マンスリーレポート

2014年1月10日 金曜日

2014年1月号 沖縄で考えた「命」

 年末年始も病院に泊まり込んで患者さんのために尽力している医療者がたくさんいることは重々承知しているのですが、私自身は休暇をとって旅行に出かけました。

 今回の年末年始は諸事情からひとり旅に出ることとなり、行き先は沖縄の糸満を選びました。私はこれまでに沖縄に滞在した日はおそらく200日近くになると思うのですが、実は南部地方には一度も行ったことがありません。この理由は、南部地方をあえて避けていたというか、訪れるのに躊躇していたのです。

 なぜ私が沖縄南部を避けていたかというと、南部に行けばどうしても戦争のことを考えさせられるからです。元々私がなぜ沖縄が好きかというと、まずあの乾いた心地よい空気と青い海があるからです。そして沖縄に着いたとたんに、何とも言えない開放的な躍動感に包まれます。つまり私にとっての沖縄とは「楽園」そのものであり、南部に行って戦争の跡をみてしまうと、楽園という幻想が覚めてしまいそうな気がするのです。

 1987年から1991年の大学4年間(関西学院大学)の間、アルバイトやバカンスで毎年数週間から長い年は2ヶ月間程度沖縄(離島を含む)に滞在していました。当時の思い出は(思い出は美化されることを差し引いても)本当に楽しいことばかりで、私にとっての「酒とバラの日々」といった感じです。けれども、当時も現地の人とお酒を飲みながら話をしたときなどに、ふと戦争のことが話題になることがあり、そんなとき私はそれ以上のことを考えないようにしていました。

 今も私にとって沖縄が”楽園”であることには変わりなく、疲れたときなどにはふと思い出し行ってみたくなります。いつか沖縄に住もう、とまで考えてかなり具体的に計画したこともあります。私は4年間働いていた会社を退職し医学部を受験するにあたり、最終的には大阪市立大学を第一希望としましたが、当初は琉球大学を考えていました。また、当時の私は医学というよりも生命科学そのものの勉強がしたかったために、最初は理学部生物学科も視野に入れていました。そのため、医学部に入学してから再会した知人には「お前は琉球大学理学部に行ったっていう噂を聞いたんだけど……」と言われたこともあります。

 さて、およそ四半世紀前から気にはなっていたけれど訪れたことのなかった沖縄県南部の糸満市に行くことを決めた私は、どうせ行くならなつかしのフェリーに乗ろうと考え、12月28日の夕方、東京の有明埠頭で「飛龍21」に乗船しました。(フェリーに乗るために大阪から東京まで移動したのです……) 

 私の今回の沖縄渡航の目的は主に3つありました。1つめは、先に述べた沖縄南部をきちんと見ること、2つめは疲れをとり充分な時間をとって自分自身のミッション・ステイトメントを見直すこと、そして3つめは(これは些細でつまらないことですが)昔よく通っていた那覇にあるなつかしの2つの大衆ステーキハウスに行くこと、です。

 私が関西学院大学の学生だった頃は、沖縄といえばフェリーで行くのが当たり前でしたが(ただし私と同年代でもお金のある人は当時から飛行機が常識だったそうです)、さすがにフェリーの2等席はちょっと抵抗があります。(当時の)フェリーに馴染みのない人のために説明しておくと、(当時の)2等席とは30畳くらいの薄いじゅうたんが敷かれた広いスペースに20人くらいが雑魚寝するような席(正確には「席」などありません)です。20代ならまだしもさすがに45歳の今となってはちょっとしんどいので(別に気取っているわけではないのですが)個室をとることにしました。

 しかし、予約する時に初めて分かったのですが、今のフェリーにはもはや「ざこねじゅうたん部屋」などなく、すべて個室となっていました。私が予約したのは、ベッドのみならず部屋の中にトイレまでついている豪華なものでしたが、この部屋がなんと2等というではないですか。同じ2等でも時代が流れると随分と変わるものです。

 沖縄の安謝港(那覇新港)に着いたのは3日目(12月30日)の夜9時頃です。いきなり南部に移動するのではなくこの日は港の近くのホテルに一泊しました。一人旅のいいところは時間をすべて自分の自由に使えることです。先述したように、私にはおよそ四半世紀ぶりに行ってみたい大衆ステーキハウスが二つありました。この日の夜と翌日の昼前にそのふたつのステーキハウスでなつかしのCランチ(当時350円)を食べたかったのです(注1)。その後、南部の糸満市に移動しました。

 2014年1月1日、この日私は丸一日かけて自転車で糸満市を廻ることにしました。行ってみたいところはいくつかあったのですが、どうしても外せない場所として、沖縄戦の終盤、逃げ惑う人達が息を潜めて避難していた防空壕をまず考えました。このような壕のいくつかは今も見学できます。いくつかの壕では、無惨にも米兵によって手榴弾が投げ込まれ何人もの民間人や学生(一部はひめゆりと呼ばれていた若い女子学生です)が命を落としたそうです。

 また、当時は米兵から身を隠すために、なんと県庁や病院も壕の中につくられていたそうです。ある壕では説明が書かれたプレートに「病院」と書かれており、そこで当時は手術がおこなわれていたそうです。ここでいう手術とは負傷兵の傷の手当てや、不能となった手足の切断などでしょう。本土から応援に来た看護師や沖縄の若い女学生(ひめゆり)たちが負傷兵の看護・介護にあたっていたのです。

 次にどうしても行きたいと考えたのは、喜屋武岬という南部の絶壁です。ここは追ってくる米兵からもはや逃れられなくなり、かといって捕虜になるくらいなら……と考えた人達が次々と飛び降りて自決を図った崖です。一説には100人以上が飛び降りたと言われており、サイパンのバンザイクリフの沖縄版とも言えるところです。

 もうひとつ、どうしても外せないのが「ひめゆりの塔」です。ひめゆりの塔の資料館は想像していたよりも大きくてきれいで展示物が多く大変充実したものでした。ひめゆりと呼ばれていた当時の女子生徒の方々を最近になってインタビューしているビデオが放映されていて、私はいつのまにかこのビデオに夢中になり気がつけば1時間以上見続けていました(注2)。

 ビデオの中の証言は、想像を絶する世界というか、目の前でさっきまで元気だった同級生が砲弾にあたり即死した、とか、目の前の海には無数の死体が浮いていた、とか(これを証言された方は戦後何年も海に行けなかったそうです)、喉が渇きやっとのことで見つけた水たまりに這いつくばって水をすすると尿や死体から出てくる液体が混ざった異臭がした、とか(それでも飲むしかなかったそうです)、そのような話が続きました。

 私が25年前から漠然と抱いていた感覚は間違ってなかったのです。暖かい空気と青い海を求め、あわゆくばロマンスが生まれることも期待して夏のビーチに出かけていた若い頃の自分が恥ずかしくなりました。戦争は二度と起こしてはいけない、などというと陳腐に聞こえますし、当時は沖縄戦を避けられなかったやむを得ない理由が我が国にあったのかもしれません(ただし、沖縄戦は米軍の本土上陸を遅らせるための「捨て戦」であったのではないかという疑念を私個人としては持っていますが)。

 ひめゆりの塔の資料館でみた説明によると、壕の中では、負傷兵の傷に次から次に発生してくるウジ虫に悩まされ、負傷兵の糞尿と化膿した傷の悪臭、さらに嘔吐物などで、耐えられないような環境だったそうです。そんななかで彼女たちは遠くまで水を汲みにいき、米兵に見つからないように重いかめを運び、ご飯をつくり負傷兵に食べさせていたのです。そして負傷兵のみならず、同級生の多くも、米兵の攻撃により、あるいは自決により命を絶っていったのです。

 当時ひめゆり部隊だったというある女性がインタビューでこのようなことを話していました。仲の良かった同級生たちは何人も命を落として私は生き残った。だから私は今ある命を大切にしなければならないんだと……。

 医師として、というよりは一人の人間として「命」の大切さを考えることができた。私の2014年はそんな体験から始まりました。

注1:この2つのステーキ屋とは「88(ハチハチ)」と「ジャッキー」で、私が食べたかったのはステーキではなく25年前によく食べていたCランチです。Cランチは350円でトンカツなどのフライとハンバーグ(だったと思います)、ライス、サラダ、スープがついていて味も悪くなくお金のない学生にとってはありがたいものでした。なぜ今頃になってこのCランチが食べたくなったかというと、このサイトのメディカルエッセイ第126回(2013年7月)「我々はベジタリアンの道を進むべきか」で、このCランチについて取り上げ、なんだかバカみたいな話ですが、Cランチについて書いているうちに再び食べたくなってしまったのです。

さて、実際に行ってみると、「88」の方は私の記憶違いなのか、Cランチは存在せずに、Bランチがありました。しかも値段が750円と高すぎて結局注文しませんでした。翌日に行った「ジャッキー」にはCランチがありました! 値段は500円でした。当時から150円値上がりしていましたが25年で150円ですから許容範囲内でしょう。注文してみると、ボリュームのあるトンカツとハンバーグ、これにライス、サラダ、とっても美味しいスープがついていますからかなり得した気分になりました。

これら2つのステーキハウスを見つけた瞬間は「なつかしい!」と叫びたくなりました。しかし中に入ってみると、両店とも、こんなに狭かったかな…、という感じで、客層は家族連れが多く、私の記憶とは随分異なっていました。私の記憶にある25年前の様子は、店内はもっと広く(実際の3倍くらいのイメージをしていました)、ジュークボックスから大音量の音楽が流れていて、客の半分は外国人(米兵)だったのです。客層は年月を経て次第に米兵から日本の家族連れに変わってきたのかもしれませんが、店の広さは明らかに私の間違いです。私の記憶もいい加減なものです。

注2:このビデオではありませんが、「ひめゆり」という約30分のアニメをYouTubeで見ることができます。私はこれをひめゆりの塔の資料館で観ましたが、大変よくできていると思います。興味のある方は是非ご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=eW9Ro2G_kUc

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2013年12月10日 火曜日

2013年12月号 分子生物学の魅力

 前回・前々回のコラムでは、理系に興味がないのであれば理系の大学に進学すべきではない、ということを私の実体験に基づいてお話しました。私の場合、遅ればせながら理系の学問の魅力に気付き、あらためて受験勉強を開始することになったわけですが、この決意はそれほど単純だったわけではありません。

 もともと私は社会学をもっと本格的に学びたいと考え、仕事の合間を見つけて社会学関連の書籍を積極的に読んでいました。ただ、「社会学」というのは、どこからどこまでが社会学、というのが他の社会科学系の学問に比べると非常に曖昧で、そこが社会学の魅力でもあるわけですが、私が興味を持って読んでいた本も他人からみれば何の整合性もなく気の向くままに乱読していたと思われることだと思います。

 例えば、ピーター・ドラッカーのようなマーケティングや経営論、レヴィストロースのような人類学、ドゥルーズ/ガタリやフーコーのような哲学、などは比較的時間をとって読んでいましたし、学問とは呼べないような経済の入門書や文学などの読みやすいものも読んでいました。

