マンスリーレポート

2025年6月 故・ムカヒ元大統領の名言から考える「人は何のために生きるのか」

 元ウルグアイ大統領のホセ・ムヒカ(José Mujica)氏が2025年5月13日、89歳の生涯に幕を下ろしました。死因は公表されていませんが、The New York Timesによると食道がんと何らかの自己免疫性疾患に罹患していたそうです。

 大統領就任時の純資産が1,800ドルだったこと、大統領の月給の9割に相当する約12000ドルを慈善事業に寄付し、ウルグアイの平均月収775ドル相当しか受け取らず、1987年製フォルクスワーゲン・ビートルを愛車にしていたこと(純資産の1,800ドルはこの車だったそうです)から、国際メディアはムヒカ氏を「世界一貧しい大統領」と呼びました。

 日本のメディアもこの名称を使っていますが、上述のThe New York Timesによるとムヒカ氏はこの呼び名を嫌悪しています。そして、「貧しい人というのは、ものを持っていない人ではなく、もっともっと多くを渇望する人のことだ(It’s not the man who has too little, but the man who craves more, who is poor)」と、しばしばローマの哲学者セネカの言葉を引用しました。

 日本のメディア(例えば東洋経済)もムヒカ氏を取り上げ、この「名言」の話し手として紹介していますが、これはムヒカ氏のオリジナルではなくセネカの言葉です。しかし、ムヒカ氏はおそらく何度もこの言葉を引用しているのでしょう。2012年のBBCのインタビューでは、「私は貧しい大統領と呼ばれていますが、自分が貧しいとは思いません。本当に貧しいのは、高価な暮らしを維持するためだけに働き、もっともっと欲しがる人たちです(I’m called ‘the poorest president’, but I don’t feel poor. Poor people are those who only work to try to keep an expensive lifestyle, and always want more and more)」と、セネカの名言を自分の言葉に置き換えてわかりやすく語っています。

 さらに、「これは自由の問題です。所有物が少なければ、それらを維持するために奴隷のように一生働く必要はなく、自分のための時間が増えるのです」と続けています。

 ムヒカ氏の他の言葉もみてみましょう。The New York Timesの記者との対談を紹介しましょう。

 ムヒカ氏は人間が無駄なことをしている例として、「ウルグアイの人口は350万人なのに2700万足もの靴を輸入している。私たちはゴミを出し、苦痛に耐えながら働いている」と例を挙げ、「時間を自分の欲望のために費やすなら、欲望が倍増すればそれを満たすためにまた人生を費やすことになる。この<必要の法則>から逃れることができてようやく人は自由になれるのだ」と述べています。そして「人間は無限の欲求を生み出している。市場は私たちを支配し、私たちの命を奪っているのだ」と説きます。

 ではどうすればいいのか。氏は続けます。「労働時間を減らし、自由時間を増やし、もっと地に足のついた人間になればよい。なぜこんなにゴミが溢れているのか。なぜ車や冷蔵庫を買い替える必要があるのか」「人生は一度きり。その人生に意味を見出さなければならない。富のためではなく、幸せのために生きていこう」と訴えます。

 では労働時間を減らし、欲望を減らしてできた時間に何をすべきか。ムヒカ氏は2つを挙げています。1つは「本」です。氏は言います。「本は人類の偉大な発明だ。人々がこれほど読書をしないのは残念でならない」。なぜ現代人は本を読む時間がないのかについて、氏は携帯電話が原因だと指摘します。しかし、氏は他人とのコミュニケーションをやめよと言っているわけではありません。「我々は言葉だけで話しているのではなく、身振りや皮膚で意思を伝えるのだ。そういう直接のコミュニケーションこそがかけがえのないものなのだ」と続けます。

 ムヒカ氏の言葉に共感できる人はどれくらいいるでしょう。過去のコラム「『幸せはお金で買える』という衝撃の結末」で示したように、ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンは当初こそ「年収75,000ドルを超えてもそれ以上幸せになれない」と主張した論文でノーベル賞を受賞しましたが、後にこの考えが「間違いだった」と認め、「人はお金があればあるほど幸せになる」と180度見解を変えました。さらに、収入が増えても幸福度が上がらない人は「過去に悲惨な経験がある」とまで言うのです。ムヒカ氏とは正反対です。

 ここで人生の意義、つまり「人は何のために生きるのか」を考えてみましょう。こういう話題は気軽に始めると「おかしな人」と思われますし、いきなりこんな質問をされるとほとんどの人が困るでしょうが、過去のコラム「医師になるつもりもなかったのに医学部に入学した理由(前編)」で述べたように、私は物心ついた頃からこの問いへの答えをずっと考え続けています。一時、一つ目の大学生の頃にはこのような疑問は忘れるようにしてワクワクすることを求めて生きていましたが、その後再び「何のために生きているのか」と考え始めるようになりました。

 その答えはまだ出ていないのですが、ひとつ「確信していること」があります。これは最近になって分かったわけではなく、実は子供の頃から気づいていたことです。それは「人はカネのために生きるわけではない」ということです。文脈によってはこの言葉はきれいごとになってしまいますし、お金がほんの少ししかなければ生きていけないのは事実です。ですが、ひとりの人間が食べられる量も身に纏える衣服の量もすぐに限界がきます。むしろ私には「カネを求めて生きる人生はものすごく格好悪い」と感じられます。

 過去のコラム「競争しない、という生き方」で述べたように、私は社会人1年目の22歳のとき、初任給が同期の者より2千円ほど低く、私自身はなんとも思わなかったのですが、それを知った私の上司が怒りまくって人事部に苦情を言いに行き、それが私にはとても奇異に見えました。自分のために戦ってくれたことはありがたかったのですが、なんでそんなに怒るのだろう、と不思議だったのです。

 それ以降も私は少なくとも「他人よりも金を稼ぎたい」と思ったことはありません。会社をやめたのは社会学部の大学院を目指したからですし、医学部に変更したのは人間についての研究がしたかったからです。研究者の道を諦め臨床医に転向したのは研究者としてのセンスも才能もないことを思い知らされたからで、開業したのは「どこからも見放された患者さんの力になりたい」という思いが抑えきれなくなったからです。そして現在56歳の私が今からカネの亡者になるとは思えませんし、「他人よりも稼ぎたい」などという気持は今も微塵もありません。

 ではこんな人生が幸せなのかというと、それは今もよく分かりません。実家を離れるまでは、寝ている時間と外出している時間を除けば不幸しかありませんでしたし、18歳以降もいろんな人に裏切られ、傷つけられてきました。しかし、こんな私を慕ってくれて、人生で大切なことを教えてくれた友人や先輩はいますし、生きる喜びを教えてくれた人たちもいます。そういう人たちに巡り合えただけで、私の人生はきっと幸せなのだと思います。

 では「人は何のために生きるのか」の答えは何なのでしょう。ムヒカ氏に習うなら「本を読んで、人と(携帯電話ではなく)直接会うために生きる」でしょうか。「カネのためではない」は間違いありません。

 

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