マンスリーレポート

2021年6月3日 木曜日

2021年6月 コロナワクチンを当院で実施しない理由

 2021年3月、翌月より高齢者に対する新型コロナウイルスのワクチン(以下、単に「コロナワクチン」)が始まることが決まり、保健所から太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)での接種依頼が来たとき、私は「実施します」と直ちに返答しました。

 ですが、最終的には谷口医院では「実施しない」ことに決めました。高齢者に対してだけでなく、当院をかかりつけ医にしているすべての患者さんに対しても、です。そして、ワクチンを希望する人全員に集団接種会場で接種するよう助言しています。ただし、コロナワクチンについても、谷口医院には担うべき重要な任務が残っています。今回はこれらについてまとめてみます。

 谷口医院がコロナワクチンを実施しないことを決めた理由は主に3つあるのですが、そのなかでも最大の理由は「コロナワクチンは集団接種会場でうった方がはるかに安全」だからです。

 厚生労働省が5月26日に公表した資料によると、5月21までにファイザー社製のワクチンを接種した約611万人のうち、25歳から102歳の男女85人の死亡が確認されています。このうち5月16日までに報告があった55人について、厚労省は「その全員が情報不足等によりワクチンとの因果関係が評価できない」しています。

 役人は後からの責任追及を避けるため断定した表現を嫌います。「因果関係が評価できない」の本音は「ワクチンが原因かもしれないけど、それを決定づける証拠がない」という意味で、要するにこれは「ワクチンが原因の可能性もありますよ」と言っているわけです。

 611万人の接種で85人が死亡ですから、100万人あたりの死亡者数は13.9人となります。これを多いとみるか少ないとみるかについては他のワクチンが参考になります。たいていワクチンの説明をするときは「だいたい100万人に1人くらいに重篤な副作用が起こる」という表現が使われます。それに鑑みると、コロナワクチンのリスクは1桁以上高いことになります。

 それほどのリスクのあるコロナワクチンですが、「うたないこと」もまたリスクになります。有効率95%であることがわかっているワクチンをあえて接種せず、コロナに感染して死亡すれば悔やみきれないでしょう。コロナについてはワクチンをうたないことがリスクであるとも言えるのです。つまり、うってもリスク、うたなくてもリスク、それが非常事態の現実なわけです。

 さて、ワクチンを接種することを決めたとして、接種後のアクシデントは最小限にしなければなりません。そのアクシデントを「接種直後」と「しばらくたってから」に分けて考えてみましょう。

 接種直後に起こり得るアクシデントはアナフィラキシーです。また、気分不良や嘔吐なども起こり得ます。もしも意識を失うような危険な状態になったときに最も必要なのは何でしょう。こんなときには「じっくりと話を聞いてくれる優しい看護師」も「最新の論文に熟知し学会発表を頻繁にしている優秀な医師」も役に立ちません。

 そのようなときに頼りになるのは、最適な救命用具、薬、そしてそれらを使いこなせる知識と経験が豊富な医師と看護師。そして、最も大切なのが「十分なマンパワー」です。つまり、人数がそろっていることが最重要事項なのです。

 要するに、ワクチン接種直後の安全性を確保しようと思えば、谷口医院のようなクリニックで接種するよりも集団接種会場の方がはるかに優れているわけです。

 ただし、コロナワクチンには「接種直後」だけでなく「しばらくたってから」のリスクがあります。実際、接種数日後に「予期せぬこと」が起こり、他界しているケースが目立ちます。このリスクを適切に評価し、きちんとフォローしていくのがかかりつけ医の使命です。よって、谷口医院の患者さんには、「ワクチン接種後何かあった場合はすぐに(電話かメールで)連絡してきてください。場合によっては最優先で診察しますし、重症化している場合はこちらで救急車を手配して救急病院に交渉します」と伝えています。

 谷口医院がコロナワクチンを集団会場で接種するよう勧めている理由は他にもあります。ワクチン接種をすることにより一般の診察に影響が及ぶことも大きな理由です。コロナ禍で電話再診を増やし、不要不急の受診を控えてもらっていることもあり、以前に比べると少し余裕をもって外来をおこなえていますが、それでも日によっては待ち時間が長くなってしまいます。この状況のなかで、何かと手間のかかるワクチンも手掛けるとなると、通常の外来に来られる患者さんに迷惑がかかることになります。またスタッフの疲労度もかなり増すのは間違いありません。

 もうひとつ、谷口医院がコロナワクチンを実施しないことを決めた理由は「コロナワクチンを実施する診療所が思いのほか多い」ことです。医師会から聞いている情報では、かなりの内科系クリニックがワクチン接種をおこなうそうです。3月の時点で「当院はワクチンを実施します」と保健所に回答したのは、「他の診療所はやらないから行き場をなくす人が増えるだろう」と考えたからです。また、この時点では集団接種がおこなわれることがまだ決まっていませんでした。

 ですが、現在では、集団接種のみならず、多くの一般の診療所/クリニックが実施することを表明しています。ならばかつてのPCR検査のように「他がやらないのなら谷口医院でやらねば……」と考える必要はもはやないわけです。

 思い起こせば昨年(2020年)6月、コロナを疑った患者さんを診察して当院から保健所に交渉してもPCR検査を拒否されることが多く、それならば、と考え検査会社に交渉して谷口医院でPCR検査を開始しました。検査会社によると、谷口医院が大阪市で初めてPCRを実施したクリニックだったそうです。当時はPCRどころか、発熱患者の多くがかかりつけ医を含む複数の医療機関から受診を断られ、保健所からは検査を拒否され、行き場をなくしていました。

 そのため、谷口医院の「発熱外来」の原則は「谷口医院をかかりつけ医にしている人のみ」を対象としたものでしたが、例外的に「どこに行っても断られる」という患者さんを診るようにしていました。そして、そういう患者さんが後を絶たなかったのです。

 ところが、こういう患者さんは今年(2021年)の2月頃よりほぼいなくなりました。おそらく「発熱外来」をおこなう医療機関が増えてPCRを実施するようになったからでしょう。ところで、大阪府の「発熱外来」実施医療機関は大阪府のウェブサイトの「大阪府 診療・検査医療機関 公表一覧 [Excelファイル/33KB]」に掲載されています。このなかの「A方式」の医療機関はかかりつけ医でなくても診察可能なところです。谷口医院は「B方式」です。B方式は「かかりつけにしている患者さんのみ対応します」という意味です。

 ということは、いつのまにか、谷口医院は「コロナにはさほど積極的でない医療機関」へと変わりつつあり、ようやくおよそ1年4か月ぶりに元の状態に戻って来た、ということになります。

 ただし、現在の外来が元の世界と異なるのは「ポストコロナ症候群」と私が呼んでいるコロナ後遺症の患者さんが少なくないことです。これからは、さらに「ワクチン接種後の後遺症」の訴えを診察する機会が増えるかもしれません。
 

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2021年5月15日 土曜日

2021年5月 「残された時間」がわずかだからメルマガ発行

 私には残された時間がわずかしかない……

 などと言えば「何をおおげさな……」と思われるでしょうが、ここ数か月でこの気持ちが「確信」に近づきました。といっても、末期がんが見つかったわけでも、自殺を決意したわけでもありません。では、なぜ私には残り時間がわずかしかないのかを説明していきます。

 まず、私は以前から人生を逆算して計画を立てることを心がけています。思い通りにならないのが人生であり、これまでの人生を振り返ってみても予期せぬことの連続であったわけですが、それでも「〇歳までに△△をしなければ……」という計画を立て、見直す作業を頻繁にしています。太融寺町谷口医院のことで言えば、いつまでこのスタイルでクリニックを続けるべきか、ということをよく考えます。最近は「生涯現役」という言葉をよく聞きますし、死ぬまで働きたいと考える医師も少なくないのですが、私はそのようには考えていません。

 その理由は2つあります。老後はゆっくり過ごしたいから、ではありません。ひとつは、タイでやり残したことがあること、もうひとつは、いずれ今のようには身体も頭も動かなくなるから、です。

 「定年制をなくしていくつになっても働くのが社会のためにも自身の健康のためにも望ましい」とする意見を聞く機会が増えてきました。これを間違っているとは言いませんが、若い頃と同じようなパフォーマンスは発揮できません。体力も記憶力も、さらには認知力も落ちてくるからです。現在のように、働く若い患者層が中心のクリニックで1日約70名の患者さんを診察し、困ったことがあれば何でも相談してもらうというスタイルは、ある程度の体力と常に新しいことを学んで知識を増やしていく努力が不可欠となります。

 もちろんその努力を放棄するわけではありませんが、どうしても体力の低下は避けられず、若い頃には考えられなかった凡ミスもするようになるでしょう。そういったミスをする前にクリニックの医師は引退しなければならない、というのが私の考えです。引退した後のことは完全に決まったわけではありませんが、以前実施していたようにタイのエイズ施設でひとりひとりの患者さんとじっくり向き合うスタイルのボランティアを考えています。

 ところで、私が日本での開業を急いだ理由は「医療機関から見放されている人の力にならなければ……」と考えたからです。医療不信がある、医療機関でイヤな思いをした、医療者から心無い言葉を吐かれた、どこに行っても「うちでは診られない」と言われた、何科を受診していいか分からない、など、医療者からの助けを必要としているのに医療機関を受診できない人が大勢いることを知ってしまったが故に「自分がクリニックを立ち上げねば」と考えたのです。

