マンスリーレポート

2020年10月 不幸の原因は他人と比較すること

 「不幸の原因は他人と比較すること」という命題は正しいでしょうか。私は「真」だと考えています。ではその「対偶」の「他人と比較しなければ不幸にならない」はどうでしょうか。対偶とは「PならばQ」に対して「QでないならPでない」ことを示す数学の用語です。

 不幸の代表のようにみなされることの多い「貧乏」を考えてみましょう。「貧乏は不幸か?」と尋ねられれば、おそらく多くの人は「その質問に答える前に、貧乏の定義を教えてほしい」あるいは「どの程度の貧乏かによる」と返答するのではないでしょうか。つまり、漠然と「貧乏は不幸か?」と問われても答えようがないのです。

 では、「失業して無一文の人」と「無借金の公務員」はどちらが貧乏で不幸でしょうか。よほど屁理屈が好きな人を除けば「無一文の人」が貧乏で不幸と答えるでしょう。では「失業して無一文だが健康な30歳」と「消費者金融から300万円の借金がある65歳」はどちらが不幸でしょうか。この質問なら屁理屈が好きな人も「より貧乏で不幸なのは65歳」と答えるのではないでしょうか。つまるところ、「貧乏」は他人と比較することで初めて成立する概念なのです。

 ところで、人はなぜ他人と自分を比較するのでしょうか。それは、おそらく生物学的な本能です。「他人より優位に立たねば生存競争に不利」と考えるプログラムが人の遺伝子に刻まれているはずです。「他人より強くなければ獲物にありつけず飢え死にする」「他人より強くなければ子孫が残せない」という生き残る上での「戦略」があり、その戦略にのっとった行動をとる者が勝ち残り自身の遺伝子を残していったわけです。現代の社会は原始社会から大きく変化していますが、それでも「他人より金を稼がねば高級な物が食べられない」「他人より魅力がなければ素敵なパートナーを得られない」という”戦略”は本能として残っているのです。ですから、自己啓発でよくある「自分らしさを大切に」という言葉には生物学的な観点からは説得力がないわけです。

 ならば、やはり人は本能に逆らえず他人と比較し続けなければならないのでしょうか。私の答えは「ノー」です。実際、このサイトで繰り返し述べているように、すでに私は「競争社会」から降りています(「競争しない、という生き方」 「競争しない、という生き方~その2~」)。出世にはまったく興味がなく、無一文では困りますがお金に執着したこともありません。他人より目立ちたいとか、他人よりモテたいと思ったことも若い頃にはありましたが、今はまったくありません。そしてこの生き方がとても心地いいのです。しかし、この考えのまま原始社会にタイムスリップしたとすれば、私はたちまち生き残ることができなくなるでしょう。ですが、そのようなことが起こるはずがありませんし、たとえ新型コロナウイルスよりも恐ろしい感染症が猛威をふるったとしても人類が原始社会に戻るとは思えません。

 「貧乏」に話を戻しましょう。私は自分がどれくらい貧しいかについて他人と比較することは(馬鹿らしいので)しませんが、比較しようと思えばできないことはありません。私はアラブの石油王に比べると極端に貧乏ですが、北朝鮮の農民と比べると驚くほど金持ちです。日本人で比較してみると、私は一部上場企業の役員たちよりもずっと貧乏ですが、戦中にルソン島で人肉を摂取しなければならなかった人たちや戦後シベリアに抑留され馬糞に含まれる麦の屑をあさっていた人たちよりもはるかに金持ちです。他者との比較が馬鹿らしいのは「上には上がいて下には下がいる」からです。先に例として挙げた「失業して無一文の人」でいえば、周囲が借金を抱えている失業者ばかりだとすれば相対的に貧乏と言えませんし、スタートアップの準備をワクワクしながら開始しているかもしれません。