 哲学もしくは哲学的な書物を読めば、心理学や精神分析学について知りたくなりますし、文化人類学を学べば遺伝学に自然に興味が出てきます。私の興味の対象が精神医学、脳生理学、遺伝学などに広がったのは、今から考えるとあながち偶然とは言えず必然であったのかもしれません。

 さらに、この頃の私は英語ができなければ仕事がまったく進まないというような部署(海外事業部)に配属されたため、(英語がまるでできなかった私は最初はこの人事を恨みましたが)そのおかげで英語への抵抗が小さくなり、教科書や論文は英語で読むようになっていきました。おそらく私の人生で最も知識が吸収できたのはこの頃、つまり大学を卒業して社会人になったばかりの20代前半の頃です。

 リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』は、おそらく今も読まれている歴史的な名著だと思いますが、私がこの本を手にしたのは1993年頃だったと思います。今思えば、この本を読み出したあたりから、私が手にする本は理系のものに大きく傾いていったような気がします。基礎的な生命科学系の書物を次々と読んでいき、ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックの二重らせん構造の発見というものを知ったときには、生命とはなんて神秘的なものなのだろう・・・、と感じました。

 私が関西学院大学時代に学問に興味をもつきっかけとなった「集団力学」という学問は、人が集団をつくる理由や集団としてとる行動などについて学びます。その後私の興味はリーダーシップにうつり、さらに人間の行動、感情、思考などについて知りたい、という欲求が強くなっていきました。そして、これらの分析には社会学的なアプローチが最適であると当初は考えていました。
 
 しかし、人間の遺伝情報はDNAと呼ばれるたった4つの塩基でできたものであることを知り、しかもそれらは視覚的にも大変魅力的(というより私にとっては”魅惑的”)な二重らせん構造をしているというではないですか。

 私は人間の行動、感情、思考といったものが、従来の社会学ではなく、生命科学の領域の学問で解明できるのではないか、とりわけ分子生物学の発展によって一見不可解な人間の行動や感情まで説明できる日が来るのではないか、とまで考えるようになりました。例えば、人はなぜ悲しくなるのか、幸せというものの正体は何なのか、人はなぜ感動するのか、音楽を聴いて気持ちよくなるのはなぜなのか、人にとって恋愛とは何なのか、人はなぜ自殺をするのか、・・・、こういった問題のすべてがいずれ明らかになるのではないか、とまで思えたのです。

 私の理系に対する興味は加速度的に増えていきました。当時発売されていた文化系出身の者でも読めそうな生命科学に関する本は手当たり次第に読んでいきました。講談社のブルーバックスなどは20冊以上読んだような記憶があります。

 そのようななつかしい書籍の中から、最近私は1冊の本を再び手に取りました。ノーベル賞受賞の利根川進氏と立花隆氏の共著『精神と物質』です。私がこの本を初めて読んだのは、ちょうど医学部受験を決意して間もない頃、おそらく1994年だったと思います。この本は、これから医学部を受験しようと考えている者にとっては最適というか、生物学の教科書としても使えるといっても過言ではないような良書で、私のために出版してくれたのではないか、と感じたほどです。

 最近になり、なぜこの本がもう一度読みたくなったかというと、前回・前々回と以前の自分を振り返ったコラムを書いてなつかしくなった、ということもありますが、一番の理由は日経新聞のコラム『私の履歴書』の2013年11月が利根川進氏だったからです(注1)。

 このサイトで過去に述べたことがありますが、私は『私の履歴書』の大ファンで、途中新聞代が捻出できず何度か中断したことはありますが、20年以上ずっと継続して読んでいます。(私はこのサイトで日経新聞の悪口を何度か書いた記憶がありますし、これからも書くことがあると思いますが、日経新聞には『私の履歴書』以外にも私の好きな連載がたくさんあり、特集記事なども楽しみにしています。もしも関係者の方がこのサイトを目にする機会があったとしてもどうか私への配信を止めないでください・・・)

 2013年11月1日から30日までの30日間、毎日利根川進氏の連載を読むのが楽しみでした。利根川氏はもちろん科学者として偉大な方ですが、ひとりの人間として大変魅力的な方です。卒論を書かずに卒業されたエピソードは興味深いですし、自分の決めた研究に一心不乱に取り組まれる様子は感動的ですし、才能豊かなお子さんが夭折されたときの話には胸をうたれます。

 私が利根川進氏の名前を初めて聞いたのは氏がノーベル賞を受賞された1987年です。このとき私は関西学院大学の理学部に在籍していました。受賞が決まって1週間くらいの間は、教壇に立つほとんどすべての先生が利根川氏の話をされていたように記憶しています。

 ところが私の方は、利根川進という日本人の学者がノーベル賞を受賞した、という以上のことがさっぱり分かりませんでした。つまり「抗体の多様性」などと言われても当時の私にはほとんど意味不明で、その前提となる「免疫グロブリン」という言葉も、わかるようなわからないような・・・で、私には利根川進氏の偉大な功績がまったくといっていいほど理解できなかったのです。その後、理学部のテストで、サービス問題として「利根川進氏の功績について述べなさい」という問題が出たのですが、私には1行も書けませんでした。

 その後私が利根川進という名前を見かけたのはおよそ7年後、大型書店の一角でした。それが前述した立花隆氏との共著『精神と物質』だったのです。
 
 このコラムで利根川氏が解明された抗体の多様性について解説するようなことはしませんが、ある程度の生物学の基本的な知識をまず身につけて少しずつ理解するようにつとめれば、おそらくほとんどの人が、いかにこの研究が偉大であるか、そして分子生物学とはこれほどまで魅力的なものなのか、ということに気付かれると思います。

 私が医学部受験を決意するにいたったのは、いくつもの素晴らしい書籍に出会ったからなのですが、この『精神と物質』は間違いなくそのひとつに入ります。医学部受験に関心のある人のみならず、生命科学に興味のあるすべての人に推薦したい良書です。

 前回のコラムで述べたように、結局私は医学部在籍中に研究者への道を断念しますが、分子生物学という学問が私にとって色あせたわけでは決してありません。私自身が新しい発見をすることはあり得ませんが、世界中の偉大な学者たちが発表する新たな知見を読むことは私にとっての喜びです。私が大阪市立大学医学部在籍時代に直接講義をしてもらった山中先生は、iPS細胞の発見により利根川進氏の受賞の25年後にノーベル賞を受賞されました。

 分子生物学、そして生命科学の魅力を改めて考えてみると、これから理系の学問を本格的に学び始める若い人たちがうらやましくなってきます・・・。

注1 『私の履歴書』に利根川進氏が1ヶ月分にわたり書かれたものが日経ストアで購入できます。興味のある方は是非購入して読んでみてください。

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2013年11月11日 月曜日

2013年11月号 安易に理系を選択することなかれ(後編)

 もう無理! こんなはずじゃなかった・・・

 そう叫びたくなったのは、憧れて合格できた関西学院大学に入学してまだ2ヶ月ほどしかたっていない頃でした。五月病という言葉がありますが、私の苦痛は少なくとも典型的な五月病ではありません。通常、五月病とは本人のやる気はあるのだけれど環境に上手く馴染めないことを言いますが、私の場合はこの逆で、そもそもやる気がないわけですから手の施しようがありません。

 私が関西学院大学理学部の受験勉強をおこなったのはわずか2ヶ月間ですが、その間は一切の雑念を追い出したといっても過言ではないと思います。赤本9年分を丸暗記し、使用しているすべての参考書に大学のパンフレットから切り取った関西学院大学のキャンパスの写真を貼り付けて、スランプに陥りそうになるとそれらの写真を眺めるようにしていました。今思えばちょっと気持ち悪い・・・、というか、まるでアイドル歌手のおっかけをしている男の子のようです。しかしこの方法は今も非常に有効な受験対策であると私は思っています。行きたい大学が見つかれば、何度も訪問しとことん惚れ込むことが合格につながる、というのが私の持論です。

 さて、その憧れの関西学院大学に合格できたところまではよかったのですが、あまりにも過酷な実験、レポート、テストなどに嫌気が差し、ついに「これ以上続けられない」、という限界点に達しました。

  そうなると、その後に考えなければならないことは今後の身の振り方ですが、これには困りました。「派遣」や「非正規」などという言葉はもちろん、「フリーター」という概念すらなかった時代です。もしも大学をやめるとなると正社員として雇ってもらえるところを探すしかありません。(大学生でもないのにアルバイトのみをおこなっている若者は当時では珍しかったのです。フリーターという言葉が誕生するまでは「ぷーたろう」などと呼ばれ後ろめたい存在でした)

 理学部に在籍しているとアルバイトの時間もありませんから、生活は惨憺たるものでした。食べるものがなく、近くのパン屋でパンの耳が大量につめられた袋を50円で買ってマヨネーズをつけて食べたり、スーパーで賞味期限切れの菓子パンを半額で買ったり(現在このようなことをすれば問題だと思いますが当時は普通でした)、朝にチキンラーメンを3分の1くらいお湯をかけずにそのまま食べて、残りを夕食時にお湯をかけて、パンの耳と一緒に食べたり・・、といった感じです。

 もしも今大学を退学して就職したら、あの実験やテストから解放されるだけでなく給料がもらえる・・・、そう考えると大学にいる意味がまったくわからなくなり、退学することをいよいよ本気で考え出しました。両親に黙って退学というわけにはいかないでしょうから、それを報告するために帰省しました。しかし(今思えば当たり前ですが)結果は大反対。私は勝手に退学して、親には事後報告しておこうと考えだしました。

 そんななか、悲惨な結果となった前期試験を終え夏休みに入って間もない頃だったと思います。関西学院大学のある先輩との雑談のなかから興味深い話を聞くことになり、結果としてこの先輩の言葉が私の人生を大きく変えることになります。

 旅行会社のアルバイト先で知り合ったその先輩は社会学部の3回生で、学部が違うとはいえ同じ大学ということで何かと気にかけてもらっていました。ある日のこと、学部の話になりその先輩は私にこう言いました。「おまえの行ってる理学部には力学というのがあるやろうけど、実は社会学部にもあるんや。それは<集団力学>と言って、人をどうまとめて動かしていくかを学ぶ学問なんや」

 この先輩のこの言葉がなければ私の人生はまったく違ったものになっていたでしょう。当時の私は、大学の勉強だけでなく、私生活でも人生の壁のようなものにぶちあたっていました。時間がないながらも、土日や夏休みを利用していくつかのアルバイトを始めたのですが、何をやっても私はほとんど仕事ができず、他のスタッフに迷惑をかけっぱなしだったのです。当時の私は、対人関係やコミュニケーションに苦手意識を持っていたわけではないのですが、例えばお客さんからクレームがきたりすると何もできず足手まといになるだけなのです。しかし、そんなときにも状況を的確に掌握し、適切な判断で対処できる人もいます。そしてこのような能力は学歴にまったく関係がないのです。

