マンスリーレポート

2017年9月3日 日曜日

2017年9月 「ジェネラリスト」の違和感

 私の経歴が純粋な医師コースでないことが原因なのか、医学部生や医師が使う言葉に違和感を覚えることが度々あります。過去のコラムで取り上げた「ditto」もそのひとつで、私以外のほぼすべての医療者がこれを「do」と書いて「ドゥー」と発音します。長い単語を略すならわかるのですが、「ディトー」と「ドゥー」をそれぞれ声に出したときにいったいどれだけの差があるというのでしょう。いまだに理解不能です。

 他にも、例えば医学用語には「pseudo-」で始まる単語が多く、これをほぼすべての医療者は「シュード」と発音します。素直に「スド」と言えばそれでいいではないか、とずっと思っているのですが、私に同意してくれる医療者はほとんどいません。しかし、興味深いことにこれを「シュード」と発音する医療者以外の人を私は一人も知りません。医療者はあえて「シュード」と読むことにプライドを持っているのでしょうか…。

 今回取り上げたい「ジェネラリスト」という単語も私には違和感が拭えません。ジェネラリストの対極にあるのが「スペシャリスト」で、これは私にもよく分かります。何かの専門家のことを指しているわけです。医学の分野では、例えば「彼は心臓弁膜症の手術のスペシャリストだ」とか「彼女は新生児の遺伝性疾患のスペシャリストだ」という言い方をします。

 一方、ジェネラリストというのは、おそらく最近使われるようになった言葉で、専門医の反対側に位置する総合診療医、プライマリ・ケア医、家庭医などを指します。(これら3つを厳密に区別すべきだという意見もありますが、ここでは同じものを指すこととし、以降「総合診療医」で統一します)

 私がジェネラリストという言葉に違和感がある最大の理由は、この単語を日本人の医師以外から聞いたことがないからです。以前、ベルギーの医師とこの話になったときに、「それはGP(general practitioner)のことだ。普通はgeneralistとは言わない」と指摘されました。米国人の医師にこの話をすると、「意味は分かるが、やはりGP(general practitioner)と言うか、home doctorがより一般的だ」と言われました。つまり、外国人は医師でさえジェネラリストという言葉に違和感を覚えているのです。

 この話が興味深いのはここからです。日本人の医師でない知人(会社員)に聞いてみると「ジェネラリストはよく使う」と言うのです。私自身も医学部入学前の90年代前半には4年間の会社員の経験があります。しかし、ジェネラリストなどという単語は聞いたことがありませんでした。ということは、医療者が最近よく使うようになったのと同じように、一般社会でも比較的新しい言葉なのかもしれません。

 話はさらに興味深くなります。この男性の会社で使う「ジェネラリスト」は、昔で言う「一般職」とほぼ同義だというのです。私が会社員だった90年代前半には、短大卒でルーチンの事務職をおこなう女性が「一般職」、男性や四大卒で複雑な仕事を担う女性が「総合職」と呼ばれていました。これが男女差別だという意見がでたのでしょうか。現在はこういう呼び方はあまりしないと聞きます。

 話はまだ続きます。知人男性によると「ジェネラリスト」は呼び方を替えても結局一般職と同じような職種であり、率直に言えば「簡単なルーチンワークをする人」を指すことが多いそうです。

 なぜこの話が面白いかというと、医療界の意見と似ているからです。医師の間でも、例えば「心臓外科専門医」「脳外科専門医」といった人たちがなんとなくエライような雰囲気があり、なんでも診る総合診療医は一番「下」にみられることがあります。そういう専門医がよく使う言葉は「多芸は無芸」です。なにかひとつのことを極めるのが最も優れた医師であり、どのような疾患も診る医師は結局専門性がなく何もできないのと同じだ、という考えです。

 もちろんこれは極めて極端な意見で、実際は「専門医」と「総合診療医」がいがみ合っているわけではありません。ですが、やはり医師の”花形”は「専門医」であると考える風潮は存在します。実際、医師の多くは、人数不足が明らかな総合診療医には関心がなく、分野によってはすでに飽和している専門医を目指すのです。(だから、「医師は余っている」と言う医師はたいてい専門医で、「足りていない」と考えているのは総合診療医なのです)

 ところで、ジェネラリストという言葉は欧米ではどのように使われるのでしょうか。先に紹介した欧米の医師たちは「意味は分かるが使わない」と言っていました。英英辞典の『Oxford Living Dictionaries』(オンライン版)をみてみると「A person competent in several different fields or activities.」(いくつかの異なった領域や活動において有能な人)と書かれています。つまり、私の知人が言うようなルーチンワークのみをこなす「一般職」とはまったく正反対であり、competent(有能な人)を指しているのです。「多芸は無芸」ではなく「多芸は多芸」が英語本来の意味というわけです。

 これですっきりとします。なぜジェネラリストという単語が欧米では使われないのか。その答えは「そんな人、めったにいないから」です。いくつもの領域で「competent(有能な人)」はそうそういませんし、いたとしても自分から「私はいくつかの分野で優れた能力を持っています」とは言わないでしょう。一方、スペシャリストが自己紹介をするときは「自分の専門は〇〇〇です」という言い方をするわけで、そう聞くと「この人は日ごろ〇〇〇に取り組んでいるんだな」と理解できます。同時に、「他のことにはそれほど熟知していなくて当然」と認識します。

 医師の世界で言えば、「私は総合診療医です」と言えば、「この医師は日ごろ患者さんから最も近い立場にいて、患者さんの話に耳を傾け、難治性・重症性の疾患に遭遇した時は専門医を紹介しているんだな」と理解します。これが総合診療医の定義と考えて差支えありません。『Oxford Living Dictionaries』の定義を基準とすると、もしも「私はジェネラリストです」と言えば、「ん?、この人は難易度の高い心臓弁膜症の執刀もおこない、稀な遺伝性疾患のカウンセリングもできて、iPS細胞を用いたパーキンソン病の治療もおこなえて…、ということ??」となってしまいます。もちろんそんな医師は存在しませんから、自分から「ジェネラリストです」などと言えば、人格が疑われることになりかねません。

 このように同じ「ジェネラリスト」という言葉で想起される人物像が使用者によりまったく異なります。まとめてみると、私の会社員の知人がいう「ジェネラリスト」は、比較的簡単なルーチンワークのみをおこなう職種のことで、昔でいう「一般職」に相当します。日本の医師がいう「ジェネラリスト」は「総合診療医」のことで、患者さんに最も近い位置にいる医師です。そして、欧米人(医師も含めて)がいう「generalist」は、複数のことがらに極めて高い能力を発揮する、まさに「スーパーマン(ウーマン)」のことなのです。

 これだけ意味が異なればもはや会話が成り立たなくなる可能性があります。「一般職」をジェネラリストとするのは「和製英語」でしょうし、日本の医師がいうジェネラリストも欧米の医師は使いません。和製英語のすべてがいけないわけではありませんが、やはり呼び方を替えるべきではないでしょうか。私は日本の医師との会話でも「ジェネラリスト」という単語は用いずに「GP」「総合診療医」「プライマリ・ケア医」などと言います。

 企業の「ジェネラリスト」に替わる適当な表現は思いつきません。興味深いのは、ビジネスの現場では、医師の世界とは異なり、「一般職」に対極するのが「総合職」であり「専門職」でないことです。私はビジネス界におらず口を出す立場にありませんが、就職活動をする学生はややこしくならないのでしょうか…。

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2017年8月7日 月曜日

2017年8月 「やりたい仕事」よりも重要なこと~後編~

 医学部に入学しても、直ちに実験や病院実習が始まるわけではありません。臨床医学の勉強もまだまだ先です。では医学部1回生が何をするかというと、他学部と同様の一般教養、基礎的な生命科学、そして語学です。たいていの医学部生は、勉強はそこそこにして、クラブ、サークル活動、アルバイトなどにも時間を取りますが、私は勉強が大部分を占める生活をしました。そして、そんな私が医学部一年目に最も力を入れたこと、それは「フランス語」(以下仏語)です。

 なぜ仏語かというと、医学部入学の時点では、将来は社会学部の大学院に進む予定だったからです。社会学の研究は英語だけでもできなくはありませんが、私の場合、取り組みたかったテーマが、人間の行動、感情、思考といったことで、これらを解明するにはフランスの学者の書物を読み解く必要があると考えていました。例えば、ミシェル・フーコー、ジャック・ラカン、ドゥルーズ=ガタリといった学者の本です。これらは日本語訳も出ていますが、その日本語を読んでも私にはほとんど理解できません。1ページ読むのに1時間以上かかり、次のページに入るとやっぱり前のページが理解できていないことに気づいてまた戻って読み直す…、という感じです。

 ここで自分の能力のなさを素直に自覚すればよかったのですが、それを認められないほど当時の私は”若かった”のでしょう。「日本語訳が悪いから読めないのだ」などと無茶苦茶な理屈をつけ、そして無理やりそう言い聞かすようにして、ならば仏語を学べばいいのだ、と考えたわけです。

 しかし、仏語の勉強を始めてみると、これが予想をはるかに上回るむつかしさ…。当時の私は会社員時代の英語の勉強のおかげで英語の本はまあまあ読めるようになっていましたし、医学部受験をクリアしていましたから、「やればできる!」と思い込んでいたのです。ところが仏語はやってもやっても文法すらよく分からない…。名詞に姓があるのはいいとしても、冠詞の変化は嫌がらせとしか思えませんし、動詞は変化するだけでなく、時制が複雑で半過去、大過去、複合過去…、とわけが分かりません。それでも私は仏語の勉強を毎日おこない、なんとかついていこうと努力したつもりですが、あるとき”線”が切れました。

 それは突然やってきました。1回生の後期試験の勉強中です。やってもやっても先が見えないような気持ちになり、ある瞬間に「や~めた」と匙を投げたのです。この時点で仏語とは「縁」を切ることとし、その後は後期試験をクリアするためだけに勉強しました。

