マンスリーレポート

2020年5月6日 水曜日

2020年5月 ポストコロナをどう生きるか

 ほんの2カ月前までは、まだ世界中の多くの人が「インフルエンザをちょっと重症化させただけ」と考えていた新型コロナ。今も楽観論を唱える人がいるのは事実ですが、それは危険な考えです。1918年に流行が始まったスペイン風邪に例える人もいて、そういう人たちの一部は、死亡数の比較を持ち出して「新型コロナの方がずっと軽症」と言います。たしかに数の上ではそうなのですが、事の深刻度は新型コロナの方が圧倒的に高いのは間違いありません。新型コロナは医療のあり方を一転させ、そして社会にも歴史を塗り替えるほどのインパクトを与えています。今回は、いわば「ポストコロナ」の社会についての私見も述べたいと思います。

 先に新型コロナの「重症性」について確認していきましょう。私自身が新型コロナを「これは大変なことになる」と確信したのは2月7日、中国の武漢中心医院の30代の医師・李文亮氏が死亡した時でした。通常のインフルエンザで30代の医師が死ぬことはありません。その後中国では20代の医師が死亡し、欧州では大勢の若い医療者が他界しています。当初は、小児の重症化はないと言われていましたが、(日本での報告は幸いまだないものの)欧米では20歳未満の子供たちも犠牲になっています。日本人は(BCG接種のおかげで、という人もいますがこれは疑わしいです)重症化しないと言う声がある一方で、ニューヨークで新型コロナに感染した2人の日本人医師(30代と40代)は「死」を覚悟したことをメディアの取材に答えています(参考:「NYの日本人医師感染 軽い違和感が、まさか死の恐怖に」 「新型コロナに感染したNYの日本人医師が警告。「自分は『無症状感染』かもと思って行動して」)。

 なぜ重症化するのかを確認しておきましょう。当初新型コロナの正体は「肺炎」と言われていました。感染症としての肺炎は通常は一過性です。免疫力が低下している高齢者や持病のある人なら重症化することはあり得ますが、打ち勝てば、つまりウイルスと免疫系の”短期間の決戦”で免疫系が勝利すれば「完全治癒」します。

 ところが、新型コロナはそういう単純な感染症ではないのです。それを理解する上でのキーワードが「ACE2受容体」「サイトカイン・ストーム」「血栓」「血管内皮細胞炎」の4つです。順にみていきましょう。

 ACE2受容体はいろんな細胞の表面に存在している蛋白質のことです。新型コロナウイルスは、このACE2受容体を見つけると、ここからヒトの細胞内に侵入していきます。肺の細胞のACE2受容体から侵入すると肺炎が起こります。そして、ACE2受容体は肺だけでなく、心臓、腎臓、腸管、血管などの細胞にも幅広く存在しています。ということは、ウイルスは肺だけでなく他の臓器も標的とするわけです。3月以降全世界で心疾患での死亡が増えていることが指摘されています。このなかのいくらかは新型コロナウイルスが直接心臓の細胞を傷つけた可能性があります。当初は少ないと言われていた新型コロナが原因の下痢もかなり多いことが分かってきており、この原因もACE2受容体で説明できます。

 次に「サイトカイン・ストーム」を説明しましょう。「ストーム」は嵐のことですから、サイトカイン・ストームとは、サイトカインがまるで嵐のように血管内あるいは臓器に大量にばらまかれることを指します。ではサイトカインとは何かというと、特定の物質を指すわけではなく、平たくいうと免疫に関連する様々な小さな物質の総称です。サイトカインには炎症を引き起こすものと抑制するものがあって、通常は(つまりたいしたことのない感染症の場合は)それらが効率よくつくられて病原体がやっつけられ、一時的に傷んだ組織は回復します。ところが、ストームの状態になってしまうともはや”統制”はとれず、いろんな物質がコントロールされないままに乱造されまくります。こうなると大切な臓器まで痛めつけられることになり、多くの臓器が機能不全となり、ここまでくると一気に致死率が上がります。詳しいメカニズムは分かっていませんが、どうも新型コロナは(従来のコロナウイルスやインフルエンザとは異なり)免疫システムをかき乱し、このサイトカイン・ストームを誘発しているようなのです。

 次は「血栓」です。血栓とは血の塊(固まり)のことで、これが細い血管を詰まらせると、その周囲の臓器に酸素や栄養がいきわたらずダメージを受けます。脳の小さな血管に血栓がつまるとその部分は「梗塞」をおこします。血管が次々とやられると、頭痛、麻痺、意識障害などが現れます。3月以降、世界中で若年者の脳梗塞が相次いでいるという指摘があり、このうちいくらかは新型コロナが原因の血栓の可能性があります。血栓が重大な臓器障害をおこすのは心臓や肺だけではありません。「Washington Post」によると、米国の舞台俳優Nick Cordero氏は新型コロナに感染し血栓のせいで足の指に血液が届かなくなり、その結果右足を切断しました。

 新型コロナに血栓が関与しているのではないかと疑われた理由のひとつが感染者の血液検査でd-dimerと呼ばれる項目が上昇していることが分かったことです。通常の風邪や肺炎ではd-dimerは上昇しません。そこで太融寺町谷口医院では新型コロナを疑ったときはd-dimerを測り、上昇していた場合は症状が軽症であったとしても新型コロナの可能性があることを説明し自宅待機をしてもらっています。

 ここでひとつの「楽観論」がでてきます。もしも新型コロナの増悪因子が血栓だとするならば、血栓溶解療法を実施すればいいではないか、という考えがでてくるからです。実際、それを検証した研究もあります。ある研究によれば、血栓を溶かす薬のヘパリンを新型コロナの重症例に投与すると致死率が20%低下したというのです。しかし、たったの20%です。先述のWashington Postによれば、抗凝固剤(おそらくヘパリン)を投与しても血栓が溶解しない例が異常に多く米国の医師たちが無力感に苛まれています。

 また検死(新型コロナで死亡した人の解剖)をおこなうと全身の臓器に微小な血栓ができていたことが分かりました。細い血管が詰まればその臓器は一気に機能不全になります。上述した足切断の他、例えば、網膜の血管が詰まって網膜症(進行すると失明)、腎臓の血管が詰まって腎不全になる可能性もでてきます。また、脳の血管が詰まると、脳梗塞以外に認知症のリスクも出てきます。

 最後のキーワードが「内皮細胞炎(endotheliitis)」です。いったん肺の細胞から侵入した新型コロナウイルスは血流に乗って全身に運ばれます。そして、血管の内側には内皮細胞と呼ばれる細胞があります。医学誌『Lancet』に掲載された論文によれば、新型コロナの患者の広範囲の臓器に内皮細胞炎が起こっていることが分かり、さらに、血管内皮細胞内に新型コロナウイルスが存在していることも確認されています。要するに、人間の身体には隅々まで血管が存在するわけですから、新型コロナはどの臓器にも攻撃をしかけることができる可能性があるのです。

 今紹介した4つのキーワード、すなわち「ACE2受容体」「サイトカイン・ストーム」「血栓」「内皮細胞炎」はそれぞれ別にではなく、複雑に関連していると考える方がいいでしょう。例えば、ACE2受容体から侵入したウイルスが内皮細胞炎を起こし、その結果サイトカイン・ストームと血栓が生じる、という感じです。血管が全身に存在する以上、これからもどのような症状が出現するか分かりません。

 やっかいなのはまだあります。いつ終わるか、です。新型コロナウイルスはB型肝炎ウイルスやHIVが”武器”にしている「逆転写酵素」は持っていません。よって、ウイルスがヒトの遺伝子に潜り込んで棲息するということはありません。ですが、例えばヘルペスウイルスや水痘ウイルスのように身体のどこかに潜んで完全に死滅しない可能性はあるかもしれません。また、ウイルスが完全に死滅したとしても(私は死滅すると思っていますが)、いったん生じた障害は元に戻らない可能性(これを「不可逆性変化」と呼びます)があります。例えば肺の間質炎がそれなりに進行すると不可逆性変化が起こり完治せず、いくらかの障害を残す可能性があります。そうなると日常生活に支障がなかったとしても、例えばスポーツでのパフォーマンスが落ちることが予想されます。日本でもプロの野球選手やバスケットボール選手の感染が報告されました。元通りのパフォーマンスを発揮できるのかどうか、私は不安に思っています。

 まだあります。微小な血管のレベルで障害が起こって元に戻らないのだとしたら、ありとあらゆる症状がでてくる可能性があります。これからは原因不明の微熱、疲労感、浮腫、関節痛、頭痛、腹痛、さらには不眠、イライラ、不安感、抑うつ状態などを考えるときに、新型コロナの感染歴を調べる必要があるかもしれません。あまり馴染みがない感染症とは思いますが、ちょうど「Q熱」に似ています(参考:「原因はリケッチアと判明も…やはり不可解なQ熱」)。Q熱は感染すると病原体が死滅したとしても数年後に疲労感や不眠、抑うつ感を起こすことがあるのです。

 新型コロナを楽観視してはいけないという点についてある程度納得いただけたのではないかと思います。では、世界はどう変わるのでしょうか。文章がかなり長くなってしまったのでここではひとつだけ述べておきます。それは「初対面でマスクを外すのが無礼な行為になる」ということです。なぜなら、新型コロナが他人にうつるとき、その4割以上が症状の出る前の数日間に感染させていることが研究により明らかになっているからです。数日後に風邪をひかない保証は誰にもないでしょう。ということは、常に他人の前ではマスクを外せないことになります。
 
 これは世界史を塗り替えるくらいの大転換、いえ「パラダイムシフト」と呼んでもいいでしょう。「よほど親しい関係にならない限り他人の前でマスクを外せない」が、今後どれくらい世界に影響を与えることになるのか……。

(この続きは今月号(2020年5月号)の「はやりの病気」で述べます)

