マンスリーレポート

2025年1月2日 木曜日

2025年1月 私自身も「同じ穴のムジナ」なのかもしれない

 すでにこのサイトでも何度か述べたように、私は自分の「ミッション・ステイトメント」を持っています。「持っている」というとなにやら厳かなもの、あるいは宗教的なニュアンスが出てきますが、単に「つくっています」と表現するよりは「持っています」の方が適しているように思えます。なぜなら、ミッション・ステイトメントは単なる作文でありながら、自分自身の根幹になるもの、あるいは自分にとっての「掟」にもなるからです。国でいえば「憲法」に相当するといえるかもしれません。

 2025年1月1日、私は28回目となる「ミッション・ステイトメントの見直し」をおこないました。1997年に初めてミッション・ステイトメントを作成し、以降毎年1月1日に時間をみつけ、日ごろは考えないような深いところにまで”降りていき”内省します。このときには、普段は考えたくないようなこと、あえて日ごろは目を伏せているようなことまで掘り下げます。だから、この見直し作業は毎度毎度けっこうな”痛み”を伴うのです。なぜって、日ごろは意識しない自分の深部に直面せねばならないからです。

 2020年1月に始まったコロナ騒動はいまや完全に終息し、過去5年間で医療界は大きく様変わりしました。今回のミッション・ステイトメント見直し作業では医療の流れについて考えてみました。もちろん私が思いを馳せるのは、大手メディアが取り上げるような先進医療のこととか保険証がマイナンバーカードに替わるとか、あるいは医師不足や偏在のことではありません。

 私が5年間のコロナ騒動で最も気になる医療界の変化は「多くの医師がかつての医師ではなくなった」です。これは否定的な意味です。もちろん、私の医師へのイメージも、一般の人と同じで主観的な思い込み、あるいは単なる幻想です。ただ、一般の人とまったく同じかというと、私自身が当時者である分、しかも医学部入学から数えれば四半世紀以上もこの世界に身を置いている分だけはその思い込みは客観性を帯びていると思うのです。

 そんな私からみて「医師はかつての医師ではなくなった」とはどういうことかというと、「利他的で勤勉で献身的で思いやりのある人物」が、まるでその逆のキャラクターに、つまり「利己的で学びもせず自分優先で優しくない人物」に様変わりしたように映るのです。もちろん、過去の医師たちは聖人君子のような人たちばかりだったなどとは考えていませんでしたし、このサイトにも非難されるべき医師を取り上げたことがあります。

 しかし、全体を俯瞰して言えば、医師は高い人格を持ち合わせていると思っていたのです。例えば、2014年には「医師に人格者が多い理由」を書いて、医師がいかに利他的で高い人格を有しているかについて述べました。2017年のコラム「医師に尋ねるべき5つの質問」では、患者から訴えられている見ず知らずの医師をかばい「医師は金のために働いているわけではない」と力説しました。

 それが、5年近く続いたコロナ騒動で、私が抱いていた幻想はまるで指の間を流れ落ちていく細やかな砂粒のように消えていったのです。武漢から帰国した日本人や「ダイヤモンド・プリンセス」の乗客乗員へのケアをおこなった医療者に対して差別をする勤務医が現れ、発熱で苦しんでいるかかりつけ患者の診察をえげつないほど拒否したくせに発熱患者を診れば補助金が出るとなると一気に患者を取り合う開業医があふれ、「時給18万円」(日給ではない!)のワクチンバイトに群がるフリーター医師が激増しました。

 他にも、「直美(ちょくび)」と呼ばれるわずか2年間の研修しか受けていないのに年収3千万円を求めて美容クリニックに群がる若い医者、臨床経験がほとんどないのに「困ったときにはいつでも駆け付けます!」などと患者にやさしい”フリ”をして夜勤を増やして金を稼ぐ若い訪問診療医などが大量に”生産”されました。2024年後半には「直美」がちょっとした流行語になった一方で「経験の浅い訪問診療医」はまだあまり目立っていませんが、ベテランの往診医や看護師からの情報によると、まあひどいものです。とにかく経験がないものだから基本的な知識や技術が欠落しているわけです。現場の看護師の指示がなければなんにもできない医師も少なくないとか。だけど若い彼(女)らは愛想だけはいいようです。コミュニケーション能力があって見た目が悪くなければ訪問診療医なんて、そして「直美」も誰でもできるとする意見も聞きます。

 さて、ここで私自身の内面の話をしましょう。1月1日、このようにコロナ騒動期間の医師の凋落ぶりを考えていると、「では、そんなに偉そうなことを考えているお前自身はどうなんだ」という声が聞こえてきました。「そんな上から目線で同業者を批判する資格がお前にはあるのか」と問うてくるのです。

 そこで改めて考えてみました。医師になる前からの自分の人生を振り返り、なぜその道に進んだのかを思い直してみたのです。まず確認できたのが「私は常に金儲けとは反対の方向に進んでいる」です。

 私が最初に就職活動をやったのはバブルがギリギリ続いていた1990年代前半、世間は超売り手市場で、「就職説明会は高級ホテルで飲み食い自由」「入社すれば海外旅行に招待」なんていうのは当たり前、「うちにくれば新車一台プレゼント」なんてところまでありました。大学のゼミ仲間(当時の私は関西学院大学の社会学部でした)のほとんどが都市銀行や大手商社などを目指していたなかで、私はできるだけ「小さな企業」に絞っていました。「高収入で会社の歯車になるくらいなら、低収入でも小さな企業でおもしろいことをしたい」と考えたのです。

 就職して、その「おもしろいこと」ができるようになってしばらくすると、これでいいのだろうか、という疑問が抑えきれなくなり、母校の大学院に進学することを考えました。そのため母校のある教授の元を定期的に訪れ論文や教科書を紹介してもらうという生活にうつりました。学問の道に進めば、もちろん収入は激減します。本を書いて売れたりすれば別なのかもしれませんが、通常学者(あるいは学者を志す者)は貧乏です。

 当時の私が研究したかったのは「人間の行動・感情・思考」といったもので、関連の文献を読み漁るなかで、生命科学、とりわけ分子生物学、脳生理学、免疫学、精神分析学といった領域に興味がでてきました。これが社会学から医学への進路変更につながるわけですが、私は医学部入学時には医者になるつもりはまったくなく、医学の研究がしたかったのです。しかし医学部4回生で能力の限界を思い知り諦念し、5回生で臨床医へと進路変更しました。

 医師になってからも定型的な出世コースや金儲けには興味がなく、研修期間が終わると、まずHIVに積極的に取り組んでいた診療所に丁稚奉公させてもらい、その後タイのエイズホスピスを訪れ無償ボランティアに従事しました。ここで米国の総合診療医に師事し総合診療の道に進むことを決心します。帰国後、母校の大阪市立(現・公立)大学の総合診療科の門を叩き、大学に籍を置きながら大阪市北区に開業しました。

 「開業すれば儲かるのでは?」という質問はもう何百回も受けましたが、そもそも総合診療というのはひとりの患者さんに時間を割いて、しかも検査も薬も最小限にすることを心がけますから儲かりようがないのです。実際には、なぜか患者数が急増し、開業2年目には初めて受診する患者だけで4,237人にも上り、それなりに利益が出てしまったのですが、それらは慈善団体に寄付しましたし、待ち時間が長いなどのクレームも急増したおかげで、次第にちょうどいい塩梅へと収斂していきました。ここ数年間の「初めて受診する患者数」は年間千人程度とかつての4分の1以下です。

 長々と振り返ってみましたが、改めて見直しても私には金儲けがモチベーションになったことはこれまでの人生で一度もありません。では、進路選択の真の動機は何だったのか。ひとつめの大学卒業時には「おもしろいことをやりたい」、社会学部大学院を目指していた頃は「人間とは何かを知りたい」で、これが医学部4回生あたりまで続いていました。臨床医を目指すようになった動機は「臨床、特に救急ってけっこうおもしろい」で、タイのエイズホスピスに赴いたのは「HIVが理由で差別される人を助けたい」で、大学の総合診療科に入局しそして開業したのは「他で診てもらえなかった人たちの力になりたい」です。

 こうしてみてみると、私の人生の前半、臨床医を目指すまでの進路選択の動機は「おもしろいもの、ワクワクするものに取り組みたい」で、これは自分勝手なものではありますが、社会から否定されるものではないと思います。少なくとも「金儲け」「高い地位」などよりははるかに受け入れられやすいでしょう。後半の「差別で苦しむ人を助けたい」「他で診てもらえなかった人の力になりたい」は、社会一般的には「美しいもの」と認識されるのではないでしょうか。

 ここまでを考えると、私の歩んできた人生は、「金儲けを考えず困っている人のために尽力する」というとても”美しいもの”になってしまいます。そして、ここで私の疑問が浮き彫りになります。聞こえてくるのは「お前はそんなに高貴な人間のはずがないだろ」という内からの声です。そうです。その通りなのです。私自身のことは私がよく知っています。決して私は高貴な人間でも他人から尊敬されるような人物でもありません。

 しかし私は嘘を言っているわけではありません。これまで金儲けを目標にしたことがなく、今も臨床を続けているのは、他の医療機関から見放された人たちの力になりたいという欲求、あるいは欲求よりももっと強くて根源的な「欲望」と呼ぶべきものです。

 「欲望」というこの言葉を噛みしめたときに分かったような気がしました。欲望は理屈からではなく、身体の芯から湧き出るもの、もしかすると「本能」と呼ぶべきものかもしれませんが、前頭葉で思考するようなものではなく、原始的な脳が求める強い欲求を意味します。そして、その欲望が、医者によっては「カネ」である一方で、私の場合は「差別されたり他の医療機関で見放されたりした人の力になりたい」であるだけなのでは?、ただ単にそれだけのことでは?、と思えてきたのです。

 同業者を差別したり、発熱患者を拒否したり、金儲けに走ったりする欲望は社会からは歓迎されないことに彼(女)らは気づいているはずです。それでもなんらかの言い訳を用意してそれを選択するのは、そうさせる欲望があるからです。他方、私自身にも困窮している人たちを救いたいという、これまた欲望があります。ということは、彼(女)らと私に根源的な差があるわけではありません。

 しかし、疑問が残ります。「困っている人を救いたい」が欲望であったとしても依然それは”きれいすぎ”ます。さらにその奥に何か得体のしれないドロドロとしたもっと原始的な欲望があるのではないか……。今年の元旦、私にはそれ以上掘り下げることはできませんでしたが、もしかすると”恐怖”でできなかったのかもしれません。

 スラヴォイ・ジジェク(Slavoj Žižek)が最近Telegraphに載せていた言葉を思い出しました。

「私は内にある真実の存在など信じない。自分の外に都合の良い理由を見つけてそれにしがみついていればいいのだ。自分が善良なふりをしてそれに従って行動していれば善良になれる可能性はある。しかし、決して自分の奥深くを見つめてはいけない。そんなことをすれば(sで始まる)とんでもないものしか見つからないのだから……」

because I don’t believe in inner truth. Your ethical duty is to find a good cause outside yourself and stick to it: pretend that you are good and act accordingly and maybe there is a chance you will become good. But don’t look deep into yourself. You will discover only s—.”

