マンスリーレポート
2020年8月6日 木曜日
2020年8月 ポストコロナで加速する医療崩壊
2020年5月、愛知県の大村秀章知事は「医療崩壊が東京と大阪で起きた」と発言し、大阪府の吉村洋文知事は「大阪で医療崩壊は起きていません。何を根拠に言っているのか全く不明です。受け入れてくれた大阪の医療関係者に対しても失礼な話です」とツイッターで反論しました。
吉村知事が「医療関係者に対しても失礼な話」と言ってくれたことには我々医師は喜ばなければなりませんが、実際には4月の時点で医療崩壊はすでに起こっていました。救急車を要請して救急車が来てくれても搬送先が見つからずに自宅に戻されるケースが増えだしたのです。呼吸苦と胸痛があり救急車を呼んだのに搬送先が見つからず、翌日当院を受診した患者さんは幸いなことに軽症でしたが、こういった症状は早く治療を開始しなければ命を失うこともあり得ます。これが医療崩壊でなくて何なのでしょう。
そして、医療崩壊は7月になり急速に進行しています。
当院の電話が鳴りやみません。谷口医院の過去14年間の歴史でこれまで最も電話問い合わせが多かったのが麻疹(はしか)の流行でワクチンが枯渇した2016年の秋でした。ウェブサイトには「ワクチンは谷口医院をかかりつけ医にしている人のみが対象」と目立つように書いたのですが、「なんとかなりませんか」と必死で訴えてくる当院未受診の人が大勢いました。
7月中旬以降、そのときの状況をすでに上回り、今やパニックといってもいい状態です。私がクリニックに朝到着する6時45分頃の時点ですでに電話が鳴っています。5分から10分に一度くらいの割合でコールが響きます。ただし、電話受付は8時からとしているのでこの時点で私は電話をとりません。
8時になると息つく暇もなくなります。電話を切れば数秒以内に次の電話が鳴ります。それを延々と繰り返すわけです。他のスタッフに変わってもらう10時半頃までずっと電話で話しているような状態です。
電話が鳴りやまない原因はもちろん新型コロナです。といっても新型コロナに感染した人たちからの電話ばかりではありません。その内訳を紹介しましょう。
#1 新型コロナに感染しているかもしれないのに診てもらえない
現在発熱や咳など風邪の症状があると、それだけで受診を拒否する医療機関が増えています。当院ではこういった行き場を失くした人たちをこれまではある程度積極的に診てきました。4月には、かかりつけ医を含めて10軒以上のクリニックから断られ、保健所に相談しても検査を拒否され、遠方からやって来られた患者さんが新型コロナ陽性だった、ということもありました。
しかし、当院も発熱などの症状がある人を診られるのは1日2人までです。なぜなら一般の患者さん全員に帰ってもらってからでないと来てもらうわけにはいきませんから、午前と午後の診察終了後の1枠ずつしか「発熱外来」の時間がとれないのです。7月上旬頃までは、まだ少し余裕があったので当院未受診の人にも来てもらっていたのですが、風邪症状を訴える人が増えたため現在は当院の発熱外来の対象は谷口医院をかかりつけ医にしている人のみとしています。
電話ではその旨を伝えるのですが、すんなりと理解してもらえることはあまりありません。なぜなら必死で訴えてくる人たちの多くは当院に電話するまでにすでに何軒からも断られているからです。保健所に相談しても「コロナの検査はその程度ではできないから近くの医療機関を受診するように」とすでに冷たくあしらわれています。なかには声を荒げたり泣き出したりする人もいます。熱があるのにどこも診てもらえない、保健所からは相手にされない……。医療崩壊が進行しています。
#2 無症状だが職場や取引先、学校、帰省先などからコロナの検査を求められている
すでにいろんなところで指摘されているように新型コロナのPCR検査はキャパシティがあるために無症状の人は希望してもほとんど受けられません。谷口医院では当初はこういった検査を実施するつもりはありませんでしたが、6月上旬に「PCRを受けられないと夫と生き別れてしまうんです!」と主張するある女性からの訴えを聞いて考えを変えました。妙齢のこの女性、東南アジアのある国でご主人と生活していたのですが、2月に自身のみ一時帰国しその後再入国できなくなってしまいました。
当院でPCRを実施していなかった最大の理由は、無症状者の検査は精度が必ずしも高くないからです(有症状者の場合は現在の大阪市ではクリニックでの検査が正式に認められていません)。しかし、診察室でそんな理屈を言っていても意味がありません。PCRを受けなければご主人と再会できないのですから。ただし、1日の検査枠には上限があります。そこで、検査会社と話をして、①当院をかかりつけ医にしている人、②入国先から求められている海外渡航者、の2つに限定することとしました。よって、職場や学校から求められているという理由での当院未受診の人のPCRは実施できません。
では抗原検査はどうかというと、この検査も1日にできる検査数には限りがあります。こちらは当院未受診の人も受け付けていますが、すぐに予約が埋まってしまいます。
検査希望者がすごく大勢いるのにもかかわらず、実施している医療機関はどうしてこんなに少ないのでしょうか。その最大の理由は「検査結果が必ずしも正確でない」と多くの医療者が考えているからです。ですが、当院の経験でいえば、そんなことは多くの患者さんも分かっているのです。それは分かっているけれど、職場や学校から求められているのだから仕方ないでしょ、というわけです。
よくあるのが、「同じ職場で新型コロナの感染者が出たから自分も検査しなければならなくなった。保健所に相談すると濃厚接触には該当しないから検査できないと言われた」、というものです。このケース、私には「感度が高くなく……」などといった理論を並べるのではなく検査するしかないと思うのですが、どうも多くの医師はそれでも正論を述べるのが好きなようです。
#3 ポストコロナ症候群に苦しんでいる
ポストコロナ症候群というのは私が勝手に命名した病名です。新型コロナにかかった後(あるいは本当はかかっていないけれどかかったと思い込んだ後)倦怠感、頭痛、動悸、めまい、咳などが続くことを言います。いわばコロナの後遺症です。この人たちは、すでに何軒かのクリニックを受診しています。しかし、「異常がない。気のせいだ」などと言われドクターショッピングを繰り返しているのです。最近はたいてい毎日このような電話がかかってきます。たしかに、積極的な治療法はなく、これを病気と呼べるのか、というケースが多いのですが、患者さんが困っているのは事実です。
以上みてきたように、熱や咳といったコロナを疑う症状があるのにどこからも診てくれない、検査を受けないといけないのに受けられない、ポストコロナ症候群なのにどこからも相手にされない、という悲鳴に近いような訴えを延々と聞いているのが現況です。電話がつながらないので当院をかかりつけ医にしている人も予約が入れられずに困っています。
医療崩壊はすでに加速しているのです。
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|2020年7月13日 月曜日
2020年7月 『偏差値40からの医学部再受験』は間違いだった
私が『偏差値40からの医学部再受験』という本を上梓したのは2003年です。それなりに多くの人に読んでもらったようで、出版後の約10年間で数百通のお手紙やメールをいただきました。勤務先まで会いに来てくれた人も何名かいますし、嬉しいことに「本を読んで医学部に合格できました」というお便りもいただきました。
当時私がこの本を通して世間に訴えたかったのは「医学部合格はそんなに難しいことではなくて、ちょっとしたことを知っていればほとんど誰にでも可能ですよ」ということです。タイトルは『偏差値40からの……』ですが、これは編集者が考えたタイトルであり、実際の私の偏差値は高校3年の12月で30台でした。その私が大した苦労もせずに医学部受験に合格できたわけですから、たいていの人に可能だと考えたのです。
今回は、「当時は正しいと思っていたその考えが間違っていた」ということを述べたいと思います。実はこの思いは上梓した直後からあり、それが少しずつ大きくなってきています。とはいえ、『偏差値40からの……』に書いたことのすべてが間違っているわけではなく、私と同じような境遇の人にとってはかなり参考になるのではないかと今も思っています。
では「私と同じような境遇の人」とはどのような人でしょうか。それは、1日12時間以上の勉強を1年間程度続けることができる体力と環境と貯金と、そして受験勉強開始時点で偏差値50程度の学力があることです(私は、高校時代は偏差値30代でしたが医学部の受験勉強を開始した時点では50くらいはあったと思っています)。
『偏差値40からの……』を書いた頃の私は、まだまだ世間知らずでした。医学部入学前に4年間の社会人経験もあった私は、少しは社会というものを知っているつもりでしたが、これは今になって考えるととんでもない思い上がりです。当時の私は自分がいかに恵まれた環境にいたのかが分かっていなかったのです。
今は、医学部受験は誰にでもできるわけではないという考えを持っています。そう思うに至ったいくつかの経験を紹介しましょう。
まずは医学部を目指しているという20歳のある男性との出会いです。現役で医学部に合格できるほどの実力があったのにもかかわらず不合格。ある日予備校に通学する途中で交通事故に遭いました。1週間後に意識が戻り命はとりとめたものの高次機能障害が残りました。MRIなどの画像では異常所見を認めませんが、事故の前に比べると、集中できなくなり、物覚えが明らかに悪くなったと言います。少し勉強するとすぐに疲労感が強くなり横にならずにはいられないそうです。この男性が医学部に入学するのはほぼ不可能だと私は思います。仮に入学できたとしてもその後の勉強についていけないでしょう。
次に紹介したいのはタイでの経験です。研修医1年目の頃、私はタイのエイズ施設にボランティアに行きました。当時のタイではまだ抗HIV薬がなくHIV感染は死へのモラトリウムを意味していました。その施設で何人もの患者さんと接していると「なんで自分は医師で、彼(女)らは患者なんだろう」という気持ちがでてきました。私が日本に生まれ、恵まれた家庭ではなかったとしても、大学まで卒業させてもらう援助を親から受け、その後仕事をして貯金をし、それから医学部受験を経て医師になったのに対し、彼(女)らは、境遇によっては小学校も卒業しておらず、なかには大人から性的虐待を受けてHIVに感染した人や、母子感染の子供たちもいました。私は自分が努力したから日本に生まれ医師になれたのでしょうか。
