「ストーム」は嵐のことですから、サイトカイン・ストームとは、サイトカインがまるで嵐のように血管内あるいは臓器に大量にばらまかれることを指します。ではサイトカインとは何かというと、特定の物質を指すわけではなく、平たくいうと免疫に関連する様々な小さな物質の総称です。サイトカインには炎症を引き起こすものと抑制するものがあって、通常は(つまりたいしたことのない感染症の場合は)それらが効率よくつくられて病原体がやっつけられ、一時的に傷んだ組織は回復します。ところが、ストームの状態になってしまうともはや”統制”はとれず、いろんな物質がコントロールされないままに乱造されまくります。こうなると大切な臓器まで痛めつけられることになり、多くの臓器が機能不全となり、ここまでくると一気に致死率が上がります。詳しいメカニズムは分かっていませんが、どうも新型コロナは(従来のコロナウイルスやインフルエンザとは異なり)免疫システムをかき乱し、このサイトカイン・ストームを誘発しているようなのです。
次は「血栓」です。血栓とは血の塊(固まり)のことで、これが細い血管を詰まらせると、その周囲の臓器に酸素や栄養がいきわたらずダメージを受けます。脳の小さな血管に血栓がつまるとその部分は「梗塞」をおこします。血管が次々とやられると、頭痛、麻痺、意識障害などが現れます。3月以降、世界中で若年者の脳梗塞が相次いでいるという指摘があり、このうちいくらかは新型コロナが原因の血栓の可能性があります。血栓が重大な臓器障害をおこすのは心臓や肺だけではありません。「Washington Post」によると、米国の舞台俳優Nick Cordero氏は新型コロナに感染し血栓のせいで足の指に血液が届かなくなり、その結果右足を切断しました。
新型コロナに血栓が関与しているのではないかと疑われた理由のひとつが感染者の血液検査でd-dimerと呼ばれる項目が上昇していることが分かったことです。通常の風邪や肺炎ではd-dimerは上昇しません。そこで太融寺町谷口医院では新型コロナを疑ったときはd-dimerを測り、上昇していた場合は症状が軽症であったとしても新型コロナの可能性があることを説明し自宅待機をしてもらっています。
ここでひとつの「楽観論」がでてきます。もしも新型コロナの増悪因子が血栓だとするならば、血栓溶解療法を実施すればいいではないか、という考えがでてくるからです。実際、それを検証した研究もあります。ある研究によれば、血栓を溶かす薬のヘパリンを新型コロナの重症例に投与すると致死率が20%低下したというのです。しかし、たったの20%です。先述のWashington Postによれば、抗凝固剤(おそらくヘパリン)を投与しても血栓が溶解しない例が異常に多く米国の医師たちが無力感に苛まれています。
また検死(新型コロナで死亡した人の解剖)をおこなうと全身の臓器に微小な血栓ができていたことが分かりました。細い血管が詰まればその臓器は一気に機能不全になります。上述した足切断の他、例えば、網膜の血管が詰まって網膜症(進行すると失明)、腎臓の血管が詰まって腎不全になる可能性もでてきます。また、脳の血管が詰まると、脳梗塞以外に認知症のリスクも出てきます。
最後のキーワードが「内皮細胞炎(endotheliitis)」です。いったん肺の細胞から侵入した新型コロナウイルスは血流に乗って全身に運ばれます。そして、血管の内側には内皮細胞と呼ばれる細胞があります。医学誌『Lancet』に掲載された論文によれば、新型コロナの患者の広範囲の臓器に内皮細胞炎が起こっていることが分かり、さらに、血管内皮細胞内に新型コロナウイルスが存在していることも確認されています。要するに、人間の身体には隅々まで血管が存在するわけですから、新型コロナはどの臓器にも攻撃をしかけることができる可能性があるのです。
今紹介した4つのキーワード、すなわち「ACE2受容体」「サイトカイン・ストーム」「血栓」「内皮細胞炎」はそれぞれ別にではなく、複雑に関連していると考える方がいいでしょう。例えば、ACE2受容体から侵入したウイルスが内皮細胞炎を起こし、その結果サイトカイン・ストームと血栓が生じる、という感じです。血管が全身に存在する以上、これからもどのような症状が出現するか分かりません。
やっかいなのはまだあります。いつ終わるか、です。新型コロナウイルスはB型肝炎ウイルスやHIVが”武器”にしている「逆転写酵素」は持っていません。よって、ウイルスがヒトの遺伝子に潜り込んで棲息するということはありません。ですが、例えばヘルペスウイルスや水痘ウイルスのように身体のどこかに潜んで完全に死滅しない可能性はあるかもしれません。また、ウイルスが完全に死滅したとしても(私は死滅すると思っていますが)、いったん生じた障害は元に戻らない可能性(これを「不可逆性変化」と呼びます)があります。例えば肺の間質炎がそれなりに進行すると不可逆性変化が起こり完治せず、いくらかの障害を残す可能性があります。そうなると日常生活に支障がなかったとしても、例えばスポーツでのパフォーマンスが落ちることが予想されます。日本でもプロの野球選手やバスケットボール選手の感染が報告されました。元通りのパフォーマンスを発揮できるのかどうか、私は不安に思っています。
まだあります。微小な血管のレベルで障害が起こって元に戻らないのだとしたら、ありとあらゆる症状がでてくる可能性があります。これからは原因不明の微熱、疲労感、浮腫、関節痛、頭痛、腹痛、さらには不眠、イライラ、不安感、抑うつ状態などを考えるときに、新型コロナの感染歴を調べる必要があるかもしれません。あまり馴染みがない感染症とは思いますが、ちょうど「Q熱」に似ています(参考:「原因はリケッチアと判明も…やはり不可解なQ熱」)。Q熱は感染すると病原体が死滅したとしても数年後に疲労感や不眠、抑うつ感を起こすことがあるのです。
新型コロナを楽観視してはいけないという点についてある程度納得いただけたのではないかと思います。では、世界はどう変わるのでしょうか。文章がかなり長くなってしまったのでここではひとつだけ述べておきます。それは「初対面でマスクを外すのが無礼な行為になる」ということです。なぜなら、新型コロナが他人にうつるとき、その4割以上が症状の出る前の数日間に感染させていることが研究により明らかになっているからです。数日後に風邪をひかない保証は誰にもないでしょう。ということは、常に他人の前ではマスクを外せないことになります。
これは世界史を塗り替えるくらいの大転換、いえ「パラダイムシフト」と呼んでもいいでしょう。「よほど親しい関係にならない限り他人の前でマスクを外せない」が、今後どれくらい世界に影響を与えることになるのか……。
(この続きは今月号(2020年5月号)の「はやりの病気」で述べます)
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