 内面へと降りていく私の“探求”はいったん打ち切ることにしました。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2024年12月10日 火曜日

2024年12月 人間は結局「利己的な生き物」なのか

 2024年の米国大統領選挙でトランプ氏が勝利すると予想していた日本人はどれだけいるでしょう。たしかに事前の世論調査では「トランプ氏が有利」とするものもあったようですが、「なんだかんだ言っても最終的にはおかしな人物を大統領に選ぶような国ではないだろう。まともな人も多いんだから」と思っていた人が多かったのではないでしょうか。

 トランプ氏の悪行はここで言うまでもありませんが、大衆を煽り議会を占拠させ死人まで出しているわけですし、ポルノ女優との不倫の口止め料支払いを事業記録に虚偽記載してニューヨーク市民からなる陪審団から有罪と判断されたわけですし(日本なら「ポルノ女優との不倫」だけで国のトップになることはないでしょう)、34件の州法違反で重罪人となり、複数の刑事裁判で被告人となっている人物が、政府最高峰の職責につくなどとは到底理解できません。私がトランプ氏を金輪際許せないのは、2017年のコラム「私が医師を目指した理由と許せない行為」で述べたように、障害者のものまねをしてこきおろしたからです。米国人はどうかしてしまったのでしょうか。こんな人物を国の代表にしていいはずがありません。

 私と付き合いのある友人知人でトランプ氏を応援していた人は一人もいませんし、谷口医院を受診している米国人を含む外国人全員が(大統領選挙の話ができた患者さんだけですが)「トランプ氏を支持しない」と話していました。トランプ氏が勝利したせいでうつ状態になったという米国人すらいます。

 (尚、「トランプ氏を支持する人を見たことがない」ということを私のメルマガに書いたところ、ある読者から「反ワクチン派はトランプ支持らしい」という話を教えてもらいました。まさか、新型コロナワクチンに反対する人全員がトランプ氏支持というわけではないでしょうが、「反ワクチン派はトランプ派」は興味深い現象です)

 「兵庫県庁内部告発文書問題」で職員を自殺に追い込んだとされ、県議会による不信任決議が可決され、9月30日に知事を失職した斎藤元彦氏が、11月17日の選挙で勝利し、再び兵庫県知事に返り咲きました。

 11月24日におこなわれたルーマニアの大統領選挙では、政党や組織に所属せず、本格的な選挙運動をおこなったこともなく、プーチンを「祖国を愛する男」と称賛し、「NATOから脱退すべきだ」と主張しているCalin Georgescu氏が第1位として決選投票に進みました。

 選挙で誰に投票するかは各自が決めればいいことですし、その理由はどのようなものであってもかまいません。例えば、単に「ルックスがいい」とか「故郷が同じ」とか、そういった理由で投票しても誰からも文句を言われる筋合いはありません。投票の理由を問われることはなく、選挙とはそのようなものだからです。

 ですが、制度上はそうであったとしても、そういう理由で投票したとは言わない方がいいでしょうし、「なぜその人物に投票したのか」と問われればもっともらしい回答を用意しておくのが普通でしょう。そして、トランプ氏、斉藤氏、Georgescu氏に投票した人たちも、そういう理由は用意しているでしょう。例えば「真に国民のことを考えているのはトランプ氏だ」とか「斉藤氏なら、停滞したこの地域を復活させることができる」などです。

 しかしながら、彼(女)らの本音はどうでしょう。米国には「Hidden (secret) Trump Supporeters(隠れトランプ派)」が少なくなかったとする報道があります。「トランプ氏を支持している」と表立って言うことは控え、こっそりとトランプ氏に投票する人たちのことです。彼(女)らはなぜ堂々とトランプ氏を支持すると言えないのか。支持する理由が「公共のため」「社会のため」ではなく、「自分勝手なもの」「自分にとって都合がいいもの」「個人的ルサンチマンを晴らすもの」などだからではないでしょうか。

 例えば世の中は平等であるべきなのは自明ですが、試験でいい点をとってハイクラスの生活へと進む非白人や女性が許せない白人の低学歴男子は、いくら社会にとって正しいことを主張しようが(というより主張すればするほど)民主党やハリス氏を嫌うようになるのではないでしょうか。すでに米国に居住しているヒスパニック系の人たちは、道徳的には同胞を歓迎しなければならないはずですが、移民に反対するトランプ氏が勝利すれば”既得権”を守ることができます。

 斉藤氏の場合、当初は「県民局長がパワハラの被害に遭ってその苦痛で自ら命を絶った。その責任は斉藤知事にある」というニュアンスで報道されていましたが、その後「実はパワハラなどなかったのでは?」という疑惑が浮上してきました。一部の報道によると、「自殺した県民局長は管理職という立場を利用して複数の女子職員と不倫を重ね、それを自身のパソコンに『不倫日記』として記録していた。それが県にバレそうになり自殺した」とされています。ここから、「自殺した県民局長は自身の不祥事を隠すために斉藤知事をスケープゴートにした。斉藤知事の本当の姿は死んだ県民局長も支持していた前知事(井戸敏三氏)の愚行を正すために現れたヒーローだ!」とする声が上がり始めました。

 これは”物語”としては面白いといえます。なにしろ全会一致で不信任決議が可決され、絶体絶命の窮地に追い込まれた斉藤知事の”真実”がギリギリのところで明らかとなり、形勢が逆転し、最後には勝利を手にしたわけですから、このまま1本の映画にもできそうです。こういう”物語”にワクワクして、それに加担することで正義感に陶酔して斉藤知事に票を入れた若者も少なくなかったのではないでしょか。

 トランプ氏、斉藤氏、Georgescu氏の「勝利」に貢献したのはいずれもSNS(特にX)だと言われています。私は「ツイッター」なるものが登場したとき、興味を持てず、こんなものはすぐに廃れるだろうと思っていました。なぜなら、人の思いや考えをわずか140文字で表すことなどできるはずがないと考えたからです。140文字しかないということは、例えて言えば、スポーツ新聞の見出しとリードだけを読んで物事を判断するようなものです。

 新聞の社説は(特に日本の新聞は)たいてい面白くありませんが、それでも「他者の意見を聞く」ということに関しては参考になります。日本の各新聞の一面にあるコラム(朝日新聞なら「天声人語」)はときにシニカルな内容で読み応えがあることもありますが、その話題の全貌や書き手の正確な意図を知るには文章量が少なすぎます。それでも文字数は600字程度、つまりツィッターの4倍以上はあるわけです。

 しかし、私の感性とは異なり、実際にはX(旧ツイッター)は流行の域を超え、もはや世界の人たちの「日常」と化しています。ということは、私の方が変わり者であり、世のマジョリティの人たちはXを代表とするSNSで情報収集し、それに影響を受け、そして自分自身もSNSを用いて自分の意見を拡散させているのです。

 では、世の中の人々は果たして短いメッセージによる情報取集でじゅうぶんだと考えているのでしょうか。そう考え、むしろ短い方が分かりやすくて便利だと感じている人が多いのかもしれません。短いメッセージはどうしてもストレートなものにならざるを得ません。大勢の注意を惹く必要がありますから表現は過激になり、さらにそれは加速していきます。他人を批判するにしても、従来ならその前提を述べ、相手の言い分を要約し、なぜそれに同意できないかを理論整然と述べなければならないはずですが、そのようなプロセスを省略し、過激な言葉で本音だけを羅列するようになったのです。

 その結果、各自の本心が露わになり、人と人との対立がよりはっきりしました。自分の主張を婉曲せずにストレートに堂々と主張し、反論がくればより過激な言葉でこけおろす。一方、自身の承認欲求を満たすために、自慢としか思えない写真や文字を披露するのです。「自分のステイタスを上げ、他人を蹴落とす」、これが人間の素の欲求なのかもしれません。

 投票する人たちは、国や地域社会のことよりも、自分の欲求が満たされるか否か、誰が勝利すれば自分の嫌いなやつらを蹴落とせるか、そのような視点で行動しているような気がしてなりません。

 

 

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2024年11月11日 月曜日

2024年11月 自分が幸せかどうか気にすれば不幸になる

 1年ぶりにマンスリーレポートで「幸せ」を取り上げましょう。改めてこのサイトを振り返ってみると、私は「幸せ」をテーマにいくつものコラムを書いています。自分自身でも「幸せとは何か」がよく分かっていないから取り上げる機会が多くなるのでしょうが、それはたぶん私だけではなく世界の多くの人たちも同じではないでしょうか。何しろ「幸せ」は哲学の根源的なテーマなのですから。

 これまで私が「幸せ」について書いたコラムを振り返ってみると、私自身はがむしゃらに働いたり金銭を稼いだりすることを求めていないことが分かります。一番分かりやすいのはおそらく2017年のコラム「なぜ「幸せ」はこんなにも分かりにくいのか」だと思います。この中で取り上げた「タイの農夫と日本のビジネスマン」の逸話、私はタイで知り合ったある日本人に教えてもらったのですが、初めて聞いたときからとても気に入り、今でもときどき思い出しています。そして、金儲け主義の人たちを冷めた目でみています。

 ところが、経済界ではこのような考えは人気がなく、2023年のコラム「『幸せはお金で買える』という衝撃の結末」で紹介したように、「幸せはお金で買える」という説がまかりとおっています。上述の2017年のコラムで紹介したように、元々はノーベル経済学賞受賞者のダニエル・カーネマンは「年収が75,000ドル(当時のレートで約900万円)を超えると、それ以上収入が増えても『感情的な幸福』は変わらない」と主張していました。

 そこに異論を唱えたのが経済学者のマシュー・キリングスワースで、2021年のコラム「幸せに必要なのはお金、それとも愛?」でも紹介したように、「年収75,000ドルを超えたとしても幸せは収入に連れて上昇する」という、まるでカーネマンを挑発するかのようなタイトルの論文を発表し物議を醸しました。

 そして、2023年のコラムで述べたように、カーネマンとキリングワースの2人は共同で「幸せ」を検討し直した結果、キリングワースの主張が正しかったという結論が導かれ、「お金はあればあるほど幸せ」というのが世界の経済界と定説となってしまったのです。しかも、一定の収入で幸せを感じ、それ以上収入が増えても幸せ度が上がらない人は「精神疾患を患っている変わり者」だとされたのです。

 「『幸せ度』は年齢でかわってくる」という研究は2023年のコラム「幸せになりたければ自尊心を捨てればよい」で紹介しました。このコラムでは、世界では「最も不幸せな年齢は48.3歳でそれ以降は幸せに向かっていく」のだけれど、「日本人は例外で、年をとればとるほど不幸になる」ことを内閣府が発表していることを紹介しました。

