メディカルエッセイ

2013年6月17日 月曜日

15 私が怒らせてしまった患者さん 2005/5/22

先日、外来を受診された患者さんを怒らせてしまいました。これまでも、院内で医療従事者に対して怒りをあらわにする患者さんを何度かみたことがありましたが、ひとりの患者さんが私ひとりに怒りをぶつけられたのは初めてでした。

 怒りの内容は、「どうしても点滴をしてほしい」という患者さんに対して、「点滴は必要ない」という旨を私が話したのですが、私の説明に納得されず、結局「点滴をしてくれないなら薬も要りません! 診察代だけ払って帰ります!」と言って帰られたというものです。

 もう少し詳しくお話しましょう。

 患者さんは、40代の女性で、数日前から喉が痛くて熱があるという理由で来院されました。診察すると、おそらく細菌性の急性扁桃炎であることが分かりました。発熱と喉の痛み、それに軽い咳以外は症状がなく、水分摂取も可能なため、抗生物質と解熱鎮痛剤を内服し数日間安静にしていれば充分に治癒が見込めるという状態でした。
 
 診察を終える前に、何か言いたそうにしている患者さんに私は尋ねました。

 「何かお聞きになりたいことはありますか。」

 「先生、熱が出てしんどいので、熱を下げる点滴をしてください。」

 「通常、熱を下げるために点滴をおこなうことはしません。薬が飲める人には内服薬を飲んでもらいます。飲めなければ坐薬を使うこともあります。坐薬も使えないような場合は、注射をすることもありますが、注射の場合、副作用もありますから、安易にはおこなわないことになっています。」

 この患者さんには、注射の解熱薬が使えない理由がありました。患者さんはピリン系の薬剤に対してアレルギーがあるのです。現在、日本で使用できる注射可能な解熱剤はピリン系のものしかありません。私はそれを説明しました。

 「点滴ではなく、普通は筋肉注射をしますが、解熱薬はあります。しかし、それはピリン系の薬剤で、あなたのようにピリン系の薬剤にアレルギーがある人には使えません。もし使うと、危険な状態になることも予想されるからです。」

 患者さんはあきらめません。

 「でも、先生。点滴をするとすぐに治るんです! とにかく熱を下げる点滴をしてください!」

 「細菌性の感染症に対して、抗生物質の点滴をすると、たしかに劇的に治癒することもあります。しかし、あなたはピリン系の薬剤にアレルギーがありますし、花粉症も軽いものではないようです(問診で花粉症のあることが分かっていました)。アレルギー体質の方に、抗生物質の点滴をおこなうと短時間で危険な状態になることもあるのです。そんな危険なことをするよりも、飲み薬で様子をみた方がいいと思いますよ。」

 「いえ、どうしても点滴をしてください!」

 「そこまで言われるなら、点滴をしましょうか。ただし、薬剤は入れないでおきましょう。水と電解質のみの点滴になりますが、それでもいいですか。」

 「水と電解質だけなら意味ないでしょ! せめてビタミン剤などの栄養剤を入れてください!」

 「あなたは、栄養剤が必要な状態ではありません。それにあなたのような状態の人に栄養剤を保険診療で供給することはできないのです。どうしてもと言われるなら、自費診療で点滴をすることは可能ですが、栄養剤の点滴が、高額なお金を払ってまでやるべきものではないと思いますよ。」

 「けど、先生。熱を下げるのに飲み薬では効果がないんです!」

 このままでは納得してもらえないと思って、私は薬の本を取り出して、注射の解熱剤のところを見せました。
 「ここに書いてある通り、現在日本で使われている注射の解熱薬はこれらだけで、これらはいずれもピリン系なのです。あなたには使うことができないのです。」

 「こんな本見せられても分かりません! どうしても点滴をしてくれないならもういいです! 帰ります! 飲み薬も要りません! 診察代だけ置いて帰ります!」

 と言って、バタンと大きな音を立ててドアを閉め、その患者さんは診察室を去っていきました。

 我々医療従事者は「点滴神話」と呼ぶこともありますが、患者さんのなかには、点滴をすれば、たちまち病気が治ると思っている人がいます。

 たしかに、点滴をすれば劇的に症状が改善する場合があります。この患者さんに私が述べたように、抗生物質が劇的に効く場合もありますし、嘔吐や下痢が数日間続いていて脱水の状態にあるときに、点滴をするとみるみるうちに元気になることもあります。この場合は特別な薬剤は必要でなく、水と電解質のみのもので充分です。水と電解質のみの点滴とは、要するにポカリスエットのようなものです。

 嘔吐が続いているときには、「吐き気止め」を点滴の中に入れると数時間でよくなりますし、喘息の場合もある薬剤を使うことで劇的に改善します。また、低血糖で意識を失っているときにブドウ糖の注射をすると、まるで何事もなかったかのように意識が戻ります。

 しかしながら、この患者さんのように、細菌性の急性扁桃炎が疑われたものの、その様態はさほど重症ではなく、飲み薬で充分と思われるようなケースには点滴は必要ありません。診察する医師によっては、飲み薬すら必要ないと言うかもしれません。

 私は、この「点滴神話」を持っている患者さんに対しては、点滴が必要でない理由を説明し納得してもらうようにしています。これまでも、「どうしても点滴をしてほしい」という患者さんに何度も遭遇してきましたが、必要ない理由を説明し納得してもらうか、あるいは同意を得た上で、水と電解質のみの点滴をするようにしていました。

 今回のように、水と電解質のみの点滴では納得されずにどうしても薬剤を入れてほしいという患者さんは初めてでした。しかも、「それができないなら飲み薬も要らない」と言って怒って帰られた、という体験も初めてです。

 この患者さんに最も必要なのは安静にすべきことだったのですが、このように怒りをあらわにして不快な気分を持てば治る病気も治りにくくなります。また、私からみても、患者さんに利益を与えられなかったわけですから気分のいいものではありません。結局、医師からみても患者さんからみても結果的にはマイナスになってしまったのです。

 では、この症例ではどちらが悪いのでしょうか。おそらく、医療従事者に話をすれば、「それは仕方ないよ。」とか「お前は悪くないよ。」という意見も出てくるでしょう。

 しかし、私としては、やはり自分に非があったのではないかと考えています。

 「ナラティブ・ベイスド・メディシン」という言葉をご存知でしょうか。「ナラティブ(narrative)」とは、「物語」という意味で、患者さんはそれぞれ自分の症状に対する自分だけの物語を持っていて、それを医療従事者が察知し、その物語を解決するようなアプローチをすべきであるという考え方です。

 例えば、頭痛がするといって診察室を訪れた患者さんに、「それは片頭痛だから薬で様子をみてください」と言っても、「片頭痛じゃなくてもっと怖い病気かもしれないから徹底的に検査をしてください」などと言われることがあります。なぜ、そんなに怖い病気を心配しているのかと思い、詳しく話しを聞いてみると、実は自分の父親が脳腫瘍で発見が遅れ命を落としたというエピソードを持っていた、などといったことがあります。

 この場合は、なぜ脳腫瘍を疑う必要がなく、片頭痛という診断がつけられるのかということをじっくりと説明する必要があります。ただ、むつかしいのは、患者さんが、この例の「父親が脳腫瘍」というようなエピソードをなかなか話してくれないことがあるからです。

 さて、話を戻しましょう。「ナラティブ・ベイスド・メディシン」の立場から、私が怒らせてしまった患者さんのことを考えたときに、やはりこの患者さんにも、どうしても点滴にこだわる理由があったのでしょう。それが科学的あるいは理性的でないこともありうるでしょうが、患者さんにとっては非常に重要なことであるために、数分間の私の説明では納得できなかったのかもしれません。

 「自分のことを理解してもらう前に相手のことを理解する」というのは、あらゆる人間関係の鉄則ですが、私にはその鉄則が守れていなかったのです。

 最後に偉人の名言をご紹介いたしましょう。

 「心には理性で分からない理屈がある」(パスカル)

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2013年6月17日 月曜日

第14回(2005年8月) 習慣としての奉仕

 発生から四ヵ月以上がたち、インド洋(スマトラ島沖)大津波について語られることが少なくなってきたように思います。振り返ってみると、あの津波によって、死者・行方不明者の総数は30万人となりました。現在もPTSDに苦しんでいたり、身寄りをなくして生活に不自由している子供たちが大勢います。

 マスコミの報道だけをみていると、あの津波についてのニュースは最近ほとんどありませんし新たに大きな天災が起こってもいませんから、普通に生活をしている限りは世界で困窮している人々のことを考える機会はほとんどないのではないでしょうか。

 しかしながら、現在も水がない、食料がない、衣類がない、医薬品がない、安全な環境がない、などの理由で支援を必要としている人が大勢います。

 例えば、スーダンで20年以上続いた南北間の内戦は、2005年1月9日に包括的和平協定が結ばれたことにより一応は終戦となりましたが、この内戦によって発生した難民はまだまだ大勢います。スーダンの西側に位置するチャドに内戦から逃れるために避難しているスーダン難民は約20万人もいます。単純に数字だけで比べられるものではありませんが、インド洋大津波の死者・行方不明者のおよそ3分の2にあたる人々が、スーダンの内戦から逃れるために隣国に避難しているのです。

