マンスリーレポート
2018年4月13日 金曜日
2018年4月 生活保護受給者のパチンコを禁止すべきでない理由
先月のマンスリーレポートのなかで、「生活保護にかかる費用を削減すべきでない」という自説を述べたところ、「生活保護を受給するにふさわしくない者もいるのでは?」という意見が複数届きました。たしかに、不正受給はときどき問題になりますし、受給者のなかにはパチンコで貴重な生活費を浪費している事態があるのも事実です。
それでも全体の生活保護費は削減すべきでなく、受給者がパチンコを含むギャンブルにお金を費やすのはやむを得ない、というのが今回言いたいことです。生活保護については、過去にも擁護する意見(メディカルエッセイ第112回「生活保護に伴う誤解」及び第113回「生活保護の解決法」 )を述べましたので、今回はギャンブルに焦点をあてて論じてみたいと思います。
2015年10月、大分県別府市は生活保護受給者がパチンコ店及び市営競輪場に出入りしていないかを調査し、立ち入り禁止の「指導」に応じない受給者には生活保護を減額する措置を取っていたことが明らかになりました。報道によれば、別府市は過去25年間にわたり同様の「指導」をおこなっていたそうです。
この報道に対し「人権侵害だ」と批判が上がった一方で、「生活保護受給者がパチンコだなんて何を考えてるんだ! 別府市の対処は当然だ!」と、生活保護受給者(長いのでここからは「生保者」とします)を非難する意見も多かったと聞きます。前回のマンスリーレポートの流れで言えば、このように生保者をバッシングするのは「保守=右派」となります。
この「指導」が避難を浴びたことで厚労省と大分県が協議をおこなうことになりました。結果、別府市がおこなっていた「指導」は不適切であると判断され、2016年以降はこういった調査や処分はなくなりました。
厚労省と大分県のこの判断は当然であり、生保者を含めてすべての人にギャンブルを禁じるようなことはできません。これについて「人権」の観点から主張する人がいますが、私の立場は異なります。なぜ、ギャンブルを禁じることができないのか。それは、多くの人が「依存症」という”病”に侵されているからです。
2011年、大王製紙の前会長、井川意高氏がカジノで借金をつくり合計106億8000万円の負債を追ったことが週刊誌に大きく報じられました。氏は大王製紙の関連会社などから不当に融資を受けていたことが社内メールなどから発覚し、会社法違反(特別背任)で執行猶予なしの実刑4年の判決を受けました。
この事件が白日の下に晒されたとき、各週刊誌は、井川氏が毎晩高級店で芸能人と飲み明かすなど派手な生活をし、あたかも人格が破綻しているかのようなことを書いていました。週刊誌によっては、大王製紙自体も悪徳企業のような扱いをしていました。私はこういった報道に強い違和感を覚えました。
なぜか。「バカラという運だけで勝敗が決まるようなギャンブルに大金をつぎ込むことが合理的でないことが理屈で分かっていても嵌ってしまうのが依存症だから」という点には言及せずに、単に井川氏を悪者に見立てているだけだからです。この点が、麻雀や賭け将棋は好きだけどカジノには興味がないという人たちとの違いです。麻雀や将棋は運よりも実力で決まるのに対し、バカラは運のみで勝負が決まります。ですが、バカラに嵌る人は、例えば「プレイヤー側が5回続けて勝てば、次回はバンカー側が勝つ確率が高い。だから自分はどちらかが5回連続で勝つか負けるかしなければ賭けにでない。これは合理的だ」というようなことを本気で言います。
東大卒の井川氏が単純な確率論を理解していないはずがないのですが、バカラにのめりこみ理性を失っていったのでしょう。それが依存症の恐ろしいところです。氏は著作『熔ける』のなかで、次のように述べています。
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地獄の釜の蓋が開いた瀬戸際で味わう、ジリジリと焼け焦げるような感覚がたまらない。このヒリヒリ感がギャンブルの本当の恐ろしさなのだと思う。脳内に特別な快感物質があふれ返っているせいだろう、バカラに興じていると食欲は消え失せ、丸一日半何も食事を口にしなくても腹が減らない。
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これは医学的にも理にかなっていて、ドーパミンやノルアドレナリンといった興奮系の神経伝達物質が脳を”麻痺”させているのでしょう。その結果、交感神経が興奮した状態が継続しますから食欲が出ないのは当然です。
依存症が分かりにくいという人は、「井川氏は東大卒で勉強はできるとはいえ、忍耐力がなく計画が立てられないんじゃないの。自分の周りにも学歴は高いけどそういうダメな人もいるし…」と感じる人がいるかもしれません。私はそうは思いません。たしかに高学歴者が優秀とは言えませんが、井川氏は大勢の人たちと良好な人間関係を維持し、そして会社の運営に成功していたのです。私は会ったことはありませんが、おそらく数分間話せば魅力が伝わってくるタイプではないかと推測します。氏は『溶ける』の中で次のように述べています。
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一体、何が私自身を狂わせてしまったのだろうか。大王製紙に入社してからというもの、私はビジネスマンとして仕事で手を抜いたことは一度もない。経営者の立場になってからも、仕事には常に全力投球してきた。
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これは事実だと思います。こういった「成功者」も狂わせるもの。それがギャンブル依存を含む「依存症」の正体なのです。
話を生保者のパチンコに戻します。いずれどこかで述べたいと思いますが、日本はパチンコ店のせいで世界一の「ギャンブル王国」となっています。現在議論されているカジノ法案をさめた目で見てしまうのは私だけではないはずです。パチンコを放置したままカジノの危険性を議論するなどということは「木をみて森をみず」以外の何ものでもありません。
井川氏はカジノを求めてマカオやシンガポールに渡航していましたが、パチンコ店はたいてい駅前にあります。パチンコ依存症の人も、パチンコをやらないという意思があったとしても、買い物などで駅前を通ることもあるでしょう。そんなときパチンコ店が視界に入ったときに抑えがたい衝動に駆られることになります。この衝動に抗える自信のある人がどれだけいるでしょうか。自分は依存症でないから分からない、という人は、ダイエット中の空腹時においしそうなすき焼きが目の前にある状況を想像してみてください。
生活保護を受給していてもしていなくても依存症の苦しみは変わりません。そして、この苦しみに対し医療や保健サービスを含めた支援がなされなければならないことに反対する人はほとんどいないでしょう。そういった「支援」をすることなく、そして駅前のパチンコ店を放置したまま、生保者にだけパチンコを禁じるなどということは、生保者の人権侵害というよりも、生保者に対する「嫌がらせ」ではないかと私には思えます。
生保者のパチンコがけしからん!と感じたことのある人は、パチンコ店が放置されている現状に対して一度考えてもらえればと思います。
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|2018年3月12日 月曜日
2018年3月 無意味な「保守」vs「リベラル」
尊敬する人物が「自殺」をした、という経験はあるでしょうか。最期を自死で終焉させた歴史上の人物はたくさんいますし、同級生や同僚が自殺したという人もいるでしょう。では、その人の生き方や考え方に感銘を受け、これからも学びたいと思っていた人が突然自殺を遂げたとき、あなたは何を思うでしょうか。
2018年1月21日、評論家の西部邁氏が多摩川で入水自殺を遂げられました。
私が初めて西部氏の著作を手にしたのは、ひとつめの大学、関西学院大学の卒業を控えた4回生の終わり、1991年を迎えたばかりの頃でした。その頃から氏は保守派の論客として広く知られていましたが、私は思想よりも、難解でありながら魅力的で何度も読み返したくなる文章に引き込まれました。西部氏の文章は、すっきり爽快に読めるわけではなく、(私の場合)一度ではきちんと理解しにくく繰り返し同じ箇所を読まねばなりません。
政党の主張や、学生運動をしている人たちの理屈が(単純で)わかりやすいのに対して、西部氏の言論は実に複雑です。しかし、氏の主張されていることこそが世の中の真実であると感じた20代前半の私は氏の著作にのめりこんでいきました。西部氏の主張を正確にまとめられるほど私には読解力がありませんが、私が氏から学んだことのひとつを披露するとすれば、「人間は単純なようで単純でない。自分を犠牲にして他人に貢献するのも人間だが、一方で、同じ人間が醜く残虐で無慈悲になることもある。そして集団になるとさらに複雑になり、非合理的でどうしようもない愚行をおかすことがある。だから我々は歴史を振り返り、常に反省し、多角的な観点から物事を考えなければならないのだ」、というような感じです。
「リベラル」という言葉がよく使われるようになったのはおそらく21世紀になってからでしょう。それまではリベラルに相当する言葉は「革新」あるいは「左翼」「サヨク」などと呼ばれていました。リベラルに対しての言葉が「保守」。そして西部氏は保守派の急先鋒のように言われていました。西部氏自身も「保守」であることを自認し、そういう立場から言論活動をされていたのは間違いありません。
ですが、現在世間が言うところの”保守”と、西部氏が自認する「保守」はとても一緒にすることはできない、似ても似つかないものではないか、というのが私の意見です。私の印象を述べれば、世間で言われる「保守」から連想されるものは、愛国心をもて、自衛隊を軍隊に、日米安保は維持せよ、原発賛成、生活保護削減、移民反対、同性婚反対・・・、といったところです。
実際、「週刊ダイヤモンド」2017年11月18日号の特集「右派×左派」では、保守(右派)とリベラル(左派)の「考え」が表にまとめられていてクリアカットに二分されています。たとえば、<憲法>に対しては保守が改憲、リベラルが護憲、<社会保障>では保守が「自己責任重視」、リベラルが「福祉の充実」、<自衛隊>では、保守が「海外派遣に積極参加」、リベラルが「軍備の放棄」、といった感じです。