 大学病院で外来をしているときも「どのようなことも相談してください」と言っていたのですが、(大学)病院では診断がつけば「続きは診療所/クリニックで診てもらってください」と言わねばなりません。私はこれがイヤで「いつでも困ったことがあれば相談してください」と言える立場に立ちたかったのです。

 日本中のすべての人に「困ったことがあればいつでも相談を」と言いたいわけではありません。すでに何でも相談できるかかりつけ医を持っている人は、私のところには来る必要がありませんし、かかりつけ医をまだ持っていない人も遠方の人は診られません(このため、遠方から来られる人には、せっかく来られたところを申し訳ないのですがお断りさせてもらっています)。それに、当院をかかりつけ医にするようになった人も、「いつでも気軽に」ではなく、できるだけ受診回数を減らすように努力してもらっています。「検査や薬は最小限にして、受診回数を減らしていきましょう」は15年前の開業時から言い続けている言葉です。

 さて、こんな私は「かかりつけ医をみつけてもっと利用すべきだ」ということを様々なところで言い続けているわけですが、新型コロナウイルス(以下、単に「コロナ」)が流行しだしてからこの考えが変わりました。なぜなら、この1年と3か月の間、「かかりつけ医からはうちでは診られないと言われてどこに相談していいか分からない」という相談をもう百回以上も聞いたからです。当院は2020年3月の時点から「症状に関係なくコロナが心配な人は相談してください」と言い続けて、通常の時間枠とは別の「発熱外来」を設けました。PCR検査が保健所の許可が必要だったときから検査会社と独自に交渉して、2020年6月上旬には当院で検査を始めました。

 ところが、多くの診療所/クリニックは「コロナは診ません」という方針をとったのです。私にはこれが理解できませんでした。なぜ、日ごろ困っている患者さんが「コロナかもしれない」と不安に苦しんでいるときに「うちでは診られないからよそに行って」と言えるのでしょう。百歩譲って何らかの事情で診られないとしても、ならばなぜ診てもらえる医療機関を紹介しないのでしょう。高熱と呼吸困難で苦しんでいる患者さんに対して、「自分で診てもらえるところを探せ」はあまりにもひどすぎます。

 我々医師の世界では「前医を非難してはいけない」というルールがあります。これは前医の診断が間違っていたとしても、それはそう診断する理由があった事情を尊重しなければならないからです(参考:メディカルエッセイ第26回(2005年10月)「後医は名医?!」、マンスリーレポート2018年2月「医師が医師を非難するのはNGだけど…」)。

 「前医を非難してはいけない」というルールには今も従うつもりでいますが、この1年あまりで「例外は多数ある」と考えるようになりました。もっと言えば、「例外の方が多いのでは」と思わざるを得ません。この1年間で当院をかかりつけ医にしている患者さんの多くが仕事を失くしています。そして、新たな仕事が見つからないと言います。飲食店の経営者の人たちは「協力金のおかげでなんとか続けていられるがこの先が不安」と言います。そんななか、保険医協会という医師の団体は「全ての医療機関に減収補填を」と訴えているのです。私はこの文字を見たとき自分の目を疑いました。患者数が減ったのはコロナを診ないからに他なりません。それで、自身が感染する危険を回避し、患者数が減って暇になって収益が減ったからから補填せよ、はあまりにも自分勝手です。仕事をなくした患者さんのことをどう考えているのでしょうか。

 コロナ流行後、いろんな立場の人が批判されています。首相官邸、与党、各自治体及びその首長、公衆衛生学者、保健所、などなど。私の意見を率直に言うと、もっとも非難されるべきは開業医です。日ごろ困っている患者を見放すことが私には理解できないのです。コロナ流行後、この1年余りで当院への相談メールは急増しました。全国から寄せられています。今のところ、どれだけ時間がかかろうと全例に返事をしていますが、もっと効率よく、適切な情報を伝えることができる方法はないだろうか……。

 そこで思いついたのが「メルマガ」です。もちろん(守秘義務の観点から)受け取った質問メールをそのまま大勢に転送することはできませんが、内容をアレンジしてプライバシーを確保した上で大勢の人に知ってもらうことは有用でないかと考えるようになりました。これまで当院に寄せられた相談メールは2万通以上あります。そして、改めてよく考えてみると似たような内容のメールが多数あります。

 また、私は言うべきことは言葉を飾らずに率直に言うようにしていますが、それでも現在連載している「医療プレミア」や「日経メディカル」ではあまりに露骨なことを書けば編集でカットされますし、このサイトでも書きにくいこともあります。メルマガならそういった表現の制約に悩まされることもないでしょう。もちろん自分の言葉には責任を持ちますが、ダイレクトに言いたいことを表現したいと考えています。「残された時間」を使って、開業をしたときから抱き続けている「患者さんに伝えたいこと」をメルマガで述べていきたいと思います。

 そんなメルマガは「まぐまぐ」を使うことにしました。興味のある方は「まぐまぐ」のトップページから「谷口恭」で検索してみてください。

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2021年4月11日 日曜日

2021年4月 幸せに必要なのはお金、それとも愛?

 過去のコラム「なぜ「幸せ」はこんなにも分かりにくいのか」で、年収は高ければ高いほど幸せになるわけではないという学説を紹介しました。科学誌『PNAS』に2010年に掲載された、ノーベル経済学賞受賞者ダニエル・カーネマンの論文「高収入で人生の評価が改善しても感情的な幸福は改善しない(High income improves evaluation of life but not emotional well-being)」です。カーネマンによれば、年収が75,000ドル(約900万円)を超えると、それ以上収入が増えても「感情的な幸福」は変わりません。

 年収75,000ドルは低くありませんが、これは米国の2010年のデータであり、日米の家賃の比較などから考えて、日本でいえば年収300~400万円くらいに相当するのではないか、とそのコラムで私の考えを述べました。この論文を紹介したのは、ノーベル経済学賞受賞者によるものだから、というより私自身の”感覚”と一致しているからです。お金はあればあるほど嬉しいことは認めますが、贅沢に走らなければある程度の収入があれば生きていけます。短い人生の限られた時間のなかで使える金額はしれています。ちなみに、もしも時間が買えるのなら私は金の亡者になるかもしれません……。

 さて、今回のテーマも最近取り上げる頻度が多くなっている「幸せ」です。今回は、まずはこのカーネマンの説に反対する論文を紹介したいと思います。その論文が掲載された科学誌はカーネマンのものと同じ『PNAS』。2021年1月26日号に掲載されたその論文のタイトルは「年収75,000ドルを超えたとしても幸せは収入に連れて上昇する (Experienced well-being rises with income, even above $75,000 per year)」というもので著者はマシュー・キリングスワース(Matthew A. Killingsworth)。わざわざタイトルに「年収75,000ドル」という言葉を持ってきていることからも分かるように、これはあきらかにカーネマンの論文に対抗したものです。

 研究の対象者は米国の18~65歳(年齢中央値は33歳)の労働者33,391人(37%が既婚、36%が男性)。平均年収は約85,000ドル(約1,020万円)で、約1%が年収50万ドル(約6,000万円)以上でした。携帯電話のアプリを用い、幸福感や満足感などが調べられました。その結果、収入が多ければ多いほど日々の幸福感が高く、人生に対する満足度も高いことが分かりました。さらに、収入が多ければ多いほど、自信や快適さなどポジティブ感情をより強く感じ、退屈な気持ちや不快感などのネガティブ感情をあまり自覚していないことが示されました。これらを示したグラフ(「幸福感と満足感」「ポジティブな感情とネガティブな感情」)をみればこの研究は説得力があるようにみえます。さらに興味深いことに、カーネマンの唱えた「年収75,000ドル」を境に、「満足感」が「幸福感」を上回り、「ポジティブ感情」と「ネガティブ感情」が入れ替わっています。

 ここまではっきりと「収入はあればあるほど幸せ」という結果を突き付けられると、「人生はカネ次第なのか……」と考えたくなります。

 この論文をどう解釈するかは個人の自由ですが、私自身の正直な気持ちを言えば「調査に何らかの誘導があったのではないか」と疑っています。それは自分自身に照らし合わせての気持ちではありません。日ごろ診察している患者さんを診ていての感想です。

 太融寺町谷口医院は都心部に位置していますから、どちらかというと若い患者さんが多いクリニックですが、50代以上の患者さんも少なくはありません。患者さんに「幸せですか?」と尋ねているわけではありませんし、この論文のような調査をしたわけではありません。ですが、幸せそうにしている高齢者には一定の傾向があります。私が感じている「高齢者にとっての幸せの秘訣」は「仲の良いパートナーがいるかどうか」です。

 この私の実感を裏付ける研究を紹介したいと思います。それは「ハーバード成人発達研究(Harvard Study of Adult Development)」です。75年以上にわたり724人の男性が追跡調査されており、すでに研究責任者は4代目です。

 この研究を紹介した記事が米国の月刊誌「Atlantic」に掲載されています。その記事から一部の重要な部分を抜粋します。

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 高齢期を迎えて最も幸せで健康な人々は、喫煙せず(あるいは人生の早い段階で禁煙し)、運動し、飲酒はしないか飲んでも嗜む程度にとどめ、精神的に活発だ。だが、これらの習慣は「あるひとつの大きな習慣」と比較すると見劣りする。晩年の幸福の最も重要な因子は、「安定した関係、特に長いロマンティックなパートナーシップ」だ。 80歳で最も健康な者は、50歳での人間関係に最も満足していたのだ。
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 「Atlantic」のこの記事は少し「ロマンティックなパートナーシップ」を強調しすぎているように思われますが、「50歳での人間関係が良好であれば80歳で健康」は、まさに「ハーバード成人発達研究」で分かった最重要事項です。4代目の研究責任者のハーバード大学医学部精神科のRobert Waldinger教授は繰り返しこのことを主張しています。Waldinger氏のTEDは世界中で繰り返し閲覧されています。

