メディカルエッセイ

2013年6月17日 月曜日

第46回(2006年11月) 臓器売買の医師の責任(後半)

 医師と患者さんとの関係は信頼の上に成り立っているわけで、患者さんとその親族がグルになって医師を欺こうと思えば簡単にできてしまう、という話を前回しました。

 今回の事件は、臓器売買をめぐってこのような問題が生じたわけですが、患者さんと親族がいくら「お願いします」と言っても、倫理上の観点からできない問題もあります。

 例えば「自殺幇助」が該当します。高齢で生きる希望をなくしている患者さんがいたとしましょう。生きる希望をなくしているからといって末期癌など治療法のない病を患っているわけではありません。患者さんは死ぬことを希望しており、仮に家族もその考えを尊重したいと考えているとしましょう。このとき、「分かりました。致死量の劇薬を注射しましょう」などと言う日本の医者は(おそらく)ひとりもいません。「自殺幇助」が罪になるだけでなく倫理上許されないことを医師は分かっているからです。ヨーロッパの一部の国ではこのようなケースでも罪に該当しない法律をつくっていますが、それは例外と考えるべきでしょう。

 「自殺幇助」などに比べると「臓器売買」については、倫理上あるいは歴史上、抵抗はそれほど大きくないと言えます。実際に、海外で臓器を買っている日本人が少なくないのは周知の事実です。日本人が生体腎移植を受けている国で最も多いのがフィリピンと中国だと言われています。少し詳しくみてみましょう。

 2006年10月6日の共同通信がフィリピンの生体腎移植の実情を報道しています。フィリピンでは貧困地域に住む住人に対して、いわゆる臓器ブローカーが腎臓売買の斡旋をもちかけます。対象となるのは18歳から25歳の健康な男性で、腎臓を提供すると13万~16万ペソ(約30~38万円)が支払われます。腎臓を買うのはほとんどが日本人で、支払う金額はこれの10倍程度だそうです。

 実際に腎臓を提供したある男性のコメントがこの記事に載せられています。その男性は、「(腎臓を受け取った日本人は)ありがとうと言ってくれたし、元気になっていたし、良かったと思う」、と述べています。

 また、フィリピンでは死刑囚が臓器を有償で提供しています。つまり腎臓を売っているのです。これは、合法であるばかりか、「臓器を提供することに賛同した受刑者は刑を軽減する」という法案が提出されたこともあります。

 フィリピン大学の哲学科のある教授は、「臓器提供は、受刑者が社会に何かを還元できる機会だ」、とコメントしています。

 詳細は覚えていませんが、数年前に、肝硬変を患った日本の有名プロレスラーが、フィリピンで生体肝移植を受け、肝臓の一部を提供したフィリピンの若い男性が術後に亡くなったという報道もありました。

 共同通信の同記事では、インド、中国、ブラジルの臓器売買の実情も報道されています。

 インドでは、以前は、臓器売買は合法でしたが現在では違法となっています。しかし、現在でも水面下で売買がおこなわれているのが実情です。そして、違法とされているのは移植に伴う臓器売買だけです。研究用の臓器の売買は合法であるばかりか、増加傾向にあるそうです。ちなみに、インドでは移植に伴う臓器売買が違法になる前は、南部のタミルナド州が臓器ビジネスの拠点でしたが、現在では北部ウッタルプラデシュ州やパンジャブ州が中心となっているそうです。

 中国では年間の移植件数が1万2000件を超え、米国に次ぎ世界第二位の「移植大国」となっています。腎移植だけで年間5000件以上が施行されています。中国の場合はドナーの大半が死刑囚であり、これが倫理上の観点から問題視されていますが、中国側にとっては貴重な外貨獲得源になっていることもあり、地方政府は実質臓器売買に荷担していると言えます。

 ブラジルでは臓器売買は違法とされていますが、実際には水面下でおこなわれています。2003年に摘発されたブローカー組織は、およそ1万ドル(約118万円)で腎臓の提供者を募集していました。この組織では少なくとも38人の貧しい人々を南アフリカへ連れて行き、そこで移植手術がおこなわれたようです。

 では、先進国ではどうでしょうか。偶然にも米国エール大学の移植医が「British Medical Journal」という医学誌に移植に関する論文を2006年10月5日に発表し、翌日に共同通信が報道しています。

 この移植医は、「生体移植の腎臓提供者に金銭が支払われるような仕組みを立法化すべきだ」、と述べています。

 同医師によりますと、「米国では2005年に6,500回余りの生体腎移植が行われたが、その10倍の約6万5千人が腎臓移植を待っており、平均待ち時間は2~4年」と、臓器不足が深刻化しています。

 米国では、血液や精子、卵子の売買は合法です。同医師は、「政府の管理下で提供者への報酬も統一して移植を実施すれば違法な売買はなくなり、公平さが増し、安全性も向上する」、とコメントしています。

 このように歴史的、地理的にみても臓器売買は必ずしも絶対的な「悪」とは言えません。考え方によっては、腎臓を受け取る人は健康を取り戻し、病院と医師には報酬が支払われるのに、腎臓の提供者だけが不利益を被るのは不公平であるという見方ができるかもしれません。もちろん、臓器売買は日本の臓器移植法で禁止されている行為ですから、国内でおこなえば罪に問われることになります。

 しかし、内容を吟味せずに、ただ単に「法律に抵触することはすべて絶対に許してはならない」、などと言ってしまえば事の本質を見誤ることになりかねません。以前、このコーナーで述べましたが、「法律による罪の重さと本当の意味での罪の重さは相関しない」と私は考えています。

 今回の愛媛の病院で腎移植を執刀した医師は、臓器売買をおこなった当事者ではなく、当事者たちの嘘の証言により騙されて手術をおこなったのです。その嘘が見破れなかったということが、大手マスコミの主張する「病院と医師の倫理意識の低さは驚くしかない」というコメントに果たして相当するのでしょうか。

 金に羽振りをきかせて、後進国の若者の腎臓を買いまくっている多くの日本人が存在しているということ、世界で最も移植医療の進んでいるアメリカの専門医が臓器売買の合法化を提唱しているということ、アメリカを含め先進国のなかには血液や精子、卵子の売買が許されている国があるということ、今回の売買事件では提供者が「いいことをしたかった」とコメントしていること、そして、執刀医は腎臓提供者と受け取った患者さんの双方から「身内の関係ですのでよろしくお願いします」と頭を下げられていたこと、などを考慮したときに、この執刀医は、驚かれるほどの低い倫理意識しか持っていなかったのでしょうか・・・。

 地域でもっとも腕の立つ移植医と言われていたこの医師が、この事件のせいで今後移植手術がおこなえなくなるとすると、最も不利益を被るのは誰でしょうか・・・。

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2013年6月17日 月曜日

45 臓器売買の医師の責任(前半) 2006/10/19

昨年9月に愛媛県のある病院でおこった臓器売買に際してマスコミからいくつかの問題が指摘されています。

 まずは、この事件を簡単に振り返ってみましょう。

 愛媛県の59歳の男性が重症の糖尿病から腎不全をきたし腎移植を希望していました。その男性と内縁の関係にあった59歳の女性(仮にA子さんとしておきます)は、腎臓の提供者を探していました。A子さんには20年来のつきあいになる同じく59歳の女性の友人(B子さんとします)がいました。貸しビル業を営んでいたB子さんは、A子さんに200万円を貸していました。A子さんはB子さんに対して、「借りているお金を上乗せして返すから腎臓を提供してほしい」と言いました。B子さんはこの申し入れを承諾し、生体腎移植術が2005年9月に施行されました。B子さんは腎臓提供後、ふたりから30万円の現金と150万円相当の新車を受け取りましたが、最初の約束だった借金を返済してもらえずに2006年1月に警察に届けたことからこの事件が発覚しました。

 このあたりまでは間違いのない客観的な事実でしょう。マスコミの報道をもう少し詳しくみてみましょう。

 2006年10月4日の毎日新聞によりますと、腎臓を提供したB子さんは、「自分が生きている間にいいことをしたいから提供を引き受けた」、「A子さんとは長いつきあいだし、(腎臓をあげる)男性にもお世話になった」、「私の(腎臓を)ぜひ使ってほしい」、などと話していたそうです。また、B子さんは、手術を受けた時点で、「違法性の認識はまったくなかった」そうです。

 10月5日の共同通信によりますと、A子さんは、「執刀した医師からB子さんの乗用車要求を伝言する電話があった」と話しており、執刀医はこれを否定しています。

 事件の当事者が何を言った、言わなかったというのは実際にはよく分かりませんから、マスコミの報道は必ずしも信憑性に高くないと思われます。

 さて、この事件の問題点を整理してみましょう。

 まず、臓器売買は97年に制定された臓器移植法によって禁止されていますから、今回の事件は法律に抵触していることになります。このケースが臓器売買に該当するということに異論のある人はいないでしょう。ですから、腎臓を受け取った男性、売買を斡旋したA子さん、自分の腎臓を売ったB子さんは同法違反の罪に問われることになります。一部のマスコミが報道しているように、B子さんに違法性の認識がなかったとしても法を犯したことには変わりありません。