 当時の私にはこのことが衝撃的でした。高校時代から口では「教科書に書いてあることなんか何の役にも立たないんだ」とえらそうに言っていたのですが、どこかで「勉強ができれば社会で成功できる」と思っていたのでしょう。偏差値でいえば、関西学院大学理学部といえば関西ではトップクラスです。実際、どこのアルバイトに行っても学歴で言えば私が最も高学歴なのです。しかし、その私が仕事はできずまるで役に立たないわけです。そして聞いたこともないような無名大学の学生がバリバリと仕事をこなし、ときには怒り心頭のお客さんを上手にもてなし、逆に感謝の言葉をもらうことすらあるのです。

 大学では意味のないことをやらされている・・・、未熟な私はすぐにでも教科書を放り出して社会に出て学ばなくてはならないことがたくさんある・・・、そのようなことを毎日考えていた中で、社会学部の先輩から集団力学の話を聞いたのです。私は大学を退学する前に、この<集団力学>そして<社会学>というものを調べてみることにしました。

 ここからの経緯は省略しますが、紆余曲折を経た後、私は関西学院大学の3回生になるときに理学部から社会学部に編入しました。社会学部の学生になってからも決して真面目な学生ではなく、アルバイトやイベントなどで他人と交流することが重要な社会勉強と考えていた私は講義への出席率も高くありませんでしたが、それでも次第に本を読む機会が増えていき、卒論は教授の指導を受けながら楽しく進めることができました。卒論のタイトルは『職場におけるリーダーシップ』、大学で学んだことだけでなく、様々な書籍から得たことやアルバイトなどの社会経験も踏まえて書き上げた私の大学生活の集大成です。

 その後私は大阪のある商社に就職しましたが、仕事に不満があったわけではないものの、社会学をもっと本格的に勉強したくなり関西学院大学社会学部の大学院進学を考え出しました。会社勤めをしながら、月に一度程度は学びたい教授の研究室を訪れるようになり、テキストや論文を紹介してもらっていました。そのうちに、興味の対象は集団力学やリーダーシップから<人間そのもの>にうつっていきました。人間の行動、思考、感情などを科学的に分析することに興味が沸き、いつしか興味の対象は、脳生理学、精神分析学、分子生物学、動物行動学、免疫学などにうつっていきます。そして最終的に医学部受験を決意するに至ったのです。

 医学部の授業でもいろんな科目で実験があります。生化学や薬学の実験のときには、私が関西学院大学理学部で”やらされていた”のと同じような実験もありました。およそ10年ぶりにフェノールの臭いが鼻腔を刺激したとき、あの”悪夢”が一瞬私の脳によみがえりました。しかしこのときの私は19歳の私とは違います。何よりも勉強が、それも理系の勉強が好きになっていたからです。

 生化学の第1回目の実験で試験管を使ったとき、後でこれを洗わなければならないんだろう、あのときのように水滴がつかなくなるまで(前回のコラム参照)・・・、と思ったのですが、プラスティック製のその試験管はなんと使い捨て、冷たい水に耐えながら洗わなくてもよかったのです。(なんて太っ腹な大阪市立大学、大阪市民の税金でこんなにラクをさせてもらえるなんて・・、と思ったのですが、もしかするとこれは時代の流れで今は関西学院大学でも使い捨てになっているのかもしれません)

 実験には抵抗がなくなり楽しく取り組めるようになったのですが、その後再び紆余曲折を経て結局私は研究者の道を断念しました。この理由は大きく2つあり、1つは自分にはその能力もセンスもないことを認識したということ、そしてもうひとつは、私のクセというか、私は物事を幅広い観点から眺めるのが好きということに気づいた、つまり分子レベルのミクロの世界の研究よりも人間全体を多角的な観点からみるのが好きということに気づいた、ということです。(これについては機会があれば詳しく述べたいと思います)

 もう一度人生をやり直せて高校時代まで戻れるとしたら、私は理系の学部には進学しません。興味のないことが続けられるはずがないからです。そして、今回の人生のように理系の領域に興味が出てくればそのときに真剣に勉強するかどうかを検討することになるでしょう。

 現在進路に悩んでいる若い人や、社会人で医学部を含む理系の大学(再)受験を考えている人は、今一度本当にそれがやりたいことなのかどうかを自分自身に問い直してほしいのです。私の場合は、偶然にも同じ大学の社会学部の先輩との良き出会いがあったこと、なんとか社会学部の編入学試験に合格できたこと(試験申込時には「理学部から社会学部への編入学は前例がないから無理だろう」と言われていたのです)、という幸運が重なったことで救われましたが、これらの幸運がなければ、大学を退学しまったく別の人生をたどっていたのです。

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2013年10月11日 金曜日

2013年10月号 安易に理系を選択することなかれ(前編)

  最近は少し減ってきていますが、私は過去に受験関連の書籍を上梓していることもあって、受験生やその親御さん、あるいは、今は社会人だけど医学部受験を考えているという人たちからの相談メールがしばしば私の元に届きます。

 私は、相談してくる人が本当に医学を学びたいのであれば、原則として現在の偏差値などには関係なく受験をすすめるようにしています。本当に医学を学びたいのであれば、挑戦せずに諦めてしまう苦痛と、夢に向かって努力するときの苦痛を天秤にかけたとき、後者の苦痛など取るに足らないものだからです。

 しかし、これは「本当に医学を学びたいのであれば」という前提があってのことです。私に(医学部)受験の相談をしてくる人のなかにも、「この人、本当に学問をやりたいのかな・・・」と疑問に感じるような人もいます。

 はっきり言って、医学部の6年間の講義、実習、テストなどは生やさしいものではありません。大学受験の勉強が大変なのは容易に想像がつくでしょうが、医学部在学中の講義、実習、テストなどでは、大学受験の何倍、何十倍もの努力が必要になります。つまり、苦痛を差し引いて楽しいと感じることができなければ到底続けられるものではないのです。

 現在大学受験の世界では「理系」がブームのようです。かつて日本は技術大国として世界から一目置かれる存在であり、それが現在では衰退しつつありますから、若い優秀な学生に工学や理学を学んでもらい、もう一度「世界一の技術大国」に返り咲きたいという国民全体の意識があるのかもしれません。

 そういう私自身も、優秀な日本人の科学者が次々と現れ、日本の企業が世界をリードする製品を開発してほしいという気持ちはあります。資源がなく平地面積が充分にあるとはいえないこの国が世界でやっていくためにはすぐれた技術の開発が不可欠であり、優秀な学生にはそういった道に進んでほしいと思います。

 しかしながら、これから理系の学部の受験をする若い人、また現在社会人で医学部を含めて理系の大学受験を考えている人は、今一度「本当に自分自身は理系の勉強を続けられるのか」を問い直してほしいのです。

 なぜ私がこのようなことを言いたいのか。それは私自身が散々苦しみ、あのような辛い思いは二度としたくないと考えているからです・・・。

 私が文系・理系の選択を迫られたのは高校2年の4月、時は1985年です。1985年といえば9月にプラザ合意がおこなわれ、それ以降急激な円高となったのにもかかわらず、結果として日本は空前の好景気に突入していきます。しかし、プラザ合意以前は「不景気」が続いており、「これからは手に職がなければ食べていけない。だから理系に行きなさい」という言葉をよく聞かされました。

 将来に向けたはっきりとした夢や目標がなく、得意科目のまったくなかった私は”なんとなく”理系を選択してしまいました。そして1987年の春、第一志望の関西学院大学理学部に現役合格しました。そんな気持ちでよく理系の大学に通ったな、と今から振り返ると自分でもそう思いますが、私には勉強のモチベーションがあったのです。

 しかし、そのモチベーションは「理学を研究したい」という純粋なものとは正反対で、「大学生活を楽しみたい」という不純なものでした。高校時代の私は、勉強にはまったく興味がありませんでしたが「大学生活」にはとても憧れていました。私の出身は三重県伊賀市(旧・上野市)で、大変な田舎であり大学など近くにありません。そんな田舎者の私にとって大学生活のイメージの元になっていたのは田中康夫氏の『なんとなくクリスタル』で、この小説に描かれている、ふわふわとした夢のような生活が、大学生にさえなれば誰にでもできるんだ、と私は本気で思い込んでいたのです。

 つまり、私は学問に取り組みたいという気持ちでなく「大学生活を楽しみたい」という気持ちだけで高いモチベーションを維持し、わずか2ヶ月ほどですが、ほとんど文字通り寝食を忘れて一心不乱に受験勉強に打ち込んだのです。

 けれども、合格したのはよかったのですが、(今考えれば当たり前のことですが)現実は『なんとなくクリスタル』の生活とは似ても似つかぬものでした。まず、私にはお金がありません。アルバイトをしようにも、文系学部とは異なり、朝一番から夕方6時までびっしりと授業がつまっていますし、レポートも大量にあり、その上頻繁にテストがありますから自宅でも勉強しなければならないわけで、私は大学生活を楽しむどころか、アルバイトにも時間がとれず食費にも困るほどでした。

 元々理学に興味がなかった私にとっては、授業も苦痛でしたが、それ以上に辛かったのが実験です。1987年の4月から約1年間、毎週火曜日は午前中に物理学の実験、午後からは化学の実験があり、週によっては実験がうまく行かず日が暮れても帰れませんでした。実験が終われば、試験管などをきれいに洗わなければなりません。今でもその光景をはっきりと覚えていますが、粉石けんと専用のブラシを使って使用した試験管1本1本を丁寧に洗わなくてはならず、洗った後、水を切ったときに試験管に水滴がついていると、まだきれいに洗えていない証拠だと言われ、さらに洗い直しをさせられるのです。(完全にきれいに洗えると試験管にかかった水はす~っと流れていき水滴がつきません)

 ぐったりして大学近くの下宿(風呂なし、トイレとキッチンは共同)に帰り、そこからレポートを書かねばならないわけですが、実験の内容も結果もきちんと理解できていない私にまともなものが書けるはずがありません。期日までに同じ班の誰かにレポートを見せてもらって作成するしか方法はありません。

  しかし、レポート作成にはそれなりの時間がかかりますし、そのレポートを見せてもらい、丸写ししたとバレないように少しアレンジを加えて作成しなければなりませんから、班のメンバーには無理を言って少なくとも期日の前日までに見せてもらうようお願いしなければなりません。この交渉がまた大変なのです。なにしろ当時は携帯電話どころか、下宿生では固定電話を持っている者もあまりおらず、たいていはその下宿の玄関に置いてある取り次ぎの赤電話を使います。その電話に10円玉を入れて電話をするのです。

 結局私は、第1回目の実験の日にこのような方法で同じ班のメンバーにレポートを見せてもらうことをお願いして、それから1年間ずっとこの方法でレポートを書き上げました。しかし、このようなことを続けていれば担当教官にもわかるようで、同じような結論を導いているレポートになっていたはずですが、この友達の成績は「優」で、私は「可」でした。

 実験のレポートはこのような方法で切り抜けられたとしても、テストはそういうわけにはいきません。まさかカンニングをするわけにもいきませんし、なんとか合格ギリギリの点数がとれるように自分で勉強するしか道はありません。