2011年3月11日に人生が大きく変わった人は少なくありません。太融寺町谷口医院にも東日本大震災の被害に遭ったという患者さんが何人かいます。彼(女)らのなかには、家族を失い、仕事を失い、何もかもなくした状態から立ち上がっている人もいます。被災された人たちのなかには、医学部受験を諦めざるを得なくなった人もいるに違いありません。彼(女)らが被害に遭ったのは運以外の何物でもありません。決して”天罰”などではないわけです。
他にもこういったエピソードは多数あります。今の私はこのように考えています。「人生を決めるのは99%の運と1%の努力」だと。エジソンの名言に「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」というものがあります。また、日本には「運も実力のうち」という言葉があります。私はこれらの言葉に賛成しません。
エジソンが大変な努力をしたのは事実でしょう。ですが、もしもエジソンが母親から理解されず、自宅で勉強や実験ができる環境が与えられなかったとしたらまったく別の人生を強いられたに違いありません。私がタイのエイズ施設で出会ったHIV陽性のある少年は、幼い頃から複数の(男性の)大人たちからレイプをされ続け、自身の性が女性なのか男性なのかもわかっていませんでした。この青年は小学校にもいかせてもらえず文字も充分に読めません。
「運も実力のうち」という人は、努力を続けていれば幸運がそのうち巡ってくるというようなことを言います。しかし、努力を続けていても、突然交通事故に遭ったり、震災の被害にあったりする人もいるわけです。「運」は「運」であり、実力や努力で変えられるものではないのです。
自分の夢がかなえられた人はそれだけで幸運です。だから少々努力して医学部に入学できて医師になったとしてもそれは必然ではなく偶然と考えるべきだというのが私の考えです。つまり、健康な身体、ある程度のお金、震災に遭わなかった、1日12時間の勉強ができる環境があった、などの幸運が偶然重なった結果なのです。タイのエイズ施設で患者さんと向き合っているなかで、私は次第に「あなたが患者で僕が医師なのは単なる偶然。今世では運によってそれぞれの役割が与えられただけ」という気持ちが強くなってきました。
そして、この考えは帰国後にさらに強くなりました。医師と患者は対等という言葉が文脈によっては正しくないのは医師の方が圧倒的に知識と技術があるからです。ですが、それは医師が患者より上の立場であるということではなく、医師と患者はそれぞれ別の立場にいるということだけなのです。これをそれぞれの「役割」という言葉で言い切ってしまうと反感を買うかもしれませんが、次第に私は「人生とはそれぞれの役割を”演じる”こと」ではないかと思うようになってきています。
シェイクスピアの『As you like it(お気に召すまま)』のなかに、次のセリフがあります。
All the world’s a stage, and all the men and women merely players. They have their exits and their entrances.
これを私流に訳すと「すべての世界は舞台だ。すべての男と女は単に役者を演じているだけだ。我々には初めから出口と入口が与えられているのだ」となります。なぜ出口が入口より先に来ているのかも興味深いのですが、この言葉は人生というものを上手く表現していると思います。
尾崎豊の『街の風景』の歌詞のなかに「人生は時を演じる舞台さ……」という箇所があります。尾崎豊がこの曲を書いたのは15歳と聞いたことがあります。15歳の時点ですでに人生の”真実”に気付いていたのでしょうか。
日本では新型コロナに感染して差別的な扱いを受ける人が大勢います。リスクのある行動をとった結果感染した人もいますが、感染予防対策をしっかりと実践していたのにもかかわらず感染した人もいます。結局のところ、感染するかしないかの最大の要因は「運」に他なりません。
知人がコロナに感染して自分が感染していないのは「運」、自分の住む地域に震災が来なかったのも「運」、勉強する時間と貯金があったから医学部に合格できたのも「運」、交通事故に遭っていないのも「運」、現在の私が患者さんから話を聞き診療が行えるのも「幸運が重なったから」なのです。
ならばその幸運に感謝して、これから起こり得るすべてのことを「運」と受け入れて、与えられた舞台で自分の役割を演じていくだけです。今年はコロナのせいでタイに渡航できなくなりましたが、タイで知り合った患者さんたちのことを毎日のように思い出します。これからも彼(女)らを支援する”役割”を演じる舞台に立ち続けるつもりです。
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|2020年6月14日 日曜日
2020年6月 「我々の本質は優しくて思いやりがあり助けあうもの」ではない
「ピケティに次ぐ欧州の知性」と呼ばれている若きオランダの歴史家ルトガー・ブレグマン(なんとまだ32歳!)は、最近『Humankind: A Hopeful History』というタイトルの書籍を出版しました(私はまだ読んでいませんが)。出版に際して、英紙「The Guardian」はブレグマンのインタビュー記事を掲載しています。著書のタイトルから分かるように、ブレグマンは「歴史は希望に満ち溢れている」と考えていて、The Guardianは「UBI(ユニバーサル・ベーシック・インカム)を以前から絶賛しているブレグマンはポストコロナでさらに注目されるだろう」と分析しています。その記事でブレグマンは「我々の本質は優しくて思いやりがあり助けあうもの(Our true nature is to be kind, caring and cooperative)」と述べています。
世界中から注目されている偉大な歴史家を安易に批判したくはありませんが、私には到底ブレグマンの主張に同意できません。ただし、ブレグマンが人気があるのは分かります。なぜならほとんどの人にとって「希望のある明るい話」は心地いいからです。現在のように閉塞感が社会を支配しているときにはなおさらです。ですから、私のような悲観的な物の見方をする者は大勢から嫌われて相手にされないわけです。
ですが、最も大切なのは楽観論か悲観論かという二元論的な議論ではなく「現実」を正確に分析することです。
新型コロナ流行後の「悲しい事件」を挙げればきりがありませんが、今回はまず映像付きのこの記事を紹介しましょう。記事では国籍には触れられていませんがアジア人のカップルがシアトルで米国人に襲われています。たまたまこのシーンが防犯カメラに捉えられていて世界中で報道されたのです。
よく言われるように米国人は中国人・韓国人・日本人の区別がつきませんから、もしも日本人のあなたが同じ状況にいれば暴行を受けた可能性もあるわけです。3月にはパレスチナ人の女性が日本人女性を「コロナ、コロナ」とからかい、日本人女性がスマホでそのパレスチナ人を撮影しようとしたところ、パレスチナ人女性が逆上し日本人に襲い掛かるという事件が起こりました。この事件も防犯カメラに偶然うつっていて拡散されました。
新型コロナのせいでこのような事件が増えていますが、アジア人差別は今に始まったことではありません。欧米で最も差別が少ないと言われている米国の西海岸でさえも、です。西海岸で日本人に人気があるのはシアトルの他、ポートランド、サンフランシスコ、ロサンゼルスあたりだと思います。これらの地でも長期滞在すれば否が応でも辛い経験をすると聞きます。
フランス人は「フランスには差別がない」と言いますが、「The Guardian」の記事によると、2016年には20代のアフリカ系フランス人男性が警察の職務質問を受け、連行され警察署で死亡しています。先日(2020年5月25日)ミネアポリス近郊で警察官に殺害されたアフリカ系アメリカ人ラッパーの黒人男性を彷彿させる事件です。
新型コロナ流行以降の日本人が日本人を差別する事件も、すでにこのサイトで何度か紹介しました。医療者による医療者の差別もあれば、美容室の予約を断られた医療者もいます。なかには「感染が起きた病院関係者に「ごえんりょを」」と張り紙をした美容院もあるとか。また、自身が医療従事者であるという理由だけで子供の登園を認められなかった事件が続出し、厚労省は4月17日に「医療従事者等の子どもに対する保育所等における新型コロナウイルスへの対応について」という異例の通知を全国の自治体に出しました。
もちろん差別される対象は医療者だけではありません。新型コロナウイルスに感染した人への差別や海外からの帰国者に対する差別もあります。なかには感染したことが原因で仕事をなくし、さらに引っ越しを余儀なくされた人もいると聞きます。
人間とはなんと残酷な生き物なのでしょう。感染した人にいったいどんな罪があると言うのでしょう。私には新型コロナに感染した人を差別するのは、まるで交通事故の被害者を犯罪者扱いし加害者の責任を問わないような行為に思えます。また、感染して重症化している人たちの命を救うために仕事をしている医療者やその家族を差別するなどという行為はまったく理解できません。
すでに新型コロナは「知識」(とちょっとした「訓練」)でほぼ100%感染を防ぐことができることが分っています(参照:「新型コロナ 感染防止に自信が持てる知識と習慣」)。過剰に怖がり感染者や医療者を差別する人たちは、そういった知識がないことを暴露しているようなものです。
もちろん今後の動向を楽観視してはいけません。どの国もこのまま”鎖国”もしくはそれに近い状態を続けて海外渡航の制限を続けるなら、日本でもやがて新型コロナは終息していくでしょう。ですが、いつまでもこの状態を続けるわけにはいきません。近いうちに海外渡航を緩和し国際間での人の移動を元に戻すべきです。もしかすると、この考えに反対する人もいるかもしれません。たとえば厭世主義に陥り、他人との接触を極力避け人気のない地域に住むことを考えるような人たちは、鎖国を続けるべきだ、というかもしれません。
私はそのような厭世主義には同意できません。私は自分自身を悲観主義者だと思っていますが、悲観主義と厭世主義は異なる概念です。私の考えは、「世界は交流を活発にし、貧困、戦争回避、地球温暖化などの問題に共に立ち向かっていかねばならない」というものです。もちろん、新型コロナを含めた医療に関する諸問題も世界が一丸とならねばなりません。”鎖国”している場合ではないのです。
