マンスリーレポート

2014年8月18日 月曜日

2014年8月号 手術は成功。だけれども・・・

 前回(2014年7月号)のコラムでお伝えしましたように、「変形性頸椎症」という疾患に対する手術を受けるためにクリニックを長期間休診させていただくことになりました。前回のコラムでは、症状発症の契機、その後の症状の移り変わりと医療機関受診、検査から診断に至る過程などについてお話しました。今回はその後の経過についてまずお話しておきます。

 私の症状で最も辛かったのが左上肢の筋力低下です。4月中旬頃から増悪し、一時は聴診器を持てないほどにまで進行していました。しかし、6月上旬あたりからわずかですが回復し、聴診器も長時間の把持は困難ですが、通常の聴診はできるようになりましたし、覚束ないものの茶碗を持つことも軽いものなら可能になりました。

 ただ、左上肢(前腕と上腕)の見た目の筋肉量の低下は進行し、筋萎縮は進行しているように見えます。7月に入ってからは何人かの患者さんに「痩せましたね」と言われたのですが、これは全身が痩せたのではなく、左上肢の筋肉が減ったためにそう見えたのだと思われます。

 さて、筋力がわずかに回復したとは言え、日常生活がなんとかできる程度ですし、これ以上頚椎の変形が進行し、脊髄を圧迫するようなことがあれば社会復帰ができなくなるかもしれません。私に残された選択肢は手術以外にありません。

 2014年8月4日、予定通り手術がおこなわれました。手術の名称を正確に言えば「全身麻酔下観血的後方除圧及び椎弓形成術」になります。簡単にいえば、頚椎が変形して後ろにせりだしてきたせいで狭くなってしまった脊柱管を広げる手術、となりますが、これでは分かりにくいのでもう少し詳しく説明したいと思います。

 脳から続いている脊髄は脊柱管という骨で囲まれた管を通って腰の方まで伸びています。その管の前の部分を構成しているのが脊椎で、後ろの部分が椎弓と呼ばれる骨と考えて差し支えありません。私の場合、前部を構成している頚椎(脊椎の首の部分)が変形して管の内腔にせり出してきたために脊髄がつぶれてしまっています。もしも頚椎がせり出してきて脊髄が後ろにおされても、その後ろにスペースがあれば問題ないわけですが、後部は後部で椎弓という骨がありますから脊髄は、変形した頚椎と後部の椎弓にはさまれて圧迫されているというわけです。

 筋力低下も筋萎縮も、痛みもしびれもすべて脊髄(もしくは脊髄から別れて出ている神経根)が圧迫されていることが原因です。ならば、唯一の解決法は狭くなった脊柱管を広げることです。もっとも、軽傷であれば自然に軽快することはよくありますが、私のように症状が増悪し、すでに1kgのダンベルも持てないような状態であれば外科的に治療するしかないというわけです。

 慢性で難治性の疾患というのは得てして民間療法も盛んです。ご多分に漏れず、この疾患、変形性頸椎症にも多くの民間療法があるようです。さすがに漢方薬やサプリメントで治る、としているものは見当たりませんが、枕とか、マッサージとか、あるいは電磁波をあてるようなものもあるようです。しかし、そのような民間療法を全面的に否定するわけではありませんが、私のように筋力低下がある程度まで進行してしまったような状態では可及的速やかに手術をすることが必要になります。これ以上の進行はなんとしても防がなければならないからです。

 話を手術の内容の説明に戻します。手術の目的は「脊柱管を広げること」ですが、そのためには脊柱管の後ろの部分、すなわち椎弓と呼ばれる骨を切らなければなりません。切っただけであれば不安定ですから、(切っただけでそのまま置いておくという術式もありますが)そのなかに「詰め物」をすれば安定が得られます。

 これではわかりにくいと思うので手の指を使ってイメージしてみてください。まず、手の親指と人差し指でわっか(輪っか)をつくってみてください。そして親指の先端と人差し指の先端を1cmほどあけてみてください。それからその2本の指でサイコロをはさむところを想像してみてください。指先どうしをくっつけていたときと比べるとわっかの面積が広がったことがわかると思います。実際の手術ではもっとこみいったことをおこなうのですが、イメージとしてはこのような感じです。

 次に「詰め物」について説明します。従来「詰め物」として使われていたのは、患者自身の骨が多かったはずです。私が麻酔科の研修を受けていた頃は、患者自身の腸骨が使われていた症例が多かったことを記憶しています。つまり、首を切開する前に、腸骨(骨盤の一部)の骨を切り取り、それを適切なサイズと形態に加工しておきます。椎弓を切除して(親指と人差し指の間をあけて)その間にこの腸骨を「詰め物」として使うのです。

 少し想像してもらえればわかると思いますが、骨盤の一部の骨を切除するというのも大変な手術になります。それが終わって今度は首の後ろからメスを入れて、骨を切って広げるわけですから、この手術は大変長時間を要します。私が麻酔科の研修を受けていた頃、他の研修医がこのような長時間の手術を希望しないこともあり、私は積極的にこの手術を見学していたのですが(麻酔科医の仕事はいったん麻酔がかかると余裕ができるので手術の見学が可能になるのです)、大変高度な技術が必要であり、長時間に渡る集中力と体力を要する極めて難易度の高い手術であるという印象がありました。

 もちろん大変なのは執刀医だけではありません。患者さんの術後の苦しみは相当なものです。長期間動けませんし、痛みは並大抵ではありません。否、それだけではありません。首の筋肉を大きく切りますから回復したとしても、後頭部から後頸部の動きが元通りにならないことも珍しくないのです。

 私が研修医として麻酔科でトレーニングをつんでいたのは2002年です。それから12年が経過したわけですが新しい手術法はないのでしょうか。それがあるのです! まず、「詰め物」についてです。ここからは「詰め物」ではなく「スペーサー」と呼ぶことにしましょう。自分の骨を用いるのではなくセラミック製の人工骨が少しずつ普及してきています。セラミックはここ20年くらいの間に、人工骨や人工関節、あるいは歯科のインプラントなどで用いられるようになってきているのですが、首の骨(椎弓)を切除した後にはめこむスペーサーとしても普及しだしているのです。

 また、首の皮膚を切開し、骨まで到達する方法も随分進化していることが分かりました。従来は首の皮膚を大きく切開した後、首の後ろの筋肉を大きく切らなければならなかったわけですが、筋肉を切るのではなく「はがす」ような感じでほとんど筋肉に傷をつけることなくおこなえる手術があるのです。筋肉を傷つけなければ出血量もごくわずかで済みます。もちろん、このような手術がおこなえるのは相当熟練した医師のみです。私の場合、大変幸運なことに、頚椎を専門とする熟練した専門の先生に執刀してもらうことができました。

 そして手術は成功しました。実際術後のCTを撮影してもらうと脊柱管が大きく広がっていました。これで脊髄の圧迫症状からは開放されたはずです。ところがです・・・。私の左上肢の筋力低下は変わっていません。手術をしても痛みやしびれはすぐになくなることが期待できるが筋力低下は回復するまでに長期間かかる、という説明は聞いていたのですが、それでも、私の心のどこかに「長時間の正座から開放された直後は動かせなかった足がしばらくすると元に戻るように、私の左上肢も手術が終われば元に戻るのではないか・・・」と期待してしまっていたのです。

 しかし現実はそう甘くはありません。相変わらず私の左腕は1kgのダンベルをあげるのも四苦八苦しています。ただ、術前よりも悪くなっているわけではなく、食事は摂れますし、歩くことも可能ですし、500mLのペットボトルを持った上腕のトレーニングならできます。

 退院はもう少し先になりそうですが、入院している病院から太融寺町谷口医院に通勤するというかたちで当初の予定どおり本日(8月18日)から診療を再開したいと思います。術後の痛みはゼロにはなっていないために(骨まで切っているのですから当然といえば当然です)、首のカラーもまだ外せないために、しばらくの間は診療に時間がかかるかもしれませんが、これまでと同じように診療をおこないますので困ったことがあればどうぞお気軽にいらしてください(注1)。

注1:しばらくの間、再診の方(当院に一度でも受診したことがある方)のみとさせていただきます。初診の方の診察再開についてはトップページで案内いたします。

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2014年7月11日 金曜日

2014年7月号 手術を受けることになりました

  すでにウェブサイトのトップページでお知らせしていますが、2014年8月1日から17日まで(医)太融寺町谷口医院は休診とさせていただきます。これは院長の私自身がある疾患で手術を受けることになったからです。

 何人かの患者さんからは、「2週間以上も入院しなければならないということは、かなり大きな手術ですよね。ということは大変な病気なんですか・・・」、と聞かれました。医師が自分の疾患を公表するべきではないかと当初は考えていたのですが、多くの患者さんから質問される、というよりも、心からご心配いただいていることがひしひしと伝わってくることも少なくないために、きちんと説明すべきと考えるようになりました。

 私の病歴は以下のようになります。

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 2014年1月4日。とあるフィットネスクラブにて。懸垂をしようと思い、鉄棒にとびついたときに左後頚部に鈍い痛みを感じました。両手で鉄棒を把持しているものの、いつもと感覚が違います。左上肢に力が入らず懸垂ができなくなっていることに気付きました。

 鉄棒から降りてじっとしていると、強くはないものの鈍い痛みが左後頚部から背部に広がっています。また、左手の親指側に、強くはありませんがしびれがあります。しかし握力はそれほど落ちていないようです。実際、懸垂はできなくなっていましたが、鉄棒にぶらさがっていることには問題ありませんでした。ただし、筋力低下は明らかにあります。どの筋肉に力が入らないのかを調べるためにいくつかの筋トレをおこなってみました。ベンチプレスはまずまず可能です。しかし、ダンベルを持って肘を曲げる筋トレができません。普段は12~14kgのダンベルを持つのですが5kgのダンベルでも上がらないのです。

 これらから私がつけた自己診断は「頸椎椎間板ヘルニア」です。おそらく鉄棒に飛びついたときの勢いで椎間板が後ろに飛び出たのだろう、そのように考えました。というのも、このような頸椎の形態異常に起因する疾患はいくつもありますが、症状出現のきっかけがはっきりしている場合はヘルニアである場合が最も多いからです。例えば後縦靱帯骨化症や脊椎管狭窄症ではじわじわと症状が出現しだし、患者さんに「いつからですか」と尋ねても、2~3年前くらいから・・、といった曖昧な答えが返ってくるのが普通です。一方、椎間板ヘルニアの場合は、患者さんが「〇月△日に★★をしていたときからです」、と答えることがしばしばあるのです。