ですが、こんなに単純に保守とリベラルを分類するのが現実的でしょうか。例えば、私自身は、同性婚賛成、移民受入賛成、生活保護削減反対で、これらは「リベラル」の主張とされています。しかし、自衛隊については、同誌の記事にあるような、リベラルの「軍備の放棄」に賛成できず、この点については保守派のいう「海外派遣に積極参加」に賛成です。さて、こんな私はリベラルと呼ばれてもいいのでしょうか。
物事を極端に考えすぎ盲目的になってはいけない、というのは30年近くにわたり西部氏の著作を(すべてではありませんが)読んでいる私が学んだことです。理想を高く掲げすぎることには落とし穴があるのです。
例えば、私が卒業したもうひとつの大学、大阪市立大学の出身で(卒業はしていませんが)有名な人物に田宮高麿(たみやたかまろ)がいます。田宮は日本航空の飛行機をハイジャックまでして「地上の楽園」を目指したわけです。さて、そこには本当に”楽園”があったのでしょうか。
一方、「自虐史観を修正すべき」と訴える保守の人たちの主張を私はある程度理解しているつもりですが、いわゆるヘイトスピーチには辟易とさせられます。なぜかというと、そのようなスピーチをする人が、悪口を言う国の人をどれだけ知っているのか疑問だからです。イメージが先行しているが故に偏った意見を持っているとしか思えないのです。以前述べたように、どこの国にもいろんな人がいますから、自身が接した少数の人からその国すべてを嫌いになるのはおかしいのです。(参考:マンスリーレポート2016年2月「外国を嫌いにならない方法~韓国人との思い出~」、2016年3月「外国を嫌いにならない方法~中国人との思い出~」、2016年4月「インド人の詐欺と外国人との話のタブー」)
田宮が憧れた「地上の楽園」に対して、少なくとも拉致問題が解決するまでは私は国に対しては好意をもてませんが、かの国の国籍をもつ個人と知り合うことがあれば、先入観なく接するつもりです。
21世紀になってから”流行”している「日本はスゴイ」という意見は多くの保守の人たちから支えられていると聞きます。しかし、こういう日本バンザイ論に嫌気がさしている人も少なくないのではないでしょうか。私もそのひとりで「日本も日本人も良くないことも多いぞ」と思ってしまいます。
ですが、私は日本が嫌いかというとそうではなく、日本を誇りに思っていますし、特に海外に行ったときや外国人と話をしているときに日本に生まれて良かった…、と感じます。私は自分で自分のことを「patriot(パトリオットは和製英語。正確な発音はペイトリオットが近い)」だと思っています。そして「nationalist(ナショナリスト)」ではないとも思っています。(これらの日本語訳は簡単ではありませんが、patriotは「郷土愛」、nationalistは「排他主義」のイメージがあります)
どこの国にもどんな地域にも「社会的弱者」は存在します。そして、その原因の多くは彼(女)らが努力をしないからでもさぼっているからでもありません。「運」や「縁」に恵まれていないだけであることも多く、努力がむくわれなかった結果ということも多々あるのです。ですから、社会には「生活保護」も「移民の支援」も必要です。むしろ、現在”勝ち組”の人は、相当の努力をされたことは事実だとしても「運」や「縁」があったと考えるべきではないでしょうか。
外国人、特にヨーロッパの人たちと話しをすると、社会的弱者はみんなで助けなければならず、様々な価値観を受け入れなければならないという考えが(私と交流のある人達の間では)「常識」となっています。この考え方は「リベラル」と呼んでいいでしょう。ですが、彼(女)らはほぼ例外なく(私と同じように)patriotです。自国が嫌いという人などまずいません。
一方、日本では、移民受け入れ賛成、同性婚賛成、生活保護削減反対といったリベラルの考えをもちながら、patriotであることを自認しているという私のような人はほとんど聞いたことがありません。きっとそういう人もいると思うのですが、先述した週間ダイヤモンドの記事にもあるように、日本ではリベラルと言えば、護憲、軍備の放棄がセットになっています。
西部邁氏は、私の知る限り、移民、同性婚、生活保護などに対してはっきりとした意見を言及されていません。移民については、以前どこかで「異なる民族や国民が仲良くやっていくことは極めてむつかしい。EUなどうまくいくはずがない」といったことを書かれていましたが、移民反対とは言われていなかったと思います。
これから残された氏のテクストを読み解いていくと同時に、改めて「死」というものを考えてみたいと思います。「自殺」を美化するつもりはありませんが、西部氏らしい最期だと私には思えます。
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|2018年2月9日 金曜日
2018年2月 医師が医師を非難するのはNGだけど…
私が13年前に書いたコラムで「後医は名医」という言葉を紹介し、よほどのことがない限り医師は前医を批判してはいけない、ということを述べました。
なぜ前医を批判してはいけないかについて、そのコラムで例をあげて医学的な観点から説明しましたから興味のある人はそちらを見てもらいたいのですが、別段医学の話でなくても、例えばライバル会社の悪口を言うセールスパーソンから物を買う気になれないというのは普通の感覚だと思います。
実際の医療現場では、たしかに前医の診断が間違っていたということはしばしばあります。ですが、そんなときに「前医の診断は間違っている。初めからこちらを受診すれば良かったのに」と患者さんに言うことはありません。なぜなら、最初の時点ではそのように誤診しやすい事情があった可能性があるからです。このようなときは、「結果としては前の医師の診断は正しくなかったが、その状況ならそう診断するのが自然であり、決して前の医師がいい加減な医師ということではありません」と説明します。
ときどき、こういう説明で納得しない人もいますが、先述の13年前のコラムで述べたように後から診察する方が診断の手掛かりが多く有利なのです。それに医師が互いを尊重し合わねばならないことはいくつかの医師のミッションとして定められています。「ヒポクラテスの誓い」にもそのような内容がありますし、以前のコラムで紹介した私が自分自身の「掟」としているフーフェランドの『扶氏医戒之略』にもまさにこれについて述べている文言があります。少し長いですが引用してみます。
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同業のものに対しては常に誉めるべきであり、たとえ、それができないようなときでも、外交辞令に努めるべきである。決して他の医師を批判してはならない。人の短所を言うのは聖人君子のすべきことではない。他人の過ちをあげることは小人のすることであり、一つの過ちをあげて批判することは自分自身の人格を損なうことになろう。医術にはそれぞれの医師のやり方や、自分で得られた独特の方法もあろう。みだりにこれらを批判することはよくない。とくに経験の多い医師からは教示を受けるべきである。前にかかった医師の医療について尋ねられたときは、努めてその医療の良かったところを取り上げるべきである。
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医師になってから私はいつもこの”教え”に従うことを心がけてきました。ですが、自分が書いたものや話したことを改めて振り返ってみると、前医を批判していることもまあまああります。先日も、毎日新聞ウェブサイト版の「医療プレミア」で、毎回風邪でジェニナックを処方するという医師を”例外”のおかしな医師として痛烈に批判しています。
また、このサイトでも、必要のない手術をおこない患者を死に至らせた奈良県のY医師、医学的にまったく意味のない臍帯血移植をおこない患者から高額な治療費を請求していた東京のS医師、わけのわからないウェブサイトをつくり金儲けをたくらんだとしか思えない元医学部教授などを批判しています。
さらに、改めて自分の書いたものを振り返ってみると、滅菌処置をせずに器具を使いまわしている歯科医院を糾弾したり、HIV陽性というただそれだけの理由で診察を拒否した医師を批判したりしています。
書いたものだけではありません。フーフェランドの”教え”に忠実でなければ、といつも考えているつもりですが、実際には前医を批判していることが週に何度かあります。先週は、「前医(健康診断に力を入れているクリニック)で、腫瘍マーカーとPETの検査を強く勧められた(しかもかなりの高額で!)が必要でしょうか」、とある患者さんに尋ねられて「不要です」と即答しました。(腫瘍マーカーが無意味であることは過去のコラムで説明しました。またPETががんの早期発見につながらないだけでなく大量に被曝することから安易に実施すべきでないのは世界の常識です)
最近、父親ががんになり「オプジーボを使った”免疫療法”を勧められているがどうでしょうか」とある患者さんから尋ねられました。話を聞くと、現在通院している病院の主治医からは「標準治療」を勧められているが、知り合いの紹介で訪れたクリニックで”免疫療法”を勧められたとのことで、「数百万円もするんですがどうなのでしょう」と質問されました。
これは先述のS医師のやり方に似ています。オプジーボという画期的な免疫チェックポイント阻害薬はメディアで何度も取り上げられ随分有名になりました。この薬が有効ながんはわずかですし、それも全員に効くわけではありません。ですが、患者さんの心理としては「とてもいいがんに効く薬があると聞いた。現在の主治医は適用がないとか言ってとりあってくれないが、別のクリニックに行けば高価だが使ってくれる」となるわけです。そこでこの患者心理につけこんで、初めから効かないことを知っておきながら勧めるのです。
また、一部の”免疫療法”を謳っているクリニックでは、患者自身の細胞を取り出して培養して戻すという”治療”をおこなっているようです。これは数十年前に可能性が期待されたことがあったもののとっくの昔に否定されているものです。