 その5年後、私はタイのエイズ施設を訪れることになりタイ語の勉強を始めます。タイという国は絶望的なほど英語が通じないのです。仏語の「挫折」があったため、当初はタイ語の勉強にも抵抗はありましたが、始めてみると仏語との違いに驚きます。まずタイ語には冠詞そのものがありません。また動詞は変化しないどころか時制がないのです。たしかに発音がむつかしく、例えばタイ語にはT、P、Kが2種類ずつあります。特にTとPの2つの音を使い分けるのは至難の業ですが、会話では前後関係や話の文脈からなんとかなりますし、文字ではきちんと区別できますから問題ありません。よくタイ語は文字がむつかしいという人がいますが、慣れればそれほどでもありません。私にしてみれば仏語の文法の方がはるかに難易度が高いのです。

 話を戻します。仏語を断念した私は、社会学の理論を極めるのは無理だということを認識するようになりました。しかし私にはこれから学ぶ「医学の知識」があります。その医学の知識をもってすれば、社会学部でこれまでにない研究ができるのではないかと考えました。そして2回生からはいよいよ科学の実験が始まりました。

 ところが、です。最初の頃は実験も解剖も楽しくおこなえていたのですが、そのうちについていけなくなる実験がでてきました。大学でおこなう実験というのは、何も未知の物質を生成するわけではなく、新たな理論を発見するわけでもなく、与えられた手順に従って予想される結果を導くのが目的です。ですから、その手順に従って実験器具を用いてデータをとっていけば問題なくできるはずです。実験に向いている人というのは、こういった作業を楽しんでおこなうことができます。私も当初は「そのつもり」でいたのですが、いつの頃からかこういった作業が苦痛になってきました。また、なぜか私が班のなかで中心になっておこなうと上手くいかないのです。悔しさはもちろんありましたが「自分は実験に向いていない」と認めざるを得ませんでした。

 この頃の私の実験や基礎医学に対するイメージは「乗り越えられない壁」でした。その「壁」は分厚く、高く、ハンマーで壊したり、はしごをかけたりすることができません。その「壁」の前に呆然と立ち尽くすしかないのです。そして90度横を向くと、平坦ではないもののどこか遠いところに通じる道がみえます。結局私はその「道」を選択することになります。

 その「道」とは臨床医学。つまり患者さんと接する「医師」です。実は私は医学部に入学した頃から、複数の知人から医療に関する相談を受けていました。もちろん相談する人たちも、医学生にできることなどたかが知れていると思っていたでしょうが、それでも他に持っていくところがないやり場のない気持ちを私にぶつけてくるのです。そのなかには「それは仕方がない」というものもありましたが、逆に「その気持ちは分かる」というものも少なくなく、こういった人たちの力になることが自分の「使命」なのかもしれない、と考えるようになります。

 そして6回生のとき。民間病院の救急部で実習を受けることになりました。このときの実習は、私にとっては勉強や研修というよりも「楽しくて仕方がない」ものでした。あまりにもエキサイティングだったために、指導医の先生にお願いして、特別に夜間の救急外来でも実習させてもらいました。この病院は繁華街に位置しており、夜間の救急部はとても「にぎやか」です。大声でどなりこんでくる人は来るわ、外国人がどこの言葉か分からない言葉でわめくわ、初めから医療者に攻撃的な人はいるわ、で、こんなに非日常的な時空間は他にありません。待合室ではまずヘアースタイルが奇抜でとてもカラフル。黒い髪の人は皆無で、よくみると3分の1くらいの人はタトゥーか刺青を入れていて、血だらけの中国人やリストカットをした直後の若い女性など…。

 研修医の頃も私が最も興味を持てたのはやはり夜間の救急外来でした。緊急手術になることもありますし、一見軽症でも実は命に関わる重傷疾患であったり、と救急外来はとても勉強になります。様々な疾患を勉強することができて、交通事故や重度の熱傷などは一刻を争う危機感があります。そしてこれがとても面白い(不謹慎な表現ですが…)。いっそのこと、救急医を目指そうか…、そのように考えたこともありました。ですが、私が取り組むべきことは、その場限りで医師患者関係が終わる救急の仕事ではなく、身体のみならず、精神的にも社会的にも苦痛を抱えている慢性疾患を有した患者さんの力になることではないのか…。結局、そういう結論に達しました。

 その後私はタイのエイズ施設でのボランティアを経て母校の大阪市立大学医学部の総合診療部の門を叩きます。そして、大学病院以外にもいくつかの医療機関でも研修を受け、タイに戻るのではなく、日本で困っている患者さんに貢献することを選びました。

 では、今やっていることが私が望んでいた「やりたい仕事」なのか…。実はこれについては自分でもよく分かっていません。これまでの人生でいろんなことをしてきた私が最もやりたいと思ったのは社会人の頃に夢見た社会学の研究です。次にやりたかったのは就職活動をしているときに考えた新規事業(アントレプレナー)でしょうか。大学生の頃はクラブのDJにも憧れていました。医学部に入学したときは基礎研究にも強い興味がありましたし、救急の現場は今もなつかしく思います。

 太融寺町谷口医院は都心部に位置していて、働く若い世代を中心に、国籍、ジェンダー、職業、宗教などに関係なく、どのような人のどのような疾患も診させてもらう、という方針を貫き10年が過ぎました。やりたい仕事をやっているのかどうかは分かりませんが、他に同じようなクリニックもいまだに見当たりませんから、ならば自分が続けるしかない、と考えています。そして、これは「やりがい」にはなります。

 18歳以降、目の前に与えられた仕事が自分の勉強になると思えば挑戦するということを繰り返してきました。やりたい仕事を見つけても自分にセンスや能力がないことに気づいて諦めることが何度かありました。今の仕事が「やりたいこと」なのかどうかはいまだにわかりません。宗教を持っている人なら「それが神から与えられた仕事だ」と思えるのかもしれませんが、私にはそのように思えませんし、また「やらされている」という感覚とも少し違います。

 結局、仕事というのもこれまでの「縁」と「運」、それに「努力」で決められるのかな、と今は納得するようにしています。「やりたいこと」「好きなこと」を求めるだけが人生ではないということです。

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2017年7月10日 月曜日

2017年7月 「やりたい仕事」よりも重要なこと~中編~

 ひとつめの大学(関西学院大学)時代に先輩たちから「コミュニケーションの重要さ」について学ばせてもらった私は、就職活動をする頃には対人関係力を武器に社会で勝負しようと思うようになっていました。前回は旅行会社でのアルバイトのことに触れましたが、19~20歳のときにおこなっていたディスコでのアルバイトもその考えに拍車をかけることになりました。

 ディスコでアルバイトを始めた動機も不純なもので「プロのDJから音楽の話を聞きたい」というものでした。お金がないと言いながらも週に1~3回程度は欠かさずディスコやクラブ(と80年代当時は呼べるところはほとんどありませんでしたが)に遊びに行っていた私は、プロのDJと話をしたかったのです。才能のないことに気づきながらも、DJになれれば…と当時思っていた私は自宅にターンテーブル2台とミキサーを置いてDJの真似事をしていました。自分でミックスしたテープをよく友達に聞いてもらっていて、褒めてもらうこともあったのですが、音楽に詳しい友人(彼は「絶対音感」があり現在も音楽活動をしています)から、「単にテンポを合わせてもダメ。お前の合わせ方では不協和音を作り出しているだけだ」とダメ出しをされ断念することになりました…。

 話を戻します。ディスコでのアルバイトで結果として私が最も学べたこと。それは「接客」のむつかしさと面白さです。水商売の世界というのは奥が深く、才能と経験が重要になります。当時、私が最も尊敬していた先輩はなんと17歳。その先輩は中学のときから水商売の世界に入っていて「貫禄」が違います。昼間に外で会えば当時19歳の私より若く見えますが、いったん制服を着て店に入ればまるで別人です。姿勢、歩き方、お客さんの前で跪くポーズ、声のトーンや話し方。まさに「水商売」という感じでした。他にも尊敬すべき先輩が多数いましたが、私はこの先輩から積極的に教えを乞うようにしていました。私の情熱が伝わったのか、午前3時の閉店後、トレーの持ち方から水割りの作り方、話し方まで「授業」をしてもらえることもありました。

 中年以降の2歳の差ならほとんど無視できますが、17歳と19歳の差は小さくありません。19歳の私が2歳年下の”先輩”を崇めるように接していたのですから、水商売の世界を知らない人には不審に思われていたかもしれません。このときの体験で「年齢なんて関係ない。大切なのは経験と実力だ」ということを学びました。まだ仕事もできないのに、自分の方が年上だという理由だけで、若い看護師にため口で偉そうに話す研修医を見るとついつい私は説教してしまうのですが、これはそのときの体験が大きいのです。

 水商売の世界にどっぷりとつかっていたその頃の私に欠けていたのは「謙虚さ」だったと思います。大阪ミナミのディスコでアルバイトをしていると、水商売の世界で有名な男女の知り合いがどんどん増えていきます。心斎橋筋を地下鉄心斎橋から難波の駅まで歩いただけで何人もの知り合いに会い、ある程度有名な飲食店ならたいていは知っている従業員がいる、という感じで、まだまだ世間を知らなかった当時の私は、生意気で自信過剰でした。

 そんな私が就職先を探すときに重要視したのは「自分の力でどれだけ大きいことができるか」です。逆に初めから考えなかったのが「大企業」です。大企業の歯車になるのがイヤで、同期で競争するなど馬鹿らしく不毛で無駄なことだと考えていました。また、名刺がなければ何もできないような男には絶対になりたくありませんでした。過去にも述べたように「大企業〇〇会社の谷口恭」と思われたくなかったのです。