 腰椎の場合もそうですが、頸椎の場合も、椎間板ヘルニアはしばらくすると自然に症状が取れることもよくあります。椎間板は骨ではなく比較的柔らかい組織ですから、マクロファージなど貪食機能のある細胞が、後ろに出てしまった椎間板を少しずつ小さくしてくれることが期待できるのです。実際、頸椎ヘルニアの患者さん(太融寺町谷口医院では月に1~3人程度みつかります)に対して、私は専門医に紹介することはありますが、手術を強く薦めることはほとんどありません。そして専門医を受診してもらっても、その専門医から手術を薦められることもあまりありません。

 頸椎の椎間板ヘルニアで手術が積極的に薦められない理由は、何もしなくても症状が軽快することが多い、ということだけではありません。腰椎に比べると手術が上手くいかないケースが多いということの方が大きな理由でしょう。「上手くいかない」というのは、手術をした後もしびれなどの症状が残る、ということだけではありません。手術の合併症に苦しめられる、はっきり言えば、手術が失敗して余計にひどくなる、最悪の場合は寝たきりになるというリスクもあるのです。そこまでのリスクを背負ってまで手術する必要があるケースというのはそう多くはないというわけです。

 この時点で私は手術などまったく考えなかったばかりではなく、医療機関を受診するつもりもありませんでした。とりあえずは3ヶ月ほど様子をみよう、そのときに症状が悪化していればそのときに考えようと楽観的な気持ちでいました。そう思えた最大の理由は、日常生活にはほとんど問題がなかったからです。懸垂をしたり5kgのダンベルをもったりしなくても生活はできますし、医師としての仕事にも影響はほとんどありません。

 しかし私の希望的観測は裏切られることになります。3ヶ月と少したった4月のある日の午後の診察室。くしくもその患者さんは右腕のしびれと右肩の痛みを訴えました。ヘルニアかどうかは別にして、私と同じ頸椎からきている状態だなと考えた私は、診察するために、患者さんの腕をもったり首を後ろに傾けてもらったりしていました。

 そのときです。患者さんの後ろにまわり患者さんの両腕を持ち上げたときに、私の左腕に力が入らないことに気付いたのです。患者さんにはそれを悟られないようにしたつもりですが、私の筋力低下が一気に進行したのは明らかでした。しかもごく軽いものが持てなくなるほどの筋力低下です・・・。その次に診察した患者さんは長引く咳が訴えでした。私は聴診器で患者さんの肺の音を聞いていたのですが、左手が震えて聴診器を胸にあてておくことができないではないですか・・・。

 これはまずい・・・。その日の夜、いくつかの実験をしてみました。まず茶碗を上げて維持することができません。歯磨きもできません。(私は左利きで歯ブラシは左で持ちます) 携帯電話も20秒もすると腕を維持してられずに会話が続けられなくなります。このままでは日常生活も医師としての診察もままなりません。現在太融寺町谷口医院では以前のような手術はしていませんし、左腕の強い力が必要な処置などもほとんどありません。しかし聴診器が使えなくなれば診察が成り立ちません。

 手術の心構えはできていませんが、とりあえずMRIで頸椎の評価をしてみようと考えた私は5月のある日、ある医療機関を受診してMRIを撮影してもらいました。MRIのフィルムを見せてもらったとき、すぐに決心がつきました。というより決心せざるをえませんでした。これは手術しかないと・・・。

 頸椎の一部が見事に変形しており、変形した骨(頸椎)が脊柱管を圧迫していたのです。私の「椎間板ヘルニア」という自己診断は”誤診”であり、「変形性脊椎症(頚椎症)」が正確な病名です。つまり椎間板ではなく骨そのものが変形しており、変形した骨が脊髄を圧迫していたのです。実は私は12年前の2002年に交通事故で頸椎のMRIを撮影しています。そのときは右上肢に痛みが生じたのですが、MRIではほとんど異常を認めませんでした。頸椎の変形もほぼありませんでした。頸椎の変形というのは加齢と共に生じますが、33歳の時点では正常であったわけですから、この12年間で加齢が進行したということになります。鉄棒に飛びついたときに初めて症状がでたのは、おそらく症状が出る前から骨が脊髄を圧迫する寸前であり、鉄棒に飛びついたときに骨がごくわずかに動き、そのために症状が突然出たのでしょう。

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 というわけで、私は手術を受けることになりました。先にも述べたように頸椎の手術は簡単ではなく術後の後遺症の問題もあります。頸椎の手術を受けたという患者さんをこれまでたくさんみてきましたが、手術が成功したという症例でも何らかの後遺症が残ることが少なくありません。

 一般に、頸椎の手術というのは、脊髄損傷のリスクもあり、術後車椅子の生活を余儀なくされる、あるいは寝たきりの状態になる可能性もなくはありません。このため、頸椎の手術がすすめられるのは、脊髄の症状が強くなり、例えば下肢にまでしびれや疼痛が出ている場合や、膀胱直腸障害といって排尿や排便が困難になった場合、あるいは上肢が動かなくなった場合など、重症化した場合に限られます。

 私の場合は、持った茶碗を維持することはできませんし、両手を使って頭を洗えないなどといった不便さはありますが、最低限の日常生活はできないことはありません。しかし、聴診器を自由に使えない、患者さんの腕や足を持ち上げられない、といった医師生命に関わる不自由さがでてきたために手術を受けるべきと判断しました。(術式については、大きく分けて前方固定術と後方除圧術があります。私が手術をお願いすることになった先生は、低侵襲の手術をされる大変ご高名な先生ですが、これ以上の説明はここでは省略します)

 8月18日からは仕事に復帰するつもりでいます。しかし、比較的大きな手術ですし、術後しばらくの間は安静を余儀なくされます。冒頭で紹介した患者さんは、私が大変な病気に罹患したから長期間入院することになったと考えられたわけですが、疾患自体は悪性のものではありませんし、寿命が短くなるものではありません。しかし術後の安静が強いられるために長期間休まなければならないのです。

 術後の経過、そして予定通り8月18日から診療を再開できるか、などについては、ホームページでお伝えしていく予定です。しばらくの間ご迷惑をおかけしますことをお許しください。

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2014年6月10日 火曜日

2014年6月号 渡辺淳一氏の2つの名作

 2014年4月30日、作家の渡辺淳一氏が享年80歳で他界されました。

 昨年(2013年)に山崎豊子さんが他界されたときもあまりにも突然のことで驚きましたが、渡辺淳一氏も、つい最近まで週刊誌に連載を持ち、高齢者のED(勃起不全)についての連載小説が新聞で掲載中止にされたことなどが話題になっていましたし、私個人としても氏の作品を楽しみにしていましたから、驚くと同時に生のはかなさを感じずにはいられませんでした。

 渡辺淳一氏は直木賞も受賞されていますから、著名な作家が他界された、ということで各マスコミも大きく取り上げました。ただ、その紹介の仕方がどれも同じようなもので、偏っていると言わざるをえず、私は氏に対する報道を目にする度に辟易としました。少し例をあげてみたいと思います。(下記はすべてオンライン版です)

 中高年の性愛を大胆に描いた「失楽園」などで知られる作家の・・・(日経新聞)
 男女の愛と性を赤裸々に描いた「失楽園」「愛の流刑地」などのベストセラーで知られる作家・・・(朝日新聞)
 「失楽園」「ひとひらの雪」など男女の関係を突き詰めた恋愛小説などで知られる作家の・・・(読売新聞)
 「ひとひらの雪」「失楽園」などで男女の愛と性を描いた人気作家・・・(毎日新聞)

 どれも似たり寄ったりです。読んでいて辟易とするのは、どの報道も「愛」や「性」のことにしか触れていないからです。

 たしかに、中高年の恋愛に関する小説を語るなら渡辺淳一氏の右に出る作家はいないでしょう。先に述べた、高齢男性のEDをテーマにして、そしてインポテンツがあったとしても、さらにインポテンツがあるからこそ恋愛ができるんだ、ということを小説にした作家は私の知る限り他にはいません。

 しかしながら、渡辺淳一氏の作品の魅力を「愛」や「性」に限局してしまうのは、ある意味公平性にかけるというか、率直にいえば”もったいない”のです。渡辺氏の卓越した著作は恋愛ものだけでは決してありません。私としては、特に医学関連の小説のことをマスコミはもっと取り上げてもらいたい、そして多くの人に読んでもらいたいと感じています。

 医師である渡辺淳一氏が本格的に小説家を志したきっかけは、1968年に札幌医科大学の和田寿郎教授がおこなった世界初の心臓移植に関連する不正を暴いた小説を発表したこと、と言われています。この小説は『白い宴』というタイトルで今も読むことができますので、例えば医師を目指しているという人には是非読んでもらいたいのですが、今回は医師だけでなく多くの人に読んでもらいたい渡辺氏のふたつの名作について述べてみたいと思います。

 ひとつは野口英世の生涯について記した『遠き落日』です。この小説は吉川英治文学賞を受賞していますから、すでに読んだという人も多いと思うのですが、この本ほど、読んでいるうちに何度も頭を殴られたような衝撃を感じた本を私は他に知りません。

 野口英世と聞いて多くの人は、日本を代表する偉人、幼少時に負った大やけどを克服して医師になった努力家、ノーベル賞は受賞できなかったけれど何度も候補に挙がった偉大な研究者、自ら研究していた黄熱に罹患し殉職した天才、などといったイメージを持っているのではないでしょうか。

 私自身もそのような像を漠然と描いていました。医学部の3回生の時に「細菌学」の教科書を目にするまでは・・・。

 野口英世は著名な細菌学者のはずです。しかしその細菌学の教科書に野口英世の名前が見当たらないのです。そして、索引にも野口英世という名前はありません。つまり細菌の研究でノーベル賞候補にまでなったはずの野口英世は細菌学の教科書に名前すらないのです。

 実は野口英世の業績というのは現在ではほとんど評価されていません。黄熱の病原体を顕微鏡でみつけたと発表しましたが、これが後に誤りであることが判りました。狂犬病や小児麻痺の病原体も見つけたと発表していますが、これも誤りであることが判っています。梅毒が脳をも侵す病原体であることをつきとめたことは正しいとされていますが、野口英世は梅毒の病原体の培養に成功したと発表しています。しかし、それから100年以上たった現在でも誰もこの培養の追試に成功していないのです。まるで、その後誰もつくることができていないSTAP細胞のようです。

 渡辺淳一氏の『遠き落日』では、そのあたりのことにも触れられていたはずですが、私がこの本を読んで頭を殴られたような衝撃を受けたのは、研究に価値がなかったことよりもむしろ、金と性にとことんだらしないその性格と行動です。返すつもりもないのに多額の借金を繰り返し、その金で遊郭での豪遊、つまり買春を繰り返し、婚約者に対してはひどい行動をとるのです。この本では、そのあたりについての描写がとても興味深いと言えます。