私はエビデンス(科学的確証)がない治療を否定しているわけではありません。例えば「ニンニク注射」と呼ばれるものは、もちろんエビデンスはありませんし、理論的に考えると到底推薦できるものではありませんが、実際は”治療”を受けると調子がいい、という人がいます。太融寺町谷口医院ではお願いされても実施しませんが、別のクリニックで注射してもらって調子がいいという人には「よかったですね」と言うこともあります。その逆に「エビデンスのない治療だからやめなさい」と言ったことは一度もありません。
ニンニク注射なら高くてもせいぜい数千円程度でしょうが、安いからかまわないと言っているわけではありません(ただし私の金銭感覚からすればとてもこのようなものに数千円も出せません)。ニンニク注射は危険な”治療”ではありませんから気に入っている人は続けてもいいと思います。ですが、数十万円のがん早期発見を謳ったPETや数百万もする”免疫療法”となると、目の前の患者さんをそういった「悪徳医療」から守らねばなりません。
しかし、こういった悪徳医療に手を染める医師たちはどこで道を誤ったのでしょうか。私の知る範囲ではこのような医師は一人もいません。医学部の同窓会に行っても皆無ですし、私が所属する大阪市立大学の総合診療部の医局にも、またこれまでお世話になった先輩医師や、研修医の頃一緒にがんばった同期の医師も、あるいは学会で初めて会う医師たちを振り返ってみても、こういったおかしな医師は一人もいません。もしかすると、悪徳医療に手を出す医師は精神がすでに破綻してしまっているのかもしれません。ならばそういう医師を医師ではなく”患者”とみなして手を差し伸べなければ…、そのように思わずにいられません。
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|2018年1月9日 火曜日
2018年1月 かつての情熱を失くした私が今考えていること
1月1日に必ず私がすること。それはミッションステイトメントの見直しです。過去のコラムで述べたように、私の人生で最も大きな転機はミッションステイトメントを初めて作ったときに訪れました。それは1997年の3月で、私が医学部の1回生の終わりごろ、28歳の時でした。その後、毎年1月1日を「ミッションステイトメント全面的見直しの日」としています。
それから20年が過ぎ、2018年1月1日は21回目の見直しをすることになりました。たいていは早朝に時間をとっておこないます。今年は東南アジアのある地域で早朝のジョギングに出かけ、そのときに自己を見つめなおしミッションステイトメントの見直しにとりかかりました。
ミッションステイトメントを見直すにはちょっとした勇気がいります。不安感や抑うつ感も伴うからです。自分の内側に深く入り込んでいくと、自分はいかなるときも「善」で行動しているか、ということを問わねばなりません。以前も少し触れたように、私は稲盛和夫さんの「動機善なりや、私心なかりしか」という言葉を座右の銘にしています。何か新しいことをするときはもちろん、いかなるときもこの言葉を忘れないよう努めるのです。
幸いにも、医師という仕事は利益を考えなくていい(考えるべきでない、考えてはいけない)職業ですから、医療行為をおこなう上で動機を「善」に保つことはそうむつかしくありません。(そういう意味で、京セラやKDDIを純粋に社会のためだけに設立し、さらにJALを再建された稲盛さんは本当に偉大な方だと思います) ですが、自分をよくみせようと振舞ったことは一度もなかったのか、他人のためと言っておきながら自分に有利になるように行動したことはないと言い切れるのか、私心は常にまったくなかったと言えるのか…、このようなことを考えるとときに胸が苦しくなることがあります。
湧き出てくる不安感や抑うつ感にも向き合い自分を見つめなおし、心の深部に触れようとすると、これまでの人生で感じた「情熱」が蘇ります。ミッションステイトメントを見直すときに思い出す「情熱」で最も強いものは、2002年にタイで感じた「差別と闘っていかなければ!」という思いです。当時のタイでは、HIV告知は「死」を意味していました。抗HIV薬がまだ使われておらず、正確な知識が市民に伝わっておらず、そのためHIV陽性者は行き場をなくし、地域社会からも家族からも、そして病院からも追い出され途方に暮れていたのです。
病気が原因で差別されることなどあってはならない! そう強く感じた私は、たとえどのような障壁があろうとも、周りに味方がいなくても立ち向かっていくことを誓いました。そして、当時タイのエイズ施設で出会った欧米の総合診療医達の影響を受け、患者さんを幅広い視点から診察し、心理的、社会的にもサポートしていく総合診療医を目指すことを決意したのです。
当時のタイのHIV陽性者はエイズ施設以外に行ける医療機関がありませんでしたから、そこではどのような症状があろうがすべて総合診療医が診なければなりません。私には何でも診ることのできる彼(女)らがとても魅力的にうつりました。当時の日本では臓器ごとに担当する医師(専門医)が決まっていて、「総合診療医」という概念すらまだ確立されていなかったからです。彼(女)らによれば、欧米では総合診療が当たり前であり、患者さんは何かあれば大きな病院には行かず総合診療医であるかかりつけ医をまず受診すると言います。そして入院や手術が必要なときのみ紹介状を持参して専門医を受診するのです。
今考えるとタイミングが私に合っていたのでしょう。ちょうどその頃、日本でも総合診療医を育成せねばならないという声が増え始め、大学病院で試みが始まっていたのです。帰国後、私は母校の大阪市立大学の総合診療部の門を叩き、大学で総合診療医を目指すことになります。そして、大学に籍を置きながら、別の病院や診療所で各科のトレーニングを受けるという生活が始まりました。
しかし、大学病院を中心に診療している限り「何かあればすぐに相談してください」と患者さんに言えません。そこで自分でクリニックをオープンすることにしました。自分のクリニックがあれば、いつでも相談してもらえますし、患者さんから信頼を得られるようになると社会的、心理的なサポートもできるようになるはずです。また、日本でもこれから増えていくであろうHIV陽性者の力になれるだろうとも考えました。HIV陽性者も含めて、どんな背景をもつ人に対しても、そしてどのような症状であってもサポートができる医師を目指したのです。このようなクリニックは私の知る限りひとつもありません。ならば「自分が先駆者になってみせる!」と情熱に駆られました。
そして10年以上の月日が流れ時代は変わりました。それにつれて私の情熱の”かたち”も変わっていきました。
まずタイでのHIV事情が大きく変わりました。抗HIV薬が実質無料で供給されるようになりHIVはもはや死に至る病でなくなりました。謂れなき差別は残存していますが、かつてのように食堂に入ると皿を投げつけられ追い返される、ということはなくなりました。今はどこの病院でもHIV陽性者だからという理由で追い返されることはありません。(一方、日本ではまだそういった医療機関が少なくありませんが…)
タイでHIVに関する活動をしていた世界中のNPOは規模を小さくし撤退するところもでてきました。かつて私が感じた心の底から湧き出てくる怒りは完全になくなったわけではありませんが、あの頃の情熱を維持しているとは言えません。もちろん今も苦しんでいるHIV陽性者の人は少なくありませんから、これからもタイでの支援は続けています。ですが、かつて感じた「差別と闘っていかなければ!」という強い情熱が自覚できなくなっているのも事実です。
日本での診療はどうかというと、この10年で総合診療は随分とメジャーなものになってきました。かつての私と同様、臓器の専門医を目指すのではなく患者さんのあらゆる健康上の悩みに応えられる医師になりたい、と考える若い医師が増えたのです。実際、全国の総合診療医(及び総合診療医を目指す若者)が集まる「日本プライマリ・ケア連合学会」の学術大会はいつも若い医師達でいっぱいです。昨年(2017年)高松で開催されたときは、ホテルがとれず岡山に泊まらねばならなかったほどです。
総合診療が盛り上がるにつれ、当時の私が考えた「自分が先駆者になってみせる!」という情熱の”かたち”も変わってきました。少しずつ「教育」のことを考えるべきだと思うようになってきたのです。総合診療に興味を持つ若い医師が増えたのは事実ですが、大半の若い医師たちは、医療の対象を高齢者中心の地域医療と考えています。もちろん高齢社会のなかで彼(女)らの考えは重要であり活躍できる場はたくさんあります。ですが、私が実践しているような都心部で若い世代を中心とする総合診療に興味を持っている若い医師は少数なのです。実際、「(太融寺町谷口医院のようなクリニックは)他にないから」という理由で他府県から定期的に受診している患者さんも少なくありません。
タイのHIV陽性者が被っている惨状を目の当たりにし「差別と闘うんだ!」と感じたときの”情熱”、欧米のような総合診療医がいないなら「自分が総合診療医となってクリニックを立ち上げるんだ!」と考えたときの”情熱”は、今私のなかでどんどん小さくなってきています。
しかし、タイでも日本でもそれ以外の国でも助けを求めている人は依然少なくなく、そのような人たちの力になっていかなければ、という気持ちは変わっていません。また、これからは患者さんへの貢献だけではなく、若い医療者を支援していかなければ、という思いが次第に強くなってきています。
かつてのような激しく情動的な”情熱”は消え去りましたが、「貢献」という原理原則は変わっていないことを確認し、地道な努力を続けていくことを自分に誓いました。私の2018年はその誓いでスタートしました。
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|2017年10月6日 金曜日
2017年10月 「何でも屋」vs「専門家」
前回「ジェネラリストという表現は使う人によって意味するところが異なるため用いない方がいいのでは?」ということを述べ、さらに私の知人の話を引き合いに出し「一般社会でいうジェネラリストは、ルーチンワークをおこなう<一般職>」という話をしました。
これに対し、複数の方から「そうではない。一般社会のジェネラリストとは、(前回私が述べたような)総合診療医のポジションに近く、幅広い知識を持ちどのようなことにも対応する者のことを言う。やはり医療界と同じようにスペシャリストの対極と考えられている」という指摘をいただきました。さらに、「ルーチンワークなどでは決してなく、積極的にアイデアを出し創造的なミッションをおこなう者」という声も複数ありました。