 私が目指していたのは「企業内起業」です。会社の中にいながら、新規事業の部署を立ち上げることを考えていたのです。実は私が就職活動をおこなっているときIさんという「師匠」がいました。Iさんは元リクルートの社員で、私が知り合った頃にはすでに自身の会社を立ち上げていました。当時の私は大企業にはまったく興味がなく、会社で人を判断するようなことはしませんが、リクルートは別格でした。何しろ、当時知り合った(元)リクルートの社員の人たちは、ほぼ全員が魅力的だったのです。後にリクルート社の基本方針が「長期雇用を前提としておらず何年後かには一人前になって辞めてもらう」ということだったことを知り納得できました。リクルートに入る人たちは会社にしがみつくことなど頭にないのです。

 師匠のIさんにも勧められた会社に就職を決めた私は、早く仕事を覚えるために、大学卒業前からその会社でアルバイトを始めることにしました。扱っている商品を覚えることよりも私が重要視したことは、社内の雰囲気を知り、入社前から社内のネットワークをつくっておくことです。何しろ私がその会社でやりたかったことは「企業内起業」です。早い段階で社内の人間関係を把握し、〇〇を相談するなら□□課の△△さんが詳しい、などといった情報を集めておくことは、入社前から開始した方がいいだろうと考えたのです。

 ところが、です。満を持して入社したその会社で私が配属されたのは、なんと海外事業部。英語がまったくできなかった私はまるで使い物にならず最低ラインに立たされることになりました。学生時代にお世話になった先輩達には到底かないませんが、それでも当時の私は誰とでもコミュニケーションを取れることに自信を持っており、社内外の人脈を築いていずれ新しい部署を立ち上げるんだ…、と意気込んでいました。しかし、海外事業部では英語ができなければ挨拶すらできません。今考えれば、生意気で世間知らずの私は、一度頭を打つ必要がある、と人事部で判断され、最も行きたくなかった海外事業部に配属されたのだと思います。

 過去にも述べたように、「退社」か「英語の勉強」の二者択一を迫られた私は「英語」を選択しました。最初の一年はひたすら英語の勉強と輸出業務の事務仕事に苦しんだ、という感じでしたが、二年目の途中からは、上司の許可を得た上で、自分のアイデアでいろんな国の商工会議所宛てに自社製品を売り込む手紙(90年代前半当時、メールはもちろん、FAXもない国が多く、そういった地域にはもっぱら手紙かテレックスしかありませんでした)を書いてみました。すると、アラブ首長国連邦のある企業から注文の手紙が…。この嬉しかった気持ちは今も覚えています。

 3年目からは輸入部門に移り、今度は輸入品を国内に売り込む仕事となりました。この頃の仕事はただただ楽しかったという感じです。自分でキャンペーン企画を考案し、チラシをつくり、景品を探してくるのです。入社前にアルバイトをしていた頃の社内人脈もいきてきて、さらに就職活動時の師匠Iさんの会社とも協力できるようになり、入社前に私がイメージしていた「企業内起業」に近づいていることを実感しました。

 けれども、最高に楽しい!と思ったとき、同時にある懸念もでてきました。そしてそれが次第に抑えきれなくなっていることを認めざるを得ませんでした。その懸念とは、「これでいいのだろうか…。10年後も同じことをやっているのだろうか。これが生きる意味なのだろうか…」。そんな思いがときおりふと脳裏をよぎると、言いようのない虚しさが私を襲います。

 実は英語や貿易実務に少し慣れだした頃、学生時代に読みたくてそのままにしていた社会学関連の本を少しずつ読むようにしていたのです。私は成績は良くありませんでしたが、大学3回生からは勉強が嫌いではなくなっていました。仕事の傍らに社会学の本を読めば読むほど、きちんと勉強したい、という気持ちが強くなってきました。

 大学時代の恩師、遠藤先生に連絡をとり、考えていることを話すと、君がやりたいことなら高坂先生にお世話になるのがいい、と助言をいただき、さっそく高坂先生に挨拶に伺い、その後数か月に一度は高坂先生の研究室を訪れるようになりました。論文や教科書を紹介してもらい、社会学部の大学院受験の意思が固まりつつありました。

 社会学の面白さにとりつかれた私は、次第に仕事よりも社会学関連の本を読むことに時間を割くようになりました。これまでの人生で私が「どうしてもこの職業につきたい!」と最も強く思ったのはこのときで、端くれでもいいから社会学の研究者になりたかったのです。私が研究したかったのは人間の行動、感情、思考といったものです。そしてこういったテーマに興味を持てば自ずと生命科学にも感心が向きます。

 そこで私が考え付いたのが「まずは医学を勉強してから社会学に戻る」という道です。こうして私は医学部受験を決意することになります。しかし、合格したのはいいものの、入学後早くも挫折を味わうことになります…。

(続く)

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2017年6月16日 金曜日

2017年6月 「やりたい仕事」よりも重要なこと~前編~

「やりたいことを仕事にしなさい」とか「好きなことで稼ぎましょう」などと言われてもどこか空々しく感じてしまうのは私だけではないでしょう。そのようなセリフは成功者が言えることであって、一生懸命がんばったけど夢が叶わず挫折して、本意でない仕事に従事している人もたくさんいるからです。

 ですから、こういったタイトルの本やブログを見つけたとしても実際に役に立つことはあまりない、というのが私の意見です。ひどい場合は成功者の「自慢話」を聞かされるだけです。

 今回も前回に続いて「職探しの極意」について述べていきたいと思います。前回も指摘したように「受験」と「就職」はまったく異なります。受験は何といっても本人の努力がものをいいます。もちろん「運」も作用します。そもそも受験を許される家庭環境にいることが「幸運」ですし、たまたま知っている問題が出ることもあります。適当に選んだ選択肢が偶然当たることもあります。

 ですが、受験は(難易度にもよりますが)努力なしでは絶対に合格することができません。それも他人よりもずっと努力をしなければなりません。そして、「努力できるかどうか」は、本当に大学でそれを勉強したいのか、その気持ちに比例する、というのが私の考えです。どうしてもその大学で勉強したいという気持ちが強ければ強いほど努力が苦にならずスランプから速やかに脱出できる、ということを拙書で述べました。私の場合、医学部の受験勉強をしていて調子が上がらなかったときは、医学部のキャンパスで勉強している自分の姿を想像したり、あるいは実際に志望校(大阪市立大学)まで出向いて、「このなかの研究室でいずれ働くことになるんだ…」という空想を楽しんだりしていました。こうすると再びやる気がみなぎってくるのです。

 一方、就職はそうはいきません。ほとんど、とまではいいませんが、多くは「運」が左右するからです。就職したい会社の前に行って自分が働いているところを想像するようなことを繰り返せば、そのうち不審者として通報されるでしょうし、そもそも会社によっては縁故で大半が決まるところもあります。これがアンフェアだという意見もあるでしょうが、世の中とはそういうものです。賄賂が少ない日本はまだましな方です。また、多くの会社は認めないでしょうが、容姿の見栄えの良さや声の質といった個人の努力ではどうしようもない要因で採用が決まることは多々あります。

 芸術やスポーツの分野では、求められる才能や能力も受験とは桁違いに厳しくなります。ある意味「勉強」で生きていく方がラクです。例えば、学年一ピアノが上手だったとして、さらに努力を重ねても将来ピアノだけで食べていける可能性は極めて低いのが現実です。学年一のストライカーがプロのサッカー選手になり、しかも選手時代に一生食べていけるだけ稼げるかというと、これも極めて困難でしょう。

 その点「勉強」で勝負するなら、例えば小学生時代の算数の成績が上位3分の1くらいに入っていれば、その後の努力次第では、保護者の理解と支援は必要ですが、理系学部の大学院まで行くことも可能でしょう。そこまでいけばよほどの不景気でない限り、どこかの企業の研究職に就ける可能性は充分にあります。ただし、この会社しかイヤだ、というふうに考えると道はかなり険しくなりますから、どうしてもやりたいこと、を幅広く考えておかなければなりません。

 さて、私が考える「職探しの極意」。「やりたい仕事」よりも重視しなければならないことがあるというのが今回の話です。それは、「今、目の前にある仕事が少しでも興味があるなら”卒業”できるまでがんばる」ということです。そしてこれは若ければ若いほど大切なことです。私自身のことを例にとって解説したいと思います。

 私はひとつめの大学(関西学院大学)に入学して初めて、おもしろそうだな、と思って始めたのが旅行会社のアルバイトです。動機は極めて不純なもので「タダで沖縄に行きたい」というものです。ですが入ってみてすぐに「これは自分にはムリだ」と感じました。

 当時の旅行業界というのは(すべてではありませんが)とても”いい加減”で、現地に着いたけど宿が取れていない、といったお客さんからのクレームは日常茶飯事でした。ここで私のような未熟者は怒っているお客さんの前であたふたするだけで、とてもその場をまとめることができません。しかし、仕事のできる先輩は怒り心頭のお客さんを上手にもてなし、笑いをとり、その後感謝の手紙をもらうのです。宿がなくても、旅館の宴会場に泊めたり、ひどい場合は場末のラブホテルに交渉に行ってそこに宿泊してもらうのです。常識的に考えてこんなことをされてお客さんは納得するはずがないのですが、当時の私の先輩たちはこれくらいのことを当たり前のようにやってのけていたのです。

 このような先輩たちの「パワー」を目の当たりにすると、学校の勉強なんかしている場合じゃない、と思わずにはいられません。私はそのアルバイトを辞めるのではなく、こういった先輩たちのいわば「カバン持ち」をするようなつもりで、可能な限りプライベートの行動も共にさせてもらいました。

 最初の頃は、そのような先輩たちと一緒にいればいるほど、自分は何もできない人間なんだ…、という劣等感を感じるだけでしたが、そのうちに単純に先輩の「マネ」をすればいいのかも、ということに気づきました。そこで先輩たちがいないところでは、話す中身のみならず、話し方や声の抑揚のつけ方なども真似るようにしてみました。そのうち、「こんなとき〇〇先輩ならこんなふうに言うに違いない。△△先輩ならひとつ”間”を入れてからこう言うかもしれない」などというように考えるようになったのです。