 現在の千円札は野口英世ですが、このお札が登場したとき、私は千円札の野口英世の顔を眺める度に複雑な思いに駆られ苦笑いを噛み殺していました・・・。

 もうひとつ、多くの人に紹介したい渡辺氏の作品があります。それは『花埋み』(「はなうずみ」と読みます)というタイトルで、国家試験制度ができてから日本で初めて女医になった荻野吟子の生涯を描いた物語です。

 日本で初の女医ですからもっと偉人として取り上げられてもいいと思うのですが、一般的には荻野吟子の名前はあまり知られていないのではないでしょうか。その最大の理由は、荻野吟子は、開業医となり多くの患者さんから慕われていた数年間を除けば、生涯を通して成功したとはとても言えない不運な人生を送ったからではないかと思われます。

 良家に生まれた荻野吟子は、名主の長男稲村貫一郎と結婚します。稲村貫一郎は後に足利銀行初代頭取になったとされています。ここだけ聞けば不自由ない結婚生活を想像してしまいますが、実際は「最悪」だったようです。何が「最悪」かというと、夫が買春して娼婦から淋病をうつされ、それを荻野吟子にうつしたのです。

 淋病など今では抗菌薬を数日間内服するか点滴をするかですぐに治る何でもない病気ですが(ごく稀に重症例もありますが)、当時はまだペニシリンがなかった時代です。結局荻野吟子の淋病は治らずに生涯苦しめられることになります。断続的に高熱にうなされ、起き上がるのも困難なこともあったようです。しかし夫から淋病をうつされたことをきっかけに荻野吟子は医師になることを決意します。

 荻野吟子は40歳のとき、周囲の反対を押し切り13歳年下の若い男性と再婚します。恋愛には様々なものがあり他人がとやかく言うものではないと思いますが、このふたりの結婚後の生活を聞いて幸せと感じる人はほとんどいないでしょう。この若い男性は、キリスト教を信仰し北海道に新天地を求めて山奥の開拓をおこないます。そして、荻野吟子は、患者さんに惜しまれながら東京の診療所を閉院して夫についていくのです。開拓が失敗に終わった後、北海道で診療所の開設を試みますがうまくいかなかったようです・・・。

『遠き落日』と『花埋み』。共に医師の生涯を綴ったこれらふたつの作品を、私は渡辺淳一氏の名作中の名作と考えています。愛や性をとことんまで追求した『失楽園』や『ひとひらの雪』なども歴史に残るすぐれた作品であることに同意しますが、ここに紹介したふたつの名作がそういった恋愛小説の影に隠れてしまっているならば、それはとてももったいないことだと思うのです。

 しかし、改めてこれらふたつの名作を通して二人の偉人を振り返ってみると、返すあてもないのに他人から借金を繰り返し買春に溺れ、その一方で梅毒の研究に寝食を惜しまなかった野口英世。一人目の夫が娼婦から感染した淋病をうつされ、その後数十年に渡りその淋病で苦しむことになり二人目の夫との結婚も幸せとは言いがたかった荻野吟子・・・。

 このように考えてみると、視点は異なるものの、私自身もマスコミの記者たちと同じように、渡辺淳一氏の愛や性の表現に惹かれているのかもしれません・・・。

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2014年5月9日 金曜日

2014年5月号 「真実の愛」が生まれるとき

 真実の愛、などというと、何を歯の浮いたことを・・・、と嫌われそうですが、医療の現場にいるとしばしば「これが真実の愛ではないのか・・・」と感じることがあります。愛には家族愛や隣人愛といったものもあるかと思いますが、ここで私が言っているのは「恋愛」です。

 なぜ医療の現場で「真実の愛」を知ることができるかというと、例えば、長年寄り添った高齢の夫婦のどちらかが死に近づいているときに見つめ合っている姿とか、若いカップルのどちらかが難病に罹患しパートナーが必死に支えている姿とか、パートナーがHIVに感染していたことが判った患者さんがこれまで以上の愛を実感している姿などを目にする機会があるからです。

 このような愛の姿をみて感銘を受けると、それを文章にして多くの人に知ってもらいたい、と思うこともありますが、すばらしさを伝えるにはある程度話が具体的になってしまうことになり、そうすると個人が特定されることになりかねませんから守秘義務の観点上文章にすることは困難です。

 それに、このような話はよほど上手に書かない限りは陳腐な三流ロマンス小説のようになってしまい、私の文章力ではすばらしさが伝わりませんから、書きたくても書けない、ということもあります。

 けれども「真実の愛」ほど素晴らしいものはなく、他のどんな欲求が満たされたとしても「真実の愛」にかなうものはない、というのが私の考えです。そして、その「真実の愛」を日頃から垣間見ることのできる医療者の多くは私と同じように(たぶん)感じていると思うのです。
 
 前置きが長くなりましたが、今回取り上げたいのは、何かと世間を騒がせることの多い作家、中村うさぎ氏についてです。

 中村うさぎ氏は、自らが買い物依存やホストクラブに浪費していたことをカムアウトし、美容整形を繰り返し豊胸手術もおこない、さらに風俗店での勤務をおこない、その逆に男性を買ったこともあり、そしてこれらを文章にしてきた人気作家です。こういったエピソードを聞かされると、個人的にはいくらかの嫌悪感を抱かずにはいられませんし、病院の悪口を書いた氏に反論する内容のコラム(注1)を私はこのサイトで書いたこともあります。しかし、それでも氏の文章力は見事であり、特に女性心理の真髄に迫るような描写が大変魅力的で、実はけっこう私は氏の著作を読んでいます。

 たしか1年くらい前だったと思いますが、「欲望」に関する大変鋭い指摘を『週間文春』の連載コラムでされていました。内容を抜粋すると次のようになります。(このコラムは単行本『死からの生還』で読むことができます)

人間が社会を形成したのも、資本主義を産み出したのも、この「何かが欠落している」という意識ゆえではないか。社会があるから欲望が生まれたのではない。欲望が先にあって、そこから社会という共同幻想が作られたのだ。(中略) まだまだ足りない、満たされない、この欠落感を埋める何かが欲しいと激しく渇望する、その意識こそが人間という生き物の本質なのではないか。人間とは、欲望のフリークスなのである。永遠に満たされぬ欠落感を抱えた主体なのである。(中略) 人間の本質は欲望そのものなのであり、この大いなる欠落感こそが「私」という主体なのである。

 完全に同意できるわけではありませんが、私はこの文章を読んで今後の中村うさぎ氏の発言に注目していました。ところが悲劇が起こりました。氏は突然原因不明の疾患(注2)に罹患し、心肺停止にまで至ったのです。

 その後、中村氏は回復しますが、退院後も車椅子の生活を余儀なくされステロイド内服を続けなければならない状態のようです。しかし夫の献身的な介護のおかげで”幸せ”であることを自覚していると言います。『週刊文春』のコラムも再開されましたが、氏は次のような発言をします。

それでもう充分。欲しいものなんか何もないよ。(中略) 幸せになった途端に、書くことがなくなってしまったからである。

 同誌の連載は2014年4月で終了したのですが、氏によるとこれは同誌をクビになったそうで、その原因がこの「書くことがなくなってしまった」という発言だったことを編集者から指摘されたそうです。これに対し、氏は猛然と抗議しており、その抗議文をコラムにも載せているのですが、私は連載終了にされたのは中村氏にも原因があると思っています。「書くことがなくなってしまった」というコメントは『週刊文春』の編集者を落胆させたわけですが、落胆したのは編集者だけでなく私のような氏のコラムを楽しみにしている読者も、です(注3)。
 
 「書くことがなくなった」と公言する作家のコラムなど読みたくありません。しかし、さすがは中村うさぎ氏、これまでとは一線を画した内容のコラムを執筆し、言葉が読者の胸をうちます。氏は、献身的な介護をおこなう夫との間に「絆」を自覚しそれを文章にしています。

 中村うさぎ氏の夫は芸能人や文化人ではないと思うのですが、氏のコラムにときおり登場しますからそれなりに有名なようです。氏の夫は香港出身のゲイです。ストレートの女性である中村うさぎ氏がゲイの男性と結婚したことで随分話題になったようです。「何のために結婚するのか」という疑問が世間から出るのも当然でしょう。氏の夫に対するコメントを『新潮45』(2014年5月号)より少し抜粋してみます。

うちの夫には私よりも深刻な持病がある。車椅子ではないが、私より先に死んでもおかしくない病気だし、私も夫も結婚した当初からそれを覚悟している。(中略) 病気のせいもあり薬の副作用もあって、彼が外に働きに出ることは不可能だと思われたからだ。今はいい薬も開発されて夫はその後十数年も生き延びて来れたけど、まだまだ予断を許さない状態だ。

 ゲイである中村うさぎ氏の夫もまた難治性の病を抱えているのです。その病は、病名は伏せられていますが、相当深刻な疾患のようです。いい薬が開発されたおかげで十数年生き延びられたけれども副作用にも苦しめられ今後の予断が許されない、そのような疾患なのです。

 そんな疾患を抱えながらも、中村うさぎ氏の夫は必死に氏を支えます。『新潮45』には具体的なエピソードも紹介されており、読んでいるうちに目頭が熱くなってくるほどです。

 氏は夫との「絆」について次のように記しています。

(前略) 私は夫との「絆」について堂々と書く。何を恥じる必要があろうか、私にとって夫がなくてはならない存在であることを。(中略) 私は自分が死んでしまう時に、ぜひとも彼に傍にいて欲しいと願っている。大阪の両親でもなく、医師や看護師たちでもなく、彼ひとりだけが私を見守って、手を握ってくれていれば、それでいい。(中略) 私は絶望などしないだろう。夫がいてくれれば。夫さえ傍にいてくれれば。彼は私の愚かしくも空疎な人生において獲得した最高の宝物だから。

「永遠に満たされぬ欠落感を抱えた主体」であったはずの中村うさぎ氏は今、「夫だけが私を見守って手を握ってくれていれば絶望などしない」と感じているのです。

「真実の愛」が生まれるとき・・・。自分自身が、あるいはパートナーが深刻な病を患ったときに真実が見えるようになり愛の尊さに気付く・・・。これは素晴らしいことでありますが、そのような病気に罹患しなくても、「最高の宝物」がすぐそばにいるのだけれど気付いていない、という人も少なくないのではないでしょうか・・・。

注1:中村うさぎ氏のコラムに反論した私のコラムは下記です。
メディカルエッセイ第102回(2011年7月)「招かれざる患者と共感できない医師」

注2:中村うさぎ氏が現在罹患されている疾患について詳しいことは分かりません。氏のコラムには、神経内科の主治医がいること、比較的多量のステロイドを毎日飲まなければならないこと、心肺停止が今後も起こりうること、などが述べられており、病名ははっきりとしていない、といった記載があります。ウィキペディアには「スティッフパーソン症候群と診断されている」と書かれていますが、私の知る限り中村氏が直接書いた文章にこの病名はありません。