 この研究が興味深いのは、調査対象者に調査開始の若い頃に「人生の目的は何か」と訊ねていることです。80%以上が「お金(富)」と答え、50%は「有名になること(名声)」と回答しています。しかし、生涯を通しての調査で、最も大切なのは「身近な人との人間関係」であることがわかったのです。

 Waldinger教授の英語は大変聞き取りやすく、上記URLのTEDなら英語のスクリプトもついているために一度ご覧いただきたいのですが(感動のあまり涙が出てくるかもしれません)、ポイントは、パートナーシップの重要性を強調している一方で、社会的なつながりをパートナーに限定していないことです。むしろ、Waldinger教授は「愛情がなく諍いのある結婚生活を維持するのは離婚するよりも不健康」と断言しています。結婚でなくてもいいので、家族、友達、地域社会と社会的につながっている人は、つながりが少ない人よりも幸せで、健康で、長生きすることが研究で明らかになったのです。

 先述の「Atlantic」でも述べられているように、パートナーとの関係は「燃え上がる儚い恋愛」ではなく「長続きする愛情」が大切です。婚姻状態を維持しているかどうかは関係ありません。「ハーバード成人発達研究」のサイトに掲載されている論文「愛は何と関係があるのか。既婚の80代の社会的機能、健康状態、毎日の幸福 (What’s love got to do with it? Social functioning, perceived health, and daily happiness in married octogenarians )」によれば、結婚しているかどうかが幸せに影響するのはわずか2%です。

 さて、これを読まれているあなたは冒頭で紹介した「お金はあればあるほど幸せ」の論文に納得しこれからの人生、お金に執着しますか? それとも深い人間関係を大切にしますか?

 最後に、Waldinger教授がTEDの講演でも取り上げているマーク・トウェインの言葉を紹介しておきましょう(訳は谷口恭)。

 こんなにも短い人生で 、諍い、謝罪し、傷つけ、責めるような時間などない。愛し合う為の時間しかないのだ。たとえそれが一瞬だとしても。

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2021年3月10日 水曜日

2021年3月 「社会主義か、野蛮か」、あるいは良心か

 新型コロナウイルスが流行する前から、米国では社会主義を求める声が大きくなっていたと言われています。おそらく増大する格差社会に嫌気がさした人が増えていたのでしょう。米国では大学を卒業しても奨学金の返済が懐を圧迫し、医療保険にも入れず、最近は物価高から家賃を払うこともできず車で寝泊まりする人も少なくないと聞きます。そこに新型コロナが追い打ちをかけました。一部の州では自殺者も増えているようです。そんななか、「平等」を原理原則とした社会主義にますます人気が出てくるのは当然かもしれません。

 翻って日本では、社会主義を支持する人も一定数はいますが、米国ほど顕著ではありません。社会主義を訴える勢力のある野党は現在存在しないと言ってもいいでしょう。しかし、日本も米国ほどではないにせよ、格差社会が次第に顕著になってきています。今回は私見をふんだんに交えながらあるべき政治体制について考えてみたいと思います。まずは80年代後半からの世界の体制の流れをまとめてみたいと思います。

 1989年6月4日、北京の天安門広場で民主化を求めて集結していたデモ隊に対し、軍隊が武力行使し多数の死傷者を出した事件、いわゆる「天安門事件」が起こりました。この頃の中国は中国共産党の独裁に反対し民主化を求める声が大学生を中心とした若い世代の間で広がっていました。天安門事件での死亡者は一説では1万人を超えるとも言われています。

 1989年11月9日、東ドイツ政府が、国外への旅行自由化を発表したことで(実際には完全自由化を宣言したわけではないが市民にはそのように理解されたと言われています)、その日の夜にベルリンの壁にベルリン市民が殺到し、翌日にはベルリンの壁の撤去作業が始まりました。いわゆる「ベルリンの壁崩壊」です。

 1985年にソビエト連邦の書記長に就任したゴルバチョフはペレストロイカ(再建)、グラスノスチ(情報公開)といった改革に乗り出し西側の文化に近づく方針をとりました。80年代後半にはソ連崩壊が現実的なものになっていました。

 日本では昭和が終わり平成に入る頃に、こういった社会・共産主義の終焉を物語るような事象が世界中で次々に起こっていました。東側社会(旧共産圏のソ連、東欧など。文脈によっては中国や北朝鮮、ベトナム、ラオスなども含む)は西側に大きく遅れをとり、民主主義が社会・共産主義に勝利したのは誰の目にも明らかでした。もちろん、民主主義・自由主義が絶対的に正しくて人類を幸せに導いてくれるわけではありません。チャーチルの名言「民主主義は最悪の政治形態といわれてきた。他に試みられたあらゆる形態を除けば」がいろんな場面で繰り返し引用されることからもそれは明らかでしょう。

 当時の私自身もソ連、中国、東ドイツで起こった出来事に影響を受けました。大学生になりたての頃は(他の多くの学生と同様)「権力が悪い」と決めつけた、言わば左よりの思想に傾きかけたことがありましたが、世界の出来事で完全に社会・共産主義は終わったと思いました。そして、今度は、右に傾いたというわけではありませんが「保守」というものを理想と考えるようになりました。90年代前半のこの頃、西部邁氏の思想に夢中になっていたことは過去のコラム「無意味な「保守」vs「リベラル」」で述べました。

 社会・共産主義がうまくいかなかった理由について私が出した結論は「人間の多くは善人ではない。善人でない者が行政を担ったときには腐敗が起こり、不平等が生まれる。だから政府は小さい方がいい」というものです。また、福祉を充実させた社会主義国では、不正をして働かずに福祉の恩恵に預かろうとする輩がでてきます。つまり、役人の側だけでなく、市民側にも善人でない者が少なからずいて、これは不平等なわけです。そこで「政府は小さい方がいい」、つまりいわゆる「夜警国家」が現実的には一番いいのではないかと考えるようになりました。

 しかし、夜警国家というのは、安全保障、治安維持といった最低限のことしかせず、福祉や医療には最小限でしか関わらない政治形態です。そのような社会ではハンディキャップを背負った人たちや不運から苦しい生活をしている人たちを見捨てることになってしまいます。

 ではどうすればいいのか。私が期待したいと考えたのは、役人ではなく一般市民の中にいる「善人」です。個人や小さなNGOがそういった人たちを助けていくのが理想の社会ではないのか、と考えたのです。

 まとめると、私が考えた理想の社会は「夜警国家+善良な市民が自主的に困っている人を助ける社会」です。そして、この考えをかなり長い間持ち続けていました。2009年9月号のマンスリーレポート「選挙よりも政策よりも大切なこと」でもそのようなことを述べています。

 では今の私はどうかというと、やはり基本的な考えは変わっていません。「行政には頼らない。なぜなら頼ってもたいていは裏切られるから」というものです。だから新型コロナが流行りだした昨年(2020年2月)、厚労省や大阪府が「37.5度の発熱が4日以上続いたときには保健所に連絡を」と言っていた頃から、行政には裏切られるケースが続出するのが目に見えていましたから「太融寺町谷口医院をかかりつけ医にしている人は体温や日数に関わりなく症状があれば連絡してください」と案内したのです。予想通り、保健所に交渉してもたいていはPCR検査を受け入れてくれませんでした。そこで、谷口医院では5月に保健所に谷口医院独自で検査をすることを交渉し、そして6月初旬から院内での検査を開始しだしました。

 もちろん私のこの考えは不充分なものであり、すべての困窮している人を平等に支援できないことは百も承知しています。私自身が手を差し伸べることができる人数はたかがしれていますし、手を差し伸べようとした人に対しても結果として上手くいかないことが多々あると理解しています。ただ、「政府がやるべき。政府の責任だ」などとは言いたくないのです。これからも私自身は、「利他的な精神を持った人を見つけて共に困窮している人を支援する」、という立場であり続けます。

 しかしながら、新型コロナが今後も猛威を振るい続けるとすればどうでしょうか。利他的精神を持つ個人や組織だけでコロナ克服は困難です。なぜなら、コロナ克服のためには社会全体をまとめる必要があり、それにはある程度の強制力が必要だからです。そして、現在新型コロナ対策で最も成功しているのは(世間で言われている台湾やニュージーランドではなく)中国ではないかと私は考えています。

 日本が第3波に襲われ世界中で感染者が減らずパニックが起こっていた昨年(2020年)末、武漢ではマスク無しで大勢の若者がクラブで騒いでいました。2020年12月20日の朝日新聞は「武漢、強権下の市中感染ゼロ コロナ拡大1年 クラブ客「世界一安全な街」」というタイトルでこの状況を報道しました。

 天安門事件で1万人以上の市民が犠牲になった中国では今、多くの人々は自国を誇りに思っていると聞きます。私の知る限り、中国本土の人たちは自国の悪口を言いません。むしろ香港や台湾が劣っているといった言い方をします。彼(女)らはすでに自分たちが世界の覇者と考えているようなきらいもあります。