そこで、改めて辞書を確認すべく私がよく用いる「Thesaurus.com」(これは正確には「類義語辞典」です。非常に使い勝手がよく発音もしてくれます。以前、英語の勉強についてのコラムで紹介したこともあるサイトです)をみてみると、なんとgeneralistは掲載されていません。載せられていないのはそれだけ使用頻度が少ないからです。(もちろんspecialistは多くの類義語が表示されます)
これは面白い、と考え、ネット検索してみると、どうやら私と同じように「generalistという単語、ネイティブは使わないのでは?」という疑問を持っている人もいるようです。また、医療界と同じような意味で「ジェネラリスト」という言葉を用いて「ジェネラリストとスペシャリスト、有利なのはどちらか?」という観点から就職活動をする若者向けに書かれているコラムもありました。
どうやらこれ以上の議論は不毛のようです。単なる言葉遊びになるからです。今回は、医療界で言う意味、つまり幅広く何でもおこなうという意味のジェネラリストとスペシャリストのどちらを目指すべきか、について考えてみたいと思います。ですが、ジェネラリストの本来の意味は、前回述べたように「多くの領域で”才能”のある人」となりますから、それを自分で言うのはこっ恥ずかしいので「何でも屋」としたいと思います。もう一方が英語であればおかしいのでスペシャリストは「専門家」としたいと思います。
私の立場は「何でも屋」です。総合診療医(プライマリ・ケア医)ですから、風邪から精神症状まで何でも診ます。局所麻酔下の手術もおこないますが、実はここ数年間手術からは遠のいています。太融寺町谷口医院はもう手一杯で10年前のように手術時間を確保できないのです。離島や医師一人の村などでがんばっている医師たちは手術もおこないますが、数年間のブランクができてしまった私にはもう自信がありません。もう一度研修しなおして、というのも時間がとれず現実的でないので、今後私がメスを握ることはないでしょう。(そう考えると少し寂しいですが…)
さて、私が医師として「何でも屋」を選択するようになった直接の契機は、研修医1年目のときから何度か訪れていたタイのエイズ施設でお世話になった欧米の総合診療医たちの影響です。どのような症状に対しても診察をおこない、幅広い知識を持つ彼(女)らをみて、「これが私の進む道だ!」と確信し、その後私は母校の大阪市立大学医学部の総合診療科の門を叩くことになりました。ちょうどその頃が日本でも総合診療医を養成しようという機運が高まっていた時代だったのです。
欧米の総合診療医が直接のきっかけになったのは事実ですが、実は私には随分前から物事を全体から眺める「クセ」がありました。それは最初の大学(関西学院大学)で社会学を学んでいたからです。社会学の定義や考え方は人それぞれで異なるかもしれませんが、他の社会科学系の学問、例えば経済学、法学、商学などに比べると、社会学の研究の対象は幅広く、ほとんど世の中の事象すべてと言っていいでしょう。人間の心や霊的なこと、神話や宗教も研究の対象となります。一時は社会学者への道を目指したことのある私は、ものごとを考えるときには、まず全体を俯瞰し、一見何の関係もないようにみえるものも同時に考察すべきではないか、というふうに考えていきます。
医師として診察するときにこの「見方」は役立ちます。患者さんのなかには複数の訴えや悩みを持っていることもあり、これらは総合的に診ていく必要があります。一見関係なさそうに思える訴えも根がつながっていることがあります。例えば、ドライアイと微熱と皮疹からシェーグレン症候群が分かるといったように、です。このケースでは、皮膚だけ、あるいは目だけを診察してもなかなか正しい診断につながりません。
それに専門医が自分の専門の臓器だけにこだわっていると思わぬ見落としが起こります。医師なら誰でも知っているエピソードに次のようなものがあります。ある循環器内科医が当直中、明け方に胃痛を訴える患者さんが来院しました。簡単な問診をしただけで胃薬を処方して帰宅させました。その後症状が悪化し同じ病院に救急搬送されることに。原因はなんと心筋梗塞。心筋梗塞の初期症状として心臓は無痛で胃痛が起こることがあるのです。この逸話はあまりにも有名で本当にあった話かどうかは分かりませんが、自分の専門の臓器だけをみていると失敗することを示唆したストーリーです。
もちろん医療の専門家は必要です。心臓弁膜症の手術は何百例の症例を経験しなければおこなえません。一人前になるまでに十年以上の修行期間を経てようやく専門家になれるのです。脳外科医もそうですし、膵臓を専門とする内科医は初期の膵臓がんをみつけられるほどエコーの技術を上達させるにはやはり何百例もの経験が必要になります。
ですが、弁膜症の難易度の高い手術ができる医師はそう多くいなくても問題ありません。人口十万人にひとり程度で充分でしょう。てんかんの外科手術の達人は地域に一人でいいでしょうし、1ミリの膵臓がんを発見できる膵臓内科医も同じです。
医療界以外の専門家をみてみましょう。プロで活躍できるゴールキーパーは日本全国で数十人もいればポストが埋まってしまいます。リサイタルが開けて食べていけるピアニストのポストもせいぜい数百人くらいでしょう。ピアノのあるラウンジなどでアルバイトくらいはできるかもしれませんが、それで一生やっていくのは困難です。
そして、これは一般社会でも同様でしょう。ギリシャ語のレベルが全国30番以内だったとしてもそれだけで食べていくのは困難でしょうし、アインシュタインの相対性理論とハイゼンベルクの不確定性原理がサクサクと理解できる人(ちなみに私は双方ともほとんど理解できません…)もそれだけでやっていける人というのはごくわずかです。
つまり、「専門家」というのはトップレベルのほんの一握りに入らない限り、それだけでは生きていけないのです。そしてほとんどすべての領域において専門家になるには努力以外の「才能」が問われます。先述した医師の例でいえば、卓越した外科医は絶対に才能が入りますし、エコーの達人になろうと思えば瞬時に三次元のイメージができるセンスと才能が必要です。スポーツや音楽の世界では言わずもがなでしょう。
しかし、世の中のほとんどの人(もちろん私も含めて)はそのような恵まれた「ギフト」を持っていません。「夢を壊すな」と怒る人がいるかもしれませんが、私は現実に目を向けるべきだと考えています。小学生の頃、先生が「誰でもなにか得意なことがあるはず。それを伸ばせばいい」と言っていました。これは小学生にはいい教育方法かもしれませんが、例えば「ゴム跳び」がクラスで一番うまい生徒がそれだけで生きていくことはできません。
「ギフト」に恵まれた人は「専門家」を目指せばいいと思いますが、(私のように)「何でも屋」として生きるという息苦しくない道があることも知っておいた方がいいでしょう。過去にも述べたように、若い頃は目の前に与えられた課題やミッションにひたすら取り組み、「何でも屋」には必須のコミュニケーション能力を上達させれば、たとえ「これだけは誰にも負けない」というものがなかったとしても、それなりに楽しく生きていけるものです。
今日も私は、世界中の数ある医学誌から、臓器にとらわれず精神疾患や予防医学も含めて、興味深い論文を拾い読みしていきます。「専門家」ではありませんから「この領域だけは誰にも負けられない」などというプレッシャーはまったくありません。
「何でも屋」であるが故に日ごろの勉強も楽しくて仕方がない…、というのは偽りのない本音です。
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|2017年9月3日 日曜日
2017年9月 「ジェネラリスト」の違和感
私の経歴が純粋な医師コースでないことが原因なのか、医学部生や医師が使う言葉に違和感を覚えることが度々あります。過去のコラムで取り上げた「ditto」もそのひとつで、私以外のほぼすべての医療者がこれを「do」と書いて「ドゥー」と発音します。長い単語を略すならわかるのですが、「ディトー」と「ドゥー」をそれぞれ声に出したときにいったいどれだけの差があるというのでしょう。いまだに理解不能です。
他にも、例えば医学用語には「pseudo-」で始まる単語が多く、これをほぼすべての医療者は「シュード」と発音します。素直に「スド」と言えばそれでいいではないか、とずっと思っているのですが、私に同意してくれる医療者はほとんどいません。しかし、興味深いことにこれを「シュード」と発音する医療者以外の人を私は一人も知りません。医療者はあえて「シュード」と読むことにプライドを持っているのでしょうか…。
今回取り上げたい「ジェネラリスト」という単語も私には違和感が拭えません。ジェネラリストの対極にあるのが「スペシャリスト」で、これは私にもよく分かります。何かの専門家のことを指しているわけです。医学の分野では、例えば「彼は心臓弁膜症の手術のスペシャリストだ」とか「彼女は新生児の遺伝性疾患のスペシャリストだ」という言い方をします。
一方、ジェネラリストというのは、おそらく最近使われるようになった言葉で、専門医の反対側に位置する総合診療医、プライマリ・ケア医、家庭医などを指します。(これら3つを厳密に区別すべきだという意見もありますが、ここでは同じものを指すこととし、以降「総合診療医」で統一します)
私がジェネラリストという言葉に違和感がある最大の理由は、この単語を日本人の医師以外から聞いたことがないからです。以前、ベルギーの医師とこの話になったときに、「それはGP(general practitioner)のことだ。普通はgeneralistとは言わない」と指摘されました。米国人の医師にこの話をすると、「意味は分かるが、やはりGP(general practitioner)と言うか、home doctorがより一般的だ」と言われました。つまり、外国人は医師でさえジェネラリストという言葉に違和感を覚えているのです。
この話が興味深いのはここからです。日本人の医師でない知人(会社員)に聞いてみると「ジェネラリストはよく使う」と言うのです。私自身も医学部入学前の90年代前半には4年間の会社員の経験があります。しかし、ジェネラリストなどという単語は聞いたことがありませんでした。ということは、医療者が最近よく使うようになったのと同じように、一般社会でも比較的新しい言葉なのかもしれません。