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2020年4月6日 月曜日

2020年4月 新型コロナ騒動で偶然発見できた長年探していた名言

 前回のマンスリーレポートで、新型コロナが流行しだしてから他人を罵ったり蹴落としたりする行為が目立つが、人間とはそもそもそういうものであり、人生は辛いことの方がずっと多く他人から優しさを期待すべきでない。そして、だからこそあなたが「優しさ」を作り続ければいいのだ、という話をしました。

 私がこのような考えに到達するようになったのは、知人が、タイや日本で診てきた患者さんが、そして私自身が幾たびの裏切り行為を経験しているからではありますが、こういった考えが「真実」であることを確信している理由は他にもあります。それは2004年にタイで聞いた「名言」です。その名言は私の心の中にずっと残っていて、私自身を長年”支配”しているといってもいいかもしれません。

 ですが、不思議なことに、それだけ説得力のある名言をきちんと文字で確認しようと書籍やインターネットを探してみてもどこにも見つからないのです。2004年当時のメモも残していないため長年の間うろ覚えのままの状態です。

 その言葉を初めて聞いたのはタイのあるエイズ施設で複数の外国人と昼食を摂っているときでした。スウェーデン人の女性がメモを取り出し「とても感動する言葉」と話し始めました。その名言はマザー・テレサのもので、「人間は合理的でなく自分勝手なもの。だからこそ人に優しくしなさい」といったような内容でした。ちなみにこの女性、専業主婦で10代の娘と息子がいるという立場ながら半年の予定でタイのエイズ施設にボランティアに来ており、その二人の子供たちが休暇を利用して母親にタイまで会いに来ていました。

 その約2週間後、今度はタイにボランティアに来ていた日本人の女性から同じ話を聞いてその偶然に驚きました。後から思えばこの女性にこの言葉を詳しく教えてもらえばよかったのですが、それほどの名言ならマザー・テレサ関連の書籍に当たればすぐに見つかるだろうと考えました。短期間に何の接点もないスウェーデン人と日本人から同じ名言を聞いたわけですから、すぐに見つかるだろうと考えたのは無理もないでしょう。

 ところが、です。この言葉がどこを探しても見つからないのです。そのスウェーデン人にも日本人女性にも連絡先を聞いていません。その後は誰からもこの言葉の話を聞くことはなく、本当にその言葉がマザー・テレサのものかどうかも疑わしいと思うようになり月日が過ぎていきました。なにしろマザー・テレサ関連の書籍を日本語、英語の双方であたってみても出てこないのですから。

 およそ16年後の2020年3月、この名言を少し思い出しながら先月のマンスリーレポートを書きました。人間は優しくなくて人生は辛いことばかり、だからこそあなたが優しくならねばならない……。私が長年言い続けていることです。

 そして、”奇跡”が起こりました。私が探していたまさにこの名言をミュージシャンの宮沢和史氏が3月29日に公開された自身のコラムで紹介されていたのです。これには本当に驚きました。16年間探し続けていたその名言を少しずつ思い出しながらコラムを書きあげたところ、1カ月もたたないタイミングでその「完成版」に巡り合えたのですから。

 宮沢氏によると、この名言のタイトルは「あなたの中の最良のものを」といい、かなり有名なものだそうです。ということは私の探し方が下手だったということなのでしょう。しかし、探しても見つからなかった理由があったのです。この言葉はマザー・テレサ関連の書籍にはなく、氏によると「人から人に口頭や手紙、インターネットなどを介してつたわり、ゆっくりと、じんわりと世界中に広まっていった」名言なのだそうです。ここでその冒頭の言葉を紹介しましょう(注1)。私が16年間うろ覚えながらずっと胸に秘めていた言葉です。

    人は不合理、非論理、利己的です
    気にすることなく 人を愛しなさい
    あなたが善を行なうと 利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう
    気にすることなく 善を行いなさい
    目的を達しようとするとき 邪魔立てする人に出会うでしょう
    気にすることなく やり遂げなさい

 改めて読んでみるとひとつひとつの言葉が胸に染み入るような感覚を覚えます。この6行だけで心が救われるような気がします。過去のコラム(例えばメディカルエッセイ第14回(2005年8月)「習慣としての奉仕」)で何度か述べたように、ボランティアの話になると「それは自己満足でないのか」と言い出す人が必ずいます。ですが、マザー・テレサが言うように「気にすることなく」行動すればそれでいいのです。

 この言葉の後半には「助けた相手から恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。気にすることなく、助け続けなさい」という一節が出てきます。これは、前回のコラムで私が述べた「自分が裏切られるのはかまいませんが、裏切ってはいけないのです」とほとんど同じことです。16年前にタイで聞いた言葉が私の身体に染みわたっているのかもしれません。

 宮沢氏がこの言葉を自身のコラムで紹介されたのは、新型コロナが原因であらわになった人間の醜い姿を嘆いてのことです。氏の言葉を引用します。

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マスクやトイレットペーパーを必要以上に買い占めている「世の中のものを自分にしか与え続けていない」人間を見ると、この上ない失望感に苛まれる。しかし、いざとなれば人間とはそういうものだ、ということをも、新型コロナウイルスの蔓延によって世界中の人々は同時に学んだわけだ。
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 これは私が前回のコラムで言いたかったこととほぼ同じです。そのコラムで私は「それよりも(差別を嘆くよりも)、これが人間の実態であることを認識し、その上で”幸せ”を探す方が現実的です」と述べました。

 太融寺町谷口医院には、新型コロナを疑って問い合わせをしてきたり受診したりする人が少なくありません。できるだけ電話もしくはメールで症状を確認し、受診してもらうときは午前診もしくは午後診の最後の時間に来てもらっています。受診してもらわずに電話とメールのみのやり取りをして、検査を希望されれば谷口医院から相談センター(保健所)に交渉して検査を受け入れてもらうこともあります。

 患者さんのなかには検査を拒否する人もいます。2週間隔離され強制入院になることを避けたいというのです。軽症で一人暮らしの場合はそれでもOKです。そういう場合は谷口医院から毎日電話で様子を伺って助言をしています。新型コロナにかかったかもしれないということは気軽に他人に話せるものではありません。差別の対象となる可能性があるからです。ですから、感染を疑い自宅待機というのはともすれば一日中誰とも話さず、外出もできず、という事態となります。強制入院も辛いですが、その場合は日に何度も医療者と話をすることになりますし三度の食事は出てきます。一方、自宅療養の場合は完全な孤独と戦わねばなりませんし食事の調達も自分でしなくてはなりません。

 もし身近に新型コロナに感染した人が出たら、まず声をかけることが大切です。現時点では診断がつけば直ちに強制入院ですから、できることは励ましのメールを送るくらいしかないかもしれませんが、これからは「重症でなければ自宅で安静」という方針に転換されます。患者数増加に伴い、新型コロナ陽性者用のベッド(病床)がもうすぐ底をつくからです。

 そういう知人がいたとすればあなたの出番です。電話やメールで様子を伺い、食品や日用品を届けてあげることを考えてみてはどうでしょうか。直接会うのは避けた方がいいですから、荷物を持って行っても玄関に置いてすぐに帰らなければなりませんが、その知人もあなた自身も本来の人間のあるべき姿を実感できるはずです。「不合理、非論理、利己的」な人間が多い世界の中で、あなたとあなたの知人は”真実”に触れることができるのです。

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注1:ネット上に出回っていたこの言葉の日本語版と英語版を下記に転記します。いくつものサイトがみつかりましたが、ほぼすべてが個人のブログでした。つまり、やはり現在でも出版はされていないようです。尚、宮沢氏によれば、この言葉はマザー・テレサのオリジナルではなく、米国のケント・M・キースの『逆説の10カ条』を読んだマザー・テレサが広めたものだそうです。

 人は不合理、非論理、利己的です
 気にすることなく、人を愛しなさい
 あなたが善を行うと、利己的な思いでそれをしたと思われるでしょう
 気にすることなく、善を行いなさい
 目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に会うでしょう
 気にすることなく、やり遂げなさい
 善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう
 気にすることなく、し続けなさい
 あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう
 気にすることなく、正直であり誠実であり続けなさい
 あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう
 気にすることなく、作り続けなさい
 助けた相手から恩知らずの仕打ちを受けるでしょう
 気にすることなく、助け続けなさい
 あなたの中の最良のものを、この世界に与えなさい
 たとえそれが十分でなくても
 気にすることなく、最良のものをこの世界に与え続けなさい
 最後に振り返ると、あなたにもわかるはずです
 結局は、全てあなたと内なる神との間のことで
 あなたと他の人との間であったことは一度も無かったのです

 People are often unreasonable, illogical, and self-centered;
  love them anyway
 If you are kind, people may accuse you of selfish ulterior motives;
  Be kind anyway
 If you are successful, you will win some false friends and some true enemies;
    Succeed anyway
  If you are honest and frank, people may cheat you;
    Be honest and frank anyway
 What you spend years building, someone could destroy overnight;
  Build anyway
 The good you do today, people will often forget tomorrow;
  Do good anyway
 Give the world the best you have, and it may never be enough;
  Give the best you’ve got anyway
 You see, in the final analysis it is between you and God;
  it was never between you and them anyway

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2020年3月12日 木曜日

2020年3月 新型コロナから考える「優しさ」という幻想

 前回は新型コロナの現実にきちんと向き合いリスクを正しく評価しようという話をしました。楽観視しすぎるのも不安視しすぎるのも正しくなく、そのような見方をしてしまうのは「常に”幸せ”でないと気が済まない」という誤った考えだ、ということを述べました。

 過去に述べたように「人生は辛いことの方がずっと多いもの」です(私はそう考えています)。ですが、辛いことばかりではなく幸せを感じることもできるのが人生のいいところです(私はそう考えています)。一人きりで何かをしているときが幸せと感じる人も少なくないでしょうが、そういう人たちでも生涯において他者と接することを苦痛と感じ続ける人は少数でしょう。どのような趣味や仕事を持つ人も、家族、パートナー、友達といった他者とのふれあいやコミュニケーションに幸せを感じるのではないでしょうか。

