マンスリーレポート
2013年11月11日 月曜日
2013年11月号 安易に理系を選択することなかれ(後編)
もう無理! こんなはずじゃなかった・・・
そう叫びたくなったのは、憧れて合格できた関西学院大学に入学してまだ2ヶ月ほどしかたっていない頃でした。五月病という言葉がありますが、私の苦痛は少なくとも典型的な五月病ではありません。通常、五月病とは本人のやる気はあるのだけれど環境に上手く馴染めないことを言いますが、私の場合はこの逆で、そもそもやる気がないわけですから手の施しようがありません。
私が関西学院大学理学部の受験勉強をおこなったのはわずか2ヶ月間ですが、その間は一切の雑念を追い出したといっても過言ではないと思います。赤本9年分を丸暗記し、使用しているすべての参考書に大学のパンフレットから切り取った関西学院大学のキャンパスの写真を貼り付けて、スランプに陥りそうになるとそれらの写真を眺めるようにしていました。今思えばちょっと気持ち悪い・・・、というか、まるでアイドル歌手のおっかけをしている男の子のようです。しかしこの方法は今も非常に有効な受験対策であると私は思っています。行きたい大学が見つかれば、何度も訪問しとことん惚れ込むことが合格につながる、というのが私の持論です。
さて、その憧れの関西学院大学に合格できたところまではよかったのですが、あまりにも過酷な実験、レポート、テストなどに嫌気が差し、ついに「これ以上続けられない」、という限界点に達しました。
そうなると、その後に考えなければならないことは今後の身の振り方ですが、これには困りました。「派遣」や「非正規」などという言葉はもちろん、「フリーター」という概念すらなかった時代です。もしも大学をやめるとなると正社員として雇ってもらえるところを探すしかありません。(大学生でもないのにアルバイトのみをおこなっている若者は当時では珍しかったのです。フリーターという言葉が誕生するまでは「ぷーたろう」などと呼ばれ後ろめたい存在でした)
理学部に在籍しているとアルバイトの時間もありませんから、生活は惨憺たるものでした。食べるものがなく、近くのパン屋でパンの耳が大量につめられた袋を50円で買ってマヨネーズをつけて食べたり、スーパーで賞味期限切れの菓子パンを半額で買ったり(現在このようなことをすれば問題だと思いますが当時は普通でした)、朝にチキンラーメンを3分の1くらいお湯をかけずにそのまま食べて、残りを夕食時にお湯をかけて、パンの耳と一緒に食べたり・・、といった感じです。
もしも今大学を退学して就職したら、あの実験やテストから解放されるだけでなく給料がもらえる・・・、そう考えると大学にいる意味がまったくわからなくなり、退学することをいよいよ本気で考え出しました。両親に黙って退学というわけにはいかないでしょうから、それを報告するために帰省しました。しかし(今思えば当たり前ですが)結果は大反対。私は勝手に退学して、親には事後報告しておこうと考えだしました。
そんななか、悲惨な結果となった前期試験を終え夏休みに入って間もない頃だったと思います。関西学院大学のある先輩との雑談のなかから興味深い話を聞くことになり、結果としてこの先輩の言葉が私の人生を大きく変えることになります。
旅行会社のアルバイト先で知り合ったその先輩は社会学部の3回生で、学部が違うとはいえ同じ大学ということで何かと気にかけてもらっていました。ある日のこと、学部の話になりその先輩は私にこう言いました。「おまえの行ってる理学部には力学というのがあるやろうけど、実は社会学部にもあるんや。それは<集団力学>と言って、人をどうまとめて動かしていくかを学ぶ学問なんや」
この先輩のこの言葉がなければ私の人生はまったく違ったものになっていたでしょう。当時の私は、大学の勉強だけでなく、私生活でも人生の壁のようなものにぶちあたっていました。時間がないながらも、土日や夏休みを利用していくつかのアルバイトを始めたのですが、何をやっても私はほとんど仕事ができず、他のスタッフに迷惑をかけっぱなしだったのです。当時の私は、対人関係やコミュニケーションに苦手意識を持っていたわけではないのですが、例えばお客さんからクレームがきたりすると何もできず足手まといになるだけなのです。しかし、そんなときにも状況を的確に掌握し、適切な判断で対処できる人もいます。そしてこのような能力は学歴にまったく関係がないのです。
当時の私にはこのことが衝撃的でした。高校時代から口では「教科書に書いてあることなんか何の役にも立たないんだ」とえらそうに言っていたのですが、どこかで「勉強ができれば社会で成功できる」と思っていたのでしょう。偏差値でいえば、関西学院大学理学部といえば関西ではトップクラスです。実際、どこのアルバイトに行っても学歴で言えば私が最も高学歴なのです。しかし、その私が仕事はできずまるで役に立たないわけです。そして聞いたこともないような無名大学の学生がバリバリと仕事をこなし、ときには怒り心頭のお客さんを上手にもてなし、逆に感謝の言葉をもらうことすらあるのです。
大学では意味のないことをやらされている・・・、未熟な私はすぐにでも教科書を放り出して社会に出て学ばなくてはならないことがたくさんある・・・、そのようなことを毎日考えていた中で、社会学部の先輩から集団力学の話を聞いたのです。私は大学を退学する前に、この<集団力学>そして<社会学>というものを調べてみることにしました。
ここからの経緯は省略しますが、紆余曲折を経た後、私は関西学院大学の3回生になるときに理学部から社会学部に編入しました。社会学部の学生になってからも決して真面目な学生ではなく、アルバイトやイベントなどで他人と交流することが重要な社会勉強と考えていた私は講義への出席率も高くありませんでしたが、それでも次第に本を読む機会が増えていき、卒論は教授の指導を受けながら楽しく進めることができました。卒論のタイトルは『職場におけるリーダーシップ』、大学で学んだことだけでなく、様々な書籍から得たことやアルバイトなどの社会経験も踏まえて書き上げた私の大学生活の集大成です。
その後私は大阪のある商社に就職しましたが、仕事に不満があったわけではないものの、社会学をもっと本格的に勉強したくなり関西学院大学社会学部の大学院進学を考え出しました。会社勤めをしながら、月に一度程度は学びたい教授の研究室を訪れるようになり、テキストや論文を紹介してもらっていました。そのうちに、興味の対象は集団力学やリーダーシップから<人間そのもの>にうつっていきました。人間の行動、思考、感情などを科学的に分析することに興味が沸き、いつしか興味の対象は、脳生理学、精神分析学、分子生物学、動物行動学、免疫学などにうつっていきます。そして最終的に医学部受験を決意するに至ったのです。
医学部の授業でもいろんな科目で実験があります。生化学や薬学の実験のときには、私が関西学院大学理学部で”やらされていた”のと同じような実験もありました。およそ10年ぶりにフェノールの臭いが鼻腔を刺激したとき、あの”悪夢”が一瞬私の脳によみがえりました。しかしこのときの私は19歳の私とは違います。何よりも勉強が、それも理系の勉強が好きになっていたからです。
生化学の第1回目の実験で試験管を使ったとき、後でこれを洗わなければならないんだろう、あのときのように水滴がつかなくなるまで(前回のコラム参照)・・・、と思ったのですが、プラスティック製のその試験管はなんと使い捨て、冷たい水に耐えながら洗わなくてもよかったのです。(なんて太っ腹な大阪市立大学、大阪市民の税金でこんなにラクをさせてもらえるなんて・・、と思ったのですが、もしかするとこれは時代の流れで今は関西学院大学でも使い捨てになっているのかもしれません)
実験には抵抗がなくなり楽しく取り組めるようになったのですが、その後再び紆余曲折を経て結局私は研究者の道を断念しました。この理由は大きく2つあり、1つは自分にはその能力もセンスもないことを認識したということ、そしてもうひとつは、私のクセというか、私は物事を幅広い観点から眺めるのが好きということに気づいた、つまり分子レベルのミクロの世界の研究よりも人間全体を多角的な観点からみるのが好きということに気づいた、ということです。(これについては機会があれば詳しく述べたいと思います)
もう一度人生をやり直せて高校時代まで戻れるとしたら、私は理系の学部には進学しません。興味のないことが続けられるはずがないからです。そして、今回の人生のように理系の領域に興味が出てくればそのときに真剣に勉強するかどうかを検討することになるでしょう。
現在進路に悩んでいる若い人や、社会人で医学部を含む理系の大学(再)受験を考えている人は、今一度本当にそれがやりたいことなのかどうかを自分自身に問い直してほしいのです。私の場合は、偶然にも同じ大学の社会学部の先輩との良き出会いがあったこと、なんとか社会学部の編入学試験に合格できたこと(試験申込時には「理学部から社会学部への編入学は前例がないから無理だろう」と言われていたのです)、という幸運が重なったことで救われましたが、これらの幸運がなければ、大学を退学しまったく別の人生をたどっていたのです。
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|2013年10月11日 金曜日
2013年10月号 安易に理系を選択することなかれ(前編)
最近は少し減ってきていますが、私は過去に受験関連の書籍を上梓していることもあって、受験生やその親御さん、あるいは、今は社会人だけど医学部受験を考えているという人たちからの相談メールがしばしば私の元に届きます。
私は、相談してくる人が本当に医学を学びたいのであれば、原則として現在の偏差値などには関係なく受験をすすめるようにしています。本当に医学を学びたいのであれば、挑戦せずに諦めてしまう苦痛と、夢に向かって努力するときの苦痛を天秤にかけたとき、後者の苦痛など取るに足らないものだからです。
しかし、これは「本当に医学を学びたいのであれば」という前提があってのことです。私に(医学部)受験の相談をしてくる人のなかにも、「この人、本当に学問をやりたいのかな・・・」と疑問に感じるような人もいます。
はっきり言って、医学部の6年間の講義、実習、テストなどは生やさしいものではありません。大学受験の勉強が大変なのは容易に想像がつくでしょうが、医学部在学中の講義、実習、テストなどでは、大学受験の何倍、何十倍もの努力が必要になります。つまり、苦痛を差し引いて楽しいと感じることができなければ到底続けられるものではないのです。
現在大学受験の世界では「理系」がブームのようです。かつて日本は技術大国として世界から一目置かれる存在であり、それが現在では衰退しつつありますから、若い優秀な学生に工学や理学を学んでもらい、もう一度「世界一の技術大国」に返り咲きたいという国民全体の意識があるのかもしれません。
そういう私自身も、優秀な日本人の科学者が次々と現れ、日本の企業が世界をリードする製品を開発してほしいという気持ちはあります。資源がなく平地面積が充分にあるとはいえないこの国が世界でやっていくためにはすぐれた技術の開発が不可欠であり、優秀な学生にはそういった道に進んでほしいと思います。
しかしながら、これから理系の学部の受験をする若い人、また現在社会人で医学部を含めて理系の大学受験を考えている人は、今一度「本当に自分自身は理系の勉強を続けられるのか」を問い直してほしいのです。
なぜ私がこのようなことを言いたいのか。それは私自身が散々苦しみ、あのような辛い思いは二度としたくないと考えているからです・・・。
私が文系・理系の選択を迫られたのは高校2年の4月、時は1985年です。1985年といえば9月にプラザ合意がおこなわれ、それ以降急激な円高となったのにもかかわらず、結果として日本は空前の好景気に突入していきます。しかし、プラザ合意以前は「不景気」が続いており、「これからは手に職がなければ食べていけない。だから理系に行きなさい」という言葉をよく聞かされました。
将来に向けたはっきりとした夢や目標がなく、得意科目のまったくなかった私は”なんとなく”理系を選択してしまいました。そして1987年の春、第一志望の関西学院大学理学部に現役合格しました。そんな気持ちでよく理系の大学に通ったな、と今から振り返ると自分でもそう思いますが、私には勉強のモチベーションがあったのです。