 話はズレますが、医学部に入ってから私が驚いたことのひとつはカンニングをおこなう学生がいる(いた)ということです。拙書『偏差値40からの医学部再受験』にも書きましたが、医学部でカンニングをする学生がいて、しかも日本中どこの医学部ででもあることという話を聞いて大変驚きました。私が関西学院大学理学部に在籍していたとき、カンニングの話など聞いたことがありませんでしたし、そもそも理学部のテストは解答用紙が数式のオンパレードになりますから、カンニングなどしようがありません。それに関西学院大学はキリスト教系の大学ということもあり不正行為には大変厳しいのです。文化系学部の学生が、カンニングが見つかり、その科目だけでなくその年に履修した科目がすべて無効とされ、さらに学内にあるチャペルで牧師さんの前で懺悔をしたという話も聞きました。

 話を戻しましょう。苦痛以外の何ものでもない実験、テスト、文化系学生とのあまりにも大きなギャップ・・・、これらが次第に大きな重荷になってきて、あれほど憧れて入学した関西学院大学を去ることを考え出したのは入学して2ヶ月ほどしかたっていない初夏の頃でした・・・。

つづく

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2013年9月10日 火曜日

2013年9月号 幸せの方程式

 誰もみな自らの幸せを追求している、ということに異論を唱える人はそう多くはないでしょう。では、「あなたにとって幸せとは何ですか?」と聞かれたとすれば何と答えるでしょうか。

 日本国憲法第13条には「幸福追求権」というものがあり、誰もが幸せを求める権利が保障されています。しかし憲法には「幸せとは何か」についての記載が(当たり前ですが)ありません。「幸せ」というものは、法律上定義されるものではありませんし、法律上でなくとも、何を持って幸せとするかを定義付けすることはできません。つまり、月並みな言い方ですが、幸せとは人それぞれ、という以上のことは言えないのです。(ですから、「あたしの幸せは憲法で保障されているはずなんだから国はあたしを幸せにする義務がある」、などと言う人がときどきいますが、このような考えはお門違いもいいとこです)

 一見わかりやすいようで実はわかりにくいこの「幸せ」について学術的に思考してきた人たちは大勢います。人文科学、とりわけ哲学の領域では「幸せ」は最も根源的なテーマのひとつであり、古今東西大勢の学者が思索に耽り考えを述べてきました。

 現在においても「幸せ」が人文科学的に語られるときに必ず引き合いに出されるのがアリストテレスの唱えた「エウデモニア(eudaemonia)」という概念です。エウデモニアという哲学用語について、きちんと人文科学的に定義付けようとすると学術的言葉の”深み”にはまってしまってわけがわからなくなりますから、とりあえずは「エウデモニア型の幸せとは、即時的な快楽ではなく、生きがいや夢につながるもの、そして道徳的に善とされている行為」と簡略化してさしつかえないと思います。

 このエウデモニアに対して用いられるもうひとつの「幸せ」はヘドニック(hedonic)と呼ばれるもので、これは簡単に言えば「目の前にある快楽」のことです。人文科学の世界では「ヘドニック・トレッドミル(hedonic treadmill)」という言葉がしばしば用いられます。これは、トレッドミル(スポーツジムにあるランニングマシーン)にたとえて、快楽が得られるとそのうち飽きてきてさらに前に進もうとするけれど、結果的にまったく前に進めていない、ということを表しています。

 前置きが長くなりましたが、今回お話したいのは、この対極にある2つの幸せ、エウデモニアとヘドニックの違いが遺伝子レベルで解明された、という大変興味深い研究についてです。しかし、それを述べる前に、私の知人の「幸せ」について紹介したいと思います。

 私の知人にはいろんなタイプの人がいますが、この「エウデモニア-ヘドニック」を軸に考えてみると、極端にエウデモニアの人もいれば、その正反対の、ヘドニックそのもの、という人もいます。そして、改めて自分の周囲のことを考えてみると、私が10~20代のときはどちらかというとヘドニックな友人・知人が多く、医師になってから、そして40歳を超えてからはエウデモニアに傾いている友人・知人が身の周りに多いような気がします。ここでは極端にヘドニックな私の知人2人を紹介したいと思います。(ただし本人が特定できないように若干のアレンジを加えています)

 1990年夏、当時21歳の私がある会社の就職説明会で知り合った北村君(仮名)の信条は「そのときにやりたいことをやる」というものでした。そのとき食べたいものを食べ、そのとき遊びたい女の子と遊び(実際、北村君は”超”のつくほど男前で、放っておいても女性が寄ってくるという感じでした)、そのとき行きたいところに行くという生活をしていました。夜中に突然愛車のBMWで東京に行くというようなライフスタイルが気に入っている、と言っていました。いずれ親の会社をつぐので、就職はそれまでの準備期間のようなもの、仕事はできる範囲でがんばるつもりだけど残業や休日出勤はあり得ない、と話していました。

 1999年秋、当時30歳の私があるアルバイト先で知り合った関原さん(仮名、当時32歳の男性)は、アルバイトでまとまったお金ができるとアジアで”まったり”という生活を続けていました。海外旅行が好きな人には、各地の遺跡や文化財をみたりとか、バックパックを背負ってバスでアジア横断をしたりとか、そのような活動的な人もいますが、関原さんの場合は、プノンペンやバラナシなどの安宿にこもり、一日中ダラダラと、タバコと酒と、あるいは大麻を吸って過ごすそうです。「定職に就くことは考えないんですか」という私の質問には、「今の生活が自分に向いている。好きなことをやって60歳くらいで死ぬのが幸せ」と話していました。

 医学誌『Proceedings of the National Academy of Sciences』2013年7月29日号(オンライン版)に掲載された論文(注1)によりますと、2つの対極的な幸せには遺伝子の発現に差異があることが判ったそうです。

 この研究では健康な成人80人が対象とされています。対象者の遺伝子発現の様子を調べると、エウデモニア型幸福を追求する人では、免疫に関与する遺伝子に発現が強くみられ、炎症惹起に関与する遺伝子はあまり発現していなかったそうです。一方、ヘドニック型幸福を追求する人では、エウデモニア型の人とは正反対に、炎症の遺伝子の発現が高く、免疫系の発現は低かったそうです。これはすなわち、エウデモニア型の人は、免疫力がパワーアップされ健康を維持できることを示唆しています。その逆に、ヘドニック型の人では、ストレスを受けたときと同様の遺伝子が発現し身体に悪影響を及ぼす可能性があるということになります。

 この研究が興味深いのは、同時に2つの幸福追求のタイプの「うつ傾向」についても分析がおこなわれているということです。結果は、エウデモニア型でもヘドニック型でも「うつ傾向」は低く、幸福を感じていることについてはほぼ同じであることが判ったそうです。
 
 これらをまとめると、エウデモニア型であろうがヘドニック型であろうが、幸福を追求している人はうつ傾向が少なく幸福感の自覚がある。しかし、ヘドニック型の場合は、遺伝子レベルではストレスを受けたときと同じような状態になっている(のでよくない)。つまり、精神的にも身体的にも最も優れているのはエウデモニア型の幸福を追求する人であり、アリストテレスは正しかった!、ということになります。

 エウデモニア型幸福を追求する人は、この結果を聞くと嬉しい気持ちになるのではないでしょうか。実は私もそのひとりです。

 今から21年前、当時25歳の私が、会社を辞めて医学部受験をする、と宣言したとき、賛同してくれた人は周囲にひとりもいませんでした。「会社に不満がないんやったらほどほどに人生楽しめたらそれでいいんじゃないの」という人ばかりで、私が「受験に失敗してこのような会社員の生活に戻れなくても、いや、そのまま社会復帰できなくても、もっと言えば、努力半ばで死ぬようなことがあったとしても、それでも勉強したい」、と言うと、ほとんどの人が「バカじゃないの?」という態度をとりました。

 私が正しかった、と言いたいわけではありません。また、私はエウデモニア型だから健康だとか長生きできるんだと思っているわけでもありません。この研究自体が小規模ですし、この研究から「さあ、みなさん希望と目標をもって努力して、エウデモニア型幸せを求めましょう」と言うには時期尚早だと思います。ヘドニック型の人も幸福感を自覚しているのは事実であり、誰もそれに口出しすることはできません。

 現在の私の周りには私などよりもずっとエウデモニア型の人がたくさんいます。私財を投げ打って困窮している人たちに支援活動をおこなっている人、障がいを抱えた家族を必死に支えていることに生きがいを感じている人、休日を返上して障がい者の施設を訪問するような人などもいます。今回の研究が正しいと考えると、このような人たちは大変だろうけど幸福感を自覚し健全な遺伝子が発現しているのかな、と思えて嬉しくなってきます。

 先に紹介した北村君はその後、親の経営する会社が倒産し北村君自身も消費者金融にまで手をだして、という噂を聞くのですが、当時の友達は誰も連絡がとれなくなっています。関原さんは暴飲暴食がたたり糖尿病で入院しました。退院後、再び暴飲暴食を繰り返しているそうです。60歳で死ねればいい、が今も口癖ですが、もっと短命に終わるかもしれません。

 どのような生き方をするかは各自の自由であり、私はやみくもに「いきがいを持て」とか「他人に貢献せよ」、「ヘドイックを捨ててエウデモニア型になれ」などと言いたいわけではありません。そもそもすべての人をエウデモニア、ヘドイックのどちらかに単純に2つに分類できるわけではありません。多くの人が中間であるか、少しどちらかに傾いているという程度でしょう。

 自分にとっての幸せは何なのか・・・。そのようなことを考えることがあるならば、今回の遺伝子発現についてのこの研究、つまりエウデモニア型幸福を追求するときには免疫力がパワーアップする(可能性がある)という事象を参考にしてみるのもいいでしょう。たった1つの研究に人生を左右される必要はありませんが、「幸せ」について考えるときのヒントくらいにはなるのではないでしょうか。

注1:この研究のタイトルは「A functional genomic perspective on human well-being」で、下記のURLで全文を読むことができます。
http://www.pnas.org/content/110/33/13684.full?sid=38d5ff31-0e27-4e9b-bcfe-fb609bfc7e05

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2013年8月12日 月曜日

2013年8月 この夏の暑さと塩と味の素

 今年(2013年)の夏はとにかく暑い・・・。多くの人がそのように感じているでしょう。過去にこれほど暑い夏はなかったのではないか、と思わずにはいられません。私はクーラーの効いたクリニックでの勤務ですし、通勤もTシャツにジーンズという格好ですから、暑いといってもましですが、現場の仕事をしている人や、スーツを着て外に出られている人にとってはたまらない暑さだと思います。紺色のシャツなどを着れば汗が析出され塩の結晶が確認できるのではないでしょうか。

 今年は、太融寺町谷口医院を受診する夏バテの患者さんは、総数で言えば例年と変わりないと思うのですが、なぜか「塩分はどうしてとればいいのか」という質問をよく受けます。