 では、他人との関わりで幸せを感じるのはどんなときでしょうか。優しくされたり、優しくしたりといった体験があったときに何とも言えない平和的な気持ちで満たされたという経験はおそらく誰にでもあるでしょう。

 さて、新型コロナです。新型コロナの問題が大きくクローズアップされ始めた2020年1月末、私が懸念したことのひとつは武漢から帰国した日本人に対する差別が起こらないか、ということでした。残念ながら私の予想は当たってしまい「武漢に行っていた」というだけで、当事者や、さらには検査やケアを担った医療者までが差別的な扱いを受けました。

 その後も新型コロナに関する「差別」は広がる一方です。驚くべきことに医療者の間でさえも広がっています。武漢から帰国した日本人や「ダイヤモンド・プリンセス」の乗客乗員へのケアをおこなった医療者に対する医療者による驚くべき差別が生じていることを日本災害医学会が報告しました。

 同学会によると、「職場において「バイ菌」扱いされるなどのいじめ行為」、「職場管理者に現場活動したことに謝罪を求められる」といった、信じがたい不当な扱いを受けた事案が報告されています。同学会は「当事者たちからは悲鳴に近い悲しい報告が寄せられ、同じ医療者として看過できない行為であります。もはや人権問題ととらえるべき事態であり、強く抗議するとともに改善を求めたいと考えます」と述べています。

 同じ医療者として、というより一人の日本人として到底許せない行為です。しかも、きちんとした知識があるはずの医療機関でこのようなことが起こっているわけです。医療機関以外の職場でもこれと同じか、あるいはもっとひどい差別が生まれるかもしれません。

 もしも私の目の前でこのような差別的な発言をする者がいればその場で注意します。ですが、こういった事態が相次いでいる現状を考えると、このサイトで正論を振りかざしてもほとんど意味がないでしょう。それよりも、これが人間の実態であることを認識し、その上で”幸せ”を探す方が現実的です。

 基本的に私は、人の優しさとはとても脆いものだと思っています。これは歴史を見れば明らかです。政治的ダイナミクスにより「昨日の友は今日の敵」となることなど人間社会では日常茶飯事ですし、戦争で国が分断されかつての同胞が敵となり殺し合うという歴史もあります。信頼していた家族やパートナーに裏切られたという経験がある人もいるでしょう。生涯に渡り親友が続けばそれは素晴らしいことですが、必ずしもそうはなりません。

 近しい相手からでさえ裏切られることがあるわけですから、これが単なる職場の同僚であればなおさらです。学校や職場でいつイジメやハラスメントが起こっても不思議ではありません。もちろん見ず知らずの赤の他人から優しさを期待することなどできません。ここである患者さんの話をしましょう。

 40代女性のその患者さんは花粉症があります。そしてこの季節に風邪をひくと咳がなかなか治らないと言います。薬(吸入薬)でかなり症状は改善するのですが、それでも偶発的に咳が出ることがあります。この女性、最近は怖くて電車に乗れないと言います。といっても乗らなければ出勤できません。朝は始発に乗って混雑を避けることができますが、帰りの電車が恐怖で、車両が混んでいれば何本でも電車を見送るというのです。また、駅のトイレなどで行列をつくっているときに咳がしたくなったときは、その場を離れて咳をしにいくそうです。今の世の中、咳をしただけで他人から白い目で見られるというのです。

 実際、福岡市の地下鉄内でマスクをしていない男性が咳をして乗客と口論になり非常ベルが押されたという事件がありました。この女性も、この事件を聞いて電車が怖くなったそうです。どうも今の世の中、自分の身を守るために他人を排除しようとする人たちが増えているようです。

 しかし、このようなことは今に始まったことではありません。小学生の頃には「困っている人を助けましょう」「他人に親切にしましょう」と習いますが、現実には世の中はいつの時代も優しくありません。小学校で習うことを世間の大人たちはできていないわけです。社会とは「渡る世間は鬼ばかり」であることがほとんどです。昨年(2019年)の流行語「ワンチーム」も、東日本大震災の年に流行した「絆」も幻想に過ぎなかったと言えば言い過ぎでしょうか。

 他人からの優しさなど期待できないと考えるべきです。そんな世の中でも夢を持つことができれば幸せかというと、多くの夢はいつまでたってもかないません。優しさのないつまらない日常が淡々と時を刻んでいるのが現実なのです。

 ならばそんな世の中でいったい何をすればいいのでしょう。厭世観を抱き社会から逃避することでしょうか。私はそうは思っていません。皮肉な表現に聞こえるかもしれませんが、「優しさ」がほとんどない社会だからこそ、その「優しさ」が貴重なのです。ならば、その「優しさ」はあなたが作り出せばいいわけです。

 過去のコラム「日本人が障がい者に冷たいのはなぜか」で、私は「障がい者や困っている人がいれば何かを考える前にまず駆け寄る」ということを提唱しました。これを心がけている私は、ときに自分の予定がずれこんだり、数字の上では金銭的なロスが生じたりすることもあるわけですが、決して「損をした」という気持ちにはなりません。このことは多くの人に理解してもらえると思います。ボランティアをしたことのある人なら「ボランティアをする気持ちよさ」を体験しているでしょうし、そういった経験がない人も他人から感謝の言葉をかけてもらえれば「やってよかった」と感じるはずです。

 さらに言うと、感謝の言葉も期待するべきではありません(参考:日経メディカルのコラム「医師は感謝を期待してはいけない」)。感謝されるから他人に優しくするのではなく、それが人間にとっての原理原則だから優しくすべき、というのが私の考えです。

 新型コロナは自分が感染するのはときにやむを得ないわけですが、他人、特に高齢者や持病のある人に感染させてはいけません。人の優しさについては、自分が裏切られるのはかまいませんが、裏切ってはいけないのです。

 これを実践するだけで、つまり裏切られても他人に優しくすることを忘れなければ”幸せ”は少しずつ増えていきます。

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2020年2月12日 水曜日

2020年2月 新型コロナの混乱から「幸せ」を考える

 前々回は、「承認欲求が強すぎるとしんどくなる→万人から好かれる必要はない」ということを、前回は、「いつも幸せで当然という考えは捨てるべし=人生はたいていは辛いことの方がずっと多いもの」ということを述べ、それを認識している方がかえって”幸せ”なんだ、という自説を紹介しました。

 今回は、現在流行し混乱を招いている新型コロナウイルスから「幸せ」について考えてみたいと思います。

 まず、新型コロナについて簡単にこれまでの経緯をまとめておきましょう。2019年12月に中国武漢市で発生した新型コロナウイルスは重篤な肺炎をもたらし感染者が次第に増えていきました。毎日新聞主催の私のミニ講演は1月23日に開催され、そのときに「医療プレミア」の編集長から「講演で新型コロナについて何か話すように」という指令を受けました。しかし私の知る情報はWHOなどの公式発表とメディアの報道だけですから面白い話はできません。スライドは1枚だけにしました。このときにはまだ日本では感染者の報告はありませんでした。

 その後日本でも感染者がみつかり世界中に広がりました。当初この感染症を診断した武漢市の30代の医師が死亡し、それまで世間に流れ始めていた「さほど深刻なものではないのでは?」という楽観的観測に釘を刺しました。一方では、マスクがどこも手に入らない、新型コロナを積極的に診ている病院の関係者の子供がイジメに合う、中国人が宿泊している旅館の宿泊客のキャンセルが相次ぐ、中国人というだけで診療を拒否される(注1)といった出来事が相次いでいます。マスクを高値で売りさばく輩もいるとか……。

 新型コロナに対する世間の反応として私が感じているのは「極端な楽観視」と「極端な不安感」が入り乱れていることです(注2)。「新型コロナなんてインフルエンザと同じようなもの」とツイッターで嘯いている医師もいるという話を聞きました。一方で、不安感から外出を恐怖に感じている人もいるようです。

 極端な楽観と極端な不安、これらは一見正反対の感情のように見受けられますが、「幸せ」をキーワードに考えてみると、根は同じであるように私には思えてきます。

 解説していきましょう。新型コロナを極端に楽観視する人たちというのは「リスクに向き合うことを避ける人たち」です。

 興味深い調査を紹介しましょう。群馬大学の片田敏孝教授らが2006年11月の千島列島東方沖の地震後に岩手県釜石市の小学生にアンケートした結果、避難指示を聞いた後、実際に避難したのは290人中わずか7人でした。避難しない理由として、保護者が「大丈夫」「津波は来ない」「前にもあった」などと判断したのです。東日本大震災が起こったのはこのアンケートのおよそ4年後です。

 2018年7月西日本の大水害で各地が被害に合いました。特に被害が大きかった岡山では「晴れの国・岡山で大きな水害が起こるはずがないという根拠のない思い込みがあった」と証言する声が報道されました。2019年6月に九州を襲った豪雨で避難指示が出されたとき、鹿児島市の避難率は1%未満だったという指摘もあります。

 なぜ避難指示を無視するのか。これを説明するのによく使われるのが「正常性バイアス」と「同調性バイアス」です。正常性バイアスとは、自分にとって都合の悪い情報を無視することで、同調性バイアスとは、他のみんなもそうだから……、と思ってしまうことです。これら心理学用語は心理学者が語るべきかもしれませんが、私見としては「私に限ってそんな不幸が起こるはずがない=私はいつも幸せでいて当然」という気持ちが強いからこのようなバイアスが生まれるのではないかと考えています。

 新型コロナにもこういう楽観論がはびこっています。よくあるのが「中国は医療技術が低い。日本なら感染しても死ぬことはない」というものです。ひどいものになると、「アメリカ軍が中国人を殺害するために既存のコロナウイルスにHIVの遺伝子を組み入れて武漢でばらまいた」、という陰謀論もすでに登場しているようです。この陰謀論は「ウイルスは人為的につくられたもの。抗HIV薬のカレトラが新型コロナに効くから(これは事実ですでに日本でも新型コロナに使われています)感染しても心配ない」という考えにつながります。陰謀論というのは自分の考えを正当化するのに(つまり自分の”幸せ”を維持するのに)都合がいいのです。