 他人よりいい成績をとっていい大学に行けば出世できる、という考えがあります。これはある意味で正しいと思います。一流大学で優秀な成績を収めた方が大企業に就職するのが有利でしょうし、その後もがんばって成績を伸ばせば出世できるでしょう。そして、そういったことを望む人は勝手にやればいいわけです。しかし、いい成績がとれずいい大学に行けなかった人がそれが理由で不幸になるわけではありません。大企業で出世する以外にも人生には「幸せを感じられること」がいくつもあるからです。過去のコラム「なぜ「幸せ」はこんなにも分かりにくいのか」で紹介した「タイの農民と日本のビジネスマン」の逸話からも分かるように「出世」や「お金」は見方を変えれば馬鹿馬鹿しいものにさえなるのです。

 なぜ現代社会では比較することが馬鹿げているのでしょうか。原始社会のように、全員の食糧がないといった事態になれば他人より優位に立たねばならないわけですが、現代ではそのようなことはありません。そして、貧乏な人も金持ちの人も胃袋の容積はたかがしれています。高級な物しか美味しく感じられないという人もいるのでしょうが、そうでない人の方が多いでしょう。ちなみに、私はマクドナルドが今も大好きで、スマホのトップページにアプリを置いています。過去のコラム(「”貧乏”な者が医師に向いている理由」)でクーポンを使う30代が気持ち悪がられるという逸話を述べましたが、私は50代になった今もそれをやっています。吉野家と王将のアプリもトップページに置いていますし、王将は現在スタンプをためています。

 「格差」という言葉に敏感に反応する人がいます。格差社会では王将のスタンプをためてマクドナルドのクーポンを利用しているような私は「下」に位置するのでしょうが、そんなこと気にしなければいいのです。いつか、高級中華料理と高級ハンバーグを食べてやる、などと思う人は格差を気にして他人との比較をすればいいと思いますが私には興味がありません。

 科学誌「PNAS」2016年5月17日号に「機内の物理的および状況の不平等はエアレイジを予測する(Physical and situational inequality on airplanes predicts air rage)」という興味深い論文が掲載されています。機内で乗客の怒りが生まれることを「エアレイジ」と呼ぶそうです。そのエアレイジはファーストクラスがある機内で起こりやすくなり、エコノミーの人がファーストクラスを通って席につくと怒りはさらに強くなるそうです。つまり、他人との格差を見せつけられ自分が「下」にいることが分かると怒りモードに入りやすいというわけです。

 しかしながら、当然のことですが、エコノミーの人全員が怒りやすくなるわけではもちろんありません。おそらくファーストクラスの席を見ただけで怒りやすくなるような人が高級料理を求め、私のようにクーポンやスタンプについて楽しく語る者を蔑むのでしょう。ただし、たしかに座り心地がよくてスペースの広い座席は魅力的です。この夏もタイに渡航する予定だった私は今年初めてエアアジアのビジネスクラスを予約しました(タイ航空や日本航空など既存の航空会社は高すぎて初めから論外です)。とても楽しみにしていたのですが、新型コロナのせいで渡航できず、さらに日本のエアアジアが倒産したせいで大金(私にすれば大金です)を失ってしまいました……。やはり慣れないことはすべきでないのかもしれません。

 「自分らしく生きる」という言葉を私は好きになれません。なぜなら「自分らしく」という表現自体が他人の存在を意識しているからです。自分らしいかどうかなど気にせずに、他人と比較することを放棄して、むしろ他人と自分との比較が馬鹿げていると認識することを勧めたいと思います。ファーストクラスとの差にイライラするよりも、初めからそんな比較などせずにさっさとエコノミーの席について好きな本にでも熱中する方がはるかに有益で健康的です。

 「他人と比較しなければ不幸にならない」が「真」であることにあなたは同意されたでしょうか。同意されたのならば「不幸の原因は他人と比較すること」もあなたは認めたことになります。なぜなら、ある命題が真だとすればその対偶もまた真となるからです。これは数学及び論理学の基本です。

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