話はさらに興味深くなります。この男性の会社で使う「ジェネラリスト」は、昔で言う「一般職」とほぼ同義だというのです。私が会社員だった90年代前半には、短大卒でルーチンの事務職をおこなう女性が「一般職」、男性や四大卒で複雑な仕事を担う女性が「総合職」と呼ばれていました。これが男女差別だという意見がでたのでしょうか。現在はこういう呼び方はあまりしないと聞きます。
話はまだ続きます。知人男性によると「ジェネラリスト」は呼び方を替えても結局一般職と同じような職種であり、率直に言えば「簡単なルーチンワークをする人」を指すことが多いそうです。
なぜこの話が面白いかというと、医療界の意見と似ているからです。医師の間でも、例えば「心臓外科専門医」「脳外科専門医」といった人たちがなんとなくエライような雰囲気があり、なんでも診る総合診療医は一番「下」にみられることがあります。そういう専門医がよく使う言葉は「多芸は無芸」です。なにかひとつのことを極めるのが最も優れた医師であり、どのような疾患も診る医師は結局専門性がなく何もできないのと同じだ、という考えです。
もちろんこれは極めて極端な意見で、実際は「専門医」と「総合診療医」がいがみ合っているわけではありません。ですが、やはり医師の”花形”は「専門医」であると考える風潮は存在します。実際、医師の多くは、人数不足が明らかな総合診療医には関心がなく、分野によってはすでに飽和している専門医を目指すのです。(だから、「医師は余っている」と言う医師はたいてい専門医で、「足りていない」と考えているのは総合診療医なのです)
ところで、ジェネラリストという言葉は欧米ではどのように使われるのでしょうか。先に紹介した欧米の医師たちは「意味は分かるが使わない」と言っていました。英英辞典の『Oxford Living Dictionaries』(オンライン版)をみてみると「A person competent in several different fields or activities.」(いくつかの異なった領域や活動において有能な人)と書かれています。つまり、私の知人が言うようなルーチンワークのみをこなす「一般職」とはまったく正反対であり、competent(有能な人)を指しているのです。「多芸は無芸」ではなく「多芸は多芸」が英語本来の意味というわけです。
これですっきりとします。なぜジェネラリストという単語が欧米では使われないのか。その答えは「そんな人、めったにいないから」です。いくつもの領域で「competent(有能な人)」はそうそういませんし、いたとしても自分から「私はいくつかの分野で優れた能力を持っています」とは言わないでしょう。一方、スペシャリストが自己紹介をするときは「自分の専門は〇〇〇です」という言い方をするわけで、そう聞くと「この人は日ごろ〇〇〇に取り組んでいるんだな」と理解できます。同時に、「他のことにはそれほど熟知していなくて当然」と認識します。
医師の世界で言えば、「私は総合診療医です」と言えば、「この医師は日ごろ患者さんから最も近い立場にいて、患者さんの話に耳を傾け、難治性・重症性の疾患に遭遇した時は専門医を紹介しているんだな」と理解します。これが総合診療医の定義と考えて差支えありません。『Oxford Living Dictionaries』の定義を基準とすると、もしも「私はジェネラリストです」と言えば、「ん?、この人は難易度の高い心臓弁膜症の執刀もおこない、稀な遺伝性疾患のカウンセリングもできて、iPS細胞を用いたパーキンソン病の治療もおこなえて…、ということ??」となってしまいます。もちろんそんな医師は存在しませんから、自分から「ジェネラリストです」などと言えば、人格が疑われることになりかねません。
このように同じ「ジェネラリスト」という言葉で想起される人物像が使用者によりまったく異なります。まとめてみると、私の会社員の知人がいう「ジェネラリスト」は、比較的簡単なルーチンワークのみをおこなう職種のことで、昔でいう「一般職」に相当します。日本の医師がいう「ジェネラリスト」は「総合診療医」のことで、患者さんに最も近い位置にいる医師です。そして、欧米人(医師も含めて)がいう「generalist」は、複数のことがらに極めて高い能力を発揮する、まさに「スーパーマン(ウーマン)」のことなのです。
これだけ意味が異なればもはや会話が成り立たなくなる可能性があります。「一般職」をジェネラリストとするのは「和製英語」でしょうし、日本の医師がいうジェネラリストも欧米の医師は使いません。和製英語のすべてがいけないわけではありませんが、やはり呼び方を替えるべきではないでしょうか。私は日本の医師との会話でも「ジェネラリスト」という単語は用いずに「GP」「総合診療医」「プライマリ・ケア医」などと言います。
企業の「ジェネラリスト」に替わる適当な表現は思いつきません。興味深いのは、ビジネスの現場では、医師の世界とは異なり、「一般職」に対極するのが「総合職」であり「専門職」でないことです。私はビジネス界におらず口を出す立場にありませんが、就職活動をする学生はややこしくならないのでしょうか…。
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|2017年8月7日 月曜日
2017年8月 「やりたい仕事」よりも重要なこと~後編~
医学部に入学しても、直ちに実験や病院実習が始まるわけではありません。臨床医学の勉強もまだまだ先です。では医学部1回生が何をするかというと、他学部と同様の一般教養、基礎的な生命科学、そして語学です。たいていの医学部生は、勉強はそこそこにして、クラブ、サークル活動、アルバイトなどにも時間を取りますが、私は勉強が大部分を占める生活をしました。そして、そんな私が医学部一年目に最も力を入れたこと、それは「フランス語」(以下仏語)です。
なぜ仏語かというと、医学部入学の時点では、将来は社会学部の大学院に進む予定だったからです。社会学の研究は英語だけでもできなくはありませんが、私の場合、取り組みたかったテーマが、人間の行動、感情、思考といったことで、これらを解明するにはフランスの学者の書物を読み解く必要があると考えていました。例えば、ミシェル・フーコー、ジャック・ラカン、ドゥルーズ=ガタリといった学者の本です。これらは日本語訳も出ていますが、その日本語を読んでも私にはほとんど理解できません。1ページ読むのに1時間以上かかり、次のページに入るとやっぱり前のページが理解できていないことに気づいてまた戻って読み直す…、という感じです。
ここで自分の能力のなさを素直に自覚すればよかったのですが、それを認められないほど当時の私は”若かった”のでしょう。「日本語訳が悪いから読めないのだ」などと無茶苦茶な理屈をつけ、そして無理やりそう言い聞かすようにして、ならば仏語を学べばいいのだ、と考えたわけです。
しかし、仏語の勉強を始めてみると、これが予想をはるかに上回るむつかしさ…。当時の私は会社員時代の英語の勉強のおかげで英語の本はまあまあ読めるようになっていましたし、医学部受験をクリアしていましたから、「やればできる!」と思い込んでいたのです。ところが仏語はやってもやっても文法すらよく分からない…。名詞に姓があるのはいいとしても、冠詞の変化は嫌がらせとしか思えませんし、動詞は変化するだけでなく、時制が複雑で半過去、大過去、複合過去…、とわけが分かりません。それでも私は仏語の勉強を毎日おこない、なんとかついていこうと努力したつもりですが、あるとき”線”が切れました。
それは突然やってきました。1回生の後期試験の勉強中です。やってもやっても先が見えないような気持ちになり、ある瞬間に「や~めた」と匙を投げたのです。この時点で仏語とは「縁」を切ることとし、その後は後期試験をクリアするためだけに勉強しました。
その5年後、私はタイのエイズ施設を訪れることになりタイ語の勉強を始めます。タイという国は絶望的なほど英語が通じないのです。仏語の「挫折」があったため、当初はタイ語の勉強にも抵抗はありましたが、始めてみると仏語との違いに驚きます。まずタイ語には冠詞そのものがありません。また動詞は変化しないどころか時制がないのです。たしかに発音がむつかしく、例えばタイ語にはT、P、Kが2種類ずつあります。特にTとPの2つの音を使い分けるのは至難の業ですが、会話では前後関係や話の文脈からなんとかなりますし、文字ではきちんと区別できますから問題ありません。よくタイ語は文字がむつかしいという人がいますが、慣れればそれほどでもありません。私にしてみれば仏語の文法の方がはるかに難易度が高いのです。
話を戻します。仏語を断念した私は、社会学の理論を極めるのは無理だということを認識するようになりました。しかし私にはこれから学ぶ「医学の知識」があります。その医学の知識をもってすれば、社会学部でこれまでにない研究ができるのではないかと考えました。そして2回生からはいよいよ科学の実験が始まりました。
ところが、です。最初の頃は実験も解剖も楽しくおこなえていたのですが、そのうちについていけなくなる実験がでてきました。大学でおこなう実験というのは、何も未知の物質を生成するわけではなく、新たな理論を発見するわけでもなく、与えられた手順に従って予想される結果を導くのが目的です。ですから、その手順に従って実験器具を用いてデータをとっていけば問題なくできるはずです。実験に向いている人というのは、こういった作業を楽しんでおこなうことができます。私も当初は「そのつもり」でいたのですが、いつの頃からかこういった作業が苦痛になってきました。また、なぜか私が班のなかで中心になっておこなうと上手くいかないのです。悔しさはもちろんありましたが「自分は実験に向いていない」と認めざるを得ませんでした。
この頃の私の実験や基礎医学に対するイメージは「乗り越えられない壁」でした。その「壁」は分厚く、高く、ハンマーで壊したり、はしごをかけたりすることができません。その「壁」の前に呆然と立ち尽くすしかないのです。そして90度横を向くと、平坦ではないもののどこか遠いところに通じる道がみえます。結局私はその「道」を選択することになります。