 一方、マスクを探し求めていくつもの薬局を巡るような人たちというのは、「短期間で死亡するかもしれないそんな感染症で自分の”幸せ”を妨害されてたまるか。なんとかしてマスクで自分自身を守らなければ」という思いが強くなりすぎて、たかがマスクを高値で買い求めるという行動に走ってしまうのです。

 新型コロナでいえば、マスクはときに大切ですがマスクがなくても感染のリスクを下げることはできます。むしろマスク装着よりも予防に大切なことがいくつもあります(注3)。

 今回のこのコラムで私が言いたいのは「新型コロナをどうやって予防するか」ということではありません。言いたいのは「未知の感染症にいつ遭遇するかもしれないという事実を受け入れて理にかなったリスク対策をしよう」ということです。

 新型コロナの発端は武漢市の海鮮市場だと言われています。しかし「海鮮」と名がついているものの様々な小動物が生で売られていたそうです。SARSと同じようにコウモリ→小動物→ヒトというルートが指摘されています。さて、ここであなたも考えてみてください。ネット情報によると、この海鮮市場はいわば”観光地”のひとつであり、外国人もよく訪れていました。あなたが、例えばアジアのどこかの街を訪れ、こういった市場があったとすれば近づくことを避けるでしょうか。もしもその街に友達がいたとして、その友達に誘われたとしたら……。

 私は武漢市には行ったことがありませんが、動物の市場ということであればタイのイサーン地方(東北地方)や北部にある日本人が行かないような市場を見学したことが何度かあります。そこでは生きたヘビやネズミや、名前も分からないアライグマのような動物も売られていました。今のところ、タイではこういった動物から新種のウイルスがヒトに感染したという報告はありませんが、武漢市で生じたことがタイで起こらないとも限りません。では私は今後そういったところに近づかないかと問われれば、やはりこれまでと同様”観光”を楽しみます。動物に近づかないようにはしますが。

 MERSは感染者が大きく減少していますが消滅はしていません。潜伏期間は最長14日程度と言われています。ヒトからヒトへ容易に感染し(2015年の韓国のアウトブレイクを思い出してください)致死率は30%以上です。ではあなたは中東から入国したばかりの人を見かければ逃げ出すのでしょうか。

 重篤な感染症に感染するリスクは日常生活のなかでもゼロではないと考えるべきです。また、どこに住んでいても人生には災害や事故などのリスクもあります。つまり、生きている限り突然の不幸に見舞われる可能性はあるわけで、大切なのは「そういったことも起こり得る」ことをきちんと認識した上でリスクコントロールをすることです。「幸せ」が突然終焉を迎える可能性も覚悟しておくべきであり、それを無視することが危険なのです。そして、そのことを理解していれば「生きているだけで”幸せ”」と感じることができます。

 いつも幸せでないと気が済まない人と生きているだけで幸せと思える人、本当に”幸せ”なのはどちらでしょうか。

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注1: この「事件」については「医療プレミア」でも「日経メディカル」でも紹介しました。
注2: これも「医療プレミア」(2020年2月13日号)で取り上げました。
注3: 手洗い・うがいが何よりも重要なのは言うまでもありません。先月のミニ講演会で見てもらった「ビデオ」も参照してみてください。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2020年1月11日 土曜日

2020年1月 幸せを求めるから不幸になる

 前回のマンスリーレポートでは、「承認欲求が強すぎる人はしんどくなってしまう」という話をしました。「他人の評価などどうでもいいではないか」が言い過ぎだとしても、「すべての人に好かれる必要はない」というのが私の考えです。そういうふうに考えられず、他人からいつも褒められることを求めてしまう完璧主義に陥ると承認欲求の束縛から逃れられなくなってしまうのです。

 今回はこの話の続きです。承認欲求を語るときに合わせて考えたいことがあと2つあります。ひとつは「上から目線」、もうひとつが「幸福至上主義」です。

 「上から目線」という言葉が人口に膾炙しだしたのは2000年代に入ってからだと思います。それまではあまり聞かない言葉でした。もうすっかり定着してしまって流行語という感じもしません。誰もが簡単に使っている言葉、そして私に言わせれば「簡単に使われすぎている言葉」です。

 例えばあなたがどこかの会社の新入社員だとしましょう。研修を受けているときに同期の者から偉そうな口の利き方をされればイヤな気持ちになるに違いありません。同期なのにまるで上司のような話し方をされれば腹が立つのはまともな感性であり、これを「上から目線」と呼ぶことには問題ないでしょう。

 では、あなたが新入社員だったとして実の上司から偉そうな口の利き方をされたとすればどうでしょう。もちろんその内容にもよりますが、知識も経験も新入社員よりはるかに豊富な上司のコメントが「上から」であるのは当然です。しかし、上司からの忠告にも「上から目線」という言葉を使う人が最近増えているような気がします。患者さんからこのような言葉を聞く機会が少なくないからです。さらに驚くのはその逆の立場、つまり上司からの「悩み」です。

 「上から目線」と同様「パワハラ」という言葉もすっかり定着しています。そして、最近はいわば「パワハラ恐怖症」に陥っている管理職の人が増えています。例えば40代のある大企業の管理職の男性は、きちんと丁寧な言葉を選んでいるつもりなのに、「それ、上から目線ですよ」と部下から言われて困った、と話していました。上司は上の立場なのだから上から目線が当たり前であり、部下に過剰な気を使うのはかえって部下にも失礼のように私には思えますが、どうも世間の風潮はそうではないようです。

 もっと驚かされたのが高校で教師をしているある50代男性のコメントです。なんと「上から目線と生徒から言われるのが怖い」と言うのです。50代の教師が10代の生徒に上からの目線になるのは当然です。私が高校生のときは尊敬できるような先生はほとんどおらず、そんな教師たちから何を言われても従わず反抗的な態度をとるか無視するかでしたが「上から目線が許せない」と思ったことは一度もありません。

 医師からも似たような話を聞いたことがあります。病院で働くある40代の男性医師が看護師から「さっきの患者、先生から上から目線で話された、と言ってましたよ」との報告を受けたというのです。医師が偉そうにしていいわけではありませんが、医師・患者関係というのは知識と経験の量が絶対的に違うわけで、ときに患者の誤った考えを修正せねばなりません。また、もしもこのクレームを言ってきた患者がこの医師よりもずっと年上だとすれば分からなくはありませんが、この患者は20代というではないですか。もちろん医師の言い方にもよりますし、いろんな患者がいるという前提で診療をしなければならないのは事実ですが、こういう患者とは良好な関係を築くのは簡単ではありません。この40代の医師はコミュニケーション能力が高く、多くの患者さんから慕われているのです。

 ところで「ムカつく」という言葉が登場したのはいつ頃でしょうか。私が大学生の頃にはすでに日常会話で使われるようになっていましたが、小学生の頃にはありませんでした。私自身は今もこの表現に少し抵抗があり、使わないことはないのですが使う度に違和感を覚えます。

 なぜ私が「ムカつく」という言葉に違和感があるのかというと、「そんな感情は人前で口にすべきじゃない」という意識があるからです。ごく親しい人に言うのならまだ分かるのですが、そもそも「生きる」ことは苦しいことや辛いことの連続なわけで、言いたいことをそのまま口にしてもいいのなら四六時中「ムカつく」と言っていなければならないことになります。辛いことに比べると、楽しいことや幸せなことは圧倒的に少ないものだ、というのが私の考えです。

 「ムカつく」などという言葉を気軽に、そして何度も繰り返す人たちに対して、「あなたはずっと幸せな気持ちでいなければならないと思っているの?」と尋ねたくなるのです。

 ここで、冒頭で述べたことに戻ります。つまり、承認欲求に捉われ他人からの否定的な言葉に過敏になっている人、上から目線で接する他者に対し不快感が抑えられない人、気に入らないことがあるとすぐに「ムカつく」と言いいつも幸せを求めている人には「共通点」があります。それは「否定的な感情を受け入れることができず常にいい気分でいることを当然と考えている」ということです。

 こういうタイプの人たちからみると、私のような生き方、つまり「人生は辛いことの方が圧倒的に多く小さな幸せがときどきあれば充分」と考えるような人生は随分とつまらないものに思えるでしょう。けれども、果たして本当にそうでしょうか。本当に辛いことはどこかに追いやらねばならないのでしょうか。

 ここで興味深い心理学の研究を紹介しましょう。専門誌「Emotion」2016年版に「悪い気分はそんなに悪くない。否定的な感情と週末の健康との関係(When bad moods may not be so bad: Valuing negative affect is associated with weakened affect-health links.)」という論文が掲載されています。14~88歳の365人が支給されたスマートフォンで毎日6つの質問に答え、回答と生活の満足度との関係が解析されています。その結果、「否定的な感情が有用(useful)である」と答えた人は、否定的な感情を自覚したときに精神的にも身体的にも悪い状態になりにくかったのです。

 この研究結果は当然と言えば当然です。初めから辛いことがあることを前提として生きていれば予期せぬ不幸に見舞われたときにも心が動じないからです。

 ところで私がこのような心理学の論文の存在を知ったのはこの専門誌を定期購読しているからではなく、英国発症の人文社会科学系ポータルサイト「aeon」(日本の流通業のイオンとは無関係です)に掲載されたコラム「悲しみを心配しないで。辛い期間には利点がある(Don’t worry about feeling sad: on the benefits of a blue period)」を読んだことがきっかけです。

 このコラムの最後のパラグラフがうまくまとまっているので少し抜粋してみます。

「悲しみの期間は長期的には我々に利点をもたらす。逆境の経験は回復力につながる。悲しみを避け、無限の幸福(endless happiness)を追い求めれば幸せは得られず、そんなことをしていると真の幸福の恩恵を享受できない」

 他人から承認されなかったとき、上から目線で物を言われたとき、ムカつく体験をしたとき、幸せでないと感じたとき、「それも人生の通過点のひとつなんだ」と思うことができるようになれば「真の幸せ」に近づく。それが私の考えです。