 そして、この20万人の難民のうち、およそ8割が女性と子供です。このなかには、自分の夫や父親が内戦で死亡したという人達も大勢います。そして、家を襲撃されたり暴力を受けたりしてPTSDになっていると思われる人たちもいるわけです。

 スーダンだけではありません。アフガンの難民はまだ数百万人もいます。タリバン政権が崩壊した2002年以降、少しずつ故郷に戻ることのできる人が増えてきていますが、まだ数百万人の人たちが故郷に戻れずにいるのです。

 また、慢性的な水不足に苦しむ人々は、世界29ヶ国でおよそ4億5千万人もいると言われています。水は飲むだけでなく、手を洗ったり洗濯をしたり、清潔な衛生状態を保つために不可欠なものです。世界で20億人以上の人々は、清潔な衛生状態になく、水を原因とする病気は8秒に1人のペースで幼児の命を奪い、途上国の死因の80%を占めます。

 インド洋大津波のときはその衝撃的な映像がメディアを通して流れましたから、被害の状況がわかりやすかったと思いますが、今お話したような、スーダンの状況や、アフガンの難民、不衛生な環境で苦しむ人々といったようなことは、なかなかマスコミでは報道されません。

 しかしながら、こういった支援を必要としている人々の情報というのは、誰もが常に意識している必要があると私は考えています。

 では、私はどのようにしてこのような情報を入手しているかというと、主にユニセフやUNHCR、日本赤十字のホームページからです。また、これらの機関から定期的に送られてくる冊子からも情報を得ることができます。これらの冊子は、定期的にこれらの機関に寄付をしていれば無料で送ってきてくれますから、興味のある人は寄付をしてみてはいかがでしょうか。

 以前、別のところでも述べましたが、テレビ局などが主催する基金に寄付をしても領収書の発行もしてくれませんし、こういった情報も入手することができません。そういった点からも、ユニセフやUNHCRなどの組織に寄付をする方がずっと有用だと私は考えています。

 奉仕、例えば寄付金なんていうものは、黙って匿名ですべきものと以前の私は考えていました。「○○円の寄付をした」などといったことを他人に言うのは、単なる偽善、あるいは有名人であれば売名行為であると思っていたのです。それに、最後まで誰にも言わず寄付を続けていくことが男の美学であるように感じていたのです。

 けれども、今の私は違います。例えば、「今日は久しぶりにパチンコに行って5千円負けてしもたわ~」というようなことを隣に住む人に言う感覚で、「財布に5千円あったから、明日になったら給料も入ることやし、スーダン難民に寄付してきたわ~」と気軽に言えるような社会がいいのではないか、と感じています。

 もちろん、5千円もの大金を気軽に寄付できる人というのはそう多くはないでしょう。これに対し、5千円が大金でないと感じる人もいるかもしれません。いくらくらいの額を寄付したりボランティアに使ったりするのが望ましいのかということを私はよく考えるのですが、ある人が興味深いことを言っていましたので紹介いたします。

 その人は、毎年年収の1%を奉仕に使うと言います。その人の年収がいくらかは知りませんが、例えば600万円だとしたら6万円を寄付などに使っているわけです。私はこの「年収の○%」という考えに、なるほど、と思いました。

 私は医師という立場もありますし、タイのエイズ施設に深く関わるようになりましたから、とりあえず、今年の奉仕に使う金額の目標を年収の10%に想定しています。例えば今年がんばって600万円の収入を得ることができたら、60万円を奉仕に使うつもりです。

 ちなみに、ユニセフやUNHCRなどの組織に寄付した場合、年収の4分の1マイナス1万円までは税控除の対象となります。例えば年収1千万円であれば、4分の1の250万円から1万円を引いた金額、すなわち249万円までは控除されるのです。ということは、日本政府としても、年収のおよそ4分の1を寄付に使うことを奨励しているのでしょうか。だとしても、今の私は年収の10%が限界で、なかなか4分の1まではおこなえません。まあ、将来的な目標ということにしておきたいと思います。

 ところで、寄付をおこなったり、あるいはボランティア活動をしたりといった意識が生じるのはもちろん「良心」からであります。なかには「満たされない日常を埋め合わせるために被災地に行ってボランティアに参加する」という人もいると思いますが、大半の人は「良心」から寄付やボランティアをおこなっているものと私は考えています。「良心」とは、本当はすべての人が持ち合わせている、古今東西変わることのないひとつの真理(原理、または原則)なわけです。

 よく、寄付をおこなうのは単なる自己満足だ、と言う人がいますが、たとえ自己満足であったとしても、それは寄付をおこなうという行動に満足しているのではなく、「良心」に従って行動しているということに対する満足なのです。

 寄付やボランティアにかかわらず、いつも「良心」に従って行動すると、揺ぎ無い不変の自己を意識することができますから、例えば周囲の環境がどのように変化しようと、何も動じることはないのです。

 私は、他人からみればいつも変わった行動をとっていると思われがちですし、また組織に所属していなくて不安じゃないの、と聞かれることもありますが、私はいつも「良心」に従って行動しているということを自負していますから、何も動じないのです。組織の理屈で動くよりも、自分の「良心」に従って行動した方が、ずっと自信に満ちたものになります。なぜなら、組織を構成するのがたかだか数十人から数千人なのに対し、「良心」を支持してくれる人は世界中に何十億人といるからです。

 最近、日本の先行きを不安に思わせるような新聞記事をみかけました(日経新聞2005年4月30日)。その記事によりますと、新入社員の約4割が「自分の良心に反しても会社のためなら上司の指示通り仕事をする」と答えているというのです。

 これは問題です。他国での調査がないから分かりませんが、おそらくこのような調査結果が出るのは日本だけではないでしょうか。いつから日本人とはこのような民族になってしまったのでしょうか。いえ、あるいは昔からそうなのかもしれません。一連の銀行の不祥事や、最近では大阪市の公務員の事件などをみてみても、以前から日本人とはそのような国民であったのかなという気がしないでもありません。
 
 最後に、ある人が述べた私が大好きな言葉をご紹介したいと思います。

 「奉仕とはこの地球に住む特権を得るための家賃である」

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2013年6月17日 月曜日

第13回(2005年4月) 病苦から自ら命を絶った男性

 ここ数年間、日本では毎年3万人以上が自殺しています。人口当たりの自殺者(いわゆる自殺率)を国際比較すると、日本は先進国のなかではトップです。全世界でみると第10位ですが、9位までは先進国とは呼べない旧ソビエト連邦の国や東欧諸国ばかりですから、先進国に限れば日本が第1位となります。

 メディアでは「リストラを苦に自殺」、「生活苦からの死」などといった報道が多いのですが、実は自殺の原因でもっとも多いのは「病苦」(健康問題)です。日本の自殺の特徴は「病気を苦にして自殺する人が多い」なのです。

 救急医療の現場にいると、自殺未遂の患者さんがよく搬送されてきます。自殺の方法はリストカット、薬物の大量服用、飛び降り、など様々です。なかには、本当は死にたくなくて他人(関係がうまくいっていないパートナーなど)の気をひきたいだけ、というものもなくはありません。

 しかしながら、本当に死を決意して自殺を図り、運よく(?)助けられたという症例もあります。また、そのときは救命されたけれども、再び自殺を図り完遂した、という人もいます。今回は、私が診察しその後自殺したある患者さんの話をしたいと思います。この男性は、若くして糖尿病を発症しました。生活習慣病の代表である糖尿病は、生活の不摂生からおこることが多いのですが、なかにはウイルス感染などをきっかけに、生活習慣とは関係なく発症するタイプのものもあります(これを「Ⅰ型糖尿病」と呼びます。生活習慣からくるタイプは「Ⅱ型糖尿病」です)。

 医療従事者と話をしても、「不治の病、要するに、治療方法がない病気もあるのだから、Ⅰ型糖尿病のようにインスリン自己注射という効果的な治療法がある病気はそれほど重病じゃない」と考えている人は少なくありません。しかし、本当にそうでしょうか。Ⅱ型糖尿病のように、自分の生活態度がもたらした病気であれば、「自業自得」の要素はあるかもしれません。けれども、Ⅰ型糖尿病は本人の態度とはまったく関係なく発症するわけです。そして、いったん発症すると、一生インスリンの注射を打たなければなりません。「注射だけ打っていれば命が助かるならたいしたことないじゃないか」、そのように思う人もいるかもしれません。

 しかしながら、実際はそんなに単純な話ではありません。注射といっても、一日一回いつでも好きな時間に打てばいい、というわけではないのです。インスリンは、毎日欠かさず、1日に2回もしくは3回も決まった時間に決められた量を打たなければなりません。それだけではありません。日に三度の食事も、ある程度決められた量を決められた時間に摂らなければならないのです。激しい運動も制限されます。そして、これらの制限に従わなかった場合、低血糖発作を起こし(血糖値は下がりすぎると非常に危険です)、意識を失い、救急搬送されることになるのです。
 