 ここまでをまとめると、「幸せがどのようなものかには個人差があるが、まともな人であれば収入が増えれば増えるほど幸せ度は増す。年齢でみれば、日本以外の世界では若い頃から中年にかけて低下して48.3歳で底を打ち、その後は右肩上がりに幸せ度が増していく。しかし、日本人だけは例外で、48.3歳以降もどんどん不幸になっていく」、となります。

 今回は幸せについての新たな研究を紹介しましょう。結論は「自身が幸せかどうかを気にし過ぎない方がいい」となります。論文は米国心理学会(American Psychological Association)が今年発行した医学誌に掲載された「幸福の追求を紐解く: 幸福について考えるだけで、幸福を目指さなければ、否定的な感情に支配され、幸せは訪れない(Unpacking the pursuit of happiness: Being concerned about happiness but not aspiring to happiness is linked with negative meta-emotions and worse well-being.)」です。

 ややこしくて分かりにくいタイトルですが、本文を読めば言わんとしていることが伝わってきます。著者によると「幸せを目指すこと(aspiring)自体には問題がない」ようです。ところが、「幸せを気にすると(being concern)、人は自分の幸福度を判断(judge)するようになり、無意識的に、本来ならポジティブな出来事をネガティブに捉えるようになり、その結果、幸せが妨げられる」と言います。

 これではまだ分かりにくいので、次にこの論文を解説したカリフォルニア大学(University of California)のサイトに掲載された分かりやすいコラム「幸せについて心配するのはやめましょう(Stop worrying about being happy)」から核心となる部分を引用してみましょう。

・幸せについて心配しすぎると、実際には幸せを感じにくくなり、さらにメンタルが落ちる可能性がある

・「幸せになりたいという願望」と、「自分の幸せのレベルを気にする」という側面は分けて考える必要がある。「幸せになりたいという願望」は持っていていい。しかし、「自分の幸せのレベルを気にする」は、人生の満足度の低下や抑うつ症状の悪化など、幸福度の低下と大きく関連している

・幸せになるためのコツは、ポジティブな経験をしたときに「それ以上の幸福を感じることはないかもしれない」と受け入れること。また、ポジティブな経験をした時に「完璧ではない側面」に執着すれば、結果としてはそのポジティブな経験を台無しにしてしまう

・そもそも、幸せを感じる瞬間はあったとしてもごくわずかであり、その瞬間に自覚した幸せの感情を受け入れることで、その経験に余計な否定的感情を加えずに前進することができる

・精神的に健康な状態を維持するために、「否定的感情を自覚することは誰にでもある自然な反応である」ことを受け入れて、「自分が幸せになれると思うからという理由だけで何かをする」ことを慎んで、「社会的つながりを伴う活動に参加する」のがよい

 これでかなり分かりやすくなったと思います。よく考えるとこの論文が言わんとしていることは我々が過去に繰り返しどこかで聞いていたような内容に似ていないでしょうか。例えば、老子の「足るを知る」という言葉はまさにこれらを表していると言えるでしょう。

 2010年から2015年にウルグアイの大統領を務めたホセ・ムヒカ氏は在任中も大統領公邸ではなく、郊外の小さなトタン屋根の家で、妻と3本足の犬と暮らしていました。2012年のBBCの取材に対し、ムヒカ氏は次のように答えています。

「貧しい人とは、贅沢な生活を維持するために働き、常にもっともっとと欲しがる人たちです(Poor people are those who only work to try to keep an expensive lifestyle, and always want more and more)」

 The New York Timesによると、現在89歳のムヒカ氏は自己免疫疾患に加え食道がんを患っています。同紙の取材に対し、氏は次のようにコメントしています。

「欲求の法則から逃れ、人生の時間を自分の望むことに費やすとき、人は自由になれます。欲しいものが増えれば増えるほど、その欲求を満たすために人生を費やすことになります(You’re free when you escape the law of necessity — when you spend the time of your life on what you desire. If your needs multiply, you spend your life covering those needs)」

 老子やムヒカ元大統領の言葉をゆっくりと噛み締めると、爽快な幸福感に身を包まれるような感覚になるのは私だけでしょうか。「スマホを捨てよ」とまでは言いませんが(ちなみにムヒカ氏は4年前に携帯電話を捨てたそうです)、自慢話と誹謗中傷だらけのSNSに時間を割くのをやめて、ふと手を伸ばせば得ることができる小さな幸せをひとつひとつ味わう……。そんな生活が理想ではないでしょうか。いくら優れた経済学者の主張であろうが、「幸せはお金で買える」に私は同意しません。

 

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2024年10月3日 木曜日

2024年10月 コロナワクチンは感染後の認知機能低下を予防できるか

 最近は新型コロナウイルス(以下、単に「コロナ」)以外の質問や相談が増えているのですが、今月よりコロナワクチンの第8回目の接種が開始されたこともあり、過去1~2週間は再びコロナの質問が増えていて、ほとんどがワクチンに関するものです。谷口医院は過去7回のコロナワクチン接種を見送っていましたが、ついにこの秋から院内で接種を開始することにしました。といっても、適応はかなり絞り込み、こちらから勧めることはほとんどありませんし、また希望されてもすぐに接種できるかどうかは分かりません。このワクチンには充分な問診が必要だと考えているからです。

 初めに「谷口医院ではこれまでやっていなかったのになんで今になってコロナワクチンを始めたのですか?」という質問に答えておきましょう。谷口医院が過去7回のワクチン接種に不参加だったのは、「mRNAワクチンは副作用が未知。アナフィラキシーショックなどが生じたときの対応が困難」と私自身が考えていたからです。薬についても同じことがいえて、谷口医院では発売された直後から処方を開始した薬は過去にもほとんどありません。登場してから「当初は想定していなかった副作用が……」という事態が日本の薬剤の歴史にはいくらでもあるのです。

 ただし、コロナワクチンが重要であることは認識していましたから私自身が集団会場に出掛けて接種していました。そして、実際アナフィラキシーを疑う事例に遭遇したこともあります。会場には止まった心臓を動かす薬やAED(自動体外式除細動器)が準備され、救急車がすぐ近くに待機していました。このような環境でなければ自院でのワクチン接種に手を出すべきではないと考えていたのです。

 そして現在。諸事情から移転を余儀なくされた谷口医院のすぐ近くには偶然にも新しい大きな病院が誕生しました。院内スタッフも緊急事態に対応できるような体制になってきました。今ならたとえ大きな副作用が起こったとしても対処できます。これが谷口医院が今秋からコロナワクチンを開始するようになった理由のひとつです。

 もうひとつの理由は「ワクチンの誤解を解きたい」という気持ちが私のなかで次第に高まってきたことです。繰り返し述べているように、私自身のコロナワクチンに対する見解は「うってもリスク、うたなくてもリスク」です。副作用がこれだけ多いワクチンですから、ワクチンをうつことにリスクがあるのは自明でしょう。

 しかし、コロナワクチンが登場した2021年の時点では、まだコロナは強毒性のウイルスであり、感染すれば日頃健康な人でも死に至る可能性があり、薬がじゅうぶんに揃っておらず、しかも病床逼迫とやらで、感染しても治療を受けることができないおそれすらありました。そんななかで颯爽と救世主のように登場したワクチンはいわば「唯一の武器」だったわけです。しかも国民の8割がうてば”集団免疫”とやらができて未接種者も救われるのだとか……(これを主張していた専門家には是非現時点の見解を述べてもらいたいものです)。

 一方、2024年の現時点では、ウイルスは弱毒化し、内服薬も出そろい(必ずしも効果が高くないという声もありますが、谷口医院での実績をみているとパキロビッドはもちろん、ゾコーバでもかなり効いている印象があります)、病床逼迫で入院できないということもありません。つまり、ワクチンは「唯一の武器」から「数多い対策のひとつ」に成り下がったのです。ならば重篤な副作用が生じるリスクを抱えてまで受ける必要性は大きく低下します。

 しかし、それはコロナを「死に至る病」とみたときの話です。「死ぬか生きるか」という視点で考えればすでにコロナだけに注目する必要はあまりありません。この議論になると必ず出てくる「重症化リスクのある人は……」という話も、「それを言うなら他の呼吸器感染症、インフルエンザやRSウイルスでも重症化するのでは?」となります。

 では後遺症はどうでしょうか。いっときに比べればコロナ後遺症で悩んでいるという声は随分と減りましたが、今もなくはありませんし、最近は「諦めている」人が増えています。どこに行っても治らない、どんな治療を受けても治らない、と考えている人が多いのです。実際には根気よく治療を続けていれば回復していくことが多いのですが、「治療を続ける」モチベーションが維持できず、さらに認知機能が衰えてくることがあり、こうなるとまともな思考ができなくなってしまいます。ここで論文を紹介しましょう。

 2022年4月に公開されたバングラデシュでコロナに感染した401人を対象とした研究によると、感染者の19.2%に記憶障害が認められました。興味深いのは、理由は不明ながら都心部よりも農村部の住民で記憶障害が顕著であったこと、もうひとつは年齢・性別・コロナの重症度と記憶障害の有無に関連がなかったことです。つまり、若年者でもコロナ感染時の症状が軽症であっても記憶障害が起こるときは起こるのです。

 2024年7月のTIMESの記事にも「30代や40代でも、軽度の認知症のような神経認知障害を発症する」とする意見が掲載されています。

 コロナ罹患後の記憶障害は高齢者で顕著だ、とする研究もあります。イタリヤのトリエステの医療機関の外来に通う平均年齢82歳の111人(男性32%)が対象者です。調査期間中31人がコロナに感染し、44人に認知機能低下がみられました。コロナ感染者では認知機能が低下した人が約3.5倍多いという結果がでました。

 これまでにコロナ感染と認知症の関連が調べられた研究を総合的に解析しなおした研究(メタアナリシス)もあります。過去に発表された質の高い11件の研究が解析されています。コロナ感染者が939,824人、対照者が6,765,117人です。コロナに感染すると認知症を新たに発症するリスクが58%増加することがわかりました。

 イギリスでは80万人の成人を対象にオンラインによる認知機能評価が実施され結果が発表されました。やはりコロナに感染するとその後認知障害を発症するリスクが上昇しています。この研究では、感染時に重症であったときに認知症のリスクが上昇しやすいという結果がでています。

 規模は小さいものの、若年者を対象とした非常に興味深い研究が最近発表されました。対象者は若くて健康な過去にコロナに感染していないボランティア34人で、この研究ではなんと人工的にコロナに感染させています。34人中、感染したのが18人(感染しなかったのが16人)で、1人は無症状、残り(17人)は軽症でした。34人は急性期及び、30、90、180、270、360日後に追跡され認知機能検査を受けました(調査期間は2021年3月から2022年7月)。結果、感染したボランティアは、急性期および追跡期間中のいずれの時点でも非感染ボランティアに比べ認知機能のスコアが低かったのです。ということは、コロナに感染すれば急性期には軽症であったとしても、少なくとも1年間は認知機能や記憶力が衰えることを意味します(下記のグラフは一目瞭然です)。