しかし、「人類皆兄弟」などと言って、簡単に人を信用し性善説に基づいた行動をとるのは危険すぎます。私は、基本的に人間は残酷で非情なものと考えるべきだと思っています。それが言い過ぎだとしても、人間はときに残酷で非情な存在となり得る、というのは真実だと思います。この私の意見に反対する人には、先述した目を覆いたくなるような差別の数々について考えてもらいたいと思います。
とはいえ、私自身以前はこのような悲観的な考えは持っていませんでした。ほとんどの諍い事は「誤解」から来ているわけで、きちんと話し合えば人間は皆分かり合えるとかつての私は本気で思っていました。それが幻想であることに突然気付いたわけではありません。他人の残酷な行為や裏切りを見聞きするにつれて、少しずつ人間の非情さを認めざるを得なくなったというのが実際のところです。
冒頭で紹介したブレグマンの現在の年齢と同じ32歳の頃、私は医学部の6回生でした。この頃には医師になることを決めており(医学部入学当時は研究者志向で医師になるつもりはありませんでした)、医療に関するすべての「誤解」(それは患者さんの医療不信であったり、特定の病気に対する偏見などであったり、です)は自分の力で解いてみせる、と意気込んでいました。
しかし、その後様々な現実を目の当たりにし(それは医療の世界もプライベートも含めて)、「人間は残酷で非情なもの」という結論に達しました。けれども、だからこそ、あるべき人間の姿、つまり「人間は利他的な存在であるべきだ」ということを強く実感するようになりました。「我々の本質は、優しくなくて、思いやりがなくて、助けあうことなど考えない」と認識した上で、病気や人種で他人を蔑むことがどれだけ愚かなことかをこれからも訴え続けていくつもりです。
そんな私はブレグマンの20年後の著作を楽しみにしています。
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|2020年5月6日 水曜日
2020年5月 ポストコロナをどう生きるか
ほんの2カ月前までは、まだ世界中の多くの人が「インフルエンザをちょっと重症化させただけ」と考えていた新型コロナ。今も楽観論を唱える人がいるのは事実ですが、それは危険な考えです。1918年に流行が始まったスペイン風邪に例える人もいて、そういう人たちの一部は、死亡数の比較を持ち出して「新型コロナの方がずっと軽症」と言います。たしかに数の上ではそうなのですが、事の深刻度は新型コロナの方が圧倒的に高いのは間違いありません。新型コロナは医療のあり方を一転させ、そして社会にも歴史を塗り替えるほどのインパクトを与えています。今回は、いわば「ポストコロナ」の社会についての私見も述べたいと思います。
先に新型コロナの「重症性」について確認していきましょう。私自身が新型コロナを「これは大変なことになる」と確信したのは2月7日、中国の武漢中心医院の30代の医師・李文亮氏が死亡した時でした。通常のインフルエンザで30代の医師が死ぬことはありません。その後中国では20代の医師が死亡し、欧州では大勢の若い医療者が他界しています。当初は、小児の重症化はないと言われていましたが、(日本での報告は幸いまだないものの)欧米では20歳未満の子供たちも犠牲になっています。日本人は(BCG接種のおかげで、という人もいますがこれは疑わしいです)重症化しないと言う声がある一方で、ニューヨークで新型コロナに感染した2人の日本人医師(30代と40代)は「死」を覚悟したことをメディアの取材に答えています(参考:「NYの日本人医師感染 軽い違和感が、まさか死の恐怖に」 「新型コロナに感染したNYの日本人医師が警告。「自分は『無症状感染』かもと思って行動して」)。
なぜ重症化するのかを確認しておきましょう。当初新型コロナの正体は「肺炎」と言われていました。感染症としての肺炎は通常は一過性です。免疫力が低下している高齢者や持病のある人なら重症化することはあり得ますが、打ち勝てば、つまりウイルスと免疫系の”短期間の決戦”で免疫系が勝利すれば「完全治癒」します。
ところが、新型コロナはそういう単純な感染症ではないのです。それを理解する上でのキーワードが「ACE2受容体」「サイトカイン・ストーム」「血栓」「血管内皮細胞炎」の4つです。順にみていきましょう。
ACE2受容体はいろんな細胞の表面に存在している蛋白質のことです。新型コロナウイルスは、このACE2受容体を見つけると、ここからヒトの細胞内に侵入していきます。肺の細胞のACE2受容体から侵入すると肺炎が起こります。そして、ACE2受容体は肺だけでなく、心臓、腎臓、腸管、血管などの細胞にも幅広く存在しています。ということは、ウイルスは肺だけでなく他の臓器も標的とするわけです。3月以降全世界で心疾患での死亡が増えていることが指摘されています。このなかのいくらかは新型コロナウイルスが直接心臓の細胞を傷つけた可能性があります。当初は少ないと言われていた新型コロナが原因の下痢もかなり多いことが分かってきており、この原因もACE2受容体で説明できます。
次に「サイトカイン・ストーム」を説明しましょう。「ストーム」は嵐のことですから、サイトカイン・ストームとは、サイトカインがまるで嵐のように血管内あるいは臓器に大量にばらまかれることを指します。ではサイトカインとは何かというと、特定の物質を指すわけではなく、平たくいうと免疫に関連する様々な小さな物質の総称です。サイトカインには炎症を引き起こすものと抑制するものがあって、通常は(つまりたいしたことのない感染症の場合は)それらが効率よくつくられて病原体がやっつけられ、一時的に傷んだ組織は回復します。ところが、ストームの状態になってしまうともはや”統制”はとれず、いろんな物質がコントロールされないままに乱造されまくります。こうなると大切な臓器まで痛めつけられることになり、多くの臓器が機能不全となり、ここまでくると一気に致死率が上がります。詳しいメカニズムは分かっていませんが、どうも新型コロナは(従来のコロナウイルスやインフルエンザとは異なり)免疫システムをかき乱し、このサイトカイン・ストームを誘発しているようなのです。
次は「血栓」です。血栓とは血の塊(固まり)のことで、これが細い血管を詰まらせると、その周囲の臓器に酸素や栄養がいきわたらずダメージを受けます。脳の小さな血管に血栓がつまるとその部分は「梗塞」をおこします。血管が次々とやられると、頭痛、麻痺、意識障害などが現れます。3月以降、世界中で若年者の脳梗塞が相次いでいるという指摘があり、このうちいくらかは新型コロナが原因の血栓の可能性があります。血栓が重大な臓器障害をおこすのは心臓や肺だけではありません。「Washington Post」によると、米国の舞台俳優Nick Cordero氏は新型コロナに感染し血栓のせいで足の指に血液が届かなくなり、その結果右足を切断しました。
新型コロナに血栓が関与しているのではないかと疑われた理由のひとつが感染者の血液検査でd-dimerと呼ばれる項目が上昇していることが分かったことです。通常の風邪や肺炎ではd-dimerは上昇しません。そこで太融寺町谷口医院では新型コロナを疑ったときはd-dimerを測り、上昇していた場合は症状が軽症であったとしても新型コロナの可能性があることを説明し自宅待機をしてもらっています。
ここでひとつの「楽観論」がでてきます。もしも新型コロナの増悪因子が血栓だとするならば、血栓溶解療法を実施すればいいではないか、という考えがでてくるからです。実際、それを検証した研究もあります。ある研究によれば、血栓を溶かす薬のヘパリンを新型コロナの重症例に投与すると致死率が20%低下したというのです。しかし、たったの20%です。先述のWashington Postによれば、抗凝固剤(おそらくヘパリン)を投与しても血栓が溶解しない例が異常に多く米国の医師たちが無力感に苛まれています。
また検死(新型コロナで死亡した人の解剖)をおこなうと全身の臓器に微小な血栓ができていたことが分かりました。細い血管が詰まればその臓器は一気に機能不全になります。上述した足切断の他、例えば、網膜の血管が詰まって網膜症(進行すると失明)、腎臓の血管が詰まって腎不全になる可能性もでてきます。また、脳の血管が詰まると、脳梗塞以外に認知症のリスクも出てきます。
最後のキーワードが「内皮細胞炎(endotheliitis)」です。いったん肺の細胞から侵入した新型コロナウイルスは血流に乗って全身に運ばれます。そして、血管の内側には内皮細胞と呼ばれる細胞があります。医学誌『Lancet』に掲載された論文によれば、新型コロナの患者の広範囲の臓器に内皮細胞炎が起こっていることが分かり、さらに、血管内皮細胞内に新型コロナウイルスが存在していることも確認されています。要するに、人間の身体には隅々まで血管が存在するわけですから、新型コロナはどの臓器にも攻撃をしかけることができる可能性があるのです。
今紹介した4つのキーワード、すなわち「ACE2受容体」「サイトカイン・ストーム」「血栓」「内皮細胞炎」はそれぞれ別にではなく、複雑に関連していると考える方がいいでしょう。例えば、ACE2受容体から侵入したウイルスが内皮細胞炎を起こし、その結果サイトカイン・ストームと血栓が生じる、という感じです。血管が全身に存在する以上、これからもどのような症状が出現するか分かりません。
やっかいなのはまだあります。いつ終わるか、です。新型コロナウイルスはB型肝炎ウイルスやHIVが”武器”にしている「逆転写酵素」は持っていません。よって、ウイルスがヒトの遺伝子に潜り込んで棲息するということはありません。ですが、例えばヘルペスウイルスや水痘ウイルスのように身体のどこかに潜んで完全に死滅しない可能性はあるかもしれません。また、ウイルスが完全に死滅したとしても(私は死滅すると思っていますが)、いったん生じた障害は元に戻らない可能性(これを「不可逆性変化」と呼びます)があります。例えば肺の間質炎がそれなりに進行すると不可逆性変化が起こり完治せず、いくらかの障害を残す可能性があります。そうなると日常生活に支障がなかったとしても、例えばスポーツでのパフォーマンスが落ちることが予想されます。日本でもプロの野球選手やバスケットボール選手の感染が報告されました。元通りのパフォーマンスを発揮できるのかどうか、私は不安に思っています。
まだあります。微小な血管のレベルで障害が起こって元に戻らないのだとしたら、ありとあらゆる症状がでてくる可能性があります。これからは原因不明の微熱、疲労感、浮腫、関節痛、頭痛、腹痛、さらには不眠、イライラ、不安感、抑うつ状態などを考えるときに、新型コロナの感染歴を調べる必要があるかもしれません。あまり馴染みがない感染症とは思いますが、ちょうど「Q熱」に似ています(参考:「原因はリケッチアと判明も…やはり不可解なQ熱」)。Q熱は感染すると病原体が死滅したとしても数年後に疲労感や不眠、抑うつ感を起こすことがあるのです。