 マスコミからの取材もきます。春先には、ある雑誌の「熱中症対策講座Q&A」という記事の監修を頼まれましたし、先月はあるテレビ番組が熱中症を取り上げるとのことで取材を受けました(この番組は早朝に放送されたのにもかかわらず多くの患者さんから「テレビに出ていましたね」と言われました。テレビの影響は大変大きいことを改めて実感させられました)。マスコミからの取材依頼は断ることが多いのですが、その理由は特定の製品(商品)や特定の治療法を肩入れするものになりがちだからです。しかし今回は熱中症や塩分摂取についてのことであり、そういった心配がないと判断し受けることにしました。

 患者さんからもマスコミからもよく聞かれるのが「塩をどれくらい摂ればいいのか」というものなのですが、この問いには大変返答しにくく、いつもどのように答えるべきか悩まされます。答えを聞きたい側としては、たとえば「1日に何グラム」という言い方がわかりやすいと思うのですが、ことはそれほど単純ではありません。

 まず、塩がどれくらい必要かというのは、その人によってまったく異なってきます。クーラーの効いた部屋で仕事をしている人と、炎天下で朝から晩まで肉体作業に従事している人ではまったく異なりますし、例えば高血圧や糖尿病などがあれば個々の対応が必要になってきます。

 ですから、「塩をどれくらい摂ればいいのか」という質問に対する最適な答えは、「どのような人がどのような環境にいるかによりますから各自かかりつけ医に相談してください」という身も蓋も無いものになってしまうのです。

 特に高血圧や糖尿病など生活習慣病がある人、あるいは腎臓に何らかの異常がある人は、マスコミなどが報じる一般論をそのまま当てはめない方がいいでしょう。当院の患者さんにも「熱中症対策として塩を摂らなければならない」と思い込んで、1日に何度も塩を舐めているという人がいました。この人は薬を飲むほどではありませんが、日頃から血圧が高く、私は塩分制限の指導をしていた(つもり)なのですが、この患者さんは「夏は例外」と思い込んでいたのです。案の定、そのときの診察での血圧は上昇しており、直ちに塩分制限を徹底するように説明しました。

 しかし、この患者さんのように血圧が高い人も含めて、長時間大量の汗をかくような環境にいるときは塩分摂取を考慮しなければなりません。例えば、フルマラソンを走ったり、登山をしたりするようなときにはどのような人も注意が必要になります。

 ではこの見極めはどのようにすればいいのでしょうか。高血圧や腎疾患がないような人も含めて日本人は日頃から塩分を取りすぎています。厚労省のデータ(2008年)によると、日本人の1日あたりの平均塩分摂取量は、男性で11.9グラム、女性で10.1グラムです。目標は男性9グラム、女性で7.5グラムとされていますが、これでも世界的にはかなり多く、国際水準では6グラムが一般的ですし、これを下げようとする動きもあります。日本人でも高血圧や慢性腎臓病があれば6グラム以下にしなければなりません。

 普段は塩分をできるだけ減らさなければならない、しかし熱中症を予防するために必要なときには摂らなければならない、と言われて「分かりました」と答えられる人はそれほど多くないでしょう。

 ではどうすればいいのか。一般論として述べるのはむつかしいのですが、私の場合は、「着ているTシャツを絞って滴り落ちるくらいの汗をかいたときには積極的に塩分を摂取する」ことを心がけています。それから「(塩分を含まない)水分をとっても身体がだるい」ときは塩分が不足している可能性があります。また、(これはあまりあてにならないかもしれませんが)「塩気のあるものが食べたくなったときに塩分を摂る」というのもひとつの方法です。私がよくするのが「今、スイカを食べるとしたら塩をふった方が美味いだろうか、そのままの方が美味いだろうかを考える」、という方法です。

 この「スイカに塩」というのはとてもすぐれた夏バテ防止フードになります。私は小学生の頃は、ほぼ毎回スイカを食べるときに塩をふっていましたが、大人になるにつれて塩を使う頻度が減りました。塩をかけても美味しくならないから使わなくなったわけですが、これは小学生の頃は外で遊んで汗を大量にかいていたために自然に身体が塩分を欲していたからでしょう。ちなみに、今の私はふだんはスイカはそのまま食べますが、運動後だけは塩を振って食べています。これはトマトでも同じです。

 熱中症予防の塩分の摂り方については、理論上は「OS-1」やスポーツドリンクがいいとされていますが、このようなものだけでは飽きてきますから、クラッカーやミックスナッツ、またスープや味噌汁を摂るのもおすすめです(注1)。

 大量に汗をかくようなとき以外は、日本人の大半は塩分制限を考える必要があります。しかし、これは日本食では大変困難です。味噌汁1杯で約2グラムもの塩が含まれていますし、醤油や味噌にもたっぷりの塩分が含まれています。これで1日6グラム以下にもっていくのは至難の業です。では洋食はどうかというと、ピザやハンバーガーは塩分制限を考えたときには最悪の料理です(おまけにカロリー過多になります)。では中華料理はどうかと言えば、チャーハン1人前で3.2グラム、五目そば1杯で8.0グラム(いずれも厚労省のサイトより)ですから絶望的です。

 では、どのようにして塩分を制限しながら美味しくご飯を食べればいいのか・・・。これについてはそのうちに改めてまとめてみたいと思っているのですが、ここではひとつだけ提案したいと思います。それは「味の素」を積極的に使ってみよう、というものです。

 私が大学生になったばかりの頃、お金がありませんでしたから時間があれば自炊をしていました。しかし何をつくっても美味しくありません。味気がないから塩や醤油を足してみるのですが、辛くなるだけで美味しくなりません。そこであるとき味の素を使ってみたのですが、これが驚く程美味しくなったのです。しかも塩や醤油の使用量がぐっと減りました。それ以来、私は和風もしくは中華風の煮物や炒め物をつくるときは必ずといっていいほど味の素を、しかも(おそらく普通の人が使うよりも)大量に入れています。

 「味の素」というのは商品名ですから、例えばNHKが「味の素」を取り上げるときは別の表現があるのでしょうが、世界的に、とまでは言えなくとも、少なくともアジア的には「アジノモト」という名前が浸透しています。

 私が以前、NPO法人GINA(ジーナ)の関連でタイの東北地方のある辺鄙な村を訪れたときのことです。その村は何度もバスを乗り継いで行かなければならず、外国人はめったに来ないエリアで、私が初めてその村にやってきた日本人だと言われました。その村には電気も充分に来ておらず、焚き火で料理をするようなところなのですが、あるとき若い女性がソムタム(青いパパイヤをベースにしたタイ風サラダ)をつくっているときに大量の白い結晶をふりかけているのが気になりました。ちょうどタイ語を勉強し始めていた頃だったので、その結晶が入ったビニール袋を借りて印刷されたタイ語を読んでみると、なんと「アジノモト」と書いてあるではないですか。タイ語でも味の素は「アジノモト」なのです。そして、ソムタムを作っていたそのタイ女性に話を聞くと、「あたしが幼少時の頃からアジノモトはいろんな料理に使うのよ」と話してくれました。しかしその女性はアジノモトが日本のものとは知りませんでした(注2)。

 味の素は料理を美味しくするだけでなく、塩分制限をするのに大変有用な調味料だと思います(注3)。味の素の成分は「グルタミン酸ナトリウム」ですから、やはり大量に摂取するとナトリウム過多になり、結局塩分過多の状態と同じになってしまうのは事実です。しかし、食べ物を美味しくするために必要な「塩」と「味の素」では、体内に吸収されるナトリウム量が大きく異なります。

 塩分制限に味の素を・・・、という声がなぜ上がってこないのか。味の素株式会社はそれを主張するのに遠慮しているのだろうか・・・、これは長い間、私が疑問に思っていることです。

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注1:詳しくは下記「水分摂取と塩分摂取について」を参照ください。
http://www.stellamate-clinic.org/nettyu/#a03

注2:このような経験をしているのは私だけではありません。例えばノンフィクション作家の高野秀行氏は著書『西南シルクロードは密林に消える』(講談社文庫)のなかで、ナガ(Naga)族(インド北東部からミャンマー国境上に沿うナガランド一帯に暮らす民族)の日常の料理にアジノモトが使われていることを紹介しています。

注3:私は今回のコラムの最初の方で「特定の治療法に肩入れするようなマスコミの取材を受けない」と述べているにもかかわらず「味の素」を高く評価しているわけで、これは矛盾していることになります。しかし、日本のみならず少なくともアジア全域で日々使われている味の素が食事を美味しくするだけでなく塩分制限に貢献しているのはやはり事実ではないかと思います。例えてみると、自動車のメーカーが世界にトヨタ社一社しかなければトヨタ車をすすめるしかない、というようなものです。このように考えると、味の素株式会社のライバル会社はなぜ存在しないのでしょうか。尚、念のために付記しておくと私と味の素株式会社の間には何の利害関係もありません。

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2013年7月10日 水曜日

2013年7月号 感染症と感染症以外のすべての病気の違いとは?

  先月(2013年6月)のこのコラムで、私が研修医のときにお世話になった石井正光先生が開業されたことに触れました。また、昨年(2012年10月)にはノーベル賞を受賞された山中伸弥先生のことについて述べました。

 大阪市立大学は、全国的にみれば、どちらかというと地味な大学(注1)と世間からはみられていると思いますが、実際に入学してみると全くそういうわけではなく、私が学生の時代には石井先生や山中先生以外にもユニークで魅力ある先生が大勢おられました。(今もそうだと思います)

 医学部に入学すると、ただちに専門的な医学教育を受けるのではなく、最初の1年間は一般教養を学びます。その一般教養の先生のなかにも魅力的な先生は大勢おられて(注2)、私は毎日学校に行くのが楽しくて仕方がありませんでした。授業をさぼる学生が信じられなかったほどです。前の大学(関西学院大学)時代は、授業に出席する学生を信じられない、と思っていたわけですから、人間とはここまで変われるものなのかと自分自身に呆れたほどです。

 前置きが長くなりましたが、今回お話したいのは、そんな魅力的な先生が多い大阪市立大学のなかでも私が最も感銘を受けた先生についてです。その先生とは当時の産婦人科教室の教授だった荻田幸雄先生です。荻田先生の講義は私が4回生のときにあったのですが、初回の授業のとき、いきなり次の言葉を黒板に大きく書かれました。

 感染症以外のすべての病気は直立歩行が原因である

 教壇に立たれたときの第一印象から、この先生は少し違うな、というか、一種のオーラのようなものを感じたのですが、感染症以外のすべての病気を一括りする、というのはあまりにも大胆です。そのときに先生は、たしか椎間板ヘルニアや胃下垂を例に上げ、直立歩行が病気につながる、という話をされたのですが、ほとんどの学生はきょとんとしていたと思います。

 第1回目のこの講義では、この直立歩行が病気の原因という話以外に、(14年前の記憶でおぼろになっていますが)たしかどこかのメーカーと協力して下着(うろおぼえですがブラジャーだったような・・・)を開発したとか、そういった話で、結局産婦人科学のことはほとんど何も話されなかったように記憶しています(注3)。