 もちろん、コロナに感染しても認知機能低下どころかまったく何の後遺症も残さない人の方が圧倒的に多いわけですが、上記の若年者の研究も自覚症状があるわけではないことに注意が必要です。認知機能検査が実施されたことで機能が低下していることが判ったのです。これを考えると、やはりコロナは侮ってはいけないと考えるべきでしょう。

 ではワクチンは認知機能低下を予防するのでしょうか。残念ながらそれを検証した報告は見当たりません。ですが、「ワクチンが後遺症を減らす」とした研究は数多くあり、オミクロン株登場以降は感染リスクや重症化リスクはデルタ株までに比べれば効果が低下していると言われていますが、オミクロン株以降も後遺症のリスクを下げるとした研究もあります。下記のグラフをみればそれはあきらかでしょう。

 さて、今秋以降コロナワクチンをうつべきか否か。たしかに登場して間もないレプリコンワクチンは未知数だらけで安全性が担保されているとは言い難いですが、ファイザー製(またはモデルナ製)であれば従来のmRNAワクチンと同様のリスクとみなしていいでしょう。それでも従来のワクチン(mRNAワクチンが登場するまでのワクチン)と比べれば副作用のリスクは桁違いに高いわけですが。また、mRNAワクチンのリスクが背負えないのであれば武田薬品製のワクチンを接種するという方法もあります。こちらは不活化ワクチンですからmRNAワクチンのリスクはありません(ただし、mRNAワクチンに比べて効果はやや劣るとする声もあります)。

 いずれにしても当分の間、ワクチンをうつべきか否かで悩むことになるでしょう。そういう意味でコロナは「まだ終わっていない」のかもしれません。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2024年9月8日 日曜日

2024年9月 「反ワクチン派」の考えを受けとめよう

 新型コロナウイルス(以下、単に「コロナ」)について私が記事やコラムを書くと、興味深いことに、ワクチン賛成派からもワクチン反対派(以下「反ワクチン派」)からも苦情やクレームがきて、一部の人たちからは「私の人格を否定するようなメッセージ」が届けられました。以前から薄々気付いていた、コロナを通してはっきりと分かった自分自身のことが2つあります。

 1つは「私自身は他人からの悪口に極めて鈍感」なことです。医師によっては、自分が非難されたり否定されたりすることが耐えられないらしく、例えばX(旧ツイッター)で非難されると、すぐさまそれに対して攻撃的な言葉を使って”応酬”することがあります。私にはそういうことをする人たちの”神経”が理解できず、そんな”攻防”を冷めた目でみてしまいます。

 なかには非難されたことに耐えられず、名誉棄損の訴訟を起こした医師が何人もいると聞きます。たいていは医師側が勝利するそうですが、お金よりも、そういう面倒くさいことにかける時間がもったいないのに……、と私は考えてしまいます。たしかに、SNSの書き込みで自殺にまでいたったケースがあるわけですから言葉が人間を傷つけることは理解できるのですが、ネット上の文字が人間の身体に変化して画面から飛び出して襲ってくるわけでもあるまいし(こんなホラー映画がかつてあったような……)、と私は考えてしまいます。

 そもそも見ず知らずの人たちから非難されてなぜ自分が傷つく必要があるのでしょう。そういう人たちはもしかすると、世界のすべての人から承認されたい、とでも思っているのでしょうか。「承認欲求」の話はこのサイトで何度も述べましたからここでは繰り返しませんが、私の考えを再度紹介しておくと「承認されるのは数人の身内からだけでじゅうぶんであり、見ず知らずの人たちからは何を言われてもかまわない」となります。

 念のために付記しておくと、これは「人格に対して」という意味です。例えば、あなたが芸人だったとして、その芸が誰からも認められなければ食べていけなくなります。しかし、万人から支持される芸人がいたとすればまず間違いなくその芸は面白くありません。また、芸人に限らず芸術家の場合、「人格は承認されずに作品は認められる」ということもよくあって、これでOKなのです。

 例えば、私自身はピカソという人物を”尊敬”していますが、それは一人で15万点もの作品を残したことにあります(芸術性の高さはよく分かりませんがこれは私に芸術のセンスがないからです)。しかし、その尊敬は作品(の多さ)に対するものであり、だらしない女性遍歴については異なります(ロマンスやセックスへの執着の強さと作品に関連があるかもしれないという意味で興味はありますが)。

 コロナワクチンに話を戻すと、公衆衛生学者や感染症専門医の立場からはワクチンを推奨するしかないわけで、少なくともオミクロン株登場までは、コロナワクチンが多数の命を救ったのは事実です(この点について、反ワクチン派から正統なコメントを聞いたことがありません)。だからそういう立場の人は「ワクチンは有効だ(だった)」と言えばいいわけです。

 しかし、ワクチンというのは元々全員が賛成するものではありませんし、ワクチンの被害に遭う人もいるわけですから、万人から支持されないことは初めからわかっていたはずです。SNSで「ワクチンをうちましょう」と言えば、当然「ワクチンなんて誰がうつか!」というコメントが届くことも予想できたのです。そして、それがエスカレートして人格が攻撃されることも起こり得るのは自明です。ですから、たとえ「殺すぞ」などと強迫めいたメッセージが届いたとしても放っておけばいいのです。実際に殺しにくることなどあり得ないからです。

 私の場合は初めから一貫して「コロナワクチンはうってもうたなくてもリスクがある」と言い続けて一度も主張を変えていません。これを最初に書いたコラムを公開したとき、多数の苦情がきました。編集者がタイトルを変更したほどです。このコラム、もともとは「コロナワクチン、うってもうたなくても『大きなリスク』」だったのですが、これなら炎上するだろうとのことで編集者に「新型コロナワクチン 打つも打たぬもリスク大きい」に替えられました。ところがこれでも炎上したために「新型コロナ ワクチン接種はよく考えて」という何の変哲も面白味もないタイトルに替えられてしまったのです。

 つまるところ、ワクチンというもともとコントロバーシャルなものを取り上げて文章を書くのなら(それが140字であっても、医療プレミアのように長いコラムであっても)批判されるのは初めからわかっているわけで、それが過激な表現になることも予想できるのです。ホラー映画のように画面から何かが飛び出してくることはないわけですから、こんなことを気にするのは時間の無駄です。

 もうひとつ、私が以前から気づいていたことでコロナを通して確信したことは、「反医学的な話を聞くことに抵抗がない」です。このことに対して「あれっ、自分はどこか違う……」と初めて気付いたのは、20年以上前の皮膚科での研修時代でした。ステロイドをやたら忌避する患者さんに対して、ほとんどの医師は「ああいう非科学的な人たちは来ないでほしい」などと言うわけですが、私にはこの感覚が理解できませんでした。むしろその逆に「そのような考えに至るまでにきっといろんなことがあったんだろう。この人のそんな人生を一緒に振り返ってみたい」と感じてしまうのです。

 コロナワクチンが始まったとき「ワクチンにはマイクロチップが埋め込まれていてワクチンをうてば国家に監視されてしまう」というデマがありました。ほぼすべての医師がこのようなデマを一蹴したわけですが、私が感じたのは「それを信じている人と話をしたい!」でした。もっとも、あの頃にそんな時間を捻出する余裕はなかったわけですが。しかし、谷口医院にも何人かこの説を信じている患者さんが受診されました。できるだけ表情に出さないようにして冷静に話すように努めましたが、誤解を恐れずに言えば、私はそういう人たちとの会話が楽しいのです。もっとも診察室ではあまり踏み込んだ話はできませんが。

 ちなみに、いまだに私が出会ったことがなくていつか巡り合えることを楽しみにしているのは「地球が平面だと信じている人」(英語では「flat earther」と呼びます)です。地球が平面だなんて馬鹿げていると思う人が多いでしょうが、実は国際学会「Flat Earth International Conference」も存在します。

 では、なぜ私がそんな非科学的な説を信奉している人(=science denier)に関心があるかというと、そういう人たちは「過去に人生に挫折していたりそれなりの苦悩を経験していたりするから」です。ステロイドを毛嫌いする人たちは、まず間違いなく自分か知人がステロイドをうまくつかえずに余計にアトピーが悪化した、またはステロイドの副作用に苦しんだ経験があります。「そんな経験があるならステロイドを嫌いになるのは無理もない」と私には思えますが、大半の医師はそうは考えず「自分の言うことが聞けないならもう来るな!」という態度になります。

 コロナワクチンの場合も同様です。そして、その”苦悩”はワクチンによるものとは限らずに、どんな背景でも起こり得ます。例えば、仕事や人間関係でうまくいかないことがあって人生に絶望しているときに「政府や専門家が推薦しているコロナワクチンは実は有害で、真実は別にある」と”理解”すれば、自分だけが正しいことを知っているという優越感、さらには高揚感が出てきます。そしてさらにこの感覚が生きがいにつながることさえあるのです。

 そういう人たちに対して正論を唱えてもまったく効果がないばかりか逆効果になります。反ワクチン派の人に対して、ワクチンが有効だとするエビデンス(科学的証拠)を示せば示すほど、「”真実”が分かっていない気の毒な人」と思われるだけです。ならば、初めから正論を主張するのではなく、まずは目の前の患者さんがなぜそのような考えを持つにいたったのかを理解すべきです。「オレの言うことが聞けないならもう来るな!」という態度をとれば医師・患者の双方にとっていいことが何一つないのは明らかでしょう。

 残念なことに、コロナワクチンが原因で、あるいはマスクや自己隔離などに対する考えを巡って友達や家族の間で対立が生まれてしまい関係を修復できなくなった人たちがいます。そのような経験がある人は、この次その相手に出会ったときに、どうかこのコラムを思い出してみてください。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2024年9月5日 木曜日

2024年8月 谷口医院が「不平等キャンペーン」を手伝うことになった経緯

 すでに2024年7月号の「GINAと共に」でも述べたように、ついに谷口医院も(すでに一部の人からは)悪名高い「不平等キャンペーン」に手を貸すことになりました。

 まずは、このキャンペーンの概要を説明し、その上で何が不平等なのかを、実際に過去に当院に寄せられた”クレーム”を通してみていきたいと思います。

 キャンペーンの内容は「HIV、梅毒、B型肝炎の検査を行政のお金(税金)を使って無料でおこなう」もので、一見気前のいいキャンペーンに思えます。不平等なのは「ただし、この検査を受けられるのはゲイ(性自認が男性で性指向が男性である者)のみ」だからです。