しかし、そのモチベーションは「理学を研究したい」という純粋なものとは正反対で、「大学生活を楽しみたい」という不純なものでした。高校時代の私は、勉強にはまったく興味がありませんでしたが「大学生活」にはとても憧れていました。私の出身は三重県伊賀市(旧・上野市)で、大変な田舎であり大学など近くにありません。そんな田舎者の私にとって大学生活のイメージの元になっていたのは田中康夫氏の『なんとなくクリスタル』で、この小説に描かれている、ふわふわとした夢のような生活が、大学生にさえなれば誰にでもできるんだ、と私は本気で思い込んでいたのです。
つまり、私は学問に取り組みたいという気持ちでなく「大学生活を楽しみたい」という気持ちだけで高いモチベーションを維持し、わずか2ヶ月ほどですが、ほとんど文字通り寝食を忘れて一心不乱に受験勉強に打ち込んだのです。
けれども、合格したのはよかったのですが、(今考えれば当たり前のことですが)現実は『なんとなくクリスタル』の生活とは似ても似つかぬものでした。まず、私にはお金がありません。アルバイトをしようにも、文系学部とは異なり、朝一番から夕方6時までびっしりと授業がつまっていますし、レポートも大量にあり、その上頻繁にテストがありますから自宅でも勉強しなければならないわけで、私は大学生活を楽しむどころか、アルバイトにも時間がとれず食費にも困るほどでした。
元々理学に興味がなかった私にとっては、授業も苦痛でしたが、それ以上に辛かったのが実験です。1987年の4月から約1年間、毎週火曜日は午前中に物理学の実験、午後からは化学の実験があり、週によっては実験がうまく行かず日が暮れても帰れませんでした。実験が終われば、試験管などをきれいに洗わなければなりません。今でもその光景をはっきりと覚えていますが、粉石けんと専用のブラシを使って使用した試験管1本1本を丁寧に洗わなくてはならず、洗った後、水を切ったときに試験管に水滴がついていると、まだきれいに洗えていない証拠だと言われ、さらに洗い直しをさせられるのです。(完全にきれいに洗えると試験管にかかった水はす~っと流れていき水滴がつきません)
ぐったりして大学近くの下宿(風呂なし、トイレとキッチンは共同)に帰り、そこからレポートを書かねばならないわけですが、実験の内容も結果もきちんと理解できていない私にまともなものが書けるはずがありません。期日までに同じ班の誰かにレポートを見せてもらって作成するしか方法はありません。
しかし、レポート作成にはそれなりの時間がかかりますし、そのレポートを見せてもらい、丸写ししたとバレないように少しアレンジを加えて作成しなければなりませんから、班のメンバーには無理を言って少なくとも期日の前日までに見せてもらうようお願いしなければなりません。この交渉がまた大変なのです。なにしろ当時は携帯電話どころか、下宿生では固定電話を持っている者もあまりおらず、たいていはその下宿の玄関に置いてある取り次ぎの赤電話を使います。その電話に10円玉を入れて電話をするのです。
結局私は、第1回目の実験の日にこのような方法で同じ班のメンバーにレポートを見せてもらうことをお願いして、それから1年間ずっとこの方法でレポートを書き上げました。しかし、このようなことを続けていれば担当教官にもわかるようで、同じような結論を導いているレポートになっていたはずですが、この友達の成績は「優」で、私は「可」でした。
実験のレポートはこのような方法で切り抜けられたとしても、テストはそういうわけにはいきません。まさかカンニングをするわけにもいきませんし、なんとか合格ギリギリの点数がとれるように自分で勉強するしか道はありません。
話はズレますが、医学部に入ってから私が驚いたことのひとつはカンニングをおこなう学生がいる(いた)ということです。拙書『偏差値40からの医学部再受験』にも書きましたが、医学部でカンニングをする学生がいて、しかも日本中どこの医学部ででもあることという話を聞いて大変驚きました。私が関西学院大学理学部に在籍していたとき、カンニングの話など聞いたことがありませんでしたし、そもそも理学部のテストは解答用紙が数式のオンパレードになりますから、カンニングなどしようがありません。それに関西学院大学はキリスト教系の大学ということもあり不正行為には大変厳しいのです。文化系学部の学生が、カンニングが見つかり、その科目だけでなくその年に履修した科目がすべて無効とされ、さらに学内にあるチャペルで牧師さんの前で懺悔をしたという話も聞きました。
話を戻しましょう。苦痛以外の何ものでもない実験、テスト、文化系学生とのあまりにも大きなギャップ・・・、これらが次第に大きな重荷になってきて、あれほど憧れて入学した関西学院大学を去ることを考え出したのは入学して2ヶ月ほどしかたっていない初夏の頃でした・・・。
つづく
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|2013年9月10日 火曜日
2013年9月号 幸せの方程式
誰もみな自らの幸せを追求している、ということに異論を唱える人はそう多くはないでしょう。では、「あなたにとって幸せとは何ですか?」と聞かれたとすれば何と答えるでしょうか。
日本国憲法第13条には「幸福追求権」というものがあり、誰もが幸せを求める権利が保障されています。しかし憲法には「幸せとは何か」についての記載が(当たり前ですが)ありません。「幸せ」というものは、法律上定義されるものではありませんし、法律上でなくとも、何を持って幸せとするかを定義付けすることはできません。つまり、月並みな言い方ですが、幸せとは人それぞれ、という以上のことは言えないのです。(ですから、「あたしの幸せは憲法で保障されているはずなんだから国はあたしを幸せにする義務がある」、などと言う人がときどきいますが、このような考えはお門違いもいいとこです)
一見わかりやすいようで実はわかりにくいこの「幸せ」について学術的に思考してきた人たちは大勢います。人文科学、とりわけ哲学の領域では「幸せ」は最も根源的なテーマのひとつであり、古今東西大勢の学者が思索に耽り考えを述べてきました。
現在においても「幸せ」が人文科学的に語られるときに必ず引き合いに出されるのがアリストテレスの唱えた「エウデモニア(eudaemonia)」という概念です。エウデモニアという哲学用語について、きちんと人文科学的に定義付けようとすると学術的言葉の”深み”にはまってしまってわけがわからなくなりますから、とりあえずは「エウデモニア型の幸せとは、即時的な快楽ではなく、生きがいや夢につながるもの、そして道徳的に善とされている行為」と簡略化してさしつかえないと思います。
このエウデモニアに対して用いられるもうひとつの「幸せ」はヘドニック(hedonic)と呼ばれるもので、これは簡単に言えば「目の前にある快楽」のことです。人文科学の世界では「ヘドニック・トレッドミル(hedonic treadmill)」という言葉がしばしば用いられます。これは、トレッドミル(スポーツジムにあるランニングマシーン)にたとえて、快楽が得られるとそのうち飽きてきてさらに前に進もうとするけれど、結果的にまったく前に進めていない、ということを表しています。
前置きが長くなりましたが、今回お話したいのは、この対極にある2つの幸せ、エウデモニアとヘドニックの違いが遺伝子レベルで解明された、という大変興味深い研究についてです。しかし、それを述べる前に、私の知人の「幸せ」について紹介したいと思います。
私の知人にはいろんなタイプの人がいますが、この「エウデモニア-ヘドニック」を軸に考えてみると、極端にエウデモニアの人もいれば、その正反対の、ヘドニックそのもの、という人もいます。そして、改めて自分の周囲のことを考えてみると、私が10~20代のときはどちらかというとヘドニックな友人・知人が多く、医師になってから、そして40歳を超えてからはエウデモニアに傾いている友人・知人が身の周りに多いような気がします。ここでは極端にヘドニックな私の知人2人を紹介したいと思います。(ただし本人が特定できないように若干のアレンジを加えています)
1990年夏、当時21歳の私がある会社の就職説明会で知り合った北村君(仮名)の信条は「そのときにやりたいことをやる」というものでした。そのとき食べたいものを食べ、そのとき遊びたい女の子と遊び(実際、北村君は”超”のつくほど男前で、放っておいても女性が寄ってくるという感じでした)、そのとき行きたいところに行くという生活をしていました。夜中に突然愛車のBMWで東京に行くというようなライフスタイルが気に入っている、と言っていました。いずれ親の会社をつぐので、就職はそれまでの準備期間のようなもの、仕事はできる範囲でがんばるつもりだけど残業や休日出勤はあり得ない、と話していました。
1999年秋、当時30歳の私があるアルバイト先で知り合った関原さん(仮名、当時32歳の男性)は、アルバイトでまとまったお金ができるとアジアで”まったり”という生活を続けていました。海外旅行が好きな人には、各地の遺跡や文化財をみたりとか、バックパックを背負ってバスでアジア横断をしたりとか、そのような活動的な人もいますが、関原さんの場合は、プノンペンやバラナシなどの安宿にこもり、一日中ダラダラと、タバコと酒と、あるいは大麻を吸って過ごすそうです。「定職に就くことは考えないんですか」という私の質問には、「今の生活が自分に向いている。好きなことをやって60歳くらいで死ぬのが幸せ」と話していました。
医学誌『Proceedings of the National Academy of Sciences』2013年7月29日号(オンライン版)に掲載された論文(注1)によりますと、2つの対極的な幸せには遺伝子の発現に差異があることが判ったそうです。
この研究では健康な成人80人が対象とされています。対象者の遺伝子発現の様子を調べると、エウデモニア型幸福を追求する人では、免疫に関与する遺伝子に発現が強くみられ、炎症惹起に関与する遺伝子はあまり発現していなかったそうです。一方、ヘドニック型幸福を追求する人では、エウデモニア型の人とは正反対に、炎症の遺伝子の発現が高く、免疫系の発現は低かったそうです。これはすなわち、エウデモニア型の人は、免疫力がパワーアップされ健康を維持できることを示唆しています。その逆に、ヘドニック型の人では、ストレスを受けたときと同様の遺伝子が発現し身体に悪影響を及ぼす可能性があるということになります。
この研究が興味深いのは、同時に2つの幸福追求のタイプの「うつ傾向」についても分析がおこなわれているということです。結果は、エウデモニア型でもヘドニック型でも「うつ傾向」は低く、幸福を感じていることについてはほぼ同じであることが判ったそうです。
これらをまとめると、エウデモニア型であろうがヘドニック型であろうが、幸福を追求している人はうつ傾向が少なく幸福感の自覚がある。しかし、ヘドニック型の場合は、遺伝子レベルではストレスを受けたときと同じような状態になっている(のでよくない)。つまり、精神的にも身体的にも最も優れているのはエウデモニア型の幸福を追求する人であり、アリストテレスは正しかった!、ということになります。
エウデモニア型幸福を追求する人は、この結果を聞くと嬉しい気持ちになるのではないでしょうか。実は私もそのひとりです。
今から21年前、当時25歳の私が、会社を辞めて医学部受験をする、と宣言したとき、賛同してくれた人は周囲にひとりもいませんでした。「会社に不満がないんやったらほどほどに人生楽しめたらそれでいいんじゃないの」という人ばかりで、私が「受験に失敗してこのような会社員の生活に戻れなくても、いや、そのまま社会復帰できなくても、もっと言えば、努力半ばで死ぬようなことがあったとしても、それでも勉強したい」、と言うと、ほとんどの人が「バカじゃないの?」という態度をとりました。
私が正しかった、と言いたいわけではありません。また、私はエウデモニア型だから健康だとか長生きできるんだと思っているわけでもありません。この研究自体が小規模ですし、この研究から「さあ、みなさん希望と目標をもって努力して、エウデモニア型幸せを求めましょう」と言うには時期尚早だと思います。ヘドニック型の人も幸福感を自覚しているのは事実であり、誰もそれに口出しすることはできません。