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参考:マンスリーレポート
2017年4月「なぜ「幸せ」はこんなにも分かりにくいのか」
2013年9月「幸せの方程式」
2019年12月「「承認欲求」から逃れる方法」

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2019年12月8日 日曜日

2019年12月 「承認欲求」から逃れる方法

 何年か前から、「承認欲求」という言葉をよく目にするなぁ、と思っていると最近は患者さんからこの言葉を聞く機会が増えてきました。そして、診察室でそういう言葉を口にする患者さんというのは、ほぼ例外なく精神の調子がよくありません。というより「心の悩み」を相談しに来た患者さんが話のなかでこの言葉を使うことが多いのです。

 ネット上でもこの言葉は多数検索されているようで、いろんな人がいろんなことを言っています。「なるほど」と同意できるものもあれば、その逆に反論したくなるようなものもあります。ただ、おしなべて言うとどの書き手も「承認欲求は誰にでもある。強くなりすぎるのはよくない」と言っているような印象があります。

 私としては「う~ん、ちょっと違うんだけどなぁ……」という感覚です。つまり、「承認欲求なんて言葉に捉われずにもっと健全に生きていくことができるのに……」と思わずにいられないのです。そこで今回は「承認欲求の呪縛から逃れる方法」の私見を述べたいと思います。この方法は医学の教科書に載っているわけでもなく科学的なエビデンスがあるわけでもありません。ですが、世の中の原理原則に合致したものだと私は考えています。

 太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)の患者さんの話を紹介しましょう(ただし、プライバシー保護のため細部を変更しています。周囲に似たような人がいたとしてもそれは単なる偶然だと考えてください)。

 20代半ばの女性Aさんは4年前からキャバクラで働いています。谷口医院を受診するのは風邪を引いたとき、じんましんが出たとき、そして定期的な肝機能の検査です。飲酒量が多いAさんは肝臓の数値があまりよくありません。そんなAさんは谷口医院を受診するだけの外出でもきれいに着飾っています。ある日、不眠を訴えたAさんは「お客様のネットでの書き込みに傷ついた」と言います。少し踏み込んだ話をすると「承認欲求」という言葉を口にされました。

 30代前半の男性Bさんは人気の美容師です。自身のブログも人気があり毎日更新し、新しい写真を頻繁に公開しているそうです。勉強熱心でカットやメイクの新しい情報も発信していると言います。感想を寄せてくる人も多く、指名の数はいつもトップです。谷口医院を受診するのは主に喘息と鼻炎ですが、最近あることを告白されました。「3年前から精神科で処方されているデパスをやめたいけどやめられない」と言うのです。詳しく話を聞くうちに「承認欲求」という言葉が出てきました。

 AさんとBさんには共通点と相違点があります。共通点としては二人とも「完璧主義」で「努力家」です。まるで自分に欠点があることが許せないと考えているような印象すらあります。

 異なるのは過去の生い立ちです。Aさんは愛情のある家庭に育ったとは言えず、勉強もできず容姿も美しいとはいえずいじめの被害の経験もあるそうです。高校を中退した彼女はお金をためダイエットに成功し美容外科の手術を何度かうけたと言います。これらがAさんの人生の転機となり、その後は他人から優しくされるようになり男性が寄ってくるようになり、そしてキャバクラで働きだしてから人生が変わったそうです。

 一方Bさんは10代の頃から高身長の美男子でスポーツ万能、サーフィンはかなりの腕前のようです。どこの世界にいても人気者になるという感じです。”華”があり、何をやっても成功しそうな雰囲気が漂っています。

 承認欲求について書かれたネット上の言葉を読んでいると「承認欲求が強いのは幼少時に承認されなかったことが原因」という書き込みが目立ちますが、私自身はその意見には賛成しません。もちろんそういう人もいるでしょうが、Bさんのように対人関係に苦労しているとは思えないような人もいるからです。Bさんも医師の私に言えない幼少時の苦しみがあったとは思いますが、そんなことを言い出せば誰にでもなんらかの辛い経験はあるはずです。

 むしろ私が強い承認欲求を持つ人の特徴だと思うのがAさんとBさんに共通している「完璧主義で努力家」です。こういう人たちは端的に言うと「すべての人から愛されなければ気が済まない」と考えているのではないかと思えてくるほどです。

 承認欲求から逃れるためにはまず「すべての人から愛される人」などこの世に存在しないことを理解すべきです。マハトマ・ガンジーやマザー・テレサですらネット上には悪口があふれています。政治家はどのような業績を挙げようが批判されますし、どれだけの実績を出そうが企業家もバッシングの対象となります。このサイトで何度か述べたように私は稲盛和夫氏から大きな影響を受けていて、私にとって稲盛氏は完璧な方であり氏の悪口を言う者などこの世に存在しないはずだと思っています。しかし、その稲盛氏に対してすら否定的なコメントがネット上にはあります。

 次に「他人から承認されること」を目標とするのが極めて危険であることを理解すべきです。「他人」とは仕事上の顧客や上司はもちろん、身内、あるいは「あなたにとって一番大切な人」であったとしてもです。最も親しい人も含めて「他人」から承認されることを求めすぎると、その「他人」があなたの人生の支配者になってしまいます。その人から認められることが行動の最優先事項となるからです。若い頃に経験する”燃えるような恋”の場合はそれでもいいでしょうが、そういう恋は長続きしないものです。

 承認欲求の呪縛から逃れるために積極的にすべきことがあります。それは「自分のなかに<変わらざる自身>を持つこと」です。自分が何者で何が大切で何のために生きているのか。こういったことを自分自身ではっきりと確立し、それを自分の”中心”に置けば他人の評価など気にならなくなります。

 「そういう考えはひとりよがりでしかない」、あるいは「そんなことを言っていれば(キャバクラや美容院の)顧客が増えないではないか」という考えもあるでしょう。しかし、私は固定客獲得の努力を怠っていいと言っているわけではありません。また、自分にとって大切な人への気遣いをするな、と言っているわけでもありません。自分の命を差し出してでも愛する人を守りたいという気持ちはあっていいと思いますし、そうあるべきだと思うこともあります。ですが、いつも相手に振り回されるような関係では本末転倒です。

 ここで私の個人的な経験を紹介しておきましょう。私は子供の頃から勉強もスポーツもできたわけではありませんし、ひとつめの大学時代に自分がいかに無力であるかということを思い知りました。大学時代に知り合った先輩たちのおかげで世間というものが分かるようになり就職する頃にはそれなりの自信がついていたことは過去のコラムで述べましたが、それでも私の認められ方というのは、たいていは何もできないことを披露して自分が馬鹿であることを分かってもらってそこから頑張るという方法です。

 それまで劣等感を抱えて生きてきた私の人生が一転したのが医学部受験に合格したときです。会う人ほぼ全員から「すごいなぁ」「すごいですねぇ」などと言われ、医学部入学後はどこに行っても一目置かれるという感じで”承認”されるのが当たり前、となりました。私にとってこれは奇妙な体験でした。それまでの人生で承認されることに縁がなかった私は「医学部に合格したくらいで人格が向上するわけでもないのに、こんなことで人を判断するなんて馬鹿げている」と他人からの承認を冷めた目でみていたのです。そして、こういう経験をしたおかげでかえって「<変わらざる自身>を持たなければそのうちにダメになってしまう」ということが分かりました。昔からよく言うように「成功は人間をダメにする」のです。

 この私のエピソードはひとつの教訓と言えると思います。私の医学部受験に賛成する人はほとんどおらず、合格するまでは「無謀なことに挑戦する馬鹿なヤツ」と思われていたわけです。それが合格発表を契機にがらっと変わって”承認”のオンパレードとなったのです。その日を境に”承認”されるにふさわしい人格が私に突然芽生えたとでも言うのでしょうか。つまり、「承認する他人」あるいは「承認しない他人」というのはしょせんその程度のものなわけです。Facebookの「いいね」の数で一喜一憂するなどということがどれだけ馬鹿げたことなのか今一度考えてみるのがいいでしょう。「いいね」に気持ちを揺さぶられるのは<変わらざる自身>を持っていない証なのです。

 <変わらざる自身>を持っていれば、自ずと今何をすべきかが分かるようになります。もしも「何をすべきか分からない」という人がいるとすれば、自分が何者で何が大切で何のために生きているのかということに思いを巡らせて<変わらざる自身>を確立すればいいのです。

 では、具体的にはどのようなことをすればいいのでしょうか。過去に紹介した「ミッション・ステイトメントをつくる」というのは最もお勧めの方法です(下記参照)。また、これも過去に紹介した「人生を逆算する」というのも試してみるべきです(下記参照)。人生はとても短いものです。他人からの承認でなく<変わらざる自身>を維持することに務めればつまらないことに悩む必要はなくなります。そんなことで悩む時間をもったいないと感じるようになるのです。

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参考:
マンスリーレポート
2009年1月号「ミッション・ステイトメントをつくってみませんか」
2016年1月「苦悩の人生とミッション・ステイトメント」
2018年9月「人生を逆算するということ」

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2019年11月11日 月曜日

2019年11月 医療者と他職種の「正直」はどう違うか

 前回のこのコラムでは「医師と他職種の共通点と相違点」について述べました。今回はその続きとして「医療者と他職種の「正直」の違い」について話したいと思います。このような話をする人は他に見当たりませんから、あまり他の人が考えない、あるいは考えても意味のないことを考えるのが私の”癖”なのかもしれません。

 まずは「正直」という言葉の意味を考えてみましょう。「正直」に似た言葉に「誠実」があります。基本的に「誠実」と「正直」はまったく異なる概念である、というのが私の考えです。分かりやすい例を挙げましょう。浮気をしたときにそれを包み隠さず伝えるのが「正直」で、浮気という裏切り行為を初めからしないのが「誠実」です。ですから、「誠実」は「正直」よりも”上”の概念、あるいは高貴な真実、もっといえばより重要な原則ということになります。「正直になる」よりも「誠実になる」方が人間にとって大切なことなのです。