 次に病院と医師に対する責任という問題です。この事件でもっとも罪が問われるべきなのは違法と分かっていながらB子さんに腎臓の提供を求めた男性とA子さんであることは自明であるのにもかかわらず、マスコミの報道はむしろ医師と病院に対する非難を大きく取り上げています。

 例えば、日経新聞10月6日の社説には「臓器売買、病院の責任も重い」というタイトルで医療サイドを激しく非難しています。

 「臓器提供者の身元確認も移植に絡む手続きも「ずさん」でそれが事件につながった」
 「(医師が)臓器売買が禁じられていることを伝えたのか疑問だ」
 「(医師に)金品のやりとりの気配を全く感じなかったのか疑問」
 「病院と医師の倫理意識の低さは驚くしかない」

 まるで今回の事件は病院と医師の不手際が原因で起こったというようなコメントです。しかし、可能な限り客観的にみたとして、今回の事件における病院と医師の責任はどの程度のものなのでしょうか。

 たしかに、保険証以外の方法で身元を確認せずに患者さんの話を信用したことにはいくらかの責任はあるでしょう。しかしながら、移植を受けた男性、その内縁の妻、提供者が一丸となって「よろしくお願いします」と言って移植の希望を申し出た場合、「こいつらグルになって騙そうとしているのではないか・・・」などと疑うことができるでしょうか。

 一部のマスコミは、病院によっては保険証の提示だけでなく親族であることを確認する血液検査をやっているのに、この愛媛の病院でしていないのは不適切だ、などという報道をしていますが、これはまったくナンセンスな報道であり、このような報道自体が不適切です。一般の人の多くは、こういう報道を信じて、「臓器移植の際には、血液検査までおこなって身元確認を徹底している病院もあるのに、この愛媛の病院はいい加減だ」、と感じられると思われます。

 しかし、親族であることを確認する血液検査とは、HLAと呼ばれる、簡単に言えば白血球の血液型のようなもので、これは確かに親族であれば似たような形になりますが、移植手術の際にHLAを調べるのは、移植を受ける人がもらう臓器を拒絶しやすいかどうかをみるためのものです。例えば白血病などで骨髄移植を受ける場合には、移植を受ける人と骨髄を提供する人のHLAができるだけ一致している必要があります。(このため骨髄バンクの役割が重要になるのです) 一方、腎臓の場合はHLAが似ていなくても身体が拒絶反応をそれほど示さずに、術後の問題が他の臓器移植に比べると少ないという特徴があります。

 執刀した医師がコメントしているように、医師と患者さんとの関係は信頼の上に成り立っています。そもそも今回の事件に限らずに、医師を欺こうと思えばいくらでも簡単に陥れることができます。

 例えば、ある患者さんが交通事故で重態になったとしましょう。その患者さんが緊急手術の必要な状態となり術後に家族がやって来たとします。当然その家族は患者さんの状態を尋ねます。このとき医師は、「あなたが患者さんの家族であることを証明するために戸籍をとってきてください」などと言えるでしょうか。

 あるいは外来に患者さんが家族とともにやってきたとします。患者さんに痴呆があるような場合、その付き添いの人に話をすることになります。このとき、「私はあなたがこの方の家族であることが信用できませんからお話はできません」などと言えるでしょうか。

 今挙げたふたつの例は極端かもしれませんが、いずれの場合も、後になってから患者さんから、「説明をした人は私の家族でもなんでもない。あんたは私のプライバシーのことを赤の他人に話したんだ。守秘義務違反及び個人情報保護法違反で訴える!」、と言われれば医師にはなす術がありません。

 今回の移植事件は倫理委員会を通すべきだったという意見もあるかと思いますが、委員会を通したとしても、公文書を偽造することだってできるでしょうし、本気で騙そうと思えばそんなにむつかしいことではありません。

 今回の事件を医師と病院の責任にするのは、まるで「いかなる詐欺師にも医師は騙されてはいけない」と言っているようなものです。日常生活では詐欺師に騙されることのない医師であったとしても、医師というのは、日頃から「患者さんのためにできる限りのことをしたい」と考えているわけですから、手の込んだ方法で欺かれれば打つべき手がないのです。

 次回は、臓器売買はどこまで違法かという点についてもう少し詳しくみてみたいと思います。

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2013年6月17日 月曜日

44 人は何のために働くのか 2006/9/20

先日、生命保険を生前給付型のタイプに切り替えたので、その際に必要な健康診断を受けるために保険会社に行ってきました。

 健康診断をおこなうのはその生命保険会社に勤務する医師です。その医師はその生命保険会社の社員であり、仕事は健康診断がほとんどで、病院や診療所での一般診療はしていません。

 健康診断が終わった後、少し時間があったので、私はその医師に仕事のやりがいについて尋ねてみました。というのは、医師を志す時点で、「保険会社で健康診断をやりたい!」と言っている医学生や受験生は見たことがありませんし、私の周囲にはこのような仕事をしている医師がいないからです。

 その医師の回答はこういうものでした。
 
 「こんな仕事、誰にも薦められないよ。やりがいはまったくと言っていいほどないし、わりきってやらないとできないよ。実際、この会社にもときどき病院を辞めて就職する医者がいるけど、大半は一年足らずでやめていくしね・・・。ただ、給料は高くて、残業はなくて完全週休二日だし、有給休暇は取得できるし、夜中に呼び出されることもないし、プライベートの充実という観点から考えたら、これほどいい仕事もないという見方もできるんだよ・・・」

 おそらくこの医師のこの意見は本音だと思われます。たしかに、病院や診療所での勤務であれば、勤務時間は長くて、休みもあまりとれないですし、その上日々新しい医学の勉強をしなければなりませんし、論文を書いたり、学会発表をしたり、と時間がいくらあっても足りません。給料にしても、夜間や土日の勤務があるから他の仕事よりも高収入であるわけであって、時給換算すれば医師の仕事はそれほど割高ではありません。時給でみれば、おそらくこの保険会社の給与は、一般の医師の倍以上になるのではないかと思われます。

 社会には保険会社で勤務する医師も必要なわけですから、この仕事を非難するようなことはもちろんできませんし、人にはそれぞれ自身の考え方があるわけですから、こういう仕事についてとやかくいうことは誰にもできません。

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今度は、保険会社の医師とはある意味で対照的な、私の知る医師を紹介したいと思います。

 その医師はヨーロッパのある小国出身です。若い頃にある程度の貯金をし(ただし、ヨーロッパでは医師はそれほど高額所得者ではないため貯金といってもそんなに大金ではありません)、また家賃収入で月に5万円ほどの不労所得があることから、長期でタイに旅行に来ていました。

 その医師は以前からタイが好きで(私には「I “LOVE” Thailand.」と言っていました)、タイへの長期旅行は長年の夢だったそうです。その医師がタイを好きな理由は、物価が安いことと自然が美しいことだと言います。実際、その医師はタイに来てからしばらくは美しいビーチでのんびりと過ごしていたそうです。

 ところが、その医師に転機が訪れることになります。彼がタイに来たのは90年代後半だったのですが、当時のタイは今以上にエイズが大きな社会問題となっていました。家庭や社会から追い出され、行き場をなくした患者さんたちは行くあてもなく彷徨っていたのです。

 その医師は、そんなエイズの実情を目の当たりにし、「こんなにも困窮している人たちがいるのに、私はのんびりとビーチで過ごしていていいのだろうか・・・」という思いが次第に彼を苦しめるようになりました。

 そして、その医師は、ビーチサイドのまったりとした生活を捨てて、タイのある施設で、無給で医療ボランティアをおこなうことを決心したのです。彼が選んだその施設は、周囲には山と田畑しかない田舎で、美しいビーチからはほど遠い世界です。

 その医師は、現在もタイの困窮した患者さんのために、自らの身体も精神も捧げています。現在の月収は、母国での家賃収入の約5万円のみです。

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 「金のために働くんじゃない、なんていうのは単なるキレイ事だ」
 と言う人がいます。また、
 「儲かればどんな仕事だっておもしろくなる」
 と言う人もいます。

 果たして本当にそうでしょうか。

 アンドリュー・カーネギーという大富豪をご存知でしょうか。カーネギー財団、カーネギーホールという名前はきっと聞かれたことがあるでしょう。カーネギーは「鉄鋼王」として有名ですが、実は彼が大富豪になったのは若い頃から「投資」をおこなっていたからです。