現在の私の周りには私などよりもずっとエウデモニア型の人がたくさんいます。私財を投げ打って困窮している人たちに支援活動をおこなっている人、障がいを抱えた家族を必死に支えていることに生きがいを感じている人、休日を返上して障がい者の施設を訪問するような人などもいます。今回の研究が正しいと考えると、このような人たちは大変だろうけど幸福感を自覚し健全な遺伝子が発現しているのかな、と思えて嬉しくなってきます。
先に紹介した北村君はその後、親の経営する会社が倒産し北村君自身も消費者金融にまで手をだして、という噂を聞くのですが、当時の友達は誰も連絡がとれなくなっています。関原さんは暴飲暴食がたたり糖尿病で入院しました。退院後、再び暴飲暴食を繰り返しているそうです。60歳で死ねればいい、が今も口癖ですが、もっと短命に終わるかもしれません。
どのような生き方をするかは各自の自由であり、私はやみくもに「いきがいを持て」とか「他人に貢献せよ」、「ヘドイックを捨ててエウデモニア型になれ」などと言いたいわけではありません。そもそもすべての人をエウデモニア、ヘドイックのどちらかに単純に2つに分類できるわけではありません。多くの人が中間であるか、少しどちらかに傾いているという程度でしょう。
自分にとっての幸せは何なのか・・・。そのようなことを考えることがあるならば、今回の遺伝子発現についてのこの研究、つまりエウデモニア型幸福を追求するときには免疫力がパワーアップする(可能性がある)という事象を参考にしてみるのもいいでしょう。たった1つの研究に人生を左右される必要はありませんが、「幸せ」について考えるときのヒントくらいにはなるのではないでしょうか。
注1:この研究のタイトルは「A functional genomic perspective on human well-being」で、下記のURLで全文を読むことができます。
http://www.pnas.org/content/110/33/13684.full?sid=38d5ff31-0e27-4e9b-bcfe-fb609bfc7e05
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|2013年8月12日 月曜日
2013年8月 この夏の暑さと塩と味の素
今年(2013年)の夏はとにかく暑い・・・。多くの人がそのように感じているでしょう。過去にこれほど暑い夏はなかったのではないか、と思わずにはいられません。私はクーラーの効いたクリニックでの勤務ですし、通勤もTシャツにジーンズという格好ですから、暑いといってもましですが、現場の仕事をしている人や、スーツを着て外に出られている人にとってはたまらない暑さだと思います。紺色のシャツなどを着れば汗が析出され塩の結晶が確認できるのではないでしょうか。
今年は、太融寺町谷口医院を受診する夏バテの患者さんは、総数で言えば例年と変わりないと思うのですが、なぜか「塩分はどうしてとればいいのか」という質問をよく受けます。
マスコミからの取材もきます。春先には、ある雑誌の「熱中症対策講座Q&A」という記事の監修を頼まれましたし、先月はあるテレビ番組が熱中症を取り上げるとのことで取材を受けました(この番組は早朝に放送されたのにもかかわらず多くの患者さんから「テレビに出ていましたね」と言われました。テレビの影響は大変大きいことを改めて実感させられました)。マスコミからの取材依頼は断ることが多いのですが、その理由は特定の製品(商品)や特定の治療法を肩入れするものになりがちだからです。しかし今回は熱中症や塩分摂取についてのことであり、そういった心配がないと判断し受けることにしました。
患者さんからもマスコミからもよく聞かれるのが「塩をどれくらい摂ればいいのか」というものなのですが、この問いには大変返答しにくく、いつもどのように答えるべきか悩まされます。答えを聞きたい側としては、たとえば「1日に何グラム」という言い方がわかりやすいと思うのですが、ことはそれほど単純ではありません。
まず、塩がどれくらい必要かというのは、その人によってまったく異なってきます。クーラーの効いた部屋で仕事をしている人と、炎天下で朝から晩まで肉体作業に従事している人ではまったく異なりますし、例えば高血圧や糖尿病などがあれば個々の対応が必要になってきます。
ですから、「塩をどれくらい摂ればいいのか」という質問に対する最適な答えは、「どのような人がどのような環境にいるかによりますから各自かかりつけ医に相談してください」という身も蓋も無いものになってしまうのです。
特に高血圧や糖尿病など生活習慣病がある人、あるいは腎臓に何らかの異常がある人は、マスコミなどが報じる一般論をそのまま当てはめない方がいいでしょう。当院の患者さんにも「熱中症対策として塩を摂らなければならない」と思い込んで、1日に何度も塩を舐めているという人がいました。この人は薬を飲むほどではありませんが、日頃から血圧が高く、私は塩分制限の指導をしていた(つもり)なのですが、この患者さんは「夏は例外」と思い込んでいたのです。案の定、そのときの診察での血圧は上昇しており、直ちに塩分制限を徹底するように説明しました。
しかし、この患者さんのように血圧が高い人も含めて、長時間大量の汗をかくような環境にいるときは塩分摂取を考慮しなければなりません。例えば、フルマラソンを走ったり、登山をしたりするようなときにはどのような人も注意が必要になります。
ではこの見極めはどのようにすればいいのでしょうか。高血圧や腎疾患がないような人も含めて日本人は日頃から塩分を取りすぎています。厚労省のデータ(2008年)によると、日本人の1日あたりの平均塩分摂取量は、男性で11.9グラム、女性で10.1グラムです。目標は男性9グラム、女性で7.5グラムとされていますが、これでも世界的にはかなり多く、国際水準では6グラムが一般的ですし、これを下げようとする動きもあります。日本人でも高血圧や慢性腎臓病があれば6グラム以下にしなければなりません。
普段は塩分をできるだけ減らさなければならない、しかし熱中症を予防するために必要なときには摂らなければならない、と言われて「分かりました」と答えられる人はそれほど多くないでしょう。
ではどうすればいいのか。一般論として述べるのはむつかしいのですが、私の場合は、「着ているTシャツを絞って滴り落ちるくらいの汗をかいたときには積極的に塩分を摂取する」ことを心がけています。それから「(塩分を含まない)水分をとっても身体がだるい」ときは塩分が不足している可能性があります。また、(これはあまりあてにならないかもしれませんが)「塩気のあるものが食べたくなったときに塩分を摂る」というのもひとつの方法です。私がよくするのが「今、スイカを食べるとしたら塩をふった方が美味いだろうか、そのままの方が美味いだろうかを考える」、という方法です。
この「スイカに塩」というのはとてもすぐれた夏バテ防止フードになります。私は小学生の頃は、ほぼ毎回スイカを食べるときに塩をふっていましたが、大人になるにつれて塩を使う頻度が減りました。塩をかけても美味しくならないから使わなくなったわけですが、これは小学生の頃は外で遊んで汗を大量にかいていたために自然に身体が塩分を欲していたからでしょう。ちなみに、今の私はふだんはスイカはそのまま食べますが、運動後だけは塩を振って食べています。これはトマトでも同じです。
熱中症予防の塩分の摂り方については、理論上は「OS-1」やスポーツドリンクがいいとされていますが、このようなものだけでは飽きてきますから、クラッカーやミックスナッツ、またスープや味噌汁を摂るのもおすすめです(注1)。
大量に汗をかくようなとき以外は、日本人の大半は塩分制限を考える必要があります。しかし、これは日本食では大変困難です。味噌汁1杯で約2グラムもの塩が含まれていますし、醤油や味噌にもたっぷりの塩分が含まれています。これで1日6グラム以下にもっていくのは至難の業です。では洋食はどうかというと、ピザやハンバーガーは塩分制限を考えたときには最悪の料理です(おまけにカロリー過多になります)。では中華料理はどうかと言えば、チャーハン1人前で3.2グラム、五目そば1杯で8.0グラム(いずれも厚労省のサイトより)ですから絶望的です。
では、どのようにして塩分を制限しながら美味しくご飯を食べればいいのか・・・。これについてはそのうちに改めてまとめてみたいと思っているのですが、ここではひとつだけ提案したいと思います。それは「味の素」を積極的に使ってみよう、というものです。
私が大学生になったばかりの頃、お金がありませんでしたから時間があれば自炊をしていました。しかし何をつくっても美味しくありません。味気がないから塩や醤油を足してみるのですが、辛くなるだけで美味しくなりません。そこであるとき味の素を使ってみたのですが、これが驚く程美味しくなったのです。しかも塩や醤油の使用量がぐっと減りました。それ以来、私は和風もしくは中華風の煮物や炒め物をつくるときは必ずといっていいほど味の素を、しかも(おそらく普通の人が使うよりも)大量に入れています。
「味の素」というのは商品名ですから、例えばNHKが「味の素」を取り上げるときは別の表現があるのでしょうが、世界的に、とまでは言えなくとも、少なくともアジア的には「アジノモト」という名前が浸透しています。
私が以前、NPO法人GINA(ジーナ)の関連でタイの東北地方のある辺鄙な村を訪れたときのことです。その村は何度もバスを乗り継いで行かなければならず、外国人はめったに来ないエリアで、私が初めてその村にやってきた日本人だと言われました。その村には電気も充分に来ておらず、焚き火で料理をするようなところなのですが、あるとき若い女性がソムタム(青いパパイヤをベースにしたタイ風サラダ)をつくっているときに大量の白い結晶をふりかけているのが気になりました。ちょうどタイ語を勉強し始めていた頃だったので、その結晶が入ったビニール袋を借りて印刷されたタイ語を読んでみると、なんと「アジノモト」と書いてあるではないですか。タイ語でも味の素は「アジノモト」なのです。そして、ソムタムを作っていたそのタイ女性に話を聞くと、「あたしが幼少時の頃からアジノモトはいろんな料理に使うのよ」と話してくれました。しかしその女性はアジノモトが日本のものとは知りませんでした(注2)。
味の素は料理を美味しくするだけでなく、塩分制限をするのに大変有用な調味料だと思います(注3)。味の素の成分は「グルタミン酸ナトリウム」ですから、やはり大量に摂取するとナトリウム過多になり、結局塩分過多の状態と同じになってしまうのは事実です。しかし、食べ物を美味しくするために必要な「塩」と「味の素」では、体内に吸収されるナトリウム量が大きく異なります。
塩分制限に味の素を・・・、という声がなぜ上がってこないのか。味の素株式会社はそれを主張するのに遠慮しているのだろうか・・・、これは長い間、私が疑問に思っていることです。
************
注1:詳しくは下記「水分摂取と塩分摂取について」を参照ください。
http://www.stellamate-clinic.org/nettyu/#a03
注2:このような経験をしているのは私だけではありません。例えばノンフィクション作家の高野秀行氏は著書『西南シルクロードは密林に消える』(講談社文庫)のなかで、ナガ(Naga)族(インド北東部からミャンマー国境上に沿うナガランド一帯に暮らす民族)の日常の料理にアジノモトが使われていることを紹介しています。
注3:私は今回のコラムの最初の方で「特定の治療法に肩入れするようなマスコミの取材を受けない」と述べているにもかかわらず「味の素」を高く評価しているわけで、これは矛盾していることになります。しかし、日本のみならず少なくともアジア全域で日々使われている味の素が食事を美味しくするだけでなく塩分制限に貢献しているのはやはり事実ではないかと思います。例えてみると、自動車のメーカーが世界にトヨタ社一社しかなければトヨタ車をすすめるしかない、というようなものです。このように考えると、味の素株式会社のライバル会社はなぜ存在しないのでしょうか。尚、念のために付記しておくと私と味の素株式会社の間には何の利害関係もありません。
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|2013年7月10日 水曜日
2013年7月号 感染症と感染症以外のすべての病気の違いとは?