新型コロナを楽観視してはいけないという点についてある程度納得いただけたのではないかと思います。では、世界はどう変わるのでしょうか。文章がかなり長くなってしまったのでここではひとつだけ述べておきます。それは「初対面でマスクを外すのが無礼な行為になる」ということです。なぜなら、新型コロナが他人にうつるとき、その4割以上が症状の出る前の数日間に感染させていることが研究により明らかになっているからです。数日後に風邪をひかない保証は誰にもないでしょう。ということは、常に他人の前ではマスクを外せないことになります。
これは世界史を塗り替えるくらいの大転換、いえ「パラダイムシフト」と呼んでもいいでしょう。「よほど親しい関係にならない限り他人の前でマスクを外せない」が、今後どれくらい世界に影響を与えることになるのか……。
(この続きは今月号(2020年5月号)の「はやりの病気」で述べます)
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|2020年4月6日 月曜日
2020年4月 新型コロナ騒動で偶然発見できた長年探していた名言
前回のマンスリーレポートで、新型コロナが流行しだしてから他人を罵ったり蹴落としたりする行為が目立つが、人間とはそもそもそういうものであり、人生は辛いことの方がずっと多く他人から優しさを期待すべきでない。そして、だからこそあなたが「優しさ」を作り続ければいいのだ、という話をしました。
私がこのような考えに到達するようになったのは、知人が、タイや日本で診てきた患者さんが、そして私自身が幾たびの裏切り行為を経験しているからではありますが、こういった考えが「真実」であることを確信している理由は他にもあります。それは2004年にタイで聞いた「名言」です。その名言は私の心の中にずっと残っていて、私自身を長年”支配”しているといってもいいかもしれません。
ですが、不思議なことに、それだけ説得力のある名言をきちんと文字で確認しようと書籍やインターネットを探してみてもどこにも見つからないのです。2004年当時のメモも残していないため長年の間うろ覚えのままの状態です。
その言葉を初めて聞いたのはタイのあるエイズ施設で複数の外国人と昼食を摂っているときでした。スウェーデン人の女性がメモを取り出し「とても感動する言葉」と話し始めました。その名言はマザー・テレサのもので、「人間は合理的でなく自分勝手なもの。だからこそ人に優しくしなさい」といったような内容でした。ちなみにこの女性、専業主婦で10代の娘と息子がいるという立場ながら半年の予定でタイのエイズ施設にボランティアに来ており、その二人の子供たちが休暇を利用して母親にタイまで会いに来ていました。
その約2週間後、今度はタイにボランティアに来ていた日本人の女性から同じ話を聞いてその偶然に驚きました。後から思えばこの女性にこの言葉を詳しく教えてもらえばよかったのですが、それほどの名言ならマザー・テレサ関連の書籍に当たればすぐに見つかるだろうと考えました。短期間に何の接点もないスウェーデン人と日本人から同じ名言を聞いたわけですから、すぐに見つかるだろうと考えたのは無理もないでしょう。
ところが、です。この言葉がどこを探しても見つからないのです。そのスウェーデン人にも日本人女性にも連絡先を聞いていません。その後は誰からもこの言葉の話を聞くことはなく、本当にその言葉がマザー・テレサのものかどうかも疑わしいと思うようになり月日が過ぎていきました。なにしろマザー・テレサ関連の書籍を日本語、英語の双方であたってみても出てこないのですから。
およそ16年後の2020年3月、この名言を少し思い出しながら先月のマンスリーレポートを書きました。人間は優しくなくて人生は辛いことばかり、だからこそあなたが優しくならねばならない……。私が長年言い続けていることです。
そして、”奇跡”が起こりました。私が探していたまさにこの名言をミュージシャンの宮沢和史氏が3月29日に公開された自身のコラムで紹介されていたのです。これには本当に驚きました。16年間探し続けていたその名言を少しずつ思い出しながらコラムを書きあげたところ、1カ月もたたないタイミングでその「完成版」に巡り合えたのですから。
宮沢氏によると、この名言のタイトルは「あなたの中の最良のものを」といい、かなり有名なものだそうです。ということは私の探し方が下手だったということなのでしょう。しかし、探しても見つからなかった理由があったのです。この言葉はマザー・テレサ関連の書籍にはなく、氏によると「人から人に口頭や手紙、インターネットなどを介してつたわり、ゆっくりと、じんわりと世界中に広まっていった」名言なのだそうです。ここでその冒頭の言葉を紹介しましょう(注1)。私が16年間うろ覚えながらずっと胸に秘めていた言葉です。
人は不合理、非論理、利己的です
気にすることなく 人を愛しなさい
あなたが善を行なうと 利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう
気にすることなく 善を行いなさい
目的を達しようとするとき 邪魔立てする人に出会うでしょう
気にすることなく やり遂げなさい
改めて読んでみるとひとつひとつの言葉が胸に染み入るような感覚を覚えます。この6行だけで心が救われるような気がします。過去のコラム(例えばメディカルエッセイ第14回(2005年8月)「習慣としての奉仕」)で何度か述べたように、ボランティアの話になると「それは自己満足でないのか」と言い出す人が必ずいます。ですが、マザー・テレサが言うように「気にすることなく」行動すればそれでいいのです。
この言葉の後半には「助けた相手から恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。気にすることなく、助け続けなさい」という一節が出てきます。これは、前回のコラムで私が述べた「自分が裏切られるのはかまいませんが、裏切ってはいけないのです」とほとんど同じことです。16年前にタイで聞いた言葉が私の身体に染みわたっているのかもしれません。
宮沢氏がこの言葉を自身のコラムで紹介されたのは、新型コロナが原因であらわになった人間の醜い姿を嘆いてのことです。氏の言葉を引用します。
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マスクやトイレットペーパーを必要以上に買い占めている「世の中のものを自分にしか与え続けていない」人間を見ると、この上ない失望感に苛まれる。しかし、いざとなれば人間とはそういうものだ、ということをも、新型コロナウイルスの蔓延によって世界中の人々は同時に学んだわけだ。
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これは私が前回のコラムで言いたかったこととほぼ同じです。そのコラムで私は「それよりも(差別を嘆くよりも)、これが人間の実態であることを認識し、その上で”幸せ”を探す方が現実的です」と述べました。
太融寺町谷口医院には、新型コロナを疑って問い合わせをしてきたり受診したりする人が少なくありません。できるだけ電話もしくはメールで症状を確認し、受診してもらうときは午前診もしくは午後診の最後の時間に来てもらっています。受診してもらわずに電話とメールのみのやり取りをして、検査を希望されれば谷口医院から相談センター(保健所)に交渉して検査を受け入れてもらうこともあります。
患者さんのなかには検査を拒否する人もいます。2週間隔離され強制入院になることを避けたいというのです。軽症で一人暮らしの場合はそれでもOKです。そういう場合は谷口医院から毎日電話で様子を伺って助言をしています。新型コロナにかかったかもしれないということは気軽に他人に話せるものではありません。差別の対象となる可能性があるからです。ですから、感染を疑い自宅待機というのはともすれば一日中誰とも話さず、外出もできず、という事態となります。強制入院も辛いですが、その場合は日に何度も医療者と話をすることになりますし三度の食事は出てきます。一方、自宅療養の場合は完全な孤独と戦わねばなりませんし食事の調達も自分でしなくてはなりません。
もし身近に新型コロナに感染した人が出たら、まず声をかけることが大切です。現時点では診断がつけば直ちに強制入院ですから、できることは励ましのメールを送るくらいしかないかもしれませんが、これからは「重症でなければ自宅で安静」という方針に転換されます。患者数増加に伴い、新型コロナ陽性者用のベッド(病床)がもうすぐ底をつくからです。
そういう知人がいたとすればあなたの出番です。電話やメールで様子を伺い、食品や日用品を届けてあげることを考えてみてはどうでしょうか。直接会うのは避けた方がいいですから、荷物を持って行っても玄関に置いてすぐに帰らなければなりませんが、その知人もあなた自身も本来の人間のあるべき姿を実感できるはずです。「不合理、非論理、利己的」な人間が多い世界の中で、あなたとあなたの知人は”真実”に触れることができるのです。
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注1:ネット上に出回っていたこの言葉の日本語版と英語版を下記に転記します。いくつものサイトがみつかりましたが、ほぼすべてが個人のブログでした。つまり、やはり現在でも出版はされていないようです。尚、宮沢氏によれば、この言葉はマザー・テレサのオリジナルではなく、米国のケント・M・キースの『逆説の10カ条』を読んだマザー・テレサが広めたものだそうです。
人は不合理、非論理、利己的です
気にすることなく、人を愛しなさい
あなたが善を行うと、利己的な思いでそれをしたと思われるでしょう
気にすることなく、善を行いなさい
目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に会うでしょう
気にすることなく、やり遂げなさい
善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう
気にすることなく、し続けなさい
あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう
気にすることなく、正直であり誠実であり続けなさい
あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう
気にすることなく、作り続けなさい
助けた相手から恩知らずの仕打ちを受けるでしょう
気にすることなく、助け続けなさい
あなたの中の最良のものを、この世界に与えなさい
たとえそれが十分でなくても
気にすることなく、最良のものをこの世界に与え続けなさい
最後に振り返ると、あなたにもわかるはずです
結局は、全てあなたと内なる神との間のことで
あなたと他の人との間であったことは一度も無かったのです
People are often unreasonable, illogical, and self-centered;
love them anyway
If you are kind, people may accuse you of selfish ulterior motives;
Be kind anyway
If you are successful, you will win some false friends and some true enemies;
Succeed anyway
If you are honest and frank, people may cheat you;
Be honest and frank anyway
What you spend years building, someone could destroy overnight;
Build anyway
The good you do today, people will often forget tomorrow;
Do good anyway
Give the world the best you have, and it may never be enough;
Give the best you’ve got anyway
You see, in the final analysis it is between you and God;
it was never between you and them anyway
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|2020年3月12日 木曜日
2020年3月 新型コロナから考える「優しさ」という幻想
前回は新型コロナの現実にきちんと向き合いリスクを正しく評価しようという話をしました。楽観視しすぎるのも不安視しすぎるのも正しくなく、そのような見方をしてしまうのは「常に”幸せ”でないと気が済まない」という誤った考えだ、ということを述べました。
過去に述べたように「人生は辛いことの方がずっと多いもの」です(私はそう考えています)。ですが、辛いことばかりではなく幸せを感じることもできるのが人生のいいところです(私はそう考えています)。一人きりで何かをしているときが幸せと感じる人も少なくないでしょうが、そういう人たちでも生涯において他者と接することを苦痛と感じ続ける人は少数でしょう。どのような趣味や仕事を持つ人も、家族、パートナー、友達といった他者とのふれあいやコミュニケーションに幸せを感じるのではないでしょうか。
では、他人との関わりで幸せを感じるのはどんなときでしょうか。優しくされたり、優しくしたりといった体験があったときに何とも言えない平和的な気持ちで満たされたという経験はおそらく誰にでもあるでしょう。
さて、新型コロナです。新型コロナの問題が大きくクローズアップされ始めた2020年1月末、私が懸念したことのひとつは武漢から帰国した日本人に対する差別が起こらないか、ということでした。残念ながら私の予想は当たってしまい「武漢に行っていた」というだけで、当事者や、さらには検査やケアを担った医療者までが差別的な扱いを受けました。
その後も新型コロナに関する「差別」は広がる一方です。驚くべきことに医療者の間でさえも広がっています。武漢から帰国した日本人や「ダイヤモンド・プリンセス」の乗客乗員へのケアをおこなった医療者に対する医療者による驚くべき差別が生じていることを日本災害医学会が報告しました。
同学会によると、「職場において「バイ菌」扱いされるなどのいじめ行為」、「職場管理者に現場活動したことに謝罪を求められる」といった、信じがたい不当な扱いを受けた事案が報告されています。同学会は「当事者たちからは悲鳴に近い悲しい報告が寄せられ、同じ医療者として看過できない行為であります。もはや人権問題ととらえるべき事態であり、強く抗議するとともに改善を求めたいと考えます」と述べています。
同じ医療者として、というより一人の日本人として到底許せない行為です。しかも、きちんとした知識があるはずの医療機関でこのようなことが起こっているわけです。医療機関以外の職場でもこれと同じか、あるいはもっとひどい差別が生まれるかもしれません。
もしも私の目の前でこのような差別的な発言をする者がいればその場で注意します。ですが、こういった事態が相次いでいる現状を考えると、このサイトで正論を振りかざしてもほとんど意味がないでしょう。それよりも、これが人間の実態であることを認識し、その上で”幸せ”を探す方が現実的です。
基本的に私は、人の優しさとはとても脆いものだと思っています。これは歴史を見れば明らかです。政治的ダイナミクスにより「昨日の友は今日の敵」となることなど人間社会では日常茶飯事ですし、戦争で国が分断されかつての同胞が敵となり殺し合うという歴史もあります。信頼していた家族やパートナーに裏切られたという経験がある人もいるでしょう。生涯に渡り親友が続けばそれは素晴らしいことですが、必ずしもそうはなりません。
近しい相手からでさえ裏切られることがあるわけですから、これが単なる職場の同僚であればなおさらです。学校や職場でいつイジメやハラスメントが起こっても不思議ではありません。もちろん見ず知らずの赤の他人から優しさを期待することなどできません。ここである患者さんの話をしましょう。
40代女性のその患者さんは花粉症があります。そしてこの季節に風邪をひくと咳がなかなか治らないと言います。薬(吸入薬)でかなり症状は改善するのですが、それでも偶発的に咳が出ることがあります。この女性、最近は怖くて電車に乗れないと言います。といっても乗らなければ出勤できません。朝は始発に乗って混雑を避けることができますが、帰りの電車が恐怖で、車両が混んでいれば何本でも電車を見送るというのです。また、駅のトイレなどで行列をつくっているときに咳がしたくなったときは、その場を離れて咳をしにいくそうです。今の世の中、咳をしただけで他人から白い目で見られるというのです。
実際、福岡市の地下鉄内でマスクをしていない男性が咳をして乗客と口論になり非常ベルが押されたという事件がありました。この女性も、この事件を聞いて電車が怖くなったそうです。どうも今の世の中、自分の身を守るために他人を排除しようとする人たちが増えているようです。
しかし、このようなことは今に始まったことではありません。小学生の頃には「困っている人を助けましょう」「他人に親切にしましょう」と習いますが、現実には世の中はいつの時代も優しくありません。小学校で習うことを世間の大人たちはできていないわけです。社会とは「渡る世間は鬼ばかり」であることがほとんどです。昨年(2019年)の流行語「ワンチーム」も、東日本大震災の年に流行した「絆」も幻想に過ぎなかったと言えば言い過ぎでしょうか。
他人からの優しさなど期待できないと考えるべきです。そんな世の中でも夢を持つことができれば幸せかというと、多くの夢はいつまでたってもかないません。優しさのないつまらない日常が淡々と時を刻んでいるのが現実なのです。
ならばそんな世の中でいったい何をすればいいのでしょう。厭世観を抱き社会から逃避することでしょうか。私はそうは思っていません。皮肉な表現に聞こえるかもしれませんが、「優しさ」がほとんどない社会だからこそ、その「優しさ」が貴重なのです。ならば、その「優しさ」はあなたが作り出せばいいわけです。
過去のコラム「日本人が障がい者に冷たいのはなぜか」で、私は「障がい者や困っている人がいれば何かを考える前にまず駆け寄る」ということを提唱しました。これを心がけている私は、ときに自分の予定がずれこんだり、数字の上では金銭的なロスが生じたりすることもあるわけですが、決して「損をした」という気持ちにはなりません。このことは多くの人に理解してもらえると思います。ボランティアをしたことのある人なら「ボランティアをする気持ちよさ」を体験しているでしょうし、そういった経験がない人も他人から感謝の言葉をかけてもらえれば「やってよかった」と感じるはずです。
さらに言うと、感謝の言葉も期待するべきではありません(参考:日経メディカルのコラム「医師は感謝を期待してはいけない」)。感謝されるから他人に優しくするのではなく、それが人間にとっての原理原則だから優しくすべき、というのが私の考えです。
新型コロナは自分が感染するのはときにやむを得ないわけですが、他人、特に高齢者や持病のある人への感染は防ぐよう努めなければなりません。人の優しさについては、自分が裏切られるのはかまいませんが、裏切ってはいけないのです。
これを実践するだけで、つまり裏切られても他人に優しくすることを忘れなければ”幸せ”は少しずつ増えていきます。
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|2020年2月12日 水曜日
2020年2月 新型コロナの混乱から「幸せ」を考える
前々回は、「承認欲求が強すぎるとしんどくなる→万人から好かれる必要はない」ということを、前回は、「いつも幸せで当然という考えは捨てるべし=人生はたいていは辛いことの方がずっと多いもの」ということを述べ、それを認識している方がかえって”幸せ”なんだ、という自説を紹介しました。
今回は、現在流行し混乱を招いている新型コロナウイルスから「幸せ」について考えてみたいと思います。
まず、新型コロナについて簡単にこれまでの経緯をまとめておきましょう。2019年12月に中国武漢市で発生した新型コロナウイルスは重篤な肺炎をもたらし感染者が次第に増えていきました。毎日新聞主催の私のミニ講演は1月23日に開催され、そのときに「医療プレミア」の編集長から「講演で新型コロナについて何か話すように」という指令を受けました。しかし私の知る情報はWHOなどの公式発表とメディアの報道だけですから面白い話はできません。スライドは1枚だけにしました。このときにはまだ日本では感染者の報告はありませんでした。