 私がある救急病院で当直の仕事をしているとき、救急車で28歳の男性の患者さんが搬送されてきました。男性の持病はⅠ型糖尿病。自殺目的でインスリンを大量に注射して意識をなくし、部屋を訪れた友人に発見されたのです。

 意識消失の原因が低血糖発作の場合、ブドウ糖を静脈注射すればすぐに意識が戻ります。この男性も注射後1分程度で意識が戻りました。そして、自分が病院にいることに気付くと、男性は我々医療従事者に暴言を吐きました。「なんで死なせてくれへんねん!」、そのような言葉を何度も叫びました。

 それでもしばらくすると落ち着きを取りもどし、やがてまともに話をしてくれるようになりました。Ⅰ型糖尿病を発症したのは18歳。その現実をしばらく受け入れられなかったことを教えてくれました。

 18歳と言えばいろんなこと新しいことをやりたい年齢であり、街に遊びに出掛けたり旅行に行ったりすれば、眠らずに夜通し起きていたいこともあるわけです。ところが、Ⅰ型糖尿病がありインスリンで血糖コントロールしなければならなくなれば、規則正しい生活を余儀なくされ、決まった時間に食事を摂り、インスリンを自己注射しなければなりません。もちろん暴飲暴食などできません。友達と話が盛り上がっていたとしても、徹夜で遊ぶなどということはできず、夜中に食事をしようという流れになっても彼だけはできないわけです。そういったことを18歳の青年に強いるのはかなり酷なことです。案の定、徹夜で遊んでエネルギーを過剰に消費し、その結果低血糖発作を起こしたことも何度もあったそうです。

 やがてそんな彼にも彼女ができました。病気のことを理解してくれて、お互いに心から愛し合っていたそうです。数年後には結婚の話もでました。

 ところが、彼女の両親に挨拶に行くと「結婚など絶対に反対だ」と言って彼の話を聞いてくれなかったのです。両親から「病気をもった障害者とうちの大切な娘を結婚させるわけにはいかない」と言われたというのです。結局、彼女の両親の反対でふたりは別れることになりました。

 自分は何も悪くないのにⅠ型糖尿病という病気になって、最愛の女性の両親からは障害者と呼ばれ、そして別れなければならなくなったのです。これほど辛いことがあるでしょうか。この頃から彼の精神状態は再び悪化し、精神安定剤がなければ眠ることもできなくなりました。

 社会からほとんど交流を断つような生活を数年続けた後、やがて社会復帰しました。仕事もみつけ、まともな暮らしをするようになったそうです。そんなとき、新たに彼女ができました。

 ところが、新しい彼女は、以前のパートナーとは異なり、なかなか病気のことを理解してくれなかったと言います。以前の女性が彼の病気をそのまま受け止め、悲しみも苦しみも分かち合ってくれたのに対し、新しい彼女は「病気なんか気にしないで前向きに生きていけばいい」ということばかり言います。女性のこういった励ましの言葉は分からないでもないのですが、彼が必要としていたのは悲しみを共に感じてくれる以前のパートナーのような存在でした。

 結局、その新しいパートナーの考えにはついていけず、しばらくして別れることになりました。そして、再び社会から距離を取るようになったのです。

 救急搬送され私が投与したブドウ糖のおかげで(のせいで)意識が戻った彼は、もう何もかもが嫌になった、と言いました。仕事を見つけても「病気のことで何かと差別的な扱いを受けることが多い」と言います。

 「先生、朝がくるのがどれだけ辛いことか分かりますか!」

 この言葉が私にとって最も印象的でした。毎晩眠れない夜を迎え、大量のアルコールと睡眠剤を頼りになんとか寝るようにはするのですが、朝起きたときに痛烈な苦痛がやってくると言います。「朝がくるのが辛い……」、言葉の意味は分かりますが、私には真の意味で共感することができるとは言えません。私が経験したことのない苦しみなのです。

 幸いこの日は救急外来を受診する患者さんがそれほど多くなく、私は時間がとれれば彼の病室に足を運び話を聞くようにしました。けれども、なんとか生きる希望を与えたいのですが、どんな言葉をかけていいかが分かりません。ひたすら黙って話を聞くことしか私にはできませんでした。

 やがて、彼は言いました。「今まで多くの精神科の先生にみてもらって、ひとりだけよくしてくれた先生がいた。明日その先生のところに行ってみる」、私はこの言葉を聞いたとき心底ほっとしました。もう一度「生」に向かって進んでくれるんだ、そう感じました。

 少しだけ嬉しくなった私は彼の病室を後にしました。その後、その病院を出る朝7時頃にもう一度病室を覗いてみたときには彼はぐっすりと眠っていました。「あとはその精神科の先生に任せよう」、そう思って病院を出ました。

 悲劇はその直後に起こりました。

 彼は私が病院を出たおよそ30分後、病室のカーテンを首に巻いて自殺を図ったのです。そして、今度の試みの結果は……、最悪のかたちでした。

 彼のこの死の話を聞いたのはその1ヵ月後でした。救急搬送されたときに同乗していた友人がたまたま夜間の救急外来にやって来て、たまたまその夜にその病院で当直業務をしていた私に出会ったために教えてもらえたのです。

 私は自己嫌悪に陥りました。彼が「精神科の先生のところに行く」と言ったのは、単に私を安心させるためだったのです。私が彼を死に追いやったのではないのか……。今もその思いは拭えません。

 この事件以来、私はⅠ型糖尿病の患者さんを診ると必ず彼のことが頭に浮かびます。私にとって特別の思い入れのある病気が、Ⅰ型糖尿病なのです。

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2013年6月17日 月曜日

12 医師免許更新はなぜ実施されない? 2005/4/2

政府の規制改革・民間開放推進会議が、小泉首相に提出する答申に盛り込む方針だった「医師免許の更新制導入の是非について05年度中に結論を出す」との項目が削除されることになりました。推進会議は、厚生労働省と折衝したうえで同意を得ていましたが、自民党の医療関係議員が強く反対し、削除に追い込まれたとのことです。

 医師免許の更新制は、ミスを続発する医師を排除するなどして医療の質を向上させるのが目的で、こうした医師の処分と再教育制度の確立も提言しようとしていました。

 読売新聞によりますと、医師会や医療関係議員らは、「これは医師イジメだ」と強く反発したとのことです。また、推進会議側には「医師の既得権益を守るためだ」と不満がくすぶっているそうです。

 ところで、欧米やオセアニア諸国では、一定の年数が経れば、すべての医師は免許を更新するために試験を受けなければなりません。おそらく先進国のなかでは、日本だけが免許更新制度がないのではないでしょうか。

免許更新制度がないということは、一度医師国家試験に合格してしまえば、よほどのことがない限り免許を剥奪されることはないということを意味します。

 更新制度の是非を議論する前に、この日本の特殊な制度をもう少しご紹介しましょう。刑事事件などを犯して、業務停止の処分を受けた医師が毎年発表されています。

 最近では2005年2月4日に、刑事事件などで有罪が確定した医師ら合計38人の処分が厚生労働省から発表されました。今回最も重かったのが、東京女子医大病院事件で証拠隠滅罪に問われ、懲役1年、執行猶予3年の有罪判決を受けた男性医師で、医業停止1年6か月を命じられています。この医師は刑事事件で有罪が確定していながらも、1年6ヶ月が経過すれば、医師として仕事に復帰することができます。もちろん復帰するための試験などもありません。

 実際の罪の重さと、事件の重大さは、必ずしも相関するとは限らず、また人によってもとらえ方が異なります。私は、個人的には、覚醒剤取締法や強制猥褻罪で刑事罰を受けたような医師が現場に復帰することに嫌悪感を抱いていますが、これらの法律で刑事罰を受けた医師でも1年以内の医業停止にとどまることがほとんどです。

 それでは、富士見産婦人科事件(不必要な手術で患者の子宮摘出などをした)や、あるいは殺人などのように、免許停止の処分を受けた医師はどうなるのでしょうか。

 実は、医師免許停止の処分を受けた医師も、一生医師の仕事に戻れないかというとそうではないのです。

 医師免許停止の処分を受けた医師であっても、一定期間おとなしくした後に、申請手続きをすれば再び医師として仕事をおこなうことができるのです。これは、医師免許停止の処分を受けても、医師国家試験に合格したという事実は消えない、という理由によるものです。そして医師国家試験というのは毎年合格率が90パーセント前後という非常に合格しやすい試験なのです。

 つまるところ、日本という国においては、いったん医師国家試験に合格してしまえば、あるいは少し乱暴な言い方をすれば、いったん医学部の入試に合格してしまえば、よほどのことがない限り、いえ、よほどのことがあっても、医師として医業に従事できなくなるということはないのです。

 医療のレベルが低い医者が、医業停止や医師免許停止の処分を受けるというわけでは必ずしもないと思いますが、今回、政府の規制改革・民間開放推進会議が、医師免許更新について言及したことは、そういった既存体質に風穴をあける、いい機会だと私は考えていました。