先月(2013年6月)のこのコラムで、私が研修医のときにお世話になった石井正光先生が開業されたことに触れました。また、昨年(2012年10月)にはノーベル賞を受賞された山中伸弥先生のことについて述べました。
大阪市立大学は、全国的にみれば、どちらかというと地味な大学(注1)と世間からはみられていると思いますが、実際に入学してみると全くそういうわけではなく、私が学生の時代には石井先生や山中先生以外にもユニークで魅力ある先生が大勢おられました。(今もそうだと思います)
医学部に入学すると、ただちに専門的な医学教育を受けるのではなく、最初の1年間は一般教養を学びます。その一般教養の先生のなかにも魅力的な先生は大勢おられて(注2)、私は毎日学校に行くのが楽しくて仕方がありませんでした。授業をさぼる学生が信じられなかったほどです。前の大学(関西学院大学)時代は、授業に出席する学生を信じられない、と思っていたわけですから、人間とはここまで変われるものなのかと自分自身に呆れたほどです。
前置きが長くなりましたが、今回お話したいのは、そんな魅力的な先生が多い大阪市立大学のなかでも私が最も感銘を受けた先生についてです。その先生とは当時の産婦人科教室の教授だった荻田幸雄先生です。荻田先生の講義は私が4回生のときにあったのですが、初回の授業のとき、いきなり次の言葉を黒板に大きく書かれました。
感染症以外のすべての病気は直立歩行が原因である
教壇に立たれたときの第一印象から、この先生は少し違うな、というか、一種のオーラのようなものを感じたのですが、感染症以外のすべての病気を一括りする、というのはあまりにも大胆です。そのときに先生は、たしか椎間板ヘルニアや胃下垂を例に上げ、直立歩行が病気につながる、という話をされたのですが、ほとんどの学生はきょとんとしていたと思います。
第1回目のこの講義では、この直立歩行が病気の原因という話以外に、(14年前の記憶でおぼろになっていますが)たしかどこかのメーカーと協力して下着(うろおぼえですがブラジャーだったような・・・)を開発したとか、そういった話で、結局産婦人科学のことはほとんど何も話されなかったように記憶しています(注3)。
その授業の後、「感染症以外の・・・」というこの説を話題にする学生は私の周りにはいなかったのですが、私はその後何年にも渡りこのことを考えていました。すべての病気が直立歩行に原因がある、などということを厳密に検討すれば暴論とみなされます。例えば遺伝的な疾患で生まれつき障がいがあるようなケースでは直立歩行が原因とは言えないと思いますし(しかし、臍帯脱失や常位胎盤早期剥離で正常に分娩ができないケースは直立歩行と関係があるかもしれません)、関節リウマチのような慢性疾患、あるいは悪性腫瘍や生活習慣病なども、直立歩行だけで説明するには無理があるでしょう。
当時の私がなぜ荻田先生のこの言葉にこだわり、いろんな病気に対し直立歩行との関係を吟味していたのか、そのあたりの理由は自分でもよく分からないのですが、そのうちに私の興味の対象は「直立歩行」ではなく「感染症以外の」という言葉の方にうつっていきました。つまり、感染症と感染症以外の疾患を分けることに重大な意味があるような気がしてきたのです。
感染症とは何かというと、一言で言えば「外敵との戦い」です。それに対し、感染症以外の病気の原因は「自己内の問題」です。自分自身を敵とみなしてしまう膠原病やアレルギー疾患、遺伝子の複製のエラーから細胞の異常増殖が生じるガン、不摂生な生活から生じる生活習慣病、生まれたときから遺伝子に異常があり発症する様々な疾患、などこれらはすべて自分の内部に問題があり敵からの攻撃を受けたわけではありません。
医学部在籍中や研修医になりたての頃は、感染症に対して特に力を入れて取り組んでいきたいと思っていたわけではありませんが、感染症というのはときに短期間で人を死に至らしめる疾患ですし、私自身は医学部入学前からHIVやHTLV-1に関心がありましたし、また感染症が世界史に影響を与えているという考えに興味を持っていましたから(注4)、感染症には将来的に何らかのかたちで向き合っていきたいとも考えていました。
しかし、大学病院でも他の病院でも「感染症科」という科はありません。医学部の5回生と6回生には教室での講義がなく、すべて病院での臨床実習というかたちになります。実習の途中から私はこのこと、つまり「感染症は何科が診るの?」ということを疑問に感じ始めました。もちろん、腸炎は消化器内科、肺炎は呼吸器内科、HIVは血液内科、などという区切りはなんとなくわかるのですが、では大学病院で腸炎を消化器内科がみて、肺炎は呼吸器内科がみているのか、というとそういうわけではありません。基本的に大学病院では一部のものを除き感染症をみないのです。
ですから、感染症を専門にしている医師というのは、当時はほとんどいなかったのです(注5)。実際、ある年の医師国家試験の問題には感染症に関わる設問が1問もなく、これが問題になったほどです。感染症を専門にしている医師がほとんどいないわけですからこのようなことも起こりうるわけです。
私がある程度本格的に感染症に関わっていきたいと痛感したのは研修医1年目の夏休みにタイのエイズ施設を訪問したときです。私は元々エイズという疾患に興味をもっていましたが、この理由は感染症だからというよりも「差別される病」だからです。当時その施設でみたエイズはまさに「差別される病」で、地域社会から、病院から、そして家族からも追い出された、行く当てのない人たちが集まってきていました。当時のタイにはまだ抗HIV薬もなく「HIVは空気感染する」と思っている人たちが多かったのです。
この体験を経て、私はHIVという感染症に関わっていくことを決意しました。研修医終了後、再びタイに渡航し、様々なエイズの現場を体験した後、私は大学に戻り総合診療部に所属しました。そして、複数の診療科、複数の医療機関で勉強させてもらった後に、太融寺町谷口医院を開業(開業当時の名称は「すてらめいとクリニック」)するのですが、感染症に対する私の興味は開業後にさらに強くなっていきました。
クリニックでは大病院とは比較にならないほど感染症のウエートが増えます。最も多い感染症は「風邪」ですが、風邪といっても、実にいろんな病原体が原因になっており、風邪だけで本が一冊書けるのではないかと思うほどです。(このエッセンスは当院ウェブサイトのトップページの「のどの痛み(咽頭痛)」や「長引く咳(せき)」で述べています)
風邪以外にも、感染性の胃腸炎、皮膚炎、膀胱炎などにも遭遇しない日はありません。さらに、クリニックで診る感染症の大半は急性の一時的なものですが、なかには長期にわたるものもあります。結核が見つかることもありますし、B型肝炎も少なくありませんし、もちろんHIVも珍しくありません。そして、一部の感染症はその後の人生を大きく変えます。感染症のせいで、仕事を失い、家族を失い、そして自らの命を失う、ということもあるのです。
他人を敵とみなし殺し合うことが愚かであるのは自明ですが、目に見えない小さな病原体という外敵のせいで、仕事や家族を失い寿命まで短くなる、といったことも馬鹿げています。もちろん、予防法がなく有効な治療法もない感染症であればやむを得ないかもしれません。しかし、HIVを含む多くの感染症は、自らが感染を防ぐ予防ができて、他人へ感染させることも防ぐことができて、また有効な治療法も確立しています。
つまり、感染症とは「外敵との戦い」であり、ほとんどの感染症では適切な知識を持ち適切な行動をとることによって自らが感染したり、他人に感染させたりという”悲劇”を未然に防ぐことができるのです。
「感染症以外のすべての病気は直立歩行が原因である」という荻田先生の当時の言葉は、今、私の中で「感染症以外のすべての病気は自己内部に原因があり時に治療困難であるが、感染症は知識と行動で悲劇を防ぐことができる」、とかたちを変えて生きているのです。
注1 私が医学部を受験する前の大阪市立大学のイメージは、とにかく暗くて赤い(つまり左翼的な)大学というもので、実際、私が知っていた大阪市立大学の出身者といえば、よど号ハイジャック事件の田宮高麿とあさま山荘事件(連合赤軍事件)の森恒夫くらいでした。実は私が初めて大阪市立大学を訪問したのは1986年、高校3年生の夏休みです。このときに東京と関西のいくつかの大学をみて、ほとんど”一目ぼれ”した関西学院大学を第一志望にしたのですが、その反対に大阪市立大学の私の印象は”最悪”なものでした。校門前で何人ものヘルメットとマスクで顔を隠した「革命戦士」たちが、拡声器で何やらわめいているというのが大阪市立大学との最初の出会いでしたから、左翼活動を否定するわけではありませんが、関西学院大学に惚れ込むタイプの者が興味を持てるはずがなかったのです。ところが、1996年に実際に入学してみると、左翼活動というのは一部に残ってはいましたが、顔面を隠し拡声器でがなりたてるかつての「革命戦士」の姿はなく、垢抜けた学生が大半となっていました。
注2 私は医学部の受験勉強をしている頃、NHKで生物学関連の番組をよく見ていました。そのときによく登場されていた学者に団まりな先生がおられたのですが、医学部入学後、生物学の先生がその団まりな先生で大変驚いた記憶があります。何しろ最近までブラウン管の中にいた先生が目の前におられるのですから。
注3 その後荻田先生とは5年生の臨床実習のときにお会いして直接話をさせていただきました。その際に「君はひとつの科にとどまっているタイプではない。将来、他人とは違うことをするだろう」と何やら<予言>めいたことを言われました。荻田先生がなぜ私にそのようなことを言われたのかはいまだにわからないのですが、「総合診療部に籍を置きながら多くの科や多くの医療機関に出向いて総合診療やプライマリケアを勉強していく」というやり方をした医師というのはいまだに私以外に聞きませんから、荻田先生の<予言>はあたっていたことになるでしょう。尚、荻田先生は私が医学部を卒業したのと同じ2002年に退官されたのですが、その後関西の芸術系の大学に大学生として入学され本格的に絵画に取り組まれたと聞いています。
注4 例えば、ペロポネソス戦争では感染症(ペスト説、天然痘説、発疹チフス説などがあります)の流行が戦況に大きな影響を与えました(スパルタ軍の兵士たちはなぜか罹患しなかったために勝利したという説もあります)。アメリカのインディアンがヨーロッパ人に滅ぼされたのは、インディアンだけが天然痘に感染したからだと言われています。(つまりヨーロッパ人の兵力ではなく実際にインディアンを滅亡に追い込んだのは天然痘ウイルスであったということです) 14世紀のヨーロッパではペストにより当時の人口のおよそ3分の1が死亡したとされていますし、梅毒が世界史に登場するのは有名な話です。
注5 最近は、感染症を専門にする医師も少しずつ増えてきており、大学病院などでは「感染症内科」を標榜するところもでてきています。
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|2013年6月15日 土曜日
2013年 6月号 やはり医師とは聖職なのか
社会保障制度改革国民会議というものが2012年11月から開催されています。この会議は、社会保障制度改革推進法に基き改革を行うための審議で、詳しくは首相官邸のホームページで知ることができます。