 すると、百発百中とまではいきませんが、ある程度はその場で気の利いたことが言えるようになり、コミュニケーションの苦手意識がなくなってきたのです。これは「タダで沖縄に行きたい」と考えてアルバイトを始めた頃にはまったく予想もしていなかった私の「財産」となりました。相手が老若男女どのような人であったとしても、自分とはまったく異なる社会で生きている人であったとしても、初対面で苦手意識を持つことがなくなったのです。医師の多くは初めて接する患者さんと話すときに緊張するといいますが、私にはそれがほとんどないのはこの「財産」があるからです。

 過去にも述べたように、大阪で深夜の救急外来をやっていると、泥酔者、暴力的な人、自殺未遂をした人などが次々とやって来ます。ときには「指をつめたから縫ってくれ」と言って受診する「そのスジの人」もいます。夜間の救急外来にやってくる人のいくらかは医療者に暴言を吐きますから、それが辛いと考える医師ももちろんいますが、私の場合、こういったことがほとんど苦痛になりません。これはちょっとマズイな…、と感じたときも旅行会社でのアルバイト時代を思い出し、「〇〇先輩ならどうするかな」というふうに考えます。

 そのアルバイトを始めた頃は、百回生まれ変わっても先輩たちにはかなわないな…、と感じていて、それは変わっておらず、当時の先輩たちはいつまでも私の「永遠の先輩」であり、今も私など足元にも及びません。ですが、先輩たちから学ばせてもらった私の「財産」は、その後の人生で何度も私を救ってくれています。

 もしも私がそのアルバイトをすぐにやめていれば、自分のコミュニケーション能力は低いままで、きっとまったく異なる人生を歩んでいたに違いありません。私が先輩たちから学んだことはいくら教科書を読んでもわからないことであり、「自分には向いてないから他にやりたいバイトを探そう」と諦めていれば身につかなかったことです。

 しかし、その後の私の人生はこの「財産」でいいことばかり…、というわけではありません。関西学院大学を卒業し、満を持して入社したはずの会社で再び挫折を味わうことになります。

 つづく。

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2017年5月11日 木曜日

2017年5月 就職の相談

 患者さんから就職の相談をされたときどうしていますか?

 少し前、複数の医師と雑談をしていたときに私がふった話題です。そこにいた医師は全員が無言に…。どうやら私は場違いで無神経な発言をしてしまったようです。しばらくして一番ベテランの医師が言うには「そんな相談されない」とのこと。

 一方、私は研修医の頃から就職についての相談をしばしば受けています。おそらくこの理由のひとつは、私が医学部再受験の本を上梓したからだと思います。私は今もFacebookやLINEなどのSNSを一切おこなっていませんが、クリニックやNPO法人GINAのサイトから相談メールがよく届きます。数年前までは、就職よりも医学部再受験についての相談が多く、就職については、看護師、作業療法士、臨床心理士といった医療系の仕事についてのものが多かったのですが、最近は医療系以外の相談、例えば大学生から新卒の就職について相談されることもあります。

 質問や相談をする人のすべてが私の本を読んでいるわけではありません。おそらく日ごろから「困ったことがあれば何でも相談してください」と言っていることが原因のひとつでしょう。この「困ったことがあれば」というのは、一応は「医療のことで」という前提で話しているつもりなのですが…。恋愛相談を受けることもしばしばあります。以前は恋愛関係の相談はLGBTの人たちからのものがほとんどだったのですが、最近はストレートの人からも寄せられるようになってきました。もちろん私は万能カウンセラーではなく、それほど期待に応えられるわけではないのですが…。

 ですが、困っている人を放っておくわけにはいきません。結果として役に立たないことの方が多いのですが、ほとんどの相談に対して返答しています。(一部、明らかにふざけたような質問は無視しています) 

 話を「就職」に戻しましょう。私がひとつめの大学(関西学院大学)を卒業した1991年はバブル経済真っ只中で「空前の売り手市場」と言われていました。今年(2017年)は、そのバブル時代以上に求人率が高いそうですが、91年当時の方が時代背景もあり企業側が”過剰な”対応をしていました。説明会は高級ホテルの立食パーティが当たり前、入社前に海外旅行を用意する企業や新車一台プレゼントしてくれる会社まであったほどです。ですからよほど「狭き門」の企業を目指さない限りは、就職試験で落ちるということがなかったのです。

 また、医師はいつの時代も人手不足ですから、やはりよほどの「狭き門」の病院でない限り、就職できないということはありません。医学部の学生時代のアルバイトも、医学生自体が稀少な存在ですから、どこに行っても珍しがられてすぐに採用ということになりました。

 つまり、私は「職を探す」ということについてこれまで一切の苦労をしたことがなく、試験や面接で落とされた経験が一度もないのです。常識的に考えれば、こんな私に就職の助言などできるはずがないのですが、ものすごく都合のいい解釈をすれば、私は「職探しで一度も失敗したことがない男」となるのかもしれません。また、今は人を採用する側にいますから、こんな人はNGでこういう人はOK、ということが多少は分かるつもりです。特に医療職についてはそれなりに助言ができると思います。

 では、さっそく私が考える「職探しの極意」を紹介したいと思います。まず「就職」と「受験」は異なります。どちらも「運と縁」が関与しますが、受験に比べて就職はその傾向が桁違いに高くなります。そして、このことを初めから理解しておくべきです。もしも希望しているところに就職できなかったとしても、それはあなたに実力がなかったからではなく「運と縁」がなかったと考えるべきです。就職の場合、新卒時を除けば就職時期は「適宜」となるのが普通です。最近、私の友人が「超」がつくような優良企業に就職が決まりました。めったに中途採用をしない会社です。求人が出た時期と友人が職を探していた時期が”たまたま”重なり、さらに偶然にも他にめぼしい応募者がいなかったようです。

 太融寺町谷口医院(以下「谷口医院)」でも、募集して新しい採用が決まり求人活動が終了したそのわずか数時間後に、職歴も志望動機も申し分がなく「是非一緒に働きたい!」と感じる人からの履歴書が届いたということが過去に何度かありました。そして採用した人が、1ヶ月もしないうちに”本性”を現し、とうてい医療者には向いていないことが判り…、仕事のパフォーマンスは最悪で患者さんからのクレームが後を絶たず…、ということも。

 一般に(とはいえ、これは特に私に強い傾向があることは認めます)、就職希望者が「未熟ですが一生懸命がんばりますのでお願いします!」と熱意を強く訴え、そして「なぜここで働きたいのか」その理由がまともなものであれば、たとえ、これまでの経歴が不十分であっても、試験の点数が低くても、その熱意が高ければ採用に至ります。逆に「私のこれまでの経験で充分にやっていけます」というような態度の人は、谷口医院では不採用になることが多いといえます。

 しかし、この採用方法はときに”裏目”に出ます。一度、面接時に泣きながら「前の職場で辛かった。新たに当院でがんばりたい」と強く訴えた看護師を採用したことがあります。しかし、採用後、最初のうちは多少の”がんばり”を見せてくれたものの、数か月もたてば、言われたことしかしない、言われたことも文句をつけてやらない、という態度に変わっていきました・・・。

 ですが、私はこれでいいと思っています。「裏切られても信じることから…」というのが私の考えです。こういう医療者と接した患者さんには申し訳ないですし、開き直るわけではありませんが、もしも当院の医療者が患者さんに不快な思いをさせることがあればそれは私の責任であり、精一杯のフォローをします。

 仕事に流動性のあるこの時代、新卒の人も含めて「生涯働き続ける職場」を探す必要はないと思います。では、どのような基準で就職先を探せばいいのか。それは「自分の勉強になるかどうか」だと私は考えています。実際、私自身がそのような観点のみでこれまで仕事やアルバイトを探してきました。(かなり都合のいい解釈をすれば、私が面接や就職試験で一度も落とされたことがないのは、この考えを面接官や雇用者に汲み取ってもらったからかもしれません)

 私はこれまでアルバイトも含めれば20以上の職場で働いていますが、面接のときに、「貴社(貴院)のためにがんばります」と言ったことは一度もありません。毎回私が主張するのは「貴社(貴院)で勉強させてください」ということです。もしかすると、こういうことを言う者は少なく「珍しいから」という理由で採用されるのかもしれませんが、これは私の本心です。その企業(や病院)のために働くなどと考えたことはただの一度もなく、私が考えることはただひとつ。「その仕事は自分の勉強になるか」というとても身勝手なものです。

 私にとって仕事とは「お金を稼ぐ手段」ではなく「勉強」であり、どこの職場でも少しでも学ぶことを考えます。会社員時代は、英語、貿易事務、マーケティングなどを学ぶ”学校”でしたし、医師になってからはひとりひとりの患者さんが私にとっては「貴重な臨床症例」です。医学部の学生時代、何人かの先生から「患者さんから学ばせてもらえ」と言われ、当時はこの意味がよく分からなかったのですが、医師になってから日々実感しています。よりよい医療をおこなうには教科書だけでは不十分で臨床経験を重ねなければならないのです。

 私は、医療者は(それは狭い意味の医療者だけでなく事務職や受付も含めて)、この「患者さんから学ぶ」そして「患者さんに貢献する」という姿勢が絶対に必要だと考えています。医療機関のために働く必要は一切ありません。患者さんから学びそして貢献するというこの精神(私はこれを「医療マインド」と呼んでいます)があれば、必ずやりがいをもって気持ちよく働くことができ、そして患者さんから「感謝」されます。

 谷口医院のこれまでのスタッフを振り返ると、「医療マインド」を持っている者は、日ごろから私に患者さんの相談や質問をし、患者さんから感謝の言葉をかけられ、そして”卒業”するときにも患者さんの話をします。逆に、退職時に患者さんの話が一切でてこないスタッフもいます。そういうスタッフは例外なく「医療マインド」がなく、実際、それなりに長く働いたとしても患者さんから感謝の言葉がほとんど寄せられていません。

 人のために貢献できる職業は医療者だけではありませんが、医療者は「貢献していること」を日々実感することのできる恵まれた職業だと私は考えています。「医療マインド」は絶対に必要ですが、これを身につけるのに特別な訓練は必要なく、「困っている患者さんの力になりたい」と思うことができればそれで「合格」です。(ですが、簡単そうにみえてこれができない人も世の中にはいるのです)