 ただし、中国のその成功の裏にはプライバシーなき独裁政治があります。「The Economist」2021年1月16日に掲載された記事「ほとんどの中国人は厳しいコロナウイルス対策を驚くほど受け入れている (Many in China are strikingly accepting of harsh virus controls)」に新型コロナウイルス陽性が発覚したある女性会社員について報じられています。この女性が過去10日間に訪れた場所、それはラーメン屋から乗車した路線まですべてが公開され、この女性と接した可能性のあるおよそ100人、さらに女性の職場の近くで働く数千人にPCR検査が行われました。女性の自宅付近の道路が封鎖され、その地域の住民約50万人が1週間隔離されています。

 このようなプライバシーのない社会が理想だとは到底思えませんが、上述した私が考えるような「小さな政府」であれば、無責任で他人のことを考えない人たちのせいで秩序が維持できなくなるでしょう。日本にはよくも悪くも「同調圧力」が働くせいで新型コロナに対して無責任な人が大勢現れることはないでしょうが(「同調圧力」が日本で社会主義が求められない原因かもしれません)、もしも良心を持たない人たちが勝手な行動をとりだせば社会が維持できなくなります。

 国民のほとんどが国家を支持する現在の中国をみていると、天安門事件がまるで実在しなかったかのようです。ちなみに、中国の検索エンジンで「天安門事件」を検索しようとするとすぐにエラーとなるそうです。

 「社会主義か、野蛮か」という言葉はマルクス派の女性哲学者ローザ・ルクセンブルグが言ったとされる言葉です。今の世界をみているとこの言葉が真実のような気もします。けれども、私があえて主張したいのは次の言葉です。

 「社会主義か、野蛮か」、あるいは良心か

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2021年2月9日 火曜日

2021年2月 コロナ禍でも旅に出よう

 「GoToトラベル」がこれだけ批判され中止に追い込まれたなかで、「旅に出よう」などと言えば「非常識だ!」と各界から非難されるでしょうが、それでも私は「旅に出よう」と言い続けたいと考えています。ただし、すべての人に旅を促しているわけではありません。私が少々のリスクを抱えてでも旅に出ることを勧めているのは次の2つのグループです。

 1つは「先が長くないかもしれない人」です。もちろん持病を抱えた高齢者がコロナ禍で外出するのは大きなリスクが伴います。たいていの観光旅行は不要不急とみなされ、「そんな持病を持っている人がコロナ禍で旅行だなんてとんでもない!」という意見の方が多いでしょう。

 ですが、例えば余命半年を宣告されている人ならどうでしょう。もしも、あなたのお母さんやお爺さんが来年の桜を見ることが絶望的な状況だとして、今年の桜を見せてあげたいとは思わないでしょうか。桜を見なければ6月まで生きられたのに、4月に花見に行ったがために1ヶ月寿命が短くなったとすれば、あなたは、そして当事者のあなたのお母さんやお爺さんは不幸なのでしょうか。

 旅行を勧めたいもうひとつのグループは大学生くらいの若い人たちです。太融寺町谷口医院の大学4年生の患者さん、つまり4月から就職する人たちに対し、私は「寝る時間を惜しんででもどんどん遊んで旅行にも行ってきてください」と言っています。昨年4月に大学1年生になった人たちにも「4年間の楽しい時間はあっという間に過ぎ去ってしまうから、1日1日が貴重だと思ってとにかく外に出ましょう。旅に出ましょう」と話しています。ちなみに、私は若者にはコロナに関係なくどんどん恋愛をすることを勧めています(参考:「新型コロナ それでも若者は恋をしよう」

 不謹慎だ、という声が聞こえてきそうですが、遊び方を工夫すればいいわけです。若い人たちが注意すべきなのは「大人に感染させないこと」です。例えば、キャンピングカーを借りて若者だけで海や山に行くのは何の問題もありません。電車や飛行機を使う旅行も守ってもらわねばならないマナーがありますが、それらをクリアすればOKです。そのマナーについては後で述べるとして、まず「GoToトラベル」が批判された経緯とそれに伴う議論について例を挙げて少しだけ触れておきましょう。

 2021年1月21日、医学誌『Journal of Clinical Medicine』に京都大学の西浦博教授らが発表した論文「”Go To Travel” Campaign and Travel-Associated Coronavirus Disease 2019 Cases: A Descriptive Analysis, July?August 2020(「GoToトラベル」キャンペーンと旅行が関与した新型コロナの症例:記述的分析2020年7月から8月 )」が掲載されました。これに対し、数名の識者が異議を唱えSNSを介した論争がありました。ここでその詳細を振り返ることはしませんが、なぜそのような意見の食い違いが起こったのかを明らかにしましょう。意見の相違が生じるのは「何を基準にした分析で何を目的としたものかが明確でないから」です。わかりやすく言えば、西浦教授はGoToトラベルを中止すべきだと主張しているわけではなく、単に「こういう方法でデータを分析するとこういう結果になりました」と言っているだけです。他方、この論文を批判した識者たちは、この論文が政府を批判し直ちにGoToトラベルの中止を勧告したものだと捉えたのです。

 西浦教授は医師向けのポータルサイトm3.comで「(自身の研究は)GoToトラベルという政策の是非を強く問うものではありません。また、この私たちの記述疫学研究が、広い範囲で報道に取り上げられましたが、それが政策議論に直結しすぎるのも私たちの意図するところではありません」とコメントしています。

 西浦教授の論文に反論した人たちは、あたかもGoToトラベルが感染者増加の最たる原因のように読める論文の妥当性について意見を述べました。こういう人たちの意図するところもよく分かります。GoToトラベルが諸悪の根源のような風潮が社会に広がれば迷惑を被る人が出てくるわけですからこういった意見は必要です。

 このような”論争”がメディアで取り上げられると、一般の人たちは「いったい旅行はいいの?悪いの?」と分からなくなるでしょうし、「GoToトラベルを積極的に実施/中止すべきだ)」という政策を考えたくなる人も出てくるかもしれません。

 ですが、あなたやあなたの大切な人にとって最も重要なことは「政策」ではなく「あなたやあなたの大切な人がどうするか」です。政府や公衆衛生学者にとって重要なのは国民全体の感染者を減らすことですから政策が重要になります。一方、個人でみたときには、まず自分自身と自分の身内の”幸せ”が最重要事項です。幸せになるためにリスクを引き受けるという選択肢も当然出てきます。

 分かりやすい例を挙げれば、GoToトラベルがあろうがなかろうが、緊急事態宣言が出てようが出てなかろうが、遠距離恋愛をしている若い大学生はパートナーに会いに行くことを何よりも優先します。恋愛中の若い二人を止めることは誰にもできません。たとえ相手に感染させたとしても、周囲の者に感染させなければ二人の行為を非難することはできないのです。

 では若者が旅行するときには何に気を付ければいいのでしょうか。簡単です。「大人の前でマスクを外さない」です。これだけです。これだけを守ればどこにでも出かければいいのです。ただし、これをきちんと守ろうとすると旅行の楽しみが少しばかり減ってしまうのは事実です。

 例えば、新幹線や特急に乗るときの楽しみに「友達との飲食」がありますが、これは慎んだ方がいいでしょう。私が大学生の頃、友人たちと新幹線に乗ったとき、自由席の椅子をくるんと回転させビールを買って”宴会”を楽しみました。このようなことはコロナ禍ではできません。地方都市に行けば、小さな居酒屋に行ってみたくなりますがこれも慎重にならねばなりません。もちろんホテルや旅館内でも共用の場でマスクを取ることは極力避けねばなりません。

 「書を捨てよ、町へ出よう」という寺山修司の言葉は”真実”であり、大勢の若者に考えてもらいたいと私は思っています。人生で大切なことは、本にもいくらかは書いてありますが、それが自分の血となり肉となるには読むだけでは不充分です。外に出て、人と触れ合い、人に揉まれなければ、大切なことは分かりません。

 私は過去のコラムで「人生で大切なことの7割くらいは居酒屋で学んだ」と述べました。そして、今回は「人生で大切なことの4%くらいは旅から学んだ」ことを付け加えておきます。たった4%?、と思われる人もいるでしょう。私もそう思います。これはつまり、私自身がまだまだ旅をしなければならないことを意味しています。私がこれまで訪れたことのある国は20もありませんし、今も訪ねたことのない県がいくつかあります。旅先でのふとした経験がその後の人生に大きな影響を与えることもあるわけで、旅はとても大切です。

 特に若者にとっては大切です。若いうちは借金してでも旅をすべきです。そして、旅を続けるべきなのは若者だけではありません。私は立場上、現在は外出を控えていますが、いずれ再び旅に出ます。せめて「人生で大切なことの2割くらいは旅から学んだ」と言えるくらいになるまでは……。

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2021年1月11日 月曜日

2021年1月 世界がどう変わろうとも各自がすべきこと

 「2020年が始まった時点ではこんな一年間になるとは誰も予想していなかった」と誰かが言っていました。たしかにその通りで、学者とか経済人と名の付く人から宗教者まで「2020年は新型コロナ一色になる」と年初に予言した人はおそらく皆無でしょう。

 では2021年はどうなるのでしょうか。おそらく多くの人が「まだコロナ禍が続く」とみているのではないでしょうか。一部にはワクチンができたから下半期には元の世界に戻るという楽観論(例えばこのコラム)もあります。目下のところ、日本政府としては東京オリンピックを開催する予定だと聞きます。

 世界全体でどのような事件が起こるのか、日本ではどうか、日本の経済や株価や為替は……、という話は専門家に任せるとして、今回は「世界がどうなろうとも一人一人がすべきこと」について考えてみたいと思います。