その「道」とは臨床医学。つまり患者さんと接する「医師」です。実は私は医学部に入学した頃から、複数の知人から医療に関する相談を受けていました。もちろん相談する人たちも、医学生にできることなどたかが知れていると思っていたでしょうが、それでも他に持っていくところがないやり場のない気持ちを私にぶつけてくるのです。そのなかには「それは仕方がない」というものもありましたが、逆に「その気持ちは分かる」というものも少なくなく、こういった人たちの力になることが自分の「使命」なのかもしれない、と考えるようになります。
そして6回生のとき。民間病院の救急部で実習を受けることになりました。このときの実習は、私にとっては勉強や研修というよりも「楽しくて仕方がない」ものでした。あまりにもエキサイティングだったために、指導医の先生にお願いして、特別に夜間の救急外来でも実習させてもらいました。この病院は繁華街に位置しており、夜間の救急部はとても「にぎやか」です。大声でどなりこんでくる人は来るわ、外国人がどこの言葉か分からない言葉でわめくわ、初めから医療者に攻撃的な人はいるわ、で、こんなに非日常的な時空間は他にありません。待合室ではまずヘアースタイルが奇抜でとてもカラフル。黒い髪の人は皆無で、よくみると3分の1くらいの人はタトゥーか刺青を入れていて、血だらけの中国人やリストカットをした直後の若い女性など…。
研修医の頃も私が最も興味を持てたのはやはり夜間の救急外来でした。緊急手術になることもありますし、一見軽症でも実は命に関わる重傷疾患であったり、と救急外来はとても勉強になります。様々な疾患を勉強することができて、交通事故や重度の熱傷などは一刻を争う危機感があります。そしてこれがとても面白い(不謹慎な表現ですが…)。いっそのこと、救急医を目指そうか…、そのように考えたこともありました。ですが、私が取り組むべきことは、その場限りで医師患者関係が終わる救急の仕事ではなく、身体のみならず、精神的にも社会的にも苦痛を抱えている慢性疾患を有した患者さんの力になることではないのか…。結局、そういう結論に達しました。
その後私はタイのエイズ施設でのボランティアを経て母校の大阪市立大学医学部の総合診療部の門を叩きます。そして、大学病院以外にもいくつかの医療機関でも研修を受け、タイに戻るのではなく、日本で困っている患者さんに貢献することを選びました。
では、今やっていることが私が望んでいた「やりたい仕事」なのか…。実はこれについては自分でもよく分かっていません。これまでの人生でいろんなことをしてきた私が最もやりたいと思ったのは社会人の頃に夢見た社会学の研究です。次にやりたかったのは就職活動をしているときに考えた新規事業(アントレプレナー)でしょうか。大学生の頃はクラブのDJにも憧れていました。医学部に入学したときは基礎研究にも強い興味がありましたし、救急の現場は今もなつかしく思います。
太融寺町谷口医院は都心部に位置していて、働く若い世代を中心に、国籍、ジェンダー、職業、宗教などに関係なく、どのような人のどのような疾患も診させてもらう、という方針を貫き10年が過ぎました。やりたい仕事をやっているのかどうかは分かりませんが、他に同じようなクリニックもいまだに見当たりませんから、ならば自分が続けるしかない、と考えています。そして、これは「やりがい」にはなります。
18歳以降、目の前に与えられた仕事が自分の勉強になると思えば挑戦するということを繰り返してきました。やりたい仕事を見つけても自分にセンスや能力がないことに気づいて諦めることが何度かありました。今の仕事が「やりたいこと」なのかどうかはいまだにわかりません。宗教を持っている人なら「それが神から与えられた仕事だ」と思えるのかもしれませんが、私にはそのように思えませんし、また「やらされている」という感覚とも少し違います。
結局、仕事というのもこれまでの「縁」と「運」、それに「努力」で決められるのかな、と今は納得するようにしています。「やりたいこと」「好きなこと」を求めるだけが人生ではないということです。
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|2017年7月10日 月曜日
2017年7月 「やりたい仕事」よりも重要なこと~中編~
ひとつめの大学(関西学院大学)時代に先輩たちから「コミュニケーションの重要さ」について学ばせてもらった私は、就職活動をする頃には対人関係力を武器に社会で勝負しようと思うようになっていました。前回は旅行会社でのアルバイトのことに触れましたが、19~20歳のときにおこなっていたディスコでのアルバイトもその考えに拍車をかけることになりました。
ディスコでアルバイトを始めた動機も不純なもので「プロのDJから音楽の話を聞きたい」というものでした。お金がないと言いながらも週に1~3回程度は欠かさずディスコやクラブ(と80年代当時は呼べるところはほとんどありませんでしたが)に遊びに行っていた私は、プロのDJと話をしたかったのです。才能のないことに気づきながらも、DJになれれば…と当時思っていた私は自宅にターンテーブル2台とミキサーを置いてDJの真似事をしていました。自分でミックスしたテープをよく友達に聞いてもらっていて、褒めてもらうこともあったのですが、音楽に詳しい友人(彼は「絶対音感」があり現在も音楽活動をしています)から、「単にテンポを合わせてもダメ。お前の合わせ方では不協和音を作り出しているだけだ」とダメ出しをされ断念することになりました…。
話を戻します。ディスコでのアルバイトで結果として私が最も学べたこと。それは「接客」のむつかしさと面白さです。水商売の世界というのは奥が深く、才能と経験が重要になります。当時、私が最も尊敬していた先輩はなんと17歳。その先輩は中学のときから水商売の世界に入っていて「貫禄」が違います。昼間に外で会えば当時19歳の私より若く見えますが、いったん制服を着て店に入ればまるで別人です。姿勢、歩き方、お客さんの前で跪くポーズ、声のトーンや話し方。まさに「水商売」という感じでした。他にも尊敬すべき先輩が多数いましたが、私はこの先輩から積極的に教えを乞うようにしていました。私の情熱が伝わったのか、午前3時の閉店後、トレーの持ち方から水割りの作り方、話し方まで「授業」をしてもらえることもありました。
中年以降の2歳の差ならほとんど無視できますが、17歳と19歳の差は小さくありません。19歳の私が2歳年下の”先輩”を崇めるように接していたのですから、水商売の世界を知らない人には不審に思われていたかもしれません。このときの体験で「年齢なんて関係ない。大切なのは経験と実力だ」ということを学びました。まだ仕事もできないのに、自分の方が年上だという理由だけで、若い看護師にため口で偉そうに話す研修医を見るとついつい私は説教してしまうのですが、これはそのときの体験が大きいのです。
水商売の世界にどっぷりとつかっていたその頃の私に欠けていたのは「謙虚さ」だったと思います。大阪ミナミのディスコでアルバイトをしていると、水商売の世界で有名な男女の知り合いがどんどん増えていきます。心斎橋筋を地下鉄心斎橋から難波の駅まで歩いただけで何人もの知り合いに会い、ある程度有名な飲食店ならたいていは知っている従業員がいる、という感じで、まだまだ世間を知らなかった当時の私は、生意気で自信過剰でした。
そんな私が就職先を探すときに重要視したのは「自分の力でどれだけ大きいことができるか」です。逆に初めから考えなかったのが「大企業」です。大企業の歯車になるのがイヤで、同期で競争するなど馬鹿らしく不毛で無駄なことだと考えていました。また、名刺がなければ何もできないような男には絶対になりたくありませんでした。過去にも述べたように「大企業〇〇会社の谷口恭」と思われたくなかったのです。
私が目指していたのは「企業内起業」です。会社の中にいながら、新規事業の部署を立ち上げることを考えていたのです。実は私が就職活動をおこなっているときIさんという「師匠」がいました。Iさんは元リクルートの社員で、私が知り合った頃にはすでに自身の会社を立ち上げていました。当時の私は大企業にはまったく興味がなく、会社で人を判断するようなことはしませんが、リクルートは別格でした。何しろ、当時知り合った(元)リクルートの社員の人たちは、ほぼ全員が魅力的だったのです。後にリクルート社の基本方針が「長期雇用を前提としておらず何年後かには一人前になって辞めてもらう」ということだったことを知り納得できました。リクルートに入る人たちは会社にしがみつくことなど頭にないのです。
師匠のIさんにも勧められた会社に就職を決めた私は、早く仕事を覚えるために、大学卒業前からその会社でアルバイトを始めることにしました。扱っている商品を覚えることよりも私が重要視したことは、社内の雰囲気を知り、入社前から社内のネットワークをつくっておくことです。何しろ私がその会社でやりたかったことは「企業内起業」です。早い段階で社内の人間関係を把握し、〇〇を相談するなら□□課の△△さんが詳しい、などといった情報を集めておくことは、入社前から開始した方がいいだろうと考えたのです。
ところが、です。満を持して入社したその会社で私が配属されたのは、なんと海外事業部。英語がまったくできなかった私はまるで使い物にならず最低ラインに立たされることになりました。学生時代にお世話になった先輩達には到底かないませんが、それでも当時の私は誰とでもコミュニケーションを取れることに自信を持っており、社内外の人脈を築いていずれ新しい部署を立ち上げるんだ…、と意気込んでいました。しかし、海外事業部では英語ができなければ挨拶すらできません。今考えれば、生意気で世間知らずの私は、一度頭を打つ必要がある、と人事部で判断され、最も行きたくなかった海外事業部に配属されたのだと思います。
過去にも述べたように、「退社」か「英語の勉強」の二者択一を迫られた私は「英語」を選択しました。最初の一年はひたすら英語の勉強と輸出業務の事務仕事に苦しんだ、という感じでしたが、二年目の途中からは、上司の許可を得た上で、自分のアイデアでいろんな国の商工会議所宛てに自社製品を売り込む手紙(90年代前半当時、メールはもちろん、FAXもない国が多く、そういった地域にはもっぱら手紙かテレックスしかありませんでした)を書いてみました。すると、アラブ首長国連邦のある企業から注文の手紙が…。この嬉しかった気持ちは今も覚えています。