 数年前、初診のある女性から「HIVと梅毒の検査、無料って聞いていたX診療所に行ったらゲイだけだと言われたんです。ここ(谷口医院)なら女性でも受けられますか?」と問われました。X診療所は性病検査で有名なところで、その診療所がこのゲイを対象とした無料検査を実施していることは我々も知っていました。なぜなら、事前に行政から「谷口医院もこのキャンペーンに参加してほしい」と依頼されていたからです。

 こんな検査、谷口医院でできるはずがありません。あきらかに「差別」だからです。そもそも私が、大学の医局に籍を置きながらとはいえ、比較的早い段階で開業したのはその「差別を許せなかったから」です。現在はある程度ましになっていますが、谷口医院が開業した2000年代当時、セクシャルマイノリティという理由で医療機関でイヤな思いをしたという声が私に多数寄せられていました。なぜ、私のところに寄せられていたのかというと2006年にNPO法人GINAのウェブサイトを立ち上げていたからです。

 今でこそウェブサイトなど何も珍しくありませんが、当時はウェブサイトを設けて読者の相談を受け付けていた、医師が中心となりHIVの支援をする団体はさほど多くなかったのです。毎日のように相談メールが寄せられ、そのなかに医療機関で差別的な扱いを受けたというゲイを含むセクシャルマイノリティの人たちからの相談がたくさんありました。

 こういう相談メールを読む度に、私の身体の奥から「こんなことが許されていいはずがない!」という怒りの感情が湧いてきて、いつしか「これが現実なら自分が差別のない医療機関をつくればいい」と考えるようになりました。セクシャルマイノリティのなかでも「差」はあります。最も差別的な扱いを受けているのはトランスジェンダーの人たちです。

 ゲイの場合、それをカミングアウトしなければいいわけですが、しかし疾患によってはそれを伝えた方が診察がスムースにいくと思われるケースがあります。例えば、肛門疾患がそうですし、あるいは精神疾患も該当することがあります。ところが勇気を振り絞って自身のセクシャリティを医師に伝えたところ、態度が急変し、なかには「専門のところに行ってください」と冷たく言われたり(「専門のところ」ってどこなのでしょう?)、なぜか名前ではなく番号で呼ばれるようになったという人もいました。看護師の対応があきらかに変わったという人もいました。また、当時は(残念ながら今でも似たような話があるのですが)HIV陽性であることを伝えると医師の態度が急変し「もう来ないでください」と露骨に言われたという話も珍しくありませんでした。

 こんなことが許されていいはずがありません。そこで私はHIVの有無に関わらず、セクシャリティに関わらず、平等に診察するクリニックをつくることを決意しました。この「平等」の意味はHIVやセクシャリティだけではありません。当時は(やはり今でも、ですが)、外国人だから診てもらえないとか、職業によって差別されたとか、あるいは「それはうちの科ではありません」と言われ、ドクターショッピングを繰り返さざるを得ない人たちが少なくなかったのです。

 研修医を終えてから開業するまでの約3年間、私は総合診療の修行をしてきました。まずタイのエイズ施設で約半年間にわたり米国人の総合診療医の指導を受け、帰国後は大学の総合診療部に籍を置き、大学以外にも様々な病院や診療所で研修を受けてきました。開業時には、すべての病気を治せるわけではありませんが、どのような症状であっても初期対応はできる自信がありました。そのうち9割以上は自分自身で治療できることを確信していて、残りの1割も紹介はしますがその後のフォローは自分でするようにしていました。決して「それは分かりませんから自分で別のところを探してください」とは言いませんし、実際、言ったことはありません。

 そして「どのような症状も診る」の他に、もうひとつ開院当時から今も遵守していることが「どのような属性の人も診る」です。つまり、どのような職業であっても国籍であっても、そしてどのようなセクシャリティであっても診ることを信条としてきたのです。しかし、セクシャルマイノリティを優先して診るようなこともすべきではありません。いわゆる逆差別もまた差別に変わりないからです。

 そして、ゲイだけが無料で受けられる検査はあきらかに(逆)差別です。こんなキャンペーンなどできるはずがありません。2007年の開院した当初、行政の職員からこのキャンペーンに参加してほしいと依頼され、お断りしました。以降、毎年のように「今年こそ」とお願いされ続けてきて、毎回断ってきました。

 しかし、2024年8月19日から始まる今年のキャンペーンにはついに参加することにしました。理由は主に2つあります。1つは依頼する大阪府の職員の方々が大変熱心で、ゲイを(逆)差別する悪意があるわけではないからです。行政がこのようなキャンペーンを実施するのは公衆衛生学的な理由です。つまり、「大阪のHIV陽性者はゲイが最多だから、母集団をゲイに絞って検査を促せば効率がいい」からこのような企画をするのです。

 もちろん、この理屈は(ゲイ以外の)市民からは受け入れられません。なぜなら「なんで(ゲイ以外の者からも集めた)税金を、ゲイだけのために使うんだ?」という質問に誰も答えられないからです。これは例えて言えば、同じように年会費を払っているホテルなどで「あんたはゲイじゃないから宿泊させません」と言われているようなものです。こんな理屈許されるはずがありません。だから、この点については「ご指摘の通りです。このキャンペーンが不平等なのは明らかです」と謝るしかありません。そこで当院では無料にはできませんが、こういった検査を格安ですべての人に提供することにしました。無料ではなくまだ高いですが(HIV検査は2,200円)、これが限界です。「ゲイは無料なのに……」と言われればやはり謝るしかありません。

 谷口医院がこの不平等キャンペーンに参加することにしたもう1つの理由は、先述したX診療所が閉院したからです。この診療所は通常の診療所とは異なるいわゆる「性病クリニック」で、多数の性病検査希望者が訪れていた有名なところです。

 当院で苦情を言っていたその女性は、sex worker(フーゾク嬢)のようで、普段からX診療所で定期的に性病検査を受けていたそうです。その”世界”では性病検査の情報の拡散が早いらしく、女性は「ゲイなら無料で検査ができる」という噂を聞き、「ゲイが無料なら私達フーゾク嬢も無料になるはずだ」と考え(おそらく「私達もゲイと同じように性病のハイリスクだから」と考えたのでしょう)、X診療所を定期受診したときに、「いつも受けているHIVと梅毒の検査を無料にしてほしい」とお願いして、あっけなく断られ、気分を害して当院を受診した、というのが経緯でした。

 ちなみに、この女性の友達が当院のかかりつけ患者で、その女性はsex workerではありませんが、過去に当院で性感染症の検査を受けたことがあるとのことでした。

 性感染症の検査は一見簡単そうでどこの医療機関でも受けられそうな気がしますが、ちょっと複雑な部分があります。例えば、淋菌やクラミジアは、一般のクリニック(泌尿器科や婦人科)では、尿検査や子宮頸部の検査をしますが、性交渉の仕方によっては咽頭や肛門粘膜も診なければならず、柔軟で適切な対応ができないことがあります。梅毒は今でこそありふれた疾患ですが、2000年代は(泌尿器科や婦人科でも)診察の経験がない医師が多く、X診療所の医師のように日々性病を診ていないと診察しにくいことがあります(尚、私の場合はタイのエイズ施設でかなり多数の梅毒を診てきましたから開業当初から梅毒は”見慣れた”疾患でした)。

 行政の人から「X診療所はゲイのキャンペーンに貢献してくれていた。X診療所が閉院して困っている」と聞きました。この言葉が決め手となって、谷口医院もついに参加することにしたという次第です。ただし、そうは言っても「不平等であることへの違和感」が私のなかで解消されたわけではありません。「GINAと共に」に書いたように、ゲイだけでなく対象者の幅を広げるつもりです。

************

追記(2024年8月10日):大阪府は「レズビアンは本キャンペーンの対象ではない」と通知してきました。納得できませんが、府の意向には従うしかありません。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2024年8月22日 木曜日

2024年8月 谷口医院が「不平等キャンペーン」を手伝うことになった経緯

 すでに2024年7月号の「GINAと共に」でも述べたように、ついに谷口医院も(すでに一部の人からは)悪名高い「不平等キャンペーン」に手を貸すことになりました。

 まずは、このキャンペーンの概要を説明し、その上で何が不平等なのかを、実際に過去に当院に寄せられた”クレーム”を通してみていきたいと思います。

 キャンペーンの内容は「HIV、梅毒、B型肝炎の検査を行政のお金を使って無料でおこなう」もので、一見気前のいいキャンペーンに思えます。不平等なのは「ただし、この検査を受けられるのはゲイ(性自認が男性で性指向が男性である者)のみ」だからです。

 数年前、初診のある女性から「HIVと梅毒の検査、無料って聞いていたX診療所に行ったらゲイだけだと言われたんです。ここ(谷口医院)なら女性でも受けられますか?」と問われました。X診療所は性病検査で有名なところで、その診療所がこのゲイを対象とした無料検査を実施していることは我々も知っていました。なぜなら、事前に行政から「谷口医院もこのキャンペーンに参加してほしい」と依頼されていたからです。

 こんな検査、谷口医院でできるはずがありません。あきらかに「差別」だからです。そもそも私が、大学の医局に籍を置きながらとはいえ、比較的早い段階で開業したのはその「差別を許せなかったから」です。現在はある程度ましになっていますが、谷口医院が開業した2000年代当時、セクシャルマイノリティという理由で医療機関でイヤな思いをしたという声が私に多数寄せられていました。なぜ、私のところに寄せられていたのかというと2006年にNPO法人GINAのウェブサイトを立ち上げていたからです。

 今でこそウェブサイトなど何も珍しくありませんが、当時はウェブサイトを設けて読者の相談を受け付けていた、医師が中心となりHIVの支援をする団体はさほど多くなかったのです。毎日のように相談メールが寄せられ、そのなかに医療機関で差別的な扱いを受けたというゲイを含むセクシャルマイノリティの人たちからの相談がたくさんありました。

 こういう相談メールを読む度に、私の身体の奥から怒りの感情が湧いてきて「こんなことが許されていいはずがない。しかしこれが現実なら自分が差別のない医療機関をつくればいい」と考えるようになりました。セクシャルマイノリティのなかでも「差」はあります。最も差別的な扱いを受けているのはトランスジェンダーの人たちです。

 ゲイの場合、それをカミングアウトしなければいいわけですが、しかし疾患によってはそれを伝えた方が診察がスムースにいくと思われるケースがあります。例えば、肛門疾患がそうですし、あるいは精神疾患も該当することがあります。ところが勇気を振り絞って自身のセクシャリティを医師に伝えたところ、態度が急変し、なかには「専門のところに行ってください」と冷たく言われたり(「専門のところ」ってどこなのでしょう?)、なぜか名前ではなく番号で呼ばれるようになったという人もいました。看護師の対応があきらかに変わったという人もいました。また、当時は(残念ながら今でも似たような話があるのですが)HIV陽性であることを伝えると医師の態度が急変し「もう来ないでください」と露骨に言われたという話も珍しくありませんでした。