2013年4月に開催された第9回の会議では、日本医師会会長の横倉義武氏が出席し、現状の医療や制度改革に関する意見を表明しています。報道によりますと、この会議のなかで今後の日本医師会の役割についての質問があり、その質問に対して横倉会長は次のように述べたそうです。
「医師たるもの、医師になった時から、自分の人生は、国民のために身をささげるという決意」(注1)
私はこの報道記事を読んだとき、眠たかった頭を何かに殴られたような衝撃を受けました。もちろん医師は、つねに医学の知識と技術の習得に努めなければならず、教養を深めるだけではなく、人格を高める努力を続け、社会に貢献しなければなりません。そして営利目的の医業をおこなってはなりません。
このあたりは、日本医師会が作成している「医の倫理綱領」(注2)に記載されています。私は、太融寺町谷口医院(開院当時は「すてらめいとクリニック」)を開院してからは、自分のミッション・ステイトメント、クリニックのミッション・ステイトメントの次にこの「医の倫理綱領」をよく読むようにしています。そして、そこに書かれていることを遵守するよう努めているつもりです。
しかし、改めて医師会の会長から「自分の人生は国民のために身を捧げる決意」と言われると、私には本当にそこまでの「決意」があるのか、と自問しないわけにはいきません。国民のために身を捧げる・・・、とはどういうことなのでしょうか。文字通り棺桶に足を入れるその瞬間まで国民のために身を捧げる努力をしなければならない、ということなのでしょうか。
医師だけが参加しているメーリングリストや掲示板をみていると、ときどきこのことに思いを巡らせている医師の投稿があります。例えば最近私が興味深く読んだのは、もうすぐ還暦を迎えるというある医師(開業医)の投稿です。
その医師は最近高校の同窓会にでかけたそうです。同窓生には公務員も民間企業のサラリーマンもいて、同級生ですから全員が定年間近の年齢ですが、すでに早期退職をして悠々自適の生活をしている級友もいたそうです。
すでに退職している同級生も、もうすぐ退職する同級生も、今のところ仕事を続けたいと言っている人はおらず、早期退職した同級生のひとりは、好きな読書の傍ら天気のいい日は庭の野菜を栽培するという文字通りの晴耕雨読の生活をしているそうです。これから定年退職を迎える同級生たちも、定年後はゴルフ三昧の生活や、日曜大工を「日曜だけでない大工」として趣味に生きたい、と話しているとか。
その医師によれば、ここ数年は同級生が集まれば今後どのような生き方をしていくべきかといった話ばかりになるそうです。同級生のほとんどが好きなことをする、趣味に生きる、と言っているのに対し、その医師は、医師は聖職であり今後も地域医療のために開業医を続け患者のために一生を捧げるつもり、とその投稿を結んでいました。
もうひとつ、最近私が驚いた出来事を紹介したいと思います。私が大学病院の皮膚科で研修を受けていた頃、最も感銘を受けたのが石井正光教授でした。石井先生は、私が学生の頃から大変印象深い先生で、講義でも「ステロイド一錠減らすは寿命を十年延ばす」という話をされ、従来の治療と同様に、あるいはそれ以上に、生活習慣の改善が皮膚疾患を改善させるということを強調しておられました。
研修医の頃は石井先生の外来も見学させてもらったことがありますが、常に患者さんの立場にたった治療を実践されていることがよく分かりました。たしか2年くらい前だったと思いますが、ある皮膚科関連の学会のある会場で石井先生を数年ぶりに見かけました。そのときその会場では「患者の片足を切断せざるを得なかった症例」の報告がなされていたのですが、その発表を聞いた石井先生はさっと挙手され、「本当に切断が必要だったのか。他に治療方法はなかったのか」ということを繰り返し尋ねておられました。患者さんの側からみたときの最善の治療をとことん追求されている姿が大変印象的でした。
その石井先生が今年3月に大学病院を定年で退官されました。しばらくして石井先生からいただいた葉書を見て私は驚きました。これからの人生はゆっくりと過ごされるのかなと思いきや、なんと早速5月からクリニックを開業なさったというではないですか。これまで多くの患者さんに感謝され、多くの医師に影響を与えてこられた先生ですが、まだやり残していることがあるとお考えなのかもしれません。そして、聖職としての医師の使命をまっとうされたいという気持ちもお持ちなのでしょう。
現在40~50代の世代では定年後も働きたいと考えている人が少なくないという話をときどき聞きますが、多くは年金の不安などから、食べていくために働かなければならない、という意見だと思います。
一方、石井先生や、その前に述べた開業医の先生も、さらに冒頭で述べた医師会会長も「お金のためにこれからも働く」と考えているわけではありません。医師の所得や資産は世間の人が考えているほど多くありませんが、それでも定年まで働いたなら贅沢をしなければその後は年金だけでやっていけるでしょう。にもかかわらずこれからも仕事を通して社会貢献されるというのですから、やはり医師は聖職と呼ばれて然るべきなのかもしれません。
けれどもよく考えてみると、定年後も社会貢献に身を捧げる人は医師だけではありません。2011年12月、享年88歳で他界された谷口巳三郎先生は、定年退職後単身でタイに渡り、一時は破産寸前にまで追い込まれながらもタイ北部のパヤオ県で農業指導を文字通り死ぬまでおこなわれました(注3)。
JICAにはシニア海外ボランティアという制度があり、69歳までならJICAのスタッフとして海外でボランティア活動をおこなうことができます。定年退職後に参加しアジア・アフリカ諸国に日本の技術を伝えにいく人が少なくないと聞きます。もちろん国内でも退職後にボランティア活動に従事している人は大勢います。
たしかに、定年退職後も、あるいは生涯にわたり社会貢献に身を捧げるのは医師だけではありません。また医師のなかにも退職後悠々自適の生活をしている人もいるでしょう。私は過去に何度かタイの外国人が集まるカフェやバーで「医師を引退してからタイでのんびりしている」というヨーロッパ人の元医師と話したことがあります。退職後にのんびりと生活している元医師を責めることはできません。
しかしながら、医師という職業は、社会から強制されることはないにしても、生涯に渡り社会貢献することを期待されている、つまり社会から「聖職」と見なされているのは事実でしょう。
これから医師を目指す人にはそのあたりのことも考えてもらいたいと思います。そして私自身も今後どのようなかたちで社会貢献すべきなのかについて考えていきたいと思います。
注1:記事の原文では、「国民のために身のためにささげるという決意」とされていますが、これは正しくは「国民のために身をささげるという決意」だと思いますので訂正したものを記載しました。原文は、医療系サイトm3.comの「医療ニュース・医療維新」の2013年4月22日号で、タイトルは「かかりつけ医、定額報酬も可 日医横倉会長、第9回社会保障制度改革国民会議」です。
注2 日本医師会が作成している「医の倫理綱領」は下記のURLで読むことができます。
http://www.med.or.jp/doctor/member/000967.html
注3:谷口巳三郎先生については、NPO法人GINA(ジーナ)のサイトで何度も取り上げています。興味のある方は下記「谷口巳三郎先生が残したもの」を参照ください。
参考:GINAと共に
第67回(2012年1月)「谷口巳三郎先生が残したもの」
第33回(2009年3月)「私に余生はない・・・」
第14回(2007年8月)「リタイア後の楽しみ」
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|2013年6月15日 土曜日
2013年5月号 薬局との賢い付き合い方(後編)
前回のコラムで取り上げた2つの薬剤師の例は、いずれも大変問題であり、そのような薬剤師しかいない薬局は利用しない方がいいでしょう。
では、なぜ2つの例にみた薬剤師は、ほとんど何の説明もなくロキソニンSを初めての客(患者さん)に販売したのでしょうか。おそらく薬剤師も、ロキソニンSの危険性については知っているはずです。(そうでなければ国家試験に合格しません) にもかかわらず説明もなく販売したのは、あまりにも客が多くて説明する時間がなかった、ということでしょうか。しかし、1つめの例にあげたAさんによれば、特に薬局は混んでいなかったそうですし、2つめの例の日経新聞の記事からもそのような様子は伺えません。それに、いくら混んでいても必要最低限の説明はしなければなりません。これらのケースでは、売れるものは売ってしまえ、という営利的な考えをその薬局や薬剤師が持っていると考えざるをえません。
過去に私は個人的に薬剤師に対してネガティブな感情を持ったことがあります。数年前、見ず知らずの薬局から突然メールが届きました。何やら重要な話があり会ってほしい、とのことで私は会うことにしました。
その薬局の代表者ともうひとりの薬剤師がやって来て私に言ったのは、「すべてお金を出すからクリニックを開業してくれないか」というものでした。「繁華街にひとつビルを持っていてその1階で薬局をしている。開業に必要な資金はすべて出すからそのビルで開業してほしい」、というのです。一見、医師からみてもこの提案は条件のよい魅力的なものにうつるかもしれません。
しかし私はこの提案を断りました。話をしていくなかで、この人たちは信用できないのではないか、と感じたからです。何を話しても、どのようにして利益を上げるか、という方向に話が向かうのです。
我々医師は、「どのような薬を患者さんに売る(処方する)べきか」、と考えているわけではありません。その逆に、まずは「薬を使わないでいいようにできないか」と考えるのです。つまり、医師の仕事とは、いかに薬を減らすことができるか、と言っても過言ではないのです。高血圧や糖尿病の患者さんに「安易に薬に頼るのではなくまずは生活習慣の改善をしましょう」というのも、抗生物質を出してほしい、と言われて、それが必要でない理由を説明するのも、我々医師は、いかに薬を減らせるか、ということに重きを置いているからです。点滴を希望する患者さんに、まずは水分摂取を心がけてください、と言って不満を言われながらも点滴を断るのもそのためです。
ちなみに「検査」も同様です。先日、じんましんの患者さんに、「原因が知りたいから血液検査をしてください」と言われ、「あなたのじんましんは血液検査をしても異常がみつからないタイプのものです」と言うと、「お金払うのはあたしですよ」と不満を言われましたが「無駄な検査」はすべきでないのです。頭痛を訴える患者さんにCTを撮影してほしいと言われ、「現時点では放射線を被曝してまで撮影する必要はありません」と答えてもなかなか納得してもらえないことがありますが、これは医師がさぼりたいからではないのです。検査や薬をいかに減らすか、これが我々医師の使命とも言えるわけです。
私に開業をもちかけた薬局の話に戻すと、「薬をできるだけ減らすようにする医師(私)と、営利主義の薬局が上手くやっていけるわけがない」、と判断して断ったというわけです。