 ところが、現実は、日本医師会や医療関係の議員による反対で、医師免許更新についての議論は見送られることになりました。その理由が、「医師に対するイジメ」というのは少し幼稚すぎる反論ではないでしょうか。なぜ免許の更新が医師へのイジメになるのでしょう。

 日本医師会の偉い方々や、議員の先生方のように、それほど患者さんと接する機会のない方が反対しているわけですが、これは、実際に日々患者さんと接している医師の意見をどれほど反映しているのでしょう。

 いえ、日々臨床をしている医師よりも、患者さんの意見を尊重することが最も大切なことではないのでしょうか。

 私は臨床医ですが、一患者の立場に立てば、自分を診察してくれるのは、常日頃から知識と技術の習得に努め、新しい見解にも熟知しているような医師であってほしいと思います。医師会の偉い方々や議員の先生方は、そのあたりについてどのように考えておられるのでしょうか。

 なるほど、こういった偉い方々は、病院や医療従事者とのコネを持っています。したがって、自分や自分の身内が何か病気になったときも、そのコネを駆使して、適切な医療機関を受診したり、腕のいい医師を見つけることはたやすことでしょう。

 しかしながら、一般の市民はそういったネットワークを普通は持っていませんし、マスコミなどが発表している「いい病院のリスト」などというのは、はっきり言ってあまり当てになりません。(この理由については機会があれば別のところで述べたいと思います。)

 おそらく、国民の大多数は医師の免許更新に賛成なのではないでしょうか。政府の規制改革・民間開放推進会議が言うように、免許更新により、医療ミスを犯す医師が減少するかどうかは分かりませんが、少なくともすべての医師が、免許更新に向けて勉強することになるでしょうから、国民というか患者さんの立場からみればこれは歓迎されるべきことなのではないかと思います。

 では、我々一般の臨床医がどのように考えているかお話しましょう。この、医師免許更新については以前からよく言われていることであり、我々医師どうしの話でもよく話題になります。

 結論から言えば、私の知る限り、ほぼすべての医師が免許更新制度を望んでいます。たしかに、自分が更新の試験で合格点を取れなければ、少なくとも次の試験までは失業してしまうわけで、そういうリスクを抱えなければいけなくなるわけですが、それでも私の知り合いのすべての医師は賛成の立場にあります。

 もちろん私も直ちに免許更新制度を導入すべきだと考えています。

 自分が不合格になるかもしれないというリスクを抱えなければなりませんし、常日頃の勉強でも大変なのに、免許更新のための勉強もしなければならない、となると時間的にもかなりしんどくなることが予想されます。にもかかわらず、免許更新に賛成するのは、もちろんそれが患者さんのためになると考えているからです。医師というのは、日々自分の専門領域にかたよった勉強をしていますから、免許更新の試験があれば、自分の知識を見直すいい機会になるのではないでしょうか。

 最後に、他の政府の政策との比較をしてみたいと思います。今よく話題になる、「郵政民営化」と、「アメリカの牛肉輸入」について、ここでは考えてみましょう。どちらの問題も、国民にアンケートをとれば、賛成と反対に分かれるようです。賛成が圧倒的大多数とか、逆に国民のほとんどが反対しているとか、そういうことはないようです。

 ところが、この医師免許更新については、実際に調査したわけではありませんが、おそらく国民の大多数が賛成するのではないでしょうか。にもかかわらず、案が見送られたというのは、国民の意見をまったく無視していると言わざるをえません。そこのところを考えていただきたいものです。

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2013年6月17日 月曜日

11 経験多い医師ほどダメ医者?! 2005/3/15

先日、Annals of Internal Medicineという有名な医学雑誌に、The Relationship between Clinical Experience and Quality of Health Careというタイトルで、非常にショッキングな論文が掲載されました。なんと、「経験年数の多い医師ほど医療ケアの質は低い」ということが、これまでにきちんと認められている59の論文をメタ分析して明らかになったというのです。メタ分析というのは、簡単に言えば、しっかりとした論文を複数集め、それらを総合的に評価して分析するという方法です。このAnnals of Internal Medicineという雑誌は、世界中で最も有名な医学雑誌のひとつで、しっかりと科学的に分析・考察された論文だけが掲載されます。

 この論文によると、経験年数の多い医師は、標準的治療を行わずに、知識レベルも低下している、とのことです。本当にこんなことがあるのでしょうか。しかもこれは米国の医師の話です。私はこの論文のタイトルをみたときに、日本の医師を批判する論文なのではないかと思いました。というのは、日本の制度では、一度医師国家試験に合格してしまえば、その後必ず受けなければならない試験というものはないからです。このため、なかには卒業と同時にほとんど勉強しない医師もおり(私の周囲にはいませんが)、一定期間を経るごとに試験に合格しなければ、医師免許を剥奪される欧米やオーストラリアとは勉強に対する姿勢が違うのではないかと思ったからです。

 しかし、この論文では米国の医師を対象としています。なぜ、このようなことが起こるのでしょうか。この論文によると、経験年数を経れば経るほど、標準的な治療をおこなわなくなり、知識そのものも低下するとのことです。今の私にはなぜこのようなことが生じるのかよく分からないのですが、私なりに推測してみたいと思います。

 まず、経験を積めば積むほど、教科書に書いてある知識よりも自分の経験に頼ることが多くなる傾向にあるということが予想されます。例えば、経験のある医師であればあるほど、患者さんを一目見ただけで診断をつけることができたり、わざわざ全身を診察して、教科書的には必要とされている検査をしなくても治療を開始できたりということがあることが想像できます。そして、これが思わぬ落とし穴になることがあるのかもしれません。

 また、知識そのものが低下するという点においては、研修医あるいは、10年目以内くらいの医師であれば、日々勉強に勤しみますが、それ以上になると、毎日勉強するという習慣がなくなるのかもしれません。もちろん、こういうことはその医師によります。私が現在、臨床を習っている何人かのベテランの先生方は、常に新しい治療法や検査法の勉強をされています。一方、まだ研修医のくせにろくに勉強せずに、患者さんを積極的に診ようとしない医師もいます。だから、この論文が示しているように、経験年数の多い医師ほど知識不足というのは、全体から統計的にみた結果であって、すべての医師に言えるわけではないものと私は考えます。

 だから、もしかかりつけ医を探そうとしている人がおられたら、単に「経験の多い医師を信頼する」とか、その逆に「アメリカの有名な論文で発表されたんだから、あまり経験の多い医師はやめておこう」とか、そういうことを考えるのではなくて、そういう先入観を持たずに、自分の目で、その医師が名医かそうでない医師かを判断するしかないと思います。

 もしも気軽に雑談できる医師がかかりつけ医なら、この話をしてみるのもいいかもしれません。勉強熱心な医師なら、この論文の存在を知っているかもしれませんから、意見を聞いてみてはいかがでしょうか。

 もうひとつ、最近発表された論文で気になるものがあったので紹介したいと思います。それは、日本看護協会が発表した「新卒看護職員の早期離職等実態調査」という速報です。これによると、就職後1年以内で離職する新卒看護職員が増加してきている、とのことです。

 またこの速報には、新卒看護職員に対する悩みに関するアンケート調査も報告されており、悩みの第1位は「配属部署の専門知識・技術の不足(76.9%)」で、2位が「医療事故への不安(69.4%)」、3位が「基本的な看護技術が身についていない(67.1%)」とのことです。これをみたときに私は看護師の大変さを痛感しました。2位の「医療事故への不安」は当然だとしても(これは研修医にも言えることです)、1位の「専門知識・技術の不足」や、3位の「基本的な看護技術が身についていない」などというものは、新人看護師なら当然のことだからです。

 看護師になりたての新人が、いきなり専門知識・技術を持っていたり、高度な看護技術を持っているはずがありません。こんなこと誰が考えても分かります。もちろん看護学校のときに、病院内での実習はありますが、それだけでベテラン看護師と対等の、知識や技術が身につくはずがありません。

 にもかかわらず、このような回答が多いということは、新人なのにもかかわらず、実際の現場ではそれ相応のものが求められているということなのでしょう。これでは、就職後1年以内に離職する看護師が増加するのも無理はありません。せっかくやる気があっても、就職と同時に高度な専門知識や技術が要求され、それに応えられないと離職に追いやられる・・・、あきらかに異常です。

 実際、新人看護師が辞めようと思った理由の第1位は「自分は看護職に向いていないのかと思う」だそうです。いきなり高度な知識や技術が求められてそれに応えられないと、そう思うのも仕方ありません。

 2つの論文の趣旨だけをつなげてみると、医師は経験の多いほど能力が低く、やる気のある新人看護師はどんどん離職する・・・・、ということになってしまいます。これを端的に考えると、ある患者さんが手術をしてもらうために入院したときに、経験の少ない若い医師に手術をされて、術後のケアは年老いた看護師にしてもらう・・・ということになってしまいます。経験の少ない医師に手術されることほど不安なことはないでしょうし、また年老いた看護師だけにケアされるのもまた不安なものです(一般に若い看護師の方がすぐにベッドに駆けつけますし、患者さんからすると若い看護師には言えてもベテラン看護師には言えないこともあるのです。実際患者さんと話しをしていると人気のあるのは若い看護師の方が多いものです。もちろんその看護師によりますが・・・)

 さて、冗談はさておき、この2つの論文の大事な共通点を述べることにします。それは、医師も看護師も、さらには薬剤師や検査技師など他の医療スタッフも、常に高度な知識や技術を要求されているということです。

 今から医師を目指す人、また他の医療スタッフを目指す人もこれは覚えておいてください。医療に従事する以上は、生涯勉強を強いられます。医学部受験や看護大学の入試よりも、また医師国家試験や看護師国家試験よりも、仕事を始めてからの方が、はるかに多くの勉強をしなければなりません。こんなこと好きでないとできません。医療に興味がなくて、なんとなく資格がほしい、とか、収入がよさそうだからといった理由で、医療従事者を目指すととんでもないことになります。短い人生を無駄にしないように、進路選択は慎重に!!