 「浮気を伝える」というのは極端にネガティブな例であり「正直がよくない」ことを説明するには説得力に欠けるかもしれませんが、「正直がよくない」例は他にも多数あります。例えば、「とても疲れて帰宅したときに妻が高熱で寝込んでいることに気づき、今日は元気がありあまっていてご飯をつくりたい気分だ、と言って妻のためにお粥をつくる」、がそうです。他にも、「子供がまだ幼い時に、その子供の母親が不倫した男と駆け落ちして心中したことを隠して、お母さんは病気で死んだんだよ、と言う」とか「ホームパーティに呼ばれて食事をご馳走になったときに、料理が口に合わなくても美味しいと言う」というのもそうでしょう。私流の解釈として「正直」は「誠実」よりも”下”に位置します。

 仕事の場面で考えてみましょう。仕事においても「正直がよくないこともある」とかつての私は考えていました。私が初めて本格的に仕事をしたのは最初の大学生時代の旅行会社でのアルバイトです。このアルバイトを通して私自身がどれだけ成長できたかということについてはすでに何度か述べました。今回述べるのはそのアルバイトを通して私が「正直でない」行動をとっていたことです。今振り返ってみれば本当にそれでよかったのかという疑問が出てくるのですが、当時の私はそうすべきと思っていました。

 例えば「新人で何の実績もないのに経験者のフリをする」というのがあります。18歳の頃、生まれて初めてバスの添乗をしたときのことです。「初めてです」と正直に言えば、バスのドライバーからも旅行客からもなめられます。そこでベテラン添乗員のフリをするわけです。何を聞かれても自信たっぷりに答えるのです。もちろんこれをしようと思えば経験のある先輩たちから事前に話を聞いて何度もシュミレーションして望まなければなりませんが。

 ある離島のリゾート地で「グラスボート」(底が透明になっている小さな船)のチケットを売る仕事をしていたときのことも紹介しましょう。私自身はグラスボートになど乗ったことがないくせに「ものすごく感動しますよ! 僕が初めて乗ったときは興奮して眠れなかったんです! 昨日来たお客さんは全員チケットを買いましたよ!」などと「正直でないこと=嘘」を言っていました。

 これも過去に述べたように、私はひとつめの大学生時代にディスコでウエイターのアルバイトをしていたこともあります。この世界は経験が短いことがお客さんからなめられることにつながりますから、ベテランのフリをしなければなりません。仕事中にお客さんと話すことの大半は「正直でないこと=ハッタリ」でした。

 ひとつめの大学を卒業して会社員をしていた頃にも「正直でないこと」を何度も口にしていました。輸入品を全国に販売促進する仕事をしていたときは、「アメリカではすごく売れていて間違いなく日本でも流行りますよ」とか「もうリピートの注文がどんどん入っていてもうすぐ品切れになりますよ」とか、根拠のない「出まかせ」を言っていたわけです。

 こうやって過去の私が言ってきた「正直でないこと=嘘・ハッタリ・出まかせ」を振り返ってみると、なんだか自分がとんでもなくひどい人間のように思えてきますが、当時は何の罪悪感もないどころか、仕事というのはそうあるべきだ、と考えていました。実際、私のこのような方針というか”戦略”で失敗したエピソードは特にありません。いつも”成功”していたと言ってもいいと思います。

 では医師になってからはどうかというと、私が初めて本格的にこの問題を考えたのは研修医一年目の麻酔科の研修で、初めて麻酔をかけるときの患者さんへの説明でした。麻酔は安全な医療行為ではありますがアクシデントがないわけではありません。そんな医療行為を研修医1年目の者がおこなう、しかも麻酔をかけるのが初めて、となると患者さんは不安になるに違いありません。しかしこの場面で「嘘」を言うわけにはいきません。「正直に」自分は1年目の研修医であり麻酔をかけるのが初めてであることを伝えました。
 
 形成外科の研修時代、初めての手術をするときも「初めての手術です」と伝えました。その患者さんは「ということは先生(私のこと)は僕のことを一生忘れないですね!」と言いつつも、その直後に「他の先生もついてくれますよね……」と加えていましたからやはり不安に感じられたのでしょう。
 
 医療者が「正直」であるべきか否かという問題を最も真剣に考えなければならないのは「医療ミス」をしたときです。長い間医療行為をしていると誰でも「ミス」はします。絶対にミスをしてはいけないのが医療職という考えもありますが、長年医療行為をしていて一度もミスがないという医療者はいません。では、すべての医療者がミスをすれば直ちにそれを患者さんに伝えているかというとそういうわけではなさそうです。例えば医療事故があれば直ちにカルテを公開すべきですが、あとから書き換えたとか、裁判で新たな事実が分かったといった内容が報道されることがあります。

 私の個人的な意見は「医療者は(他職種とは異なり)常に正直であらねばならない」です。「見つからなければ黙っておいてもいい」という考えには反対です。以前、太融寺町谷口医院の患者さんに薬を誤って処方したことがありました。私のカルテへの薬の入力ミスはたまにあるのですが、ほとんどはそれをチェックする看護師が気づきます。

 ですが、そのときは見逃されており2週間後に患者さんが再診したときに気づきました。処方しようと考えた薬をクリックするときにリストのひとつ下の薬を押してしまい、似た名前の別の薬が処方され、既に飲み終わっていたのです。しかし患者さんの様態はよくなっています。黙っておいた方が余計な不安を与えない、という考えもあるかもしれませんが、私は正直に自分が薬の処方を間違えたことを伝えました。その時は「話してくれて感謝します」と言われましたが、その後この患者さんは受診していません。やはり誤薬が許せない、と考えられたのかもしれません。

 もうひとつ実例を紹介します。今度は当院の看護師の話です。ある日その看護師は注射の量を間違えて投与したことに気づきました。ただし、それは黙っていれば誰にも分からないことで、さらにその量の違いが患者さんに影響を与える可能性はほぼゼロです。医師に伝えず、患者さんに伝えることを考えない看護師もいると思います。私はその看護師からこの報告を受けたときに「このことを患者さんに伝えるべきだと思いますか?」と尋ねました。すると、その看護師は間髪おかずに「はい」と答え、すぐに患者さんに電話をかけて謝罪したのです。黙っておけば誰も気付かないことを上司である私に報告し、直ちに患者さんに電話で知らせるというその看護師の勇気と行動に私がどれだけ感動したか想像できるでしょうか。

 医師になるまでの私の考えが間違っていたのかどうかについては今も答えが出ていませんが、医療者にとっての「正直」は「誠実」と同じくらい重要な原則であることは間違いありません。

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2019年10月8日 火曜日

2019年10月 「医療はサービス業」という誤解~その2~

 職業に貴賤がないのは事実だとしても、医療者の仕事に対する考え方については他の職種と大きく異なる点がいくつかあります。一方、共通する点もあるわけで、私自身は医師になる前から、この「医師と他職種の共通点と相違点」について考えてきました。

 誰かに指示されたわけでもないのに、どうしてこのような(考えても仕方がないことかもしれない)ことを考え始めたかというと、きっかけは医学部入学前から繰り返し読んでいた稲盛和夫氏の著書の影響です。稲盛氏が言う「利他の精神」は、我々医療者が患者さんに対して考えていることと共通する部分があります。

 もしも「会社は誰のためのものか」という問いに「株主の利益のため」とか「社長と役員が(あるいは社員が)金を稼ぐため」と返されればすっきりします。「医療機関の目的とはまったく異なります」と言えるからです。そして、実際に「金儲けのために起業する」という人も少なくないでしょう。

 ところが稲盛氏のように「世のため、人のため」をモットーとし「利他の精神」を追求される姿勢は我々医療者のミッションと似ています。さらに、過去のコラム「動機善なりや、私心なかりしか」で取り上げた稲盛氏のこの言葉は私の座右の銘のひとつであり、何かを決断するときはいつもこの言葉を反芻してきました。そして、「動機善なりや、私心なかりしか」はこれからも私の行動の規範であり続けるでしょう。

 では、稲盛氏の考えと医療者に全く違いはないのかというとそういうわけではありません。稲盛氏は京セラの次に第二電電(現KDDI)を設立され、その後もグループ会社を増やし、従業員を増やし、利益を伸ばしています。稲盛氏の視点から言えば、この利益は私欲によるものではなく社会によい製品やサービスを届けているわけで、それは「利他的」なのでしょう。そして自社の社員の経済的地位や満足度も向上させていて、これも「利他的」と呼んでいいと思います。稲盛氏は不況のときも従業員を解雇しなかったことを自著で述べています。

 医療の世界はどうでしょうか。医療者全員とは言えないかもしれませんが、私自身のことでいえば、太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)を大きくしようと考えたことは一度もありません。谷口医院がまだ2~3年目の頃、何軒かのコンサルタント会社から「分院をつくりましょう」という営業が来ました。「これだけ患者数が増えて待ち時間が長いのだから、先生(私のこと)のコンセプトを広げて社会貢献しましょうよ」などともっともらしいことを言うわけです。なかには薬局も運営しているある会社から「全額負担するから分院をつくってほしい」と言われたこともあります。

 私はすべてのオファーを断りました。医師不足のなか(そうでないとする意見もありますが私の実感としてはまだまだ医師不足です)、簡単に分院をまかせられる医師が見つかるとも思えません。今でこそようやく「総合診療」という言葉が少しずつ普及してきましたが、当時はまだまだ「縦割り」の医療が通常であり、私のように幅広い領域を診るつもりで研修を受けてきた医師はそう多くなかったのです。そのような状態で分院をつくれば、患者さんにもスタッフにも迷惑がかかるだけです。それに、今診ている患者さんに割く時間が減ることを避けねばなりません。谷口医院を大きくすることはまったく考えず、現在の患者さんの診察やスタッフの教育に時間をもっと取りたい、というのが私の考えで、この考えは今も変わっていません。稲盛氏は「良き製品やサービスを社会に供給して”大勢の人の”生活向上に貢献したい」と思われているでしょうから、この点が私の考えとは異なります。