 カーネギーは20代半ばですでに大富豪になっていましたが、33歳の頃にこんなメモを残しています。

 「人間は理想とする目標を持たねばならぬ。金儲けは最悪の目標である。富の崇拝ほど悪しき偶像崇拝はない」

 カーネギーは、若い時期から、儲けた富を社会に還元していくことを決めていたが故に、あれほどの成功をおさめることができたのではないかと、私には思えます。

 ヒルティというスイスの思想家がいます。彼は『幸福論』のなかで、次のようなことを言っています。

 「働いていない休息は、食欲のない食事と同じく楽しみのないものだ。最も愉快な、最も報いられることの多い、その上最も安価な、最もよい時間消費法は、常に仕事である」

 私は先に紹介したヨーロッパの医師の話を聞いて、この言葉を思い出しました。

 ここにご紹介した生命保険会社で働く医師とヨーロッパのボランティア医師のどちらがいいか、という議論には意味がありませんが、対照的ともいえるこのふたりの医師の姿を比べてみることは興味深いと言えましょう。

 最後にヒルティの言葉をもう少し紹介しておきましょう。彼は、『幸福論』のなかで、「生まれつき働き好きな人間などありはしない」、と言いながらも次のように述べています。

 人間の本性ははたらくようにできている・・・

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2013年6月17日 月曜日

第43回(2006年8月) 世界一幸せな国

 先日、イギリスのNPOのnef (new economic foundation)が、世界178カ国を対象に「幸せ度数」のランキングを発表しました。

 「幸せ度数」とは、nefが独自に考案した指標で、主に3つの要因が基準となっています。その3つとは、生活満足度、平均寿命、環境汚染度です。平均寿命は客観的なものですが、生活満足度と環境汚染度はnef独自の調査によるものです。

 ランキングの1位から10位は、バヌアツ、コロンビア、コスタリカ、ドミニカ、パナマ、キューバ、ホンジュラス、ガテマラ、エルサルバドル、セント・ビンセントとグレナディーン諸島で、いわゆる先進国はひとつもはいっておらず、太平洋沖の諸島や中南米の国家ばかりです。

 こういった国には、観光でなら行ってみたい気がしますが、本当にこういった国家に住む人たちが幸せと感じているのかどうかが知りたいところです。例えば、コロンビアやコスタリカなどは、治安の悪さから、気軽に観光にも行けない国家とされています。一人当たりのGDPも高いわけではなく、自然の恵みがあるために飢えることはないのかもしれませんが、本当に住民は満足しているのでしょうか。幸せな国第一位とされたバヌアツは、オーストラリアの東に位置する小さな島国ですが、ひとりあたりのGDPは1,340ドル(2004年)しかありません。

 では、この調査で先進国はどのように位置づけされているのでしょうか。主要国をみてみると、アメリカ150位、イギリス108位、フランス129位、ドイツ81位、オーストラリア61位、日本は95位です。他のアジア諸国では、韓国102位、台湾84位、中国31位、マレーシア44位、シンガポール131位、タイ32位、フィリピン17位となっています。

 大まかに言えば、自然が多くて開発の進んでいない国がより幸せであり、その逆の傾向にある国が不幸せとされているように思われます。(それにしても、アメリカの150位というのは低すぎるような気がします・・・)

 この結果は、nefが、自然環境を極端に重視するイデオロギーを持っているからではないかと、私には思えます。ランキングの上位に入っている国家には、先進国から開発援助を受けているところもあります。nefの主張することが正しいとすれば、「より不幸せな国家がより幸せな国家を援助している」、という図式が成立してしまいます。

 この結果が公表されてから一月もたたないうちに、イギリスのレスター大学が「生活の満足度」を基にした「幸せの世界地図」を発表し、nefの報告と同じように世界各国にランキングを付けました。この調査は、世界178カ国を対象に、100個の様々な研究を基にしておこなわれています。

 ランキングの1位から10位は、デンマーク、スイス、オーストリア、アイスランド、バハマ、フィンランド、スゥエーデン、ブータン、ブルネイ、カナダです。nefの報告とは異なり、こちらは多くが先進国です。この報告をおこなったレスター大学の社会学者は、「貧困な国家に住む人たちこそが本当は幸せである、などといった”神話”から我々は目覚めるべきだ」、と話しているそうです。まるで、nefに対抗するかのようなコメントです。

 レスター大学の報告をもう少し詳しくみてみましょう。他の先進国では、アメリカ23位、イギリス41位、オーストラリア26位、フランス62位、ドイツ35位、日本は90位です。他のアジア諸国では、韓国102位、台湾68位、中国82位、マレーシア17位、シンガポール53位、タイ76位、フィリピン78位となっています。

 どちらの調査でも、日本と韓国が同じような下位にランキングされているのが興味深いと言えます。うがった見方をすれば、日本と韓国は、美しい自然がないだけではなく、文明の利益も受けていない、ともに不幸せな国家とされてしまっているわけです。

 もちろん、こういった調査結果は鵜呑みにする必要はありません。日本が両方の調査でこれだけ下位に位置づけされているのは気持ちのいいものではありませんが、別段これらの機関に抗議するような問題でもないでしょう。

 レスター大学の調査結果をみて、私はあることに気づきました。

 それは、バハマを除く上位1位から7位までの国家、すなわち、デンマーク、スイス、オーストリア、アイスランド、フィンランド、スゥエーデンは、いずれも、私がこれまでにタイで出会ってきたボランティアの出身国で多い国家に合致するということです。これらに、ベルギーとオランダを加えれば、私の経験にほぼピッタリとなります。

 以前、このコーナーでも述べましたが(谷口恭のメディカル・エッセィ第32回「 医者は「勝ち組」か「負け組」か」)、これらヨーロッパの国々からタイにボランティアに来ている人たちは、年齢性別を問わず、私の知る限りお金持ちはひとりもいません。金持ちどころか、彼(女)らの年収は日本円にして300万円にも満たないのです。それでも、困窮している人を救うために、はるばる遠いところからアジアにやってきて一生懸命ボランティアをしているのです。

 私は、ボランティアをすることが偉いことなんだ、というつもりは毛頭ありませんが、私がこれまでに出会ってきたボランティアの出身国を、レスター大学が「幸せな国」としていることは、単なる偶然以上の意味があるに違いないと思います。

 これらの先進国は、どちらかと言うとヨーロッパの小国です。一方で、なぜか私の知る範囲では、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペインなどといった欧米の大国からタイに来ているボランティアはそれほど多く見かけません。(タイの繁華街やリゾート地では、こういった大国の出身者によく出会いますが・・・)

 日本人はどうかというと、タイにはもちろん大勢のボランティアがいますし、ボランティアに来られない人でも、困窮している人々を救うためにお金を出している人は少なくありません。一方で、同じアジアに位置しており、同じ先進国である韓国、台湾、シンガポールなどの出身のボランティアはほとんど見たことがありません。

 もしも、私のこの仮説「ボランティアに積極的な国家=幸せな国家」が妥当だとすれば、タイには多くの日本人ボランティアがいるのに、日本が「幸せな国」のランキングに入らないのはなぜでしょうか。
 
 私の仮説が正しいとするならば、「幸せな国」に住む人たちは、タイだけでなく、アフリカや東欧も含めた世界各地で活躍しているのではないでしょうか。それに対して、日本人がボランティア先として選ぶのはアジアが圧倒的に多く、アフリカなどはまだまだ少数なのではないかと思われます。

 この私の仮説が正しいかどうかは別にして、いずれ世界のどこにいってもボランティアとして活躍している日本人と出会える時代が来ることを期待したいと思います。

 そのときのレスター大学の調査結果を見てみたいものです。

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2013年6月17日 月曜日

42 馬を水辺に導くことはできるが馬にその気がなければ水を飲ませるこ とはできない 2006/7/19

2006年6月20日に奈良で起こった、有名進学高校の1年生が自宅に火を付け母子3人が死亡した事件は、我々医師の間でも議論を呼んでいます。

 加害者の少年が、医学部にたくさんの卒業生を送り込んでいる有名進学高校の生徒であるのと同時に、父親が医師である、というのもその理由です。

 報道によりますと、この47歳の父親は、加害者である息子に、医学部進学を義務付け、週に1~2回暴力を振るっていたそうです。勉強部屋を「ICU(集中治療室)」と呼び、スパルタ教育を徹底していたとの報道もあります。

 暴力行為のほかにも、テレビゲーム機を取り上げて破壊したり、友人らの訪問中に勉強することを命令したりしたこともあったそうです。

 また、一部の報道によりますと、加害者は高校入学まで人気タレントの木村拓哉さん(33)の名前すら知らなかったことが分かり、奈良地検の調べに「家が灰になってすっきりした」「勉強しなくていいので留置場は快適だった」などと話しているとのことです。
 
 この話を医師のあいだでおこなうと、「他人事とは思えない」と感想を述べる者が少なくありません。

 よく知られているように、医師の父親(もしくは母親)もまた医師である、というケースは非常に多く、きちんとした統計は見たことがありませんが、おそらく半数近くの医師が該当するのではないかと思われます。もちろん、親も医師である医師のすべてがスパルタ教育を受けていたわけではありませんが、少なくとも両親から医師になることを薦められていた人はかなりの数になると予想されます。