 まず「自分ではどうしようもないことが起こるのが現実だ」ということを我々は認識しなければなりません。もしも1年前のお正月に戻れたとして、あなた自身がどんな努力をしようとも新型コロナウイルスの勢いを止めることはできませんでした。そして、新型コロナ以上の災いが2021年に絶対に起こらないと断言できる人は一人もいません。南海トラフ大地震が2021年に100%起こらないと断言できる人はいるでしょうか。

 事実を客観的に見るのは意外に難しいものです。トランプ大統領が何度も使うフェイクニュースという言葉があります。興味深いことに、あきらかに正確なことを「陰謀だ!」と言って否定する人も少なくなく、どう考えてもおかしなことを真実と捉える人もいます。驚くべきことに、米国ではQアノン信奉者が国会議員に当選しています。これは、知識人であろうとも「人は物事を自分の見たいように見ている」ことを示しています。

 もちろん、新聞に書かれていることがすべて正しいわけではありません。それどころか、メディアの報道は一度は疑ってかかるべきだと思います。情報の出所は確かか、場合によっては誰が書いたかにも注目すべきでしょう。一見陰謀論に見えるものが実は正しかったということもあるかもしれません。

 新型コロナで言えば、「新型コロナはただの風邪」という意見が正しいか間違っているかを論争することに意味はありません。「ただの風邪と変わらないくらい軽症のこともあれば若くして死に至ることもある」が事実です。「ワクチンは有効か無効か」という問いに対しては「効く可能性があるが効かない可能性もある」が事実です。「それでは何も言っていないのと同じだ」という意見があるでしょうが、「ワクチンは期待してもいいが効果は不明」が現在言える最大限のことです。

 新型コロナに関して確実に言えるのは「(年齢や持病により確率は変わりますが)感染しても治癒する可能性が高い」ということです。であるならば、感染しないような対策をとった上で、それ以上「感染すればどうしよう……」と考えるのではなく「感染してもしなくてもコロナ禍で生きていかねばならない」と認識することが重要です。

 過去1年間で我々は人間の嫌な部分をたくさんみてきました。感染者への差別、医療者への差別、自粛警察、海外では人種や国籍による差別もあります。どうやら我々人間の正体は「とんでもなく醜い生き物」のようです。この表現が大袈裟だとしても「醜い側面も持つ生物」くらいはいえるでしょう。つまり、自分さえよければいいと考え他人を蹴落とす人たちが大勢いることが分かったわけです。2021年からは世界中のすべての人が利他的な生き物に突然豹変するということはあり得ないでしょう。ならばこの「事実」を受け入れなければなりません。

 つまり、他人からの助けなど期待できない、またはいつ裏切りに合うかもわからない冷酷な社会で我々は生きていかねばならないのです。そのために必要なのは「力強く生きること」で、経済的な自立が必要になります。「働かざる者食うべからず」という言葉を私は好きになれないのですが、各自が自身の能力をお金に変換できる術を持たねばなりません。厳しいことを言えば、たとえ障がいがあったとしてもお金を得るために何をすべきかを考えるのです。

 もちろん、すべての人が上手くいくわけではなく、なかには努力を重ねたけれど仕事が見つからない、すぐにクビになる、という人もいるでしょう。障がいを持つ人が安定した収入を得るのは簡単ではありません。しかし、公的なセーフティネットがありますし、そういった恩恵に預かれない人たちも、支援してくれる人が現れることもあります。利己的な人が多いのは事実ですが、「困っている人を放っておけない」と考える人たちが少なからず存在するのもまた事実だからです。

 しかしながら、自身が努力をせずに他人の支援を期待することはできません。終身雇用はとうの昔になくなり、リモートワークが進んだことで「会社にいるだけの人」は無用であることがはっきりしました。つまり、仕事ができなければ会社での居場所がなくなるわけです。「私を雇うことで会社に利益がでますよ」ということを示せなければ仕事が得られない時代になってしまったといえるでしょう。

 厳しい現実はまだあります。新型コロナに感染しても回復すれば寿命が短くなるわけではありません。後遺症があるのはほぼ確実ですし(私はこれを「ポストコロナ症候群」と呼んでいます)、数十年後には「新型コロナに感染した人は寿命が短い」という研究がでるかもしれませんが、現時点では新型コロナに感染しようがしまいが寿命が短くなるわけではありません。つまり、新型コロナの流行とは関係なく大勢の人はかなりの確率で希望しなくても長生き”してしまう”わけです。これもまた「事実」です。

 2019年に「老後2000万円必要問題」が話題になりました。詳しい説明は省略しますが、ひとつ言える確実なことは「多くの人の老後が経済的に不安」で、不安な人にとっての最善の対処法は「可能な限り働き続ける」ことです。このことを主張する識者は少なくないと思いますが、あまり指摘されない重要事項があります。それは、「加齢とともに仕事のパフォーマンスが低下する」ことです。

 メディアは高齢者が元気に働く姿や高齢者の起業を”美しく”取り上げますが、全員がうまくいくわけではありません。むしろ、若い人たちの足手まといとなり、いつ解雇されるか分からず怯えている高齢者の方が多いわけです。少子化社会で人手不足になるから高齢者も売り手市場になるという意見もありますが、雇用する側からみれば「その高齢者を雇うことによって生まれる利益がその高齢者の人件費を上回らなければ採用しない」のは自明です。これは直視したくないことではありますが、これもまた「事実」です。

 「仕事のパフォーマンス」とは単に体力のことを言っているわけではありません。個人差はありますが、年をとると理解力や記憶力もほぼ確実に低下します。当院は過去14年以上の歴史のなかでそれなりの人数のスタッフを雇用してきました。なかには1日で辞めた人もいます。数十人をみてきて感じるのは、ある程度年をとっていて経験の乏しい人は仕事のパフォーマンスが低いことです。不思議なことに、若い人なら経験がなくてもできます。つまり、同じように経験のない20代と40代を比べれば生育環境や学歴に差がなくても20代の方がずっと有利なのです。40代でも明らかな差があるわけですから、経験のない60代なら20代とは勝負にならないでしょう。

 もちろん40代の人はすべての仕事ができないと言っているわけではありません。ですがある程度の年齢になると経験のないことを簡単にはできないのは「事実」です。実は私は随分前からそのことに薄々気付いていたのですが心の中で否定していました。人生いつになってもやり直しがきく、と信じていたからです。前半に述べたように「物事を見たいように見よう」としていたのです。しかし、何十人もの従業員をみてきてその「事実」を認めざるを得なくなりました。

 現在40代の人が20代に戻ることはできません。ならば「今日が一番若い日」と考えて、今できる最善のことを始めなければなりません。大変厳しい意見になりますが、以上から導かれる結論は「年をとっても続けることができる仕事を一日も早く見つけなければならない」となります。

 今回の内容をまとめておきましょう。すべて私の主観を取り除いても客観的にいえる「事実」だと思います。

・先のことは誰にも分からない。新型コロナ以上の災いが起こる可能性もある。

・世の中には困った時に手を差し伸べてくれる人もいるが、身勝手で自分のことしか考えず他人を差別する人も多い。

・大勢の人にとって、新型コロナに感染しても死ぬ確率はわずかであり、また、今後我々の寿命が極端に短くなる可能性も少ない。我々は厳しい社会の中で、望まなくても長期間生き続けることになる。

・多くの人は長生きすればお金の心配が出てくる。

・生涯現役で働くならお金の心配は解消されるが、体力と気力があったとしても仕事のパフォーマンスが落ちる。

・年をとってから新しい仕事を始めるにはハンディがある。年をとっても続けることができる仕事を一日も早く見つけるべきだ。

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2020年12月14日 月曜日

2020年12月 「新しい世界」を受け入れよう

 大阪府では新型コロナウイルスの新規感染者が連日300人を超えていますが、間もなく減少傾向に入ると思われます。なぜそのような予想ができるかというと、増加の幅が縮小傾向に入ったからです。毎日の感染者数を何気なくみていると「今日は〇〇〇人感染したんだな」と思ってしまうかもしれませんが、これは誤りで、毎日の感染者数の発表は「1~数日前に検査を受けて陽性となった人数」で、その人たちが発症したのはその数日前で、感染したのはさらに数日前です。ということは「真の新規感染」は発表された1週間から10日程度前に起こっているはずです。

 つまり、感染者の増加幅が小さくなってきたということはそれだけで感染が落ち着いてきたことを示しているわけです。しかし、これにて一件落着……、というわけにはいきません。人々が行動を引き締めると感染者数が減るのは当然であり、また緩みだすと増加に転じます。当分の間、これを繰り返し、第4波、第5波、……、と続くことになります。

 ワクチンができるまでの辛抱だ、という声が一部にあります。ですが、ワクチンができたところで元の世界に戻ることはありません。WHOの緊急時の責任者であるMichael Ryan氏も「ワクチンがパンデミックを終わらせるわけではない」と明言したことが報道されています。

 なぜワクチンができても新型コロナの脅威が消えないのか理由を述べていきます。まず、100%有効なワクチンは少なくとも現段階では存在しません。例えば、早ければ年内にも接種開始されるといわれているファイザー社のワクチンについてみていきましょう。

 11月19日付の同社のプレスリリースでは43,000人以上を対象とした研究がおこなわれ、プラセボ(偽薬)群で162例、ワクチン群で8例の感染がそれぞれ認められ、ここから有効率は95%とされています。95%という数字が極めて高いことは間違いないのですが、よくある誤解が「ワクチンをうてばウイルスに感染しても95%の確率でウイルスを退治できる」というものです。