その後日本でも感染者がみつかり世界中に広がりました。当初この感染症を診断した武漢市の30代の医師が死亡し、それまで世間に流れ始めていた「さほど深刻なものではないのでは?」という楽観的観測に釘を刺しました。一方では、マスクがどこも手に入らない、新型コロナを積極的に診ている病院の関係者の子供がイジメに合う、中国人が宿泊している旅館の宿泊客のキャンセルが相次ぐ、中国人というだけで診療を拒否される(注1)といった出来事が相次いでいます。マスクを高値で売りさばく輩もいるとか……。
新型コロナに対する世間の反応として私が感じているのは「極端な楽観視」と「極端な不安感」が入り乱れていることです(注2)。「新型コロナなんてインフルエンザと同じようなもの」とツイッターで嘯いている医師もいるという話を聞きました。一方で、不安感から外出を恐怖に感じている人もいるようです。
極端な楽観と極端な不安、これらは一見正反対の感情のように見受けられますが、「幸せ」をキーワードに考えてみると、根は同じであるように私には思えてきます。
解説していきましょう。新型コロナを極端に楽観視する人たちというのは「リスクに向き合うことを避ける人たち」です。
興味深い調査を紹介しましょう。群馬大学の片田敏孝教授らが2006年11月の千島列島東方沖の地震後に岩手県釜石市の小学生にアンケートした結果、避難指示を聞いた後、実際に避難したのは290人中わずか7人でした。避難しない理由として、保護者が「大丈夫」「津波は来ない」「前にもあった」などと判断したのです。東日本大震災が起こったのはこのアンケートのおよそ4年後です。
2018年7月西日本の大水害で各地が被害に合いました。特に被害が大きかった岡山では「晴れの国・岡山で大きな水害が起こるはずがないという根拠のない思い込みがあった」と証言する声が報道されました。2019年6月に九州を襲った豪雨で避難指示が出されたとき、鹿児島市の避難率は1%未満だったという指摘もあります。
なぜ避難指示を無視するのか。これを説明するのによく使われるのが「正常性バイアス」と「同調性バイアス」です。正常性バイアスとは、自分にとって都合の悪い情報を無視することで、同調性バイアスとは、他のみんなもそうだから……、と思ってしまうことです。これら心理学用語は心理学者が語るべきかもしれませんが、私見としては「私に限ってそんな不幸が起こるはずがない=私はいつも幸せでいて当然」という気持ちが強いからこのようなバイアスが生まれるのではないかと考えています。
新型コロナにもこういう楽観論がはびこっています。よくあるのが「中国は医療技術が低い。日本なら感染しても死ぬことはない」というものです。ひどいものになると、「アメリカ軍が中国人を殺害するために既存のコロナウイルスにHIVの遺伝子を組み入れて武漢でばらまいた」、という陰謀論もすでに登場しているようです。この陰謀論は「ウイルスは人為的につくられたもの。抗HIV薬のカレトラが新型コロナに効くから(これは事実ですでに日本でも新型コロナに使われています)感染しても心配ない」という考えにつながります。陰謀論というのは自分の考えを正当化するのに(つまり自分の”幸せ”を維持するのに)都合がいいのです。
一方、マスクを探し求めていくつもの薬局を巡るような人たちというのは、「短期間で死亡するかもしれないそんな感染症で自分の”幸せ”を妨害されてたまるか。なんとかしてマスクで自分自身を守らなければ」という思いが強くなりすぎて、たかがマスクを高値で買い求めるという行動に走ってしまうのです。
新型コロナでいえば、マスクはときに大切ですがマスクがなくても感染のリスクを下げることはできます。むしろマスク装着よりも予防に大切なことがいくつもあります(注3)。
今回のこのコラムで私が言いたいのは「新型コロナをどうやって予防するか」ということではありません。言いたいのは「未知の感染症にいつ遭遇するかもしれないという事実を受け入れて理にかなったリスク対策をしよう」ということです。
新型コロナの発端は武漢市の海鮮市場だと言われています。しかし「海鮮」と名がついているものの様々な小動物が生で売られていたそうです。SARSと同じようにコウモリ→小動物→ヒトというルートが指摘されています。さて、ここであなたも考えてみてください。ネット情報によると、この海鮮市場はいわば”観光地”のひとつであり、外国人もよく訪れていました。あなたが、例えばアジアのどこかの街を訪れ、こういった市場があったとすれば近づくことを避けるでしょうか。もしもその街に友達がいたとして、その友達に誘われたとしたら……。
私は武漢市には行ったことがありませんが、動物の市場ということであればタイのイサーン地方(東北地方)や北部にある日本人が行かないような市場を見学したことが何度かあります。そこでは生きたヘビやネズミや、名前も分からないアライグマのような動物も売られていました。今のところ、タイではこういった動物から新種のウイルスがヒトに感染したという報告はありませんが、武漢市で生じたことがタイで起こらないとも限りません。では私は今後そういったところに近づかないかと問われれば、やはりこれまでと同様”観光”を楽しみます。動物に近づかないようにはしますが。
MERSは感染者が大きく減少していますが消滅はしていません。潜伏期間は最長14日程度と言われています。ヒトからヒトへ容易に感染し(2015年の韓国のアウトブレイクを思い出してください)致死率は30%以上です。ではあなたは中東から入国したばかりの人を見かければ逃げ出すのでしょうか。
重篤な感染症に感染するリスクは日常生活のなかでもゼロではないと考えるべきです。また、どこに住んでいても人生には災害や事故などのリスクもあります。つまり、生きている限り突然の不幸に見舞われる可能性はあるわけで、大切なのは「そういったことも起こり得る」ことをきちんと認識した上でリスクコントロールをすることです。「幸せ」が突然終焉を迎える可能性も覚悟しておくべきであり、それを無視することが危険なのです。そして、そのことを理解していれば「生きているだけで”幸せ”」と感じることができます。
いつも幸せでないと気が済まない人と生きているだけで幸せと思える人、本当に”幸せ”なのはどちらでしょうか。
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注1: この「事件」については「医療プレミア」でも「日経メディカル」でも紹介しました。
注2: これも「医療プレミア」(2020年2月13日号)で取り上げました。
注3: 手洗い・うがいが何よりも重要なのは言うまでもありません。先月のミニ講演会で見てもらった「ビデオ」も参照してみてください。
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|2020年1月11日 土曜日
2020年1月 幸せを求めるから不幸になる
前回のマンスリーレポートでは、「承認欲求が強すぎる人はしんどくなってしまう」という話をしました。「他人の評価などどうでもいいではないか」が言い過ぎだとしても、「すべての人に好かれる必要はない」というのが私の考えです。そういうふうに考えられず、他人からいつも褒められることを求めてしまう完璧主義に陥ると承認欲求の束縛から逃れられなくなってしまうのです。
今回はこの話の続きです。承認欲求を語るときに合わせて考えたいことがあと2つあります。ひとつは「上から目線」、もうひとつが「幸福至上主義」です。
「上から目線」という言葉が人口に膾炙しだしたのは2000年代に入ってからだと思います。それまではあまり聞かない言葉でした。もうすっかり定着してしまって流行語という感じもしません。誰もが簡単に使っている言葉、そして私に言わせれば「簡単に使われすぎている言葉」です。
例えばあなたがどこかの会社の新入社員だとしましょう。研修を受けているときに同期の者から偉そうな口の利き方をされればイヤな気持ちになるに違いありません。同期なのにまるで上司のような話し方をされれば腹が立つのはまともな感性であり、これを「上から目線」と呼ぶことには問題ないでしょう。
では、あなたが新入社員だったとして実の上司から偉そうな口の利き方をされたとすればどうでしょう。もちろんその内容にもよりますが、知識も経験も新入社員よりはるかに豊富な上司のコメントが「上から」であるのは当然です。しかし、上司からの忠告にも「上から目線」という言葉を使う人が最近増えているような気がします。患者さんからこのような言葉を聞く機会が少なくないからです。さらに驚くのはその逆の立場、つまり上司からの「悩み」です。
「上から目線」と同様「パワハラ」という言葉もすっかり定着しています。そして、最近はいわば「パワハラ恐怖症」に陥っている管理職の人が増えています。例えば40代のある大企業の管理職の男性は、きちんと丁寧な言葉を選んでいるつもりなのに、「それ、上から目線ですよ」と部下から言われて困った、と話していました。上司は上の立場なのだから上から目線が当たり前であり、部下に過剰な気を使うのはかえって部下にも失礼のように私には思えますが、どうも世間の風潮はそうではないようです。
もっと驚かされたのが高校で教師をしているある50代男性のコメントです。なんと「上から目線と生徒から言われるのが怖い」と言うのです。50代の教師が10代の生徒に上からの目線になるのは当然です。私が高校生のときは尊敬できるような先生はほとんどおらず、そんな教師たちから何を言われても従わず反抗的な態度をとるか無視するかでしたが「上から目線が許せない」と思ったことは一度もありません。
医師からも似たような話を聞いたことがあります。病院で働くある40代の男性医師が看護師から「さっきの患者、先生から上から目線で話された、と言ってましたよ」との報告を受けたというのです。医師が偉そうにしていいわけではありませんが、医師・患者関係というのは知識と経験の量が絶対的に違うわけで、ときに患者の誤った考えを修正せねばなりません。また、もしもこのクレームを言ってきた患者がこの医師よりもずっと年上だとすれば分からなくはありませんが、この患者は20代というではないですか。もちろん医師の言い方にもよりますし、いろんな患者がいるという前提で診療をしなければならないのは事実ですが、こういう患者とは良好な関係を築くのは簡単ではありません。この40代の医師はコミュニケーション能力が高く、多くの患者さんから慕われているのです。
ところで「ムカつく」という言葉が登場したのはいつ頃でしょうか。私が大学生の頃にはすでに日常会話で使われるようになっていましたが、小学生の頃にはありませんでした。私自身は今もこの表現に少し抵抗があり、使わないことはないのですが使う度に違和感を覚えます。