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2013年6月17日 月曜日

10 過去問やってますか? 2005/3/2

『偏差値40からの医学部再受験』で、過去問が有用な理由をさんざん述べましたが、これを読まれている受験生の方は、どれくらい過去問に取り組まれたでしょうか。

 先日、過去問の有用性を証明するような記事が新聞に掲載されましたので、今日はそれを紹介いたします。

 2005年2月9日の日経新聞朝刊に、「35問中33問昨年と同じ」という記事が掲載されました。記事によりますと、静岡県の県立高校の国語の試験問題で、35問のうち33問が昨年と同じ問題を出題するミスがあったとのことです。もちろん、こんなことが発覚すれば静岡県教育委員会も放っておくわけにはいきません。国語のみの再試験をおこなうことになるそうです。

 「過去問を中心に勉強した人は、高得点を取れただろうが、結局再試験になるんだから何も得をしてないじゃないか」、そう思われる人もいるでしょう。しかし、私が言いたいのは別のところにあります。

 この高校は今回の出題ミスについて説明をしていますのでそれを紹介しましょう。同校によると、「複数作成した原案の中に前年度の設問が紛れ込んでおり、これらの中から一番完成度が高いものを選んだところ、ミスが起きてしまった」ということです。さらに、試験後に採点した教員が同校のホームページで前年度の出題を確認するまで、ミスに気付かなかったというのです。また、試験問題は同校の教員が作成し、校長らが点検したとのことです。

 つまり、同校のコメントを別の観点からみてみると、「質の高い問題を出題しようと思えば必然的に同じような問題に集中してしまう」ということになります。

 相変わらず、私のところに届く受験生の方々からの質問は、「谷口先生はもともと頭がよかったから、偏差値40でも医学部にいけたんですよ」とか、「暗記だけで医学部に合格できるはずがありません」といった内容のものが多くあります。けれども、そんなこと言う前に、たとえ確信が持てないとしても、一度は赤本の暗記というものをやってみればどうでしょうか。やってみると、それほどたいしたことはないのです。これも何度も言ってますが、過去問の暗記なんて、社会に出てから経験する苦労に比べれば何でもありません。

 それに、私はもともと頭がいいわけでは決してありません。たしかに、ほとんど勉強しなくてもテストだけはいい成績という人がたまにいます。こういう人は、いったん気合いを入れて勉強すると、短期間で難関な大学に合格する人もいるようです。だいたいこの手の人は理科系に多く、英語が苦手で数学が異常によくできるというタイプです。しかし私の場合は、普段からまったく勉強していなかったというわけではなく、実際、勉強すればそれなりに点の取れる英語が最も得意科目(といっても偏差値50から55程度)で、数学や物理はそれなりに勉強しても高くても偏差値40台でした。また、一般的にもともと頭の良い生徒というのは現代国語(古文や漢文は除く)はできるものですが、これも私の場合は、なにしろ現役時のセンター試験の国語が200点満点中68点でしたから、話になりませんでした。特に長文(論説文)は、与えられた文章が、何が書いてあるのかさっぱり分からなかったのです。

 数学にしても、物理にしても(私は医学部受験時は生物に変えましたが)、暗記中心の勉強で医学部程度なら合格できるのです。たしかに国語の場合は多少の時間がかかりますが、さまざまな文章を読むことにより、ある程度は自然に成績が上がっていきます。

 さて、話を少しグローバルな方向に向けてみましょう。先日OECDが、世界各国の15歳の学力の国際比較を発表しました。2000年の成績に比べて、日本は、読解力が世界8位から14位へ、数学的リテラシーは1位から6位へ落ちたということで、マスコミ各社が一斉に、日本人の学力低下が深刻であるといった報道をしました。(ちなみに科学的リテラシーは2000年と同様2位、今回から調査の始まった問題解決能力は4位です。)

 また、日本だけの調査においても、10年前に比べて、各科目とも成績が落ちているそうです。

 しかしながら、マスコミががなりたてるほど、この学力低下というのは本当に嘆かわしい問題なのでしょうか。それに、確かに数字だけを見れば国際比較で落ちているようですが、別の見方をすれば、落ちたといっても読解力で世界14位です。これがサッカーの国際比較で14位なら、多くの人が大喜びするはずです。

 私の意見としては、読解力が世界14位でOK、というものです。人間の能力や国際力というものは読解力だけで決まるものではありません。勉強の好きな人間は勉強すればいいし、スポーツで生計を立てたいなら、勉強はできなくてもかまわないと思います。そもそもこの統計に私が納得できないのは、全15歳児を対象にしているからです。勉強の好きな15歳だけを集めてこの比較をやり直すと、全然違った結果になるかもしれないではないですか。

 10年前に比べて学生の学力が落ちているという意見にしても、私の意見としては、10年前に比べていろんな方向で勝負する若い人達が増えたことは喜ばしいことと考えます。例えば、高校大学で好成績を残す学生が、生涯にわたってやりたい仕事をしているわけでも、高収入を得ているわけでもないことに気づいた人が増えてきています。そういう人達は、早い時期から手に職をつけることに専念したり、大学に行かずに海外へ渡り語学をマスターしたりしています。

 これは私の知人の知人の話ですが、その男性は、中学卒業と同時にオーストラリアに渡り、英語をマスターしました。その後はタイに行って、今度はタイ語を覚えました。今では英語にもタイ語にも不自由しなくなり、タイの日系企業からひっぱりだこです。あまりにもタイ語ができるので、例えば日本の外国語大学でタイ語を勉強した人よりも高収入の仕事をしているのです。おそらくこの人が、学力調査の試験を受ければそれほど高い得点が取れずに、「学力の低い嘆かわしい若者」となるでしょう。しかし彼にしてみればそんなこと、大きなお世話以外のなにものでもないわけです。

 さて、このあたりで今日の話をまとめてみましょう。まず、「勉強したくない人はしなければいい」ということを確認したいと思います。嫌いなことをイヤイヤやって、いいことがあるはずがありません。本人も周囲も不幸になるだけです。だから、これを読まれている人のなかにも、なんとなく医学部に行きたいけど本当は勉強が嫌いという人は、今すぐ医学部受験を中止して、ほかのことを見つけましょう。

 「何がやりたいか分からない」という意見もよく聞きますが、実はそういうときこそがチャンスなのです。あまり興味がなくても、いろんな仕事やアルバイトや、場合によってはボランティアなんかも試してみてはどうでしょうか。いろんなことをしていると価値観が変わったり、視野が広がったりして、思いもしなかったことに興味を持てるようになることも多々ありますから。

 次に勉強が好きな人、特に医学や医療に興味のある方は、現在の成績に関係なく、医学部を目指しましょう。私のように高校時代に偏差値40でも、国語の点数が200点満点の68点でも、過去問の暗記中心の勉強法で充分に合格できるわけですから。

 ただし、くどいようですが、本当に興味があるのかどうかは確認しておきましょう。よく、「医学には興味があるけど勉強は嫌い」という人がいますが、これはダメです。この人が医学に興味があると言っているのは「嘘」です。こういう人は、医者というイメージに憧れているだけであって、医学に本当に興味を持っているわけではありません。一応言っておくと、医者というのは、医学部受験時よりも医学部に入ってからの勉強の方がずっと大変ですし、医学部在学中の勉強よりも医者になってからしなければならない勉強量の方がずっと多いわけですから。

 けれども、本当に医学や医療に興味のある人が医者になれば、これほど幸せなこともありません。日々好きな勉強ができて、勉強したことが直接仕事に役立つわけですから。

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2013年6月17日 月曜日

9 コエンザイムQ10の弊害 2005/2/11

最近やたらと「コエンザイムQ10」の名前を聞きます。私は、この物質は医学部の2回生の生化学の講義で「ユビキノン」という名前で教わりました。体中のすべての細胞に含まれる補酵素で、加齢とともに減少していくそうです。現在どこの健康食品メーカーも躍起になって販売しており、その謳い文句をみると、「老化を防げる!」「心臓が元気になる!」「絶大な抗酸化作用がある!」「ダイエットにも効果あり!」「美肌にかかせない!」など、少し言いすぎだなと思われる表現も見られます。