 次に異なるのは、少なくとも谷口医院では「検査や処方を最小限とし、今後受診しなくてもいいような診療をおこなう」という方針を開院以来取っていることで、これを極限すると「患者数ゼロが究極の目標」ということになります。実際、過去にあるメディアの取材を受けたときに「究極の目標は「失業」」と答えたことがあります(参照:「私が総合診療医を選んだ理由 ・後編」)。

 このサイトで何度も紹介している「choosing wisely」も、おそらく稲盛氏の考えとは異なるでしょう。choosing wiselyは残念ながらまだまだ世間に普及しているとは言えませんが、私は草の根レベルで他の医療者や患者さんに話をするようにしています(興味がある方は当院ウェブサイトの該当ページを参照ください)。choosing wiselyでは無駄な医療を減らすために検査や処方をいつも最小限とすることを心がけています。一般の方にchoosing wiselyについて話すと、きまって「それでは医療機関が儲からないではないか」と言われますが、医療機関はそもそも営利団体ではないわけです。このサイトで何度も指摘しているように日本医師会の「医師の倫理要綱」の第6条は「医師は医業にあたって営利を目的としない」です(参照:「医師に人格者が多い理由」)。

 このサイトで「「医療はサービス業」という誤解」というタイトルのコラムを書いたのは2008年の9月、今から11年以上前です。書くきっかけとなったのは患者さんからの数々のクレームでした。当時、開業して1年が経過した頃から「待ち時間が長い」というクレームが相次ぎ、その挙句に「待たされたんだから希望する薬を処方してほしい」と言われることが何度もあり「それは違いますよ」と言わねばならない機会が増えたのが執筆のきっかけのひとつでした。また、待ち時間とは関係なく、「お金を払うんだから……」とか「検査を希望したのになんでできないんだ……」という声も連続して聞かれるようになり、いつの間にか谷口医院は「クレームの絶えないクリニック」になってしまいました。

 そのときに私が気づいたのが「患者さんは医療機関をサービス業と思っているからこのようなことを要求するんだ!」ということです。そして、そのコラムを書いてから10年以上が過ぎました。患者さんの目の前で「医療はサービス業ではありません!」と強い口調で言うようなことは余程のことがない限りしませんが(そこまで言うときは「もう帰ってください」いう私の意思表示です)、「医療機関では検査や薬を最小限にすることをいつも考えているんですよ」と多くの患者さんに伝えています。私の言い方が上達したのかどうかは不明ですが、怒り出す患者さんは次第に減ってきています。むしろ、好意的に受け取ってくれる人が年々増えています。初診時から「他院で処方されている薬を減らしたい」「デパス依存症を治したい」などと言って、先にこのサイトを読んでから受診される人も増えてきています。

 ですがその一方で、「なんで希望する検査をしてくれへんの!?」と声を荒げる人が今もいるのも事実です。

 最近私が懸念している社会現象があります。それは医師の開業を支援するコンサルタント会社がおかしな方向を向いていることです。こういう会社は医師の名簿をどこかで入手して一斉にダイレクトメールを送信しますから、すでに開業している私のところにも頻繁にメールが届きます。その内容をみてみると「集患アップ」とか「患者を増やすには」とか、もっとひどい場合は「他院の患者を奪うには」という表現すら見受けられるのです。

 コンサル会社は医療のニーズをまったくわかっていないようです。どれだけ多くの人が自身の健康のことを相談できるかかりつけ医をもっておらず、サプリメントや健康食品、あるいは民間療法にすがっているか知らないのでしょう。また、(これは医療者側に責任があるのですが)いいところがみつからないといってドクターショッピングを繰り返している人がどれだけ多いのかも知らないのでしょう。もしもコンサル会社が今のように「集患アップ」(そもそも「患い」を「集める」という言葉がよくありません)などと謳っていると、これから医師を目指す若い人たちにも「医療もサービス業なんだ」と誤った認識を持たせてしまうかもしれません。

 医療はサービス業ではありません。これを認識することが健康になる最大の秘訣と言ってもいいと思います。なぜなら、気になることがあれば、サービス業をしていない、つまり検査・薬を最小限として患者さんにお金と時間を使わせないように努めているかかりつけ医に相談することが、結果的に費用と時間を最小限とし早く元気になれるからです。そして(反論したくなる人もいるかもしれませんが)「検査・薬は最小限」を基本としている医療機関は少なくありません。Choosing Wiselyに関心を持つ医師が増えてきているのも事実です。かかりつけ医からは、治療よりもむしろ「予防」について学び、医療機関受診を最小限とする努力をすることが大切なのです。

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2019年9月11日 水曜日

2019年9月 ”副腎疲労症候群”にかかる人たち

 「えっ、先生、”ふくじんひろうしょうこうぐん”を知らないんですか?」

 これは太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)をオープンして間もない頃、20代女性の患者さんから言われたセリフです。「副腎疲労症候群」、そんな病名、聞いたことがありません。医学の教科書に記載されている病気で私の知らない病気はまったくない、とまではいいませんが、患者さんが「よくある病気」と思っていて、医師が知らないものというのはまず存在しません。それに私は自分の性格上、知ったかぶりをするのが嫌いなので、正直に「知りません」と答えました。

 するとこの患者さんは「そんなことも知らないんですか?」と呆れた口調で私を軽蔑するような態度に変わりました。「そのような病気はありません」と答えるのは上からの態度になりますし、「きちんとした医学では認められていません」と言うのも相手をいい気分にはさせませんから、「その”病気”のことはさておき、どのような症状でお困りか話してもらえますか?」と質問してみました。

 分かったことは、何年も前から疲れが取れないこと、しかし仕事には積極的で休日出勤も多く、一方では旅行が趣味で頻繁に海外に出かけていること、健康診断で異常はなく体重は変わらないこと、これまで数件の医療機関に行ったけどマトモなところはなかったこと、谷口医院なら何でも相談できると思ったから受診したこと、などです。しかし、彼女が「副腎疲労症候群」という言葉を口にする度に私が不甲斐ない返事をしたからなのか、不満げな表情を浮かべて「もういいです!」と捨てゼリフを吐いて帰っていきました。

 その後、年に2~3人から「副腎疲労症候群だと思うんです……」という訴えを聞くようになりました。しかし、まともな医師ならこんな疾患が存在しないことは病名からすぐに分かります。慢性疲労症候群という疾患は存在しますし、言葉もおかしくありません。これは「慢性に疲労を感じる病態」です。一方、「副腎」という臓器が「疲労」することはあり得ません。臓器が疲労を自覚することはできません。

 先述した20代女性に対する私の対応は失敗と言わざるを得ませんが、その逆に、そんな病気は存在しないということを説明して理解を得られたこともあります。ですが、理解してもらえるのは何度か受診されている患者さんです。「副腎疲労症候群の検査と治療をしてくれないのであれば受診する意味がない」と頑なに信じている初診の人を説得するのは困難です。

 そんなある日、ついに「これは放っておけない」と考えなければならない女性がやって来ました。30代のその女性、なにやらクリエイティブな仕事をされているようで東京在住ながら全世界を飛び回っていると言います。訴えは「副腎疲労症候群でコートリルを飲んでいるのだが切れてしまった。2週間後には東京に戻るのでそれまでの処方をしてほしい」というものでした。

 コートリルというのは内服ステロイドの商品名です。私は当初、この女性は「副腎疲労症候群」ではなく「副腎皮質機能低下症」があるのかと思いました。副腎皮質機能低下症というのは体内のステロイドをつくりだす副腎機能が低下しており、外から(つまり薬を飲むことで)ステロイドを補わなければなりません。この場合、コートリル(ステロイド)を切らせば大変なことになりますから処方しなければなりません。しかし、その前に問診が必要です。

医師(私):副腎の機能が低下する病気があるということですね。当院は初診になりますから少し話を聞かせてください。まず、診断がついたのはいつですか。

患者:半年くらい前です。専門のクリニックで言われました。

私:ということは生まれつきではないのですね。副腎の機能が低下する原因は何なのですか?(注1)

患者:金属と食べ物と腸内細菌が原因です。

私:……

 絶句してしまいました。これは副腎皮質機能低下症ではありません。このとき私は「副腎疲労症候群」の”正体”が分かりました。メディアや世論が勝手に作り出す病名というのは他にもあります。有名なのは「新型うつ」や「アダルトチルドレン」でしょうか。これらにも様々な問題がありますが、こういう診断がついたからといって危険な薬を処方されることはあまりないと思います。ですが、この女性の「副腎疲労症候群」の場合、ステロイドが処方されているわけですからこれを見逃すわけにはいきません。

 私の予想通り、副腎機能を示す検査(例えば、コルチゾールやACTH)は測定されていないと言います。その代わり(?)に、毛髪からの金属と”遅延型食物アレルギー”の有無を調べたことがあるそうです。遅延型食物アレルギーというのは過去に指摘したように、存在しないもので多くの被害者が出ています(参照:医療ニュース2014年12月25日 「遅延型食物アレルギー」に騙されないで!)。こういうタイプの患者さんに説明するのはものすごく困難ですが放っておくわけにはいきません。

私:副腎疲労症候群という病気は認められていません。副腎の病気でコートリルが必要な人はたしかにいますが、それは副腎皮質機能低下症という特殊な病気にかかった人で、定期的に体内のステロイドホルモンの数値を調べなければなりません。

患者:先生は副腎疲労症候群を知らないんですね。(東京の)私のクリニックの先生は「この病気は多くの医師が知らない」と言っていました。コートリルを飲めば疲れがなくなるんです。私の先生が正しいんです!

