メディカルエッセイ

67 医療の限界 2008/8/25

福島県立大野病院で2004年、帝王切開で出産した女性(当時29歳)が手術中に死亡した事件で、業務上過失致死などの罪に問われた産婦人科医に対し、福島地裁は8月20日、「標準的な医療措置で過失はなかった」として無罪判決(求刑は禁固1年、罰金10万円)を言い渡しました。

 この事件は各マスコミで大きく取り上げられ、医療関係者の間でも注目されていました。故意に死亡させたわけでもなく、また明らかなミスとも言えない医療行為で医師が「逮捕」されたと考えられており、医療界の反発も招いていました。

 一方、遺族に対する取材をみてみると、遺族は”納得していない”と報じられています。例えば、8月20日の共同通信は下記のように報道しています。

 「言い訳しないでミスを受け止めて」と傍聴を続けてきた遺族。女性の父は肩を落とし、ハンカチで何度か目元をぬぐった。女性の夫は鋭い視線を前方に向けた。

 こういうかたちで報道がおこなわれると、あたかも今回の裁判の焦点が「医師vs患者」のように聞こえてしまいますが、実際にはそうではありません。

 我々医師が今回の事故に違和感を覚えるのは、患者側が医師や病院を訴えたのではなく、悪意のない医師が「逮捕」されたからです。つまり、この事故が刑事事件になっているところに疑問を感じるのです。それも「書類送検」ではなく「逮捕」なのです。さらに、この医師を逮捕した刑事が福島県警で表彰されたとの”噂”もあり、ますます医療従事者からみれば不可解な出来事にうつるのです。

 刑事事件というのは、原告は患者側ではなく検察です。もしも、今回の裁判が民事によるもので、原告が患者側で示談金の有無、あるいは金額が争点になるというのなら、まだ理解しやすいのですが、我々医療者からみると「なんで警察や検察が・・・」という気持ちになるのです。

 今回の事件で検察(=原告)が争点にしているのは、「異状死届出義務違反」と「業務上過失致死」です。

 「異状死届出義務違反」は、以前にも述べましたが、「異状死」の定義自体が曖昧ではっきりとしたものはありません。もしも、今回亡くなられた女性が「異状死」なら、「まったく予見できなかった突然の死」であるわけで、それならば「出血多量で危険な状態になることがあらかじめ分かっていたのにもかかわらず、執刀医が漠然と胎盤をはがして大量出血の事態を招いた」という検察の主張に矛盾するのではないでしょうか。「異状死届出義務違反」では「予見できなかった死」としておきながら、「業務上過失致死」では「予見できたはず」としていますから、この2つの違反行為を同時に主張している検察は私には奇異に見えます。

 実際の裁判では、「異状死届出義務違反」については「死亡は避けられない結果で報告義務はない」とされたと報道されており、これは我々医療者にとっても納得がいくものではあります。では、「業務上過失致死」についてはどうでしょう。

 結果から言えば、

 妊婦の命を救えず死亡させてしまった。 → 手術の仕方に問題があった。なぜなら、手術の目的は妊婦の命を失くすことではないはずだから。 → その病院で手術できないならあらかじめ高次病院に搬送すべきだった。 → それをしていない執刀医は「過失」に問われる。

 ということになるかもしれません。しかし、これは結果をみて後から言えるわけであり、実際の医療現場はこのようにクリアカットな判断ができるわけではありません。例えば、現在では多くの疾患に「治療ガイドライン」というものがあり、医師はそのガイドラインに従って治療をおこなう、ということになっていますが、実際には、すべての症例をガイドラインに当てはめてうまくいくわけではありません。ある程度は、(疾患によってはかなりの領域が)、ガイドラインは参考にならず、医師の裁量で治療をしていくことになるのです。

 ですから、医療の現場を知っている者からすれば、実際の現場にいなかった上に、後から理屈をつなぎ合わせて「過失」と責め立てる検察には同意できない、のです。今回の裁判で医師の行為は「過失」ではないとされたことは、我々医療者にとってほっとする判決でした。

 では、遺族の立場からはどうでしょうか。遺族の立場にたてば、元気だったひとりの女性が突然亡くなったわけですからやりきれない気持ちになられると思います。手術に問題はなかったのかを検証したいという気持ちになられるのは当然でしょう。執刀医の充分な説明があって然るべきですし、ひとりの女性が手術で亡くなったのは事実なわけですから「謝罪」があるべきとも言えます。(この点については、被告医師は、記者会見で、「最悪の結果になり、(女性には)申し訳なく思っています」と述べています。(報道は8月20日の共同通信))

 また、お金で解決するような問題ではありませんが、示談金の話にもなると思われます。(この点は、医師は医療事故の保険に入っていますから、通常は保険会社が中心になって遺族または遺族の代理人が話し合いをおこなうことになります) 報道をみる限り、遺族に対する示談金の話があるのかどうかは分かりませんが、いずれこのような話し合いがもたれるものと思われます。

 ところで、現在「医療安全調査委員会」というものを設立しようという動きがあります。医療事故が起こったときには、いきなり警察が医師を「逮捕」したり、検察が「起訴」したりするのではなく、専門家から構成される医療安全調査委員会が専門的な観点から協議をおこなうことになるというものです。そして、この委員会の必要性が検討されだしたのは、今回の福島県の医療事故がきっかけだと言われています。

 私の知る限り、ほとんどの医師がこの医療安全調査委員会の発足に賛成しています。いくら注意を重ねても事故を100%防ぐことはできません。医療事故がおこったときに、専門的な見地から公正に状況を審査する第三者は必要なのです。

 医療事故はあってはならないことだということは、我々医療従事者は充分承知しています。しかしながら、医療行為は人間がおこなう行為である以上、いくら注意をしても完全には防ぎきれないのです。「事故は起こりうるものです」と開きなおるつもりはありませんが、「医療の限界」があるということを患者さんにも知っていただきたいと思います・・・。

参考:
メディカルエッセイ第36回「医師の努力がむくわれないとき」