 最後に阪急東宝グループの創始者小林一三氏の言葉を著書『私の行き方』から紹介したいと思います。これを書かれたのはおそらく戦前だと思われますが、今読んでも胸に響きます。

せち辛い世の中ではあるが、生きがいのある生活だとか、人格を認めてもらわなければ困るとか、そういう理屈、それは正しい主張であるとしても、それらの議論にこだわらず、己を捨てて人のために働くのが、かえって向上昇進の近道であると信じている。

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2017年4月11日 火曜日

2017年4月 なぜ「幸せ」はこんなにも分かりにくいのか

 先月のマンスリーレポートで、私はいつも時間に追われる生活を送っているという話をしたところ、それで幸せなのか、という意見を複数の方からいただきました。ある人が「幸せ」かどうかは、幸せの定義によりますし、簡単に結論がでる話ではありません。古今東西、人間はいつも「幸せとは何か」について思索しているわけで、幸せについて論じた書籍は無数にあります。

 私にとって何が幸せかはひとまず置いておいて、まずは幸せというテーマになると必ず出てくる「お金」について考えてみたいと思います。

 最初に基本的なことをおさえておきましょう。人はお金のために生きているわけではないのは事実ですが、お金がないと生きていけません。これは当たり前のことですが、きれいごとが好きな人のなかには「お金なんてなくてもいい。もっと大切なものがある」と強調する人がいます。また、「自分はお金はないけど幸せだ」という人もいます。こういうセリフ、文脈によっては他人を傷つける無神経な発言となります。

 話す相手によっては「お金はない」などと気軽に口にすべきではありません。私はNPO法人GINAの関係でタイによく渡航します。日本にはちょっとないような貧困層の人と話をすることもあります。彼(女)らの「お金がない」というのは、ひどい場合は、「その日に食べるものの確保も困難」というレベルです。そこまで困窮している人は私と継続的に付き合いのある人たちのなかにはそうそういませんが、「冷蔵庫やテレビがない」という人は地方に行けばいくらでもいます。それでも「家族がいれば幸せ」と話す人もいますから、「お金」は最低限必要ですが、お金があればあるほど幸せとは言えない、というのは間違いなさそうです。

 お金と幸せについてもう少し掘り下げて考えてみましょう。個人差はあるにせよ、全体でみたときには年収がいくらくらいあれば人は満足できるのでしょうか。

 これには有名な学説があります。科学誌『PNAS』に2010年に掲載された、ノーベル経済学賞受賞者ダニエル・カーネマンの論文「高収入で人生の評価が改善しても感情的な幸福は改善しない(High income improves evaluation of life but not emotional well-being)」です。カーネマンによれば、年収が75,000ドル(約900万円)を超えると、それ以上収入が増えても「感情的な幸福」が変わりません。「感情的な幸福」とは、喜び、ストレス、悲しみ、怒り、愛情などの頻度と強さのことです。つまり、「幸福」の基準を高級車や豪華な住宅に求めるならともかく、「感情」を大切なことと考えるなら、その感情を得るのに必要な年収はそんなに高くなくてもOK、ということです。

 ですが、年収75,000ドルは低くありません。こんなに稼げる人は世界の5%もいないでしょう。この数字だけをみると、「年収75,000ドルなんて一生かかっても達成できるはずがない。ということは自分は生涯幸せとは縁がないんだ…」と考える人もいるかもしれません。しかし悲観するのはまだ早い。

 これは米国の2010年のデータです。日本が世界有数の物価高だったのはバブル経済の頃の話であり、いまや日本は先進国のなかで物価は安い方です。一例をあげましょう。日本なら、都心部に住んでもワンルームマンションは安ければ家賃4万円代の物件があります。一方、アメリカでは、ニューヨークやロサンジェルスでワンルームマンションを探すと30万円近くを覚悟しなければなりません。単純に家賃だけで決められるわけではありませんが、物価を考慮すると、米国の75,000ドルは、日本でいえば年収300~400万円くらいではないでしょうか。

 さて、ここで私が以前タイで知り合ったHさんの話をしたいと思います。Hさんは当時40歳くらいの男性で、15年間勤務した一部上場企業を退職しタイにやってきました。タイには「沈没組」と呼ばれる、日本でドロップアウトして安宿に引きこもっている人たちも大勢いますがHさんは異なります。いつも颯爽としていて明るくて話も面白いのです。英語だけでなくタイ語も堪能です。このHさんから聞いた「タイの農夫と日本のビジネスマン」の逸話がとても印象的でした。こんな話です。

タイのイサーン地方(東北地方)の昼下がり。ハンモックに揺られながらのんきにビールを飲んでいる中年男性に、同い年くらいの日本のビジネスマンが近づいた。

日本人:昼間からのんびりしているね。
タイ人:カモとナマズにエサをあげたから今日はもうすることがないんだ。
日本人:へえ、飼育の仕事をしているんだ。たくさん飼っているの?
タイ人:いや、家族と親戚が食べる程度。これで充分だ。夕方になると村の連中が集まってくる。一緒に飲んで騒いで子供たちがはしゃいでいるのをみればそれで幸せだ。
日本人:もっとたくさん飼育して金儲けをすればいいのに。
タイ人:金儲けをしようと思えばどうすればいいんだ?
日本人:そうだな、まず経営のことを勉強する。資金がないなら銀行に借りればいい。事業計画書がきちんとしていればお金を借りることができる。そして会社を立ち上げてこの県一番の食品会社にするんだ。
タイ人:それで?
日本人:次は国際関係も学んで輸出をするんだ。一時的に誰かに経営をまかせて海外留学してMBAをとるのがいい。
タイ人:それで?
日本人:輸出で大儲けすれば次は株式上場だ。
タイ人:それで?
日本人:そうなれば株式を全部売ってしまって億万長者だ。
タイ人:億万長者になれば何ができるの?
日本人:もう勉強も仕事もしなくていい。昼間からハンモックに揺られながらビールが飲めるぞ…。

 その後似たような話を何度か聞きました。どうやらこの話は世界的に有名な逸話で、オリジナルは「メキシコの漁師と米国人ビジネスマン」という説が有力です。

 Hさんは退職金には手を付けずに、日本で3か月ほど工場で夜勤をして、そのお金を持ってタイなどで残りの9か月を過ごすそうです。ローカルバスに乗り、日本人が行かないような田舎に行ってタイを楽しんでいると言います。

 私がHさんと知り合ったのはタイのエイズ問題に関わり始めたばかりの頃で、当時はまだNPO法人GINAの設立も、日本でクリニックを始めることもまったく考えていませんでした。工場の夜勤も高収入でしょうが、過去にも述べたように医師のアルバイトもそれなりに高収入です。例えば、日本で3か月の間、健康診断や深夜の救急外来のアルバイトをおこなえば、残りの9か月をタイで過ごし、エイズ施設でボランティアをすることも充分に可能です。

 もしもあのときHさんのような生活を選択したとすれば、私の時間管理は上手くいき、今のように時間に追われる毎日から解放されていたでしょうか。そして「幸せ」と感じることができていたでしょうか。

 実はこのことは今でもときどき考えます。そして結局毎回同じ結論にたどり着きます。私の「選択」は正しかった、という結論です。当時の私は研修医を終えたばかりで、医師としての知識も技術もまだまだ未熟でした。ということは、患者さんに貢献するには自分がもっと勉強せねばなりません。私のとった行動は、母校の大阪市立大学医学部の総合診療科の門を叩き、研修医のとき以上に勉強するということでした。大学病院のみならず複数の病院や診療所に修行にでかけ知識と技術の習得に努めました。そして、タイのエイズ患者さんや孤児に対してはNPO法人GINAを立ち上げて組織として貢献することを考えました。

 今も知識と技術の習得はまだまだ必要だと考えています。結局、私は「勉強」と「貢献」に価値を置いていて、これらを自分のミッションと認識しています。つまり、当時も今もやるべきことをやっているということに他なりません。ならば私は幸せなのか…?

「タイの農夫と日本のビジネスマン」の逸話は、金持ちでなくとも幸せになれることを示しています。そして、私はあきらかに「タイの農夫」とは異なるライフスタイルをとっています。では、私は「日本のビジネスマン」に近いのかというと、これも明らかに違います。日ごろしている勉強、無料でおこなっているメール相談、GINA関連の諸業務などは時間とお金を使うだけですから、ビジネスとは真逆のものです。

 それで忙しい、時間がない、と嘆いている私は幸せなのでしょか…。イエス、と言いたいところですが、Hさんや「タイの農夫」のことが羨ましいと思うこともあります。

 私にとって「幸せ」とは何か。いまのところ自分ではまったく分かっていないようです…。

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2017年3月17日 金曜日

2017年3月 遂に破綻した私の時間管理

 しまった! やってしまった…。そう叫びたくなったのは昨日中に目を通すはずだった新聞を読まずに寝てしまったからです。どうしてそこまで後悔するかというと、私は日経新聞の電子版を購読していて、1週間が過ぎるとデータが消されてしまうからです。そうです。今の私は新聞を読むのが1週間遅れなのです…。

 私の人生はいつも時間に追われていて、物心がついたときから、とまでは言えないにしても、少なくとも高校を卒業したあたりから、「時間がない、時間がもったいない」が口癖になっていました。もっとも、このようなことを言い過ぎると周囲に不快感を与えますから、なるべく言わないようにはしていますが…。

 そんな私が高校を卒業してまず取り組んだのが「睡眠時間を減らす」ということです。中学・高校とラジオの深夜放送にハマっていた私は、元々どちらかという睡眠時間を削るのが得意でした。関西学院大学(以下「関学」)に入学した18歳の時点から、大学生には時間はたっぷりある、と言う同級生を横目で見ながら、「寝る時間を削ってでも楽しんでやる!」と考えました。