 この加害者の罪を軽くするよう求めた嘆願書が全国からすでに1500通以上集まっているそうですが(7月2日現在)、嘆願書を書いた人のいくらかは、事件を起こした加害者の気持ちに共感できるからでしょう。

 この「スパルタ教育」という言葉は、決していい意味ではありません。「子供の気持ちを無視した親の一方的な教育方針」というニュアンスで語られることが多いと言えます。

 しかし、客観的には「スパルタ教育」と見える家庭でも、両親に話を聞けば、けっして「子供の気持ちを無視」しているわけではなく、「子供のためを思ってしっかりした勉強の環境を与えている」つもりのことが多いようです。

 そのため、この事件を他人事とは思えないと言う医師は、それまでは子供のためを思ってやっていると信じていたことが幻想であり、「自分の子供ももしかしたら・・・・」、と感じているのかもしれません。

 私自身は、自分の子供はいませんが、医師であり、また勉強に関する書籍を出版していることもあり、この事件に対するコメントを求められることが多いので、この場で私自身の意見を述べたいと思います。
 
 まず私は、嘆願書を書く人の気持ちが理解できません。たしかに、過酷な環境で勉強を強いられていたことには同情しますが、そこから殺人へは飛躍しすぎです。殺害は放火の帰着であって殺人の意図はなかった、という弁護もあり得るでしょうが、16歳にもなっていれば、自宅に火をつければどのような結果になるかということくらい、いくら世間知らずで木村拓哉さんを知らなくても分かるはずです。

 これは私の持論ですが、殺人については、自分の身内が殺られた復讐としての動機を除けば、罪を軽くすべきではないと考えています。
 
 一方で、私はこの父親にも同情する気になれません。

 というのは、自分が医師という職業に誇りを持っているならば、自分の臨床の成果や患者さんとの心のふれあいの話をして、医師の魅力を伝えることをすればいいわけで、それで充分なはずです。 

 もしも、医師の魅力が息子に伝わって、息子が医師になりたいと思えば、親が何も言わなくても勝手に勉強するでしょう。医師になるという目標があって勉強をおこなえば、自然に勉強のおもしろさが分かってくるはずです。

 なぜなら、病気や怪我の治せる一人前の医師になろうと思えば、基礎知識が必要になることは明らかで、その基礎知識を身につけるためには高校の勉強こそが大切だということが分かるからです。今やっている勉強が、将来患者さんのためになると思えば、少々のスランプが来ても乗り越えられるはずです。

 医師の魅力以外に、父親が息子にアドバイスすることがあるとすれば、今おこなっているほとんどの勉強が将来の患者さんに喜ばれることになる、ということを伝えればいいのです。
 
 「まだ、うちの子供は未熟だから勉強の大切さが分かっていない」、という親もいますが、私はこれにも同意できません。この親の言うことはたしかに事実かもしれませんが、そうであったとしても、やる気のない人間に何かを強いることは、どんな方法をもってしても不可能です。

 他人になにかをおこなってもらうときに有効な方法はただひとつしかありません。それは、その人にそのことがらに対する興味を持ってもらうことです。これ以外にはありません。いくらアメとムチを使ってコントロールしようとしても、その行動は長続きしません。まして、受験勉強のように、長期間の忍耐力が必要とされるようなものに対しては、本人が興味を持つ以外に方法はないのです。

 拙書『偏差値40からの医学部再受験実践編』で述べているように、医学部志望の動機が、金儲けとかブランドであっては勉強に対するモチベーションが継続せず、医療の本質に興味を持たない限りは、医学部合格はあり得ないのです。

 ちなみに、私は両親から「勉強しなさい」と言われた経験はほとんどありません。実際には言われていたのかもしれませんが、もし言われていたとしても無視していたに違いありません。

 私は、皮肉なことに、大学に入学してから他学部の学問が好きになり編入学をおこない、医学に興味を持ってからは会社を退職し、今も勉強を続けていますが、「勉強しなさい」と言われて勉強したことは一度もありません。

 しかしながら、現在ひとつだけ後悔していることがあります。

 それは、英語の発音です。商社に入社したての頃、まったく英語ができない私に対して、先輩方は、「(英語は)読み書きはいつでもできるから、先に発音をしっかり勉強しなさい」、というアドバイスをくださいました。

 先輩方は、たしかに例外なく発音がきれいでした。しかし、入社時から英語のできた人はほとんどおらず、ほぼ全員が入社後に発音の勉強をおこなうことによって上達したそうなのです。よく、英語の発音は幼少時に学ぶ必要がある、ということが言われますが、実はそうではなく、成人してから勉強しても上達するということを、先輩方は身をもって証明していました。

 ところが、私はそんな先輩方の忠告には一切耳を傾けず、貿易業務にすぐに役立つと思われたビジネス英語の読み書きに絞って勉強したのです。

 その結果、たしかに読み書きにはあまり苦労しなくなりましたが、会話、特に発音は今でも苦手です。

 けれども、最近になって、私もついに重い腰を上げました。商社を退職してからも、英語を使う機会が続いており、発音のおもしろさが10年以上の月日をかけてようやく分かるようになってきたのです。 先日、発音の教科書を購入し、毎日少しずつCDを聴きながら勉強しています。どれくらいの年月がかかるかは分かりませんが、今の私は発音に興味を持っていますから、いくらセンスがないとは言え、少しくらいは上達する日がやがてくるでしょう。

 あのときの先輩方、なぜ「発音を勉強しなさい」ではなく、「発音のおもしろさ」を教えてくれなかったのですか・・・

 と感じている私はあまりにもわがまますぎますか?

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2013年6月17日 月曜日

41  それでもあなたはまだ働きますか 2006/6/19

先日、タイのある地方都市の空港でドイツ人の若いカップルと知り合いになりました。そのカップルは、長期休暇を利用してタイに旅行に来ているとのことでした。男性はまだ学生だそうなのですが、女性は企業に勤務しているとのことです。

 「どれくらいタイにいるのか」という私の質問に対して、「合計で6週間タイに滞在する」との返事が帰ってきました。

 6週間のタイ旅行!

 学生である男性はいいとして、なぜ女性がこのような長期休暇をとれるのでしょうか。彼女は答えました。

 「ドイツではほとんどの企業で6週間の夏休みがもらえるのよ」

 6週間もの夏休みをもらえる日本の企業など私は聞いたことがありません。それどころか、IT関係などの新興企業では休みがほとんどないという話をよく聞きます。私がそれを話すと、

 「たしかにドイツでもIT関係の企業は休みが少ないけれど、それでも最低2週間は休みがとれるわ。もちろん連続で2週間よ・・・」
 
 私がまだ商社勤務をしていた頃の話・・・。

 ドイツのある企業を担当していた私は、その企業のある器械を、日本で輸入販売を開始するプロジェクトチームの一員でした。その器械は、当時の日本市場では画期的なものであり、そのプロジェクトは会社をあげてのものでした。器械を日本仕様に合わせるためにいくつもの問題点が出現し、当初予定していた発売日が大幅に延期されていました。そして、ついに準備が完了し、いよいよ来週から発売となったある日、そのドイツの企業の担当者から一枚のFAXが流れてきました。

 「明日から2ヶ月の夏休みをとるから、日本での発売は2ヵ月後にしてほしい・・・」

 こんなこと、日本で通用するでしょうか。自分の夏休みのために、取引先が社運をかけて販売を開始しようとしている商品の発売を延期するなんて、そんなことできるわけがありません。日本人なら、自分の担当している商品を販売してくれる会社のためなら、むしろ自分の休みを返上して働こうとするでしょう。
 
 日本人は働きすぎだ、とよく言われます。

 2006年6月10日のBangkok Postに掲載された記事によりますと、2003年の製造業における各国の年間労働時間は、日本が1975時間、アメリカが1929時間、イギリスが1888時間です。そして、フランスは1539時間、ドイツは1525時間だそうです。これは製造業の数字ですから、日本のホワイトカラー、特にIT関係の企業に勤めている人は2000時間を軽く越えることでしょう。

 ここで日本の医師について考えてみたいと思います。きちんとしたデータは見たことがありませんが、日本の医師、とりわけ研修医の労働時間が長いことはよく知られています。

 研修システムが充実していると言われているアメリカの研修医は、週に80時間以内の研修しか受けられないことになっています。これは厳格に規定されており、もしも週に80時間を越える労働(研修)をしたことが当局に知られると、その病院は、研修医を雇用することができなくなる、などといった厳しいペナルティが課せられます。

 私がこの80時間という数字を聞いたときに、「よくそんな短時間で研修ができるな」という感想と同時に、「うらやましい」という気持ちがあったのも事実です。日本の研修医の1週間の労働時間は、軽く100時間を越えると思われるからです。