注3:『週刊文春』の連載コラムは2014年4月で終了となりましたが、この続きのコラムはメルマガで読むことができます。興味のある方は中村うさぎ氏の公式ホームページを閲覧するか、「まぐまぐ」から検索してみてください。

参考:
『死からの生還』中村うさぎ 文藝春秋
『新潮45』2014年5月号新潮社「夫との絆 心肺停止になって考えたこと2/中村うさぎ」

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2014年4月11日 金曜日

2014年4月号 医療費を安くする方法~後編~

  前回は「初診」と「再診」の区別が大変複雑であり、医療機関によって解釈が変わる可能性があることを延べました。保険点数の改定で2014年4月から初診代が40円、再診代が10円値上がりしましたから(いずれも3割負担の場合)、診察代が「初診」になるか「再診」になるかは3月までよりも重要になったと言えるかもしれません。

 診察代が複雑なのは初診と再診の区別が複雑だから、だけではなく、他にもいくつか複雑なルールがあるということもあります。例を挙げて紹介したいと思います。

 Xクリニックに通院しているA氏とB氏。同じ会社に勤めていて同い年の45歳です。2人とも1年ほど前からXクリニックにいろんなことで通院しています。A氏には「高脂血症」、B氏には「高尿酸血症」がありますが、2人ともまだ薬をどうしても飲まなければならないレベルではなく、Xクリニックで生活指導を受けています。2人が勤める会社では毎年4月に健康診断があり、今日はその健診の結果を持って相談に行く日です。2人は仕事が終わってからXクリニックを受診しました。健診結果を医師に見せて日頃の生活について相談をしアドバイスをもらいました。2人とも診察時間はほぼ同じで、この日は検査も投薬もありませんでした。当然診察代は同じかと思われましたが、A氏は1,050円、B氏は380円で、その差が670円もあります。自分だけ料金が高かったA氏は納得がいきません。2週間前に、共に風邪の症状で受診したときには薬の内容も料金もまったく同じだったのです。

 診察代には、疾患の種類によっては「特定疾患療養管理料」というものが加算されます。これはいくつかの決められた疾患について食事(栄養)や運動などの生活指導に対して算定されるものです。そしてA氏の高脂血症はこの管理料の対象疾患に該当することが決められていて、B氏の高尿酸血症は該当しないのです。しかし実際には、高脂血症も高尿酸血症も生活習慣病の一種であり、医師や看護師による生活指導も似たようなものになります。

 算定される疾患とされない疾患がある以上はどうしても不平等感が出てきます。他に例を挙げれば、ウイルス性肝炎は状態が安定していたとしても算定される一方で、脂肪肝による肝機能障害は算定されません。実際の生活指導は脂肪肝の方が時間のかかることが多いのに、です。もうひとつ例を挙げると、胃炎の場合は算定されますが、逆流性食道炎の場合は算定されません。用いる薬は同じものである場合が多いですし、逆流性食道炎の方が生活指導に時間がかかることも多いのに、です。

 不平等感がぬぐえない例は他にもあります。「特定疾患治療研究事業対象疾患」(以下「難病」とします)に指定されている疾患が現在56あります(注1)。これら56の疾患に罹患していると認定されれば、特定の医療機関を受診した場合診察代がほとんどかかりません。3割の自己負担の分も公費で補われるからです。しかし実際には生活に支障がでるほどの”難病”なのだけれども56疾患に入れられていない疾患もいくつもあります。太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)の例でいえば、例えば「慢性疲労症候群」や「線維筋痛症」があります。膠原病では「全身性エリトマトーデス」や「強皮症」といったものは56疾患に含まれていますが、「シェーグレン症候群」や「強直性脊椎炎」、「関節リウマチ」などは除外されています(注2)。

 また、谷口医院でしばしば感じるのがHIVについてです。現在HIVは難病指定されていません。エイズを発症した後にHIV感染が発覚したような場合は、障がい者の1級に認定されることもありますが、症状がないけれども思い当たることがあり自らの意思で検査を受けて感染が発覚したようなときは障がい者認定を受けることができません。投薬が開始されるようになると、それなりに公的扶助が受けられるのですが、それでもすべての医療費が無料になるわけではありません。HIVに感染すると、エイズ関連疾患以外にも、例えば、風邪をひきやすくなったり、下痢が続いたり、湿疹に悩まされたり、ということがしばしばあります。また、職場ではたいていは感染の事実をカムアウトしておらずストレスにさらされていますから(職場で感染していることを伝えて結果的に退職においこまれたという例が谷口医院では多数あります)、不眠や抑うつ感といった精神症状がしばしば現れます。したがって医療機関を受診する機会が多く医療費がかさむのです。

 この疾患は管理料が算定され、こちらの疾患は(なぜか)されない、という例や、この疾患は難病指定されているけれども(同じような苦しみの伴う)別の疾患はされない、という例は他にもいくつもあります。つまり、診察料のアップにつながる管理料がかかってくる疾患で受診すればそうでない疾患で受診する人に比べて料金が高くなりますし、その逆に難病指定されている疾患でかかると公費が適用され安くなるというわけです。診察代にはこれら以外にも複雑な規定がいくつもあるのですが、これ以上の具体的な例を挙げることはやめにして、そろそろ「医療費を安くする方法」のまとめをおこないたいと思います。

 これまで述べてきたことを確認すると、検査や投薬は最小限にして、なおかつ安い検査・薬を選ぶ、ということが重要です。次に、診察代は可能なら「初診」ではなく「再診」にしてもらうという方法があるかもしれませんが、これは医療機関が決めるものなのでどうしようもありません。(しかし「再診」と思っていたのに「初診」とされた場合は納得いくまで説明を聞くべきです) また、管理料がかかるものとかからないものがあり、難病指定されるものとされないものがあることについてもどうしようもありません。(患者会をつくってロビイスト活動をおこなうという方法はあるかもしれませんが・・・)

 そこで提案としては、一番いいのは「何でも相談できるかかりつけ医をもつ」ということです。薬局なら、相談するだけなら無料ですが、医療機関の場合は診察代がその都度かかります。医療機関を変更すればそれだけで新たに「初診代」がかかります。ときどき、「今日は薬も検査もないからタダですよね」と言う患者さんがいますが、医療機関とはそういうところではありません。そもそも医療機関の使命というのは、いかに検査や薬を減らすか、ということでもあるのです。

 我々が最も「この患者さん、医療費がもったいないなぁ・・・」と感じるのが、ドクターショッピングをしている人たちです。つまり、受診した医療機関での診察に満足できずに次々と医療機関を替える人たちです。医療機関を何度も替えることほどムダな医療費の使い方もありません。たしかに、満足いく診察が受けられなかったので医療機関を替えたいということがあるのは分かります。しかし、ならば「ここで診てもらえないなら適切な医療機関を紹介してください」と言えばいいわけです。

 そんなことを言うと失礼じゃないの・・・。そのように感じる人もいるかもしれません。しかしそんなことはありません。我々医師は病気で苦しんでいる患者さんを放っておくことはできません。自分で診ることができないなら、その症状や疾患に適した医療機関を紹介するのは医師のミッションのひとつです。ですから、遠慮なく「では適切な医療機関を紹介してください」と言えばいいのです。

 ちなみに私が医学部の学生時代に(研究者でなく)医師になろうと考えたきっかけのひとつが、こういった患者さんの力になりたいと思ったということです。どこの医療機関を受診していいか分からず何軒も受診して(症状は取れないのに)診察カードばかりが増えました・・・。医学部の学生の頃にこのような訴えを何度か聞く機会があったのです。研修医を終えてから、私はタイのエイズ施設にボランティアに行きましたが、そのとき欧米から来ていた医師たちはエイズ専門医ではなくプライマリ・ケア医(総合診療医・家庭医)でした。彼(女)らは、患者さんのあらゆる症状を聞いて治療にあたっていたのです。プライマリ・ケアが重要であることを改めて実感した私は、帰国後母校の大阪市立大学医学部の総合診療科の門を叩き、本格的なプライマリ・ケアの修行にのぞむことになりました。

 話を戻しましょう。医療費を安くする最善の方法は、自分のかかりつけ医を持つことです。そして健康に関することならどんなことでも相談すればいいのです。より高度な医療が必要であれば、かかりつけ医は適切な医療機関に紹介状を書いてくれます。こんなこと相談していいのかな・・・、と感じる必要はありません。実際、谷口医院に長年通院している患者さんは実に何でも尋ねてきます。飼おうと思っているペットの相談、友達にすすめられたけど躊躇している健康食品について、筋トレやマラソン時の栄養補給について、といったこともよく質問されます。自分自身のことでなく家族やパートナー、知人のことでも相談を受けます。さすがに、最近飼い猫の元気がないんですが・・・、という相談には力になれませんが・・・。

 私からみれば、多くの人たちはかかりつけ医をもっと頼るべきだと思います。そうすれば、より早く病気が発見され早期治療ができますし、正しい予防の方法が学べます。また、高価なサプリメントや美容関連の出費で後悔することが防げるかもしれません。

 患者さんはかかりつけ医をもっと頼るべきと私は考えていますが、一方で、行政のかかりつけ医に対する期待は我々の想定以上のものです。厚労省保険局医療課長の宇都宮啓氏が、最近医療関連のウェブサイト「m3.com」のインタビューに答えています(注3)。宇都宮氏によれば、「患者さんに24時間対応する役割を果たすのが本来のかかりつけ医」だそうです。

 この言葉は行政の忠告として受け止めはしますが、現実的には24時間の対応は(私には)無理です。私は現在のクリニックを開業したとき最初の1年間はクリニックに寝泊まりしていたのですが、朝までぐっすり眠れることはほとんどありませんでした。ひっきりなしに患者さんから電話がかかってくるからです。それも直ちに医療を要するような例はほとんどなく「深夜の悩み相談室」になっていました。現在私が通常の診療以外にしていることはメールでの相談と午前7時から9時の電話応対です。これが現時点での限界であり、厚労省の役人が期待する「24時間対応」が理想であることは認めますが、実際にはできません。

 お役人からすると、こんな私は「かかりつけ医失格」となるのでしょうが、すべての人が24時間対応するかかりつけ医を持てるとは到底思えません。24時間対応のかかりつけ医を持っていない人は、とりあえず24時間”非対応”の(私のような)かかりつけ医を持つことから始めればどうでしょう。それが結局は医療費を最も安くする方法に他ならないのです。