 こんなことが許されていいはずがありません。そこで私はHIVの有無に関わらず、セクシャリティに関わらず、平等に診察するクリニックをつくることを決意しました。この「平等」の意味はHIVやセクシャリティだけではありません。当時は(やはり今でも、ですが)、外国人だから診てもらえないとか、職業によって差別されたとか、あるいは「それはうちの科ではありません」と言われ、ドクターショッピングを繰り返さざるを得ない人たちが少なくなかったのです。

 研修医を終えてから開業するまでの約3年間、私は総合診療の修行をしてきました。まずタイのエイズ施設で約半年間にわたり米国人の総合診療医の指導を受け、帰国後は大学の総合診療部に籍を置き、大学以外にも様々な病院や診療所で研修を受けてきました。開業時には、すべての病気を治せるわけではありませんが、どのような症状であっても初期対応はできる自信がありました。そのうち9割以上は自分自身で治療できることを確信していて、残りの1割も紹介はしますがその後のフォローは自分でするようにしていました。決して「それは分かりませんから自分で別のところを探してください」とは言いませんし、実際、言ったことはありません。

 そして「どのような症状も診る」の他に、もうひとつ開院当時から今も遵守していることが「どのような属性の人も診る」です。つまり、どのような職業であっても国籍であっても、そしてどのようなセクシャリティであっても診ることを信条としてきたのです。しかし、セクシャルマイノリティを優先して診るようなこともすべきではありません。いわゆる逆差別もまた差別に変わりないからです。

 そして、ゲイだけが無料で受けられる検査はあきらかに(逆)差別です。こんなキャンペーンなどできるはずがありません。2007年の開院した当初、行政の職員からこのキャンペーンに参加してほしいと依頼され、お断りしました。以降、毎年のように「今年こそ」とお願いされ続けてきて、毎回断ってきました。

 しかし、2024年8月19日から始まる今年のキャンペーンにはついに参加することにしました。理由は主に2つあります。1つは依頼する大阪府の職員の方々が大変熱心で、ゲイを(逆)差別する悪意があるわけではないからです。行政がこのようなキャンペーンを実施するのは公衆衛生学的な理由です。つまり、「大阪のHIV陽性者はゲイが最多だから、母集団をゲイに絞って検査を促せば効率がいい」からこのような企画をするのです。

 もちろん、この理屈は(ゲイ以外の)市民からは受け入れられません。なぜなら「なんで(ゲイ以外の者からも集めた)税金を、ゲイだけのために使うんだ?」という質問に誰も答えられないからです。これは例えて言えば、同じように年会費を払っているホテルなどで「あんたはゲイじゃないから宿泊させません」と言われているようなものです。こんな理屈許されるはずがありません。だから、この点については「ご指摘の通りです。このキャンペーンが不平等なのは明らかです」と謝るしかありません。そこで当院では無料にはできませんが、こういった検査を格安ですべての人に提供することにしました。無料ではなくまだ高いですが(HIV検査は2,200円)、これが限界です。「ゲイは無料なのに……」と言われればやはり謝るしかありません。

 谷口医院がこの不平等キャンペーンに参加することにしたもう1つの理由は、先述したX診療所が閉院したからです。この診療所は通常の診療所とは異なるいわゆる「性病クリニック」で、多数の性病検査希望者が訪れていた有名なところです。

 当院で苦情を言っていたその女性は、sex worker(フーゾク嬢)のようで、普段からX診療所で定期的に性病検査を受けていたそうです。その”世界”では性病検査の情報の拡散が早いらしく、女性は「ゲイなら無料で検査ができる」という噂を聞き、「ゲイが無料なら私達フーゾク嬢も無料になるはずだ」と考え(おそらく「私達もゲイと同じように性病のハイリスクだから」と考えたのでしょう)、X診療所を定期受診したときに、「いつも受けているHIVと梅毒の検査を無料にしてほしい」とお願いして、あっけなく断られ、気分を害して当院を受診した、というのが経緯でした。

 ちなみに、この女性の友達が当院のかかりつけ患者で、その女性はsex workerではありませんが、過去に当院で性感染症の検査を受けたことがあるとのことでした。

 性感染症の検査は一見簡単そうでどこの医療機関でも受けられそうな気がしますが、ちょっと複雑な部分があります。例えば、淋菌やクラミジアは、一般のクリニック(泌尿器科や婦人科)では、尿検査や子宮頸部の検査をしますが、性交渉の仕方によっては咽頭や肛門粘膜も診なければならず、柔軟で適切な対応ができないことがあります。梅毒は今でこそありふれた疾患ですが、2000年代は(泌尿器科や婦人科でも)診察の経験がない医師が多く、X診療所の医師のように日々性病を診ていないと診察しにくいことがあります(尚、私の場合はタイのエイズ施設でかなり多数の梅毒を診てきましたから開業当初から梅毒は”見慣れた”疾患でした)。

 行政の人から「X診療所はゲイのキャンペーンに貢献してくれていた。X診療所が閉院して困っている」と聞きました。この言葉が決め手となって、谷口医院もついに参加することにしたという次第です。ただし、そうは言っても「不平等であることへの違和感」が私のなかで解消されたわけではありません。「GINAと共に」に書いたように、ゲイだけでなく対象者の幅を広げるつもりです。

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追記(2024年8月10日):大阪府は「レズビアンは本キャンペーンの対象ではない」と通知してきました。納得できませんが、府の意向には従うしかありません。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL

2024年7月11日 木曜日

2024年7月 お世話になったあの先生がまさか反ワクチンの代表だったとは……

 コロナワクチンの是非、マスク着用の効果などについては、医師や専門家の言うことがバラバラで、いったい何が正しいのかが分からずに困っている人々が少なくありません。不安に駆られてSNSなどで分かりやすい意見を主張する医師や専門家の意見にすがるようになる人もいます。さらにエコーチャンバー現象が加われば「自分の考えが正しい。あの専門家もそう言っているんだから」という思考に陥ることになります。ですから、一般市民のこのような思考停止を防ぐには、異なる考えをもつ複数の医師が対話を重ね、それを公開すべきだと私は言い続けています。しかし、現実は極端な方向に進んでしまい、もはや後戻りができないところまできてしまっています。

 2024年5月31日、東京で「WHOから命をまもる国民運動大決起集会」が開催されました。全国から日比谷公園大音楽堂に集まった人たちが霞が関に顔を向け「日本政府はテドロス(WHO)事務局長の解任を要求せよ」、「WHO脱退を閣議で決めろ」などと叫んだそうです。一般メディアではほとんど報道されなかったようですが、一説によると参加者は4万人とも5万人とも言われました。

 この集会、単にWHOを批判しているわけではなく、主の目的は「コロナワクチン反対」に他なりません。当院にこの集会の情報を教えてくれたある患者さんによると、参加者は「コロナワクチン=毒」と頑なに信じ、「マスクは無意味」、「抗コロナ薬も毒で、有効なのはイベルメクチンだけだ」と主張しているそうです。そして、驚くのはそれだけではありません。この集会を主催した団体の幹部には有名な医師も複数いるといいます。

 集会を収録したyoutubeは2時間以上もあるようでとても見る気が起こりませんが、触りだけでも確認してどんな医師が登場するのかを見てみたくなりました。そして、驚愕しました……。集会を主催した「WHOから命をまもる国民運動」の幹部たちがステージに登場したとき、堂々と先頭を歩いていたのは、なんと私が医学部の2回生のときに生化学を教わっていた井上正康教授(当時)だったのです! 実はこれまでも井上先生が反ワクチン派として活動しているという噂は耳にしたことがあったのですが、やはり真っ先にステージに登壇し、自信ありげに闊歩する姿を見るとなんとも言えない複雑な気持ちになってしまいました。

 現在の井上先生について調べてみました。『月間東洋療法』に連載をもたれているようで、361号にコラムを書かれていました。一部抜粋してみます。

    ************
テドロス事務局長率いるWHOの主張や行動が、現代医学の常識とは相容れない異常なモノである事に驚愕した。新型コロナウイルスのコウモリ起源説や武漢研究所漏出説の検証に関する消極的な対応、感染ルートの誤情報、免疫の地域特性に関する発言抑制、イベルメクチンや既存特効薬の使用禁止や入手妨害、ワクチンと詐称した未治験遺伝子薬の接種推奨など、マトモな科学的判断や政策は皆無であった。
    ************

 集会に話を戻しましょう。率直に言えばこの集い、雰囲気が異様で画面越しに妙な熱気が伝わってきます。マイクを持って大衆に演説を始めたのは井上先生ではなく別の医師でした。調べてみると東京の美容クリニックで働く医師のようです。医師の他にも、政治家や学者がこの会の幹部を務めているようです。彼(女)らの発言を時間が許す限り聞こうと思ったのですが、途中で辟易としてきてすぐにやめました。いくつかの発言を毎日新聞の記者が綴った記事から引用してみます。

「WHOと日本政府、厚労省は悪魔と考えてください。不服従を貫きます」
「(ここに集まった)みなさんは光の戦士です」
「パンデミックはワクチンを接種させる目的で人工的に計画されたものだ」
「(WHOは)ワクチンを接種させて人口を削減しようとしている」
「日本人がワクチンの実験台にされている」

 さらに、この団体にはテーマソングもあるそうです。上記毎日新聞の記事から転載します。

♪闇が私たちをのみ込もうとしている
♪私たちは戦士
♪光の戦士
♪真実のために戦う

 ここまでくれば、もはや「顔を合わせて科学に基づいた対話をしましょう」というレベルではなく冒頭で述べたような「対話」は不可能です。では、なぜ人はここまで偏った考えに狂信するのでしょうか。単に「正しい知識がないからだ」では答えになっていません。もっと深い理由があるはずです。そして、それを私自身は当院を受診する複数の患者さんから感じ取っています。ここからは私見を述べます。

 当院にも反ワクチンの患者さんが数人います。また、母親が(兄が、妹が)反ワクチンになって家庭の雰囲気が崩壊した、という話も複数聞いています。反ワクチン派となり過激な主張をするようになったそんな人たちには共通点があって、それは「生き生きとしている」です。まるで何かに目覚めたように、あるいは生きる目的を取り戻したかのように情熱的になるのです。集会があれば少々遠くても自腹で参加することを厭いません。実際、日比谷音楽堂にも全国から多数の”戦士”が集まったのですから……。

 ところでこの現象、何かに似ていないでしょうか。話は脱線しますがもう少し私見を披露します。

 私はトランプ前米国大統領がこんなにも支持されるとは思っていませんでした。2016年の大統領選挙から1年遡った2015年11月、トランプ氏は先天性の関節疾患を患う記者セルジュ・コバレスキ氏の物まねをしました。キャンセルカルチャーが幅を利かせる現在の社会通念から考えれば障害者の物まねなど到底許されるはずがありません。このような人物が人権・平等を至上とする米国の大統領になれるわけがないと思いました。ところが私の(そして大方の)予想に反してトランプ氏は当選しました。なぜか。私が考える最大の理由は対立候補のヒラリー・クリントン氏の「失言」です。