 これをドイツの製造業の労働時間と対比させてみましょう。年間1525時間ですから、1年間が52週とすると、週あたりの労働時間は、なんと29時間!となります。

 極端な比較かもしれませんが、日本人医師とドイツ人製造業者の労働時間はこんなにも差があるのです。

 先にあげたBangkok Postの記事は、日本大学で実施されたひとつの研究を紹介しています。その研究によりますと、日本人が睡眠時間を削って働くことによって、結果として年間およそ3兆5千億円もの損失があるそうなのです。長時間労働は生産性の低下につながるだけでなく、睡眠不足から起こる交通事故、さらには過労死まで引き起こすということが、この研究で述べられているようです。

 この記事には、同じような研究も紹介されています。1990年に実施されたアメリカの研究では、睡眠不足によって年間1500億ドル(約15兆円)もの損失があるそうです。
 
 このような研究は医師を対象としたものもあります。

 『New England Journal of Medicine』2005年1月13日号に掲載された論文によりますと、24時間以上連続して病院に勤務する医学インターンが自動車衝突事故を起こす確率は、長時間勤務をしないインターンの2倍以上であり、報告されたニアミスの数も5倍であることが分かったそうです。

 24時間以上の連続勤務というのは、他の職業ではあまりないかもしれませんが、医師では当たり前のようになっています。私は現在、医師として5年目になりますが、いまだに研修医と同じような勤務体系をとっているため、一晩働いて次の日は朝からそのまま外来担当ということもよくあります。

 これが医師として当たり前の姿なんだ、という気持ちもありますが、こういったデータ、特にニアミスが5倍になる、などといったデータを示されるとぞっとします。

 もうひとつ、医師を対象とした研究をご紹介しましょう。

 『JAMA』2005年9月7日号に掲載された論文によりますと、医師が夜間の激務をこなした後には、注意、覚醒性、運転シミュレーションの成績が、血中アルコール濃度が0.04から0.05%の時と同程度に低下することが分かったそうです。

 血中アルコール濃度が0.04から0.05%というのは、ビールで言えば大ビン1から2本程度で、ほろ酔いというよりは、ある程度酔っ払ったような状態です。そんな状態で医師としての仕事をこなしているなどということは、にわかには信じがたいのですが、『JAMA』に載るほどの論文ですから、このデータはきちんと実証されたものであると言えるでしょう。

 医師に限らず、あまりにも激務が続くと、その後に待っているのは過労死です。過労死などというのは他の国ではあり得ず、そのため「過労死」の英語(国際語)は「karoshi」です。

 長時間労働は、酔っ払った状態へと導き、仕事の効率を落とし、ミスを引き起こす可能性も強くなり、挙句の果てには「karoshi」となるかもしれない。そして、日本社会全体でみれば、3兆5千円億円の損失・・・。

 もしも、日本人全員が長時間労働をやめて3兆5千億円を取り返し、ドイツのように6週間の夏休みが取れると仮定してみましょう。日本の労働人口はおよそ7千万人ですから、3兆5千億円損していた分を均等に分け与えるとすると、ひとりあたりの取り分は、およそ5万円ということになります。

 5万円のお小遣いがもらえて6週間の夏休み・・・。

 6週間もの夏休みがあれば、海外のリゾート地にでもでかけてゆっくりと休養を取りたいものです。けど、小遣いが5万円では心許ない、というか飛行機代すらでません。

 ならば、もっと残業して仕事を増やし、小遣いを貯めてから旅行にいけばいい・・・。

 こういう発想をしてしまう私は、やはり典型的な日本人なのでしょうか・・・。

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2013年6月17日 月曜日

40  草の根レベルの国際交流 2006/6/1

私は現在5年目の医師ですが、この5年間で、次第に外国人の患者さんが増えてきているように感じています。

 医師1年目の頃は、外国人の患者さんというのは月にひとり程度だったのですが、最近は確実に週に1~2人の患者さんと接します。以前は、外国人と言えば、西洋人の方がほとんどでしたが、最近は中国人やベトナム人といったアジアの方々が増えてきています。

 外国人の患者さんを診察するときには、どうしても日本人の患者さんより時間がかかるのですが、それはもちろん言葉の問題があるからです。

 西洋人の方であれば、たいがいは英語を話されます。しかも患者さんは日本企業に勤めていたり、語学学校の教師であったりすることが多いですから、日本人の話す英語もよく理解してくれることが多く、私のように下手くそな発音をしていても、なんとかコミュニケーションをとることができます。ですから、英語を話す患者さんであれば診察時間は日本人とそう変わらないと言えるでしょう。

 日本語も英語も話さない患者さんの場合は、ときに診察に長時間を要します。

 コミュニケーションがとれなければ問診ができませんから、患者さんによっては、あらかじめ知人の通訳を連れてきてくれることもあります。また、最近は自分の子供に通訳をさせる患者さんもおられます。アジアから日本に来られている女性は日本人男性と結婚していることが多く、その子供は日本語だけでなく、母親の母国語も話せることがあるからです。

 今後ますます日本に来られるアジアの方が増えることが予想されますから、我々医療従事者は英語だけではやっていけない時代に入るのかもしれません。

 通訳を介した問診では、どうしても時間がかかりますし、プライバシーの問題もあります。例えば、性行為に関する問診などは、できれば通訳なしでおこないたいものです。また、女性の月経に関する質問をするときに、まだ小学生の子供に通訳をしてもらってどこまで正確に伝わるのかを危惧することもあります。それに、通訳を介すと、ある程度は通訳者の恣意的な訳になることが避けられないため、コミュニケーションの正確さを欠いてしまいます。

 患者さんにもよりますが、日本語を一生懸命に勉強されていることに驚くことがしばしばあります。日本人の私にとって、外国人の方が日本語を勉強されているというのは大変嬉しいものです。片言の日本語を話す患者さんは、年齢・性別を問わずたいへん「かわいく」感じます。

 先日、ある中国人の方に興味深いことを教えてもらいました。彼女は日本語も英語も堪能で、一時は同時通訳を目指したこともある程、語学のセンスにすぐれた方です。

 彼女によると、最近、「もったいない」という日本語が、世界共通語として認識されつつあるそうなのです。

 この「もったいない」という言葉は、苗木の植樹を呼びかけたグリーンベルト運動が評価され、2004年にノーベル平和賞を受賞されたケニアのワンガリ・マータイ女史が世界に普及させたそうです。

 マータイ女史が、この「もったいない」という言葉を気に入られたのは、アフリカには「もったいない」を表現する適切な言葉がないからだそうです。

 アフリカにないからといって、何も日本語を使わなくてもよさそうに思いますが、それでも日本語を採用してくれたということに対しては、私は日本人として純粋に嬉しく思います。

 たしかに、英語には「もったいない」に完全に合致する表現はないのかもしれません。状況によって、It’s a waste of money、It’s a waste of food、などと言うことはありますし、スムーズなコミュニケーションが取れている状況では、What a waste! などと言うと「もったいない」にピッタリ当てはまるように思いますが、「もったいない」のように一語で表現できる形容詞は私の知る限り見当たりません。

 それに、これは私のイメージですが、日本語の「もったいない」には、「残念だ、惜しい」のようなニュアンスがあるように思われますが、「waste」という単語からはこういったニュアンスは引き出せないような気がします。

 さらに、日本人はこの「もったいない」という単語を一日に何度も使いますが(少なくとも私は頻繁に使っています)、あまり欧米人が「waste」を連発しているのを聞いたことがありません。

 しかし、中国語には日本語の「もったいない」にほぼピッタリあてはまる言葉があるそうです。「可惜」という言葉です。この漢字から分かるように、「可惜」にも「惜しい」というニュアンスは含まれています。そして、日本人が「もったいない」を多用するのと同じように、中国人もこの「可惜」を一日に何度も使うそうです。

 タイ語では「もったいない」を「???????」と表現します。そして、この単語にも「惜しい」というニュアンスがあり、日本語の「もったいない」にも「惜しい」にも、ピッタリあてはまります。タイ人と一緒にいればすぐに分かりますが、彼(女)らは、この「???????」を一日に何度も使います。

 (ちなみに、「可惜」「???????」を、無理やりカタカナ表記すると、それぞれ「コシ」「シアダイ」になるかもしれませんが、中国語もタイ語も声調があり、子音や母音の発音も日本語とは異なりますから、このままカタカタ表記を発音してもまず通じません。)

 おそらく、他の言語でも、特にアジアの言語では、「もったいない」にピッタリ合致する表現が存在するのではないでしょうか。

 マータイ女史が、日本語の「もったいない」を採用されたのは、「可惜」や「???????」を知るよりも先に「もったいない」という単語に巡り合ったからではないかと思われますが、もしかすると「もったいない」という響きのようなものが気に入られたのかもしれません。

 いずれにせよ、「もったいない(mottainai)」がアフリカ諸国だけでなく、「kaizen」や「tsunami」や「karaoke」と同じように国際語として認識されつつあるというのは、日本人にとっては嬉しいものです。