注1:これら56の疾患については難病情報センターの下記のサイトを参照ください。
http://www.nanbyou.or.jp/entry/513

注2:強直性脊椎炎は国が指定する「特定疾患治療研究事業対象疾患」には含まれていませんが、東京都には助成制度があります。(しかし東京都だけです) 関節リウマチは「悪性関節リウマチ」であれば56疾患のひとつですが、動けないほどの重症であったとしても「悪性関節リウマチ」の条件を満たさなければ難病の認定はされません。

注3:このインタビューは「m3.com」のサイトで読めますが、会員登録が必要で、しかも会員には医師しかなれないかもしれません。一応URLを付記しておきます。
http://www.m3.com/iryoIshin/article/197571/?portalId=mailmag&mmp=RA140404&mc.l=37066120

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2014年3月10日 月曜日

2014年3月号 医療費を安くする方法~中編~

 医療費をできるだけ安くする方法として前回述べたのは、診察代は基本的に同じであるから、検査を必要最低限のもの減らして、薬を可能であれば後発品(ジェネリック薬品)にする、というものです。今回は診察代について掘り下げていきたいと思います。

 まず、前回私は「診察代は基本的に同じ」としましたが、正確に言うとその人の疾患によって異なってきます。前回は、紹介状なしで大きな病院に行くと、通常の初診代とは別に数千円から1万円くらいの別料金が徴収されることを述べました。

 大きな病院でない普通の診療所やクリニックであれば初診代は一定に決められており、3割負担で810円(平日の18時以降と土曜日の12時以降はプラス150円)です。これはどのような疾患で受診しようが、3分で診療が終わろうが30分以上かかろうが同じです。もっとも、初診で診察時間が3分などということはあり得ませんが。

 診察代が患者さんごとによって変わるのは「再診」のときです。まず「再診」の定義から考えていきましょう。例えば風邪で2013年3月に一度受診して1年後の2014年3月に再び受診したときには「再度診察を受けた」のは事実ですが「再診」とはみなされません。「再診」とは同じ疾患で継続して受診している場合を差します。

 では、数年前から年に1~2度じんましんが出るという人が、2013年3月にじんましんである医療機関を受診(初診)して1年後の2014年3月に再び受診したときはどうでしょう。この場合は同じ「じんましん」ですが、通常はこの場合も「初診」とみなされます。1年間は期間が長すぎるからです。つまりいったん治療を終了して1年後に改めて診察が始まったと考えられるというわけです。

 では、2013年3月にじんましんで受診して1ヶ月後の2013年4月に同じじんましんで受診したときはどうなるかというと、これは「再診」になると思われます。では、3ヶ月後ではどうか、6ヶ月後ではどうか・・・、という疑問が出てきます。これについては下記のような規定があります。(以下①②③などの番号はこのコラムを分かりやすくするために便宜上つけたものです)

①患者が任意に診療を中止し、1月以上経過した後、再び同一の保険医療機関において診療を受ける場合には、その診療が同一病名又は同一症状によるものであっても、その際の診療は、初診として取り扱う。(『保険診療の手引き』2012年4月版全国保険医団体連合会より)

 これをそのまま読めば、1ヶ月から1日でも過ぎれば新たに初診代がかかることになります。再診代は370円ですから(正確には狭い意味での再診代210円に「外来管理加算」と「明細書発行体制等加算」というのが加わり合計370円になります。平日18時以降と土曜日12時以降はプラス150円になります(注1))、初診代の半額以下になります。つまり「初診」と「再診」で440円もの差が生じるわけで、できることなら「再診」にしてもらいたいものです。

 ここで①の「患者が任意に診療を中止し」に注目してみましょう。「任意に診療を中止する」というのを素直に解釈すれば、「患者側の自己判断で治療を中止した」ということになります。しかし、先に例にあげたじんましんであれば、通常は「薬をしばらく飲んで症状が消失すれば再診されなくてかまいません。再発すれば受診してください」と言われることが多いわけです。例えば2ヶ月後に再発して受診したときに、これが「患者が任意に診療を中止した」とは言えないでしょう。私自身が患者ならそのように思います。

 もっと分かりやすい例を挙げましょう。高尿酸血症で尿酸値を下げる薬を飲んでいる患者さんがいたとしましょう。この患者さんは治療開始までは尿酸値が高値を示しており痛風発作を起こしたこともありましたが現在は安定しています。そこで2013年3月の受診時に2ヶ月分の薬が処方され次回は薬の切れる2ヶ月後に受診するように言われたとします。そして予定通り2ヶ月後に受診した場合「患者が任意に診療を中止した」わけでないのは自明です。
 
 実は①の規定には次のような続きがあります。

②(①にかかわらず)慢性疾患等明らかに同一の疾病または負傷であると推定される場合の診療は、初診として取り扱わない。(同書より)

 つまり、その病気が「慢性疾患」であれば期間があいても「再診」になるというわけです。では、この高尿酸血症の患者さんが薬を飲み忘れることが多く、2ヶ月分の薬を処方されたけれどなくなるまでに4ヶ月かかり4ヶ月後に再診されたとしましょう。この場合は「初診」「再診」のどちらでしょうか。

 規定には次のような補足があります。

③社会通念上治癒したと認められる状態(療養中止後自覚症状もなく相当期間継続して業務に服し日常生活に支障がない)の後に再発した場合は初診料は算定できる。(同書より)

 薬を飲み忘れて2ヶ月後の受診予定が4ヶ月後になったとき、規定の読み方によっては①の「患者が任意に診療を中止し」に該当すると解釈できなくはありません。また(元々高尿酸血症に自覚症状はありませんから)痛風発作などを起こしていなければ③の「日常生活に支障がない」に該当します。したがって、この場合は規則の解釈の仕方によっては「初診」とされるかもしれません。

 この解釈は医療機関によって変わってくる可能性があります。太融寺町谷口医院(以下、「谷口医院」)ではこのようなケースでは「再診」にしていますが「初診」とする医療機関もあるかもしれません。先にあげたじんましんのケースでも谷口医院では「再診」にしていますが「初診」としているところもあるかもしれません。

 では、例にあげたじんましんのケースでも高尿酸血症のケースでも、5ヶ月後、6ヶ月後ならどうでしょうか。このあたりの対応は医療機関により様々だと思われます。谷口医院では、だいたい6ヶ月を目処にしています。つまり慢性疾患であれば6ヶ月以内に受診されれば特別な理由がない限りは「再診」の扱いにしています。もっと長い場合もあります。例えば、膠原病で抗核抗体やいくつかの自己免疫系の抗体が陽性となっており定期的な経過観察は必要だけれども症状がないという場合、「症状がなければ1年後の採血で充分です」というようなときは1年後でも「再診」としています。

 今までみてきたのは「同じ疾患」の場合です。別の疾患で受診した場合はどうでしょうか。例えば2013年3月にインフルエンザで、2013年4月に水虫で受診した場合はどうなるでしょう。これには次の規定があります。

④第1病が治癒した後であれば第2病が短時日後の診療開始でも初診料は算定できる。(同書より)

 これを文字通りに解釈すれば、1ヶ月後でなくても、例えばインフルエンザで受診した2週間後に水虫で受診しても新たに「初診」とされてしまいます。しかし患者さんの心理として、わずか2週間後の受診で「初診」というのは納得しがたいのではないでしょうか。それに、通常は2回目の水虫の受診のときにも医師は「インフルエンザはその後どうでしたか」といった質問はするわけで、例えば患者さんが「熱は数日で下がりましたが咳はその後しばらく続いていました。今は元気です」と答えた場合、これはインフルエンザの再診に該当すると言えなくもありません。

 このあたりの解釈は医療機関によって異なると思います。谷口医院でもケースバイケースにしていますが、通常はまったく別の病気で受診されたとしても1ヶ月以内であれば「再診」としています。

 以上みてきたように「初診」「再診」というのは一見簡単そうで実は相当複雑です。「任意に診療を中止」「社会通念上」「相当期間」といった言葉は解釈に幅がありますし、①と②、あるいは②と③は互いに矛盾しているように見えなくもありません。これだけ複雑ですからまったく同じような状況であったとしても医療機関ごとに対応が異なるのはある程度はやむを得ないのです。

 そして、診察代には今回みてきた「初診」「再診」以外にも複雑なからくりがあります。次回はそれについて解説を加え、その上で診察代を安くする方法を検討していきたいと思います。

注1:外来管理加算は多くの場合で算定されますが、されない場合もあります。何らかの処置をおこなったときは算定されません。手術、熱傷や傷の処置、関節内穿刺、(イボなどに対する)液体窒素療法などが代表です。これらの場合、外来管理加算が算定されない代わりに処置料がかかります。家族の者が代理に受診した場合も外来管理加算は算定されません。原則として受診は本人がおこなわなければなりませんが、どうしても受診できない事情があり、様態が変わっておらず必要な薬が慢性疾患のものであれば、同居している家族が代わりに受診することができます。あとは、過去に「診察時間が概ね5分以下の場合は外来管理加算を算定しない」といったルールが決められたこともありましたが、現実的でないとの理由で現在は撤廃されています。

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2014年2月10日 月曜日

2014年2月号 医療費を安くする方法~前編~

  昨年(2013年)に太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)を受診された患者さんのなかで印象に残っているのは、やはり難治性の疾患の告知をしなければならなかったケースです。なかでもガンとHIVは、病名を告げたときに「まさか・・・」という顔をされる患者さんも少なくなく、病気を受け入れるのにそれなりの時間がかかります。

 こういった疾患の告知をした場面というのは私の心の中にも長く残ります。患者さんの言葉、例えば「数ヶ月前の健康診断では何も異常がないと言われていたのに、まさかガンだなんて・・・」とか、「思い当たることがないわけではないけれど、まさかあの程度のことでHIVに感染するなんて・・・」、といった言葉はふとしたときに私の頭をよぎります。

 昨年一年間に受診された患者さんのなかで、このような難治性の疾患を告知したわけではないのだけれど大変印象に残った患者さんが一人います。その患者さんは30代の女性で、自宅はそれほど近くないものの、何年も前から健康上のことで何かあったときに谷口医院に相談されているという人です。

 その患者さんはある慢性疾患を有しており、ときどき薬が必要になります。そのときは別のことで受診されていたのですが、その「ときどき必要になる薬」も処方してほしいと言われました。その薬は大変すぐれた薬なのですが、欠点は値段が高いことです。しかし、その薬の後発品(ジェネリック薬品)が近いうちに発売になる予定だったため、私は「次回からは安くなりそうですよ」と言いました。

 すると思いもよらぬ言葉が返ってきました。なんと、その患者さんは、「ならば今の症状は我慢してその後発品が発売になったときにまた受診します」と言ったのです。

 私はこの言葉に大変驚きました。後発品は先発品に比べて4割くらいは安くなりますが、改めて受診されるとなるとまた診察代も必要になります。それに、薬は1種類であろうが10種類であろうが、その都度「処方代」というものがかかりますから、複数の疾患や症状がある場合は、まとめて薬を処方する方が患者さんの負担は低くなるのです。