3年目からは輸入部門に移り、今度は輸入品を国内に売り込む仕事となりました。この頃の仕事はただただ楽しかったという感じです。自分でキャンペーン企画を考案し、チラシをつくり、景品を探してくるのです。入社前にアルバイトをしていた頃の社内人脈もいきてきて、さらに就職活動時の師匠Iさんの会社とも協力できるようになり、入社前に私がイメージしていた「企業内起業」に近づいていることを実感しました。
けれども、最高に楽しい!と思ったとき、同時にある懸念もでてきました。そしてそれが次第に抑えきれなくなっていることを認めざるを得ませんでした。その懸念とは、「これでいいのだろうか…。10年後も同じことをやっているのだろうか。これが生きる意味なのだろうか…」。そんな思いがときおりふと脳裏をよぎると、言いようのない虚しさが私を襲います。
実は英語や貿易実務に少し慣れだした頃、学生時代に読みたくてそのままにしていた社会学関連の本を少しずつ読むようにしていたのです。私は成績は良くありませんでしたが、大学3回生からは勉強が嫌いではなくなっていました。仕事の傍らに社会学の本を読めば読むほど、きちんと勉強したい、という気持ちが強くなってきました。
大学時代の恩師、遠藤先生に連絡をとり、考えていることを話すと、君がやりたいことなら高坂先生にお世話になるのがいい、と助言をいただき、さっそく高坂先生に挨拶に伺い、その後数か月に一度は高坂先生の研究室を訪れるようになりました。論文や教科書を紹介してもらい、社会学部の大学院受験の意思が固まりつつありました。
社会学の面白さにとりつかれた私は、次第に仕事よりも社会学関連の本を読むことに時間を割くようになりました。これまでの人生で私が「どうしてもこの職業につきたい!」と最も強く思ったのはこのときで、端くれでもいいから社会学の研究者になりたかったのです。私が研究したかったのは人間の行動、感情、思考といったものです。そしてこういったテーマに興味を持てば自ずと生命科学にも感心が向きます。
そこで私が考え付いたのが「まずは医学を勉強してから社会学に戻る」という道です。こうして私は医学部受験を決意することになります。しかし、合格したのはいいものの、入学後早くも挫折を味わうことになります…。
(続く)
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|2017年6月16日 金曜日
2017年6月 「やりたい仕事」よりも重要なこと~前編~
「やりたいことを仕事にしなさい」とか「好きなことで稼ぎましょう」などと言われてもどこか空々しく感じてしまうのは私だけではないでしょう。そのようなセリフは成功者が言えることであって、一生懸命がんばったけど夢が叶わず挫折して、本意でない仕事に従事している人もたくさんいるからです。
ですから、こういったタイトルの本やブログを見つけたとしても実際に役に立つことはあまりない、というのが私の意見です。ひどい場合は成功者の「自慢話」を聞かされるだけです。
今回も前回に続いて「職探しの極意」について述べていきたいと思います。前回も指摘したように「受験」と「就職」はまったく異なります。受験は何といっても本人の努力がものをいいます。もちろん「運」も作用します。そもそも受験を許される家庭環境にいることが「幸運」ですし、たまたま知っている問題が出ることもあります。適当に選んだ選択肢が偶然当たることもあります。
ですが、受験は(難易度にもよりますが)努力なしでは絶対に合格することができません。それも他人よりもずっと努力をしなければなりません。そして、「努力できるかどうか」は、本当に大学でそれを勉強したいのか、その気持ちに比例する、というのが私の考えです。どうしてもその大学で勉強したいという気持ちが強ければ強いほど努力が苦にならずスランプから速やかに脱出できる、ということを拙書で述べました。私の場合、医学部の受験勉強をしていて調子が上がらなかったときは、医学部のキャンパスで勉強している自分の姿を想像したり、あるいは実際に志望校(大阪市立大学)まで出向いて、「このなかの研究室でいずれ働くことになるんだ…」という空想を楽しんだりしていました。こうすると再びやる気がみなぎってくるのです。
一方、就職はそうはいきません。ほとんど、とまではいいませんが、多くは「運」が左右するからです。就職したい会社の前に行って自分が働いているところを想像するようなことを繰り返せば、そのうち不審者として通報されるでしょうし、そもそも会社によっては縁故で大半が決まるところもあります。これがアンフェアだという意見もあるでしょうが、世の中とはそういうものです。賄賂が少ない日本はまだましな方です。また、多くの会社は認めないでしょうが、容姿の見栄えの良さや声の質といった個人の努力ではどうしようもない要因で採用が決まることは多々あります。
芸術やスポーツの分野では、求められる才能や能力も受験とは桁違いに厳しくなります。ある意味「勉強」で生きていく方がラクです。例えば、学年一ピアノが上手だったとして、さらに努力を重ねても将来ピアノだけで食べていける可能性は極めて低いのが現実です。学年一のストライカーがプロのサッカー選手になり、しかも選手時代に一生食べていけるだけ稼げるかというと、これも極めて困難でしょう。
その点「勉強」で勝負するなら、例えば小学生時代の算数の成績が上位3分の1くらいに入っていれば、その後の努力次第では、保護者の理解と支援は必要ですが、理系学部の大学院まで行くことも可能でしょう。そこまでいけばよほどの不景気でない限り、どこかの企業の研究職に就ける可能性は充分にあります。ただし、この会社しかイヤだ、というふうに考えると道はかなり険しくなりますから、どうしてもやりたいこと、を幅広く考えておかなければなりません。
さて、私が考える「職探しの極意」。「やりたい仕事」よりも重視しなければならないことがあるというのが今回の話です。それは、「今、目の前にある仕事が少しでも興味があるなら”卒業”できるまでがんばる」ということです。そしてこれは若ければ若いほど大切なことです。私自身のことを例にとって解説したいと思います。
私はひとつめの大学(関西学院大学)に入学して初めて、おもしろそうだな、と思って始めたのが旅行会社のアルバイトです。動機は極めて不純なもので「タダで沖縄に行きたい」というものです。ですが入ってみてすぐに「これは自分にはムリだ」と感じました。
当時の旅行業界というのは(すべてではありませんが)とても”いい加減”で、現地に着いたけど宿が取れていない、といったお客さんからのクレームは日常茶飯事でした。ここで私のような未熟者は怒っているお客さんの前であたふたするだけで、とてもその場をまとめることができません。しかし、仕事のできる先輩は怒り心頭のお客さんを上手にもてなし、笑いをとり、その後感謝の手紙をもらうのです。宿がなくても、旅館の宴会場に泊めたり、ひどい場合は場末のラブホテルに交渉に行ってそこに宿泊してもらうのです。常識的に考えてこんなことをされてお客さんは納得するはずがないのですが、当時の私の先輩たちはこれくらいのことを当たり前のようにやってのけていたのです。
このような先輩たちの「パワー」を目の当たりにすると、学校の勉強なんかしている場合じゃない、と思わずにはいられません。私はそのアルバイトを辞めるのではなく、こういった先輩たちのいわば「カバン持ち」をするようなつもりで、可能な限りプライベートの行動も共にさせてもらいました。
最初の頃は、そのような先輩たちと一緒にいればいるほど、自分は何もできない人間なんだ…、という劣等感を感じるだけでしたが、そのうちに単純に先輩の「マネ」をすればいいのかも、ということに気づきました。そこで先輩たちがいないところでは、話す中身のみならず、話し方や声の抑揚のつけ方なども真似るようにしてみました。そのうち、「こんなとき〇〇先輩ならこんなふうに言うに違いない。△△先輩ならひとつ”間”を入れてからこう言うかもしれない」などというように考えるようになったのです。
すると、百発百中とまではいきませんが、ある程度はその場で気の利いたことが言えるようになり、コミュニケーションの苦手意識がなくなってきたのです。これは「タダで沖縄に行きたい」と考えてアルバイトを始めた頃にはまったく予想もしていなかった私の「財産」となりました。相手が老若男女どのような人であったとしても、自分とはまったく異なる社会で生きている人であったとしても、初対面で苦手意識を持つことがなくなったのです。医師の多くは初めて接する患者さんと話すときに緊張するといいますが、私にはそれがほとんどないのはこの「財産」があるからです。
過去にも述べたように、大阪で深夜の救急外来をやっていると、泥酔者、暴力的な人、自殺未遂をした人などが次々とやって来ます。ときには「指をつめたから縫ってくれ」と言って受診する「そのスジの人」もいます。夜間の救急外来にやってくる人のいくらかは医療者に暴言を吐きますから、それが辛いと考える医師ももちろんいますが、私の場合、こういったことがほとんど苦痛になりません。これはちょっとマズイな…、と感じたときも旅行会社でのアルバイト時代を思い出し、「〇〇先輩ならどうするかな」というふうに考えます。
そのアルバイトを始めた頃は、百回生まれ変わっても先輩たちにはかなわないな…、と感じていて、それは変わっておらず、当時の先輩たちはいつまでも私の「永遠の先輩」であり、今も私など足元にも及びません。ですが、先輩たちから学ばせてもらった私の「財産」は、その後の人生で何度も私を救ってくれています。
もしも私がそのアルバイトをすぐにやめていれば、自分のコミュニケーション能力は低いままで、きっとまったく異なる人生を歩んでいたに違いありません。私が先輩たちから学んだことはいくら教科書を読んでもわからないことであり、「自分には向いてないから他にやりたいバイトを探そう」と諦めていれば身につかなかったことです。
しかし、その後の私の人生はこの「財産」でいいことばかり…、というわけではありません。関西学院大学を卒業し、満を持して入社したはずの会社で再び挫折を味わうことになります。
つづく。
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|2017年5月11日 木曜日
2017年5月 就職の相談
患者さんから就職の相談をされたときどうしていますか?