 以前にも述べましたが、18歳の頃の私はアルバイト先で自分が何もできず役に立たない人間であることを知ることになりました。(関学のように)偏差値が高い大学に行ければ…、と考えていたのが完全に間違いで、名前も聞いたことのない低偏差値の大学生がバリバリ仕事をこなしているのをみて、のんきに大学生活を楽しもうとしている場合ではない!と自覚したのです。

 そこで私は、同級生がのんびりしている時間にもアルバイトにでかけ、深夜からでも遊びに行き、早朝からまたアルバイトに行きという生活をすることになっていったのです。当時の私はショートスリーパーであることは”いいこと”のように考えていて、睡眠を削ればその分人生を謳歌できる、と本気で考えていました。一度、オールナイトで遊んで夜が明けてから帰ったとき、二日酔いもあり不本意ながら夕暮れ時まで寝てしまったことがあります。そのときに窓から見えた夕陽の虚しかったこと…。あぁ、今日という日を無駄に過ごしてしまった…、という後悔の念を痛切に感じました。

 就職してからも人の倍は遊んでやる!と考えていた私は早々にその思いを挫かれることになります。英語がまったくできなかった私の配属先はなんと「海外事業部」。英語ができなければ存在価値がゼロのような部署です。これも以前に述べましたのでここでは繰り返しませんが、そのときの選択肢は2つ。死ぬほど英語を勉強して少しは使える社員になるか、入社早々退職し次を探すか…。前者を選択した私は朝5時に起床し英語の勉強を開始しだしました。関学の学生の頃、朝5時に起きてアルバイトに出かけていましたから、早起きには慣れています。今も私の起床時間は午前4時45分ですから、結局私の人生はずっと早起きです。

 会社を辞めて医学部の受験勉強を開始しだしたときも睡眠時間は5時間と決めていました。その頃の私は、雑念を追い払うために、付き合いで出かける、ということをほとんどしませんでしたから、私のこれまでの人生でもっとも規則正しい生活となりました。会社員時代は、英語の勉強で忙しくても、どれだけ睡眠時間が短くても、人付き合いは断らず、むしろそれを自分の「セールスポイント」にしていたくらいですが、医学部受験勉強時代は、友人にも「一年間は出家したものと思ってほしい」と伝え、可能な限り受験以外のことを考えないようにしていたのです。

 医学部入学後は、再び友人や先輩との付き合いが始まりましたから、相変わらず夜中でも出かけることもありました。その上、医学部の勉強はとても大変ですから、のんびりする余裕などありません。医学部の若い同級生と同じ勉強時間では太刀打ちできませんから、それまでの人生の「他人の倍は遊ぶ」というルールを「他人の倍は勉強する」に変更することになりました。

 医学部の1回生の終り頃、1997年の初頭に読んだ『7つの習慣』に感銘を受けた私は、同書で紹介されている「自分の葬儀を想像する」ことを実践するようになりました。これは、自分がどんなふうに人生の最後を迎えたいかを思い描くことにより、今すべきことが逆算できるというもので、たしかに、自分が死ぬまでに何をしていたいか、どんな人間になっていたいかを考えると、残された時間はあまり多くないことに気づきます。そして、このことに気づけば時間をムダにしている余裕はありません。

 例えば、元々私はテレビをあまり観ませんが、この頃からNHKの語学教育番組を除けばテレビの前に座ることがほとんどなくなりました。映画は好きなのですが、漠然と観るのではなく、いつも「貴重な一本」と考えて楽しむようにしています。自分の行動は損得で決めるわけではありませんし、生産性が高いか低いかで判断しているわけでもありません。悩んでいる後輩から連絡があれば夜中でも会いに行くことは変わりませんが、ダラダラと過ごすような時間はほとんどなくなりました。

 医師になってからはこの傾向がさらに進み、以前もどこかで言ったように、トイレと寝室以外は24時間監視されていてもかまわないと思うほどです。20代の会社員の頃は、他人の倍遊ぶことが目標でしたが、医師になったときには同僚の倍働こうと思いました。たしかに研修医は誰もが仕事と勉強だけの日々になるのは事実ですが、それでも私は同僚よりも患者さんと接する時間を長くし、救急外来に入りびたり、そして論文も教科書もたくさん読むことを心がけました。

 太融寺町谷口医院を始めてからも、教科書や論文を読む量は減らしていない、どころか最近はネット上で簡単に論文にアクセスできますから読む量は増えています。医学部の学生時代には値段が高くて買えなかった世界的に有名な医学書も最近はiPADで読んでいます。医学書というのは驚くほど高価で何万円もするものもざらにあります。学生の頃は、親からもらう小遣いで買える同級生を羨ましく思っていましたが、今の私は出張時の機内でそれらを読んでいます。

 ネット社会は新聞や論文、医学書へのアクセスを簡単にしただけではありません。私の元には谷口医院やGINAのサイトを見た人から健康相談などのメールが毎日たくさん届きます。外国人からのメールもほぼ毎日送られてきます。谷口医院のウェブサイトには英語版もあるからです。これらのひとつひとつに回答するのはそれなりに時間がかかるのですが、必要なことですし、メールで問題が解決するならとても有益なものといえます。

 これからももっと勉強してもっと仕事をして…、と考えているのですが、最近、ついに私の時間管理が破綻してしまいました。谷口医院のサイトの「医療ニュース」は、海外の論文などから興味深いものをピックアップして月に4本書いていたのですが、先月(2017年2月)は1本しか書けませんでした。

 実は2月と3月にそれぞれ学会発表があり、この準備に時間を取られ…、というのは言い訳で、よく考えると私のスケジュールはとっくに破綻していることに気づきました。

 NHKの英語教育番組「ニュースで英会話」はテレビのハードディスクにたまりっぱなしで、昨日観たのは2年前のものです。「話題のニュースで旬な表現を学ぶ…」がこの番組の特徴なのに、私にとっては「なつかしのニュース」になってしまっています。定期的に読んでいる週刊誌は1~2週間遅れ。新聞は冒頭で述べた通り。amazonの「ほしいものリスト」に入っている書籍はとっくに1000冊を超えています。

 コラムというのは、考えがまとまってから書くものだと思いますが、今書いている破綻している私の時間管理には改善策が見当たりません。現在の睡眠時間は6時間。20代の頃と異なり、これ以上削ることはできません。また週に5~6時間、脊椎症の術後のリハビリ(筋トレとジョギング)にあてていますが、これも減らすことはできません。

 この「マンスリーレポート」は、だいたい毎月10日ごろに公開していましたが、現在すでに17日。破綻した時間管理の打開策は今のところ見当たらず…。これからも私の人生は時間に追われっぱなしなのでしょうか…。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2017年2月16日 木曜日

2017年2月 私が医師を目指した理由と許せない行為

 なんで医師になろうと思ったんですか?

 医師になってからこの質問をもう何百回受けたか分かりません。医師になろうと思えばかなりの時間を「犠牲」にしなければなりませんし、いろんな意味で「自由」ではありませんから一般の人からすれば医師を目指す動機が気になるのは当然だと思います。また、この質問は医師からも聞かれますし、私自身も他の医師に尋ねることがあります。

 こういう質問は単なる社交辞令ではなく、本当に興味を持って聞いてくれていることがほとんどですから、私はできるだけ丁寧に答えているつもりです。ここでそれを披露してみたいと思います。

 まず私は医学部に入学した時点では医師になるつもりはありませんでした。医学部を目指した理由は「医学を学びたかったから」です。医学部受験の前は、母校の関西学院大学社会学部の大学院進学を考えていました。社会学部の大学院で本格的に勉強したかったテーマは、「人間の行動・感情・思考について」です。そのため私は社会学関連の文献のみならず、生命科学系の書籍も読み漁っていました。もちろん当時の私には本格的な論文などは敷居が高すぎて読めませんでしたが、講談社ブルーバックスをはじめとした初心者向けの生命科学の本を片っ端から読んでいたのです。

 生命科学のおもしろさに魅せられた私は、そのうちに、私が研究したかった「人間の行動・感情・思考」といったテーマは社会学的なアプローチよりも生命科学から追及すべきではないか、あるいはいったん生命科学を本格的に勉強してから社会学に戻るべきではないか、と考えるようになり、この気持ちが医学部受験につながったのです。

 ところが、です。医学部も4回生くらいになってくると、自分には研究者としてやっていく能力もセンスもないことに気づくようになります。この現実を受け入れるのはそれなりに辛いものではあったのですが、同時期にある種の「使命」のようなものに気づき始めました。これを「使命」と言ってしまうのはおこがましいのですが、「お前ならできる」と期待の声(それはもちろん「おせじ」なのですが)を繰り返し聞くようになり、その気にさせられた、というのが最も真実に近いでしょうか。

 説明しましょう。当時の私は、多くの友人や知人から健康上の相談を持ちかけられていました。私以外に医師や医学生の知り合いがいないのであればそれは当然でしょう。もちろん、まだ医師になっていない私ができることなどほとんどないのですが、それでも話を聞くことはできます。

 彼(女)らは、医師への不平・不満を容赦なく私にぶつけてきます。そのなかの多くは「それは医師が悪いんじゃなくて、そういう制度だから仕方がない」「気持ちはわかるけど、その病気は治らなくて他に治療がない」といったものなのですが、なかには「たしかに…。そんな説明じゃ分からないよね」「えっ、そんなひどいこと言われたの?」といったようなものもあり、「医療機関で患者さんにこんな思いをさせてはいけない…。自分ならこうする!」と感じることがあり、その思いが度重なるにつれて、「もしかして自分が進むべき道は研究なんかじゃなくて臨床じゃないのか…。これが自分の”使命”なのでは?」と思うようになってきたのです。

 さて、このあたりまでは、私が「なんで医師になろうと思ったんですか?」と聞かれたときにいつも話していることです。たいていはここまで話すと、理解・共感してもらえますのでこのあたりで終わりになるのですが、今回はもう少し掘り下げて話してみたいと思います。