 私はそのことを伝えて、実際にいくら差が出るのか電子カルテを使ってその場で計算してみました。結果は550円の差でした。550円というのは昼食1回分以上に相当、と考えれば大きな金額かもしれませんが、その間にその症状が悪化するかもしれない、というリスクがあります。それにこの患者さんは自宅が谷口医院から近いわけではありません。谷口医院まで受診する時間と交通費を考えると、550円を節約する意義はほとんどないと私には思えました。

 しかしこの患者さんは私の説明にすぐには納得しません。しばらく考えた結果、「ではやっぱり今日処方してください」となり、この日はこれまで通り先発品を使うことになりました。

 この日の夜、診察が終わってからもう一度この患者さんのことを考え直してみました。この患者さんは数年前からときどき受診されています。最初の頃は、皮膚疾患を中心に、その後は風邪や禁煙治療、胃炎、膀胱炎、やけど痕の相談、などで度々受診されていました。いつも綺麗な格好でやって来られ、それほどお金に困っているようには見えませんでした。たしかに、保険証は国民健康保険ですから正社員ではないのでしょう。しかし、それにしても普通に日常生活を送っている30代の女性が550円を節約するために、症状を我慢して時間をかけて改めて受診することを検討する、というのは私には理解しづらいことでした。

 今、私はこう考えています。もちろん全員ではありませんが、医療費を数百円でも、いえ数十円でも節約したい、と考えている人はきっと大勢いるに違いない。新聞の報道では、景気が良くなり失業率も低下している、とされているが実態は必ずしもそうとは言えないのではないか。実際、谷口医院には依然として「仕事が見つからない」「お金がない」と言っている患者さんは少なくありません。

 それによく考えてみると、私自身も、貧困に悩んでいるわけではありませんが、例えば休日にスーパーに行くことがあれば、お総菜に「20円引き」のシールが貼られる夕方以降を狙って行きますし、本を読みたくなったときは、(最近私は読書をするときはできるだけiPADでkindleを利用しています)、無料の本を読むことが多いのは事実です。(話がそれますが、最近は著作権の切れた古い本がAmazon(kindle)で無料で読めます。私はこれはものすごく画期的なことだと思うのですが、なぜかマスコミなどではあまり取り上げられません。誰の利益にもならないからでしょうか・・・)

 話を戻しましょう。私がこの患者さんの考えていることが最初理解できなかったのは、今の症状を緩和するためにその薬は必要でありその薬の価値はその金額以上のものである、と無意識的に思い込んでいたからです。しかし、よく考えてみると、550円は550円であり、それがお総菜にあてられようが書籍代として消費されようが、薬代に費やされようが貨幣価値は同じです。

 私は勤務医の頃、薬の値段も検査の費用もほとんど知りませんでした。必要なものは必要でありお金の話をするのはおかしい、と思い込んでいたのです。そして今も多くの勤務医は以前の私と同じように費用のことをそれほど考えていないと思います。私は開業医となって初めて薬の料金がこれだけ違うことを知りました。例えば、勤務医の頃、同じように処方していた2種類の抗生物質が、一方は1錠10円、もう一方は1錠400円なんてこともあるのです。

 谷口医院を開業してからは医療にかかる費用についてかなり勉強したつもりでしたが、患者さんの本当の気持ちまでは理解できていなかったのではないかと、先に紹介した患者さんの言葉を聞いて思いました。

 ここからは医療費を安くする方法を提案していきたいと思います。

 まず押さえておきたい基本的なことは、診察代も薬代も検査代も、同じ内容であれば原則として日本全国どこの診療所・クリニックでも同じ、ということです。ときどきこの点を理解していなくて、「こちらのクリニックが安いって聞いたんですけど・・・」と言って受診される人がいますが、それは谷口医院が(おそらく)後発品中心の処方をしているからそのように思われただけであって、診察代を安くしているわけではありません。ただし(大きな)病院の場合は紹介状がなければ数千円から1万円程度の別料金が徴収されます。最初に受診するのは診療所・クリニックが適しているのはそういう理由もあります。

 診察代はどのような診察内容でも変わりませんから、節約を検討するなら薬代と検査代、ということになります。(手術については術式が同じで麻酔薬など手術時に使う薬が同じなら原則として同じ料金になります) 薬については「できるだけ安い薬にしてください」と診察室で医師に伝えればいいと思います。谷口医院にも「少々副作用の眠気が出てもいいから安い薬を処方してください」とか「きちんと薬を飲みますから1日1回型の高い薬よりも1日3回でも4回でもいいですから安い薬にしてください」とか話される患者さんがいます。ただし、症状や病気の種類によっては、高い薬しかない、もしくは安い薬だと治るのに時間がかかるかもしれない、といったことはありえます。そのあたりの説明は納得いくまで聞かれればいいと思います。

 検査については必要最低限のものに絞っていけばいいと思います。特にCTはお金がかかるだけでなく被爆の問題もあります。東日本大震災以降はこの点がクローズアップされているようで「レントゲンだけでなくCTを撮影してください」という患者さんが以前に比べると減っているような印象があります。

 医師の側からすると、「現段階ではこれ以上の検査は不要です」と言うと、「せっかく受診したんだから検査してください」と言われることがあり(私自身も数え切れないくらい言われています)、「お金を払うって言ってるでしょ!」と患者さんに怒られた経験もあるために(これも何度もあります)、「緊急性はありませんが検査しましょうか」と言うこともあります。(ただし、まったく不要と思われる検査はいくらお願いされてもできません) 医療費を節約したいと考えている場合は、医師から検査をすすめられたときに「どうしても今しなければならないですか」と尋ねてみるのがいいでしょう。

 次回に続きます・・・。

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2014年1月10日 金曜日

2014年1月号 沖縄で考えた「命」

 年末年始も病院に泊まり込んで患者さんのために尽力している医療者がたくさんいることは重々承知しているのですが、私自身は休暇をとって旅行に出かけました。

 今回の年末年始は諸事情からひとり旅に出ることとなり、行き先は沖縄の糸満を選びました。私はこれまでに沖縄に滞在した日はおそらく200日近くになると思うのですが、実は南部地方には一度も行ったことがありません。この理由は、南部地方をあえて避けていたというか、訪れるのに躊躇していたのです。

 なぜ私が沖縄南部を避けていたかというと、南部に行けばどうしても戦争のことを考えさせられるからです。元々私がなぜ沖縄が好きかというと、まずあの乾いた心地よい空気と青い海があるからです。そして沖縄に着いたとたんに、何とも言えない開放的な躍動感に包まれます。つまり私にとっての沖縄とは「楽園」そのものであり、南部に行って戦争の跡をみてしまうと、楽園という幻想が覚めてしまいそうな気がするのです。

 1987年から1991年の大学4年間(関西学院大学)の間、アルバイトやバカンスで毎年数週間から長い年は2ヶ月間程度沖縄(離島を含む)に滞在していました。当時の思い出は(思い出は美化されることを差し引いても)本当に楽しいことばかりで、私にとっての「酒とバラの日々」といった感じです。けれども、当時も現地の人とお酒を飲みながら話をしたときなどに、ふと戦争のことが話題になることがあり、そんなとき私はそれ以上のことを考えないようにしていました。

 今も私にとって沖縄が”楽園”であることには変わりなく、疲れたときなどにはふと思い出し行ってみたくなります。いつか沖縄に住もう、とまで考えてかなり具体的に計画したこともあります。私は4年間働いていた会社を退職し医学部を受験するにあたり、最終的には大阪市立大学を第一希望としましたが、当初は琉球大学を考えていました。また、当時の私は医学というよりも生命科学そのものの勉強がしたかったために、最初は理学部生物学科も視野に入れていました。そのため、医学部に入学してから再会した知人には「お前は琉球大学理学部に行ったっていう噂を聞いたんだけど……」と言われたこともあります。

 さて、およそ四半世紀前から気にはなっていたけれど訪れたことのなかった沖縄県南部の糸満市に行くことを決めた私は、どうせ行くならなつかしのフェリーに乗ろうと考え、12月28日の夕方、東京の有明埠頭で「飛龍21」に乗船しました。(フェリーに乗るために大阪から東京まで移動したのです……) 

 私の今回の沖縄渡航の目的は主に3つありました。1つめは、先に述べた沖縄南部をきちんと見ること、2つめは疲れをとり充分な時間をとって自分自身のミッション・ステイトメントを見直すこと、そして3つめは(これは些細でつまらないことですが)昔よく通っていた那覇にあるなつかしの2つの大衆ステーキハウスに行くこと、です。

 私が関西学院大学の学生だった頃は、沖縄といえばフェリーで行くのが当たり前でしたが(ただし私と同年代でもお金のある人は当時から飛行機が常識だったそうです)、さすがにフェリーの2等席はちょっと抵抗があります。(当時の)フェリーに馴染みのない人のために説明しておくと、(当時の)2等席とは30畳くらいの薄いじゅうたんが敷かれた広いスペースに20人くらいが雑魚寝するような席(正確には「席」などありません)です。20代ならまだしもさすがに45歳の今となってはちょっとしんどいので(別に気取っているわけではないのですが)個室をとることにしました。

 しかし、予約する時に初めて分かったのですが、今のフェリーにはもはや「ざこねじゅうたん部屋」などなく、すべて個室となっていました。私が予約したのは、ベッドのみならず部屋の中にトイレまでついている豪華なものでしたが、この部屋がなんと2等というではないですか。同じ2等でも時代が流れると随分と変わるものです。

 沖縄の安謝港(那覇新港)に着いたのは3日目(12月30日)の夜9時頃です。いきなり南部に移動するのではなくこの日は港の近くのホテルに一泊しました。一人旅のいいところは時間をすべて自分の自由に使えることです。先述したように、私にはおよそ四半世紀ぶりに行ってみたい大衆ステーキハウスが二つありました。この日の夜と翌日の昼前にそのふたつのステーキハウスでなつかしのCランチ(当時350円)を食べたかったのです(注1)。その後、南部の糸満市に移動しました。

 2014年1月1日、この日私は丸一日かけて自転車で糸満市を廻ることにしました。行ってみたいところはいくつかあったのですが、どうしても外せない場所として、沖縄戦の終盤、逃げ惑う人達が息を潜めて避難していた防空壕をまず考えました。このような壕のいくつかは今も見学できます。いくつかの壕では、無惨にも米兵によって手榴弾が投げ込まれ何人もの民間人や学生(一部はひめゆりと呼ばれていた若い女子学生です)が命を落としたそうです。