 有効率というのはそうではなくて「プラセボと比較したときにその薬(ワクチン)がどれくらい発症を減らすことができたか」をみる指標です。研究に参加した人数が43,000人ですから、ファイザー社のワクチンを接種した人、偽薬を接種した人を共に21,500人とすると、偽薬接種の21,500人中発症したのは162人、ワクチン接種の21,500人中に発症したのは8人ということになります。偽薬でも99%以上の人(21,500 – 162 / 21,500)は感染していないのです。一方、ワクチンを接種しても0.04%の人(8 / 21,500)は発症したのです。また、そもそもこのような研究に参加する人というのは新型コロナウイルスに多少なりとも興味がある人が多いでしょうから、それなりの感染予防をしていたはずです。有効率が高いのは間違いありませんが、全員に必ず効果があるわけではありません。

 さらに「効果持続期間」についても検討せねばなりません。人数は多くないものの再感染の報告が集まってきています。そして、今回のワクチンは「緊急性」が要求されたのだからやむを得ないとはいえ、各社のワクチンは効果持続時間を検証していません。いいワクチンが開発されたけれど効果は1年も持たない。そして安全性は100%担保されない。そのうちにウイルスが変異してワクチンが効かなくなった……、という可能性は充分にあると私はみています。ちなみに、ファイザー社の社長は、ワクチンの有効性を発表したその日に420万ポンド近くの自社株を売却したことが報道されています。

 患者さんからも知人からもメディアの取材でもよく聞かれる質問に「コロナ流行前の生活にいつになったら戻れるのですか?」とういものがあります。私の答えは「もう元には戻れない」です。このことを信じられない、あるいは信じたくないと言う人は少なくありませんが、私は元の世界は諦めるべきだと思っています。では「元の世界」とはどのような世界なのか。一言で言えば「初対面の人とも居酒屋でワイワイできる世界」です。

 「元の世界」に戻れないことがどれだけ辛いかについて、私はある程度理解しているつもりです。私が連載している毎日新聞の「医療プレミア」にも書いたのですが、「人生で大切なことの7割くらいは居酒屋で学んだ」と私は自負しています。お酒を交えて楽しいことだけでなく辛いこと悲しいことを仲間と語り合い、仲間が別の仲間をつれてきて交流が広がり、先輩たちからは人生の教訓を学び、そして仲間と議論し、ときには喧嘩にもなる、それが私の人生を振り返ったときの居酒屋の姿です。

 「人生で大切なことの7割」は大袈裟だろうと思う人もいるでしょうが、大学の仲間と、あるいは会社の同僚と居酒屋でワイワイガヤガヤと楽しい時間を過ごした思い出がない人の方が少ないでしょう。そこで生涯の親友や人生を共にするパートナーと巡り合ったという人もいるに違いありません。元のように楽しめないのはもちろん居酒屋だけではありません。ディスコやクラブも以前のような遊び方はできません。そういった場所でのパーティも従来のかたちでは開けません。今もカラオケ店は存在していますが、私はカラオケは絶滅する可能性すらあると思っています。

 ウェブ会議やミーティングが「意外に便利」であることに気付いた人も多いでしょうが、一方で「ウェブにはもう飽きた。やはり人は人の目を直接見てコミュニケーションを取るべきだ」と感じている人も多いのではないでしょうか。私は随分前からこのことを言い続けています。あまり同意してくれる人はいないのですが、私はZOOMなどでのコミュニケーションなら電話の方がはるかに意思疎通がしやすいと考えています。電話でなら微妙な息遣いやトーンの変化が察知できるからです。そもそもコミュニケーションのメインは言葉ではなくnon-verbalのはずです。

 「初対面の人とも居酒屋でワイワイできる世界」はもう戻ってきません。書物やビデオやyoutubeからは知識を得ることはできますが、non-verbalのコミュニケーションは不可能であり、他者と触れ合うことができません。

 ではそんな新しい世界の中で、我々は何を求めて、何を目標にして生きていけばいいのでしょうか。これを明らかにするには「何のために生きているのか」を考えなければなりません。そしてこの問いに簡単に答えられる人はあまりいません。ちなみに私は10代半ばから数年間、ほとんど毎日「人は何のために生きているのか」を考えていましたが答えは見つかりませんでした。

 しかし、大学生になってから少しずつその答えが分かるような気がしてきました。仲間と楽しい時間を過ごすため、愛する人を守るため、感動を伴う経験をするため、などいろんな答えに気付き、さらなる答えを求めるようになりました。会社をやめて母校の社会学部の大学院を目指していた頃、そして医学部に入りたての頃は、学問を究めて世の真実を知ることが人生の答えだと思っていました。医師になりタイのエイズ施設にボランティア目的で訪れたときは、助けを求めている人の力になることこそが答えだと思うようになりました。

 そして今、新型コロナのせいで他人と触れ合うことが容易にはできない世界となりました。そんな世界で今、私ができることは何なのか。そのひとつが今まで自分が探し求めて得ることができたかもしれない人生の「答え」を若い人に伝えることではないかと思っています。しかし「居酒屋」は簡単には使えません。ウェブで伝えるのは困難です。ではどうすればいいのか。最近の私は毎日このことついて考えています。 

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2020年11月10日 火曜日

2020年11月 米国大統領選挙と新型コロナでみえてくる「勝ち組」の愚かさ

 2020年11月の米国大統領選挙で民主党のバイデン氏が勝利しトランプ氏が失脚したことが報じられました。今回の選挙は私自身としてはどちらが勝ってもおかしくないと思っていましたが、4年前の大統領選ではトランプ氏が勝利するなどとは微塵も思っていませんでした。就任してからでさえ、「誇り高きアメリカ人がこんな人物を大統領と認めるはずがない。近いうちに選挙がやり直しされるだろう」と本気で思い込んでいたほどです。

 しかし、世界中のメディアを見聞きし、実際にラストベルト地域などトランプ氏を支持する地域への取材記事などを読むにつれて「なるほど、そういうことか」と思うようになっていきました。トランプ氏がいくら差別発言をしようが、下品な言動を披露しようが支持者には関係がない。いや、むしろトランプ氏がそういった非理性的な行動をとればとるほど、一部の人達からは熱狂的に支持される理由が次第にわかってきたのです。

 その「理由」とは「リベラルへの反逆」です。つまり、民主党を支持するリベラルの言うきれいごとや偉そうな態度に我慢ならない人たちの「怒り」がトランプ氏支持へとつながっているのだと思うのです。「怒り」というのは反理性的な感情です。ですから、トランプ氏が非理性的・反理性的な言動を示せば示すほど、日ごろ感じているリベラルへの怒りが発散できるというわけです。つまり、トランプ氏は、リベラルを嫌う人たちの「代弁者」となっていたのです。

 ではなぜ彼(女)らはリベラルに対して「怒り」の感情を抱くのか。極端なエピソードを創作するとこんな感じです。

 あるハイスクール。勉強はたしかにできるけど付き合いが悪くて冗談が通じないビル。いいとこ育ちで、ちょっとは美人かもしれないけど愛想のないケイト。そして俺たち。ビルやケイトは有名大学に行き、俺たちは地元の工場勤務。不景気で工場が閉鎖に追い込まれた。他の工場で雇ってもらおうと思っても不法滞在のヒスパニック系がマジョリティになってしまっている。そんななか、ビルは弁護士に、ケイトは会社の社長をしていると聞いた。ビルは「平等が大切だ」とかきれいごとを言って移民に権利を与える運動をしているらしい。ケイトは「黒人を守る」などと言っているが本音は黒人へのマーケットを増やしたいだけなのは見え見え。今度の選挙? ビルやケイトは民主党を支持しているって? じゃあ俺たちは……。

 私の印象でいえば、FOXニュース以外の米国の主要メディアはほぼすべてリベラルで、民主党支持です。大手メディアのスタッフは(ほぼ)全員が高学歴者で、差別反対主義者で、ポリティカルコレクトネス大好き、きれいごと大好きです。つまり「エリート」もしくは「ブルジョア」です。

 こう言ってしまうと、マルクス主義でいうブルジョアジーとプロレタリアートの対立に聞こえるかもしれませんがそうではありません。実際、トランプ氏はプロレタリアートの代弁者でないのは自明です。大金持ちなのですから。むしろ、生まれは貧しかったけれど一所懸命に努力をして成功している人たちや、人種差別の被害に遭いながらも努力を重ね高収入を得ている人たち、つまり自身をプロレタリアートと考えているような人たちが民主党を支持しているのが現在の米国だと思うのです。

 マルクス主義の用語でこれらの対立を説明できないのならどう考えればいいのでしょうか。その答えが「勝ち組」です。つまり、「勝ち組への怒り」がアンチ民主党、そしてトランプ氏支持につながったのではないかというのが私の推論です。

 では、なぜ勝ち組が怒りや反感を買うのか。それは彼(女)らに「謙虚さ」が欠落しているからだ、というのが私の考えです。現代社会というのは努力が美化される社会です。努力して這い上がり栄光を手にすれば他人から賞賛を集めます。ロースクールに入り苦労して弁護士になった、メディカルカレッジに入学して努力を重ね医者になった。彼(女)らは欲しいものを手に入れるために自分の時間を犠牲にし、がんばってきたわけです。

 そういう人たちの中には自分にだけでなく他人にも厳しい人が少なくありません。「成功していないのは努力が足りないからだ」という考えに固執するようになり、自分が勝ち組になったのはあれだけ頑張ったのだから当然だ、とうぬぼれるようになります。