 日本語を勉強する日本滞在の外国人が増え、「mottainai」が国際語となるというのは、どちらも歓迎すべきことですが、最近のアジアの情勢をみていると、そう喜んでばかりもいられないようです。

 例えば、最近、韓国や中国の大学生の間で、日本語を勉強したり、日本留学を希望したりする学生が激減しているそうです。もはや日本からは学ぶことがないということなのでしょうか。

 また、相変わらず中国と韓国では「反日」のムードが強いそうです。仲のよい近所付き合いが日常生活上不可欠なのと同じように、近隣諸国とはいい関係を保たなければならないのは自明ですが、中国と韓国の世論では、良好な関係を維持することにより得られるメリットよりも、日本を敵対視することを優先させているようです。また、このような世論に反応して「中国や韓国は嫌い」と感じている日本人が増えてきているそうです。

 しかし、こういう世論があるのは間違いないとしても、個人レベルでみたときに、「日本人は嫌い」と考えている中国人や韓国人、あるいは「中国人や韓国人は嫌い」と考えている日本人はどれだけいるでしょうか。

 私は、何人かの韓国人や中国人の知り合いがいますが、「嫌い」などと思ったことは一度もありませんし、同じように、個人レベルで韓国人や中国人と付き合いのある日本人で、彼(女)らを嫌いと言っている日本人も、その人が彼らの詐欺の被害にあったなどという特殊な事情がない限りは、ほとんどいないのではないでしょうか。同様に、日本や日本人をよく知る韓国人や中国人で、日本人が嫌いと言っている人も見たことがありません。

 つまるところ、共同体としての「日本」には敵対心をもっている韓国人や中国人も、個々の「日本人」と付き合えば理解し合えるのです。これは、日本人から彼(女)らをみたときも同様です。

 イメージや幻想で人間を評価するのではなく、そんな評価をする前に、実際に彼(女)らと付き合ってみるべきなのです。かけがえのない友人となるかもしれない可能性を、先入観や偏見でつぶしてしまうのは「mottainai」ことなのです。

 医師と患者さんは「友人」の関係にはなれないかもしれませんが、私はこれから、以前にも増して医師として彼(女)らの力になりたいと考えています。そして、こういったことを含めた草の根レベルの交流が、国際世論にまで影響を及ぼすことを期待しています。

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2013年6月17日 月曜日

39  わいせつ医師を排除せよ!② 2006/5/15

少し古い話になりますが、1994年に大阪のある開業医が売春禁止法で逮捕されました。この開業医は結婚していながら韓国人の女性を愛人として囲っていました。そして、その愛人と共同で大阪ミナミに売春施設を経営していたのです。売春婦として働かせていた女性は日本人ではなくタイ人でした。

 それだけではありません。この開業医は、同僚や後輩の医師、さらに自分の患者さんに対しても売春婦を斡旋していたといいますから驚きます。

 「売春」という問題は非常に複雑で、「よくないことだからやめましょう」などと言うだけでは何の解決にもなりません。おそらく日本にまで来て身体を売っているタイの女性は、貧困地域の出身であり、売春で稼いだお金で一家を養っているのでしょう。タイは母系社会であり、女性が両親を支えるという伝統があります。

 私にはそんな女性たちを非難することはできません。キレイ事の好きな人は、「貧しくても普通の仕事で頑張っている人もいるんだから売春はよくない」、などと言いますが、人にはそれぞれ事情があるのです。学歴のない地方出身のタイ女性は、バンコクなどの都会にでてきてもせいぜい日当が150バーツから180バーツ程度で、これは日本円にすると500円程度です。

 タイの地方の女性は結婚が早いですから、10代ですでに二人の子供がいるということも珍しくありません。(ちなみにタイの中流から上流階級の女性は日本人よりも初婚が遅いようです。ある中流階級の女性は、バンコクだけでみると、たぶん平均初婚年齢は30歳くらいだと言っていました。)さらにタイでは、自分の夫が他に女を見つけて家を出て行くということが当たり前のようにあり、日本のように慰謝料を払うような男性はほとんどいません。(私がタイのエイズ施設でお会いした女性患者さんの大半がこのパターンです。)

 タイにいても身体を売るしか生活する方法がないところに、日本人からうまい話をもちかけられて、というよりほとんど騙されて日本に不法滞在しているのが彼女らなのです。医師であれば、そんな彼女たちを救う立場にあるはずです。この開業医は、そんな彼女たちに売春をさせて自らは暴利をむさぼっていたというのですから、怒りを通り越してなんと言えばいいのかわかりません。

 ついでにもうひとつ述べておくと、日本に不法滞在しているタイ女性でHIV陽性の人は、タイではなく日本で感染しているという事実があります。これはタイで取材したときに分かったのですが、タイ女性を日本に斡旋しているブローカーは出国前に必ずHIVの検査をしています。検査でもれている女性もなかにはいるかもしれませんが、それでも大半は日本で感染しているのです。実際に私は、日本でHIVに感染し、現在はタイの施設に入居している患者さんを知っています。

 私はこの開業医に直接会ったことはありませんが、この開業医をよく知る医師を何人か知っています。ところが、誰もこの開業医を悪いように言わないのです。この理由は私には皆目見当がつきません。違法行為を行い、良心や道徳的観念のない人間がどうして他の医者から非難されないのでしょう?世間から見れば医師独特の考えがあるのでしょうか?今後、この問題についても追って行きたいと思います。ちなみにこの開業医は今も開業医として仕事を続けています。

 最近雑誌でみたケースをご紹介いたしましょう。これは医師が逮捕された事件ではなくて、東京に住む20代のある女性がある雑誌に投稿を寄せたものです。

 その女性は、女性誌の広告をみて都内のある美容外科クリニックを受診しました。院長の話によると、今ならキャンペーン中で、美容外科手術を安く受けられることに加え、そのクリニックが経営している美容学校にも入学することができて卒業後は美容の仕事が与えられるそうです。しかしその価格は合計で370万円。彼女には到底支払うことのできない金額でした。値段を聞いてしぶっている彼女に院長はすかさず言ったそうです。「じゃあ、特別に150万円にしてあげよう。」

 彼女は少しあやしいと思いながらも、これだけの値引きをくれるなら申し込まなければ損と考え、その場でカードローンにサインをしたそうです。

 翌日の夕方、院長の携帯電話に電話をするように言われていた彼女は、約束どおりに電話を入れました。院長は今から講義をするから指定の場所に来るように、と言ったそうです。院長の指示した場所に行くと、そこは学校とは到底思えない単なるワンルームマンションだったそうです。そして、そこで彼女はこの医師に強姦されました。

 ここでは雑誌の記事を簡単にまとめましたから、作り話のように聞こえますが、その記事ではここにまでいたる経緯が詳細に記載されており、私には作り話には思えませんでした。これが本当なら、この女性が被害届を出せば、この医師(本当に医師かどうかは疑わしいですが)には、強制わいせつ罪ではなく、強姦罪が適応されるはずです。

 わいせつ医師だけでなくわいせつ医大生というのもいます。

 1999年に報道された「慶応大学医学部集団レイプ事件」をご存知でしょうか。これは慶応大学医学部の学生4人が、そのうちのひとりが所有しているマンションに女性をつれこみ集団で強姦した事件です。しかもその様子をビデオカメラにおさめていたというのですから悪質極まりない事件です。

 当然、これら学生は全員退学となりましたが、このうちのひとりは数年後に、ある国立大学の医学部に入学したそうです。ということは、今頃はどこかの病院で医師として働いていることが予想されるわけです。

 私がわいせつ医師に対して最も問題だと思うのは、逮捕された医師に対する制裁が、せいぜい数ヶ月から数年の医業停止となるだけで、医師免許を剥奪されることがないという事実です。そして、これはあまり知られていないことですが、仮に医師免許を剥奪されたとしても、数年後には医師として復活することが現状のシステムでは可能なのです。これは医師免許を剥奪されたとしても、医師国家試験に合格したという事実は消えることがないという理由によるものです。

 実際、前回そして今回ご紹介した医師たちは、一定の謹慎期間を経た後、何事もなかったように医師として働いているのです。慶応大学を退学になってから国立大学に入学しなおした医大生には、何事もなかったかのように医師免許が与えられている可能性が強いのです。

 医事事故を起こす医師が社会的に制裁を受けるのは、事例によってはやむをえないと思いますが、それ以前に、まったく同情の余地のない「わいせつ医師」に対して、もっと厳しい処罰が与えられるべきではないでしょうか。

 ところで、ときどき一般の方から、「医者は女性の裸が見れるからいいですね~」と言われることがあります。

 これはとんでもない誤解で、実際に医療現場を少し経験すれば分かりますが、そんなものはよくもなんともありません。

 例えば、女性の胸を診察するときは、乳房のために、心音や呼吸音が聞きにくくなりますから、短時間で正確に診察をするためには、卑猥な気持ちで乳房を観察している暇などありません。性感染症の診察のときなどは、ほんの少しの皮膚の変化やおりものの正常、あるいは臭いなども確認しなければなりません。診察でみる女性器というのは例えばポルノ映画で見る女性器とはまったく違うものなのです。また、私は経験がありませんが、乳癌の専門医であれば乳房を触って診察をおこないます。これとてほんの少しの異常も見逃すことができませんから、男性として女性を見ることなどできないのです。