 また、当時は米兵から身を隠すために、なんと県庁や病院も壕の中につくられていたそうです。ある壕では説明が書かれたプレートに「病院」と書かれており、そこで当時は手術がおこなわれていたそうです。ここでいう手術とは負傷兵の傷の手当てや、不能となった手足の切断などでしょう。本土から応援に来た看護師や沖縄の若い女学生(ひめゆり)たちが負傷兵の看護・介護にあたっていたのです。

 次にどうしても行きたいと考えたのは、喜屋武岬という南部の絶壁です。ここは追ってくる米兵からもはや逃れられなくなり、かといって捕虜になるくらいなら……と考えた人達が次々と飛び降りて自決を図った崖です。一説には100人以上が飛び降りたと言われており、サイパンのバンザイクリフの沖縄版とも言えるところです。

 もうひとつ、どうしても外せないのが「ひめゆりの塔」です。ひめゆりの塔の資料館は想像していたよりも大きくてきれいで展示物が多く大変充実したものでした。ひめゆりと呼ばれていた当時の女子生徒の方々を最近になってインタビューしているビデオが放映されていて、私はいつのまにかこのビデオに夢中になり気がつけば1時間以上見続けていました(注2)。

 ビデオの中の証言は、想像を絶する世界というか、目の前でさっきまで元気だった同級生が砲弾にあたり即死した、とか、目の前の海には無数の死体が浮いていた、とか(これを証言された方は戦後何年も海に行けなかったそうです)、喉が渇きやっとのことで見つけた水たまりに這いつくばって水をすすると尿や死体から出てくる液体が混ざった異臭がした、とか(それでも飲むしかなかったそうです)、そのような話が続きました。

 私が25年前から漠然と抱いていた感覚は間違ってなかったのです。暖かい空気と青い海を求め、あわゆくばロマンスが生まれることも期待して夏のビーチに出かけていた若い頃の自分が恥ずかしくなりました。戦争は二度と起こしてはいけない、などというと陳腐に聞こえますし、当時は沖縄戦を避けられなかったやむを得ない理由が我が国にあったのかもしれません(ただし、沖縄戦は米軍の本土上陸を遅らせるための「捨て戦」であったのではないかという疑念を私個人としては持っていますが)。

 ひめゆりの塔の資料館でみた説明によると、壕の中では、負傷兵の傷に次から次に発生してくるウジ虫に悩まされ、負傷兵の糞尿と化膿した傷の悪臭、さらに嘔吐物などで、耐えられないような環境だったそうです。そんななかで彼女たちは遠くまで水を汲みにいき、米兵に見つからないように重いかめを運び、ご飯をつくり負傷兵に食べさせていたのです。そして負傷兵のみならず、同級生の多くも、米兵の攻撃により、あるいは自決により命を絶っていったのです。

 当時ひめゆり部隊だったというある女性がインタビューでこのようなことを話していました。仲の良かった同級生たちは何人も命を落として私は生き残った。だから私は今ある命を大切にしなければならないんだと……。

 医師として、というよりは一人の人間として「命」の大切さを考えることができた。私の2014年はそんな体験から始まりました。

注1:この2つのステーキ屋とは「88(ハチハチ)」と「ジャッキー」で、私が食べたかったのはステーキではなく25年前によく食べていたCランチです。Cランチは350円でトンカツなどのフライとハンバーグ(だったと思います)、ライス、サラダ、スープがついていて味も悪くなくお金のない学生にとってはありがたいものでした。なぜ今頃になってこのCランチが食べたくなったかというと、このサイトのメディカルエッセイ第126回(2013年7月)「我々はベジタリアンの道を進むべきか」で、このCランチについて取り上げ、なんだかバカみたいな話ですが、Cランチについて書いているうちに再び食べたくなってしまったのです。

さて、実際に行ってみると、「88」の方は私の記憶違いなのか、Cランチは存在せずに、Bランチがありました。しかも値段が750円と高すぎて結局注文しませんでした。翌日に行った「ジャッキー」にはCランチがありました! 値段は500円でした。当時から150円値上がりしていましたが25年で150円ですから許容範囲内でしょう。注文してみると、ボリュームのあるトンカツとハンバーグ、これにライス、サラダ、とっても美味しいスープがついていますからかなり得した気分になりました。

これら2つのステーキハウスを見つけた瞬間は「なつかしい!」と叫びたくなりました。しかし中に入ってみると、両店とも、こんなに狭かったかな…、という感じで、客層は家族連れが多く、私の記憶とは随分異なっていました。私の記憶にある25年前の様子は、店内はもっと広く(実際の3倍くらいのイメージをしていました)、ジュークボックスから大音量の音楽が流れていて、客の半分は外国人(米兵)だったのです。客層は年月を経て次第に米兵から日本の家族連れに変わってきたのかもしれませんが、店の広さは明らかに私の間違いです。私の記憶もいい加減なものです。

注2:このビデオではありませんが、「ひめゆり」という約30分のアニメをYouTubeで見ることができます。私はこれをひめゆりの塔の資料館で観ましたが、大変よくできていると思います。興味のある方は是非ご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=eW9Ro2G_kUc

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2013年12月10日 火曜日

2013年12月号 分子生物学の魅力

 前回・前々回のコラムでは、理系に興味がないのであれば理系の大学に進学すべきではない、ということを私の実体験に基づいてお話しました。私の場合、遅ればせながら理系の学問の魅力に気付き、あらためて受験勉強を開始することになったわけですが、この決意はそれほど単純だったわけではありません。

 もともと私は社会学をもっと本格的に学びたいと考え、仕事の合間を見つけて社会学関連の書籍を積極的に読んでいました。ただ、「社会学」というのは、どこからどこまでが社会学、というのが他の社会科学系の学問に比べると非常に曖昧で、そこが社会学の魅力でもあるわけですが、私が興味を持って読んでいた本も他人からみれば何の整合性もなく気の向くままに乱読していたと思われることだと思います。

 例えば、ピーター・ドラッカーのようなマーケティングや経営論、レヴィストロースのような人類学、ドゥルーズ/ガタリやフーコーのような哲学、などは比較的時間をとって読んでいましたし、学問とは呼べないような経済の入門書や文学などの読みやすいものも読んでいました。

 哲学もしくは哲学的な書物を読めば、心理学や精神分析学について知りたくなりますし、文化人類学を学べば遺伝学に自然に興味が出てきます。私の興味の対象が精神医学、脳生理学、遺伝学などに広がったのは、今から考えるとあながち偶然とは言えず必然であったのかもしれません。

 さらに、この頃の私は英語ができなければ仕事がまったく進まないというような部署(海外事業部)に配属されたため、(英語がまるでできなかった私は最初はこの人事を恨みましたが)そのおかげで英語への抵抗が小さくなり、教科書や論文は英語で読むようになっていきました。おそらく私の人生で最も知識が吸収できたのはこの頃、つまり大学を卒業して社会人になったばかりの20代前半の頃です。

 リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』は、おそらく今も読まれている歴史的な名著だと思いますが、私がこの本を手にしたのは1993年頃だったと思います。今思えば、この本を読み出したあたりから、私が手にする本は理系のものに大きく傾いていったような気がします。基礎的な生命科学系の書物を次々と読んでいき、ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックの二重らせん構造の発見というものを知ったときには、生命とはなんて神秘的なものなのだろう・・・、と感じました。

 私が関西学院大学時代に学問に興味をもつきっかけとなった「集団力学」という学問は、人が集団をつくる理由や集団としてとる行動などについて学びます。その後私の興味はリーダーシップにうつり、さらに人間の行動、感情、思考などについて知りたい、という欲求が強くなっていきました。そして、これらの分析には社会学的なアプローチが最適であると当初は考えていました。
 
 しかし、人間の遺伝情報はDNAと呼ばれるたった4つの塩基でできたものであることを知り、しかもそれらは視覚的にも大変魅力的(というより私にとっては”魅惑的”)な二重らせん構造をしているというではないですか。

 私は人間の行動、感情、思考といったものが、従来の社会学ではなく、生命科学の領域の学問で解明できるのではないか、とりわけ分子生物学の発展によって一見不可解な人間の行動や感情まで説明できる日が来るのではないか、とまで考えるようになりました。例えば、人はなぜ悲しくなるのか、幸せというものの正体は何なのか、人はなぜ感動するのか、音楽を聴いて気持ちよくなるのはなぜなのか、人にとって恋愛とは何なのか、人はなぜ自殺をするのか、・・・、こういった問題のすべてがいずれ明らかになるのではないか、とまで思えたのです。

 私の理系に対する興味は加速度的に増えていきました。当時発売されていた文化系出身の者でも読めそうな生命科学に関する本は手当たり次第に読んでいきました。講談社のブルーバックスなどは20冊以上読んだような記憶があります。

 そのようななつかしい書籍の中から、最近私は1冊の本を再び手に取りました。ノーベル賞受賞の利根川進氏と立花隆氏の共著『精神と物質』です。私がこの本を初めて読んだのは、ちょうど医学部受験を決意して間もない頃、おそらく1994年だったと思います。この本は、これから医学部を受験しようと考えている者にとっては最適というか、生物学の教科書としても使えるといっても過言ではないような良書で、私のために出版してくれたのではないか、と感じたほどです。

 最近になり、なぜこの本がもう一度読みたくなったかというと、前回・前々回と以前の自分を振り返ったコラムを書いてなつかしくなった、ということもありますが、一番の理由は日経新聞のコラム『私の履歴書』の2013年11月が利根川進氏だったからです(注1)。

 このサイトで過去に述べたことがありますが、私は『私の履歴書』の大ファンで、途中新聞代が捻出できず何度か中断したことはありますが、20年以上ずっと継続して読んでいます。(私はこのサイトで日経新聞の悪口を何度か書いた記憶がありますし、これからも書くことがあると思いますが、日経新聞には『私の履歴書』以外にも私の好きな連載がたくさんあり、特集記事なども楽しみにしています。もしも関係者の方がこのサイトを目にする機会があったとしてもどうか私への配信を止めないでください・・・)

 2013年11月1日から30日までの30日間、毎日利根川進氏の連載を読むのが楽しみでした。利根川氏はもちろん科学者として偉大な方ですが、ひとりの人間として大変魅力的な方です。卒論を書かずに卒業されたエピソードは興味深いですし、自分の決めた研究に一心不乱に取り組まれる様子は感動的ですし、才能豊かなお子さんが夭折されたときの話には胸をうたれます。

 私が利根川進氏の名前を初めて聞いたのは氏がノーベル賞を受賞された1987年です。このとき私は関西学院大学の理学部に在籍していました。受賞が決まって1週間くらいの間は、教壇に立つほとんどすべての先生が利根川氏の話をされていたように記憶しています。