なぜ私が「ムカつく」という言葉に違和感があるのかというと、「そんな感情は人前で口にすべきじゃない」という意識があるからです。ごく親しい人に言うのならまだ分かるのですが、そもそも「生きる」ことは苦しいことや辛いことの連続なわけで、言いたいことをそのまま口にしてもいいのなら四六時中「ムカつく」と言っていなければならないことになります。辛いことに比べると、楽しいことや幸せなことは圧倒的に少ないものだ、というのが私の考えです。
「ムカつく」などという言葉を気軽に、そして何度も繰り返す人たちに対して、「あなたはずっと幸せな気持ちでいなければならないと思っているの?」と尋ねたくなるのです。
ここで、冒頭で述べたことに戻ります。つまり、承認欲求に捉われ他人からの否定的な言葉に過敏になっている人、上から目線で接する他者に対し不快感が抑えられない人、気に入らないことがあるとすぐに「ムカつく」と言いいつも幸せを求めている人には「共通点」があります。それは「否定的な感情を受け入れることができず常にいい気分でいることを当然と考えている」ということです。
こういうタイプの人たちからみると、私のような生き方、つまり「人生は辛いことの方が圧倒的に多く小さな幸せがときどきあれば充分」と考えるような人生は随分とつまらないものに思えるでしょう。けれども、果たして本当にそうでしょうか。本当に辛いことはどこかに追いやらねばならないのでしょうか。
ここで興味深い心理学の研究を紹介しましょう。専門誌「Emotion」2016年版に「悪い気分はそんなに悪くない。否定的な感情と週末の健康との関係(When bad moods may not be so bad: Valuing negative affect is associated with weakened affect-health links.)」という論文が掲載されています。14~88歳の365人が支給されたスマートフォンで毎日6つの質問に答え、回答と生活の満足度との関係が解析されています。その結果、「否定的な感情が有用(useful)である」と答えた人は、否定的な感情を自覚したときに精神的にも身体的にも悪い状態になりにくかったのです。
この研究結果は当然と言えば当然です。初めから辛いことがあることを前提として生きていれば予期せぬ不幸に見舞われたときにも心が動じないからです。
ところで私がこのような心理学の論文の存在を知ったのはこの専門誌を定期購読しているからではなく、英国発症の人文社会科学系ポータルサイト「aeon」(日本の流通業のイオンとは無関係です)に掲載されたコラム「悲しみを心配しないで。辛い期間には利点がある(Don’t worry about feeling sad: on the benefits of a blue period)」を読んだことがきっかけです。
このコラムの最後のパラグラフがうまくまとまっているので少し抜粋してみます。
「悲しみの期間は長期的には我々に利点をもたらす。逆境の経験は回復力につながる。悲しみを避け、無限の幸福(endless happiness)を追い求めれば幸せは得られず、そんなことをしていると真の幸福の恩恵を享受できない」
他人から承認されなかったとき、上から目線で物を言われたとき、ムカつく体験をしたとき、幸せでないと感じたとき、「それも人生の通過点のひとつなんだ」と思うことができるようになれば「真の幸せ」に近づく。それが私の考えです。
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参考:マンスリーレポート
2017年4月「なぜ「幸せ」はこんなにも分かりにくいのか」
2013年9月「幸せの方程式」
2019年12月「「承認欲求」から逃れる方法」
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|2019年12月8日 日曜日
2019年12月 「承認欲求」から逃れる方法
何年か前から、「承認欲求」という言葉をよく目にするなぁ、と思っていると最近は患者さんからこの言葉を聞く機会が増えてきました。そして、診察室でそういう言葉を口にする患者さんというのは、ほぼ例外なく精神の調子がよくありません。というより「心の悩み」を相談しに来た患者さんが話のなかでこの言葉を使うことが多いのです。
ネット上でもこの言葉は多数検索されているようで、いろんな人がいろんなことを言っています。「なるほど」と同意できるものもあれば、その逆に反論したくなるようなものもあります。ただ、おしなべて言うとどの書き手も「承認欲求は誰にでもある。強くなりすぎるのはよくない」と言っているような印象があります。
私としては「う~ん、ちょっと違うんだけどなぁ……」という感覚です。つまり、「承認欲求なんて言葉に捉われずにもっと健全に生きていくことができるのに……」と思わずにいられないのです。そこで今回は「承認欲求の呪縛から逃れる方法」の私見を述べたいと思います。この方法は医学の教科書に載っているわけでもなく科学的なエビデンスがあるわけでもありません。ですが、世の中の原理原則に合致したものだと私は考えています。
太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)の患者さんの話を紹介しましょう(ただし、プライバシー保護のため細部を変更しています。周囲に似たような人がいたとしてもそれは単なる偶然だと考えてください)。
20代半ばの女性Aさんは4年前からキャバクラで働いています。谷口医院を受診するのは風邪を引いたとき、じんましんが出たとき、そして定期的な肝機能の検査です。飲酒量が多いAさんは肝臓の数値があまりよくありません。そんなAさんは谷口医院を受診するだけの外出でもきれいに着飾っています。ある日、不眠を訴えたAさんは「お客様のネットでの書き込みに傷ついた」と言います。少し踏み込んだ話をすると「承認欲求」という言葉を口にされました。
30代前半の男性Bさんは人気の美容師です。自身のブログも人気があり毎日更新し、新しい写真を頻繁に公開しているそうです。勉強熱心でカットやメイクの新しい情報も発信していると言います。感想を寄せてくる人も多く、指名の数はいつもトップです。谷口医院を受診するのは主に喘息と鼻炎ですが、最近あることを告白されました。「3年前から精神科で処方されているデパスをやめたいけどやめられない」と言うのです。詳しく話を聞くうちに「承認欲求」という言葉が出てきました。
AさんとBさんには共通点と相違点があります。共通点としては二人とも「完璧主義」で「努力家」です。まるで自分に欠点があることが許せないと考えているような印象すらあります。
異なるのは過去の生い立ちです。Aさんは愛情のある家庭に育ったとは言えず、勉強もできず容姿も美しいとはいえずいじめの被害の経験もあるそうです。高校を中退した彼女はお金をためダイエットに成功し美容外科の手術を何度かうけたと言います。これらがAさんの人生の転機となり、その後は他人から優しくされるようになり男性が寄ってくるようになり、そしてキャバクラで働きだしてから人生が変わったそうです。
一方Bさんは10代の頃から高身長の美男子でスポーツ万能、サーフィンはかなりの腕前のようです。どこの世界にいても人気者になるという感じです。”華”があり、何をやっても成功しそうな雰囲気が漂っています。
承認欲求について書かれたネット上の言葉を読んでいると「承認欲求が強いのは幼少時に承認されなかったことが原因」という書き込みが目立ちますが、私自身はその意見には賛成しません。もちろんそういう人もいるでしょうが、Bさんのように対人関係に苦労しているとは思えないような人もいるからです。Bさんも医師の私に言えない幼少時の苦しみがあったとは思いますが、そんなことを言い出せば誰にでもなんらかの辛い経験はあるはずです。
むしろ私が強い承認欲求を持つ人の特徴だと思うのがAさんとBさんに共通している「完璧主義で努力家」です。こういう人たちは端的に言うと「すべての人から愛されなければ気が済まない」と考えているのではないかと思えてくるほどです。
承認欲求から逃れるためにはまず「すべての人から愛される人」などこの世に存在しないことを理解すべきです。マハトマ・ガンジーやマザー・テレサですらネット上には悪口があふれています。政治家はどのような業績を挙げようが批判されますし、どれだけの実績を出そうが企業家もバッシングの対象となります。このサイトで何度か述べたように私は稲盛和夫氏から大きな影響を受けていて、私にとって稲盛氏は完璧な方であり氏の悪口を言う者などこの世に存在しないはずだと思っています。しかし、その稲盛氏に対してすら否定的なコメントがネット上にはあります。
次に「他人から承認されること」を目標とするのが極めて危険であることを理解すべきです。「他人」とは仕事上の顧客や上司はもちろん、身内、あるいは「あなたにとって一番大切な人」であったとしてもです。最も親しい人も含めて「他人」から承認されることを求めすぎると、その「他人」があなたの人生の支配者になってしまいます。その人から認められることが行動の最優先事項となるからです。若い頃に経験する”燃えるような恋”の場合はそれでもいいでしょうが、そういう恋は長続きしないものです。
承認欲求の呪縛から逃れるために積極的にすべきことがあります。それは「自分のなかに<変わらざる自身>を持つこと」です。自分が何者で何が大切で何のために生きているのか。こういったことを自分自身ではっきりと確立し、それを自分の”中心”に置けば他人の評価など気にならなくなります。
「そういう考えはひとりよがりでしかない」、あるいは「そんなことを言っていれば(キャバクラや美容院の)顧客が増えないではないか」という考えもあるでしょう。しかし、私は固定客獲得の努力を怠っていいと言っているわけではありません。また、自分にとって大切な人への気遣いをするな、と言っているわけでもありません。自分の命を差し出してでも愛する人を守りたいという気持ちはあっていいと思いますし、そうあるべきだと思うこともあります。ですが、いつも相手に振り回されるような関係では本末転倒です。
ここで私の個人的な経験を紹介しておきましょう。私は子供の頃から勉強もスポーツもできたわけではありませんし、ひとつめの大学時代に自分がいかに無力であるかということを思い知りました。大学時代に知り合った先輩たちのおかげで世間というものが分かるようになり就職する頃にはそれなりの自信がついていたことは過去のコラムで述べましたが、それでも私の認められ方というのは、たいていは何もできないことを披露して自分が馬鹿であることを分かってもらってそこから頑張るという方法です。