 こういう物質はまだまだ解明されていない部分が多いですが、いくつかの調査で有用性が確認されていますから、積極的に摂取したいと考える人は多いでしょう。しかし、最近病院を受診する人のなかで、このコエンザイムQ10を摂取したことが原因の人が少しずつ増えているような印象を受けます。

 それは、コエンザイムQ10を摂取したことが原因で生じる薬剤性肝炎です。特に自覚症状はないのだけれど、健康診断の血液検査で肝臓の数値が高いと言われた、という人を調べてみると、このサプリメントが原因で肝臓を悪くしたという症例があるのです。サプリメントも含めて、どのような薬品を摂取してもアレルギーや、湿疹、そして肝炎などが生じる可能性があります。市場に出回っているサプリメントは数多くありますが、最近特に目立つのがこのコエンザイムQ10です。

 私は、コエンザイムQ10を摂取すべきでない、と言っているわけではありません。ただ、肝炎などのリスクがあるということを充分に理解してから摂取する必要があると言いたいのです。それから販売する側も、販売する際にはこのようなリスクがあるということを必ず伝えてもらいたいのです。

 患者さんに話を聞いていると、特にひどいと思われるのが、一般の薬局に置いてない海外メーカーのものを取り扱っている販売員です。とにかく体にいいからと、積極的(あるいは強引に)購入をすすめている販売員もいるようです。我々医師は患者さんに薬を処方する際、頻度の高い副作用についてはきちんと説明する義務がありますが、サプリメントの販売員はそのようなことを考えないのでしょうか。薬剤ではないといえども、サプリメントは体に有用な作用をもたらす反面、副作用にも注意しなければならないのです。

 あるとき、健康食品の販売をしている人と話をしていたときに、「医学部では栄養学を勉強しないから、医者は栄養学を分かっていない。サプリメントのことなら医者よりも自分達の方がよく知っている」と言われたことがあります。

 これほど大きな誤解もないでしょう。そもそも「医学部では栄養学を勉強しない」などということをどこで聞いたのでしょう。もちろん医学部でも栄養学を勉強します。たしかに「栄養学」という講座はありませんが、生化学や公衆衛生学のなかでしっかりと勉強してテストにも出題されます。コエンザイムQ10にしても「ユビキノン」という名称で習っています。「それだけでは不充分ではないのか」と言われるかもしれませんが、それを言うなら、内科にしても整形外科にしても皮膚科にしても医学部で学ぶ範囲だけでは不充分すぎて、とても実際に患者さんを診察することはできません。

 大学では基本的なことだけを学び、その後は自分で勉強するものなのです。勉強というのは教科書を読むのはもちろんですが、論文を読んだり、学会や研究会に出席したりということもあります。それに医者どうしの会話のなかから新しい知識を得ることも毎日のようにあります。

 私は「医者は健康食品の販売員よりも偉い」と言っているわけではありません。私が知らない最新のデータを健康食品の販売員が知っていることもあるでしょう。しかし、あたかも医者を敵対視するような考えは改めてもらいたいのです。我々医師は、常に健康に関する情報を求めています。ですから、健康食品の販売員の方からも学べることは学びたいですし、逆に学びたいことがあると言われれば喜んで知識をお伝えいたします。

 摂取する側にも問題があります。自分が摂取するサプリメントの基本的な知識はしっかりと持っていなければなりません。「自分にはむつかしすぎる・・・」と思うならば、自分の主治医に相談すべきです。患者さんと話をしていると、正しい知識をもって正確に摂取していると思われる人もいますが、何の知識もなく他人にすすめられたから、という理由でやみくもに摂取している人が少なくありません。これは危険です。
問題だなと思うのは、どうやら患者さんの中には「サプリメントを飲んでいることを医者に言うと怒られる」と考えている人がいるらしく、そういう人はサプリメントを服用していることを医者に隠す傾向にあります。実際、私が診察した、コエンザイムQ10により薬剤性肝炎を発症した患者さんも、そう考えていたらしくてなかなか話してくれませんでした。

 これは非常に危険なことです。この薬剤性肝炎のケースもそうですが、薬とサプリメントを併用することによって生じる危険性も問題です。例えば、セント・ジョーンズ・ワートというサプリメントがあります。これは別名オトギリソウと呼ばれている植物で、抗うつ作用があることから注目されています。実際ドイツでは抗うつ薬として医者が処方しているそうです。

 ところが、この薬草は同時に服用してはならない薬品がいくつかあります。心臓の薬や喘息の薬、それに偏頭痛の薬などで医者が頻繁に処方している薬剤と併用すると、重篤な副作用が出現することがあるのです。このセント・ジョーンズ・ワートというサプリメントは特に海外の健康食品の会社から発売されているものが日本でも出回っているようです。

 先日、ビタミンEに関する有害性が発表されて話題になりました。ビタミンEをたくさん摂取している人は、そうでない人に比べて死亡率が10%も増えることが分かったのです。日本ではビタミンEの1日の上限を1000mgとしていますが、この研究によると、1日に267mg以上摂取している人が危険だと言うのです。一般の薬剤もそうですが、サプリメントなどはまだまだ研究段階で、いったん有用とされたものが後に危険だと分かったということが多々あります。サプリメントを摂取する人も販売する人も常にこういう情報に敏感であらねばなりませんし、摂取によるリスクを背負わなければならないのです。

 サプリメント(健康食品)の摂取を考えている人は、できるだけ医師に相談する必要があると私は考えています。販売員が医者を信用していなかったり、摂取する人が医者に内緒にしたりするのは、医療不信が背景にあるからかもしれません。しかし摂取する人の健康を考えた場合、医師、販売員、患者の三者が協力していく必要があるのは間違いないでしょう。

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2013年6月17日 月曜日

8 専門医とプライマリケア医 2005/2/3

私が2年前にタイのエイズホスピスに行ったときのこと。そこで2年以上ボランティアとして働いているベルギー人医師に「何科のドクターですか?」と聞くと、「GP(general physician)」という答えが返ってきました。去年の夏、再び同じエイズホスピスに行ったとき、同じようにボランティアで働いているアメリカ人に同じ質問をしてみました。すると返ってきた答えはまたもや「GP」でした。

 日本の医者に同じ質問をすればどうなるでしょう。「GP」と答える医者はほとんどいないでしょう。この「GP」という言葉は日本では一般的ではないかもしれません。同じような意味で「プライマリケア医」「総合診療科医」「家庭医」などといった言い方があります。けれどもこういう答え方をする医者もあまりいないでしょう。

 実は欧米では、循環器内科医、整形外科医、などと同系列に「GP」という立場があるのです。一例としてUKのシステムを紹介しましょう。UKでは医学部を卒業と同時に、「GP」になるか専門医になるかを決めなければなりません。GPを選択すれば、各科のcommon diseaseを一通り勉強することになります。専門医を選択すれば、ひとつの科を特化して勉強することになります。専門医として認められるようになるにはかなりの修行をつまなければならないのですが、これをクリアすれば、「心臓外科医」とか「脳外科医」などといった称号を与えられることになります。どの専門医を目指すかによって、研修というか修行する期間、要するに専門試験を受けるまでの期間が決められており、例えば脳外科専門医を目指すのであれば、10年間以上も研修期間が必要となります。

 一方日本では、医学部卒業と同時にひとつの医局に入局するのが一般的です。医局というのは「整形外科」とか「血液内科」とかひとつの専門分野に特化した診療科のことです。2004年から卒後研修が必須化され、卒後2年間はすべての医師は、プライマリケアを主体とした研修を受けなければならないということになりましたが、結局2年たてばほとんどの医師はどこかの医局に入局することになると言われています。それに研修期間の2年間も、1年近くは自分の決めた専門の科だけの研修を受ける研修医が多く、充分にプライマリケアを履修できるわけではありません。

 つまり、日本のシステムでは、プライマリケアを主体とした2年間の研修が必須化されたとはいえ、ほとんどの医師は専門医になるというわけです。このため大病院の勤務医はもちろん、多くの開業医でさえ、自分の専門の領域しか診ることができないという事態にあるわけです。

 日本ではプライマリケア医(GP)がまったくいないのかというとそういうわけではありません。例えばアメリカでプライマリケアの実習を受けた後、日本で開業している医師や、日本で積極的にプライマリケアを勉強して地域のかかりつけ医になっている医師も確かにいます。しかし数はそれほど多くはないでしょう。

 患者さんの意識の点からみてみても、プライマリケア医という言葉がまだまだ一般的には普及していないことからも分かるように、多くの人は何か病気になれば専門医を受診しようとします。なかには単なる風邪でも大病院の専門医を受診しようとする人もいます。とりあえず近くの開業医の内科を受診しようとする人もいて、地域の開業医の医師がプライマリケア医の立場にあることもありますが、すべての開業内科医が、自分の専門分野以外の領域も診ようとしているわけではありません。

 したがって、風邪をひいたことをきっかけに近くの内科開業医を受診したときに、ついでに以前から気になっている、例えば、腰痛、水虫、ニキビ、残尿感、めまい、抑うつなどを相談しようと思っても、他科を受診するように言われることも多いのです。
 これでは患者さんは、自分の体のことで多くの科の主治医をもたなければならないことになります。今の例で言えば、この患者さんは、内科の他に、整形外科、皮膚科、神経内科、泌尿器科、精神科の主治医をもたなければならないことになります。