少し前、複数の医師と雑談をしていたときに私がふった話題です。そこにいた医師は全員が無言に…。どうやら私は場違いで無神経な発言をしてしまったようです。しばらくして一番ベテランの医師が言うには「そんな相談されない」とのこと。
一方、私は研修医の頃から就職についての相談をしばしば受けています。おそらくこの理由のひとつは、私が医学部再受験の本を上梓したからだと思います。私は今もFacebookやLINEなどのSNSを一切おこなっていませんが、クリニックやNPO法人GINAのサイトから相談メールがよく届きます。数年前までは、就職よりも医学部再受験についての相談が多く、就職については、看護師、作業療法士、臨床心理士といった医療系の仕事についてのものが多かったのですが、最近は医療系以外の相談、例えば大学生から新卒の就職について相談されることもあります。
質問や相談をする人のすべてが私の本を読んでいるわけではありません。おそらく日ごろから「困ったことがあれば何でも相談してください」と言っていることが原因のひとつでしょう。この「困ったことがあれば」というのは、一応は「医療のことで」という前提で話しているつもりなのですが…。恋愛相談を受けることもしばしばあります。以前は恋愛関係の相談はLGBTの人たちからのものがほとんどだったのですが、最近はストレートの人からも寄せられるようになってきました。もちろん私は万能カウンセラーではなく、それほど期待に応えられるわけではないのですが…。
ですが、困っている人を放っておくわけにはいきません。結果として役に立たないことの方が多いのですが、ほとんどの相談に対して返答しています。(一部、明らかにふざけたような質問は無視しています)
話を「就職」に戻しましょう。私がひとつめの大学(関西学院大学)を卒業した1991年はバブル経済真っ只中で「空前の売り手市場」と言われていました。今年(2017年)は、そのバブル時代以上に求人率が高いそうですが、91年当時の方が時代背景もあり企業側が”過剰な”対応をしていました。説明会は高級ホテルの立食パーティが当たり前、入社前に海外旅行を用意する企業や新車一台プレゼントしてくれる会社まであったほどです。ですからよほど「狭き門」の企業を目指さない限りは、就職試験で落ちるということがなかったのです。
また、医師はいつの時代も人手不足ですから、やはりよほどの「狭き門」の病院でない限り、就職できないということはありません。医学部の学生時代のアルバイトも、医学生自体が稀少な存在ですから、どこに行っても珍しがられてすぐに採用ということになりました。
つまり、私は「職を探す」ということについてこれまで一切の苦労をしたことがなく、試験や面接で落とされた経験が一度もないのです。常識的に考えれば、こんな私に就職の助言などできるはずがないのですが、ものすごく都合のいい解釈をすれば、私は「職探しで一度も失敗したことがない男」となるのかもしれません。また、今は人を採用する側にいますから、こんな人はNGでこういう人はOK、ということが多少は分かるつもりです。特に医療職についてはそれなりに助言ができると思います。
では、さっそく私が考える「職探しの極意」を紹介したいと思います。まず「就職」と「受験」は異なります。どちらも「運と縁」が関与しますが、受験に比べて就職はその傾向が桁違いに高くなります。そして、このことを初めから理解しておくべきです。もしも希望しているところに就職できなかったとしても、それはあなたに実力がなかったからではなく「運と縁」がなかったと考えるべきです。就職の場合、新卒時を除けば就職時期は「適宜」となるのが普通です。最近、私の友人が「超」がつくような優良企業に就職が決まりました。めったに中途採用をしない会社です。求人が出た時期と友人が職を探していた時期が”たまたま”重なり、さらに偶然にも他にめぼしい応募者がいなかったようです。
太融寺町谷口医院(以下「谷口医院)」でも、募集して新しい採用が決まり求人活動が終了したそのわずか数時間後に、職歴も志望動機も申し分がなく「是非一緒に働きたい!」と感じる人からの履歴書が届いたということが過去に何度かありました。そして採用した人が、1ヶ月もしないうちに”本性”を現し、とうてい医療者には向いていないことが判り…、仕事のパフォーマンスは最悪で患者さんからのクレームが後を絶たず…、ということも。
一般に(とはいえ、これは特に私に強い傾向があることは認めます)、就職希望者が「未熟ですが一生懸命がんばりますのでお願いします!」と熱意を強く訴え、そして「なぜここで働きたいのか」その理由がまともなものであれば、たとえ、これまでの経歴が不十分であっても、試験の点数が低くても、その熱意が高ければ採用に至ります。逆に「私のこれまでの経験で充分にやっていけます」というような態度の人は、谷口医院では不採用になることが多いといえます。
しかし、この採用方法はときに”裏目”に出ます。一度、面接時に泣きながら「前の職場で辛かった。新たに当院でがんばりたい」と強く訴えた看護師を採用したことがあります。しかし、採用後、最初のうちは多少の”がんばり”を見せてくれたものの、数か月もたてば、言われたことしかしない、言われたことも文句をつけてやらない、という態度に変わっていきました・・・。
ですが、私はこれでいいと思っています。「裏切られても信じることから…」というのが私の考えです。こういう医療者と接した患者さんには申し訳ないですし、開き直るわけではありませんが、もしも当院の医療者が患者さんに不快な思いをさせることがあればそれは私の責任であり、精一杯のフォローをします。
仕事に流動性のあるこの時代、新卒の人も含めて「生涯働き続ける職場」を探す必要はないと思います。では、どのような基準で就職先を探せばいいのか。それは「自分の勉強になるかどうか」だと私は考えています。実際、私自身がそのような観点のみでこれまで仕事やアルバイトを探してきました。(かなり都合のいい解釈をすれば、私が面接や就職試験で一度も落とされたことがないのは、この考えを面接官や雇用者に汲み取ってもらったからかもしれません)
私はこれまでアルバイトも含めれば20以上の職場で働いていますが、面接のときに、「貴社(貴院)のためにがんばります」と言ったことは一度もありません。毎回私が主張するのは「貴社(貴院)で勉強させてください」ということです。もしかすると、こういうことを言う者は少なく「珍しいから」という理由で採用されるのかもしれませんが、これは私の本心です。その企業(や病院)のために働くなどと考えたことはただの一度もなく、私が考えることはただひとつ。「その仕事は自分の勉強になるか」というとても身勝手なものです。
私にとって仕事とは「お金を稼ぐ手段」ではなく「勉強」であり、どこの職場でも少しでも学ぶことを考えます。会社員時代は、英語、貿易事務、マーケティングなどを学ぶ”学校”でしたし、医師になってからはひとりひとりの患者さんが私にとっては「貴重な臨床症例」です。医学部の学生時代、何人かの先生から「患者さんから学ばせてもらえ」と言われ、当時はこの意味がよく分からなかったのですが、医師になってから日々実感しています。よりよい医療をおこなうには教科書だけでは不十分で臨床経験を重ねなければならないのです。
私は、医療者は(それは狭い意味の医療者だけでなく事務職や受付も含めて)、この「患者さんから学ぶ」そして「患者さんに貢献する」という姿勢が絶対に必要だと考えています。医療機関のために働く必要は一切ありません。患者さんから学びそして貢献するというこの精神(私はこれを「医療マインド」と呼んでいます)があれば、必ずやりがいをもって気持ちよく働くことができ、そして患者さんから「感謝」されます。
谷口医院のこれまでのスタッフを振り返ると、「医療マインド」を持っている者は、日ごろから私に患者さんの相談や質問をし、患者さんから感謝の言葉をかけられ、そして”卒業”するときにも患者さんの話をします。逆に、退職時に患者さんの話が一切でてこないスタッフもいます。そういうスタッフは例外なく「医療マインド」がなく、実際、それなりに長く働いたとしても患者さんから感謝の言葉がほとんど寄せられていません。
人のために貢献できる職業は医療者だけではありませんが、医療者は「貢献していること」を日々実感することのできる恵まれた職業だと私は考えています。「医療マインド」は絶対に必要ですが、これを身につけるのに特別な訓練は必要なく、「困っている患者さんの力になりたい」と思うことができればそれで「合格」です。(ですが、簡単そうにみえてこれができない人も世の中にはいるのです)
最後に阪急東宝グループの創始者小林一三氏の言葉を著書『私の行き方』から紹介したいと思います。これを書かれたのはおそらく戦前だと思われますが、今読んでも胸に響きます。
せち辛い世の中ではあるが、生きがいのある生活だとか、人格を認めてもらわなければ困るとか、そういう理屈、それは正しい主張であるとしても、それらの議論にこだわらず、己を捨てて人のために働くのが、かえって向上昇進の近道であると信じている。
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