私:……

 結局、この患者さんとも良好な関係を築けませんでした。ステロイドを飲めば疲労感が一時的に取れて元気になるのは当たり前です。徹夜もできるでしょう。スポーツ選手なら記録が向上するでしょう(ドーピングになりますが)。しかし、その反動は必ず来ますし長期的なリスクが多数あります。こんなことを続けていると確実に寿命が短くなります。この女性がステロイド内服の危険性に気づき、副腎疲労症候群などという病気が存在しないことに気づくのはいつでしょうか。それにしても東京にはこのような”治療”をしているクリニックがあることに驚かされます。

 この件があってから論文を調べてみました。どうやら「副腎疲労症候群」という”病気”で不安を煽られているのは日本人だけではないようです。科学誌『BMC Endocrine Disorders』2016年8月24日号(オンライン版)に「副腎疲労症候群は存在しない~系統的検討から~(Adrenal fatigue does not exist: a systematic review)」という論文が掲載されています。この研究では、これまでに副腎と疲労感や消耗感などの関係が研究された3,470件の論文から、研究の基準に値する58件を選び出し、それらが系統的に検討されています。解析の結果として、研究者らは「副腎疲労は依然として”神話”である(Therefore, adrenal fatigue is still a myth.)」と結論付けています。

 現在も年に数回はこの「神話」について患者さんから質問されます。そして、興味深いことにこういう質問をするほとんどの人が先述した「遅延型食物アレルギー」にも関心をもっていて、「リーキーガット症候群が……」(注2)とか「カゼインアレルギーが……」と言います。すでに「コムギとカゼインは一切摂っていない」(注3)という人もいます。不思議なことにそれだけ健康に気を使っている一方で、何人かは「大麻に関心がある」(注4)と言います。そして、さらに不思議なのがこういう”病気”に興味を持っている人の多くが、知的レベルが高く、英語を使いこなす仕事をしていたり、自身で事業をしていたりする人も少なくないことです。

 エビデンス(科学的確証)がすべてではありませんが、我々のようにエビデンスに基づいた医療を基本とする、という考えはこういった人たちには受け入れられないのかもしれません。それだけ医療者が信用されていない、ということなのでしょう……。

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注1:副腎皮質機能低下症には先天性と後天性があります。先天性には先天性副腎皮質低形成、副腎皮質刺激ホルモン不応症、副腎白質ジストロフィーなどがあり、後天性はアジソン病と呼ばれる自己免疫疾患や結核で発症するものが有名です。他には、副腎への癌転移、薬剤性などがあります。

注2:ただし私自身は「リーキーガット症候群」という概念を否定していません(参照:はやりの病気第172回(2017年12月)「リーキーガット症候群」は存在するか?)。私がそういう医師だから副腎疲労症候群に関心があるという患者さんが谷口医院を受診されるのかもしれません。

注3:コムギの遅延型アレルギーというものは存在しませんが、コムギを避けると体調がよくなるという人はたくさんいますし、私の方から「コムギ製品を控えてみては?」と患者さんに助言することもあります(参照:はやりの病気第158回(2016年10月)「コムギ/グルテン過敏症」という病は存在するか)。

注4:2013年にウルグアイが大麻を嗜好大麻も含めて合法化したことに続き、2018年夏にはカナダも合法化されました。米国でも嗜好大麻を合法とする州と地域は10以上あります(2019年9月現在)し、ヨーロッパや中南米でも個人的使用なら合法の国が増えてきています。たしかに医療用大麻は有用とする意見も多く、日本でも重症のてんかんには近いうちに許可される可能性があります。ですが大麻には有害性があるのもまた事実であり、本文に述べたような人たちはその有害性にはあまり目を向けていないような印象があります。

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2019年8月8日 木曜日

2019年8月 ”怒り”があるからこそできること

 ここ数年「アンガー・マネージメント」がブームです。太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)の勉強会でも講師に来てもらってスタッフ全員で勉強したことがあります。アンガー・マネージメントを実践している人はますます増えていると聞きます。たしかに瞬発的に怒りを表明すると結果的に後悔することが多いのは事実ですし、怒りが蔓延しているような職場で働きたいと思う人はいないでしょう。

 ですが、怒りにはネガティブなことしかないのでしょうか。実は、私は以前から「怒りを遠ざける」という考えに疑問を持っています。「日本アンガー・マネージメント協会」のトップぺージには「ちょっとした習慣・考え方を身につけるだけで、不要なイライラや怒りとは無縁の生活を送れます!」と書かれています。あるビジネス系のポータルサイトでは「「アンガー・マネジメント」とは?怒りを抑える3つのテクニック」という記事が紹介されていました。つまり、アンガー・マネージメントは常に「いかに怒りを抑制するか」という観点から語られるのです。けれども、人は本当に怒りと「無縁」の生活をし、いかに怒りを「抑制」するかを考え続けなければならないのでしょうか。

 アンガー・マネージメントがブームにあるなか、「怒りを表明せよ」などと言うのは奇をてらった意見に思われるでしょうが、私はいつも”怒り”と共に生きているような気がしています。怒りがあるから頑張る気になり努力ができているのです。つまり私にとっての怒りは行動の原動力ともいえるのです。数年前から、こういうことをどこかで発言してみたいけど相手にされないだろうな、と思っていたところ、先日ノンフィクション作家の河合香織さんが日経新聞のコラムで興味深いことを書かれていました。

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翻って考えれば、私にとっては原稿が書けないことはいいことかもしれない。書くことがないということは、心が平穏な証左だからだ。ノンフィクションを書く動機の奥底には、人生の不条理に対する悲しみがある。そろそろ落ちついて怒りから解放された晴れやかな文章を書きたいとも思っているが、まだまだ怒りの玉を手放すことができない。(日経新聞2019年6月13日夕刊)
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 つまり、「怒りがあるから文章を書かねばならなくなる。書くことがないときは心が平穏で怒りがない」ということを言われているわけです。私は川合氏のこの言葉がふっと腑に落ちました。

 私は作家ではありませんが、本を上梓したこともありますし、このサイトも含めて複数のサイトでコラムを書いています。そして、その原動力の源は怒りであることが多いのです。

 私が初めて自分の文章を世間に発表したのは1987年、高校を卒業した直後です。偏差値が40しかなくても2カ月の勉強で志望校(関西学院大学)に合格できたことをある本で発表しました。これは自慢がしたかったわけではなくて怒りが源です。その文章には、「お前の行ける大学はない」と言われた教師に対する怒りや、私よりも成績がいいのに教師の忠告に従って本当は望んでいない大学に行くことに決めた同級生に対するもどかしさが刻まれています。

 次に文章を公表したのも受験勉強のことで、医学部入学時の1996年に書きました。さらに怒りを表明したいと考えた私は、医学部を卒業してから2002年に出版社に原稿を送り『偏差値40からの医学部再受験』を上梓しました。この本のオリジナルの原稿には、いかに高校教師が生徒をダメにしているか、そしてその教師の言いなりになってはいけないかを延々と書いたのですが、残念ながらその大部分は編集で大幅にカットされてしまいました。

 その次に書いたのは『医学部6年間の真実』という本で、これはやる気のない医学生や既存の医療体制の問題点を指摘しています。これを書こうと思ったのもやはり、そういったものに対する怒りです。特に、医学部の試験でカンニングをする学生に対する怒りがおさえられなかったことが執筆動機のひとつです。

 『今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ』という本を書いたのは2006年頃で、これはタイで見てきたHIV/AIDSに関する怒りを表明したかったというのがきっかけです。この本を書く前からNPO法人のGINAでいくつかのコラムを書いていました。書こうと思った動機は、HIVに感染したことで食堂から追い払われたり、乗ろうとしたバスから引きずり降ろされたり、住民から石を投げられたり…、ということが当時のタイでは頻繁にあり、さらには病院でも門前払いされ、行き場をなくしている人たちがいたことです。こんなこと許されていいはずがありません。ちなみに、現在のタイではHIVに関連する問題がすべて解消されたわけではありませんが、かつてのようなひどい状況にはありません。現在は日本の方がはるかにHIV陽性者に対する差別が根強いことは間違いありません。

 谷口医院のサイトでもコラムを書き、さらにメール相談を随時受け付けているのは、きちんと治療すれば治るのに誤ったことを教えられて悪化させているような人(例えば悪徳な民間療法)や、きちんと説明を受けておらず無益なドクターショッピングを繰り返している人たち(前医を安易に批判してはいけないのですが、前医が別の言い方をしていれば患者さんはこんなに悩まなくても済んだのに…、という例は決して少なくありません)の力になりたいという思いがあり、これも一種の怒りがベースになっています。

 2015年7月から毎日新聞の「医療プレミア」で連載を持たせてもらっています。総合診療医の私が感染症を取り上げているのは、感染症はほんのわずかな知識で完全に防ぐことができるのに(コラムのタイトルは「実践!感染症講義 -命を救う5分の知識-」です)、きちんと教育されていない、あるいはネットなどからウソやインチキの情報をつかまされて不幸になる人が少なくないことなどから、本当のことを伝えたい!という強い気持ちがあるからで、これもやはり一種の怒りが原動力です。

 2018年7月から始めた「日経メディカル」での連載コラムは医療者向けのものです。そして、ここでも現在の医療体制の問題や、ときには他の医療機関や医療者の悪口を怒りに身をまかせて書いています。

 このように改めて自分が書いているものを振り返ってみると、多くの文章の執筆動機が怒りです。そして、その怒りの強度が強ければ強いほど文章は一気に書けます。ときどき、よくそんなにたくさんの文章が書けますね、と言われますが、これは私に文章を書く能力があるからではなく、怒りに身を任せると書かずにはいられない気持ちになる、というのが正直なところで、文章を書くことで私の怒りが整理できているのです。ならば、私は文章を書くことによってストレス発散ができてその怒りが解消されるのかというと、そういうわけではまったくありません。むしろその怒りが鮮明になり増強されることの方が多いのが事実です。

 今この文章を書いているのも既存の「アンガー・マネージメント」に対する一種の怒りがあるからと言えなくもありません。ただし、アンガー・マネージメントに完全に反対しているわけでもありません。私が言いたいのは、怒りを「抑制」するのではなく、怒りと「無縁」の生活を望むのでもなく、自然にわきでてくる”怒り”を原動力に行動してもいいのでは、ということです。

 それが私流の”アンガー・マネージメント”(怒りの管理)というわけです。

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