 その授業の後、「感染症以外の・・・」というこの説を話題にする学生は私の周りにはいなかったのですが、私はその後何年にも渡りこのことを考えていました。すべての病気が直立歩行に原因がある、などということを厳密に検討すれば暴論とみなされます。例えば遺伝的な疾患で生まれつき障がいがあるようなケースでは直立歩行が原因とは言えないと思いますし(しかし、臍帯脱失や常位胎盤早期剥離で正常に分娩ができないケースは直立歩行と関係があるかもしれません)、関節リウマチのような慢性疾患、あるいは悪性腫瘍や生活習慣病なども、直立歩行だけで説明するには無理があるでしょう。

 当時の私がなぜ荻田先生のこの言葉にこだわり、いろんな病気に対し直立歩行との関係を吟味していたのか、そのあたりの理由は自分でもよく分からないのですが、そのうちに私の興味の対象は「直立歩行」ではなく「感染症以外の」という言葉の方にうつっていきました。つまり、感染症と感染症以外の疾患を分けることに重大な意味があるような気がしてきたのです。

 感染症とは何かというと、一言で言えば「外敵との戦い」です。それに対し、感染症以外の病気の原因は「自己内の問題」です。自分自身を敵とみなしてしまう膠原病やアレルギー疾患、遺伝子の複製のエラーから細胞の異常増殖が生じるガン、不摂生な生活から生じる生活習慣病、生まれたときから遺伝子に異常があり発症する様々な疾患、などこれらはすべて自分の内部に問題があり敵からの攻撃を受けたわけではありません。

 医学部在籍中や研修医になりたての頃は、感染症に対して特に力を入れて取り組んでいきたいと思っていたわけではありませんが、感染症というのはときに短期間で人を死に至らしめる疾患ですし、私自身は医学部入学前からHIVやHTLV-1に関心がありましたし、また感染症が世界史に影響を与えているという考えに興味を持っていましたから(注4)、感染症には将来的に何らかのかたちで向き合っていきたいとも考えていました。

 しかし、大学病院でも他の病院でも「感染症科」という科はありません。医学部の5回生と6回生には教室での講義がなく、すべて病院での臨床実習というかたちになります。実習の途中から私はこのこと、つまり「感染症は何科が診るの?」ということを疑問に感じ始めました。もちろん、腸炎は消化器内科、肺炎は呼吸器内科、HIVは血液内科、などという区切りはなんとなくわかるのですが、では大学病院で腸炎を消化器内科がみて、肺炎は呼吸器内科がみているのか、というとそういうわけではありません。基本的に大学病院では一部のものを除き感染症をみないのです。

 ですから、感染症を専門にしている医師というのは、当時はほとんどいなかったのです(注5)。実際、ある年の医師国家試験の問題には感染症に関わる設問が1問もなく、これが問題になったほどです。感染症を専門にしている医師がほとんどいないわけですからこのようなことも起こりうるわけです。

 私がある程度本格的に感染症に関わっていきたいと痛感したのは研修医1年目の夏休みにタイのエイズ施設を訪問したときです。私は元々エイズという疾患に興味をもっていましたが、この理由は感染症だからというよりも「差別される病」だからです。当時その施設でみたエイズはまさに「差別される病」で、地域社会から、病院から、そして家族からも追い出された、行く当てのない人たちが集まってきていました。当時のタイにはまだ抗HIV薬もなく「HIVは空気感染する」と思っている人たちが多かったのです。

 この体験を経て、私はHIVという感染症に関わっていくことを決意しました。研修医終了後、再びタイに渡航し、様々なエイズの現場を体験した後、私は大学に戻り総合診療部に所属しました。そして、複数の診療科、複数の医療機関で勉強させてもらった後に、太融寺町谷口医院を開業(開業当時の名称は「すてらめいとクリニック」)するのですが、感染症に対する私の興味は開業後にさらに強くなっていきました。

 クリニックでは大病院とは比較にならないほど感染症のウエートが増えます。最も多い感染症は「風邪」ですが、風邪といっても、実にいろんな病原体が原因になっており、風邪だけで本が一冊書けるのではないかと思うほどです。(このエッセンスは当院ウェブサイトのトップページの「のどの痛み(咽頭痛)」や「長引く咳(せき)」で述べています) 

 風邪以外にも、感染性の胃腸炎、皮膚炎、膀胱炎などにも遭遇しない日はありません。さらに、クリニックで診る感染症の大半は急性の一時的なものですが、なかには長期にわたるものもあります。結核が見つかることもありますし、B型肝炎も少なくありませんし、もちろんHIVも珍しくありません。そして、一部の感染症はその後の人生を大きく変えます。感染症のせいで、仕事を失い、家族を失い、そして自らの命を失う、ということもあるのです。

 他人を敵とみなし殺し合うことが愚かであるのは自明ですが、目に見えない小さな病原体という外敵のせいで、仕事や家族を失い寿命まで短くなる、といったことも馬鹿げています。もちろん、予防法がなく有効な治療法もない感染症であればやむを得ないかもしれません。しかし、HIVを含む多くの感染症は、自らが感染を防ぐ予防ができて、他人へ感染させることも防ぐことができて、また有効な治療法も確立しています。

 つまり、感染症とは「外敵との戦い」であり、ほとんどの感染症では適切な知識を持ち適切な行動をとることによって自らが感染したり、他人に感染させたりという”悲劇”を未然に防ぐことができるのです。

「感染症以外のすべての病気は直立歩行が原因である」という荻田先生の当時の言葉は、今、私の中で「感染症以外のすべての病気は自己内部に原因があり時に治療困難であるが、感染症は知識と行動で悲劇を防ぐことができる」、とかたちを変えて生きているのです。
 

注1 私が医学部を受験する前の大阪市立大学のイメージは、とにかく暗くて赤い(つまり左翼的な)大学というもので、実際、私が知っていた大阪市立大学の出身者といえば、よど号ハイジャック事件の田宮高麿とあさま山荘事件(連合赤軍事件)の森恒夫くらいでした。実は私が初めて大阪市立大学を訪問したのは1986年、高校3年生の夏休みです。このときに東京と関西のいくつかの大学をみて、ほとんど”一目ぼれ”した関西学院大学を第一志望にしたのですが、その反対に大阪市立大学の私の印象は”最悪”なものでした。校門前で何人ものヘルメットとマスクで顔を隠した「革命戦士」たちが、拡声器で何やらわめいているというのが大阪市立大学との最初の出会いでしたから、左翼活動を否定するわけではありませんが、関西学院大学に惚れ込むタイプの者が興味を持てるはずがなかったのです。ところが、1996年に実際に入学してみると、左翼活動というのは一部に残ってはいましたが、顔面を隠し拡声器でがなりたてるかつての「革命戦士」の姿はなく、垢抜けた学生が大半となっていました。

注2 私は医学部の受験勉強をしている頃、NHKで生物学関連の番組をよく見ていました。そのときによく登場されていた学者に団まりな先生がおられたのですが、医学部入学後、生物学の先生がその団まりな先生で大変驚いた記憶があります。何しろ最近までブラウン管の中にいた先生が目の前におられるのですから。

注3 その後荻田先生とは5年生の臨床実習のときにお会いして直接話をさせていただきました。その際に「君はひとつの科にとどまっているタイプではない。将来、他人とは違うことをするだろう」と何やら<予言>めいたことを言われました。荻田先生がなぜ私にそのようなことを言われたのかはいまだにわからないのですが、「総合診療部に籍を置きながら多くの科や多くの医療機関に出向いて総合診療やプライマリケアを勉強していく」というやり方をした医師というのはいまだに私以外に聞きませんから、荻田先生の<予言>はあたっていたことになるでしょう。尚、荻田先生は私が医学部を卒業したのと同じ2002年に退官されたのですが、その後関西の芸術系の大学に大学生として入学され本格的に絵画に取り組まれたと聞いています。

注4 例えば、ペロポネソス戦争では感染症(ペスト説、天然痘説、発疹チフス説などがあります)の流行が戦況に大きな影響を与えました(スパルタ軍の兵士たちはなぜか罹患しなかったために勝利したという説もあります)。アメリカのインディアンがヨーロッパ人に滅ぼされたのは、インディアンだけが天然痘に感染したからだと言われています。(つまりヨーロッパ人の兵力ではなく実際にインディアンを滅亡に追い込んだのは天然痘ウイルスであったということです) 14世紀のヨーロッパではペストにより当時の人口のおよそ3分の1が死亡したとされていますし、梅毒が世界史に登場するのは有名な話です。

注5 最近は、感染症を専門にする医師も少しずつ増えてきており、大学病院などでは「感染症内科」を標榜するところもでてきています。

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2013年6月15日 土曜日

2013年 6月号 やはり医師とは聖職なのか

社会保障制度改革国民会議というものが2012年11月から開催されています。この会議は、社会保障制度改革推進法に基き改革を行うための審議で、詳しくは首相官邸のホームページで知ることができます。

 2013年4月に開催された第9回の会議では、日本医師会会長の横倉義武氏が出席し、現状の医療や制度改革に関する意見を表明しています。報道によりますと、この会議のなかで今後の日本医師会の役割についての質問があり、その質問に対して横倉会長は次のように述べたそうです。

 「医師たるもの、医師になった時から、自分の人生は、国民のために身をささげるという決意」(注1)

 私はこの報道記事を読んだとき、眠たかった頭を何かに殴られたような衝撃を受けました。もちろん医師は、つねに医学の知識と技術の習得に努めなければならず、教養を深めるだけではなく、人格を高める努力を続け、社会に貢献しなければなりません。そして営利目的の医業をおこなってはなりません。

 このあたりは、日本医師会が作成している「医の倫理綱領」(注2)に記載されています。私は、太融寺町谷口医院(開院当時は「すてらめいとクリニック」)を開院してからは、自分のミッション・ステイトメント、クリニックのミッション・ステイトメントの次にこの「医の倫理綱領」をよく読むようにしています。そして、そこに書かれていることを遵守するよう努めているつもりです。

 しかし、改めて医師会の会長から「自分の人生は国民のために身を捧げる決意」と言われると、私には本当にそこまでの「決意」があるのか、と自問しないわけにはいきません。国民のために身を捧げる・・・、とはどういうことなのでしょうか。文字通り棺桶に足を入れるその瞬間まで国民のために身を捧げる努力をしなければならない、ということなのでしょうか。

 医師だけが参加しているメーリングリストや掲示板をみていると、ときどきこのことに思いを巡らせている医師の投稿があります。例えば最近私が興味深く読んだのは、もうすぐ還暦を迎えるというある医師(開業医)の投稿です。

 その医師は最近高校の同窓会にでかけたそうです。同窓生には公務員も民間企業のサラリーマンもいて、同級生ですから全員が定年間近の年齢ですが、すでに早期退職をして悠々自適の生活をしている級友もいたそうです。