 ところが私の方は、利根川進という日本人の学者がノーベル賞を受賞した、という以上のことがさっぱり分かりませんでした。つまり「抗体の多様性」などと言われても当時の私にはほとんど意味不明で、その前提となる「免疫グロブリン」という言葉も、わかるようなわからないような・・・で、私には利根川進氏の偉大な功績がまったくといっていいほど理解できなかったのです。その後、理学部のテストで、サービス問題として「利根川進氏の功績について述べなさい」という問題が出たのですが、私には1行も書けませんでした。

 その後私が利根川進という名前を見かけたのはおよそ7年後、大型書店の一角でした。それが前述した立花隆氏との共著『精神と物質』だったのです。
 
 このコラムで利根川氏が解明された抗体の多様性について解説するようなことはしませんが、ある程度の生物学の基本的な知識をまず身につけて少しずつ理解するようにつとめれば、おそらくほとんどの人が、いかにこの研究が偉大であるか、そして分子生物学とはこれほどまで魅力的なものなのか、ということに気付かれると思います。

 私が医学部受験を決意するにいたったのは、いくつもの素晴らしい書籍に出会ったからなのですが、この『精神と物質』は間違いなくそのひとつに入ります。医学部受験に関心のある人のみならず、生命科学に興味のあるすべての人に推薦したい良書です。

 前回のコラムで述べたように、結局私は医学部在籍中に研究者への道を断念しますが、分子生物学という学問が私にとって色あせたわけでは決してありません。私自身が新しい発見をすることはあり得ませんが、世界中の偉大な学者たちが発表する新たな知見を読むことは私にとっての喜びです。私が大阪市立大学医学部在籍時代に直接講義をしてもらった山中先生は、iPS細胞の発見により利根川進氏の受賞の25年後にノーベル賞を受賞されました。

 分子生物学、そして生命科学の魅力を改めて考えてみると、これから理系の学問を本格的に学び始める若い人たちがうらやましくなってきます・・・。

注1 『私の履歴書』に利根川進氏が1ヶ月分にわたり書かれたものが日経ストアで購入できます。興味のある方は是非購入して読んでみてください。

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2013年11月11日 月曜日

2013年11月号 安易に理系を選択することなかれ(後編)

 もう無理! こんなはずじゃなかった・・・

 そう叫びたくなったのは、憧れて合格できた関西学院大学に入学してまだ2ヶ月ほどしかたっていない頃でした。五月病という言葉がありますが、私の苦痛は少なくとも典型的な五月病ではありません。通常、五月病とは本人のやる気はあるのだけれど環境に上手く馴染めないことを言いますが、私の場合はこの逆で、そもそもやる気がないわけですから手の施しようがありません。

 私が関西学院大学理学部の受験勉強をおこなったのはわずか2ヶ月間ですが、その間は一切の雑念を追い出したといっても過言ではないと思います。赤本9年分を丸暗記し、使用しているすべての参考書に大学のパンフレットから切り取った関西学院大学のキャンパスの写真を貼り付けて、スランプに陥りそうになるとそれらの写真を眺めるようにしていました。今思えばちょっと気持ち悪い・・・、というか、まるでアイドル歌手のおっかけをしている男の子のようです。しかしこの方法は今も非常に有効な受験対策であると私は思っています。行きたい大学が見つかれば、何度も訪問しとことん惚れ込むことが合格につながる、というのが私の持論です。

 さて、その憧れの関西学院大学に合格できたところまではよかったのですが、あまりにも過酷な実験、レポート、テストなどに嫌気が差し、ついに「これ以上続けられない」、という限界点に達しました。

  そうなると、その後に考えなければならないことは今後の身の振り方ですが、これには困りました。「派遣」や「非正規」などという言葉はもちろん、「フリーター」という概念すらなかった時代です。もしも大学をやめるとなると正社員として雇ってもらえるところを探すしかありません。(大学生でもないのにアルバイトのみをおこなっている若者は当時では珍しかったのです。フリーターという言葉が誕生するまでは「ぷーたろう」などと呼ばれ後ろめたい存在でした)

 理学部に在籍しているとアルバイトの時間もありませんから、生活は惨憺たるものでした。食べるものがなく、近くのパン屋でパンの耳が大量につめられた袋を50円で買ってマヨネーズをつけて食べたり、スーパーで賞味期限切れの菓子パンを半額で買ったり(現在このようなことをすれば問題だと思いますが当時は普通でした)、朝にチキンラーメンを3分の1くらいお湯をかけずにそのまま食べて、残りを夕食時にお湯をかけて、パンの耳と一緒に食べたり・・、といった感じです。

 もしも今大学を退学して就職したら、あの実験やテストから解放されるだけでなく給料がもらえる・・・、そう考えると大学にいる意味がまったくわからなくなり、退学することをいよいよ本気で考え出しました。両親に黙って退学というわけにはいかないでしょうから、それを報告するために帰省しました。しかし(今思えば当たり前ですが)結果は大反対。私は勝手に退学して、親には事後報告しておこうと考えだしました。

 そんななか、悲惨な結果となった前期試験を終え夏休みに入って間もない頃だったと思います。関西学院大学のある先輩との雑談のなかから興味深い話を聞くことになり、結果としてこの先輩の言葉が私の人生を大きく変えることになります。

 旅行会社のアルバイト先で知り合ったその先輩は社会学部の3回生で、学部が違うとはいえ同じ大学ということで何かと気にかけてもらっていました。ある日のこと、学部の話になりその先輩は私にこう言いました。「おまえの行ってる理学部には力学というのがあるやろうけど、実は社会学部にもあるんや。それは<集団力学>と言って、人をどうまとめて動かしていくかを学ぶ学問なんや」

 この先輩のこの言葉がなければ私の人生はまったく違ったものになっていたでしょう。当時の私は、大学の勉強だけでなく、私生活でも人生の壁のようなものにぶちあたっていました。時間がないながらも、土日や夏休みを利用していくつかのアルバイトを始めたのですが、何をやっても私はほとんど仕事ができず、他のスタッフに迷惑をかけっぱなしだったのです。当時の私は、対人関係やコミュニケーションに苦手意識を持っていたわけではないのですが、例えばお客さんからクレームがきたりすると何もできず足手まといになるだけなのです。しかし、そんなときにも状況を的確に掌握し、適切な判断で対処できる人もいます。そしてこのような能力は学歴にまったく関係がないのです。

 当時の私にはこのことが衝撃的でした。高校時代から口では「教科書に書いてあることなんか何の役にも立たないんだ」とえらそうに言っていたのですが、どこかで「勉強ができれば社会で成功できる」と思っていたのでしょう。偏差値でいえば、関西学院大学理学部といえば関西ではトップクラスです。実際、どこのアルバイトに行っても学歴で言えば私が最も高学歴なのです。しかし、その私が仕事はできずまるで役に立たないわけです。そして聞いたこともないような無名大学の学生がバリバリと仕事をこなし、ときには怒り心頭のお客さんを上手にもてなし、逆に感謝の言葉をもらうことすらあるのです。

 大学では意味のないことをやらされている・・・、未熟な私はすぐにでも教科書を放り出して社会に出て学ばなくてはならないことがたくさんある・・・、そのようなことを毎日考えていた中で、社会学部の先輩から集団力学の話を聞いたのです。私は大学を退学する前に、この<集団力学>そして<社会学>というものを調べてみることにしました。

 ここからの経緯は省略しますが、紆余曲折を経た後、私は関西学院大学の3回生になるときに理学部から社会学部に編入しました。社会学部の学生になってからも決して真面目な学生ではなく、アルバイトやイベントなどで他人と交流することが重要な社会勉強と考えていた私は講義への出席率も高くありませんでしたが、それでも次第に本を読む機会が増えていき、卒論は教授の指導を受けながら楽しく進めることができました。卒論のタイトルは『職場におけるリーダーシップ』、大学で学んだことだけでなく、様々な書籍から得たことやアルバイトなどの社会経験も踏まえて書き上げた私の大学生活の集大成です。

 その後私は大阪のある商社に就職しましたが、仕事に不満があったわけではないものの、社会学をもっと本格的に勉強したくなり関西学院大学社会学部の大学院進学を考え出しました。会社勤めをしながら、月に一度程度は学びたい教授の研究室を訪れるようになり、テキストや論文を紹介してもらっていました。そのうちに、興味の対象は集団力学やリーダーシップから<人間そのもの>にうつっていきました。人間の行動、思考、感情などを科学的に分析することに興味が沸き、いつしか興味の対象は、脳生理学、精神分析学、分子生物学、動物行動学、免疫学などにうつっていきます。そして最終的に医学部受験を決意するに至ったのです。

 医学部の授業でもいろんな科目で実験があります。生化学や薬学の実験のときには、私が関西学院大学理学部で”やらされていた”のと同じような実験もありました。およそ10年ぶりにフェノールの臭いが鼻腔を刺激したとき、あの”悪夢”が一瞬私の脳によみがえりました。しかしこのときの私は19歳の私とは違います。何よりも勉強が、それも理系の勉強が好きになっていたからです。

 生化学の第1回目の実験で試験管を使ったとき、後でこれを洗わなければならないんだろう、あのときのように水滴がつかなくなるまで(前回のコラム参照)・・・、と思ったのですが、プラスティック製のその試験管はなんと使い捨て、冷たい水に耐えながら洗わなくてもよかったのです。(なんて太っ腹な大阪市立大学、大阪市民の税金でこんなにラクをさせてもらえるなんて・・、と思ったのですが、もしかするとこれは時代の流れで今は関西学院大学でも使い捨てになっているのかもしれません)

 実験には抵抗がなくなり楽しく取り組めるようになったのですが、その後再び紆余曲折を経て結局私は研究者の道を断念しました。この理由は大きく2つあり、1つは自分にはその能力もセンスもないことを認識したということ、そしてもうひとつは、私のクセというか、私は物事を幅広い観点から眺めるのが好きということに気づいた、つまり分子レベルのミクロの世界の研究よりも人間全体を多角的な観点からみるのが好きということに気づいた、ということです。(これについては機会があれば詳しく述べたいと思います)

 もう一度人生をやり直せて高校時代まで戻れるとしたら、私は理系の学部には進学しません。興味のないことが続けられるはずがないからです。そして、今回の人生のように理系の領域に興味が出てくればそのときに真剣に勉強するかどうかを検討することになるでしょう。

 現在進路に悩んでいる若い人や、社会人で医学部を含む理系の大学(再)受験を考えている人は、今一度本当にそれがやりたいことなのかどうかを自分自身に問い直してほしいのです。私の場合は、偶然にも同じ大学の社会学部の先輩との良き出会いがあったこと、なんとか社会学部の編入学試験に合格できたこと(試験申込時には「理学部から社会学部への編入学は前例がないから無理だろう」と言われていたのです)、という幸運が重なったことで救われましたが、これらの幸運がなければ、大学を退学しまったく別の人生をたどっていたのです。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

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