 大統領選挙まで残り2ヶ月を切った2016年9月9日、ヒラリー・クリントン氏は演説のなかでトランプ氏を支持する人たちのことを「嘆かわしい人たちの集まり(Basket of deplorables)」と呼びました。民主党の主張はリベラル思想に基づいたもので、端的に言えば「黒人・ヒスパニックの擁護」「男女平等」「同性愛擁護」「キリスト教以外の宗教の擁護」です。そういった主張を掲げる民主党の、しかも女性の党首が放った「嘆かわしい人たちの集まり」という言葉に最も反応したのは「キリスト教徒で異性愛者の白人男性」でした。そしてそんな彼らの”共同幻想”が生みだしたのが「ヒラリーが代表の組織がピザ屋の地下で小児虐待を繰り返している」とするピザゲートと呼ばれる陰謀論です。そしてその陰謀論に付随して誕生した”救世主”がトランプ氏だったのです。トランプ氏を支持する人たちは氏の掲げる政策に同意したからではありません。自分たちの存在を否定するきれいごとで身を固めた”敵”を打ちのめしてくれる救世主がついに登場したが故に理屈を超えた狂信性を持って支持するのです。

 コロナワクチンの登場前後、日本の専門家たちはSNSを駆使してワクチンを接種するよう呼びかけました。海外の論文や研究を引き合いにだして正当性を強調し、「集団免疫」なる用語を用い「みんなのために」という美辞麗句を並べました。反ワクチン派のある男性は、「専門家とやらの上から目線のうさん臭い物言いに吐き気を覚えた」と言っていました。そんな専門家たちを否定しワクチンの危険性を優しくわかりやすく解説してくれる”救世主”たちに惹かれた人たちが、反ワクチンを堂々と主張し始め、他人にその考えを広めようとし、そして集会に参加するようになったのです。だから彼(女)らにとっては、「WHOから命をまもる国民運動」の幹部は”英雄”であり、集会ではその”英雄”から「光の戦士です」と讃えられて高揚し、同志たちとテーマソングを熱唱し恍惚に浸ったのです……。

 私の妄想はこれくらいにして思い出話をしましょう。1997年のある夏の日、生化学の講義に感動を覚えた私が訪ねたのは井上正康先生の教授室。当時の私はまだ臨床医になることは考えておらず基礎研究を希望していました。何を質問しても分かりやすく答えてくれる井上先生についつい甘えて長居してしまいました。帰り際には「勉強になるからあげるよ」と言われ、当時流行していた本川達雄氏の『ゾウの時間ネズミの時間』を頂戴しました。その日に読み終えた私はますます生命科学の虜になり、科学の研究に邁進する井上先生の姿に憧れるようになりました……。

 結局私はその後、研究者になるには能力もセンスもないことを思い知り臨床の道を進むことになりました。もはや研究職に未練はありませんが、それでも文献の探索は続けています。コロナに関しては、臨床だけでなく基礎医学者の論文も随分読みました。先生はこのウイルスをどのように考えているのだろうとふと井上先生の顔が脳裏をよぎったこともあります。私のことを覚えてはいないでしょうが、私は井上先生の講義を受けたことを誇りに思い、研究室で長々と付き合っていただいたことに今も感謝しています。私は研究者にはなれませんでしたが、臨床の現場では「医療は常に科学的であらねばならない」と肝に銘じています。そういえば『ゾウの時間ネズミの時間』の主題は「おのおのの動物はそれぞれに違った世界観を持っている」でした。現在の井上先生の世界観と臨床医の私のそれにはどれくらいの差があるのでしょうか。

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2024年6月9日 日曜日

2024年6月 人間の本質は「憎しみ合う」ことにある

 今からちょうど4年前の2020年6月のマンスリーレポート「『我々の本質は優しくて思いやりがあり助けあうもの』ではない」で、オランダの歴史家ルトガー・ブレグマンが主張する「人間の本質は優しくて思いやりがあり助けあうもの」という主張には到底同意できないとする自論を述べました。

 私には人間の本質が優しくて思いやりがあるなどとは到底思えず、未来を楽観視することができないのです。そのコラムでも述べたように、30代の頃にはまだ人間の未来に期待していました。人間の諍いのほとんどはコミュニケーション不足からくる誤解によるものであり、たいていの場合話し合いをすれば互いを理解しあえると本気で思っていたのです。しかし、その後年をとり、40代半ばくらいには人への不信感が芽生えるようになり、次第に大きくなっていきました。

 そして新型コロナウイルスのパンデミックが起こりました。4年前のそのコラムで述べたように、日本人(東アジア人)というだけで見知らぬ人たちから差別され、襲われるようになりました。谷口医院の患者さんの当時欧米諸国に住んでいた人たちのなかにも逃げるように帰国した人がいます。当時バンクーバーに住んでいたある患者さんは「コロナ流行を機に隣人が豹変したかのようだった」と話していました。バンクーバーはそもそも移民が多く、国籍や民族で差別されないことで有名な街だったはずです。その街で最近まで仲良くやっていた隣人たちが豹変したというのですから、元々保守的な地域であればもっと恐ろしい光景が繰り広げられていたことが想像できます。

 2022年2月24日、ロシアがウクライナに軍事侵攻しました。もしも人間がブレグマンの言うように「人間の本質は優しくて思いやりがあり助けあうもの」ならば、世界の首脳は軍事で協力するのではなく、話し合いで解決することに力を注ぐのではないでしょうか。もちろん、突然軍事侵攻を開始したロシアに非があることは否めませんが、この戦争の”発端”は2004年のオレンジ革命にあります(と、私は考えています)。そして、オレンジ革命を事実上”煽動”したのは米国を中心とする西側諸国であることにはコンセンサスがあると言っていいでしょう。資金面ではジョージ・ソロスが大きく加担したと言われています。
 
 日本も含めた西側の報道では、2022年の軍事侵攻に先立つロシアの間違った行為として2014年のクリミア併合を挙げます。しかし、その併合は選挙の結果によるものですし、仮に選挙が公平でなかったとしても、ロシアに併合を決意させた原因はユーロマイダン革命にあります。そもそも、このユーロマイダン革命というものは革命と呼ぶにはふさわしくなく「西側諸国がしかけたクーデター」です。ヤヌコーヴィチ大統領を西側諸国が煽ったクーデターでウクライナから追放したのですから。ヤヌコーヴィチ大統領がロシアへの亡命を余儀なくされたため、ロシアはいわばその”仇”をとるためにクリミア半島を併合した、しかも民主的な選挙で、というのが私の見方です。ここでは私の史観が正しいかどうかは別にして、こんなことをやっている人間の本質が優しくて思いやりがあり助けあうものなどとは到底思えないわけです。

 2023年10月7日、パレスチナのガザ地区を支配するハマスがイスラエルに戦争をしかけました。「先に手を出した方が悪い」という理屈が正しいのなら、1948年のパレスチナ戦争(第一次中東戦争)まで遡って議論すべきです。そもそも1947年に国連が採択した「パレスチナ分割決議」の段階で、土地の43%がアラブ系住民に、57%がユダヤ系住民に与えられるという不公平なものでした。そんななかで勃発したパレスチナ戦争でイスラエルが勝利し、国連による分割決議よりも広大な地域を占領したのです。国連決議に従わないイスラエルが正しいとなぜ言えるのでしょうか。

 アラブ人とイスラエル人の対立をみていると、人間の本質は優しくて思いやりがあり助けあうものとは到底思えません。ハマスがイスラエルに侵攻した直後、イスラエルのヨアン・ガラント(Yoan Gallant)国防相はハマスの軍人を「human animals」、つまり「人間の顔をした獣」と呼びました。しかも、公式な記者会見の場で、です。

 国連にはさほど力がないのは事実ですが、それでも人間の本質が優しくて思いやりがあり助けあうものならば、こと平和に関しては世界各国は国連に従うべきです。ですが、イスラエルははなからそのつもりがありません。先月の国連総会において、イスラエルのエルダン国連大使は壇上で国連憲章の表紙を小型のシュレッダーにかけて細断しました。

 2024年5月31日、米国バイデン大統領はウクライナに対して、米国が供与した兵器でロシア領内を攻撃することを認める決断を下しました。ここまでくれば完全に代理戦争です。つまり、西側連合軍とロシアがいよいよ本格的な戦争に突入したといえなくもなくなります。イスラエルは攻撃をやめません。ここで、もしも北朝鮮が何かをしかけてくるようなことがあればこのまま一気に第三次世界大戦に進んでいくでしょう。

 しかし、本来戦争ほど馬鹿げた政策はないはずで、我々はそれを歴史から学んでいたのではなかったでしょうか。ではなぜこんな愚かな行為を繰り返すのか。私なりの答えは「人間が愚かだから」というよりも、「人間の本質が憎しみ合うことだから」です。

 そのことを証明するのに戦争のようなマクロな憎しみを持ち出す必要はありません。SNSをみればいかに人間が醜い罵り合いをしているかが自明です。

 個人的な話をすれば、私は医師になってからも数年間は「医師は他人に優しい」と思っていました。なぜって、困っている人を救いたいという気持ちがあって医者になるわけだから、優しくなければ務まらないではないですか。だから、私のように医学部入学時点で医師になることを考えておらず研究者を目指していたような者は、小さい頃から医師を目指していたようなタイプの医者にはかなわないと考えていて、そういう意味で少なからず劣等感もあったわけです。

 ところが、実際には医者なんて、特に開業医なんて全然優しくないわけです。新型コロナのパンデミックでそれが露わになりました。いつも診ている患者さんが発熱で苦しんでいるのに、「うちでは診られないから診てほしかったら自分で診てもらえるところを探せ」と言われ、すがるように当院にやって来た患者さんがどれだけいたか。それが、発熱外来を実施すれば点数アップという方針が決まるや否や、手のひらを返したように、今度は発熱患者の取り合いになったわけです。

 私はSNSはやっていませんが、何度か医師の投稿を見たことがあります。驚いたのは自分の意見に反するコメントに対し、汚い言葉を使って相手を攻撃する医師がいることでした。また、汚い言葉とは言えなくても「上から目線」の態度が目立つ医師もいました。オレは専門医だから、あるいは大学教授だから言うことを聞け、のような態度の書き込みもあり、当然のことながら、そういうコメントに対しては一般人から激しい反論がくるわけですが、私からみればそれは当然です。それで「名誉棄損だ」とか「人権侵害だ」などと被害者ぶるのはちょっと違うと思います。