 医療の不満といったことが語られるとき、治療の結果に満足できない、副作用について知らされてなかった、説明が足らない、といったことを指す場合が多いのですが、私が最も心を動かされた「不平・不満」というのはこのようなことではありません。私が医師のあり方に疑問や、ときには憤りを感じ、「自分ならこうする!」と思ったのは「病気に伴う差別」についてです。

 例を挙げましょう。アトピー性皮膚炎というのは痒みが辛い疾患ですが、それだけではありません。「見た目の問題」が決して小さなものではないのです。当時医学部生の私に相談してきた患者さん(というか知人)は、見た目のせいでどれだけ社会生活で辛い思いをしているかというようなことは医師や看護師は理解してくれない、と言います。もっとも、医療者にとっての「目標」は痒みを解消することであり、それ以上の治療については医療者を責めても仕方がないことかもしれません。けれどもその見た目のせいで社会から差別を受けているとすればどうでしょう。子どもが口にするような無神経で露骨で残酷な言葉を浴びせられることはないにしても、かげで容姿の悪口を言われたり、言われなくても外出に躊躇してしまうことはあるわけです。それで就職活動に消極的になり、恋愛も諦める。さらには引きこもりにも…、という人もなかにはいました。

 アトピーに限らず、皮膚症状が目立つ疾患に罹患すれば、それを隠さなければならなくなります。プールにも海にも銭湯にも行けなくなります。他人の「かわいそうに…」という言葉はときに彼(女)らを傷つけることになります。いつしか私は、患者さんの痛みや痒み、あるいは手足の不自由さそのものよりも、社会的に不利益を被ることに関心を持つようになりました。このときに患者さんに「かわいそう」などと思ってはいけない、ということを強く感じました。医療者は患者に憐れみを持ってはいけません。患者の人格を尊重し、社会的な不利益があるならばそんな社会と闘っていかねばならないのです。

 研修医の頃、タイのエイズホスピスに短期間のボランティアに赴くことになり、この体験がその後の医師としての進路に大きな影響を与えることになります。エイズという病のために、食堂や雑貨屋から追い払われ、病院では診療を拒否され、地域社会から追い出された人たちがその施設に大勢いました。彼(女)らの苦痛を聞く度に、心の底から沸々とあふれてくる憤りを抑えられなくなってきました。

 病気やケガで困っている人を救いたい…。医師であれば誰もがこのように思います。私も例外ではないのですが、私の場合、それ以上に「病気のせいで差別を受けることが許せない」という気持ちが抑えられないのです。これは理性では説明できないようなものです。

 そんな私が最近どうしても許せない行動を目にしました。米国の女優メリル・ストリープのスピーチの原稿で見つけたトランプ大統領の行為です。大統領は、なんと、障害をもつリポーターの真似をしてこきおろしたというのです。メリル・ストリープは次のように述べています。

It kind of broke my heart when I saw it, and I still can’t get it out of my head, because it wasn’t in a movie. It was real life. (そのシーンを見たとき、私の心が壊される思いがしました。そのシーンを頭から取り除くことができません。映画ではなく、現実の話だからです)

  このシーンはyoutubeで見ることができます。メリル・ストリープが「心が壊される思い」をしたのがよく分かります。私は政治的にはニュートラルな立場であり、特定の支持政党を持っていません。また、政権与党に対し何らかの「抗議」をしたこともありません。しかし、今回ばかりは、他国とはいえ、そして就任前のこととはいえ、トランプ大統領のこの行為を許すことは絶対にできません。

  差別をしない人はいない、と言われることがあります。それが事実だとすれば、私が差別をするのは「病気や障害を理由に差別をする輩」です。トランプ大統領の行動を知ったことにより、私が医師を目指すことになったきっかけである「心の底から沸々とあふれてくる憤り」を再び思い出すことになりました。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2017年1月5日 木曜日

2017年1月 10年たっても変わらないこと

 2007年1月に大阪市北区でオープンした太融寺町谷口医院(以後「谷口医院」)は、2016年12月で丸10年がたち、今月から11年目に突入ということになります。10年というのはひとつの区切りになりますから、今回は、谷口医院はどのような変化をたどったかについて振り返ってみたいと思います。

 政治、経済、国際情勢、どれをとってもこの10年間で大きく歴史が動きました。また、東日本大震災をはじめとする自然災害、さらに原発の問題もクローズアップされ、新たな観点から生命について考え直したという人もいるでしょう。医療界では、高価な新薬の登場、ロボット手術の普及、iPS細胞の実用化など、前世紀には考えられなかったようなことが起こっています。

 では谷口医院では何が変わったかというと、基本的には何も変わっていません。もちろん、新しい薬が登場すれば必要に応じて処方していますし、新しい検査も必要あればおこないます。スギ花粉やダニの舌下免疫療法といった新しい治療法については積極的に推奨することもあります。

 ですが、基本的なビジョンやミッションは10年間でまったくといいほど変わっていません。具体的に述べていきます。

〇どのような疾患にも対応する

 私が医学生や研修医の頃、「それはうちでは診られません」「うちではなくよそに行ってください」といったことを医師が患者さんに言うのを聞いてやるせない気持ちになったことが何度もありました。このようなことを言われて困っている患者さんはどうすればいいのでしょうか。

 こういった場合は、「その症状なら〇〇病院の△△科がいいと思います。紹介状を書きますね」とか、「その程度なら大病院を受診する必要はありませんから、紹介状なしで近くの◇◇科を受診してください」とか、あるいは「今は心配する必要はありません。その症状が続いたり不安が強くなったりするなら目安として1か月後に受診してください」とか、そういった助言をすべきです。医療者はドクターショッピングをおこなう患者を嫌がりますが、医療者自らがドクターショッパーを生み出しているんじゃないのか、というのが私がかねてから感じていたことです。ならば自分自身がそういった患者さんを困らせないようにしようと考えたのです。

 もちろん、ありとあらゆる疾患が谷口医院でスッキリ解決というわけにはいきません。だいたい95%の患者さんは谷口医院で治療をおこない、残りの5%はより適切な医療機関を紹介しています(注5)。他のクリニックに比べて紹介状を作成する率は高いと思います。

〇どのような患者さんにも対応する

 これは私が医学生の頃から感じていたことで、タイのエイズ施設でボランティアをしたときにさらに強力になりました。トランスジェンダーという理由で病院でイヤな思いをした、思い切って同性愛者であることを医師にカムアウトすると「そんな”趣味”はやめなさい」と言われた、過去に違法薬物の経験があることを伝えると医師の態度が豹変した(現在はやめているのに…)、HIV陽性であることを伝えると「うちではみられない」と言われた(今日来たのは単なるかぶれなのに…)。こんな話がとてもたくさんあります。また、外国人だから診てもらえなかった、という訴えも少なくありません。異国の地に来て困っている人がいるなら、多少言葉の障壁があっても診察すべきではないのか…。私はそう思います。

 谷口医院のミッション・ステイトメントの第3条は「年齢・性別(sex,gender)・国籍・宗教・職業などに関わらず全ての受診者に対し平等に接する」で、10年間まったく変わっていません。医療は全ての人に平等でなければならないのです。

〇医療機関受診は最小限にしてもらう

 先の2つに一見矛盾するように感じられるかもしれませんが、これは重要なことです。谷口医院では「どのような人」が「どのような疾患」で受診されても診察しますが、同時に、受診は最小限にすべきということを日々訴え続けています。ほとんどの病気は予防が最も大切であり、受診しなくてもいいように日ごろからセルフ・ケア(注1)、薬が必要な場合はセルフ・メディケーションに努めるべきです。この方針も10年間変わっていません。

 なぜ受診を最小限にすべきかにはいろんな理由があります。まず受診すればある程度の時間とお金がかかります。貴重な時間とお金を医療機関受診に費やすのはもったいないことです。次に、受診したがために待合室で風邪をうつされる、といったリスクもあります。診療所を受診して余計に不健康になるなど笑い話にもなりません。

 しかし健康上のことで困ったことがあれば医療機関受診が望ましいことももちろん多々あります。受診すべきか否か、それを迷ったときにどうすべきか…。谷口医院に長年通院している患者さんはメールで質問されます。もちろん緊急性・重症性が高いときには直ちに受診すべきですが、メールだけで解決することもよくあります。それに、メールは何度でも無料です。誰からも承っており、長年通院している人でなくても、一度も受診したことがない人からも届きますし、受診を前提としたものではありませんから、遠方から(文字通り、北は北海道から南は沖縄まで)毎日のように送られてきます。これら全てに返答するのはそれなりに大変なのですが、一種のノブレス・オブリージュと考えて全例に回答しています。

〇薬や検査は最小限にする。choosing wiselyを考える。

 choosing wiselyという言葉は比較的新しいものですが、その基本コンセプトである「薬や検査は最小限」は過去10年(というよりも私が医師になってからずっと)不変です。薬はいつも副作用を考慮すべきですし、検査も無害ではありません。被爆や痛みが伴うこともあるからです。

 過去10年間で特に減らすことにつとめた薬は「抗菌薬」「鎮痛剤」「ベンゾジアゼピン系」です。抗菌薬を最小限にすべきことはこのサイトだけでなく毎日新聞の「医療プレミア」でも繰り返し取り上げています(注2)。鎮痛剤についてはその依存性や薬物乱用頭痛について何度も注意してきました(注3)。ベンゾジアゼピン系の睡眠薬や抗不安薬を使っている患者さんは今も大勢いますが、当院を受診するようになってからは大幅に減らすことができたという人は少なくありません(注4)。今後、これらの薬についてはさらに減らすよう努めていきます。

 また、生活習慣病の薬やアレルギー疾患の薬も、習慣の見直しや環境の改善で大きく減らす、あるいは薬をやめることも可能です。血圧の薬をやめられた、ステロイド外用をゼロにできた、喘息の吸入薬の使用頻度を大きく減らせた…。そういう患者さんをこれからももっと増やしていく予定です。