 そして、彼(女)らがその後も自分のアイデンティティを維持するには、自分が成功しているのは「公正で正しい競争社会で勝ち抜き、今も平等な社会で勝負しているのだ」と思いこむ必要があります。だから彼(女)らは「平等」という概念を大切にします。性的指向や性自認に関わらず、有色人種も、外国人も、身体障がい者も、みんなが”平等に”チャンスが与えられている世界で自分は正当な競争を勝ち抜いたんだ、という「幻想」が彼(女)ら”エリート”には必要なのです。

 そして、これは日本にもそのままあてはまります。「勝ち組」の人たちの多くは、たしかに真面目に努力を重ねて成功しているのでしょう。一方、「勝ち組」の人たちのいくらかはきれいごとが好きで、努力を重ねて成功したのは自分ががんばったおかげだと思いこんでいます。

 東日本大震災のときには被災者を支援し、ラグビーで日本が善戦したときには「ワンチーム」という言葉に熱狂し支え合いを美化していた「勝ち組」の人たちも、新型コロナが流行しはじめると「他者を思いやる発言」が減っていないでしょうか。仕事をなくすかもしれないと考え始めると他人のことを考える余裕がなくなるのかもしれません。

 新型コロナの流行で「勝ち組」の立場を脅かされそうになった人たちのいくらかは、また新たな努力を始めるでしょう。会社を経営している人なら、助成金を上手に申請してこの状況を耐え忍び、そして再び成功することでしょう。成功を確認した時点で「苦境のなかでここまでこれたのは自分ががんばったからだ」と再び思うに違いありません。一方、コロナ禍でも雇用やお金の不安を感じることなく働いている人は「これまで一生懸命がんばってきたからだ」と自分自身をねぎらっているのではないでしょうか。

 今から14年前のコラム「医者は「勝ち組」か「負け組」か」で、私は「勝ち組」と言う考え方に疑問を投げかけ、何でもお金に換算する考えを強く批判し、お金が勝ち負けの指標にはならないことを主張しました。また、お金を求めることが馬鹿馬鹿しいことをタイの農民と日本のビジネスマンの逸話を用いて述べたこともあります(「なぜ「幸せ」はこんなにも分かりにくいのか」)。成功の原因として自分の実力が占める割合はほんのわずかであり、「人生を決めるのは99%の運と1%の努力」だということを過去のコラム「『偏差値40からの医学部再受験』は間違いだった」で述べました。

 私は自分自身のことを「勝ち組」とは思っていませんし、また「勝ち組」を目指すつもりもありません。過去のコラムでも述べたように自分自身の役割を演じるだけです。米国の大統領選については他国の人間が口をはさむべきではありませんが、日米問わず、勝ち組の人たちには”勝っている”要因をもう一度考えてもらいたいと思っています。”勝っている”のは自分ががんばったからなのか?ということを。

 最後に旧約聖書から興味深い言葉を引用しましょう(日本聖書協会の和訳を引用しようとしたのですが著作権の関係でできないようなので私が勝手に英文を訳しました。尚、英文にも複数あり、下記に示したのはその一例です。興味のある方はBible Hubのサイトを参照ください)。

私が白日のもとで見てきたのはこういうことだ。すなわち、足の速い者が競争に勝つとは限らない。強い者が闘いに勝つとは限らない。知恵のある者がパンを手にできるわけではない。賢者が金持ちになれるわけでもない。しかし、これらを成し遂げた者たち全員に「時」と「運」が味方したのだ。

“I have seen something else under the sun: The race is not to the swift or the battle to the strong, nor does food come to the wise or wealth to the brilliant or favor to the learned; but time and chance happen to them all.”

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2020年10月12日 月曜日

2020年10月 不幸の原因は他人と比較すること

 「不幸の原因は他人と比較すること」という命題は正しいでしょうか。私は「真」だと考えています。ではその「対偶」の「他人と比較しなければ不幸にならない」はどうでしょうか。対偶とは「PならばQ」に対して「QでないならPでない」ことを示す数学の用語です。

 不幸の代表のようにみなされることの多い「貧乏」を考えてみましょう。「貧乏は不幸か?」と尋ねられれば、おそらく多くの人は「その質問に答える前に、貧乏の定義を教えてほしい」あるいは「どの程度の貧乏かによる」と返答するのではないでしょうか。つまり、漠然と「貧乏は不幸か?」と問われても答えようがないのです。

 では、「失業して無一文の人」と「無借金の公務員」はどちらが貧乏で不幸でしょうか。よほど屁理屈が好きな人を除けば「無一文の人」が貧乏で不幸と答えるでしょう。では「失業して無一文だが健康な30歳」と「消費者金融から300万円の借金がある65歳」はどちらが不幸でしょうか。この質問なら屁理屈が好きな人も「より貧乏で不幸なのは65歳」と答えるのではないでしょうか。つまるところ、「貧乏」は他人と比較することで初めて成立する概念なのです。

 ところで、人はなぜ他人と自分を比較するのでしょうか。それは、おそらく生物学的な本能です。「他人より優位に立たねば生存競争に不利」と考えるプログラムが人の遺伝子に刻まれているはずです。「他人より強くなければ獲物にありつけず飢え死にする」「他人より強くなければ子孫が残せない」という生き残る上での「戦略」があり、その戦略にのっとった行動をとる者が勝ち残り自身の遺伝子を残していったわけです。現代の社会は原始社会から大きく変化していますが、それでも「他人より金を稼がねば高級な物が食べられない」「他人より魅力がなければ素敵なパートナーを得られない」という”戦略”は本能として残っているのです。ですから、自己啓発でよくある「自分らしさを大切に」という言葉には生物学的な観点からは説得力がないわけです。

 ならば、やはり人は本能に逆らえず他人と比較し続けなければならないのでしょうか。私の答えは「ノー」です。実際、このサイトで繰り返し述べているように、すでに私は「競争社会」から降りています(「競争しない、という生き方」 「競争しない、という生き方~その2~」)。出世にはまったく興味がなく、無一文では困りますがお金に執着したこともありません。他人より目立ちたいとか、他人よりモテたいと思ったことも若い頃にはありましたが、今はまったくありません。そしてこの生き方がとても心地いいのです。しかし、この考えのまま原始社会にタイムスリップしたとすれば、私はたちまち生き残ることができなくなるでしょう。ですが、そのようなことが起こるはずがありませんし、たとえ新型コロナウイルスよりも恐ろしい感染症が猛威をふるったとしても人類が原始社会に戻るとは思えません。

 「貧乏」に話を戻しましょう。私は自分がどれくらい貧しいかについて他人と比較することは(馬鹿らしいので)しませんが、比較しようと思えばできないことはありません。私はアラブの石油王に比べると極端に貧乏ですが、北朝鮮の農民と比べると驚くほど金持ちです。日本人で比較してみると、私は一部上場企業の役員たちよりもずっと貧乏ですが、戦中にルソン島で人肉を摂取しなければならなかった人たちや戦後シベリアに抑留され馬糞に含まれる麦の屑をあさっていた人たちよりもはるかに金持ちです。他者との比較が馬鹿らしいのは「上には上がいて下には下がいる」からです。先に例として挙げた「失業して無一文の人」でいえば、周囲が借金を抱えている失業者ばかりだとすれば相対的に貧乏と言えませんし、スタートアップの準備をワクワクしながら開始しているかもしれません。

 他人よりいい成績をとっていい大学に行けば出世できる、という考えがあります。これはある意味で正しいと思います。一流大学で優秀な成績を収めた方が大企業に就職するのが有利でしょうし、その後もがんばって成績を伸ばせば出世できるでしょう。そして、そういったことを望む人は勝手にやればいいわけです。しかし、いい成績がとれずいい大学に行けなかった人がそれが理由で不幸になるわけではありません。大企業で出世する以外にも人生には「幸せを感じられること」がいくつもあるからです。過去のコラム「なぜ「幸せ」はこんなにも分かりにくいのか」で紹介した「タイの農民と日本のビジネスマン」の逸話からも分かるように「出世」や「お金」は見方を変えれば馬鹿馬鹿しいものにさえなるのです。

 なぜ現代社会では比較することが馬鹿げているのでしょうか。原始社会のように、全員の食糧がないといった事態になれば他人より優位に立たねばならないわけですが、現代ではそのようなことはありません。そして、貧乏な人も金持ちの人も胃袋の容積はたかがしれています。高級な物しか美味しく感じられないという人もいるのでしょうが、そうでない人の方が多いでしょう。ちなみに、私はマクドナルドが今も大好きで、スマホのトップページにアプリを置いています。過去のコラム(「”貧乏”な者が医師に向いている理由」)でクーポンを使う30代が気持ち悪がられるという逸話を述べましたが、私は50代になった今もそれをやっています。吉野家と王将のアプリもトップページに置いていますし、王将は現在スタンプをためています。

 「格差」という言葉に敏感に反応する人がいます。格差社会では王将のスタンプをためてマクドナルドのクーポンを利用しているような私は「下」に位置するのでしょうが、そんなこと気にしなければいいのです。いつか、高級中華料理と高級ハンバーグを食べてやる、などと思う人は格差を気にして他人との比較をすればいいと思いますが私には興味がありません。