 「キレイな女性を診察するときはうれしいですか」と質問されることもありますが、これも答えは「NO」です。診察室では患者さんが入ってこられるときから診察が始まっています。患者さんの歩き方、表情、仕草などにも我々は注目しています。診察室のなかでは、街で女性を見るようには見られないのです。

 それにもうひとつ重要な問題があります。若い女性患者さんは、医師に対して容易に恋愛感情を持ってしまうことがあります。これを「転移」と言い、特に精神疾患を患っている患者さんに多いという特徴があります。私は学生時代に、「どうして精神科の先生は女性患者さんに冷たい態度をとるのだろう」と疑問に思っていたのですが、これは「転移」を予防するためだったのです。ベテランの精神科医は、恋愛感情を抱かせることなく巧みに患者さんの心を開かせることができます。この「転移」を防ぐためにも、我々は女性を女性と見てはいけないという暗黙のルールがあるのです。
 
 そろそろまとめに入りましょう。我々医師は『全員』、と言いたいところですが、ご紹介したようにとんでもないわいせつ医師がいるのも事実ですので、『ほとんどの医師』は女性患者さんに対して、わいせつな意識を持っていませんから安心して医師にかかってください。

 けどやっぱり、『ほとんどの医師』では説得力がないですね・・・。

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2013年6月17日 月曜日

38  わいせつ医師を排除せよ!① 2006/5/1

帝王切開で29歳の患者さんが死亡したことで議論を呼んでいる福島県の産婦人科医の話や、人工呼吸器を外したことで注目を集めている富山県の外科医の話が、マスコミでよく語られていますが、これらの事件は医師を非難する論調がある一方で、医師を擁護する意見も少なくありません。特に後者の事件では、患者さんや医療従事者でない一般の方々からも医師を弁護するような意見が相次いで出されているようです。

 こういった問題は、一般論で片付けられるような単純なものではなく、症例ごとにじっくりと検証しなければなりません。

 これに対して、こういった問題とはまったく別の次元で問題提起しなければならない医師の行動があります。例えば、覚醒剤中毒の医師やわいせつ事件を起こす医師です。シャブ中ドクターの話は拙書『今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ』でも述べていますが、私自身としては、覚醒剤に手を出さざるを得なかった医師の気持ちをも理解する必要があるという意見を持っています。「覚醒剤は危険だからやめましょう」というキレイ事だけでは真実が見えて来ずに何の解決にもならないからです。

 しかしながら、わいせつ医師についてはまったく同情の余地がありません。患者さんに対してわいせつ行為を働く医師など、もちろん私の周囲にはいませんし、想像もできないのですが、ときおりマスコミの報道でとんでもない事件を聞くことがあります。

 今回はわいせつ行為で報道された医師の実態をみていきたいと思います。

 まずは、東京のある病院の外科部長がおこなった「全裸撮影事件」を振り返ってみましょう。52歳のこの心臓外科医は、2000年から2004年までの5年間、心臓の超音波検査を施行する際に、患者さんに「全裸にならなければ検査できない」と言い、看護師を退席させた上で、患者さんの全裸をデジタルカメラで撮影していたそうです。

 心臓外科医がおこなう超音波検査で、全裸になる必要があるはずがない、ということは我々医療従事者であれば常識ですが、患者さんのなかには「大病院の心臓外科部長が言うんだから・・・」のような気持ちが働いて、疑いながらも同意せざるを得なかったのかもしれません。

 普通の感覚をしていれば、患者さんを全裸にするということなど考えもしないのですが、例えそのようなことを考えついたとしても、「患者さんのなかには全裸の撮影を疑う人もいて自分は写真という証拠を残しているんだから見つかれば逃れられない」、という単純なことがなぜこの外科医には理解できなかったのでしょうか。

 まあ、それが分かるくらいの常識を持ち合わせていれば、初めから患者さんを撮影しようなどとは思わないでしょうが・・・。

 もっと悪質なものもあります。

 2002年に強制わいせつ罪で逮捕された福岡県のある病院の理事長(当時73歳)は、自らが覚醒剤をキメた上で、27歳の女性に強制わいせつ行為をはたらいたのです。しかも、この医師は覚醒剤などの薬物中毒を専門としていたといいますから驚きます。

 わいせつ医師の被害者は患者さんだけではありません。

 昨年(2005年)、東京のある大病院の47歳の脳神経外科医が、病院の部長室で製薬会社の26歳の担当女性社員の体を無理やり押さえ付け、約15分間にわたって下半身を触るなど、わいせつ行為をおこない、「強制わいせつ罪」で逮捕されました。

 自分の職場で強制わいせつをおこなっても逮捕されることがない、と、この外科医は考えていたのでしょうか。もちろん、「逮捕されたくないから強制わいせつをしない」というのはおかしな理屈で、まともな人ならそんなことを考えなくてもこのような犯罪行為を思いつくことはありません。

 このような犯罪行為を犯す人間は精神的な異常をきたしているとしか考えられず、よく47歳まで外科医をつとめてこられたな、と感心してしまいます。

 次に、昨年「準強制わいせつ罪」で逮捕された岩手県の42歳の精神科医についてみてみましょう。報道によりますと、この精神科医は勤務先の病院から睡眠薬を持ち出し、それを知人である飲食店勤務の18歳の女性に、「ビタミン剤だから・・・」と嘘をついて無理やり服用させ、身体を触るなどの行為をおこなったそうです。

 こういう事件はたしかによくあって、そのため裏市場では睡眠薬がそこそこの値段で取引されています。患者さんのなかにも、強力な睡眠作用に加え幻覚作用のあるような薬を名指しで欲しがる人がいて、私は「怪しい」と思えば、そういった薬剤はできるだけ処方しないようにしています。しかし患者さんのなかには、簡単に薬剤を処方してくれるクリニックを複数箇所受診している人もいるようです。

 睡眠薬はもちろん有用な薬剤ですから市場から無くすわけにはいきません。したがって、不正な使用をなくすためには、我々医師が処方に厳重な注意を払わなければならないのです。その医師、しかも睡眠薬のプロフェッショナルである精神科医が、自らの低次元な欲望を満たすために睡眠薬を使用したというのですから、呆れると言うほかはありません。

 もうひとつ、強制わいせつで逮捕された事件をみていきましょう。

 国立のある研究所に勤めていた51歳の医学博士が2005年6月に逮捕されました。この事件は、先にみてきた事件に比べると少々手が込んでいます。(この事件の詳細は『裏モノJAPAN』という雑誌の2005年9月号でレポートされています。)

 まず、この医学博士は「安藤健二」という偽名を使って、《医師限定》出会い系サイトに登録をしました。この男は妻とふたりの子供と共に千葉県のマイホームに住んでいますが、出会い系サイトに登録した際には「独身」としていたそうです。

 そして40代の女性とメール交換を繰り返して1ヶ月が経過した頃、ようやくアポイントメントに成功し都内で会うことになりました。仙台出身のこの女性がその晩都内に泊まることを知った<安藤>は、口八丁手八丁で女性の部屋に入りこみました。ふたりが会うのはこの日が初めてということもあり、この女性は執拗に言い寄る<安藤>をかわしていましたが、ついに<安藤>は「実力行使」に出たそうです。

 次の瞬間、悲鳴とともに払いのけられた<安藤>は、一応謝罪をし、そのまま部屋を飛び出したそうです。

 普通ならここで終わりそうなものなのですが、なぜか<安藤>はその後もこの女性にメールを続けます。謝罪のメールを何度も送り、そのうちにこの女性の方からも反応の悪くない返事が来るようになり、二度目のデートの話もまとまりかけていたそうです。

 このあたりの<安藤>の心理が私には理解できないのですが、エリート街道をひたすら歩んできた<安藤>にとっては他人からの「拒絶」を受け入れることができず、謝罪してでもこの女性をモノにしなければプライドを満たすことができなかったのでしょうか。それともこの女性に「恋」をしてしまったのでしょうか。

 再デートも時間の問題と思われた頃、<安藤>が致命的なミスを犯します。他人に送るはずのメールを誤ってこの女性に送信してしまい、その内容から<安藤>が妻帯者であることがバレてしまったのです。

 騙されていたことを知ったこの女性は<安藤>を許すことができませんでした。警察に被害届けを出したのです。2005年6月4日の早朝、<安藤>の自宅に刑事が訪問し、強制わいせつ罪で逮捕となりました。

 《医師限定》出会い系サイトなどというものを私はこの事件が報道されるまで知りませんでしたが、そもそも登録の際、医師であることをどうやって確認するのでしょう。もしも医師免許証の提出などで、医師であることの証明をするなら偽名は使うことができないでしょうから、おそらくこのサイトでは、誰でも簡単に医師になりすまし登録をすることができたのではないかと予想されます。

 おそらく本当の医師であれば、こういうサイトには登録しないと思われます。普段から我々の元には、やれマンションを買えだの、高利回りの投資信託を始めろだの、いかがわしい電話やメールが頻繁に届きます。いったいどのようにして個人情報を入手しているのか分かりませんが、こういった迷惑なセールスが我々医師の悩みのひとつです。そんな悩みを持つ医師が、わざわざ《医師限定》の出会い系サイトなどに登録するでしょうか。そんなサイトへの登録は、デート商法や絵画商法の女性詐欺師に対して、ネギをしょって歩くカモになるようなものです。そういうリスクを冒してまでこういうサイトを利用するのは初めから「下心」がある<安藤>のような男だけではないでしょうか。
 
 次回はさらに悪質な「わいせつ医師」をみていきたいと思います。

つづく

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2013年6月17日 月曜日

37  人工呼吸器の是非 2006/4/15

最近、医師が人工呼吸器を止め、延命を中止したことに対する報道が注目を集めているようです。

 2006年3月25日のasahi.comの報道によりますと、富山のある病院の外科医が、2000年から2005年にかけてかかわった末期の入院患者7人の人工呼吸器を外し、全員が死亡していたことが分かったそうです。この病院はこの医師の「延命治療の中止措置」について、倫理上問題があると判断し、院内調査委員会を設置するとともに、県警に届け出たとのことです。

 この病院の院長によると、亡くなったのは同県内に住む50~90代の患者7人(男性4人、女性3人)で、いずれも意識がなく回復の見込みがない状態だったそうです。

 そして、この外科医は病院側の調査に対し、人工呼吸器の取り外しについて「いずれも家族の同意を得ているが、うち1人は家族から本人の意思も確認できた」と説明し、病院によると、いずれも本人の同意書はないが、カルテには「家族の同意」を示す記述があるそうです。

 こういう事件が報道されると、必ず「お前はどう思う?」と知人から聞かれます。「どう思う?」と聞かれて困るのは、症例というのはひとつひとつ異なるものであり、必ずしも一般論で論じることができないからです。

 もう少し詳しくお話しましょう。

 まず、個々の症例において、人工呼吸器をどのような状態で装着したかというのが重要になってきます。通常、末期の状態であれば、いずれ呼吸状態が悪化することが考えられ、その場合、気管内挿管をおこない人工呼吸器を用いた治療をおこなうかどうかというのを、あらかじめ本人もしくは家族と話をしておきます。

 今回報道された事件では、末期の患者さんとされていますが、あらかじめそのような話をされていたのかどうかが明らかではありません。もしも、本人もしくは家族が「どんなことをしてでも少しでも延命してください」という希望を持たれていたのであれば、この外科医のとった行動は許されるべきではないということになります。

 しかし、報道ではカルテに「家族の同意」があるとされています。とすると、人工呼吸器の話をするまでに、つまり予想よりも早く呼吸状態が悪化したのか、あるいは、その患者さんの病気による呼吸状態の悪化ではなく、例えば何らかの理由で窒息や薬物の副作用で呼吸が停止し、緊急処置として人工呼吸器を装着した可能性も考えなくてはなりません。さらに、その患者さんが本当に末期といえる状態であったのかどうかという点については報道からは皆目見当がつきません。こうなると推測の域を出ずに、私が医師としてコメントするのは不適切ということになります。

 今回の事件のように、余命いくばくもないと思われる患者さんに装着されている人工呼吸器を停止させるのは、いわゆる「安楽死」ということになります。実は、この「安楽死」については明確な定義がありません。

 便宜上よく引き合いに出されるのが、いわゆる「東海大安楽死事件」に対して、1995年に横浜地裁が述べた「安楽死の3要件」です。それらは、(1)回復の見込みがなく、死が避けられない末期状態にある、(2)治療行為の中止を求める患者の意思表示か家族による患者の意思の推定がある、(3)「自然の死」を迎えさせる目的に沿った決定である、の3つです。
 
 人工呼吸器を装着すべきか否か、というのは可能であれば、できるだけ早い時期に本人もしくは家族に考えておいてもらうのがいい、というのが私の考えです。そのため、私はまだ患者さんの元気な早い時期に本人及び家族にこの話をしておくようにしています。「先生、そんなに早く結論ださないといけないんですか」、と聞かれることもありますが、いったん装着した人工呼吸器のスイッチを切るというのは、今回報道された事件のように合法かどうかという点がはっきりしませんし、正直に言って私自身に「スイッチを切る」という行為は抵抗があるのです。(念のために言っておくと、私は今回の外科医を非難しているわけではありません。私自身の臨床医としての、あるいはひとりの人間としての未熟性から、今の私には人工呼吸器を外すことに抵抗があるのです。)
 
 人工呼吸器というのは、単なる延命医療の道具と考えている人もいるようですが、人工呼吸器がなければ助かる命が助からなくなることもあります。例えば健康な人が窒息や薬物中毒など急激に呼吸困難に陥ったような場合、迅速に気道を確保し、人工呼吸器を接続し、一時的に器械の力を借りて呼吸をおこなうことがあります。この場合、治療がうまく進めば、何事もなかったかのように復帰することができます。

 また、全身麻酔の手術のときは人工呼吸器を接続し呼吸管理をおこなうことが必要です。人工呼吸器を用いた呼吸管理がおこなえるからこそ長時間の手術も安心しておこなうことができるのです。

 つまるところ、「人工呼吸器の良し悪し」というのは単純な理屈で語られるべきものではなく、個々の症例でしっかりと検討されるべきものということになります。

 末期の状態であれば、最近は人工呼吸器を用いた延命治療を望まない人が増えているというようなことが言われますが、そもそも生命についての決定権は本人(もしくは家族)にあるわけで、医療従事者が決めるべきものではありません。 

 したがって、例えば、脳死になったときに臓器を提供すべきかどうか、といった問題と同様、患者さんの意識がしっかりとしている早い段階で決めておくべきものだと私は思うのです。
 
 最近経験した、末期癌の患者さんのことをお話したいと思います。

 その患者さんは80代の男性で、病気は、ある消化器系の癌で、もはや手術ができないほど進行している状態でした。数ヶ月ももたないと思われたため、あらかじめ本人と家族に、呼吸状態が悪化したときに呼吸器をつけるかどうかを相談していました。本人及び家族の返事はNO! つまり、人工呼吸器をつけたところで寿命がそれほど変わるものでもなく、癌自体は治らないのだから、ここまでくれば自然なかたちにまかせたい、とのことでした。「この患者さんは死というものを完全に受け入れている」、それが私の印象でした。

 よく晴れたある日曜日の午後、いつものように昼食を終えた患者さんの様態が少しずつ変化しだしました。血圧や呼吸数は正常なのですが、意識がぼーっとしてきています。「これは家族を呼んだ方がいい」、私はそう判断しました。

 意識状態を正確に把握するために、痛みの刺激を与えてどのような反応をとるかをみることがあります。私は、患者さんを少したたいたりつねったりして刺激を与えてみましたが、表情はまったく変わりません。これは意識状態がかなり悪いことを示しているのですが、しかしながらその表情が非常に穏やかなのです。この患者さんは、癌の末期なのにもかかわらず日頃から痛みをほとんど訴えず、強力な鎮痛剤も使っていませんでした。そのうちに血圧が下がりだし、呼吸の回数が少なくなりだしました。

 そして、ちょうど家族の方々が到着したのと同時に、静かに息をひきとりました。

 私はこの患者さんの表情が今も忘れられません。癌の患者さんによくある苦悶の表情を見せることなく、まるで、「生命をまっとうしました」、と宣言しているような印象を私は持ちました。この患者さんは末期癌であったことは間違いありませんが、病気が直接の死因というよりも、むしろ自然なかたちで生命に終止符を打たれたのかもしれません。

 もしも、この患者さんに人工呼吸器を装着していれば、このような表情は見られなかったに違いありません。人工呼吸器をつなぐということは、プラスチックの管を口(あるいは鼻)から気管に挿入します。そしてその管を固定するために、口の周りをテープで何重にもとめることになります。そして呼吸器の「シュー」という乾いた無機質な音が規則的に病室に響き渡ります。患者さんの心臓が弱ろうが呼吸器は同じリズムで空気を送ってきますから、末期の患者さんに接続した呼吸器はその患者さんをいじめているように見えることもあります。

 私は、この患者さんは人工呼吸器を使わなくてよかったんじゃないかな、と思いました。

 家族の前で死亡宣告を終えた後、この方の奥様が話されました。

 「先生、主人の死に顔がこんなにも穏やかだとは思いませんでした。こんなに幸せそうな表情をしているなんて・・・・」

 口にはしませんでしたが、私も同じことを感じていました。

投稿者 医療法人 谷口医院 T.I.C. | 記事URL