 すでに退職している同級生も、もうすぐ退職する同級生も、今のところ仕事を続けたいと言っている人はおらず、早期退職した同級生のひとりは、好きな読書の傍ら天気のいい日は庭の野菜を栽培するという文字通りの晴耕雨読の生活をしているそうです。これから定年退職を迎える同級生たちも、定年後はゴルフ三昧の生活や、日曜大工を「日曜だけでない大工」として趣味に生きたい、と話しているとか。

 その医師によれば、ここ数年は同級生が集まれば今後どのような生き方をしていくべきかといった話ばかりになるそうです。同級生のほとんどが好きなことをする、趣味に生きる、と言っているのに対し、その医師は、医師は聖職であり今後も地域医療のために開業医を続け患者のために一生を捧げるつもり、とその投稿を結んでいました。

 もうひとつ、最近私が驚いた出来事を紹介したいと思います。私が大学病院の皮膚科で研修を受けていた頃、最も感銘を受けたのが石井正光教授でした。石井先生は、私が学生の頃から大変印象深い先生で、講義でも「ステロイド一錠減らすは寿命を十年延ばす」という話をされ、従来の治療と同様に、あるいはそれ以上に、生活習慣の改善が皮膚疾患を改善させるということを強調しておられました。

 研修医の頃は石井先生の外来も見学させてもらったことがありますが、常に患者さんの立場にたった治療を実践されていることがよく分かりました。たしか2年くらい前だったと思いますが、ある皮膚科関連の学会のある会場で石井先生を数年ぶりに見かけました。そのときその会場では「患者の片足を切断せざるを得なかった症例」の報告がなされていたのですが、その発表を聞いた石井先生はさっと挙手され、「本当に切断が必要だったのか。他に治療方法はなかったのか」ということを繰り返し尋ねておられました。患者さんの側からみたときの最善の治療をとことん追求されている姿が大変印象的でした。

 その石井先生が今年3月に大学病院を定年で退官されました。しばらくして石井先生からいただいた葉書を見て私は驚きました。これからの人生はゆっくりと過ごされるのかなと思いきや、なんと早速5月からクリニックを開業なさったというではないですか。これまで多くの患者さんに感謝され、多くの医師に影響を与えてこられた先生ですが、まだやり残していることがあるとお考えなのかもしれません。そして、聖職としての医師の使命をまっとうされたいという気持ちもお持ちなのでしょう。

 現在40~50代の世代では定年後も働きたいと考えている人が少なくないという話をときどき聞きますが、多くは年金の不安などから、食べていくために働かなければならない、という意見だと思います。

 一方、石井先生や、その前に述べた開業医の先生も、さらに冒頭で述べた医師会会長も「お金のためにこれからも働く」と考えているわけではありません。医師の所得や資産は世間の人が考えているほど多くありませんが、それでも定年まで働いたなら贅沢をしなければその後は年金だけでやっていけるでしょう。にもかかわらずこれからも仕事を通して社会貢献されるというのですから、やはり医師は聖職と呼ばれて然るべきなのかもしれません。

 けれどもよく考えてみると、定年後も社会貢献に身を捧げる人は医師だけではありません。2011年12月、享年88歳で他界された谷口巳三郎先生は、定年退職後単身でタイに渡り、一時は破産寸前にまで追い込まれながらもタイ北部のパヤオ県で農業指導を文字通り死ぬまでおこなわれました(注3)。

 JICAにはシニア海外ボランティアという制度があり、69歳までならJICAのスタッフとして海外でボランティア活動をおこなうことができます。定年退職後に参加しアジア・アフリカ諸国に日本の技術を伝えにいく人が少なくないと聞きます。もちろん国内でも退職後にボランティア活動に従事している人は大勢います。

 たしかに、定年退職後も、あるいは生涯にわたり社会貢献に身を捧げるのは医師だけではありません。また医師のなかにも退職後悠々自適の生活をしている人もいるでしょう。私は過去に何度かタイの外国人が集まるカフェやバーで「医師を引退してからタイでのんびりしている」というヨーロッパ人の元医師と話したことがあります。退職後にのんびりと生活している元医師を責めることはできません。

 しかしながら、医師という職業は、社会から強制されることはないにしても、生涯に渡り社会貢献することを期待されている、つまり社会から「聖職」と見なされているのは事実でしょう。

 これから医師を目指す人にはそのあたりのことも考えてもらいたいと思います。そして私自身も今後どのようなかたちで社会貢献すべきなのかについて考えていきたいと思います。

注1:記事の原文では、「国民のために身のためにささげるという決意」とされていますが、これは正しくは「国民のために身をささげるという決意」だと思いますので訂正したものを記載しました。原文は、医療系サイトm3.comの「医療ニュース・医療維新」の2013年4月22日号で、タイトルは「かかりつけ医、定額報酬も可 日医横倉会長、第9回社会保障制度改革国民会議」です。

注2 日本医師会が作成している「医の倫理綱領」は下記のURLで読むことができます。
http://www.med.or.jp/doctor/member/000967.html

注3:谷口巳三郎先生については、NPO法人GINA(ジーナ)のサイトで何度も取り上げています。興味のある方は下記「谷口巳三郎先生が残したもの」を参照ください。

参考:GINAと共に
第67回(2012年1月)「谷口巳三郎先生が残したもの」
第33回(2009年3月)「私に余生はない・・・」
第14回(2007年8月)「リタイア後の楽しみ」

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2013年6月15日 土曜日

2013年5月号 薬局との賢い付き合い方(後編)

 前回のコラムで取り上げた2つの薬剤師の例は、いずれも大変問題であり、そのような薬剤師しかいない薬局は利用しない方がいいでしょう。

 では、なぜ2つの例にみた薬剤師は、ほとんど何の説明もなくロキソニンSを初めての客(患者さん)に販売したのでしょうか。おそらく薬剤師も、ロキソニンSの危険性については知っているはずです。(そうでなければ国家試験に合格しません) にもかかわらず説明もなく販売したのは、あまりにも客が多くて説明する時間がなかった、ということでしょうか。しかし、1つめの例にあげたAさんによれば、特に薬局は混んでいなかったそうですし、2つめの例の日経新聞の記事からもそのような様子は伺えません。それに、いくら混んでいても必要最低限の説明はしなければなりません。これらのケースでは、売れるものは売ってしまえ、という営利的な考えをその薬局や薬剤師が持っていると考えざるをえません。

 過去に私は個人的に薬剤師に対してネガティブな感情を持ったことがあります。数年前、見ず知らずの薬局から突然メールが届きました。何やら重要な話があり会ってほしい、とのことで私は会うことにしました。

 その薬局の代表者ともうひとりの薬剤師がやって来て私に言ったのは、「すべてお金を出すからクリニックを開業してくれないか」というものでした。「繁華街にひとつビルを持っていてその1階で薬局をしている。開業に必要な資金はすべて出すからそのビルで開業してほしい」、というのです。一見、医師からみてもこの提案は条件のよい魅力的なものにうつるかもしれません。

 しかし私はこの提案を断りました。話をしていくなかで、この人たちは信用できないのではないか、と感じたからです。何を話しても、どのようにして利益を上げるか、という方向に話が向かうのです。

 我々医師は、「どのような薬を患者さんに売る(処方する)べきか」、と考えているわけではありません。その逆に、まずは「薬を使わないでいいようにできないか」と考えるのです。つまり、医師の仕事とは、いかに薬を減らすことができるか、と言っても過言ではないのです。高血圧や糖尿病の患者さんに「安易に薬に頼るのではなくまずは生活習慣の改善をしましょう」というのも、抗生物質を出してほしい、と言われて、それが必要でない理由を説明するのも、我々医師は、いかに薬を減らせるか、ということに重きを置いているからです。点滴を希望する患者さんに、まずは水分摂取を心がけてください、と言って不満を言われながらも点滴を断るのもそのためです。

 ちなみに「検査」も同様です。先日、じんましんの患者さんに、「原因が知りたいから血液検査をしてください」と言われ、「あなたのじんましんは血液検査をしても異常がみつからないタイプのものです」と言うと、「お金払うのはあたしですよ」と不満を言われましたが「無駄な検査」はすべきでないのです。頭痛を訴える患者さんにCTを撮影してほしいと言われ、「現時点では放射線を被曝してまで撮影する必要はありません」と答えてもなかなか納得してもらえないことがありますが、これは医師がさぼりたいからではないのです。検査や薬をいかに減らすか、これが我々医師の使命とも言えるわけです。

 私に開業をもちかけた薬局の話に戻すと、「薬をできるだけ減らすようにする医師(私)と、営利主義の薬局が上手くやっていけるわけがない」、と判断して断ったというわけです。

 では、多くの薬剤師が営利のことばかりを考えているのか、といえば決してそういうわけではありません。私が勤務医のときにお世話になっていた薬剤師の方々は、いつも患者さんの立場から薬のことを考えてくれていました。私も含めて医師は、なぜその薬が必要かを理屈だけで判断して処方します。飲みやすさや患者さんがその薬をどのように感じているか、などといったことについてまではなかなか思いを巡らせることができないのです。そもそも医師は薬そのものを見る機会が少なく、患者さんから「あの緑色の少し大きい楕円形の薬・・・」などと言われても、それがどの薬であるかが分からないことが多いのです。

 その点、薬剤師であれば、日頃から服薬指導をおこなっていますから、それぞれの薬の形、色などはもちろん、患者さんとのコミュニケーションを通しての経験から、どれくらい苦いかとか後味はどうかとか、そういったことにも熟知していますし、薬の相互作用(飲み合わせ)の知識など医師よりも豊富であることも少なくありません。ですから、薬剤師からの報告というのは医師にとって大変ありがたいものなのです。

 それに、私が勤務医の頃お世話になっていた薬剤師の方々は、決して薬を増やすような助言はしませんでした。むしろ、いかにして減らしていけるか、といった観点から私に助言をしてくれていました。ですから、前回例に出した二人の薬剤師や、先に紹介した私に開業をもちかけた薬剤師が特殊な例であり、大半の薬剤師は営利ではなく患者さんの立場から薬について考えているはずだと私は信じています。

 しかし、ここでひとつの疑問がでてきます。(大きな)病院で勤務する薬剤師はいいとして、薬局を開業したり薬局で働いたりしている薬剤師は営利目的ではないのか、という疑問です。

 薬局と異なり、医療機関の場合は利益がでるのは薬の処方ではなく診察代に対してです。医療機関では、もちろん薬にもよりますが、例えば前回とりあげたロキソニンで言えば、薬局で買えるロキソニンSは1錠あたり56.6円(12錠入り680円)ですが、太融寺町谷口医院(以下、谷口医院)で処方しているロキソニンの後発品は1錠わずか5.4円(3割負担で1.62円)です。利益でいえば1錠あたり0.5円にも満たないのです。

 このように医療機関では薬による利益はほとんどなく、また検査でもそれほど利益がでるわけではありません。血液検査は外注しますし(検査会社は儲かると思います)、レントゲンなどはある程度数をこなさないと利益が出ないどころか赤字になります。レントゲンは少量とはいえ被曝することになりますから、ある程度重症でない限り初診で撮影することはありません。このため谷口医院ではレントゲンについてはリース代と維持費のコストの方が高いために毎月赤字を計上しています。