 大病院にいけば、すべての科があるから、大病院を自分のかかりつけの病院にしようと考える人もいるでしょう。しかし最近では、大病院を受診する際には、開業医で紹介状をもらってくるように注意されますし、紹介状なしで受診を希望すると、1500円から10000円程度のお金が余計にかかります。それに大病院でこれだけの科を受診しようとしても1日では不可能です。ひとつの科を受診するための待ち時間も相当長くなります。 

 ではどうすればいいかと言うと、それは「プライマリケア医のかかりつけ医をもつこと」です。そしてそのかかりつけ医に健康や病気のことを何でも相談してみることです。プライマリケア医は、特定の疾患の専門医ではありませんから、もしも気になっている症状が専門的な治療を要するものであれば、そのプライマリケア医では充分に治療することができません。しかし、その場合プライマリケア医は適切な大病院や専門医に紹介状を書くことになります。紹介状があれば、大病院の受診もスムーズになるわけです。

 実際にプライマリケア医のみることのできる疾患はどれくらいあるのか疑問に思われる方もおられるでしょう。とりあえずプライマリケア医を受診したけど、紹介状を書いてもらうだけで、ほとんど治療してもらえず、結局二度手間になってばかりでは意味がないからです。

 実は、全疾患のおよそ9割程度はプライマリケアの範疇だと言われています。例えば、めまいを例に考えてみましょう。めまいというのは原因が様々で、人によって受診しようとする科はまちまちです。(目が舞うから)眼科、耳鼻科、脳外科、内科、神経内科など同じめまいでも人によって考えている専門家が違います。もちろん立っていられないようなめまいであれば、直ちに救急車を呼んで適切な病院へ搬送してもらうべきですが、それほど重症でもない場合は、まずはプライマリケア医を受診するのが賢明です。実はめまいを訴える人の大半はプライマリケアの範疇なのです。

 最も賢く医者を受診するためには、プライマリケアを自分のかかりつけ医にすることが最善の方法だと私は考えています。

 もちろん、日本中のすべての医師がプライマリケア医になっては困ります。専門的治療のできる医師が不在では治る病気も治らなくなってしまからです。プライマリケア医も専門医も両方が必要とされているのです。

 例えが悪いかもしれませんが、コンビニを考えてみましょう。コンビニでは日常生活で必要なものの多くを買うことができます。だから必要なものがあれば、とりあえずコンビニに行ってみようとなるわけです。しかし、コンビニでは新鮮な魚介類を買うことはできませんし、パソコンも売っていません。書籍もごくわずかしか置いていません。したがって、高級で鮮度の高い魚を買うためには、魚屋に行く必要がありますし、同様にパソコンならパソコンショップ、書籍なら本屋に行くでしょう。これらを同時に求めようと思えば百貨店に行けばいいわけです。

 つまり、この例では、コンビニがプライマリケア医、魚屋・パソコンショップ・本屋が専門医、百貨店が大病院ということになります。コンビニだけですべてまかなえるかというとそうではないように、プライマリケア医だけでは不充分で、プライマリケア医と専門医が協力しあうことによって最も効果的な治療がおこなえるわけです。最初にプライマリケア医を受診して、大病院あるいは専門医に紹介されそこで手術を含めた専門的な治療を受け、症状がよくなったので再びプライマリケア医が経過をみる、という流れが最も効果的なのです。

 そして最近では、専門医はさらなる専門領域に特化していく傾向にあり、これは歓迎されるべきことだと思います。例えば、従来の消化器外科医が取り扱う範疇は、胃、肝臓、胆嚢、膵臓、大腸などの手術ですが、これをもっと特化したような病院もあります。

 例えば、大阪市立総合診療センターの消化器外科は、胃癌の治療成績が日本一です(日経新聞2005年1月9日朝刊)。この病院では、ほとんどの胃癌手術を一人の外科医に任せ、専門性を高めているそうです。その医師によると、「総合病院では様々ながんを担当するのが普通だが、一つのがんに集中できれば自然と技術力が上がり一人ひとりの病状にも柔軟に対応できる」のだそうです。

 治療する領域を特化した専門医と、プライマリケア医(GP)。同じ医師といっても全く異なる診察・治療をおこなっており、そのことを患者さんにも理解してもらえれば、患者さんにとっても、また行政の立場からみても最も効率のいい医療が実践できるのではないでしょうか。

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2013年6月17日 月曜日

7 義援金のナゾと正しい救援活動 2005/2/3

2004年12月26日の早朝、マグニチュード9.0の大規模な地震が北スマトラの西海岸を襲いました。地震によって発生した高さ10mにも及ぶ津波は一時間でインド洋沿岸500kmにわたって波及し、インド、インドネシア、スリランカ、タイ、モルディブ、ミャンマー、セーシェル、ソマリアの沿岸地域を破壊したそうです。これまでに、約13万9,000人が命を落とし、そして1万8,000人がいまだ行方不明となっているそうです(2005年1月8日現在)。今後不衛生な環境から、コレラやマラリアなどの感染症が蔓延し、さらに多数の被害者が出ると予想されています。
 
 津波の被害者に対する義援金の募集が、多くの団体でおこなわれています。私はこのような被災が生じたときにいつも疑問に思うことがあります。なぜ、多くの団体がそれぞれの基金を立ち上げる必要があるのでしょうか。例えば、ほとんどのテレビ局では、独自に新たに口座を開設し、その口座に義援金を振り込むように視聴者に語りかけています。そして一定の期間を経たところで、ユニセフ、日本赤十字、国境なき医師団などに寄付するというのです。

 それならば、はじめからこれら機関のホームページのアドレスや、口座番号をテレビで知らせればいいのではないでしょうか。私はテレビ局のエゴを感じずにはいられないのです。テレビ局は、一定の期間がたったところで、「全部で○○円集まりました。皆様ありがとうございました。」と言います。テレビ局としては、義援金の金額が、どこどこの局に勝ったとか、負けたとか、そういうことを気にしているように思えてならないのです。 

 テレビ局などの大きな組織では、確実に然るべき機関に義援金が寄付されるものと思われますが、これが聞いたことのないような組織であれば、本当に被災者に使われているのかどうかも疑問です。本当に被災者のことを考えるのであれば、そもそも新しく基金を始める必要などはないはずです。「ユニセフや日赤に義援金を送りましょう!」と宣伝すればいいわけですから。

 もしもこれを読んでくれている人のなかで、スマトラ沖地震による津波の被災者に義援金を送りたいと考えている方がおられるなら、私は、直接ユニセフや日赤に募金することをすすめます。その理由をいくつかご紹介しましょう。

 まず、自分の寄付した義援金が確実に被災者のために使われていることが実感できます。例えば、街角で募金を呼びかけているような、聞いたこともない組織に寄付しても本当に被災者の元に届いているのかどうか分かりません。随分前の話ですが、街角で募金箱を持って募金活動をしている若い男が、その募金箱から1000円札を取り出し、ファストフード店に入っていったのを見たことがあります。もちろん、すべての街角の募金活動をしている人がそんなことをしていると言っているわけではありませんが、ユニセフや日赤などに寄付をすれば、「自分のお金が本当に被災者の元に届いているのだろうか」などといった心配をしなくてもいいわけです。

 次に、これらの機関に一度募金をして名前、住所などを登録しておくと、定期的に世界中で困窮している人たちの情報や、募金の情報などを知らせてくれるという利点があります。こういった情報を定期的に入手することによって、世界の状態がわかり、ときに新聞では報道されていないようなことも知ることができます。そして、自分が困窮している人たちのために何ができるのかといったことを考える機会を得ることができます。衛生状態がよくてモノにあふれた現代日本からは考えられないようなことが、スマトラ沖地震以外でも今も世界の各地で起こっています。

 そういったことを常日頃から意識することによって、世界観が変わることもあります。実際に私の知人に、以前はブランド物を買ったり高級クラブに通ったりすることを楽しみにしていたけど、カンボジア難民に寄付したことをきっかけに、奉仕の必要性・重要性を認識し、以降は収入の一定の割合を寄付に使うようになったという人もいます。

 もうひとつは、ユニセフや日赤などの組織に寄付したお金は、寄付金控除の対象となって、確定申告をすればいくらか減税されるということです。だから、インターネット上で寄付する場合は、必ず領収書をもらうようにしましょう。例えばユニセフでは募金後数ヶ月以内に領収書を自宅に送ってもらうことができます。もしもテレビ局などに寄付金を送り、それがユニセフに送られたとしてもユニセフの領収書は発行してもらえず、テレビ局に対する寄付では、所得税控除の対象にならないのです。

 「テレビ局経由でも直接ユニセフでも結果は同じじゃないか」と言う人もありますが、ひとつには、この寄付金控除の問題があるわけです。それに、ユニセフ側としても、一定の期間を経てからテレビ局経由でまとまった寄付金が送られてくるよりも、その都度個人から直接送られてくる方が、寄付金が早い段階で集まるので利用しやすいのではないでしょうか。