 科学誌「PNAS」2016年5月17日号に「機内の物理的および状況の不平等はエアレイジを予測する(Physical and situational inequality on airplanes predicts air rage)」という興味深い論文が掲載されています。機内で乗客の怒りが生まれることを「エアレイジ」と呼ぶそうです。そのエアレイジはファーストクラスがある機内で起こりやすくなり、エコノミーの人がファーストクラスを通って席につくと怒りはさらに強くなるそうです。つまり、他人との格差を見せつけられ自分が「下」にいることが分かると怒りモードに入りやすいというわけです。

 しかしながら、当然のことですが、エコノミーの人全員が怒りやすくなるわけではもちろんありません。おそらくファーストクラスの席を見ただけで怒りやすくなるような人が高級料理を求め、私のようにクーポンやスタンプについて楽しく語る者を蔑むのでしょう。ただし、たしかに座り心地がよくてスペースの広い座席は魅力的です。この夏もタイに渡航する予定だった私は今年初めてエアアジアのビジネスクラスを予約しました(タイ航空や日本航空など既存の航空会社は高すぎて初めから論外です)。とても楽しみにしていたのですが、新型コロナのせいで渡航できず、さらに日本のエアアジアが倒産したせいで大金(私にすれば大金です)を失ってしまいました……。やはり慣れないことはすべきでないのかもしれません。

 「自分らしく生きる」という言葉を私は好きになれません。なぜなら「自分らしく」という表現自体が他人の存在を意識しているからです。自分らしいかどうかなど気にせずに、他人と比較することを放棄して、むしろ他人と自分との比較が馬鹿げていると認識することを勧めたいと思います。ファーストクラスとの差にイライラするよりも、初めからそんな比較などせずにさっさとエコノミーの席について好きな本にでも熱中する方がはるかに有益で健康的です。

 「他人と比較しなければ不幸にならない」が「真」であることにあなたは同意されたでしょうか。同意されたのならば「不幸の原因は他人と比較すること」もあなたは認めたことになります。なぜなら、ある命題が真だとすればその対偶もまた真となるからです。これは数学及び論理学の基本です。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2020年9月13日 日曜日

2020年9月 新型コロナ、楽観論に流されてはいけない

 東京、次いで大阪や沖縄を中心にこの夏流行した新型コロナウイルスのいわゆる「第2波」も終息しつつあります。そして、重症者の割合が第1波の3~4月に比べると少なくなっていることもあり「新型コロナは実はたいしたことがない」「すでに弱毒化した」といった意見を言う人たちの声が大きくなってきています。医療者のなかにも「新型コロナ軽症説」を訴える人たちが増えてきています。

 ですが、実際にはまだまだ油断は禁物です。今回は巷で流行している軽症説を紹介していきましょう。現在流布している軽症説は主に3つあります。

軽症説#1:ウイルス弱毒化説

 3~4月は死亡者が多かったし、死亡率も高かった。それに比べて第2波では死亡者も死亡率も低い。死亡率(死亡者/感染者)が低いのは検査をした人が増えたことが要因だとしても、死亡者が少ないことの説明はつかないではないか。そして、ウイルスの変異はすでに報告されている(参考:「新型コロナ 第2波で重症や死亡が少ないわけ」)。日本でこの夏流行した新型コロナウイルスは毒性が低くなった。

軽症説#2:日本人には「ファクターX」がある

 日本人は他国の人たちと異なり、重症化しない要因「ファクターX」が存在する。そのおかげで日本人に新型コロナが感染しても抗体ができるまで待つ必要もない。もっと簡単な免疫(これを「自然免疫」と呼ぶ)で充分に対処できる。

 補足しておくと、「ファクターX」というのはノーベル賞を受賞された山中伸弥先生が提唱された概念です(ちなみに私は医学部の学生時代、山中先生に薬理学を教わっていました)。このファクターXの正体はまだ分からないけれども、このおかげで日本人は軽症で済んでいるとし、その理論を構築されたのが国際医療福祉大学大学院の高橋泰教授です。高橋教授はファクターXの正体は未知としつつも、「すでに日本人の3人に1人はウイルスに触れているが大半は感染が成立しなかったか、感染しても軽症で済んだ」という自説を展開されています。

軽症説#3:日本人の多くはすでに中和抗体を持っている

 実は日本人は第1波の前、つまり1~2月に新型コロナに感染して抗体ができた。その抗体のおかげで感染しにくいし重症化もしない。

 この説を提唱されているのは、京都大学大学院医学研究科の上久保靖彦特定教授です。上久保教授によると、新型コロナウイルスには三つのタイプがあるそうです。「S型」「K型」「G型」の3つで、「S型」と「K型」は軽症ですみ、「G型」と「G型」の変異型が重症化すると言います。先に「S型」にかかり、その後「G型」にかかれば重症化し、これが欧米で死亡者が多い原因だそうです。一方、「K型」に先に感染し、その後「G型」にかかった場合は「K型」によってできた抗体が「G型」にも有効なおかげで軽症で済む。そして日本人の多くは1~2月に「K型」に感染していたというのです。

 ではこれら3つの説を解説していきましょう。まず軽症説#1は、支持する医師も多いものの根拠がありません。遺伝子が変異したからそれが弱毒化につながったというのは話が飛躍しすぎています。それを証明した実験もありません。つまりエビデンスがまったくないのです。エビデンスがないからと言って否定もできませんが、重症化している人の割合が減ったとは言え存在するわけです。この説を信じるのは危険すぎます。

 軽症説#2については、高橋先生の理論構築は充分に筋が通っていますし魅力的な仮説です。ですが、この説を実証するには「ファクターX」の正体を明らかにしなければなりません。山中先生も高橋先生もファクターXとしてBCG(結核のワクチン)を考えています。そして、高橋先生の説が登場する前からBCGがファクターXではないかと考える日本人の医師は少なくありませんでした。

 私の意見は否定的です。すでにイスラエルからBCGは新型コロナに有効でないという論文が出ています。BCGを支持する医師たちはイスラエルのBCGと日本のBCGは種類が異なるという理由を持ち出します。では他の国をみてみましょう。現在新型コロナの勢いが止まらずに感染者数世界第2位のインドもBCGが定期接種となっています。ただ、インドのBCGも日本のタイプとは異なります。ですが、アジアでは、インド、バングラディシュについで3番目に感染者数が多いフィリピンでは日本と同じタイプのBCGが使われています。BCGが当初から注目されていたのは、もともとBCGは自然免疫力を増強する効果があると考えられているからです。それは正しいのですが、だからといって新型コロナに有効とするには無理があるように私には思えます。

 軽症説#3はユニークで魅力的です。しかし、この説が正しいとすると日本人の大半は新型コロナに対する抗体を持っていなければならないことになり、抗体陽性率が極めて低い事実と相反します。これを説明するのに上久保教授は「現在おこなわれている抗体検査では精度が低くて陰性とでてしまう」と説明します。たしかに一言で抗体といってもウイルスのどの蛋白質に対する抗体なのかを明らかにしなければきちんとした議論ができません。現在の抗体検査はそこまで厳密には測定できませんから、上久保教授の説も筋が通っています。しかし上久保教授の主張する「S型」「K型」「G型」について客観的なデータがあるわけではなく仮説の域を超えません。

 上久保教授は、「免疫を維持するためにはウイルスと共に生活していかなければならない」と説き、「再度自粛すれば、かえってその機会(ウイルスと接する機会)が失われかねない。『3密』や換気など非科学的な話ばかりだ」と自説を強調されます。これは現在の日本も含めた世界の政策とまったく異なる立場です。日本人だけがすでに抗体を持っていて、自粛を全面的に中止せよ、というのは私には乱暴すぎる考えに聞こえます。

 ここで実際の新型コロナをもう一度振り返ってみましょう。まず日本でも他国に比べると人数は少ないとは言え、若者も命を奪われています。40代、50代は若者とは呼べないかもしれませんが、日ごろ健康で持病がない成人も死亡したり、重篤な後遺症を残したりしています。新型コロナとよく比較されるインフルエンザでこのようなことはあり得ません。ちなみに、私が新型コロナは最悪の事態となるかも……、と考えるようになったのは中国の30代の医師が死亡した2月です。中国では次いで20代の医師も亡くなりました。

 高い確率で後遺症を残すのもインフルエンザとは異なる点です。治癒して体内にウイルスはいないはずなのに息苦しさや倦怠感が残るという人が少なくありません。海外でも日本でも後遺症が残るのはもはや間違いないというレベルに来ています。私は5月の時点で、後遺症と思われる症状を訴える人を複数診察したことから「ポストコロナ症候群」という言葉を勝手に名付けました。そのときはまだ確定はできないと考えていましたが、もはや後遺症(=ポストコロナ症候群)が存在するのは自明です。

 まだあります。健康で若い人は無頓着になりがちですが、「無症状でも他人にうつす」という事実は世界にパラダイムシフトをもたらせました。正確に言えばまったくの無症状(asymptomatic)ではなく発症前に無症状(pre-symptomatic)ですが、pre-symptomaticの時期に他人に感染させやすいのはもはや疑いようがありません。いくら若者は軽症で済んだとしても、高齢者を死に至らしめる可能性があるのですから、マスクなしで他人と気軽に接することができないのです。

 軽症説#3の上久保説では「まったく自粛不要」ですが、#2の高橋教授は高齢者には注意が必要と言われます。そうであるなら、やはりプレコロナの時代には戻れないということになります。

 無症状でも他人に感染させ、高齢者のみならず若年者も重症化することがあり、それなりの確率で後遺症をもたらす感染症と共に生きていかねばならないのなら、我々は元の世界に戻れないと考えるべきです。楽観論に頼りたくなる気持ちは分かりますが、現実に目を背けてはいけません。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

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