それまで劣等感を抱えて生きてきた私の人生が一転したのが医学部受験に合格したときです。会う人ほぼ全員から「すごいなぁ」「すごいですねぇ」などと言われ、医学部入学後はどこに行っても一目置かれるという感じで”承認”されるのが当たり前、となりました。私にとってこれは奇妙な体験でした。それまでの人生で承認されることに縁がなかった私は「医学部に合格したくらいで人格が向上するわけでもないのに、こんなことで人を判断するなんて馬鹿げている」と他人からの承認を冷めた目でみていたのです。そして、こういう経験をしたおかげでかえって「<変わらざる自身>を持たなければそのうちにダメになってしまう」ということが分かりました。昔からよく言うように「成功は人間をダメにする」のです。
この私のエピソードはひとつの教訓と言えると思います。私の医学部受験に賛成する人はほとんどおらず、合格するまでは「無謀なことに挑戦する馬鹿なヤツ」と思われていたわけです。それが合格発表を契機にがらっと変わって”承認”のオンパレードとなったのです。その日を境に”承認”されるにふさわしい人格が私に突然芽生えたとでも言うのでしょうか。つまり、「承認する他人」あるいは「承認しない他人」というのはしょせんその程度のものなわけです。Facebookの「いいね」の数で一喜一憂するなどということがどれだけ馬鹿げたことなのか今一度考えてみるのがいいでしょう。「いいね」に気持ちを揺さぶられるのは<変わらざる自身>を持っていない証なのです。
<変わらざる自身>を持っていれば、自ずと今何をすべきかが分かるようになります。もしも「何をすべきか分からない」という人がいるとすれば、自分が何者で何が大切で何のために生きているのかということに思いを巡らせて<変わらざる自身>を確立すればいいのです。
では、具体的にはどのようなことをすればいいのでしょうか。過去に紹介した「ミッション・ステイトメントをつくる」というのは最もお勧めの方法です(下記参照)。また、これも過去に紹介した「人生を逆算する」というのも試してみるべきです(下記参照)。人生はとても短いものです。他人からの承認でなく<変わらざる自身>を維持することに務めればつまらないことに悩む必要はなくなります。そんなことで悩む時間をもったいないと感じるようになるのです。
************
参考:
マンスリーレポート
2009年1月号「ミッション・ステイトメントをつくってみませんか」
2016年1月「苦悩の人生とミッション・ステイトメント」
2018年9月「人生を逆算するということ」
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|2019年11月11日 月曜日
2019年11月 医療者と他職種の「正直」はどう違うか
前回のこのコラムでは「医師と他職種の共通点と相違点」について述べました。今回はその続きとして「医療者と他職種の「正直」の違い」について話したいと思います。このような話をする人は他に見当たりませんから、あまり他の人が考えない、あるいは考えても意味のないことを考えるのが私の”癖”なのかもしれません。
まずは「正直」という言葉の意味を考えてみましょう。「正直」に似た言葉に「誠実」があります。基本的に「誠実」と「正直」はまったく異なる概念である、というのが私の考えです。分かりやすい例を挙げましょう。浮気をしたときにそれを包み隠さず伝えるのが「正直」で、浮気という裏切り行為を初めからしないのが「誠実」です。ですから、「誠実」は「正直」よりも”上”の概念、あるいは高貴な真実、もっといえばより重要な原則ということになります。「正直になる」よりも「誠実になる」方が人間にとって大切なことなのです。
「浮気を伝える」というのは極端にネガティブな例であり「正直がよくない」ことを説明するには説得力に欠けるかもしれませんが、「正直がよくない」例は他にも多数あります。例えば、「とても疲れて帰宅したときに妻が高熱で寝込んでいることに気づき、今日は元気がありあまっていてご飯をつくりたい気分だ、と言って妻のためにお粥をつくる」、がそうです。他にも、「子供がまだ幼い時に、その子供の母親が不倫した男と駆け落ちして心中したことを隠して、お母さんは病気で死んだんだよ、と言う」とか「ホームパーティに呼ばれて食事をご馳走になったときに、料理が口に合わなくても美味しいと言う」というのもそうでしょう。私流の解釈として「正直」は「誠実」よりも”下”に位置します。
仕事の場面で考えてみましょう。仕事においても「正直がよくないこともある」とかつての私は考えていました。私が初めて本格的に仕事をしたのは最初の大学生時代の旅行会社でのアルバイトです。このアルバイトを通して私自身がどれだけ成長できたかということについてはすでに何度か述べました。今回述べるのはそのアルバイトを通して私が「正直でない」行動をとっていたことです。今振り返ってみれば本当にそれでよかったのかという疑問が出てくるのですが、当時の私はそうすべきと思っていました。
例えば「新人で何の実績もないのに経験者のフリをする」というのがあります。18歳の頃、生まれて初めてバスの添乗をしたときのことです。「初めてです」と正直に言えば、バスのドライバーからも旅行客からもなめられます。そこでベテラン添乗員のフリをするわけです。何を聞かれても自信たっぷりに答えるのです。もちろんこれをしようと思えば経験のある先輩たちから事前に話を聞いて何度もシュミレーションして望まなければなりませんが。
ある離島のリゾート地で「グラスボート」(底が透明になっている小さな船)のチケットを売る仕事をしていたときのことも紹介しましょう。私自身はグラスボートになど乗ったことがないくせに「ものすごく感動しますよ! 僕が初めて乗ったときは興奮して眠れなかったんです! 昨日来たお客さんは全員チケットを買いましたよ!」などと「正直でないこと=嘘」を言っていました。
これも過去に述べたように、私はひとつめの大学生時代にディスコでウエイターのアルバイトをしていたこともあります。この世界は経験が短いことがお客さんからなめられることにつながりますから、ベテランのフリをしなければなりません。仕事中にお客さんと話すことの大半は「正直でないこと=ハッタリ」でした。
ひとつめの大学を卒業して会社員をしていた頃にも「正直でないこと」を何度も口にしていました。輸入品を全国に販売促進する仕事をしていたときは、「アメリカではすごく売れていて間違いなく日本でも流行りますよ」とか「もうリピートの注文がどんどん入っていてもうすぐ品切れになりますよ」とか、根拠のない「出まかせ」を言っていたわけです。
こうやって過去の私が言ってきた「正直でないこと=嘘・ハッタリ・出まかせ」を振り返ってみると、なんだか自分がとんでもなくひどい人間のように思えてきますが、当時は何の罪悪感もないどころか、仕事というのはそうあるべきだ、と考えていました。実際、私のこのような方針というか”戦略”で失敗したエピソードは特にありません。いつも”成功”していたと言ってもいいと思います。
では医師になってからはどうかというと、私が初めて本格的にこの問題を考えたのは研修医一年目の麻酔科の研修で、初めて麻酔をかけるときの患者さんへの説明でした。麻酔は安全な医療行為ではありますがアクシデントがないわけではありません。そんな医療行為を研修医1年目の者がおこなう、しかも麻酔をかけるのが初めて、となると患者さんは不安になるに違いありません。しかしこの場面で「嘘」を言うわけにはいきません。「正直に」自分は1年目の研修医であり麻酔をかけるのが初めてであることを伝えました。
形成外科の研修時代、初めての手術をするときも「初めての手術です」と伝えました。その患者さんは「ということは先生(私のこと)は僕のことを一生忘れないですね!」と言いつつも、その直後に「他の先生もついてくれますよね……」と加えていましたからやはり不安に感じられたのでしょう。
医療者が「正直」であるべきか否かという問題を最も真剣に考えなければならないのは「医療ミス」をしたときです。長い間医療行為をしていると誰でも「ミス」はします。絶対にミスをしてはいけないのが医療職という考えもありますが、長年医療行為をしていて一度もミスがないという医療者はいません。では、すべての医療者がミスをすれば直ちにそれを患者さんに伝えているかというとそういうわけではなさそうです。例えば医療事故があれば直ちにカルテを公開すべきですが、あとから書き換えたとか、裁判で新たな事実が分かったといった内容が報道されることがあります。
私の個人的な意見は「医療者は(他職種とは異なり)常に正直であらねばならない」です。「見つからなければ黙っておいてもいい」という考えには反対です。以前、太融寺町谷口医院の患者さんに薬を誤って処方したことがありました。私のカルテへの薬の入力ミスはたまにあるのですが、ほとんどはそれをチェックする看護師が気づきます。
ですが、そのときは見逃されており2週間後に患者さんが再診したときに気づきました。処方しようと考えた薬をクリックするときにリストのひとつ下の薬を押してしまい、似た名前の別の薬が処方され、既に飲み終わっていたのです。しかし患者さんの様態はよくなっています。黙っておいた方が余計な不安を与えない、という考えもあるかもしれませんが、私は正直に自分が薬の処方を間違えたことを伝えました。その時は「話してくれて感謝します」と言われましたが、その後この患者さんは受診していません。やはり誤薬が許せない、と考えられたのかもしれません。
もうひとつ実例を紹介します。今度は当院の看護師の話です。ある日その看護師は注射の量を間違えて投与したことに気づきました。ただし、それは黙っていれば誰にも分からないことで、さらにその量の違いが患者さんに影響を与える可能性はほぼゼロです。医師に伝えず、患者さんに伝えることを考えない看護師もいると思います。私はその看護師からこの報告を受けたときに「このことを患者さんに伝えるべきだと思いますか?」と尋ねました。すると、その看護師は間髪おかずに「はい」と答え、すぐに患者さんに電話をかけて謝罪したのです。黙っておけば誰も気付かないことを上司である私に報告し、直ちに患者さんに電話で知らせるというその看護師の勇気と行動に私がどれだけ感動したか想像できるでしょうか。
医師になるまでの私の考えが間違っていたのかどうかについては今も答えが出ていませんが、医療者にとっての「正直」は「誠実」と同じくらい重要な原則であることは間違いありません。
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