〇我々自身が成長する

 基本的なビジョンやミッションは変わりませんが、患者さんから学ぶことは毎日ありますし、新しい薬や検査についても勉強しなければなりません。なかなか診断がつかなかったケース、治療に予想以上に時間がかかった症例などからは学ぶべきことが豊富にあります。また「学び成長する」のは医師だけではありません。看護師ももちろんそうですし、受付・事務のスタッフも患者さんとの対応のなかで学び、成長し、貢献できることがたくさんあります。我々は成長し続けなければならいという姿勢もこの10年間で変わっていません。

 以上、簡単に「10年たってもかわらないこと」を述べてきました。そして、これはまず間違いなく次の10年も変わらないことなのです。

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注1:生活習慣病の予防には「3つのEnjoy, 3つのStop, 4つのDataに注意して」と覚えてもらうようにしています。詳しくは下記を参照ください。

はやりの病気第152回(2016年4月)「大腸がん予防の「6つの習慣」とアスピリン」

注2:例えば下記が相当します。

毎日新聞「医療プレミア」「薬剤耐性菌を生む意外な三つの現場」(2016年9月4日)

注3:鎮痛剤の危険性については下記を参照ください。

はやりの病気第96回(2011年8月)「放っておいてはいけない頭痛」

注4:ベンゾジアゼピン系の危険性については下記を参照ください。

メディカルエッセイ第164回(2016年10月)「セルフ・メディケーションのすすめ~ベンゾジアゼピン系をやめる~」

注5(2019年4月11日追記):きちんとデータをとってみました。2018年1年間での総受診者数が15,080人、入院・手術・専門医の診察が必要で紹介したのがそのうち137人で、「真の紹介率」は0.9%となります。本文で述べた「5%」というのは「当院受診までに他の医療機関を受診していて診断がついていなかった症例のうち、当院から専門医を紹介した症例がどれくらいあるか」という数字(しかも私の印象だけです)です。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2016年12月13日 火曜日

2016年12月 Choosing Wiselyがドクターハラスメントから身を守る!

 相次ぐ医師の不祥事、心なき医師の言葉、止まらないドクターハラスメント、などの話を聞くと、世間の医師への不信感はますます大きくなってきているような気がします。

 しかし、当たり前のことですが、我々医師としては患者さんを傷つけたくて言葉を選んでいるわけではありませんし、ハラスメントしたいと思っているわけではありません。不祥事については、たしかに医師からみても「直ちに医師をやめてほしい」と思わざるをえないおかしな医師がいるのは事実ですが、報道されている事件のなかには冤罪としか考えられないようなものもあります(注1)。医師は、全員ではないことは認めますが、大半は高い人格を持ち、患者さんに貢献できるように日々の診療をおこなっています。

 では、なぜ医師・患者関係がこうもうまくいかないのか。その理由はたくさんあるでしょうが、私自身が長年感じているのは「医師と患者の考えの方向がまったく異なるときに会話がかみあわず関係がうまくいかない」ということです。

 例をあげましょう。患者さんが何か健康上のことで気になることがあったときにまず相談するのは、見ず知らずの医師ではなく「近くにいる人」のことがあります。大阪では、その「近くにいる人」が「近所のおばちゃん」であることが多く、患者さんは「近所のおばちゃんに病院で〇〇の検査をしてもらうのが一番いいと聞いたから来ました」というようなことを言います。

 あるいは、「ワイドショーのパーソナリティが言ってたから…」というのも多い訴えです。私が研修医の頃、指導を受けていた先生たちから「(朝のワイドショーの司会の)MM氏が言ったことは絶対正しいと思っている患者が大勢いる」という話を何度も聞きました。

 具体的な症例をみてみましょう。太融寺町谷口医院でよくある訴えに「じんましんが出たから血液検査をしてほしい」というものがあります。一般に、じんましんで血液検査が必要な症例というのはごくわずかで、大半は時間とお金の無駄になるだけです。しかし、それを説明しても引き下がらない人はけっこういます。そして、なぜそこまで血液検査にこだわるのかを聞いてみると、「近所のおばちゃんが言ってたから…」「テレビでそう言ってたから…」という答えが多いのです。

 医師側からみれば診察がおこないやすいのは「白紙」の状態で受診してくれて、症状や困っていることを先入観なしに語ってくれるときです。こういうときは説明がスムーズに進み、必要な検査や治療に関してすんなりと受け入れてくれます。一方、初めから「〇〇の検査が絶対が必要」と思い込んで受診された場合、それが医学的に標準的なものであればいいのですが、著しくかけ離れている場合にはとても苦労します。そして、こういうときにコミュニケーションがうまくいかず、医師患者関係も悪化します。

 じんましんの例で言えば、はじめから「血液検査が絶対に必要」と思い込んでいる患者さんに説明するのはことのほか時間がかかります。なかには「もういいです。他の病院に行きます!」と怒って帰る人もいます。こういう経験をすると、私も含めてほとんどの医師は落ち込んで反省します。「説明が伝わらなかったのは自分の力量不足。けれどなぜあの人はあんなにも血液検査にこだわったのだろう…。もしかすると、知人のじんましんが悪化してアナフィラキシー(アレルギー性のじんましんが重症化した状態)でもおこしたことがあったのだろうか…」といったことを想像することもあります。

 前回の「マンスリーレポート」でも、私はこの「大半のじんましんには血液検査が不要」ということを述べました。それは医師側の観点ですから、読者からは批判されるかな、と思っていました。予想に反してクレームのメールなどは来なかったのですが、患者側の言い分もあると思います。「近所のおばちゃん(やテレビ)が言ってたのに…」は勘弁してほしいと思いますが、「知人が重症化したから心配で・・・」という理由は我々にも理解できます。初めから「知人が…」と言ってくれればいいのに、と我々は思いますが、そういうことを話しにくい雰囲気を医師側がつくってしまっているのかもしれません。

 choosing wiselyは現在日本で少しずつ盛り上がってきています。ただし、それは医師だけの話です。医師はこの概念を理解し、現在おこなっている医療行為にムダなものはないか、ということを考えるようになってきています。一方、患者サイドのchoosing wiselyを意識している人はほとんどいません。アメリカのchoosing wiselyのサイトには「患者用」のページもありますが、日本では今のところ、このような充実したサイトはありません。

 前回も述べましたが、たとえばじんましんで困っているなら、choosing wiselyのページで「じんましん」で検索をおこなえば「ルーチンで血液検査をすべきでない」という内容の説明文がでてきます。受診前にこういった知識を身につけてもらっていれば、医師とのコミュニケーションがスムーズにいきます。ただ、私はchoosing wiselyのウェブサイトに書かれていることがすべてです、と言っているわけではありません。「知人がアナフィラキシー…」というエピソードがあれば、いくら信頼できるウェブサイトに「血液検査は不要」と書かれていてもそれで安心できるわけではありません。

 ですから、そういった場合、なぜ血液検査をすべきと思うのかを診察室で医師に話してくれればいいのです。その際に、choosing wiselyのサイトで「大半のじんましんは検査不要」ということを知っていてくれれば、医師とのコミュニケーションは非常にうまくいきます。先ほど患者さんの知識や先入観が「白紙」であれば診察をおこないやすいと述べましたが、もっといいのは「ある程度正しい知識をもっておいてもらうこと」であり、もっといえば、「不要な検査や治療についてある程度知ってほしい」ということです。

 ただ、多くの人にとってそういった「予習」をしておくことはハードルが高いと思います。ではどうすればいいか。どうすれば医師とのコミュニケーションが潤滑になり、良好な関係をつくることができるのでしょうか。

 アメリカのchoosing wiselyには「検査や治療を受ける前に医師に尋ねる5つの質問」というものがあります(注2)。この5つ(下記)を常に考えてもらうことにより良好な医師患者関係を築けるのではないか、というのが私の考えです。

①その検査や治療は本当に必要なのでしょうか?
②その検査や治療にはどのようなリスクがありますか?
③もっとシンプルで安全なものはないのですか?
④もしもそれをおこなわなかったとすればどんなことが起こりますか?
⑤それはどれくらいの費用がかかりますか?

 日本の医師にこんな質問をすると気分を害されるのではないか…、という意見があります。しかし、医師にとって最も嬉しいのは「患者さんに満足してもらうこと」であり、患者側からみれば「本当に必要な検査や治療を、リスクに注意しながら、安い費用で受けること」であるのは自明です。そして、当然のことながらこれは医師からみても同じです。ということは、「5つの質問」は、患者側からみても医師側からみても「当然の原理原則」を再確認するツールと言えるのではないでしょうか。

 医師といい関係を築く方法。それは疾患や症状のことをあらかじめある程度”正確に”知っておくことです。そのためにchoosing wiselyのようなウェブサイトは役立ちます。しかし、現時点で日本語のわかりやすいサイトがあるとは言い難いですし、正確な知識の習得は易しくありません。(インターネットで出回っている情報の多くはあてになりません)

 ですが、choosing wiselyの原理原則を覚えておくことはそうむつかしくはありません。この「5つの質問」を常に意識していれば、不要な医療を避けることができ、医師患者関係も良好になり結果としてドクターハラスメントも避けられる、というのが私の考えです。

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注1:例えば、2016年5月に東京足立区の病院で発生した「準強制わいせつ事件」は報道されている内容が事実とは思えません。詳しくは下記を参照ください。

メディカルエッセイ第163回(2016年9月)「そんなに医者が憎いのか」

注2:詳しくは下記を参照ください。

http://www.hospitalsafetyscore.org/media/file/ChoosingWiselyPoster_TheLeapfrogGroup.pdf

米国の非営利団体「Consumer Reports」は、この「5つの質問」のカードを作成しています。下記のページに写真があります。

http://consumerreports.org/doctors-hospitals/questions-to-ask-your-doctor/

下記はchoosing wiselyのオーストラリア版です。少しニュアンスが異なりますが同じような「5つの質問」があります。

http://www.choosingwisely.org.au/getmedia/22343835-8b00-454c-a540-4d5f622efa19/5-questions-to-ask-your-doctor-before-you-get-any-test-treatment-or-procedure.pdf.aspx

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

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