 医者だけではありません。私は子供の頃、なんとなく「お金持ちの人は優しい」と思っていましたが、それはまったく正しくなかったのです。私は以前、マイルがたまったので飛行機のビジネスクラスに乗ったことがあります。たまたま私の周りだけがそうだったのかもしれませんが、ビジネスクラスの乗客は、フライトアテンダントに対する態度がとても横柄なのです。赤ちゃんが泣いたことに文句を言ったり、到着が遅いと言ってみたり(それはフライトアテンダントのせいではないでしょう)、辟易としました。

 ちなみに、South China Morning Postによると、日本人のビジネスクラスを利用する乗客は最悪だそうです。同紙では「the worst culprits(最悪の犯人)」という言葉まで使われています。彼(女)らは「ビジネスクラスに乗っているから特別だと思い込んでいて、地上職員を含め他の全員を見下している」そうです。

 カリフォルニア大学バークレー校の社会心理学者ポール・ピフ(Paul Piff)氏は、車によって社会階級を5つに分け、どのグレードの車が横断歩道の手前で止まって歩行者に道を譲るかを調べました。結果、高級車であればあるほど歩行者のために止まることはせずに自分勝手な行動をとることが分かったのです。

 調べてみると、「金持ちが他人に優しくない」ことを示した研究は多数あります。米誌「New York」の記事は「お金が人を反社会的にする」ことを示しています。ポール・ピフ氏の車のグレードの研究にも触れています。

 こうして考えると、ブレグマンはなぜ「人間の本質は優しくて思いやりがあり助けあうもの」などと言えるのでしょう。彼の周囲には優しい人ばかりが集まっているのでしょうか。そしてビジネスクラスに搭乗したことがないのでしょうか。

 などと言っていてもしかたありません。私自身は(私自身が優しいかどうかは分かりませんが)「利他の精神」が、たとえ人間の本質でなかったとしても「人間のあるべき姿」だと信じています。そして、優しくない人間はこれまで山ほどみてきましたが、利他の精神を発揮し他人に優しい人たちも知っています。そういう人たちとのネットワークを大切にし、たとえ戦争が起ころうとも、たとえ地球温暖化が進行し豊かな暮らしが失われようとも、「人間のあるべき姿」を貫いてみせるつもりです。

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2024年5月5日 日曜日

2024年5月 小池百合子氏のカイロ大学”卒業”が真実と言える理由

 8年前のコラム、マンスリーレポート2016年6月「己の身体で勝負するということ」には大勢のコメントをいただきました。当時、学歴詐称で表舞台から姿を消したタレントのショーンK氏を引き合いに出し、私自身の経験から、後に行き過ぎた私見であることは認めるようになったものの、現在も学歴・職歴にこだわる人たちを冷ややかにみている、という話をしました(尚、8年前には社会からバッシングされている氏をかばうために「SK氏」としていましたが、現在では氏を悪く言う人はもういないでしょうから「ショーンK氏」と”実名”にします)。

 自分の学歴・職歴を前面に押し出そうとしている人を私が哀れに感じるのは、「あなたは自分に自信がないから、そういったことを持ち出すのですね」と思えるからです。その大学(院)やその企業はエライのかもしれませんが、「だからあんたは何なの?」と私には思えます。他人の学歴・職歴を気にする人に対しては「あなたは人を見る目がないから、そうやって他人の属性でしか人を判断できないんじゃないんですか」と言いたくなります。

 しかし、学歴(や職歴)で人を判断する人、自分の学歴を自慢したがる人は世の中に少なくありません。最近、立て続けにそのような”事件”が3件も報道されたことからもそれはよく分かります。まず、その3件を振り返ってみましょう。

 米国で活躍するプロ野球選手大谷翔平氏の元通訳で、違法賭博と銀行詐欺の罪を犯したとされる水原一平氏が学歴を詐称していたことが報道であきらかとなりました。水原氏は、2007年にカリフォルニア大学リバーサイド校を卒業とされていましたが、NBCによると、同校は「水原氏が通っていた記録はない」と回答しています。

 「県庁はシンクタンク。 野菜を売ったり牛の世話をしたりモノを作ったりとかと違い、皆さまは頭脳・知性の高い人たち」など、信じられないような差別発言を繰り返し、辞意を表明した静岡県知事の川勝平太氏は「オックスフォード大学で博士の資格を取ったこと」が自慢だそうです。川勝知事の場合、学歴を詐称しているのではなく学歴を自慢していることがなんとも滑稽です。日本学術会議任命拒否問題のとき、川勝知事は菅首相(当時)に対し「菅義偉という人物の教養のレベルが露見した」と発言し非難されました。調べてみると、菅首相(当時)は法政大学出身でした。

 川勝知事は、かつて自身が学長を務めていた大学の女子学生に「11倍の倍率を通ってくるんですから、もうみなきれいです」、「めちゃくちゃ顔のきれいな子は賢いこと言わないとなんとなくきれいに見えないでしょう。ところが全部きれいに見える」などと発言したことがNHKに報道されました。オックスフォードで博士号をとれる優秀な人になら分かるのでしょうが、私には「めちゃくちゃ顔のきれいな子は……全部きれいに見える」の日本語がいまだによく分かりません。

 カイロ大学文学部社会学科を1976年10月に主席で”卒業”した東京都知事の小池百合子氏は、90年代初頭からその学歴が虚偽であると繰り返し指摘されています。その都度、小池氏は卒業の”証拠”を公表し反論しています。ここで経緯を簡単に振り返ってみましょう。

・1992年の参院選の際、カイロ大学卒業を疑う報道が相次いだため、小池氏は当時連載していた『週刊ポスト』のコラム「ミニスカートの国会報告」1993年4月9日号でカイロ大学の卒業証書を写真で紹介した

・2016年の東京都知事選挙の際、6月30日放映のテレビ番組「情報プレゼンター とくダネ!」が学歴詐称疑惑を扱ったため、小池氏は卒業証書と卒業証明書を担当者に送った(ことを「週刊文春」が報じた)。

・2018年6月8日、「文藝春秋」が、「小池氏はカイロ大学を卒業していない」ことを証言した、小池氏がカイロ滞在時に同居していた女性(後に実名を公開)に取材をし、記事を発表した

・2020年5月27日、「週刊文春」が「『カイロ大学卒業は嘘』 小池百合子東京都知事の学歴詐称疑惑 元同居人が詳細証言」との記事を配信し、卒業関係書類のロゴやスタンプが偽物であると報じた

・同日、「プレジデントオンライン」に「『カイロ大学卒業は本当』小池百合子東京都知事の学歴詐称疑惑 カイロ大学が詳細証言」が掲載された。カイロ大文学部日本語学科の教授が「確かに小池氏は1976年に卒業している。72年、1年生の時にアラビア語を落としているが、4年生の時に同科目をパスしている。これは大学に残されている記録であり、私たちは何度も日本のメディアに、同じ回答をしている」と証言している、と報じた

・同年5月29日、石井妙子氏の『女帝 小池百合子』が出版され、(上述の)元同居人の証言などに基づいた学歴詐称疑惑が明らかにされた

Wikipediaによると、同年6月8日、カイロ大学のモハンマド・エルホシュト学長が「(小池氏は)1976年にカイロ大文学部社会学科を卒業したことを証明する」「卒業証書はカイロ大の正式な手続きにより発行された」「日本のジャーナリストが証書の信ぴょう性に疑義を示したことは、大学と卒業生への名誉毀損で看過できない」との声明を発表した

・同年6月9日、駐日エジプト大使館が、カイロ大学が発表した「小池氏が1976年10月に卒業したことを証明する旨の声明文」をフェイスブックで公開した

・2024年4月9日、「文藝春秋」が、元都民ファーストの会事務総長の小島敏郎の記事「『私は学歴詐称工作に加担してしまった』小池百合子都知事 元側近の爆弾告発」を公開。さらに、上述の同居人が実名を公表し「百合子さん、あなたが落第して大学を去ったことを私は知っている──」を公開した

 ここまでくると、小池氏がカイロ大学を「卒業」していないことはもはや疑いようがないでしょう。そもそも小池氏は(wikipediaによると)自著『振り袖、ピラミッドを登る』(1982年)の58ページに、「1年目に落第し、次の学年に進級できなかった」と記述しています。卒業には最低で5年かかり、早くても1977年となるわけですら、1976年10月に卒業していないのは自明です。

 ですが、私自身は小池氏が”卒業”したのもまた事実だと思っています。なぜ、そんなことが言えるのか。私はエジプトに渡航したことがありませんし、この国について詳しいわけではありませんが、「この地域の卒業証書なんて(少なくとも70年代には)金さえ払えばどうにでもなった」という話を複数の人から聞いているからです。

 学歴を金科玉条のように持ち出す人がいますが、しょせん学歴なんてそんなものです。実は、学歴や職歴を詐称している人など日本国内にもいくらでもいますし、バレない方法もあります。せっかくですから、その「方法」をここで伝授しましょう。

 提出先にもよりますが、例えばあなたが中小企業に就職するとして、その企業が卒業証書や職歴を証明する書類を求めたりすることはまずありません。だから、履歴書に嘘を書いてもバレることはまずないのです。

 では、大企業などに就職を考えるときはどうすればいいのでしょうか。その場合、今はない大学、今はない企業名を書くという方法があります。例えば関西出身の私の知人(といっても海外で知り合ったバックパッカーで今は交流はありませんが)は、「神戸商船大学卒業、兵庫銀行で勤務」と履歴書に書くそうです。神戸商船大学は今はなき国立大学で、兵庫銀行はすでに倒産しています。銀行はともかく、商船大学の卒業証明書は国立大学だったのですからどこかで発行してもらえると思うのですが、その知人によると「そこまで求められたことは一度もない」そうです。

 また、たぶんこれは「言ってはいけないこと」でしょうが、実は医者の世界には「裏口入学」や「替え玉受験」の話などいくらでもあります。医師国家試験に合格しているからいいではないか、と言う人すらいます。筋萎縮性側索硬化症(ALS)を患う京都在住の女性を殺害して起訴された40代の(元)医師は韓国の医大を卒業したとされていましたが、これが虚偽であったことが事件後に発覚しました。

 学歴なんてこんなものです。自分の学歴を自慢したり、学歴で人を判断することがいかに馬鹿げているかが分かるでしょう。学歴や職歴などの「付随するもの」ではなく、今あなたの目の前にいるその人が信用できる人物か否かを見極めるのはあなた自身の「眼力」にかかっています。その眼力を身に着けるためにあなたに必要なのが学歴や職歴でないことはもはや言うまでもないでしょう。

 ちなみに私は大阪市立大学(現・大阪公立大学)と関西学院大学を卒業していて、前者は一部の医師や医学生から(特に阪大の医師から、と聞きます)「阿倍野ドクター教習所」と揶揄され、後者は元大阪府知事の橋下徹氏から「8流大学」とこき下ろされています……。

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