では、多くの薬剤師が営利のことばかりを考えているのか、といえば決してそういうわけではありません。私が勤務医のときにお世話になっていた薬剤師の方々は、いつも患者さんの立場から薬のことを考えてくれていました。私も含めて医師は、なぜその薬が必要かを理屈だけで判断して処方します。飲みやすさや患者さんがその薬をどのように感じているか、などといったことについてまではなかなか思いを巡らせることができないのです。そもそも医師は薬そのものを見る機会が少なく、患者さんから「あの緑色の少し大きい楕円形の薬・・・」などと言われても、それがどの薬であるかが分からないことが多いのです。
その点、薬剤師であれば、日頃から服薬指導をおこなっていますから、それぞれの薬の形、色などはもちろん、患者さんとのコミュニケーションを通しての経験から、どれくらい苦いかとか後味はどうかとか、そういったことにも熟知していますし、薬の相互作用(飲み合わせ)の知識など医師よりも豊富であることも少なくありません。ですから、薬剤師からの報告というのは医師にとって大変ありがたいものなのです。
それに、私が勤務医の頃お世話になっていた薬剤師の方々は、決して薬を増やすような助言はしませんでした。むしろ、いかにして減らしていけるか、といった観点から私に助言をしてくれていました。ですから、前回例に出した二人の薬剤師や、先に紹介した私に開業をもちかけた薬剤師が特殊な例であり、大半の薬剤師は営利ではなく患者さんの立場から薬について考えているはずだと私は信じています。
しかし、ここでひとつの疑問がでてきます。(大きな)病院で勤務する薬剤師はいいとして、薬局を開業したり薬局で働いたりしている薬剤師は営利目的ではないのか、という疑問です。
薬局と異なり、医療機関の場合は利益がでるのは薬の処方ではなく診察代に対してです。医療機関では、もちろん薬にもよりますが、例えば前回とりあげたロキソニンで言えば、薬局で買えるロキソニンSは1錠あたり56.6円(12錠入り680円)ですが、太融寺町谷口医院(以下、谷口医院)で処方しているロキソニンの後発品は1錠わずか5.4円(3割負担で1.62円)です。利益でいえば1錠あたり0.5円にも満たないのです。
このように医療機関では薬による利益はほとんどなく、また検査でもそれほど利益がでるわけではありません。血液検査は外注しますし(検査会社は儲かると思います)、レントゲンなどはある程度数をこなさないと利益が出ないどころか赤字になります。レントゲンは少量とはいえ被曝することになりますから、ある程度重症でない限り初診で撮影することはありません。このため谷口医院ではレントゲンについてはリース代と維持費のコストの方が高いために毎月赤字を計上しています。
入院や手術をすればそれなりに利益になりますが(ただし諸外国と比べるとこれらも随分安く設定されていることがよく指摘されます)、これらをおこなわないクリニックでは何が利益になるかというと、ほとんどが診察代です。診察代は人件費以外のコストはかかりませんから利益率は大変高いといえます。しかも○分以上かけなければならない、という決まりもありません。つまり30秒で診察を終えても30分かけても診察代は同じなのです。
ですから、入院施設のないクリニックで利益をだそうと思えばどんどん患者数を増やして診察していけばいいということになります。しかし、きちんと診察するにはそれなりの時間が必要で、谷口医院ではだいたい日々60~70人の患者さんを診察していますが、これくらいが限界であり、これでも待ち時間はかなり長くなります。70人を超えると2時間以上待つ人がでてきて、連休明けなどで80人を超えると3時間以上の待ち時間がでることもあります。ときどき1日100人以上、もっとすごいところでは200人以上もひとりの医師で診察しているクリニックもあるそうですが、私にはとうてい不可能です。
話を薬局に戻します。診察代を徴収できない薬局では、薬をたくさん売ることが目的になってしまうのは仕方がないことなのでしょうか。私はそうでないと信じたいと思います。以下は2013年3月27日の薬局新聞に掲載されたコラムです。
「薬局と言うのは郵便局などと同じで公共の側面を持った施設だと思っている。しかし現状の薬局を見渡すと、その役割を十分に果しているとは言い難い」。先日開催されたJAPANドラッグストアショーの中で、クスリのアオキの青木保外志社長は薬局の役割の大きさと責任感について、薬局側が再考する必要があると訴えた。(中略)同氏のいう薬局の「局」は、調剤を実施することはもちろん地域住民の健康に対して責任を果たすことであると続け、「仮に薬局が地域から無くなってしまったら生活が困る。そういうレベルまで高める必要性がある」と語る。
薬剤師の方々がこの考えを忘れない限り薬局に対する社会からの信頼を失うことはないでしょう。つまり、薬局は医療機関と同様「公共の側面を持った施設」であり営利団体ではないのです。日本医師会が制定している「医の倫理綱領」の第6条には「医師は医業にあたって営利を目的としない」とはっきりと明記されています。薬剤師の世界にこれと同様のものがあるのかどうか分かりませんが、きっと薬剤師の根源的な精神は医師と同じものだと思います。
営利を目的とせず患者さんの立場に立った医療をおこなう。これが医師の「矜持」です(注1)。薬剤師には薬剤師の矜持があるはずで、その矜持を忘れていない薬剤師に相談する。これが薬局と賢く付き合う秘訣に他なりません。
注1;今回は医師の悪口を書いていませんが、医師にとんでもない輩がいるのも事実です。2009年に逮捕された奈良県大和郡山市のY病院のY医師は我々医師に衝撃を与えました。マスコミの論調のなかには「このような事件は氷山の一角」としているものもありますが、私自身はこのような例は極めて特殊なものであると信じています。この事件については下記のコラムでも取り上げていますので興味のある方は参照してみてください。
参考:メディカルエッセイ
第79回(2009年8月) 「”掟”に背いた医師」
第86回(2010年3月) 「動機善なりや、私心なかりしか」
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|2013年6月15日 土曜日
2013年4月号 薬局との賢い付き合い方(前編)
私は以前から、セルフメディケーションをもっと促進すべき、という考えであり、このサイトのコラムでも何度か意見を述べています。この理由として、我々医療者からみたときには「医師不足の対策になる」というものがありますが、もちろん医療者の勝手な都合からセルフメディケーションをすすめたいわけではありません。
セルフメディケーションは、患者さんからみても多くの利点があります。まず、医療機関を受診し待合室で長時間待たされる、という苦痛から解放されます。次に、自分の健康や医学に興味を持つことにより日頃から体調管理に気をつけるようになります。上手くいけば、それが禁煙につながり、バランスのとれた食事、適度な運動などを促すことになるでしょう。そして、他人に頼らず自立した状態で長生きできるようになります。盲目的に医師の言うことに従っている状態では本当の健康を維持できない、と私は思っています。
そもそも現在のような医師不足の社会では、医師は患者さんと充分なコミュニケーションをとる時間が確保できません。どうしても説明や助言は必要最低限のものとなってしまいます。看護師や栄養士の指導や助言は有用ですが、やはり時間が無限にあるわけではありませんし、そもそも医療者と話をするためには医療機関まで足を運ばなければなりません。
セルフメディケーションを効率よく実践するには「薬局の利用」が有用なはず、です。有用な「はず」としたのには理由があります。私が提案したいのは、自分にあった薬局と薬剤師をみつけてセルフメディケーションを促進しましょう、ということですが、その前に、これを読んだ薬剤師の方々に非難されることを承知した上で、現在の薬局の悪口を言いたいと思います。
先日、ある患者さん(Aさんとします)から驚く話を聞きました。Aさんは頭痛があり太融寺町谷口医院にかかっているのですが、あるとき関東地方のある県に出張に行く時に、私が処方した常備薬のロキソニン(正確に言えばその後発品)を忘れたそうです。ロキソニンは薬局で買えるもの(ロキソニンS)もあることを知っていたAさんは、駅前の薬局に入り「ロキソニンSをください」と言ったそうです。すると、その薬局の店員(薬剤師だと思います)は、「飲んだことはありますか」と聞き、Aさんが「はい」と答えると、それ以上何も聞かれずに買えてしまったそうなのです。
あまりにもすぐに買えたことにAさんは驚いたそうですが、私も驚きました。ロキソニンが危険な薬、とまでは言いませんが、副作用が少ないとは言えません。ロキソニンの副作用では胃痛が有名ですが、これだけではありません。稀ではありますが、重症化する薬疹を起こすこともありますし、長期使用で心臓や腎臓に影響を及ぼすこともあります。私が日々の診療で最も注意しているのはロキソニンによる「薬物乱用頭痛」です。別名「ロキソニン中毒」とも呼ばれるもので、ロキソニンを大量に使用したために、ロキソニンがなければほんの少しの痛みにも耐えられなくなり、ますますロキソニンに依存するようになっていく頭痛のことをいいます。
通常医療機関では、ロキソニンを含めて鎮痛剤の処方には慎重になります。薬局でも初めての患者さんにロキソニンSを販売するときは、「現在他に飲んでいる薬はないか」「ロキソニンはどのような症状に対して必要なのか」「今その症状はどの程度のものなのか」「どれくらいの頻度で飲んでいるのか」などは尋ねなければならないはずです。
こういったことはどこかで問題提起しなければいけない、と感じていたところ、偶然にも2013年4月4日の日経新聞の一面に「薬ネット販売、抵抗は誰のため」というタイトルで、この問題が取り上げられていました。
この記事を書いた記者は、実際にロキソニンSを買おうとして東京都千代田の神保町駅付近のドラッグストアを訪ねて薬剤師に話したそうです。以下、記事を引用します。
薬剤師「初めてですか」
記者「そうですが、代わりに買いに来ました」
薬剤師「では、この注意書きをお渡しください」
記者「これでいいの」。あっけなさに拍子抜けした。
本人でなくてもこんなに簡単に買えてしまったというのです。注意書きを渡すだけなら薬剤師は要りません。その注意書きをロキソニンSの箱に書いておけば事足りるからです。
2009年、厚生労働省は、薬局で販売されている薬の第1類とそれに準じた第2類をインターネットで販売することを禁じました。この禁止令は違法であるとしてドラッグストアなどが訴訟を起こし、2013年1月、最高裁で、厚労省の禁止令は違法との判決がでました。これを受けてドラッグストアは販売を再開しているようです。
厚労省のなかでは、インターネットでの販売に反対する声が依然根強く残っているそうですが、上に紹介した2つの例のように薬局でこれほど簡単に買えてしまうなら、そもそも薬剤師など必要ありませんし、インターネットでの購入と差はありません。インターネットでの販売に反対する関係者らは、薬局では薬剤師が丁寧に説明していると信じているのでしょう。
ここで私の意見を述べておくと、「ロキソニンは薬局で売るのも禁止、インターネットでも禁止すべき」、というものではありません。忙しくて医療機関を受診できない人もいれば、身体にハンディキャップがあり薬局にさえも一人では行けない、という人もいるわけです。そういった人たちには、薬局での購入やインターネットの利用は大変ありがたいものになります。