 被災者への義援金という話になると、必ず「カネも大事だけどヒトを派遣することが大切」という議論がでてきます。今回も津波の被害者を救うために、世界各国から救援部隊が現地に駆けつけています。日本も自衛隊の派遣が迅速におこなわれましたし、政府から派遣された、医師を含む医療従事者で構成される国際緊急援助隊も現地で活躍しているそうです。医療ボランティアをおこなっているNPO法人のAMDAもすぐに医療従事者を派遣しました。

 自衛隊や医療従事者でない一般の人のなかにも、現地に行ってできることがあるなら何でもしたいと考える人も多いでしょう。実際、私のもとにも「お前は行かへんのかい」とか「ボランティアに行きたいねんけどどうしたらええんやろ」という声が寄せられています。

 私個人としては、医療ボランティアをおこないに現地に行きたいのですが、現在身内が入院中のこともあって大阪を離れられない状況のため、現時点では寄付金での協力のみとさせていただいています。

 「ボランティアに行きたい」という人には、私はとりあえず現地に行くことをすすめています。やみくもに行っても混乱するだけだから組織に属していないなら行かない方がいい、という人もいますが、私はそうは思いません。実際には、行ってみると被災者の役に立つことはいくらでもあります。それに、行ってみないことには本当の状況が分かりません。マスコミの報道をみていても実際のところはよく分かりません。水が足りないのか、感染症が問題なのか、治安の悪化が問題なのかといった問題は、日々変わりますし、実際に自分の目で確かめるのが一番確実なのです。

 とりあえず現地に赴き、何が問題になっていて、自分には何ができるのかということを考えて整理し、その上で、現地で中心的な立場で救援活動をおこなっている人に、自分のできることを伝えて指示やアドバイスを求めればいいのです。

 ただし、最低限のマナーは必要です。まず最低でも英語ができること。現地の言葉ができるとなおいいです。それに健康であることも絶対必要です。健康を害していれば自分が足手まといになることもあるからです。それから、被災における救援活動の基礎知識は持っていなければなりません。こういった最低限のマナーを無視して「やる気だけはありますので!」といったところで、なかなか使いものにはなりません。

 しかしながら、英語については、とりあえずは日本の中学程度のものができればなんとかコミュニケーションは取れるでしょうし、救援の基礎知識は本を一冊読めばある程度の知識が身につきます(例えば『災害初動期における活動マニュアル』へるす出版)。やる気のある人はとりあえず行ってみてはどうでしょうか。

 ただし、ボランティアには相当のリスクが伴うことも覚えておいてください。インドネシアでの大量の子供の誘拐(人身売買)は大きく報道されているようですが、他にも、火事場泥棒や強盗が各地で起こっているようです。タイでは被災地の簡易トイレを盗撮していた男が捕まったそうです。阪神大震災のときも、被災者に対する強盗やレイプがいくつもおこりました。こういった被害は被災者だけでなく、善意のボランティアにもふりかかることがあります。そういったリスクもあることを忘れてはいけません。

 地震や津波というのは予期せぬときに突然やってきます。明日にでも世界のどこかで起こるかもしれません。自分にも災害が襲ってくるかもしれません。いつの時代もそうですが、我々は常に災害が起こりうるということを頭の片隅においておく必要があり、他人が被害にあったときに何ができるのかということを考えておかなければならないと思います。

 今回の津波をもう一度振り返って、今自分に何ができるのか、できるとすればそれは寄付なのか行動なのか、そして助け合いの意味を改めて考えてみてはいかがでしょうか。

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2013年6月17日 月曜日

6 研修医は本当にしんどいか 2004/7/8

「研修医って大変なんでしょ」

 私は現在3年目の医師で、いわゆる「研修医」は卒業したことになりますが、この言葉を研修医の2年間の期間にどれほど聞いたか分かりません。最近はテレビなどで、休みなく働く研修医の姿がえがかれたりして、世間の方々に「研修医は大変な職業」という認識ができあがっているようです。

 98年には関西医大附属病院の研修医が26歳という若さで急性心筋梗塞で死亡し、また99年には横浜市立大医学部附属病院の研修医がうつ病から自殺にいたりました。これらの死亡はともに「過労死」と認定され、世間に研修医の大変さが認知されるようになりました。

 けれども本当に研修医とはそんなに大変な職業なのでしょうか。たしかに研修医は早朝から深夜まで病院に拘束されますし、深夜に患者さんが急変したり、緊急処置の必要な患者さんが運ばれてくれば、寝ていても電話で起こされます。もちろん休日などほとんどなく、私の場合も、1年目のときに1週間休暇をいただいてタイ国にボランティアに行った以外は、2年間で丸一日休めたのは10日ほどです。そのうえ、研修医としての給料だけではとうていやっていけませんから、月に何度かは、他の病院で当直のアルバイトをすることになります。

 こうやって文章にしてみると、たしかに研修医とは決してラクな職業ではなさそうですが、私は他の職業と比べて、研修医だけが大変な職業とはとうてい思えません。

 というのは、私は医師になるまでアルバイトも含めれば、20近くの仕事をしていますが、どの仕事もそれなりに大変で、研修医だけが特殊な仕事であるなどとはまったく思えないのです。

 例えば、私が18歳のときにアルバイトをしていた旅行会社では、社員の人は一年間で丸一日休めるのは1日あるかないかでしたし、ほぼ毎日早朝から深夜まで激務に追われていました。朝5時に起きてパンフレットを街頭に配布しにいき、出勤するとまず掃除をおこないます。昼間は通常業務に加え、お客さんのクレーム処理などの仕事もあります。ときには事務所に怒鳴り込んでくるお客さんにも対応していました。お客さんに殴られた蹴られたということも一度や二度ではありません。そのうえ聞けばびっくりするような安い給料しかもらっていないのです。

 アルバイトの私は、主に沖縄などの観光地で働いていましたが、仕事でミスをすると眉毛を剃られたり、熱湯をかけられたりというイジメもありました。(ただしこれらの「イジメ」は陰湿なものではなく、文章では上手く表現できませんが、笑いのあるイジメであり、イジメられる方もそれほど苦痛ではなかったのですが・・・)

 また、私が19歳のときにウエイターのアルバイトをしていたディスコでは、お客さんからだけではなく、先輩方からも殴る蹴るの「ご指導」を受けていました。水商売の世界というのはその業界に一日でも早く入った人間がエラいという社会ですから、19歳の私が、中学卒業と同時にその世界に入った17歳の2年目の「先輩」から蹴られるということも日常茶飯事だったというわけです。

 私が正社員をしていた会社では、さすがに暴力というものはありませんでしたが、製品の納期が間に合わないときなど、寝る暇もないほど働いていました。

 一方研修医というのは、ときどき泥酔した患者さんに殴られるというようなものはありますが、先輩医師から暴力をふるわれるということはまずありませんし、多くの患者さんは研修医であったとしても敬語で接してくれます。また、看護師など他の医療従事者もずっと年齢が下の研修医に対して、丁寧に敬語で接してくれることが多いといえましょう。10年以上も先輩の看護師さんや検査技師さんが、入ったばかりの研修医に対して、どうしてそこまで丁寧に接する必要があるのだろうと、私はいつも感じていました。

 例えば、患者さんの縫合処置をするとき、道具をすべて用意するのは看護師さんで、処置が終われば後片付けをするのも看護師さんです。薬を決めるのは医師ですが、それを準備したり会計をしたり事務的な説明をするのはすべて他の医療従事者です。医師がすることは処置と病状の説明だけです。夜間の当直のときなど、患者さんからの電話をとったり注射や採血をしたりするのはすべて看護師さんで、医師の診察と処置が必要なときだけ、起こされるだけで、それらがなければずっと寝ているだけです。

 私の場合を例にとってみても、勤務時間というか拘束時間だけをみてみると、週に100時間を越えますが、そのなかには寝ている時間もけっこうあるのです。

 看護師さんの方が、勤務時間はたしかに研修医よりは短いでしょうが、その大変さはずっと上なのです。

 もしも研修医が本当に大変な仕事なら、離職率が高くなるはず。しかしながら、実際のところ、私の知る限りでは、仕事のキツさがイヤでやめた研修医というのはほとんどいません。データがないのではっきりと数字で示すことはできませんが、他の職業と研修医の離職率を比べると、天と地ほどの差があるに違いありません。

 では研修医は気楽な仕事かというと、そういうわけでもありません。研修医が本当の意味で大変なのは、治らない患者さんを目の前にしたときでしょう。こういうときに本当のしんどさが訪れるのです。教科書を読んでもどうしていいか分からないですし、先輩医師に助言を求めても、そのしんどさが軽減されることはほとんどありません。
 
 「研修医は大変な仕事か」という質問に答えるとするならば、不治の病や死を目前にした患者さんやその家族と接するときに、他の職業ではなかなか感じることのないしんどさがあるということになります。
 
 「医師になりたいけれど(特に研修医の)仕事って相当大変なんでしょうか」こういう質問をする人にこの文章が参考になれば幸です。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL