メディカルエッセイ

第164回(2016年9月) そんなに医者が憎いのか

 2016年8月後半より、我々医師の間では、東京都足立区の病院で「準強制わいせつ」の疑いで逮捕された40歳の男性医師のことが毎日のように話題に上っています。この「事件」は、少し医療の知識があれば、報道されている内容が事実であるはずがないことが分かります。しかし、一方では精神的苦痛を受けている女性がいるのも事実であり、当局としては訴えがあった以上は「逮捕」さらに「起訴」しないわけにはいきません。私が最も問題だと思うのはメディアやジャーナリストの”姿勢”で、今回はこのことを話したいのですが、まずはこの事件を整理していきましょう。

 報道によれば2016年5月、胸部の手術を終えたばかりの30代の女性が病室で40歳の執刀医からわいせつ行為を受けたとして、この医師が警視庁に逮捕されました。わいせつ行為の内容は、「術後病室に戻された患者に対し、二度にわたり着衣をめくり、手術していない左乳房の乳首をなめ、自慰行為に及んだ」そうです。

 女性患者の病室は4人部屋で他にも3人の患者がいたことが分かっています。弁護人が発表した情報によれば、「二度の行為」の1回目があったとされる時間帯には、医師は手術室にいて、ごく短時間病室に行ったときは、執刀した他の医師と看護師2名もいたそうです。2回目の犯行があったとされる時間帯には、この医師は他の病室で別の患者を診ていたことが分かっています。

 これだけでこの事件が「冤罪」であることは自明ですが、おそらく一般の人は「じゃあ、なんで被害者の女性は嘘を言うんだ? 医師にも何らかの過失があるんじゃないのか?」と疑いたくなるかもしれません。

 この女性はある意味で”嘘”は言っていないと思います。ではなぜこのような事実でないことを言ったのか。まず間違いなく、術中の麻酔薬や鎮痛薬の影響です。こういった薬は手術が終わればすぐに体内から排出されるわけではなく、しばらくは残ります。そして、術後目が覚めてから、錯乱、幻覚、妄想などが出現し、これを「術後せん妄」と呼びます。ですから、この報道を聞いたとき、我々医療者は「術後せん妄に間違いない」ということが分かるのです。

 ただ、誤解のないように言っておくと、私はこの被害者の女性を責めているわけではありませんし、相当の精神的苦痛があったことは事実だと思います。ですから、医療者側は、執刀医の男性医師をかばいすぎるあまり、この女性を糾弾するようなことがあってはなりません。また、行政としてもわいせつ行為の被害の親告があれば、逮捕するのは当然でしょうし、法律上の手続きを経て起訴するのもやむを得ません。

 では、問題はどこにあるのでしょうか。私は2つあると考えています。まず1つめは、「術後せん妄」について、医療サイドでのもっと徹底した対策が必要であったのではないかということです。後からは何とでも言えますから、私がこのようなコメントをすることは、執刀医やこの病院のスタッフに失礼だとは思います。しかし、もしもこの女性が術後せん妄を起こすかもしれない、ということを予め認識していたとすればどうでしょう。術後の経過観察は必ず必要ですから、執刀医は手術創の確認をしなければなりません。もしもこのときに複数の看護師が医師の診察前から診察後しばらく一緒にいたとすれば、状況が変わったかもしれません。もちろん、このような対策を立てたとしても「術後せん妄」が収まらなかった可能性もありますし、そもそも看護師がすべての患者にこのような対策をとることはできません。

 ただ、結果として「術後せん妄」が起こった以上は、それは避けられない事態であったとしても、女性患者が苦痛を追ったことは事実なわけで、あらかじめそのようなことが起こることを女性が理解するまで説明していたのか、そのリスクを最小限にする対策をとっていたのか、術後せん妄が起こったときに速やかに適切な対応が取られたのか、という点は議論すべきだと思います。

 この事件で私が思うもうひとつの問題はジャーナリズムの姿勢です。この事件は、少しの知識があれば「冤罪」であることは自明です。また、そういった「知識」がなかったとしても、「本当にこのようなわいせつ事件は起こり得るのか」ということを、数人の医療者に尋ねれば分かることです。まともな人間であれば、「冤罪」である可能性が極めて高い事件であることが分かりますから、実名報道は避けるのではないでしょうか。あるいは「逮捕」「起訴」されればどのような事件であっても実名報道すべきという”協定”のようなものでもあるのでしょうか。

 警察庁のデータによれば、全国での強姦は年間千件以上あります。これらを逮捕者が無罪の可能性が高い状況で実名が報道されるケースはどれくらいあるのでしょう。率直に言って、この事件の容疑者が「医師」であるという、ただそれだけの理由で実名報道をしたのではないでしょうか。大手出版社ならもしかすると「社内規約」のようなものがあるのかもしれません。ではインデペンデントのジャーナリストはどうでしょう。例えば、江川紹子氏はYahooニュースに公開された自身の記事でこの医師の実名を(しかも何度も!)書いています。

 ここで最近報道された別の事件を紹介したいと思います。2016年8月27日、静岡県警焼津署は、同席していた女性の酒に薬物を混ぜ、わいせつな行為をしたとして、準強姦容疑で、焼津市立総合病院の20代の医師を逮捕しました。この医師は容疑を否認しているそうです。しかし、この「事件」は共同通信などで実名報道されています。

 さて、この事件の真偽についてはどうでしょう。私はこの医師のことを知りませんから無責任な発言になりますが、これが事実である可能性は現時点では「ある」と思います。以前述べたように、医師のほとんどは「人格者」である、というのが私がこれまで医師をしていて感じていることです(注1)。しかし、なかにはとんでもない罪を犯す医師もいる、ということはこのサイトで何度もお伝えしてきたとおりです。診察室で女児を裸にして写真を撮っていた研修医、未成年を部屋に連れ込みわいせつ行為をおこなった30代の医師など、常識的にはあり得ないような事件が実際に起こっています(注2)。2010年には東京の大学病院に勤める医師が交際中の看護師が妊娠したことを知り、栄養剤と偽って点滴に子宮収縮剤を入れ故意に流産させたという事件もありました。そういう事実を勘案すると、女性の酒に薬物を混ぜ、わいせつな行為というのは、あってもおかしくないな、というのが私の率直な印象です。

 ただし、この医師は容疑を否認しています。この状態で、実名を報道することに問題はないのでしょうか。この容疑者が医師でなければ果たして実名報道されたでしょうか。

 では、なぜ医師は冤罪の可能性が極めて高くても、本人が罪を認めていなくても、こんなに簡単に実名報道されるのでしょうか。メディア側としては、「医師は公的な存在であるためプライバシーよりも公共性が優先される」、という政治家に対して使うような理屈を用意するかもしれません。しかし、政治家と医師は人数も役割もまったく異なります。

 マスコミがこのような態度を取り続ければ、医師と患者の距離がますます乖離していきます。ただでさえ、医療不信が根強い社会ですから、このような実名報道は、医師のマスコミ嫌いを加速し、患者を含む一般の人たちは、医師を「畏怖の対象」とみなすようになります。そうなれば「得」をする人はいません。では、不利益を被るのは誰でしょうか・・・。

 繰り返しますが、私の経験上、医師は高い人格を有している人が大半です。この次診察を受ける医師を、わけのわからない犯罪に手を染めるとんでもない人種とみるか、信頼できて何でも話せる頼りになる存在とみなすかはあなた次第、ではありますが。

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注1:下記を参照ください。
メディカルエッセイ第134回(2014年3月)「医師に人格者が多い理由」

注2:下記を参照ください。
メディカルエッセイ第107回(2011年12月)「医師がストレスを減らすために(前編)」