しかしながら、あまりにも気軽にこのような薬が買えるということには問題があります。今の状態が放置されるとすると、「ロキソニン中毒」となる人が後を絶たなくなるかもしれません。また、過去に一度も飲んだことのない人が、自分の判断でロキソニンを内服するのは危険です。やはり一度は医師の診察を受けるべきです。
ではどうすればいいか。まず、ロキソニンを一度も飲んだことのない人が薬局やインターネットで購入するのは避けるべきです。ロキソニンを処方されたことのある患者さんは、かかりつけ医に、今後薬局でロキソニンSを購入することが可能かどうか確認し、医師が許可すればそれ以降は薬局での購入が可能、とすればいいのです。薬局で、過去に医療機関で処方されたことがあるかを証明すべき、というのであれば、医療機関で発行している「薬剤情報提供書」や「処方せん」のコピーを薬局で提示すれば解決します。そして、その薬局を「かかりつけ薬局」とするのです。
インターネットについては、その「かかりつけ薬局」のホームページからのみ購入できる、とすればいいと思います。こうすれば、複数のインターネットショップからロキソニンを大量に購入することが防げます。もちろん、この程度の対策であれば、例えば、他の薬局は利用していない、と嘘を言って、複数の「かかりつけ薬局」をつくれば、ある程度多量のロキソニンを手に入れることはできます。しかし、完全に自由にインターネットで購入できる状態とは大きく異なります。
というわけで、私は今後「かかりつけ薬局」という概念が普及していくべきだと考えているのですが、先に2つの例でみたような薬剤師しかいないのであれば、この考えを取り下げなければなりません。
実際のところはどうなのでしょう。2つの例のように患者さんを大切にしているとはとても思えないような薬局や薬剤師ばかりなのでしょうか。あるいは、この2つの例が例外であり、大半の薬局には患者さんが頼りにできる薬剤師がいるのでしょうか。
次回はそのあたりを考えてみたいと思います。
参考:
はやりの病気第96回(2011年8月)「放っておいてはいけない頭痛」
メディカルエッセイ第97回(2011年2月)「鎮痛剤を上手に使う方法」
マンスリーレポート2012年4月号「セルフ・メディケーションのすすめ~花粉症編~」
マンスリーレポート2012年5月号「セルフ・メディケーションのすすめ~薬を減らす~」
メディカルエッセイ第120回(2013年1月)「セルフ・メディケーションのすすめ~抗ヒスタミン薬~」
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|2013年6月15日 土曜日
2013年3月号 医療者に向いてそうで向いてない人
いつも患者さんのことを第一に考えて行動する医療者・・・、と聞けば、「理想の医療者だ」と感じる人もいるでしょう。しかし、これが行き過ぎると、患者さんにとって、そしてその医療者にとっても、転帰が不幸なものになってしまうことがあります。
もちろん医療者は患者さんのために存在すべきであって、自分本位であることは許されません。しかし、それは自分の「自己」というものが確立していることが前提であり、どれだけ患者さんの立場に立ったとしても、一定の”距離”が必要です。
例を挙げたいと思います。
数年前、NPO法人GINA(ジーナ)の関連でタイにいたとき、私は日本人のある看護学生に出会いました。その学生とはほんの20分程度話しただけなのですが、彼女は大変興味深い話をしてくれました。
その学生は休みの度にアジアの医療施設の見学やボランティアに行っていると話していました。その学生が、アジアのある地域にある外国人の医療者がボランティアで医療をおこなっている施設に行ったとき、その地域の住民があまりにも貧困なことに驚いたそうです。
彼女がその施設に着いて初めて見た患者さんは10歳前後の女の子だったそうです。下痢と発熱でその施設にやってきて、その症状はそれほどひどくなかったのですが、彼女が衝撃を受けたのはその女の子が文字の読み書きができないことだったそうです。読み書きができないのは学校に行く余裕がないからですが、それ以前にノートや鉛筆がその女の子の家族にとってはとても高級なもので簡単に手に入れることができないのです。
そこで彼女は、「ならばあたしがこの子に必要なノートと鉛筆を買ってあげる!」とその施設のスタッフに言ったそうです。すると、そのスタッフに大笑いされ、「そんなことをしたら今日の夕方にはあなたに物をねだる子供が行列をつくるわよ。”優しい”日本人がやってきた、という噂が村中に広がり、すぐにあなたは無一文になるわ」、と言われたそうです。
この学生は大変優秀であり、このスタッフの助言の意味を理解しました。患者さんの力になりたい、という思いが”暴走”すると、ときに自らの身を滅ぼすことにつながりかねないのです。もしも彼女が、このスタッフに相談することなく自分の判断でノートと鉛筆を女の子にプレゼントしていたら、大変なことになっていたでしょう。
私はその看護学生と、それから一度も連絡をとっていないのですが、きっと立派な看護師になられていると思います。アジアのその施設にも、今もなんらかの形で支援されているのではないかと思います。
次の例は、自らを不幸にしてしまった研修医の話です。(私はこの研修医(男性)と直接会ったことがあるわけでなく、ある病院で指導する立場にある医師から聞いた話です)
その研修医(以下、A医師とします)はそのとき内科系のある病棟で研修を受けていました。あるとき摂食障害で食事が摂れなくなった20歳の女性(Bさんとします)が入院することとなり、A医師が受け持つこととなりました。A医師は大変熱心な研修医で、どれだけ忙しくても毎日最低一度はBさんのところに行き、話を聞くようにしていました。A医師の熱意が通じたのか、Bさんは少しずつ食事が摂れるようになり、2週間後には退院できることになりました。Bさんが退院するときに、A医師に「先生のおかげで元気になれました。退院してもちゃんとご飯を食べるから心配しないでくださいね」と話したそうです。
しかし、事はそううまくはいかないものです。他の多くの摂食障害をもつ若い女性と同様、Bさんは退院後再び食事を摂らなくなり、姉に連れられてその病院の外来にやってきました。今度は入院するほどでもないと判断され、数種類の薬を処方され帰宅しました。
その日の夕方、外来でBさんを診察した医師から話を聞いたA医師は、いてもたってもいられなくなりました。カルテから電話番号を調べ「自分の判断で」Bさんに直接電話をしたのです。電話に出たBさんの声には元気がありません。電話では話が噛み合わなかったと感じたA医師は、翌日の土曜日の午後に、なんとBさんの自宅を訪問したのです。電話では不機嫌だったBさんも直接A医師が家まで来てくれたことには感激したようです。しっかり治療を受けることを約束し、そのときはA医師も「来てよかった」と思ったそうです。
しかしその後もBさんの嘔吐は止まりません。精神状態も不安定になり、毎日のようにA医師に電話をするようになりました。A医師はBさんの自宅を訪ねたときに「何かあったら遠慮なく電話してほしい」と言って自分の携帯電話の番号を伝えていたのです。Bさんの電話はエスカレートしていきました。深夜でもおかまいなく電話がかかってきて、ついに「今からすぐ来てくれないと手首切っちゃう!」と言われたそうです。
A医師は心を病み、1ヶ月後には病院を去っていったそうです・・・。
さらに不幸な例を紹介したいと思います。この例はマスコミで報道されましたし、その後週刊誌などがかなり詳しいことまで取り上げましたから覚えている人も多いかと思います。
2002年12月、東京都板橋区にある当時46歳のO医師(実名が報道されましたがここでは伏せておきます)の自宅で当時28歳の婚約者Nさん(同様に実名は伏せます)がO医師に首を絞められ死亡しました。O医師は東京の精神科クリニックの院長であり、Nさんは元患者で、殺害された当時はO医師のクリニックで事務員として働いていたそうです。
この事件が世間の注目を集めたのは、普通では有り得ない医師と患者の恋愛に加え、Nさんに虚言癖があったからです。報道によれば、Nさんは、祖父が有名画家の藤田嗣治(ふじたつぐはる)で、母親は宝塚の元女優、自身の元婚約者は有名なDJでNさんはその男性の子供を身篭ったが、そのDJはエイズで死亡。自分自身も芸術のセンスがあり、坂本龍一と一緒に「戦場のメリークリスマス」を作曲した、と言っていたそうです。
当時のインターネットの書き込みなどでは、Nさんに翻弄されたO医師に同情しているものもありましたが、私はO医師がNさんに騙されていたわけではないと思っています。NさんはO医師の患者であるときに抗うつ薬を処方されていたそうですが、報道されたNさんの言動から推測すると(私がNさんを診察したわけではないので無責任な推測ではありますが)Nさんは「境界性人格障害」に該当すると思われます。
境界性人格障害に虚言癖が伴うのはよくあることで、精神科医のO医師がNさんの言葉を信じていたはずがないのです。そもそも「戦場のメリークリスマス」が流行った1983年はNさんはまだ小学校低学年なのです。
私の分析は、O医師が惚れたNさんに翻弄されたのではなく、O医師のNさんに対する同情心が行き過ぎて悲劇を招いた、というものです。つまり先に紹介したA医師と同じような構図だとみています。ただ、O医師がA医師と異なるのは、いつのまにかNさんに対する同情心が一線を超えてしまった、つまり、医師としての同情心が個人的な同情心に替わり、さらにそれが恋愛感情にまで進展するというタブーを犯してしまった、ということです。
報道によれば、O医師はフランスの哲学者ジャック・ラカンの研究者として一流であったものの(実際にラカンを研究した著作もあるそうです)、どこの医局にも属さずに他の精神科医と距離をとっていたようです。O医師はNさんを殺害した後、自らの命を絶とうとしたそうですが死にきれずに意識不明で救急搬送されました。その後意識を回復し懲役9年の実刑判決が下されています。
今は3月で受験のシーズンです。毎年春になると「医学部を目指しているのですが・・・」というメールをもらいます。医師(や看護師)を目指す人は、「患者さんのために・・・」という気持ちは大切ではあるものの、それが行き過ぎると患者さんを不幸にし、そして自らの身を滅ぼすこともあるということを知っておくべきでしょう。
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|2013年6月15日 土曜日
2013年2月号 幕末時代の勉強法から学ぶこと
近くにあっていつでも行けるからそのうち時間ができれば・・・と思っていて一度も訪れたことのない場所、というのは誰にでもあると思います。私にとってそのような場所のひとつが「適塾」でした。
適塾は、幕末の蘭学者・医者であり教育者でもあった緒方洪庵(おがたこうあん)が、1845年からおよそ20年間住みこんで開いていた蘭学の私塾です。
私が緒方洪庵に初めて興味を持ったのは、1995年、医学部の受験勉強をしていた頃でした。それまで緒方洪庵という人物についてはあまり詳しく知らなかったのですが、「倫理・政経」のセンター試験対策をしているときに参考書に登場していたことから関心が深まりました。