 入院や手術をすればそれなりに利益になりますが(ただし諸外国と比べるとこれらも随分安く設定されていることがよく指摘されます)、これらをおこなわないクリニックでは何が利益になるかというと、ほとんどが診察代です。診察代は人件費以外のコストはかかりませんから利益率は大変高いといえます。しかも○分以上かけなければならない、という決まりもありません。つまり30秒で診察を終えても30分かけても診察代は同じなのです。

 ですから、入院施設のないクリニックで利益をだそうと思えばどんどん患者数を増やして診察していけばいいということになります。しかし、きちんと診察するにはそれなりの時間が必要で、谷口医院ではだいたい日々60~70人の患者さんを診察していますが、これくらいが限界であり、これでも待ち時間はかなり長くなります。70人を超えると2時間以上待つ人がでてきて、連休明けなどで80人を超えると3時間以上の待ち時間がでることもあります。ときどき1日100人以上、もっとすごいところでは200人以上もひとりの医師で診察しているクリニックもあるそうですが、私にはとうてい不可能です。

 話を薬局に戻します。診察代を徴収できない薬局では、薬をたくさん売ることが目的になってしまうのは仕方がないことなのでしょうか。私はそうでないと信じたいと思います。以下は2013年3月27日の薬局新聞に掲載されたコラムです。

  「薬局と言うのは郵便局などと同じで公共の側面を持った施設だと思っている。しかし現状の薬局を見渡すと、その役割を十分に果しているとは言い難い」。先日開催されたJAPANドラッグストアショーの中で、クスリのアオキの青木保外志社長は薬局の役割の大きさと責任感について、薬局側が再考する必要があると訴えた。(中略)同氏のいう薬局の「局」は、調剤を実施することはもちろん地域住民の健康に対して責任を果たすことであると続け、「仮に薬局が地域から無くなってしまったら生活が困る。そういうレベルまで高める必要性がある」と語る。

 薬剤師の方々がこの考えを忘れない限り薬局に対する社会からの信頼を失うことはないでしょう。つまり、薬局は医療機関と同様「公共の側面を持った施設」であり営利団体ではないのです。日本医師会が制定している「医の倫理綱領」の第6条には「医師は医業にあたって営利を目的としない」とはっきりと明記されています。薬剤師の世界にこれと同様のものがあるのかどうか分かりませんが、きっと薬剤師の根源的な精神は医師と同じものだと思います。

 営利を目的とせず患者さんの立場に立った医療をおこなう。これが医師の「矜持」です(注1)。薬剤師には薬剤師の矜持があるはずで、その矜持を忘れていない薬剤師に相談する。これが薬局と賢く付き合う秘訣に他なりません。

注1;今回は医師の悪口を書いていませんが、医師にとんでもない輩がいるのも事実です。2009年に逮捕された奈良県大和郡山市のY病院のY医師は我々医師に衝撃を与えました。マスコミの論調のなかには「このような事件は氷山の一角」としているものもありますが、私自身はこのような例は極めて特殊なものであると信じています。この事件については下記のコラムでも取り上げていますので興味のある方は参照してみてください。

参考:メディカルエッセイ
第79回(2009年8月) 「”掟”に背いた医師」
第86回(2010年3月) 「動機善なりや、私心なかりしか」

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2013年6月15日 土曜日

2013年4月号 薬局との賢い付き合い方(前編)

私は以前から、セルフメディケーションをもっと促進すべき、という考えであり、このサイトのコラムでも何度か意見を述べています。この理由として、我々医療者からみたときには「医師不足の対策になる」というものがありますが、もちろん医療者の勝手な都合からセルフメディケーションをすすめたいわけではありません。

 セルフメディケーションは、患者さんからみても多くの利点があります。まず、医療機関を受診し待合室で長時間待たされる、という苦痛から解放されます。次に、自分の健康や医学に興味を持つことにより日頃から体調管理に気をつけるようになります。上手くいけば、それが禁煙につながり、バランスのとれた食事、適度な運動などを促すことになるでしょう。そして、他人に頼らず自立した状態で長生きできるようになります。盲目的に医師の言うことに従っている状態では本当の健康を維持できない、と私は思っています。

 そもそも現在のような医師不足の社会では、医師は患者さんと充分なコミュニケーションをとる時間が確保できません。どうしても説明や助言は必要最低限のものとなってしまいます。看護師や栄養士の指導や助言は有用ですが、やはり時間が無限にあるわけではありませんし、そもそも医療者と話をするためには医療機関まで足を運ばなければなりません。

 セルフメディケーションを効率よく実践するには「薬局の利用」が有用なはず、です。有用な「はず」としたのには理由があります。私が提案したいのは、自分にあった薬局と薬剤師をみつけてセルフメディケーションを促進しましょう、ということですが、その前に、これを読んだ薬剤師の方々に非難されることを承知した上で、現在の薬局の悪口を言いたいと思います。

 先日、ある患者さん(Aさんとします)から驚く話を聞きました。Aさんは頭痛があり太融寺町谷口医院にかかっているのですが、あるとき関東地方のある県に出張に行く時に、私が処方した常備薬のロキソニン(正確に言えばその後発品)を忘れたそうです。ロキソニンは薬局で買えるもの(ロキソニンS)もあることを知っていたAさんは、駅前の薬局に入り「ロキソニンSをください」と言ったそうです。すると、その薬局の店員(薬剤師だと思います)は、「飲んだことはありますか」と聞き、Aさんが「はい」と答えると、それ以上何も聞かれずに買えてしまったそうなのです。

 あまりにもすぐに買えたことにAさんは驚いたそうですが、私も驚きました。ロキソニンが危険な薬、とまでは言いませんが、副作用が少ないとは言えません。ロキソニンの副作用では胃痛が有名ですが、これだけではありません。稀ではありますが、重症化する薬疹を起こすこともありますし、長期使用で心臓や腎臓に影響を及ぼすこともあります。私が日々の診療で最も注意しているのはロキソニンによる「薬物乱用頭痛」です。別名「ロキソニン中毒」とも呼ばれるもので、ロキソニンを大量に使用したために、ロキソニンがなければほんの少しの痛みにも耐えられなくなり、ますますロキソニンに依存するようになっていく頭痛のことをいいます。

 通常医療機関では、ロキソニンを含めて鎮痛剤の処方には慎重になります。薬局でも初めての患者さんにロキソニンSを販売するときは、「現在他に飲んでいる薬はないか」「ロキソニンはどのような症状に対して必要なのか」「今その症状はどの程度のものなのか」「どれくらいの頻度で飲んでいるのか」などは尋ねなければならないはずです。

 こういったことはどこかで問題提起しなければいけない、と感じていたところ、偶然にも2013年4月4日の日経新聞の一面に「薬ネット販売、抵抗は誰のため」というタイトルで、この問題が取り上げられていました。

 この記事を書いた記者は、実際にロキソニンSを買おうとして東京都千代田の神保町駅付近のドラッグストアを訪ねて薬剤師に話したそうです。以下、記事を引用します。

 薬剤師「初めてですか」
 記者「そうですが、代わりに買いに来ました」
 薬剤師「では、この注意書きをお渡しください」
 記者「これでいいの」。あっけなさに拍子抜けした。

 本人でなくてもこんなに簡単に買えてしまったというのです。注意書きを渡すだけなら薬剤師は要りません。その注意書きをロキソニンSの箱に書いておけば事足りるからです。

 2009年、厚生労働省は、薬局で販売されている薬の第1類とそれに準じた第2類をインターネットで販売することを禁じました。この禁止令は違法であるとしてドラッグストアなどが訴訟を起こし、2013年1月、最高裁で、厚労省の禁止令は違法との判決がでました。これを受けてドラッグストアは販売を再開しているようです。

 厚労省のなかでは、インターネットでの販売に反対する声が依然根強く残っているそうですが、上に紹介した2つの例のように薬局でこれほど簡単に買えてしまうなら、そもそも薬剤師など必要ありませんし、インターネットでの購入と差はありません。インターネットでの販売に反対する関係者らは、薬局では薬剤師が丁寧に説明していると信じているのでしょう。

 ここで私の意見を述べておくと、「ロキソニンは薬局で売るのも禁止、インターネットでも禁止すべき」、というものではありません。忙しくて医療機関を受診できない人もいれば、身体にハンディキャップがあり薬局にさえも一人では行けない、という人もいるわけです。そういった人たちには、薬局での購入やインターネットの利用は大変ありがたいものになります。

 しかしながら、あまりにも気軽にこのような薬が買えるということには問題があります。今の状態が放置されるとすると、「ロキソニン中毒」となる人が後を絶たなくなるかもしれません。また、過去に一度も飲んだことのない人が、自分の判断でロキソニンを内服するのは危険です。やはり一度は医師の診察を受けるべきです。

 ではどうすればいいか。まず、ロキソニンを一度も飲んだことのない人が薬局やインターネットで購入するのは避けるべきです。ロキソニンを処方されたことのある患者さんは、かかりつけ医に、今後薬局でロキソニンSを購入することが可能かどうか確認し、医師が許可すればそれ以降は薬局での購入が可能、とすればいいのです。薬局で、過去に医療機関で処方されたことがあるかを証明すべき、というのであれば、医療機関で発行している「薬剤情報提供書」や「処方せん」のコピーを薬局で提示すれば解決します。そして、その薬局を「かかりつけ薬局」とするのです。

 インターネットについては、その「かかりつけ薬局」のホームページからのみ購入できる、とすればいいと思います。こうすれば、複数のインターネットショップからロキソニンを大量に購入することが防げます。もちろん、この程度の対策であれば、例えば、他の薬局は利用していない、と嘘を言って、複数の「かかりつけ薬局」をつくれば、ある程度多量のロキソニンを手に入れることはできます。しかし、完全に自由にインターネットで購入できる状態とは大きく異なります。

 というわけで、私は今後「かかりつけ薬局」という概念が普及していくべきだと考えているのですが、先に2つの例でみたような薬剤師しかいないのであれば、この考えを取り下げなければなりません。

 実際のところはどうなのでしょう。2つの例のように患者さんを大切にしているとはとても思えないような薬局や薬剤師ばかりなのでしょうか。あるいは、この2つの例が例外であり、大半の薬局には患者さんが頼りにできる薬剤師がいるのでしょうか。

 次回はそのあたりを考えてみたいと思います。

参考:
はやりの病気第96回(2011年8月)「放っておいてはいけない頭痛」
メディカルエッセイ第97回(2011年2月)「鎮痛剤を上手に使う方法」
マンスリーレポート2012年4月号「セルフ・メディケーションのすすめ~花粉症編~」
マンスリーレポート2012年5月号「セルフ・メディケーションのすすめ~薬を減らす~」
メディカルエッセイ第120回(2013年1月)「セルフ・メディケーションのすすめ~抗ヒスタミン薬~」

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