幼少時に天然痘にかかったというエピソードもあり、その後医学を極め天然痘治療に貢献し日本の近代医学の祖ともいわれた緒方洪庵は、医学部受験を志す者なら知らないわけにはいきません。緒方洪庵は医師としてだけでなく、教育者としても歴史に残る人物で、適塾では日本全国の若者に蘭学を教えていました。
適塾の塾生で最も有名なのが福沢諭吉でしょう。福沢諭吉は優秀な塾生たちのなかでも特に際立っていたようで、入塾するお金がなかったものの教科書を翻訳するなどの条件で住み込みの塾生になり、最年少の22歳で適塾の塾頭にまでなったそうです。しかし、血を見るのがダメだったようで、解剖は苦手で医学よりも蘭学を学んだ、とされています。
話を適塾に戻しましょう。私が医学部の受験勉強をしているとき、その適塾は修復工事が完了しており今でも見学に行くことができる、と聞きました。そこで私は、医学部に合格することができたなら必ず訪問してみよう、と誓ったのです。
しかしながら、訪れることを誓ったものの、いざ医学部に入学すれば勉強に忙しく、医師になってから訪れよう・・・、となり、医師になってからは、そのうち時間ができたら・・・、となってしまいました。このままでは、医師を引退してから・・・、と言い出しかねない、と思い、先日、木曜日の休診日、事務仕事が予定より早く終わったこともあって、念願の適塾訪問が実現することになりました。
適塾は大阪のオフィス街のど真ん中に位置しています。駅で言えば淀屋橋と北浜の中間くらいにあり、どちらからでも歩いて行ける距離にあります。私は太融寺町谷口医院から歩いて行きましたが30分もかからないくらいでした。このあたりは近代ビルが立ち並んだ都心のオフィス街ですから、こんなところに今でも適塾が本当にあるのかな・・・、と思いながら歩いていると、突然貫禄のある木造家屋が目の前に現れました。まるで、幕末にタイムスリップしたような感覚にとらわれます。
大阪という街は、都心のオフィス街であっても、明治時代くらいからそのまま残っているのではないか、と思わせるような古い家屋をときどき目にします。しかし、適塾はそのような古い建物のなかでも群を抜いて貫禄があります。品のいい白壁の町家風木造建築物、という感じです。
訪問時にもらった資料によれば、この建物は1845年に緒方洪庵が購入したそうです。1964年には国の重要文化財に指定され、1980年に解体修復工事が完了し一般公開が開始されたそうです。250円の入場料を払えば、建物の中を見学することもできます。二階建てになっていて、一階は客座敷、教室、土間などと表示されていました。興味深いのは二階にあるふたつの部屋です。ひとつは「ヅーフ部屋」、もうひとつは「塾生大部屋」です。
ヅーフ部屋とは、オランダ語の辞書「ヅーフ・ハルマ」の置いてあった部屋で、その辞書(ヅーフ辞書)も展示されています。説明文によると、ヅーフ辞書は適塾に1冊しかなく、塾生たちはこの辞書を奪い合うようにして勉強していたそうです。我々現代人の感覚でいうと、展示されていたその辞書はけっして分かりやすいわけではなく、単にオランダ語の横に日本語訳が書かれているだけで、色分けもなく、手書きであり、勉強するのがイヤになりそうです。
しかし、当時蘭学を学ぶ者にとって、それがほとんど唯一オランダ語を知る手がかりだったわけですから、学生たちにとっては大変貴重なものだったに違いありません。いい参考書がみつからない・・・、などという悩みがどれだけ贅沢なものかということを実感させられます。
もうひとつの部屋、塾生大部屋は、おそらく適塾を訪れる人にとって最も印象に残る部屋でしょう。塾生たちが自習をし、雑魚寝をしていた部屋なのですが、部屋に入った瞬間、視界に飛び込んでくるのは中央にある1本の柱です。この柱には無数の傷が付けられており、説明文によると、塾生たちが刀でつけた傷であり、血気盛んな若者たちが日夜激論を交わし、刃傷沙汰も日常茶飯事だった、とも言われているそうです。実際に刃傷沙汰があったのかどうかは分かりませんが、今でもその柱からは当時の”熱気”のようなものが伝わってきます。
塾生たちに割り当てられたのは畳1畳もないくらいのスペースで、そこで着替えや机になるものを置いて勉強していたそうです。成績順にいい場所をとれたようで、成績が悪いと陽のあたらない暗いスペースしかもらえずに明かりを確保するのにも苦労したであろうことが想像できます。エアコンのきいた静かな部屋で「なんだか今日は勉強気分じゃないなぁ」などと言ってゲームに夢中になる現代の受験生とどれだけ違うかを考えさせられます。
適塾には多くの資料が展示されていますが、私が最も惹かれたのは、ドイツの医学者であるフーフェランドが著し、緒方洪庵が訳したとされる『扶氏医戒之略』です。フーフェランドという人物は、過去のセンター試験に出題されたことはないかもしれませんが、高校生レベルの倫理学の資料集でも少し詳しいものであれば名前くらいは登場します。
フーフェランドは医学者なのになぜ倫理学の教科書に出てくるのか、そして緒方洪庵も、日本史に登場するのは理解できるとして、なぜ倫理学でも取り上げられるのか、その理由が『扶氏医戒之略』にあります。
『扶氏医戒之略』には、医師が守るべき戒めが12箇条にまとめられているのですが、これら12箇条のひとつひとつが、医療を実践する者にとって「医療倫理の真髄」とも呼べる程の優れたものなのです。医師のみならず、これから医学を学ぼうとする者にとっても、読めば魂が震えるくらいの感動があります。
適塾で見た『扶氏医戒之略』は、文語調で書かれていますから読みやすくはないのですが、それでも充分に「医療倫理の真髄」が伝わってきます。例えば第1条には「医の世に生活するは人の為のみ、おのれがためにあらずということを其業の本旨とす」と書かれています。つまり、医師は人(患者さん)のために存在しているのであって、自分のために生活するべきでない、ということです。その次には、名声や利益を顧みることなく、ただ自分を捨てて人を救うべきである、と書かれています。
第2条以降を簡単に紹介しておくと、「常に謙虚に診察すべき」、「医療費はできるだけ少なくすべき」、「他の医師を批判してはならない」、「詭弁や珍奇な説で世間に名を売るような行為は医師として最も恥ずかしいこと」など、まるで現在の医師を戒めるような内容です。また、「患者個人の秘密や最も恥ずかしいことすら聞かねばならないこともあり、医師は篤実温厚で多言せずに沈黙を守らなければならない」、と守秘義務についてこれだけはっきりと記されていることにも驚かされます。
適塾を後にした私は、早速インターネット上でこの『扶氏医戒之略』の現代語訳を探しました(注1)。読めば読むほど身が引きしまる想いがします。これから私は仕事のスランプを感じる度にこの12箇条を読み返すことになるでしょう。
そして、勉強のスランプに陥ったときは、改めて適塾を訪れて、あの「柱」の前に立ちたいと思います・・・。
************
注1:『扶氏医戒之略』の現代語訳を下記に記します。医師、医学生のみならず、これから医学部を目指す人たちにも是非読んでもらいたいものです。また、患者として医師の診察を受ける人も読んでみてください。あなたの医師がこの12箇条にどれだけ忠実かを考えてみるのもおもしろいかもしれません。
1.人のために生活して、自分のために生活しないことが医業の本当の姿である。安楽に生活することを思わず、また名声や利益を顧みることなく、ただ自分を捨てて人を救うことのみを願うべきであろう。人の生命を保ち、疾病を回復させ、苦痛を和らげる以外の何ものでもない。
2.患者を診るときはただ患者を診るのであって、決して身分や金持、貧乏を診るのであってはならない。貧しい患者の感涙と高価な金品とは比較できないだろう。医師として深くこのことを考えるべきである。
3.治療を行うにあたっては、患者が対象であり、決して道具であってはならないし、自己流にこだわることなく、また、患者を実験台にすることなく、常に謙虚に観察し、かつ細心の注意をもって治療をおこなわねばならない。
4.医学を勉強することは当然であるが、自分の言行にも注意して、患者に信頼されるようでなければならない。時流におもね、詭弁や珍奇な説を唱えて、世間に名を売るような行いは、医師として最も恥ずかしいことである。
5.毎日、夜は昼間に診た病態について考察し、詳細に記録することを日課とすべきである。これらをまとめて一つの本を作れば、自分のみならず、病人にとっても大変有益となろう。
6.患者を大ざっぱな診察で数多く診るよりも、心をこめて、細密に診ることの方が大事である。しかし、自尊心が強く、しばしば診察することを拒むようでは最悪な医者と言わざるをえない。
7.不治の病気であっても、その病苦を和らげ、その生命を保つようにすることは医師の務めである。それを放置して、顧みないことは人道に反する。たとえ救うことができなくても、患者を慰めることを仁術という。片時たりともその生命を延ばすことに務め、決して死を言ってはならないし、言葉遣い、行動によって悟らせないように気をつかうべきである。
8.医療費はできるだけ少なくすることに注意するべきである。たとえ命を救いえても生活費に困るようでは、患者のためにならない。特に貧しい人のためには、とくにこのことを考慮しなければならない。
9.世間のすべての人から好意をもってみられるよう心がける必要がある。たとえ学術が優れ、言行も厳格であっても、衆人の信用を得なければ何にもならない。ことに医者は、人の全生命をあずかり、個人の秘密さえも聞き、また最も恥ずかしいことなどを聞かねばならないことがある。したがって、医師たるものは篤実温厚を旨として多言せず、むしろ沈黙を守るようにしなければならない。賭けごと、大酒、好色、利益に欲深いというようなことは言語道断である。
10.同業のものに対しては常に誉めるべきであり、たとえ、それができないようなときでも、外交辞令に努めるべきである。決して他の医師を批判してはならない。人の短所を言うのは聖人君子のすべきことではない。他人の過ちをあげることは小人のすることであり、一つの過ちをあげて批判することは自分自身の人格を損なうことになろう。医術にはそれぞれの医師のやり方や、自分で得られた独特の方法もあろう。みだりにこれらを批判することはよくない。とくに経験の多い医師からは教示を受けるべきである。前にかかった医師の医療について尋ねられたときは、努めてその医療の良かったところを取り上げるべきである。その治療法を続けるかどうかについては、現在症状がないときは辞退した方がよい。
11.治療について相談するときは、あまり多くの人としてはいけない。多くても三人以内の方が良い。とくにその人選が重要である。ひたすら患者の安全を第一として患者を無視して言い争うことはよくない。
12.患者が先の主治医をすてて受診を求めてきたときは、先の医師に話し、了解を受けなければ診察してはいけない。しかし、その患者の治療が誤っていることがわかれば、それを放置することも、また医道に反することである。とくに、危険な病状であれば迷ってはいけない。
馬場茂明著『聴診器』より
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